三人のゴヤ—— 野生の空気・啓蒙の光・主観の影

 

ゴヤですか ? 恐ろしい作家ですね。王国で最も美しく、自由奔放なアルバ侯爵夫人との恋愛ですか? 実際はどうだったんでしょう。どちらにしても夫人の突然の死をもって、その関係は終りを告げました。晩年、耳に障害を生じて閉じこもり、奇怪な絵ばかり描いていた作家ですって? アール・ブリュットの作家ではないんです。それは文学的粉飾なんじゃないんでしょうか。これも晩年のことですね、レオカーディアとのただならぬ関係ですか? どうなんでしょうか。彼女の娘のマリア・ロザリオをゴヤは、たいそう可愛がっていたのは確かなようです。

でもね、何が恐ろしい作家かと言うと彼の中には、三人の画家が存在していたのですよ。いいですか、三人もの作家です。タピストリーの下絵作家から王室主席画家にまで成り上がったオフィシャルな画家としての彼は、制作量は減少していくものの晩年までその地位を捨てることはなかった。一方で、魔女・仮面・戯画といった上辺の世界を剥ぎ取って、真の現実を露呈させてしまうアウトサイダーとしての画家がいて、啓蒙の光が作り出す影の世界を描いたのです。また一方では、人間の暴力が産み出す残酷、戦争の憎悪が巻き起こす数々の狂気、惨鼻を極める性的暴力をじっと見つめ、記憶の面影の中の定型へと鋳込んでいく、ただ自分のためだけに制作するアンダーグラウンドの作家としての彼がいました

この2週間まさに、バタバタの日々でした。8月の終りに広島で開催されるはずの展覧会を東京に変更したのです。2か月前にも関わらず、よく、京橋のギャラリーを確保してもらえたと思います。奇跡に近いんじゃないのかな。そのせいでブログが遅れてしまいました。でも、東京の皆さんには朗報かも知れません。展覧会で二つのトークが企画されているのですが、とても豪華なメンバーなので僕はちょっと及び腰です。しかし、かなり、疲れました。それに、四回目のコロナウイルス予防接種、注射していただいた腕が突っ張ってる。そんなこんなでいささかヨレヨレしていますが、今回は問題の作家、フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス (1746-1828) を取り上げます。

 

ゴヤに関する著作

ゴヤに関する著作、色々あります。端正で格調の高いイヴォ・アンドリッチの『ゴヤとの対話』、バタイユとの関連を窺わせる「サクレ/聖なるもの」を標榜するアンドレ・マルローの『ゴヤ ― サチュルヌ』、この著作にはアレッサンドロ・マニャスコなどとの関連が指摘されていますね。そのマルローの著作を敷衍する形で書かれたツヴェタン・トドロフの『ゴヤ 啓蒙の光の影で』は、ゴヤを中心に過去の人々の織りなしてきた思考を掘り下げているトドロフらしい真摯な著作です。堀田善衛 (ほった よしえ) さんの『ゴヤ』全4巻は、とにかく面白い、いささか事を単純化しすぎるきらいはあるけれど、その独断が痛快です。それに、当時のスペインやその周辺の様子がつぶさに語られているのは貴重かと思います。どれも良いので困りました。それで、アラカルト方式で良いとこ取りすることにします。いかがなりましょうや。

 

野生の空気を吸って生まれた宮廷画家


 

ゴヤは1746年、アラゴン地方のサラゴーサの近郊、フェンデトードス村に生まれます。生家は現在修復されて残っていますが、縦に長い洞窟のようで、窓は鉄格子だけ、トイレはなく、台所はオンドル風な炉だけしかなくて、低い腰掛と両側に寝台風な設えがあったそうです。要するに生家は貧しかったと判断されるような代物でした。1960年代には村全体が廃屋のようだったと堀田善衛さんは言います。海抜800メートルの砂漠のようなこの地は、アラゴンの風という風がここで渦巻くといわれ、夏は熱風、冬は寒風の吹きすさぶ、貧寒たる土地でした。ヨーロッパの遅れた辺境という野生に流れる空気を吸って彼は生まれた。これで、ゴヤは、とても貧しい生まれから身を起したという出世譚ができあがりますが、父親はサラゴーサの鍍金師で祖父は公証人であったと言いますから、言われているほど貧しくはなかったかもしれない。けれど不遇を託 (かこ) って貧しく亡くなっている。母はアラゴンの郷士の家系でした。この生家は母親の家の持ち物だったようです。

