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『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモという名の民衆オペラ

 

能の舞を見ていると、それが舞楽から来ているとは思えない。舞楽は、ゆっくりと軽く床を踏むことはある。しかし、能には勿論旋回はあるけれど、インドやジャワの舞踊のように腰を落として床=大地を踏み、その踏み方はとても力強い。コザックのような足の踏み鳴らし方とは異なる。北半球で言えば、南は踏、北は舞と言う人もいる。前者は農耕社会、後者は牧畜社会と関連していると言えるのかもしれない。朝鮮の巫覡の舞を見ていると速く回転する際の動きは、ちょっと日本の神楽を思わせるようなところもある。チベットの踊りも、そんな感じの所はあるのだが、旋回は多い。それはスーフィーのように滑らかに長い時間は連続しない。まさに呼吸のように大らかに、時に速く続く舞なのである。狩人の歌と舞を1分だけ見ていただく。

チベットの演劇は、大きく分けて二つある。一つは寺院で演じられる仮面舞踏チャム。これは、宗教行事であり、前回のロルフ・スタン『チベットの文化』 風の馬は虹を駆けるでご紹介しておいた。そして、もう一つの演劇は、民衆のこの上ない娯楽であったアチェ・ラモである。これは、チベットの神楽というべきものであるかもしれないが、朗々とした歌が中心となっていて、チベットオペラとも言われる点で、神楽とは異なる。

『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモ三話 三宅伸一郎、石山奈津子 訳

アチェは「姉」であり、ラモは「女神」を意味する。舞い踊る女優の美しさを言祝いだネーミングだったようだ。野外の平らな場所に大抵は円形の舞台が設えられる。観客は、その周りを取り囲み、観衆が増えれば人々は前へ前へと座り始め、舞台は段々狭くなっていくらしい。そこで、人々は、飲みながら食べながら、語らいながら、時には居眠りしながら歌に聞きほれ、笑い、涙し、労働の心の汗を洗い流したのである。

演目は現在八つが伝わっていて、そのうち六つはインドを舞台としたジャータカなどの仏教説話であり、残りの二つはアジア各地に伝わる伝説であると言う。その中にチベット的な要素、観音信仰やアニミズム的要素、チベットの地名などをふんだんに織り込んでいる。この辺りは日本のように他国の文化を摂取し、上手に改変しているのである。

今回は、このチベットの仮面舞踏劇アッチェ・ラモを扱った著書『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』を中心にご紹介する。とても貴重な本だと思う。この歌舞劇の創始者がタントン・ギェルボというチベット仏教の聖人であると言われている関係で、さわりだけだが、チベットの宗派をご紹介したいと思っているが、ただ、その宗教上の中核をなすタントラについては、未だ未消化でもあり今は語れない。もうすこし勉強してからまたの機会があればご紹介しようと思う。ということで、チベット仏教に関しては、デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソンの共著である『チベット文化史』からご紹介したい。これも、なかなか優れた著書です。

 

舞台はどのように展開されるのか


 

このアチェ・ラモという劇は、「序章」ドン、「その日の演目」シュン、「吉祥を意味するフィナーレ」タシーという順に展開される三部構成になっている。三宅伸一郎さんの「解説」からご紹介する。

アチェ・ラモの役者たち 左から狩人、翁、狩人、女神 1932

序章ドンは舞台浄化の意味で7人の狩人 (ゴンパ)、二人の翁 (ギャル)、7人の女神 (ラモ) が登場する。かつては、女優がいない時代があったらしく、かわりに少年が女優役を演じたこともあるという。台詞以上にナムタルと呼ばれる歌唱が重要で、これがチベットオペラと呼ばれる所以でもある。まず、狩人が以下のような祝言を歌唱し、パクチェンと呼ばれるダイナミックな跳躍を披露して舞台浄化が終わる。

シェルトン村の裏山に生えている
ああ、神聖なる松柏。
香しきその香りは
天の神の国に満ちている (三宅伸一郎 訳)

次いで、黄褐色の大きな帽子をかぶった翁が歌唱する。アチェ・ラモの創始者タントン・ギェルボに礼拝の歌唱と踊りを捧げるのだ。

幸せな今日の良き日は
歌と踊りに最適なので
音楽の供養を捧げます。(同上)

最後に五智宝冠を被った女神が、以下の歌唱と踊りを披露して終わる。これら序章が、ほぼ1時間の間に行われ、役者は、役柄を交代しない限りそのまま舞台にとどまっているという。

エマ・マニ・ペメ・フム
(繰り返し) エマ・マニ・ペメ・フム
むこうの山をごらんなさい。
雲が右向きに渦巻いている
偉大な瞑想者が山に住んでいらっしゃる
吉兆をごらんなさい (同上/エマ・マニ・ペメ・フムは観音菩薩への真言)

こうして、演目が始まるのだが、一つの演目が7~8時間かかると言われる長大な劇だ。多くの場合、座長が人物の紹介や粗筋を語るシュンシェーパと呼ばれるナレーター役を早口で務める。少しでも劇を短くするためらしい。長時間なので、観衆を飽きさせないために、途中で演目毎に決まったコントが入る。場面転換は、役者が舞台を一周することで行われ、歌唱を入れるだけで済ませる場合もあるという。この辺りは何となく能と似てなくもない。能は、一つの演目が約1時間くらいかかるが、かつては一日に何番もの演目を上演したし、その間に狂言が入り、場面転換もシテやワキが舞台を廻って済ますことがある。

最後の吉祥・タシーは、ハッピーエンドの意味で、インドのサンスクリット劇と同じだと筆者の三宅さんは書いている。必ずしもハッピーエンドで終わらない能だが、一日の終りに謡われる能の「祝言」に相当するものだと言う。

演目もどのようなものか気になる所だが、その一つ『成就者ペマ・オンバル パドマサンヴァの生まれ変わりの冒険』を4つのパートに分けて織り込みながら先を続けよう。

成就者ペマ・オンバル 1.

インドのナカムニ国は悪魔マダルムタの化身ロクペー・チョージン王が支配していた。菩薩の化身である商人頭のノルサンは、その国で商売を繁盛させ、王国の富を増大させた。ノルサンに王国を乗っ取られるのではないかと不安を覚えた王は.彼に向かって、妻の命が惜しければ、ナーガの支配する国の女王が持つ如意宝珠を7日の間に取って来るように命じた。途中ノルサンと供の者を乗せた船はナーガによって破壊され、人食い魔女の島に流れ着いた。鉄の城の中では捕らえられた男たちが食べられている。馬の王にノルサンらは助けられるが、途中振り返った供の者らは魔女に喰われ、ノルサンだけは兜卒天に逃れた。王の思惑通り、ノルサンはナカムニ国に戻れなくなるのである。

 

チベット仏教の四大宗派


仮面と衣装の細部がよく分かる映像。約2分30秒

 

デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソン 『チベット文化史』

ソンツェン・ガムポが7世紀の前半にチベットを統一し、吐蕃 (とばん) 王国が打ち立てられ、ほぼ200年にわたって中央アジアに広がる広大な土地を支配したが、9世紀の後半には唐による攻撃と内部分裂によって滅んだ。中央チベットでは、この吐蕃王家の子孫たちが、あちこちで小豪族として生き続ける。一方、ココノールの南から進出したチベット族が同じく王の末裔を迎えて青唐王国を樹立する。中国との国境地帯にはチベット系のタングート族が西夏王国 (1032-1227) を打ち立てた。そして、西に逃れた吐蕃の末裔は、ネパールの北西、北インドに接する地域の谷間にマルユル、グゲ、プランといった小王国を築く。王国の崩壊にも関わらずチベットは、それなりに独立を保っていた。

チベット仏教の発展の歴史は、込み入っている。それはインド、ネパールからかなり抵抗なく全てを受け入れた点と、それらの教えがインドの正統的・非正統的な宗教思想及び哲学思想の数百年分の積み重ねであるからのようだ。正統的な傾向とは規則正しい出家生活に基づく保守的な教義で、非正統的な傾向とは在俗でもあるヨーギたちの体験重視の個人主義的な教義であったと思われる。

8世紀末におそらく王室の招きでチベットを訪れたパドマサンヴァは、蓮華から生まれ出て古代スワートの王室で育ったとされるが、実在の人であったようだ。古派、つまりニンマ派は、このパドマサンヴァを開祖とする。実在の人物とされながら、一方で、密教の主要尊格となり、聖なる化身、密教儀礼での中心的役割を担う存在ともなった。

パドマサンバヴァ 18世紀 チベット
金銅合金、真珠、ターコイズ、彩色

11世紀初頭、東チベットでは、インド人学者スムリティによって新たなタントラの翻訳がなされ、「新タントラ」として旧タントラとは区別されることになる。西チベットでは、翻訳官リンチェン・サンポ (958-1055) によって、その指導のもと多数の顕教の聖典とタントラが注釈とともにサンスクリットから翻訳された。この11世紀、チベットの宗教発展を後押ししたインドの最も偉大な教師にアティーシャ (982-1054) がいる。彼は西チベットの仏教王からの招聘に答えて1042年にグゲに到着した。時に60歳だった。彼に対する信頼とその名声はチベット社会全般を仏教が支配する礎をもたらしたと言われる。彼は、僧団の戒律の復興の必要性と弟子の師に対する完全な服従と帰依を要請した。戒律の復興は、タントラの粗野勝手な解釈に対する歯止めであったろうし、弟子の全人的帰依は、僧侶とヨーギの実践を一つにまとめる助力となった。もう一つ、重要なことは、彼が五仏の中尊を大日如来などではなく、観音に置き換えたことである。このアティーシャの法統からカーダム派が生まれる。

中央チベットからインドのナーランダー、ヴィクラマシーラ、ブッダガヤといった大仏教センターを訪れた人々の中にドクミ (993-1074) とマルパ (1012-1097) がいた。後にサキャ派の源流となるドクミは、ヴィクラマシーラで8年もの間大呪術師シャンティ―パの指導を受け『ヘヴァジュラ・タントラ』を伝授され、それが、この派の根本経典となった。

チベットの地図

チベット仏教は全体にタントリックになっていく。インド仏教最後の時期である10~12世紀に、そこで手に入った教えの中でチベット人の心を捉えたのは神秘的、呪術的なもの、恐怖に満ちた荘厳であった。秘蹟重視の儀礼的、実践的な傾向となり、様式化された象徴的名号と印契を持つ諸仏と眷属が神聖な図形の中で密接に結びついた構成単位となる。最終的な真理は一つの神秘となり、果てしない輪廻を繰り返して、全てを解決する知恵と全てを救う慈悲とを得ようと努力する初期の大乗の信徒たちの描いた真理からは、乖離し始めた。適切な師を得、カルマが満ちれば即身成仏が可能とされるのである。

カギュ派の開祖マルパは、最初ドクミに学んだが法外な教授料を敬遠してインドの大呪術師ナーローパに16年もの間師事した。マルパは妻帯して表向きは普通の家長として生活し、彼から灌頂を受けた者のみがサークルの一員となれた。その衣鉢を継いだミラレパがマルパのもとを訪れた時、畑を耕していたという。ミラレパは、チベットのヨーギの中でも名高く、その歌は『ミラレパ十万歌』として知られている。ミラレパの法統はガムポパ (1079-1153) に受け継がれた。

ツォンカパ(1357-1419)17世紀 青銅に金メッキ

1207年、独立を保っていたチベットに突如チンギス・ハーンの使者がやって来る。統一国家の体を為していなかったチベットは、この時、全く抵抗せず服属を受け入れたため、悲惨な虐殺を免れることになるが、この時からチベットと大君主との関係は、政治的な保護の見返りとして宗教的指導を行うという異常な関係に発展し、20世紀まで尾を引くと言われる。チベットと東方の隣国との政治的関係の主要なパターンとなるのである。モンゴルが中国を支配した元の時代にフビライは重要な施主であった。しかし、宗教界では、帝師の地位を巡ってサキャ派と他派との血みどろの争いの時代であったと言う。元が滅亡した後、チベットはチャンチュプ・ギェルツェンが王権を復興することになるが、復古の流れは長く続かなかった。この頃には、翻訳の時代は終わりを告げ、大蔵経の編纂の時代になっていた。

14世紀末までには、仏教はチベット世界全体に浸透し、チベット人の生活の指針となっている。そして、このチベットの複雑な宗教界をもっと複雑にした大立者がツォンカパである。サキャ派のレンダウとカーダム派のウマパから教えを受けた。46歳の時カーダム派のラデン大僧院でアティーシャのヴジョンを得て、彼の神学大全とも言うべき菩提道次第広論/ラムリムチェンモ』を釈説し始める。このツォンカパがゲルク派の開祖となるのである。このニンマ(古)派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派がチベットの四大宗派となった。以上駆け足でした。

成就者ペマ・オンバル 2.

ダーキニー Dakini Vasya-Vajravarahi
15世紀 チベット 銅合金に金メッキ

銅褐色をした壮麗な山に住むグル・ウギェン (パドマサンヴァ) はノルサンの妻、ラセ・ダムセに憐れみを抱き、その胎内に降下する。生まれたペマ・オンバルは、父親のことを知らされずに成長するが、ある日、自分が紡いだ光輝く糸を契機に父のことを知る。だが、またもや王位を幼いペマ・オンバルに奪われるのではないかと不安になったロクペー・チョージン王は、ナーガの国の如意宝珠を手に入れるように命令するのである。

苦悩に押しつぶされそうになる母親だったが、ダーキニーの夢告によって神降搭に参詣する。東から白色、南からは黄色、西からは赤色、北からは緑色、中央からは青色の光が射してくるとダーキニー五部衆が現れ、母に救いの真言を授けた。あわやという危機にこの真言を唱え、オンバルは無事、如意宝珠を手に入れ母のもとに帰ってくる。喜びも束の間、王は今度は、羅刹の国ナムカ・ディンチョに行って金の鍋とヤクの尾の払子をとって来るように命じるのだった。

羅刹の国は鉄のような黒色で、滝は流れ落ちてはスープのように煮えたぎり、狼と狐が遠吠えする不気味な土地だった。そこには、黒い鉄の谷の羅刹女が機織をしていたが、オンバルを見ると、人肉は久しぶりだと、オンバルの体を三回揉むと飲み込んでしまうのだった。

 

歌舞劇の守護聖タントン・ギェルボ


 

タントン・ギェルボ(1361/1385-1464/1485)
東チベット 16世紀 銅に彩色

タントン・ギェルボは、母の胎内に60年間留まったという。お母さんは大変だったろう。それ故、生まれた時から色の黒い老人だった。そして、120歳の長寿を全うしたと言われる。生まれながらの老人は、知恵者のメタファーです。チベット西部ガムリンのオバ・ラツェに生まれた。7歳頃には羊飼いの手伝いを始めるが、幼少から様々な神通力を働かせたという。洞窟に住む修行者のもとで瞑想したいがために、ヤギの数の黒石と羊の数の白石を紐に括りつけ、それらの番を土地神に命じたという伝説が残っている。

1429年から1484年までの56年間にチベットとブータンに48の鉄の吊り橋と18の渡し場、多くの木製の橋を架けた。吉祥多門搭などの111の仏塔、タルパリンといった寂静所としての行場を造った。仏塔の建築ではチュン・リボチェにある吉祥多門仏搭、ブータンのパロにあるドゥムツェック・ラカンなどが知られている。仏塔は、地震などの災害を封じる地鎮のためでもあったらしい。大地に灸をすえる意味があった。こんなのは、現代のアーティストも真似してる。彼は、チベットの偉大なヨーギ、医師、鍛冶屋、建築家、土木技師でさえあった。「平原の空 (くう) の王」という僧としての別名の他に「鉄の橋を架ける者」とも呼ばれた。なんだか空海みたいだが、チベットのダ・ヴィンチと呼ぶ人もいるらしい。衆生のために積極的な社会事業を行ったのである。そのための財政力と大きな組織力があったことが窺える。

ツォンカパも学んだレンダウ (1349-1412) ら多くの学僧に師事した。ニンマ派、カギュ派、サキャ派といった派閥を問わなかったようだ。瞑想修行に励み、「火と風の瞑想」に秀でた。その瞑想の最中にダーキニーたちが現れ、このように称えたという。

偉大な仏の住する平原 (タン) に
空性 (トン) を悟ったヨガ行者
無畏の王 (ギェルボ) のごとくあり。
ゆえにタントン・ギェルボと名付けん。

タクツァン寺  ブータン、パロ
タントン・ギェルボは、ここでヴァジュラキリラヤ (普巴金剛) とヘールカ (教令輪身) のヴィジョンを得たと伝えられる。

これが、彼の名の由来であるが、ミラレパと同じように瘋狂者 (ニョンパ) とも呼ばれた。チベットにも一休や普化、寒山、拾得のような僧がいるのだ。瘋狂僧は、各地を遊行し、時には風刺を込めた宗教歌 (グル) を謡ったために人気を博した。小鳥に説法できたのは聖フランチェスコだったが、タントンはロバに説教できたという。

入滅する時、彼は涅槃に向かって人間界を去ろうとし、光に包まれ瞑想堂の上空に浮き上がった。弟子たちの現世に留まってほしいとの願いを一度は聞き入れて、自分には、死という物質と意識の分離はないと語り、小さな身体となって瞑想堂に戻って来たという。

さて、アチェ・ラモとの関りだが、鉄鎖の橋を架ける作業が難航し、資金も枯渇した折りも折り、閃いたらしい。彼が工事に携わる者から歌の上手な7人の娘を選び、踊りや歌を教えて、自ら太鼓を叩いて人前で演じさせて資金を集めたという。この7人の踊りがアチェ・ラモの起源とされている。

成就者ペマ・オンバル 3.

