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西澤潤一・上野勛黄『人類は80年で滅亡する』 温暖化の果てにあるもの

松澤宥(まつざわ ゆたか/1922-2006)
80年問題9番より  2002年 
この作品はご家族の許可を得て掲載しています。

「80年内に人類は滅亡する。」このテーマを知ったのは科学雑誌でもなく、新聞記事でもなく、松澤宥(まつざわ ゆたか)というアーティストの作品だった。2000年に本書が出版されているから、作品にこのメッセージが使われたのは、この後からになるだろう。松澤さんは、知的でエレガントで優しい人だったけれど、パフォーマンスの写真とかを見る限り、なんと厳しそうな人なんだろうと思っていた。彼の訴える内容から考えれば、当然のことだったかもしれない。

概念芸術の創始者とか巨匠とか言われる人だ。何故か、松澤さんの晩年にお付き合いさせていただいた。2004年に広島市現代美術館での展覧会に一緒に参加させていただいたのは、とても楽しい思い出になっいる。概念芸術というのは物質の痕跡をできるだけなくして言語を中心としたコンセプトとパフォーマンスを芸術の手段とするアートを指している。メッセージアートにも通じるものがあるが、1960年代から70年代にかけて世界的な展開を見せた芸術運動だった。

本書『人類は80年で滅亡する』は CO² 増加による地球温暖化に警鐘を鳴らした著書の一つである。人類滅亡、つまり、「終焉の開始」を告げる警告の書として異彩を放っていた。まず、現状を知っていただくために気象庁が発表している年平均気温の変化と水位の変化を見ていただきたい。

世界の平均地上気温の偏差(1850-2012年)気象庁

世界の平均気温の偏差は、西暦の第一位が1の年から30年間の平均気温、例えば1961年から1990年までの平均を基準にその年の平均気温がそれからどれくらいズレているかの偏差をグラフにしたものである。これは、10年ごとに更新される。温暖化を背景に右肩上がりになっているのだが、過去30年に比して異常でも次の30年では平年並みになってしまうということを頭に置いておいてほしい。2018年では、1981年から2010年までの30年平均値からの偏差が+0.73℃で1891年の計測以来過去4番目に高い数値になっている。

世界平均海面水位 1900~1905年平均を基準にした世界平均海面水位の長期変化 気象庁

海面の水位も軒並み高くなっていることが分かる。氷河や極地の棚氷がどんどん縮限して太平洋の小さな島が無くなりそうになったりしているのも頷けるのではないだろうか。ベネチアの冠水は、地下水のくみ上げによる地盤沈下によるだけのものではないだろう。気温にしても海面水位にしても大きく変動し始めていることは間違いない。この原因を科学者たちがどう見たかということが一つの大きなポイントになる。

筆者たち――ノーベル物理学賞候補者とエコシステムのスペシャリスト

筆者たちの内、西澤潤一氏は1926年生まれ。東北大学工学部卒業後、同大学で教鞭を執られた。この間に東北大学電気通信研究所所長、同大学総長を務め、同大学の名誉教授であられる。1968年より半導体振興会半導体研究所所長を務め韓国などの半導体産業に大きな影響を与えた。日本学士員会員、ロシア・ポーランド各科学アカデミー、韓国科学技術アカデミー外国人会員など世界各国で認められた科学者だった。日本学士院賞、Jack.A.Morton賞、文化勲章、IEEE(米国電気電子学会) Edison Medalなど多数の受賞歴を持つ人だ。2002年にはIEEEがJun-ichi Nishizawa Medalを創設している。主な著書に『技術大国・日本』『未来を読む』『背筋を伸ばせ日本人』のほか多数の専門書を執筆。ノーベル物理学賞の候補者といわれたが惜しくも受賞を逸した。2018年に亡くなっている。

西澤潤一・上野勛黄
『人類は80年で滅亡する』2000年刊

上野勛黄(うえの いさお)氏は、1938年生まれ、明治大学大学院博士課程を修了後、ドイツのブラウンシュバイク工科大学、テキサス工科大学大学院などで学ばれ、欧米の大学の教授や研究所の研究員を歴任された。東京大学大学院で教鞭を執られた後、衆議院特別職政策担当公務員、エコシステム研究会会長、ウェイスト・リリース研究会幹事などで地球環境の問題に取り組んでこられたようだ。アレキサンダー・フンボルト・フェロー。20世紀業績賞、国際平和賞を受賞されている。主な著書に『エコシステム農法の奇跡』『水の再発見』『海洋深層水パワー』などの他、専門論文が多数ある。

 


まず、地球温暖化のプロセスの中でどのように二酸化炭素が働いているのか。そして、それはどのように地球の中で循環しているのかをみていきたい。


 

地球温暖化物質の二酸化炭素

太陽からの放射エネルギーは、大半が地球の大気や地表で反射されて宇宙空間に放出されるけれど一部が大気圏内の何種類かの気体に吸収されて地球にとどまる。それらの気体のことを温室ガスないし、地球温暖化物質というわけです。代表的な温室ガスは水蒸気と二酸化炭素だが、ほかにメタン、亜酸化窒素、特定フロンCFC-12などもある。今、問題なのは温暖化係数が最も高い二酸化炭素だが、炭素Cと酸素Oの接合部に太陽の放射エネルギーが入射すると、そこが励起されアコーディオンのように振動する。それが静止状態に戻るときに赤外線が放出され、温暖化のエネルギー源の一つとなる。

しかし、このような温室ガスが存在するために地球の大気は適正に保たれてきた。今、それが過剰になりつつあるのだ。地球より太陽に近い金星は二酸化炭素を中心とした分厚い大気があり、その濃度は地球より高く地表温度は400℃となっていて、地球より太陽から遠い火星では、大気はほとんど二酸化炭素だがその濃度が薄く赤道付近の平均気温は-50℃と極寒となっている。地球は絶妙なバランスの中にあるのだが、それは見えない循環に守られている。

地球を循環する二酸化炭素

数値については各研究所でかなり差があるが、二酸化炭素の貯蔵量は、大気圏に約7400憶トン、生物圏には推定で生体として5500憶トン、枯死体として1兆2000憶トンで計1兆7500憶トン余りとなっている。これに比較して海洋圏は大気圏の270倍の質量と1100倍の熱量を持ち、二酸化炭素の貯蔵量は大気圏の47倍、34兆9300憶トンの桁違いの貯蔵量を持つといわれる。大気圏と海洋圏とが混ざり合うのは海面から150メートルまでの表層で、この海洋混合層で二酸化炭素などが吸収され地球大気は浄化されるが、逆に水温が1℃上がると海洋から二酸化炭素100憶トンが大気圏に放出される。それが気温を上昇させ、また水温を上昇させるという悪循環となる。海洋は二酸化炭素の吸収に大きな影響力を持っていた。

1.生物ポンプ――植物性プランクトン

様々な種類の珪藻 光学顕微鏡写真 外・内殻は珪酸で出来ている。

本来弱アリカリ性の海洋には二酸化炭素が溶けていく。その溶け込んだ二酸化炭素から光合成によって有機物を作っている植物性プランクトンは二酸化炭素の海洋への取り込みを加速させる生物ポンプの役割を担っている。

代表的な植物性プランクトンは珪藻と円石藻であるが、珪藻は平均10~20ミクロンほどで円石藻の5倍くらいの大きさがあり、有機物の生産量も多い。珪藻を食べて育った動物性プランクトンや魚の糞の量は極めて多く、マリンスノーと呼ばれる降下物には炭素が多量に含まれる。

これに対して円石藻は5ミクロンと小さく、その殻が炭酸カルシウムで出来ているため、周囲の海水は酸性に傾く。弱アルカリ性の海水に溶けているはずの酸性の二酸化炭素は、大気に戻されることになる。本来二酸化炭素を吸収する作用を持つ「アルカリ・ポンプ」は、珪藻の「開花」と呼ばれるような繁殖に適するような栄養状態の良い海域で極めて活発となる。珪藻が繁茂するような海域は、深層水が湧昇するような栄養分に富む海洋か、大量の栄養分が表層に補給されるような海域である。北西太平洋は冬に深層水が太陽光の届く表層に涌昇する。冬は表層の水が冷やされ深層水と混ざりやすくなるためである。そのような海域で二酸化炭素は吸収されていくのである。

2.深層海水の沈み込みと海洋ベルトコンベアー

海洋のベルトコンベアー 本書より

グリーンランド西方の北極圏であるラブラドル海周辺では、海水が冷やされ密度が高くなり、氷が生じる時に塩分が放出されて海水が重くなり、沈み込む。この沈み込みは、アマゾン川100本分の海水量を幅100キロメートル、秒速10cmで深海へ送り込み、深層流を作る。それは地球の自転の影響で西に向かい、北米、南米大陸の東岸に沿って南下して南極海の深層流と合流した後二つに分かれて、インド洋と北太平洋で浮上してより暖められ表層で二酸化炭素を十分に吸収しながら暖流となって再びグリーンランド沖へと流れてゆく。沈み込みから浮上までの期間は約2000年といわれ、その間に二酸化炭素は海洋深くに引き込まれる。浮上時にはマリンスノーとして降下したリンや窒素成分の豊富な栄養素を運び上げて珪藻などの植物性プランクトンを繁殖させるのである。海洋ベルトコンベアーは、温度制御にとって極めて有効なシステムとなっていた。それは、奇跡の地球ラジエーターと呼ぶべきものなのである。

 


ここで、ほとんど知られていないのではないかと思われる二酸化炭素の有毒性が紹介され、温暖化が加速するとどのような地球気候変動のシナリオが想定されているかが述べられている。何故、温暖化がそれほど深刻な問題なのかが理解できる。


 

二酸化炭素中毒症

二酸化炭素で中毒症状が現れることはあまり知られていない。二酸化炭素は大気中に通常0.03%含まれているが、火山性ガスの発生や密閉された倉庫でのドライアイスの気化、穀物貯蔵庫などでの球根、大豆、木材などの呼吸・発酵による酸素欠乏と二酸化炭素の増加などにより中毒症状を引き起こすことが知られている。火山性ガスによる中毒症状の例としては八甲田山での訓練中に自衛隊員の死亡事故が起きていて、それが二酸化炭素によるものと推測されている。大気中の割合いが0.5%以上になると労働衛生上の許容範囲を超える。文献によって幅はあるが2%~3%を超えると視力障害、耳鳴り、チアノーゼ、呼吸障害が生じ、6%を超えると意識レベルが低下し10%で意識喪失が起きる。これらの値は、短期間に高濃度の二酸化炭素に曝された場合であって、後遺症が出ない二酸化炭素の「脱出限界濃度」は5%で、それも30分以内とされている。高濃度で長期にわたって常時曝されると空気中の二酸化炭素が3%を超えるだけで人間を含む哺乳類は絶滅すると筆者らは訴えている。つまり、現在の100倍の二酸化炭素量である。そうなるまでに最短で150年しかかからないだろうという。その他、これから起こるかもしれないカタストロフィーや進行中のリスクをご紹介する。

西澤潤一・上野勛黄
『「悪魔のサイクル」へ挑む』2005年刊
『人類は80年で滅亡する』の続編

その他、地球気候変動によるリスク

1.海洋ベルトコンベアーの停滞と寒冷化カタストロフィー

急激な温暖化は、各地の氷河を融かし、北大西洋の塩分濃度を薄め、海洋ベルトコンベアーを働かなくさせるのではないかと考えられている。沈み込みが21世紀の中頃には現在の三分の二程度まで浅くなり、停滞の可能性が指摘されているのだ。海洋ベルトコンベアーが停止し、冷たく重い海水が留まったままになると両極が再び広範囲に氷結しはじめ氷河期のような状態に戻ってしまう可能性がある。氷は太陽の放射エネルギーを海面に比較して4~8倍の量を反射するし、海洋の表面で下の海水の温度を逃がさない蓋の役割をする。このような過程が進むと「温暖化が引き起こす寒冷化」というリスクが生じるのである。そうなると適正な農地の位置は地球規模で変化縮小し、深刻な食糧危機が訪れる。

2.急速な温暖化と森林破壊

自然の生態系のリズムからするとわずか200年の間に平均気温が2.5℃から3℃も上昇するような温度変化は考えられなかった。植物はその温度変化に応じて移動を余儀なくされるが『地球白書97-98』によれば、その必要とされる移動年間速度は赤道を中心に南北へ1.5~5.5キロメートルの速度が指摘されている。樹木が移動するには不可能な数値となっている。アマゾンでの大規模な焼き畑農法や東南アジアなどでの森林伐採とプランテーション農法が森林の荒廃に拍車をかけているが、熱帯林は熱帯地域全体で1981年からの10年間で年平均1540ヘクタール、日本の国土の約40%ほどの面積が毎年喪失している。森林が荒廃すれば樹木に固定化されていた二酸化炭素は大気中に放出されることになる。森林は二酸化炭素の吸収源だけでなく今や放出源にもなりつつある。

3.温室効果ガスと気候変化

海洋は大気の約1000倍の熱容量を持ち、陸上より遅れてゆっくりと温度変化してゆく。比熱の最も大きな水は熱的な慣性を持ち、動き出すと止まりにくい傾向があると考えられる。温室効果ガスは一度、大気中に排出されると長期間大気中に留まる。仮に温室効果ガスを現在(2000年)の数値、炭素換算で約100憶トンにとどめることができたとしても大気中の濃度は少なくとも今後200年間は上昇し続ける。2100年には約500ppm(大気中の0.05%)に達するといわれ、数世紀にわたり気温や海面の上昇をもたらす。それに、気温が2℃上がると、海面水位は50cm上昇するといわれる。気象面では、雨の降る地域、その降雨量が極端に変わり、利水や治水の方法を変えざるを得なくなる。台風の発生が増え、異常高温、洪水、高潮、干ばつなどの異常気象、広範な森林火災、中緯度での砂漠化などが世界各地で頻発し災害が大規模化する。すでに現在、その兆候が現れている。この結果、食料の増産地域と減産地域が生じ、新たな経済格差と貧困地域の発生、それに伴う飢餓の発生と難民の増加が懸念されている。

二酸化炭素濃度変化1987-2019 気象庁
グラフは三か所の観測地点での計測結果 波があるのは、夏に光合成が盛んで二酸化炭素濃度は低く、冬は逆に高くなるからである。ppmは100万分の一のこと。420ppmは大気中の二酸化炭素濃度が0.042%を占めていることを表している。

 


二酸化炭素の増加は温暖化の原因ではなく、その結果だという説もあるのでご紹介しておく、だが、実は二酸化炭素が原因であろうとなかろうと温暖化が進めば破局のシナリオがあるのだ。


 

二酸化炭素の増加は温暖化の結果に過ぎないのか

気温変化とCO²濃度変化の関係(キーリング 1989)『CO²温暖化説は間違っている』より

槌田敦(つちだ あつし)氏は、物理学、経済学の研究者だが、二酸化炭素の増加が温暖化の元凶ではないと主張してきた人だ。その根拠にはいくつかある。その著書『CO²温暖化説は間違っている』からご紹介する。

1.ハワイのマウナロア観測所の気象学者キーリングのグループが発表した気温変化とCO²濃度の関係グラフから気温上昇の波の後、半年から一年遅れてCO²濃度が高まる波が続いている。このことから温度上昇がCO²を増加させたのであってその逆ではないと考えられる。

2.フィリピンのピナツボ火山の1991年の噴火によって成層圏に噴煙がただよって太陽光を遮ったために1992年と1993年は気温が上らなかった。そのために二酸化炭素の量も増えなかった。1992年から2年間、人間がCO²の排出をやめた訳ではない。人間の排出したCO²が消えてなくなったわけではないと考えられる。

3.温暖化が先でCO²濃度の増加が後であると考えるとエルニーニョの年は赤道付近の海面温度が上昇するので、その後にCO²濃度は上がるはずで、事実そうなっていることが確認できる。1964年や1992年のエルニーニョの年の直後ににCO²の濃度は上昇していないが、インドネシアのアグニ火山や上述のピナツボ火山の噴火によって気温の上昇が抑えられたためだと考えられる。

4.IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル/Intergovernmental Panel on Climate Change)によれば大気中のCO²の量は約7300億トン(2008年時点)であり、毎年約1200憶トンを陸と、約900憶トンを海と交換している。そうすると大気中のCO²は毎年約30%が入れ替わって大気中には70%が残ると考えられる。しかし、去年のものは70%の70%つまり49%が残り、一昨年分は70%の70%の70%で34.3%が残る。過去45年間に増加したCO² は化石燃料などの燃焼によって排出されたCO²の55.9%が大気中に「毎年留まり続けた」ためだとされているから、0.559×45年は25.2年分となる。しかし、さきほどのように計算していくと人為的に発生させた45年間のCO²が大気中に残る割合は本年分を加えても3.33年分となり、25.2年分の13%でしかない。残りは陸海からの自然増加分であるとしている。

二酸化炭素の増加は、化石燃料の莫大な消費などによる思慮があるとは思えない人為的な活動によって起こるだけではない。それを契機に、地球の多様なシステムを変調させることによっても起きているのだ。おまけに化石燃料の消費は年々増加している。

