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ツヴェタン・トドロフ『象徴の論理』part1  記号の発生と象徴=交換能力

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)『詩という仕事についてついて』

ボルヘスは、こう述べている。「エマソンがその著作のある個所で書いています。図書館は、死者らで満ち溢れた魔の洞窟である、と。しかも、これらの死者は甦ることが可能なのです(『詩という仕事について』鼓直 訳)。」そして、「バークリー主教についてですが、私の記憶によれば主教は、リンゴの味覚はリンゴそのものには無く、―― リンゴ自体は味を持たない――リンゴを食する者の口の中にも無い、両者の接触が必要である、と書いています。一冊の本、書物の集まり、図書館についても同様です (鼓直 訳)」と。

仮に自分が素晴らしい詩の一節を作り上げたとしても、それらは、自分がしばらく前に読んだものの一節ではないかという思いに駆られるとボルヘスは言う。それが、また再発見にもつながるのだとしている。彼にとって世界は一冊の巨大な本、あるいはとてつもない図書館であったはずである。そこには無尽蔵の言葉があり、それらすべてはまた、何らかの繋がりを持っている。例えば隠喩は、二つの言葉を結び付けて作られる。私たちは信じられない数の隠喩を生み出すことができる。そこで我々は、考えるとボルヘスは言う。一体何故、世界中の詩人たちが、しかもあらゆる時代を通じて同じありあわせの隠喩を使い続けているのか?

今回は、このボルヘスの問いに何らかの回答を得るべくツヴェタン・トドロフの『象徴の理論』を探っていきたいと思っている。言葉が繋がりを持つための重要な要素である象徴の問題を取り上げる。本書は、冒頭において「象徴体系」という事象を考察してきた人々についての研究であると筆者のお断りから始まる。それに、対象とする象徴は言葉ではなく事実であるという。それは記号の特殊なケースであり、象徴の研究は記号の一般理論あるいは記号学(セミオティック)の領域に属するという。

ソシュール以降、記号のうち感覚に訴えるものを記号表現(シニフィアン)、記号に存在するある種の価値体系の空間を記号内容(シニフィエ)、この両者がセットになって意味作用と呼ばれてきた。鍵と鍵穴の関係だと思ってもらえばよい。表現と内容が合体した記号が、概念のカオスからある意味のネットワークの扉を開く。記号の内、最も大きな要素を占めるのは言葉だが、ソシュール以前では、言葉は既にある事物や純粋概念の「表現」でしかなかった。彼以降、言葉は「表現」であると同時に「意味」である。り・ん・ごという言葉が実物のりんごを示すような、記号と現実の対象との間にある指示作用は、この意味作用にとっては部分的なものでしかなく、り・ん・ごという言葉からりんごのイメージを思い浮かべるといった記号の使用者における心象の出現もその言葉の具体性に左右され、やはり限定的なものとなる。りんごの味覚は、リンゴそのものにもそれを食べる人の口の中にもないというわけだ。「愛」という一般的で普遍的な概念が予めあるのではない、もし、そうなら日本人の愛、フランス人の amour、英米人の love といった、全く同じとも、全く異なるとも言い難い言葉たちの意味は、正確に照応したはずである。「愛」という言葉は、広大な価値体系の中から「愛」に関系しないものを排除する。それは、布置とも呼ばれるが、「愛」に関する価値の束が残される。こういう意味で記号内容とは鍵穴なのだ。‥‥ソシュールの記号は三位一体というわけで‥‥やっと腑に落ちる‥‥そういえばパースの記号も三要素だったっけ

ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)
『象徴の理論』

ここで、トドロフにとって重要なのは、記号の持つ交換能力、つまり記号の象徴的な機能なのである。記号は、自らと全く異なる言語的現実を指し示す能力を持ち、その記号を他の言語記号に結び付ける(デュクロ、トドロフ共著『言語理論小辞典』)。象徴作用とは、同一レベルにある二つの記号の間の安定した連合のことを指している。例えば、「焔」はある文学では「愛」を象徴し、「お前は俺の相棒だ」という文は「親しみ」を象徴するといった具合である。もともと、記号における記号表現と記号内容には必然性はない。り・ん・ごという言葉と「りんご」という意味内容との関係は恣意的である。同様に、象徴するものと象徴されるものとの間にも必然性はないが、ある種の動機を持っているといえる。

これだけで、この込み入った本を読んでみたいと思ったのだが、なかなか困難な経験じゃなかったかなあ‥‥ 18世紀末、一つの危機の時代が訪れる。象徴についての考察は古典主義からロマン主義への転換点である50年の間に分離が生じたのである。

ツヴェタン・トドロフについては、ミハイル・バフチン 私とあなたの私との対話/結び合う記号のネットワークで少しご紹介しておいたが、ブルガリア生まれの思想家で、ロラン・バルトのもとで記号学を学び、フランスで活躍した。ジュリア・クリステヴァもまたブルガリアの出身でバルトのもとで学んでいたから同門だった。ロシア・フォルマリズムをフランスに紹介したことで知られ、ロマン・ヤコブソンに感化されて、「文学の科学」を目指した。『小説の記号学―文学と意味作用』で構造主義文学批評の嚆矢となり、シクススやジュネットとともに国際詩学研究誌『ポエティック』の編集委員を務める。これは季刊で文学や修辞、物語の構造などに関する文芸理論誌だったようだ。バフチンの影響か、対話批評に向かい、他者問題や異文化問題を主題にした『歴史のモラル』でルソー賞に輝いている。パリ第7大学を経て、フランス国立科学研究センターの芸術・言語研究センターで研究委員を務めた。デュクロとの共著『言語理論小辞典』は素晴らしいと思う。

 

記号学の発生


記号についての考察は、言語哲学、論理学、言語学、意味論、解釈学、修辞学、美学、詩学といった別々の伝統の中で無関係に行われた。記号学はアリストテレスを嚆矢とする。基本的には、音声と事物といった記号が、精神を媒介として意味を生み出すと考えられていた。まずは、記号学の黎明期を概観したい。


 

アリストテレス(前384-前332)
ギリシアの彫刻家リュッポス作のブロンズ像のコピー ローマ時代

「声によって発せられる音は精神の状態の象徴であり、書かれた語は声に出された語の象徴である。これらの表現が直接的な記号 (シーニュ) となっている精神の状態は万人において同一であり、精神の像 (イマージュ) となっている事物もまた同一である(アリストテレス『命題論』/及川馥・一ノ瀬正興 訳)。」

アリストテレスは、語を音声、精神状態、事物という三者の関係から規定した。精神状態は直接的な関係のない音声と事物を媒介する。精神の働きは、一方が他方の像(イマージュ)となるような有縁な関係性によって両者を結合するのである。有縁性と恣意性については巻末に説明しておいた。慣習によって意味作用を持つ音声が名詞となる。何物も自然に名詞となることはないとアリストテレスは考えていた。

言葉は、既にある事物や概念を精神の働きによって結びつける。言葉を記号と捉えたとしても、アリストテレスの言うようなイメージは、普通、今の自分たちが持つイメージに近いんじゃないか‥‥

ストア派の記号論についてはセクトゥス・エンピリクスの『定説家論駁』にその断片が窺える。記号内容 (シニフィアン)、記号表現 (シニフィエ)、対象 (オブジェ) の三つが結びつくとしている。ここでも音声と対象は物体的であるが、意味内容である語られるもの (レクトン) は非物体的なものである。しかし、記号という言葉は何故か使われない。問題にされているのは固有名詞であり、他の種類の象徴は考慮されていない。固有名詞は、指示能力はあっても意味はないからである。ストア派の徹底した唯物論の中でレクトンは例外的に非物体的である。それは、対象を指示するための記号内容の能力である。レクトンは概念やイデアではない。むしろ、レクトンの上で思考が働くという。レクトン‥‥OS

修辞学 間接的意味あるいは転義法

アリストテレスにおいて、隠喩あるいは言葉の転用は特に象徴的な構造ではなく、置き換えられた名詞によって事物を呼ぶこと、ないし、それを置き換えた名前で呼びながらその本来の名を言わないことである。アリストテレス門下のテオフラストスでは弁論術・修辞学は重要な役割を演じるようになる。転用の用語は一挙に増えて、転義比喩と寓意、及びイロニーとフィギュールが登場する。偽ヘラクレイトスでは、あることを述べ、しかも述べられていることとは別のことを意味する文体の文彩は寓意という名で呼ばれる。‥‥文彩は転用の技術だったか

解釈学

解釈学の伝統は著しく困難なほど広範囲・多岐にわたる。それは、直接と間接、明快と晦渋、ロゴスとミュート(話、筋、寓話)といった二つの系統の対立から生まれた。理解と解釈という受容の二つの対立的な様式の一方である。例えば、ホメロスの詩や聖書といったテクストの注解と占術などの多様な形体での予見というものに代表できる。アリストテレスは「隠喩を上手に作るためには(事物の間に)類似を確実に認めることである」と述べる一方で、「夢の最も巧妙な解釈者は夢の類似を認める能力のある人である」と述べている。解釈学の伝統の中に記号学への試みが現れるのは、アレクサンドレイアのクレメンスを待たなければならない。彼は象徴的領域の統一性を極めて明快に述べている。「隠されないものは一つの手段で知覚される‥‥曖昧に表現されたものからは複数の意味を引き出すことができる。」‥‥文彩の技術は多様化をもたらすということか

アウグスティヌスの記号体系

聖アウグスティヌス(354-430)
マルク・アルシス作 1715 ノートルダム大聖堂

アウグスティヌスはある目標に到達しようとする過程で記号の理論を顕わにする。彼は聖書におけるテキストの解釈に身を捧げ、その解釈学が修辞学を吸収した。彼の記号学についての総合的オリジナリティ――あるいはむしろ全世界的教会的性格といった方が良いかもしれないが――は巨大だった。それは西欧思想の歴史上、記号学に値する最初の体系だったのである。

「記号とは、それ自体を感覚に示すものであり、それ自体の外にさらに何かを意識 (エスプリ) に示すものである。話すということは、分節された音声の助けを借りて記号を与えることである」としている。アウグスティヌスによって、言葉が記号であるということが確認された。‥‥これは大きい。そして、記号がもともと感覚しうるものと理解されうるものという二重性を持ち、記号それ自体の中に非同一的な要素があることが明らかにされる。

言葉は、指示と指示作用という記号と事物との関係性を持ち、同時に、話し手と聞き手という関係性も持つ。初めて、コミュニケーションとしての枠組みが主張される。話し手と聞き手とのコミュニケーションの枠組のなかでは言葉 (パロール) の助けが必要である。話し手は意味を抱き、ついで発音し、聞き手はまず音声を把握し、次いで意味を知覚する。これは、ストア派では欠けていたものであり、アリストテレスでは曖昧だったものである。アウグスティヌスにとって言語活動は本来音声的なものが優位にあり、聴覚が視覚よりも優位にあった。

ヴェルブ verbe(言葉)は、それを発音し考える時と、魂の中で認識の対象と共に刻印される時とは別の種類のものと言える。後者の言葉は諸人種の言語に属していない。我々が既に知っているものから発して形成される思考は心の奥で発音されたヴェルブ verbeである。この前言語的な内的ヴェルブというものにも二種類あり、認識の対象によって魂の中に残された痕跡と神を源泉とする内在的認識である。以下に示すこのような流れになっている。‥‥しかし、内的ヴェルブってレクトンのこと?

神の力 → 内在的な知+認識の対象 → 内的ヴェルブ → 思考される外的ヴェルブ → 発話される外的ヴェルブ

アウグスティヌスは『キリスト教教程』の中で記号 (しるし) を細かく分類したが、それらを現実的に調整はしていない。この記号は、言葉だけでは当然ない。記号は、自然的 (無意志的) なものと意図的 (意志的) なものに区別できる。自然的記号とは、煙が火の記号、同様に獣の足跡が獣の記号となり、人の怒ったり悲しんだりしている表情はその人の意図と関係なくその気分を表す記号となる。身振り動作なども或る種の記号となることを指している。それは意図や欲求なしに自発的に、記号そのものとは別の何ものかを指す。

福音書記者の象徴 作者未詳
マタイ=人、マルコ=獅子、ルカ=雄牛、ヨハネ=鷲

意図的記号は、あらゆる生物がその魂の動きを、つまり考えたり感じたりしたことの全てを、自分に可能な範囲で示そうとして、互いに作っている記号である。意図的な記号には、人間の語があり、動物が食物のありかを告げたり、発信者の存在を知らせる叫びなども含まれる。アリストテレスの場合、このような叫びは如何なる約束事も制度も必要としないとして「自然的」とみなされていた。アウグスティヌスにとって意図的記号は、記号として使用するために作られた事物である。学習や制度、約束事を含んでいた。彼にとって意図のあるなしが重要であって、それは、またしてもアリストテレスの「慣習的」記号とも異なるのである。それは、昔から何となくそうなっているものではなかった。この区別はアウグスティヌスに独自のものだったのだ。

聖書解釈においては、少なくとも言葉通りの本来の意味とキリスト教教義における比喩表現としての二つの意味があった。一つの記号は、その記号内容が今度は記号表現となる時、転用となる。「牛」という言葉を聞けば、この名で呼ばれる動物が念頭に浮かぶが、聖書では「牛」は福音書記者の一人、ルカを表す。一般に解釈においては、未知の記号が別の良く知られた記号に置き換えられる必要がある。アウグスティヌスにとって聖書の言葉の多くには、霊的意味が隠されているのであって、それを発見することが困難であればあるほど発見の喜びは大きかった。このような解釈を行う中で、意図的‐非意図的、慣習的‐自然的、といった区分は本来の記号‐転用された記号といった対立関係の中で再び考察されることになる。

『アウグスティヌス著作集』第六巻
 教文館 1988年刊 加藤武 訳
「キリスト教の教え(キリスト教教程)」

しかし、この転用は解釈の増殖を招く。霊的な意味は頂点にあり、次に寓意的意味が来て、言葉通りの字義的、物質的意味になるという階層構造が存在した。意味されるものが予め知られていないとその記号が何か分からない。記号が認知されれば解釈できる。しかし、アウグスティヌスは、何者も記号によっては学ぶことができないという。実在についての知識がなければ記号の解釈ができないからである。実在を教えるのは神でありキリストである。哲学者ルイス・マッキーが『アウグスティヌス〈教師論〉における信仰と理性』で上手に説明してくれている。あらゆる記号は、結局別の記号を意味するという連鎖を果てしなく繰り返し、記号を用いることによって実在の意味を知ることはできないのではないかという懐疑が持ち上がる。言葉は、たらい回しという構造的な危うさを抱えている。ここで、アウグスティヌスは受肉した言葉、つまり記号であると同時に記号の意味 (記号と実体的に同一の意味) であるような言葉を想定するのだと。

トドロフは、記号と象徴の対立関係を基礎づける試みは、ヘーゲルやソシュールによって再開されるが、すでにアウグスティヌスによって乗り越えられていたという。‥‥うーん、記号が福音している、トドロフが前半で言いたかったのは、ここかな

 

古代ローマから18世紀へ・レトリックの推移 


ローマの帝政への移行に伴い、弁論術としてのレトリックは衰退し、美しい修辞技術として脚光を浴び始める。それは、美しいポエジーの術と欺瞞の術という二つの価値観に分離していった。


 

アリストテレスは、レトリック(本書でレトリックという場合は、弁証法と修辞学、両方を含む)が、それぞれの対象について可能と思われる説得手段を見つけるための力としたし、ストア派も弁証法的な「正しく話す」を弁論家的な「うまく話す」から峻別したという。しかしながら、レトリックの技術は古代末期以来、美辞麗句演説の作文学となった。それも前近代では、個性的なるものよりはるかに類型的なもので、その技術を用いるための厳格な規律が不可欠だった。賛辞のための美辞麗句で糊口をしのがねばならなかった後期ソフィストたちにとっては、厳格な規律から言葉の誇張、過剰へと傾斜していったのは世の習いであろう。やがてレトリックに虚構というレッテルが貼られるようになる。

タキトゥスにとって弁論が何か現実に役立つ限り、それは進歩していたのであって、それが可能になるためには言葉が力を持つような自由で民主的な国家でなければならなかった。しかし、ローマは、共和制から帝政へと移行したのである。権力は諸制度に依存するのであって、集会には属していなかった。ビザンツ世界でも同様であって、ハンス・ゲオルク・ベックは『ビザンツ世界の思考構造』の第三章「古代弁論術とビザンツ美術」の中で極めて上手にまとめている。‥‥この本は、美文で訳も抜群だった