羅刹女の口の中でオンバルは母から授けられたダーキニのマントラを唱えるとオンバルは吐き出された。羅刹女は、その深遠な真言を授けてくれるように頼むのだった。峠を越えると赤銅色の平原があり、流れる川は血の色をしている。そこには銅の谷の羅刹女がいて、やはり吐き出したオンバルに真言を授けてもらう。三番目の法螺貝の谷、次の金の谷でも同様なことが起き、いよいよ羅刹の女王ペタ・ゴンギのいる羅刹の宮殿に到着した。羅刹の女王は、三つの黄金の塊で出来た暖炉の上に金の器を被せてオンバルを焼いて食べようとするが、真言を唱えるオンバルは無傷のまま器から飛び出して来る。畏敬の念に打たれた女王は、60人の子供たちからオンバルを守るために爪の間や髪に彼を隠すのだった。

羅刹の女王は真言を授けてもらうことを条件に金の鍋とヤクの尾の払子を渡すことを申し出る。真言によって中央仏界のダーキニーとなった女王は、金の鍋にオンバルを乗せて、洗い水を持ってナカムニ国に向かう。途中、鉄のかぎ針と投げ縄を携えた南方宝生界のダーキニーとなった金の谷の羅刹女を、一包みの薬を持った東方金剛界のダーキニーに変身した法螺貝の谷の羅刹女を、皮袋を持った西方蓮華界のダーキニーとなった銅の谷の羅刹女を、最後に怒りの太鼓を持った北方羯磨界のダーキニーとなった鉄の谷の羅刹女を乗せていくのである。

 

音楽と仮面


音楽

歌「ナムタル」は、もともと「よく解脱する」という意味の仏教用語から高僧の解脱への道のりを表す「伝記」を意味する言葉となり、登場人物の「歌」を指す言葉となった。観音信仰のためにタンカ (仏画) を掲げ、マニ (真言) を朗誦しながら絵解きを行うマニパと呼ばれる人々がいて、観衆と一緒に唱和したが、彼らの節回しがアチェ・ラモの歌唱に影響を与えたと言われる。日本で言えば、説教節に近いだろうか。歌唱法は100種類あると言われるが、時間の長さからタリン、タンディン、タトゥンの三種類に大別される。タはメロディーの意味で、リンは長い、ディンは中程、トゥンは短いを表す。これにレンと呼ばれるバックコーラスが入る。場面に関わりない役者が舞台に残るのは、このバックコーラスのためでもある。

伴奏楽器は、かなりシンプルなもので、木の胴に半径50cmほどの皮を張った太鼓とシンバルだけだ。太鼓は胴に付いた長い柄を地面につけて足で挟むか、手で握り、湾曲したバチで叩く。時々酒で湿り気を与えて皮の張りを一定に保つらしい。能の小鼓では時々唾をつける。シンバルは横に打つのではなく縦に打つ。演奏に合わせて皆が踊っているように見えるが、最も上手な踊り手に合わせて演奏するのだという。しかし、舞台の良し悪しは、この太鼓とシンバルの音にかかっているといわれる。

緑ターラ 中央チベット 13世紀

仮面

主役は仮面を着けない。この仮面は板状で世界的に珍しい。面は全て卵型で目と口の部分に穴が開いている。形より色が重要である。

白は柔和を表す。黄色は広大さを表し、良家の出身で物知りであり、努力家、高度な悟りを得て高い徳の人を表す。赤は力の色で、智慧があり、臨機応変で硬軟兼ね備えた人望のある人に用いられる。商人頭ノンサンの面はこの色である。

緑は救いの女神緑ターラの色で、この色の仮面を着ける者はターラの化身であることを示している。半分白、半分黒の仮面は信頼のおけない者であることを表す。そして、黒は不善を示すが笑いを呼び起こし、トリックスターとしての性格を表している。

 

成就者ペマ・オンバル 4.

無事、帰国したオンバルたちだが、母との再会を喜んだのも束の間、王の命で屠殺者によって東の高い山の頂上で殺されてしまう。オンバルの体は焼かれ、灰となり、風に舞って散ってしまうのだった。王の待女となっていたダーキニーたちは、オンバルが死んだ山を訪れる。

鉄の谷のダーキニーは、真言を唱えて怒りの太鼓を打ち鳴らすと天に穴が開いて竜巻が起こり、オンバルの灰を一か所に集めた。ダーキニーたちは同様に真言を唱えるのだが、銅の谷のダーキニーは風を巻き起こし皮袋に灰を集めた。金の谷のダーキニーも鉄のかぎ針と投げ縄を四方に投げると皮袋の中に二つの目が出来上がり外をじっとながめるのだった。今度は法螺貝のダーキニーが薬を皮袋の中に入れるとあの幼き覚者が現れるのだった。最後に女王だったダーキニーも真言を唱えながら瓶の洗い水でオンバルを清めた。

鉄の谷のダーキニーはオンバルと一緒に山頂に残り、他のダーキニーたちは王に金の鍋で空中を飛ぶ遊びに誘う。国の上空をあちこちビュンビュンと飛び回ると、最後に悪大臣と王を乗せ羅刹の国へと飛んでいくのである。羅刹の国ナムカ・ディンチョにつくと女王のダーキニーは「お聞きなさい、ロクペー・チョージン王よ邪悪な大臣たちもお聞きなさい。これを自業自得と言うのです 悪業の報いを受けるとは哀れなことよ (石井奈津子訳)」と言うと鍋をひっくり返した。下で母である女王の呪文によって眠っている子供たちには「母の幼い六十人の息子たちよ インドの東方からお土産を持ってきたよ。新鮮な人肉がどっさりあるよ 息子たちよ寝そべってないで、さあ、起きなさい (同上)」と語った。こうして悪の王は悪の家臣とともに滅び、オンバルがナカムニ国の新たな王に迎えられたのである。

 

民族音楽の豊かさと舞踏


小泉文夫『音のなかの文化』対談集
1983年 青土社

最近は、ワールドミュージックと称して世界中の音楽がメディアに乗り、何時でも楽しめるようになった。とても豊かになったと思う。この文章を書きながら若いころ、NHK-FMの番組「世界の民族音楽」を聴いていた時代のことを思い出した。それは、ひとえに小泉文夫さんの賜物と言える。その頃は、何となく面白くて聞いていたが、後から考えると、西洋音楽一辺倒の価値観に清風を送ってくれていたのだ。やがて、チベット仏教声明に背筋を凍らせ、チベッタンホルンの音にのけぞり、モンゴルのホーミーと一緒に振動し、ガムランと共に脳は渦巻き、スーフィー音楽に乗って耳は旋回し、アイヌのおばあちゃんたちのデュエットに胸ときめかせた。

小泉さんは、作曲家である芥川也寸志さんとの対談で、台湾本土にいる十種類の高砂族 (現在では高山族と呼ばれる) と南の離島のヤミ族 (タオ族) とは外見は同じなのに言葉が全く異なることを指摘している。彼らヤミ族の言葉はフィリピンのバターン諸島からルソン島のイゴロト族までの系統と同じ言語であると言う。台湾からルソン島までの言語は繋がっていたが、強力な権力が現れると分断されてしまうのだと言うのだ  (『音のなかの文化』)。芥川さんの朝鮮と日本でも、境界線のできる前は繋がっていたのかという問いに対して、そうだと言う。南蛮振りの文化はここまで、騎馬民族の文化はここまでという風に人工的に影響力が及ぶのは、そういった権力が作用する後の時代のことだと言うのである。

なるほど、そうなのか。民族音楽に当てはまることは、民族舞踏にも当てはまるのではなかろうか。こうなると民族舞踏の流れはどのように繋がっていて、どのように分断されて独自に発展したのかを考えることは、すこぶる面白いと思う。ご紹介できる機会に巡り合えるとよいのだけれど‥‥

 

5月いっぱいまで休載のお知らせ

お読みいただいてありがとうございます。この四月、五月と僕にとっては大切な展覧会が続きます。それらについては当サイトやフェイスブック等で近々お知らせしますが、その準備のためにブログは五月いっぱいまでお休みさせていただきたいと思います。次回は六月頃になろうかと思いますが、それまでお待ちくださいね。

 

参考映像

アチェ・ラモの師匠と団員たちのドキュメンタリーになっています。約17分

 

 

 

参考図書

小泉文夫『音楽の根源にあるもの』
1977年 青土社

 

 

ロルフ・スタン『チベットの文化』 風の馬は虹を駆ける

 

ロルフ・スタン(1911-1999)

チベットのことはよく分からない。これは我々日本人だけでなく、多くの外国人にとっても、そうだ。そこは秘境だからである。インド人にとってヒマラヤを中心とした北の国は、聖なる神秘の国だった。パラハマンサ・ヨガナンダの書いた『あるヨーギの自叙伝』を読めば分かる。この本は異様に面白かった。超常現象のファンタジーなら色々あるけれど、こちらは自叙伝である。ヨーガ行者の修行の話だが、これに魅せられた人は多い。一度お読みになることをお薦めする。

だけど、ロルフ・スタンによればチベット人にとっても北は聖地なのである。不思議なものだ。本書ではチベットの地は、380万平方キロメートル、フランスの面積の7倍にあたるという。どこをチベットと言うかという問題もあるが、現在のチベット自治区に限れば122万平方キロである。ヒマラヤを擁し高度3000~4000メートルの地に平気で村々は存在するし、高度7000~8000メートルの山々が連なる地域もある。だが、崑崙山脈とヒマラヤ山脈に囲まれた寒冷で荒れ果てた土地だけをイメージしてはいけないという。古都ラサの緯度は、ほぼ屋久島に相当する。「5キロごとに空の景色が違う」というほど変化に富んだ土地らしい。生活も牧畜のみ、農耕のみ、牧畜・農耕半々というその地域に応じた営みのようだ。

ロルフ・スタン 『チベットの文化』

ロルフ・スタン『チベットの文化』

ロルフ・スタンは1911年、ポーランドのシュヴィエチェのユダヤ人の家庭に生まれた。1933年にベルリン大学の東洋言語セミナーで中国語を学んだが、ナチスの台頭によってフランスに亡命する。パリ東洋語学校、シナ学高等研究所に学んだ。第二次大戦では、仏領インドシナで通訳者として働き日本軍の捕虜となっている。若い頃は、苦労の多い人だったようだ。大戦後、中国に現地調査に入り、後にパリ大学の高等学術研修院で極東及び内陸アジア比較宗教学の教鞭をとるようになった。この間、ヒマラヤ南麓の調査を行っている。1960年に『チベットにおける叙事詩と吟遊詩人の研究』を提出、博士号を取得する。1966年からコレージュ・ド・フランス教授となった。チベット学、とりわけ宗教学の研究では、他の追随を許さないと言われている。道教の研究においてもとみに有名だ。

僕がこの人のファンになったのは、ひとえに例の『盆栽の宇宙誌』)によるのだけれど、その後、スタンの影響を受けた彌永信美(いやなが  のぶみ)さんの仏教神話学(などを知るに及んで益々敬慕の念は高まったのである。

そこで今回は、彼の『チベットの文化』をご紹介するのであるが、この本、チベットの風土、歴史、社会、宗教、美術と文学を網羅する、いわばチベットの全てなのである。とても全部をコンパクトにご紹介できる能力は僕にはないので、三つのテーマを選んで今回は書いておきたい。何からご紹介するかというと、よくチベットの写真にみられる縄に取り付けられた色とりどりの布や紙でできたタルチョ (タルチョ―) である。そのタルチョに描かれる「風の馬」についてのスタンの深い見識からまずご紹介しよう。

 

1.タルチョ・ボン教・風の馬


 

「ム」の綱とタルチョ

地の神の小塔のある聖山 中央に神の顔が描かれた恐るべき神の小塔がある。氷河は獅子によって象徴され、湖水は「黄金の目」の魚と宝玉によって象徴されている。

地の神の小塔のある聖山 ロルフ・スタン著『チベットの文化』より
中央に神の顔が描かれた恐るべき神の小塔がある。氷河は獅子によって象徴され、湖水は「黄金の目」の魚と宝玉によって象徴されている。

チベットの神話時代の王たちは天から降りてきた神である。山は「ム」と呼ばれ、一種の綱ないし梯子になぞらえられた。チベットの山々は天に向かって駆けあがっている。その「ム」は天と王とを繋ぐ虹のような綱でもあった。王はその綱を伝って昇り降りしたと伝えられている。だが、ディクム王の時、その綱は切れ、それ以降、王は死すべき存在になった。

すべて聖なる山は「国の神」、「土地の神」と呼ばれる。また、「天の柱」、「地の釘」とも呼ばれた。墓や寺院のそばに建てられた柱や石も同じ役割をしていたようである。王たちと同じように英雄たちも「天の柱」と呼ばれ、英雄の国は「地の臍」と呼ばれた。彼等は自分の中に世界の三つの階層を繋ぎ合わせる。白色の神々(Iha)の住む天、赤あるいは黄色の樹神と岩神が住む地表、青ないし黒色の水神の住む地底である。近代チベットでは神を称えて立てる石(Iha-tho)は世界の三階層の色と関係づけられる。

道のついている峠ならどこでも、石がうず高く積まれている光景に出くわすとスタンはいう。それらは、多くは白い石であり、棒が立てられていて、そこから樹木や岩頭に向かって縄が張られる。縄には呪文、あるいは「風(息)の馬」を書いたタルチョ(祈祷旗)と呼ばれる5色(青・白・赤・緑・黄)の布切れや紙切れが結び付けられ、天 ()・風・火・水・地の五大に結び付けられる。

タルチョ インド・ラダック・レーのナムギャル・ツェモ寺院にて Fotographed by Wotan

タルチョ  インド ラダック・レーのナムギャル・ツェモ寺院にて

その他に原則として木で作った武器の模倣物や矢や槍などが加えられるのが仕来りである。牡羊ないし山羊の角や頭が盛んに供えられるし、通行人が峠を越える度にまだ形のできていない堆積物の上に石が積み重ねられ、石がない時には骨、布きれ、毛布の切れ端、髪の毛などが積まれ、人はこう叫ぶ「神は勝利者、悪魔は敗者、キキ、ソソ。」末尾の叫びは戦いの喚声という。これら石の堆積は道標でもあるが、「戦士の城」あるいは「軍神の城」と呼ばれている。それは、できるだけ山の頂上近くに作られるが、実際の高さより、より上にあるということの方が大切らしい。「頂上の神」、「国の神」、「男の神」、「軍神」は、屋根の上、石積みの祭壇、人間の頭の上、肩の上、兜の上にもましますという。

進化するボン教 

チベット人はもともと世界創造の神話には関心がなかったとスタンはいう。仏教の宇宙論を借りることで済ませた。一方、自分たちの土地に関する創造と祖先の出現に関する伝説は数多くある。これらの起源伝説は、統一されることも組織化されることもなかった。それまで組織化された教会や権威のある僧侶がいなかったことが原因らしい。そのうち、ボン教やラマ教の大宗教に横取りされ、変形されてしまったらしいのである。

中央 ソンツェン・ガンポ王(?649)
チベットに統一王国を築き、仏教を導入した王。
右 唐から嫁した文成公主
左 ネパールから嫁したブリクティ―・デヴィ

チベット仏教は、かつてはラマ教と呼ばれた。特殊な大乗仏教と言っていい。ラマは尊師を意味する。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派と大きく言って四つの宗派があるが、今は書く気がしない。ラマ教以前にチベット人が最初から有していた宗教的な伝統的観念や習俗は存在していた。ヨーロッパの著述家たちは、「人間の宗教」として「神の宗教」とは区別したが、この土着の伝統的な宗教は、ボン教とともに原始の宗教というレッテルを張られがちだった。そして、ラマ教の中での恐怖感をそそるもの、異様なもの、悪魔的なもの、霊媒的なものは全てボン教の要素だと決めつけられていたようだが、タントラの大きな影響を考えればチベット仏教のなかにもそのような要素は濃い。ただ、どれが土着の宗教であるのか、何がボン教のもので、何がラマ教のものであるのかを区別するのは、多くの場合不可能であるとスタンは言っている。

