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松山俊太郎 part1 『蓮の宇宙』人生は虚しいですが、もとはタダですから。

 

松山俊太郎『インドのエロス』1992年

松山俊太郎さんの著作に耽溺しています。初めて読んだのは『インドのエロス』だった。インドの愛の詩について書かれているのです。そこではまず翻訳とはある作品を通じて何かを感じたところを、かなり不純に、そのごく一部をリプリゼントするほかはないと前置きがされている。優れた詩は絶対に翻訳できない。せいぜい原詩を置いて、辞書で引いても味わえない時に参考程度に読むものだと予防線が張られている。翻訳とは、どういう場合でもコメンタリー、つまり注釈であるとしています。

翻訳には上田敏をはじめ名手と呼ばれる人もいるけれど、言語感覚は天性のものだと思うので贅沢は言いません。堀越孝一さんがフランソワ・ヴィヨンの詩につけた注釈のような充実した注を付けていただくか、関口裕昭さんのパウル・ツェラン、そして、古川隆夫さんがエミリー・ディキンスンに関して書かれた解説のようなものを付けてくださればと切に願っています。それがあると詩の世界は、圧倒的な広がりを持つのです。

 

「さかしま」の交わりのさなか
臍の蓮華に坐るブラフマーをみとめたラクシュミーは
欲情の漲るゆえに
ハリの右目を たちまち 蔽ってしまう。
(ヴァッジャーラッガ 611、サッタサイー 816)

ちょっと見、これがエロティシズム溢れる詩とは思えない。松山さんは、インドではエロテックなものに対する抑制がないという。一方で、インド人は理屈が大好きで、過剰な抒情性もありはするが論理が優先するともいう。要するに理屈コネが好きなのです。どれくらい好きかというと、この詩を解説してもらえば分かる。

この詩にはハリラクシュミーブラフマーという三人の神様が登場します。ハリはクリシュナの別名でヴィシュヌ神の権化 (アヴァターラ) ということになっている。つまり、ハリ=ヴィシュヌということで、ヴィシュヌは宇宙神・太陽神とも考えられている。ラクシュミーは仏教でいう吉祥天のことで、富と繁栄と美の神で、蓮華の神様でもある。インドでは大地=蓮華という考え方があるらしい。もともと大地母神だったから旦那はいないはずですが、やがて優れた男神の配偶神となった。

ちなみに、この大地母神の系統には恋人や若い燕、息子がいて北はドナウ河から南はメソポタミアまでの広い地域に知られている。アナトリアのキュベレー女神にはアッティスが、シュメールのイナンナ神には息子とも夫ともされるタンムズがいるという分けです。

暗黒の大洋にいる難陀竜王 (アナンタ) の上のヴィシュヌとラクシュミー

この詩はハリ、つまりヴィシュヌとラクシュミーの睦事が詠われています。ラクシュミーは、まだ微睡んでいる旦那のヴィシュヌに「ねえ、あなたったら‥‥しましょう」という。旦那は寝ぼけている。それで、やおら旦那に覆いかぶさった。つまり、これが「さかしま」の意味です。これ以上解説するのは野暮なので止めましょうね。ですが、臍の蓮華はいささか不可解ではある。

臍はこの間、エリアーデの『宗教学概論』をご紹介した時に書いておきましたが、世界軸、世界の中心という意味がある。ヴィシュヌは、そもそも宇宙そのものだから、この神が起きている時には宇宙は展開していて、眠ってしまうと全てはこの神の中にたたみ込まれてしまう。ヒンドゥー教の神話では宇宙が創られる時は蓮の花の上ということになっていた。そして、伸びた蓮の花から顔の四つあるブラフマーが、まず生まれて、大地や大空を創っていく。

つまり、コトの最中にいきなり蓮華が出現してブラフマーが顔を出したのですから、ラクシュミ―は驚くやら恥ずかしいやらこの上ない。しかし、さすがに女神です。咄嗟にヴィシュヌの右目を塞いでしまった。ヴイシュヌも人格神であり、体は宇宙そのものであった。右目が太陽で、左目が月なのです。どこかの国の神話とよく似ていますよね。ヴイシュヌは熱烈な嫁さんの愛で目が覚めた。それで、宇宙に太陽が出て、蓮の花が咲いてブラフマーが現れる。右目を閉じてしまえば蓮も萎み、ブラフマーも引っ込んでしまうという分けです。つまり、このたった四行の情事の詩には、間テクスト的に、これだけの話が繋がっていると言うことなのです。なるほどですね。

 

蓮の研究の始まり


 

『松山俊太郎 蓮の宇宙』安藤礼二 編  細江英公 写真

松山さんという人は随分変わったひとだった。こんな人は大好きだ。蓮のことばかり研究していたのに、インタヴュー『松山俊太郎 蓮の宇宙』ではこう答えている。蓮ね。嫌いじゃないけど、それほど好きでもない。やらなくてもいいことしかやらないと若いころ決めた。興味を持ったのは昭和34年頃 (29歳前後) という。

大学の頃は「時間」について研究しようと思っていた。時間は生きてさえいれば存在しているし、牢屋に入っても研究できる。それで将来研究しようと思っていたが本を集める時間がないことに気づいた。たまたまインド詩をやることになったので蓮なら二・三十年やれば何とかなると思ったという。ほんとかなあ ?

梵文学なら成績が悪くても卒業できるし、なんせ志望者が少なかった。しかし、そこで、辻直四郎 (なおしろう) という厳密な自然科学的な方法論を持つヴェーダ学の顕学に出会った。これが良かった。芸術のような学問を見せつけられた。

松山家は金沢の骨董商を営む家系で、父は東京で産婦人科・小児科の医院を開き、父親が院長、母が副院長だった。1930年に生まれる。1943年、軍国主義的な規律の厳しい東京府立第四中学に入学。1946年、16歳の時に進駐軍に向けて飛ばす風船爆弾を作ろうとして、部屋で手製の手榴弾を分解していた時、爆発。左手の手首から先と右手の親指を失い。人差し指と中指が変形した。飛んできたのは母親で平手打ちをくらわされ、天井に張り付いていた肉片は犬に食わせたと言う。かなりあぶない青少年だった。

そう言えば、ウィーンで会ったアントン・レームデンという先生のことを思い出した。ウィーン幻想派の画家だったが穏やかな立派なひとだった。彼も片方の手首から先がなく、利き手は人差し指と小指しかなかったと思うけれど、恐ろしく緻密な絵を描けるひとだった。彼の場合は、戦争で失ったのではないかと推測している。

慶応を受験したが、面接官だった西脇順三郎と1時間も話した後に東大にいくことを勧められたという。東大文学部に入学。同級に阿部良雄、種村季弘、吉田喜重らがいた。1955年、25歳の時に紀伊国屋書店の洋書注文カウンターで澁澤龍彦と偶々同時にサドを注文して名乗り合ったと言う。これは大きな出会いであった。その後は、外国人に日本語や日本文化を教えたり、色々な大学で非常勤講師をしながら研究を重ねた。

編者の安藤さんによると、バーに行く道すがら「ウォーン」と遠吼えたり、「バウ、ワン」と吼えたりしていたという。酔っぱらうと、道すがら出会う女の子に「ハウ、マッチ」と声をかけていた美大の先生なら知っているけれど、そんなことはいいか。松山さんは2014年に亡くなっている。

 

インドの回帰的終末と神の時間


 

ミルチャ・エリアーデ『永遠回帰の神話』

インドの時間について、これほど繰り返し述べている人も珍しいのではないかと思う。具体的な数と期間の例は、先ほどの『松山俊太郎 蓮の宇宙』に詳しい。インドにはヘシオドスの四 (五) 時代説とプラトンの大年を組み合わせたような説がある。ヒンドゥー教のアタルヴァ・ヴェーダからマハーバラ―タやマヌ法典へと繋がっていくユガ・カルパ説である。これは、バビロニアあたりの「万有回帰説」がもとになっているらしい。これについては、エリアーデの『永遠回帰の神話』をご覧になると良い。天文学が発展した地域では、時代感覚も天文学的になるのらしい。

セネカの伝えるバビロニアの神官ベロッソスは『バビロニア誌』を著した前3世紀の人だ。43万2千年周期(120×60×60) を説いているが、楔形文字の60はもと10であったことから元々1万2千年周期 (120×10×10) と考えられるし、ペルシアのゼルヴァン教も1万2千年周期を採用していたと言う。インドもイランもベロッソスよりも早い段階で、この「時の輪」に影響されたのだろう。これに遅れて、やはりバビロニアから四つの時代を持つ「頽落的時代説」が輸入され、輪の円周は4分割された。