クゥィンティリアヌス(35頃-100頃)
『弁論家の教育』

レトリックの第二期は、1世紀のクゥィンティリアヌスから19世紀初頭のフォンタニエまでとなる。文彩や転義法の効果について考えることは、もはや他人への効果を考えることではなく、表現と思考の関係や内容と形式の関係、つまり言語の内部機能へとシフトしていった。言語の精髄に迫り、文体の秘密を極め、観念や思考と表現の真の関係を知るのである。レトリックは言語の祭典となったが、緩慢な衰退、堕落と窒息へと向かっていく。

ラテン修辞学を確立したクゥィンティリアヌスは、思考は構想に関わり、語については措辞を、思考と語両者については結構を考慮しなければならないと述べたが、彼にとって文飾は道徳的に非難される対象でしかなかった。教示と感動は構想と結構に大きく左右され、感動は措辞としか結びつかないとトドロフは、指摘する。20世紀の言語学者であるビューラーやヤコブソンは「教示」は指示へ、「感動」は受信者へ、「快楽」は発話それ自体に導かれるとした。ここでは、話者の表出的機能が欠如しているが、主体が俎上に上り始めるのは、実はロマン主義以降である。

レトリックが、どのように見られていたか少し、例を挙げておこう。クゥィンティリアヌスは、言説は男性であり、粉飾された言説は男娼だと述べている。ロックは『人間悟性論』の中で、レトリックという誤謬とペテンの道具が公然と教えられていることを非難し、弁論が美しい性 (女性)にも似てその魅力は、はなはだ強力で、それに反論することすら許されず、人々が喜んで欺かれるこうした欺瞞の虚偽をいくら暴き立てても無駄であると書いている。‥‥ケチョン、ケチョンだ

イマヌエル・カント(1724-1804)
生誕250年記念切手 横顔は、かなりイメージと違う

ついでに、カントは『判断力批判』の中で、純粋に形式的美である詩について語る。美しいポエジーは、自分に常に純粋な満足を与えてくれたし、雄弁と典雅な話し方とは芸術に属する。しかし、弁論術となると、人間の弱点を自分の意図のために(その意図が善意によるものであろうとなかろうと)利用する技術であるから少しも尊敬に値するものではないと述べている。

有効な弁論という目的は失なったが、膨大な規則の集大成としてのレトリックは残った。それは、言説の美にのみ関わるが、同時に人々が喜んで欺かれるような技とされ、自己欺瞞に陥った。この第一の危機に続く次の危機がやってくる。万人に共通な基準であった宗教の基盤は揺るぎ始め、貴族階級という既存の特権階級は終焉を迎える。奉仕されるべきものはいなくなり、各人が第一に奉仕されるべきものとなるとレトリックは、読む者のためのものとなったのである。カントやノヴァーリス、シェリングが、美はそれ自体で自足するものと定義するようになる。これが、ロマン主義以降の第二の危機であった。それでは、レトリックは、今度こそ言語の祭典に奉仕するものとなるんだろうか‥‥

 

ロマン派前哨戦 芸術は記号か?


修辞が終わる時、美学が始まる。ロマン派に至るまでには三段階の美学があったが、そのうち二つの原理はよく知られたものだった。一つは模倣(ミメーシス)、もう一つは部分同士・部分と全体の調和という作品内部に築かれる美の原理である。そして三つ目は、新たに有縁化される記号としての美の原理が登場する。


 

イデオロギーのもろさが突然明らかになると、その学問の探求において正しいと認められていた価値基準に根本的な変化が生じる。その変化は、その学問における細部の観察や説明の質をなきものにしてしまう。18世紀における修辞学がそれだった。デュ・マルセやボーゼは文彩や文の一般構造を研究し、コンディヤックもまた文彩の研究を行った。ちょっと面白いのは、デュ・マルセやボーゼが隠喩の中では言葉は本来の意味と比喩的意味の二つを持ち、寓意においては本来の唯一の意味のみを持つとしていることだ。それはともかく、彼らはフランスの修辞学の伝統の中にあって過去数世紀の修辞学に支配されていた。しかし、フランス革命がやってくる。修辞学が終わる時、美学が始まるのである。‥‥パラダイムシフトって言うわけだ

タキトゥスの時代にレトリック内部で用意されていたあるがままの言語活動の享受は、ノヴァーリスの「もはや我々は普遍的に承認された形式が支配していた時代に生きているのではないのである」という宣言と共に、諸要素間の調和的な結合によって美それ自体を実現することと定義されるようになる。バウムガルテンの最初の美学の試みは、レトリックを手本にしたものだったと言われる。模倣の原理は18世紀が四分の三経過するまで芸術理論を支配していた。トドロフはこの模倣の原理には三段階あるという。

ジョナサン・リチャードソン(1667-1745)
自画像 1729 部分

第一の段階は自然の模倣を唯一の拠り所とするが、模倣は完全であってはならない。卵は一つの卵であって、卵が別の卵を模倣するとは誰も言わないとヨハン・エリアス・シュレーゲル(シュレーゲル兄弟の伯父/劇作家)は述べたが、ある種のバイアスのかかった模倣が求められた。

第二段階は、理想に沿って選ばれ修正された自然、つまり「美しい自然」を目的とする巧みな模倣である。イギリスの画家・批評家であったジョナサン・リチャードソンは、絵画の主要な目的は自然を高め、改良することだと述べている。しかし、「美しい自然」とは何か、誰にも正確に定義されなかった。ディドロは、自然自体がある理想のモデルであり、それを描くことは模倣の模倣だとした。プラトニズムである。

古来、芸術には競合する二つの原理があった。一つは、作品の外にあるものに作品を結び付ける模倣の原理であるが、音楽や抽象絵画は除かれる。もう一つは、作品の内部そのものに確立される美の原理である。これについてはパノフスキーが古典主義的理念として上手に纏めている。‥‥これは、なかなか香しい

「美とは部分相互間の関係及び部分と全体との関係の調和である。この考え方はストア派によって発展させられ、ウィトルウィウスとキケロからルカヌスやガレノスまで躊躇なく受け継がれ、中世スコラ派の中に生き残り、最後にアルベルティによって公理として確立された。彼はそれを〈自然の絶対的第一法則〉と呼ぶにやぶさかではなかった。この考えはギリシア人がシンメトリア、あるいはハルモニアと名づけ、ラテン人がシンメトリア、コンキニタスおよびコンセンスス・パルティウムと呼び‥‥‥ルカヌスを引用するなら、それは〈全体とあらゆる部分の関係の均一性、あるいは調和〉を意味していた(アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー 生涯と芸術』)。」

やがて、模倣と調和は、ほとんど類義語になってしまう。ディドロ曰く「もし模倣の真実が調和の魅力に加わるとすれば、完成に達したに違いない」というわけだ。‥‥折衷されたか

ジャン=バティスト・デュボス
(1670-1742)
『詩と絵画に関する批判的考察』

第三の段階は、諸芸術の記号としての類型学の段階である。絵画や文学、音楽はどの程度まで記号なのかとトドロフは問う。確かにこう考えることは普通ない。というのも記号における言葉のシェアは圧倒的だし、どのような記号も言葉を通して理解されるからに他ならない。‥‥ヴァールブルクの『ムネモシュネ―』は、その反論であるかもしれない

この芸術の記号論的類型学を企てたのはジャン=バティスト・デュボスであった。フランス北東部のレゾンという町にあるノートルダム教会の神父だった。「絵画は文学のように人工的記号を用いないが、多くの自然的記号を用いる」と述べた。彼の場合、視覚的な絵画の優位は動かないし、ポエジーを含めた文学は聴覚の芸術と捉えていた。そして、語は観念を喚起すべきであるとし、次が大事なのだが、語はその観念の恣意的記号に過ぎない、これらの観念は想像力の中で調整され、我々の心を打ち興味をそそるような画面を作らなければならないとした。

レッシングは、『ラオコーン』とその後に見られるように、絵画の記号は空間と自然なものの中にあり、ポエジーの記号は時間と恣意的なものの中にあるとして、いずれも有縁化されるべきだと考えていたようだ。彼によって、ポエジーとは記号が有縁化されている言語だという定義が登場する。ポエジーに奉仕する擬音語、感情の普遍的な表現である間投詞、これらの用法によってポエジーの音楽的表現が生まれ、言葉の自然な繋がりと隠喩 (メタファー)の使用が指摘される。

隠喩が構成する類似は、イメージや擬音語といった有縁化された記号の類似とは異なる。隠喩は有縁化されない記号を使って作られた有縁化記号であるとレッシングは考えていた。記号内部の機能へと視点が移り始めている。一方、ポエジーと絵画は恣意的であると同時に自然的でありうるとした。要素を自由に結び付ける自己の創作であると同時に、自然の模倣でもありうるということだろう。しかし、レッシングは表象あるいは演出としての新たな模倣とモデルに類似したものの生産という旧来の模倣の間で揺れているとトドロフは、指摘する。彼は、記号(あるいはイメージ)と世界の関係を問題とする模倣の原理という古典主義的精神に引きずられながらも、詩を記号表現と記号内容との関係という、記号内部の関係に導いたことは、詩的言語におけるロマン主義的理論の先駆けとして評価されるべきであるという。彼は、模倣を擁護しようとして心ならずも誰よりも痛烈な一撃を模倣に与えたのだとトドロフは言うのだ。こうして新たな問題が提起された。レッシングの後継者たち、A.W.シューレーゲルからロマン・ヤコブソンに至るまで、言語活動は恣意的であるという事実と文学は有縁化された記号を使うという確信をいかに和解させるのかという問題である。

ふぅー 前半終了‥‥ 恣意性と有縁性について知りたい人はこの後の付録をお読みください

 

 

付録 言語の有縁性と恣意性

「言語とは、部分的あるいは全面的に、事物もしくは思考の自然な秩序によって説明され、正当化されうる」という立場が言語の有縁性を標榜する立場。一方、「言語とは果たして独自で予測しがたい言語外のいかなる現実にも還元されない一つの現実である」というのが言語の恣意性を標榜する立場です。これらをデュクロ、トドロフの『言語理論小辞典』から紹介しますね。

名称とそれが指示する事物の間には自然な関係があるとする考え方がヘラクレイトスの流れを汲む思想にはあった。「名称を知るものは事物をも知る」。有縁性の立場である。いきおい語源の探求に傾いていく。音が一種の自然の真理を持つという考えはストア派にらみられ、ライプニッツは語源学が原始語への接近を可能にし、その原始語は現在の言語よりはるかに音の持つ表現的価値を活かしていただろうと信じていた。この言葉と事物の自然な関係が、模倣(ミメーシス)に関連していくのは想像に難くない。プラトンはどうかというと、真理は言葉の外の本質直観に求められると考えていたから言語の恣意性は認めながらも相対主義の教訓と修辞学を拒んだ。その直感把握が「理想言語」の創造を可能にするのだろうが、それにおいてすら名称は本質の映像ではなく、補助記号にとどまるという。‥‥模倣の模倣ということか

デモクリトスを祖とする「人間が万物の祖である」という相対主義的思想においては、「事物の命名は恣意性によるものであって、法則、制度、契約の問題だとしている。これは勿論、恣意性の立場。ソシュールの流れでは、言語に見られる音に関する因果関係は意味の面を支配する関係とは独立した別のものであるとして言語の恣意性を闡明にした。言語は一つの体系をなし、内部に一つの組織を持つという考えに結びつく。それぞれの記号がその指示対象の模倣であるとすると、個々の記号は他の記号とは独立して説明可能となり、他の記号と切っても切れない関係を持つことはなくなってしまう。だから、古代から類推(アナロジー)と呼ばれる言葉に内在する規則性を追求した文法学者たちは恣意性の側についたという‥‥有縁性と恣意性というのは、だいたいこんな感じ‥‥これを押さえておかないといけません

 

 

参考図書

ハンス・ゲオルク・ベック
『ビザンツ世界の思考構造』

オスワルド・デュクロ、ツヴェタン・トドロフ『言語理論小辞典』
言語理論の素晴らしい解説書になっている。

ジョージ・ビショプ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』あなたにとってキリストとは誰ですか?

ジョージ・ビショップ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』
緒形隆之訳 アルぺ神父の列福を祈る会刊
SJ はラテン語の Societas Jesu(イエズス会)の略

イエズス会とは何か。と聞かれてもおそらく信者さんで、その教会に関わっている人でなければ良く分からないのではないだろうか。これはドミニコ会やフランシスコ会といったキリスト教会派でも同様であろう。かくいう筆者もイエズス会の経営する学校で長らく教えてきたけれど神父さんに知り合いはいても、どのような活動がなされているのかはボンヤリとしか分からない。もっとも僕がボンヤリしていただけなのかもしれない。今回はかつてのイエズス会総長、つまり最高責任者と言ってよいと思うのだけれど、その人の伝記『ペドロ・アルぺ SJ 伝』を借りることができたのでご紹介したいと思っている。広島と縁の深い人だった。筆者は、ジョージ・ビショップという人ですが、イエズス会の関係者とは思うけれど、この著者について、あまり紹介がないので詳しく分からない。インド生まれで、ロンドンの学校で教鞭を執った後、ローマやジャマイカの大学で教え、ユネスコの派遣でタンザニアやフィジーへ赴いたとある。

イエズス会のイメージ

「私が日本で修練院長をしていた時、若者達がイエズス会に入会しようとやって来たことを思い起こします。岩波という大きな出版社が編集した哲学辞典をよく使ったものですが、それには、イエズス会の古典的な定義として五行が割かれており、それには、ジェズイット(イエズス会士)は偽善者の典型であり、目的を達成するためには手段を選ばない者、常に権力と張り付こうとする者、とあります。これが五行の中にあるすべてです。これを若者達に見せて、尋ねました。『これをどう思うかね ? 』」

今では岩波の辞典にはこのような記載はないだろうけれど、アルぺ神父はイタリアのテレビネットワーク RAI のインタビューで上のように述べている。続けてこう答えた。私たちの与える印象がどうであろうと私達が望んでいることは、人々に「仕える」ことであり、そのために私たちの組織の人的資源を自由に活用しようと試みている。しかし、権力の力に依って活動することなど望んでいない、それは特異なことだと思う。まして、政治的な権力など問題にならないし、大きな影響力を持つために大金を持ちたいという個人的な思いも問題外である。富の所有は、私たちの「清貧の誓い」に反すると語った。

アタナシウス・キルヒャー画『幾何学原本』に描かれたマッテオ・リッチと徐光啓 1667

そして、狡猾さという悪口に対してはこう答えている。せいぜい、それは思慮分別の問題です。時には政治的な便宜主義の行動として解釈されるかもしれないような問題だが、それは思慮分別と人間的な理解力によって進められるもっと大きな人間的、福音的問題と関わっていて慈愛や隣人の必要を知りたいという願望の問題なのだと答えている。

実は、この問題は古くに遡る。例えば、マッテオ・リッチは、中国語を学び、その言葉で著作を書き、儒者の服を着たし、儒教の上帝とキリスト教の神との類似性を指摘し、自らの国が世界の華と自負する官僚やその家族たちの警戒を解こうとした。確かに、鎖国下の明末に、士大夫の伝(つてで宮廷に接近し、華麗なる自鳴鐘(時計)やチェンバロなどを贈って北京に居住の許可と生活費の保証、そして布教の許可を得ている。草の根の布教という観点から言えば非難を受けるかもしれないのだが、独裁体制をしく皇帝神宗の許可なしには、布教を続けることはおろか中国に留まることも困難であり、中国入りを前に倒れたザビエルの遺志を貫くことも叶わなかったろう。結果として、ルネサンスの自然科学を中国にもたらし、中国の文化を西欧に知らしめ、東西の架け橋となったことも確かである。

ルルドの奇跡

ペドロ・アルぺは1907年スペインの北西にあるビルバオに生まれた。父マルセリーノは建築家で、母ドロレスはバスク地方の医師の娘だった。上に4人の姉のいる一番下の長男として中流の家庭に生まれた。幸せな家族に不幸が訪れたのはアルぺが8歳の時で、母が亡くなる。11歳の時に無原罪の聖母マリア修道院に入会し同じバスク人だったフランシスコ・ザビエルに興味を抱くようになった。1922年にマドリード大学の医学部の学生となる。後にDNAやRNAの研究でノーベル医学賞を受賞したセベロ・オチョアと同級だった。この頃、貧困者の援助組織である聖ポール・ビンセント会に友人と二人で参加している。貧しさとはどのようなものかを目の当たりに見た。だが、またもや不幸が襲う、医学部在学中に父親が亡くなったのだ。