ボン教については、少し触れておかなければならない。チベットの後世の歴史家たちは、仏教導入以前、すなわちソンツェン・ガムポ王以前には「治世は、ボン教徒、物語師、謎歌いたちによって守護されていた」という。本来、土着の宗教に属していたに違いない伝説や神々とボン教とは結びついていた。それらの結びつきを考える時、中国との接境地帯に住む羌(きょう)族の信仰と言語で解釈するとよく説明できるようである。チベットの最初の王、二ャティの治世には「神の宗教」としてのボン教は既に出現していたようだ。その後ディクム王の時代、タジク (イラン)国とアッシャ族 (ココノールのトルコ・モンゴル種族)からボン教徒が招かれたと伝えられている。彼等の専門は「生者のためには神に供養し、死者のためには悪魔を鎮圧する」ことだった。この伝説を信じれば、ボン教の起源の一つはチベットの南西、つまりインドとイランが交わる所ということらしい。アーサー王伝説でも触れたけれど、イラン辺りと言うのは何か文化的にミステリアスだ。

ミボ・シェンラプ ボン教の開祖。ペルシアを指すタジクの出身とされ、チベットの魔神に連れ去られた愛馬を探しに来たと言われる。19世紀 ルービン美術館

ディクム王の後、いわゆる「現われ出たボン教」と呼ばれる時期がくる。悪魔崇拝が特徴とされるような時代でもあったようだ。このような伝説が残されている。12・3才になるロバの耳を持つ少年が悪魔にさらわれ12年の間チベットを連れまわされ、人間界に帰ってくる。平田篤胤(ひらた あつたね)が書き残した『仙境異聞』の仙童寅吉みたいだ。その耳を隠すためにターバンを巻いた。ミダス王のテーマと同じだ。このターバンはボン教徒の徴になっている。悪魔を鎮め、神々を供養し、かまどの汚れを清めたという。それ以後、全てのボン教徒はタンバリンとシンバルを持ち、種々の幻術に熟練し、鹿を空中に浮遊させるだとか太鼓に跨って飛ぶなどということができるようになったという。

ボン教徒の中には、王の直属の祭司などを勤めるようになる者も出てくるが、大きくは次の4種類に分類されるようである。可視界のボン教の巫術師であるシェンは幸運と財貨を招来する儀式を行い、呪術のシェンは種々の色の羊毛の紐で悪魔を捉える。卜占のシェンは紐(Ju-ting)を用いて将来の吉凶を占い、墓のシェンは武器をもって死者と生者の数を数えたという。

後には、ボン教そのものが哲学的に体系化されるようになった。ティソンデツェン王の時、ボン教徒は迫害を受けるが、この時にその宗教用語は仏教のそれに総合的、組織的に同化されていく。習合していくのだ。混淆主義的なボン教が生まれるのである。だが、ボン教徒はどちらかというとシャーマン的性格が強い。馬やタンバリンにまたがり空を飛び、青い着物を着ているというのが一般的イメージらしい。それでも、ボン教はラマ教以前にインド・イラン的要素を自分たちの教義に取り入れて、我々が考える以上にチベットへの仏教導入を促進したらしいのである。

虹を昇る風の馬

風の馬 ラダック インド

ロルフ・スタンはチベット人たちのいう「風の馬」についてこう述べている。タルチョなどによく描かれる馬である。「風の馬」の「風(息)」は、中国人の「気」やインド人の「プラーナ」に類似する生命原理であると。それは呼吸する空気でもあれば、体内を流れる微妙な液体でもある。この「風の馬」の絵には人の誕生日の日付を示す干支と祈願文が添えられる。生命力や健康、権勢、長寿、功徳あるいは名声が増すように神々に祈るのである。

「風の馬」は人の生命力が強まり、高まってゆくあらゆる様相を表す。「高きに向かっての増大」は、あの虹の綱「ムの綱」によってなされる。アレキサンダー大王がモデルとされる英雄ケサルの信仰においても風の馬と同じ要素を持ちながら軍神特有の旗の姿をとるようだ。インド人でも多くのタントラ教徒が「虹の体」を獲得したと伝えられる。しかし、インドには綱のイメージはないようである。だが、虹で天に昇る過程はヨーガのある種の方法と同じだとスタンは指摘している。こう伝えられている。「この世を去る時、彼らは天に向かって足から消えていった。そして、彼らの頭から出ている「神性な綱」という光の道によって彼らは地上を去り、空の虹になった。彼らの死体は神の国でonggon(聖者、先祖、埋葬の丘)となった。」

 

2.仮面劇と正月・追儺の行事


 

守護神の仮面劇

ラマ僧など緻密な瞑想によって神々や菩薩を降ろすことのできる人々はいるし、吟遊詩人はある種の失神状態になって、英雄たちが時間の埒外で活動している光景を目撃し、それを歌で描写した。しかし、一般の人には見えるわけではない。それで絵画や仏像、仮面などが在家信者の教化のために用いられた。神の示現を理解しやすくするために仮面舞踏によって大衆の前で演じられるようにもなった。この儀式では、神は瞑想によって呼び出されると共に、仮面をつけた俳優が扮してもいるわけである。

チャム(チベット仏教各宗派で行われる仮面舞踏) 巻末に動画を掲載しておきました。
新年の最後を祝う祭り ラダック インド

ここからは、しばらく前に一度、江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟でご紹介したことと重なります。どんな神でも仮面に作り得たわけではなく、「仏法の守護神」に限られていた。その仮面は、霊媒と同じく、この種の神の示現を容易にすると考えられていたのである。例えば「飛ぶことのできる黒」と名づけられた仮面はインドのある学匠から1000年頃、大訳経者と呼ばれたリンチェンサンポに渡され、彼がラダックに帰った時、その儀式の教えと一緒に他の僧たちに伝えられた。その伝授のとおり舞踏の間中その仮面は着けられていたという。

マハーカーラ 19世紀 チベット

その後、仮面はサキャ派の最初の僧院長に1111年頃伝えられ、19世紀まで同じ寺院に保存されていた。この仮面によって表されるグルキグンポと呼ばれるサキャ派の守護神は特別な姿の大黒天(マハーカーラ)であるという。この仮面舞踏劇は、一つは仮面の俳優によって、もう一つは祭式司宰僧とその助手たちによって二重に行われるが、僧と助手は仮面を着けない。仮面はある種の守護神を臨済させるのだが、実際に呼び出し臨在させるのは僧たちの仕事である。これらの仮面劇の中でも、大黒天(マハーカーラ)は主神の役を演じるのが普通であるとロルフ・スタンは指摘している。

この見世物は二日間続き、オーケストラが音楽を奏でる。劇のクライマックスで神々が群衆の前を練り歩くようなとき、群衆の感じる畏怖の感情は驚くべきことに道化の巻き起こす笑いによってしばしばそがれる。大衆にこの息抜きを与える道化役者もインドの聖者に似て見えるようにという配慮で仮面を着ける。この聖者は一方で尊敬を受けながら、他方では黒っぽい顔と縮れ毛という見慣れない姿でチベット人を笑わせるようである。彼らは即興的な道化劇を演じたりタントラ祭式の中の儀式動作を、その最も厳粛な仕草まで猿真似してみせるという。まさに「もどいている」のである。

サムエ寺院 チベット自治区の区府ラサ市の南東ヤルルン地方にある寺。下部はチベット風、中央部は中国式、上部はインド式の屋根で作られたと言われている。

サムイェー寺院
チベット自治区の区府ラサ市の南東ヤルルン地方にある寺。下部はチベット風、中央部は中国式、上部はインド式の屋根で作られたと言われている。

これらの仮面舞踏が、どのようにして、また、いつ始められたかはわからない。古いものは少なくとも10世紀に遡るという。あるいは、後期密教に属する8世紀の秘密集会タントラに遡りさえするといわれる。これらの仮面劇は、今一つの重要な要素である「地鎮」あるいは土地の「取得」の予備的な儀式としても行われたようである。金剛杵(あるいは金剛橛/こんごうけつ)の囲いによって聖域を区切るのだが、すでに八世紀のタントラの中に確認されている。そこには「金剛杵の踊り」と呼ばれる仮面のない舞踏が含まれていたようである。ニンマ派の金剛橛の儀式はパドマサンバヴァによってインドから持たらされ、チベット最初の僧院であるサムイェー寺建立の際の「地鎮」に用いられた。後には、他の派でも詳細な舞踏の手引きが作られたようだ。スタンはこれらの儀式は全てインド起源であるとしている。

王の新年と追儺

新年の日付は何世紀もたつうちに変化した。数世紀前から今日に至るまで中国の新年の日付が用いられていた。これは「王の新年」と呼ばれ、太陽暦の2月に相当する。それ以外に、昔からの「百姓の新年」というのがあって、「王の新年」の10番目の月か11番目の月の冬至にほぼ正確に合わされている。

18世紀の中国の書物や当時のイタリア伝道師の記録によると、新年の日、ダライラマはポタラの頂上で宴会を催し、中国人やチベットの役人を集めて戦争の舞踏をみせる。ちなみにダライラマのダライは、モンゴルの支配者アルタン・ハーン(1502‐1582)がデプン寺の僧院長を務めたソナムギャムツォに与えた称号で、モンゴル語で「海」を意味するそうである。他日のいくつかの催し物の後、30日には、ルゴンゲルポと呼ばれる「身替りの魔王」を追い払う式、つまり、追儺の儀式が行われるのである。

ポタラ宮 ラサ チベット

一人のラマがダライラマに扮し、民衆の一人が魔王に扮する。魔王は体の半分を白、半分を黒に塗る。魔王は家々を回ってその家の災禍を引き受け、かわりに寄進を受けて歩く。そして30日になるとダライラマに扮した僧の前に現われ、彼に向かってお前の五蘊はいまだ空ではないとか、お前の「漏」は存在に付着して苦の元になっているとか、宗教的な舌戦を繰り広げた後、クルミ大の骰子を振って勝負を着けるのであるが、魔王の骰子は全て「負」、ダライラマの骰子は全て「勝」に塗ってある。魔王は怖れをなして逃げ出し、その後を大勢の人々が追いかけ、矢を射たり鉄砲や大砲まで撃ったりするらしい。川の対岸の牛魔の山(牛頭山)の頂上のテントまで逃げ込んで、大砲を鳴らされると、さらに遠くへ逃げて一年先にならないとチベットには帰ってこれないのだという。魔王役には気の毒だが、かなり徹底した鬼払いの行事である。

チベットの他の土地では正月には男と女が二手に分かれ世界の創造をテーマに舞踏や歌唱を交し合う。いわゆる歌垣であろうか。この時、その土地に住む種々の階層の神々 (天神・地底神など) が、失神状態で歌っている霊媒に降りるのである。また、同じく世界創造のテーマや幸福祈願に洒落を交えながら歌を歌う専門家がおり、神性でありながら同時にいたずら好きな「白い悪魔」と呼ばれる専門家たちである。顔を半分白、半分黒に塗り分けピエロのような尖った帽子を被ったり、ヤギ皮製の三角の仮面をつけたり、劇団から語り手役の道化師がつける「猟師の仮面」を借りてきたりする。

正月祭りの特徴的性格の大部分は他の祭りにも見出される。大地の創造と先祖の系譜が言祝がれ、二手に分かれての歌の応酬や競技で、とりわけ演劇で土地神を喜ばせる。そうして、この神を守護神とする村に豊かな収穫が約束されるのである。この民衆の儀式で記録に残されたものがラダックにある。色々な舞踏や競技が行われた後の第11月の7日の夜、3人の仮面を着けた人物による舞踏が行われる。3人のうち2人は祖父と祖母と呼ばれるが第3の人物については何であるかわからない。最後に彼らが追放されて舞踏は終わる。人々が村に戻って、そこに宴席をもうける時には、祖父も祖母も護送されて村に戻るが第3番目の仮面の人物がどうなったかは分からないという。

チベットの旅芸人 狩人と姉娘役
photo A.W.Macdonald 
ロルフ・スタン著『チベットの文化』より

なかなかミステリアスで面白いのだが、寺院での仮面舞踏劇が大黒天(マハーカーラ)を主神として執り行われる事、もどき役がこの祭りには存在する事、身替りの魔王の追儺の儀式、民間レベルの祭りでは土地神へ奉納される演劇が豊作の予祝行事としての性格を持つこと、一部の祭りにおいては祖父母役と謎の人物の3人が登場する事などを考え併せると、日本における追儺や神楽などとの関係を考えてみることは価値があるのではないだろうか。多武峰(とうのみね)などでの修正会の鬼払いや東大寺二月堂の「お水取り」で知られる修二会で、鬼の役割をする摩多羅神や毘那夜迦という存在と大黒天とが関系していることは彌永信美さんの指摘にある。あるいは、土地神や3人の仮面の人物などと能の翁や三番叟などとの関係は興味深いテーマではないだろうか。

実は、スタン自身が本書の「日本語版への序」の中でこのことについて少し触れているのでご紹介しておこう。能の「翁」について、冒頭、謡われる「トウトウ タラリ」はおそらくチベット語ではないと思われる。だが、舞台を清め、福を招くものとして白い老人「翁」の面と黒い老人「三番叟」の面に対応するものとして、チベットには「白い悪魔」の面(白)と狩人の面(黒)がある。また、「千代」という言葉の長寿の観念もチベットでは、やはり二人の人物によって表される。演劇の神タントン・ギェルポは生まれた時から老子のように老人で色黒であり、今一人は「長寿の人」と呼ばれ、ある種の仮面舞踏に登場する白い老人であるそうだ。

最後は、チベットの文学、特に有名なミラレパの詩をとりあげたい。「歌!もしわれ新たに そを歌わざらんか、意味はいかでか心に入らむ。」

 

3.詩聖ミラレパ


 

チベットの語のリズム

歴史的なチベットの領域  チベット動乱は1956年に勃発、1959年にダライラマ14世の亡命

チベット語はその構造、その語彙からいって、ビルマ語や、ヒマラヤとシナ・チベット接境地帯に住む羌 (きょう) 族などの少数民族が話しているチベット・ビルマ語族の言語と関係があり、その語彙の一部は上古中国語にも近いそうである。そのチベット語で書かれた仏教文学は膨大なものであるらしいが、ブッダの言説に関するカンジュールと呼ばれる作品群とその注釈や概論、儀軌、歌などからなるテンジュールと呼ばれる作品群に分けることができる。これらの文献は、ほとんどサンスクリット語から訳されたものなので純粋にチベット的なものはないようである。

重要なものはチベット仏教の大著述家たちの作品であって、彼らは百科全書的な知識を持ち、その著述は歴史、文法、音韻、語彙、天文、医学、卜占、旅行などに及んだが、科学書と呼ぶべきものも少からずあったようだ。特に哲学、宗教、道徳に関するものは多く書かれた。文学に関するもので言えば、歌謡、詩歌、賛歌、韻文祈祷集、演劇作品、小説、叙事詩、物語などがあるが、一見、通俗的文学と見做しうるものも含めて実は宗教家たちの仕事であるとスタンは強調している。それは、編纂が12世紀以前にさかのぼらない現在知られている作品について言えることだ。ただ、11世紀初頭に敦煌の洞窟に収められてそのままになっていた数千の写本については別らしい。

敦煌文書に見出される文献、とりわけ詩歌は急速なりズムや強烈な生命感、擬音語の使用などを特徴としていてリズムと構成だけでその美しさの全てを創っていて、中国の詩経の形式にも似ていると言われる。この魅惑的な詩の表現形式について少しご紹介すると、例えば、キリリ kyi-li-li という言葉は女性の流し目、虹、雷に用いられる。キュルル kyu-ru-ru は笑い声や歌に、異なるキリリ khy-li-li は疾風や高波に、タララ tha-ra-ra は「雲」のように集合した兵士の群れや黒い毒に、メレレ me-re-re は群衆、大洋、星に用いられるという具合である。だが、まだ体系的な研究はないそうである。そして、その様なリズミカルな詩で後の最も注目すべき作品はミラレパの詩である。チベット仏教の四大宗派の一つ、カギュ派の祖マルパの弟子だった。

ダーキニー ブロンズに金メッキ 19世紀 チベット

また、形容語の問題がある。タントラのある種の現実を隠すためのベールをかけた謎の言葉、「ダーキニーの秘密の言葉」とも言われるものから影響を受けたと考えられるが、民衆の詩においては主語の前にあってある種の感動を表すものだった。それには2種類あり、一つは翻訳可能なもの、もう一つは隠語とか秘密の言葉で意味の取れないものである。例えば、翻訳可能なものでは、空に対して「青いもの」、大地や座に対して「四角いもの」、若い獅子に対して「三倍の力」などである。

そして、ミラレパにはないが大詩人、叙事詩、演劇に共通してみられる要素に言葉というより旋律を真似て口ずさむことによって歌の導入部とすることがある。例えば、アララとか、ショーニ・ライ・ショーオ・ライ・ショーオとか、ラヨ・ラモ・ラーヨーヤなどである。叙事詩には「歌はタラ・タラ・ラモ・ラリン、それはタラ・ラモ・ララ」というオノマトペがある。先にも述べたが、能の『翁』の冒頭で謡われる「トウトウ タラリ」を想起させるのであるが、これに関しては折口信夫さんがこう述べている。「河口慧海氏は、とうとうたらりは西蔵語だと言うて、翻訳されたが、これは恐らく、笛の調子であろう。」河口慧海は『西蔵旅行記』で知られている日本の僧である。

