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クレチヤン・ド・トロワ「アーサー王 円卓の騎士の物語」part2 『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』

 

お正月も過ぎましたね。昔は、別火の物忌みとかでお正月は火を使わないというしきたりもあったようだけれど、僕の子供の頃にはなかった。広島では既に廃れてしまっていたのか我が家にはそういった習が無かったのか、よくは分からない。地方によって異なるのかもしれない。おせち料理は、主婦がお正月から働かなくてもいいようにと言う意味もあるのだと思うけれど、この物忌みのためだと言う人もいる。ともあれ新たな年神様を迎えるために門松を立て、鏡餅を供えるのだが、大晦日から元旦への夜は物も事も時も一旦死して新たな年が生まれるクライマックスだった。柳田國男さんなんかは、この来訪神は穀物神で山の神だと書いている。多分、はるかな昔は平地の田より水の管理が容易な山の棚田が主流だったのだろう。この山神様は、小正月にとんどの火を焚いて山に送られるのである。

ところで、かつてケルトの社会では、大晦日は10月の末日で、新年は11月1日だったそうだ。この古い年が死に、新しい年が目覚める大晦日の夜、彼らの神話では妖精の塚の扉が開かれて先祖の霊や異界の者たちがこの世に現れ、死者が未来を予言するのである。死者の訪れを待ち霊を供養する、これが、アイルランド・ゲール語で「夏の終り」を意味する「サウィン」の夜だという (鶴岡真弓『ケルトの想像力』)。今日のハロウィン (10月31日) の起源だ。しかし、旧と新、生と死が交錯する夜に新たに来るものは、冬の暗黒でもあったから人々は浄化の篝火を焚いた。この冬の始まりは、古い王が殺され、新しい王が現れるとされている。この万霊節の夜、アーサー王は従者を従え馬でタラの丘を一回りすると言う (井村君江『ケルトの神話』)。

 

夏目漱石 『薤露行』日本のアーサー伝説


 

最近では、アーサー王伝説と北東イラン系騎馬民族のスキタイやサマルタイの伝説との共通性を指摘する仮説が登場していて、東方起源説が取りざたされている。C・スコット・リトルトンとリンダ・マルカーの『アーサー王伝説の起源』という著書だ。「スキタイからキャメロットへ」という副題がついている。コーカサスのアラン人の祖先であるセット人の「ナルト叙事詩」にも近いとされているようだ。アラン人がローマの傭兵として雇われてガリアにその伝承を伝えたというものだが、日本にもちゃんと伝わっている。

王妃グニエーブル/仏 (グエヌエラ/羅) ドラ・カーティス画 1905

「百、二百、群がる騎士は数をつくして北の方なる試合へと急げば、石に古りたるカメロットの館には、ただ王妃ギニヴィアの長く引く衣の裾の響のみ残る。薄紅の一枚をむざとばかりに肩より投げかけて、白き二の腕さえあからさまなるに、裳のみは軽く捌(さば)く珠の履 (くつ) をつゝみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。」

なんか、格調高い。英国留学の手土産にアーサー物語を夏目漱石は、こう綴った。その名も『薤露行/かいろこう』である。トマス・マロリ― (1399-1471) のアーサー物語は、簡素素朴で良いけれど、小説としては散漫だから自分はより小説に近いものに改めたと漱石は書いていた。大人の小説にしたかったのだろう。それに、アルフレッド・テニソン  (1809-1892) の『王の牧歌』の影響は大きかったと言われる。

題名の『薤露行』の薤露』は、漢の田横が自死した時に門人がこれを傷んで作った哀歌である (『楽府/がふ)。人の命は、薤 (かい/らっきょうや大ニラ) の葉の上の露のように儚いことを指していて、「人死んで一たび去り何時か帰る」と詠われていた。薤露行というのは葬送行進曲のことだろうか。

漱石はそんな感じの小説にしたかったのだろう。漢籍の素養の豊かさが偲ばれる。テーマは貴人の葬送であり、古代の中国と中世の英国とが死を媒介に反響し合っていると『漱石とアーサー王伝説』の著者、比較文学者の江藤淳さんは書いている。罪と愛の甘美に身悶えするランスロットとアーサーの王妃ギニヴィアとの禁断の絆は悲劇を呼ぶ。因みにギニヴィアはグニエーブル/仏の英語読みである。

ランスロットへの報われぬ愛に身罷ったエレーンが乗せられた舟が波に揺蕩 (たゆた) う時、シャロットの妖女の悲しき声が「うつせみの世を、‥‥‥うつつ‥‥‥に住めば‥‥‥」と尾を引いて消えた。最終章には、こんな葬送の件 (くだり) がある。最も美しい、涼しき顔を、雲と乱るる黄金の髪に埋めて、笑える如く横たわるエレーンの屍を載せた舟は杳然 (ようぜん/遥かに遠く) として何處ともなく去っていく。この葬送の舟は、彼女の魂を異界の扉へと導いていくようだ。

 

そもそもどうして円卓なのか ?


 

 ウァース『ブリュ』の円卓

日本に飛び火するほど感染力の強い「アーサー王と円卓の騎士」だが、ファンタジーものの偉大な源流の一つと言っていい。『里見八犬伝』とか『水滸伝』なんかもそうだけど、何人かの登場人物にそれぞれ物語りを割り振って色々な冒険譚を創り上げ、それらを一つの環に繋げて壮大な物語集にしていくのは、なかなか興味深い手法だ。しかし、何故、円卓なんだろう。この頃の宮廷では円卓が流行っていたのだろうか?

『ランスロットと聖杯』15世紀 写本 五旬節を祝うために集うアーサー王と騎士たち

どうも、円卓のもともとの起こりは、ノルマンディーの学僧ウァースが、part1でご紹介したブリタニア版の『アエイス』といわれる歴史物語、ジェフリー・オヴ・モンマスが書いた『ブリタニア王列伝』を翻訳・翻案した『ブリュ物語』の中で高貴な武将達が自分こそ最高の騎士であると言い張って譲らないために上席権争いの調停として円卓を設定したことによるらしい。前回と同様、アーサー王伝説の研究の第一人者であるジャン・フラピエの『アーサー王伝説クレチヤン・ド・トロワ』からご紹介する。名著だ。

ウァース(1115頃ー1183頃)『ブリュ』1155

ウァースは、ウェールズかアルモニア生まれの学僧であると言われている。この『ブリュ』は1155年に完成し、プランタジネット朝のヘンリー2世の妻だったアリエノール・ダキテーヌに献呈されたもののようで、正式には『ブリトン人の偉勲』と題されたものだった。フラピエによれば、『ブリュ』の名称は、ブリタニアの創始者ブルートゥスに由来するらしい。この作品は、先行するブリタニア王列伝』の翻訳ものの群を抜いてしまった。

これら翻訳ものは、ジェフリーの作品を基にしているもののウェールズ語に訳す時に、その固有の名前や伝承のディテールを挿入していて、ある種の改変があるらしい。一つの言語から別の言語に移し替える時、多くの名前は音声学的な法則の枠内で歪められる運命にあるとフラピエは言う。例えば、ラテン語の「エウゲニウス」は、ウェールズ語で「オウェイン」Owainとか「イウェイン」Ywainとなるけれど、「y」は「i」と発音されるために「イヴァン」の綴りがあらわれるのだと言うのである。なるほど。

ウァースは、ジェフリーの作品の中の素材に対しては、ほとんど手を加えなかったが、ラテン語の散文『ブリタニア王列伝』にユーモアを加え、軽快で生命力あふれた八音綴りに訳しかえているという。とりわけ頭語、単語や文章のリズミカルな繰り返しと対句や交叉配列を取り混ぜて、後のクレチヤン・ド・トロワの作品に少なからず影響を与えたと考えられている。文章の見た目はかなり変わったはずだ。ともあれ、ジェフリーの作品やウァースの翻訳によってアーサー王伝説の信憑性は、いやが上にも高められた。この二人のおかげでアーサーはシャルルマーニュやアレクサンドロスと同格の地位を与えられるようになったのである。

 

ロベール・ド・ボロンマーリン』に登場する円卓

悪魔が郷紳の三人の娘を篭絡しようとする。下の二人の娘は簡単だったが、上の姉は、聴聞司祭にも教えをうけるような善良で信仰厚い女性だった。そこで悪魔は、夢魔を呼んで姉が眠っている隙に、交わらせた。姉は知らぬうちに悪魔の子を身ごもる。司祭は彼女に告解と改悛をさせ、金曜日に一日一食とする贖罪の行を課し、娘はそれによって救われた。子供は悪魔の力によって過去の全てを知る能力を得、キリストによって未来を見通す力を与えられ、この世で最も賢い預言者となった。その子の名をマーリン/英 (メルラン/仏) と言った。魔術師マーリンの誕生である。聖俗の両極端が結びついた存在なんて、なんかユングとか喜びそうだ。

ロベール・ド・ボロン『メルラン』13世紀写本
夢魔に犯される姉

マーリン伝説は、もともと、ケルト系の「森のマーリン」とサクソン人に抵抗したアンブロシウスの系統の二つに分かれると言われている。既にpart1で紹介したネンニウスの『ブリトン人の歴史』には、夢魔にはらまされた父のない子として描かれ、搭が建てられる土台の下の壺が語られ、その中の天幕にある白い虫と赤い虫の戦いが述べられる。ブリトン人とアングル人との戦いが、この二匹の虫に象徴される龍の戦いの逸話として書かれている。その子の名はアンブロシウスと言うのである。このネンニウスの逸話を引き継いだロベール・ド・ボロン(12世紀後-13世紀前) が1210年頃書いた作品が、この著書『メルラン』(邦題は『魔術師マーリン』) で、1170年頃書かれた今からご紹介するクレチヤンの『聖杯の物語あるいはペルスヴァル』の後の作品となる。その中でマーリンをパンドラゴン王とその後を継いだ弟ユテル (後にユテル・パンドラゴンと名が改まる) の相談役となって次々に預言を行う聖者のような存在に設定している。ユテル・パンドラゴンがアーサー王の父となるのである。

