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ミハイル・バフチン 私とあなたの私との対話/結び合う記号のネットワーク

ミハイル・バフチン(1895-1975)
1924‐25年頃

私と物、主観と客観、精神と外界‥‥この二つの世界を巡って百家が争鳴し、スッタモンダの挙句にどうにもなっていないのか、それとも少しは明るい見通しがあるのか。ここは問題です。今回は、このテーマを契機に前回に続いてロシアの恐るべき思想家ミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン)の思想をカテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイストの共著『ミハイール・バフチーンの世界』とツヴェタン・トドロフの『ミハイル・バフチン 対話の原理』を中心にご紹介します。

モノには限度がある。何の限度かというと知ることの限界です。知るには悟性と感性という二つの道具があり、例えばライプニッツは悟性寄り、ロックは感性寄りと言われますが、カントは、知るためには理性による悟性と感性の統合が必要だと考えた。物それ自体は決して認識しえないが、物自体の領域である世界と概念の領域である精神との相互作用によって思考は生まれるというわけです。

1.マージナルであることの運命

バフチンは1929年にいくつもの罪状で逮捕されたが、その罪状の一つは、ペトログラード周辺の司祭養成所で私的な講義を行い「若者を堕落させた」というものだった。彼は、非正統的・非党派的なギリシア正教にさえ接近していた。この頃は言語学や社会学の言説に没頭してゆく時期でもある。ロシアの極北、白海に浮かぶソロヴェーツキイ諸島への10年の流刑が決まったが、副腎炎によって脚の持病が悪化していて身体障害の重度が一段引き揚げられたことがあったせいか、カザフスタンのクスナタイという町へ6年の流刑へと減刑されている。ウラル山脈の真東である。4年に減刑され刑期が終わると友人のメドヴェージェフの助力でロシア南東のサランスクにあるモルドヴィア師範学校の教職に就くことができた。1936年のことだった。

オガレフ・モルドヴィア州立大学
サランスクに1931年に創立されたモルドヴィア師範学校は1957年に州立大学へと拡張された。

だが、大粛清の波に襲われそうになって1年でそこを辞し、モスクワ近郊のサヴェロヴォに避難した。そこでは、かねての持病の骨髄炎が悪化して右足切断の手術がなされる。この頃は、定職がなく生活は逼迫したが逆に執筆は盛んだった。いくつかの論文の中に『リアリズムの歴史におけるF.ラブレー』があった。ゴーリキイ研究所に学位論文として提出するが、第二次大戦のために審査はストップしてしまう。しかし、後の1965年に『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』として晴れて出版されることになる。戦争が終わると、かつてのサランスクの師範学校に復職できた。宙吊りになっていた学位論文『リアリズムの歴史におけるF.ラブレー』はやっと審査が開始されるが、結局、準博士論文としてはパスしたが、博士論文としては認められなかった。

戦後もバフチンは、逮捕の危険には警戒を怠らなかった。彼の講演は巧みで、その授業にも抜群な人気があったようだ。バフチンはスポットライトの当たることのない静かな生活を愛していた。彼のことを紹介しようと努めたのは、シクロフスキ―やヤコブソンといった言語の詩的機能などを研究したロシア・フォルマリストたちだった。やがて若い世代たちの中からコージノフのような人がバフチンの著作の刊行しようと積極的に働きかけるようになるのである。晩年は世に知られる存在になっていった。1971年、妻のエレーナが亡くなり、失意のバフチンも肺気腫が悪化して4年後に亡くなっている。

2.新カント学派という抜け道

1870年代から1920年代までドイツではコーエン、ナトルプ、カッシーラらのマールブルク学派に代表される新カント学派が哲学の主流であり、ロシアにも大きな影響を及ぼしていた。世界は思考にとってはじめから対象として与えられるのではなく、未知のXと出会い、一連の統合によってそのXを理解の対象とするのだが、この時、Xは物それ自体ではなく、概念化の限界となる。物自体は、けっして把握できないとカントは宣告を下していた。物そのものに迫りはするのだが、それは近似的であり、けっして完結しない。バフチンにとってこの未完成は肯定的な意味を持っていた。発展の可能性と捉えたのである。コーエンが過程を重視したこと、「世界は与えられたものではなく課せられたものである」としたこと、そうした視点が約束する開放性とエネルギーにバフチンはある「抜け穴」を見つけたという。しかし、コーエンは極端に走った「物質は仮説にすぎない」としたのである。

視覚を例にとって考えてみよう。例えば、二つの物が同時に同じ空間を占有することができない。私がここにいる間、あなたは、あそこにいなければならない。したがって同時に二人が厳密に同じ光景を見ることはない。そして、その場に立って見えるものにも限界がある。柱があれば、その向うは見えない。「その他すべて」が見えないおかげで「これ」が見えるとも言える。バフチンはそんな自己の視点を「視覚の余剰」と呼んだ。彼は、自己を統一的な全体としては見ていなかった。それゆえ、自己は独立した実体でも本質でもなく他者との対話的な了解によってしか存在しえないものであり、「他者の自己たち」との柔軟な関係の中にしか存在しないと考えていた。

見えるというような直観(感覚的直接知)像から対象を把握しようとすることも平凡な白昼夢においても「私自身」は、まさしく「私に見えない」のである。その状況のなかで、この世界を理解しようとする企ては、作家が登場人物を視覚化しようとする企てに似てくるという。他者の目を通して知覚した世界、他者の諸価値を通して屈折させた世界を概念化して自分自身を見るのである。このことによって、世界における自分の役割を一貫したストーリーにしようと企てる。意識の本質は、絶えず自己を生み出し、創作し、想定したいという欲求であり、未来を計画することによって現在に応答しているとも言える。作家と登場人物のポリフォニー的対話については前回の「ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』笑いは世界を再生させる」に書いておいた。

フッサールは、自己と他者との解き難い矛盾を解消しようと闘った。それが現象学であり、ハイデッガーに大きな影響を与えた。われわれは、自分の固有の欲望を持ち、それに応じた自分の世界の有様をそれぞれ持っている。それを交換しあって関係を結び、そのことで常に共通世界を作り上げ編みかえている。人は独自の情状性(気分)を持ち、独自の了解から生まれた可能性の意味の網の目としての世界を持っているといわれる所以である。それが、それぞれの人間の実存世界であって、それを常に交換しながら関係を結びあう。私たちにあるのは、与えられた客観的世界ではなく、自分が創り上げた意味のネットワークであり、そのネットワークを他者と交換しあいながら関係を結びあっているのだとハイデッガーは考えた。この辺りは竹田青嗣さんが上手に説明してくださっている。意味を投げかけ合い、編み変えあったりして共通了解を生み出しているということをハイデッガーは、フッサールの現象学から学んだのである。ついでに言うとフッサールは客観世界を()に入れて棚上げしてしまい、人間の意識経験の世界だけを問題にする。人間に、意識経験がどのようにして世界に対する超越(竹田青嗣さんのいう確信)をもたらすのかを明らかにしようとした。

3.世界に応答する責任

ソシュールが意味の恣意性を説くなら、発言に対する意味の重さは誰に問えばよいのか、フロイトのいう無意識の世界があるなら心の主人は人間の自我なのかエスという非人称的力なのか、神学において行為の責任は人間の意志にあるのか神の意志にあるのか。自分の行動に責任を持つ自我と様々に概念化される他者との葛藤はどのように解消されるのだろうか。バフチンにとって事物の世界は、カントと同様に「与えられたもの」であった。しかし、精神は決して世界とは完全に一致しない。精神には、この世界をいかに「見る」か、世界をいかに翻訳するかという自己にとってのある種の「課題」が課せられる。この世界と精神との間に架ける橋が、バフチンの言う「課題」に答えること、つまり「応答責任」である。存在の呼びかけに答えるハイデッガーのいう「気遣い」に近いと言われる。

この応答責任とは、世界の必要に応答する行動であり、他者の必要に応答する自我の活動を通して遂行される。世界は本質的に意味を欠いていて、人は本質的に意味の創造者であり、消費者であるという。応答責任を果たすということは、「与えられたもの」の世界から「抜きんでる」ことであり、バフチン流に言えば「構築論的特権」であった。そのことによって私自身の外部に世界を発見するのである。バフチンのこの「構築学」に関する一連のテクストが書かれたのは、クラークとホルクイストら筆者たちによれば1919年であり、ハイデッガーの『存在と時間』に先立つこと8年前のことなのである。

4.作者とオートポイエーシスの中の主人公

バフチンは神学の中にも現代的な課題を見ていた。霊魂と肉体という神学における二元性の対話関係は、精神と世界、自己と他者という二元性にパラレルに関係していた。作者による創作は、意味が肉となる様々な過程だった。彼の美学では、自己と他者は作者と主人公という立場に変わる。バフチンはこう述べる。「作者は創造するが、自分が形作る対象の中にしか自分の創造物を見ることは出来ない。彼は創造の産物が実現されてゆくのを見るだけであって、その内的な心理的に決定された過程を見るわけではない。」

ミハイル・バフチン『作者と主人公』
1920年代後半の著書と考えられている。

何故、作者は自分の作り出す対象の中にしか自分の創造物を見ることができないのだろうか。この自己の創造とそれに関わる意識の問題を別の観点から眺めて見ることもできる。主人公を描くことを自転車に乗ることと置き換えてみたい。自転車に乗ろうとする時、自己は作動しているが、それを意識が全て捉えきれているわけではない。ハンドルをどのように保ち、どれくらいの速度でペダルをこぎ、右に傾きそうになったらハンドルをどのくらい反対方向にきったらよいか、意識は全てを把握できない。でも、この時、行為はまぎれもなく形成され、それを通じてこの行為を行う自己を形成している。つまり、自転車に乗れる自分になっているわけだが、その時の自己が何であったかという問いは、すでに起きている事態とはすれ違ったものとなっている。これは河本英夫さんがオートポイエーシスを扱った「システム現象学」と呼ばれる領域の話である。

体験は体験自身を聞くことも見ることもできない。見聞きできるのは作り出された産物だけなのである。作者=創造者は、テクストの中にいるが、テクストの中にいる登場人物とは異なる次元にいる。ここに神学的な意味があると思えるのだが、作者は、自身が生み出すものとは別の次元にいるのである。これは、記号を作り出す能動的な「自己」とそれが生み出す「自己の記号」とは決して一致しないということを示している。内側/外側、独白/対話、完成/未完、公式/非公式、叙事詩/小説、このような二項対立の背後にあるものは、やはり自己/他者なのである。バフチンとって重要だったのは、自と他をめぐる「現象学的記述」だった。それは彼の全思想の根幹をなしている。

5.記号と意識

ここからは、ツヴェタン・トドロフの『ミハイル・バフチン 対話の原理』を交えて言葉や文化の記号論をめぐるバフチンの思想をご紹介します。彼のいうイデオロギー的なもの、つまり文化価値を持つようなものは、全て意味を持っていて、自分の外にあるものの表象となり、描写となり、その代理となりうる。つまり、自らの外にあるものの記号となっているのである。彼によれば、記号もそれぞれに独自な物理的な物体である。記号としてのあらゆる現象は、音なり物体なり、色なり身振りなり、様々な現象を伴うものである。その外にある記号が内面化され、形成されて心理・意識内の記号にもなる。この記号を解読する作業は、受け取った記号をすでに解読した記号に関連づける作業であり、新たな記号へと連鎖していく過程はコミュニケーション論に発展してゆく。

ツヴェタン・トドロフ
『ミハイル・バフチン 対話の原理』
バフチン思想を知る上での必読書。トドロフは1939年生まれ。ロラン・バルトのもとで構造主義文学批評を行う。フランス国立科学研究所の芸術・言語研究センターで指導的立場にある。