槌田敦『CO2温暖化説は間違っている』

自然増加分というのは主に海洋から発生したCO²であろうというのは槌田氏もこの著作で述べている。温度上昇の波よりもCO²濃度の波が遅れるというのは、海洋が暖められるのは大気中よりも遅れるからではなかろうかと思われるが、そのタイムラグが半年から1年であるかどうかは僕には分からない。海洋が温まると大量のCO²が解放されるというのは前に述べた通りである。これらの論拠から気温が上がっても地球は安泰だと槌田氏は述べているわけではない。

海洋ベルトコンベアーの停止による寒冷化カタストロフィーについては言及されていて、深刻な食糧難と大量の難民の発生というシナリオはある。槌田氏は、温暖化の原因を大気汚染のほうに見ていて、温暖化物質としての水蒸気や地球の水冷化システムの方を重視しているようだ。ただ、槌田説には致命的な欠点がある。二酸化炭素の有毒性についての言及がないのである。呼吸困難になる前に、仮に13%であろうとなかろうと二酸化炭素を減らすべきではないか。

 


古生物学者のピーター・ダグラス・ウォードは、その著書の中で、こう述べている。過去の大量絶滅の多くの原因は、微生物たちであった。けれども微生物たちを増殖させて空気や海を容赦なく汚染したのは高等生命であった点において、高等生命もこの共犯者あったと。今、人間がすべきことは、炭素や硫黄や窒素の循環に直接介入して高緯度地域に常に氷冠が残るように温度を保ち、モンスターたちを無力化することだと述べている。私たちは、生物圏を延命させることのできる唯一の生物だと述べる。この著書の冒頭には寒冷化の事態が何をもたらすかが書かれている。


寒冷化の思考実験

ピーター・ダグラス・ウォード
『地球生命は自滅するのか?』 珪酸塩と炭酸カルシウムのフィードバック理論が紹介されていて注目。母なるガイヤとは対照的な子殺しのメデイア(メデア)のよう地球の側面が紹介される。

「‥‥氷にわれていない赤道地域でも多くの樹木種が死に始めて、樹木やその生態学的構造に依存する複雑な食物網が破壊されていく。この食物網は密生する小枝の間に張られたどのクモの網よりもはるかに複雑なものだ。雨林でも乾燥林でも、樹木は急速に枯れて倒れる。そして、その後にはよくて草や雑草が生える程度で、その他の場所は岩がむき出しになり、そこに生きていた動植物は死に絶え、それが存在していたという化石記録さえ残る可能性はほとんどない。死をもたらす変化の過程は陸地に限られていない。陸の植物が死ぬにつれて、河川に詰まった腐った植物が海に流れ込み、養分が豊富になるので短期的には生命の大増殖が起こる。だが、酸素が使い果たされるとその大繁殖は終わり、腐敗した植物は酸素のない海底に沈み込み、大規模な富栄養化をもたらす。大量の有機物が腐ると、周囲の水に含まれる有効酸素は使いはたされてしまう。陸上の樹木の死が、いっそうの影響をもたらす。根がなくなると土壌は風や雨に運ばれ、最後は海底に落ち込む。大陸に近いところは巨大な海底の扇状地が形成されて、かつては安定していた海底の群落を覆って窒息させる。移動することのできる無脊椎動物は、それほど破壊的でない水中の地滑りならば抜け出せすことができるが、動けない動物相には助かる見込みがない。‥‥」(ピーター・ダグラス・ウォード『地球生命は自滅するのか?』長野敬・赤松真紀訳)

読んでいると気が滅入ってくるのだけれど、一度は読んでみてほしい。先に述べた微生物が大量絶滅の元凶というのは、温暖化によって赤道から極地までの温度勾配がなくなると海流や風の流れが滞り、海はやがて酸欠状態になる。そのような海域では、猛毒の硫化水素ガスを発生させる細菌が地層に痕跡を残すほど繁殖したのである。本書の最終章では温暖化の問題が取り上げられているが、彼が最も懸念しているのは海面の上昇にある。過去、二酸化炭素濃度が1000ppm、つまり大気中の0.1%を超えると概ね氷のない世界が訪れた。グリーンランドの氷が融けるに伴い海面は6メートル上昇し、南極の氷が融けると70メートル上昇する。気候学者デーヴィド・バティスティによると現在の二酸化炭素の増加量を考えると1000ppmに達するのに最短で95年、最長で300年だろうと予測されている。それから長期にわたって徐々に海洋の酸欠が起こり始めるかもしれない。

 


『人類は80年で滅亡する』に戻る。海洋や極地付近のメタンハイドレートが崩壊すると、温室効果係数で二酸化炭素の24倍というメタンの雪崩的な発生が起こる。これが最悪のシナリオである。地球は過去6憶年の間に生物の大量絶滅を6回経験している。筆者たちは、7回目の危機がもうすぐそこに来ているのだ言うのだ。


 

最悪のシナリオ――メタンハイドレートの崩壊

科学技術が発達すると不幸が起こるから、もう科学の発展は必要ないのではないかという意見もひところ盛んにあったし、今でもそう思っている人もいるだろう。原子爆弾の開発に飽き足らず毒ガス・サリン、劣化ウラン弾、キラー衛星などの開発、度重なる原発事故などなど科学に否定的になる気持ちも分からなくはない。兵器は論外としても、その使い方が悪いのである。筆者たちは「科学技術が悪いのではなく、技術が未完のうちに世にだすから弊害が起こる」のだという。バックミンスター・フラーが開発する前に考え抜けと言っていたことに通じる。確かに自動車が最初に開発された時、燃料に電気を使うものと石油を使うものの両方のタイプが開発されていた。結果としてガソリンを使用する車両が世界中で使われるようになったが、世界中の人間がガソリン車に乗ったらどうなるかということは考えられていなかった。世界規模で技術の開発を考えるということは必要なことだったのである。

本書の著者たちが最も恐れているシナリオはメタンハイドレ―トの崩壊である。それは、メタン分子CH⁴を水分子が取り囲んで固まったシャーベット状あるいはゼリー状の物質で火を付けると燃えることから「燃える氷」と呼ばれている。マリンスノーとして海底に積もった有機物は嫌気性分解して最終的にメタンとなる。海洋から大気中に放出された残りが海底でメタンハイドレートを形成するわけだ。

地球全体の大気中のメタン経年変化 気象庁

2019年のメタンの大気中濃度は約1.88ppmで、2005年ころから再び急上昇している。問題なのは、このメタンハイドレートと極地付近の永久凍土層のメタンが炭素に換算して10兆トンもあり、そこから大気中に解き放たれるメタンは温室効果係数で二酸化炭素の24倍のポテンシャルを持っていることである。そして、海底に溜まったメタンハイドレートは、大陸のプレートの移動に伴って海溝付近など窪地に溜まりやすい。おまけにそこは、プレート同士がせめぎ合う地震発生地帯と重なり易いのである。8000年前のノルウェー沖でマグマの上昇による地滑りで表出したメタンハイドレート層を暖い海流が洗ったために埋蔵量の3%にあたる3500憶トンのメタンガスが大気中に放出されたと推定されている。今もメタンの噴出跡がクレーターとして残っているという。もし、この量が再び放出されたとすると地球の平均気温はわずか10年で4℃上昇する。

世界の研究機関は、化石燃料に代わる最も有力なエネルギー資源として、このメタンハイドレートを研究中だというが、日本近海の埋蔵量が100兆立法メートルあり、それは日本の天然ガス使用量の約1600年分に相当すると言われる。問題なのは、このメタンハイドレートが温度や圧力の変化に敏感で、例えば温度1℃~2℃の変化で急速に崩壊し、ガスと水に分離するからである。有用だが危険なのである。海底の石油層は多く天然ガスやハイドレート層の下にあり、いわば、それらに蓋をされていて、掘削がその蓋に達した時に膨大なガスが一気に噴出して大爆発が度々起こっている。掘削基地であるオイル・リグの破壊が20世紀だけで40基以上にのぼるといわれる。他方、シベリアのような凍土地帯で森林が切り倒されると、凍土が融け始めそれに含まれる天然ガスやメタンハイドレートのメタンが大気中に放出されるのである。

地球誕生後、大気の80%は二酸化炭素であったが、海洋で、その約半分が炭酸カルシウムである石灰岩が膨大な量形成された時に消費され、大気圏上層の水蒸気は太陽のエネルギーによって水素と酸素に分解され他の元素と反応してメタン、一酸化炭素、水、二酸化炭素に合成された。35憶年前にシアノバクテリア(藍藻)によって光合成が始まり酸素が作られ始め、海水中のミネラルと炭酸カルシウムとを結合させストロマトライトと呼ばれるドーム状の石を形成した。やがて30億年前ころから植物の光合成によって大量の酸素が生み出される。それから今日に至るまで、地球はけっして平穏無事ではなかった。

6億年前から現在までの酸素と二酸化炭素濃度の推移
『「悪魔のサイクル」に挑む』より

主要な生物の大量絶滅は、過去6億年のあいだに6回起こっているが、原因は色々といわれる。6億~5憶年前、ゴンドワナ超大陸の分裂が始まる。新生物が大量に発生したカンブリア紀に差し掛かる前の時代である。地球創成期を除いて、人類がまだ登場していない自然の生態系の歴史の中で二酸化炭素が大気組成中最も高かったのはこの時期で、現在の700倍の26%、海面は現在より200メートルも高かった。5憶4000年前、旧来の生物はほぼ絶滅した。

 

今後の気温変動と二酸化炭素濃度の行方

IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告では2100年に大気中の二酸化炭素濃度は0.07%になると予測しているが、これには海洋圏からの増加分が含まれていない。危険要素を列挙しておく。

1.海洋植物性プランクトンが珪藻から円石藻主体になると気温は、2100年には現在より2.8℃上昇して二酸化炭素濃度は0.085%となり、現在のほぼ2倍となる。

2.メタンハイドレートの崩壊が8000年前と同じ規模起きたとすると、10年で気温を4℃押し上げ二酸化炭素濃度を160ppm上昇させる。

3.海洋圏の氷の融解は気温を20年で2℃上昇させる。二酸化炭素の排出量が今日のペースで続き温暖化が停止しなければ21世紀の半ばには深層海流の流量は現在の三分の二に減少し、沈み込みの深さも半分になる。22世紀になって二酸化炭素濃度が0.14%まで上昇すると深層海流は停止する可能性があるが、それが、超温暖化をもたらすか逆に寒冷化をもたらすかは神のみぞ知る。

地球号という乗り物の他に人類の乗り物はない

グレタ・トゥーンベリ スウエーデンの環境活動家 気候変動学校ストライキなどの活動で知られている。

さて、化石燃料の消費によって生じる二酸化炭素などの温暖化物質の増加だけでも問題なのだが、事はそう簡単ではないということが御理解いただけたのではなかろうか。温暖化の問題は地球の深層海流の循環や海洋の植物性プランクトンの活動、同じく地中の微生物による活動などと密接にかかわっている問題である。温暖化が進行すれば、二酸化炭素の量は増え続ける。その量が3%を超えるようなことがあれば、7回目の生物大量絶滅に発展する可能性がある。メタンはウシや羊といった反芻動物たちのゲップからも発生するから、それらの大量の家畜たちの存在も無視出来なくなるだろう。そして、最悪メタンハイドレートが大量に崩壊するとすれば、21世紀末を基準にその数十年前後で二酸化炭素の大気中の濃度が3%を超える日がやってくる。それが、本書のタイトルの由来になっているようだ。その時、人類は姿を消す。

グレタ・トゥーンベリというスウェーデンの若い女性がこの温暖化問題に抗議して話題になっている。主訴は自分たちの未来を保証してほしいということにつきるだろう。現在のツケは次世代の子供たちに確実に回ってくる。そのため彼女は15歳の時に温暖化対策を取らない大人たちに抗議するためにスウェーデン議会の前に座り込む「学校ストライキ」を始めた。世界中の若者たちの賛同を得て、ストライキは各地に広がっていったようだ。地球号という乗り物の他に人類の乗り物はない。まず、早急に我々がすべきことは温暖化対策に真剣に取り組まない政治家は落選させることだ。一国の利害に執着している場合ではないのである。

二酸化炭素の排出量の推移と予測 『人類は80年で滅亡する』より

二酸化炭素やメタンガスの影響は非線形性の正帰還現象である。つまり正のフィードバックループに陥って現象を加速度的に助長してしまう。後戻りできない。世界の化石燃料の消費は、資源エネルギー庁の試算では1971年から2015年の44年間で約2.2倍に増加している。地域別ではアジア太平洋地域の増大が著しいし、燃料別では石炭、石油、天然ガスともに増加している。それに伴って、大気中の二酸化炭素濃度の増加は指数関数的に増加しようとしている。もうすでに後戻りできない臨界点を超えるとも超えたとも言われているのだ。

最近閉幕した(2019年12月)地球温暖化対策の国連会議COP25は、190を超える国や地域が参加し、スペインで開かれた。代替エネルギーへの転換が進まず、石炭による火力発電が増えようとしている日本は白い目でみられていたらしい。そのCOP25では、温室効果ガスの削減目標を引き上げるよう各国に促す記述や、来年から始まる温暖化対策の国際的枠組みである「パリ協定」の実施ルールの一部を巡って意見の収集がつかず、40時間にわたる会期延長の末、国の事情に応じて前進させ可能な限り高い野心を持つという掛け声に終わった。削減目標の引き上げは、この会議の成果文書にはついに明記されなかったのである‥‥80年内、人類滅亡。

 

世界平均地上気温の予想 気象庁 IPCC第五次評価報告書より
RCP2.6は、気温上昇を2℃に抑えることを目標として考えられた温室効果ガス排出量の最も少ない予想シナリオ。RCP8.5は排出量最大を見積もったシナリオである。北極地域は世界平均より速く温暖化し、海上より陸上の方が気温が高くなる。

 

 

ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part2 象徴学への遠望

今回はツヴェタン・トドロフの『象徴の理論』を取り上げています。本書では、象徴は記号学の視野の中で意味喚起の機能を巡る問題として扱われるのですが、それを前提にお読みください。しかし、この後半で、トドロフは象徴体系の歴史を追いながら、この象徴が古典主義に対抗する美学原理にまで発展していくことを明らかにしていきます。

 

ロマン派の騎手 意外にもモーリッツ


ロマン派の理念は、モーリッツによって確立されていた。そこには、芸術が自然の模倣から逃れ、それとは独立した存在であることが言祝がれ、作品は部分と全体との調和の内に成り立つという古典主義的な美の理論が再確認される。そして、対立物の調和・反対物の融合というもう一つの原理は、ロマン主義美学を特徴づけるものとなった。しかし、ノヴァーリスやシュレーゲルらのロマン派の理論は当時の状況より一歩も二歩も前進していた。そこには、現代にまで通じる積極的な意味が隠されていた。


 

後半はロマン主義的美学理論の萌芽をすべて携えていた人、その人はヘルダーでもルソーでもヴィーコ、シャッフツベリでもない、カール・フィリップ・モーリッツが俎上に上がる。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルはモーリッツが芸術における模倣原理を最も高度に使用したとして激賞したが、惜しくも神秘的迷路に迷い込んだと述べている。一方でシェリングは、モーリッツが一番最初に神話をそれにふさわしい詩的な絶対的性格を含めて表現したと、またもや激賞するが、最終的な完成度に至っていないと述べ、彼にゲーテの影響が濃いことを指摘した。‥‥う~ん、謎の人

しかし、トドロフは、モーリッツの重要な著作『試論』がゲーテと出会う前年には完成していたことを指摘する。いかに、ゲーテが恩着せがましく述べようとモーリッツの功績は霞まないのである。それに、シュレーゲルのモーリッツ評には模倣の概念に関する美学の混乱があるという。当のシュレーゲルが、後の『芸術の理論』では模倣の原理を徹底して批判している。この混乱については、それにまつわる主だった理論をpart1の最後で述べたので繰り返さない。

モーリッツ像 ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティッシュバイン画

モーリッツはこう述べる。「美の性質は、内在的存在が思考の能力の限界を超えて躍り出るところに、自らの生成のなかにある」と。こういった美の非合理的側面と生成の行為に関する関心の偏りは、ロマン主義が表象(再現)と世界の関係ではなく、芸術家と作品の関係、つまり表出の関係を重視してきたことに対応している。彼は美が快楽を与えるという有用性を否定して、美とは無用なものであることを出発点とした。有用ならそれ自体の外側に目的があるが、美は外部の如何なる正当化も必要としない。美の目的はそれ自体の中にある。例えば、歩行には普通それ自体とは別の目的があるが、飛び上がりたい気持ちを押さえられないような喜びは歩行をそれ自体に戻してしまい、それに拍子が取られれば舞踏が生じるという。‥‥手の舞い、足の踏むところを知らず‥‥