ゴヤの生家  外観内部

家族と共にサラゴーサに引っ越した後、5人兄弟姉妹の次男だったゴヤは、画家を目指して奮闘していくことになります。若くして才能を迸 (ほとば) らせるというタイプでは、なかったけれど、如才ない人だった。自費で、短期ではあってもローマに遊学し、箔をつけた後、故郷サラゴーサの教会の天井画の契約をとりつけた。そして、アカデミーの会員であった兄弟子のフランシスコ・バイユーの妹を嫁に迎えた。共にサラゴーサでルサーン師に学んだ同窓でした重要なのは、この義兄がヴィンケルマン主義者で、国王カルロス三世の寵愛を受けた宮廷筆頭画家ラファエル・メングスに気に入られていたことでした。そのメングスが国家事業としてのタピストリー製造に梃入れを始め、義兄のフランシスコをアシスタントにします。そのタピストリーの下絵を描く仕事がゴヤにも回ってくる。これで、定期的な収入が得られた。

ゴヤ 自画像 1783年  37歳頃

そうこうしている内に、おそらく、義兄の伝手を頼ってミランダ伯爵やドン・ルイ―ス親王といった天上人の肖像画を手掛けるようになります。この親王にゴヤはアレーナス・デ・サン・ペドロの離宮に呼ばれ、親王やその家族の肖像を描くという光栄に与ることになる。1783年のことです。共に狩りに出かけるほど親しくしてもらった。これが本当の意味での画家としての出発点となるのです。1786年宮廷画家、1789年に王室画家、1799年には王室主席画家にまで上り詰めることになります。1780年にはアカデミー会員、1795にはアカデミー会長となっていった。アラゴンの野生の空気を吸って生まれた子は、画家として国の最高の地位に就くことになりました。闘牛と狩りとココアを飲むこと、そして、多分、女性も生きがいのこの人、人たらしと言っていいような才覚があったのです。

ちなみに彼がレンブラントと共に影響を受けたベラスケスは画家として死ななかった。と、言えば奇妙に思われるでしょうが、式部長官職、つまり儀式・祭典といった国家行事のプランナーを兼ねていた。数百人の気位の高い役人や召使を統轄しなければならない激務激職でした。最後はマラリアと過労で亡くなった。レンブラントのように片時も絵筆を離さないというタイプではなかったようです。しかし、堀田さんの言葉を借りれば、「無類の知的透明さの中に氷結した真理を描いた」人でした。

 

アルバ侯爵夫人との奇妙な関係


 

アルバ侯爵夫人、この世の花と詠われ、道を通れば全ての人が窓に群がり、子供でさえ遊びを止めて見とれたという。でも、ゴヤの絵を見る限り、そう美形と言うのでもない様な‥‥彼は、モデルを美化はしなかったらしいのです。

アルバ侯爵と結婚したから侯爵夫人ではないそうです。スペイン第一の家柄で、生まれながらの女侯爵でした。祖父はスペイン大使としてベルサイユ宮で君臨し、他国の大使やルイ家の王族たちを見下していたというし、父親はフランスで教育を受け、ヴォルテール、ルソー、ディドロなどの自由思想にどっぷり浸かって育ちました。しかし、彼女が8歳の時に他界、母親も自由思想、女性解放の先頭を走るような女性で、三度結婚して三度とも夫に先立たれた。詩や絵画といった芸術活動に浸り、フランスの芝居をスペイン語で上演させたりと散財を繰り返しながらマドリード狭しと飛び回るような人でした。