記号は、個々人の意識と意識の間に渡され、それらの意識を互いに結び合わせていて、個人の意識も記号に充たされ、社会的な相互作用を生む。記号としての事物に媒介されて、はじめて意識は形成され、客観的に実在するようになるというわけだ。個人の意識は、記号によって養われ、記号によって成長し、自らの内に記号の論理と記号の規則性とを映しているというのである。

その記号の中でも大きな要素を占めるものが言語である。すでにソシュールは、言語の記号論を打ち立てていて言語記号の表現をシニフィアン、意味をシニフィエとして区別していた。言葉は内面で働く記号であり、意識の記号的実体になっている。発声器官や紙上のインクといったものによって存在する言葉もまた物質である。同時に言葉は意味を持つという点で物質を超越している。そして、記号はけっしてそれを指示しているものではない。木という言葉は木ではない。記号の世界がそれを命名する事物世界と一致しないという二元性を人間は運命づけられている。誰でも私は「わたし」に合致しないという事実に直面しなければならない。われわれは、われわれがみんな同一であるかのように振舞い、同一という虚構を作り上げる。言語が合致という虚構に合わせて作用するのと同じである。『ミハイール・バフチーンの世界』の筆者たち、クラークとホルクイストはこう述べている。この皆が共有する意識と自己との二元性と、言語と世界の二元性があるからこそ「人間は記号である」というチャールズ・パースの定言が意味をもつのだと。

ミハイル・バフチン+V.N.ヴォロシーノフ
『言語と文化の記号論』バフチン・グループの一人であるヴォロシーノフの名で出版されているがほぼバフチンの著作とされている。

バフチンの『言語と文化の記号論』の訳者である北岡誠司さんは、その「解説」の中で、これはなかなか素晴らしいのですが、このように指摘しておられる。バフチンは、ソシュール言語学・記号学が自/他の対立を飛び越えて他の意識を一切排してメタレベルに構築される無人称の学であるとして批判し、あくまでも自/他の相対的な意識の相互作用による具体相という経験のレベルに固執しながら記述を進めることで人間文化の各領域の特徴を明らかにしようとしていたと。バフチンはソシュールのいうラングを評価せず、パロールのほうを重視したのである。

意味のネットワークという血管を走っているのは記号であり、それが間主観的に意識を結び合わせているということになるのだろう。私の反復不可能なこの現実と私に先行する言葉という純粋に抽象的で反復可能な体系との境界線上に意識は出入りするのである。ここは、重要な指摘である。そして、意識の論理とは、どこまでもイデオロギー(文化価値)的送受のコミュニケーションの論理であるという。意識の中には孤立した行為はなく、あらゆる思考は他の思考と結びついていて、同時に他者の思考とも結びついている。その意味で意識は常に共意識であり、存在は「共存在」である。先の『ミハイール・バフチーンの世界』の著者たちは、この同時性と共有性の強調はバフチンの全著作の特徴になっていると考えている。そして、バフチンは、「意識のすべての要素は何かを表象し、ある象徴的機能を担っている」という。

6.象徴的機能と像の形成

認識とは精神(主観)による存在(客観)の把握と解釈の中で一つの形式を与えることである。その形式を記号と言ってよいのだと思うけれど、形式とするための形態化には論理的科学的な方法とは全く異なる方法がある。その方法とは、「像を形成する力」によってなされる。新カント学派だったエルンスト・カッシーラは『シンボル形式の哲学』の中でそのことを最大限に拡張しようとした。最も興味深いのはここだ。

「精神の真の根本機能はすべて、単に模写するだけでなく、根源的に像を形成する力を内蔵するという決定的な特徴を、認識と共有している。精神の根本機能は、ただ受動的にそこにあるものを表現するだけでなく、内に精神の自立的エネルギーを蓄えており、このエネルギーによってただ存在するだけの現象がある特定の『意味』、ある独自な理念的内容を受けとることになるのだ。このことは、認識にとってと同じく芸術にも当てはまり、宗教にも神話にも当てはまる(『シンボル形式の哲学』第一巻「シンボル形式の概念とさまざまなシンボル形式の体系学」生松敬三/木田元 訳)。」

ヴァ―ルブルクを彷彿とさせる言葉なのだが、この「根源的に像を形成する力」をカッシーラは、言語的思考の原理とは異なる原理に導かれ支配される新たな「ロゴス」となると考えていた。つまり、造形芸術などの形は理念を担いうる材料になり、意味を形成する自立的エネルギーを起動させるトリガーにもなるということなのです。しかし、この「像を形成する力」をカッシーラは、感性的なものそれ自身の積極的活動、ゲーテの言う「精密な感性的想像力」であるとしたのだが、その力が何処に由来するのかはスッタモンダの議論の一つになったらしい。バフチンは象徴構造の解釈についてはこう述べている。「象徴構造の解釈は、象徴的意味の無限性のなかにもぐり込んでいかざるをえない。したがって厳密な学において科学的という語が帯びる意味では象徴構造の解釈は科学的とはなりえない。だが、それは根本的に認知的である。(『人文科学の方法論について』大谷尚文 訳)」

7.対話原理とは何か

一つ指摘しておきたいのは、バフチンが人文科学と自然科学をはっきり分けていたことである。自然科学は対象を認識しようとし人文科学は主体を認識しようとする。その主体とは自己の主体と他者の主体である。人文科学の対象はテクストの生産者としての人間であった。思考に関する思考、経験の経験、言説にかんする言説、テクストを対象としたテクスト、つまり、間テクスト性が人文科学の根本的な特殊性としてある。しかし、自然科学との境界は、さほどはっきりしたものではないという。

記号よる社会的な相互作用によって社会的コミュニケーションは生まれる。その過程で生じる互いの「理解」とは、バフチンにとってこのようなことだった。「問題なのは、他者の経験を自己の内部に自動的に正確に反映することでも、自己の内部で倍加することでもまったくない(そもそもそのような倍加は不可能である)。そうではなく、この経験を全面的に異なった価値論的パースペクティブにもとづいて、新しい評価と知識のカテゴリーに翻訳することである(『美的活動における作者と登場人物』大谷尚文 訳)。」つまりこれが、カーニバル的「生き返り」である。対話による理解の特徴とは、最初の発言(認識すべき対象)に触発された応答の形式をとる傾向があるということ。そして、他の発言を記述する発話が、その発話と対話関係を結ぶようになると言う。それはテクストとそれに問いかける、あるいは反対するようなコンテクストとの複合関係から生まれるのであって、既にあるテクストと創造途上にある反応としてのテクストとの出会いとなる。それは二つの主体、二人の作者の出会いなのだと言うのである。

8.最後に――言葉の物象化という危機

このようにみていくと、20世紀の初等からバフチンがマージナルな環境に身をおきながら、現象学、フロイト批判、言語の記号学、ドストエフスキイやラブレーの文学などを通して独特の思想を形成していったことが分かる。彼の思想を貫いているものは対話だった。間テクスト性のなかでのポリフォニー的対話である。それはカーニバルにおけるような民衆的な生きたパロールによって培われる。その生きた言葉を追求してきたバフチンが『言語と文化の記号論』の結びの中で、既に、発話が、その意味を真剣に考察されるような対象ではなくなっていると述べ、自分自身が責任を持って発した言葉、断定した言葉が無くなりつつある。既存の発話を組み合わせた、いわばブリコラージュ的な言葉が支配的になってきているというのだ。「他人の言葉」と「あたかも他人の言葉であるかのような言葉」とのカット&ペーストでしかない。これも複製技術時代の災厄なのか。芸術テクスト、修辞的発話、哲学的文章、人文科学の記述は「既存の意見」の王国となりつつある。前面に打ち出されているのは「何が私念されているか」ではなく、「どのように私念されているか」なのだと言う。こうした発話の運命は言葉を物となす「言葉の物象化」と「テーマ性の低下」をもたらすと言うのである。僕にとっても耳の痛い話である。そう、ここにはもうひとつの「ヨーロッパ諸学の危機」があったのだ。

 

引用文献 参考図書

竹田青嗣(たけだ せいじ/1947‐)
『はじめての現象学』

河本英夫『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』

エルンスト・カッシーラ『シンボル形式の哲学』第一巻(全4巻)

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』笑いは世界を再生させる

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』

今回は、色々な本の中でちょこちょこ名前の出てくるミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン)のグロテスク・リアリズムを取りあげたい。魔術的リアリズムに近いようで遠い。エロ・グロ・ナンセンスのグロテスクとも似つかない。じゃあ、いったい何かと問われればお立合い。まずは、はるか昔のローマに遡る。


1.カーニバル・タイプの祝祭、様々な広場での笑劇的要素

「そして(ウダールは)この法院族め、ぽかぽか、この法院族め、どかどかと、殴りだしましたが四ほう八ぽうからも、こんこんに張り切った籠手が、法院族に雨霰と降り注ぎました。『めでたい嫁取り! (と一同は叫びました。)めでたや嫁入り! めでたや! めでたや! 末の世まで忘れまじ! 』と。法院族はさんざんに痛めつけられて口からも、鼻からも耳からも眼からも、血がだらだらと流れました。その上に、頭からも首も背も胸も腕も一切合財が、くたくた、がたがた、びりびりにされてしまったのでございますよ。まったく謝肉祭の折のアヴィニョンの若衆たちにしても、この法院族の時以上に、景気のよい音を立てて、殴打遊びをやったことは金輪際ございませんよ。とうとう奴めは地べたへ倒れてしまいました。皆は、その頭に葡萄酒をぶっかけ、胴着の袖に、黄と緑に染められた見事な布地を縛りつけ、奴の青洟垂らした馬の背に乗せました。(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第四の書』」

フランスの地方には、婚礼の祝の席でお互いを冗談めかして軽くこぶしで殴り合うという「二股手袋の婚礼」という風習があったが、この殴り合いは陽気な性格を持ち、笑いで始まり、笑いで終わる。法院族は道化としての王の役割が与えられ、打擲と嘲罵が加えられる。そうされながらも祝福される矛盾した存在となる。ここではアヴィニヨンのカーニバルが想起されているが、肉体の分断、それも解剖学的、カーニバル的、料理的、医術的な寸断がなされている。しかし、殴られる者は葡萄酒で赤く染められ、彩豊かに飾られる。このような祝祭的なイメージ体系には、けっして絶対的な否定はない。矛盾する統一体の中で生成の両極が捉えられるのである。


 

ドムス・アウレア内部 64年のローマ大火災後にネロが建てた黄金宮殿跡
16世紀には地下洞窟「グロッタ」として知られていた。

西暦64年、ローマが焼野原になった後、皇帝ネロは誇大妄想建築と名高いドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設しはじめた。その死後、宮殿は火災によって焼失する。宮殿の敷地はティトゥス浴場などの建築物に覆われドムス・アウレアは地下に埋まっていたが、15世紀末に地下道を掘って内部が見学できるようになった。

バフチンは、本書『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』の中でこう書いている。「15世紀末のローマでティトゥス帝の共同浴場の一部が発掘された時、その時まで知られていなかった種類のローマの絵画的装飾が発見された。この種類の装飾は、洞窟、地下室を意味するイタリア語の「グロッタ」から「グロッテスカ」と名付けられた。(川端香男里 訳)。」そこを訪れたラファエロは内部の装飾に眼をみはり、さっそくバチカン宮殿の壁画に試したという、いわくつきのフレスコやモザイクがあったのである。

このローマの装飾画には、奔放なアルス・コンビナトリア(結合術)、動物たちや人間との自由なキメラがあり、幻想と想像力が手を携えて壁面に浮遊していた。その特徴をバフチンは、このように述べる。このグロッテスカにあっては境界線は大胆に犯されていて、現実のありきたりの静態的表現はない。一定不変の世界の、植物であれ、動物であれ、出来上がった形、そのものの動きはもはやなくなり、存在自体の永遠で未完な性質に変えられている。そこには芸術的空想の並みはずれた自由と軽やかさがある。そして、「この自由は、ほとんど笑っているような、陽気気ままな自由である」と書いている。彼によれば、この新たな発見は、グロテスクイメージ表現の一断面に過ぎなかった。そのイメージは、実は古代のあらゆる時期に存在し、中世、ルネサンスにも生存し続けていた。このグロッテスカは、その後の生産的な生命に保障を与える存在となり、グロテスクなイメージ表現が拡張され測り知れない巨大世界へと発展していく過程での護符となるのである。