インドの周期の最小単位は「年期」yuga である。印欧祖語で軛を意味する。最初のクリタ・ユガ (黄金時代) は4000年続き、その前に曙の400年とその後に黄昏の400年が加わる。そして、3000年のトレター・ユガ (白銀時代)+曙300年・黄昏300年、2000年のドヴァ―パラ・ユガ (双部) +曙200年・黄昏200年、1000年のカリ・ユガ (濁悪時代) +曙100年・黄昏100年となっている。時代は段々悪くなっていくのですが、今は最悪のカリ・ユガの時代です。かくして、一つのマハー・ユガは12000年続き、インド・アーリア的な構造が闡明にされる。四つのユガは、それに応じた維持原理としてのダルマ (法) があり、それぞれ四本から一本足で立つ「牝牛」に例えられるといいます。

ブラフマーとサラスヴァティ―(弁財天)、ヴィシュヌとラクシュミー、シヴァとパールバーティー

一つのマハー・ユガが「神の年」の1年であり、それが360年続く、それが宇宙の一周期432万年となり、これが1000回続いて1カルパ (劫) となる。2カルパはブラフマー (梵天) の1昼夜となっていて、この神の寿命は100歳あるいは108歳とされている。100年とすると311兆400億年となる。僕は、さすがに松山さんのようにブラフマーの寿命を計算する気にはなれない。このブラフマーの昼には14人のマヌ (ノアのような存在) が現れる。ともあれ、ブラフマー神も永生ではないのである。しかし、ヴィシュヌの寿命は無限となっている。

神の年の1年= 1マハー・ユガ                        1万2千年
宇宙の一周期­=360年 1万2千年×360                 432万年
1カルパ (劫) = 宇宙の一周期×1000回             43億2千万年
ブラフマー神の一昼夜 = 2カルパ               86億4千万年
ブラフマー神の寿命 = 100歳 86億4千万年×360日×100  311兆400億年

ユガの終りの火も、その大規模なカルパの終りの火も万有破壊し、大蛇を臥床とする唯一の実在のヴィシュヌの体内に帰滅し、この最高神の「夢」の中で秩序を回復し、再創造を待つことになっている。それをかみさんのラクシュミーが「ねえ、あなたったら‥‥」と起こしてしまったのが冒頭の詩という分けだ。現在はヴィシュヌが猪に化身して大地女神を悪魔から救出した神話にちなみ「猪の劫」と呼ばれていて、ブラフマーの51年目の最初の一日であり、7人目の人祖マヌであるヴァイヴァスヴァタの在世期の「7回目の大洪水」を経た「正午直前」、457番目のカリ・ユガにあたり、この暗黒時代は紀元前310年2月18日の金曜日に始まったと言う。しかし、ここまで追求する彼は何者なのだろうか。

 

ユガとアヴァターラ


 

アヴァターラという言葉がありますよね。権化とか訳されるけれど、神の天界からの降臨あるいは地上への出現、とりわけヴィシュヌ神の十種の化身の顕現を指す。その他に予期せぬ者の出現、神のような人物という意味もある。元もと降下するという動詞から作られています。

最古の古典『リグ・ヴェーダ』では大きな地位が与えられなかったヴィシュヌだけれど、叙事詩『マハーバーラタ』ではブラフマー、シヴァと並ぶ三大神となった。やがてシヴァとヴィシュヌが最高神となるが、シヴァは破壊の神であり、そのアヴァターラは人気がなく、権化はヴィシュヌのほぼ独占となった。叙事詩の中でラーマやクリシュナとして活躍するから、その理由も分かる。これから、それぞれのユガでのヴィシュヌの権化が登場する神話をご紹介しましょう。

クリタ・ユガ(黄金時代)

①魚 小さな魚となって旧約聖書のノアにあたる人祖7代目のマヌ・ヴァイヴァスヴァタに大洪水の到来と救済を告げる。巨大魚となったヴィシュヌは仙人と動植物を載せた船を引き高い丘に逃れさせる。また、ブラフマーからヴェーダ聖典を盗んだ悪魔ハヤグリーヴァを退治し、ヴェーダをマヌに与え、人類の新たな指導原理を教えた。

②亀 陸地を背中で支える亀、なんだか蓬莱山を支える亀みたいだ。神族と魔族がマンダラ山に巨蛇ヴァースキを絡ませて綱引きした。この時、亀となって海中でマンダラ山を支えて、その攪拌を成功させた。これによって「甘露」とその杯を持つ「神医ダンヴァンタリ」、「幸運の女神ラクシュミー」、「酒神スラ―/ヴァ―ルニー」、「月 (チャンドラ) または神酒ソーマ」、「仙女ランバー/アプサラス水精群」、「神馬ウッチャイヒシュラヴァス」、「宝玉カウストゥバ」、「天木パーリジャータ」、「如意牛スラビ」、「霊象アイラーヴァタ」、「螺貝パーンチャジャニヤ」、「霊弓シャールンガ」、「猛毒ハーラーハラ」という14の宝貴が出現した。

ヴィシュヌのアヴァターラであるヴァラーハ 
8‐9世紀 クリーブランド美術館

③野猪 (ヴァラーハ) 「ヴァラーハ・カルパ/野猪の宇宙周期」と呼ばれる劫のはじめ、海底に沈んでいた大地をヴィシュヌが野猪となって水に潜り、悪魔のヒラニヤークシャと千年も戦って、捕えられていた大地女神を救い出した。大地を浮上させると平坦な大地を山で飾り七大陸に分ける

その後、ハリ(悲哀の除去者)という別名で四つの顔を持つブラフマーの姿となって、その「激質」を展開することによって生類を創造した。

④人獅子 ブラフマーの恩寵により昼も夜も、神・人・動物によっても、それが住む宮殿の外でも内でも殺害されないという保証を得た悪魔ヒラニヤカシプは、三界を支配し、神々の供犠を横取りしていた。ヴィシュヌは、時あたかも昼でも夜でもない黄昏に、人でもなく動物でもない人獅子となって宮殿の内でも外でもない柱の中から現れて、悪魔を爪で裂き殺した。

 

トレーター・ユガ(白銀時代)

ヴィシュヌのアヴァターラとしてのヴァーマナ (矮人) とバリ王(中央)

⑤矮人 (ヴァーマナ)  アスラ王のバリは、功徳を積んで三界を支配していた。しかし、住処と供犠を失った神々はヴイシュヌに救いを求めた。ヴァーマナとなってバリを訪れ、三歩の範囲だけ土地を譲ってもらえないかと頼んだ。人の良い王は、その願いを聞き入れた。ヴィシュヌは実相を現して巨大になると第一歩で全地上をまたぎ、二歩目で全天を覆い、三歩めはもう空間が無かったのでバリの頭の上に載せて彼を地下世界にめり込ませた。しかし、憐憫から地下世界をバリたち魔族に支配させた。この話は、バリに同情が集まって人気がないらしい。

⑥パラシュ・ラーマ (斧を持つラーマ)  シヴァ神から、武器の扱い方を教わり、斧を授かったので「斧のラーマ」と呼ばれる。ブリグ仙の後裔ジャマダグニの第五子で、父親の命で母を殺し、蘇生させて妻とするも罪を咎められず長寿と不敗を得たという。バラモンである父を殺したクシャトリアの王カールタヴィーリヤとその息子たちの仇をうつためにその国に21回も斧を振るい、彼らを平らげるとその領土をバラモン族に献じた。

⑦ラーマ  叙事詩『ラーマーヤナの主人公クシャトリアのダシャラタ王の子ラーマチャンドラーとして生まれ、魔王ラーヴァナに奪われた妻シータ―をランカー(セイロン)島から奪い返す。

 

ドヴァ―パラ・ユガ (双部)

⑧クリシュナ(黒いもの)  ヴァスデーヴァとデーヴァキーの第八王子。母親デーヴァキーの弟カンサは姉の8人の子供のうちの誰かに殺されると予言されたため、姉と義理の兄を幽閉し、6人の子供を次々と殺した。7番目の子バララーマとクリシュナはヴィシュヌの黒白2本の毛髪の権化だったために難を逃れる。クリシュナは生地マトゥーを逃れ、牛飼いのナンダと妻ヤショーダーの養子となった。

幼年には既に蛇王カーリヤを打ち取り、インドラの怒りに触れた牧女たちを守ってゴーヴァルダナ山を支えた。カンサ王を成敗した後ドゥヴァーラカーという都城を築いてマトゥーの住民を移した。クリシュナの不品行は有名だが大愛の象徴として許されているという。愛があるんですよね。兄のバララーマを第八権化に当てる場合もある。

 

カリ・ユガ (濁悪時代)

ヴィシュヌのアヴァターラ カルキ 1765年

⑨仏陀  ヴィシュヌは現在の最も堕落した時代に仏陀として現れる。誤った教義を弘め、悪人や悪魔たちに、ヴェーダの学習を放棄させ、階級制度などの社会秩序を無視させて、彼らを破壊に導くという。

⑩カルキ  彗星のごとく輝く剣を持ち白馬にまたがって天空に姿を見せる未来に出現する救世主。聖典が権威を失い、人の寿命が23歳までとなる暗黒時代に現れ、来るべきクリタ・ユガ(黄金時代)の法に従おうとする者を救済する。