芸術の目的が自然の模倣ではなく美の創造であるなら芸術は自然よりも優れているという結論に至る。それに、彼は部分と全体の調和という古典主義的な美の原理も標榜する。それに、もう一つ、美の原理があった。芸術作品を特長づける内部の整合性は、作品の精神的側面と素材的な側面、内容と形式といった相反するものを融合・総合する。ここでモーリッツは「最高の悲劇的美は相反するものの並置によって形成される」とした。神話の進化の頂点にあるギリシア神話のイメージは相いれない反対物を吸収し高める総合能力によって特徴づけられると述べるのだった。

諸芸術の間では美は翻訳されえない。芸術のメッセージはポエジーや絵画などによって表現可能であるが、普通の語が述べる能力、考える力の限界を超えたものを表現する。そこで、あらゆる芸術の特性が唯一の概念、ロマン主義者たちが象徴(シンボル)と呼ぶものに集約されていく。そして、モーリッツにおいては、あるものが美しいと言う限りにおいて、それは何ものをも意味すべきでなく、その外側にあるものについて何も語るべきでない。自己自体によって記号表現となるべきだという。

ノヴァーリス自筆稿 
『ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン』

ノヴァーリスはこのように述べている。「ポエジーの本質が本来何であるか誰にも定義できないであろう。けれどもそれは無限で単純な整合性である。」ポエジーと音楽と数学との間の無数の同一視が始まる。言葉は観念にとって音楽の楽器であり、フーガは全く論理的、科学的であり、代数はポエジーであったのだ。ここで、全体と部分をどのように解釈するかという問題が起きてきた。内部の整合性は、個別と全体との調和にかかっている。個別は全体の認識を前提とするが、個別的なものは一つずつしか把握することはできず、全体を一度にはとらえられないからである。シュレーゲルの弟子であったアーストは全体の各部分は同時に全体のイメージであり、全体は部分の中に既に与えられるとしたのである。シューレーゲルは循環的方法と呼んでいたようだ。‥‥これがフラクタルの話なら申し分ないけど

さすがにノヴァーリスは詩的にこう述べる。「各瞬間ごとに含まれる普遍的なものは失われない。なぜなら、それは全体の中にあるからだ。どの瞬間にも、どの現象にも全体が働いている。人類という永遠なものは偏在する(断章-1979年まで 48/青木誠之 他訳)。」

カントは、こう述べた。美的観念は任意の概念に連なった想像力の表象であり、その想像力の自由な行使は多様な部分的な表象を結び付ける。そのため一定の概念を示す如何なる表現もこの概念を表すことはできず、言語に絶する多くのものを考えさせる。その感情は認識能力を活性化し、言語の文字に精神を吹き込むと(『判断力批判』)。美的観念は芸術が表現するものであって、いかなる言語もその芸術と同じものを表現できない。しかし、その中心にある言語を絶するものの代わりに周辺的な連想を無限に言いたてることはできる。つまり、美的観念を運ぶ形式は美的属性というわけだ。言語に絶するものは、言葉の過剰を、記号内容による記号表現の氾濫を引き起こす。ここで思い出してほしいのだが、part1で述べたようにアウグスティヌスは、聖書解釈の濫が多様な言葉の置き換えによって起こることを強く警戒していた。ロマン派では、逆にそれが正当化されるのである

一方で、天上的なものは間接的にしか語れないというオリゲネスやアレクサンドレイアのクレメンスに見られる考え方があり、芸術と宗教性との類似があった。ここでは、至高のものは寓意によってしか表現できないと考えられていた。寓意による表現方法と神的な内容を持つメッセージの方法とは相互に連帯し始める。こういう意味で、シュレーゲルにとって寓意は他のロマン派の場合のように象徴とは対立しないものだった。寓意であれ、象徴であれ、それを用いることは、芸術を言葉で表現することの不可能性に根差していた。そこで批評は、モーリッツの言うようにそれ自体をポエジー、音楽、絵画とすることで可能となる。ポエジーはポエジーによってのみ批評され、小説は小説によってのみ批評されうる。こうしてノヴァーリスやシュレーゲルにとって創作は批評活動となるのである。‥‥これは現代にも大きな影を落としていると思います‥‥がノヴァーリスやシュレーゲルらの初期ロマン派と後のロマン派ではかなり様相を異にするので注意

作品が自足する存在であるなら、ポエジーにおける言語の使用は遊びに過ぎなくなる。言語の本質は、言語自体のことしか構わない。そこでは、作家が言語を使用する者ではなく、言語に使用される者となる。ノヴァーリスはこうして未来の美しく純粋な創作をこう述べる。「夢のように、話の筋が支離滅裂であるがさまざまな組み合わせがあるもの。ごく単純に言って完璧に調和のとれた詩編、完全な言葉の美しい詩編、しかしまた首尾一貫せず、いかなる意味もなく、せいぜい二つか三つの分かりやすい詩節からなり――この上なく多様な事物純然たる断章のようなものであるべきである。本物のポエジーはせいぜい大まかな寓意的意味を持ち、音楽などのように間接的効果を生み出しうるのである(断章)。」‥‥これは、ちょっと嫌な予感がする‥‥鴨長明は「言葉にあらはされぬ余情」を追求した結果、朦朧とした歌体になった

 

ゲーテ登場 ロマン派の香り


象徴と寓意とは、どう異なるのか。なかなか見極めがたいものがある。それを鮮やかに差異化したのはゲーテだった。それは、図らずもロマン派の価値一式と手を携えることになる。ゲーテは、一部ロマン派だというトドロフの指摘もなるほど頷ける。


 

1790年まで象徴という言葉は、寓意、象形文字、数字、謎といった言葉の類義語でしかなかった。現在一般的に使われている寓意と象徴についての解説をいくつか取り混ぜてご紹介する。

サンドロ・ボッティチェリ 『不屈』
不屈の寓意像、甲冑や剣といったエンブレムが重要な要素となる。

寓意とは、他の物事に仮託して、ある意味をあらわすこと。抽象的な事柄を具体化する表現技法である。狐は狡猾の、天秤は平等の寓意となる。文学作品、造形作品に仮託する場合もある。文学作品の場合、一般的に同系列の隠喩を連続させて,たとえ話のような形式に構成される。たとえ話や寓話より複雑で長く,ある物語の展開が同時に別の事件や思想を組立て,両者の間に明瞭で継続的な関連が認められる場合を言うとある。その基本的手法は擬人法であり,人物が抽象的観念を表わす。これは『薔薇物語』のところでご紹介した。 理想の女性を〈薔薇〉に見立てた隠喩を展開させれば、奥処の薔薇に遭縫することは真理に到達することを意味していた。こうして、人生における真理を得るための戦いが寓意として成立するといった具合である。

象徴はこのように説明されている。一般に直接知覚できない事象を類似性や隣接性にもとづいて具象化したものが象徴である。この事象と何らかの関係を持つ第三者がそれに充てられるが、その対象との間の関係が例えば鳩と平和のように目や耳などで直接知覚できない意味や価値などを物や動物,ある形象など何らかの類似によって具象化したものに置き換える時、象徴と呼ばれる。心理学的には外的事物,事象を代表して表現している心理過程をさす。この意味では、心像ないし観念とほぼ同義である。精神分析においては,特に無意識の欲望などを表わす意識的観念,活動あるいは物体の意味で用いるとある。

象徴と寓意の対比を初めて行ったのはゲーテであった。有名な定式は、詩人が普遍を目指して個別を探すとき寓意が生まれ、特殊な個別の中に普遍的なものを見る時に象徴が生まれるというものだった。ゲーテにとって後者が本来の意味のポエジーであり、これを指摘したのは彼が最初だった。制作過程の違いが闡明にされる。寓意においては意味作用は必然的であり、作品の中のイメージは他動詞的、つまり他者を巻き込むことになる。ゲーテ風に解釈すれば、狡猾を目指して狐が探られる。象徴の中ではそのイメージが別の意味を持つことをそれ自体によって指示されない。平和を目指して鳩が探られるのではなく、鳩から平和等が想起させられる。本来のポエジーは、普遍的な基盤について考えることも指示することもなく個別を述べるが、それを生き生きと捉えることが出来る者には、同時に普遍的なものをそれとは知らずに後になって受け取るのだという。

『ローマ近郊におけるゲーテの肖像』1786~87年
(ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画)

また、後にこうも述べている。寓意は現象を概念に、概念をイメージに変形するが、概念はイメージの中に残り続ける。それゆえ、概念を完全に捉えることができ、それをもってイメージの中に表現できる。象徴体系は、現象を観念に、観念をイメージに変形する。しかも、この観念はイメージの中で常に果てしなく活発で捉え難く、あらゆる言語で表現されるとしてもそれは言語に絶するものとなる。老境のゲーテが指摘したことは、作品は、寓意においても象徴においても個別 → 普遍 → 個別という過程を経るが、普遍という抽象化の段階で、寓意が一つの理性的な概念に結ばれるのに対して象徴の中では観念にまで及ぶのである。つまり、象徴の方が複雑だと言っている。ここに象徴の絶対的優位が宣言される。

トドロフは、こうまとめている。寓意は、既成のもの、他動詞的、恣意的で純然たる意味作用であり、理性の表現とされた。象徴は、生産的であり、自動詞的であり、有縁化であり、反対物の融合にまで達し、その内容は理性では捉えられず、言語に絶するものを扱う。ゲーテの言う象徴は、ロマン派が標榜した価値一式に当てはまっていた。‥‥ゲーテは一部ロマン派だという指摘も頷けます

この象徴という語がロマン派の中でどのような位置を占めるかは以下の指摘で明らかになる。A.W.シュレーゲルは、友人のシェリングの「美とは有限な方式によって表象される無限である」という言葉を援用し、その中には崇高美も含まれると断りながら「美は無限の象徴的な表象である」とした。ロマン主義美学を一語に圧縮するとすればシュレーゲルの言うこの「象徴」という一語であるとトドロフは述べている。

 

象徴 メタシンボルか原始心性か


ロマン派以降の象徴の行方が取り扱われる。アウグスティヌスは、本来の記号と転用された記号という枠組みの中で寓意と同時に象徴機能を認めていたが、ゲーテは、寓意より象徴を前面に押し出した。これによって、象徴は修辞の方法の一つから美的原理にステップアップし、ロマン派において強大な力を獲得するのである。しかし、二つの矛盾する態度を生んだ。それは、象徴をメタシンボル化する傾向と原始的心性に押し込めようとする態度である。


 

オスワルド・デュクロ、ツヴェタン・トドロフ『言語理論小辞典』
言語理論の素晴らしい解説書になっている。

ソシュールによって記号と象徴(symbole)とは対立するものとされた。記号における記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)との間には必然性はなく、恣意的であるが、記号表現なくして記号内容はなく、その逆も真であるという意味で必然的なものと言える。り・ん・ごという言葉とりんごの意味内容との関係は恣意的であるが、その二つがセットでなければ意味をなさないという点で必然性を持つ。象徴には象徴するものと象徴されるものがあるが、この二つの間にも必然性はない。鳩と平和という語は本来関係性はない。しかし、そこには何らかの動機がある。こうした動機付けは心理学では類似と隣接というようだ。このような類似と隣接によって象徴連鎖が起こる。言葉によるコミュニケーションは、記号以上とは言わないまでも象徴の使用によっても行われるとトドロフは言う。今や、記号と共に象徴は意味喚起の二大形式の一つとなるのである。

だが、それは二つの矛盾する態度を生んだ。一つは、記号を象徴に変換しようとし、記号ごとに無数の象徴を結び付けようとする態度、そこから象徴のメタシンボル的確信が生まれる。これは説明する必要はないだろう。もう一つは、すべては記号であり、象徴は存在しない、ないし存在すべきでないとする態度であり、理性が言語活動を支配すると考える人たちは、象徴を動物、子供、未開人などの原始心性に特徴的なものだとした。レヴィ=ストロースは、呪術と科学を対立させるかわりに、認識の二つの方式として並列させるべきで、両者が前提とする心的操作の種類に関して違いはないとしたことはよく知られている。また、象徴の起源を原初の言語の残響だとみる態度に対して、トドロフは、自分の仮説は、人々が言語活動や言語的記号の起源とかそれらの初期状態を記述していると思いつつ、実際には現に存在しているそのままのかたちの象徴について暗黙に通用している知識を過去に投影しているのだと述べている。

象徴を原始的心性に押し込めようとする態度については、いくつか、面白い例があるので挙げておく。リュシアン・レヴィ=ブリュールは、原始的心性を提唱した哲学史家だが、象徴はそれが表す存在とか対象に、ある意味で、「なっている」ように感じられると述べた。表象することは、現実に目の前に文字通り出現させることだった。象徴はその存在に帰属しているためにその存在の一部なのである。このように象徴は、それが表している存在なり、対象なりを分有しているというのだ。インディアンは自分の名が単なる名札でなく目や歯のように自分の一部だと感じ、自分の名が悪意によって扱われると身体の傷が痛むのと同じように苦しむという例がある。トドロフは、我々現代人も全員インディアンなのかと問う。

未開人は、連続関係と因果関係を混同し、通行中に蛇が木から落ちたことと、その後息子が他所で死んだことを結びつける。この例に対して、ロラン・バルトが物語の原動力は、継起性と因果関係の混同そのものにあり、後からやって来るものが結果として読み取られるとし、それは論理的誤謬の組織的応用だとしたことを紹介している。そして、フロイトは夢が論理的関係を同時的なものとして示すと述べたことも付け加えている。‥‥ユングは好きじゃないらしい

レヴィ=ブリュールは、象徴使用の特徴は体系のないことだと指摘したが、トドロフは E.カイエの『象徴性と原始の魂』の一節を引いて反論している。「赤い月夜の晩に生まれた人々は王になるだろう」。赤が血と、したがって権力と連合させられる。血は権力の象徴表現(換喩による)だが、それは赤の象徴内容(提喩による)となっている。赤は血の象徴表現であり、月の象徴内容であり、正確には月のある時期の象徴内容(別の提喩)となっている。月のこの時期そのものが時間の換喩によってその時期に生まれた人間の象徴内容に変換される。各象徴表現がそれぞれの象徴内容となっていて、この転換は無限に持続する連鎖として展開されるかのようである。王も権力の象徴である。この連鎖は一つの象徴内容である権力の同一性のおかげで実現されるのであり、それは等価関係化と呼ばれる。‥‥おおっ! 象徴学してきた

象徴体系の操作におけるもう一つの特徴は多元決定である。再びカイエの著作が引かれる。「若い一人の原住民は最初の息子を失くしたので、二番目の息子をローライRoalahyと呼んだ。私が理由を訊ねたので、彼は次のように説明した。〈私がローライ (=二+男) と呼んだのは、息子が息子であり、また長男の代わりだからであるし、またその発音が、有名な白人だと思われるローランという名と似ているからである〉」。トドロフはこう付け足す。ジェームス・ジョイスは、したがってこういう手法の創始者ではない。象徴体系のどんな利用者もこういうことをしているのである。連綿と‥‥

 

象徴とフロイト〇 象徴とソシュール× 象徴とヤコブソン□


象徴に関連する問題提起としてフロイトの夢解釈とソシュールの「舌語り」との関わり、そしてヤコブソンの詩学が俎上に上がる。これらは、象徴がどのように彼らの思想と関係したのか、あるいは関係しなかったのかを検証している。フロイトの夢解釈と象徴の関係はすこぶる興味深い。


 

フロイトの象徴による夢解釈

フロイトは、機知や夢の研究を通して無意識に固有の特殊なメカニズムを述べた。夢は無意識の中ですっかり準備された象徴を利用するのであって夢の作業の中に特有な象徴活動というものはないという。そして、夢の作業とヒステリー症候の起源は同じであって、ある正常な思考に対する異常な心的加工は、幼児期に起源を持つ抑圧された無意識的欲望が正常な思考に転移した時のみに起こりうるとした。これは有名なテーゼとなった。だが、トドロフは、著名な言語学者バンヴェニストの論文を引いて、フロイトが確認したのは、伝統的な修辞学における言語学的な象徴体系の諸作用に過ぎない、フロイトはそれと気づかず「転義法の古いカタログ」を再発見したのだという。同時に、この時代の意味論という観点からはフロイトの『機知といった著作は最も重要なものだとも述べている。この著作では、言葉の圧縮、ほのめかし、間接的な表象、多元決定といった言葉遊びなどに関わる問題が考察されている。

フロイトにとって潜在夢から顕在夢に変形する作業が夢の加工であり、逆の作業である顕在夢から潜在夢へさかのぼる作業が解釈だった。この解釈において彼は、象徴の解釈法と連想の解釈法とを分けて、連想法という新たな分野を開拓している。連想法は、夢を見た人に夢の内容の様々な要素に関して気づいたこと、夢の断片が生む諸連想を話してもらうことである。自分の夢を自分が語るのである。夢を見る人の連想は、その人の生の特定の時期に固定されているので普遍性を欠いていて、一つの象徴的な表現は無数の象徴表現を湧き立たせる。観念連合は夢の一要素から複数の思考へ、一つの思考から複数の要素へと導かれるという。ここで、トドロフは、フロイトが夢の物語に続いて現れる連想に価値を置いたことを独創的だと評価する。象徴の隣接関係を記号表現による隣接関係と同一視したのである。しかし、フロイトは夢の象徴体系は夢に特有のものではないが、無意識の作用だと明言してはばからなかった。象徴表現は無意識の産物となったのである‥‥うーん、夢解釈を言葉の側から逆照射するとこう見えるのか。フロイトの象徴はロマン主義者のそれとは異なっている。ロマン主義者にとって象徴は翻訳不可能なものだった。ついでに言うとフロイトの解釈学は後に大きな影響を与えた