1926年、医学部の最終学年だったアルぺはフランスのルルド村に向けて出発した。「奇跡の回復」を医学的に検証する奉仕活動だった。1858年にベルナデッタという名の少女がマッサビエルの洞窟で若い婦人に出会うようになる。その夫人が聖堂を建てるように望んでいると教会関係者に伝えた。そして彼女がその名を尋ねたところ「無原罪の御宿り」と告げる。カトリック教会が聖母マリアが無原罪であると公認したのは、そのたった4年前のことだった。村の娘が知っているようなことではなかったのである。そこでは、見捨てられるような病気の患者が次々と回復していくという奇跡が伝えられている。

アルぺは検証局の正式な医師として、ルルドで回復した脊椎カリエスの修道女を診察し、X線写真でその回復状態を検証した。末期の胃癌だった75歳の老女はルルドの奇跡に一縷の望みを託してやって来たが、三日目にはすでに元気に歩けるようになっていたのである。X線写真で胃が撮影されたが、癌の痕跡は見つからなかった。彼はマドリードに帰ると大学院への進学の準備を始めた。既に最終学年の試験を最優秀の成績で終えていた。しかし、彼は迷った。貧困者の援助活動の中で出会った家族たちやルルドの奇跡が彼の頭を占めるようになっていた。そして、彼はロヨラに行って修練院に入る手はずを整えたのだった。2年の修練期の間にローマの長上たちに日本に行ってザビエルの事業を引き継ぎたいという意思を手紙にして送っている。

ロヨラの聖域  スペイン アスペイティア

山口の牢獄

この著作は、山口でのアルぺ神父の逮捕の場面から始まる。彼は、1938年に神学を学んでいたアメリカから日本にやって来た。東京で18ヶ月、日本語と日本の習を学ぶと1940年に宇部を経て山口に赴任する。そこで彼は憲兵隊にスパイ容疑で逮捕されたのである。既に日本はアメリカに宣戦布告し、運の悪いことに彼はドイツ人ではなくスペイン人であり、おまけにアメリカから来日していた。結局30日以上留置され尋問を受けた後、1942年の1月に開放された。

尋問は23時間ぶっ通しを含めて37時間に及んだこともあった。それは、彼にとって重要な体験であった。尋問に対してどう話せば日本人の心に訴えかけるのか、分かってもらえるにはどう表現するかを腐心していた彼にとって取り調べ官の態度が徐々に軟化していき、モーゼの律法についてさえ尋ねられるようになったことは、ある種の勝利であったろう。一時は死刑の覚悟さえしなければならなかった。そして、一枚の汚い畳と金属の容器があるだけの狭い独房での孤独は「魂に訪れる客」との重要な対話の時となった。彼は、釈放を刑務所長に宣言された時、こう言われた。有罪か無罪かを判断する最良の方法は、日々の様子を細かに観察することだと。この時、アルぺ神父は所長に「ありがとう」と感謝の言葉を述べて彼を狼狽させるのだった。

アルぺ神父と長束修練院  三重の塔の上には十字架がある。
ホアン・カトレット著『アルぺ神父とともに祈る』より

ラサール神父とセルツメント

この年、アルぺ神父は日本のイエズス会の責任者であったラサール神父から修練院長として広島へ来てくれと依頼される。広島には毛利元就の息子・秀兼の援助でセルソ・コンファロニエリ神父によってイエズス会の住居が建設され、秀金も洗礼を受けてシモンと名乗っていた。関ヶ原の戦い後、その住居は失われたが、1604年には福島正則の支援で住居は再開され、二人の司祭が住んでいた。しかし、これも宗教弾圧によって再び閉鎖されるという過去があった。

1908年ローマ教皇は日本への大学の設置をイエズス会に要請し、結果として東京に上智大学が開校する。1933年にイエズス会修練院は上智大学と合流したが、1938年に修練院は広島の長束に移された。修練院とは聖職者の養成機関のことだ。ラサール神父は38歳で日本のミッションの地区長に選ばれた人で、それまで上智でドイツ語を教えながら東京の三河島にあった貧民窟にカトリックセルツメントを開いた。寄付を集め、資金を貯め、土地を買い、建物を建てて病人や住居のない貧しい人たちを支援しチャリティー音楽会などの催し物をした。彼は、地区長になると岡山にあった広島地区長館を広島に移してそこに住んだ。日本管区の本部は広島に移されたことになる。それが幟町教会だった。彼は、日本のカトリック教会は、日本文化にもっと親しまれるようにどうしてもインカルチュレーション(受肉)が必要であると考えていた。それで長束に聖堂も畳、修練者の生活の場所も畳という和式の修練院が建てられたのである。(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)

フーゴ・ラサール神父(1898-1990)
1948年に帰化 日本名は愛宮真備

ラサール神父は、戦後日本に帰化するとともに広島に平和記念聖堂を建設しようと奔走した。自らもチェロを演奏する音楽の愛好家でもあった彼はエリザベト音楽大学を構想したといわれる。そして、黙想や観想の世界と禅との共通性を理解し、カトリックに禅の瞑想を取り入れた。瞑想のための座禅会が開かれ、それを世界に広めたのである。同じイエズス会士であるリントネル神父や門脇神父たちがその影響下にあった(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)。こうして見てみるとラサール神父の社会に向う行動力と観想的な生活という二つの車輪はペドロ神父にも引き継がれていったと考えてよいのではないかと思う。これが会の本質なのかもしれないが、本書にはアルぺ神父のラサール神父への言及は記されていない。

ピカドンと長束

その朝、アルぺ神父は8時10分に部屋に入り、学びの時間の準備をしていた。やがて目も眩む稲妻のような光が部屋全体を満たした。当時、写真の撮影時に焚いていたマグネシウムによるフラッシュのような閃光だった。しかし、音はなかった。彼は何事かと市内に面した窓を開けた。その瞬間、強大な轟音と熱い爆風に鼓膜を叩かれ、別の部屋まで吹き飛ばされた。反対側の壁にガラス片が突き刺さり、畳の上はガラス片や粉々になった瓦礫が散乱していた。柱時計は8時10分過ぎで停止し、まるで人類初の大量破壊兵器の誕生を記録するかのようだった。

何人かの修練者と司祭がガラスの破片で出血していたが、重症者はいなかった。しかし、広島市内は真っ赤に燃え上がり、巨大なキノコの雲が上空に向けて噴き上がっていた。街は、完全に破壊しつくされ、8万もの命が死を自覚する前に消滅したのである。修練院の司祭たちは、市内から逃げ延びてきた50人ほどの人々を収容したが、ほとんどの人が出血して火傷を負っていた。やがて収容者は増えて、150人を越え、建物に入りきらない人は、庭や畑や道路に横たわるしかなかった。医学を学んできたアルぺ神父はさっそく治療を開始するのであった。

原爆被災後に治療にあたるアルぺ神父 本書より

市内の中心部に近かった幟町の教会堂、修道院は全て焼失し、ラサール院長とシェファー神父は、かなり深い傷を負った。二人は、幟町の近くにあった、かつての浅野家藩庭である現在の縮景園の片隅に横たえられていた。アルぺ神父やクラインゾルゲ神父たちに救出されている。本書で被爆して名前が挙げられているイエズス会の神父は14名で日本人一人を除いて全て外国人、日本人の修道士が1名、日本人を含めたブラザーが2人である。それにメゾシスト会の日本人牧師が一人いる。重症の二名を除く彼等は、被爆地で怪我人の救護を行い、死体を荼毘に付すのを助けていた。ここでは、原爆投下の経緯や原爆投下後の広島の惨状が、かなり詳細に書かれているが、これを書くのは、ちょっと胸が詰まるので控えさせていただくけれど、バランスのとれたとても良い内容だと思うので機会があれば、是非本書を手にとっていただければと思う。

薬は、ほとんどなかった。手術は麻酔もなく神父の机の上で家庭用の消毒したはさみが使われた。ホウ酸が13キロ余り手に入り、基本的には傷口を洗浄し、ホウ酸の湿布で消毒することが全てになっていった。しかし、修練院で治療した90名のうち亡くなったのは一人だけだった。8月7日は、1733年の教皇クレメンス14世によるイエズス会禁止令から解放された記念日だった。アルぺ神父は、破壊に耐え、負傷者で溢れた長束の聖堂の中でミサを行った時のことをこのように述べている。「私は麻痺したように両腕を広げてそこにじっとしていた。そして、科学や技術の進歩が人類を破壊するために使われたという悲劇をじっと考えていた。彼等は皆、祭壇から何らかの慰めがもたらされるのを待っているかのように、苦痛と絶望の眼差しで私を凝視していた。(緒形隆之訳)」

総長への道

1950年、ローマで開かれた修道会の代表者会議に日本の代表として出席したアルぺ神父は当時の総長から原爆の体験を世界中に伝えるように依頼され、ヨーロッパとアメリカへ14か月の講演旅行に旅立っている。4年後に準管区長になり、翌年には原爆の語り部としてラテンアメリカを含む二度目の講演旅行に旅立つ。この講演は計3回に及んだ。彼は、著作も活発に行い、フランシスコ・ザビエルの一生、イグナチオ・ロヨラの霊躁(霊魂のための観想を中心とした修行法)の解説書、カルメル会神秘主義者・十字架の聖ヨハネに関する著作の翻訳、原爆体験などを著している。1958年には日本管区の管区長となった。

ペドロ・アルぺ『キリストのこころ』
「イエズス会士への訓話」「キリストの心の神学」「司牧的指針」収載
新生社 1988年刊

彼が管区長を務めている間に世界は大きく変わっていった。日本もそうだった。西側諸国の考え方を急速に吸収した結果は、溢れんばかりの物質的豊かさをもたらしたが、日本人に具わっていた慎みと自然な感性は、あらゆるものに浸透する相対主義と無神論へと傾斜していった。世俗化が広がって行きつつあった。イエズス会士の戦いは戦前とは異質なものを要求されるようになる。アルぺ神父の補佐をしていたロバート・ラッシュ神父は、アルぺ神父は若い時から伝統的で型にはまった制度にぶつかり、常にそのような人たちからの無理解にさらされたという。多くの新しいアイデアを持っていて性急に前に突き進みすぎると危惧されるというのだった。しかし、そういう人が必要とされる時代もある。ところで、ラッシュ神父には、僕は大変お世話になったので頭が上がりません。

1965年、第二十七代総長が亡くなり、90か国、3600人のイエズス会士を代表する218人による選挙が行われ、アルぺ神父が第二十八代の総長に選任された。仲間からの祝福を受けるために前に進み出たアルぺ神父は、こう述べた。「ところで、私は何をすればよいのですか ? 」オテーナ神父はこう答えた。「今、あなたは、人生で最後の服従をすればよいのです。」一度、選ばれたら降りることの出来ない職責だった。アルぺ神父はイタリアのテレビ局のインタビューに答えているが、その中で、教皇の回勅にある発展途上国における不正義や不平等と戦うことを強調し、それらの労働者たちが我々に食料を供給してくれている一方で飢餓と栄養失調に苦しんでいる。私たちは正義のために戦うと述べている。これは以後のイエズス会の活動の中で闡明となっていく事柄だった。ちなみにイエズス会出身のフランシスコ教皇(第266代・現教皇)は、この頃(1967年ブエノスアイレスで神学の勉強を本格的に開始していた。

北米における人種間の危機を踏まえて、その地域の会士たちに新総長はこう勧告している。少数者を常に意識し、黒人居住地で活動し、学校における人種差別撤廃を推進し、その居住区に修道院を建てるべきだと。異なる人種間における活動は後のイエズス会のマグナカルタになったと筆者は述べている。ラテンアメリカの司祭たちには、露骨な不正義や暴力の驚異が存在する中で、貧しい人たちに福音を伝えること、弱者や財産を奪われた者たちを守ること、公正な社会に向けて平等な権利と奴隷状態や抑圧からの解放を進展させることを訴えた。しかし、この代償もまた大きなものだった。第三世界で、難民、排除された人々、放浪者たちの権利を守るために戦った20人以上ものイエズス会士が殉教しているのである。アルぺ総長自身がイタリアの極左テロ組織「赤い旅団」のブラックリストに載っていたといわれる。

あなたにとってキリストとは誰ですか ?

この社会に対する働きかけ、「他者のための人間であれ」というイエズス会学校卒業生たちへのメッセージ(1973年バレンシアにおけるイエズス会卒業生国際会議)、これらの一方でアルぺ神父が繰り返し強調してきたことは、霊的な生活と清貧だった。アルぺ神父はこのように述べるのである。

「聖イグナチオの霊躁は、抑制された人間を作り出すための形の決まった鋳型ではありません。それは、『人の生き方、いかなる不節制な愛着にも影響されることのないものに整えるために』祈りにより、瞑想により、イエス・キリストの生き方をじっくり味わう単純な方法なのです。イエズス会士にとって、イエス・キリストは最も大切な方です。霊躁は彼の生き方を、彼が自分自身を捧げた事業を理解するための、唯一可能な鍵なのです。(緒形隆之訳)

マザー・テレサと語るアルぺ神父 本書より

「友達や知り合いが一人もいない大都会で、自分がたった一人であることに気づくこと、持ち物や、人との関わりの中から生じる支え合う心や安心感、そんな生きていく上で必要なものを何も持たないこと、言葉によってもそうであるが、貧しいということを自分自身で表現できないこと、常に自分が劣った立場にいるということ、話すことを覚え始めたばかりの子供のように話しても軽蔑され相手にされないこと、自分がいつも貧しい人だと思われていること、憐みや敵意を抱かれていること、そのことに気づいて胸を痛めること、また、そのような目でみられているということ。奪い取られるという根本的な意味において、貧しさとはいったいどういうことなのかを空しく理論分析するよりも、これら全てのことの方が人を真理に導くのだ。(緒形隆之訳)」これは、アルぺ神父自身が、スペインからのイエズス会士追放をうけて一時滞在していたベルギーのマルネッフェで、山口の刑務所で、原爆に被災した広島などで実際に体験したことに基づいている。そして続けてこう述べている。

「貧しい者は、私利私欲と利潤追求で構築された社会では何ら権利を持たない。貧しい者は主張する声を持たない。列の最後尾にいるのである。貧しい者の状態を理解するためには、貧しさを経験する必要がある。その経験が無かったとしたら、抽象的な理論や立派な決意は、ほとんど役に立たない。我々のことが、ほとんど認められていない 非キリスト教国や無神論者の国おいて、我々はそのような社会の中では無駄で危険な要素として、あるいは、解散するよう選別されたものとして見なされていた。この様な環境できちっと生きてきた我々の兄弟達に関して、私がこれまで受けとってきた報告が、如何に深く感動させるものであるかを私はあなたがたに伝えざるを得ない。(緒形隆之訳)

ペドロ・アルぺ『キリストの横顔』
カトリシズムからみた立体的キリスト論
ドン・ボスコ社 2004年刊

アルぺ神父へのインタビューのなかで最も印象的な質問はこういうものだった。「あなたにとってキリストとは誰ですか ?」この質問に僕は虚を突かれた思いがした。それを自分に向けた時、その答えが探せなかったからである。自分がキリストという存在を対象化したことがないからだった。つまり、自分のキリストはいなかったのである。アルぺ神父はこう即答している。「全てです。」自分にとって全てと言えるようなものは何なのか ? 再び考えて見なければならなかった。

1981年世界中を飛び回っていた疲れを知らない総長は、イタリアのフィウミチーノ空港で手荷物を受けとろうとした時、動けなくなった。頸動脈の閉塞が脳卒中を引き起こしていたのだ。飛行機での長旅が原因だろう。2年後に総長を辞職し、長く重い闘病生活の末、1991年に帰天している。83歳だった。

 


アルぺ神父の写真の掲載については、長束修練院のアレックス神父の了承を得ましたが、不都合がありましたら当サイトの問い合わせフォームまでお知らせください。尚、本書は市販されていませんが長束の修練院には何冊か保管されているので、こちらにお問い合わせくださればと思います。http://www.gloriadei.jp/

 

参考図書

ホアン・カトレット『アルぺ神父とともに祈る』

クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』冊子

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』 全三巻
リッチとイエズス会だけでなく比較文化論の観点からも面白い。

