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「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そして

文机房隆円『文机談』13世紀 宮内庁ホームページ

11世紀になると「今めかしたる」歌が一世を風靡し始める。「今様」である。催馬楽が徐々にその地位を今様に明け渡しはじめるのである。今様は、当時の最新流行のポップスであった。都市という生活環境が発達を見せ、人々が経済的余裕と余暇を持ち始めれば、芸謡を行う人々がそれを生業にしやすい環境が整っていったのである。『新猿楽記』には、熱狂する市井の姿が生き生きと描かれていた。それらの歌を傀儡女(くぐつめ)、遊女、白拍子などが歌ったのだが、その辺りのことは、沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』踊る大黒に三番叟に書いておいた。ちょっと、つけ加えておくと、遊女らは白拍子という素拍子で舞うのだが、もともと男巫(おとこみこ)たちの舞であったから巫女(みこ)の舞とは違って荘重なものであった。従って遊女たちが白拍子で舞えば自ずと男装ということになる。もともと白拍子に男装と神事性は欠かせないという(林屋辰三郎『歌謡と芸能』)。

梁塵秘抄

13世紀、琵琶奏者であった文机房隆円が対話形式で書いた琵琶の歴史物語『文机談』には、「そのころの上下、ちとうめきて頭(かしら)ふらぬ人はなかりけり。上の好む時、下の従わざる道なし。諸道の興廃は、ただ時の静謐なりとぞ申すめる」と書かれていた。この「うめきながら頭を振っていた」人のうちで最も知られた人は後白河院である。もっとも、古代中国の虞公(ぐこう)や韓娥(かんが)のように歌声の響で梁のうえの埃を舞いあがらせていたのかどうかは分からない。父親である鳥羽院も催馬楽を好んで歌っていたというから血筋だろうか。藤原俊成に『千載和歌集』を勅撰させたことでも知られる人だが、俊成の和歌に関する『俊成口伝』にならって『梁塵秘抄口伝集』全十巻を著し、勅撰歌詞集十巻を併せて『梁塵秘抄』二十巻とした。

後白河院『梁塵秘抄口伝』写本 国立国会図書館蔵

後白河院は、嘉応元年(1169)には、出家し、法皇となっている。33度に亘る熊野詣や京都内外の寺社への参詣、東大寺、比叡山での受戒など仏教への傾倒も一通りではなかった。しかし、重要なことは瓦坂法印家寛(かわらざかほういん かかん)に師事して声明にも研鑽を深めていたことである。言霊にも声霊にもシュプラッハ・ゲシュタルトゥング(振動が形態を形成するクラドニ図形と関係している)にも浸かっていたのである。「たとひまた今様うたふとも、などか蓮台の迎へにあづからざらむ」と一音成仏ならぬ一声成仏を確信していた。遊女でさえ一念の発起あれば極楽往生しうるし、法文の歌自体経文の尊い文章から離れたものではない、例え、世俗の文字の業であっても仏法を讃嘆する縁となり仏法を広める因ともなろうというわけである。

仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ(仏歌二四首より)

親鸞筆 『三帖和讃』 専修寺蔵

『梁塵秘抄』勅撰歌詞集の現存する巻一と巻二のうち巻二には法文歌220首、四句及び二句の神歌325首が収められている。法文歌には天台教学を軸とした法華経、浄土教、真言密教に関する内容が見られる。もし、今様が単なる流行歌謡でしかなかったのなら、後白河院のような知識人が終生夢中になるほどの意義は担い得なかったかもしれない。熊野参詣の折りの様子が『口伝』に次のように述べられていた‥‥法楽もの、長歌、心の今様、神歌などを歌いすませて、暁方皆人がしずまり、心澄ませて伊地古を歌っていると両所権現の内、西の御前からえもいわれぬ麝香の芳しい香りがしてきた。と、宝殿が鳴動しはじめ、御簾がそれをかかげて人が入ってくるかのように動いた。やがて、御神体の鏡が鳴り合って長い間揺れるという奇瑞があった。今様の歌唱が優れたものならこのような宗教的な奇瑞や霊験が起こることが、後白河院にとって、ともかくも現実であったのだろう。院が亡くなって50年後に親鸞が、日本語による声明の中でも最も秀逸とされる浄土和讃を作り上げる。

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし(雑法文歌 五十首より)

後白河院がまだ、帝位にある31歳頃、今様の師として五条の尼とも呼ばれていた乙前(おとまえ)を迎える。現在の岐阜県大垣付近である青墓出身の傀儡女(くぐつめ)であったが、その系譜をたどると目井、四三、なびき、小三、宮姫とだどることができるという。既に高齢であり、数度に及び辞退したが聞き入れられなかった。10数年を費やして専門的な歌曲の習得に励んだという。84歳の重篤の彼女を院が見舞った際、院自ら薬師如来の難病治癒の今様を歌い、乙前を感涙させたのであった。梁塵秘抄の四句神歌(しくのかみうた)のうち雑の歌は、とりわけ庶民の暮らしを彷彿とさせるような面白い歌が多い。巫女は目よりも上で鈴振りせよとか、山田の番小屋の鳴子や砧を打つ音が澄みわたるとか、天魔が八幡神に前世の報いで髪が生えないんでしょとちょっかいを出す歌とか、亀を殺(あや)め鵜の首を絞める鵜飼の後生を心配する歌だとか、恋路は陸奥へ駿河へと思いは千里を走るなどなど‥‥有名な歌をご紹介しておこう。

遊びせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(三五九)

舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 実(まことに)美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん(四〇八)

頭(こうべ)に遊ぶ頭虱(かしらじらみ)項(おなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食ふ
櫛の歯より天降る 麻笥(をごけ/曲げわっぱの桶)の蓋にて命終はる(四一〇)

 


宮廷歌謡は、中央や地方の氏族の長またはその代理による天皇に対する寿歌(ほかいうた)と彼らが服属の儀礼として歌った宴会歌謡に大別できる。そのために地方からの風俗(ふぞく)歌が宮廷に集うことになるのであった。神楽歌や東遊(あづまあそび)での歌謡が引き継がれて、そこに唐楽などの外来の音楽が和風化されながら醸成されていったものが催馬楽であった。他にも踏歌、朗詠などもあったが、やがて新たなムーヴメントとしての今様が勃興した。そして、16世紀初頭・室町中期には、小歌(こうた)の時代がやってくるのである。


 

小歌とは何か

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

小歌の歌詞集である閑吟集は、古代中国の歌詞を集めた毛詩三百余編にならって三百十一首よりなり、さながら連歌のごとく関連性を持たせた構成になっている。当時、連歌は最盛期にあったが、それについては、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておいた。この『閑吟集』を誰が編集したか分かっていない。各首には小、大、近などの略符がつけられていて、それぞれの出自を指している。それは、このような種類と数になっていた。小歌231、大和節48、近江節2、田楽節10、吟詩句7、早歌8、放下歌3、狂言小歌2という割合である。小歌とは、陰暦11月、宮廷での五節の帖台の試み、つまり新嘗祭(または大嘗祭)に行われる女楽の儀式であるが、そこで典雅に歌われる大歌に対する歌で、もともと歌曲の名ではなく演ずる楽人である小歌女官のことを指していたという。古くからあるもので、それらの席で歌われた歌謡が、女房たちによって儀式以外の席でも歌われるようになり、それが遊女、傀儡女、白拍子たちによって広く伝搬されていくことになるのである。大和節は大和猿楽、近江節は近江猿楽、田楽節は田楽能、吟詩は杜甫、温庭筠、蘇軾らの詩を取り込んだ漢詩風のもの、早歌は宴曲の一節が、放下歌は散楽系の大道芸などと共に歌われた歌が、狂言小歌は勿論狂言から引用され小歌風にアレンジされた。

閑吟集と謡曲

小歌の曲節、つまり曲調や節回しは、世阿弥の『申楽談義』に見られる「小歌ぶし」の流れを引くと言われる。世阿弥については、能勢朝次『幽玄論』part2 世阿弥に書いておいた。観阿弥以前の猿楽では、優美な旋律と拍節不定の自由なリズムを持つ当時の流行歌である小歌の曲節を軸にしていたが、それに白拍子系統の曲舞(くせまい)の音曲を加味したのが観阿弥だった(徳江元『閑吟集解説』)。新たな謡曲が、曲舞の音曲と小歌とがクロスオーヴァ―することによって生まれたのである。

木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても
なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば
いま幾日(いくか)ありて摘ままし
春立つと いふばかりにやみ吉野の 山も霞て白雪の
消えし跡こそ 路となれ(『閑吟集』四)

この小歌は大和節、つまり大和猿楽から生まれた謡曲『二人静』の一節からとられている。それは、もともと古今集の読人知らずの歌や新古今集の藤原良経らの歌を綴れ織りのように繋ぎ合わせたものだった。以下のような歌ですが、謡が作られていく過程において駆動するこのぞくぞくするような編集力はまさに偉大という他はない。謡曲の合成過程を上手に描いてくれる本がぜひ欲しい。

霞立ち木の芽春雨ふるさとの 吉野の花も今や咲くらん(後鳥羽院)
春日野の飛火(とぶひ)の野守出でて見よ 今幾日(いくか)ありて若菜摘みてん(読人しらず)
春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞て今朝は見ゆらむ(壬生忠岑)
み吉野は山も霞みて白雪の ふりにし里に春は来にけり(藤原良経)

その他に大和節(謡曲)から引用された作品として『俊寛』『鞍馬天狗』『鵜羽(うのは)』『籠太鼓(ろうだいこ)』『春日神子』などがある。

春過ぎ夏闌(た)けて又 秋暮れ冬来るをも 草木のみただ知らするや
あら恋しの昔や 思い出は何につけても (『閑吟集』二百二十/謡曲『俊寛』)

西楼に月落ちて 花の間も添ひはてぬ 契りぞ薄き灯火の
残りて焦がるる 影恥ずかしきわが身かな (『閑吟集』二九/謡曲『籠太鼓』)

僕の大好きな能楽師である観世喜正さんがシテ役で謡う『二人静』から「菜摘の女」の小歌に引かれたヶ所をお聞きください。この人の謡は、本当に素晴らしい。7:25頃からその場面が始ります。

 

小歌とそれ以後の日本の歌謡

『梁塵秘抄』では巫女、武者、関守、咒師(じゅし)、鵜飼、遊女、海人など職人尽くしさながら歌詞の中にそれと判る人物、その職業、その姿が目に見えていたけれども、『閑吟集』では、そのような人々の具体的な姿、生業の様子などは背後に押しやられて、あたかも個から一般へという抽象化が行われるごとく「男」「女」「世」という枠のなかにそれらが折り畳まれていくとは、秦恒平さんの『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』からのご紹介である。