 


2.滑稽な文学的作品からの着想

「そこでにこにこしながら、見事なその股袋をはずして、その一物を宙に抜き出し、勢い劇しく人々に金色の雨を降らしたので、そのために溺れ死んだ者の数は、女や子供を除いて二十六万四百十八人であった。これらの連中のうち何人かは、脚が速いおかげで、この小便の洪水から逃れ出て汗をだらだら、咳をこんこん、唾をぺっペっと吐きながら、息も切れ切れになって大学の丘の頂上へたどり着いたが、ある者は、かんかんに怒り、ある者は笑い転げながら(Par rys/パ リ)、神も仏もあるものかと喚き立て、呪詛の声を上げ始めた。――神の災いに誓って! 主を否みまする! 主の血にかけて! 主の母君、みそなわせ! 主の頭にかけて=ガスコーニュ 主の受難がお前をくじいてしまわぬように‥‥やれ聖女マミカ様、冗談ごと(Par ry)からすっかり濡れ鼠にされてしまったわい! こういう理由から、それ以来この町はパリと名付けられたわけだ‥‥(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第一の書』」

バフチンは、ラブレーの同時代のロジェ・ド・コルリーはこんな詩を書いたと紹介している。

≪主の復活祭≫みまかりし時  ≪主の良き日≫後を継ぎぬ。
≪主の良き日≫故人となりし時、 あとを継ぎしは≪悪魔よわれを取れ≫なり。
その歿したるのち、≪貴人の名誉≫がわれらを惹きつけているのを見る。

当時、聖なる言葉が瀆神的、冒涜的に使われるのを恐れた国王たちは一度ならず誓言禁止の法令をだしたという。ルイ11世の ≪主の復活祭≫、シャルル8世の ≪主の良き日≫、フランソワ1世の ≪貴人の名誉にかけて≫ など、彼らのお気に入りの誓言は、禁令を発した王たちと分かちがたく結びついて王たちのあだ名にさえなった。コルリーの詩はこれらのエピグラムとなっているのである。ラブレーの文学にはこのような滑稽な文学作品のパロディが散りばめられていた。


 

バフチン『ドストエフスキイ論』
『ドストエフスキイ創作方法の諸問題』1963年版の翻訳

幻想と想像力が手を携える。それって、シュルレアリスム、いやマニエニスムじゃないのかと不審に思われる人もあるだろう。いや、あってほしい。あるかなあ‥‥ルネサンス末期から登場したマニエリスムは、奇想をこととする手法主義を指している。ルネ・ホッケは、それをルネサンスの古典主義に対抗する概念にまで高め、西欧文化の二つのあざなえる縄の一つにまで持ち上げたのである。バフチンは、グロテスクを大衆的な笑いの原理、生活の物質的・肉体的原理、アンビヴァレントな価値を併せ持つ変化の両極性、再生と復活のユートピア性を持つと規定し、宗教の厳格性や学問の抽象性をこととするお堅い文学とやはり対抗させた。しかし、文化って基本的にアンビヴァレントなものなのかしら。

フランソワ・ラブレーやそれに類するルネサンスの作家たち、ボッカチオ、シェイクスピア、セルヴァンテスらの物質的・肉体的原理に基づくイメージが民衆の笑いの文化の継承に違いないとバフチンは思った。生に対する独特な美的概念の継承である。近代から始まる美的概念とは鋭く対立する美的概念をゴシック・リアリズム、後にグロテスク・リアリズムと名付ける。

既に古典古代において、叙事詩、悲劇、歴史、弁論術(レトリック)などの真面目な文学と田園詩、ソプロンの物真似、『ソクラテスの対話』『メニッポスの諷刺』といった、いわゆる真面目な茶番と呼ばれる文学とに分けることができるという。特に『メニッポスの諷刺』は、カーニバル的世界観から発し、ドストエフスキイの創作の中で新たに生まれ変わったというのだ。ドストエフスキイ文学は真面目な茶番の末裔に分類される。さて、これを読んでオッたまげた人はバフチンの『ドストエフスキイ論』をお読みくださいませ。

ミハイル・バフチン(1895-1975)
1924‐25年頃

ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチンは1895年にウクライナに近いロシアのオリョールに次男として生まれた。伝記については、カテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイストによる著書『ミハイール・バフチーンの世界』からご紹介する。兄と三人の妹があった。父方は貴族の家系に連なるが爵位は持っていなかった。祖父が市中銀行を設立していて、父はそのほうぼうの支店で支店長をしている。それで、何度かの転勤をすることになった。両親は子供たちに最良の教育を受けさせたが、家風はかたぐるしく、その中でもミハイルは打ち解けない性格だったといわれる。9歳で学校に上がる前は、ドイツ人の女性家庭教師がついていて、『イーリアス』『オデュッセイア』などをドイツ語で教え、劇にして演じさせていたりした。

9歳の時、父の転勤に伴って現在のリトアニアの首都ヴィーリニュスへ移り、15歳まで暮らすことになる。そこは、様々な文化、様々な時代の生きた博物館であり、伝説と謎に満ちていた。言語、階級、民族は多様で、異言語混交の生きた実例であったといわれる。ロシア人が支配しロシア語を公用語としたが、ポーランド人とリトアニア人が大半でユダヤ人も比較的多かったが、大勢はローマ・カトリックであり、知的・文化的にはポーランドに傾斜していた。兄弟はギリシア語を家庭教師に学びながら学校ではロシア中心のカリキュラムを吸収した。一時的な革命熱のためにマルクス主義に浸ったこともあったが、11歳の時『悲劇の誕生』を読んだことは、後に反ニーチェ主義者になりはするものの人生の転機になったという。やがて象徴主義に興味は移った。ロシアのブローク、アンネンスキー、イヴァーノフら象徴主義の詩を終生愛した。特にイヴァーノフは、「私」がもう一人の「私」、すなわち内なる「汝」を意識化していくという表現によって宗教的・認識論的体験の基礎となるコミュニケーション理論を築き上げていた。ここは、重要であろう。

1911年、15歳の時に黒海沿岸のオデッサ(現ウクライナ)に移った。一年だけオデッサ大学で学んだあと1914年からペテルブルク大学で歴史・言語学部の古典学科に在籍し、1918年に卒業した。この頃は、象徴主義に対抗する新しい運動が胎動していた。マンデリシュタームやグミリョフを中心としたアクメイズム、ヤマコフスキイらの未来派である。バフチンは言葉の実験を信条にしていた未来派に興味を持った。未来派に近い立場の人たちとしてペテルブルク大学で学んでいた、あるいは教えていたメンバーたち、シクロフスキ―などのフォルマリストを指摘できる。他にヤコブソンらがいるが、彼らはやがてバフチンの「あっぱれな敵」となるのである。これがバフチンの20代前半までの様子である。

 


3.無遠慮で粗野な広場の言葉(罵言、誓詞、呪詛、民衆的プロパガンダ)による語り

「はっ、はっ、はあ! わーい! こいつは一体何じゃいな? これなるものを何とお呼びになる? 便とも糞とでも、尿とでも排泄物とでも、うんことでも、便通とでも、糞便とでも、大便とでも狼の糞とでも、熊の糞とでも、鳥の糞とでも、鹿の糞とでも、絞り糞とでも、固糞とでも、山羊の糞とでもお呼びになりますかな? 私は思うのだが、イベルニヤのさふらんですわい。ほっ、ほっ、ひーい! こりゃイベルニヤのさふらんさね! 誓羅(せら)! 飲もうや、皆さん! (ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第四の書』」

この糞のオンパレードは、香具師の口上、広場での罵言のようである。さあ、さあ、みなさん、御用とお急ぎでない方は、よってらっしゃい、見てらっしゃい‥‥というのに代表される語り、あるいは、おまえのカアチャンのちょめちょめがなあ! くそったれ! などという罵詈雑言などの類です。


 

ピーテル・ブリューゲル(1525頃-1569)『謝肉祭と四旬節の喧嘩』1559 部分 美術史美術館 カーニバル的世界の描写

ここで、ラブレーのスカトロジー(糞尿譚)に触れます。イャダーとか言わないように。重要なのです。私が意識の座を得てからというものうんこなど食べたことも舐めたこともないことは誓って申し上げるのだが、恍惚の人となり、年齢も年齢ですから、そうなればどうなるかは定かではない。先ほどのラブレーの糞のオンパレードで、うんこがイベルニヤのさふらんという何やら貴重で快いものとされていることにバフチンは気づいた。自分の尿を飲むというのは民間療法として根強い人気があるらしいのだが、うんこはさすがに食べられません。しかしながら、うんこは大地と身体との中間にあって両者を結びつけるもの、再生と改新をもたらす陽気なブツなのです。うんこは死人の肉体と同じように土地を肥沃にするものなのです。

ギュスターブ・ドレ画『ガルガンチュア物語』挿絵  大聖堂からオシッコをして人々をセーヌ川に押し流すガルガンチュア

それで、バフチンはこう書いている。「ラブレーのスカトロジー的イメージには、少しも粗野でシニカルなものはないし、また、あり得ない。(他の同様のグロテスク・リアリズムと同じように。)糞を投げつけ、尿を浴びせ、古い死にゆく(と同時に生み出す)世界に糞尿譚的罵言を雨あられのように浴びせること――これは古い世界の陽気な埋葬であり、愛情のこもった土の塊を墓に投げてやる行為や、墦種――畑の溝(大地の母胎)に種を投げる行為とまったく同様の(ただし笑いの次元における)ものなのである。陰うつな、肉体のない中世的真実に対し、これは真実の陽気な肉体化であり、滑稽な地上化である。(川端香男里訳)」

つまり、うんこは「くそっ!」になるのだ。芸術的空想の並外れた自由な陽気さは、このうんこのメタファーにも見て取ることができる。いわば下方超越し、再生と復活を人間にもたらすと言うべき世界観は、古代における農耕神サトゥルヌスの黄金時代へ、全民衆的なユートピア世界への回帰に繋がっていくのである。

バフチンは、カーニバルやフェスト、大道芸、多種多様なパロディ文化等々に見られる諸形式を三つの基本的な形式にまとめた。それが今まで挙げてきた民衆文化の三つの表現形式(1.儀式的・見世物的形式、2.滑稽な文学的作品、3.様々の形式やジャンルの無遠慮で粗野な広場の発言)である。しかし、基本的に重要な形式は1.のカーニバルであろう。

「わたしがビール樽なら、あんたは足なしです‥‥」
「なに、わしが足なしだって」
「ええ、そうです、足なしですよ、おまけに歯欠けじいさんで、そうなんです、あんたは」
「おまけに目っかち」とマリア・アレクサンドロヴナが喚き立てた。
「あんたはあばら骨の代わりにコルセットをはめてるんでしょう」とナタリア・ドミトリエヴナがつけ加えた。
「顔はぜんまい仕掛け」
「自分の髪の毛はないし‥‥」
「口髭ときたら、バカみたい、こしらえ物でしょ」マリア・アレクサンドロヴナは黄色い声を張りあげた。
「いや、せめて鼻だけはよしてもらいたいな、マリア・ステパノヴナ、これは本ものなんだから」と意外なすっぱ抜きにびっくり仰天して公爵は叫んだ‥‥
「いやはや」と哀れな公爵はいった。「‥‥おまえ、わしをどっかへ連れ出してくれ。さもないと、八つ裂きされてしまう‥‥」。(ドストエフスキイ『伯父様の夢』新谷敬三郎訳)