堀田さんによれば、アルバ侯爵夫人の年収は金貨50万ドゥカード、つまり月収にすると10万ドル相当という破格の大金持ちだったのです。ルソーのエミール』によって教育された自由思想を持つ不羈奔放で気さくな性格だったと言うから人気者であって当然と言ったところでしょうか。13歳の時に19歳のビリフランカ侯爵の長男を養子に迎えてアルバ家を継がせたのだそうです。しかし、旦那は40歳で他界してしまいます。

 

『気まぐれ』より「彼らは飛んだ」

彼女とゴヤの出会いは唐突で、或る日彼女がゴヤのアトリエに入り込んで来て、「顔を塗ってちょうだい」と頼んだのだと友人のサパテール宛ての手紙に書いているというのです。トドロフは、何と突飛な情景だろうと舌を巻いている。国王の画家に化粧させようというのだと。ゴヤ49歳、アルバ侯爵夫人33歳でした。それから、おきゃんな侯爵夫人を持て余しそうになりながら親密な付き合いが始まりますが、どの程度進行したのかは分かりません。1797年に描かれたアルバの肖像画にはゴヤ・アルバと刻まれた指輪があり、地面にはゴヤだけと描かれていたことが修復時に発見されています。それに、同年にアルバは遺書を口述していますが、遺産の受取人の中にゴヤの息子のハビエールの名があるのです。ただ、例の『裸のマハ』のモデルだったかどうかは謎です。それを巡って小説のネタになりましたがね。

1797年から1798年まで制作された版画集気まぐれ』にはアルバに似た女性が頭に蝶の羽をつけ、三人のしょぼくれた男たちを足下に従えて、見事そらを飛んでいる作品がありますが、これなどは彼女の性格をよく表現しているのかもしれません。1792年にはゴヤは、ほとんど死にかけたというほどの病気を患って全聾になっていた。堀田さんは梅毒の治療のための水銀が内耳神経を麻痺させたのではないかと考えているようですが、どんなものなんでしょう。彼女との付き合いが始まった時には、既にこの状態だったのですね。それは病を得て年齢の坂道を転がっていく画家にとっては、束の間で、最初?の老いらくの恋だったのかもしれませんが、この恋愛は1年も満たずに唐突に終わりを告げました。そして、アルバは1802年に突然、蝶のようにあの世へ飛んで行ってしまうのです。性悪なスペイン王妃マリア・ルイーサによって毒殺されたと巷の噂が広がります。40歳でした。

 

聾となった耳は理性の影を聴く


 

モンテーニュは言ったそうです。「私の理性は身を屈め、折れ曲がるようにはできていない。そのように出来ているのは私の膝である」と。大病の後、ゴヤの耳は全く聞こえなくなり、彼の絵画の中に魔女、仮面、戯画といったモチーフが登場するようになります。1797年から1799年にかけて制作された『気まぐれ/ロス・カプリッチョス』の版画集ですね。しかし、彼の理性は、屈したのではなく夢見るようになる。その夢が怪物を産み出し始めたのです。存在不可能な妖怪が産み出され、それに同調することこそが諸芸術の母であり、驚異の起源になるのだという。それが彼の言う「普遍言語」なのです。

1784年には、こうサパテールに宛てて書いている。「僕はもう魔女も亡霊も幽霊もはったりの巨人も臆病者も追いはぎも、どんな種類の徒党もおそれない。僕がおそれるのは人間だけで、他の誰であれ何であれ恐れたりしない (小野潮 訳) 