アリマタヤのヨセフ サン・ジャン教会 フランス

アリマタヤのヨセフはキリストの遺体を引き取った人物だった。ローマ軍によってエルサレムが破壊された後、一族の者らと共に砂漠の荒野に向かった。この時、ひどい飢餓に見舞われ、キリストに何故そのようなことが起こったのか解き明かし給へと祈った。主は最後の晩餐で裏切ったユダの席が空白となっていることを明かし、この第一の卓に真似た第二の卓を設けるように指示したのである。そこに御自分の杯を置き、この席に座るものには心の充溢が与えられると教えた。空腹と聖杯が結びつけられていることをご記憶願いたい。

ユダの空席に坐るべきものはアリマタヤのヨセフだった。彼は、伝説ではブリテン島に渡るのである。マーリンは、このような卓をウェールズのカーデュエルに設えることをユテル・パンドラゴンに提案する。50人の騎士が参集したが、その中の一つの席が空いていた。面識のなかった彼らは、まるで親子のように互いに愛しあったという。ボロンのこの作品では、円卓は、このユテルから始まる。

しかし、その空席に座ろうとしたものは消えてなくなるのだった。この空いた席の秘密をマーリンはこう語った。そこに坐るものの父親は、まだ妻を娶っておらず、卓の完成は次代の王の治世となる。この席に着くものは、その前に聖杯の卓の空席に着かねばならず、聖杯の守護者たちは未だ、そこが埋まることを見たことがないと。次代の王とはアーサーを指していて、クレチヤンの『聖杯物語』を補完する形になっている。

 

聖杯の物語あるいはペルスヴァル』グラアルとは何か


 

ペルスヴァルの出自とアーサー王の宮廷

さあ、聖杯の物語あるいはペルスヴァル』に入ろう。フランドル伯フィリップ・ダルサスに捧げられたクレチンの未完の作品である。ダルサスに「聖杯物語」の掲載された書物を与えられ、これまで宮廷で書かれたものの中で最高のものを韻を踏んで書くのだとクレチアンは述べている。漱石みたいにやる気満々だった。後世に語り継がれる一つの神話といってよいものを形成することになるのである。この物語によって、聖杯という言葉の周囲に、何世代にも亘る思想や感情、夢が結晶化していくとフラピエは述べている。確かに ! 

フランス中世文学集2 愛と剣
クレチン・ド・トロワの『荷車の騎士』、『聖杯物語』、マリー・ド・フランス、ジャン・ルナールの著作収載

ペルスヴァルは、無垢な野人として登場する。騎士となった兄二人は戦死し、アーサー王の父であるパンドラゴンに仕えた騎士である父親は、その知らせを受けて気を病んでみまかった。母は、ペルスヴァルに騎士というものに一切触れさせないように育てたが、ある日、アーサー王を尋ねる騎士の一団に巡り合ってしまう。こうして、この無垢で素朴な若者は、それが定めであったかのようにアーサー王の宮殿に向かうのである。その後ろ姿を見ながら母が気絶するのを彼は見る。彼女は、しばらく後に亡くなってしまうのだが、そのことをペルスヴァルは知らない。

アーサー王の宮廷へ行く途中、テントの中の乙女と出会う。礼儀を知らぬこの若者は、母親に教えられた通りに挨拶し、接吻し (物語によれば7回)、指輪をもらい (奪い)、ご馳走を勝手に食べ、乙女に神の祝福があるようにと挨拶して立ち去った。この間、乙女の意思など全く注意を払われた気配すらなかった。乙女は後で恋人にひどい目にあわされることになる。

宮廷に到着したのは、カンクロワの森の真紅の騎士が、アーサー王の領土を要求し、彼の盃を奪い、その拍子に妃の頭の上に酒をそっくりぶちまけると言う乱暴狼藉を働いた後だった。ペルスヴァルには、そんなことは、どうでもよかったので騎士にしてくださいの一点張りだった。執事で口汚いことで知られるクーが、真紅の騎士の武具甲冑を奪ってくればいいと言った。ペルスヴァルは、真紅の騎士を追いかけて、甲冑を早く脱げと要求する。怒った騎士は、穂尖のついていない方の槍先で肩を激しく突いたのでペルスヴァルは馬の顎のあたりまで突っ伏した。騎士の恰好をしてない相手を脅かしたつもりだったのだろう。しかし、ペルスヴァルは真紅の騎士の目に向けて短槍を放つと、刃先は目から脳髄を刺し貫いて首の反対側へ血と脳漿と一緒に飛び出た。様子を見に来たアーサー王の騎士イヴォネに手伝ってもらって真紅の騎士の鎧兜を着けてもらい、武器と馬を頂戴し、アーサー王の金の盃をイヴォネに返してくれるように頼むのだった。

ゴルヌマン・ド・ゴールという有徳の士がペルスヴァルに騎士としての技や嗜みを教え、饒舌を避けるようにと注意を与えて彼を送り出した。敵に包囲されて餓死の危機に会うブランシュフルール姫を救い、やがて深くて速い流れの川で病身の漁夫王が気晴らしに釣りをしている光景を見る。その王の城に迎え入れられると、金髪の乙女が携えて来たという、運命づけられた剣を贈られる。そして華麗な広間で豪華な食事が始まった。

聖杯と漁夫王の城

ブルターニュものとケルト神話には基本的なテーマの類似はある。人と妖精との恋、魔法の武器や豊穣の釜、客人への歓待、物忌み、奇妙な姿への変身、そして、とりわけ他界への旅である。ケルト人の他界は西の海の極楽浄土の島、海面下の楽園、地中の宮殿といった場所だった。他界の冒険に参入できるのは、恐怖と謎に満ちた試練を乗り越えることの出来る英雄か、妖精に連れ去られる恋の幸運に恵まれる者だけであった。これがアーサー王の物語の中では、封建社会の騎士道や宮廷風といった衣装の下に隠れはするが、幻想の魅惑をその文学に与えることになるのである。

クレチヤン・ド・トロワ『聖杯物語』14世紀 写本 漁夫王の城のペルスヴァル

「室内は、館の中を蝋燭のあかりで照らしうる最大限の明るさで、とても明るかった。二人があれこれと話し合っている間に、とある部屋からひとりの小姓が、白銀に輝く槍の、柄の中程を持って入ってきて、炉の火と寝台に坐っている二人との間を通った。そして、その場に居合わせた人たちはみな、銀色の槍、銀色の穂尖を見、一滴の血が槍の尖端の刃尖から出てきて、小姓の手のとろまでその赤い血は流れ落ちた。その夜そこへ来たばかりの若者は、この不思議を見て、どうしてこんなことが起こるのか、尋ねることを差し控えた。(天沢退二朗 訳)」

ペルスヴァルに騎士道を教えたゴルヌマン・ド・ゴールが、彼に教えた忠告は、「あまりしゃべり過ぎないように気をつけよ」ということだった。

「そのとき、また別の小姓が入ってきた。手には、それぞれ、純金で、黒金象眼を施した燭台を捧げていた。この、燭台を持ってきた若者たちは大変に美しかった。それぞれの燭台には少なくとも十本ずつの蝋燭が燃えていた。両手で一個のグラアルを、一人の乙女が捧げ持ち、いまの小姓たちと一しょに入ってきたが、この乙女は美しく、気品があり、優雅に身を装っていた。彼女が、広間の中へ、グラアルを捧げ持って入ってきたとき、じつに大変な明るさがもたらされたので、数々の蝋燭の灯もちょうど、太陽か月が昇るときの星のように、明るさを失ったほどである (同上)。」聖杯=グラアルの登場である。

グンデストルップの大釜 前1世紀 ラテーヌ期
銀製 デンマーク国立博物館 グンデストルップ出土 豊穣の釜のイメージを彷彿とさせる。

「その乙女のあとから、またひとり、銀の肉切台を持ってやってきた。前を行くグラアルは、純粋な黄金でできていた。そして、高価な宝石が、グラアルにたくさん、さまざまに嵌めこまれていたが、それらはおよそ海や陸にある中で、最も立派で最も貴重なものばかりだった。まちがいなく、他のどんな宝石をも、このグラアルの石は凌駕していた。さきほど槍が通ったのとまったく同じように、行列は寝台の前を通りすぎて、一つの部屋から次の部屋へと入って行った。若者は、それらが通りすぎるのを目にしながら、あえて訊ねようとしなかった、グラアルについて、誰にそれで食事を供するかを (同上)。」

この聖杯には聖体が入っており、それに血の滴る槍となれば、キリスト教の秘跡や儀式と結び付けるのは容易だ。槍はキリストの脇腹を突いた兵士ロンギヌスの槍であり、杯はキリストの血を受けた聖杯と考えるのは自然なことではある。ロンギヌスの槍をアニメ、エヴァンゲリオンのオリジナルだと思ってはいけません。しかし、フラピエは、「グラアル」という名称が使われるのは聖杯や聖体器にはそぐわず、驚きだと言う。次に肉切台が出てくることからグラアルは食器の一つではないかと言うのである。

ジャン・フラピエ
『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』アーサー王伝説の原型を知る上で貴重な著作である。