ドナルド・キーン『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道


確かに人形が生きていると錯覚させるほどの芸がある。それは多くの人たちが体験してきたことだ。その人形に生命を吹き込んできたのは人形遣いたちである。彼らは、ある時代には河原者と同一視され賤民と呼ばれ、時には神事に奉仕する者たち、信仰を呼び覚ます者たちであった。それは、やがて文楽と呼ばれる素晴らしい芸として開花したのである。その歴史を追ってみる。


ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』能、文楽については簡潔だが充実した内容を誇っている。歌舞伎についての紹介は短い。

ドナルド・キーンは、『文楽』の冒頭で、人間は何千年もの間、世界の至るところで自分の像を何かの形で作ってきた。それが今では人間の本能の一部を成すのではないかと思われると述べ、現在知られる最も古い人形はエジプト時代のもので、人間が神々の真似をするのが冒涜であると考えることから宗教上の儀式で神々がすることを演じるのに人形が用いられたのではないかとしている。

日本でも、祓のための人形(ひとがた)や玩具の人形は別にしても、東北のオシラサマ、山梨の天津司舞(てんづしまい)の傀儡田楽、九州の古表・古要神社の神相撲を見れば神の依代としての人形が舞ったり、相撲をとったりするのが見て取れる。人形芝居が神道の行事の一部となっていったのは事実である。やがて、神々だけでなく人間も喜ばせる余興としての性格を持つようになる。日本に伝わったとされる操り人形がどのようなものであったかは、はっきりしない。

キーンは、このように述べる。「人形は生命がなくてもそれを人形遣いから借りて、人形遣いが望むとおりのものになることができる。それは神々の一人にも、吃りの愚かな人間にもなれて、ただ、それ自身にだけはなれないのは、人形には自分というものがないからであり、それ故にまた、人形は神聖な儀式にも、粗野な喜劇にも向いている。(吉田健一、松宮史郎 訳)」この指摘は、深い。

 


人形浄瑠璃は、およそ300年ほどの歴史を持つと言われる。今日では「文楽」とも呼ばれるけれど、古くは「操り」「操り芝居」と呼ばれ、人形浄瑠璃の呼び名が一般化するのは明治以降のことである。上演する座がいくつかあった中で、この明治の初めに「文楽座」だけが残っていた時期があって「文楽」の名で呼ばれるようにもなった。物語る太夫、伴奏する三味線弾き、演ずる人形遣いの三業からなる演劇である。


 

『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道――では、ドナルド・キーンの『文楽』を縦糸に他にいくつかの著作を横糸にして、人形浄瑠璃以前の人形操りの時代、そして人形浄瑠璃として展開した後世の時代をご紹介する。これは、いわば文楽への道行である。

人形操りの来た道

もともと「人形操り」が、どこから来たかは諸説ある。キーワードのクグツという言葉が人形芝居を表わす語として八世紀の経文の注釈にあるのが初見のようだ。傀儡は人形を指し、人形遣いを指す言葉は、傀儡子、あるいは傀儡師である。中国語の傀儡子(かいらいし)、朝鮮語の傀儡子人形(コクトゥカシ)といった言葉の他、ロマ語のクキ、あるいはククリ、トルコ語のククラ、後期ギリシア語のクークラなどあり、人形芝居が近東から中央アジアを経て中国、朝鮮から日本にきたというが、確証はない。廣瀬久也は、唐と新羅の連合軍を指揮した唐の李勣(りせき/594-669)が、高句麗を滅ぼした時、戦利品として傀儡子とからくり人形を唐に持ち帰ったという元代の『文献通考』に注目し、高句麗から奈良時代に傀儡子と人形が伝わったのではないかとしている(『人形浄瑠璃の歴史』)。ちなみに後述する大江匡房(おおえ まさふさ)のいう傀儡子に近い存在として朝鮮の楊水夫(ヤンスヨーク)があり、その記述が十世紀に遡って存在するとキーンの指摘にある。

日本で最も古いとされる人形操りは、平安末から鎌倉時代にかけて西宮で発祥したと言われる。一説には西宮の八幡戎三郎(はちまんえびすさぶろう)信仰と宇佐八幡やその傘下にある古表・古要神社の八幡信仰とが関わって操り人形の発展を催したのではないかと言う。福岡の古表神社、大分の古要神社で遣われる現存する人形は、鎌倉時代の作とされているが、より古い時代の形式を残しているのかもしれない。片足を握り、他の片足と両手を紐でひく形式になっている。

それらの神社で人形によって行われる細男舞(さいのうまい/くわしおのまい)は、九州の海人族(あまぞく)安曇氏の祖神・安曇磯良(あづみのいそら)神話に発する。大嘗祭などの宮廷儀式の中で中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上において九州豪族の海人族たちが天皇に対する服属の誓いや寿祝として細男舞を舞ったことは想像に難くない。海人族の中央進出のよすがのように福岡の志賀島(しかのしま/志賀海)神社の磯良鞨鼓(かっこ/ばちで打つ鼓)の舞、春日大社の若宮おん祭などにその名残がみられる。それは、人による舞である。

西宮神社本殿 蛭子神(えびす大神)を祀る。境内には百太夫神の祀られる末社がある。西宮市

一方、西宮神社は、三年たっても足が立たなかったために海に流された蛭子神(ひるこのかみ)が祀られている。蛭子を戎(えびすと読む説もあれば、摂津に着いて戎三郎として祀られたという説、えびすは渡来の海洋神を指すという説もある。この神社の約100メートル北にあった山上村に平安末期から既に石の道祖神である百太夫(ひゃくだゆう)が存在したといわれる。この山上村を別名、産所村といった。ここの女性たちが助産もしていたからである。浜松歌国(1776-1827)の『摂陽奇観』によれば、江戸の元禄時代には民家が三~四十軒あったという。江戸末期の天保に、この村が廃れて百太夫社は西宮神社の境内に移された。この山上村の辺りは、室町期に人形遣いたる傀儡子として全国をまわり、恵比須信仰を布教した神人(じにん/神社の下働き)たちの住まいとなる地域である。

「南は住吉、西は広田これをもて徴嬖(ちょうへい/客に寵愛されること)を祈る処と為す。殊に百太夫に事(つか)ふ。道祖神(さえのかみ)の一名なり。人別にこれを剜(え)れば数は百千に及ぶ。能く人の心を蕩(とろか)す。(大江匡房『遊女記』)」

広田神社 西宮市

広田には天照大神の荒御霊(あらみたま)を祀る広田神社があり、そのすぐ近くにある西宮神社は、もともとこの神社の摂社だった。遊女たちが百太夫の像を作って奉納したが、その数がに達したと言う。平安末期の大江匡房(おおえ まさふさ/1041-1111)は、道祖神・百太夫が遊女の信仰を集めていたと書いたのである。彼は、『傀儡子記/くぐつき』に人形遣いである傀儡子が、蒙古の遊牧民のように家畜とともに移動する民であり、男は狩猟をし、田楽や雑技のような曲芸をし、女は化粧し、歌舞をよくし、時には春をひさぐロマたちであったと記している。

「‥‥或は木人を舞はせて桃梗(とうこう)を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒(えん)の戯に近し『傀儡子記』」木偶を舞わせ、魔よけの人形に相撲を取らせ、手品や幻術のごとく生きた人のように見せたというのである。美濃、三河、近江の集団が勢力を持ち、播州、但馬がこれに次いだ。西海は振るわなかった。高名な傀儡女(くぐつめ)は歌唱の達人で、今様、催馬楽、田歌、神歌、風俗などの多くの歌を歌ったという。傀儡女の歌は天下一だと匡房は書いている。

離宮八幡宮 京都大山崎

海人族の信仰する安曇磯良神、秦氏や辛島氏と縁の深い八幡神は、渡来系の神であり、瀬戸内海を遡上して中央に接近するにつれ、操り人形も伝搬していったと見ることもできるのではないかとは廣瀬説である(『人形浄瑠璃の歴史』)。清和天皇が即位した九世紀半ばには、春日大社で大山崎の離宮八幡宮から頭と手のついた人形を迎えたことが藤原仲倫(ふじわらのなかとも/江戸中期)の『春日大宮若宮御祭礼図』下巻の記述に見える。離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社である。この地は荏胡麻(えごま)油発祥の地、日本初の製油地として名高い。おそらく、このような神社に関係した傀儡師たちもいたのかもしれない。

日本の十一世紀が文学の面で多くの傑作を残したにもかかわらず傀儡師たちの人形芝居は、その頃の文献には姿を現わさない。クグツという名は、文献に出てきてもその中の男はどこかに定住はしたが納税の義務が免除されたとか、昔のように猟をすることもあるとか、人夫になって人に雇われたとか、女は純然たる娼婦で街道筋の娼家に住むとかいった内容になっている。やがてクグツは娼婦だけを意味する言葉となる。この頃、人形芝居が続けられていたかどうかは定かではないとドナルド・キーンは、いささか当惑ぎみに述べている。

古い形式の人形操りを伝える古表神社の神相撲の動画を掲載しておきます。4:04min.

 


人形操りが再び文献に登場するのは室町期になってからである。それは、手遣いの人形ではなく、糸操り、つまりマリオネットのような人形だった。一休が糸で操る傀儡を題材に深遠な詩を詠っている。これに加えて中国からの精巧な機械仕掛けの人形たちが、日本の職人たちに刺激を与えた。やがて西宮神社を拠点とした戎舁(えびすかき)たちが手操りの人形を携えて全国に恵比須舞いや大黒舞いを浸透させていった。


 

人形操りの揺籃期 中世から近世へ

マリオネットのように糸で操る人形が日本に入ったのは十四世紀頃との指摘がある。五山僧・令淬(れいさい/?-1365)に『傀儡』という詩があるという。十五世紀に将軍足利義満の中国趣味によって多くの操り人形が請来され、日本の職人を刺激して糸や水力で動く精巧な人形も現われる。十六世紀には、1.8メートル四方の城の中で二千の兵隊人形がせめぎあうといったものまで登場しているし、イエズス会の宣教師たちが「出エジプト記」などを糸操りの人形で見せたことも記録に残されていた。しかし、こういった新たな刺激は長続きせず、後世、日本の操り人形に与えた影響としては、目、口、手などが人形内部から糸で操作されるようになることだった。

抽牽(ちゅうけん)する者(は)、即ち主人公
地水合成して、火風に随う。
一曲の勾欄(こうらん)、曲終って後、
本然の大地、忽(たちま)ち空(くう)と為る。(一休宗純『傀儡/かいらい』)

一休は、傀儡(くぐつ)の芝居を見てこんな詩を詠っている。人形の糸を引く者が主人公であり、地水からなる粗雑なものが火風のような精妙なものに従うのに似ている。人形の立ち位置となる手すりがいわば、大地であったが、曲が終われば忽ち空虚となるといった意味だろうか。それで、水上勉はこう述べた。

「案外、この世は、すべて、一曲の人形芝居かもしれぬ。うらで糸をひき、操る者がいて、人も風も、火もうごく。操るものは主人公である。その主人公をとっつかまえねばならぬ。いや、その主人公こそ、求めつづける正伝の正体なのだ。狂雲もまた狂風に舞っている」(『一休文芸私抄』)

広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史』 古代から現代までの人形操りの歴史を扱っている。いささか荒っぽいが古代の人形操りの紹介は興味深い。

十四世紀は、南北朝の時代であり、兵火によって寺社の多くが廃れていった。西宮神社も例外でなく、神人たちは門前町で酒造りに流れた。酒造りの技量を持たない傀儡師たちは途方にくれ、往来の自由になった淡路島に移って行く者もあった。廣瀬久也によれば、『道薫坊(どうくんぼう)伝記』に記されている百太夫と名乗る傀儡師が淡路の広田にやって来たのは、このような経緯ではなかったかとしている。ただ、どの時代かは、はっきりしない。西隣の三原村へ移り、一子・重太夫を儲けた。百太夫没後、その子は源之丞と称して百姓に百太夫の技を教えたという。

この源之丞の上村家には『道薫坊伝記』が伝わっていて、このような話になっている。西宮で戎三郎神を祀っていた道薫坊の死後、祀る者がいなくなると海は荒れ、漁は不作となり、多くの災いが人々に降りかかるようになる。百太夫が、このことを帝に伝えると、道薫坊の人形を作るよう勅命を受ける。そっくりな人形を仕上げると戎神に奉納した。すると、風雨は治まり豊漁が続いた。百太夫は人形操りをしながら諸国を回り、やがて淡路に落ち着き、淡路人形座の元祖となったのである。

16世紀後半、戦国の乱世も猖獗を極めようとする頃、西宮神社の神人たちが人形を携えて恵比須信仰を広めるために戎舁(えびすかき)として全国を廻りはじめる。経典を入れる箱を首から吊るしてそれを台として木偶(でこ)を操り芸を演じた。戎舁は恵比須神をかたどった人形を舞わす門付け芸を行う者を指すが、1555年には四人の戎舁が宮中で能を人形芝居で演じて人気を得た。正親町(おおぎまち)天皇の御代である。その後、度々宮中に召されるようになり、人形芝居を叡覧に供するようになった。人形芝居が江戸時代に入って人形浄瑠璃として本格化する前の揺籃期は、この16世紀、つまり室町後期・安土桃山時代にかけてである催馬楽今様白拍子、田楽、猿楽、小歌などもそうだけれど民間の芸能をこのように宮中が吸収し、ソフィスティケートされる契機を作っていった役割は日本文化にとって極めて重要だったと言える。

 

西宮神社の百太夫神社祭における恵比須舞いの様子を動画で紹介しています。戎舁の芸を垣間見ることができます。阿波の人形遣いの人のようですが、新春を言祝ぐにふさわしいおめでたい芸です。前座の後、2:06くらいから始まります。

 


三味線の原型は十六世紀に琉球から伝わった。十七世紀初頭には、京都で戎舁が浄瑠璃の物に合わせて芝居をやったことで、非常な成功を得た。それが、人形操りと浄瑠璃とのカップリングの最初ではないかと言われる。こうして、人形、三味線、浄瑠璃の三業が揃う環境が整い始める。最初、京都で盛んになり、江戸大阪と盛んになっていった。


 

人形浄瑠璃の黄金時代

1614年、後陽成院は、『阿弥陀胸割』を戎舁に演じさせている。大阪冬の陣の始まる年である。それに、『浄瑠璃物語』を人形芝居ですることを発案したともいわれている。その御子の後水尾天皇も人形芝居を庇護した。こうした経緯もあって人形芝居は、まず京都から発展し始める。ついで江戸で人気を得た。坂田金時の子、金平(きんぴら)を扱った勇壮な金平浄瑠璃が当たった。この頃には、江戸随一といわれた小平太という人形遣いが現れている。林羅山(1583-1657)は、観劇記を書いて人形が生きているとしか思えなかったという感想を残した。しかし、1657年、明暦の大火によって江戸の大半が灰になるという大惨事が起こる。主な太夫たちが上方に移ったことから大阪と人形浄瑠璃が結びつくのである。これ以後、江戸では歌舞伎が流行し始める。

二世瀬川如皐『牟芸古雅志』より 曽根崎心中
中央右端から左向きに三味線弾き、太夫竹本筑後掾、竹本頼母ツレ語る、人形遣いは辰松八郎兵衛と書かれている。
倉田喜弘『文楽の歴史』に掲載

1648年、竹本義太夫(1651-1741)が大阪道頓堀に竹本座を創設した。徳川家光の時代である。その最初の出し物は近松門左衛門の『世継曽我』だった。本格的な人形浄瑠璃のはじまりである。ここからは文楽と呼ばせていただきたい。1703年には『曽根崎心中』が決定的な成功を収め、竹本座の地位をゆるぎないものにした。二世瀬川如皐(せがわじょこう/1775-1833)の随筆『牟芸古雅志(むぎこがし)』に当時の様子を思い起こさせる図が掲載されている。その頃は、人形は、まだ突込み式の一人遣いで、太夫は既に舞台の表に出ていたことが分かる。この頃、竹本座から独立した竹本采女(うねめ)は、豊竹若太夫を名乗って豊竹座を立ち上げた。竹・豊時代が始まったのである。