小歌の八割以上を男女間の抒情的な歌で占める。ほとんどラブソングと言っていい。その愛情の表現の仕方が極めて自由であり、その調律においても極めて細やかであるといわれる。七五七五の定律が最も多いが、七七七五、七五七七、七七七七などがある。小歌は一節切(ひとよぎり)つまり尺八によって伴奏され、比較的自由に口語調に歌われたという。この尺八の伴奏による中世小歌は『隆達節』まで続くが、やがて、踊小歌を経て三味線組歌や女歌舞伎踊り歌などに継承されていく。戦国時代に三味線が日本にもたらされ、江戸時代に入り、この楽器が盛んに伴奏に使われるようになって「小唄」とよばれるようになるものが近世小唄であるが、これは、ある意味中世小歌からの一続きとして考えて良いとは、志田延義さんの説である(『閑吟集』総説)。愛情表現色々をご紹介しておく。

逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜は己が袖枕 枕余りに床広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへに疎むか (『閑吟集』一七一)

余り言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の 速さよ(『閑吟集』二三五)

余り見たさに そと隠れて走(は)して来た 先づ放さないなう 放して物を言わさいなう そぞろ愛(いと)ほしうて 何とせうぞなう(『閑吟集』二八二)

 


歌は世につれ世は歌につれ。日本人の心に添うものは、この歌謡のなかに脈々と流れ続けてきたのか、流行の波の上でたゆたってきたのか。おそらく、その両方であったろう。しかし、その中に日本人の心情に喰い込んでくるべきものが見つかるとしたら、それは何だろうか。一言では勿論語れないが、一つの例を挙げてみたい。


和泉恒二郎『日本人の心情』閑吟集を起点として

樋口夏子の雅号は一葉である。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であった。一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったという。和泉恒二郎さんは『日本人の心情』の中でその一葉の雅号への思いは〈まけじだましい〉だったという。しかし、現実の生活が窮迫していくにつれて一種の楽天的現実主義となっていったと指摘している。そして閑吟集のこの歌を彼女の日記の前歌として掲載するのである。

なにともなやなう なにともなやなう うき世は風波の一葉よ(『閑吟集五十)

「人につねの産なければ、常のこころなし。手をふところにして、月花にあくがれぬとも塩噌なくして、天寿を終わるべきものならず。かつや文学は糊口の為に為すべき物ならず。おもひの馳するまま、趣くままにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどゐなどは、昨日の春の夢とわすれて、志賀の都のふりにしことは言わず、さざなみならぬ波銭小銭厘か毛なる利はもとめんとす。‥‥ひまあらば月もみん花もみん。興来らば歌もよまん文もつくらむ。小説もあらはさん。‥‥されど、うき世は、たなのだるま様。ねるもおきるも我が手にはあらず、造化の伯父様どうなとした給へとて、『とにかくにこえるをみまし空せみの よ渡る橋や夢のうきはし』」(樋口一葉『日記』明治26年7月)と、一葉は書いている。

桜かざして遊ぶ大宮人のような短歌仲間の集いもわすれよう。宮廷歌謡が廃れて今様や小歌の時代がやってきて、今は明治となったのだけれど、人のこころを趣くままに描き出す文学の時代が来たと言祝いででもいるかのようだ。一方で、生きていくために小商いまでせざるを得ない身の上と成り果てた。しかし、ここには、あなたまかせの処世、破れかぶれの大らかさがある。それは庶民の歌謡のなかに見られてきたものでもあるだろう。そして、何か自然という名の太母との繋がりに憧れているような感覚があるのだ。さらに一葉は書く。

「春のゆふべ よは花さきぬべしとて人ごころうかるゝ頃、三日四日のかけ斗(ばかり)に成りて一物も家にとゞめず、しづかにふみよむ時の心 いとをかし。はぎはぎの小袖の上に羽織きて何がしくれがしの会に出でつ。もすそふまれて破らじと心づかひする又をかし。身のいやしうて人のあなどる又をかし。折にふれて誰もいふなる一言のおもしろしとて才女などとたゝえられるいよいよをかし。此としの夏は江の嶋も見ん、箱根にもゆかん、名高き月花をなど家には一銭のたくはへもなくていひ居る ことにをかし。いかにして明日を過すらんとおもふに、ねがふこと大方 はづれゆくもをかし。おもひの外になるもをかし。すべて、よの中はをかしき物也。」(樋口一葉『日記』明治28年3月)

知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも (中島みゆき『命の別名』より)

一葉は20歳の日記にも、世の中の事業はどんどん進んでいるのに、私たちは昔のままで何一つ成し遂げたこともなくただ歳を取るばかりだと嘆くのである。中島みゆきさんの歌詞にも若い人たちの挫折や焦燥がある。と同時に自然との繋がりを感じさせるのである。家に一物も、一銭もなくても名高き月花を眺めたいという切実な願望は何処からくるのだろうか。結局、これは国見とその歌に通じるものなのか。そして、歌謡ではないけれど谷川俊太郎さんの詩にも生きている自然に抱かれる感覚を感じるのである。

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いま兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ (谷川俊太郎『生きる』より第四連から最終第五連)

 

「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part1 国見歌から催馬楽まで

 

忘れられない歌を 突然聞く
誰も知る人のない 遠い町の角で
やっと恨みも嘘も うすれた頃
忘れられない歌が もう一度はやる
愛してる愛してる 今は誰のため
愛してる愛してる 君よ歌う
やっと忘れた歌が もう一度はやる
(中島みゆき『りばいばる』)

思ひ出すとは 忘るるか
思ひ出さずや 忘れねば
(『閑吟集』八五)

真鍋昌弘『中世の歌謡』閑吟集の世界

中島みゆきさんは、僕より少し年上だから学生時代の頃からよく聞いていた。その詞にはジンときたものだった。ほぼ同時代を生きてきたといっていい。おお、青春の1ページ‥‥感傷はやめにしよう。谷川俊太郎さんは、彼女のファンだとか。ご本人に聞いたわけではないけれど噂ではそうらしい。彼女の歌詞と谷川さんの詩に使われる言葉との関係をみてみたら面白いかもしれないけれど、今回は、まず古代からの伝承文学と歌謡の流れなどを追ってみたいと思っている。伝承文学と歌謡とは互いに手を取り合ってきた。真鍋昌弘さんの『中世の歌謡 閑吟集の世界』には、恋やつれに関するこんな興味深いつながりが指摘されている。

一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべくわが身はなりぬ (『万葉集』巻四)

なんぼ恋には身が細る 二重の帯が三重にまわる(『松の葉』三味線組歌裏組/江戸中期歌謡集)

こなた思うたらこれほど痩せた 二重廻りが三重廻る(『山家鳥虫歌』/江戸中期民謡集)

春二重(ふたえ)に巻いた帯
三重に巻いても余る秋
暗(くら)や涯(はて)なや塩屋の岬
見えぬ心を照らしておくれ
ひとりぽっちにしないでおくれ
(美空ひばり 『みだれ髪』より 星野哲郎 作詞)

みだれ髪、憎や、恋しや、辛や、重たやなどの言葉は『閑吟集』にもみられる中世近世小歌ゆかりの語句であるという。作詞者の意識にあったのか、なかったか分からないけれど、小歌の抒情の流れの中に存在するある類型と見ることができるようだ。歌は世につれるだけでなく、世は歌につれるのである。

 


歌謡とは歌われる歌である。当然、上古から歌謡はあった。代表的なものは、万葉集は舒明天皇の「望国歌」につながる国見歌である。国見は歌垣と共に行われた春のはじめの行事であり、山行き、山遊び、花見に連なる春山入りの行事だった。天文暦が取り入れられた推古朝以降、春の国見と秋の新嘗祭に加えて正月の儀礼が加わったと言われる。古代には歌謡は宮廷社会で発達し、平安末以降は民間の芸謡が勃興し、宮廷歌謡は衰退をみた。


 

上代の歌謡 国見と花見・歌垣・宮廷歌謡

土橋寛『古代歌謡の世界』1973年刊

上代の歌謡は、古事記・日本書紀・万葉集にみられる。記紀にある歌謡は、伝承者・作者が作った物語のための歌謡と物語のために取り入れた既に存在した歌謡とに分けることができる。後者は独立歌謡と呼ばれ、酒宴や国見での歌謡、あるいは、当時の民謡・芸謡・童謡(わざうた)などとして知ることができる。芸謡とは専門の歌手によって歌われ、歌い手と聞き手とは完全に分けられる。聴き手の娯楽としての歌謡である。平安末の今様が生まれるまで歌謡の中で大きなシェアを占めることはなかった。これに対して民謡は歌い手が同時に聴き手でもあり、宗教行事であると共に娯楽でもあった。支配者が代わっても時代の思想がどう変化しようと村の民謡の性格は変化しない。個人が泣きたい気持ちを歌いたくてもそれを皆と歌う訳にはいかなかった。その社会的機能が民謡を不変のものにした理由だと日本文学者である土橋寛(つちはし ゆたか)さんは言う(『古代歌謡の世界』)。奈良朝の風土記にある歌垣の歌のような古代民謡と明治以降の盆踊り歌である近代の民謡とは驚くほど似ているというのである。土橋さんのこの著作からご紹介する。

 

1.国見歌と花見歌

古代の国見歌と現在の民謡を比べてみたい。

大和は 国のまほろば
畳なづく 青垣
山ごもれる 大和しうるはし (古事記三十)
千葉の葛野を見れば
百千足(ももちた)る 家庭も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ(古事記四一)
おしてるや 難波の埼よ
出で立ちて わが国見れば
淡島 淤能碁呂島(おのころしま)
檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 佐気都島見ゆ(古事記五三)

高い山から谷底見れば 稲は苗代の花盛り (弘前 盆踊り歌)
八溝山から谷底見れば 瓜や茄子の花盛り (茨城 ヤーハー節)
桜山から瀬戸内見れば 瀬戸の島山真帆片帆(三原 やっさ節)

花盛りを讃めることは豊作の予祝行事であった。「田主さんの山には栗の花が咲いたげな 七重花が八重にさいたげな(山口 田植え歌)」山行は、山菜取り草取りと同時に宗教行事であり、男女の出会いを提供する場でもあった。栗や藤の花房は稲の穂を連想させるという。同じように花讃めに対して国讃めがある。豊作への祝歌が花讃め歌であるなら国讃め歌は郷土の繁栄の祝歌、お国自慢となる。