ヒエロニムス・ボスの描く幻想も当時としては既によく知られていました。切り取られた両耳がピンで止められ、その間からナイフが飛び出ていたり、丸っこい鍋を被った鳥のをした人間が裸の人を銜 (くわ) えていて、そのお尻から黒い鳥と黒い煙が噴き出したりしています。これは、アルス・コンビナトリアですよね。ボスは人間たち描き出す地獄のような宇宙に連れていくけれど、ゴヤは地獄的なものを人間世界に引き入れるとマルローは書いています。トドロフは、ゴヤの描く怪物たちは、私たちの現実に住まっている存在を暗示してはいるが、変形され、その固有の法則に支配された存在なのだというのです。この固有の法則と言うのは何なんでしょうね。

この頃、ゴヤはレアンドロ・デ・モラティンという啓蒙派劇作家と親しくなっていました。彼から魔法使いや異端審問所の情報を得たようです。啓蒙派の思想は東方からピレネーを超えて流入していた。その時代に啓蒙の光に照らされた意識を持つ作家たちは、その時代の迷信といった滑稽に見えるものを風刺している。しかし、一方で無意識的なものへの沈潜があったと考えられています。

 

ヤン・ポトツキ『サラゴーサ手稿』工藤幸雄 訳

ポーランドにヤン・ポトツキという伯爵がいました。1761年生まれの彼は、数ヶ国語を話し、多数の外国を旅した政治家、歴史家で、ヘルダーやゲーテ、フランスの幻想小説家カゾット、百科全書派に近しいジェルメーヌ・ド・スタールらと親しくつき合っていました。その彼が、度々中断した後の1815年に『サラゴーサ手稿』を完成させます。そこには悪魔、幽霊、吸血鬼といった存在が超自然な存在の現前として描かれていたのです。例えばこんな具合です。「亡霊は大口を開けたので、頭はふたつに分かれたように見えた(工藤幸雄 訳)。」惜しみなく愛撫する美女と眠り込んだ後、目覚めてみると人間の女たちと一緒なのか、狡猾な女淫夢魔たちと一緒なのか分からなくなるといった具合です。『サラゴーサ手稿』はナポレオンがスペインに侵攻し、サラゴーサを包囲して戦場になった際、或る瀟洒な小館にて、その原稿を偶々発見するという触れ込みになっています。あの史上初のゲリラ戦が行われたサラゴーサの戦いでした。

この18世紀には理性的にものを思考するという傾向がいや高まっていきます。そんな中で、悪魔や妖精や怪物を表現する文学は、そのような者たちを非現実世界の存在ではなく、現実と非現実の混乱した境界の中に気息するもののように意図的に変化させていきます。これによって狂気と理性との境界、見かけと現実との境界は素通しなのだと主張されることになる。ゴヤの作品もまたそのようなものであった考えられるのです。理性の眠りですね。トドロフが言う「固有の法則に支配された存在」とはそのようなものではなかったかと考えられます。

 

深い意図――抵抗への道


 

戦争の惨禍より『真実は死んだ』

いわゆる「暴力」というものが、芸術の中に乱入し、正々堂々たる地位を確立したどころか、驚愕と感動を以て迎えられたのであれば、ゴヤを嚆矢とするというのは無理もありますまい。なにしろ、サラゴーサの戦闘を描いた『戦争の惨禍』という81枚もの版画を制作した画家であってみれば、当然のことかもしれないのです。そのせいか、堀田善衛さんは、若い頃のゴヤの伝記類には暴力沙汰が定番のテーマになって登場するといいます。

しかし、彼は、同時期の闘牛の版画を売ることはあっても、それらの版画を売ることはなかったのですよ。つまり、それらは自分のために制作されました。この1810年から1820年にかけて制作された『戦争の惨禍』という版画集で彼が描きたかったのは、人間の中にある制御不能の得体のしれない力でした。トドロフの表現を借りれば「人間の内部には、何ものにも還元不可能な混沌が潜んでいる」、それをゴヤの鋭い感性は暴いてみせた。真実への愛は死ぬこともあり得るけれど、彼はそれをけっして諦めようとはしなかった。眼前には「何故」に向かうアラゴンの荒れ野のような抵抗の道が広がっていたのです。

 