1690年代には人形の手が動かせるようになる。1727年には目や口を開けたり閉じたり出来るようになり、指を動かすことも可能になる。1733年には指の第一関節だけが別に操作できるようになった。1734年には三人の人形遣いが一体の人形を操る方法が生まれ、文楽以外では見ることのできない微妙な動きを表現できる端緒となった。人形の頭・顔と胴、右手を動かす主(おも)遣い、左手を動かす左手遣い、足を動かす足遣いである。三人もの人形遣いが舞台に登場することについて、ドナルド・キーンは日本の聴衆でなければ受け入れ難いかもしれない負担を想像力に課することになったと述べている。近松が亡くなった1724年から1780年までが文楽の全盛だった。歌舞伎の人気もそれには及ばなかったのである。

三人がかりの人形 今の人形浄瑠璃で使われるサイズよりも小さい。倉田喜弘『文楽の歴史』より

そのような工夫がなされ今日のような文楽が見られるようになったわけだが、良質な浄瑠璃作者がいなくなり、火災による芝居小屋の焼失や座本の度重なる死などによって豊竹、竹本両座ともに十八世紀の終わりには道頓堀から姿を消した。とりわけ人形遣いは、零落の憂き目をみるようになり、文楽は地方へ散って行った。その後、文楽を復興させたのは淡路の人形芝居の太夫・植村文楽軒(1751-1810)であった。1805年に大阪新地で人形興行を始めている。淡路は江戸時代に入っても蜂須賀家の歴代藩主の庇護もあって多くの座が存在した。植村の姓は淡路人形座の座本である上村源之丞の姓に由来するという説もある。六年後、二世の時に、大阪稲荷神社(現在の難波神社)の境内で文楽軒一座の名で興業をはじめた。1872年(明治5年)に文楽座を名乗るに及んで人形浄瑠璃の総称となったのである。

人形操りの修行は何処に向うのか

キーンは、太夫、三味線弾き、人形遣いは一体であるが、太夫は常に文楽界の知識階級と見做されていたという。彼らは浄瑠璃の研究を常にしていなければならないからである。三味線弾きは、キーンに言わせればオペラの指揮者に似ていて、太夫も三味線弾きの指示には従わざるを得ず、その弾き方に力が入っていなければ人形遣いも満足に人形が操れないと言われる。しかし、人形遣いとその技術は、長い間冷遇されてきたという。その理由の一つに太夫や三味線弾きに関する文献は残ってはいても人形遣いには、そういったものがないことを挙げている。それは体で覚えるものだからだ。弟子たちは、ただ見て覚えろ言われるだけなのである。何故、そうなったのかは、巻末の桐竹勘十郎氏の人形操りの解説が掲載された動画を見てもらえば、お分かりいただけるのではないかと思う。

桐竹勘十郎『一日に一字学べば…』
「一日に一字学べば…」は『菅原伝授手習鑑』の「寺入りの段」にある台詞。

太夫は、その声になるのに20年かかるといわれている。人形遣いの修行はもっと長くて、足遣いの修行に10年、左手遣いに15年、それからようやく主遣いになれる。好運に恵まれ、才があれば早くから左手遣い、主遣いになれるが、運が悪ければ足遣いで終わる人形遣いもいるという。気の遠くなるような修行が待っているのだ。どのような修行なのか。キーンは、人形遣いにはかなり冷たいコメントがあるが、おそらく彼らの修行の内容について多くは知らなかったのではないかと思える。言葉で伝えられないことを知るには、想像を可能にしうるような何らかの体験が必要だろう。「間合い」とか「あうんの呼吸」といっても私たち日本人にも理解できない言葉になりつつある。主(おも)遣いのむずかしさの例を一つ挙げておこう。

文楽には人形の手の先にその視線を合わせるという決まりがある。主遣いは、基本的に人形を後ろから見ているのでその目線の方向は把握しずらい。憶測で手と目線を合わせなければならない。合わなければ、首を動かす主遣いの左手をなおすか、人形の右手の位置をなおすかして修正しなければならないのである。それを鏡の前で訓練する。人形の左手は、左手遣いが扱うので今は考えない。ゆったりした場面では修正もきくが、早い場面で目線と手をピタッと合わせるのは、かなり難しい。それで、三世桐竹紋十郎さんは、その勘を鍛えるために風呂で左手で直線状にお湯の出るシャワーを遠く持ち、目をつむって、右手の位置をあちこち変えても指先にお湯が一発で当たるように訓練したという(『一日に一字学べば…』)。このようなことを言葉で伝えようとしても弟子たちにとっては全然助けにはならない。

このような訓練によって人形は生きているかのように振る舞えるようになるのである。人形遣いの腕が良ければ良いほど人形が自力で動いているという印象を与える。「人形遣いは人形に宿る力を信じて、人形への畏れをもって日々舞台に立つ」と勘十郎さんはいう。人形を操るとは言わない。「人形が存分に動けるように技を磨き、人形を人形足らしめるのが、私たちの仕事」だというのである。人形と人形遣いは一体となっていく。しかし、‥‥ もしかして‥‥ 完全に一体になりきることが出来るのかもしれないのだ。

人形遣いは自分がしていることを舞台で言葉に表現できないし、観衆からは忘れられることが望ましい。ある意味、無名な存在として考えられていたのかもしれない。それゆえにこそ人形を動かす主遣いが素顔で舞台に登場することが求められた。そのようにバランスがとられたと見ることもできるのではないだろうか。自分というものがない人形に生命を吹き込むのは、人形遣いである。その者に無名が求められるとしたら、人形とは何であり、人形遣いとは何者であるのか。その境を見極めることは難しい。

 

 

三世桐竹勘十郎さんによる非常に興味深い人形遣いの解説が掲載されている動画です。三人遣いがどのように連携するかが語られています。日本記者クラブ主催。12:02~37:08あたりがその場面です。

 

 

参考図書

倉田喜弘『文楽の歴史』
江戸から平成までの文楽の歴史をまとめている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドナルド・キーン『文楽』part1 浄瑠璃と山葵は泣きながら誉める

2019年文楽公演解説 生写朝顔話 他

だめだ。目の辺りがうるうるしてきた。涙が瞼の堤防を越えそうだ。あっ~っ、袂(たもと)に河原の石を詰めはじめた。身投げする気だ。しかし、両隣に坐っているおばさんたちは、いっこうに動ずる気配がない。ひょっとして鉄のハートなのか。大の男が一人だけ涙を流している場面はいただけないぞ‥‥なんとかしないと‥‥しかし、おォ~っ、助けがやって来た。関介だ‥‥よくぞ来た、よくぞ来た~~。

「ヤア何、川が止まった。ハゝア悲しや」と張り詰めし力も落ちて伏し転び、前後不覚に泣きけるが、また起き上がって見えぬ目に、空を睨んで「天道様、エゝ聞こえませぬ〳〵〳〵〳〵〳〵聞こえませぬわいなあ。この年月の艱難辛苦も、どうぞ今一度その人に逢わしてたべとも片時も、祈らぬ間とてはないものを、今日に限ってこの大雨。川止めとは〳〵、エゝ何事ぞいの。‥‥焦がれ〳〵たその人に、逢うても知らぬ盲目の、この目はいかなる悪業ぞや。夫の跡を恋ひ慕ひ、石になったる松浦潟、ひれふる山の悲しみも、身に比べては数ならず、三千世界を尋ねても、こんな因果がまたと世にあるべきかは。(生写朝顔話「大井川の段」床本)

儒学師範の駒澤了庵の甥である宮城阿曾次郎(儒学者・熊沢蕃山がモデル)、彼を慕う安芸国岸戸家の家老秋月弓之助の娘、深雪。親の決めた駒澤次郎左衛門(実は叔父の家督を継いだ阿曾次郎)との縁談話から家出し、阿曾次郎の後を追いながら人買いの手に落ち、そこから逃れてもなお、失明の憂き目に会う。それでも夫と心に決めた人の後を追い続けた朝顔こと深雪。この十月久しぶりに文楽を見た。生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)は、文化年間(19世紀初頭)、講釈師の司馬芝叟(しばしそう)が書いた長話(ながばなし)『蕣(あさがお)』が原作で、歌舞伎で上演されていたものを山田案山子が五段の時代物に翻案した人形浄瑠璃である。僕が、最初に義太夫節を聞いたのは『菅原伝授手習鑑』だったけれど、その時は義太夫節に違和感を感じたものの何か引っかかるものがあった。それが無かったなら、また見たいとは思わなかっただろう。こん度は何の障害もなくすっと入ってくる。すっかり嵌ってしまいました。

ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』
能、文楽については、簡潔だが充実した内容を誇っている。歌舞伎については短い紹介に終わっている。今回は『文楽』だけのご紹介となる。

谷崎潤一郎(1886-1965)が、関東大震災で東京を焼け出され、大阪に移って人形浄瑠璃に目覚めたことは『蓼喰う虫』などの作品で窺い知ることができる。淡路島まで人形浄瑠璃を見に行くほど熱くなるのだが、焼失前の文楽座で『法然上人恵月影(めぐみのつきかげ)』を観劇したのが契機だという。その数年前、谷崎は上海に旅行に出かけて、日本橋に住んでいた頃の30年も前の父母の面影を心に浮かべ、日本ではあらかた亡びてしまった懐かしいしきたりを思い出している。西洋崇拝から抜け出て日本回帰に向った時期だったのかもしれない。彼は、この『蓼喰う虫』の中でことさら芸の「型」について述べるのである。

谷崎は、『浄瑠璃人形の思ひ出』で『生写朝顔話』の淡路版である『朝顔日記』の序段「宇治の蛍狩り」の場面で深雪と阿曾次郎が屋形船の中でささやき交わす場面や「明石の船別れの段」で互いに名残を惜しむといった場面のお伽話的光景は俳優の舞台では演出できないと述べる。「浜松小屋」の段も取りあげて、深雪の母の死を乳母の浅香が知らせに深雪を訪ね当てた折りも折り、人買いとの血みどろの戦いになる場面をこう述べる。「二つの人形の顔と足とがカチカチ触れ合って割れそうになるほどの激しい立ち廻り。ああいう光景は生きた俳優同士の力闘ではとてもあれほどの真剣味は出ない」と書いている。人形にしか出せない演出を見出しているのだ。この『浄瑠璃人形の思ひ出』は、ドナルド・キーンの著書『文楽』に対するオマージュだったようだ。

日本への永住を果たして亡くなったドナルド・キーンについては多くを紹介する必要はないと思う。1922年ニューヨーク生まれ。16歳でコロンビア大学文学部に入学したが、そのころ漢字に興味を持ち始める。アーサー・ウェイリーの翻訳した『源氏物語』に感動し、日本語を学び始めた。第二次大戦後、コロンビア大学に復帰し、後にハーヴァード大学に学んだ。ケンブリッジ大学でも学ぶと同時にその講師となった。そこでは、バートランド・ラッセルやウェイリーらと親交を持つ。1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科の博士過程を修了したあと京都大学に学ぶ。1955年からコロンビア大学で教鞭を執った。同大学の名誉教授であられる。三島由紀夫や阿部公房らとも親交があり、朝日新聞の編集委員を務めるなど日本との関係は、極めて濃密だった。2011年に日本国籍を取得。2019年に心不全で亡くなっている。

 


人形浄瑠璃は、およそ300年ほどの歴史を持つと言われる。今日では「文楽」とも呼ばれるけれど、古くは「操り」「操り芝居」と呼ばれ、人形浄瑠璃の呼び名が一般化するのは明治以降のことである。上演する座がいくつかあった中で、この明治の初めに「文楽座」だけが残っていた時期があって「文楽」の名で呼ばれるようにもなった。物語る太夫、伴奏する三味線弾き、演ずる人形遣いの三業からなる演劇である。


この――『文楽』part1 浄瑠璃と山葵は泣きながら誉める――では、ドナルド・キーンの『文楽』を中心に、主に人形浄瑠璃での浄瑠璃の歴史と太夫の芸に関して、三味線のことも少し交えてご紹介し、最後は「型」の問題に踏み込む予定です。

杉村治兵衛『牛若丸と浄瑠璃姫 鳳凰丸舟遊び』
江戸時代 18世紀 東京国立博物館

人形浄瑠璃は「語りもの」の総称である浄瑠璃と人形操りを合わせた芝居ではあるが、本質的には「語り」が生命の芸術といわれる。浄瑠璃とは、伴奏楽器を伴う音楽劇で、歌うというより語るという性格が強かった。その名称は、15世紀に書かれた語りもの『浄瑠璃物語』の主人公浄瑠璃姫の名前からとられている。平家物語は節をつけた偉大語りものとして一世を風靡し、平曲という名で知られ、音楽的には天台系の声明から発したといわれている。この平家物語は後世に大きな影響を及ぼし、幸若舞や説経節といった芸能に盛んに取り入れられる。しかし、15世紀の半ばになると平家物語の文章をそのまま語ることに人気の翳りを見るようになり、同じ登場人物を廻る他の話が語りものとして創作されていった。とりわけ義経のような存在には人気があり、この『浄瑠璃物語』もそのような作品の一つとして創作される。話はこうである。

『浄瑠璃物語』

義経が東国に向う途中、三河の国で一人の美女と出会う。この姫が待女たちと管弦をしている所に義経は笛を合わせた。彼は、笛の美しさに惹かれた姫を口説いて一夜をともにする。義経が吹上の浦まで来ると奇妙な病に罹り生死をさまよう。すると、源氏の氏神である正八幡神が老僧姿で現れ都から人を呼んで看病させるという。そこで、義経は浄瑠璃姫の看護を願った。八幡神のお告げで事の次第を知った姫は、義経のもとにやって来る。海で斎戒沐浴し万の神に祈った。その時の涙が義経の口に入ると彼は蘇生し、十六人の山伏たちの加持によって本復する。姫との再会を約束して平家の滅亡を期し、旅立つという物語になっている。

1531年には盲目の法師がこの浄瑠璃姫の話を既に語っていたことが分かっていて、十六世紀の終わりには、浄瑠璃という名称が法師などがする語りものの総称となっていった。それほど流行っていたということだろう。1614年には後陽成院が『阿弥陀胸割(あみだのむねわり)』や能の高砂、賀茂などを傀儡子である戎舁(うびすかき)に演じさせた。『浄瑠璃物語』を人形芝居でするように発案したのはこの院であると言われている。

『阿弥陀胸割』珍書大観金平全集 倉田喜弘『文楽の歴史』より転載

浄瑠璃は、能で切り捨てられてきた個性と個性の衝突とか、激しいアクションとか、英雄なら英雄ならではの際立った性格を逆に重視したため西欧の劇に近い脚本となって登場人物を小説風に細かく描写することが可能だった。浄瑠璃や仏教的な出自を持つ説経節は、このような劇的要素で民衆に訴えた。『阿弥陀胸割』は、初期の浄瑠璃の有名なものの一つである。これは『浄瑠璃物語』と異なり、最初から人形芝居の脚本として書かれた。

『阿弥陀胸割』

話は天竺に設定されていて、初期浄瑠璃の定石どおり六段からなる。悪魔を祓う剣や若さを取り戻させる松の木などの七つの宝を持つ長者夫婦、七歳の娘と五歳の息子を大切にしている。妻は、他の人は後生を気にかけて善行を積むが、私たちには永遠の若さがあって後生を考える必要はない。それなら悪行を積んでみましょうと夫に持ちかける。それからは寺を焼き、お布施を断り、悪事を重ねた。釈迦は二人を懲らしめようとするが、送り込んだ魔王たちは魔法の剣で追い払われる。そこで、地獄の鬼たちが呼び集められ、彼らは長者の剣を溶かし、召使いたちを殺し、夫婦は鉄を口から流しこまれて死ぬ。残された二人の子は乞食となって彷徨うのだが、両親の七回忌になっても供養できないことを悲しんで隣国に行って自分たちの身を売ろうとするが、売れない。お寺で一心に祈ると、阿弥陀仏が夢に買い手の金持ちが現われることを告げる。

その金持ちには原因の分からない病にかかった十二歳の一人息子がいて、医師によれば、この男のと同じ年の、同じ月、同じ日、同じ刻に生まれた女の子の生胆を食べさせなければ治らないという。十二歳の女の子が集められ、その中に例の姉が含まれていて、この条件にぴたりと当てはまった。金持ちの妻はその子を殺して胆を取ることを懼れた。姉は自分が死んだ後の弟が心配で泣き、金持ち夫婦もそれに同情して泣いた。姉は自分の両親のために寺を建立し、阿弥陀三尊を安置してもらい弟を大切にしてもらえることを条件に承諾する。兵士たちがやってきて約束通り姉の胆を取ろうとして躊躇するのだが、姉は兵士に指図して自分を殺させた。胆の効果は、てきめんで息子はすぐに快癒する。姉の死骸のある寺に行ってみると娘はなんと弟と手をとりあって眠っている。驚いたことに傍らの阿弥陀の胸が裂かれていて、おびただしい血が流れていた。皆、阿弥陀が姉の身代わりとなったことを知るのである。