三諸は 人の守る山
本へは 馬酔木花咲き
末へは 椿花咲く
うら麗し 山ぞ 泣く子守る山 (『万葉集』)

人々が朝夕に眺める山は美しく花々の咲き乱れるたまふりの山。花讃め歌と同時に山讃め歌、国讃め歌ともなっていよう。国見は景色を愛でるのだが、とりわけ雲と煙への言及が注目される。景色の中の微妙な兆しを見るのは、そのような不定形なものに意を注ぐことが肝要にもなるのだろう。

2.歌垣の歌

天飛(あまだ)む 軽嬢子(かるおとめ)
したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(『古事記』)

夏草の あひねの浜の 蠣貝に
足踏ますな 明かして通れ(『古事記』)

歌垣の歌は異性を誘う歌が大胆にも歌われる。上の歌は古事記にある軽太子(かるのひつぎみこ)と母を同じくする実妹の軽大朗女(かるのおおいらつめ)との禁断の恋を描いた話しに登場する歌である。歌の内容が、話の流れとは繋がらないので独立歌謡であろうと言われている。軽は市の開かれた所であることから、上の歌は軽の市の歌垣で男たちが軽の乙女たちにこっそり寝て行きなさいと誘い、下は夜の浜は貝殻で足を傷つけるから明るくなってから帰ってよと男を引きとめる歌である。集団で行われる歌垣では大胆な歌詞が多い。誘う歌ばかりではない。相手を袖にする歌、結婚は早めにしろと忠告する歌、老いては懐旧の情と若者への教訓を歌うものなど特に現在まで残っている民謡には面白いものが多い。

二十過ぐれば奥山つつじ 咲いておれども人が見ん(石川 雑謡)
器量がよいとてけんたいぶり置きやれ、深山奥山その奥山の、岩に咲いたる千里のつつじ、なんぼ器量よく咲いたがとても、人が手出さなきゃ、その身そのままで果てる(岐阜 小大臣)
おらも若い時ゃ山でも寝たけゃ 山で木の蔭 草のかげ(岩手 さんさ踊り)

3.宮廷歌謡

東京楽所『日本古代歌謡の世界』CD 神楽歌、東歌、久米歌、田歌、倭歌など珍しい音源が多様に収録されている。特に一曲目の神楽歌の「縒合(よりあい)」は名曲、名演である。

正月行事が宮廷に取り入れられるようになって、春のはじめの国見の儀礼は次第に行われなくなる。宮廷行事も本質的に呪術行為であり、予祝儀礼であったことは民間と同様であったが、そこには当然政治的な意味合いも帯びていた。寿祝されるのは天皇であり、寿祝するのは中央や地方の氏族の長またはその代理であった。豊明(とよのあかり)などとも呼ばれた酒宴は新嘗会などの重要なファクターであり、主人の繁栄を寿ぐ儀礼的な「宴座」から主客入り乱れる無礼講たる「隠座」へと連続的に行われた。主人側が酒を勧める勧酒歌と客の方からの答礼となる謝酒歌がある。主役の天皇の傍で接待する役は「共食者(アヒタゲビト)」と呼ばれ、親王や一世源氏が勤めた。このような接待役を女性がつとめる場合、宮廷に限らないが、容姿の美しさ、美声が要求され、次第に専門化していった。民間では主人の子女がその役を果たしていたが、やがて接待役の女性が登場し、遊女と呼ばれるようになる。傀儡子(くぐつし)などの芸能者とも関係が深い。彼女たちが後代の今様などを流行させることになるのである。

宮廷儀式の中で最も重要なものは天皇即位に行われる大嘗祭である。それは中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上となる。「臣」姓氏族による勧酒的性格を持つ寿歌と「連」姓の伴造氏族による職制に即した忠誠を誓う戦歌謡に大きく分けることができる。前者には吉野に住む国栖(くず)が大御酒を応神天皇に捧げて歌った国栖の歌、天語(あめがたり)連の伝えた天皇への服属を誓う天語歌などがあり、後者には来目(くめ)部の戦時の酒宴の歌である来目歌がある。

白樺の生に 横臼を作り
横臼に 醸みして大御酒
甘らに 聞こしもち飲(を)せ まろが親(ち)(『記紀』国栖歌 部分)

 


宮廷における神楽歌・催馬楽・小歌の時代がやってくると外来の楽が日本の楽に融和し、歌詞が地方民謡の鄙びた性格を持ち始める。やがて、従来の宮廷歌謡は下火となり、平安時代末には最新流行の芸謡である今様が一世を風靡するようになる。こうして、中世は風俗的な歌謡の時代になっていくのである。


 

神楽歌

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

宮廷で行われる神楽は大嘗会の琴歌神宴に発したという。この神楽歌は、かがり火を焚き「庭火」の曲を奏する庭火に始まり、神降ろし(採物/とりもの)、神遊び(前張/さいばり)、神上がり(明星・其駒)という構成になっている。これはもともと石清水八幡の神遊びを宮廷に参上して行ったものが、宮廷の行事化されたものであるとは折口信夫の説である。天皇はまれ人神であり、群神を伴う長い旅路を象徴する庭でその経過を再演し、憑代である採物を人長が持ち、神の降臨によって一体化する。神遊び歌(前張)は一種の宴会歌謡であり催馬楽(さいばら)と同じく民間のものを多く取り入れている。このような神遊びの形態は民俗芸能にも多くみられ、笹の葉を先端に残した竹の枝によるサゲ杖を持った音頭取りであるサゲが「田の神おろし」の歌を歌って田の神そのものになっていくという「太田植」の神事などと同じであるという(臼田甚五郎『神楽歌』解説)。「明星」の歌にはじまって神々との別れを惜しみ、神を送る歌が終わると、神宴は御遊へと移り、雅楽、催馬楽の演奏となるのである。神楽歌の中から、もともとは恋の喩え歌であった「前張(さいばり)」と最後の曲である「神上」を掲載しておく。本と末とに分かれて歌われている。さしばりとは獣の害を防ぐために張り巡らした木綿の垂(しで)のことである。

「前張」
本 さしばりに 衣は染めむ 雨降れど
末 雨降れど 移ろひがたし 深く染めてば
本方 あちめ おおおお しししし
末方 あちめ おおおお しししし

「神上(かみあげ)」
本 すべ神は よき日祭りつ 明日よりは 八百万代を 祈るばかりぞ
末 すべ神の 今朝の神上に あふ人は 千歳のいのち ありといふなり

 

催馬楽

平安初期、清和天皇が即位した時の大嘗会が貞観元年(859)に行われた。大極殿の前に設けた悠紀、主基の両殿にて大嘗祭が終わると悠紀の帳で宴(うたげ)が開かれ、悠紀の国の産物が献上された。主基の座に移ると悠紀の国が風俗の歌舞を奏し、この国の献上した衣料を親王以下諸臣に賜った。この夜、天皇は豊楽殿の後房に留り文武百官も侍宿し、親王以下参議以上が御在所に侍り、琴歌神宴に終夜歓楽する。次の日は悠紀、主基の順番が入れ替わって同様の神宴が開かれる。三日目は悠紀・主基の両帳が取り払われ豊楽殿にて天皇が百官のための宴を開き、多治氏が田舞(たまい)、伴・佐伯の両氏による久米舞、阿倍氏の吉志舞(きしまい)、内舎人(うどねり)が倭舞(やまとまい)を、夜には宮人の五節舞が披露されたのである。この時には催馬楽の歌が多く取り上げられ、歌われた。同年に尚侍(ないしのかみ)であった広井女王(ひろいのひめみこ)が八十歳余りで亡くなったと記録に残っている。歌の名手であり催馬楽をも得意とした。諸大夫や少年の好事者が多くその歌を習ったという。この頃には既に催馬楽が宮中で盛んに歌われていたことになるのである。

催馬楽は、特に一条帝(980-1011)の頃が最も盛んであったが中世に入って衰退したといわれる。諸国から貢物を朝廷に運ぶときに歌われた歌というのが一般的な解釈であるが、万葉集にある『我駒(あがこま)』の歌が使われていることから馬を駆り催す歌であることは間違いない。こうしてみると万葉集の影響力は大きいのだ。それから唐楽の「催馬楽(さいばらく)」の拍子にあわせて歌われたという説、神楽歌の前張(さいばり)からサイバラになったなどの説があり、逆に催馬楽が前張に取り入れられ神楽歌になったなどの説があるようだ(臼田甚五郎『催馬楽解説』)。催馬楽は、律と呂という旋律で大別されているのだが、律の冒頭にある『我駒』をご紹介する。真土山(まつちやま)は特定の山というより、どの山にも当てはめることができる山である。

いで我(あ)が駒 早く行きこせ 真土山 あはれ 真土山 はれ
真土山 待つらむ人を 行て早(はや) あはれ 行きて早見む

催馬楽に歌われる世界は多様で、国見歌に繋がる在所の名物やお国自慢も多い。それから、歌垣歌に繋がる愛人との別れ、野遊びの求愛場面があり、博打の歌など日常世界にいたるまで広く人間世界を描いている。和琴、箏、琵琶、笛、笙、篳篥(ひちりき)で伴奏され、平安貴族の華麗な御遊(みあそび)と称された。大掛かりな御遊の饗宴だけでなく日常の色々の場面で口ずさまれていたのだろう。民間の歌謡が宮廷に浸透していた結果である。馬を催すとは「客人(まろうど)」が馬でやって来て馬で帰るというイメージが強く、その意味で「まれ人」の来臨と帰還という神楽歌と同じ構造を持つのではないかとは臼田甚五郎氏の説である。

なかなか良くできた催馬楽神楽の動画です。地鎮のために鈴を振りながら舞う神楽が登場しますので是非見てください。江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟でご紹介しましたが、三番叟を考える上で貴重です。久喜市公式動画チャンネルより(約11分)

 

催馬楽と源氏物語

ちょっと面白いのは源氏物語と催馬楽との関係である。この物語の中で催馬楽の語句、曲名などを含めて使われている例は、延べ56曲、曲数にして23曲にのぼるという。現存する催馬楽が61曲であるから三分の一を超える数である。『源氏物語』54帖のうち催馬楽が登場する巻は29巻に及ぶ。催馬楽は、民謡風な風俗歌を外来の雅楽調で歌った。舶来音楽に影響を受けた和製ポップスといったところだろうか。

「胡蝶」の巻には、冷泉帝が朱雀院に御幸の際、楽人を乗せた船が池を往来する華やかな宴会が催され、呂律の最初の曲『安名尊(あなとうと)』が歌われたとある。これは正式な宴席に歌われる催馬楽であった。