12世紀中盤に書かれた、シャルル2世と戦った9世紀のブルゴーニュの族長ルシヨン武勲詩『ジラ―ル・ド・ルシヨン』には大杯や鉢、などの他に金ラメのグラアルが挙げられているとフラピエはいう。また、12世紀後半に書かれ、アレキサンダー大王を扱った『アレクサンドル物語』には「相手とともにグラアルで食べた」という記述が登場するらしい。13世紀の年代記の著者エリナント・ド・フロワモンは、「グラアル」が当時意味していたものの一つとして、次のように述べている。グラダリスあるいはグラダレとは、広くて些か窪んだ器を言うフランス語で、高級な料理を肉汁と一緒に入れて順番に裕福な人の前に給仕するための器だと。俗にグラールツとも言う。

後の、隠者とペルスヴァルとの会話では、謎を解く隠者が、お前が槍やグラアルについて尋ねなかったのは、お前の出奔のためにみまかった母への罪ゆえだと語る。そして、かのグラアルで給仕を受けているのは漁夫王長者の息子にちがいない、そのグラアルの中にあるのはカワマスやヤツメウナギやサケではなく聖体なのだと明かしている。魚はキリストの象徴でもある。

ケルトの神話にもまた槍や豊穣の器の話が伝わっている。それは異界の護符としての火の槍になったり、赤く血に染まった槍となり、復讐や破壊の恐るべき道具となる。英雄ブランの物語は、漁夫王の話と平行な部分があるとフラピエは言う。異界の王、海神であり、不思議な鍋と豊穣の角を持つ。そしてまた、戦闘中、槍によって負傷し、統治を断念した王でもある。わりと似た話は、マビノギの第二の枝『スリールの娘ブランウェン』にあるアイルランドの大洋周航が城の濠や川を渡ることに縮小され、異界の宮殿の不思議は深い川のほとりに忽然と現れ、住人は説明のつかない形で消え失せる。漁夫王の城は、中世のそれと言うよりアイルランドのタラの王宮や異界の神が主人であるブリュイデンの宴の間といったものが相応しいという。

アーダの聖杯 8世紀 銀製、金、金銅など アーダ砦出土 アイルランド国立博物館

1952年の『アーサー伝説と聖杯』の中で、ジャン・マルクスは、こう述べている。かつて、異界の王の魔法の城の周辺は特別に肥沃な地だった。しかし、王の護符の一つであった魔法の武器 (槍や剣) によって、邪悪で苦痛に満ちた一撃を加えられた王は男性の機能を、あるいは生命を失い、その地は「荒地」となった。この災害は地上の城にも影響を与えることになるだろう。地上の宮廷から出発する聖杯の探索とは、不毛と死とに脅かされている異界の呼びかけに答えるものである。選ばれた者である主人公は、聖杯の城に入ってゆき、試練に打ち勝ち、邪悪な一撃による王の苦痛を取り去り、病身の王を治癒し土地に豊饒を取り戻すなら、自ら聖杯と異界の王となると言うのである。

フラピエは、我々が知っている『聖杯物語』とは、妖精界や魔術的な不可思議に属する要素を、キリスト教的な要素とまぜあわせていると述べている。ここには、かつてのケルトの伝承に関わる、料理をふんだんに生み出す魔法の鍋、酒やネクターを尽きることなくたたえる大甕、それらの延長線上にあるグラアルとキリストの秘跡による聖杯とが結びついたと考えてよいのだろう。行列の場面の周囲に広がる曖昧な雰囲気、聖と俗のまじりあったあの明暗は、二つの異なった構造を重ね合わせ、クレチアンの完璧な才能と華麗な主題の恵みによって詩的創造に結晶したとフラピエは強調するのである。

 

生命の聖杯と言葉の槍


 

このペルスヴァルの物語における「荒地」が、トーマス・スタン・エリオットの畢生の詩『荒地』のタイトルとなったことは、T.S.エリオット part1 『荒地』リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリックに述べた。ペルスヴァルの沈黙によって王の傷は癒されることなく、城の人々は消え失せるのである。彼はキリストの教えに背いて5年の放浪を続けて、とある隠者のもとに立ち寄り、回心する。そして、対位法的に進行するゴーヴァンの物語がアーサー王の母の住む城への到着と次なる展開が生み出されようとするところでクレチヤンの寿命は尽きた。荒地となった漁夫王の土地は回復するのだろうか。アーサー王伝説の源『ブリタニア王列伝』のアーサーは、アヴァロン島に向かったままその消息は明らかにされなかった。クレチンの死によってペルスヴァルの行へもまた謎のまま残されるのである。

死と生が交差するサウィンの夜、ケルトの民は食べ物を供えて先祖の霊や死者たちを供養したという。そのとき、死者の霊たちから生命の活力を授けられたのである。今日、ハロウィンに子供たちにお菓子を与えるのはその名残だと言う。このケルトの本源的交換と食べ物を生み出し続ける豊穣の釜=グラアルは、人間の罪故に殺され復活したキリストの象徴としての聖杯に重ねられた。クレチアンは、その巨大な二つの碁層を物語という言葉の血が滴る槍で諸共に突き刺したのである。死にかわり、生きかわる人間の生命の根源に達するまで。

 

参考図書 及び 引用文献

 

江藤淳『漱石とアーサー王伝説』1975年刊

『マビノギオン』「スリールの娘ブランウェン」「エブロウグの息子ペレルディルの物語」収載

ロベール・ド・ボロン 西洋中世奇譚集成 『魔術師マーリン』  2015年刊

ネンニウス『ブリトン人の歴史』最古のアーサー王に関する文献。ラテン語名アルトゥスという指揮官として登場する。

C・スコット・リトルトンとリンダ・マルカー『アーサー王伝説の起源』

 

 

クレチヤン・ド・トロワ「アーサー王 円卓の騎士の物語」part1『獅子の騎士イヴァン』

 

アーサー・ラッカム(1867-1939)画
『夫のもとへと騎乗するア―サー王の王妃グ二エーヴル』

血統を誇り、武芸に秀で、宮廷風な雅を備える騎士たるものは、その言葉遣い、振舞い、センスの良い衣装、戦いにおける勇猛と深慮、忠誠心と寛大さと気前の良さを併せ持たねばならなかった。でも、これって、ちょっとハードル高いんじゃないのかな。光源氏の雅と義経の武門の誉を併せ持てといわれれば、どんな男性だって引いてしまうでしょ。

そして、生来の高貴な気高さと秘かな想い、他を抜きんでた類 (たぐ) 稀な魂と肉体の美、これらの資質を有する者が、あらゆる徳を照らす貴婦人・王妃である。清少納言の才知を持てと言われないだけ良いのかもしれない。でも、これが「宮廷風」と呼ばれるものの理想だった。

これに加えて宮廷風の主人公は、恋をしなければならなかった、これは義務だったのである。宮廷風の完成には恋は欠かせなかった。仕えるべき高貴な貴婦人や乙女が必要だった。意中の人を前にし、あるいは彼女を思うだけで宮廷風騎士は高揚した「喜び」に貫かれる。この「純愛」は、中心思想 (サン) となり、中世における最も独創的な創作物となったとジャン・フラピエは語る。例えば、こんな感じです。

「このように彼女がランスロに対して大きな愛を感じていたとすれば、彼のほうもまた、その何倍も深い愛を彼女に対していだいていたのである。‥‥今度こそはランスロは望めるだけのものはすべて手にいれることができた。それというのも王妃は彼が傍にかしずき、愛の奉仕を捧げるのを許し、彼は彼女、彼女は彼を互いに腕にかき抱いたからである。この抱擁はまことに甘美なもので、それは接吻と互いに触れ合う五感から来るものであったが、間違いなく、これほど深い喜びが、かつてあったことも語られたこともないほど深いものであった。しかし、筆にすべきでないことについては、いつまでも沈黙を守るとしよう。(クレチヤン・ド・トロワ『ランスロまたは荷車の騎士』神沢栄三 訳)」

高踏的にならず素朴すぎもせず、中庸な感じの描写が好ましい。これは、確かに甘美な悦楽ではあったが、不倫だった。このクレチヤンの物語は、aa、bbと二行ずつ韻を踏む、中世の詩としては標準的な八音綴平韻の形式で書かれていて13世紀フランスの『薔薇物語』同じ形式だけれど、愛の神がそのまま登場するのとは異なり、擬人化といった寓意の手法は表立ってあらわれてこない。

 

バターシーの盾(BC 350-50)テムズ川、
ロンドン出土 青銅製  筆者撮影

紀元前450年からローマによって征服されるまでの紀元前1世紀、既にヨーロッパは鉄器の時代に入っていたが、チェコからオーストリア、西南ドイツから東フランスまでの地域に栄えたラ・テーヌ文化の主役はケルト族だった。この時代、ブリテン島に渡った彼らは、ローマと闘いながらスコットランドやウェールズ、アイルランドに逃れ、ローマ帝国の支配を拒んだ。

5世紀にゲルマン諸族の中のサクソン族がブリテン島に侵入する。その異敵と12回もの合戦を戦った最高司令官はアルトウスと言った。8~9世紀に歴史家ネンニウスは『ブリトン人史』の短い章にそう書いた。アーサー王のラテン語名である。ある程度ローマ化され、キリスト教化されたケルトの子孫たちは、ゲルマン諸族に追われてブリテン島南部、いわゆる南ブリタニアから再びウェールズやアイルランドに逃れた。ある者たちはブリテン島の南西の端、コンウォールへと、ある者たちはフランスに渡りアルモニアの地、今日のフランス北西部であるブルターニュの地に定着した。