 

ソシュールと舌語り

ソシュールの「アナグラム」とロマン・ヤコブソンの「音素から詩へ」でご紹介しておいたが、ソシュールがあの華々しい講義の後、中年を過ぎて長い沈黙に陥ったこと、アナグラムや民俗学に傾斜していったことは謎とされている。そして、これもまた、奇妙なことだった。ジュネーヴのとある商店に勤めていたエレーヌ・スミスは入門希望者の何人かに交霊術の「実践上演」をしていた。精霊とのコンタクトで、彼女は、ある日、サンスクリット語を話したかと思うと、翌日は火星語だったりしたのである。だが、その交霊術の場で、その言葉を筆記していたのはフロイトの弟子であり、ジュネーヴ大学の心理学教授であるテオドール・フルールノワだった。彼は、ソシュールに彼女のサンスクリット語もどきや火星語の分析を頼み、ソシュールは実際にその分析をした。トドロフは、そのことがソシュールにとって象徴に接近するための貴重なチャンスだったと考えているが、ついに彼は、言葉の喚起や示唆の関係を体系化することなく袋小路に入り込んだままだったという。‥‥ソシュールにモノ申す‥‥ここが、本書を書く動機の一端になっている

舌語りあるいは、語妄想と呼ばれる現象が宗教から離れて医学や心理学の分野で研究されるようになったのは19世紀も半ばになってからである。トドロフは想像し難いことだがと述べながらソシュールがエレーヌ・スミスの言葉を熱心に研究したことを紹介している。ソシュールは、彼女のサンスクリットもどきはサンスクリットではないが、様々な音節のごた混ぜで、その中に8音節か10音節までの意味を持った文の断片が現れる、それら以外は理解不能だが、サンスクリットの単語一般形態に反したり対立してはいないと結論付けた。フルールノアがエレーヌ・スミス嬢に関する著作を発表した後、今度はヴィクトール・アンリという言語学者が彼女の火星語を研究した。

アンリは、言語活動が意識的なものであるとしても、それが駆使する手段は無意識的なものだと考えていた。彼は自分の考えを正当化するために例の夢の象徴論理を引き合いに出した。発明された意味のない言語は、実は他の語から派生したもので舌語りの言語活動は有縁的な言語活動だという結論に達した。その有縁化は無意識が行う秘密の仕組みの働きだというのである。

実は、舌語りには観察者全員を引き付けた特徴があった。頭韻法とリズムに関係する文彩が多いことである。音の形態の繋がりが問題となる。トドロフは舌語りの言説における象徴体系 (要素の繋がり方) は、通常の言語活動の持つ「意味」をなおざりにして構成要素間の関係を問う広義の統辞法を強めている結果だとみている。 火星語の éréduté は、フランス語の「孤独な/ solitaire 」を意味するが、アンリは éréduté を éréd と ut、そして é に分ける。éréd はドイツ語のErde (地球、大地)だがフランス語の同じ意味 Terre に近接し、ut はソの音階の名solから(実はこれはドの間違い)、é は近接した母音の i に変換されて solitaire となるとしている。アンリはこのように火星語を分析して見せた‥‥ご苦労様

 

ヤコブソンの詩学

ヤコブソンは、常に文学とは何かを考えてきた人である。彼は高校生の時、ノヴァーリスとマラルメを読んだ。‥‥Oh!、Bravo!‥‥  言語と詩を未来の研究対象に決めていた頃である。彼らは、言語に関する深遠な理論家であり偉大な詩人であり、それらが結びついていたことを知った。ちょうどその頃、フレーブニコフらの未来派やロシア・フォルマリスムという学派が誕生していたが、彼らの思想に見えるものは、すでにノヴァーリスの『独白』の中で十分に総合的な形の萌芽を見せていた。そのことが自分を驚かせ、魅了したと回想している。実際、詩の自動詞的性挌を「表現のための表現」と定義したのはノヴァーリスだった。トドロフは、ノヴァーリスの自動言語とフレーブニコフの自律的言語説を隔てる距離はわずかだとしている。ロマン主義における詩の定義はおよそ100年間忘れられていたが、20世紀の初頭以来、前衛的なすべての詩学の流派において、ロマン主義に反対する立場の人々においてさえ、合言葉となったという。‥‥ヤコブソンの原点は、象徴派⥹未来派にあったんだね

彼の研究は二つの方向に向かった。一つは、文学が描く「現実」ではなく「現実が描かれているという印象を与えるテキスト」を用いてその真実らしさを研究することだった。人が現実と呼ぶものは一貫した有縁化、つまり関係性の中から現われると考えた。ここらあたりが、象徴機能と関係するところだろうか。もう一つは、ある詩人の詩学の根本にある諸構造の特徴からその詩人の主題を演繹しようとした。ヤコブソンの興味は個々の文学事象を知ったり記述したりするための基礎をかちとることだった。そこでは、ノヴァーリスのように啓示を述べることも、サルトルのように敵を告発することもなかったとトドロフは指摘している。

ヤコブソンにとって文芸の科学が対象とするものは、文学ではなく文学機能であり、その唯一の主役は技法だった。技法とは言葉を事物あるいは観念の単なる代理としてではなく言葉自体として知覚させるために詩人たちが用いる全ての方法だと定義される。具体的には、文彩 (フィギュール)、時間空間との戯れ、奇妙な語彙、構文、付加形容詞、詩的転用と詩的語源、語呂、類義語と同音異義語、韻、語の分解などである。その中で、彼の注意を引くものは、様々な形の反復と並行性だった。そして、自動詞性を実現するための内的整合性がある。それらによって、詩は特別な固有の時間継起の中に入っていく。こうして、詩を聞く人は現実から引き出され、想像上の時に身をゆだねる。そこでは、言語が純粋な戯れとなり、韻律、テンポ、リズムといった言語内容とは無縁な法則に従うのだという。

トドロフは、言語の自律性を認めず、言語に固有の法則を探求することを拒絶する態度は、既に我々の文化に蔓延しているという。そういう風潮に対して、ヤコブソンの態度、どんな口実が与えられようと決して言語を知覚することをやめず、言語が透明性や「自然さ」の中に消えてしまうのを許さないという態度は、重大な思想的、哲学的意味を持ち、その重要性は市場に流通するあれこれの「思想」などよりずっと重いと断言する。ヤコブソンには、言語学者であると同時に大胆な詩を激しく生きようとする賭けがあるという。彼の言語理論には規範と例外の対立を認めないという特徴があった。もし、ある言語理論が良いものなら、それは無色の役に立つ散文だけでなくフレーブニコフの詩のようなこの上ない野性的な言語創造をも説明できるものでなくてはならなかったのである。‥‥トドロフにとって、ヤコブソンの情熱は導きの星だったか

 

象徴学は飛翔するか


トドロフ、最終章で岐路に立つ。


ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)
『象徴の理論』

ロマン主義が生んだもの、それは、諸現象間の徹底的な差異化であった。唯一の絶対的本質に対する探究の断念だったとトドロフは言う。決定的に重要なのは創作者と創造物との関係となる。自己表現を行う主体が多様であれば、多様な理想がある。多様性が重きをなし始め、歴史は不可逆的で還元不能な展開となる。ヴィーコやヘルダーが先駆けたが、これもロマン派の創案である。各時代は、それぞれ独自の精神、独自の理想を持つと考えられるようになった。言語活動に多数の機能があるように、芸術も同様であり、言語活動、芸術の立ち位置、階層秩序は、異なった時代や文化では同じままではあり得ない。古典主義のように、理想は一つではなくなったのである。

古典主義の理想は、事物と概念の不変で永遠の本質を信じることであり、一つの体系が歴史を支配する。時の経過の中で現れる変化は、予見された変化に過ぎず唯一の枠組みを変えない。ロマン派では、歴史が体系を支配し、唯一の枠組みは放棄される。変化は不可逆で差異は還元不能だという公準を打ち立てなければならない。ここで、トドロフは古典主義とロマン主義という二つの道の間で迷う。そこから何処へ向かうのか。‥‥記号学の問題から完全にはみ出してるぞ !

彼は、第三の道を模索できるのではないかと考える。それは類型的、多機能的、異形論的であろうと言う。それを可能にするのは言語活動の象徴学の構築ではないかと言うのだ。‥‥象徴学を新たな結合術にする道もあったかもしれないのだけれど‥‥この最終章でそれを具体的には述べていない。実は、後の『言語理論小辞典』の中で、象徴学が非言語的体系の記号学を形成する上で欠くべからざるものだと述べて、他の動機を吐露している。バンヴェニストは、音、色、映像に関するいかなる記号学も音、色、映像によって述べられることはないであろうと述べた。パースは、そんな非言語的な記号学を含めた総合的な記号学へ向かって努力したが体系化できなかったし、カッシーラの『シンボル形式の哲学』は、哲学の枠組みであって記号学のそれではなかった。トドロフにおいて、象徴の問題は、解釈学と間テキスト性の問題へと自然に拡大していくのだが、彼の関心は、文学へと引き戻される。『批評の批評』を経て他者との対話へ移っていくのだ。自己とテキストに見られる「他者の自己」との対話である。それが、どのようなものであるかは、ミハイル・バフチンをお読みになればよいと思う。

トドロフは、丁寧に象徴の歴史を追いながら記号や修辞についての知識を与えてくれている。言葉の「表現内容」は意味のネットワークが前提とされているということ。アウグスティヌスの隠喩、寓意、象徴といった「本来の記号ー転用された記号」は、言葉を結び付ける強力な手段であること。象徴に代表される転用作用は、テキスト間の意味喚起にまで及ぶこと。これによって形成される意味連合は豊饒な世界を形成してくれる。私たちが、多彩な意味のネットワークを掛けかえ合えているのはこのような言葉の機能によるということに気づかされるのだ。ボルヘスが、何故詩人たちがあらゆる時代を通じてありあわせの隠喩を使い続けるのかを問うたのもこの問題に結び付けられているだろう。隠喩は、象徴的喚起全てに潜む最も基本的構成関係を示している。そして、僕が思うに、特定の隠喩は意味のネットワークの結節点となりうる。それは巨大なクラスターになっているのだ。この意味のネットワークがテキスト内やテキスト間で勇躍する契機をトドロフは、象徴にみていた。

 

参考図書

ツヴェタン・トドロフ『象徴表現と解釈』
『象徴の理論』の姉妹編

本書では、言語における象徴表現から何故複数の解釈が生まれるのかが考察される。象徴表現と解釈とは切り離すことが出来ない。トドロフのいう象徴は、語・文からだけではなくインターテクストの中から意味を浮かび上がらせるような働きを指すようにもなる。アウグスティヌスの記号学が比較的詳しく、象徴の不確定性を巡るランボーやカフカの例など興味深い例が紹介されている。

 

 

 

ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1  記号の発生と象徴=交換能力

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)『詩という仕事についてついて』

ボルヘスは、こう述べている。「エマソンがその著作のある個所で書いています。図書館は、死者らで満ち溢れた魔の洞窟である、と。しかも、これらの死者は甦ることが可能なのです(『詩という仕事について』鼓直 訳)。」そして、「バークリー主教についてですが、私の記憶によれば主教は、リンゴの味覚はリンゴそのものには無く、―― リンゴ自体は味を持たない――リンゴを食する者の口の中にも無い、両者の接触が必要である、と書いています。一冊の本、書物の集まり、図書館についても同様です (鼓直 訳)」と。

仮に自分が素晴らしい詩の一節を作り上げたとしても、それらは、自分がしばらく前に読んだものの一節ではないかという思いに駆られるとボルヘスは言う。それが、また再発見にもつながるのだとしている。彼にとって世界は一冊の巨大な本、あるいはとてつもない図書館であったはずである。そこには無尽蔵の言葉があり、それらすべてはまた、何らかの繋がりを持っている。例えば隠喩は、二つの言葉を結び付けて作られる。私たちは信じられない数の隠喩を生み出すことができる。そこで我々は、考えるとボルヘスは言う。一体何故、世界中の詩人たちが、しかもあらゆる時代を通じて同じありあわせの隠喩を使い続けているのか?

今回は、このボルヘスの問いに何らかの回答を得るべくツヴェタン・トドロフの『象徴の理論』を探っていきたいと思っている。言葉が繋がりを持つための重要な要素である象徴の問題を取り上げる。本書は、冒頭において「象徴体系」という事象を考察してきた人々についての研究であると筆者のお断りから始まる。それに、対象とする象徴は言葉ではなく事実であるという。それは記号の特殊なケースであり、象徴の研究は記号の一般理論あるいは記号学(セミオティック)の領域に属するという。

ソシュール以降、記号のうち感覚に訴えるものを記号表現(シニフィアン)、記号に存在するある種の価値体系の空間を記号内容(シニフィエ)、この両者がセットになって意味作用と呼ばれてきた。鍵と鍵穴の関係だと思ってもらえばよい。表現と内容が合体した記号が、概念のカオスからある意味のネットワークの扉を開く。記号の内、最も大きな要素を占めるのは言葉だが、ソシュール以前では、言葉は既にある事物や純粋概念の「表現」でしかなかった。彼以降、言葉は「表現」であると同時に「意味」である。り・ん・ごという言葉が実物のりんごを示すような、記号と現実の対象との間にある指示作用は、この意味作用にとっては部分的なものでしかなく、り・ん・ごという言葉からりんごのイメージを思い浮かべるといった記号の使用者における心象の出現もその言葉の具体性に左右され、やはり限定的なものとなる。りんごの味覚は、リンゴそのものにもそれを食べる人の口の中にもないというわけだ。「愛」という一般的で普遍的な概念が予めあるのではない、もし、そうなら日本人の愛、フランス人の amour、英米人の love といった、全く同じとも、全く異なるとも言い難い言葉たちの意味は、正確に照応したはずである。「愛」という言葉は、広大な価値体系の中から「愛」に関系しないものを排除する。それは、布置とも呼ばれるが、「愛」に関する価値の束が残される。こういう意味で記号内容とは鍵穴なのだ。‥‥ソシュールの記号は三位一体というわけで‥‥やっと腑に落ちる‥‥そういえばパースの記号も三要素だったっけ

ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)
『象徴の理論』

ここで、トドロフにとって重要なのは、記号の持つ交換能力、つまり記号の象徴的な機能なのである。記号は、自らと全く異なる言語的現実を指し示す能力を持ち、その記号を他の言語記号に結び付ける(デュクロ、トドロフ共著『言語理論小辞典』)。象徴作用とは、同一レベルにある二つの記号の間の安定した連合のことを指している。例えば、「焔」はある文学では「愛」を象徴し、「お前は俺の相棒だ」という文は「親しみ」を象徴するといった具合である。もともと、記号における記号表現と記号内容には必然性はない。り・ん・ごという言葉と「りんご」という意味内容との関係は恣意的である。同様に、象徴するものと象徴されるものとの間にも必然性はないが、ある種の動機を持っているといえる。

これだけで、この込み入った本を読んでみたいと思ったのだが、なかなか困難な経験じゃなかったかなあ‥‥ 18世紀末、一つの危機の時代が訪れる。象徴についての考察は古典主義からロマン主義への転換点である50年の間に分離が生じたのである。

ツヴェタン・トドロフについては、ミハイル・バフチン 私とあなたの私との対話/結び合う記号のネットワークで少しご紹介しておいたが、ブルガリア生まれの思想家で、ロラン・バルトのもとで記号学を学び、フランスで活躍した。ジュリア・クリステヴァもまたブルガリアの出身でバルトのもとで学んでいたから同門だった。ロシア・フォルマリズムをフランスに紹介したことで知られ、ロマン・ヤコブソンに感化されて、「文学の科学」を目指した。『小説の記号学―文学と意味作用』で構造主義文学批評の嚆矢となり、シクススやジュネットとともに国際詩学研究誌『ポエティック』の編集委員を務める。これは季刊で文学や修辞、物語の構造などに関する文芸理論誌だったようだ。バフチンの影響か、対話批評に向かい、他者問題や異文化問題を主題にした『歴史のモラル』でルソー賞に輝いている。パリ第7大学を経て、フランス国立科学研究センターの芸術・言語研究センターで研究委員を務めた。デュクロとの共著『言語理論小辞典』は素晴らしいと思う。

 

記号学の発生


記号についての考察は、言語哲学、論理学、言語学、意味論、解釈学、修辞学、美学、詩学といった別々の伝統の中で無関係に行われた。記号学はアリストテレスを嚆矢とする。基本的には、音声と事物といった記号が、精神を媒介として意味を生み出すと考えられていた。まずは、記号学の黎明期を概観したい。


 