「物の師ども、ことにすぐれたる限り、双調吹きて、上に待ちとる御琴ども調べ、いとはなやかにかきたてて、『安名尊』遊びたまふほど、『生けるかひあり』と何のあやめも知らぬ賎の男も、御門のわたり隙なき馬、車の立処にまじりて笑みさかえ聞きたり。(『源氏物語』「胡蝶」)」

あな尊 今日の尊さや 古(いにしへ)も はれ
古も かくやあれけむや 今日の尊さ
あはれ そこよしや 今日の尊さ (『安名尊』)

これに対して笛か扇拍子程度の伴奏で気楽に歌われる場合や鼻歌まじりに口ずさむ場合もある。「花宴」の巻には、ほろ酔いの源氏が「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらやってくる女をとらえて一夜をともにする。女は名も明かさず、扇だけを交換して別れた。一ヶ月後、右大臣の藤の花の宴で、ここぞと思う几帳の前に立ち止まり「扇をとられてからき目を見る」と催馬楽の『石川』の替え歌を歌ってさぐりをいれた。「高麗人の言い違いですか」という者は事情を知らない者である。そこに、返事をせずに溜息をつく方がいるのである。色好みの源氏には、この種の例は多いという(仲井幸二郎『源氏物語と催馬楽』)。

「そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、 『扇を取られて、からきめを見る』と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。『あやしくも、さま変へける高麗人(こまうど)かな』といらふるは、心知らぬにやあらむ。(『源氏物語』「花宴」)」

石川の 高麗人に 帯を取られて からき悔いする
いかなる いかなる帯ぞ 縹(はなだ)の帯の 中はたいれなるか
かやるか あやるか 中はたいれたるか(『石川』)

このように源氏物語が書かれた11世紀初頭は、催馬楽が最も盛んな時代であった。催馬楽の歌詞は日常的につかわれるほど宮廷生活に浸透していたことになるのである。

 


今回は「国見歌から閑吟集へ」と題し、その part1 として「国見歌から催馬楽まで」をお送りした。歌は世につれるのだが、その中に見られる強力なファクターは万葉集だったことに今さらながら驚かされる。そして民謡の不変性を教えられた。若い人が民謡から離れていることに危惧を抱く人も多い。農村や町の共同体が失われていく現在では、皆で盆踊りを踊り、歌うということはなかろう。僕は、民謡が芸謡として特化するより、どんな人でもよいから町の盆踊り大会で民謡を小さな子供たちに歌って聞かせる、あるいは一緒に歌うことはできないのかと思っている。それが本来の民謡のあり方なのだから。


次回は、いよいよ今様と小歌をご紹介する予定です。お楽しみに。

 

「笑話あれこれ」笑いは東西を駆けまわる

琴栄辰『東アジア笑話比較研究』2012年刊

韓国には一度転ぶと三年しか生きられないという謂(いわ)れの『三年峠』という童話があるそうです。韓国伝来の童話として日本の小学校の国語の教科書にも紹介されたことがあるらしいのです。

三年峠で転ぶなよ。転ぶと三年しか生きられないという言い伝えがある。一人のお爺さんが石につまづいて、この峠で転んでしまった。気に病んだおじいさんはその日からご飯も食べれず寝込んでしまう。機転の利く水車屋のトリルという少年が、こう言ってお爺さんを慰めた。三年峠で一度転べば三年、二度ころべば六年、三度ころべば九年、何度も転べばうんと長生きできるよと。嬉しくなったお爺さんは峠から麓までころころところがり落ちて、すっかり元気になり、お婆さんと一緒に末長く仲良く暮らしたとさ。

実はこの話、植民地時代に日本から朝鮮にもたらされたのだといいます。もともと京都清水寺の「三年坂」にまつわる地名伝説でした。韓国の童話と信じて育った筆者の琴栄辰(ぐむ よんじん)さんにとって、これは驚くべき事実だったそうです。本書(『東アジア笑話比較研究』)の最大の特徴は日本近世の笑話の比較研究に中国一辺倒ではく朝鮮半島を視野に入れたことです。東アジア論という観点からも極めて貴重な研究と言わなければなりません。真に立派な研究論文なのですけれどかなり笑える。なにせ笑話がふんだんに盛り込まれているのですから。

李周洪 『韓国笑話集』

韓国にも日本にもある笑話をもう一つご紹介しておきましょう。共有の事実さえお互いに知らない笑話であるといいます。「姑の毒殺」という話ですが、ほんのりするような話になっています。

ある村に仲の悪い姑と嫁がいる。息子は二人の間に立って悩んでいた。ある日息子は妻にこう言う。「母さんが、お前をいびるやり方はあんまりだ。死なせたほうがいい。」息子は市場から栗を一斗買ってきて妻にこう言った。「これを毎朝三個ずつ焼いて母に食べさせなさい。この栗が亡くなる頃、母の命もないだろう。」その翌日から、嫁は毎朝栗を焼いては姑にやさしい声で勧める。すると、だんだん姑は嫁を虐めなくなり、二人はとうとう仲良くなったという話である(『任晳宰全集』韓国口伝説話)。

日本では霊松道人撰の『善謔随訳』という漢文体笑話集に類話があって、息子が医者に毒を与えてもらおうとするのですが医者は毒と称して砂糖を与え、焼いた餅に塗って姑に食べさせれば数日の内に効き目があらわれるだろうと言ってそれを渡す話になっています。安永七年(1775)の話ですから200年以上前から既にある話なのです。しかし、僕はこの話を全く知りませんでした。我ながら愕然とした次第です。『笑府』『笑海叢珠』などの中国の笑話集の影響は勿論大きなものがあり、シンデレラなどの童話が同工異曲の内容で世界規模の広がりを見せていることは南方熊楠などの著作で紹介されていますので意外な共通点は、まだまだあるのではないでしょうか。

 


日本の笑話集の起源はというとそれほど昔ではありません。平安末期の『今昔物語集』や鎌倉時代の『宇治拾遺物語』にはユーモラスな話が収録されてはいたのですが、本格的に笑話だけを集めたものが編集され、出版されるのは江戸時代になってからです。それをご紹介しましょう。


 

江戸の笑話集と落語

安楽庵策伝『醒睡笑』

日本で笑話が笑話集として集大成されたのは『醒睡笑(せいすいしょう)』八巻がその始まりでした。浄土宗の僧であった安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)が戦国時代の血生臭い時代を小僧として過ごした、その頃からの耳に触れて面白いと思った話を書きとめておいたものをまとめました。元和九年(1623)に序文が書かれますが、徳川家光が将軍職を継いだ年にあたります。後に京都所司代である板倉重宗に献じたもので、「是の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵という、柴の扉の明け暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかた しるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)を醒まして笑ふ」と序文にある、その「睡(ねむり)を醒まして笑ふ」がタイトルの由来になっています。眠たくても眼が覚めるほど笑えるというわけでしょうか。落語にもなっている有名な話を一つご紹介しましょう。

小僧あり、小夜ふけて長竿をもち、庭をあなたこなたに振りまはる。坊主これを見付け、それは何事するぞと問ふ。空の星がほしさに、打ち落とさんとすれども落ちぬと。扨(さ)て扨て鈍なるやつや。それほど作が無(の)うてなる物か。そこには竿がとゞくまい。屋根へあがれと。(「鈍副子」)

江戸初期には、この『醒睡笑』の他に『昨日は今日の物語』という笑話集があり、なかなか洒落たネーミングになっています。室町後期の『閑吟集』に「‥‥夢の夢の夢の昨日は今日のいにしえ、今日は明日の昔」などという表現があって、このような言葉に因んでいるのでしょう。元禄時代には江戸の鹿野武左衛門、京には露の五郎兵衛が笑話を巧みな話術で口演を盛んに行い、軽口という名で人気を博しました。次なるエポックは安永元年(1772)に木室卯雲(きむろ ぼううん)が書いた『鹿子餅(かのこもち)』です。この書の最大の特徴は口承されていた話をそのまま文章にするのではなく地の文を努めて省略し、江戸の市井言葉による会話を主として、結末も話中の人物の言葉で打ち切りにして「‥‥と云われた」という言葉を省略します。江戸子気質が存分に生かされ、歯切れの良い簡素な読む文学へと変貌していきます。しかし、一方で笑話=小噺と思われがちにもなるのです。この頃には、笑話の中心が上方から江戸に移り笑話は盛期を迎えることになります。『鹿子餅』から一話ご紹介しておきましょう。

朝とく起きて、楊枝つかいながら、垣の透間から隣を覗けば、寝乱れすがたの娘、縁側にこしかけ、朝顔の花をながめている。これはかわゆらしいと、息もせず のぞき居たるに、庭におり、留まりに咲きた一りんをちぎり、手のひらへのせて見る風情、どうも言へず。歌でも案ずるよと、いよいよゆかしく見て居たるに、今度は葉をひとつちぎりたり。何にするぞ見て居たりや、チント鼻をかんで捨てた。(「朝顔」)

海賀変哲著『落語の落1』

寛政年間には70種類近い笑話の出版がありましたが、この頃、書名に「落噺(おとしばなし)」とか「落語」と名づけられたものが目立つようになります。『鹿子餅』以降には〈落/おち・さげ〉に重きがおかれるようになったからです。烏亭焉馬(うてい えんば)によって天明六年(1781)には第一回の話の会が開かれ、やがて落語へと発展する端緒となります。化政期からは十返舎一九や式亭三馬らが、戯作と呼ばれる通俗小説を書くようになり、その中に「滑稽本」と呼ばれるいわば、諧謔と機知を武器とするユーモア小説がありました。式亭三馬の『酩酊気質』は、座敷噺(ざしきばなし)の名人であった桜川甚幸のために書いた話の台本を滑稽本として出版したものでした。職業としての落語家が生まれ、いよいよ話芸が本格化していく時代です。ここで落語の落の代表的なものを一つ挙げておきましょう。