 

風狂の詩

ミラレパ(1052‐1135) 『ミラレパの生涯』部分

ミラレパはチベット訳されたインドのタントラ教徒の神秘的な歌(doha)の中に自分の韻律法の手本や、自分の歌謡の宗教的題材を見いだした。しかし、彼が最も偉大な詩人となり、かくも人気のある宗教家になったのは、この外国の手本を自国の土着の歌謡に巧みに重ねあわせ融合させたからだとスタンは強調する。彼は民衆の詩を模倣し、悪戯心もあってか、それを強調したのだ。自らを「瘋狂者」と称した。盛んに僧侶を愚弄し、「おんみたちの腹は高慢でふくれあがっているから、げっぷをすれば虚栄心が出、嘔吐をすれば嫉妬が出る。また、おんみたちは侮蔑という屁をひり、嫌味という糞をたれるのである」と述べた。傑僧である。

そこで、擬音的3音節が散りばめられた敦煌文書にも通じるような彼の詩をご紹介してみたい。

上には、南の雲がうずまき(khor-ma khor)、
下には、澄んだ川が波打つ(gya-ma gyu)、
ふたつの間を鷲が舞う(lang-ma-ling)。
千草の草々まじりあい(ban-ma-bun)、
樹々も踊りの仕草する(shigs-se-shigs)。
ミツバチは歌う、コロロ、
花はかぐわし、チリリ、
鳥はさえずる、キュルル。

このチベット語の詩をフランス語に翻訳したロルフ・スタンは意味と語感とを共に損なわずに翻訳するのは不可能だと言っている。叙事詩の中では賛歌の形式にすぐに取って代わられるので散文による説明部は短い。これらの歌は普通掛け合いになっているので主唱者はまず名乗りを上げなければならない。

いざいざ、愛(め)ずべき小童(こわっぱ)よ、
汝知らんむと思えるものよ、いざ、聞け。
わしがいかなる男と知るや。
もしこのわしを知らぬとならば、
グンタンのミラレパなるぞ。

という具合である。そして、おしまいは定型の文句によって閉じられる。

汝この歌を理解せばよし、
この一度(ひとたび)に、
これを得たれ。
汝、理解せざるとも、我は立ち去らんのみ。

チベットの獅子 ポタラ宮 ラサ

最後にミラレパの詩をもう一つご紹介して終わりたい。自然に対し、それを支配するものとして類型的に動物を挙げていくアイデアはミラレパの歌の中に初めて現われ、そのまま現在の民衆の歌の特徴となって残っているらしい。青緑色のたてがみを持った氷河の「白い獅子」、ちなみにチベットにはライオンはいない。この獅子はインド起源と考えられるが、正月の祭りで行われる獅子舞を考えるとイランの影響も考えられるという。それから、岩の上の「鳥の王者」鷲、森の中の「まだらもの」虎、湖の「金の目」である魚、などである。ミラレパが同時に用いた他の文法的な方法も、今日の民衆の歌の特徴となって残っているといわれる。

四つの悪魔を征服せる父、
翻訳僧マルパに 頂礼す。
我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 氷河の白い獅子の (まこと)その息子、
母の胎にて 全き「三倍の力」で身のつくられてありしこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 巣の戸口を 守り果つ。
一度(ひとたび)成長しとげたる今 氷河の上を歩み、
嵐の中もよろめかず、
底知れぬ穴にも恐れを抱かざり。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 鳥の王者 荒鷲の(まこと)その息子、
卵の中にありて わが翼のすべてひらきてありしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 巣の戸口を 守り果つ。
一度(ひとたび)大鷲となりたる今 天の頂を超え、
果てなき空もよろめかず、
狭き地上に恐るるぞなき。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 大魚「ゆらめく濤(なみ)」の(まこと)その息子、
母の腹にありて わがまろき「金の目」を具えてありしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 群れの先きを 泳ぎてわたれり。
一度(ひとたび)大魚となりたる今 大海原を廻游(へめぐ)り、
うねりの中もよろめかず、
魚網(さかなあみ)にも恐れを抱かざり。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 正伝の譜をつぐグルの(まこと)その息子、
母の胎にありて わが信仰の生まれたりしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 法にひたりて過しやり、
青春期(わかきひ)は 学僧として 学び果つ。
大瞑想家となりたる今 山の庵に通い、
悪魔に向かうもよろめかず、
あやしき魔術にも恐るるぞなき。

‥‥

 

チベットの文化


ダライラマ13世 (1876-1933) はイギリスに攻められれば、モンゴルに亡命し、中国に攻められればインドに逃れたが、チベットに帰還できた。しかし、14世は、未だチベットに帰れない。スネルグローブとリチャードソンは『チベット文化史』の中で1959年以来、中国人支配者たちは、チベット文明の主な源泉を破壊し尽くしたと言い、宗教的・貴族的社会秩序に続いて農民、牧畜民、商人の物質的、宗教的福利を破壊したのだと述べる。それはイングランドにおけるクロムウェルのアイルランド侵攻を彷彿とさせるものだという。文革での中国の文化破壊を考えれば、これは大げさではないだろう。

今では中国政府も文化の資本価値を再認識しつつあるのかもしれないし、youtubeなどを見ていると、いわゆるチベットオペラと言われるアチェ・ラモなどは劇場用にいささか無理にだが洗練され、わりとupされている。けれど、1959年以前の文化的基盤は二度と取り戻せないだろう。スネルグローブらは、むしろ、チベットに働きに出ていたネパールやブータンの職人たちの技術を伝承することが重要だと言う。とりわけ、ブータンは足早に消えようとしている一つの文明の唯一の代表であり、毅然として自足しているように見えると言うのだ。確かに、ブータンに残っていれば、将来的にチベットでの文化的復興も可能かもしれないのだが‥‥それには、当然ある条件が必要だろう。

 

宗教仮面舞踏チャム 約5分

 

 

 

引用文献 及び 参考文献

 

デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソン 1998年刊
『チベット文化史』 題名通り歴史的な部分にウエイトがある立派な著作。

『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモ三話 三宅伸一郎、石山奈津子 訳
チベットの伝統演劇を収録、レアな著書。特筆すべきは、チベットのこれら民間の歌舞劇の仮面は立体ではなく、板状の平面であることだ。

『チベット ポン教の神々』展カタログ
国立民族博物館編
ボン教は、ここではポン教という名称になっている。

クレチヤン・ド・トロワ「アーサー王 円卓の騎士の物語」part2 『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』

 

お正月も過ぎましたね。昔は、別火の物忌みとかでお正月は火を使わないというしきたりもあったようだけれど、僕の子供の頃にはなかった。広島では既に廃れてしまっていたのか我が家にはそういった習が無かったのか、よくは分からない。地方によって異なるのかもしれない。おせち料理は、主婦がお正月から働かなくてもいいようにと言う意味もあるのだと思うけれど、この物忌みのためだと言う人もいる。ともあれ新たな年神様を迎えるために門松を立て、鏡餅を供えるのだが、大晦日から元旦への夜は物も事も時も一旦死して新たな年が生まれるクライマックスだった。柳田國男さんなんかは、この来訪神は穀物神で山の神だと書いている。多分、はるかな昔は平地の田より水の管理が容易な山の棚田が主流だったのだろう。この山神様は、小正月にとんどの火を焚いて山に送られるのである。

ところで、かつてケルトの社会では、大晦日は10月の末日で、新年は11月1日だったそうだ。この古い年が死に、新しい年が目覚める大晦日の夜、彼らの神話では妖精の塚の扉が開かれて先祖の霊や異界の者たちがこの世に現れ、死者が未来を予言するのである。死者の訪れを待ち霊を供養する、これが、アイルランド・ゲール語で「夏の終り」を意味する「サウィン」の夜だという (鶴岡真弓『ケルトの想像力』)。今日のハロウィン (10月31日) の起源だ。しかし、旧と新、生と死が交錯する夜に新たに来るものは、冬の暗黒でもあったから人々は浄化の篝火を焚いた。この冬の始まりは、古い王が殺され、新しい王が現れるとされている。この万霊節の夜、アーサー王は従者を従え馬でタラの丘を一回りすると言う (井村君江『ケルトの神話』)。

 

夏目漱石 『薤露行』日本のアーサー伝説


 

最近では、アーサー王伝説と北東イラン系騎馬民族のスキタイやサマルタイの伝説との共通性を指摘する仮説が登場していて、東方起源説が取りざたされている。C・スコット・リトルトンとリンダ・マルカーの『アーサー王伝説の起源』という著書だ。「スキタイからキャメロットへ」という副題がついている。コーカサスのアラン人の祖先であるセット人の「ナルト叙事詩」にも近いとされているようだ。アラン人がローマの傭兵として雇われてガリアにその伝承を伝えたというものだが、日本にもちゃんと伝わっている。

王妃グニエーブル/仏 (グエヌエラ/羅) ドラ・カーティス画 1905

「百、二百、群がる騎士は数をつくして北の方なる試合へと急げば、石に古りたるカメロットの館には、ただ王妃ギニヴィアの長く引く衣の裾の響のみ残る。薄紅の一枚をむざとばかりに肩より投げかけて、白き二の腕さえあからさまなるに、裳のみは軽く捌(さば)く珠の履 (くつ) をつゝみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。」

なんか、格調高い。英国留学の手土産にアーサー物語を夏目漱石は、こう綴った。その名も『薤露行/かいろこう』である。トマス・マロリ― (1399-1471) のアーサー物語は、簡素素朴で良いけれど、小説としては散漫だから自分はより小説に近いものに改めたと漱石は書いていた。大人の小説にしたかったのだろう。それに、アルフレッド・テニソン  (1809-1892) の『王の牧歌』の影響は大きかったと言われる。

題名の『薤露行』の薤露』は、漢の田横が自死した時に門人がこれを傷んで作った哀歌である (『楽府/がふ)。人の命は、薤 (かい/らっきょうや大ニラ) の葉の上の露のように儚いことを指していて、「人死んで一たび去り何時か帰る」と詠われていた。薤露行というのは葬送行進曲のことだろうか。

漱石はそんな感じの小説にしたかったのだろう。漢籍の素養の豊かさが偲ばれる。テーマは貴人の葬送であり、古代の中国と中世の英国とが死を媒介に反響し合っていると『漱石とアーサー王伝説』の著者、比較文学者の江藤淳さんは書いている。罪と愛の甘美に身悶えするランスロットとアーサーの王妃ギニヴィアとの禁断の絆は悲劇を呼ぶ。因みにギニヴィアはグニエーブル/仏の英語読みである。

ランスロットへの報われぬ愛に身罷ったエレーンが乗せられた舟が波に揺蕩 (たゆた) う時、シャロットの妖女の悲しき声が「うつせみの世を、‥‥‥うつつ‥‥‥に住めば‥‥‥」と尾を引いて消えた。最終章には、こんな葬送の件 (くだり) がある。最も美しい、涼しき顔を、雲と乱るる黄金の髪に埋めて、笑える如く横たわるエレーンの屍を載せた舟は杳然 (ようぜん/遥かに遠く) として何處ともなく去っていく。この葬送の舟は、彼女の魂を異界の扉へと導いていくようだ。

 

そもそもどうして円卓なのか ?


 

 ウァース『ブリュ』の円卓

日本に飛び火するほど感染力の強い「アーサー王と円卓の騎士」だが、ファンタジーものの偉大な源流の一つと言っていい。『里見八犬伝』とか『水滸伝』なんかもそうだけど、何人かの登場人物にそれぞれ物語りを割り振って色々な冒険譚を創り上げ、それらを一つの環に繋げて壮大な物語集にしていくのは、なかなか興味深い手法だ。しかし、何故、円卓なんだろう。この頃の宮廷では円卓が流行っていたのだろうか?

『ランスロットと聖杯』15世紀 写本 五旬節を祝うために集うアーサー王と騎士たち

どうも、円卓のもともとの起こりは、ノルマンディーの学僧ウァースが、part1でご紹介したブリタニア版の『アエイス』といわれる歴史物語、ジェフリー・オヴ・モンマスが書いた『ブリタニア王列伝』を翻訳・翻案した『ブリュ物語』の中で高貴な武将達が自分こそ最高の騎士であると言い張って譲らないために上席権争いの調停として円卓を設定したことによるらしい。前回と同様、アーサー王伝説の研究の第一人者であるジャン・フラピエの『アーサー王伝説クレチヤン・ド・トロワ』からご紹介する。名著だ。

ウァース(1115頃ー1183頃)『ブリュ』1155

ウァースは、ウェールズかアルモニア生まれの学僧であると言われている。この『ブリュ』は1155年に完成し、プランタジネット朝のヘンリー2世の妻だったアリエノール・ダキテーヌに献呈されたもののようで、正式には『ブリトン人の偉勲』と題されたものだった。フラピエによれば、『ブリュ』の名称は、ブリタニアの創始者ブルートゥスに由来するらしい。この作品は、先行するブリタニア王列伝』の翻訳ものの群を抜いてしまった。

これら翻訳ものは、ジェフリーの作品を基にしているもののウェールズ語に訳す時に、その固有の名前や伝承のディテールを挿入していて、ある種の改変があるらしい。一つの言語から別の言語に移し替える時、多くの名前は音声学的な法則の枠内で歪められる運命にあるとフラピエは言う。例えば、ラテン語の「エウゲニウス」は、ウェールズ語で「オウェイン」Owainとか「イウェイン」Ywainとなるけれど、「y」は「i」と発音されるために「イヴァン」の綴りがあらわれるのだと言うのである。なるほど。

ウァースは、ジェフリーの作品の中の素材に対しては、ほとんど手を加えなかったが、ラテン語の散文『ブリタニア王列伝』にユーモアを加え、軽快で生命力あふれた八音綴りに訳しかえているという。とりわけ頭語、単語や文章のリズミカルな繰り返しと対句や交叉配列を取り混ぜて、後のクレチヤン・ド・トロワの作品に少なからず影響を与えたと考えられている。文章の見た目はかなり変わったはずだ。ともあれ、ジェフリーの作品やウァースの翻訳によってアーサー王伝説の信憑性は、いやが上にも高められた。この二人のおかげでアーサーはシャルルマーニュやアレクサンドロスと同格の地位を与えられるようになったのである。

 

ロベール・ド・ボロンマーリン』に登場する円卓

悪魔が郷紳の三人の娘を篭絡しようとする。下の二人の娘は簡単だったが、上の姉は、聴聞司祭にも教えをうけるような善良で信仰厚い女性だった。そこで悪魔は、夢魔を呼んで姉が眠っている隙に、交わらせた。姉は知らぬうちに悪魔の子を身ごもる。司祭は彼女に告解と改悛をさせ、金曜日に一日一食とする贖罪の行を課し、娘はそれによって救われた。子供は悪魔の力によって過去の全てを知る能力を得、キリストによって未来を見通す力を与えられ、この世で最も賢い預言者となった。その子の名をマーリン/英 (メルラン/仏) と言った。魔術師マーリンの誕生である。聖俗の両極端が結びついた存在なんて、なんかユングとか喜びそうだ。

ロベール・ド・ボロン『メルラン』13世紀写本
夢魔に犯される姉

マーリン伝説は、もともと、ケルト系の「森のマーリン」とサクソン人に抵抗したアンブロシウスの系統の二つに分かれると言われている。既にpart1で紹介したネンニウスの『ブリトン人の歴史』には、夢魔にはらまされた父のない子として描かれ、搭が建てられる土台の下の壺が語られ、その中の天幕にある白い虫と赤い虫の戦いが述べられる。ブリトン人とアングル人との戦いが、この二匹の虫に象徴される龍の戦いの逸話として書かれている。その子の名はアンブロシウスと言うのである。このネンニウスの逸話を引き継いだロベール・ド・ボロン(12世紀後-13世紀前) が1210年頃書いた作品が、この著書『メルラン』(邦題は『魔術師マーリン』) で、1170年頃書かれた今からご紹介するクレチヤンの『聖杯の物語あるいはペルスヴァル』の後の作品となる。その中でマーリンをパンドラゴン王とその後を継いだ弟ユテル (後にユテル・パンドラゴンと名が改まる) の相談役となって次々に預言を行う聖者のような存在に設定している。ユテル・パンドラゴンがアーサー王の父となるのである。

アリマタヤのヨセフ サン・ジャン教会 フランス

アリマタヤのヨセフはキリストの遺体を引き取った人物だった。ローマ軍によってエルサレムが破壊された後、一族の者らと共に砂漠の荒野に向かった。この時、ひどい飢餓に見舞われ、キリストに何故そのようなことが起こったのか解き明かし給へと祈った。主は最後の晩餐で裏切ったユダの席が空白となっていることを明かし、この第一の卓に真似た第二の卓を設けるように指示したのである。そこに御自分の杯を置き、この席に座るものには心の充溢が与えられると教えた。空腹と聖杯が結びつけられていることをご記憶願いたい。

ユダの空席に坐るべきものはアリマタヤのヨセフだった。彼は、伝説ではブリテン島に渡るのである。マーリンは、このような卓をウェールズのカーデュエルに設えることをユテル・パンドラゴンに提案する。50人の騎士が参集したが、その中の一つの席が空いていた。面識のなかった彼らは、まるで親子のように互いに愛しあったという。ボロンのこの作品では、円卓は、このユテルから始まる。

しかし、その空席に座ろうとしたものは消えてなくなるのだった。この空いた席の秘密をマーリンはこう語った。そこに坐るものの父親は、まだ妻を娶っておらず、卓の完成は次代の王の治世となる。この席に着くものは、その前に聖杯の卓の空席に着かねばならず、聖杯の守護者たちは未だ、そこが埋まることを見たことがないと。次代の王とはアーサーを指していて、クレチヤンの『聖杯物語』を補完する形になっている。

 

聖杯の物語あるいはペルスヴァル』グラアルとは何か


 

ペルスヴァルの出自とアーサー王の宮廷

さあ、聖杯の物語あるいはペルスヴァル』に入ろう。フランドル伯フィリップ・ダルサスに捧げられたクレチンの未完の作品である。ダルサスに「聖杯物語」の掲載された書物を与えられ、これまで宮廷で書かれたものの中で最高のものを韻を踏んで書くのだとクレチアンは述べている。漱石みたいにやる気満々だった。後世に語り継がれる一つの神話といってよいものを形成することになるのである。この物語によって、聖杯という言葉の周囲に、何世代にも亘る思想や感情、夢が結晶化していくとフラピエは述べている。確かに ! 