バフチンは、このドストエフスキイの作品を、解体した身体の部分を数え上げる典型的な「カーニバル解剖」の例として挙げている(『ドストエフスキイ論』)。この数え立てはルネサンスのカーニバル化した文学において広く行われた、例えば、ラブレーにおいて盛んに、目立たなくはあるがセルヴァンテスにおいても。ここでは、カーニバル王の役割をしているのはマリア・アレクサンドロヴナ・モスカリョーワであった。彼女は娘を年老いた公爵の嫁にと画策するのだが、その手管を周りの社交界のご婦人方に非難され、彼女の名声は地に落ちる。その結婚話と対を成す娘とその恋人ワーシャとの関係は、彼の悲劇的な死をもって終わる。話は互いに反映しあい、お互いに透視しあい、一方が喜劇なら他方は悲劇、一方が卑俗なら他方は崇高という相反するデュアルな関係になっているという。これが文学化されたカーニバル感覚の一つの例なのである。

さきほどのブリューゲルのカーニバルの絵を見ていただきたい。この人物たちそれぞれに吹き出しをつけて会話を挿入する。それをアニメーションのように動かすと異種混淆の会話のポリフォニーになる。ポリフォニーというより会話のクラスター(群れ)と言った方がよいかもしれない。それは、カオティックなエネルギーに満ちた世界であり、次の年にもその次の年にも似たように繰り返される行事だった。カーニバルの形象は絶えず生き返り常に終わりは新しい始まりであり、決定的な終局に反対するとバフチンは言う。そして、ドストエフスキイ作品の世界はこのようなものであるとも言う。「世界にはいまだかつて何ひとつ決定的なことは起こっていない、世界についての、また世界の最後の言葉はまだ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからであろう(新谷敬三郎訳)」と。つまり、開放系である。

ドストエフスキイは制約的で一面的な真面目さ、独断論や終末論とも無縁ではない、しかし、ひとたび小説の中に入ると開かれたまま終わることのない対話の生の声の一つになってしまうという。「彼の小説にあっては、すべてがまだ語られたことのない、予め用意されてない『新しい言葉』に向う。(新谷敬三郎訳)」新たな言葉の創発が起こると言う分けだが、残念ながらカーニバル的世界には時間の矢がない。それは、ともかく、この『ドストエフスキイ論』は『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』とセットにするとカーニバル的世界観、ひいては、グロテスク・リアリズムが理解できる仕組みになっているのです。

ジュリア・クリステヴァがまだ、ブルガリアの学生だった当時、バフチンは、革命的存在だったという。しかし、1965年にフランスに留学してみるとバフチンは全く知られていなかった。ロラン・バルトは、彼女にバフチンの著作についての報告をするように勧めたという。それが『バフチン ―― 言葉  対話  小説』というテクストであり、雑誌「クリティック」に掲載され、やがてバフチンの名が西側世界でも知られる契機となるのである(桑野隆『バフチン』)。しかし、彼女は、バフチンの思想に自分のアイデアを繋げた。

それが、「間テクスト性」の問題だった。「一つのテクストが別のテクストの引用のモザイクとして形成され、テクストが全て別のテキストの吸収と変形に他ならない」と考える。前半のテクストという言葉を声に後半のテクストを会話に置き換えてみよう。すると、「一つの声が別の声の引用のモザイクとして形成され、会話が全て別の会話の吸収と変形に他ならない」となる。バフチンがドストエフスキイについて述べた会話のポリフォニー性とは、小説が作者のモノローグだけに終わらない、つまり、登場人物が作者の意図や思想を代弁して語る存在としてではなく、小説内で作者とは独立したそれぞれ自由な存在として登場し語ることによって生まれる。会話のポリフォニー性から直ちに「間テクスト性」は導けない。ただ、カーニバル化の機能は、ジャンルや孤立化した思想の諸体系、異質なスタイル等々の柵を全て取り払う作用をしてきた。それは、あらゆる孤立化、相互の無関心を絶滅し、遠くのものを引き寄せ、ばらばらのものを一つにまとめた(『ドスエフスキイ論』)。全ては繋がっているというわけである。そう考えれば、「カーニバル化」と「間テクスト性」とは繋がる。

これに加えてカーニバルにおける記号性についても考えなければなりません。バフチンは有意味な事・物は、全て外部になんらかの形で姿を見せると信じていた(桑野隆『バフチン』)。ここら辺りは、カッシーラの『シンボル形式の哲学』に近づいて行くのだろうけれど、今回はここまでとします。ところで、気づいたのだけれどパロディとは世界を未完にするための手段、再生するための強力な方法だったのですね。

「はっ、はっ、はあ! わーい! こいつは一体何じゃいな? これなるものを何とお呼びになる? カーニバルともポリフォニーとでも、間テクスト性とでもパロディーとでも、クソッタレ! ともグロテスク・リアリズムとでもお呼びになりますかな? 私は思うのだが、モルドヴィアのさふらんですわい。ほっ、ほっ、ひーい! こりゃモルドヴィアのさふらんさね! 誓羅(せら)! 読もうや、皆さん! 」

 

 

引用文献・参考図書

カテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイスト『ミハイール・バフチーンの世界』

桑野隆『バフチン』 バフチンに関するとても良い入門書

フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』「ガルガンチュアとパンタグリュエル」第一巻

フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル』「ガルガンチュアとパンタグリュエル」第二巻(全4巻)

『变臉/この櫂に手をそえて』 名優・朱旭と中国映画

川劇 中国四川省の伝統劇

映画を見た。中国の老いた大道芸人を扱った作品だった。中国の四川省には川劇(せんげき)と呼ばれる京劇に似た伝統芸があるらしい。その劇は、正に瞬く間もなく瞼譜(れんふ/隈取)を取り換える技、変臉(へんれん)を以って知られている。臉(れん)は顔のことだそうだから「変面」と訳すのは正しいだろう。一子相伝、それも男子にしか伝えない極秘の技だった。


1930年代の四川、子供を失い、変臉を得意とした老いた大道芸人である王(ワン)が、その技をどうしても伝えたいと人買いから8歳の男の子・狗娃(コウワ―/子犬の意味)を買った。爺爺(イエ、イエ ! /おじいちゃん)と呼びかけるその子に何かを感じたのだ。喜び有頂天となるワンだったが、街角の露店でゴムパチンコで手を打たれ、小さな鉈を自らの足に落としてしまう。酒で消毒した後、小さな子のおしっこは刀傷に効くと信じていたワンはコウワ―におしっこを出すように言うのだが、窮したコウワ―は、実は自分は女の子だと白状してしまうのである。


 

この映画のタイトルは、邦題を『変臉/この櫂に手をそえて』、英語の題名が『The King of Masks』である。主演は朱旭(チュー・シュイ)、狗娃(コウワ―)役を周任蛍(チョウ・レイイン)が演じている。二人とも素晴らしい役者だが、猿回しの芸のために飼われている猿も恐るべき演技をする。

この映画のためにチュー・シュイは、変臉の技をその筋の名人に習った。つまり、本人の実演がワンカットで撮られているのである。スローモーションにしても変臉の瞬間は分からなかった。自分ができるのは3枚までで、名人は7、8枚から10枚までできるのだという。自分のやり方は一番原始的・伝統的やり方であって面は全て絹であり、今のような合繊や化繊ではダメなのだそうだ。それに、コウワ―のアクロバットもやはり実演であった。彼女は、既に雑技団の売れっ子であったというからその演技も頷ける。しかし、撮影当時、両親の離婚に伴って親権が争われる裁判中であった。稼ぎがあるというのが理由だったという。その身の上が映画のストーリーと相まって心に痛い。(石子順『中国映画の明星』から「朱旭」より)

今回は、どうしてもこの朱旭(チュー・シュイ)という人をご紹介したかった。それで、石子順氏の『中国映画の明星』を中心に彼の経歴を追ってみたいと思っている。この俳優さんは、「世界一の劇団」と言われた北京人民芸術劇院所属の舞台俳優だった。この芸術劇院は、京劇などの伝統的な演劇ではなく現代劇(話劇)や歴史劇の専門集団である。劇院最初の演目が「北京の花」と謳われた作家、老舎(ラオ・ショー)の作品『龍髯溝』であり、その『茶館』は、この劇団の代表作となった。二千人収容可能な首都劇場を中心に140以上もの作品を公演してきた。所属する作家、演出家、俳優、全てが一流だといわれる。脚本、演出、俳優、舞台装置に関わる250人近い人々で構成されている。中国の俳優さんたちの演技には感心することが多いのだけれど、こんなところにもその要因があるのだろう。

チュー・シュイは、1930年、中国北東部、朝鮮半島にも近い遼寧省の瀋陽(はんよう)に生まれた。華北大学の第三部戯劇課で学び、日本占領下の北京に移り住んだ。その頃の日本兵との出会いは、辛い思い出になっているようだ。ここにも侵略の歴史の暗い影を見る思いがする。1952年の北京芸術劇院の結成にともなって、22歳の若さでここに俳優として配属された。最初は照明係や端役からスタートしたという。若くして頭角をあらわすというタイプではなかったが、徐々に役をもらえるようになっていった。しかし、三十代半ばで文化大革命の波に洗われることになるのである。1966年に文革が始った。

 


『The King of Masks』DVD

騙されたと知ったワンは、コウワーに金を与え、彼女を岸に残して住まいにしている舟を出してしまう。コウワ―は泣きながら後を追うのだが、ついに泳げもしないのに川に飛び込んで舟に追いすがろうとした。ワンは水に飛び込んで助けてやるのである。しかし、もう祖父と孫のような関係は失われ、師匠とその弟子のような関係となってコウワ―に軽業の芸を仕込むと、共に大道芸をしながら暮らしていくようになる。

変臉の技に興味津々となったコウワ―は、ワンのいないある夜、瞼譜(れんふ/隈取)を取りだして火にかざして眺めていたのだが、運悪くそれに火がついてあっという間に舟は燃え上がってしまう。そんな時、ワンは、彼を尊敬する川劇(せんげき/四川オペラ)の女形、人気絶頂の梁素蘭(リャン・スラン)にコウワ―との写真を届けられる。なんとか、もとの水上生活にもどれるワンだが、コウワ―はいたたまれなくなって彼の元を離れ、浮浪児となって街をさまようようになる。あまりの空腹に焼き芋を盗もうとしてとがめられ、立ち去ろうとしたとき、彼女の手を捉える男があった。


 

中国の映画史は、黎明期の1910~1920年代の第一世代を経て、1930年代から1949年の中華人民共和国成立までの第二世代にまず分けることができる。その頃の上海は、外国人居留地、いわゆる租界として発展していて、イギリス、フランス、アメリカが主権を有していたため日本や中国本土などとは異なりダイレクトに欧米文化が流入していた。上海はモダンだったのである。アメリカ映画の影響と新左翼運動家の新劇的なシナリオ、資本家の投資とがあいまった。40余りの比較的小規模な映画会社が林立していて1928年から1931年の間に400本の映画が作られたという。

中華人民共和国が成立すると1953年には各地の撮影所は国有化される。そこから文化大革命が始る頃までの映画人を第三世代という。毛沢東の強い影響下にあり、共産党のプロパガンダ映画へと傾斜しはじめたのは自然なことだったろう。その中でも謝晋(シエ・チン)は重要な監督として注目されている。彼のことは、後でもう一度触れる。