親の使いで本郷座の前を通った息子が「近日開場仕りそうろう」という張り紙を見て、明日開くのだと勘違いする。そう早くは開かない。そのうち、開くという意味だ。商売というものは機転が利かないといけない。先へ先へと気を働かせろとみっちり言い聞かされた。そうこうする内に父親は疝気で腰が傷みはじめる。息子は、ふいといなくなると医者がやって来た。父親が不審に思って尋ねると、今、お宅の息子が呼びに来たという。医者を呼ぶほどの病気じゃないと詫びて追い返すと、今度は棺桶屋が棺桶をかついでやってくる。吃驚して理由を聞くと、またしてもお宅の息子さんに頼まれたのだという。息子は帰ってくるなり、お寺へ行こうと思ったが寺へは一人で行くものでないと言われたので帰ってきたという。向いの家では、あの家は変だ。さっきから色んな人が出入りしているが何だろうと思っていると忌中と書いた簾が下がったので、打ち揃ってお悔みに行くと、実はこれこれで間違いでしたと言って父親が詫びる。父親は、息子を仕方のない馬鹿野郎だと叱りつけるのだが、息子は「お父さん近所の人は馬鹿だねえ」と言う。「どうして」「忌中の下の添え書きを見ずに来たんだから」「何と書いた」「近日」(『新編落語の落』「近日息子」)

 


笑いの哲学や心理学を述べるのは、やめておきましょう。どちらにしても無粋です。純粋に笑話とは言えないかもしれませんが、滑稽譚の中には頓智話があります。日本では、一休さんや吉四六(きっちょむ)さんが有名ですが、トルコを中心とした小アジアにはムラー・ナスレッディンつまり、ナスレッディン・ホジャの有名な話が伝承されています。今度はアジアの西の端に飛んで、その話を覗いてみましょう。


 

ナスレッディン・ホジャの物語から一話

ナスレッディン・ホジャのホジャとはペルシア語の「ハージャ」に由来する言葉で、学者たちから選ばれた官吏に対する尊称のようですが、オスマン・トルコ時代には「学校で教育を受け、ターバンを巻き、法衣をまとった教役者」を指していました。ナスレッディン・ホジャの物語は滑稽な話ではあるのですが、寸鉄人を刺しもするのです。その例からまず述べてみましょう。目の不自由な人たちに対する不適切な話ではありますが、昔話としてご容赦ください。

ある日、盲人たちが珈琲店で胸の悲しみを打ち明け合っていた。ホジャ・ナスレッディンが通りがかって、心から親しげに話している様子を見てすっかり感じいった。なんて人間は素晴らしいんだ。だが、ふいに彼らの友情は本物で、どれくらい純粋なものなのだろうかという疑いが頭をもたげた。そこで懐から銭袋を取りだしてジャラジャラと音を立て「みなさんや、この銭をあげるから、仲良く分け合ってお使いなさい」と言った。銭をもらおうと彼らは音のしたほうに飛びだし駆けだした。「銭をとったのは誰だ」「ふざけるな、取った奴は銭を出せ」「何が何でも俺の取り分はもらうぞ」と口々にわめくやら喧嘩を始めるやら。ホジャはだんだん哀れを催して、一人一人にいくらかずつ握らせてやった。そのあと「神よ! 銭ってもんは、人間になんて酷いことをさせるんでしょうか! 」と独り言を言ったそうな。(『ナスレッディン・ホジャの物語』「ホジャのいたずら」)

ムラー・ナスレッディンとグルジェフ

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ
(1877-1949)『ベルゼバブの孫への話』

トランス・コーカサスに住むジェリコ・ジャカスは商用で町に出かけた時、市場で見知らぬ果物を目にした。色も形もこの上なく美しい。すっかり魅せられた彼は、それをどうしても食べたくなり、金もないのに最低一つはこの偉大なる自然の贈り物を買って食べたいと思った。それで、彼にしては珍しく勇気を奮って店に入ると骨ばった指でその気に入った〈果物〉を指差して値段を聞くと1ポンドが2セントだという。そこで我がジャカスは1ポンド全部買うことにした。帰りの路で、食料袋からパンとあのとてもおいしそうに見えた〈果物〉を取りだしておもむろに食べ始めた。しかし、なんと恐ろしいことにたちまち彼の内蔵全体が燃えはじめるのだが、それにもかかわらず彼は食べ続けた。我らのジャカスが大自然の懐でこの奇妙な食事から生じた異様な感覚に圧倒されていたちょうどその時、その同じ道を村の者たちから賢人で経験豊かだとされている老人がやって来た。顔全体を燃えるような赤に染めて、目からは涙を流し、しかしそれにもかかわらず、まるで最も大切な義務でも果たすことに没頭しているかのように、正真正銘の〈赤トウガラシ〉を食べている彼を見てこう言った。「おい、ジェリコ、いったい何をしているんだ。生きたまま燃えてしまうぞ。そんな身体によくないとんでもないものを食べるのはよしなさい。」しかし、彼は答えた。「いえ、どんなことがあってもやめません。私は、これに最後の2セントを払ったんです。たとえ、私の魂が身体から離れようとも食べ続けます。」というわけで、我らが断固たるジェリコ・ジャカスは〈赤トウガラシ〉を食べ続けました(『ベルゼバブの孫への話』)。

グルジェフと言えば〈ごろつき聖者〉と異名をとった精神的な指導者、つまりグルとして知られます。アルメニアに生まれ、若くして「真理の探究者」というグループに参加し、エジプトなどの中近東・アフリカ、チベットを中心とした中央アジアなどを古代の叡知を求めて旅をします。ロシアで多くの弟子たちを教え、革命後はフランスに移ってフォンテンブローに「人間の調和発展のための学院」を設立しました。19世紀末から20世紀前半にかけて生まれたいくつかの神秘主義運動の一つの流れを作ったと言っていいでしょう。この『ベルゼバブの孫への話』は、笑話集ではありません。まるでスタートレックのような宇宙船のイメージから始まるこの書は、「真理探究」の結果として彼の人生の根本的な目標を達成するための方法全体の見取り図が表現されていると言われますが、暗号文書のようでもあるのです。晦渋この上ないのですが、その潤滑油の役割を果たしているのが、ふんだんに盛り込まれた笑話なのです。

グルジェフが賢者中の賢者と呼ぶムラー・ナスレッディンは先ほどご紹介したようにナスレッディン・ホジャという名で知られるトルコの頓智話の主人公でした。日本でいう吉四六(きっちょむ)さんにあたるでしょうか。彼の格言は、この本の中でまさに車の車軸に注す油のような役割を果たしています。「われらが令名高く、比ぶべき者のない師、ムラー・ナスレッディンがたびたび次のように言うのは、いわれなきことではありません。『どんなところに住んでも、賄賂を贈らなければ、我慢できる程度の生活どころか呼吸さえできはしない』‥‥というわけで何世紀にわたる人間集団生活の中で形成されてきた民間伝承のこう言った言葉やその他多くの格言に親しんでいる私は、誰もが知っているとおり、あらゆることに対するあり余る可能性と知識を所有しているベルゼバブ氏にきちんと〈賄賂を贈る〉ことに決めたのです」などと書かれているのです。

グルジェフは、あの〈赤トウガラシ〉のエピソードの後にこう述べています。金を払って何かを買ったら、それを最後の最後まで使い尽くさずにはおれないというこの人間固有の性質をわきまえ、また幾度となくその性質を憐れんできたこの私が〈欲求においても霊魂においても私の兄弟〉というべきあなた方に、―― この本を買った後で初めて、普通の便利で簡単に読める言語で書かれているものではないと判明したわけですから―― ただ外見だけに魅了されて買ったあの〈冗談どころではない〉高貴な赤トウガラシを食べ続けた村人のように、いかなる犠牲を払っても私の本を読み通そうなどという強迫観念を持つことのないよう、私がなぜ今、あらゆる手段を尽くそうと考えるに至ったか十分ご理解いただけるでしょうと。

この点に関して、このブログの筆者である私は極めて楽観視しております。私のブログを必ずやみなさんは読み通してくださるだろうと。なにせ無料ですから(汗)。

 

「アフロディテの系譜」エロスとタナトスの間

七月二十一日、思うことありて偶(たまた)ま題す

もやに包まれておぼろ月のもと、明け方の花の顔は露に泣きぬれ、柳に眠る夜のうぐいすは、その枝の冷たさに、まどかな夢を結びかねている。
いま起き上がったその石の枕に「恋しや」と刻まれた文字がある。むせるようなこの香り、それはあのベットを包むほのかな帷の中から漂ってくるのだ。
女が示すまっすぐな気持ち――その真実さは、ちょうど静かにたたえた水のようだ。そのかわいい顔がほころびて、それ、ポッと紅がさしてきた。
ともしびを背にして、汗にぬれた着物を脱ぎかえ、いとしい方に頼んで枕べから耳かざりを取って来てもらう。
別れの涙は、蘭の匂うしとねにも浸みるばかりにしとどなのに、愛し合うということが、蝉の羽にも似てはかないものであろうとは――
銀のひばしで、香炉の灰を掻きならしつつ、彼女は「幾久しく」と書きつけている。思えばそれは、幾層にも高く灯籠をかかげめぐらした楼館だった。その赤い欄干は、町の大通りから真向かいに仰ぎみられた。
だが今、かつてのあの歓楽の場所は、見ればただ草おいしげる高い塚があるだけ。ふと楓の根もとから亡霊の声が聞こえてくる。その淮楚のなまりには聞きおぼえがある。
おお、おんみ、おどろおどろしい女の魂よ、いまどこの山の雨となって降っているのか。
(入江義高 訳)

サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)
『ヴィーナスの誕生』部分 1484-1486

今回はちょっと艶(つや)な詩からはじまるのだけれど、終りのほうはなんだか卒塔婆小町ぽくてなかなか良いと思う。明代の袁宏道(えん こうどう)の詩の翻訳だ。この対比は、バタイユではないけれどエロスとタナトスと言えば定番すぎるだろうか。ディディ=ユベルマンが、その著書の中でヴィーナスの負の部分を切り開いていくのだが、裸体が欲望ばかりでなく残酷さと共鳴することについて、ボッティチェリの描いた『ナスタージョ・デリ・オネスティの物語』に描かれた臓器の抉り出しに言及し、バタイユを引き、あまつさえ18世紀のマルキ・ド・サドが書いた『イタリア紀行』に振っておいて、その著書『悪徳の栄え』のジュリエットの言葉を引く。いささか粘液質で力技だが、この結合の業は驚くべきものである。しかし、これ以上書くと脇道にそれそうなのでここで止めておく。

今回は中国の話ではなくて、美術史家ディディ=ユベルマンに刺激されて西アジアからギリシア・ローマへと話は飛びます。主人公は、ヴィーナス、つまりアフロディテ。その系譜を追ってみたいと思っている。

アフロディテの誕生

愛欲に満ちた大いなる天・ウラノスが夜を率いて大地・ガイアの全身を覆いその上に横たわる。待ち伏せしていた息子のクロノスは右手に握ったぎらぎらと光る大鎌で、父親の男根を一気に切り落とすと、それは限りない海原へと落ちていった。と、漂流していくうちに、その周囲から白い泡が湧きだし、中から一人の乙女が生まれたのである。ヘシオドスの神統記にはアフロディテの出自がうねるようなパトス(情念)の中に描かれていた。