アリストテレス(前384-前332)
ギリシアの彫刻家リュッポス作のブロンズ像のコピー ローマ時代

「声によって発せられる音は精神の状態の象徴であり、書かれた語は声に出された語の象徴である。これらの表現が直接的な記号 (シーニュ) となっている精神の状態は万人において同一であり、精神の像 (イマージュ) となっている事物もまた同一である(アリストテレス『命題論』/及川馥・一ノ瀬正興 訳)。」

アリストテレスは、語を音声、精神状態、事物という三者の関係から規定した。精神状態は直接的な関係のない音声と事物を媒介する。精神の働きは、一方が他方の像(イマージュ)となるような有縁な関係性によって両者を結合するのである。有縁性と恣意性については巻末に説明しておいた。慣習によって意味作用を持つ音声が名詞となる。何物も自然に名詞となることはないとアリストテレスは考えていた。

言葉は、既にある事物や概念を精神の働きによって結びつける。言葉を記号と捉えたとしても、アリストテレスの言うようなイメージは、普通、今の自分たちが持つイメージに近いんじゃないか‥‥

ストア派の記号論についてはセクトゥス・エンピリクスの『定説家論駁』にその断片が窺える。記号内容 (シニフィアン)、記号表現 (シニフィエ)、対象 (オブジェ) の三つが結びつくとしている。ここでも音声と対象は物体的であるが、意味内容である語られるもの (レクトン) は非物体的なものである。しかし、記号という言葉は何故か使われない。問題にされているのは固有名詞であり、他の種類の象徴は考慮されていない。固有名詞は、指示能力はあっても意味はないからである。ストア派の徹底した唯物論の中でレクトンは例外的に非物体的である。それは、対象を指示するための記号内容の能力である。レクトンは概念やイデアではない。むしろ、レクトンの上で思考が働くという。レクトン‥‥OS

修辞学 間接的意味あるいは転義法

アリストテレスにおいて、隠喩あるいは言葉の転用は特に象徴的な構造ではなく、置き換えられた名詞によって事物を呼ぶこと、ないし、それを置き換えた名前で呼びながらその本来の名を言わないことである。アリストテレス門下のテオフラストスでは弁論術・修辞学は重要な役割を演じるようになる。転用の用語は一挙に増えて、転義比喩と寓意、及びイロニーとフィギュールが登場する。偽ヘラクレイトスでは、あることを述べ、しかも述べられていることとは別のことを意味する文体の文彩は寓意という名で呼ばれる。‥‥文彩は転用の技術だったか

解釈学

解釈学の伝統は著しく困難なほど広範囲・多岐にわたる。それは、直接と間接、明快と晦渋、ロゴスとミュート(話、筋、寓話)といった二つの系統の対立から生まれた。理解と解釈という受容の二つの対立的な様式の一方である。例えば、ホメロスの詩や聖書といったテクストの注解と占術などの多様な形体での予見というものに代表できる。アリストテレスは「隠喩を上手に作るためには(事物の間に)類似を確実に認めることである」と述べる一方で、「夢の最も巧妙な解釈者は夢の類似を認める能力のある人である」と述べている。解釈学の伝統の中に記号学への試みが現れるのは、アレクサンドレイアのクレメンスを待たなければならない。彼は象徴的領域の統一性を極めて明快に述べている。「隠されないものは一つの手段で知覚される‥‥曖昧に表現されたものからは複数の意味を引き出すことができる。」‥‥文彩の技術は多様化をもたらすということか

アウグスティヌスの記号体系

聖アウグスティヌス(354-430)
マルク・アルシス作 1715 ノートルダム大聖堂

アウグスティヌスはある目標に到達しようとする過程で記号の理論を顕わにする。彼は聖書におけるテキストの解釈に身を捧げ、その解釈学が修辞学を吸収した。彼の記号学についての総合的オリジナリティ――あるいはむしろ全世界的教会的性格といった方が良いかもしれないが――は巨大だった。それは西欧思想の歴史上、記号学に値する最初の体系だったのである。

「記号とは、それ自体を感覚に示すものであり、それ自体の外にさらに何かを意識 (エスプリ) に示すものである。話すということは、分節された音声の助けを借りて記号を与えることである」としている。アウグスティヌスによって、言葉が記号であるということが確認された。‥‥これは大きい。そして、記号がもともと感覚しうるものと理解されうるものという二重性を持ち、記号それ自体の中に非同一的な要素があることが明らかにされる。

言葉は、指示と指示作用という記号と事物との関係性を持ち、同時に、話し手と聞き手という関係性も持つ。初めて、コミュニケーションとしての枠組みが主張される。話し手と聞き手とのコミュニケーションの枠組のなかでは言葉 (パロール) の助けが必要である。話し手は意味を抱き、ついで発音し、聞き手はまず音声を把握し、次いで意味を知覚する。これは、ストア派では欠けていたものであり、アリストテレスでは曖昧だったものである。アウグスティヌスにとって言語活動は本来音声的なものが優位にあり、聴覚が視覚よりも優位にあった。

ヴェルブ verbe(言葉)は、それを発音し考える時と、魂の中で認識の対象と共に刻印される時とは別の種類のものと言える。後者の言葉は諸人種の言語に属していない。我々が既に知っているものから発して形成される思考は心の奥で発音されたヴェルブ verbeである。この前言語的な内的ヴェルブというものにも二種類あり、認識の対象によって魂の中に残された痕跡と神を源泉とする内在的認識である。以下に示すこのような流れになっている。‥‥しかし、内的ヴェルブってレクトンのこと?

神の力 → 内在的な知+認識の対象 → 内的ヴェルブ → 思考される外的ヴェルブ → 発話される外的ヴェルブ

アウグスティヌスは『キリスト教教程』の中で記号 (しるし) を細かく分類したが、それらを現実的に調整はしていない。この記号は、言葉だけでは当然ない。記号は、自然的 (無意志的) なものと意図的 (意志的) なものに区別できる。自然的記号とは、煙が火の記号、同様に獣の足跡が獣の記号となり、人の怒ったり悲しんだりしている表情はその人の意図と関係なくその気分を表す記号となる。身振り動作なども或る種の記号となることを指している。それは意図や欲求なしに自発的に、記号そのものとは別の何ものかを指す。

福音書記者の象徴 作者未詳
マタイ=人、マルコ=獅子、ルカ=雄牛、ヨハネ=鷲

意図的記号は、あらゆる生物がその魂の動きを、つまり考えたり感じたりしたことの全てを、自分に可能な範囲で示そうとして、互いに作っている記号である。意図的な記号には、人間の語があり、動物が食物のありかを告げたり、発信者の存在を知らせる叫びなども含まれる。アリストテレスの場合、このような叫びは如何なる約束事も制度も必要としないとして「自然的」とみなされていた。アウグスティヌスにとって意図的記号は、記号として使用するために作られた事物である。学習や制度、約束事を含んでいた。彼にとって意図のあるなしが重要であって、それは、またしてもアリストテレスの「慣習的」記号とも異なるのである。それは、昔から何となくそうなっているものではなかった。この区別はアウグスティヌスに独自のものだったのだ。

聖書解釈においては、少なくとも言葉通りの本来の意味とキリスト教教義における比喩表現としての二つの意味があった。一つの記号は、その記号内容が今度は記号表現となる時、転用となる。「牛」という言葉を聞けば、この名で呼ばれる動物が念頭に浮かぶが、聖書では「牛」は福音書記者の一人、ルカを表す。一般に解釈においては、未知の記号が別の良く知られた記号に置き換えられる必要がある。アウグスティヌスにとって聖書の言葉の多くには、霊的意味が隠されているのであって、それを発見することが困難であればあるほど発見の喜びは大きかった。このような解釈を行う中で、意図的‐非意図的、慣習的‐自然的、といった区分は本来の記号‐転用された記号といった対立関係の中で再び考察されることになる。

『アウグスティヌス著作集』第六巻
 教文館 1988年刊 加藤武 訳
「キリスト教の教え(キリスト教教程)」

しかし、この転用は解釈の増殖を招く。霊的な意味は頂点にあり、次に寓意的意味が来て、言葉通りの字義的、物質的意味になるという階層構造が存在した。意味されるものが予め知られていないとその記号が何か分からない。記号が認知されれば解釈できる。しかし、アウグスティヌスは、何者も記号によっては学ぶことができないという。実在についての知識がなければ記号の解釈ができないからである。実在を教えるのは神でありキリストである。哲学者ルイス・マッキーが『アウグスティヌス〈教師論〉における信仰と理性』で上手に説明してくれている。あらゆる記号は、結局別の記号を意味するという連鎖を果てしなく繰り返し、記号を用いることによって実在の意味を知ることはできないのではないかという懐疑が持ち上がる。言葉は、たらい回しという構造的な危うさを抱えている。ここで、アウグスティヌスは受肉した言葉、つまり記号であると同時に記号の意味 (記号と実体的に同一の意味) であるような言葉を想定するのだと。

トドロフは、記号と象徴の対立関係を基礎づける試みは、ヘーゲルやソシュールによって再開されるが、すでにアウグスティヌスによって乗り越えられていたという。‥‥うーん、記号が福音している、トドロフが前半で言いたかったのは、ここかな

 

古代ローマから18世紀へ・レトリックの推移 


ローマの帝政への移行に伴い、弁論術としてのレトリックは衰退し、美しい修辞技術として脚光を浴び始める。それは、美しいポエジーの術と欺瞞の術という二つの価値観に分離していった。


 

アリストテレスは、レトリック(本書でレトリックという場合は、弁証法と修辞学、両方を含む)が、それぞれの対象について可能と思われる説得手段を見つけるための力としたし、ストア派も弁証法的な「正しく話す」を弁論家的な「うまく話す」から峻別したという。しかしながら、レトリックの技術は古代末期以来、美辞麗句演説の作文学となった。それも前近代では、個性的なるものよりはるかに類型的なもので、その技術を用いるための厳格な規律が不可欠だった。賛辞のための美辞麗句で糊口をしのがねばならなかった後期ソフィストたちにとっては、厳格な規律から言葉の誇張、過剰へと傾斜していったのは世の習いであろう。やがてレトリックに虚構というレッテルが貼られるようになる。

タキトゥスにとって弁論が何か現実に役立つ限り、それは進歩していたのであって、それが可能になるためには言葉が力を持つような自由で民主的な国家でなければならなかった。しかし、ローマは、共和制から帝政へと移行したのである。権力は諸制度に依存するのであって、集会には属していなかった。ビザンツ世界でも同様であって、ハンス・ゲオルク・ベックは『ビザンツ世界の思考構造』の第三章「古代弁論術とビザンツ美術」の中で極めて上手にまとめている。‥‥この本は、美文で訳も抜群だった

クゥィンティリアヌス(35頃-100頃)
『弁論家の教育』

レトリックの第二期は、1世紀のクゥィンティリアヌスから19世紀初頭のフォンタニエまでとなる。文彩や転義法の効果について考えることは、もはや他人への効果を考えることではなく、表現と思考の関係や内容と形式の関係、つまり言語の内部機能へとシフトしていった。言語の精髄に迫り、文体の秘密を極め、観念や思考と表現の真の関係を知るのである。レトリックは言語の祭典となったが、緩慢な衰退、堕落と窒息へと向かっていく。

ラテン修辞学を確立したクゥィンティリアヌスは、思考は構想に関わり、語については措辞を、思考と語両者については結構を考慮しなければならないと述べたが、彼にとって文飾は道徳的に非難される対象でしかなかった。教示と感動は構想と結構に大きく左右され、感動は措辞としか結びつかないとトドロフは、指摘する。20世紀の言語学者であるビューラーやヤコブソンは「教示」は指示へ、「感動」は受信者へ、「快楽」は発話それ自体に導かれるとした。ここでは、話者の表出的機能が欠如しているが、主体が俎上に上り始めるのは、実はロマン主義以降である。

レトリックが、どのように見られていたか少し、例を挙げておこう。クゥィンティリアヌスは、言説は男性であり、粉飾された言説は男娼だと述べている。ロックは『人間悟性論』の中で、レトリックという誤謬とペテンの道具が公然と教えられていることを非難し、弁論が美しい性 (女性)にも似てその魅力は、はなはだ強力で、それに反論することすら許されず、人々が喜んで欺かれるこうした欺瞞の虚偽をいくら暴き立てても無駄であると書いている。‥‥ケチョン、ケチョンだ

イマヌエル・カント(1724-1804)
生誕250年記念切手 横顔は、かなりイメージと違う

ついでに、カントは『判断力批判』の中で、純粋に形式的美である詩について語る。美しいポエジーは、自分に常に純粋な満足を与えてくれたし、雄弁と典雅な話し方とは芸術に属する。しかし、弁論術となると、人間の弱点を自分の意図のために(その意図が善意によるものであろうとなかろうと)利用する技術であるから少しも尊敬に値するものではないと述べている。

有効な弁論という目的は失なったが、膨大な規則の集大成としてのレトリックは残った。それは、言説の美にのみ関わるが、同時に人々が喜んで欺かれるような技とされ、自己欺瞞に陥った。この第一の危機に続く次の危機がやってくる。万人に共通な基準であった宗教の基盤は揺るぎ始め、貴族階級という既存の特権階級は終焉を迎える。奉仕されるべきものはいなくなり、各人が第一に奉仕されるべきものとなるとレトリックは、読む者のためのものとなったのである。カントやノヴァーリス、シェリングが、美はそれ自体で自足するものと定義するようになる。これが、ロマン主義以降の第二の危機であった。それでは、レトリックは、今度こそ言語の祭典に奉仕するものとなるんだろうか‥‥

 

ロマン派前哨戦 芸術は記号か?


修辞が終わる時、美学が始まる。ロマン派に至るまでには三段階の美学があったが、そのうち二つの原理はよく知られたものだった。一つは模倣(ミメーシス)、もう一つは部分同士・部分と全体の調和という作品内部に築かれる美の原理である。そして三つ目は、新たに有縁化される記号としての美の原理が登場する。


 

イデオロギーのもろさが突然明らかになると、その学問の探求において正しいと認められていた価値基準に根本的な変化が生じる。その変化は、その学問における細部の観察や説明の質をなきものにしてしまう。18世紀における修辞学がそれだった。デュ・マルセやボーゼは文彩や文の一般構造を研究し、コンディヤックもまた文彩の研究を行った。ちょっと面白いのは、デュ・マルセやボーゼが隠喩の中では言葉は本来の意味と比喩的意味の二つを持ち、寓意においては本来の唯一の意味のみを持つとしていることだ。それはともかく、彼らはフランスの修辞学の伝統の中にあって過去数世紀の修辞学に支配されていた。しかし、フランス革命がやってくる。修辞学が終わる時、美学が始まるのである。‥‥パラダイムシフトって言うわけだ

タキトゥスの時代にレトリック内部で用意されていたあるがままの言語活動の享受は、ノヴァーリスの「もはや我々は普遍的に承認された形式が支配していた時代に生きているのではないのである」という宣言と共に、諸要素間の調和的な結合によって美それ自体を実現することと定義されるようになる。バウムガルテンの最初の美学の試みは、レトリックを手本にしたものだったと言われる。模倣の原理は18世紀が四分の三経過するまで芸術理論を支配していた。トドロフはこの模倣の原理には三段階あるという。

ジョナサン・リチャードソン(1667-1745)
自画像 1729 部分

第一の段階は自然の模倣を唯一の拠り所とするが、模倣は完全であってはならない。卵は一つの卵であって、卵が別の卵を模倣するとは誰も言わないとヨハン・エリアス・シュレーゲル(シュレーゲル兄弟の伯父/劇作家)は述べたが、ある種のバイアスのかかった模倣が求められた。

第二段階は、理想に沿って選ばれ修正された自然、つまり「美しい自然」を目的とする巧みな模倣である。イギリスの画家・批評家であったジョナサン・リチャードソンは、絵画の主要な目的は自然を高め、改良することだと述べている。しかし、「美しい自然」とは何か、誰にも正確に定義されなかった。ディドロは、自然自体がある理想のモデルであり、それを描くことは模倣の模倣だとした。プラトニズムである。

古来、芸術には競合する二つの原理があった。一つは、作品の外にあるものに作品を結び付ける模倣の原理であるが、音楽や抽象絵画は除かれる。もう一つは、作品の内部そのものに確立される美の原理である。これについてはパノフスキーが古典主義的理念として上手に纏めている。‥‥これは、なかなか香しい

「美とは部分相互間の関係及び部分と全体との関係の調和である。この考え方はストア派によって発展させられ、ウィトルウィウスとキケロからルカヌスやガレノスまで躊躇なく受け継がれ、中世スコラ派の中に生き残り、最後にアルベルティによって公理として確立された。彼はそれを〈自然の絶対的第一法則〉と呼ぶにやぶさかではなかった。この考えはギリシア人がシンメトリア、あるいはハルモニアと名づけ、ラテン人がシンメトリア、コンキニタスおよびコンセンスス・パルティウムと呼び‥‥‥ルカヌスを引用するなら、それは〈全体とあらゆる部分の関係の均一性、あるいは調和〉を意味していた(アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー 生涯と芸術』)。」