呉天明(1939-2014)ウズール国際アジア映画祭 2007年

文革から1980年代半ばまでの時代の映画人が第四世代である。この世代は、文革中に反革命的な知識層として多くは糾弾の憂き目にあった。毛沢東が亡くなり10年続いた文革が終わって、その誤りを指摘しようということにはなったものの、どのように、あるいはどの程度表現して良いのか手さぐりの状況だったのである。その中で強い意思を見せたのが呉天明(ウー・ティエンミン)だった。この人が『変臉/この櫂に手をそえて』の監督さんである。彼は、文革中に年老いた撮影所の所長が重い木札を首にかけられトラックに乗せられて見せしめに引き回されようとした時、その車によじ登って、ありあわせの木札を首にかけ「俺もつるし上げろ」とその所長の横に並んだという。それに、ある女優が精神を病んで井戸に飛び込んだ時、自も井戸に飛び込んでその女優を助けた(石子順『中国映画の明星』)。そして、何よりも、彼が中国映画史の中で重要な位置を占めるようになるのは西安撮影所長としてのプロデューサーの手腕だった。

再開された北京の電影学院からの卒業生たちが自由な雰囲気を求めて地方の撮影所に集まるようになる。その一つが西安だった。『活きる/活着』の張芸謀(チャン・イーモウ/1950-)、『青い凧』の田壮壮(ティエン・チュアンチュアン/1952-)、『さらば我が愛/覇王別姫』の陳凱歌(チン・カイコ―/1952-)ら錚々たるメンバーがつどった。三人が三人とも若い頃に強制的に地方の生活を体験させられる下放を経験している。彼らの世代が第五世代といわれる。呉天明(ウー・ティエンミン)が綺羅星のような彼らを育てたのである。これらの作品は全て状況を異にする映画だが、文革やそれに先立つ反右派闘争を批判している点で共通している。これに先ほどの謝晋(シェ・チン)が1987年に撮った『芙蓉鎮』を加えることができるだろう。(竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている』)

 


コウワ―の手を掴んだのはワンに自分を売りつけた人買いだった。人買いの家に連れて行かれると、そこにはコウワ―よりもっと小さな裕福な家で育った四歳の男の子がさらわれて泣いていた。そこで、彼女はある決心をする。二人で屋根裏から屋根を伝って逃げた。そして、その子をワンの舟まで届けるのだった。舟に戻ってきたワンが、名前はと問うと天賜(ティエンシー)と答えた。これが誤解のもとになった。ワンは信仰する観音菩薩の恵みだと喜ぶのである。しかし、喜びも束の間、彼は幼児誘拐の疑いで警察へ連行されてしまう。コウワ―は泣きながら牢屋の格子越しにワンに瞼譜(れんふ/隈取)を手渡すのだった。


 

石子順『中国映画の明星』2003年刊
中国映画の四人のスターを紹介する

1958年から始まった大躍進政策の失敗によって、毛沢東は政治権力の座を失った。稚拙な製鉄法による木炭の消費は森林を壊滅させ、生産された6割は使い物にならない屑鉄だった。伝統農法も近代農法も無視した農業は大凶作を呼び、それでも輸出のために作物は吸いあげられた。それによって数千万の餓死者を出したといわれる。このあたりの農村の様子は『赤い高粱』で知られるノーベル文学賞作家、莫言(モー・イェン/1955-)がその講演で語っている(『莫言の思想と文学』「飢餓と孤独はわが創作の宝もの」)。彼は、川端康成の『雪国』とガブリエル・ガルケス=マルケスの『百年の孤独』、それにウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』にシビレテいた作家だ。

毛沢東は、劉少奇や鄧小平らが握った政治の実権を奪還しようとして、高校生を主体とする紅衛兵と呼ばれた学生たちの運動を扇動した。共産主義に部分的に資本主義を導入する実権派の修正主義を嫌ったのである。実権派の党幹部やその支持者、知識人、旧地主の子孫などが反革命分子とされ、紅衛兵を中心とした造反派によって迫害を受けることになる。これによって多くの人命と文化財が失われた。

この伝染病のような文革の嵐は、北京人民芸術劇院も襲った。院内に起こった造反によって「文芸の黒い線」一味、「反革命分子」として糾弾される。老舎は太平湖畔で死体で見つかり、実質的な指導者だった焦菊隠(チャオ・チュイイン)副院長は、迫害の後、死亡、高名な女優であった舒綉文(シュ・シウウェン)も迫害され亡くなった。チュー・シュイも吊し上げられ妻で女優であった宋鳳儀(スン・フォンイー)とともに、いわゆる「幹部学校」へ送られ北京郊外の元囚人農場で八年間畑を耕し、葡萄栽培を強いられた。小学生の長男と生まれたばかりの末っ子とは別れて暮らさなければならない辛い日々だった(石子順『中国映画の明星』)。

この文革の頃の様子は、先ほどの第五世代の監督たちの映画の中にそれぞれ描かれているが、チュー・シュイとの関わりで言うなら、1995年の日・中合作のテレビドラマ『大地の子』を挙げることができる。山崎豊子の原作なのだが、綿密な取材によってその頃の様子は迫真なものになっている。このドラマで彼は、中国残留孤児の男の子の養父で小学校教師であった陸徳志を演じて、その素晴らしい演技が一躍日本の人たちにも知られるようになった。ついでに言うと、中国側の制作した残留孤児のテレビドラマもあって、これも感動的だった。僕の大好きな孫麗(スン・リー)主演の『小姨多鶴』(多鶴叔母さんの意味)がそれで、アメリカの小説家である厳歌苓(ヤン・ゲリン)の同名の小説が2009年にドラマ化されている。これでもかこれでもかと押しよせる不幸を懸命に生きていく女性を描いているのだ。ヤンは、『金陵十三釵』の作者でもあるが『紅楼夢』の関係で言えば『金陵十二釵』が美女12人を指しているから、かなり意味深なタイトルと言える。それはともかく、この『大地の子』が制作された翌年、アメリカから帰国したばかりの呉天明(ウー・ティエンミン)監督のもとで『変臉/この櫂に手をそえて』が制作されることになるのである。

 


ワンの友達の酒屋の主人は、コウワ―に川劇の女形・梁素蘭(リャン・スラン)なら助けてくれるかもしれないと告げた。コウワ―はリャンの住む建物の前で一夜をあかし、リャンに事の次第を告げる。だが、彼女はリャンが出演する劇の最中に驚くべき行動にでるのだった。クライマックスはどうか映画をご覧ください。


 

1983年アメリカの劇作家アーサー・ミラーが北京に滞在し、その作品『セールスマンの死』が北京人民芸術劇院によって演じられた。チュー・シュイは、主人公ウィリーを助ける心温かいチャーリー役だった。ミラーは、アメリカの俳優ヘンリー・フォンダを思わせる良い役者だと誉めたようだ。フォンダは、『怒りの葡萄』や『12人の怒れる男』といった作品で知られる名優である。その頃、チュー・シュイは、魯迅の『阿Q正伝』の主役を演じるまでになっていた。ミラーの『セールスマンの死』は北京で大成功を収めたのである(石子順『中国映画の明星』)。

そして、1984年、第五世代が躍動し始めた頃、チュー・シュイは、初めて映画に出演する。50歳半ばの遅れてやって来た映画俳優だった。『紅い服の少女/赤衣少女』というタイトルで16歳の少女の父親役である。教え子だった女性監督である陸小雅(ルー・シャオヤー)から声をかけられたのがきっかけだった。

その後、文革を描いた『胡同(フートン)模様/小巷名流』、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督の芸人一家の悲劇を描いた『鼓書芸人』に出演する。弦楽器と太鼓の伴奏で物語を歌う二人組の芸を鼓書といった。そして、名作として名高い、もと京劇役者の祖父を演じた『心の香/心香』がある。これで、祖父役が定着する。『孔家の人々』『変臉/この櫂に手をそえて』を経て『こころの湯/洗澡』『刮痧』『王様の漢方/漢方道』などに出演。そして最後の映画が2009年に制作された『我們天上見』(天国で会いましょうの意)で、やはり祖父役を演じて、この作品も素晴らしかったが、監督はなんと『大地の子』で主人公・陸一心と結婚する江月梅を演じた蒋雯麗(ジャン・ウェンリー)だった。張芸謀(チャン・イーモウ)もそうだが、俳優で監督、両方こなせるという人も中国には少なくない。

チュー・シュイのどこに惹かれるのかは言い難いものがある。確固として鍛え上げられた役者としての技術、何よりも香ってくる人柄の暖かさ、絶妙の間合い、神技とも言える声の抑揚、全ていい。そして、僕が何よりも言いたいのは、呉天明(ウー・ティエンミン)監督と組んだこの『変臉/この櫂に手をそえて』が、いかにも地に足の着いた職人肌の映像を僕たちに届けてくれているからだ。おまえの感覚は古いのだと言われそうだが、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『恋する惑星/重慶森林』といったシティポップな感覚も嫌いじゃない。チュー・シュイのこの作品は、ワイヤーでぴょんぴょん飛んだりしないし、流行りのCGによる壮麗なインチキもない。そんなのこの頃は、あんまり流行ってなかった。勿論、映画の形式美、色彩構成や造形美といった要素も大切ではあるが、僕は何よりこの丹精こめた職人芸による極められた演技とそれによって創り上げられた映像が好きだ。職人気質大好き。みなさんにも是非見てもらえたらと思っている。チュー・シェイは、昨年2018年に88歳で惜しくも亡くなっている。

 

 

参考図書


竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている』中国映画の歴史が比較的詳しくまとめられている。

藤井省三『中国映画 百年を描く、百年を読む』
莫言文学の翻訳者が中国・香港・台湾の映画35篇を紹介する。

莫言『莫言の思想と文学』莫言の講演を集めている著書 2015年刊

清少納言『枕草子』 鵺の如き複合体としての日記

 

清少納言の『枕草紙、随分不思議なものだと思ってきた。勿論、彼女の才気を煥発させている文章ではあるのだが、それだけではない。ある種のカタログである。「‥‥花によろこびといかりあり、いねたるとさめたるとあり、暁と夕あり‥‥」と書いたのは、明の時代の袁宏道(『瓶史』)だけれど、こんな表現は、よく似ている。それは、何か画集をめくって眺めていく感覚にも近い。そのことは、ロベルト・カラッソ 『カドモスとハルモニアの結婚』 一貫する差異に書いておいた。展覧会の準備があってブログをしばらくお休みしていましたが、展覧会の間にぽつぽつ書いておりました。今回はこの『枕草子』についていささか考えてみたいと思っている。


源氏物語を翻訳したアーサー・ウェイリーが1928年に『枕草子』を翻訳して出版していたことは、ほとんど知られていないのではないだろうか。西欧の気鋭な文学者がこの『枕草子』をどのように見ていたのかは、なかなか興味深いものがある。少しご紹介しよう。


 

津島知明『ウェイリーと読む枕草子』
ウェイリーが『枕草子』を抄訳し、その解説を書いた著作の紹介である。

『ピローブック』と訳されたそれは、ウェイリーが最も気に入っている作品だとして、後進のドナルド・キーンやアイヴァン・モリスを驚かせたという。その翻訳には意外にも「春はあけぼの」として知られる初段が切り捨てられていた。断章の集合体である『枕草子』は、「どこを、どの順序で、どう読んだらよいのか」を読者に突き付けてくるとは、『ウェイリーと読む枕草子』の著者である津島知明氏が指摘することである。つまり、読み手によってその価値が大きく異なってくる作品なのである。

ウェイリーの『ピローブック』の章立ては、「十世紀の日本」、「清少納言のピローブック」、「少納言の性格」、「翻訳ノート」の四章に分かれていて、「十世紀の日本」は、ある種の文化批評のようで興味深い。彼にとって当時の日本は、侵略にもコスモポリタニズムとも無縁な揺るぎない幾世期を満喫していた国だった。それは、ひたすら美的で、文芸的な世界だったが、一方で自国の歴史に対する好奇心は皆無で、相応の知的な探求心(ヨーロッパ人のイメージする数学、科学、哲学などに対してではあるが)は伴われなかったという。