 

アヴァターラの配列とその意味

松山さんはこれらのアヴァターラは、ある意図をもって配列されているという。そこを少しご紹介しておきましょう。①~⑤はヴェーダ・ブラーフマナ・叙事詩に用いられた神話的要素をヴイシュヌに結び付け、一貫した進化論的配列に従って表現している。魚 → 亀 → 野猪 → 人獅子 → 矮人といった順である。最初の4つは、クリタ・ユガに現れるので世界の創成とも関連している。

⑥~⑧は堕落に向かいつつあるとは言え、現在のカリ・ユガより、よほど良い時代ではある。⑥のパラシュ・ラーマ (斧を持つラーマ) の話はバラモンとクシャトリア階級の争いといった歴史的事実を反映していると考えられ、⑦と⑧は既に叙事詩で有名となっている化身で、「正義の勝利」の後の「善政による人類の救済」がテーマになっている。

⑨は仏教が既に侮れない存在になっていたことを示していて、大乗仏教において太陽神格の相貌を持っていた仏陀が、同じく太陽神としての性格を持つヴィシュヌのアヴァターラとされていることは興味深いのです。

⑩は救世主カルキに劣らず乗り手の神格的特性を表す白馬の存在が重要だという。ヴィシュヌは神馬ウッチャイヒシュラヴァスに乗り、釈尊はカンタカを持ち、オーディンはスレイプニルがあり、黙示録のキリストは白馬に乗って再臨する。これらの馬は「太陽」の象徴だという。この権化が「アシュヴァ・アヴァターラ/馬の権化」と呼ばれるのには深い意味があるというのである。それゆえこの白馬はアヴァターラの最後を飾るに相応しいと松山さんは強調します。

 

睡蓮と蓮


 

この『都の恋』はインドの詩の中でも傑作と言われる作品らしい。ちょっとミニチュア―ルな絵画的趣があると松山さんお勧めの詩である。女性の名前は固有名詞で呼ばないことが鉄則なのです。しかし、間違えてしまったからには跪いて詫びを入れるほかないわけですが、床に「のの字」ならぬ別の女性の姿を描いてしまい、恋人に一発お見舞いされるという顛末です。


運命に見放されたわたしは
ほっそりとした女の前で
名を言いちがえて恐れをなし、
途方に暮れて 取り止めもないものを床に描きはじめた。
ところが いかなることか
その線描たるや、今度は
手足を備へた 他(あだ)し女の姿が
はっきりと浮かび上がるといふ始末。


さて それに気付くと
淑やかな女も
頬がふるへて真赤な色に染まり、
思ひがこみ上げて 急に 泣きくずれ、
「ああ、何てことが起こったんでせう。」
と叫びながら、怒りにまかせて
ブラフマーの武器のような左足の一撃を
わたしの頭に見舞ふのだった。
(『都の恋』)

インドには『シュリンガーラ・ティンカラ』という古詩集があり、八つの基本的な情調のうちの〈性愛情緒〉を主題にしている。松山さんは、それを〈好き心〉と呼んでいますが基本的に貴族・王族の有閑文学なのでホレたハレたが基本であるらしい。

青睡蓮で 君の眼を、蓮華で 顔を、
素馨 (そけい/ジャスミン) で 歯を、
チャンバカの花びらで 肢体 (からだ) を
創造主 (かみさま) は つくって下さった。
恋人よ、その神様が なぜ きみの
心にかぎって 石で作りなさったのだ。(『シュリンガーラ・ティンカラ3』)

冒頭は、美女の体の各部を自然の景物になぞらえながら定石通り神を讃えている。青睡蓮と蓮華が登場するが、蓮、睡蓮、オニバス、オオオニバスはそれぞれ属を異にする植物らしい。文化史的には睡蓮と蓮はしばしば一緒くたに扱われてきた経緯がある。

ハス~スイレン=ロータス

エジプトにおけるパピルス (左) とロータス=スイレン (右)

ハス~スイレンはロータスという言葉でまとめられる。中国や日本には、この二つをまとめて表す言葉がない。インドで、蓮=パドマは紅いハスであり、白い蓮はブンダリーカと呼ばれる。エジプトでは北の花がパピルスで南の花がスイレンで代表されていて、このスイレンはロータスという名で呼ばれている。

ナイル川はパピルスとスイレンをそれぞれ頭に載せるハピ神として表現された。詩文では「スイレンはかれ (アメン・ラー神) のゆえに心愉し」とか「死が今日は眼の前に見える、スイレンの花の香のように」といった文学的遺産があるという。このスイレン=ロータスの文化的影響は建築物の面で顕著に表れる。スイレン柱頭は、東方に向かってイランでそのまま使われ、インドでは蓮柱頭になったという。

インドの最古の文献『リグ・ヴェーダ』の千あまりの賛歌の中で、ハス~スイレンの言葉が現れるのはプシュカラ (青い睡蓮) の数回とブンダリーカ (白蓮) の1回だけだった。しかし、後代になると古典語サンスクリットだけで500語を超えるという。土着語に加えて「水」「泥」「生じた」などの語をくっつけて合成語が多用されたからである。

アショーカ王の獅子柱頭 前3世紀 蓮柱頭が見られる。

中国人は、インドにおけるブンダリーカ (白い蓮) の格別の意味を知らなかった。それで、ロータスを青、黄、紅、白に無理に色分けした。睡蓮を知らない時期が長かったので黄色い蓮や青い蓮を想像してしまい、特に青い蓮を尊崇すること涙ぐましいほどだったという。

そのため経題『サッダルマ・ブンダリーカ』を『正法白蓮華』と訳すべきところを『妙法蓮華』と誤訳してしまった。この経題が『法華経』の中核となる秘密のキーワードであることを気づかないまま、壮大な教学の体系を樹立してしまったというのです。このことについては 次回part2 の『蓮と法華経』でお伝えすることにします。ご期待ください。

中国と日本の蓮

それでは中国と日本で蓮や睡蓮はどのように扱われていたのでしょうね。中国人が考えた最大の蓮は「蓮花十丈藕如船」という唐中期の詩人韓愈 (768-824) の詩の中に残っている。直径30メートルの蓮の花で藕 (ぐう/蓮の根) は船のようだというものですが、インド人の妄想の後では何を見ても聞いても衝撃力に乏しいらしい。

中国文芸で蓮の使用例は唐以前に300例、唐で1500例、宋で約3万例と急増して、その後は数えきれないそうです。清の乾隆帝は、4万2500ほど詩を作ったと言われますが、そのうち1千首に蓮を用いているようです。

俳句が無かったら、蓮に関する日本の文芸は中国に及ばなかったと松山さんは言います。短歌にも蓮を詠ったものはあるが、圧倒的に俳句に蓮が多く詠われている。俳句は鋭敏・繊細な観察の集中的表現によって、インドの〈〉、中国の〈文〉と特長を競いうる日本の〈〉の凄みを世界に示したという。

おのづから月宿るべき隙もなく 池に蓮の花咲きにけり     西行
はちす咲くあたりの風のかほりあひて 心のみづを澄す池かな  定家

蓮の香や水をはなるる茎二寸    蕪村
すっぽんも朝飯得たか蓮の花     一茶
ほのぼのと舟押し出すや蓮の中    漱石
昼中の堂静かなり蓮の花       子規

 

華厳の世界と無限的空間


 

「とにかく、人生というものは『虚しい』と言えば虚しいわけですが、しかし、もとがタダですから。それをタダと思わないから、いろいろ不安になるわけで‥‥。まあ、まえに述べた華厳経の世界観、つまりわれわれが生きている〈娑婆〉なんてものは、華厳経で説いている、いろんな世界の中のごく一つにたまたまぶつかっただけで、俺がこの世に出してくれと言ったわけじゃないんだから責任を負わなくていいんだ‥‥という立場から言えば、あんまりこだわることはないと思うんですね。まあ、これは、わたくしの華厳経を読んでのよこしまな印象かもしれませんが‥‥。しかし、わたくしは、ほんとうにそう思いますね(松山俊太郎『インドを語る』)。」

この人の人生観は、なんか、あっけらかんとしていい。華厳経の時間についても語られているのだけれど、これを考えるとちょっと頭が痛くなりそうなので空間の方をご紹介したい。これとても、高次元幾何学ばりの想像力が必要とされる。まあ、お付き合いください。

須弥山と仏教世界 タンカ 19世紀 ブータン

ジャイナ経も教もヒンドゥー教に比べれば新興宗教なので、時間も空間の概念も負けじとインフレ化します。仏教で一番小さな世界は、私たちの住んでいる世界 =〈娑婆世界です。お釈迦さんの布教地域から広がった四つの島大陸があり〈四洲世界と言われ、中心に須弥山があるので〈須弥世界とも言われる。