アーサー王物語の端緒は、1136年にジェフリー・オヴ・モンマス (ジェフロワ・ド・モンムート/仏) が書いた『ブリタニア王列伝』と言われている。モンマスは、ウェールズかアルモニア生まれの学僧、つまりローマ教会のスコラで学んだ知識人だった。彼は先行するいくつかの歴史書を史的な価値とは無関係に自由に文学の材料として使った。こんな歴史書たちだ。

ギルダス『ブリタニアの破壊と征服』6世紀
ベーダ『イギリス国民教会史』731年
ネンニウス『ブリトン人史』8世紀 (9世紀)
ウィリアム・オブ・マームズベリ『イギリス王実録』1125年 など

これらの歴史書からの乏しい情報を巧みにつなぎ合わせ、そこに空想力を存分に働かせて12巻ものラテン語の散文に書き綴った。ことは、トロイが陥落して三世代後の執政官であるあのブルートゥスが大ブリテン島までの航海に出発することから始まりブリタニア独立の終りまでが語られる。ブリタニア版の『アエイス』だった。とりわけ、9巻と10巻にアーサー王の権勢とその栄光が綴られている。

 

ジェフリー・オヴ・モンマス 『ブリタニア王列伝』のアーサー王


 

『キリスト教の英雄タぺストリー』1385年
9人の王位継承者の一人としてのアーサー王

ここからは、ジャン・フラピエ (1900-1974) の『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』から適宜ご紹介していきたい。アーサー王伝説の最良の解説書の一つだ。ソルボンヌの教授を務め、国際アーサー学会を結成した人として知られる。著書によってはクレチアンやクレティアンといった訳語の表記が異なるがクレチヤンに統一させていただいた。

予言者であり魔法使いのメルラン (マーリン/英) の魔法によってコンウォール公に化けたユテル・パンドラゴン (ユーサー・ペンドラゴン/ウェールズ) が、公の夫人イグレーヌと交 (か) わした一夜の愛の契りによってアーサーは生まれるとジェフリーは書いた。『ブリタニア王列伝』のアーサー王の物語は、歴史の埒外に、ロマネスクでケルティックなファンタジーに仕立てられたのだ。

アーサーの武具は、父王パンドラゴンが戦いの印としたドラゴンを頂く金の兜、聖母の描かれたプリドウェンの盾、アヴァロン島で鍛えられた剣カリブルヌス/羅 (エスカリボル/仏、エクスカリバー/英)、そしてロンと呼ばれる槍であり、全てケルト起源の言葉のようだ。15歳で即位し、その武勇と寛大さで貴族を見方につける。サクソン人を破ってブリタニアを奪回、アイルランド、アイスランド、ノルウェーを征服し、ローマの司令官フロロの頭を真っ二つにしてパリに入り、ガリア全土の支配者となる。

アーサー王の王妃は、グエヌエラ (グニエーヴル/仏) と言う名で、ローマ貴族出身の大ブリテン島一の美女という設定となっている。ケルト語の「白い幽霊」、つまり精霊を指す言葉のようだ。アーサーはガリア征服の後、帝国の支配者となり大ブリテン島で戴冠式を挙行するが、ローマから服属せよとの書状を受け、再び、ローマとの対決を決意する。フランス、シャンパーニュのシエジア平原でローマ軍を打ち破ったのも束の間、甥でゴーヴァンの兄弟にあたるモルドレの王位簒奪と王妃グエヌエラ の背信の知らせを受ける。

ブリタニアに戻ったアーサー王は熾烈な戦いを制してモルドレを討ち取った。542年の事とされる。しかし、ゴーヴァンは戦死し、王自身も瀕死の重傷を負った。そして、手当のためにアヴァロン島に運ばれ、話は終わる。このたった二行の余韻が凄まじかった。生きているとも死んだものとも分からない王の消息はここで途絶えるのである。その後のアーサーはどうなったのか ?  この物語は、200もの写本が作られ、瞬く間に俗語に翻訳され、それを契機に『アーサー王物語』のヴァリアント群が形成されていった。こうして、アーサー王は、英・仏にまたがる地域で家臣に囲まれたヤマトタケルになったのである。

 

クレチヤン・ド・トロワ


 

12世紀は中世の春である。人文主義が芽吹く時代だった。この世紀の中葉、北フランスに宮廷文学が出現する。中世の多くの作家たちの生涯は、ほとんどがよく分かっていない。いくつかの詩や『エレックとエニッド』『クリジェス』『ランスロットまたは荷車の騎士』『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』や『獅子の騎士イヴァン』といった物語を書いたクレチヤン・ド・トロワもその例外ではなかった。おそらく、シャンパーニュ地方のトロワの出身と考えられている。学僧としての教養は身に着けていて、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (1160頃-1220頃) は、彼を「マイスター・クリスチャン・フォン・トロワ」と呼んだが、司祭にはなっていないようだ。

ベルグソンの高弟であったアルベール・ティボーデ (1874-1936) は、「中世の物語、それは学僧と、その言葉を聞く貴婦人である」と述べたと言うが、当時、在俗司祭や修道会員の他に司祭ではない学僧や落伍した放浪学僧たちがいた。この学僧たちは教養で身を固め宮廷へと入っていった。シャンパーニュ伯妃のマリー・ド・フランス (マリー・ド・シャンパーニュ) といった貴婦人たちが耳を傾けた相手は、このような学僧たちであった。

クレチヤンはウェルギリウスやオウィディウスの影響を受けたが、古典の摂取にとどまることなく、そこから引き継がれた教養を騎士道に結びつけることに腐心した。このような総合が宮廷風人文主義の原理、つまり、一つの文化を理想的な生きた姿にすることを可能にするのである。マルク王と金髪のイズーといったブルターニュの伝説に触発され、南フランスの恋愛の詩歌カンソ、北フランスのシャンソンといった複雑な技術をものにしていたという。それに、アリストテレスの影響が浸透するまでは聖書の解釈から導き出される象徴性は、重要な中世の「知的用具」だったとフラピエ は述べている。別の「知的用具」として、次のような例もある。

フランス中世文学集2 愛と剣
クレチヤン・ド・トロワの『荷車の騎士』、『聖杯物語』及び、マリー・ド・フランス、ジャン・ルナールの著作を収載

「御坊様、とかれは言う、なんと五年もの間、わたしは自分を見失っておりました。神を愛さず、神を信じませんでした。ひたすら悪をのみ為しておりました」

「ああ ! 友よ と立派な人は言った、聞かせていただきたい、何ゆえそのようなことをなされたのかを。そして、神に祈られよ、罪人の魂を憐れみ給うように」

「御坊様、漁夫王の館に一度私は赴き、槍の穂尖が、疑いもなく、血を流すのを見ました。そして、その血の滴が、白銀の刃の尖端に結ぶのを見ながら、何ひとつ質問をしなかったのです。以来、わたしは全く、改悛しませんでした。また、わたしが目にしたグラアルについても、それで誰に食事が供されたかを知らないのです。そんなわけで、以後、わたしは大変に心責(さいな)み、いっそのこと死んでしまいたいと思い、それで神さまのことも忘れたのです。以来、神に御憐れみを乞おうともせず、何ひとつしませんでした、わたしにも御憐れみを受けるに値するとわかっている何も」(クレチヤン・ド・トロワ『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』天沢退二郎 訳)」

このような聖職者や隠者との会話は、ある種、物語の解説の役を担っていて、その展開に、時折重要な役目を果たしている。後の13世紀の作者未詳とされる『聖杯の探索』では、宗教的な要素が、かなり強まっていて、シトー修道会に関わりがあると思われる作者は、この手法を多用しているのである。

 

『マビノギオン』とアーサー王伝説


 

ジャン・フラピエ  1988年刊
『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』

ケルト族が住んでいたアイルランドの口承文化は5世紀にキリスト教が伝えられて、その地の異教とキリスト教の融合したものになっていった。そこは諸々の伝承が媚薬のように混ぜ合わされる島だったとフラピエは述べている。最古のケルト伝承は10世紀から12世紀にかけてのアイルランドの写本に残されていた。

このアイルランドの伝承は交流の絶えなかったウェールズへと伝わり『マビノギオン』という果実を生んだ。短いものはマリー・ド・フランスの『短詩』に、長いものはクレチヤンの物語に似ているという。その成立年代の予測には幅があって11世紀から12世紀が一般的な意見のようだ。

この『マビノギオン』の中の『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』はクレチヤンの『獅子の騎士イヴァン』に、『エルビンの息子ゲライントの物語』は『エレックとエニッド』によく似ている。一方、『エヴロウグの息子ペレディルの物語』は『聖杯物語』に近いが、長虫退治があったり、コンスタンティノープルの女帝などが登場して多々異なる点がある。最も大きな違いは聖杯=グラアルがあらわれないことである。これらの物語の類似について、おそらくケルトの共通の素材を典拠としたのではないかとフラピエは考えている。とりわけ、『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』は、ウェールズ人によるアーサー王文学の傑作だと彼は言う。

ケルト人とフランス人が接触したのはブリテン島のコンウォールとウェールズ及び大陸のノルマンディーやそれに接するアルモニカ (フランスのブルターニュ地方) であった。ブリテン島を大ブリタニア、フランスのブルターニュは小ブリタニアと呼び習わされていた。ちなみにアルモニカはローマ人たちの呼び名である。

11世紀にはノルマンディー公ギヨームが、イングランドに侵攻し、イングランド王ウィリアム1世となった。その後、フランスのアンジュ―伯が王位を継承、英仏海峡にまたがるアンジュ―帝国が形成される。ジェフリー・オヴ・モンマスの『ブリタニア王列伝』のフランス語訳は、いにしえの記憶を保全したいとと考えていたノルマンディー・アンジュ―家のイギリス宮廷のためのものだった。この時代を含めてプランタジネット朝と呼ばれる時代が14世紀まで続いた。