『生写朝顔話』(朝顔日記)本書より
この場面では実際に琴が演奏されるのだけれど太棹の音と混じるとはっとさせられる。

実はこのような不思議譚は、後世繰り返し作られていて、近松の最初の成功作といわれる『出世景清』では景清の身代わりに彼が帰依する観音菩薩の首が切られることになる。生胆、生血の不思議譚は『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』や冒頭の『生写朝顔話』でも登場する。朝顔こと深雪の目のために駒澤次郎衛門こと阿曾次郎が与えた薬は甲子(きのえね)の年に生まれた男子の生血で飲まなければ効果がないとされている。嶋田の宿にある宿屋・戎(えびす)屋の主人徳衛門こそ、その甲子の年の男子で深雪の乳母浅香の父であり、深雪の父秋月には大変な恩義があった。それで、自らに刃をあてて生血を深雪にさし出すのである。こうして深雪は視力を回復して阿曾次郎の後を追う。ここでは、徳衛門が阿弥陀の役をしている。

初期の浄瑠璃が人形芝居の脚本へと傾斜し始めた頃、人形芝居で浄瑠璃が語られる節は能の謡に近いものであった。人形芝居が宮中のような所で行われれば能のような形態に合わせることが必要とされた。浄瑠璃物語の十二段は、初期には六段に、次いで五段ものとなる。一段目は、ことの起こりで、例えば何かの悪事が描かれる。二段目はその悪に対する善の力が胎動しはじめ、三段目では登場人物の犠牲によって善の力が優位となり、四段目は善と悪との相克があって善が勝利する。五段目は最も短く、善の勝利が祝われるといった順序を踏む。この構成の根幹には能における序・破・急という要素があり、その影響は大きいといわれている。

 


16世紀に三味線の原型である三線が琉球から伝わった。胴に蛇の皮が張られていて蛇皮線とも呼ばれたが、強くばちで打つと皮が破れやすかったため猫の皮にかえられて江戸初期には現在の三味線となった。珍しさもあって色々な伴奏に使われたと想像されるが、その高い打楽器に似た音が人形遣いが人形を操る際の拍子とりに最適であった。現在、人形浄瑠璃で使われる三味線は太棹(ふとざお)と呼ばれて音が大きく強いのが特徴である。


 

人形芝居の脚本が、それ自身のための進化を遂げていく中で、その語りを行う人、すなわち太夫の存在は極めて大きなものとなっていった。まず、挙げられるのは薩摩浄雲(1595-1672)で、坂田金時の子、金平(きんぴら)の語りで名を馳せた。鉄の棒を叩いて拍子を取ったと言われる。せっかく江戸に定着しかかっていた人形芝居だったが、明暦の大火で江戸が焼野原になると太夫たちの多くが上方に移り、大阪の地で人形芝居が発展していくこととなる。

倉田喜弘『文楽の歴史』
江戸から平成までの文楽の歴史をまとめている。

宇治嘉太夫(うじかたゆう/1635-1711)は、宮中や公家から拝領する掾号を賜って加賀掾(かがのじょう)を名乗った人だが、芸論集『竹子集』の中で浄瑠璃の芸には手本となる先行芸はないと言いきっている。ただ、謡曲から派生したことを忘れてはいけないと言い、浄瑠璃は太夫の声だけで行うもので三味線を考慮する必要はないとも言う。声の出し方には、祝言、幽玄、恋慕、哀傷の四音あるとしていて、ここには修羅が欠けている。この人の語りは節配り細やかで、よはよはしく、たよたよしく、美しく語り出したので京都では評判が良かった。また、扇拍子でテンポの変化を三味線に伝えるようにと書いている。俗にいうタタキである。一方、井上播磨掾(1632?-1685?)は強い声で節回しもよく、言葉遣いもはっきりしていて、宇治嘉太夫と対照的だったようだ。その芸風は播磨風と呼ばれた。(倉田喜弘『文楽の歴史』)

大阪・天王寺村で生まれた五郎兵衛は、この播磨掾の流れを汲む近所の利兵衛に浄瑠璃を学び、後に京へ出て宇治嘉太夫の一座に入って、清水理太夫(きよみずりだゆう)の名で四条の芝居に出た。高低、声の良く出る、はっきりした言葉で、どんなに大入りでも声が通ったと言う。1684年西国への巡業を終わると道頓堀に竹本座の櫓を上げた。彼こそが竹本義太夫(1651-1714)だったのである。

彼以前の浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれるようになる。それまでの浄瑠璃を総合して新たなスタイルの浄瑠璃を創始したからだ。その後のスタンダードとなったこの浄瑠璃は義太夫節とも呼ばれる。人形芝居のための浄瑠璃の代名詞となり、歌舞伎でも使われることがある。竹本座の最初の出し物が近松門左衛門(1653-1725)の『世継曽我(よつぎそが)』であるが、1685年のことで、それが上演された時が本格的な人形浄瑠璃のはじまりとされている。ここからは、人形浄瑠璃を文楽と呼ばせていただきたい。蛇足ながら浄瑠璃は語りものの総称であるので、義太夫節の他に常磐津、清元、新内などがある。

竹本義太夫(1651-1714)『摂津名所図絵大成』

決定的な作品は『曽根崎心中』だった。それ以来、近松は歌舞伎にも脚本を書いていたのをやめて文楽のみに書きはじめ、住まいも京から大阪に移した。もはや平家物語や太平記に登場する英雄や武勇談は、そこにはなく、超自然の幽霊や龍や狐といったアクションものとも異なった。それは世話物と呼ばれる。醤油屋の手代と遊女の心中という世間を騒がせた実話を描いたのである

キーンは、文楽の歴史を通して写実主義に向かって不断の努力がなされてきたという。この頃、人形そのものにも改良が加えられ細かな動きが可能となった。1705年に上演された『用明天皇職人鑑』では、既に人形遣いが舞台に現われ、太夫も舞台の陰でなく観客の見える所で語っていた。誰にもお馴染みの郭(くるわ)言葉を話す芝居が書かれるようになった時、観衆は人形遣いや太夫が舞台に出て演じるという趣向を喜んでいたという。舞台上では実と虚が対立の度を深めていたようだ。

近松門左衛門(1653-1725)
永井如雲編『国文学名家肖像集』1939年

近松が日本のシェークスピアと呼ばれようと、その作品は後に改悪されていったとキーンは言う。例えば『曽根崎心中』は昭和30年に改作されていて、それまで再演はなかったので新作とかわりなかった(竹本住大夫『文楽のこころを語る』)。この近松作品には、主君のために我が子を殺すと言うような法外な設定が無く、刺激に乏しいと思われたため、原文にない部分が書き加えられたり、誇張された文句が書き連ねられたりした。それに、彼の頃の人形は舞台下から操る現在のものより小さい一人遣いのそれだった。三人遣いの人形では動きが遅くなるために近松の台詞にあわせて操ると浄瑠璃が間のびするほかなく台詞はカットされた。

もっと悪いのは、人形の首(かしら)が、年齢や性別だけでなく善悪による性格分けで表現されるようになり、首そのもので善人の老人か、悪年増かが一目瞭然にされてしまったことだ。近松が登場人物に与えようとした個性を表わすには不向きになるのである。それ故に、例えば『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋の段」で悪役風の松王丸が初めから主人の菅公に忠義だったといった思いがけない展開が逆に可能になった。キーンは、近松が意図したように、ある登場人物を完全に良い人間とも悪い人間ともつかないようにしておくことや、最後までその判断をさせないようにすることが不可能になり、後の改作では、そういう人物が完全な善玉か悪玉かに書き換えられているとしている。近松のいう虚と実の間の薄い被膜は分厚くなっていったのである。

歌舞伎では、脚本は芝居の材料であって役者は舞台で即席にセリフが言えた。しかし、文楽では人形と三味線の伴奏は脚本と完全に一致しているために単に一音節それまでより長く引っ張るだけでも相当な変化となる場合がある。二世綱太夫が1822年に『艶容女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)』の「酒屋」で半兵衛がセリフを言っている時に咳を一つする箇所を付け加えた。これ以降、綱太夫を襲名したものは、それを伝統的に踏襲するようになる。人形遣い、三味線弾き、太夫という三者はきめ細かな共働をしているのであり、かつての宇治嘉太夫のように三味線を軽視してはいられないのである。

『用明天皇職人鑑』の舞台 『今昔操年代記』 人形は突込み式の一人操りである。倉田喜弘『文楽の歴史』収載

ここで、少し三味線の役割に触れておこう。文楽の脚本は太夫によって解釈され、それが三味線弾きに伝えられると、今度は三味線弾きが演出家となって指揮をとる局面がある。彼が合図をださないと太夫は語れず、人形遣いも登場できない。三味線の名手豊沢団平は、ある時、それを弾くと太夫がある叫び声を出す決まりになっている一連の音を立て続けに弾いたものだから、太夫が倒れてしまったことがある。その日の芝居では、それが必要と思ったからそうしたのであり、そんなことのできる三味線弾きは今日ではいないだろうとキーンは述べている。

指揮者でありながら、三味線弾きが太夫の女房役であることは確かで、まれに三味線弾きが観衆の注意を惹きつけることもあるけれど、あくまで伴奏役であるという。綱太夫は二十五年間(この著書は1966年に刊行されている)、竹沢弥七の三味線で語ってきたが、綱太夫が語り始めると、その日の調子がどんなものか察知して、調子が良ければ思い切り語れるように、悪ければ、それを補うように、調子を変えて弾いたと言う。三味線弾きが掛け声を出すのも、太夫の調子が悪ければ助けになるし、良ければかえって邪魔になることもある。ちなみに文楽で作曲してきたのは三味線弾きたちで、ある部分では五・六人で演奏する華麗で快活な曲を作り、道行では当時の歌謡がアレンジされた。余談になるけれど、三島由紀夫が、自作である歌舞伎用の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』を文楽に改作しようとしていた途中で自決してしまった。歌舞伎用の浄瑠璃に曲をつけていたのは三味線弾きの人間国宝鶴澤燕三(つるざわえんざ)だったという。三島は、その太棹の音を愛していた。(桐竹勘十郎『一日、一字学べば…』)。

文楽は脚本に多くの文学上の傑作が書かれた唯一の人形芝居である。人形の仕組みや音楽においても発達を遂げ、写実主義的な傾向を強める一方で、観客には多くが要求されるようになるとキーンは指摘する。写実に一歩進むごとに、その反対の様式化に向って一歩進められた。それは文楽に携わる人間たちが、観衆を写実で食傷させる危険を心得ていたからであるという。脚本が文学的になるにつれ人形遣いのセリフを別の語り手がするようになり、近松のような日常生活に近い情景が設定されるようになると舞台裏にいた語り手は舞台に出て語るようになる。それは、人形が口を利いているといった幻覚を否定することであると共に脚本の言葉を尊重することにつながる。太夫が語る脚本の言葉も普通では使われない言葉遣いで書かれていることが多かったし、幕が上がると黒子が出てきて、いちいち太夫と三味線弾きを紹介する口上を述べるのもその関係であろう。

こういった、ある種写実に傾きながらそれを否定するような設定は、中世フランスの『薔薇物語』における寓意そのままを自らの名前としている登場人物たちを思い起こさせる。そのようなニュートラルな空間が、人形へと感情移入するためには必要ではなかったのだろうか。写実に徹した人形芝居は恐らく不気味なものとなったろう。確かに、今日でも文楽の観衆は、こういった芝居の統一感をわざと乱すような条件を克服しながら、義太夫語りと三味線弾きと人形・人形遣いをかわるがわるに見てそれを楽しむのである。

歌川国貞(1786-1865/三代目 歌川豊国)
『櫓のお七人形振り』

さて、この現実と非現実との均衡が、長い年月にわたって培われて来たことの結果であることは疑いない。人形遣いについては、次回 part2 で改めて取り上げるけれど、ここで人形の振りと型について触れておきたい。振りは人間が普通にする動作で、焦燥、絶望といった時の仕草、縫い物、演奏などでの日常の動作が様式化されたもので人間が普通にすることだから多数ある。これに対して人形に独特の線の美しさを表現させるのが型である。振りについて言えば、『艶容女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)』の「酒屋の段」では、半七の妻、お園が女を連れて家出した夫を思って独り言を繰り返しながら無意識に行燈(あんどん)の埃を払うというお園の性格を際立たせる振りがあり、別の振りでは酒屋の入り口まで出てあちこち見回して片手を懐に入れ、悲嘆にくれて立ち尽くすという美しい振りがある。

型は、それほど多くはない。人形は太夫が語る言葉一つ一つをいちいち表現するわけではないから、必ずしも脚本どおりそのままということではない。勿論、登場人物の性格を脚本から正確に解釈した上だが、人形の演技は一連の言葉の中心をなす部分に力点が置かれる。その中で視覚的に美しい表現をすることを求められる場面が多々ある。そこに型が使われるのである。舞台に文楽の独特の魅力が横溢しはじめるのはここなのである。先日見た『生写朝顔話』で深雪が帯振り乱し、嗚咽しながら天を仰げば、日本舞踊を思わせるような後姿が絵に描いたように表現される。日本のパトスフォルメン(情念定型)なのか。観客は、太夫の扇情的な声とこの人形の美しさに恍惚となる。これが文楽にしか出せない演出の秘密なのかもしれない。テレビドラマの『水戸黄門』のように定番とは知りながら、まんまと嵌るのである。それが、型の魅力なのだ。それは、るで面影のように脳裏に焼き付いて増幅しはじめる。現実と非現実の被膜の上に文楽が乗っているなら、非現実を支えていた柱は、実はこの型であったのかもしれない。

文楽は、歌舞伎と同じく庶民の芸であった。「お涙頂戴」は、勿論ある。僕は、けっしてこの「お涙頂戴」を蔑む気になれない。オジチャンもオバチャンも日頃の憂さを忘れて涙し、カタルシスしてきたのだから。しかし、昨今のオバチャンは鉄のハートなのではなかろうか。言っておくが、浄瑠璃と山葵(わさび)は泣きながら誉めるのである。

 

 

惜しくも昨年(2018年)亡くなった人間国宝の七世竹本住大夫さんが太夫をつとめる『心中天網島』「河庄の段」です。近松ものは字余り、字足らずでやりにくいが、この段に出てくる孫右衛門は好きだとおっしゃる。やがて心中する紙屋治兵衛と遊女の小春を治兵衛の兄の孫右衛門が別れさせようとする場面です。孫右衛門は、治兵衛が小春を思い切ったというので喜ぶものの、実は治兵衛の妻おさんからの手紙で小春がおさんへの義理立てに治兵衛にあいそつかしをさせようとしていたのだと知る。治兵衛の手前、「真実のないは女郎の常」と蔑み、そんな者と心中しようとは、「思いまわせば可笑しいやら不憫なやら」と高笑いで手紙の件を紛らわせようとするのですが、小春への感謝と憐憫の情がその笑いのなかに折り畳まれていきます。ここは素晴らしい。

 

参考図書

桐竹勘十郎『一日に一字学べば…』人形遣い三世桐竹勘十郎の修行にまつわる興味深いエッセイ。

『竹本住大夫 文楽のこころを語る』 名大夫が文楽の十九作品の解釈や面白さを語る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今道友信『ダンテ「神曲」講義』part3 天国篇 ―― 美の神学

今道友信(1922-2012)『ダンテ 神曲 講義』

クラシックって古典のことだろ、と当たり前に思っていたのですが、恥ずかしながらその語源について知ったのは、本書を通じてでした。クラシックとはラテン語の classis= 艦隊を意味する名詞から派生した形容詞であると言う。ラテン語辞典で調べるとなるほど海軍となっている。それはローマの国家的危機に際して一艘とかではなく、艦隊を寄付できるような国家に寄与できる富裕層を指した。古代ローマでは徴兵制はあったが、軍艦は税金ではなく寄付を募って造ったと言う。この国家の危機に自分の子供= proles しか差し出せないような貧しい層の人をプローレータリウスと言った。そこから貧困な労働階級を意味するドイツ語プロレタリアートが生まれたのである。この意外な展開に吃驚仰天したのは言うまでもない。転じて人間の心の危機において本当に精神に力を与えてくれるような書物、絵画、音楽、演劇などの偉大な芸術をクラシクスと呼ぶようになったというのである。これは古典と訳されたが、典は猫脚の机の上に巻物を大切に置く象形文字で、大切にして読むという意味です。けっして積読の意味ではありません。