やがて、模倣と調和は、ほとんど類義語になってしまう。ディドロ曰く「もし模倣の真実が調和の魅力に加わるとすれば、完成に達したに違いない」というわけだ。‥‥折衷されたか

ジャン=バティスト・デュボス
(1670-1742)
『詩と絵画に関する批判的考察』

第三の段階は、諸芸術の記号としての類型学の段階である。絵画や文学、音楽はどの程度まで記号なのかとトドロフは問う。確かにこう考えることは普通ない。というのも記号における言葉のシェアは圧倒的だし、どのような記号も言葉を通して理解されるからに他ならない。‥‥ヴァールブルクの『ムネモシュネ―』は、その反論であるかもしれない

この芸術の記号論的類型学を企てたのはジャン=バティスト・デュボスであった。フランス北東部のレゾンという町にあるノートルダム教会の神父だった。「絵画は文学のように人工的記号を用いないが、多くの自然的記号を用いる」と述べた。彼の場合、視覚的な絵画の優位は動かないし、ポエジーを含めた文学は聴覚の芸術と捉えていた。そして、語は観念を喚起すべきであるとし、次が大事なのだが、語はその観念の恣意的記号に過ぎない、これらの観念は想像力の中で調整され、我々の心を打ち興味をそそるような画面を作らなければならないとした。

レッシングは、『ラオコーン』とその後に見られるように、絵画の記号は空間と自然なものの中にあり、ポエジーの記号は時間と恣意的なものの中にあるとして、いずれも有縁化されるべきだと考えていたようだ。彼によって、ポエジーとは記号が有縁化されている言語だという定義が登場する。ポエジーに奉仕する擬音語、感情の普遍的な表現である間投詞、これらの用法によってポエジーの音楽的表現が生まれ、言葉の自然な繋がりと隠喩 (メタファー)の使用が指摘される。

隠喩が構成する類似は、イメージや擬音語といった有縁化された記号の類似とは異なる。隠喩は有縁化されない記号を使って作られた有縁化記号であるとレッシングは考えていた。記号内部の機能へと視点が移り始めている。一方、ポエジーと絵画は恣意的であると同時に自然的でありうるとした。要素を自由に結び付ける自己の創作であると同時に、自然の模倣でもありうるということだろう。しかし、レッシングは表象あるいは演出としての新たな模倣とモデルに類似したものの生産という旧来の模倣の間で揺れているとトドロフは、指摘する。彼は、記号(あるいはイメージ)と世界の関係を問題とする模倣の原理という古典主義的精神に引きずられながらも、詩を記号表現と記号内容との関係という、記号内部の関係に導いたことは、詩的言語におけるロマン主義的理論の先駆けとして評価されるべきであるという。彼は、模倣を擁護しようとして心ならずも誰よりも痛烈な一撃を模倣に与えたのだとトドロフは言うのだ。こうして新たな問題が提起された。レッシングの後継者たち、A.W.シューレーゲルからロマン・ヤコブソンに至るまで、言語活動は恣意的であるという事実と文学は有縁化された記号を使うという確信をいかに和解させるのかという問題である。

ふぅー 前半終了‥‥ 恣意性と有縁性について知りたい人はこの後の付録をお読みください

 

 

付録 言語の有縁性と恣意性

「言語とは、部分的あるいは全面的に、事物もしくは思考の自然な秩序によって説明され、正当化されうる」という立場が言語の有縁性を標榜する立場。一方、「言語とは果たして独自で予測しがたい言語外のいかなる現実にも還元されない一つの現実である」というのが言語の恣意性を標榜する立場です。これらをデュクロ、トドロフの『言語理論小辞典』から紹介しますね。

名称とそれが指示する事物の間には自然な関係があるとする考え方がヘラクレイトスの流れを汲む思想にはあった。「名称を知るものは事物をも知る」。有縁性の立場である。いきおい語源の探求に傾いていく。音が一種の自然の真理を持つという考えはストア派にらみられ、ライプニッツは語源学が原始語への接近を可能にし、その原始語は現在の言語よりはるかに音の持つ表現的価値を活かしていただろうと信じていた。この言葉と事物の自然な関係が、模倣(ミメーシス)に関連していくのは想像に難くない。プラトンはどうかというと、真理は言葉の外の本質直観に求められると考えていたから言語の恣意性は認めながらも相対主義の教訓と修辞学を拒んだ。その直感把握が「理想言語」の創造を可能にするのだろうが、それにおいてすら名称は本質の映像ではなく、補助記号にとどまるという。‥‥模倣の模倣ということか

デモクリトスを祖とする「人間が万物の祖である」という相対主義的思想においては、「事物の命名は恣意性によるものであって、法則、制度、契約の問題だとしている。これは勿論、恣意性の立場。ソシュールの流れでは、言語に見られる音に関する因果関係は意味の面を支配する関係とは独立した別のものであるとして言語の恣意性を闡明にした。言語は一つの体系をなし、内部に一つの組織を持つという考えに結びつく。それぞれの記号がその指示対象の模倣であるとすると、個々の記号は他の記号とは独立して説明可能となり、他の記号と切っても切れない関係を持つことはなくなってしまう。だから、古代から類推(アナロジー)と呼ばれる言葉に内在する規則性を追求した文法学者たちは恣意性の側についたという‥‥有縁性と恣意性というのは、だいたいこんな感じ‥‥これを押さえておかないといけません

 

 

参考図書

ハンス・ゲオルク・ベック
『ビザンツ世界の思考構造』

オスワルド・デュクロ、ツヴェタン・トドロフ『言語理論小辞典』
言語理論の素晴らしい解説書になっている。

『アウグスティヌス教師論』知識がいかに伝達されるかを記号学を踏まえて息子アデオダトゥスとの会話の形で述べている。彼の記号学を知るうえで貴重な著書。マッキーの言う受肉した言葉 (記号であると同時に記号の意味であるような言葉 ) という表現は本書には登場していない。

ジョージ・ビショプ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』あなたにとってキリストとは誰ですか?

ジョージ・ビショップ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』
緒形隆之訳 アルぺ神父の列福を祈る会刊
SJ はラテン語の Societas Jesu(イエズス会)の略

イエズス会とは何か。と聞かれてもおそらく信者さんで、その教会に関わっている人でなければ良く分からないのではないだろうか。これはドミニコ会やフランシスコ会といったキリスト教会派でも同様であろう。かくいう筆者もイエズス会の経営する学校で長らく教えてきたけれど神父さんに知り合いはいても、どのような活動がなされているのかはボンヤリとしか分からない。もっとも僕がボンヤリしていただけなのかもしれない。今回はかつてのイエズス会総長、つまり最高責任者と言ってよいと思うのだけれど、その人の伝記『ペドロ・アルぺ SJ 伝』を借りることができたのでご紹介したいと思っている。広島と縁の深い人だった。筆者は、ジョージ・ビショップという人ですが、イエズス会の関係者とは思うけれど、この著者について、あまり紹介がないので詳しく分からない。インド生まれで、ロンドンの学校で教鞭を執った後、ローマやジャマイカの大学で教え、ユネスコの派遣でタンザニアやフィジーへ赴いたとある。

イエズス会のイメージ

「私が日本で修練院長をしていた時、若者達がイエズス会に入会しようとやって来たことを思い起こします。岩波という大きな出版社が編集した哲学辞典をよく使ったものですが、それには、イエズス会の古典的な定義として五行が割かれており、それには、ジェズイット(イエズス会士)は偽善者の典型であり、目的を達成するためには手段を選ばない者、常に権力と張り付こうとする者、とあります。これが五行の中にあるすべてです。これを若者達に見せて、尋ねました。『これをどう思うかね ? 』」

今では岩波の辞典にはこのような記載はないだろうけれど、アルぺ神父はイタリアのテレビネットワーク RAI のインタビューで上のように述べている。続けてこう答えた。私たちの与える印象がどうであろうと私達が望んでいることは、人々に「仕える」ことであり、そのために私たちの組織の人的資源を自由に活用しようと試みている。しかし、権力の力に依って活動することなど望んでいない、それは特異なことだと思う。まして、政治的な権力など問題にならないし、大きな影響力を持つために大金を持ちたいという個人的な思いも問題外である。富の所有は、私たちの「清貧の誓い」に反すると語った。

アタナシウス・キルヒャー画『幾何学原本』に描かれたマッテオ・リッチと徐光啓 1667

そして、狡猾さという悪口に対してはこう答えている。せいぜい、それは思慮分別の問題です。時には政治的な便宜主義の行動として解釈されるかもしれないような問題だが、それは思慮分別と人間的な理解力によって進められるもっと大きな人間的、福音的問題と関わっていて慈愛や隣人の必要を知りたいという願望の問題なのだと答えている。

実は、この問題は古くに遡る。例えば、マッテオ・リッチは、中国語を学び、その言葉で著作を書き、儒者の服を着たし、儒教の上帝とキリスト教の神との類似性を指摘し、自らの国が世界の華と自負する官僚やその家族たちの警戒を解こうとした。確かに、鎖国下の明末に、士大夫の伝(つてで宮廷に接近し、華麗なる自鳴鐘(時計)やチェンバロなどを贈って北京に居住の許可と生活費の保証、そして布教の許可を得ている。草の根の布教という観点から言えば非難を受けるかもしれないのだが、独裁体制をしく皇帝神宗の許可なしには、布教を続けることはおろか中国に留まることも困難であり、中国入りを前に倒れたザビエルの遺志を貫くことも叶わなかったろう。結果として、ルネサンスの自然科学を中国にもたらし、中国の文化を西欧に知らしめ、東西の架け橋となったことも確かである。

ルルドの奇跡

ペドロ・アルぺは1907年スペインの北西にあるビルバオに生まれた。父マルセリーノは建築家で、母ドロレスはバスク地方の医師の娘だった。上に4人の姉のいる一番下の長男として中流の家庭に生まれた。幸せな家族に不幸が訪れたのはアルぺが8歳の時で、母が亡くなる。11歳の時に無原罪の聖母マリア修道院に入会し同じバスク人だったフランシスコ・ザビエルに興味を抱くようになった。1922年にマドリード大学の医学部の学生となる。後にDNAやRNAの研究でノーベル医学賞を受賞したセベロ・オチョアと同級だった。この頃、貧困者の援助組織である聖ポール・ビンセント会に友人と二人で参加している。貧しさとはどのようなものかを目の当たりに見た。だが、またもや不幸が襲う、医学部在学中に父親が亡くなったのだ。

1926年、医学部の最終学年だったアルぺはフランスのルルド村に向けて出発した。「奇跡の回復」を医学的に検証する奉仕活動だった。1858年にベルナデッタという名の少女がマッサビエルの洞窟で若い婦人に出会うようになる。その夫人が聖堂を建てるように望んでいると教会関係者に伝えた。そして彼女がその名を尋ねたところ「無原罪の御宿り」と告げる。カトリック教会が聖母マリアが無原罪であると公認したのは、そのたった4年前のことだった。村の娘が知っているようなことではなかったのである。そこでは、見捨てられるような病気の患者が次々と回復していくという奇跡が伝えられている。

アルぺは検証局の正式な医師として、ルルドで回復した脊椎カリエスの修道女を診察し、X線写真でその回復状態を検証した。末期の胃癌だった75歳の老女はルルドの奇跡に一縷の望みを託してやって来たが、三日目にはすでに元気に歩けるようになっていたのである。X線写真で胃が撮影されたが、癌の痕跡は見つからなかった。彼はマドリードに帰ると大学院への進学の準備を始めた。既に最終学年の試験を最優秀の成績で終えていた。しかし、彼は迷った。貧困者の援助活動の中で出会った家族たちやルルドの奇跡が彼の頭を占めるようになっていた。そして、彼はロヨラに行って修練院に入る手はずを整えたのだった。2年の修練期の間にローマの長上たちに日本に行ってザビエルの事業を引き継ぎたいという意思を手紙にして送っている。

ロヨラの聖域  スペイン アスペイティア

山口の牢獄

この著作は、山口でのアルぺ神父の逮捕の場面から始まる。彼は、1938年に神学を学んでいたアメリカから日本にやって来た。東京で18ヶ月、日本語と日本の習を学ぶと1940年に宇部を経て山口に赴任する。そこで彼は憲兵隊にスパイ容疑で逮捕されたのである。既に日本はアメリカに宣戦布告し、運の悪いことに彼はドイツ人ではなくスペイン人であり、おまけにアメリカから来日していた。結局30日以上留置され尋問を受けた後、1942年の1月に開放された。

尋問は23時間ぶっ通しを含めて37時間に及んだこともあった。それは、彼にとって重要な体験であった。尋問に対してどう話せば日本人の心に訴えかけるのか、分かってもらえるにはどう表現するかを腐心していた彼にとって取り調べ官の態度が徐々に軟化していき、モーゼの律法についてさえ尋ねられるようになったことは、ある種の勝利であったろう。一時は死刑の覚悟さえしなければならなかった。そして、一枚の汚い畳と金属の容器があるだけの狭い独房での孤独は「魂に訪れる客」との重要な対話の時となった。彼は、釈放を刑務所長に宣言された時、こう言われた。有罪か無罪かを判断する最良の方法は、日々の様子を細かに観察することだと。この時、アルぺ神父は所長に「ありがとう」と感謝の言葉を述べて彼を狼狽させるのだった。

アルぺ神父と長束修練院  三重の塔の上には十字架がある。
ホアン・カトレット著『アルぺ神父とともに祈る』より

ラサール神父とセルツメント

この年、アルぺ神父は日本のイエズス会の責任者であったラサール神父から修練院長として広島へ来てくれと依頼される。広島には毛利元就の息子・秀兼の援助でセルソ・コンファロニエリ神父によってイエズス会の住居が建設され、秀金も洗礼を受けてシモンと名乗っていた。関ヶ原の戦い後、その住居は失われたが、1604年には福島正則の支援で住居は再開され、二人の司祭が住んでいた。しかし、これも宗教弾圧によって再び閉鎖されるという過去があった。

1908年ローマ教皇は日本への大学の設置をイエズス会に要請し、結果として東京に上智大学が開校する。1933年にイエズス会修練院は上智大学と合流したが、1938年に修練院は広島の長束に移された。修練院とは聖職者の養成機関のことだ。ラサール神父は38歳で日本のミッションの地区長に選ばれた人で、それまで上智でドイツ語を教えながら東京の三河島にあった貧民窟にカトリックセルツメントを開いた。寄付を集め、資金を貯め、土地を買い、建物を建てて病人や住居のない貧しい人たちを支援しチャリティー音楽会などの催し物をした。彼は、地区長になると岡山にあった広島地区長館を広島に移してそこに住んだ。日本管区の本部は広島に移されたことになる。それが幟町教会だった。彼は、日本のカトリック教会は、日本文化にもっと親しまれるようにどうしてもインカルチュレーション(受肉)が必要であると考えていた。それで長束に聖堂も畳、修練者の生活の場所も畳という和式の修練院が建てられたのである。(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)

フーゴ・ラサール神父(1898-1990)
1948年に帰化 日本名は愛宮真備

ラサール神父は、戦後日本に帰化するとともに広島に平和記念聖堂を建設しようと奔走した。自らもチェロを演奏する音楽の愛好家でもあった彼はエリザベト音楽大学を構想したといわれる。そして、黙想や観想の世界と禅との共通性を理解し、カトリックに禅の瞑想を取り入れた。瞑想のための座禅会が開かれ、それを世界に広めたのである。同じイエズス会士であるリントネル神父や門脇神父たちがその影響下にあった(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)。こうして見てみるとラサール神父の社会に向う行動力と観想的な生活という二つの車輪はペドロ神父にも引き継がれていったと考えてよいのではないかと思う。これが会の本質なのかもしれないが、本書にはアルぺ神父のラサール神父への言及は記されていない。

ピカドンと長束

その朝、アルぺ神父は8時10分に部屋に入り、学びの時間の準備をしていた。やがて目も眩む稲妻のような光が部屋全体を満たした。当時、写真の撮影時に焚いていたマグネシウムによるフラッシュのような閃光だった。しかし、音はなかった。彼は何事かと市内に面した窓を開けた。その瞬間、強大な轟音と熱い爆風に鼓膜を叩かれ、別の部屋まで吹き飛ばされた。反対側の壁にガラス片が突き刺さり、畳の上はガラス片や粉々になった瓦礫が散乱していた。柱時計は8時10分過ぎで停止し、まるで人類初の大量破壊兵器の誕生を記録するかのようだった。

何人かの修練者と司祭がガラスの破片で出血していたが、重症者はいなかった。しかし、広島市内は真っ赤に燃え上がり、巨大なキノコの雲が上空に向けて噴き上がっていた。街は、完全に破壊しつくされ、8万もの命が死を自覚する前に消滅したのである。修練院の司祭たちは、市内から逃げ延びてきた50人ほどの人々を収容したが、ほとんどの人が出血して火傷を負っていた。やがて収容者は増えて、150人を越え、建物に入りきらない人は、庭や畑や道路に横たわるしかなかった。医学を学んできたアルぺ神父はさっそく治療を開始するのであった。