この歴史に対する好奇心の差が我々イギリス人と古代日本人を分ける明確な相違点だというのだ。そして、強調すべきは「いまめかし」という当世風なものに対する熱狂的な興味であり、『万葉集』でさえ、清少納言や紫式部によって引用されることは稀で、引用しても「当代の人の目にかなわぬもの」という弁明つきであったという。催馬楽の流行もその「今めかしたるもの」の一端であったのだろうか。当時の日本は、ヨーロッパの言う一般的な知的基盤を持ちえなかった、それ故なのか、どこから見ても優雅で洗練された男女が中世のイギリスの人々の愚かさ以上の「幼稚さ」を見せていることに驚いている。多分、物忌みやまじないなどの迷信の氾濫や、書の上手さが信仰と化しているようなことを指しているのだろうけれど、こうした頼りなさが平安時代の不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出しているというのである。しかし、こうした視点も何故そう見えるのかを問うてみなければならない。

 


清少納言は、中級官僚の子、受領の娘であった。中宮定子に仕えた恐らく40人はいたと言われる四位・五位の家の娘の一人だったが、はじめから「清原元輔の娘」という大きなレッテルを背負っていた。歌の名手、当意即妙の猿楽言を得意とした父の娘である。漢学の素養があったことで知られるようだが、おそらく、清少納言程度の素養を持つ女房は他にもあったらしい。しかし、彼女の特質は定子を中心とした宮中生活を極めて肯定的にエンジョイしていた点にあると言っていいだろう。彼女は、ひたすら「をかし」の明るい世界を演出していた。


 

狩野安信 『三十六歌仙額』から清原元輔
江戸時代

清少納言は966年、三十六歌仙の一人で歌学者としても知られる清原元輔(きよはらのもとすけ/908-990)の娘として生まれた。母については分かっていない。『日本書紀』を編纂した舎人親王を祖とする家系であり、後に清原真人(まひと)姓を賜ることになるのだが、その清原姓を賜った二人のうちの一人が舎人親王の曽孫である清原夏野(きよはらのなつの)であり、『令義解』を編纂した一人である。また、曽祖父の清原深養父(きよはらのふかやぶ)は十世紀を代表する宮廷詩人であり、学問と文学とに造詣の深い家柄であったことは間違いない。

父親の元輔はひょうきんな側面を持つことで知られていた。今昔物語や宇治拾遺には、殿上人の物見車の立ち並ぶ一条大路で賀茂の祭りの使いとして通りかかった時の元輔の様子が描かれていて、冠を飛ばし禿げ頭をさらして落馬しながら、臆面もなく物見車に近づいて面白おかしく弁じたてたという。事実かどうかは別にして、この父親のひょうきんな側面を清少納言も受け継いでいたといわれる。それに定子の父、藤原道隆は軽口を好んだ大らかな性格で定子のサロンも当初そのような明るい雰囲気を持っていた(阿部秋生『清少納言』)。

清少納言の本名は分かっていないが、 981年頃に陸奥守であった橘則光(965-1028)と結婚し、一子、則長を出産するも離婚、後に藤原棟世(むねよ)と再婚し、一条天皇の二人目の皇后である上東門院彰子に仕えたことから上東門院小馬命婦(こまのみょうぶ)と呼ばれる娘を生んだといわれている。棟世が実父であり、元輔の養子になったのではないかという説もある。ともあれ、『万葉集』の講義や『後撰集』の選者として知られる父、元輔は、990年に亡くなり、その翌年、24歳頃に一条帝の最初の中宮(皇后)となった定子のもとに出仕することとなる。推定で定子より10歳くらい上、道長や公任とはほぼ同年と言われている。初めて定子のもとに出仕した時は、コチコチになってしまって涙もこぼれ落ちる寸前だったという。ただ、明かりに照らされた着物の袖からほんの少し見えた桃色の美しい定子の手に素敵な衝撃を受けるのだった。

 


僕が何故、折口信夫の著作を愛しているのかは、くどくど述べないけれど、彼が日本の古代に関する最高のストーリーテラーであったことは確かだと思っている。そんなことを中上健次氏が色々な著作で述べていることに僕はく賛成だ。このことは、宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』の中で少し書いておいたのでお読みください。次の章では折口信夫の「まくらことば」の絶妙な解説をご紹介する。


 

折口信夫の『枕草子解説』

里の巫女が山の神を迎えるという古来の神事は山の神の使いとしての男とその土地の精霊の代理としての巫女、つまり女とのある種の戦いとなる。外から来る異神との境決めとも関わるからである。この関係は、女が男を迎えるという歌垣という行事の発展とパラレルな側面をみせる。歌垣には、男と女が語らうという面より、争い、かけあい、ひやかし、折り合うという面が強く、物の交換が伴うために歌垣の場所は、市のたつ場所ともなっていった。

問答歌として二首で完結する五・七・七三句形式の片歌が使われたこのかけあい、いわば口争いは、男が女を手に入れようとする口どきを女の側がもどくという技の修練を催すようになる。やがて、片歌の一部が強調されて短歌ともなった。その女の側の修練が、女房文学を宮廷において発展させる端緒となるというのである。奈良朝におけるかけあいは、ある地方の物語が放浪者の持ち来る物語や歌とともに広がり、色々な地方の歌垣で使われるようになるに伴って自由で豊かなものになっていき、文学的にも洗練され、内容も民衆の心に適うものになり、文学として評価しえるようになっていった。平安朝の女房文学の基盤は、そのような経過を経て成立したのである。

折口信夫全集15 「枕草子解説」収載

歌物語と諺物語が、皇子たちの教育に役立てられていたために宮中では物語は重要なものだった。そのような中で短編物語が女房の日記、それ自身の歌から生まれていくこととなった。過去の歌、過去の諺を記録するかわりに自分の主人の為の代作歌をその次第とともに書き添えていく習慣が女房自身の抒情歌、実際に使われる相聞・唱和の歌とその詞書をも発達させた。かつてのみこともちの慣習は平安朝でも継承され、貴人は人を介して言葉をやり取りした。歌の場合も、女房の即席の歌が貴女自身の歌と考えられ、そのようにとっさに優れた歌を作れる女房を抱えることが、とりもなおさず貴女の評判を高めることとなる。女房は主人の意を汲んだ歌を作ったものと考えられ、それは主人の歌そのものとされていたのである。清少納言もそのような女房の一人であった。もっとも歌は苦手だと本人は言っていたらしい。

巻物の時代の後には「そうし」の時代がやってくる。草紙は二つ折りした紙の折り目の部分を糊ないし糸でとじる冊子である。それでは枕とは何かというと、文章の中心になって、その生命を握っている単語、あるいは句を指すという。「ことのはまくら」「まくらことば」の意味である。必ずしも文頭にくる言葉ではない。「まくらそうし」とは、文章に生命を与える言葉を書き付けるための草紙ということになる。まくら(枕)は魂、特に生魂(いきみたま)を蔵する場所であり、「まくらごと」は魂を込めて長上に献上する「よごと(寿言)」と同じ意味であった。長上に歌詞を奉ることは自分の霊威を奉献することであったからである。「まくら」の第一義は献上する歌詞の全体、第二義は、その歌詞の中の生命を握っている語ということになる。「まくらごと・まくらことば」については色々の説があるが、折口信夫の「霊魂論」の枠組みの中では、この語は確固とした定義と価値づけが与えられ、説得力がある。

女房たちは、「まくらそうし」を特定の貴族の子女のための手習いの材料として奉った。それは、教育の方便となるのである。ついでに言うと、本歌とりとは、ある歌のまくらを取り込んで新しい歌を作り本歌の持っている霊威を取り込もうとすることである。本歌とりの起こりは替え歌で、本歌の声楽的な霊威を取り込んで完全に移せるものと考えたのである。その時、まくらは必ず入れておかなければならなかった。その名残が、はやし詞であるという。手習いの材料が分量を増し、形を成してくると艶書集となる。恋文の指南書である。こうした艶書に熟達することは、貴公主。貴公子の世才、つまり「やまとだましい(才能・知識)」を殖やす有力な方法であった。

日本古典文学全集『枕草子』小学館 1997年刊

女房たちの書いた日記は、色々な意味を含んでいた。そこに書かれた歌には、女房自身の実感・境遇を詠んだ歌もあれば、代作したものもあり、男女の相聞・問答歌さえ実際の恋愛から生まれたものだけではなく、社交上の辞令で使ったものもあった。平安朝の日記は、教訓書であり、データボックスであり、有職典礼集、言行録、生活記録でありながら物語的な要素もあり、場合によっては家集でもあった。それは、広い意味の随筆であったという。平安後期王朝の女房日記、女房歌集には、このような要素が多く見られるのだけれど、清少納言の場合、「まくらごと」の配列が目に付く。同種類の「まくらそうし」のなかで清少納言の日記に属するものが著名となるに及んでその名をもっぱらにしたのだと折口さんは言う。

閉じおける枕ざうしの上にこそ昔語りの夢は見えけれ(『新選六帖』鎌倉中期の和歌集)

この歌からは「まくらそうし」が備忘録として考えられていたことが分かる。まくらごとを集めることによって自家の誇りや自讃歌を筆にまかせて書き連ねる。このような備忘録としての性格は清少納言の『枕草子』にもあって過去を回想する形の文章となっている。例えば「仰せらるるもをかし」の「をかし」という結びは、ある意味人の動作や目の前の情景を回想する形式にもなっているのではなかろうか。こうしたまくらごとを含んだ日記、総じて随筆的なものは、時間的に整理されたものではなく、書かれた材料にも決まった選択がない。ノートのように書き連ねられていて備忘録のようになる。それも、宮廷や貴族の家で実際に行われた年中行事、あるいは事件を描写する日記に対して、かなり誇張と文飾を加えた、もののあはれの日記とでも言うべきものであったという。フィクションも多分に含まれていた。

『枕草子絵詞』部分 鎌倉時代末
一条帝が石清水八幡への御幸の際に生母詮子に会う場面

一方で、『枕草子』に関して、宮廷生活の日記の部分を絵巻物にした『枕草子絵詞』として知られる作品が存在している。古典的生活を紹介する一種の行事絵巻としての有職絵であるが、そのために文章の一部が改変されている。当世風の『宇治拾遺』『信貴山縁起』その他、漫画的な絵巻にあるような智慧の勝利、をこなる男の失敗、歪んだ世相といったようなテーマはない。この『枕草子絵詞』のような物語日記絵は、かなり古典的な形式のものであり、描かれたのは過去の典型的な生活であったという。そのような生活を描く絵詞は日記のように備忘録としての性格を持っていた。しかし、ページをめくるという新機能を持つ草紙の内容が、絵巻という古い媒体へとフィードバックされている点で面白い。絵巻から草紙というテクノロジーの進化が人間の感覚のある部分を拡張したとするなら、ページをめくりながら絵巻の断簡を眺めいるような感覚だったかもしれないのだが。

当時は文章を書き写すしかコピーの手段はなく、原本も当然そう写した。そうするとしてもいくつかの章を抜粋した写本もあり、人によってその取捨選択は異なった。そのため幾通りかの抄本が存在するようになる。これは『源氏物語』などでも同様である。それに各個人の書き入れが挿入されたものもあり、場合によって書き換えさえあった。それが、作者複数説の所以でもある。完全なコピーを作ろうとする意図で写されない場合も多かったのだ。『枕草子』にもこのような異本があり、大きく分けて四種類の系統があると言われる。既に写す段階で編集および加筆がなされていた。現在、使われている『枕草子』のテキストは、その中でも原典に近いと考えられているものであることは言うまでもないだろう。

 


このように見ていくと『枕草子』が「まくらごと」を集めた辞書であり、その備忘録、事実やフィクションを織り交ぜた日記、歌物語でもあり、短編小説をも含んだ気ままに書かれた随筆であったことが分かる。それに加えて、写本の段階で多くの編集・加筆が行われていたのである。つまり、清少納言と読者とのコラボ的性格さえも持っていた。