ダンテの古典に学ぶというわけで今道さんの『ダンテ「神曲」講義』に拠りながら神曲の各歌を要約してご紹介している。今回はその最終回、「天国篇」をご紹介します。ダンテ研究はフマニスムス、つまり人文主義を学ぶことである。この言葉は1809年にフリードリヒ・ニータンマ―という人によって人間愛=フィラントロピスムスに対して作られたドイツ語である。それは古典研究を介して言語に習熟すること、言語に馴染み生きるということであった。ダンテの直後にイタリアでウマニスタと呼ばれる古典研究を中心とした人文主義のグループが現われる。その人々の運動こそが19世紀以来のヒューマニズムを先駆けるものであった。

今道友信(1922-2012)

今道さんのフリーの肖像写真を探していたのですが、あまり良いものが無くて、ご紹介が遅くなってしまって恐縮です。今道さんは1922年東京生まれ。父親は支店長も務める銀行員で、転勤もあり、山形、高知と転校した。この辺りはバフチンを思い起こさせる。いずれも当時は方言がきつく、それで英語が好きになったと冗談めかしておっしゃっている。1948年に東京大学文学部哲学科に入学、出隆(いで たかし)に学んだ。パリ大学やヴュルツブルク大学で非常勤講師を勤め、1958年から九州大学や東京大学などで教鞭を執るようになる。国際美学会副会長、東京大学名誉教授であられた。1982年に哲学美学比較国際センターを創設され、2010年まで所長をされる。2012年、大腸がんのため89歳で亡くなっている。エコエティカ(生命倫理に基づく人間学、倫理学)を提唱した美学・哲学者として知られている。簡単ではあるが今道さんの経歴をご紹介した。

煉獄篇では地獄篇と異なり、悲惨や絶望への哀訴はなく、教理の理解や政治論などを踏まえながら巡礼叙事詩の形をとって天国への接近が図られる。ダンテは、ここで前著の『帝政論』の行き過ぎを訂正しているという。改宗者スタティウスやベアトリーチェとの関係を想像させる女性マテルダらが加わり秘儀めいた雰囲気が演出され、ウェルギリウスが表舞台から退くと、聖体拝領を境とする信者のみが正式参加を許されるようなミサの雰囲気を醸し出しはじめる。宗教的な色彩を濃くするのだ。浄罪救済の叙事詩としての性格を煉獄篇は持っていた。これに対して天国篇は天国の至福の叙事詩とならなければならない。それは宗教的宇宙論と言ってもよく、極めて教導的である。そんなものは、たいてい詰らないものだというが、この神曲は面白い。何故だろうか。さて、天国篇に入ろう。

天国篇

地上楽園から天界への上昇 第一歌から九歌

ジョヴァンニ・セルカンビ(1348-1424)画
ダンテ神曲より火星天の登場人物、15世紀
地上楽園から月光天、水星天、火星天へと上昇していく。

冒頭ダンテは予言の神アポロンに呼びかける。地獄篇でも煉獄篇でも冒頭に呼びかける対象は詩の神々ミューズであった。それはホメロスの「憤りを歌いたまえ詩のミューズよ」に始まり、ヴェルギリウスによって「ミューズの女神よ、私に事の由を思い起こさせたまえ」と受け継がれた伝統と言って良い。ここでダンテは「願わくは我を汝の徳の器とし」「汝の愛する桂(アルローロ)を受くるにふさわしき者たらしめよ」と願っている。ミューズは過去を歌う女神である。パウロが行ったとされる天国は、それ以外誰も行ったことがない。アポロンの予言力を借りなければ、とうてい表現不可能だというのである。(一歌)

ダンテはベアトリーチェと共に地上楽園から月光天へと上昇している。太陽さえ凝視できる力を備えるようになった。ベアトリーチェは、こう説明する。創造物には神が刻印したそれぞれの価値がある。その定めによりその根源に向けて傾斜していく。それが本能であり、火は月へ動き、下等生物には機動力となり、大地には凝固させる力となる。私たちは神の摂理の光によって原初動が全速回転する、しかも極めて静かな至高点へと向かっているのだと語る。

天国篇は難解であるから私を見失い、途方に暮れるかもしれないと小さな舟でついて来る人たち、つまり読者に警告が発せられる。話は哲学・科学・神学へと傾斜していくのだ。矢のような速さで月光天に着いた。ダンテはあの月の斑点を問い、彼女はそれに科学的に答える。そして、至高天は回転する力の中に全ての実在を持っていて、第八天である恒星天は、実在のそれぞれの本質に分かれている。七つの天球はそれぞれの性格に従って内部に各々の本質と種を持っていて、上の天の影響は下の天に伝えられる。様々な力が天体に応じて種々に結合し、天体を賦活する。それは魂の様々な能力が異なる五体に行き渡り生命が人間に結びつく仕方に似ているという。(二歌)

サンドロ・ボッティチェリ 『天国篇』 第二歌

「万物を動かすところの者」を神としたのはアリストテレスである(『形而上学』λ 巻)。形而上は易経にある言葉で形体あるものを越えて考えることを指している。それは神学でもある。今道さんは、アリストテレスの第一動者としての神の存在証明をトマス・アクィナスが受け継ぎ、その伝統がダンテにまで継承されているという。

月光天でダンテはフォレーゼ・ドナーティ(煉獄二十三、四歌)の妹、ピッカルダに会う。立てた誓願が軽んじられ、一部は破られたためにこの天界に割り当てられたという。しかし、何も望むこととはなく、神意のうちに留まっていることこそ幸福であると語る。そして、同じく尼となりながら還俗を余儀なくされた大王妃コンスタンツァを紹介する。(三歌)

プラトンの言う、死後に魂は星に帰るという疑問とピッカルダのように他人の暴力が何故自分の功徳を減らすのかという疑問にダンテは捉えられた。前者については自然が魂に肉体という形相を与えた時、魂がその星から別れたというプラトンの考えには一笑に付すことができない問題があるとベアトリーチェは答える。後者については、意志の弱さに起因することだという。(四歌)

ギュスタ―ヴ ・ドレ『天国篇』 第五歌

破られた誓願は他の善行によって償いうるものかという疑問にベアトリーチェが答える。天地創造に際して神が与えた最大の贈り物は意志の自由であった。誓願は意志の自由を犠牲にする。それ故高い価値を持っている。誓願の内容を勝手に変えることは出来ず、神との契約が果たされなければそれが取り消されることはないと語った。そして、二人は第二の天、水星天に駆け上がった。そこには、千余りの光明が近づいてきて、その中から声が聞こえた。(五歌)

皇帝ユスティニアヌスの魂が、鷲の旗の下にアエネアスから始まる代々のローマ皇帝の偉業を語る。そして、教皇党と皇帝党とがそれぞれの党利党略に走るのを嘆いた。生前、名誉のために善行を積んだ人々が集っているが、とりわけ、水星真珠天の光輝は、プロヴァンスの宰相ロミューであると語る。(六歌)

ダンテはベアトリーチェへの畏敬の念にかられ、「べ」とも「イーチェ」とも言えず眠りこむように頭を垂れるしかない。彼は、人間の贖罪に対する疑問に囚われる。生まれたことのない男性、つまりアダムの堕落以来、造物主から離反した人性はキリストという永遠の愛の働きによって再び神に結びつけられた。十字架によって課せられた罰はキリストが帯びていた人性を考えれば正当な罰であり、キリストの持つ神の位格にとっては、かつてなく不当な罰であった。一つの事から異なった結果が生じた。正義の復讐が、その後、正義の法廷によって報復を加えられたのだとベアトリーチェはいう。正義の復讐とはアダムの犯した罪がキリストの死によって贖われたことである。報復とはキリストの血を流させた民の都エルサレムを皇帝ティトゥスが破壊したことを指している。神が支配する世界で復讐は何故繰り返されるのか? こういったキリスト教的歴史観、歴史が神と救いの論理で解釈されるのはアウグスティヌスの『神国論』をもって始まる。ティトゥスについての解釈は、その弟子のオロシウスによると今道さんは述べている。(七歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第八歌

第三の天、金星天へと二人は昇る。ダンテと旧知の間柄であったハンガリア王カルロ・マルテㇽロが喜悦の情によって一層輝いていた。自分が若死にしなければこれほど害悪が世に広がることはなかったろうと語る。そして甘い種から苦い実、つまり立派な親から不肖の子が生まれるのかを問うダンテに答えてやる。(八歌)

第九歌は地獄篇でも煉獄篇でもその門の内に入る場面に選ばれている。天国篇でも、ここから本当の天国に入っていくのだ。大地に立って手をかざすと、それが陽の光に投げかけられてできる影の先となる。同じように地球の影はこの金星天までのびて影の端を作る。そこから先は地球の影響は及ばない。真の天国となるのである。普通の人でも命がけで善行をなせばこの金星天までは行ける。そこから上は、聖人が登場するが、ダンテは自分の高祖父もこの天国に入れている。よほど家門の誉れだったのだろうか。ロマーノ家のクニッツァは多情ではあったが晩年改心して善行を積んだ。彼女はイタリア各地の惨状を語る。吟遊詩人であったフォルケは神の摂理を讃えて歓び笑う。そして、ヨシュアを助けた遊女ラハブがいた。たとえ、遊女であっても、たとえ、一度でも命がけで善行を行えば天国に迎えられるとダンテは考えていたのである。(九歌)

不可視のものが可視のものを統べる

プラトンの「線分の比」の教え 本書より

神が創ったものは滅びない。原質料がその一つである。それは背後にある。原質料から諸々の力により多くのものが形成された。形成されたものは滅びる。それは外に現われでる現象に過ぎない。質料と形相とは神によって作られた。何でも形成できるスーパー物質とその鋳型と言って良いのかもしれない。例えば、土は無から創られた原質料から土になる可能性を巡って運行する星の上に、神の内在せしめた形相に基づいて形成されると考える。

プラトンには外に現われ出る可視のものと、その背後にある不可視のものについて語られる「線分の比」という教えがある。ADは理性によってのみ把握しうる不可視の世界イデア=神の思い、DCは悟性によって把握できるエイドス(概念・法則)、ここまでが不可視の世界である。CEは、いささか現象学的に言えば経験世界における事物への確信の世界、BEは感覚によって得られる世界と言ってよいのではないかと思うけれど、プラトンの言う可視の世界である。この不可視のものが可視のものを統べるという考えは、アリストテレスを通じてトマス・アクィナスへと流れ込んだ。

火の花冠 神学者と聖人たちの天界 第十歌から二十二歌

第四天、すなわち太陽天ではトマス・アクィナス、そしてアリストテレスをキリスト教の基盤に据えたといわれるアルベルトゥス・マグヌスら多くの神学者や哲学者がいる。そこでダンテは「己の一切の愛を神に注いだ」といえるほど真剣に考えた。天国では、人は直観知の明証性を論理化することができる。多くの聖人の説教を聞き、ベアトリーチェ自らも理論を述べ、問答を通して知的会話が為され「歓喜は永遠となる」。

ダンテとベアトリーチェを中心に生き生きと輝く火が冠のように拡がり照り映えている。真実の愛は恩寵の光に火を発すると愛によって益々強まってゆき、君を高みに導くという声が聞こえてきた。トマス・アクィナスの声だった。その右にはケルンのアルベルトゥス、グラチアーノ、ソロモン、スペインの司祭オロシウスなど光の輪を構成する12人のキリスト教の智者たちが紹介されていく。すると甘味な清音のような合唱が聞こえてきた。(十歌)

ギュスタヴ・ドレ『天国篇』 第十二歌
12人よりいささか多い。

彼女は、まだうら若い女であったために父の怒りを買った。この女に対しては死神同様、誰一人門戸を開かなかった。そいて、司教法廷、並びに父親の前で彼はその女と結婚し、それ以後その女を熱愛した。トマスはダンテにアッシジの聖フランチェスコとポヴェルタ、つまり清貧との逸話を語りはじめる。(十一歌)

第一の光の輪を取り囲んで第二の輪が廻りはじめる。第二の輪も12人の魂で輝いている。その中の一人ボナヴェントゥーラがトマスの所属したドミニコ会の創設者・ドミニコの逸話を語る。ボナヴェントゥーラ自身はフランチェスコ会士だった。そして、ユーグ・ド・サンヴィクトールら他の11名を紹介する。(十二歌)

 

あまりにたやすく事をきめつけ
野原の穂など熟せぬうちに
値踏みするような人にはなるな。
茨は冬こそ恐ろしげだが、
後その小枝に薔薇の花を
咲かせていたのを見たことがある。
遠い海原を舟足速く
はるかな舟路を渡った舟が
港に沈むのを見た。
一人が盗み他が寄付するを
見たとて世人よ神の審判が
定まると思うな、ありうることは
前者の更生後者の堕落(130-142 今道友信 訳)

神曲はトマス神学の詩的結晶と呼ばれる。ここでもう一度、トマスがダンテに語りかける。アリストテレスの『ニコマス倫理学』の実践理性をトマスがキリスト教的に展開した徳目についての解説になっている。自らの中に道徳的判断の基準となるどのような原理を持つかを問うているのだ。人生は計画どおりに機械的に進行しはしない。偶然と必然の間を揺れ動く、アリストテレスは理論理性(エピステーメー)に対して実践理性(ブロネーシス)を分立した。それが徳目プルデンティア(智慧)である。(十三歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第十四歌

別の光明が現われると先ほどの二つの光の輪のまわりを煌めきながら舞いつつ回り始める。両の眼は眩み、もはや凝視に耐えなくなる。二人は火星天へと上昇した。天の川の星たちのように、赤い光明たちが居並ぶと円内で直交する二直径からなる尊い印を形づくり、十文字の光がキリストの姿を描いた。その光明の群れから身も心も恍惚とさせるような旋律が流れた。(十四歌)

晴れ渡り澄み切った夜空を火が突然よぎる。流れ星と異なるのは、星は消えずその光跡が消えることだった。そのように十字架の右手から一つの星が駆け下りてきた。ダンテを待ち焦がれていた高祖父のカッチャグイダの魂だった。彼は、ダンテに12世紀の平和で地味で貞潔だったフィレンツェを語り、コンラード皇帝旗下の騎士となって第二十次十字軍に従軍して回教徒と闘い、1147年に戦死して殉教者となったことを教える。(十五歌)

ダンテは、先祖やカッチャグイダの幼年時代のことを尋ねる。当時の有力な貴族や名門の名が語られ、アミデイ家がダンテたちの災いの元凶であり、ブォルデルモンテ家がそのアミデイ家との婚約を破棄し、その後の殺傷沙汰に至ったことが告げられた。(十六歌)

ダンテは、この先祖に対して自分の未来を問うた。高祖父はこう答える。

お前自ら経験しよう
どんなに苦いか他人のパンは、
他家の階段を降りるつらさも。(58-60 今道友信 訳)

そして、ダンテは自分の意志をこの言葉に凝結させる。

父上(一門の古老を指す)、時勢は私に迫り
拍車を加えて討とうとします、
士気を失えば図に乗るでしょう。
されば、先見で我が身を鎧(よろ)い、
たといふるさとが奪われたとて
我が詩の在り処は確保しましょう。
はてない苦難の世界に降り、
淑女が示した峰に向って
美しい山を経めぐり登り、
光、光と昇りつづけて
学びえたことをまた言うならば
酢を飲まされたと人は言います。
だがもし私が真理に対し
卑怯になるなら今を昔と
呼ぶ世代からは否定されます。(106‐120 今道友信 訳)

未来とは何か ? 動物と人間を分けるものは理性であるとトマスは言う。自然における形態の変化ではなく、生き方の変化としての歴史が人間の理性の内にしかないのなら、歴史形成の根拠は人間にある。歴史形成へ向けて理想が求められるなら、それは理性に求めなければならない。(十七歌)