一方、ホメロスのアフロディテ賛歌では、こう詠われている。

‥‥
女神は海に囲まれたキュプロス全島に聳える城塞を、その領邑として知ろしめす。
吹き渡る西風(ゼフィロス)の湿り気帯びた力が、
やわらかな水泡(みなわ)に女神をそっと包んで、
高鳴り轟く海の波間をわたって、この地に運び来た。
黄金の髪飾りしたホーラーたちが女神を喜び迎え、
神々のまとい賜う衣装を着せ、不死なる頭には、
美しい、黄金造りの見事な細工した冠を載せ、
穴穿った耳たぶには、真鍮と高価な黄金の花形の飾りをつけた。
柔らかなうなじと銀のごとく白く輝く胸を、黄金の首飾りで飾った。
‥‥
(『賛歌第六歌』沓掛良彦 訳)

アフロディテの岩 キプロス島 パフォス

アフロディテはキュプロス(現キプロス)島に上陸したのである。キュプロス島のパフォスには古代世界において最も有名な神殿の一つであるアフロディテ神殿があった。フェニキアのアスカロンから移住してきた人々によって建造された神殿だった。キュプロスの祭儀は近隣の小アジアの影響を受けていることを考えるとフェニキアの女神アスタルテの祭祀が取り入れられていた可能性は高い。

ここでは、バビロニアやアファカのように「神殿売春」が行われていたとJ.G.フレイザーは述べている。未婚の女性が神殿を訪れる男性に幾らかの代価で身を任せるしきたりがあった。それはキュプロス王のキ二ュラスによって創始されたと伝えられる。性愛と豊饒の女神アフロディテはそのキ二ュラスの美しさに惚れこんで求愛したという。その母であったパポスは自らが象牙で造ったガラテアと恋に落ちたピュグマリオンとの間に生まれた娘であった。ピュグマリオンの願いを叶え、彫刻のガラテアに命を与えたのはアフロディテだ。そして、キ二ュラスと実の娘との間にできた息子がアドニスであり、彼もまたアフロディテが愛する若者となる。キュプロスの地とその王キニュラスがいかにアフロディテと深い関わりを持つかを物語る。

 


古代の結婚制度は自由婚制から母権制を経て父権制のもとでの結婚制度へと舵をきった。その間には多くの諸段階があったといわれる。文化人類学・法学者だったバッハオーフェンは自由婚制をアフロディテに象徴させていた。性愛の神である。しかし、ある段階でこの性愛の神と母権制の象徴である地母神としてのデメテル的要素は混ざり合っていったのである。


 

乱婚制の象徴としてのアフロディテ

デメテル 国立ローマ博物館

古代の婚姻制に関する研究が進むにつれ、アフロディテ的な自由婚(乱婚)制から純粋なアポロン的父権制へと至る婚姻制度には諸々の段階があることがわかる。その一つは狂女のようなマイナスらに取り囲まれた酩酊させるファロスたるディオニソスに象徴される社会であり、あるいは男を奴隷的立場に追いやり、男の子であれば手足をなえさせ、女の子であれば右の乳房を焼いたというアマゾン的社会の制度である。婚姻を知らない母性の表象である野性の湿地植物という表象段階から永遠の若さを保つ父性というウラノス的天空世界の調和やアポロン的光輝という段階に至るとバッハオーフェンは述べている(『母権論』)。女性が肉体的に浪費されるという立場から逃れ、男性に伍するためには、嫁資という武器が必要だった。こうして娘だけに相続権が与えられるようになる。乱婚や売春という自由な性交渉を根絶するためには、このようなデメテル的原理と呼ばれる母権支配による社会制度が求められた。

祭祀における最も優位な天体の性、あるいは月崇拝が盛んな地域におけるその性によってその地で男性支配あるいは、女性支配のいずれが行われていたかを知ることができる。バッハオーフェンにとって神話は時代の生の現実を忠実に映し出す鏡であったのだ。神秘は全ての宗教の真の本質であり、女性が祭祀と日常世界の領域で指導的地位にある所では深い内的な敬虔さがあったという。地上における生と死との限りない交替は女性の内に、高次の再生を前提とする高い希望を呼びおこすとバッハオーフェンはいう。それが「秘儀の新たな獲得」であり、デメテルとその娘ペルセポネー信仰のように大地と豊饒と地下世界に関連していくのである。

 


ギルガメシュ叙事詩で知られる女神イシュタルはシュメールの女神イナンナの系譜を引いていてプリュギアではキュベレ、エジプトではイシス、フェニキアではアスタルテと呼ばれた。ギリシアのアフロディテは、この流れを汲む。豊饒神としての性格とともに、パートナーとして冥界と地上を往還する男神との関係が注目される。


 

愛と豊饒の女神イナンナ・イシュタル・キュベレ・アスタルテ

バビロンのイシュタル(夜の女王)
BC1800-1750

シュメールの豊饒の女神である大地母神イナンナは「全てのものを生み出す子宮、生けるものたちとともに 聖なる住まいに住みませるもの、生みの親、心に慈悲満てるもの、その手に全ての地の生命を保持しませるもの」と詠われた。イナンナの祭りは植物の神格であるドゥムジ神との祭儀であり、聖婚によって一年の半分の期間に生命を生み出し、その半分は地下に降る男神であった。アッカド人の間ではイシュタルとタンムズとなる。

メソポタミア神話においてギルガメッシュは、シュメールの都市ウルクの実在の王であったと言われている。神のごとき強力な王であったが、暴君でもあり、都の乙女たちはこの王に初夜権を握られていた。その英雄の姿にウルクの守護神イシュタルはぞっこんとなって、ギルガメシュに言い寄るが、女神の気の多さと思慮のなさを言い募りすげなく振ってしまうのである。

イシュタルは金星の女神であり、宵の明星としての女性的側面と明けの明星としての男性的・破壊的側面があるといわれる。因みにギルガメシュ叙事詩では、月は男神シンである。タンムズはイシュタルの夫、あるいは若い頃の恋人であり、弟という説もある。その祭礼のことはT.S.エリオット part1 『荒地』 リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリックに少し書いておいた。イシュタルの冥界降りとは、亡くなったタンムズをつれもどすために自分の姉である冥界の女王エレシュキガルのもとに行くために七つの門を通過し、再び地上に戻る話である。イシュタルは、アッカド語の呼び名で愛と逸楽の神であったが、同時に豊饒の女神でもあった。

エーゲ海沿岸地域

現アナトリア半島周辺のプリュギアではイシュタルにあたる女神は二頭の獅子を引き連れ、あるいは獅子の引く車にのる姿で表されるキュベレである。この女神はリュディア王の娘でキュベレ山に捨てられ、この名がある。この女神が愛したアッティスは植物の死と復活を司る。その魂は松の木に宿り、血からは菫が咲きでたとされる。このアッティスがギリシアではアドニスとなるのである。

アドニスの生誕

例のキュプロス王キニュラスとその娘ミュラとの間に生まれた子供がアドニスだった。王女はあまりに美しかったために家の者がミュラはアフロディテより美しいと自慢し、女神の恨みをかった。ミュラは父親を愛するように仕向けられ父を騙して床を共にするが、それが発覚するや父に殺されかける。この神話が成立した社会には、近親相姦のタヴーがあったことになる。憐れんだ神々によって没薬の木であるミルラに姿を変えられる。その木が裂けて生まれたのアドニスだった。成長した彼はアフロディテと冥界の女王ペルセポネーとの取り合いとなり一年の三分の一を冥界で三分の二をアフロディテと共に過ごすようになるのだが、やがて、狩りの途中に猪に突かれて死んでしまう。

アントニオ・コッラドーニ 『アドニス』 1723頃 メトロポリタン美術館

このアドニスという言葉は、おそらくフェニキア語で「わが主」を意味し、「アド二」「アドナイ」がなまったものであり、かつてタンムズを冥界から呼び戻すために女たちが発した言葉だと言われている。アドニスが亡くなった後には赤いアネモネの花が咲いたというが、タンムズ信仰の盛んだったレバノンでは春先に山から洗い流された赤土が河を赤く染め、赤いアネモネが咲き乱れるところから生じた神話ではないかという人もいる。

ここに登場する女神たちは、いずれも地母神的性格を付与されていながら男性神格をパートナーにしなければ豊饒神としての性格を全うできない。性愛の女神アフロディテに見られるエロスとタナトスという対比は、地母神としての生(豊饒)と死という対比となっていて物質を支配する女神としての性格が際立ち始めるのである。物質の暗黒面が死である。

 


ユッピテルによってトロイアの若者アンキセスを愛するように仕向けられたアフロディテはローマ建国の勇将アエネアスの母となり、アエネアスの英雄伝説とともにローマ神話の中に流れ込んでウェヌスとなった。やがて、中世世界を伏流してルネサンスに再び花開くことになる。


 

ローマのウェヌスへ

ホメロスは『緒神賛歌』の中で続けてこう書いた。「男神たちを死すべき身の人間の女たちと交わらせ、女たちは不死なる神々のために死すべき身の息子たちを産んだなどと神々のいならぶ中で(アフロディテが)自慢して言うことのないように」とユッピテルは、女神にイダの森で牛を放していたトロイア人のアンキセスへ甘い恋心を抱かせるよう差し向けたと。

この二人の間に生まれた子供がアエネアスであった。アエネアスについては小川正廣『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』ホメロスとウェルギリウスに詳しく書いておいたのでここでは繰り返さない。ホメロスが活躍していた紀元前8世紀から200年後には英雄アエネアスが地中海を放浪してイタリアにたどり着きローマ建国の礎を築いたという伝説が生まれている。この過程でアフロディテは航行の安全を守る海神としての性格を併せ持つようになる。

帝政初期の地理学者ストラボン(前63-23)の記録ではアエネアスはイタリア到着後ラウィニウム(ローマの故地)にアフロディテの神殿を造った。3世紀のローマの博物学者ソリヌスはアエネアスがラウィニウムの野に陣営を築いた時、シキリアから携えてきた立像を「フルティス」と呼ばれる母神ウェヌスに捧げたと書いている。「フルティス」はアフロディテのエトルリア語の変形であるとされる。エトルリア版アフロディテがこの地で崇拝されていたことは、アエネアス伝説の受容にこの文化が大きな役割を果たしたことの証しとなる。このフルティス=アフロディテが女神ウェヌスとなるのである。その女神は天の神々の心を和らげ、その好意を人間に結びつける神秘的な力を持つとされた。ウェヌスの語源は「人間が呪術的行為において用いる霊妙な力」である venus という宗教的言語であったようだ。ホイジンガが言うように抽象的な働きや性格を神格化するのはローマ人の特性なのだろう。その神格化された働きであるウェヌスは本来「神々の好意を引き寄せる神」なのであった。