その上方に35倍の直径を持つ千倍くらいの広さの〈小世界〉が広がる。それがまた、千個集まった世界が〈中世界〉、この〈中世界〉が千個集まったものが〈大世界〉ですから千の三乗個 (十億個) の世界が在る。これが〈三千大世界です。一念三千の三千ですね。虚空の中にはこの〈三千大世界が、ちょっと分からないほどの数散らばっているという分けです。

華厳経以前では〈欲界〉〈色界〉〈無色界〉という三層構造になっていて色界より先は時間はあっても空間のない世界だった。なので、この〈三界〉以上の大きな世界を考える必要がなかった。しかし、華厳経はもともとヒンドゥー教にある教えの方を取り入れた。宇宙は無を表す闇の海から蓮が出て、その上に形成されるというものです。ビシュヌの臍から出るのと似てますね。

風の輪に支えられた海にあるこの巨大な蓮の中にも海があり、また蓮が咲いているという入れ子構造にした。その最も中心にある蓮の上に天文学的な数の同じグループを作る世界がホットケーキのように二十段重なっている。その13段目のホットケーキの中にある一つの世界の中に〈娑婆世界〉がある。この〈娑婆世界〉は私たちが住んでいる世界よりもはるかに大きなもので10億個で出来上がっているというのです。ヒュー・エヴェレットの多世界解釈による宇宙論を思い出したりします。

世界は耐え忍ばなければならないものであっても、こんな途方もない巨大世界であり、その中のあらゆる生き物は一つ一つが綺麗な花であるような美しい世界である華厳経は私たちに悟らせようとしている。何となく中村圭子さんの「生命科学」の世界を思わせるけれど、こんな雑花荘厳の世界であることも悟るまでは分からない。自分が住んでいる世界が一人の神様や一つの原因から成るとしたら如何にも息苦しいけれど、このような華厳界で考えれば、それが出鱈目だとしても、ものすごい開放感があったと松山さんは言う。まあ、辛い、虚しいと言っても、世界は綺麗な花々に満ちているという分けです。悟らないうちは空華ですが、元手はタダですから空のままでいいと松山さんは言うんですね

 

松山俊太郎の人生観


 

「わたくしは、どちらかというと思想というものが嫌いだから、思想の内側から考えるというよりも、外側から考える傾向がひじょうに強いんですね。この点、三島由紀夫さんという人も、やっぱり思想というものを外側から見て、それで〈思想の形態学〉なんてものを考えたんじゃないかと思います。(『インドを語る』)」

松山俊太郎『綺想礼賛』 文芸批評集

そうなんですね。松山さんは何十年も蓮を研究したけれど、それをまとめて体系化しようとはしなかった。構造主義的に研究していたのかどうかもよく分からないけれど、多分それはないんじゃないだろうか。

三島由紀夫さんは『豊穣の海』の製作動機を語った中でこう述べている。「ある若い仏教学者に聞いたら (松山さんのことらしい) ‥‥ 唯識思想のよくできているところは、ちょうど、水の中に一段一段降りて行く階段があって、知らない間に足まで水がきて、知らない間に胸まできて、知らない間に溺れているというふうに出来ている。それが思想だというものだというのです。」

それから三島さんはいろいろ考えた。哲学と芸術というのは、やはり、ここが違う。芸術は、そんな論理的に一歩一歩入っていくことはできない、論理に頼れないから、いきなりエモーションをつかまえる。芸術家というものは、小さなひとつの世界をつくることはできても、全世界をそのなかに放りこむことはできない。というのも、体系がなく、論理がないから。これは芸術の宿命だと思うとおっしゃるのです。人間を一歩一歩狂気に引きずり込むような哲学体系を小説の中に反映させたらどんなことになるだろうと考えた (松山俊太郎『綺想礼賛』)。

思想の形態学〉というのは、よくは分からないけれど『豊穣の海』の主題めいたものはよく分かりますね。次は澁澤龍彦さんに関する逸話です。渋澤さんは、支那の皇帝のようであったと松山さんは言います。他国から貢物を持っていっても、支那の皇帝は皇帝ゆえに、貰ったものの三倍とかを必ず返すというシステムになっていて、貢物をタダで取るようなケチなことはしないというのです。おおっ!  これは、何かものを尋ねてもそうだった。極めて明晰な論理で答えてくれる日本人には稀な人だった。それは、何事によらず自分の考えで基本的なデータができるまで掘りさげて考えているからであって、渋澤さん独自なロジックとして答えてもらえるのは、とてもありがたかった松山さんは言います。

一方で、どこかの星から落ちてきて、落ちたところの砂場のようになった所で、一人が色々並べて遊んでいるような人なんだけれど、その遊びというものが非常な普遍性と典型性があったと言います。比べていいかどうか分かりませんが、インド人は、かなり幼稚な人たちじゃないかと思う。役にもたたないことをやり過ぎる、しかし、体系そのものは深遠かつ壮麗だったともいうのです。

松山俊太郎『インドを語る』インドを様々な角度から語る松山エッセイ。

あらゆるものを「空ずる」という立場は一種のニヒリズムであるけれど、根底にそれがないと思想も行為も、真に積極的なものにならないのではないかと松山さんは言う。思想というものは現実と関係ない所へ進みがちである。人間の心の平和や真の幸せとか、どの民族でも考えているけれど、人間がそういう考えを持つためには現実と真実の間に膜が必要になる。認識はヴィドヤー(明)とアヴィドヤー(無明)の皮膜の間にしか成立しないのではないかと感じている。

日本人は、元々空 (くう) の中に生きていたんではないかと松山さんは考えている。空というものを自覚しないほどの空の中に住んでいた。空ということを物事にこだわりをもたない、というふうに考えれば、一般的な水準として空は受け入れやすい構造を持っている。

事が起こる前にあらかじめ色々な事柄と対処方法を考えるタイプと事が起こってから考えるタイプとに人間を分けるとしたら、日本人は後者に違いない。危機管理に弱い所以ですね。しかし、日本人は事が起こった時、行き当たりばったりに考えて、しかも反応が短い。事に当たって的確に判断して反応するためには、「素直」である必要がある。意識するとしないとに関わらず、物事を「ありのまま」に受け止めていけるという性質が絶対に必要だという分けです。

まあ、いろいろなご意見があろうかと思いますが、松山さんはそう考えていた。ここは、「生まれたのはタダですから」という言葉に繋がっていく。この飄々とした有り様が彼の人生観だったと言えるのでしょうが、緻密かつ厳密なインド学の学理的追求態度と著しい好対照を示している。この懸隔が実は松山さんの魅力と言えるのかもせんよね。

 


次回は、「松山俊太郎 part2『蓮と法華経』正法の白蓮華とは釈尊なのか ?」をお送りします。太陽存在としての釈迦は白蓮華と結びついて法華経に結実した。この壮大な松山仮説をご紹介する予定です。次回は限定公開となりますので、ご覧いただくためにはパスワードが必要になります。ご希望の方は下のコメント欄にパスワード希望とお書きください。パスワードをお送りします。コメントを公表されたくない方は公表不可と書いてくださればと思います。詳しくは、「これからのブログ公開について」をご覧ください。


 

参考図書

松山俊太郎『蓮と法華経』

 

ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ 』大量虐殺の記憶文化

 

広島原爆資料館  正式名称は広島平和記念資料館

今でもそうなのだと思うのだけれど、広島市の小学校では、原爆資料館の見学は必須だった。僕が小学生の時、何年生だったかはもう忘れてしまったけれど、皆で資料館に行って、ひどく怖かったのを覚えている。しばらく原爆資料館は僕にとって禁断の地になっていた。それでも大学生になった時にはもう一度訪れてみた。最近、この資料館の展示がリニューアルされ、視覚的に随分新しい工夫がされているらしい。それに、原爆死没者追悼平和祈念館で、ぼくにも少し関わりのあるイエズス会の神父さんたちの被爆当時の広島での救援活動の記録を紹介する展示『わが命つきるとも』開催されている。コロナが落ち着いたら行ってみようと思っている。

広島に住んでいても被爆後の平和運動や平和公園などの経緯について知らないことはいっぱいある。特に1960年代から以前はよく分からない。例えば、1963年には原爆慰霊碑の前を過激派の学生が占拠し逮捕者が出た。そして、1965年には自衛隊の観閲式が挙行され、100メートル道路を戦車などがパレードした。これらのことは知らなかった。それを教えてくれたのは、今回ご紹介するラン・ツヴァイゲンバーグ氏の『ヒロシマ―― グローバルな記憶文化の形成』である。実に丹念に資料を調べ上げている良書だと思う。昨年2020年に出版された。一度は読んでみられることをお勧めする。

ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成』2020年刊

被爆後のヒロシマで戦災者たちへの支援と街の復興は政治的なバイアスの中でどのように成し遂げられていったのか。第二次大戦における大量虐殺の犠牲者たちは、語り得なかった過去をある時期から語り始める。それは何故か。被爆者たちの PTSD がクローズアップされるのは、比較的最近になってからだった。何故そのように遅かったのか。あの語り得ぬ出来事をアウシュビッツとヒロシマの人々は、どのように結びつけていこうとしたのか。本書では、このような事柄を通してヒロシマという特異な体験を経た街と人にまつわる記憶文化がどのように形成され、変化していったのかが語られる。