この頃、フランスのノルマンディー地方で使われていたノルマン語がイギリスに流入しアングロ・ノルマン語を形成する。この言葉やフランス語、英語、ブリトン語を話す竪琴弾きや吟遊詩人が、イギリス側や小ブルターニュから、おそらくシャンパーニュに流れ込んで来たと思われる。このようなアングロ・ノルマン語などの言語でアーサーものが書かれた可能性がある。いわゆる「ブルターニュもの」と呼ばれるものだ。彼らのあまり緊密でもなく、心理面でも一貫性のないエピソードを「素材」とし、宮廷風と呼ばれる「主要概念」をもとに「構想」し、天賦の才で「物語」へと統一したのは他でもないクレチヤンなのだとフラピエは言うのだ。そこに、きめ細かな心理描写を挟み込み、ケルティックな幻想の風味を付け加えることも忘れなかった。中世の作家は構成に関して今の我々と同じようには考えていなかったともフラピエは言う。リニア―で単純な平面上に展開される話は、比較的複雑な階層に分かれた構造を探させるように誘うという。

 

クレチヤン・ド・トロワ『獅子の騎士イヴァン』


 

上 伝説のプロセアンドの森と考えられているフランス、ノルマンディーのパンポンの森
下 その森にあるメルラン (マーリン) の墓

この物語は、伝説のプロセアンドの森が導入の舞台となる。「霧雨が降っている。濡れたブナの幹の下、黄ばんだ葉が、ざらざらしたヒースの深く小さな茂みの上を、くるくる回りながら羊歯に沿って逃げてゆく(『ブルターニュ』菊池淑子 訳)」とこの物語の訳者は冒頭の「はじめに」に記した。

そこに在るのは、冷たい水なのに沸騰しているバラトンの泉で、悪魔の子、魔法使いのメルラン (マーリン) と妖精モルガンの交わした約定によって、その水を美しい松の木の枝に掛けられた黄金の盥 (たらい) に満たし、ほとりの大きな石に注げば、忽ち疾風迅雷の嵐がやって来る。そんなマジカルな森であった。

『獅子の騎士イヴァン』、この物語は『エレックとエニッド』と並んでクレチヤンの傑作の一つといわれている。泉には、エメラルドの巨大な石に一本水路が穿たれ、その底に真っ赤なルビーが四つついている。石に盥から水を灌ぐと伝説のように嵐が襲ってくる。稲妻が轟き、雨と雪と雹が、ごたまぜとなって叩きつけてきた。アーサー王と廷臣たちの前で、騎士キャログルナンは7年前のある不名誉な体験を語った。その話を聞いたイヴァンは、その泉を目指して冒険の旅にでるのである。この物語には、妖精の薬は登場しても妖精自身は登場しない。妖精に近づきすぎてはいけないとフラピエは警告する。

イヴァンは、聞いた通りに、その泉で金の盥で岩に水を灌ぐと、嵐が起こる。それによってなぎ倒され、破壊された領地の損害を償えと憎悪に燃え盛る眼をした騎士に戦いを挑まれた。嵐の度に彼の領地と城はどよめくのだ。その騎士を打ち負かし、自らの城に逃げ込んだ相手を追いかけたイヴァンは、刃のついた落とし戸に前後を阻まれて閉じこめられてしまう。

クレチヤン・ド・トロワ『獅子の騎士』
菊池淑子『フランスのアーサー王物語』

窮地に立つイヴァンだったが、かつてアーサー王の宮殿で親切にした王妃の待女リュネットに姿を隠すことのできる指輪を与えられるのである。トールキンの『指輪物語』みたいだ。王妃の夫であった例の負傷した騎士が亡くなり、智慧のまわる待女は、匿ったイヴァンを王妃と結婚させるのに成功する。彼女がこの物語のトリック・スターという分けだ。しかし、彼は、怠惰を戒める友人のゴーヴァンの説得に従って試合遍歴の旅に出る。

だが、王妃ローディーヌとの一年という約束の期限を破ってしまう。約束を踏みにじり、後悔に打ちひしがれていたイヴァンのもとに待女と思われる女性が現れ、彼の不実をなじり、その手から指輪を抜き取って去ってしまった。ここまでが第一部である。

第二部で、話は急展開する。ローディーヌに許されない限り死ぬほかはないと思い詰めたイヴァンは気がふれて獣同然に野原をさまよいはじめる。英雄物の定石通り、一度は落魄に身をさらすことになる。そこに通りがかった奥方のローディーヌと待女はイヴァンを見つけ、昔、妖精のモルグからもらったという狂気を追い出す薬で彼を正気に戻すのである。しかし、記憶を取り戻せないイヴァンは、彼女とは分からないまま、その領地に戦をしかけるアリエ伯爵と闘い、撃退する。そして、領主となることを望まれても、そこを立ち去ってしまうのである。

途中、毒蛇に尾を噛まれたライオンを助け、その猛獣を連れとして旅を続けることになる。それで獅子の騎士と名乗るのである。とある礼拝堂に幽閉された乙女がいた、主君への背信をその家令に咎められた例の待女である。アーサー王の宮廷に助けを求めたが、頼みのゴーヴァンは、連れ去られたアーサーの妃グニエーヴルを探しに旅に出ていたという。ここは『ランスロットまたは荷車の騎士』と話がクロスする箇所となっている。一連のヴァリアントになるように物語同士をつないでいるのだ。明日には火刑にされるその乙女が、例の待女と気づいたイヴァンは、明日助け出すことを約束して近くの城に宿泊する。その城では、王子たちが山のアルパンと呼ばれる巨人の囚われの身となり、王女と引き換えに明日やって来ると言う。イヴァンと獅子はその巨人を討ち果たし王子たちを解放してやる。同一の物語内にも絡み合わせの妙があるとフラピエは指摘する。

待女が、あわや火に投げ込まれようとしたところにイヴァンは駆け付けた。家令とその二人の兄弟に対してイヴァンが立ち向かい、後には獅子も加勢した。三人は倒され、待女のリュネットは無事救い出される。ここまでは、『マビノギオン』の中の『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』の物語とほとんど同じストーリーをたどっていて、オワインの物語の方はこの後、イヴァンと奥方とが再び縁を結ぶことになって終わる。クレチヤンの作品の方がボリュームがあって、内容が濃い。この話に続いて、300人の織物や刺繍をする乙女たちを二人の悪魔から救う話、そして亡くなった父王の遺産相続を巡る姉妹の物語へと発展していく。まあ、続きはどうぞこの物語をお読みください。

 

さて、次回 part2 はいよいよクレチヤンの名を後世にとどろかせ、エッシェンバッハ 、トマス・マロリーを経てワーグナーにまで至る聖杯の物語ペルスヴァルをご紹介する予定です。お愉しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

ネンニウス『ブリトン人の歴史』ローマの執政官ブルートゥスに因みブリタニアと命名されたとしている。最古のアーサー王に関する文献。本書の解説では9世紀に書かれたとされる。

ウィリアム・オヴ・レンヌ
『ブリタニア列王の事績』
13世紀に『ブリタニア列王史』を詩的に翻案した作品。

作者未詳『聖杯の探索』13世紀

『マビノギオン』ウェールズの古潭

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竹田青嗣『哲学とは何か』「認識・言語・存在、本質」のテーブルマップ

 

竹田青嗣『哲学とは何か』

ゴルギアス (前487‐前376) というシチリア生まれのソフィストがいた。哲学の三つの謎を巡るゴルギアスの定理というのがあるらしい。このようなものだ。

●およそ何ものも存在しえない。あるいは証明されない。
●万一存在があるとしても、決して認識されない。
●万一存在が認識されたとしても、けっして言語によって示し得ない。

それは、普遍的なものへの認識という哲学のテーマを粉砕するほどの破壊力があった。このソフィストの議論は、プラトンやアリストテレスによって否定されるが、完全に論駁されたわけではなかった。ヒュームによって普遍認識の達成が危ぶまれても、カント、ヘーゲルといった正統的な普遍認識派がヨーロッパ哲学の主流をなしてきた。

しかし、最近は雲行きが怪しい。存在と認識との間、認識と言語との間の溝が埋まらなくなっていったのである。このように図式化できる。存在 (現実、対象、客観) ≠ 認識 (主観) ≠ 言語 (哲学説) 。

フッサールが現象学を提唱して存在と認識の隙間を埋めようとした。その最も有望な弟子のハイデッガーは現象学から存在論へとそれてしまい、フッサールの高弟たちもハイデッガーに靡いてしまった。現象学は、フランスに輸入され独断論、主観主義などと批判されたが、サルトルやメルロ=ポンティといった現象学派を生み出すことになる。やがて、相対主義のポストモダンが隆盛となっていった。

一方、認識と言語の一致は可能なのか。現代の言語哲学者、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインからカルナップ、ウィラード、クワイン、クーン、デリダ、ローティ、クリプキ‥‥らによるスッタモンダは、記述理論、言語ゲーム、家族類似ゲーム、物理学主義、確証の全体論、指示の因果説‥‥といった縺れ合った理論を多く生み出しはした。それは、言語の数学化を目指しているように思えるが、何処かに出口があるのだろうか。