戦争の惨禍より『何故だ』

「por qué?(何故だ)、獣人と化した三人の兵士が一人の俘虜を首吊りにしている光景へ、ゴヤはそう書き込む。聾で病気で孤独な老人は、自身に課した問いを考え抜く時間を持っていた。そうして、一つの問が他の問を圧殺する苦悩に満ちた自己の内的対話を続けているかのように、しばらく後、もう一枚のさらに戦慄を催す戦争の残虐場面へ、かれは No sepuede saber por qué.(何故だか分かるわけがないと記す(『ゴヤとの対話』田中一生 訳)」。

とイヴォ・アンドリッチは書いています。ゴヤの結論がこれだったのでしょうか。世界に存在する悪、それが何故あるのかを知ることは不可能だった。彼は、81枚もの版画を制作しながら問い続けました。ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の中でこう書いていた。「我は悪魔なれば、すべて人間的なるもの、我に無縁ならず(米川正夫 訳)。」

 

戦争の惨禍より『戦争の災厄』

ところで、アンドレ・マルローはゴヤのエクリチュール/筆法について書いているではありませんか。騎兵突撃も、暴行に引き込まれる女たちも、引き回される死体や山なす屍を描く時、ゴヤが求めたのは表現であると。銃殺、縛り首、捕縛、亡きがらの前の女、立ち尽くす男、ゴヤが現実の中に貧欲に追求したものは、身振り、光と影、それらの表現だったと言うのはさすがですね。

情念定型と明暗の構成と言いかえられるでしょう。それらは、彼が実際に見たものもあるかもしれないが、見たと思い込むほど圧倒的な伝聞が中心であったのではないでしょうか。登場する人物たちは、おずおずと一ヶ所に集められ、揺れ動くマッスとなってカオスから立ち上がり、捩れ、よだち、崩れ落ちる。そんな形態を形成していくのですよ。動きが、大きな役割を演じるようになるのですが、これはミケランジェロとは異なる仕方でした。絵画とは運動の芸術なのです。

 

何のために描かれたのだろうか


 

聾者の家  現在は失われている。

聾者の家と呼ばれた建物で「黒い絵」の制作がなされたのは、1820年から1823年と言うスペインが自由を謳歌した時代でした。しかし、保守派が勝利するとゴヤは、この家を孫のマリアーノに譲ってしまい、この家には住まなくなってしまうのです。何故なんでしょうね。

もっと不思議なことは、この絵は家の壁という壁に直接描かれていた。つまり、エジプトやポンペイのように移動不可の建物と一体だったということなのです。後にカンヴァスに移し替えられますが、どういうふうにしたんでしょうね。それも、気になります。ともかくも、ただ、描きたいから描いた、あるいは一つの美術館のようなものとして制作した、孫のために家ごと残したかった、それらのいずれかの理由からということになるのでしょうが、いかにも、不思議な次第でした。黒い絵は上下二つの階に以下のように配置されていた。おそらく窓がいくつか改装されたのではないかと想像しています。

聾の家における「黒い絵」のシリーズの配置   入口左にレオカーディア像

この黒い絵が描かれ始めた1820年には、ラファエル・デル・エゴがセビリアで蜂起し、フェルナンド7世を捕らえて1812年憲法を順守することを誓わせます。議会を招集させ、言論の自由化、教会財産の国有化 (おかげでイエズス会は追い出された)、異端審問所を廃止させ、政府は改組されました。それは追放されていた政治犯や囚人からなる「徒刑囚の政府」とさえ呼ばれます。まさに、30年遅れのバスティーユの様相を呈していました。

ナポレオンの支配から脱却するための7年に亘るスペイン戦争が終わった時、フェルナンド7世は民主化の期待を一身に受けた指導者でありながら保守反動、王政を復活させ、あろうことか戦争で戦ってきた功労者たちを追放・投獄します。『戦争の惨禍』は、そんな時代に制作されていた。黒い絵を描いた時代は、その失意の時代が終わった束の間の4年間、かりそめの光の時代だったと言えるでしょう。1819年末、ゴヤは二度目の大病をアリエータ医師に救われ、32歳のレオカーディアと息子と娘のマリア・ロザリオと生活を共にすることになるのですが、今度は、根気のいる銅版画という手仕事ではなく、なんと33平方メートルもの巨大な壁に絵を描き続けていくのです。半死半生だった74歳の老人です。これは驚異ですよね。