著者は、ヒロシマを見据えながら (タイトルにもあるようにナガサキについては、ほとんど語られていない) これらの重い問いに淡々と事実を積み重ねることによって答えようとしているのだが、政治的偏りはなく、ペシミズムや妙なヒロイズムに染まることもない。ためらいながらも真実と思えることを表明しているのである。

筆者のラン・ツヴァイゲンバーグ氏は1976年イスラエルに生まれた。ホロコーストを生き延びたユダヤ人の祖父母を持つ。ポーランド軍に属していたこともある母方の祖父は、いつも食べ物を隠していた。ソ連の捕虜になった後、シベリアの強制収容所に入れられ、そのころの空腹だった体験を子供や孫たちに伝えた。一方、父方の祖父は1945年にダッハウの強制収容所から米軍によって解放されたが、戦争とその体験について、ほとんど語ることがなかった。記憶と忘却には様々な在り方があるのだということを知ったという。イスラエルで育った後、1999年に渡米し歴史学を学んだ。ニューヨーク市立大学で博士号を取得。本書『ヒロシマ』は、この博士論文を基に書かれ、2016年に米国アジア研究協会賞であるジョン・ホイットニー・ホール賞を受賞している。現在はペンシルヴェニア州立大学で教鞭を執っておられるようだ。

 

巨大な神話作り


 

1947年、昭和天皇による広島巡幸 広島護国神社境内

原爆が投下された後、ヒロシマは不死鳥のように廃墟から蘇った。しかし、その蘇りには即決しなければならない問題と占領下における統制という二つの大きな障害を潜り抜けなければならなかった。

8月6日、米国大統領トルーマンは、TNT火薬二万トンを超える規模の宇宙に存在する基本的な力によって、日本は真珠湾の報復を受けたと声明を出した。そして8月15日、昭和天皇は戦争を終結し核の被害から国民を救うために降伏を決断するとした。このレトリックは目前に迫る占領と日本のエリートたちの利害関係が奇妙な形で一致した結果だったと著者は述べている。原爆というアメリカの科学が戦争終結をもたらし、日本が原爆を体験した唯一の国であり、物質的なものを失うことによって道徳的な使命を得たという考え方がアメリカ人が広島に足を踏み入れる前に既に存在した。原爆は複雑な舞台の象徴の一部になっていったというのである。

占領下において、原爆投下に関するアメリカへの非難は勿論、原爆に関する議論、証言、写真、医学的知識ですら厳しい統制下にあった。1946年に刊行された栗原貞子の詩集『黒い霧』の中のある詩は41行のうち30行が削除されたという。そのような中で原爆について語れる話題は、平和と原爆との同一視であった。こうして、原爆の犠牲者たちは戦争の犠牲者ではなく平和の礎としての犠牲者という文脈の中へ落とし込まれていった。平和の礎としての犠牲という考え方は、日本側にもあって、原爆によって日本の降伏が早まることによって、日本はドイツのように分割占領されることがなかった。このような発言を僕は何人かの日本人から聞いた。

1948年 広島平和祭
広島県知事楠瀬常猪 (くすのせ つねい) の演説。谷本清牧師から始まるNo More 広島運動の看板がある。

米国陸軍の復興顧問であったジョン・D・モンゴメリー中尉は「ヒロシマを国際平和のシンボル」とすることを提唱し、戦災者の供養塔よりも国際平和記念塔を建設することを勧め、博物館の建設や訪問者のためのインフラ整備を提唱した最初の人となり、米国で復興資金を集めると約束する。一方で、広島市は政府からの復興資金を得られず、世界に募金を呼び掛けることになるが、キリスト教の宣教師たちの活躍が目立った時期である。平和記念聖堂の建設や被爆者のための家屋の建設資金が募られた。このような気運のなかで1947年に市の中心部である中島地区で広島平和祭という式典が開催されるようになる。

この式典でマッカーサー連合軍最高司令官は戦争による破壊力は遂に人類を絶滅させるまで進展するだろう、それがヒロシマの教訓だとメッセージを発した。このような宗教的ともいえる厳粛な平和の語りが行われるようになると同時に原爆に関連する催しを広島の経済復興に利用しようという目論見も生まれていった。観光都市としてのヒロシマが復興の財源となるための路線が敷かれていったのである。

 

沈黙の壁とPTSD


 

沈黙

8月6日に続く日々に、広島・長崎の人々が、どのような心の状態にあったのかを想像する能力が私たちには欠けていると著者は言う。当時の生存者でさえ、それが如何なる体験であるのか理解できなかった。広島逓信病院の院長だった蜂谷道彦医師は、被爆直後の人々の様子をこう伝えている。人々に声をかければ、皆一様に後ろを振り返ってあっちから来たと言い、前の方を指さして向こうへ行くと言う。出てきたところも言えず、行先も言えないような羊のようなものになってしまった(『ヒロシマ日記』)。原爆の生存者は、強制収容所の生存者と同様に、自分の経験を信じてもらえない、誰にも理解されないといった孤独の中に置かれていた。

しかし、蜂谷医師の『ヒロシマ日記』やジョン・ハーシー氏が被爆体験を聞き書きした『ヒロシマ』などを読むと、あんな悲惨な状況の中でも、人間というのはユーモアや笑いを忘れないのだと知って、少し明るい気持ちになれるのは、せめてもの救いではある。それと、黒い雨訴訟で広島高裁の判決を受けて政府が上告しなかったために被爆者たちの勝訴が確定したのは、つい最近のことだ。ともかく、良かったと思う。黒い雨とは、核爆発後の大量の放射性物質を含んだ雨だった。

原爆投下後のヒロシマ アーカイブ写真コレクションAnefo

原爆は一瞬にしてほとんどのランドマークを消し去り、戦前の記憶もまた吹き飛ばされた。被爆者の中では、自分だけが生き残ったことに罪悪感を持つ人も多かったと言う。生存者は、自分が「硬直した死体」であると感じ、その「死体」そのものでないことを自分の罪とした。また同時にそれが自分でなくて他人であることに安堵をおぼえると、いっそう罪の意識に陥るという (ロバート・リフトン『ヒロシマを生き抜く』)。そんな極めて強いアンビバレントな感情に曝されるという。原爆文学は総じて、原爆を表現し、そのための言葉を見出すために苦悩した。峠三吉、栗原貞子、原民喜、太田洋子、竹西寛子、林京子といった詩人・作家たちである。

戦後、流言や中傷のために被爆者たちは差別されるマイノリティになっていった。放射能は目に見えない殺人者だった。当時、原因不明な病状は伝染病と誤解され、その恐怖心から被爆者は拒絶された。それは、ハンセン氏病の療養所にいる人たちに対するのと同じ風聞被害であり、知識の欠如から来ていた。思い出すのは、福島の原発事故の被害者たちに対する差別だ。何の科学的な根拠もないのに福島の被害者たちは差別された。これにはあきれたが、いったい何故だろうかと考えた。

多くの人々は沈黙したまま自分の体験を語ろうとはしなかったし、敵に対する憎悪よりも諦観が支配するようになる。ジョン・ハーシー氏の『ヒロシマ』を通じて世界的に知られるようになる谷本清牧師は「私自身とても原爆の非人道性は身に沁みて感じ、怒り心頭に発する感があった。だからと言って相手方やアメリカを呪う気にはならなかった。そうする前に、このような戦争に参加したことのあやまちを反省させられたからである。こうして我らは『仕方がない』という思いに達して一応の心の安定を得た (『広島原爆とアメリカ人』)」と述べている。このような怒りの抑制は、後に述べるロバート・リフトン博士の言う死に直面した人間に多く生じる「心理的閉め出し」と呼ばれるものの一つと考えられる。これは必ずしも消極的側面だけではない。

占領によってヒロシマにおける記念の方向性にバイアスがかかったのは確かだが、悲しみ・怒り・復讐といった感情のレジームよりも和解と未来志向の上に打ち立てられようとしたことも確かだった。仏教的な精神性や戦時中の過剰な悲しみに対する過度な抑制を引きずった精神的風土の中に怒りは埋没していったのではないかと著者は考えている。

第五福竜丸 第五福竜丸記念館 東京

しかし、ある事件が全ての人々の眼を被爆者に向けさせることになる。1954年の第五福竜丸事件である。ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験は想定の2倍に達する破壊力を持ち、危険区域外で操業していた乗組員たち23名を被爆させ、死者を出した。この事件は反核運動に火を付けることになり、平和運動は被爆者の人たちの中に生き残ったことの意味を与え、その人生に目的を与えることになった。1951年に自死した原民喜は、既にこう書いていた。

「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせいだ (『鎮魂歌』)。」

 