今回は、このゴルギアスの定理とヨーロッパ哲学のアポリアとしての存在論を端緒とする竹田青嗣 (たけだ せいじ) さんの著書『哲学とは何か』を取り上げたいと思っている。今年 (2020年) 発刊されたばかりの著作だ。本書では、存在= 言語認識の繋がりではなく、認識 = 言語 = 共通理解という繋がりになる。竹田さんは、1947年大阪生まれ。早稲田大学経済学部をご卒業。明治学院大学国際学部、早稲田大学国際教養学部、大学院大学至善館で教鞭を執られた。早稲田大学名誉教授であられる。難解な哲学のテクストを分かりやすく解説して下さるので定評がある哲学者である。僕のような素人には有難い人だ。著書に『現象学入門』『欲望論 第一・二巻』『ニーチェ入門』『言語的思考』『哲学は資本主義を変えられるか』など多数ある。本書は浩瀚な『欲望論』のダイジェスト版と言ってよい。特に現代の複雑な思想の内に迷子になっている若い人は、一度読んでみられると良いと思う。

 

■ 認識のテーブル


 

カントとユクスキュル

全ての物体、すべての身体にとって、ただ一つの自然、無限に多様に変化しながら、自身もひとつの個体であるような自然、全ての個体やすべての心がその上にあるようなひとつの内在的な共通平面が披き敷かれる。ひとつの体は無限数の微粒子の運動や静止の関係から成り、他の諸々のものを触発し、逆に触発される。運動的で、力動的な、このように世界に生きることは極めて複雑なことである。ジル・ドゥルーズは、自分でもどうしていいか分からないうちにスピノチストになっていることに人は気づくと述べた(『スピノザ』)。世界は複雑系なのだ。

ユクスキュル、クリサート
『生物から見た世界』

一つの個体としての身体は、どれほどの情動をとりうるのか、触発し触発される力の強さの幅は、どれだけか。この自然の平面の上では、構成する諸々の運動、諸々の情動の組合せは人工物や自然物において無限にある。動物たちの世界が、このような情動の絡み合い、触発し触発される力によって規定されていると指摘したのは、ドイツで活躍した生物学者・哲学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュル (1864-1944) だった。

しかし、このような自然の個々のものを複合関係や触発=変様能力の固有の変動・変移として捉えたのはスピノザ(1632-1677)である。彼の言うコナトゥスは、「外的な力に対する自己保存の努力とその個体の力」と最小限定義される(エドゥイン・カーリー)。重要なのは、彼の無限実体としての神という第一原理ではなく、このような第三・第四原理と呼べるようなものだとドゥルーズは考えていた。そこには「生の哲学」があったからである。

ニーチェは、哲学的世界から「神」を抹消した。全知なる神の消去は、「完全な認識」という概念そのものを無効にする。もの自体を認識することは出来ないとするカントの哲学から全知の神を抜き去ると、それぞれの生物が、欲望や能力といった「生の力」に応じて持つ可能で適切な世界という世界観に変る。真に存在するのは個々の生き物にとっての「環世界」つまり「生の世界」だけだと言える。そのような世界は、内的世界と外的世界が作用しあう世界であって、外界だけが客観的に存立する世界ではないのである。

ユクスキュルと息子のトゥーレ 1915
トゥーレは心身医学の創始者として知られる。

ダニは、味覚も視覚もないが、表皮全体に分布する光覚、温い獲物の上に落ちるための温度感覚、哺乳類の皮膚腺から出る酪酸に対する嗅覚、適当な灌木に這い登る機能、ほぼ、それだけで、子孫を残すことを貫徹させようとする。そして、血液を提供してもらえそうな相手をほとんど、仮死状態になって待つことも出来る。ダニは、無数の選択肢から、たった三つの知覚様式と一つの作用様式を選択した。今や、ダニは自分の時間を支配さえしている。

生物の世界は、知覚作用に対する行為の作用が不可避的に結びついていて、作用のトーンと呼ばれる「主体が意味を与える世界」構築するのである。普通、機械は意味を与えない。ユクスキュルの言う環世界とは、生きた主体が空間・時間の中で決定的な役割を演じるカント的世界なのである。

しかし、この章の主題は、ドゥルーズとカントを巡るダニ問題ではない。問題なのは、我々の世界が、自己の内的世界と環境と言った外的世界とが密接に結び合わされた世界であるということなのである。超越的絶対的存在を想定することが「生の哲学」の否定要因となって来たということが、スピノザやニーチェの思想から明らかになっていく。そして、それが、「哲学とは何か」を探る鍵になるのである。

 

ニーチェのエポック

カントの言う「もの自体」、ヘーゲルの「絶対知」、ショーペンハウアのペシミズム、それらの言説は人間への「道徳」への勧めであるとニーチェは言う。この道徳的モチーフは人間の本質的弱さに由来すると考えていた。この混沌とした無秩序と矛盾の世界を直視することなく世界を整理されたものとして眺めたいという一種の弱さからくるのであり、支配された人間が惨めさを打ち消すための思想が禁欲主義的理想であるというのである。ただ、これは道徳の由来を述べているのであって価値をあげつらっているわけではない。この理想主義は、「絶対に正しい認識」と結びついていて、キリスト教に替わる近代哲学においても同様だった。その「絶対に正しい」は相対化される必要があった。このニーチェの思想はポスト・モダ二ズムにおいて再評価される。

マルクス主義思想が巨大な権力国家を作り上げた。「絶対的に正しい認識」という一つの主義やイデオロギーと「倫理的正当性」とが結びつき、独裁的なスターリニズムを呼び起こした。そのような危険性が生じたことが、20世紀における「知」と「権力」の問題を浮上させる。フーコーやデリダ、ドゥルーズといったポストモダニストたちには「知」「認識」「論理」の絶対性に対する強い異議があった。「知」と「権力」が独自のあり方で結びつくことへの不安が存在したのである。ニーチェは、こう述べていた。

「いったい、人間の未来全体にとっての最大の危険は、どういう者たちにあるのか? ‥‥すなわち、『何が善にして義であるかを、われわれはすでに知っており、さらにそれを体得してもいる。このことで今なお探求する者たちに、わざわいあれ ! 』と、口に出し、心に感じている者たちのもとにあるのではないか ? (『ツァラトゥストラ』吉沢伝三郎 訳)」

ニーチェは、従来の哲学は「現実の否定」という動機を隠しているという。それは、「絶対的に正しい思想」への信仰と裏腹に存在した。ポストモダニズムは、この「正しい認識」を焦点に据えて、ヨーロッパ思想の中心的な問題である「真理」や「認識」を解体しはしたが、マルクス主義を超えて新たな道筋を指し示せてはいないと著者は指摘する。ニーチェによって否定されたヨーロッパ思想の人間観は、「力の思想」という新たな根本原理によって刷新されていく。竹田さんが「力の相関性」(欲望‐身体相関)と呼ぶ「生の世界」の原理である。

 

フッサール 内的世界と外的世界への新たな視点と竹田現象学

フッサールの現象学は正当に理解されていないと竹田現象学は述べる。ここは、竹田さんの独壇場の感があり、僕はそれを批判できる立場にないが、かなり共感をもってお伝え出来る。主観としての私は、客観的対称としてのりんごを把握可能かと問う。自然科学の方法は「主観‐客観」の一致を前提としているが、人文領域ではカントの「物自体は認識不可能」をはじめとして諸説対立し、学問の普遍性にたいする疑いが生じていた。ウィトゲンシュタインは、私の見ている赤色はあなたの見ている赤色と同じかどうか確かめることができるのかと問う。

「りんごが見えるーりんごが在る」という構図は、人に備わっている自然な了解だ。しかし、これをフッサールは一旦棚上げする。これをエポケーと呼んだ。りんごという客体が在って、私という主観にりんごという認識が生まれるのではなく、りんごが見えるということが、りんごが在るという確信を生み出すと考える。これを「現象学的還元」という。「りんご (原因) → りんごの認識 (結果)」ではなく「りんごの知覚 (主観 ) → りんごが在る (確信)」という図式として考える。経験世界から世界像が生まれるのであって。客観と主観の合一は独断や予見に過ぎないというのである。この世界確信の図式では主観ー客観の二項対立がないためにゴルギアスの定理を回避することができる。この認識=確信は、自分だけの確信の場合、あそこには橋があるといった共同的確信 (間主観的確信)、三角形には三辺あるといった (普遍的確信) 竹田さんは分けている

竹田現象学におけるノエシスとノエマ

主観の確信のもとになる「対象に関わる経験や意味」は、フッサールがノエマと呼んだものだが、様々な解釈を呼んでいるらしい。ノエマは経験する知覚対象それ自身であるという説、対象の意味だという説、経験の対象そのものの部分とする説、同一の対象がもつ多様な相貌の一つとする説があり、解決を見ていない。竹田さんは、意識における具体的な体験の流れ、つまり、りんごで言えば「赤い」「丸い」「つやつや」といった刻々変化する体験流をフッサールの言う「ノエシス」と考え、それらが構成されて対象確信として成立したものが「ノエマ」としている。ここは、竹田現象学の核心部と言えると思う。

 

認識のテーブルにおけるテーマ

デカルトの神は、欺くことのない善なる存在であり、人間の認識は信用のおけるものとされた。カントの認識論はどんな生き物も自分の認識装置を通して対象を認識する。人間には、美味しそうなりんごでも、猫には転がる丸い球で、トンボには円形の形のみが感じられ、アメーバーにとっては、もはや何者でもないと竹田さんは言う。ヘーゲルは、ものとは概念の運動だとした。時間軸の中で経験による様々な概念が豊かに蓄積されていく運動なのである。ヘーゲルの世界は、スピノザの汎神論に近い (非汎神論説もある) に近い有神論だという。