入口から入って左手の大きな壁には『魔女の集会』があった。左に悪魔である大山羊が鎮座していますが、牡山羊は牡牛と共に一神教のユダヤ教に敵対したフェニキアから西アジアにかけて崇拝されていた豊穣と力の神の象徴でした。それが、キリスト教の台頭とともに偶像崇拝の対象としての悪魔になっていったと考えてよいのではないでしょうか。僕は、この陽物のような集団の端にレオカーディアとも若い見習い魔女ともみなされている女性が配されているのを見て苦笑してしまった。これは、けっして狂気の老人の描いた絵ではないのです。一説には右側1メートル余りが破損のため修復時にカットされたと言います。そして、一階の向かいの壁には『サン・イシードロの巡礼』がありました。この聾の家からほど遠からぬ所にサン・イシドロの墓地があり、葬儀場もあったそうです。

 

これは、黒い絵のシリーズの中で最も謎とされる絵ですね。ただ犬だけが描かれている。それも首まで砂に埋められ、茫漠たる天空を見入っている。何のための、何の意味がある絵なのだろうかと。この空間表現は、真に素晴らしものですが、ロマン派のフリードリヒやターナーの空間表現を彷彿とさせるものがある。しかし、この犬は‥‥

僕は今でもそうですが、犬占いの絵ではなかろうかと勝手に思っています。これは、確か夢野久作の『犬神博士』に登場するもので、犬をこんな風に土に埋めて、何日も飲まず食わずで飢えさせる。もう今生の別れかと言う時に目の前に食べ物を投げて、その表情で吉凶を占うという、かなり凄惨な占いですが日本にそれが、あったとしたら、もしかすると、スペインにもあったかもしれません。他にちょっと考えようがありません。一説には犬の前に巨岩が描かれていたが修復で失われたのではないかとも言われます。そうだとすると別な意味が生まれてきます。

ともあれ、これが、ゴヤ本人の抜き差しならない姿であった可能性もある。啓蒙派でありながら王室主席画家、それも飾りとしてだけで、実質、王室からの仕事は後輩のロペスに任されていました。フェルナンド7世が王室に返り咲いた時、前王の無能な宰相であったゴドイの美術コレクションは新設のプラド美術館に追いやられてしまった。フェルナンドが忌み嫌った父王のカルロス4世と性悪な王妃マリア・ルイーサ、その愛人のゴドイの肖像画など見たくもなかったのですよ。王宮に置いておく気はしなかった。しかし、その中に、『裸のマハ』があった。これは異端審問に引っかかるような問題でした。高齢で重病、耳の聞こえない功績厚かったこの画家であったなれば、周囲の計らいで問題は、もみ消されました。しかし、啓蒙派であることは、親仏派と見なされる危険はついて回っていたのです。

そうこうしているうちに、先ほど述べたリエゴの反乱で重ぐるしさからは全て解放されることになった。ゴヤにとっては安堵の時だったはずです。二階の左奥の壁には、二人の男たちが膝まで砂に埋まりながら棍棒で殴り合っている姿が描かれている。実は、この絵もその時期の状況を考えて見ればいかにも意味深な作品なのです。堀田さんによれば、1823年に束の間の光明の時代は終わり、「徒刑囚の政府」は極右と極左に分裂します。極右は立憲君主制と教会国家の併立を望み、極左は王の処刑追放と無制限の民主化を要求します。問題なのは、両派ともフランス占領時代にボナパルトに膝を屈したために投獄されていた有能な数千人の官僚や知識人を取り込もうとしなかったことでしょう。愚かな君主が二人になっただけのことだったのです。やがて、メキシコや中南米諸国の植民地を失ったスペインは急速に国力を疲弊させ大混乱に陥るのでした。二つの政治的派閥の争いは両者が死ぬまで続けられるのです。ですから、これら黒い絵は歴史の記念碑的ドキュメントでもありうるのです。