PTSD の発見

第二次大戦後、世界中の精神医学者や精神衛生に携わる人たちは、前代未聞の数の難民、爆撃の被災者、収容所の囚人、退役軍人、それらの人々が戦争やそれぞれの体験に苦しむ姿を目の当たりにする。この時期は世界の保健機構の制度化とグローバル化が進んだ。しかし、WHO などの国際機関は当初トラウマの問題を見過ごすか、あるいは敵視さえしていたという。とくに、爆撃に関するトラウマに関して、アメリカの民間防衛プロジェクトに関わった人々をはじめ、多くの研究者がそうだったというのだ。

ホロコーストは、原爆投下の犠牲者、ヴェトナム戦争の退役軍人、レイプの被害者といった PTSD やトラウマの研究に繋がる多くの事例の一つだった。トラウマは過去の恐怖と未来にある恐るべき可能性についての「極端な知」である。主観的な個々の経験というレベルを超えて、より普遍的な人類の経験にまで拡大され、特定の知として一定の位置を占めるようになる。1960年代まで、この概念は確立されていなかった。経験や意識の変化のダイナミズムを捉えることは難しいのである。生存者たちが自己を理解し、自らの体験を語ることを通して発展していった。それは、精神科学の発展とも相互的に関係していた。

ロバート・リフトン 1926年生まれのアメリカの精神科医

日本では PTSD やトラウマに関する報告は、さらに稀で、PTSD が専門用語として一般に定着するのは1995年の阪神淡路大震災を待たなければならなかったという。被爆者の精神的なダメージに対する意識もかなり遅れていた。戦後の厳しい検閲、被爆者自身の被爆体験に対する沈黙、トラウマに対して否定的であったドイツの精神科学の影響などの理由が挙げられている。そして放射線という特異で未知な存在が身体と精神いずれにどのように影響するのかが見分け難かった。「大和魂」の存在もトラウマの症状を軽視させる原因のひとつでもあったのである。

心理学的な調査のためにユダヤ系のアメリカ人であるロバート・リフトン博士がヒロシマを訪れたのは1962年のことだった。広島での調査は世界との関り方を変えさせるほどの衝撃だったという。イェール大学への着任を延期してまでヒロシマでの調査を続けた。オーストリアの文筆家ロベルト・ユンクと協働していた平和運動家小倉馨氏と広島大学原爆放射能医学研究所の渡辺正治氏らの仲介によって被爆者自身に直接インタヴューすることができた。彼らは、政治の埒外にいて、いわば部外者だったリフトン博士に安心して体験を語ることができたのである。リフトン氏の人柄もあっただろう。彼は、被爆者たちがその生の中へ恐怖・死・悪といったものを取り込み、永続する「死との対面」が「心理的閉め出し」を生じさせていることを理解した。そして1964年の論文『死と死の象徴性』で初めてホロコーストの体験と被爆体験を結び付けたのである。

リフトン博士のこの研究によって被爆という遥かに超越的で、受け入れがたい現実が人々の心にどのような影響を与え、人々がどのように反応し、ある人は、それをどのように乗り越えることが出来たが報告される。これは、被爆の問題だけでなく、今日の大災害に直面した人々にも当てはまることだと思える。リフトン博士の著作『ヒロシマを生き抜く』については次回ご紹介したい。

このようなリフトン博士による「生存者シンドローム」「災害シンドローム」に繋がる研究は、シンドロームの概念を進展させ、ホロコースト研究の枠を越えて、その概念を普遍的なものにしていった。ソンミ村虐殺事件以降、ヴェトナム戦争の退役軍人はホロコーストや被爆を体験した人々と比較されるようになるのである。加害者も、また、ただでは済まないのである。

 

ホロコーストの変遷


 

ザイールのキャンプ・キンブンバにいるルワンダ難民のために、新鮮な水を輸送車で運んでいる様子。Photo Marv Krause

第二次大戦終結後から1950年代までの一般市民を広範に巻き込む全面核戦争の脅威は「新たなアウシュビッツ」の到来への不安と共に核ホロコーストという新たな脅威へと変化していく。ホロコーストとはナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺を指している。ギリシア語の「全部焼く」を語源とする言葉だった。

この頃、ジェノサイドという言葉もホロコーストに関係して生まれた。ポ―ランドの法学者ラファエル・レムキン氏の著作に由来する。それは、人種や部族を意味するギリシャ語の geno と、殺人を意味するラテン語の cide を組み合わせた言葉で、ホロコーストを拡張した言葉だと言える。

もう一つの新たな用語はエスニッククレンジング、つまり民族浄化である。複数の民族が居住する地域で、ある民族集団が他の少数民族を排除し、地域の民族を単一化しようとする。あらゆるエスニック集団が鉄道車両に詰め込まれて生まれ故郷から追放された。その過程で、大量殺戮、集団レイプ、焼き討ち、拷問などが行われることがある。ボスニア内戦から使われるようになった言葉で、複数の民族が共生していた旧ユーゴはセルビア人、クロアチア人、コソヴォのアルバニア人、ムスリムの人たちの憎しみの感情によって覆い尽くされた。独立したモンテネグロ、マケドニア、アルバニアでさえ紛争は頻発した。

1960年代のヴェトナム戦争はヒロシマよりもホロコーストから学ぶことが大きいという風潮を生み出したという。それでも、1980年代までホロコーストは、しばしばヒロシマと関係づけられて語られてきた。こうした結びつきも、先行する世代にとってのヒロシマの重要性も、現在では失われつつあると筆者は言う。そのため、戦後のグローバルな追悼・記念的文化、あるいは1970年代以前のトラウマの言説や証言、進歩的な政治の発展に対するヒロシマの貢献は、かすみ始めると言うのである。

ノーマン・M・ナイマーク
『民族浄化のヨーロッパ史』2014年刊

ルワンダやボスニア危機及び1989年以降の東欧での文書館の解放以後に再発見された、いわゆる「復帰」したホロコーストとこの1980年代までのホロコーストとは明らかに異なると著者は指摘している。20世紀末になると、内戦やテロの勃発がクローズアップされ、近隣のコミュニティー間での殺戮である「親密な殺戮」の方が注目され、それらに対する危機感はいや増していた。1990年代には、ホロコーストは工業化された殺人というよりもナチ親衛隊による隣人の隣人による大量殺戮といった考え方の方に力点が置かれるようになる。ヒロシマの被爆は戦時中の事柄であるが、ユダヤ人虐殺は非戦闘員である隣人が対象となった異なる文脈を持つとする考え方である。

頑なに難民をうけいれようとしない国もいかがなものかと思うけれど、この隣人の隣人による大量殺戮を扱っている著書の一つにノーマン・ナイマーク氏の『民族浄化のヨーロッパ史』がある。近代以前と以後の民族浄化には違いがあった。19世紀末から20世紀初頭における近代的な人種主義に基づくナショナリズムの勃興によって、以前の主に宗教間の相違を背景とした軋轢とは質的に異なったものになっていった。あの憎むべき優生思想に支えられていたのである。生存競争を勝ち抜くためには劣った種や少数民族は不要と考えられ、人種主義と一体化したナショナリズムは、支配民族の間にジェノサイドへの潜在性を高めていったという。これは、ガブリエル・タルドが指摘した「根絶することが困難な恐るべき社会問題」に通じることなのだ。アフリカやアジアの問題についても機会があれば、別途ご紹介したいと思っています。

ノーマン・ナイマーク 1944年生まれ。アメリカの歴史学者。1988年からスタンフォード大学歴史学科教授、同大学フーバー研究所フェロー。

近代国家は、その国家イデオロギーのもと、彼らの考える「健全な」組織体へと向かわせようとする。国家は家族生活に干渉し、出生率を操作し、マスメディアに干渉し、国家を統治するエリートの価値観を繰り返し教え込み、住民は監視を受け、巧みに操作される。その一環として、高度近代主義はエスニック集団の追放を目的とし、その集団の身元を割り出し、集団の違いや他者性を明らかにするというわけである。

この『民族浄化のヨーロッパ史』では、先ほどの旧ユーゴにおける民族浄化の他、次のようなものが紹介されている。20世紀のものだけだ。

1915年のトルコによる数十万から150万人といわれるアルメニア人のジェノサイド、1921年の同じくトルコによるアナトリア系住民140万人の追放、ナチスによる600万から一千万に上ると言われるユダヤ人ホロコースト、1944年のソ連による約49万人のチェチェン=イングーシ人のカフカス北部からの強制移住、その過程で35%から45%が死亡、及び、18万5千人のクリミア・タタール人のクリミア半島から中央アジアへの強制移住、第二次大戦後のポーランドとチェコスロバキアではドイツ人1150万人が追放され、その途上、飢えと病気で250万人が死んだ。20世紀は新たな民族浄化の時代でもあった。これに、アフリカ、アジアの犠牲者を加えたら、いったい戦争の他に何人の人間が殺されたんだ。

ポーランドの女性詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカはこう詠っている。

‥‥

どういう趣旨の集まりなのか?
古い人間同士? 血縁関係? それとも祖国が共通?
話はするのか? どこからくるのか?
だれだ、背後で後押しするのは?
だれかね、君のほかにその人たちの夢を見るのは?