しかし、認識問題の謎は、ニーチェとフッサールによって解明されたと竹田さんは考えている。竹田さんのネーミングで言えば、「本体論の解体」だ。本体とは「世界それ自体」を指している。しかし、それぞれの生き物は、それぞれの欲望、欲求、身体のありように応じて、相関的に最も適切な世界認識を持つ。先に述べたように、真に存在するのは個々の生物にとっての「生の世界」だけだと考えると、「あらゆるものが存在するとは何か」と問う存在論は、その基盤を失う。いわゆる「客観世界」とは、誰にも生きられることのない「想定された世界」に過ぎなくなるからである。このニーチェの認識論の転回は、ポストモダン思想で受け取られている相対主義的転回ではなく、これまでの「存在」の概念を根本から覆す「存在論的転回」だと竹田さんは言う。

フッサールによる現象学的還元が、認識問題を解く鍵になると考えられる。世界の存在は、認識不可能ではなくて、どこまでも疑いを払拭でないために認識論的に「超越」であり、認識となる条件を欠いている。しかし、客観的認識や普遍認識がありえないということを意味しない。主観的な普遍了解が成立する所では、存在と認識の一致がなくても、普遍認識は存在すると考える。個々の人間は、様々な世界像を持っていて、絶対的に正しい世界像は存在しないが、フッサールは、相互承認と共通了解を可能にする「世界説明」が可能であることを示したのである。

このように、ニーチェの「本体論の解体」とフッサールの「共通了解を可能にする世界説明」が認識のテーブルにおいてマッピングされることになる。

 

■ 言語のテーブル


 

現代論理学は、ゴットロープ・フレーゲが命題論理学と述語論理学を発展させ、アリストテレス以来の論理学を刷新した。これに続いて、ラッセル、ウィトゲンシュタインによる現代言語学あるいは分析哲学が展開していく。これらは言語の本質の探究を数学の論理的基礎づけから行おうとするもので、ローティの「言語論的転回」という言葉が示しているように数学へと傾斜していく。この進展は、コンピュータのプログラム言語の発展と軌を一にしていた。

ウィトゲンシュタイは、初期には一定の規則を使って言語の意味を厳密に規定できると考えていたが、やがて、アウグスティヌスのように言葉を記号として見る態度を疑い始める。子供たちに言葉を教えることは、その言葉と対象のイメージとの結びつきを喚起することなのか?  言葉を理解するとは、その言葉によって、そのイメージが喚起されることなのか ? 言葉を理解し、習い覚えることの意味は何か ?  このような問いは、全て「認識‐言語の一致」、「言語‐意味の一致」に関する疑いだった。

ルドルフ・カルナップ (1891-1970) は、ウィーンで、一切の言語は科学的な標準言語に置き換えられるという厳密論理主義を提唱する。物理学のように物質を基本単位に分け、それらを構成・構造化し、因果関係を確定して厳密な記述体系を作る。言語でもそれと同じような方法で事象と言語の厳密な一致を図ろうとするものだった。一方、ヴィラード・ヴァン・オーマン・クワイン (1908-2000) は、一切の言語は、事象や思考を厳密に表現できないとする立場だった。ある言明の意味は、その文脈の中で決定されるからである。これは、結局、ウィトゲンシュタインの初期の『論理哲学論考』と後の『哲学探究』との対立とパラレルなのである。

もう一つ典型的な例がある。それが固有名論争だ。「アリストテレスは、これこれという人だ」という定義の集合と考えるラッセルのような説とソール・クリプキ (1940-) のようにアリストテレスという最初の命名と「指示の固定性」、つまりそう言い続けられることによってのみ規定されると考える立場に分かれる。このクリプキの理論をジョン・サールやリチャード・ローティといった人たちが批判した。「指示の固定性」という概念は「これは誰それ」だという命題が正しいことを前提としているために、論証が循環的になるというのだ。論理学は名前の意味すら定義できないのであれば、言語の「意味」を厳密に定義することは不可能であると考えられるのである。これって、ほとんど乱理学だ。

言語は真偽が一義的に決定できないために、意味を論理学的に決定できない。ある人が「これは美味しい」と言う時と、別の時に他の人が言う「これは美味しい」が同じ意味とは限らない。論理学者たちは、語り手の「意」と「言葉」の一致を論証しようとするし、相対主義者たちは、この一致が不可能であることを証明しようとする。現象学では「一致」の可能・不可能を前提としない。

語り手は、自分の言いたいことを伝えるために言葉を発する。伝えたいことがまだ不明瞭な場合もあるが、発した言葉が自分の「意」を伝えた、あるいは、いないという内的信憑が生じる。聞き手は「言葉」を受け取り、相手の「意」はこのようなものだろうという内的信憑が、やはり生じる。この内的信憑を「適合信憑」と竹田さんは呼ぶ。会話では、その信憑性を確かめることができるが、テクストではできない。言語行為とは、このような構造で成り立っていると考えられる。

言語ゲームの発話と受語 「意」‐「言葉」‐「了解」

発語と受語の言語ゲームとして図のように示すことができる。言語ゲームの概念はウィトゲンシュタインの発案だった。言葉があれば、そこから、その意を信憑‐了解する。語り手の「意」へと向かわない、つまり信憑志向のない言語ゲームは、まずない。「今日の空はじつに青い」という言葉の「今日」「空」「じつに」「青い」は、それぞれ一般的意味を持っているが、語り手の「意」は、それらをつなぎ合わせた「一般意味」ではないと竹田さんは言う。これは「意」‐「言語」‐「了解」の厳密な一致を前提としない。「言語の本体論の解体」と言える。

現代分析哲学では、上記の「意味の同一性」と共に「事柄の同一性」も問題になる。人間は赤ちゃん → 子供 → 青年 → 大人 → 老人と変化する。この場合、人間の同一性の根拠は、どこにあるのか ?  あるいは、ジョン・サールの言う素材が全て入れ替わってしまう「テセウスの船」という問題もある。このような場合、内的には主観の観点の相関性だけが「同一性」を決め、外的には他者の承認、つまり「信憑」が決定する。

此処では、論理学者たちの「言葉」「意味」の一致に対する論証、及び、相対主義者たちの言う一致の不可能性に対して、信憑志向の言語ゲームがマッピングされる。

 

■ 存在のテーブル


 

ハイデッガーの言う「なぜ存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか」は、根本的な哲学の問いであった。それは、「何故存在があるのか」という問いに集約できる。これに、哲学は、どうアクセスできるのか ? これはゴルギアスの言うように、そもそも原理的に答えようのない問いなのか? この「存在」への問いに対する「形而上学」、つまり世界の根本原理を探求する学が、古代から近代の思想の流れの中に現れる。

まず、洋の東西を問わず、物語= 神話の方法がとられてきた。宗教の創成神話が、そのプロトタイプとなり、アリストテレスの「不動の動者」やヘーゲルの「絶対精神」もこのような形而上学に含まれる。これに対してニーチェの認識論の転回が現れ、一方で、フッサールの「間主観的」な共同確信が登場する。人間は他者と言葉によって自分の「世界」を交換し合っていて、まさに、そのことが「客観世界」の存在を不可疑にする根拠だということが顕わにされた。それが、ハイデッガーの言う、人間は意味のネットワークを掛け替えあって生きているということの意味なのである。

真に存在するのは「生成」としての世界のみであり、「本体」としての世界は何処にも存在しない。しかし、これは「世界は存在しない」というゴルギアスの定理へと帰着しない。世界存在は認識されないというのであって、むしろ、その現実存在は疑い得ないと竹田さんは言う。我々が「生世界」を生きているという現実自体が必然的に世界の存在に対する想定‐信憑を生む。これを竹田さんは、「現存在信憑」と呼ぶ。哲学が問うべきは、「世界の本体」ではなく、「生世界」の本質とは何かという問いであると言うのである。ここに「本質観取」による「本質了解」という課題が浮かび上がるのである。

ハイデッガー以降の「新実在論」であるカンタン・メイヤース、マルクス・ガブリエル、グレハム・ハーマン、レイ・ブランシエ、イアン・ハミルトン・グラントといった人たちの思想が俎上に上がっている。ほぼ、ポストモダン思想への対抗思想と考えられるが、メイヤースとガブリエルが取り上げられていて、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論などを踏まえて批判されている。

この章では、存在の「世界の本体」に対して「生世界」の本質が対置され、我々が、現実に「生世界」を生きているという「現存在信憑」がマッピングされ、人文分野における「本質‐意味‐価値」を問う「本質了解」の世界が明らかにされる

 

■ 本質観取のテーブル


 

これで、ゴルギアスの定理から始まった言語・認識存在のテーブルマップが整ったことになる。ここからは、本質‐意味‐価値という本質観取のテーブルを見ていきたい。

対象的確信、つまりこの現存在信憑が成立する世界は「自然世界」に主に関わる。一方で、道徳、倫理、社会制度といった「人間の世界」に関わる問題がある。この人文分野における、本質・意味・価値を問う問題は、人間の世界においてのみ作り出されると言っていい。このような「本質領域」の世界で、かくあるべきという議論は独断論に陥りやすいのは確かだ。「本質領域」における、かくあるべき「本体」は完全に解体されなければならないと竹田さんは言うのである。そこでの自由で開かれた議が、なによりも重要だからだ。

人間・社会・文化といった人文領域における普遍認識は可能か?  次はこの問題である。事物の領域では、「自然の数学化」による方法が、自然界の客観認識を可能にしてきた。このことによって自然の秩序は、万人に同一の秩序となった。人文分野では、数学に替わる手段としてフッサールの本質学が手段となるのではないかと竹田さんは考えている。本質観取は、知覚や記憶といった心的事象についての広い共通了解を言語化する手段と言っていい。