ニコラ・クストゥ『ガイウス・ユリウス・カエサル』 ルーブル美術館

ローマ建国の祖アエネアスがウェヌスの子であった事とこの国でウェヌス信仰が盛んになることとは当然無関係ではない。もうひとつウェヌス信仰に重要だったことがある。最高権力を目指す政治家にとって、この女神への信仰と子孫に関する伝説が国家の統一にとって不可欠と思われていたことである。ユリウス・カエサルは、わが一門の本家ユリウス家はウェヌスの血統であると自らの演説で強調したという。自分がトロイア人の血をひくことを強調したのである。彼は、自分とアエネアスとの神話的血縁関係をローマ国民と国家的な宗教との関係にまで拡大しようとした。これによってウェヌスはローマの国家宗教の中でこれまでにない高い位置を持つようになったと言われる。強固な父権制の布かれたローマだったが、ここにウェヌス=アフロディテに象徴される母権の復権がなされるのである。いつの時代にも父権制と母権制の闘争は見られるのだろう。こうして、ユリウス家の守護神は再びローマ人=アエネアスの子孫全体の母神となった。カエサルの養子で初代皇帝となったアウグストゥスは父の宗教的遺産を最大限に生かそうとした。この頃、ウェルギリウスが詠った『アエネイス』は過去へのノスタルジアではなく、その時代の風潮を反映していたのである。しかし、やがてキリスト教の時代がやってくる。

 


ルネサンス以降も、愛情運の星として占星術に、そして、結合術・親和力、あるいは金属の銅として錬金術に登場するアフロディテ=ウェヌスではあるが、19世紀以降になるとその姿はネガティブな表象に変化し、母神的要素は消えかかっていく。何故だろうか。最後は記号化される裸体としてのウェヌス=ヴィーナスを概観してみたい。


 

記号化される裸体

中世の時代にはギリシアやローマの異教の神々は当然、信仰の対象とはなり得なかった。しかし、図像や物語には登場してくる。その晴れやかな復権はイタリア・ルネサンスを待たなければならない。その頃の最も重要なイメージはボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』であろう。ヴィーナスはウェヌスの英語読みである。僕が追いたいのは19世紀以降におけるヴィーナスの行方だ。その頃、フランスを中心としたヨーロッパ文化の中に際立って現われる女性たちは、ボードレールなどのデカダンス文学やマネやクリムトの絵画に現われる娼婦たち、男を破滅させるファム・ファタールであったりする。つまり、ネガティブなアフロディテ的側面である。象徴主義が代表するこの頃の時代的風潮については『エゴン・シーレ』part1 ジェスチャーする絵画に書いておいた。母のポジティブなイメージは聖母に吸収されたのかもしれない。もっと謎なのは20世紀以降のヴィーナスの行方だ。これを考えてみることは興味深い。アフロディテの古代からの流れを考えれば、銀幕の美女やプロモーション映像の女性アイドルたちはヴィーナスと言えるのか。ウーマン・リブやフェミニズムの波は母権というより女権の権利獲得の試みであったかもしれない。ジェンダー論も盛んだった。しかし、次の観点から性愛のアフロディテ=ウェヌスを眺めてみたい。

フェリシアン・ロプス『ポルノクラート』1878

象徴交換的視野から歴史的・構造的描写を展開するジャン・ボードリヤールが、衣服や化粧などのモードは性欲を無化すると書いているのは新鮮だった(『象徴交換と死』)。念入りに化粧された映像の女性たちは触れることのできない表象である。モードのレベルで作用しているのは自然の性欲ではなく変質した性欲であり、服装は儀式的な性格を失った記号となる。その儀式的な性格は18世紀までは維持されていた。モードが一般性を獲得して記号化される時、肉体はその性的な魅力を失ってマヌカンになってしまうと言うのだ。

同じように女性の裸体が性産業の中でメディア化された欲望と化す時、そのようなイメージは複製化され反復され、増殖し続ける。その表象を担うのは、現実の裸体ではなく、仮想の現実=商品でありながら人間を取り巻く別の現実となるのである。ここでは、現実の裸体は、裸体の摸造、つまり象徴的な記号に交換される。この商品=イメージに組み込まれたメッセージは消費者の体と脳をマッサージし続けるというわけだ。どんな時代よりも性欲のはるかに巧妙で根源的な抑圧とコントロールが行われ、前代未聞のシュミラークル(摸造)の生成が成し遂げられようとしている今、腐敗と死によって世界のあらゆる物質を次々に循環させてきた生命のプロセスは、仮想の現実の増殖によって中断されようとするかのようだ。何故なら完全な複製の可能性は、死のイメージを排除しようとするからである。今日では豊饒という問題に死の排除という答えが与えられようとしている。死がなければ裸体の残酷さもなく、タナトスが失われれば、真のエロスもない。この流れに対抗しうるものは何なのか。

僕が思っている神話を一つご紹介して終わろう。結合力・親和力としてのアフロディテから派生したもう一つの神話である。「記号内容と記号表現の区別は、男と女の差異と同じように今や廃絶されようとしている」とボードリヤールは述べているが、今はジェンダーの問題は置いておいてほしい。何故、この神話が、記号の王国である摸造の世界、浮動する諸価値に対抗しうる契機となるのか、是非考えてみていただきたいのである。

『ヘルマフロディトス』 ルーブル美術館
前2世紀のヘレニズム期の作品のコピー

ある絶世の美少年が故郷のイダ山を出て、リュキアに近いカリアの街近くまで来ると、そこに澄んだ池を初めて見た。その池には所在なくも呑気に暮らす水の精サルマキスが住んでいた。その美しさを見た水の精は恍惚となって彼に迫った。少年は赤く染まった象牙のように白銀の顔を赤らめながらすげなく彼女を追いかえすと透明なガラスの箱にいれられた白百合のような姿を水の中に煌めかせた。
水の精は、ここぞとばかり水に飛び込み必死に逆らう相手を四方に伸ばした触手で絡みつくヒドラのように捕まえ無理強いに接吻を奪うと強引に胸に触った。少年は待望の喜びをニンフに与えまいと頑張り抜く。と、水の精はいつまでも私からこの人を引き離さないでと神々に祈った。願いは聞き入れられ、二人は抱き合ったまま合体し男でもあり女でもある複合体となったのである。その少年とは、父をヘルメス、母をアフロディテとするヘルマフロディトスであった。

 

『徐渭の水墨』 疾走するストローク 超越か狂気か?

徐渭(じょい)が狂ったのか、それを演じたのか分からない。自分の墓誌銘を作り、斧で自分の頭を叩き割ろうとした。頭の骨は折れたが死ななかった。錐で耳を刺し、血は流れ続けたが死にはしなかった。ついには職人に自分の棺を作らせて槌で自分の睾丸を叩き潰したから悶絶はしただろう。同郷の張汝霖は、彼は失脚した胡宗憲(こ そうけん)との連座を恐れて狂気を演じたのだと言った。しかし、翌年の雪の降る日に召使いの少年に衣服を与えた後妻の張氏と言い争いになり、殴り殺した。46歳の年である。狂気は本物だったのだろうか。この年、明の世宗帝が崩御、穆宗(ぼくそう)帝が即位し、大赦が行われた。徐渭が死刑にならなかったのはそのためだろうが、それから7年もの間、獄中で過ごすことになるのである。

徐渭『雑花図巻』部分 南京博物院

狂気と造形作品との関係はハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』芸術家と精神病者の世界感情で詳しく書いておいた。しかし、徐渭の狂気がその絵画と全面的に関係しているのかどうかは断言できない。ずっと狂気に陥っていたわけではないからである。その作品は威容でもあり、異様でもある。風狂ではあったが、清狂、奇峭といった潔癖さや極端な鋭さはないと思う。その作品には、覇気があり洒脱もある。たっぷりとした墨を含んだ筆跡を見ていただければその性格を想像してもらえるのではないだろうか。

郭熙(1023頃-1085頃)『早春図』 台北故宮博物院

北と南

宋(960-1279)という時代は中国のルネサンスだった。絵画は技芸を越え、知性溢れる芸術となる。欧陽脩、蘇軾、黄庭堅、郭若虚らは視覚芸術が宇宙を写し出す鏡としての輝かしい芸術性を持つことに気づきはじめる。五代・宋初の山水画は荊浩(けいこう)に始まった。関同は荊浩に学び、范寛(はんかん)は関同、李成(919-967頃)によってその作風を確立した。

書画の鑑定をよくした北宋の董逌(とうゆう)は李成の絵に「霧と靄、自然の内的な働き、陰陽の交替」を見た。ここには風水や道教の洞天福地にみられる理想郷としてのトポスがトレースされていたはずである。風水と山水画の関係は壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』で解説しておいた。蘇軾は郭熙(かくき)の絵の中で過去を追想し、その情感の世界に遊び、華北の秋の響き、雲海に浮かぶ山々の姿に心を馳せたという。「山水は行くべきもの、望むもの、遊ぶべきもの、居るべきもの」なのである(『林良高致集』)。郭熙は画院画家でありながらこのような深遠な著書を書き蘇軾や黄庭堅の庇護を受け彼らに画を教えた。彼らの合言葉は「詩とは形のない画であり、画とは形になった詩」であったろう。蘇軾については一碗 茶・チャ・ちゃ part2 宋と明のチャで触れておいた。北宋山水画は、深遠・平遠・高遠の三遠を整理したこの郭熙によって一つの完成を見たのである。

馬遠(1160-1225)『春径山行図』 台北故宮博物院

一世を風靡した郭熙の作品だったが、風流天子と言われた徽宗は、その作品の息苦しいほどの完成度を嫌った。彼が好んだのは写実性と花鳥画にみるような自然の一角だった。サブライムな宇宙的山水など彼の好みではなかったのだ。時代は米芾(べいふつ)の言った「平淡天真」へと傾斜していくのである。北宋が滅び、南宋の時代になると、もはや華北にあるような峻厳な山々はなく画の題材としては、ゆるやかな山地しかない。現実の山塊をもって北宋のような山水を描くことは不可能になるのである。南宋四大家のうちの馬遠や夏珪は、よく自然の偏角を描いた。余白の美学である。馬遠の画面構成は馬一角とさえ呼ばれるようになる。もともと馬氏は山西の仏画家の末裔であり山水を得意としていない。画中の人物の持つ意味が大きくなったのは当然だろうという人もいる。いささかひねくれやの米芾(1051-1107)とその子の米友仁(1074-1153)は、同じ五代、宋初の画家でも江南の画家である董源と巨然を支持した。董源の用筆は大まかで、近くで見ると形をなしていなかったが、離れてみると粲然(さんぜん)として幽情遠思は異境を見るが如くだったという(沈括『夢渓筆談』)。李成や関同らの北方系の山水様式は否定され、江南画に対する強い共感が闡明にされるのである。