彼らの顔は写真のままか?
寄る年波で老けているのか?
元気か? 弱々しそうか?
殺された連中の傷は治っているか?
自分を殺した相手を今もおぼえているのか?

‥‥
(ヴィスワヴァ・シンボルスカ『死者たちとの共謀』工藤幸雄 訳)

 

ヒロシマからアウシュビッツへ


 

第四回 原水禁世界大会ポスター 丸木俊 本書より

原水爆禁止運動は安保条約を巡る政治的緊張によって分断され原水協、原水禁とバラバラになり始める。安保闘争は反米感情を増大させ、冷戦のイデオロギーは右翼と左翼の党派闘争の渦中にあった。1963年には第九回原水禁世界大会の直前に全学連の過激派学生による平和公園の原爆死没者慰霊碑前の占拠があり、公園史上最悪の暴力事件ともなっている。そのような経緯から平和公園の政治利用は禁止され、聖地化への方向へと向かい始める。

この少し前頃から、原子力の平和利用をアピールする声が盛んになっていた。1958年、原爆資料館で「原子力平和利用」博覧会が開かれた。米国の売り込みの手先になるのかという批判もあったらしいが、明るい近代的未来をイメージさせて好評を博した。しかし、広島県被団協のリーダーたちは慎重だった。原子炉の燃えカスをどうするのか疑問は深まった。この森滝一郎氏の危惧は 3.11の悪夢となったのである。

この博覧会の時、原爆資料館の展示物は一時、他に移される。これらの展示物の基礎は、もともと広島大学の地質学・鉱物学の先生だった長岡省吾氏が被爆の瓦礫の中から丹念に拾い集めた瓦や溶けたビンなどの個人の収集物だった。推定された爆心地からどれくらい離れた所で花崗岩の表面が溶けて泡立っているのかを確認すれば一体何千度で人々が焼かれたのかに見当がつくのである。彼が原爆資料館の初代の館長となる。

1962年は冷戦の対立とキューバによるミサイルの脅威とが高まっていった時期で、先に述べたように平和運動が分裂した時期でもある。その年2月、広島から3千キロ以上離れたアウシュビッツへ向けてほぼ徒歩による平和行進が始まった。第二次大戦におけるヨーロッパの悲劇の地と被爆の地が共に平和を訴える、そのためにアジア諸国とイスラエル、東欧を通過し1963年にアウシュビッツに到着した。著者はグローバルな「コスモポリタンな記憶文化」という発想は比較的最近のものだという。しかし、この広島・アウシュビッツ平和行進は、第二次大戦後の記憶のグローバル化と絡み合った戦争の記憶化が1950年代にまで遡ることを示唆しているという。

この行進は、アジアでは概ね冷たく迎えられたという。それは日本が戦争加害者であったからに他ならない。シンガポールでは1942年に中国系住民が殺害され、何百もの遺体が葬られた場所が建設作業中に発見され、このことが地元の人々を憤らせた。それによって平和行進のメンバーは不安にさらされる。彼らが犠牲者であると同時に加害者でもあるということの宣言を発すること、そして、日本の戦争の現実に向き合うことへの不安だった。ともあれ、植民地時代の歴史を語ることがタブー視されていたシンガポールにおいて、この遺体の発見は中国系住民たちの抗議に留まり、シンガポール政府にとっては、日本軍国主義の犠牲になった人たちへの追悼と回向がこの行進の理由の一つだというメンバーの解答で十分であったのである。

アウシュビッツ・ビルケナウ博物館  死体焼却炉へ続く道 ポーランド

イスラエルでも反応は鈍かった。イスラエルにとって軍拡は自分たちを守るために必須であり、ユダヤ人のホロコーストは全ての惨事を超えていた。当時、イスラエルの核開発はケネディ政権との外交論争の要となっている。「二度と繰り返すな」は「二度と繰り返させない」に取って代わられていたのである。ホロコーストに対する一元的見方が登場するのは元親衛隊のアドルフ・アイヒマンの裁判で彼の死刑が確定してからであって、広島・アウシュビッツ平和行進がイスラエルを訪れた1962年は、アイヒマンが処刑された年であり、まだ一元化の途上であったという。

国際アウシュビッツ委員会の働きで平和行進のメンバーたちはユーゴスラビアやハンガリーで暖かく迎えられた。1946年に設立されたアウシュビッツ・ビルケナウ博物館はポーランド人の殉教の遺跡であり、1954年に設立された国際アウシュビッツ委員会は、アウシュビッツでの記念行事を執り行う重要な組織となっていた。そして1963年1月彼らはアウシュビッツに到着した。そこはヒロシマと同様に人間の人間に対する非人道的行為の象徴であり、ポーランド人の悲劇の場所であった。しかし、当時、極めて特殊な形でユダヤ人よりもポーランド人の犠牲を強調していて、それはヒロシマが韓国・朝鮮人の死者を周縁化していたのと同様だったと著者は述べている。

生き延びた経験と証言活動が、どこでも同じという分けではなかった。しかし、平和行進の参加者たちは、戦禍による被害を抽象化し、普遍化することによって、異なった状況にある被害者たちの意識を結び付け、国際的な関係性を築こうとしていった。こうした犠牲者=証言者のグローバル化は、語りの収束を可能にし、ひいては「証言者の世紀」をもたらすことに貢献していったのである。

 

犠牲の王座


 

広島市の郊外、賀茂郡黒瀬町 (現東広島市) によるアウシュビッツ記念館建設の頓挫は、冷戦の終結と先に述べたホロコーストの「復帰」によってヒロシマへの関心が相対的に薄まっていく原因となったと著者は述べる。ユダヤ人のホロコーストヒロシマに関する「犠牲の政治」は、あまりに成功しすぎた。1980年代に入ると日本の侵略に対して韓国や中国は東アジアを巡る犠牲者の記憶の戦いといったものに参入し始める。同様に中東ではパレスチナやアラブ諸国がヒロシマの悲劇はパレスチナ人虐殺の悲劇と同じだと主張するようになるのである。

アウシュビッツ平和記念館運営委員会は不用意にヒロシマ、アウシュビッツ、南京、ソンミ村、パレスチナ難民キャンプ、ソ連のアフガニスタン侵攻といった犠牲者政治の根底にある複雑で厳然とした歴史を同列に扱った。ヒロシマに匹敵するのはベイルートであるといったアラブ諸国からの抗議は、外務省を通じて広島県と広島市へと伝えられ、直接の抗議さえもあった。犠牲者言説は複雑で多様化しはじめていた。結局、この計画は複雑な政治情勢に巻き込まれ資金調達の目途のつかないまま空中分解した。

ベルリンの壁 ブランデンブルク門近く 1989年

1989年は昭和天皇の崩御と冷戦の終結、バブル経済の崩壊という、いわば日本の分水嶺といった時期であり、中国などのアジア諸国の経済力が増し、アジアからの観光客が増加していった時期でもあった。その中で戦争の記憶についての論争の高まっていった時期でもある。クローズアップされていくのは日本の加害者としての立場だった。南京虐殺や韓国での従軍慰安婦問題が問われる。これらはドイツの戦争責任に対する真摯な謝罪と反省と対照的に比較された。

ヒロシマやホロコーストに対してなされてきた言説には行き過ぎがあったのではないかという議論もあった。しかし、著者は、他の犠牲者を持ち出したところで、戦争の記憶の複雑さへの批判にはならないという。単にひとつの犠牲者を別の集団に取って代えることは、加害という一点の汚点もない「純粋な犠牲者」としての地位を争うゼロサム・ゲームとなるというのである。この様な問題が広島原爆資料館の加害者コーナーを巡る問題として浮上していった。

著者は、更にこう述べている。「こうした言説の悲劇的皮肉は、戦争の犠牲者の団結を通して苦しみの共同体を作ろうとする望みを抱かせる基本的共感や崇高な感情が、あらゆる人々に利用され乱用されることにある。苦しみは意味を負わせられるが、それに付随する『正しい』意味が何なのかは完全に解釈に委ねられていて、世界中の競い合うグループが、本物の犠牲の王座が自分たちのものであると主張するのである (若尾裕司 他訳)」。こうした矛盾や限界は、今なお解決されていないという。

 

記憶の変遷


 

9.11 世界貿易センタービルへのテロ、2008年の金融危機リーマン・ショック、3.11 東日本大震災と原発事故は近代の物質的基盤や後期資本主義の弱さと安全神話の崩壊を闡明にした。人間の生存とは、そのような薄い皮膜の上に支えられていたのである。