 

亡命の中の平和


 

1805年にゴヤの息子が結婚した時、その嫁の親戚の中のレオカーディアという17歳の娘をゴヤは見初めた (らしい)。彼女は裕福な商人と結婚するも、離婚、夫に不貞を訴えられますが、これがゴヤに関係したという証拠はありません。1812年には、ゴヤの妻ホセファが亡くなり、翌年、ゴヤはマドリードを去ろうとします。これにはレオカーディアが一緒だったらしいとトドロフは書いていますね。1814年、彼女は女の子を出産します。これがマリア・ロザリオでした。ゴヤは、この子にメロメロだったようです。はて? 誰の子だったのでしょうか。ゴヤの子であるかどうかは定かでありません。の頃は70歳前後ですから、しかし、可能性がないわけではない。まあ、あまり詮索するのも野暮ですね。

1823年、聖ルイの10万の息子たちと呼ばれるフランス軍が、幽閉されたフェルナンド7世を解放して、再度王位につけるために進軍してきましたが、人民戦線の抵抗は、ほとんどなく逆に歓迎されるといった具合だった。またも、反動、弾圧、迫害が始まります。マドリードでは「皆殺しの天使団」と呼ばれるテロ組織が自由主義者や立憲君主制の支持者を殺害し始めていた。レオカーディアは生粋の憲法派だったから、ゴヤの周辺は益々危険なものになっていきました。それで、ゴヤは宮廷画家として年俸を受け取りながら合法的に亡命する手立てを講じます。病と老躯のためにフランスのプロビエール鉱泉への湯治の許可を求めた。はなからそんなことに明け暮れる気はなかったのです。当時のデッサンの詞書きにはこのように書かれてあった。「こいつらと一緒にいたくない。」

『俺は、まだ学ぶぞ』1825-1828 リトグラフ

ボルドーに着いた後、パリに二か月ほど滞在して、アングルの『ルイ13世の誓願』やドラクロアの『キオス島の虐殺』などを見ています。そしてボルドーに戻ります。レオカーディアとは、全く不釣り合いな夫婦と言った感じでしたが、彼女の子供たちと一緒に暮らしています。ボルドーはスペイン語がかなり通じたようです。しかし、1825年の春にはまた、病に倒れました。だが、不死身です。79歳の老人は、リトグラフ象牙を使った細密画を手掛けるようになっていくのです。北斎ばりの活力だった。

そして、1826年、画家はマドリードへ向かい、国王フェルナンド7世に宮廷画家の職を辞すること、そして、フランス滞在の許可と終身俸給5万レアールを願い出て許可されています。ボルドーでの最後の作品は『ボルドーのミルク売り娘』でした。毎朝ミルクを届けに来る娘を描いています。彼の遺作が、この作品であることは、一つの救いであった。それは彼にとっても彼の研究者たちにとってもそうだったでしょう。

1828年、ゴヤは息子ハビエールの妻と孫のマリアーノに看取られて亡くなっています。82歳でした。こうして、啓蒙の光に照らされた主観の巨大な影は死の闇の中に記憶の面影と共に溶けて行ったのです。

 

引用文献

 

イヴォ・アンドリッチ 『ゴヤとの対話』

アンドレ・マルロー『ゴヤ論 サチュルヌ』

堀田善衛『ゴヤ スペインの光と影』

堀田善衛『ゴヤ マドリード・砂漠と緑』

堀田善衛『ゴヤ 巨人の影に』

堀田善衛『ゴヤ 運命・黒い絵』

ツヴェタン・トドロフ『ゴヤ 啓蒙の光の影で』