フランス中世文学集2 愛と剣
クレチン・ド・トロワの『荷車の騎士』、『聖杯物語』、マリー・ド・フランス、ジャン・ルナールの著作収載

ペルスヴァルは、無垢な野人として登場する。騎士となった兄二人は戦死し、アーサー王の父であるパンドラゴンに仕えた騎士である父親は、その知らせを受けて気を病んでみまかった。母は、ペルスヴァルに騎士というものに一切触れさせないように育てたが、ある日、アーサー王を尋ねる騎士の一団に巡り合ってしまう。こうして、この無垢で素朴な若者は、それが定めであったかのようにアーサー王の宮殿に向かうのである。その後ろ姿を見ながら母が気絶するのを彼は見る。彼女は、しばらく後に亡くなってしまうのだが、そのことをペルスヴァルは知らない。

アーサー王の宮廷へ行く途中、テントの中の乙女と出会う。礼儀を知らぬこの若者は、母親に教えられた通りに挨拶し、接吻し (物語によれば7回)、指輪をもらい (奪い)、ご馳走を勝手に食べ、乙女に神の祝福があるようにと挨拶して立ち去った。この間、乙女の意思など全く注意を払われた気配すらなかった。乙女は後で恋人にひどい目にあわされることになる。

宮廷に到着したのは、カンクロワの森の真紅の騎士が、アーサー王の領土を要求し、彼の盃を奪い、その拍子に妃の頭の上に酒をそっくりぶちまけると言う乱暴狼藉を働いた後だった。ペルスヴァルには、そんなことは、どうでもよかったので騎士にしてくださいの一点張りだった。執事で口汚いことで知られるクーが、真紅の騎士の武具甲冑を奪ってくればいいと言った。ペルスヴァルは、真紅の騎士を追いかけて、甲冑を早く脱げと要求する。怒った騎士は、穂尖のついていない方の槍先で肩を激しく突いたのでペルスヴァルは馬の顎のあたりまで突っ伏した。騎士の恰好をしてない相手を脅かしたつもりだったのだろう。しかし、ペルスヴァルは真紅の騎士の目に向けて短槍を放つと、刃先は目から脳髄を刺し貫いて首の反対側へ血と脳漿と一緒に飛び出た。様子を見に来たアーサー王の騎士イヴォネに手伝ってもらって真紅の騎士の鎧兜を着けてもらい、武器と馬を頂戴し、アーサー王の金の盃をイヴォネに返してくれるように頼むのだった。

ゴルヌマン・ド・ゴールという有徳の士がペルスヴァルに騎士としての技や嗜みを教え、饒舌を避けるようにと注意を与えて彼を送り出した。敵に包囲されて餓死の危機に会うブランシュフルール姫を救い、やがて深くて速い流れの川で病身の漁夫王が気晴らしに釣りをしている光景を見る。その王の城に迎え入れられると、金髪の乙女が携えて来たという、運命づけられた剣を贈られる。そして華麗な広間で豪華な食事が始まった。

聖杯と漁夫王の城

ブルターニュものとケルト神話には基本的なテーマの類似はある。人と妖精との恋、魔法の武器や豊穣の釜、客人への歓待、物忌み、奇妙な姿への変身、そして、とりわけ他界への旅である。ケルト人の他界は西の海の極楽浄土の島、海面下の楽園、地中の宮殿といった場所だった。他界の冒険に参入できるのは、恐怖と謎に満ちた試練を乗り越えることの出来る英雄か、妖精に連れ去られる恋の幸運に恵まれる者だけであった。これがアーサー王の物語の中では、封建社会の騎士道や宮廷風といった衣装の下に隠れはするが、幻想の魅惑をその文学に与えることになるのである。

クレチヤン・ド・トロワ『聖杯物語』14世紀 写本 漁夫王の城のペルスヴァル

「室内は、館の中を蝋燭のあかりで照らしうる最大限の明るさで、とても明るかった。二人があれこれと話し合っている間に、とある部屋からひとりの小姓が、白銀に輝く槍の、柄の中程を持って入ってきて、炉の火と寝台に坐っている二人との間を通った。そして、その場に居合わせた人たちはみな、銀色の槍、銀色の穂尖を見、一滴の血が槍の尖端の刃尖から出てきて、小姓の手のとろまでその赤い血は流れ落ちた。その夜そこへ来たばかりの若者は、この不思議を見て、どうしてこんなことが起こるのか、尋ねることを差し控えた。(天沢退二朗 訳)」

ペルスヴァルに騎士道を教えたゴルヌマン・ド・ゴールが、彼に教えた忠告は、「あまりしゃべり過ぎないように気をつけよ」ということだった。

「そのとき、また別の小姓が入ってきた。手には、それぞれ、純金で、黒金象眼を施した燭台を捧げていた。この、燭台を持ってきた若者たちは大変に美しかった。それぞれの燭台には少なくとも十本ずつの蝋燭が燃えていた。両手で一個のグラアルを、一人の乙女が捧げ持ち、いまの小姓たちと一しょに入ってきたが、この乙女は美しく、気品があり、優雅に身を装っていた。彼女が、広間の中へ、グラアルを捧げ持って入ってきたとき、じつに大変な明るさがもたらされたので、数々の蝋燭の灯もちょうど、太陽か月が昇るときの星のように、明るさを失ったほどである (同上)。」聖杯=グラアルの登場である。

グンデストルップの大釜 前1世紀 ラテーヌ期
銀製 デンマーク国立博物館 グンデストルップ出土 豊穣の釜のイメージを彷彿とさせる。

「その乙女のあとから、またひとり、銀の肉切台を持ってやってきた。前を行くグラアルは、純粋な黄金でできていた。そして、高価な宝石が、グラアルにたくさん、さまざまに嵌めこまれていたが、それらはおよそ海や陸にある中で、最も立派で最も貴重なものばかりだった。まちがいなく、他のどんな宝石をも、このグラアルの石は凌駕していた。さきほど槍が通ったのとまったく同じように、行列は寝台の前を通りすぎて、一つの部屋から次の部屋へと入って行った。若者は、それらが通りすぎるのを目にしながら、あえて訊ねようとしなかった、グラアルについて、誰にそれで食事を供するかを (同上)。」

この聖杯には聖体が入っており、それに血の滴る槍となれば、キリスト教の秘跡や儀式と結び付けるのは容易だ。槍はキリストの脇腹を突いた兵士ロンギヌスの槍であり、杯はキリストの血を受けた聖杯と考えるのは自然なことではある。ロンギヌスの槍をアニメ、エヴァンゲリオンのオリジナルだと思ってはいけません。しかし、フラピエは、「グラアル」という名称が使われるのは聖杯や聖体器にはそぐわず、驚きだと言う。次に肉切台が出てくることからグラアルは食器の一つではないかと言うのである。

ジャン・フラピエ
『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』アーサー王伝説の原型を知る上で貴重な著作である。

12世紀中盤に書かれた、シャルル2世と戦った9世紀のブルゴーニュの族長ルシヨン武勲詩『ジラ―ル・ド・ルシヨン』には大杯や鉢、などの他に金ラメのグラアルが挙げられているとフラピエはいう。また、12世紀後半に書かれ、アレキサンダー大王を扱った『アレクサンドル物語』には「相手とともにグラアルで食べた」という記述が登場するらしい。13世紀の年代記の著者エリナント・ド・フロワモンは、「グラアル」が当時意味していたものの一つとして、次のように述べている。グラダリスあるいはグラダレとは、広くて些か窪んだ器を言うフランス語で、高級な料理を肉汁と一緒に入れて順番に裕福な人の前に給仕するための器だと。俗にグラールツとも言う。

後の、隠者とペルスヴァルとの会話では、謎を解く隠者が、お前が槍やグラアルについて尋ねなかったのは、お前の出奔のためにみまかった母への罪ゆえだと語る。そして、かのグラアルで給仕を受けているのは漁夫王長者の息子にちがいない、そのグラアルの中にあるのはカワマスやヤツメウナギやサケではなく聖体なのだと明かしている。魚はキリストの象徴でもある。

ケルトの神話にもまた槍や豊穣の器の話が伝わっている。それは異界の護符としての火の槍になったり、赤く血に染まった槍となり、復讐や破壊の恐るべき道具となる。英雄ブランの物語は、漁夫王の話と平行な部分があるとフラピエは言う。異界の王、海神であり、不思議な鍋と豊穣の角を持つ。そしてまた、戦闘中、槍によって負傷し、統治を断念した王でもある。わりと似た話は、マビノギの第二の枝『スリールの娘ブランウェン』にあるアイルランドの大洋周航が城の濠や川を渡ることに縮小され、異界の宮殿の不思議は深い川のほとりに忽然と現れ、住人は説明のつかない形で消え失せる。漁夫王の城は、中世のそれと言うよりアイルランドのタラの王宮や異界の神が主人であるブリュイデンの宴の間といったものが相応しいという。

アーダの聖杯 8世紀 銀製、金、金銅など アーダ砦出土 アイルランド国立博物館

1952年の『アーサー伝説と聖杯』の中で、ジャン・マルクスは、こう述べている。かつて、異界の王の魔法の城の周辺は特別に肥沃な地だった。しかし、王の護符の一つであった魔法の武器 (槍や剣) によって、邪悪で苦痛に満ちた一撃を加えられた王は男性の機能を、あるいは生命を失い、その地は「荒地」となった。この災害は地上の城にも影響を与えることになるだろう。地上の宮廷から出発する聖杯の探索とは、不毛と死とに脅かされている異界の呼びかけに答えるものである。選ばれた者である主人公は、聖杯の城に入ってゆき、試練に打ち勝ち、邪悪な一撃による王の苦痛を取り去り、病身の王を治癒し土地に豊饒を取り戻すなら、自ら聖杯と異界の王となると言うのである。

フラピエは、我々が知っている『聖杯物語』とは、妖精界や魔術的な不可思議に属する要素を、キリスト教的な要素とまぜあわせていると述べている。ここには、かつてのケルトの伝承に関わる、料理をふんだんに生み出す魔法の鍋、酒やネクターを尽きることなくたたえる大甕、それらの延長線上にあるグラアルとキリストの秘跡による聖杯とが結びついたと考えてよいのだろう。行列の場面の周囲に広がる曖昧な雰囲気、聖と俗のまじりあったあの明暗は、二つの異なった構造を重ね合わせ、クレチアンの完璧な才能と華麗な主題の恵みによって詩的創造に結晶したとフラピエは強調するのである。

 

生命の聖杯と言葉の槍


 

このペルスヴァルの物語における「荒地」が、トーマス・スタン・エリオットの畢生の詩『荒地』のタイトルとなったことは、T.S.エリオット part1 『荒地』リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリックに述べた。ペルスヴァルの沈黙によって王の傷は癒されることなく、城の人々は消え失せるのである。彼はキリストの教えに背いて5年の放浪を続けて、とある隠者のもとに立ち寄り、回心する。そして、対位法的に進行するゴーヴァンの物語がアーサー王の母の住む城への到着と次なる展開が生み出されようとするところでクレチヤンの寿命は尽きた。荒地となった漁夫王の土地は回復するのだろうか。アーサー王伝説の源『ブリタニア王列伝』のアーサーは、アヴァロン島に向かったままその消息は明らかにされなかった。クレチンの死によってペルスヴァルの行へもまた謎のまま残されるのである。

死と生が交差するサウィンの夜、ケルトの民は食べ物を供えて先祖の霊や死者たちを供養したという。そのとき、死者の霊たちから生命の活力を授けられたのである。今日、ハロウィンに子供たちにお菓子を与えるのはその名残だと言う。このケルトの本源的交換と食べ物を生み出し続ける豊穣の釜=グラアルは、人間の罪故に殺され復活したキリストの象徴としての聖杯に重ねられた。クレチアンは、その巨大な二つの碁層を物語という言葉の血が滴る槍で諸共に突き刺したのである。死にかわり、生きかわる人間の生命の根源に達するまで。

 

参考図書 及び 引用文献

 

江藤淳『漱石とアーサー王伝説』1975年刊

『マビノギオン』「スリールの娘ブランウェン」「エブロウグの息子ペレルディルの物語」収載

ロベール・ド・ボロン 西洋中世奇譚集成 『魔術師マーリン』  2015年刊

ネンニウス『ブリトン人の歴史』最古のアーサー王に関する文献。ラテン語名アルトゥスという指揮官として登場する。

C・スコット・リトルトンとリンダ・マルカー『アーサー王伝説の起源』

 

 

クレチヤン・ド・トロワ「アーサー王 円卓の騎士の物語」part1『獅子の騎士イヴァン』

 

アーサー・ラッカム(1867-1939)画
『夫のもとへと騎乗するア―サー王の王妃グ二エーヴル』

血統を誇り、武芸に秀で、宮廷風な雅を備える騎士たるものは、その言葉遣い、振舞い、センスの良い衣装、戦いにおける勇猛と深慮、忠誠心と寛大さと気前の良さを併せ持たねばならなかった。でも、これって、ちょっとハードル高いんじゃないのかな。光源氏の雅と義経の武門の誉を併せ持てといわれれば、どんな男性だって引いてしまうでしょ。

そして、生来の高貴な気高さと秘かな想い、他を抜きんでた類 (たぐ) 稀な魂と肉体の美、これらの資質を有する者が、あらゆる徳を照らす貴婦人・王妃である。清少納言の才知を持てと言われないだけ良いのかもしれない。でも、これが「宮廷風」と呼ばれるものの理想だった。

これに加えて宮廷風の主人公は、恋をしなければならなかった、これは義務だったのである。宮廷風の完成には恋は欠かせなかった。仕えるべき高貴な貴婦人や乙女が必要だった。意中の人を前にし、あるいは彼女を思うだけで宮廷風騎士は高揚した「喜び」に貫かれる。この「純愛」は、中心思想 (サン) となり、中世における最も独創的な創作物となったとジャン・フラピエは語る。例えば、こんな感じです。

「このように彼女がランスロに対して大きな愛を感じていたとすれば、彼のほうもまた、その何倍も深い愛を彼女に対していだいていたのである。‥‥今度こそはランスロは望めるだけのものはすべて手にいれることができた。それというのも王妃は彼が傍にかしずき、愛の奉仕を捧げるのを許し、彼は彼女、彼女は彼を互いに腕にかき抱いたからである。この抱擁はまことに甘美なもので、それは接吻と互いに触れ合う五感から来るものであったが、間違いなく、これほど深い喜びが、かつてあったことも語られたこともないほど深いものであった。しかし、筆にすべきでないことについては、いつまでも沈黙を守るとしよう。(クレチヤン・ド・トロワ『ランスロまたは荷車の騎士』神沢栄三 訳)」

高踏的にならず素朴すぎもせず、中庸な感じの描写が好ましい。これは、確かに甘美な悦楽ではあったが、不倫だった。このクレチヤンの物語は、aa、bbと二行ずつ韻を踏む、中世の詩としては標準的な八音綴平韻の形式で書かれていて13世紀フランスの『薔薇物語』同じ形式だけれど、愛の神がそのまま登場するのとは異なり、擬人化といった寓意の手法は表立ってあらわれてこない。

 

バターシーの盾(BC 350-50)テムズ川、
ロンドン出土 青銅製  筆者撮影

紀元前450年からローマによって征服されるまでの紀元前1世紀、既にヨーロッパは鉄器の時代に入っていたが、チェコからオーストリア、西南ドイツから東フランスまでの地域に栄えたラ・テーヌ文化の主役はケルト族だった。この時代、ブリテン島に渡った彼らは、ローマと闘いながらスコットランドやウェールズ、アイルランドに逃れ、ローマ帝国の支配を拒んだ。