原爆被災後に治療にあたるアルぺ神父 本書より

市内の中心部に近かった幟町の教会堂、修道院は全て焼失し、ラサール院長とシェファー神父は、かなり深い傷を負った。二人は、幟町の近くにあった、かつての浅野家藩庭である現在の縮景園の片隅に横たえられていた。アルぺ神父やクラインゾルゲ神父たちに救出されている。本書で被爆して名前が挙げられているイエズス会の神父は14名で日本人一人を除いて全て外国人、日本人の修道士が1名、日本人を含めたブラザーが2人である。それにメゾシスト会の日本人牧師が一人いる。重症の二名を除く彼等は、被爆地で怪我人の救護を行い、死体を荼毘に付すのを助けていた。ここでは、原爆投下の経緯や原爆投下後の広島の惨状が、かなり詳細に書かれているが、これを書くのは、ちょっと胸が詰まるので控えさせていただくけれど、バランスのとれたとても良い内容だと思うので機会があれば、是非本書を手にとっていただければと思う。

薬は、ほとんどなかった。手術は麻酔もなく神父の机の上で家庭用の消毒したはさみが使われた。ホウ酸が13キロ余り手に入り、基本的には傷口を洗浄し、ホウ酸の湿布で消毒することが全てになっていった。しかし、修練院で治療した90名のうち亡くなったのは一人だけだった。8月7日は、1733年の教皇クレメンス14世によるイエズス会禁止令から解放された記念日だった。アルぺ神父は、破壊に耐え、負傷者で溢れた長束の聖堂の中でミサを行った時のことをこのように述べている。「私は麻痺したように両腕を広げてそこにじっとしていた。そして、科学や技術の進歩が人類を破壊するために使われたという悲劇をじっと考えていた。彼等は皆、祭壇から何らかの慰めがもたらされるのを待っているかのように、苦痛と絶望の眼差しで私を凝視していた。(緒形隆之訳)」

総長への道

1950年、ローマで開かれた修道会の代表者会議に日本の代表として出席したアルぺ神父は当時の総長から原爆の体験を世界中に伝えるように依頼され、ヨーロッパとアメリカへ14か月の講演旅行に旅立っている。4年後に準管区長になり、翌年には原爆の語り部としてラテンアメリカを含む二度目の講演旅行に旅立つ。この講演は計3回に及んだ。彼は、著作も活発に行い、フランシスコ・ザビエルの一生、イグナチオ・ロヨラの霊躁(霊魂のための観想を中心とした修行法)の解説書、カルメル会神秘主義者・十字架の聖ヨハネに関する著作の翻訳、原爆体験などを著している。1958年には日本管区の管区長となった。

ペドロ・アルぺ『キリストのこころ』
「イエズス会士への訓話」「キリストの心の神学」「司牧的指針」収載
新生社 1988年刊

彼が管区長を務めている間に世界は大きく変わっていった。日本もそうだった。西側諸国の考え方を急速に吸収した結果は、溢れんばかりの物質的豊かさをもたらしたが、日本人に具わっていた慎みと自然な感性は、あらゆるものに浸透する相対主義と無神論へと傾斜していった。世俗化が広がって行きつつあった。イエズス会士の戦いは戦前とは異質なものを要求されるようになる。アルぺ神父の補佐をしていたロバート・ラッシュ神父は、アルぺ神父は若い時から伝統的で型にはまった制度にぶつかり、常にそのような人たちからの無理解にさらされたという。多くの新しいアイデアを持っていて性急に前に突き進みすぎると危惧されるというのだった。しかし、そういう人が必要とされる時代もある。ところで、ラッシュ神父には、僕は大変お世話になったので頭が上がりません。

1965年、第二十七代総長が亡くなり、90か国、3600人のイエズス会士を代表する218人による選挙が行われ、アルぺ神父が第二十八代の総長に選任された。仲間からの祝福を受けるために前に進み出たアルぺ神父は、こう述べた。「ところで、私は何をすればよいのですか ? 」オテーナ神父はこう答えた。「今、あなたは、人生で最後の服従をすればよいのです。」一度、選ばれたら降りることの出来ない職責だった。アルぺ神父はイタリアのテレビ局のインタビューに答えているが、その中で、教皇の回勅にある発展途上国における不正義や不平等と戦うことを強調し、それらの労働者たちが我々に食料を供給してくれている一方で飢餓と栄養失調に苦しんでいる。私たちは正義のために戦うと述べている。これは以後のイエズス会の活動の中で闡明となっていく事柄だった。ちなみにイエズス会出身のフランシスコ教皇(第266代・現教皇)は、この頃(1967年ブエノスアイレスで神学の勉強を本格的に開始していた。

北米における人種間の危機を踏まえて、その地域の会士たちに新総長はこう勧告している。少数者を常に意識し、黒人居住地で活動し、学校における人種差別撤廃を推進し、その居住区に修道院を建てるべきだと。異なる人種間における活動は後のイエズス会のマグナカルタになったと筆者は述べている。ラテンアメリカの司祭たちには、露骨な不正義や暴力の驚異が存在する中で、貧しい人たちに福音を伝えること、弱者や財産を奪われた者たちを守ること、公正な社会に向けて平等な権利と奴隷状態や抑圧からの解放を進展させることを訴えた。しかし、この代償もまた大きなものだった。第三世界で、難民、排除された人々、放浪者たちの権利を守るために戦った20人以上ものイエズス会士が殉教しているのである。アルぺ総長自身がイタリアの極左テロ組織「赤い旅団」のブラックリストに載っていたといわれる。

あなたにとってキリストとは誰ですか ?

この社会に対する働きかけ、「他者のための人間であれ」というイエズス会学校卒業生たちへのメッセージ(1973年バレンシアにおけるイエズス会卒業生国際会議)、これらの一方でアルぺ神父が繰り返し強調してきたことは、霊的な生活と清貧だった。アルぺ神父はこのように述べるのである。

「聖イグナチオの霊躁は、抑制された人間を作り出すための形の決まった鋳型ではありません。それは、『人の生き方、いかなる不節制な愛着にも影響されることのないものに整えるために』祈りにより、瞑想により、イエス・キリストの生き方をじっくり味わう単純な方法なのです。イエズス会士にとって、イエス・キリストは最も大切な方です。霊躁は彼の生き方を、彼が自分自身を捧げた事業を理解するための、唯一可能な鍵なのです。(緒形隆之訳)

マザー・テレサと語るアルぺ神父 本書より

「友達や知り合いが一人もいない大都会で、自分がたった一人であることに気づくこと、持ち物や、人との関わりの中から生じる支え合う心や安心感、そんな生きていく上で必要なものを何も持たないこと、言葉によってもそうであるが、貧しいということを自分自身で表現できないこと、常に自分が劣った立場にいるということ、話すことを覚え始めたばかりの子供のように話しても軽蔑され相手にされないこと、自分がいつも貧しい人だと思われていること、憐みや敵意を抱かれていること、そのことに気づいて胸を痛めること、また、そのような目でみられているということ。奪い取られるという根本的な意味において、貧しさとはいったいどういうことなのかを空しく理論分析するよりも、これら全てのことの方が人を真理に導くのだ。(緒形隆之訳)」これは、アルぺ神父自身が、スペインからのイエズス会士追放をうけて一時滞在していたベルギーのマルネッフェで、山口の刑務所で、原爆に被災した広島などで実際に体験したことに基づいている。そして続けてこう述べている。

「貧しい者は、私利私欲と利潤追求で構築された社会では何ら権利を持たない。貧しい者は主張する声を持たない。列の最後尾にいるのである。貧しい者の状態を理解するためには、貧しさを経験する必要がある。その経験が無かったとしたら、抽象的な理論や立派な決意は、ほとんど役に立たない。我々のことが、ほとんど認められていない 非キリスト教国や無神論者の国おいて、我々はそのような社会の中では無駄で危険な要素として、あるいは、解散するよう選別されたものとして見なされていた。この様な環境できちっと生きてきた我々の兄弟達に関して、私がこれまで受けとってきた報告が、如何に深く感動させるものであるかを私はあなたがたに伝えざるを得ない。(緒形隆之訳)

ペドロ・アルぺ『キリストの横顔』
カトリシズムからみた立体的キリスト論
ドン・ボスコ社 2004年刊

アルぺ神父へのインタビューのなかで最も印象的な質問はこういうものだった。「あなたにとってキリストとは誰ですか ?」この質問に僕は虚を突かれた思いがした。それを自分に向けた時、その答えが探せなかったからである。自分がキリストという存在を対象化したことがないからだった。つまり、自分のキリストはいなかったのである。アルぺ神父はこう即答している。「全てです。」自分にとって全てと言えるようなものは何なのか ? 再び考えて見なければならなかった。

1981年世界中を飛び回っていた疲れを知らない総長は、イタリアのフィウミチーノ空港で手荷物を受けとろうとした時、動けなくなった。頸動脈の閉塞が脳卒中を引き起こしていたのだ。飛行機での長旅が原因だろう。2年後に総長を辞職し、長く重い闘病生活の末、1991年に帰天している。83歳だった。

 


アルぺ神父の写真の掲載については、長束修練院のアレックス神父の了承を得ましたが、不都合がありましたら当サイトの問い合わせフォームまでお知らせください。尚、本書は市販されていませんが長束の修練院には何冊か保管されているので、こちらにお問い合わせくださればと思います。http://www.gloriadei.jp/

 

参考図書

ホアン・カトレット『アルぺ神父とともに祈る』

クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』冊子

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』 全三巻
リッチとイエズス会だけでなく比較文化論の観点からも面白い。

ドナルド・キーン『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道


確かに人形が生きていると錯覚させるほどの芸がある。それは多くの人たちが体験してきたことだ。その人形に生命を吹き込んできたのは人形遣いたちである。彼らは、ある時代には河原者と同一視され賤民と呼ばれ、時には神事に奉仕する者たち、信仰を呼び覚ます者たちであった。それは、やがて文楽と呼ばれる素晴らしい芸として開花したのである。その歴史を追ってみる。


ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』能、文楽については簡潔だが充実した内容を誇っている。歌舞伎についての紹介は短い。

ドナルド・キーンは、『文楽』の冒頭で、人間は何千年もの間、世界の至るところで自分の像を何かの形で作ってきた。それが今では人間の本能の一部を成すのではないかと思われると述べ、現在知られる最も古い人形はエジプト時代のもので、人間が神々の真似をするのが冒涜であると考えることから宗教上の儀式で神々がすることを演じるのに人形が用いられたのではないかとしている。

日本でも、祓のための人形(ひとがた)や玩具の人形は別にしても、東北のオシラサマ、山梨の天津司舞(てんづしまい)の傀儡田楽、九州の古表・古要神社の神相撲を見れば神の依代としての人形が舞ったり、相撲をとったりするのが見て取れる。人形芝居が神道の行事の一部となっていったのは事実である。やがて、神々だけでなく人間も喜ばせる余興としての性格を持つようになる。日本に伝わったとされる操り人形がどのようなものであったかは、はっきりしない。

キーンは、このように述べる。「人形は生命がなくてもそれを人形遣いから借りて、人形遣いが望むとおりのものになることができる。それは神々の一人にも、吃りの愚かな人間にもなれて、ただ、それ自身にだけはなれないのは、人形には自分というものがないからであり、それ故にまた、人形は神聖な儀式にも、粗野な喜劇にも向いている。(吉田健一、松宮史郎 訳)」この指摘は、深い。

 


人形浄瑠璃は、およそ300年ほどの歴史を持つと言われる。今日では「文楽」とも呼ばれるけれど、古くは「操り」「操り芝居」と呼ばれ、人形浄瑠璃の呼び名が一般化するのは明治以降のことである。上演する座がいくつかあった中で、この明治の初めに「文楽座」だけが残っていた時期があって「文楽」の名で呼ばれるようにもなった。物語る太夫、伴奏する三味線弾き、演ずる人形遣いの三業からなる演劇である。


 

『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道――では、ドナルド・キーンの『文楽』を縦糸に他にいくつかの著作を横糸にして、人形浄瑠璃以前の人形操りの時代、そして人形浄瑠璃として展開した後世の時代をご紹介する。これは、いわば文楽への道行である。

人形操りの来た道

もともと「人形操り」が、どこから来たかは諸説ある。キーワードのクグツという言葉が人形芝居を表わす語として八世紀の経文の注釈にあるのが初見のようだ。傀儡は人形を指し、人形遣いを指す言葉は、傀儡子、あるいは傀儡師である。中国語の傀儡子(かいらいし)、朝鮮語の傀儡子人形(コクトゥカシ)といった言葉の他、ロマ語のクキ、あるいはククリ、トルコ語のククラ、後期ギリシア語のクークラなどあり、人形芝居が近東から中央アジアを経て中国、朝鮮から日本にきたというが、確証はない。廣瀬久也は、唐と新羅の連合軍を指揮した唐の李勣(りせき/594-669)が、高句麗を滅ぼした時、戦利品として傀儡子とからくり人形を唐に持ち帰ったという元代の『文献通考』に注目し、高句麗から奈良時代に傀儡子と人形が伝わったのではないかとしている(『人形浄瑠璃の歴史』)。ちなみに後述する大江匡房(おおえ まさふさ)のいう傀儡子に近い存在として朝鮮の楊水夫(ヤンスヨーク)があり、その記述が十世紀に遡って存在するとキーンの指摘にある。

日本で最も古いとされる人形操りは、平安末から鎌倉時代にかけて西宮で発祥したと言われる。一説には西宮の八幡戎三郎(はちまんえびすさぶろう)信仰と宇佐八幡やその傘下にある古表・古要神社の八幡信仰とが関わって操り人形の発展を催したのではないかと言う。福岡の古表神社、大分の古要神社で遣われる現存する人形は、鎌倉時代の作とされているが、より古い時代の形式を残しているのかもしれない。片足を握り、他の片足と両手を紐でひく形式になっている。

それらの神社で人形によって行われる細男舞(さいのうまい/くわしおのまい)は、九州の海人族(あまぞく)安曇氏の祖神・安曇磯良(あづみのいそら)神話に発する。大嘗祭などの宮廷儀式の中で中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上において九州豪族の海人族たちが天皇に対する服属の誓いや寿祝として細男舞を舞ったことは想像に難くない。海人族の中央進出のよすがのように福岡の志賀島(しかのしま/志賀海)神社の磯良鞨鼓(かっこ/ばちで打つ鼓)の舞、春日大社の若宮おん祭などにその名残がみられる。それは、人による舞である。

西宮神社本殿 蛭子神(えびす大神)を祀る。境内には百太夫神の祀られる末社がある。西宮市

一方、西宮神社は、三年たっても足が立たなかったために海に流された蛭子神(ひるこのかみ)が祀られている。蛭子を戎(えびすと読む説もあれば、摂津に着いて戎三郎として祀られたという説、えびすは渡来の海洋神を指すという説もある。この神社の約100メートル北にあった山上村に平安末期から既に石の道祖神である百太夫(ひゃくだゆう)が存在したといわれる。この山上村を別名、産所村といった。ここの女性たちが助産もしていたからである。浜松歌国(1776-1827)の『摂陽奇観』によれば、江戸の元禄時代には民家が三~四十軒あったという。江戸末期の天保に、この村が廃れて百太夫社は西宮神社の境内に移された。この山上村の辺りは、室町期に人形遣いたる傀儡子として全国をまわり、恵比須信仰を布教した神人(じにん/神社の下働き)たちの住まいとなる地域である。

「南は住吉、西は広田これをもて徴嬖(ちょうへい/客に寵愛されること)を祈る処と為す。殊に百太夫に事(つか)ふ。道祖神(さえのかみ)の一名なり。人別にこれを剜(え)れば数は百千に及ぶ。能く人の心を蕩(とろか)す。(大江匡房『遊女記』)」

広田神社 西宮市

広田には天照大神の荒御霊(あらみたま)を祀る広田神社があり、そのすぐ近くにある西宮神社は、もともとこの神社の摂社だった。遊女たちが百太夫の像を作って奉納したが、その数がに達したと言う。平安末期の大江匡房(おおえ まさふさ/1041-1111)は、道祖神・百太夫が遊女の信仰を集めていたと書いたのである。彼は、『傀儡子記/くぐつき』に人形遣いである傀儡子が、蒙古の遊牧民のように家畜とともに移動する民であり、男は狩猟をし、田楽や雑技のような曲芸をし、女は化粧し、歌舞をよくし、時には春をひさぐロマたちであったと記している。

「‥‥或は木人を舞はせて桃梗(とうこう)を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒(えん)の戯に近し『傀儡子記』」木偶を舞わせ、魔よけの人形に相撲を取らせ、手品や幻術のごとく生きた人のように見せたというのである。美濃、三河、近江の集団が勢力を持ち、播州、但馬がこれに次いだ。西海は振るわなかった。高名な傀儡女(くぐつめ)は歌唱の達人で、今様、催馬楽、田歌、神歌、風俗などの多くの歌を歌ったという。傀儡女の歌は天下一だと匡房は書いている。

離宮八幡宮 京都大山崎

海人族の信仰する安曇磯良神、秦氏や辛島氏と縁の深い八幡神は、渡来系の神であり、瀬戸内海を遡上して中央に接近するにつれ、操り人形も伝搬していったと見ることもできるのではないかとは廣瀬説である(『人形浄瑠璃の歴史』)。清和天皇が即位した九世紀半ばには、春日大社で大山崎の離宮八幡宮から頭と手のついた人形を迎えたことが藤原仲倫(ふじわらのなかとも/江戸中期)の『春日大宮若宮御祭礼図』下巻の記述に見える。離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社である。この地は荏胡麻(えごま)油発祥の地、日本初の製油地として名高い。おそらく、このような神社に関係した傀儡師たちもいたのかもしれない。

日本の十一世紀が文学の面で多くの傑作を残したにもかかわらず傀儡師たちの人形芝居は、その頃の文献には姿を現わさない。クグツという名は、文献に出てきてもその中の男はどこかに定住はしたが納税の義務が免除されたとか、昔のように猟をすることもあるとか、人夫になって人に雇われたとか、女は純然たる娼婦で街道筋の娼家に住むとかいった内容になっている。やがてクグツは娼婦だけを意味する言葉となる。この頃、人形芝居が続けられていたかどうかは定かではないとドナルド・キーンは、いささか当惑ぎみに述べている。

古い形式の人形操りを伝える古表神社の神相撲の動画を掲載しておきます。4:04min.