特に 9.11 と 3.11 には薄気味悪いほどヒロシマとの類似性を際立たせたという。9.11では爆心地=グラウンド・ゼロという言葉さえ登場した。1940年代においても、2000年代においても、同時代の人々は世界をヒロシマ以前・以後に分け、9.11以前・以後に分けた。核テロの脅威は、この二つのグランド・ゼロを結び付ける。ヒロシマは再び歴史的悲劇の言説の中心へと復帰するかのようだった。

著者は、ヒロシマは相変わらず非西洋の悲劇であり、それゆえ、日本と西洋の知識人の一部はヒロシマとヨーロッパの中心地域で起きたホロコーストを結びつけようとしたという。ホロコーストの「復帰」という事例は、ヒロシマ悲劇に対する別の位置づけと理解を探し求めることの必要性を示唆していないかというのである。

最も気高い目的を持った人々を批判することは容易ではないとしながら、理想を掲げたヒロシマの記念行事はその時代の変遷の中で自然災害に似た出来事というイメージに変質してしまったのではないか、その出来事が持つ近代批判の潜在的破壊力を相対的に弱めたのではないかという。アジアの人々の苦しみを自らの国民的記憶の中で認めるべきだという指摘は常にあった。複雑な政治の渦の中で歴史の傷は悪化し続ける。先に述べたように東アジア諸国の中には、どんな日本人の謝罪にも満足しない、強固な犠牲者意識がナショナリストの諸グループによって助長されている。こうした状況の中では、日本人が過去を真剣に考えることも起こりそうにないとツヴァイゲンバーグ氏はいう。グローバルな記憶の変遷の過程で、ヒロシマの犠牲者が人類の名で振る舞うこと、普遍的メッセージを国際的レベルで推進することは困難になりつつあるというのである。無論、核兵器廃絶は急務だが、本書は別の視点からヒロシマに示唆を与えようとしてくれているのである。

では、どうしたらよいのか? 課題は我々に投げかけられている。

 


次回は、このブログでも書いておきましたように「ロバート・ジェイ・リフトン『ヒロシマを生き抜く』精神的死からの再生」をお送りします。被爆17年後に広島を訪れた精神科医が70名を超える被爆者と数度にわたり面接し、原爆が被爆者に与えた精神的影響を探っていきます。それは、やがてユダヤ人を中心としたホロコースト体験と結び付けられ、生存者シンドローム、PTSD、トラウマなどの研究へと進展していきました。

次回は限定公開となりますので、ご覧いただくためにはパスワードが必要になります。ご希望の方は下のコメント欄にパスワード希望とお書きください。パスワードをお送りします。コメントを公表されたくない方は公表不可と書いてくださればと思います。詳しくは、「これからのブログ公開について」をご覧ください。


 

付 日本のホロコースト記念館とアウシュビッツ平和博物館

ホロコースト記念館 広島県 福山市 聖イエス会御幸教会内

広島アウシュビッツ記念館ではないが、アンネ・フランクの父親、オットー・フランクとイスラエルに語学留学したこともある大塚信牧師との出会いによって1995年福山市にホロコースト記念館が開館している。

これとは別に福島県白河市にアウシュビッツ平和博物館が2003年に開館した。ポーランド国立博物館から借り受けた犠牲者の遺品・資料や記録写真、当館所蔵のアンネ・フランク関連の写真・資料等の展示が行なわれている。

 

参考図書 及び 引用文献

 

ジョン・ハーシー『ヒロシマ』
1946年従軍記者として来日した著者が谷本清牧師、クラインゾルゲ・イエズス会神父、佐々木輝文医師らの原爆体験綴ったドキュメント。その年のニューヨーカー誌に一括連載され全米を震撼させた。戦時中のシチリアを舞台にした『アダノの鐘』でピュリッツァ賞を受賞している。

蜂谷道彦『ヒロシマ日記』
広島逓信病院長であった著者が、被爆後の56日間の体験を描いた日記。被爆体験の貴重な記録の一つとなっている。

ロバート・リフトン『ヒロシマを生き抜く』上・下 多くの被爆者と面接を重ね、原爆の与える死の爪痕といった精神的なダメージと原爆症による肉体的損傷がいかに不可分に結びついているかが述べられ、生存者シンドローム、PTSD研究の先駆となった著書。

ヴィスワヴァ・シンボルスカ (1923-2012)『橋の上の人たち』「死者たちとの共謀」を収録。1996年ノーベル文学賞を受賞。

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ニュース

2021年『 植田信隆 展』と細川俊夫さんとのトーク ギャラリーG/広島

 

2021年 『 植田信隆 展』ギャラリーG/広島  5月25日()~30日(日)

 

細川俊夫さんとのトークイヴェントは、新型コロナ蔓延による広島での非常事態宣言を受けて5月29日に無観客で収録されました。

今回は、世界的作曲家である細川俊夫さんをお迎えして『伝統から立ち上がる創造』をテーマにトークイヴェントが開催できることになりました。司会は、ピアニストで音楽学の研究者である植田ゆう子さんです。

ギャラリーG 2021年 展示シーン

 

左 細川俊夫 (作曲家) 中 植田ゆう子 (音楽学・ピアニスト) 右 植田信隆

対談収録シーン 山藤万維 show Us (撮影)

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

イェールユニオンの組織開催で、ポートランド、ロサンジェルス、ミネアポリス、ハワイとアメリカ国内を巡回しておりました『松澤 宥 展』がいよいよギャラリーG、広島で始まりました。

今回はこの展覧会を企画されたアラン・ロンジノさん、富井玲子さんとオンライントークをさせていただきました。下の写真がその時の様子です。

トークの内容ですが、
●主催者のギャラリーGの松波静香さんの挨拶
●私から本展覧会のキュレーターのお二人のご紹介
●富井玲子さんによる『松澤芸術の概説』
●アラン・ロンジノさんの『松澤芸術における量子というコンセプトとプサイという象徴』に関するトーク
●そして最後に皆さんで、「松澤さんとヒロシマ」「キュレーターの方たちの松澤芸術との出会い」「瞑想空間とコミュニケーション」」「環境問題と人類に対する警鐘」といった話題を中心にお話していただきました。
松澤芸術の魅力をこの三人の方々と共により広く、深めていけたのなら幸いに思います。尚、トークは、編集後 youtube、Facebook 等で配信の予定です。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一階展示シーン 左壁面が『九想の室』 右壁面が『白鳥の歌』

二階から一階部分を見下ろした様子

 

 

二階 展示シーン 『私の死』

展示シーン 一階から二階部分

2020年 5月『 松澤 宥・植田信隆 展』のご案内

2020 5/19-5/31『松澤 宥・植田 信隆 展』のご案内

 

2020年 5/19(火)- 5/31(日)展覧会期間が延長されました。
ギャラリーG/ Hiroshima
http://gallery-g.jp/  火曜ー土曜 11:00~20:00  月曜 休廊  最終日 11:00~16:30

5月24日 (日) 出原均、アラン・ロンギ―ノさんのシンポジウムについて
アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。19:00までは展覧会をご覧いただけます。

 

概念芸術の巨匠・松澤宥(まつざわ  ゆたか/1922-209)と植田信隆による展覧会です。2004年に制作した『消滅するヒロシマに捧げる九つの詩』のリメイク作品、そして以下に掲載しています松澤宥のオリジナル作品を展示します。この展覧会に際しては、ご家族と長沼宏昌氏の全面的な協力を得ました。ここに深く感謝いたします。

松澤 宥  出品作品

●草稿/『死のテーマ ヴェネチア・ビエンナーレに』『タントラを巡ってさまよう』 『A Black Hole』『ゾンスベーク国際展へのコメント』 他

●九字九行作品/『超人類の果て』『ドリコソマ』『エニグマ22』 他

●パフォーマンス草稿/『諏訪湖に白紙絵画を見せる』『私の死』 他

●チラシ作品/『ああニルああ荒野におけるプサイの秘具体入水式』『プサイの死体遺体』『プサイ函』 『人類よ消滅しよう』『ドンデン返し計画』他

●パフォーマンス写真(長沼宏昌 撮影)

 

『関連シンポジウム』が以下のように予定されています。

5月19日 (火) 19:00~20:00

無観客でのビデオ収録となりました。後日配信の予定です。

柿木 伸之(かきぎ  のぶゆき/広島市立大学国際学部教授 哲学、美学)、植田 信隆(作家)

ベンヤミン研究者として知られる広島市立大学の柿木伸之先生をお招きします。前半は私が松澤さんの芸術についておおまかに解説し、後半は、柿木先生に松澤芸術を起点として戦争と芸術をテーマにお話ししていただきます。

5月24日 (日) 15:00~16:00

出原均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)
アラン・ロンギーノ(インディペンデント・キュレーター)

アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。

2004年に広島市現代美術館で『松澤宥キュレーション展』を企画された当時の学芸員であられた出原 均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)さんに松澤芸術について解説していただきます。

どうぞ、皆さまマスクをお持ちになってご来場ください。

 

2020年3月27日

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

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