5世紀にゲルマン諸族の中のサクソン族がブリテン島に侵入する。その異敵と12回もの合戦を戦った最高司令官はアルトウスと言った。8~9世紀に歴史家ネンニウスは『ブリトン人史』の短い章にそう書いた。アーサー王のラテン語名である。ある程度ローマ化され、キリスト教化されたケルトの子孫たちは、ゲルマン諸族に追われてブリテン島南部、いわゆる南ブリタニアから再びウェールズやアイルランドに逃れた。ある者たちはブリテン島の南西の端、コンウォールへと、ある者たちはフランスに渡りアルモニアの地、今日のフランス北西部であるブルターニュの地に定着した。

アーサー王物語の端緒は、1136年にジェフリー・オヴ・モンマス (ジェフロワ・ド・モンムート/仏) が書いた『ブリタニア王列伝』と言われている。モンマスは、ウェールズかアルモニア生まれの学僧、つまりローマ教会のスコラで学んだ知識人だった。彼は先行するいくつかの歴史書を史的な価値とは無関係に自由に文学の材料として使った。こんな歴史書たちだ。

ギルダス『ブリタニアの破壊と征服』6世紀
ベーダ『イギリス国民教会史』731年
ネンニウス『ブリトン人史』8世紀 (9世紀)
ウィリアム・オブ・マームズベリ『イギリス王実録』1125年 など

これらの歴史書からの乏しい情報を巧みにつなぎ合わせ、そこに空想力を存分に働かせて12巻ものラテン語の散文に書き綴った。ことは、トロイが陥落して三世代後の執政官であるあのブルートゥスが大ブリテン島までの航海に出発することから始まりブリタニア独立の終りまでが語られる。ブリタニア版の『アエイス』だった。とりわけ、9巻と10巻にアーサー王の権勢とその栄光が綴られている。

 

ジェフリー・オヴ・モンマス 『ブリタニア王列伝』のアーサー王


 

『キリスト教の英雄タぺストリー』1385年
9人の王位継承者の一人としてのアーサー王

ここからは、ジャン・フラピエ (1900-1974) の『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』から適宜ご紹介していきたい。アーサー王伝説の最良の解説書の一つだ。ソルボンヌの教授を務め、国際アーサー学会を結成した人として知られる。著書によってはクレチアンやクレティアンといった訳語の表記が異なるがクレチヤンに統一させていただいた。

予言者であり魔法使いのメルラン (マーリン/英) の魔法によってコンウォール公に化けたユテル・パンドラゴン (ユーサー・ペンドラゴン/ウェールズ) が、公の夫人イグレーヌと交 (か) わした一夜の愛の契りによってアーサーは生まれるとジェフリーは書いた。『ブリタニア王列伝』のアーサー王の物語は、歴史の埒外に、ロマネスクでケルティックなファンタジーに仕立てられたのだ。

アーサーの武具は、父王パンドラゴンが戦いの印としたドラゴンを頂く金の兜、聖母の描かれたプリドウェンの盾、アヴァロン島で鍛えられた剣カリブルヌス/羅 (エスカリボル/仏、エクスカリバー/英)、そしてロンと呼ばれる槍であり、全てケルト起源の言葉のようだ。15歳で即位し、その武勇と寛大さで貴族を見方につける。サクソン人を破ってブリタニアを奪回、アイルランド、アイスランド、ノルウェーを征服し、ローマの司令官フロロの頭を真っ二つにしてパリに入り、ガリア全土の支配者となる。

アーサー王の王妃は、グエヌエラ (グニエーヴル/仏) と言う名で、ローマ貴族出身の大ブリテン島一の美女という設定となっている。ケルト語の「白い幽霊」、つまり精霊を指す言葉のようだ。アーサーはガリア征服の後、帝国の支配者となり大ブリテン島で戴冠式を挙行するが、ローマから服属せよとの書状を受け、再び、ローマとの対決を決意する。フランス、シャンパーニュのシエジア平原でローマ軍を打ち破ったのも束の間、甥でゴーヴァンの兄弟にあたるモルドレの王位簒奪と王妃グエヌエラ の背信の知らせを受ける。

ブリタニアに戻ったアーサー王は熾烈な戦いを制してモルドレを討ち取った。542年の事とされる。しかし、ゴーヴァンは戦死し、王自身も瀕死の重傷を負った。そして、手当のためにアヴァロン島に運ばれ、話は終わる。このたった二行の余韻が凄まじかった。生きているとも死んだものとも分からない王の消息はここで途絶えるのである。その後のアーサーはどうなったのか ?  この物語は、200もの写本が作られ、瞬く間に俗語に翻訳され、それを契機に『アーサー王物語』のヴァリアント群が形成されていった。こうして、アーサー王は、英・仏にまたがる地域で家臣に囲まれたヤマトタケルになったのである。

 

クレチヤン・ド・トロワ


 

12世紀は中世の春である。人文主義が芽吹く時代だった。この世紀の中葉、北フランスに宮廷文学が出現する。中世の多くの作家たちの生涯は、ほとんどがよく分かっていない。いくつかの詩や『エレックとエニッド』『クリジェス』『ランスロットまたは荷車の騎士』『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』や『獅子の騎士イヴァン』といった物語を書いたクレチヤン・ド・トロワもその例外ではなかった。おそらく、シャンパーニュ地方のトロワの出身と考えられている。学僧としての教養は身に着けていて、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (1160頃-1220頃) は、彼を「マイスター・クリスチャン・フォン・トロワ」と呼んだが、司祭にはなっていないようだ。

ベルグソンの高弟であったアルベール・ティボーデ (1874-1936) は、「中世の物語、それは学僧と、その言葉を聞く貴婦人である」と述べたと言うが、当時、在俗司祭や修道会員の他に司祭ではない学僧や落伍した放浪学僧たちがいた。この学僧たちは教養で身を固め宮廷へと入っていった。シャンパーニュ伯妃のマリー・ド・フランス (マリー・ド・シャンパーニュ) といった貴婦人たちが耳を傾けた相手は、このような学僧たちであった。

クレチヤンはウェルギリウスやオウィディウスの影響を受けたが、古典の摂取にとどまることなく、そこから引き継がれた教養を騎士道に結びつけることに腐心した。このような総合が宮廷風人文主義の原理、つまり、一つの文化を理想的な生きた姿にすることを可能にするのである。マルク王と金髪のイズーといったブルターニュの伝説に触発され、南フランスの恋愛の詩歌カンソ、北フランスのシャンソンといった複雑な技術をものにしていたという。それに、アリストテレスの影響が浸透するまでは聖書の解釈から導き出される象徴性は、重要な中世の「知的用具」だったとフラピエ は述べている。別の「知的用具」として、次のような例もある。

フランス中世文学集2 愛と剣
クレチヤン・ド・トロワの『荷車の騎士』、『聖杯物語』及び、マリー・ド・フランス、ジャン・ルナールの著作を収載

「御坊様、とかれは言う、なんと五年もの間、わたしは自分を見失っておりました。神を愛さず、神を信じませんでした。ひたすら悪をのみ為しておりました」

「ああ ! 友よ と立派な人は言った、聞かせていただきたい、何ゆえそのようなことをなされたのかを。そして、神に祈られよ、罪人の魂を憐れみ給うように」

「御坊様、漁夫王の館に一度私は赴き、槍の穂尖が、疑いもなく、血を流すのを見ました。そして、その血の滴が、白銀の刃の尖端に結ぶのを見ながら、何ひとつ質問をしなかったのです。以来、わたしは全く、改悛しませんでした。また、わたしが目にしたグラアルについても、それで誰に食事が供されたかを知らないのです。そんなわけで、以後、わたしは大変に心責(さいな)み、いっそのこと死んでしまいたいと思い、それで神さまのことも忘れたのです。以来、神に御憐れみを乞おうともせず、何ひとつしませんでした、わたしにも御憐れみを受けるに値するとわかっている何も」(クレチヤン・ド・トロワ『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』天沢退二郎 訳)」

このような聖職者や隠者との会話は、ある種、物語の解説の役を担っていて、その展開に、時折重要な役目を果たしている。後の13世紀の作者未詳とされる『聖杯の探索』では、宗教的な要素が、かなり強まっていて、シトー修道会に関わりがあると思われる作者は、この手法を多用しているのである。

 

『マビノギオン』とアーサー王伝説


 

ジャン・フラピエ  1988年刊
『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』

ケルト族が住んでいたアイルランドの口承文化は5世紀にキリスト教が伝えられて、その地の異教とキリスト教の融合したものになっていった。そこは諸々の伝承が媚薬のように混ぜ合わされる島だったとフラピエは述べている。最古のケルト伝承は10世紀から12世紀にかけてのアイルランドの写本に残されていた。

このアイルランドの伝承は交流の絶えなかったウェールズへと伝わり『マビノギオン』という果実を生んだ。短いものはマリー・ド・フランスの『短詩』に、長いものはクレチヤンの物語に似ているという。その成立年代の予測には幅があって11世紀から12世紀が一般的な意見のようだ。

この『マビノギオン』の中の『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』はクレチヤンの『獅子の騎士イヴァン』に、『エルビンの息子ゲライントの物語』は『エレックとエニッド』によく似ている。一方、『エヴロウグの息子ペレディルの物語』は『聖杯物語』に近いが、長虫退治があったり、コンスタンティノープルの女帝などが登場して多々異なる点がある。最も大きな違いは聖杯=グラアルがあらわれないことである。これらの物語の類似について、おそらくケルトの共通の素材を典拠としたのではないかとフラピエは考えている。とりわけ、『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』は、ウェールズ人によるアーサー王文学の傑作だと彼は言う。

ケルト人とフランス人が接触したのはブリテン島のコンウォールとウェールズ及び大陸のノルマンディーやそれに接するアルモニカ (フランスのブルターニュ地方) であった。ブリテン島を大ブリタニア、フランスのブルターニュは小ブリタニアと呼び習わされていた。ちなみにアルモニカはローマ人たちの呼び名である。

11世紀にはノルマンディー公ギヨームが、イングランドに侵攻し、イングランド王ウィリアム1世となった。その後、フランスのアンジュ―伯が王位を継承、英仏海峡にまたがるアンジュ―帝国が形成される。ジェフリー・オヴ・モンマスの『ブリタニア王列伝』のフランス語訳は、いにしえの記憶を保全したいとと考えていたノルマンディー・アンジュ―家のイギリス宮廷のためのものだった。この時代を含めてプランタジネット朝と呼ばれる時代が14世紀まで続いた。

この頃、フランスのノルマンディー地方で使われていたノルマン語がイギリスに流入しアングロ・ノルマン語を形成する。この言葉やフランス語、英語、ブリトン語を話す竪琴弾きや吟遊詩人が、イギリス側や小ブルターニュから、おそらくシャンパーニュに流れ込んで来たと思われる。このようなアングロ・ノルマン語などの言語でアーサーものが書かれた可能性がある。いわゆる「ブルターニュもの」と呼ばれるものだ。彼らのあまり緊密でもなく、心理面でも一貫性のないエピソードを「素材」とし、宮廷風と呼ばれる「主要概念」をもとに「構想」し、天賦の才で「物語」へと統一したのは他でもないクレチヤンなのだとフラピエは言うのだ。そこに、きめ細かな心理描写を挟み込み、ケルティックな幻想の風味を付け加えることも忘れなかった。中世の作家は構成に関して今の我々と同じようには考えていなかったともフラピエは言う。リニア―で単純な平面上に展開される話は、比較的複雑な階層に分かれた構造を探させるように誘うという。

 

クレチヤン・ド・トロワ『獅子の騎士イヴァン』


 

上 伝説のプロセアンドの森と考えられているフランス、ノルマンディーのパンポンの森
下 その森にあるメルラン (マーリン) の墓

この物語は、伝説のプロセアンドの森が導入の舞台となる。「霧雨が降っている。濡れたブナの幹の下、黄ばんだ葉が、ざらざらしたヒースの深く小さな茂みの上を、くるくる回りながら羊歯に沿って逃げてゆく(『ブルターニュ』菊池淑子 訳)」とこの物語の訳者は冒頭の「はじめに」に記した。

そこに在るのは、冷たい水なのに沸騰しているバラトンの泉で、悪魔の子、魔法使いのメルラン (マーリン) と妖精モルガンの交わした約定によって、その水を美しい松の木の枝に掛けられた黄金の盥 (たらい) に満たし、ほとりの大きな石に注げば、忽ち疾風迅雷の嵐がやって来る。そんなマジカルな森であった。

『獅子の騎士イヴァン』、この物語は『エレックとエニッド』と並んでクレチヤンの傑作の一つといわれている。泉には、エメラルドの巨大な石に一本水路が穿たれ、その底に真っ赤なルビーが四つついている。石に盥から水を灌ぐと伝説のように嵐が襲ってくる。稲妻が轟き、雨と雪と雹が、ごたまぜとなって叩きつけてきた。アーサー王と廷臣たちの前で、騎士キャログルナンは7年前のある不名誉な体験を語った。その話を聞いたイヴァンは、その泉を目指して冒険の旅にでるのである。この物語には、妖精の薬は登場しても妖精自身は登場しない。妖精に近づきすぎてはいけないとフラピエは警告する。

イヴァンは、聞いた通りに、その泉で金の盥で岩に水を灌ぐと、嵐が起こる。それによってなぎ倒され、破壊された領地の損害を償えと憎悪に燃え盛る眼をした騎士に戦いを挑まれた。嵐の度に彼の領地と城はどよめくのだ。その騎士を打ち負かし、自らの城に逃げ込んだ相手を追いかけたイヴァンは、刃のついた落とし戸に前後を阻まれて閉じこめられてしまう。

クレチヤン・ド・トロワ『獅子の騎士』
菊池淑子『フランスのアーサー王物語』

窮地に立つイヴァンだったが、かつてアーサー王の宮殿で親切にした王妃の待女リュネットに姿を隠すことのできる指輪を与えられるのである。トールキンの『指輪物語』みたいだ。王妃の夫であった例の負傷した騎士が亡くなり、智慧のまわる待女は、匿ったイヴァンを王妃と結婚させるのに成功する。彼女がこの物語のトリック・スターという分けだ。しかし、彼は、怠惰を戒める友人のゴーヴァンの説得に従って試合遍歴の旅に出る。

だが、王妃ローディーヌとの一年という約束の期限を破ってしまう。約束を踏みにじり、後悔に打ちひしがれていたイヴァンのもとに待女と思われる女性が現れ、彼の不実をなじり、その手から指輪を抜き取って去ってしまった。ここまでが第一部である。

第二部で、話は急展開する。ローディーヌに許されない限り死ぬほかはないと思い詰めたイヴァンは気がふれて獣同然に野原をさまよいはじめる。英雄物の定石通り、一度は落魄に身をさらすことになる。そこに通りがかった奥方のローディーヌと待女はイヴァンを見つけ、昔、妖精のモルグからもらったという狂気を追い出す薬で彼を正気に戻すのである。しかし、記憶を取り戻せないイヴァンは、彼女とは分からないまま、その領地に戦をしかけるアリエ伯爵と闘い、撃退する。そして、領主となることを望まれても、そこを立ち去ってしまうのである。

途中、毒蛇に尾を噛まれたライオンを助け、その猛獣を連れとして旅を続けることになる。それで獅子の騎士と名乗るのである。とある礼拝堂に幽閉された乙女がいた、主君への背信をその家令に咎められた例の待女である。アーサー王の宮廷に助けを求めたが、頼みのゴーヴァンは、連れ去られたアーサーの妃グニエーヴルを探しに旅に出ていたという。ここは『ランスロットまたは荷車の騎士』と話がクロスする箇所となっている。一連のヴァリアントになるように物語同士をつないでいるのだ。明日には火刑にされるその乙女が、例の待女と気づいたイヴァンは、明日助け出すことを約束して近くの城に宿泊する。その城では、王子たちが山のアルパンと呼ばれる巨人の囚われの身となり、王女と引き換えに明日やって来ると言う。イヴァンと獅子はその巨人を討ち果たし王子たちを解放してやる。同一の物語内にも絡み合わせの妙があるとフラピエは指摘する。

待女が、あわや火に投げ込まれようとしたところにイヴァンは駆け付けた。家令とその二人の兄弟に対してイヴァンが立ち向かい、後には獅子も加勢した。三人は倒され、待女のリュネットは無事救い出される。ここまでは、『マビノギオン』の中の『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』の物語とほとんど同じストーリーをたどっていて、オワインの物語の方はこの後、イヴァンと奥方とが再び縁を結ぶことになって終わる。クレチヤンの作品の方がボリュームがあって、内容が濃い。この話に続いて、300人の織物や刺繍をする乙女たちを二人の悪魔から救う話、そして亡くなった父王の遺産相続を巡る姉妹の物語へと発展していく。まあ、続きはどうぞこの物語をお読みください。