 

私たちが『枕草子』を読む時、ありのままの日記であることを前提として、つまり、清少納言の感想つきの記録として読んでいないだろうか。例えば、286段(古典文学全集/小学館による)の「うちとくまじきもの」には、「船に乗って漕ぎまわる人ほど畏怖を感じさせるものはない」と油断のならない気の許せないものに関する一般論を言っているかと思えば、自分の乗っている船は「きれいに作ってあって‥‥まるで小さな家にでも乗っているようだ」と書いている。先ほどの津島知明さんの指摘にあるが、カタログのように書かれているかと思えばふっと体験談が挿入される。これをウェイリーらが英(仏)訳する場合、必ず誰が何時述べているのかという人称時称は確定されなければならない。そうなると現実の記録としての意味あいは絶対的なものとなる。ある意味これらの訳は現在の私たちの読みに近いものとなるだろう。しかし、原文のいわば、カタログへと一般論化しようとする拡張と現実の記録としての一点への収縮という呼吸のような振幅は失われるのである。

三田村雅子 編 『枕草子 表現と構造』日本文学研究資料新集4
 阿部秋生「清少納言」、三田村雅子「枕草子の笑ひと語り」収載

特に指摘しておきたいのは、道化役に徹した清少納言の中宮定子への愛情である。定子の父・藤原道隆が身罷り、その弟の道長に権力の座が移ると、後ろ盾をなくした定子は、徐々に落魄の憂き目を見ることになる。道隆の中関白家の明るい家風は前にも述べた。道隆在世中は定子を取り巻く中関白家の人々の屈託のない笑いが『枕草子』の中で総動員されているかのようだという。しかし、道隆亡き後、徐々に切迫する定子の周囲は笑うには暗い。その中で笑いを懸命に探そうとする清少納言の姿があった。笑いをとる人物は生昌、方弘、信経、宣方、則光、常陸介などに限定され、決まって最後に笑いを引き受けるのは清少納言自身のある種物狂おしいまでの姿なのである。そこに演出のドラマがあった(三田村雅子『枕草子の笑ひと語り』)。「まくらそうし」が献上することを前提とされていたのなら、定子の落魄を描くはずはない。歴史に対する無感覚を指摘するのは誤りと言えるだろう。定子の兄の伊周(これちか)とその弟の隆家が花山院に矢を射かけた事件、いわゆる長徳の変など書けなかったのである。

清少納言は、決して「我ぼめ」し「吹き語り」するだけの才女ではなさそうなのだ。三田村雅子さんは同じ著作の中でこう述べている。「『清少納言集』などによって知られる涙もろい一面を持ち、拡がりを持った現実の清少納言と、忠実でプライド高い女房役を演じる清少納言と、そのような演技を更に誇張し、切り取り、語り、書く清少納言と、すくなくともこの三層を意識化することなしに今後の枕草子研究はあり得まい」と

このような『枕草子』をヨーロッパの知識階級がどのように見たかはウェイリーの感想を見ていただければよいだろう。彼は『枕草子』を不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出す平安後期という時代の貴重なドキュメントとしてのみ見ていた。『枕草子』だけを通してそう思ったのかどうかは分からないけれど、清少納言の「日記」が如何なる性質を持っていたのかを知ることなしには、その時代を正しく理解するのは難しかったのではないだろうか。笑いの散りばめられた日記の背後に透けて見える文章は、ある種、鵺やキマイラの如き複合体なのである。

ことの葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな(清少納言)

 


このところ展覧会の準備ということもあってブログを書いてこなかった。最近は、とみに老眼が進んでメガネなしにモニターをみることができなくなった。ド近眼ならぬ、ド老眼なのである。3、4時間も坐っている腰が痛くなる。残念ながらリクライニングチェアはないので家の床に寝っころがっていると家内に掃除機で吸われそうになったりする。そんなこんなで前のように定期的に書くことは難しいかもしれないけれど、本があれば書くことに事欠くことはないのだから、興にまかせて時々は書きたいと思っている。でも、あまり期待しないでくださいね。

石を聴く― 天と地を結んでけつまずくもの

 

わたしは星が好きだ
道の上の石に似ているから
空をはだしで歩いたら
やはり星にけつまずくだろう

わたしは道の上の石が好きだ
星に似ているから
朝から晩までわたしの
行く先を照らしてくれる(イジ―・ヴォルケル『巡礼のひとりごと』栗栖継 訳)

 

瑪瑙  Ploczki Gorne, Kaczawskie Mts., Poland

今回は石がテーマですが、いろんな人が色々に書いているのが面白い。まるでカタログのように石について述べているのは澁澤龍彦の『石の夢』。博覧強記の人も色々いるけれど、ちょっと感心する。古代エペイロスの王であったピュロスの持つ宝石のうちの一つ、それは九人のミューズと竪琴を手にしたアポロンの姿を見ることのできる瑪瑙だった。プリニウスの『博物誌』の中の記述である。それは、自然に石理(いしめ)によって生じた模様であった。同じように『和漢三才図絵』の「瑪瑙」の項にも「その中に人物、鳥、獣の形有るもの最も貴し」とあり、こんな石の模様を人間の想像力と「類推の魔」が、意味ある形に捉えてしまうのは洋の東西を問わないらしい。

瑪瑙 Dendritic Agate from Ken River, Bundelkhand Region, India 描かれた樹のような模様を見ることができる。

「絵のある石」については、フランスの美術史家バルトルシャイテスの著書『アベラシオン』に例が沢山紹介されているし、僕は未見だけれどもカイヨワの『石の書』にもあるらしい。普遍博士とよばれたケルンのキリスト教神学者であったアルベルトゥス・マグヌスは石の中に形成される絵は星の影響だとしている。稀代の錬金術師でもあったから魔術や錬金術と占星術とが親和しているのは当然だった。ルイ13世の宮廷司祭であり、リシュリュー枢機卿の司書でもあり、並びなき東洋学者でもあったジャック・ガファレルは、パラケルススのいう「ガマエ」なる石が星と感応し、その降り注ぐ光を吸収して成長する生きた霊石だと信じていた。フランスの詩的な哲学者・科学者であったガストン・バシュラールは『大地と意志の夢想』の中で「黄金は土中の中で松露のように熟する。しかし、完全な熟成に達するためには数千年が必要である。」と書いている。大地が意志と結びつけられているのは良い。

アポロ・ミトラス神の頭部 ネルムート・ダー、トルコ

17世紀の驚嘆すべきエンサイクロペディストであるわれらがイエズス会士アタナシウス・キルヒャーにとって、地球は一個の有機体であり、鉱物も金属も燃える地殻の内部に生じるとした。ということは岩石火生説の立場ということになろう。かたや、ノヴァーリスの師であった鉱物学者アブラハム・ゴットロップ・ウェルネルは岩石水生説を標榜し、おびただしい石の標本を家族のように愛していたという。

石を愛した人は多い。明恵上人は白上峰の眼下にある鷹島と刈藻島から拾ってきた小さな丸い石を生涯手もとに置いて愛玩していたと言うし、『雲根志』を著した木内石亭は幼き頃より玉石を珍玩し、ユングは少年の頃、ライン河から拾ってきた楕円の石を上下絵具で塗り分けてポケットに入れて持ち歩いていたと回想している。誰しも少年・少女の頃の記憶の断片の中にこのような光景が、そっと忍んでいないだろうか。そのユングは「神々の生まれた場所と見做された石(例えばミトラ神の生まれた石)は、石の誕生を説く原始の伝説と結びついている(『元型研究』)」と書き、折口信夫は「神の容れものとしての石(『霊魂の話』)と書いていてぴったり符合するというのである。

 


ときとして、星々からふりそそがれた光線は(同じ本性であるかぎり)、最高所からおちてきた金属、石、鉱物と結合し、それらにすっかり浸みこんで、それらと結合する。このような接合にこそ、ガマエはその起源をもつ。(ヨハンニス・グラセット『カバラ化学の円型視象をめぐる自然生理学』)


 

宮澤賢治の『虹の絵具皿』

水生説と火生説ではないけれど、石の中には火と水がある。石の中の水を書いているのはカイヨワで「程よい大きさの瑪瑙は‥‥その内部が中空になっていて水が入っていることが分かる(『石』)」という。「水以前の液体」だというのだ。石を気長に磨り上げて水から一分というところまでで留めると石の中の魚が泳いでいるこの上なく美しい姿が見えるというのは「長崎の石」の民話である。一方、石の中の火を書いたのは宮澤賢治の『貝の火』で、子ウサギが贈られたのは中が赤や黄の焔をあげてせわしく燃える玉だった。そして、鉱石の百花繚乱というべき世界を言祝いだ彼の極め付けの作品は、十力(じゅうりき)の金剛石を描いたこの『虹の絵具皿』である。

ほろびのほのお 湧きいでて
つちとひととを つつめども
こはやすらけき くににして
ひかりのひとら みちみてり
ひかりにみてる あめつちは
…………………

(宮澤賢治『虹の絵具皿』より)

オパール(蛋白石) 火が見えるプレシャス・オパール

ある日、王子は光輝く蛋白石や大臣の子のいう虹の脚もとにあるルビーの絵具皿を探そう、あるいは山の頂上の金剛石を目指そうと出かけることになりました。霧が晴れて虹が立ちます。虹の脚元に行こうとするが虹は逃げるのです。また、霧が出ると「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。はやしのなかにふる霧は、蟻のお手玉、三角帽子のちいさなけまり」と歌うものがある。王子の青い大きな帽子につけられた雀蜂の飾りでした。彼らの案内で王子たちは、草の丘の頂上に立つ。あたりが明るくなると雨がざーと降りはじめ、あられに変わりました。それはみんなダイヤモンドやトパーズ、それにサファイアだったのです。賢治の描写が続きます。

「その宝石の雨は、草に落おちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどうの花は刻まれた天河石(アマゾンストン)と、打ち劈(くだか)れた天河石で組み上がり、その葉は、なめらかな硅孔雀石(クリソコラ)でできていました。黄色な草穂は、かがやく猫睛石(キャッツアイ)、いちめんのうめばちそうの花びらは、かすかな虹を含ふくむ乳色の蛋白石、とうやくの葉は碧玉(へきぎょく)、そのつぼみは紫水晶(アメシスト)の美しいさきを持っていました。そして、それらの中でいちばん立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は、茶色の琥珀や紫がかった霰石(アラゴナイト)でみがきあげられ、その実は、まっかなルビーでした。(『虹の絵具皿』)」

天河石(アマゾナイト)の結晶 コロラド、エル・パソ産

しかし、ダイヤモンドの露をしたたらせながら、りんどうは悲しげで、うめばちそうもこう歌います。「青空はふるい ひかりはくだけ 風のしきり 陽は織れど かなし」と。 そして、丘一面の草や花はいっせいに「十力の金剛石はきょうも来ず めぐみの宝石(いし)はきょうも降らず 十力の宝石の落ちざれば、 光の丘も まっくろのよる」と歌うのでした。さらにりんどうは、「十力の金剛石は春の風よりやわらかく、ある時はまるくあるときは卵がたです。霧より小さなつぶにでもなれば、そらとつちとをうずめもします」と語ります。と、俄かにスズメバチがキイーンと背中の鋼鉄の骨もはじけたかと思うほど鋭い叫びをあげると、とうとう十力の金剛石が降って来るのでした。かすかな楽の響、光の波、芳しく清い香り、透き通った風とともに、スズランの葉は今やほんとうに柔らかな、うす光する緑色となりました。賢治はこう書きます。

「ああ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかがやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹(あおたか)のように若い二人がつつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいたことはなぜでしょうか(『虹の絵具皿』)。」

 