フランチェスコ・スカラムザ(1803-1886)
『天国篇』 第十八歌 TERRAMのM字、鷲が頭を沈めた形に見える。

火星天には下界で名を馳せた多くの勇者たちの魂が光明を放っていた。ヨシュア、マカベウス、シャルルマーニュ、ローランたちの名が呼ばれる。やがて、二人は、第六天である木星天の白い静光の中にいた。そこでは、光芒に包まれた魂たちが時に D、時に I、時に L の文字を組むのだった。DILIGITE  IUSTITIAM(愛せよ正義を)、QUI IUDICATIS TERRAM(地を裁く者らよ)という文字が金で象嵌した銀のように輝いていた。無数の光明が火花のようにあたり一面に飛び散ると鮮明な光芒となって鷲の頭と首を形づくりはじめた。(十八歌)

鷲は多くの象徴的な意味を持っている。木星の神ユピテルは鷲に変身したし、ローマの旗印は鷲であり、正義の象徴、キリストの象徴と考える人たちもいる。光たちが集まって出来た鷲は、一つの魂であるかのように語った。正義感と慈悲心のおかげで私はこの栄光の高みまでやってこれたと。ヴェルギリウスに対する思いなのか、キリスト教を信仰していなかったものの救いはあるのかと問うと、永遠の裁きは人間には不可解だという答えが返ってきた。(十九歌)

第六の星では、光明の群れが合唱し、光彩陸離、宝石珠玉を鏤めて輝いていた。その鷲の形の中の最高位は、頭の位置にある六つの光だった。ダビデ、トラヤヌス、ヒゼキア、コンスタンティヌス、シチリア王グリエルモ、トロイア人リペウスの魂だがキリスト以前の人々もいる。天の王国は、熾烈な望みによって掟が破られることを許すことがあるのだとダンテは知らされる。(二十歌)

二人は第七の天、土星天に昇る。ベアトリーチェは言う。もし、私が笑えば、あなたは光輝くユピテルを見て灰と化したセメレーのようになるでしょう。ダンテは、まだその光輝に対する準備が出来ていない。この水晶宮の中に黄金のヤコブの梯子がはるか彼方まで延びている。オスティアの大司教ピエトロ・ダミーノの魂が君の聴力はその視力と同じく現世の人間のそれだ。ベアトリーチェが笑わないのと同じ理由でこの天の甘美な交響は止んでいるのだと教える。(二十一歌)

百余りの光明の中のひときわ大きく輝く魂がダンテの望みを叶えてくれる。彼はモンテ・カッシーノに西欧最大の僧院をつくった聖ベネディクトゥスだった。あなたの姿をはっきり見ることができるような恵みに与れるのかという問いに、君の望みは最高天で叶えられると答える。ベアトリーチェが梯子を昇るように目で合図する。ダンテは飛翔し瞬く間に金牛宮を過ぎ、その中に入っていった。(二十二歌)

ウィリアム・ブレイク『天国篇』 天の九層

天国とはどのように構想されたか

ダンテの描いた天国は単に眠りのような不活発な世界ではなく希望の渦巻くような世界である。天界は、上に行けば行くほど旋回運動が大きくなり、次第に広がっていく。荘子では逆に狭くなっていって一点に収束する。それは不思議な対照をなしているのである。そのような動的な天国をベアトリーチェは「嵐を待望している天国」という。下界の大転換が天にとっても必要だと述べているのだ。苦労なしに永眠のできる所というふうには描かれない。天国は、光における神との一致の中で世界を美しく、より良いものになるようにと望むものとして描かれている。第二十四・五歌では、聖ペトロや聖ヤコブがダンテに信仰について問う。これに対してダンテは「信は望まれたものの実体/まだ来ないものの証しなのです。/これが信仰でしょう」と答える。新約聖書のヘブル書に「信仰とは望まれしことの実体、見えざるものの証なり」という言葉が既にある。トマスの『神学大全』の注にも「信仰とは望まるべき事どもの実体である」という言葉が述べられていると今道さんは書いている。

ミケランジェロ・カエターニ(1804-1882)
『神曲』天界の秩序

 

天界の構造

第十天(至高天)
第九天(原動天 天使)
第八天(恒星天/神学的な徳――信仰・希望・愛)
―― ↑ ヤコブの梯子 ――
第七天(土星天/観想生活者 真の天の門)
第六天(木星天/正義の徳とその象徴=鷲)
第五天(火星天/殉教者の勇徳)
第四天(太陽天/キリスト教的賢明の徳)
―――  ↑ 地球の影響の及ばない天界 ――
第三天(金星天/愛と節制の徳)
第二天(水星天/名誉のための積善)
第一天(月光天/誓願の不成就者)

地球 (地獄界 地上界 煉獄界)

基本的にプトレマイオスの宇宙観に従っているが、大まかに三層になっていて、天界は完全数の10に分割されている。

 

恒星天 ダンテへの試問 ― 信・望・愛(対神徳) 第二十三歌から二十七歌

二人は恒星天にいる。太陽がそこにさしかかると日脚がおそくみえる方角を一心に見つめるベアトリーチェは、天が明るくなるとほとんど同時に「さあ、キリストの凱旋の軍勢が来ました。天球の回転が取り集めた戦利品の数々とともにやってきます」と言った。その顔は一面に輝いて喜悦の情に満ち溢れた。その光輝にダンテは耐えられず彼女に助けを請うが、もう私の笑顔を見ることが出来るほどあなたの目は強くなったのですと励ました。キリストが至高天に昇った後、冠の形をした炬火(たいまつ)が降りてきて、一つの多きな星を取り巻きゆっくりと回った。わが子の後に従って冠をいただいたその焔が空を昇って行った。マリアの姿を直視するだけの力がダンテにはまだ無かった。(二十三歌)

彗星のように尾を曳きながら、中心は極めてゆっくりと周辺はさながら飛ぶように魂の群が回転している。その中でもひときわ幸(さきわ)う火がダンテに試問する。聖ペトロが問うのだ。「信仰とは何か ?」するとダンテは「まだ見ぬものの論証です」と答えた。そして、天上において見えるものは下界において隠されていてその姿は見えない。そうした事物の存在は信仰に由来し、その信仰の基盤は希望であり、それゆえ信仰は実体の性格を帯びるのだと補足した。そして、信仰の内容と由来について、自分は唯一にして永遠の神を信じていると述べ、この信仰を証しているのは物理や哲理だけでなく、福音書、詩編、預言書、聖人の著作がその真理を裏付けている。それゆえ自分は永遠の三位を信じますと語った。これが根源であり、火花なのだと。つまり、信こそが天国に入るための門なのである。(二十四歌)

ダンテは、もし、この『神曲』が世に出て政敵である邪な狼たちの無法を打ち破ることができるなら、フィレンツェに迎えられ、洗礼堂の泉の前で冠を戴く自分を夢に見る。聖ペトロに続いて聖ヤコブの光が現われる。そして「希望とは何か ?」を問う。 ダンテは、希望とは未来の栄光を疑うことなく待つことだと答える。これはペトロス・ロンバルデスの『命題論』から引かれている。ダンテのスコラ学の素養は並みのものではない。その期待は、神の恩寵と人のその時に到るまでの功徳に由来する。私の心にそれを注いだのは最高の指導者の最高の詩人だったと語る。ダビデである。聖ペテロと聖ヤコブの二つの光に聖ヨハネの光が加わる。焔の舞が止んで後をふり返ると、なんとベアトリーチェの姿が消えていた。(二十五歌)

ウイリアム・ブレイク 『天国篇』 聖ペテロと聖ヨハネ

聖ヨハネを見ようとして目がくらんだ。ヨハネはダンテを慰め、そして、問う。「愛とはなにか ? 」 ダンテは、アリストテレス流に、善は善として理解されると たちまちに愛に火を点す。愛が完全に近ければ近いほど大きい。神は至上善である。それゆえ神は最も愛されて然るべきであると答えて、目を癒してもらう。ダンテは、ベアトリーチェにあの第四の光は何かと尋ねる。それはアダムの魂だった。地上と辺獄での生活を経てキリストによって救われたが、追放の真の原因は限界を勝手に超えたことにあった。人間の好みは天体に左右され理性の産物が長続きしたことはないし、私が話した言葉は既に滅びている。人間が、どのように話そうが、その話し方は自然の裁量によって君たちに任されているが、至上善である神は、地上では I と呼ばれ、ついで EL(エル) と呼ばれた。こうした変化も人間の習俗から考えれば自然のなりゆきだろうと語った。(二十六歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第二十七歌

第二十七歌、神の御子の御前で空席になっている私の地位を簒奪しているものたちが、私の墓を穢したと憤った聖ペテロの光明が白色から紅へと変わった。と、ベアトリーチェの顔色も変った。そして、第八天は夕焼けのような紅と化した。やがて、天の磨羯宮の角が太陽に触れると凍った水気は雪片となって地球に降るのとは逆に、恒星天の水気は雪片となって上天を指して精気の中を上に昇っていった。ダンテは彼女の勧めにしたがって眼下の地球を眺めた。彼女の笑顔を見た時、神々しい歓喜が彼に降り注いだ。その視線の力によって彼は全速力で回る天の中に押し上げられた。(二十七歌)

神を見ること 第二十八歌から三十三歌

ここはアリストテレスのいう不被動の動者(キヌーン・アキネートン)としての神の働きに与る場所である。凝視できないほどの光を放つ一点が見える。その周りを月とその暈くらいの間隔で円い輪が回転している。中心に近いほど速く、周辺になるほどゆっくりだった。やがて、火花が次々に飛んで火輪とともに回り、ホザナの頌歌を歌った。天使達だった。第一の位階は、熾天使、智天使、座天使であり、第二の位階は、統治の天使、権威の天使、権力の天使、第三の階級が主権の天使、大天使、天使である。これは著名なディオニシウス・アレオパギタの天使のヒエラキアとは訳が少し異なっている。(二十八歌)

永遠の愛はこれ以上自分のために善を集めることができず、時間を越えた永遠の中でいっさいの分限を越えて思いのまま永遠の愛を新しい愛の中に広げた。形相と質料は、結合したものも含めてみな同時に出来上がって光を発した。その時、形相だけのものが天使、質料そのままのものが地球(原料)、二つが結合したものが各々の天となった(『神曲』平川祐弘訳注)。墜落の第一の原因は、あの地獄の底であらゆる重みで身動きできなくなった反逆の天使ルチフェルだった。そして天使たちは全ての事柄が映し出されている神の顔から目をそらすことが出来ずにいるため記憶がないのだとベアトリーチェはダンテに説明する。(二十九歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第三十一歌

ダンテはベアトリーチェと共に第十天に入った。そこは、アリストテレスが信じる神を超える場所であった。自分が包むものに包まれたかと思えるあの点の周囲を舞っていた凱旋の光が消えてゆく。ベアトリーチェの美しさは人間の把握の域を超えていた。活光がダンテを廻り照らすと彼の視力は一層力に満ち、身体には新たな力が湧きあがった。神来の光の波の大河が円い湖のように広がる。天上に戻った人々がその光の周りで幾千という円い段状の列を作って上から見ている姿を映していた。それは永遠の生命の源である神を暗示する巨大な薔薇の花を思わせた。天国の市(まち)と皇帝となるべきアㇽリーゴ七世の座が示される。(三十歌)

第三十一歌、清らかな魂が真っ白な薔薇の形に並んで現われる。天使たちがその薔薇の花と神との間を飛び回っている。ベアトリーチェへと振り向くと優しげで慈父を思わせる老翁が一人いた。ベアトリーチェが自分を呼び出したのだ、最高段から三番目の円の中にある玉座に彼女が坐っているのが見えるだろうという。ダンテは遠くに彼女を見つめ心からの礼を述べた。彼女は微笑むとやがて永遠の和泉に向う。翁は聖ベルナール、観想の人、熱烈なマリア崇拝者だった。(三十一歌)

聖ベルナールは、マリアをじっと見つめ、その足もとにいるエバ、その下のラケル、ベアトリーチェの横に坐るサラ、リベカ、ユーディト、ダビデの曾祖母ㇽツがいることをダンテに教えた。ヘブライの女たちが壁となって円型を二つに分ける。キリストの到来を信じた人びとの反対側にはヨハネをはじめとした到来したキリストを信じた人びとがいる。ヨハネの他にフランチェスコ、ベネディクトゥス、アウグスティヌスらがいた。下の方には救われた幼児たちがいる。そのほか、アダム、ヨハネ、モーゼらがいることを教える。(三十二歌)

ウイリアム・ブレイク 『神曲』 天国篇 第三十二歌

最終歌、聖ベルナールはマリアを讃えると共にダンテに神の姿が見える恵みが授かるように祈る。祈りは聞き届けられた。光線の奥のさらに奥には言葉で及ばぬ言葉を越えた姿、記憶では及ばぬ記憶を越えた姿があった。善は意志の目的であり、善は全てこの光の中に集まっているから、そこから目をそむけることは出来ない。神人合一が成し遂げられる。至高の光の深く明るい実体の中に色の異なる同じ大きさの三つの輪が現われる。虹の二つの輪のように第一の輪が第二の輪に映って見え、そこには同じ色をした人間の姿があるように思える。第三の輪はその二つから同じく発する火のように見える。父から子に直接光が発する。それが産出であり、父と子双方から発する愛の息吹が精霊である。子なるキリストの内に人間の姿を見るとすれば受肉を暗示する。ダンテの中に稲妻のような閃きが走り、ついに三位一体とキリストにおける神性と人性との結びつきを直観するのである。人間は神の無限の愛の器として創られたのだという。ここはアウグスティヌスの神の光を彷彿とさせる場面である。(三十三歌)

ダンテは言葉にどのような意味を重ねたか

聖書の言葉の多義性とダンテのことばに対する解釈について今道さんの説をご紹介する。十二世紀の修辞学者で文芸論や論理学に通じたユーグ・ド・サン・ヴィクトルは、サン・ヴィクトルのフーゴと呼ばれたが、聖書を読む時、その言葉に四つの層があることを知らなければならないと述べているという。その四層のうちどの意味が使われているかは分からないと言うのだ。例えば、ラテン語の domus は、言葉通りには建物や家を表わす。修辞的に転用すると魂の意味になる。我が家は我が魂になるのだ。寓意的には教会を指している。そして、センス・アナゴジクス(神秘的解釈)では、天の家、神の家、即ち天の栄光を意味する。一つの言葉がその文でどのように使われているかを理解して読まなければならない。それには想像力が必要だという。

辺獄において智者のマエストロと呼ばれる人は、アリストテレスを意味した。彼とトマスの路線はダンテにとって重要だった。それに加えてソクラテスの倫理学とプラトンの形而上学があった。この古代ギリシアの三人の智者たちは二つのフィリアすなわち、精神的愛で結ばれていた。一つは神的叡知ソフィアへの憧憬(フィリア)であり、もう一つは、師弟愛としての友情(フィリア)であった。ダンテが神曲という哲学詩を書いたのはベアトリーチェへの愛のためであるが、それはエロスを越えてフィリアに高まっていたと今道さんはいう。ダンテは、この作品においてフィリア=友愛をこそテーマにしたのである。ヴェルギリウスとダンテの友情は、ダンテとベアトリーチェにおいて神のアガペー(無償の愛)に補完されていく壮大な詩劇になっていくと言うのである。つまり、智者のマエストロとはアリストテレスであると同時にフィリアであるかもしれないのである。「読み」とはこのように深めることができる。今道さんは、言葉に対する幾重もの解釈とその学問である解釈学の重要性を強調する。

至福直観 神を見ることのメタファー

アリストテレスの哲学が人生において何を求めていたのか。それは幸福であった。真理の知的直観、神を眺めることの幸福な生活であったという。トマスは、この幸福をこの世において実現可能ものではなく、天国において神に直面することによって得られるとしている。それは、神によって天使と同じように天国で与えられることが約束されているものであった(『神学大全』)。トマスにおいて、神は光源であり反照の光としてのキリストと照応する。それらの光に迫っていくことが至福直観であった。美とは明快と調和とによってなる。そこには客観的な認識としての透明性があり、幾何学的、数学的な輝きの美しさだった。一方、ダンテは「わたしの視力は見つつ強まり、唯一の姿が多様に見えた(天国篇 三十三歌)」と書いている。それは神秘の深まりとしての美的体験であると今道さんは言う。そこには美の認識の多様な深まりがある。無限者としての神に無限に近づこうとする努力が報われる場所が天国ではなかったか。ダンテは、光源としての神の中に呼びこまれ一つとなる。それは神秘的一致であり、天国における愛の完成である。これが、ダンテの考える途方もない企て「美の神学」であったと今道さんはいうのである。

 

 

引用文献

ダンテ『神曲』平川祐弘訳

ニュース

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日
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