 

さて、次回 part2 はいよいよクレチヤンの名を後世にとどろかせ、エッシェンバッハ 、トマス・マロリーを経てワーグナーにまで至る聖杯の物語ペルスヴァルをご紹介する予定です。お愉しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

ネンニウス『ブリトン人の歴史』ローマの執政官ブルートゥスに因みブリタニアと命名されたとしている。最古のアーサー王に関する文献。本書の解説では9世紀に書かれたとされる。

ウィリアム・オヴ・レンヌ
『ブリタニア列王の事績』
13世紀に『ブリタニア列王史』を詩的に翻案した作品。

作者未詳『聖杯の探索』13世紀

『マビノギオン』ウェールズの古潭

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竹田青嗣『哲学とは何か』「認識・言語・存在、本質」のテーブルマップ

 

竹田青嗣『哲学とは何か』

ゴルギアス (前487‐前376) というシチリア生まれのソフィストがいた。哲学の三つの謎を巡るゴルギアスの定理というのがあるらしい。このようなものだ。

●およそ何ものも存在しえない。あるいは証明されない。
●万一存在があるとしても、決して認識されない。
●万一存在が認識されたとしても、けっして言語によって示し得ない。

それは、普遍的なものへの認識という哲学のテーマを粉砕するほどの破壊力があった。このソフィストの議論は、プラトンやアリストテレスによって否定されるが、完全に論駁されたわけではなかった。ヒュームによって普遍認識の達成が危ぶまれても、カント、ヘーゲルといった正統的な普遍認識派がヨーロッパ哲学の主流をなしてきた。

しかし、最近は雲行きが怪しい。存在と認識との間、認識と言語との間の溝が埋まらなくなっていったのである。このように図式化できる。存在 (現実、対象、客観) ≠ 認識 (主観) ≠ 言語 (哲学説) 。

フッサールが現象学を提唱して存在と認識の隙間を埋めようとした。その最も有望な弟子のハイデッガーは現象学から存在論へとそれてしまい、フッサールの高弟たちもハイデッガーに靡いてしまった。現象学は、フランスに輸入され独断論、主観主義などと批判されたが、サルトルやメルロ=ポンティといった現象学派を生み出すことになる。やがて、相対主義のポストモダンが隆盛となっていった。

一方、認識と言語の一致は可能なのか。現代の言語哲学者、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインからカルナップ、ウィラード、クワイン、クーン、デリダ、ローティ、クリプキ‥‥らによるスッタモンダは、記述理論、言語ゲーム、家族類似ゲーム、物理学主義、確証の全体論、指示の因果説‥‥といった縺れ合った理論を多く生み出しはした。それは、言語の数学化を目指しているように思えるが、何処かに出口があるのだろうか。

今回は、このゴルギアスの定理とヨーロッパ哲学のアポリアとしての存在論を端緒とする竹田青嗣 (たけだ せいじ) さんの著書『哲学とは何か』を取り上げたいと思っている。今年 (2020年) 発刊されたばかりの著作だ。本書では、存在= 言語認識の繋がりではなく、認識 = 言語 = 共通理解という繋がりになる。竹田さんは、1947年大阪生まれ。早稲田大学経済学部をご卒業。明治学院大学国際学部、早稲田大学国際教養学部、大学院大学至善館で教鞭を執られた。早稲田大学名誉教授であられる。難解な哲学のテクストを分かりやすく解説して下さるので定評がある哲学者である。僕のような素人には有難い人だ。著書に『現象学入門』『欲望論 第一・二巻』『ニーチェ入門』『言語的思考』『哲学は資本主義を変えられるか』など多数ある。本書は浩瀚な『欲望論』のダイジェスト版と言ってよい。特に現代の複雑な思想の内に迷子になっている若い人は、一度読んでみられると良いと思う。

 

■ 認識のテーブル


 

カントとユクスキュル

全ての物体、すべての身体にとって、ただ一つの自然、無限に多様に変化しながら、自身もひとつの個体であるような自然、全ての個体やすべての心がその上にあるようなひとつの内在的な共通平面が披き敷かれる。ひとつの体は無限数の微粒子の運動や静止の関係から成り、他の諸々のものを触発し、逆に触発される。運動的で、力動的な、このように世界に生きることは極めて複雑なことである。ジル・ドゥルーズは、自分でもどうしていいか分からないうちにスピノチストになっていることに人は気づくと述べた(『スピノザ』)。世界は複雑系なのだ。

ユクスキュル、クリサート
『生物から見た世界』

一つの個体としての身体は、どれほどの情動をとりうるのか、触発し触発される力の強さの幅は、どれだけか。この自然の平面の上では、構成する諸々の運動、諸々の情動の組合せは人工物や自然物において無限にある。動物たちの世界が、このような情動の絡み合い、触発し触発される力によって規定されていると指摘したのは、ドイツで活躍した生物学者・哲学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュル (1864-1944) だった。

しかし、このような自然の個々のものを複合関係や触発=変様能力の固有の変動・変移として捉えたのはスピノザ(1632-1677)である。彼の言うコナトゥスは、「外的な力に対する自己保存の努力とその個体の力」と最小限定義される(エドゥイン・カーリー)。重要なのは、彼の無限実体としての神という第一原理ではなく、このような第三・第四原理と呼べるようなものだとドゥルーズは考えていた。そこには「生の哲学」があったからである。

ニーチェは、哲学的世界から「神」を抹消した。全知なる神の消去は、「完全な認識」という概念そのものを無効にする。もの自体を認識することは出来ないとするカントの哲学から全知の神を抜き去ると、それぞれの生物が、欲望や能力といった「生の力」に応じて持つ可能で適切な世界という世界観に変る。真に存在するのは個々の生き物にとっての「環世界」つまり「生の世界」だけだと言える。そのような世界は、内的世界と外的世界が作用しあう世界であって、外界だけが客観的に存立する世界ではないのである。

ユクスキュルと息子のトゥーレ 1915
トゥーレは心身医学の創始者として知られる。

ダニは、味覚も視覚もないが、表皮全体に分布する光覚、温い獲物の上に落ちるための温度感覚、哺乳類の皮膚腺から出る酪酸に対する嗅覚、適当な灌木に這い登る機能、ほぼ、それだけで、子孫を残すことを貫徹させようとする。そして、血液を提供してもらえそうな相手をほとんど、仮死状態になって待つことも出来る。ダニは、無数の選択肢から、たった三つの知覚様式と一つの作用様式を選択した。今や、ダニは自分の時間を支配さえしている。

生物の世界は、知覚作用に対する行為の作用が不可避的に結びついていて、作用のトーンと呼ばれる「主体が意味を与える世界」構築するのである。普通、機械は意味を与えない。ユクスキュルの言う環世界とは、生きた主体が空間・時間の中で決定的な役割を演じるカント的世界なのである。

しかし、この章の主題は、ドゥルーズとカントを巡るダニ問題ではない。問題なのは、我々の世界が、自己の内的世界と環境と言った外的世界とが密接に結び合わされた世界であるということなのである。超越的絶対的存在を想定することが「生の哲学」の否定要因となって来たということが、スピノザやニーチェの思想から明らかになっていく。そして、それが、「哲学とは何か」を探る鍵になるのである。

 

ニーチェのエポック

カントの言う「もの自体」、ヘーゲルの「絶対知」、ショーペンハウアのペシミズム、それらの言説は人間への「道徳」への勧めであるとニーチェは言う。この道徳的モチーフは人間の本質的弱さに由来すると考えていた。この混沌とした無秩序と矛盾の世界を直視することなく世界を整理されたものとして眺めたいという一種の弱さからくるのであり、支配された人間が惨めさを打ち消すための思想が禁欲主義的理想であるというのである。ただ、これは道徳の由来を述べているのであって価値をあげつらっているわけではない。この理想主義は、「絶対に正しい認識」と結びついていて、キリスト教に替わる近代哲学においても同様だった。その「絶対に正しい」は相対化される必要があった。このニーチェの思想はポスト・モダ二ズムにおいて再評価される。

マルクス主義思想が巨大な権力国家を作り上げた。「絶対的に正しい認識」という一つの主義やイデオロギーと「倫理的正当性」とが結びつき、独裁的なスターリニズムを呼び起こした。そのような危険性が生じたことが、20世紀における「知」と「権力」の問題を浮上させる。フーコーやデリダ、ドゥルーズといったポストモダニストたちには「知」「認識」「論理」の絶対性に対する強い異議があった。「知」と「権力」が独自のあり方で結びつくことへの不安が存在したのである。ニーチェは、こう述べていた。

「いったい、人間の未来全体にとっての最大の危険は、どういう者たちにあるのか? ‥‥すなわち、『何が善にして義であるかを、われわれはすでに知っており、さらにそれを体得してもいる。このことで今なお探求する者たちに、わざわいあれ ! 』と、口に出し、心に感じている者たちのもとにあるのではないか ? (『ツァラトゥストラ』吉沢伝三郎 訳)」

ニーチェは、従来の哲学は「現実の否定」という動機を隠しているという。それは、「絶対的に正しい思想」への信仰と裏腹に存在した。ポストモダニズムは、この「正しい認識」を焦点に据えて、ヨーロッパ思想の中心的な問題である「真理」や「認識」を解体しはしたが、マルクス主義を超えて新たな道筋を指し示せてはいないと著者は指摘する。ニーチェによって否定されたヨーロッパ思想の人間観は、「力の思想」という新たな根本原理によって刷新されていく。竹田さんが「力の相関性」(欲望‐身体相関)と呼ぶ「生の世界」の原理である。

 

フッサール 内的世界と外的世界への新たな視点と竹田現象学

フッサールの現象学は正当に理解されていないと竹田現象学は述べる。ここは、竹田さんの独壇場の感があり、僕はそれを批判できる立場にないが、かなり共感をもってお伝え出来る。主観としての私は、客観的対称としてのりんごを把握可能かと問う。自然科学の方法は「主観‐客観」の一致を前提としているが、人文領域ではカントの「物自体は認識不可能」をはじめとして諸説対立し、学問の普遍性にたいする疑いが生じていた。ウィトゲンシュタインは、私の見ている赤色はあなたの見ている赤色と同じかどうか確かめることができるのかと問う。

「りんごが見えるーりんごが在る」という構図は、人に備わっている自然な了解だ。しかし、これをフッサールは一旦棚上げする。これをエポケーと呼んだ。りんごという客体が在って、私という主観にりんごという認識が生まれるのではなく、りんごが見えるということが、りんごが在るという確信を生み出すと考える。これを「現象学的還元」という。「りんご (原因) → りんごの認識 (結果)」ではなく「りんごの知覚 (主観 ) → りんごが在る (確信)」という図式として考える。経験世界から世界像が生まれるのであって。客観と主観の合一は独断や予見に過ぎないというのである。この世界確信の図式では主観ー客観の二項対立がないためにゴルギアスの定理を回避することができる。この認識=確信は、自分だけの確信の場合、あそこには橋があるといった共同的確信 (間主観的確信)、三角形には三辺あるといった (普遍的確信) 竹田さんは分けている

竹田現象学におけるノエシスとノエマ

主観の確信のもとになる「対象に関わる経験や意味」は、フッサールがノエマと呼んだものだが、様々な解釈を呼んでいるらしい。ノエマは経験する知覚対象それ自身であるという説、対象の意味だという説、経験の対象そのものの部分とする説、同一の対象がもつ多様な相貌の一つとする説があり、解決を見ていない。竹田さんは、意識における具体的な体験の流れ、つまり、りんごで言えば「赤い」「丸い」「つやつや」といった刻々変化する体験流をフッサールの言う「ノエシス」と考え、それらが構成されて対象確信として成立したものが「ノエマ」としている。ここは、竹田現象学の核心部と言えると思う。

 

認識のテーブルにおけるテーマ

デカルトの神は、欺くことのない善なる存在であり、人間の認識は信用のおけるものとされた。カントの認識論はどんな生き物も自分の認識装置を通して対象を認識する。人間には、美味しそうなりんごでも、猫には転がる丸い球で、トンボには円形の形のみが感じられ、アメーバーにとっては、もはや何者でもないと竹田さんは言う。ヘーゲルは、ものとは概念の運動だとした。時間軸の中で経験による様々な概念が豊かに蓄積されていく運動なのである。ヘーゲルの世界は、スピノザの汎神論に近い (非汎神論説もある) に近い有神論だという。

しかし、認識問題の謎は、ニーチェとフッサールによって解明されたと竹田さんは考えている。竹田さんのネーミングで言えば、「本体論の解体」だ。本体とは「世界それ自体」を指している。しかし、それぞれの生き物は、それぞれの欲望、欲求、身体のありように応じて、相関的に最も適切な世界認識を持つ。先に述べたように、真に存在するのは個々の生物にとっての「生の世界」だけだと考えると、「あらゆるものが存在するとは何か」と問う存在論は、その基盤を失う。いわゆる「客観世界」とは、誰にも生きられることのない「想定された世界」に過ぎなくなるからである。このニーチェの認識論の転回は、ポストモダン思想で受け取られている相対主義的転回ではなく、これまでの「存在」の概念を根本から覆す「存在論的転回」だと竹田さんは言う。

フッサールによる現象学的還元が、認識問題を解く鍵になると考えられる。世界の存在は、認識不可能ではなくて、どこまでも疑いを払拭でないために認識論的に「超越」であり、認識となる条件を欠いている。しかし、客観的認識や普遍認識がありえないということを意味しない。主観的な普遍了解が成立する所では、存在と認識の一致がなくても、普遍認識は存在すると考える。個々の人間は、様々な世界像を持っていて、絶対的に正しい世界像は存在しないが、フッサールは、相互承認と共通了解を可能にする「世界説明」が可能であることを示したのである。

このように、ニーチェの「本体論の解体」とフッサールの「共通了解を可能にする世界説明」が認識のテーブルにおいてマッピングされることになる。

 

■ 言語のテーブル


 

現代論理学は、ゴットロープ・フレーゲが命題論理学と述語論理学を発展させ、アリストテレス以来の論理学を刷新した。これに続いて、ラッセル、ウィトゲンシュタインによる現代言語学あるいは分析哲学が展開していく。これらは言語の本質の探究を数学の論理的基礎づけから行おうとするもので、ローティの「言語論的転回」という言葉が示しているように数学へと傾斜していく。この進展は、コンピュータのプログラム言語の発展と軌を一にしていた。

ウィトゲンシュタイは、初期には一定の規則を使って言語の意味を厳密に規定できると考えていたが、やがて、アウグスティヌスのように言葉を記号として見る態度を疑い始める。子供たちに言葉を教えることは、その言葉と対象のイメージとの結びつきを喚起することなのか?  言葉を理解するとは、その言葉によって、そのイメージが喚起されることなのか ? 言葉を理解し、習い覚えることの意味は何か ?  このような問いは、全て「認識‐言語の一致」、「言語‐意味の一致」に関する疑いだった。

ルドルフ・カルナップ (1891-1970) は、ウィーンで、一切の言語は科学的な標準言語に置き換えられるという厳密論理主義を提唱する。物理学のように物質を基本単位に分け、それらを構成・構造化し、因果関係を確定して厳密な記述体系を作る。言語でもそれと同じような方法で事象と言語の厳密な一致を図ろうとするものだった。一方、ヴィラード・ヴァン・オーマン・クワイン (1908-2000) は、一切の言語は、事象や思考を厳密に表現できないとする立場だった。ある言明の意味は、その文脈の中で決定されるからである。これは、結局、ウィトゲンシュタインの初期の『論理哲学論考』と後の『哲学探究』との対立とパラレルなのである。

もう一つ典型的な例がある。それが固有名論争だ。「アリストテレスは、これこれという人だ」という定義の集合と考えるラッセルのような説とソール・クリプキ (1940-) のようにアリストテレスという最初の命名と「指示の固定性」、つまりそう言い続けられることによってのみ規定されると考える立場に分かれる。このクリプキの理論をジョン・サールやリチャード・ローティといった人たちが批判した。「指示の固定性」という概念は「これは誰それ」だという命題が正しいことを前提としているために、論証が循環的になるというのだ。論理学は名前の意味すら定義できないのであれば、言語の「意味」を厳密に定義することは不可能であると考えられるのである。これって、ほとんど乱理学だ。

言語は真偽が一義的に決定できないために、意味を論理学的に決定できない。ある人が「これは美味しい」と言う時と、別の時に他の人が言う「これは美味しい」が同じ意味とは限らない。論理学者たちは、語り手の「意」と「言葉」の一致を論証しようとするし、相対主義者たちは、この一致が不可能であることを証明しようとする。現象学では「一致」の可能・不可能を前提としない。

語り手は、自分の言いたいことを伝えるために言葉を発する。伝えたいことがまだ不明瞭な場合もあるが、発した言葉が自分の「意」を伝えた、あるいは、いないという内的信憑が生じる。聞き手は「言葉」を受け取り、相手の「意」はこのようなものだろうという内的信憑が、やはり生じる。この内的信憑を「適合信憑」と竹田さんは呼ぶ。会話では、その信憑性を確かめることができるが、テクストではできない。言語行為とは、このような構造で成り立っていると考えられる。