米友仁『雲山図』部分 クリーブランド美術館

 

墨戯から文人画へ

沈周(1427-1509)『蘆山高図』台北故宮博物院

黄庭堅は蘇軾の絵画を墨戯と名づけその筆意を讃えた。笹群や梅の枝などの自然の一角を描き、その自在な精神に禅機に似たものを見たようだ。ちょっとオーヴァーだが、その手腕を左官の鼻についた泥を落とすのに鉞を振るって旋風を起こすほどの技を以って為すことに例えた(『東坡居士墨戯賦』)。墨と筆によって遊戯し自在を得るための手段と言って良い。宋末までには文人の中に画工や画家では為し得ない精神性を表現できる者が出現するというわけである。

宋が滅び元の時代は、院体画は振るわず、いわゆる文人画の活況する時代であった。この頃、文人画家が文人という建前をつくろいながら画を売ることは既にさかんだった。文雅・文徳あるものを指す文人という言葉は古くからあるが、文人画と呼称するようになったのは明代からであるという(鈴木敬『中国絵画史下』)。明中期には文人画の中心は手工業や経済の中心地として繁栄を誇っていた呉、つまり蘇州だった。これに対して浙江省杭州を中心とした職業画家たちを浙派と呼んだ。その頃は、宋の時代と変わらないほど職業画家が活躍した時代でもあった。特にその中期は画院が盛期を迎えていた。このような中で文人画家も職業画家も相互に影響しあっていったのである。例えば明代中期の呉派の代表的画家である沈周(しん しゅう)だが、彼のような文人画家も職業画家のように技法的な完成を目指していたことが窺える。徐渭(じょい)が生まれるまでの時代とはこのような状況だったのである。

徐渭の前半生

明(1368-1644)の時代、それは復古と完全な皇帝独裁制の暗い時代であったと言われる。徐渭(じょい)は1521年(正徳16年)二月に紹興の士大夫の家に生まれた。父は四川の州同知を退官していたが、徐渭が生まれた100日後に亡くなり、後妻の苗宜人に育てられる。実母はこの後妻の侍女であったと言われる。10歳の頃、長兄の商売が思わしくなくなり生家は傾き始め、四人の奴僕は逃亡し、実母も暇を出された。嫡母には深く愛されたが、彼が14歳の時に亡くなった。その病が重くなるとあらゆる神仏に祈願し絶食は三日に及んだという。59歳で亡くなったが、百たび身を粉にしても報いられないとその墓誌銘に記した。徐渭は、恵まれない星の下に生まれたのかもしれない。

神童と言われた徐渭だったが20歳の時、杭州の郷試に受験するも落第。21年間に8回続けて落ちた。絶望的に退屈で画一的な勉学と受験技術の獲得には耐えられなかったのだろうと陳舜臣氏は述べている(『徐渭と董其昌』)。郷試に初めて落第した年、潘克敬の娘である介君と結婚した。入り婿のような形で妻の家族とともにその父親の任地であった広東の陽江に住んだ。四年後に息子の枚(ばい)が生まれたが、神仙を信じていた徐渭の長兄が丹薬を錬っていて亡くなり、妻も19歳の若さで亡くなるのである。束の間の幸せはあえなく消え去る。二年後に妻の実家を出て『荘子』から引いた「一枝堂」という名の塾を開いた。そして、19年も別れ別れだった実母を迎えている。

この頃、明は日本の倭寇に悩まされ続けていた。嘉靖(かせい)三十六年(1557)倭寇戦の戦死者のための慰霊祭が浙江で行われ、その時の祭文を徐渭が書いたのだが、それが、やがて兵部尚書(国防相)となる胡宗憲(こ そうけん)に認められることとなる。密貿易商人であり五島や平戸にも行き来し、やがて倭寇の頭目となった汪直も胡宗憲によって平定された。胡宗憲は厳嵩の派閥に属していたが、その八十歳の祝賀文を徐渭が書く。そして、翌年胡宗憲に代わって『鎮海楼記』を執筆。その報償として銀二百二十両という破格な金額を得る。40歳の時である。しかし、翌年再婚するもののその翌年には厳嵩が失脚した。明代にあっては、中央の派閥の頂点にあるものの失脚は、その系列にある人間たちの失脚をも意味した。胡宗憲も職を追われ、後に自殺する。徐渭の精神が歪みはじめるのはこの頃のことだ。

徐渭『雑花図巻』部分 南京博物院

 

逸格の系譜

日観『葡萄図』元

唐の中期には逸品画家と呼ばれる人たちが登場する。ちょうど呉道玄の白画の線が「意気をもちいて成る」と言われたように中唐の溌墨家たちが一気呵成で意志的な線描を発展させた。王墨、張志和、李霊省といった人たちが逸格の画家として知られているが、現存する作品はない。王墨は瘋癲にして酒狂と言われ松石山水を描いたが酔っては髻(もとどり)に墨を含ませて絹地に描いたという。張志和も山水を描くことを好み、痛飲しては興に乗って撃鼓吹笛し、目を閉じ、あるいは顔をそむけて筆が舞い墨が飛んで形を成していったと顔真卿(がん しんけい)が『文忠集』に書いている。そう言えば顔真卿の周囲には狂草と呼ばれる草書をよくした張旭(ちょう きょく)や懐素(かい そ)がいた。顔真卿については一碗 茶・チャ・ちゃ part1 陸羽『茶経』対話篇に触れておいた。茶聖陸羽はかつてこの張氏の食客であったという。墨を画面に注ぎ跳ね飛ばすといった動的な作画がなされた。それは墨がなせる不定形な形態から形象が現われ出てくると言った偶然を取り込むような作画である。アクション・ペインティングとオートマチズムの萌芽とも言えなくはないが中国には早くからこのような表現主義的な作品が登場する。想念にある形をイメージしながら一筆一筆、制作を積み重ねる従来の絵画とはまさに逆方向の絵画なのである。

その荒々しさや意気に溢れ画面に横溢する感情表現が禅の気風とも相まって水墨画に与えた影響は大きかった。蘇軾や黄庭堅のいう墨戯ともその精神において繋がるものもあっただろう。南宋の梁楷は自らを梁風子(狂人)と呼んだ画院画家であったが減筆体と呼ばれる水墨画も優れ、墨を惜しむこと金を惜しむが如しと皮肉られた。そして、元初に活躍した画僧日観は破れ袈裟と揶揄された葡萄図のような作品を描くようになる。明の中期には浙派の中に狂態邪学派と呼ばれる異端の画家たちが現われる。このネーミングはきっと呉派からの揶揄だろう。郭詡(かくく)、孫隆、陳子和、鄭顚仙(ていていせん)などの作家がいたが徐渭とは直接関係はなさそうである。しかし、徐渭の作品もまたこのような唐から続く逸格の系譜の内にあった。それは、筆が走りエネルギーがみなぎる。しかし、それだけではないのである。

狂気から浮かび上がる

七年の獄中生活は徐渭に心の安定をもたらした。読書や詩作の日々が許され、実母が亡くなった時も仮出獄が認められたという。州知事が変わるとより自由となり墓誌銘や郡学校の修復記念のための執筆などの依頼もされるようになる。1572年穆宗が崩御、大赦が行われ出獄が許された。52歳だった。その後の徐渭は数千の書籍を売り、絵を売り、詩文を作って糊塗をしのいだ。現在、我々が目にする作品はこの時期のものだという。

徐渭『雑花図巻』写し 徐渭旧居における展示

早くから英才教育を受けた徐渭だが、子どもの頃から激しやすい性格であり鬼神が乗り移るような発作がおきたともいう。一方で頓智話でも知られるような面もあったようだし、けっして世間に対して背を向けるタイプではなかった。文人として書第一、詩第二、文第三、画第四と自らランクづけしているが、詩に「山深くして石榴熟し/日に向って便(すなわ)ち開口す/深山 人の収ることまれにして/顆々(かか)明珠走れり」と自分の不遇を山深く顧みられることのない石榴に例えている。呉の知事をしたこともある詩人の袁宏道(えん こうどう/1568-1610)が彼を公安派の先駆と位置づけ、その伝記『徐文長伝』を書いていることは中田勇次郎の袁宏道『瓶史』文人と花の心に「文房清玩」のことと共に書いておいた。

牧谿『六柿図』 南宋・元初

そう言った複雑な性格であっても、世間との交わりを絶やさなかった徐渭なのだが、周囲の画家を手本にはしていないらしい。意外な画家を手本にしている。彼の作品がただ激しい、気魄あふれる、スピード感があるというだけではない、ある種の雅や潤いを持つのはそのためだ。その画家が牧谿なのである。この南宋末・元初の画僧の作品を最もよく理解した明の画家は徐渭ではなかったかと言われる。自然の一角を切り取って表現するような自然描写は北宋末の徽宗においては、自然景観とは完全に切り離されていなかったが、南宋の偏角画が一般化されるとこの頃には既に切枝画といったジャンルが定着していた。

「五十九年貧賤の身、何すれど嘗てみだりに洛陽の春を思いしや 然らざればあに胭脂(えんじ/紅い顔料)のあること少なからん、富貴の花 墨をもって神を写す」と自跋した徐渭の後半生は貧しかったではあろうが、その作品を見る限り心は豊かではなかったろうか。おそらく狂気は身を潜めていたにちがいない。万暦二十一年(1593)に73歳で亡くなるが、彼の作品は、やがて明末から清初にかけて活躍した八大山人や揚州八怪と呼ばれる画家たちに大きな影響を及ぼしていく。

実は、僕が徐渭に興味を持つのは、そこに何か東洋的な新たな絵画、それも自然に存在する形態の表象が内的に結びつくことができるような抽象と水墨画の間に存在するようなものの可能性を垣間見ているからである。その抽象と自然の形との関係はオーストリアの画家マックス・ヴェイラーによって眼を開かされた。僕にとって徐渭は、今極めて重要な作家なのである。

牧谿『燕と蓮』 南宋末・元初

 

ニュース

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日
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