 


人形操りが再び文献に登場するのは室町期になってからである。それは、手遣いの人形ではなく、糸操り、つまりマリオネットのような人形だった。一休が糸で操る傀儡を題材に深遠な詩を詠っている。これに加えて中国からの精巧な機械仕掛けの人形たちが、日本の職人たちに刺激を与えた。やがて西宮神社を拠点とした戎舁(えびすかき)たちが手操りの人形を携えて全国に恵比須舞いや大黒舞いを浸透させていった。


 

人形操りの揺籃期 中世から近世へ

マリオネットのように糸で操る人形が日本に入ったのは十四世紀頃との指摘がある。五山僧・令淬(れいさい/?-1365)に『傀儡』という詩があるという。十五世紀に将軍足利義満の中国趣味によって多くの操り人形が請来され、日本の職人を刺激して糸や水力で動く精巧な人形も現われる。十六世紀には、1.8メートル四方の城の中で二千の兵隊人形がせめぎあうといったものまで登場しているし、イエズス会の宣教師たちが「出エジプト記」などを糸操りの人形で見せたことも記録に残されていた。しかし、こういった新たな刺激は長続きせず、後世、日本の操り人形に与えた影響としては、目、口、手などが人形内部から糸で操作されるようになることだった。

抽牽(ちゅうけん)する者(は)、即ち主人公
地水合成して、火風に随う。
一曲の勾欄(こうらん)、曲終って後、
本然の大地、忽(たちま)ち空(くう)と為る。(一休宗純『傀儡/かいらい』)

一休は、傀儡(くぐつ)の芝居を見てこんな詩を詠っている。人形の糸を引く者が主人公であり、地水からなる粗雑なものが火風のような精妙なものに従うのに似ている。人形の立ち位置となる手すりがいわば、大地であったが、曲が終われば忽ち空虚となるといった意味だろうか。それで、水上勉はこう述べた。

「案外、この世は、すべて、一曲の人形芝居かもしれぬ。うらで糸をひき、操る者がいて、人も風も、火もうごく。操るものは主人公である。その主人公をとっつかまえねばならぬ。いや、その主人公こそ、求めつづける正伝の正体なのだ。狂雲もまた狂風に舞っている」(『一休文芸私抄』)

広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史』 古代から現代までの人形操りの歴史を扱っている。いささか荒っぽいが古代の人形操りの紹介は興味深い。

十四世紀は、南北朝の時代であり、兵火によって寺社の多くが廃れていった。西宮神社も例外でなく、神人たちは門前町で酒造りに流れた。酒造りの技量を持たない傀儡師たちは途方にくれ、往来の自由になった淡路島に移って行く者もあった。廣瀬久也によれば、『道薫坊(どうくんぼう)伝記』に記されている百太夫と名乗る傀儡師が淡路の広田にやって来たのは、このような経緯ではなかったかとしている。ただ、どの時代かは、はっきりしない。西隣の三原村へ移り、一子・重太夫を儲けた。百太夫没後、その子は源之丞と称して百姓に百太夫の技を教えたという。

この源之丞の上村家には『道薫坊伝記』が伝わっていて、このような話になっている。西宮で戎三郎神を祀っていた道薫坊の死後、祀る者がいなくなると海は荒れ、漁は不作となり、多くの災いが人々に降りかかるようになる。百太夫が、このことを帝に伝えると、道薫坊の人形を作るよう勅命を受ける。そっくりな人形を仕上げると戎神に奉納した。すると、風雨は治まり豊漁が続いた。百太夫は人形操りをしながら諸国を回り、やがて淡路に落ち着き、淡路人形座の元祖となったのである。

16世紀後半、戦国の乱世も猖獗を極めようとする頃、西宮神社の神人たちが人形を携えて恵比須信仰を広めるために戎舁(えびすかき)として全国を廻りはじめる。経典を入れる箱を首から吊るしてそれを台として木偶(でこ)を操り芸を演じた。戎舁は恵比須神をかたどった人形を舞わす門付け芸を行う者を指すが、1555年には四人の戎舁が宮中で能を人形芝居で演じて人気を得た。正親町(おおぎまち)天皇の御代である。その後、度々宮中に召されるようになり、人形芝居を叡覧に供するようになった。人形芝居が江戸時代に入って人形浄瑠璃として本格化する前の揺籃期は、この16世紀、つまり室町後期・安土桃山時代にかけてである催馬楽今様白拍子、田楽、猿楽、小歌などもそうだけれど民間の芸能をこのように宮中が吸収し、ソフィスティケートされる契機を作っていった役割は日本文化にとって極めて重要だったと言える。

 

西宮神社の百太夫神社祭における恵比須舞いの様子を動画で紹介しています。戎舁の芸を垣間見ることができます。阿波の人形遣いの人のようですが、新春を言祝ぐにふさわしいおめでたい芸です。前座の後、2:06くらいから始まります。

 


三味線の原型は十六世紀に琉球から伝わった。十七世紀初頭には、京都で戎舁が浄瑠璃の物に合わせて芝居をやったことで、非常な成功を得た。それが、人形操りと浄瑠璃とのカップリングの最初ではないかと言われる。こうして、人形、三味線、浄瑠璃の三業が揃う環境が整い始める。最初、京都で盛んになり、江戸大阪と盛んになっていった。


 

人形浄瑠璃の黄金時代

1614年、後陽成院は、『阿弥陀胸割』を戎舁に演じさせている。大阪冬の陣の始まる年である。それに、『浄瑠璃物語』を人形芝居ですることを発案したともいわれている。その御子の後水尾天皇も人形芝居を庇護した。こうした経緯もあって人形芝居は、まず京都から発展し始める。ついで江戸で人気を得た。坂田金時の子、金平(きんぴら)を扱った勇壮な金平浄瑠璃が当たった。この頃には、江戸随一といわれた小平太という人形遣いが現れている。林羅山(1583-1657)は、観劇記を書いて人形が生きているとしか思えなかったという感想を残した。しかし、1657年、明暦の大火によって江戸の大半が灰になるという大惨事が起こる。主な太夫たちが上方に移ったことから大阪と人形浄瑠璃が結びつくのである。これ以後、江戸では歌舞伎が流行し始める。

二世瀬川如皐『牟芸古雅志』より 曽根崎心中
中央右端から左向きに三味線弾き、太夫竹本筑後掾、竹本頼母ツレ語る、人形遣いは辰松八郎兵衛と書かれている。
倉田喜弘『文楽の歴史』に掲載

1648年、竹本義太夫(1651-1741)が大阪道頓堀に竹本座を創設した。徳川家光の時代である。その最初の出し物は近松門左衛門の『世継曽我』だった。本格的な人形浄瑠璃のはじまりである。ここからは文楽と呼ばせていただきたい。1703年には『曽根崎心中』が決定的な成功を収め、竹本座の地位をゆるぎないものにした。二世瀬川如皐(せがわじょこう/1775-1833)の随筆『牟芸古雅志(むぎこがし)』に当時の様子を思い起こさせる図が掲載されている。その頃は、人形は、まだ突込み式の一人遣いで、太夫は既に舞台の表に出ていたことが分かる。この頃、竹本座から独立した竹本采女(うねめ)は、豊竹若太夫を名乗って豊竹座を立ち上げた。竹・豊時代が始まったのである。

1690年代には人形の手が動かせるようになる。1727年には目や口を開けたり閉じたり出来るようになり、指を動かすことも可能になる。1733年には指の第一関節だけが別に操作できるようになった。1734年には三人の人形遣いが一体の人形を操る方法が生まれ、文楽以外では見ることのできない微妙な動きを表現できる端緒となった。人形の頭・顔と胴、右手を動かす主(おも)遣い、左手を動かす左手遣い、足を動かす足遣いである。三人もの人形遣いが舞台に登場することについて、ドナルド・キーンは日本の聴衆でなければ受け入れ難いかもしれない負担を想像力に課することになったと述べている。近松が亡くなった1724年から1780年までが文楽の全盛だった。歌舞伎の人気もそれには及ばなかったのである。

三人がかりの人形 今の人形浄瑠璃で使われるサイズよりも小さい。倉田喜弘『文楽の歴史』より

そのような工夫がなされ今日のような文楽が見られるようになったわけだが、良質な浄瑠璃作者がいなくなり、火災による芝居小屋の焼失や座本の度重なる死などによって豊竹、竹本両座ともに十八世紀の終わりには道頓堀から姿を消した。とりわけ人形遣いは、零落の憂き目をみるようになり、文楽は地方へ散って行った。その後、文楽を復興させたのは淡路の人形芝居の太夫・植村文楽軒(1751-1810)であった。1805年に大阪新地で人形興行を始めている。淡路は江戸時代に入っても蜂須賀家の歴代藩主の庇護もあって多くの座が存在した。植村の姓は淡路人形座の座本である上村源之丞の姓に由来するという説もある。六年後、二世の時に、大阪稲荷神社(現在の難波神社)の境内で文楽軒一座の名で興業をはじめた。1872年(明治5年)に文楽座を名乗るに及んで人形浄瑠璃の総称となったのである。

人形操りの修行は何処に向うのか

キーンは、太夫、三味線弾き、人形遣いは一体であるが、太夫は常に文楽界の知識階級と見做されていたという。彼らは浄瑠璃の研究を常にしていなければならないからである。三味線弾きは、キーンに言わせればオペラの指揮者に似ていて、太夫も三味線弾きの指示には従わざるを得ず、その弾き方に力が入っていなければ人形遣いも満足に人形が操れないと言われる。しかし、人形遣いとその技術は、長い間冷遇されてきたという。その理由の一つに太夫や三味線弾きに関する文献は残ってはいても人形遣いには、そういったものがないことを挙げている。それは体で覚えるものだからだ。弟子たちは、ただ見て覚えろ言われるだけなのである。何故、そうなったのかは、巻末の桐竹勘十郎氏の人形操りの解説が掲載された動画を見てもらえば、お分かりいただけるのではないかと思う。

桐竹勘十郎『一日に一字学べば…』
「一日に一字学べば…」は『菅原伝授手習鑑』の「寺入りの段」にある台詞。

太夫は、その声になるのに20年かかるといわれている。人形遣いの修行はもっと長くて、足遣いの修行に10年、左手遣いに15年、それからようやく主遣いになれる。好運に恵まれ、才があれば早くから左手遣い、主遣いになれるが、運が悪ければ足遣いで終わる人形遣いもいるという。気の遠くなるような修行が待っているのだ。どのような修行なのか。キーンは、人形遣いにはかなり冷たいコメントがあるが、おそらく彼らの修行の内容について多くは知らなかったのではないかと思える。言葉で伝えられないことを知るには、想像を可能にしうるような何らかの体験が必要だろう。「間合い」とか「あうんの呼吸」といっても私たち日本人にも理解できない言葉になりつつある。主(おも)遣いのむずかしさの例を一つ挙げておこう。

文楽には人形の手の先にその視線を合わせるという決まりがある。主遣いは、基本的に人形を後ろから見ているのでその目線の方向は把握しずらい。憶測で手と目線を合わせなければならない。合わなければ、首を動かす主遣いの左手をなおすか、人形の右手の位置をなおすかして修正しなければならないのである。それを鏡の前で訓練する。人形の左手は、左手遣いが扱うので今は考えない。ゆったりした場面では修正もきくが、早い場面で目線と手をピタッと合わせるのは、かなり難しい。それで、三世桐竹紋十郎さんは、その勘を鍛えるために風呂で左手で直線状にお湯の出るシャワーを遠く持ち、目をつむって、右手の位置をあちこち変えても指先にお湯が一発で当たるように訓練したという(『一日に一字学べば…』)。このようなことを言葉で伝えようとしても弟子たちにとっては全然助けにはならない。

このような訓練によって人形は生きているかのように振る舞えるようになるのである。人形遣いの腕が良ければ良いほど人形が自力で動いているという印象を与える。「人形遣いは人形に宿る力を信じて、人形への畏れをもって日々舞台に立つ」と勘十郎さんはいう。人形を操るとは言わない。「人形が存分に動けるように技を磨き、人形を人形足らしめるのが、私たちの仕事」だというのである。人形と人形遣いは一体となっていく。しかし、‥‥ もしかして‥‥ 完全に一体になりきることが出来るのかもしれないのだ。

人形遣いは自分がしていることを舞台で言葉に表現できないし、観衆からは忘れられることが望ましい。ある意味、無名な存在として考えられていたのかもしれない。それゆえにこそ人形を動かす主遣いが素顔で舞台に登場することが求められた。そのようにバランスがとられたと見ることもできるのではないだろうか。自分というものがない人形に生命を吹き込むのは、人形遣いである。その者に無名が求められるとしたら、人形とは何であり、人形遣いとは何者であるのか。その境を見極めることは難しい。

 

 

三世桐竹勘十郎さんによる非常に興味深い人形遣いの解説が掲載されている動画です。三人遣いがどのように連携するかが語られています。日本記者クラブ主催。12:02~37:08あたりがその場面です。

 

 

参考図書

倉田喜弘『文楽の歴史』
江戸から平成までの文楽の歴史をまとめている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ニュース

2020年 5月『 松澤 宥・植田信隆 展』のご案内

2020 5/19-5/31『松澤 宥・植田 信隆 展』のご案内

 

2020年 5/19(火)- 5/31(日)展覧会期間が延長されました。
ギャラリーG/ Hiroshima
http://gallery-g.jp/  火曜ー土曜 11:00~20:00  月曜 休廊  最終日 11:00~16:30

5月24日 (日) 出原均、アラン・ロンギ―ノさんのシンポジウムについて
アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。19:00までは展覧会をご覧いただけます。

 

概念芸術の巨匠・松澤宥(まつざわ  ゆたか/1922-209)と植田信隆による展覧会です。2004年に制作した『消滅するヒロシマに捧げる九つの詩』のリメイク作品、そして以下に掲載しています松澤宥のオリジナル作品を展示します。この展覧会に際しては、ご家族と長沼宏昌氏の全面的な協力を得ました。ここに深く感謝いたします。

松澤 宥  出品作品

●草稿/『死のテーマ ヴェネチア・ビエンナーレに』『タントラを巡ってさまよう』 『A Black Hole』『ゾンスベーク国際展へのコメント』 他

●九字九行作品/『超人類の果て』『ドリコソマ』『エニグマ22』 他

●パフォーマンス草稿/『諏訪湖に白紙絵画を見せる』『私の死』 他

●チラシ作品/『ああニルああ荒野におけるプサイの秘具体入水式』『プサイの死体遺体』『プサイ函』 『人類よ消滅しよう』『ドンデン返し計画』他

●パフォーマンス写真(長沼宏昌 撮影)

 

『関連シンポジウム』が以下のように予定されています。

5月19日 (火) 19:00~20:00

無観客でのビデオ収録となりました。後日配信の予定です。

柿木 伸之(かきぎ  のぶゆき/広島市立大学国際学部教授 哲学、美学)、植田 信隆(作家)

ベンヤミン研究者として知られる広島市立大学の柿木伸之先生をお招きします。前半は私が松澤さんの芸術についておおまかに解説し、後半は、柿木先生に松澤芸術を起点として戦争と芸術をテーマにお話ししていただきます。

5月24日 (日) 15:00~16:00

出原均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)
アラン・ロンギーノ(インディペンデント・キュレーター)

アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。

2004年に広島市現代美術館で『松澤宥キュレーション展』を企画された当時の学芸員であられた出原 均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)さんに松澤芸術について解説していただきます。

どうぞ、皆さまマスクをお持ちになってご来場ください。

 

2020年3月27日

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日
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