言語ゲームの発話と受語 「意」‐「言葉」‐「了解」

発語と受語の言語ゲームとして図のように示すことができる。言語ゲームの概念はウィトゲンシュタインの発案だった。言葉があれば、そこから、その意を信憑‐了解する。語り手の「意」へと向かわない、つまり信憑志向のない言語ゲームは、まずない。「今日の空はじつに青い」という言葉の「今日」「空」「じつに」「青い」は、それぞれ一般的意味を持っているが、語り手の「意」は、それらをつなぎ合わせた「一般意味」ではないと竹田さんは言う。これは「意」‐「言語」‐「了解」の厳密な一致を前提としない。「言語の本体論の解体」と言える。

現代分析哲学では、上記の「意味の同一性」と共に「事柄の同一性」も問題になる。人間は赤ちゃん → 子供 → 青年 → 大人 → 老人と変化する。この場合、人間の同一性の根拠は、どこにあるのか ?  あるいは、ジョン・サールの言う素材が全て入れ替わってしまう「テセウスの船」という問題もある。このような場合、内的には主観の観点の相関性だけが「同一性」を決め、外的には他者の承認、つまり「信憑」が決定する。

此処では、論理学者たちの「言葉」「意味」の一致に対する論証、及び、相対主義者たちの言う一致の不可能性に対して、信憑志向の言語ゲームがマッピングされる。

 

■ 存在のテーブル


 

ハイデッガーの言う「なぜ存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか」は、根本的な哲学の問いであった。それは、「何故存在があるのか」という問いに集約できる。これに、哲学は、どうアクセスできるのか ? これはゴルギアスの言うように、そもそも原理的に答えようのない問いなのか? この「存在」への問いに対する「形而上学」、つまり世界の根本原理を探求する学が、古代から近代の思想の流れの中に現れる。

まず、洋の東西を問わず、物語= 神話の方法がとられてきた。宗教の創成神話が、そのプロトタイプとなり、アリストテレスの「不動の動者」やヘーゲルの「絶対精神」もこのような形而上学に含まれる。これに対してニーチェの認識論の転回が現れ、一方で、フッサールの「間主観的」な共同確信が登場する。人間は他者と言葉によって自分の「世界」を交換し合っていて、まさに、そのことが「客観世界」の存在を不可疑にする根拠だということが顕わにされた。それが、ハイデッガーの言う、人間は意味のネットワークを掛け替えあって生きているということの意味なのである。

真に存在するのは「生成」としての世界のみであり、「本体」としての世界は何処にも存在しない。しかし、これは「世界は存在しない」というゴルギアスの定理へと帰着しない。世界存在は認識されないというのであって、むしろ、その現実存在は疑い得ないと竹田さんは言う。我々が「生世界」を生きているという現実自体が必然的に世界の存在に対する想定‐信憑を生む。これを竹田さんは、「現存在信憑」と呼ぶ。哲学が問うべきは、「世界の本体」ではなく、「生世界」の本質とは何かという問いであると言うのである。ここに「本質観取」による「本質了解」という課題が浮かび上がるのである。

ハイデッガー以降の「新実在論」であるカンタン・メイヤース、マルクス・ガブリエル、グレハム・ハーマン、レイ・ブランシエ、イアン・ハミルトン・グラントといった人たちの思想が俎上に上がっている。ほぼ、ポストモダン思想への対抗思想と考えられるが、メイヤースとガブリエルが取り上げられていて、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論などを踏まえて批判されている。

この章では、存在の「世界の本体」に対して「生世界」の本質が対置され、我々が、現実に「生世界」を生きているという「現存在信憑」がマッピングされ、人文分野における「本質‐意味‐価値」を問う「本質了解」の世界が明らかにされる

 

■ 本質観取のテーブル


 

これで、ゴルギアスの定理から始まった言語・認識存在のテーブルマップが整ったことになる。ここからは、本質‐意味‐価値という本質観取のテーブルを見ていきたい。

対象的確信、つまりこの現存在信憑が成立する世界は「自然世界」に主に関わる。一方で、道徳、倫理、社会制度といった「人間の世界」に関わる問題がある。この人文分野における、本質・意味・価値を問う問題は、人間の世界においてのみ作り出されると言っていい。このような「本質領域」の世界で、かくあるべきという議論は独断論に陥りやすいのは確かだ。「本質領域」における、かくあるべき「本体」は完全に解体されなければならないと竹田さんは言うのである。そこでの自由で開かれた議が、なによりも重要だからだ。

人間・社会・文化といった人文領域における普遍認識は可能か?  次はこの問題である。事物の領域では、「自然の数学化」による方法が、自然界の客観認識を可能にしてきた。このことによって自然の秩序は、万人に同一の秩序となった。人文分野では、数学に替わる手段としてフッサールの本質学が手段となるのではないかと竹田さんは考えている。本質観取は、知覚や記憶といった心的事象についての広い共通了解を言語化する手段と言っていい。

人間自身の内在意識における「確信構成の構造」を知って、その内的な洞察を「言葉」に置き換え、これを各人の間で吟味し、どういう言葉が誰にも納得できるものとなるかを確証するという手順を踏む。このような各人の体験といったものは、自然科学の実証主義的方法では扱えない問題なのである。ハイデッガーの「不安」に関する洞察が見事なのだけれど、フロイトの例をご紹介する。

近代の実証心理学はグスタフ・フェヒナー、ヴィルヘルム・ヴントの実験心理学からはじまり、アメリカの構成心理学からジョン・ワトソンの行動主義、そしてゲシュタルト心理学へと発展する。フロイトを創始者とする深層心理学は、ユング派、アドラー派へと分裂し、フロイト派も自我心理学、対象心理学、自己心理学などへと分派した。ここでは、フロイトの心理学が現象学から吟味される。

まず、事柄の因果連関をたどれるものを「事物」と呼び、決して因果の連鎖ではたどれない「ブラックボックス」が心的な領域とされる。この領域内での事象の因果性が仮説化されるのであるが、フロイトは此処にエディプス・コンプレックスという仮説を持ち込んだ。この不可視領域に仮説を持ち込む方法は、ユングやアドラー、あるいは多くの実証主義的心理学でも使われている。ここで竹田さんが指摘するのは「どんな療法でも一定の治癒効果を持つ」ということなのである。クロード・レヴィストロースは、シャーマンの呪術による心理治療についてこう述べている。

病原である細菌は体の外にあるが、悪霊は意識的か無意識的かを問わず、精神の内部にある。患者にとって魔物は象徴であり、この魔物は患者によってと象徴されるものとなる。あるいは、言語学的には意味するものと意味されるものとの関係となる。シャーマンは、その患者には言いあらわすことができず、また、他に言い表しようのない諸々の状態を、それによって直ちに表わされるような言葉にして患者に与える。それは、原住民の宇宙観を構成する神話の一部であり、彼らがその神話を信じる社会の一員であるからこそ有効なのである。象徴についてはツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』に書いておいた。

そこでの要点は、おそらく患者、治療者、家族、部族の人間の間で共有されている病や凶事の原因への共同的信憑にあるとレヴィストロースは言う。シャーマンによる「物語」と施術のパフォーマンスは、心理的な病の原因を象徴的に除去するのである。同様に、先ほどの「ブラックボックス」つまり、不可視の X の部分に、何らかの「因果仮説」を置き換える。この因果仮説は「真の原因」に達することはないが、それにもかかわらず効く。それは、治療者、患者、その家族にとって強い「共同確信」となり、患者の内的な「自己了解」を変容させ、大きな「心身相関的効果」をもたらすと考えられるからである。

人文領域の諸学における本質学の可能性

この治癒の本質に対する観取は、「不可視領域」の独断的解釈ではなく、間主観的な確信形成であることが重要となる。みんなが色々言い合って、なるほどと思える落とし所だ。認識の本質的構図は「ノエシス‐ノエマ」構造であり、全ての認識のありように当てはめることができる。

「自由とは何か」「愛とは何か」などの問いを立てるなら、哲学者は、その本質についての「理念」を創り上げ、実証主義的な人文学者は、仮説を立て、様々なデータを収集する。ここで、現象学的な人文学者は経験的素材であるノエシスから理論としてのノエマを取り出すが、この時、仮説に囚われず事態の本質を洞察しようと努める。一方、独断的人文学者は自分の仮説に適合するデータのみを取捨選択して仮説の正しさの証拠としようとするのである。独断的理論は、最初から自分の仮説に適したデータしか集めようとせず、相対主義者は、本質観取に挫折してどんな理論も普遍的理論たりえないとする。竹田さんは、優れた普遍的理論を生み出すには、適切なデータと優れた本質観取が不可欠だというのである。

ゲーテの「人は現象の背後に何物をも求めるべきではない。現象それ自体が学説なのである (『散文による箴言』溝井高志 訳 )」という言葉を思い起こさせる。

個人の内面の善・悪の規範の問題、社会的な善・悪の問題である正義・不正義の問題、このような問題に関して現代の倫理学は、人間にとってこれが最も優れた「徳」や「善」であるといった特定の倫理的理念から出発し、それを人々に要請するという構造になっている。竹田さんは、善・悪の問題も本質観取が必要とされ、さらに発生的本質論が必要とされると言う。発生的本質論は、人間の善悪、美醜、真偽の価値の秩序といった価値がどのように発生したかを問う。プラトンでは、善への欲望は人間にとって必然的で本質的なものだと仮説され、この仮説の検証が善の本質学にとって重要な主題となる。「善は為すべき」は道徳の訓育学であって、善の本質学ではないと竹田さんは言うのだ。いかなる条件で善への欲望は人間の内に生き続けるのか。どのような条件を失うとニヒリズムや悪に転ずるのか。この問いへの答えは、価値観の相違によって異なるといった問題ではない。この個人の善悪の問題が社会の善悪への問いと繋がる。

事物の領域での「自然の数学化」による自然科学の方法に対して、人文分野では、数学化に替わる手段としてフッサールの本質学がマッピングされ、本質観取の方法論と発生的本質論が提示される。

 

■ 社会の本質学へ向かって


認識・言語・存在、本質のテーブルがマッピングされて出そろったことになる。これを総括したものが「哲学のテーブル」となるのであるが、本書の最後は社会の問題が取り上げられている。この問題については、気が向いた時にジョン・ロールズの『正義論』について書く時に一緒にご紹介できればと思っている。

現代社会が、どこへ向かおうとしているのか、様々な意見はあるが、現状は切迫していると竹田さんは言う。今、貧富の格差の広がりと金と権力との癒着という資本主義社会の問題が浮上しており、この問題を克服するための展望は全く無い。現在の資本主義が持つ不安要因については、エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート 『戦争と資本』 境界を失った戦争と平和に書いておいた。竹田さんは、そのために必要な社会理論の構想が、価値理念の多様性と相対主義の思潮によって長らく阻害されてきたと見ている。とりわけ、我々がホッブス、ルソー、ヘーゲル以来の「自由な市民社会」の原理を失えば、世界は再び普遍戦争と絶対支配の状態に回帰することさえありうるという。詳しくは『欲望論 第三巻』に書かれることになるだろう。

本書は竹田現象学から見た存在論・言語学・ポストモダン思想といった近現代の思想を俯瞰して綺麗なマップを形作っている。非常にありがたい著作である。そして、それ以上に重要と思われるのは、著者の「普遍性を求める」思想への希求ではないだろうか。竹田さんはこう問う。哲学や思想の営みが、結局のところ、人々のうちに拡がるあのシニズムの「声」、「あれこれいっても所詮は理屈にすぎず、現実には力がすべてである」という声、それに対抗することができないなら、思想や哲学が「現実への対抗」という本質を持てないなら、哲学や思想にいったい何の意味があるだろう。

 

■ 言葉の外側


本書を読んで、論理的な整合性について感心することしきりだったのだけれど、そこには「言葉で本質観取し、共同確信しうる限りにおいて」という前提が存在すると思う。それ以外のものは哲学で扱えなくなるのではないか。というのも、極めて個人的で強度の確信をもたらすような体験、例えば宗教的なエピファニーや悟りといった体験がこの枠組みからは漏れてしまうのではないかと考えられる。極めて稀な体験であれば、共同確信に至らない場合はあるだろう。似たような体験として美や芸術の場合があるけれど、これらは比較的頻繁な体験であるからか、『欲望論 第二巻』にも俎上に上がっている。言葉に表現できない体験を語る場合、多くは否定神学のように背理的な表現が使われてきたし、通常、意味をなさないような言葉、「薔薇は何故なしに有る、それは咲くが故に咲く (マイスター・エックハルト/上田閑照 訳)」といった言葉は、判然としないながら何かしらの世界を開示している。そのような世界を現象学的にどう扱うのかは、別な課題となるのではないだろうか。独断論として排除し、心理学などに押し込めてしまうのは如何にも惜しいと思うのである。

 

 

参考文献

竹田青嗣『欲望論』第一巻「意味」の原理論

竹田青嗣『欲望論』第二巻「価値」の原理

竹田青嗣『ニーチェ入門』

プラトン『ゴルギアス』
プラトンの比較的初期の著作 内容は弁論術とともに道徳、政治、幸福論などが対話される。

ニュース

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

イェールユニオンの組織開催で、ポートランド、ロサンジェルス、ミネアポリス、ハワイとアメリカ国内を巡回しておりました『松澤 宥 展』がいよいよギャラリーG、広島で始まりました。

今回はこの展覧会を企画されたアラン・ロンジノさん、富井玲子さんとオンライントークをさせていただきました。下の写真がその時の様子です。

トークの内容ですが、
●主催者のギャラリーGの松波静香さんの挨拶
●私から本展覧会のキュレーターのお二人のご紹介
●富井玲子さんによる『松澤芸術の概説』
●アラン・ロンジノさんの『松澤芸術における量子というコンセプトとプサイという象徴』に関するトーク
●そして最後に皆さんで、「松澤さんとヒロシマ」「キュレーターの方たちの松澤芸術との出会い」「瞑想空間とコミュニケーション」」「環境問題と人類に対する警鐘」といった話題を中心にお話していただきました。
松澤芸術の魅力をこの三人の方々と共により広く、深めていけたのなら幸いに思います。尚、トークは、編集後 youtube、Facebook 等で配信の予定です。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一階展示シーン 左壁面が『九想の室』 右壁面が『白鳥の歌』

二階から一階部分を見下ろした様子

 

 

二階 展示シーン 『私の死』

展示シーン 一階から二階部分

2020年 5月『 松澤 宥・植田信隆 展』のご案内

2020 5/19-5/31『松澤 宥・植田 信隆 展』のご案内

 

2020年 5/19(火)- 5/31(日)展覧会期間が延長されました。
ギャラリーG/ Hiroshima
http://gallery-g.jp/  火曜ー土曜 11:00~20:00  月曜 休廊  最終日 11:00~16:30

5月24日 (日) 出原均、アラン・ロンギ―ノさんのシンポジウムについて
アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。19:00までは展覧会をご覧いただけます。

 

概念芸術の巨匠・松澤宥(まつざわ  ゆたか/1922-209)と植田信隆による展覧会です。2004年に制作した『消滅するヒロシマに捧げる九つの詩』のリメイク作品、そして以下に掲載しています松澤宥のオリジナル作品を展示します。この展覧会に際しては、ご家族と長沼宏昌氏の全面的な協力を得ました。ここに深く感謝いたします。

松澤 宥  出品作品

●草稿/『死のテーマ ヴェネチア・ビエンナーレに』『タントラを巡ってさまよう』 『A Black Hole』『ゾンスベーク国際展へのコメント』 他

●九字九行作品/『超人類の果て』『ドリコソマ』『エニグマ22』 他

●パフォーマンス草稿/『諏訪湖に白紙絵画を見せる』『私の死』 他

●チラシ作品/『ああニルああ荒野におけるプサイの秘具体入水式』『プサイの死体遺体』『プサイ函』 『人類よ消滅しよう』『ドンデン返し計画』他

●パフォーマンス写真(長沼宏昌 撮影)

 

『関連シンポジウム』が以下のように予定されています。

5月19日 (火) 19:00~20:00

無観客でのビデオ収録となりました。後日配信の予定です。

柿木 伸之(かきぎ  のぶゆき/広島市立大学国際学部教授 哲学、美学)、植田 信隆(作家)

ベンヤミン研究者として知られる広島市立大学の柿木伸之先生をお招きします。前半は私が松澤さんの芸術についておおまかに解説し、後半は、柿木先生に松澤芸術を起点として戦争と芸術をテーマにお話ししていただきます。

5月24日 (日) 15:00~16:00

出原均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)
アラン・ロンギーノ(インディペンデント・キュレーター)

アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。

2004年に広島市現代美術館で『松澤宥キュレーション展』を企画された当時の学芸員であられた出原 均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)さんに松澤芸術について解説していただきます。

どうぞ、皆さまマスクをお持ちになってご来場ください。

 

2020年3月27日

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日
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