涯もなく青空おほふはてもなき闇(くら)がりを彫(ゑ)りて星々の棲む

身がわりの石くれ一つ投げおとし真昼のうつつきりぎし(切岸)を離(か)る

(明石海人『白描・白描以後』より)


 

日本の石信仰

大洗磯前神社の神磯鳥居
二つの奇妙な石が出現し、その神霊が人に依って大己貴(おおむなち)命、少名彦命と名のった。その石が現われた大洗磯前の二柱降臨の地。

石が海岸に漂着するという寄り石信仰は常陸の大洗磯前神社などが有名であるらしい。それから石の成長する話、その類話は石が子を産む話だろうか。石女といえば不生女(うまずめ)という蔑称の感があるが、救いはあった。富士山の麓の子持石村にはその名の石があり、石の脇の穴を竹竿でくじると羽根つきの球くらいの石が転び出たという。土地の伝承では「子無き婦人が一七日(七日)の間、身を清く保ち、朔日(ついたち)毎にこの石を清浄な水に浸し、その水を服する時は忽ち子を孕む」と伝えられたと江戸時代の奇石収集家であった木内石亭は『雲根志』に書いている。同じ石を持ち上げた時の軽重によって事の成就を占う「天神石」の話も同書に載っている。いわゆる石占いである。それから、ナマズが地震を起こすのを押えているというかなめ石は常陸の鹿島明神にあるが、これなどは石の霊力のなせる業と考えられていた。それにもう一つの石信仰は、生殖器の形をした石の崇拝で、岐(さえ)の神と呼ばれる。道祖神を思い浮かべていただければ良いだろう。これが折口信夫のいう石信仰のラインナップである。

中国の石のイメジャリー

女媧 簫雲従(1596-1673)「天問図」より 岩峰に巻きつく人面蛇身の神

どうも同じような内容の話は、中国の神話・伝承にもあるようだ。ジン・ワンの『石の物語』には中国の石に関する神話・伝承が紹介され、『紅楼夢』『西遊記』『水滸伝』に共通する石のイメジャリーが展開されるという極めて興味深い内容の本になっている。その石の話は女媧(じょか)の伝説に集約されそうだ。

「女媧は人の頭と蛇の体をもっていたと言われ、一日に七十回『化』した(屈原『洪興祖』)。」さらに『山海経』には「女媧の腸(はらわた)という十人の神がいる。彼らは神の姿となり、栗広の野に住んで道をふさいだ」とある。エーリッヒ・ノイマンは、それがグレート・マザー元型を支配する女性性に具わる変形という特徴であり、妊娠と出産においてその働きを象徴しているという。そして、女媧は、黄色い土を固めて人を作ったが、それが重労働であったために今度は泥の中に縄を入れて引き揚げ、振り落とされた泥で人を作った。しかし、前者は富貴で聡明な人となり、後者は貧賤で凡庸な人になったと習俗、伝承を集めた後漢末の『風俗通義』に記録されている。人を産みだす神であった。

共工は顓頊(せんぎょく)と天子の座を争った時、勝てなくて怒りにまかせて不周山に激突した。天の柱は折れ、地の四隅を繋いだ綱が切れて大地は傾いた。そこで、女媧は五色の石を溶かして天を補修した(『淮南子』)。石の霊力を以って癒す神である。縁結びと子授けの地母神である高媒においては、その祭壇に石が置かれている。高媒は夏王朝では女媧または塗山、殷では簡狄、周では姜嫄と女性の始祖として呼ばれたという説がある。石は地母神の最古の象徴であるという。ちなみに塗山は禹の妻で熊の姿になった夫を見ると石に変身し、その石が裂けて子供の啓を産んだ。「啓」の意味は「ひらく」である。禹の出生には諸説あるが、『淮南子』には禹が石から生まれたとあり、その母は石に感応して彼を産んだという注もある。また、別のテキスト『史記』には禹の母が、流星が昴を貫くのを見て、夢で心に感じるものがあって彼を産んだとある。禹は舜帝から黒い玉(ぎょく)を贈られて治水の功績を天下に知らされることになる。別のテキストでは人面蛇身の神が玉のふだを彼に授け、それによって禹は水と土を治めるのである。こうなると多くが繋がってくる。

玉壁 祭祀用の最も重要な玉器(透閃石や緑閃石などの軟玉で造られる。これに対して翡翠は硬玉と呼ばれる。)

その他に、秦の始皇帝がはじめたとされる泰山に登り石を立て壇を築いて供犠を行う封禅、厄除け石として知られる石敢当、漁師の網にかかった成長する石、動くのみならず足の生えた石、子授け石である乞子石、音・音楽や言葉を発する鳴石、鏡のように光る照石や石鏡、僧の説法を聞いて頷く点頭頑石(これなどは可愛らしい)、そして石女が紹介されている。

 


別世界の書は別世界の話を伝え、
人と石は再びまったき一つのものとなる

(曹雪芹『紅楼夢』)


 

西遊記・紅楼夢・水滸伝を結ぶ石

四大部州の一つ、東勝神州の海のかなたの傲来(ごうらい)国、その近くの大海中に花果山という名山があった。その頂には仙石があり、高さ三丈六尺五寸は天周三百六十五度に準じ、周囲二丈四尺は暦の二十四気になぞらえられていて、九つの竅(きょう/細い穴)と孔(つきぬけた穴)は九宮と八卦に基づくといわれている。この石は天地開闢以来、日月の精華を受けて霊気を孕み仙胎を宿す。ある日、その石が裂け割れて石の卵が生まれ、そこから一匹の石猿が生まれた。御存じ孫悟空である。

金陵十二釵 林黛玉 費丹旭(1801-1850)
『中国歴代仕女集』より

女媧が石を鍛えて天のほころびをつくろった時、大荒山の無稽崖にて高さ十二丈、幅二十四丈の大きな荒石三万六千五百一個を精錬するのだが、その内一つだけが使われずに青挭峰の下に捨てられる。この石は、精錬によって霊性を備え、歩くことも大きさを変えることも自由にできたが、使われなかった悲しみに昼夜泣いていた。ある日、僧と道士が通りがかり紅塵の下界の話をしていると石は富貴の園、温柔の郷に遊び楽しみたいと頻りに頼み込む。話す石なのである。願いを聞いてやった二人は、その石を扇子の根付くらいの大きさの通霊宝玉という美しい玉(ぎょく)に変えてやった。一方、天上界の太虚幻境では神瑛待者(しんえいじしゃ)が霊河のほとりに生えた絳珠草(こうじゅそう)に甘露をかけてやったので女性の姿に変わることができた。神瑛待者は下界に降りることを望んだ。姿を変えてもらった女媧石の五彩に輝く通霊宝玉を口にくわえて賈宝玉(か ほうぎょく)として下界に生まれ変わる。絳珠草は、林黛玉(りん たいぎょく)としてその後を追い、大貴族の賈(か)家に集うことになる。白話(口語体)小説『紅楼夢』は、こうして始まるのです。

ジン・ワン『石の物語』 アメリカの比較文学研究者の著作。間テキスト性満載になっている。

蔓延する疫病を調伏するための祈祷を竜虎山に住む仙人張天師に願うために北宋の皇帝仁宗は、国防大臣にあたる大尉の洪信を遣わした。仙人に出会えた洪信は翌日、道教寺院である道観内で「伏魔殿」という額の掛った建物を目にする。腕の太さほどもある鎖で閉ざされ数十枚の封印とその上に押された珠印で厳重に封印された朱塗りの格子扉があった。かつて、老祖天師が魔王をその中に閉じ込めたのだと道士たちはいう。止める道士たちを押し切って洪信は扉を開けさせた。ただ、石碑が真ん中に一つあるだけだった。高さは五・六尺ほどで下には石亀の台座があり、松明で照らしてみても表側は古代文字で読めない、しかし、裏には「洪に偶いて開く」と彫られてあった。欣喜雀躍した洪信は警告などものともせず、台座の下の四角い石版を掘り出して除けると忽ち閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去ったという。その石版が「かなめ石」であり、それらの星が梁山泊の百八人の頭領たちだった。つまり、石が魔星を封じていた。

水滸伝における読めない文字が彫られた石碑のかなめ石は、天の意思として開かれることが定められていた。一方、『紅楼夢』の話は人間界で過ごした女媧石がその経験した事件の顛末を自らに刻んで石碑の如くとなる。その文字を仙道修行の空空道人が写し取って世に伝えたとされている。それに、宝玉がくわえて生まれる玉には、その裏に三つの文章が刻まれていて、その一つが「祟りを除(はら)う」であった。そして玉になる前の女媧石は大きくなることも小さくなることも話すこと歩くことさえ可能だった。それは、石の持つエネルギー、ある種の豊饒さにつながる。石猿の孫悟空が如意棒を自在に操り、多彩に変化(へんげ)する活躍にも、梁山泊の頭領たちの立ちまわりにもそのエネルギーを見ることができるだろう。中国のこの三小説に関連する広大なテキスト相関的空間を横断しているのは、特定可能な神話や儀礼の一団であると筆者のワンは述べている。気の核である石は女媧の伝説に集約されてそのイメジャリーを巡る円環が生じるように僕にも思えるのである。そういえば、文学の統合原理は穏喩と神話だと言ったのはノースロップ・フライだった。

 


石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。聴く者のひとりひとりの尺度に応じて、石たちは言語をもつ。聴く者のしりたがっていることを教えてくれる。石たちの中には呼びあっているように見えるものもある。ふと近づいてみると、石どうしが語りあっているさまにであうこともある。そんな場合、石たちの会話は、太古のもの、不滅のものの実質そのものを私たち自身の思念の鋳型に流しこむことによって、私たちの条件をのりこえさせてくれるというはかりしれぬ益をもつ。(アンドレ・ブルトン『石の言葉』巖谷國士 訳)


 

石を聴く

ヘイデン・ヘレーラ『石を聴く』2018年刊 とても詳しいイサム・ノグチの伝記

石に耳を傾け、太古のもの、不滅のものの実質をその作品の中に鋳込んだ芸術家、それが、イサム・ノグチだった。2018年にヘイデン・ヘレーラによる詳しい伝記が出版されている。1960年代の末、ノグチには四国の香川で石工の和泉正敏と運命的な出会いがあった。彼は花崗岩や玄武岩といった硬い石を彫りたいと考えるようになっていた。『黒い太陽』はブラジルから30トンの花崗岩を取り寄せ、高松近郊の庵治(あじ)で和泉をアシスタントとして彫られた素晴らしい作品だった。

同じく高松の牟礼(むれ)でノグチはこう語った。「自然石と向き合っていると、石が話をはじめるのですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです。‥‥」一方で石を彫る時のノグチは、石を征服しようとするかの如くで、そんな時には人が変るという。小さな子供なら近くによって話しかけられないほどの空気がみなぎるのだ 。あまりに顔を近づけて強く彫るので、石工たちは眼に石屑が入るのではないかと心配していた。実際、眼に入ってもノグチは、そんな心配を無視したという。1986年のヴェネチア・ビエンナーレの後、彼はインタヴューにこう答えた。「日本にもどり、石と向かい合ったら、石がともかくもぼくに語りかけてくれるだろう。ぼくは石の頭を叩く。石になにかを語らせるためなら、ぼくはなんでもするだろう。」

聴こえる人には聴こえるのだ。


さて、今回の石を巡るお話しはいかがでしたか。僕も石の話が聴こえる人になりたいと思った次第ですが、真のアーティストにしか与えられない特権かもしれませんね。しかし、石が語るのは天界の秘密だったのでしょうか。最後に、石に関する僕の最愛の詩をご紹介して終わりましょう。

 

きょうは こどもを
ころばせて
きょうは お馬を
つまずかす。
あしたは 誰が
とおるやら。

田舎のみちの
石ころは
赤い夕日に
けろりかん。(金子みすゞ『石ころ』)

 

ニュース

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日
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