人間自身の内在意識における「確信構成の構造」を知って、その内的な洞察を「言葉」に置き換え、これを各人の間で吟味し、どういう言葉が誰にも納得できるものとなるかを確証するという手順を踏む。このような各人の体験といったものは、自然科学の実証主義的方法では扱えない問題なのである。ハイデッガーの「不安」に関する洞察が見事なのだけれど、フロイトの例をご紹介する。

近代の実証心理学はグスタフ・フェヒナー、ヴィルヘルム・ヴントの実験心理学からはじまり、アメリカの構成心理学からジョン・ワトソンの行動主義、そしてゲシュタルト心理学へと発展する。フロイトを創始者とする深層心理学は、ユング派、アドラー派へと分裂し、フロイト派も自我心理学、対象心理学、自己心理学などへと分派した。ここでは、フロイトの心理学が現象学から吟味される。

まず、事柄の因果連関をたどれるものを「事物」と呼び、決して因果の連鎖ではたどれない「ブラックボックス」が心的な領域とされる。この領域内での事象の因果性が仮説化されるのであるが、フロイトは此処にエディプス・コンプレックスという仮説を持ち込んだ。この不可視領域に仮説を持ち込む方法は、ユングやアドラー、あるいは多くの実証主義的心理学でも使われている。ここで竹田さんが指摘するのは「どんな療法でも一定の治癒効果を持つ」ということなのである。クロード・レヴィストロースは、シャーマンの呪術による心理治療についてこう述べている。

病原である細菌は体の外にあるが、悪霊は意識的か無意識的かを問わず、精神の内部にある。患者にとって魔物は象徴であり、この魔物は患者によってと象徴されるものとなる。あるいは、言語学的には意味するものと意味されるものとの関係となる。シャーマンは、その患者には言いあらわすことができず、また、他に言い表しようのない諸々の状態を、それによって直ちに表わされるような言葉にして患者に与える。それは、原住民の宇宙観を構成する神話の一部であり、彼らがその神話を信じる社会の一員であるからこそ有効なのである。象徴についてはツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』に書いておいた。

そこでの要点は、おそらく患者、治療者、家族、部族の人間の間で共有されている病や凶事の原因への共同的信憑にあるとレヴィストロースは言う。シャーマンによる「物語」と施術のパフォーマンスは、心理的な病の原因を象徴的に除去するのである。同様に、先ほどの「ブラックボックス」つまり、不可視の X の部分に、何らかの「因果仮説」を置き換える。この因果仮説は「真の原因」に達することはないが、それにもかかわらず効く。それは、治療者、患者、その家族にとって強い「共同確信」となり、患者の内的な「自己了解」を変容させ、大きな「心身相関的効果」をもたらすと考えられるからである。

人文領域の諸学における本質学の可能性

この治癒の本質に対する観取は、「不可視領域」の独断的解釈ではなく、間主観的な確信形成であることが重要となる。みんなが色々言い合って、なるほどと思える落とし所だ。認識の本質的構図は「ノエシス‐ノエマ」構造であり、全ての認識のありように当てはめることができる。

「自由とは何か」「愛とは何か」などの問いを立てるなら、哲学者は、その本質についての「理念」を創り上げ、実証主義的な人文学者は、仮説を立て、様々なデータを収集する。ここで、現象学的な人文学者は経験的素材であるノエシスから理論としてのノエマを取り出すが、この時、仮説に囚われず事態の本質を洞察しようと努める。一方、独断的人文学者は自分の仮説に適合するデータのみを取捨選択して仮説の正しさの証拠としようとするのである。独断的理論は、最初から自分の仮説に適したデータしか集めようとせず、相対主義者は、本質観取に挫折してどんな理論も普遍的理論たりえないとする。竹田さんは、優れた普遍的理論を生み出すには、適切なデータと優れた本質観取が不可欠だというのである。

ゲーテの「人は現象の背後に何物をも求めるべきではない。現象それ自体が学説なのである (『散文による箴言』溝井高志 訳 )」という言葉を思い起こさせる。

個人の内面の善・悪の規範の問題、社会的な善・悪の問題である正義・不正義の問題、このような問題に関して現代の倫理学は、人間にとってこれが最も優れた「徳」や「善」であるといった特定の倫理的理念から出発し、それを人々に要請するという構造になっている。竹田さんは、善・悪の問題も本質観取が必要とされ、さらに発生的本質論が必要とされると言う。発生的本質論は、人間の善悪、美醜、真偽の価値の秩序といった価値がどのように発生したかを問う。プラトンでは、善への欲望は人間にとって必然的で本質的なものだと仮説され、この仮説の検証が善の本質学にとって重要な主題となる。「善は為すべき」は道徳の訓育学であって、善の本質学ではないと竹田さんは言うのだ。いかなる条件で善への欲望は人間の内に生き続けるのか。どのような条件を失うとニヒリズムや悪に転ずるのか。この問いへの答えは、価値観の相違によって異なるといった問題ではない。この個人の善悪の問題が社会の善悪への問いと繋がる。

事物の領域での「自然の数学化」による自然科学の方法に対して、人文分野では、数学化に替わる手段としてフッサールの本質学がマッピングされ、本質観取の方法論と発生的本質論が提示される。

 

■ 社会の本質学へ向かって


認識・言語・存在、本質のテーブルがマッピングされて出そろったことになる。これを総括したものが「哲学のテーブル」となるのであるが、本書の最後は社会の問題が取り上げられている。この問題については、気が向いた時にジョン・ロールズの『正義論』について書く時に一緒にご紹介できればと思っている。

現代社会が、どこへ向かおうとしているのか、様々な意見はあるが、現状は切迫していると竹田さんは言う。今、貧富の格差の広がりと金と権力との癒着という資本主義社会の問題が浮上しており、この問題を克服するための展望は全く無い。現在の資本主義が持つ不安要因については、エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート 『戦争と資本』 境界を失った戦争と平和に書いておいた。竹田さんは、そのために必要な社会理論の構想が、価値理念の多様性と相対主義の思潮によって長らく阻害されてきたと見ている。とりわけ、我々がホッブス、ルソー、ヘーゲル以来の「自由な市民社会」の原理を失えば、世界は再び普遍戦争と絶対支配の状態に回帰することさえありうるという。詳しくは『欲望論 第三巻』に書かれることになるだろう。

本書は竹田現象学から見た存在論・言語学・ポストモダン思想といった近現代の思想を俯瞰して綺麗なマップを形作っている。非常にありがたい著作である。そして、それ以上に重要と思われるのは、著者の「普遍性を求める」思想への希求ではないだろうか。竹田さんはこう問う。哲学や思想の営みが、結局のところ、人々のうちに拡がるあのシニズムの「声」、「あれこれいっても所詮は理屈にすぎず、現実には力がすべてである」という声、それに対抗することができないなら、思想や哲学が「現実への対抗」という本質を持てないなら、哲学や思想にいったい何の意味があるだろう。

 

■ 言葉の外側


本書を読んで、論理的な整合性について感心することしきりだったのだけれど、そこには「言葉で本質観取し、共同確信しうる限りにおいて」という前提が存在すると思う。それ以外のものは哲学で扱えなくなるのではないか。というのも、極めて個人的で強度の確信をもたらすような体験、例えば宗教的なエピファニーや悟りといった体験がこの枠組みからは漏れてしまうのではないかと考えられる。極めて稀な体験であれば、共同確信に至らない場合はあるだろう。似たような体験として美や芸術の場合があるけれど、これらは比較的頻繁な体験であるからか、『欲望論 第二巻』にも俎上に上がっている。言葉に表現できない体験を語る場合、多くは否定神学のように背理的な表現が使われてきたし、通常、意味をなさないような言葉、「薔薇は何故なしに有る、それは咲くが故に咲く (マイスター・エックハルト/上田閑照 訳)」といった言葉は、判然としないながら何かしらの世界を開示している。そのような世界を現象学的にどう扱うのかは、別な課題となるのではないだろうか。独断論として排除し、心理学などに押し込めてしまうのは如何にも惜しいと思うのである。

 

 

参考文献

竹田青嗣『欲望論』第一巻「意味」の原理論

竹田青嗣『欲望論』第二巻「価値」の原理

竹田青嗣『ニーチェ入門』

プラトン『ゴルギアス』
プラトンの比較的初期の著作 内容は弁論術とともに道徳、政治、幸福論などが対話される。

バルーフ・スピノザ part2「 スピノザとの対話」ヘルダー、ナドラー、カーリー、ドゥルーズ

 

レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)
『ユダヤの小さな花嫁』 版画

1640年代にレンブラントが、アムステルダムのブレーストラー通りの贅沢な邸宅に住んでいた頃、身近なユダヤ教徒たちを素描し、銅版画にし、油彩で描いていた。通りの向かいに住んでいたユダヤ教の師、つまりラビのメッセナ・ベン・イスラエルに『べルシャザルの饗宴』に描くアラム語の警句について教えを受けたり、彼の肖像を描いたりもし、ポーランド系のユダヤ人たちが礼拝堂 (シナゴーク) の外に集まっている様子をエッチングで制作した。オランダ人同様、ポルトガル系ユダヤ人もレンブラントのよき蒐集家だった。

そのポルトガル系ユダヤ人であるスピノザの生家は、この裏手の同じ区画にあった。レンブラント工房の徒弟の一人であるレーンデルト・ファン・べイエレンは、スピノザのラテン語教師だったフランシスクス・ファン・デン・エンデンの家に寄宿していたというし、エンデンは、かつては画商だった。レンブラントとスピノザ、果たして実際に遭遇していたのだろうか。フェルメールとの関係を言う人もあり、色々な憶測を呼んでいる。しかし、ただ、ただ、彼は静かに生活していた、と考えられていた。スピノザは、そんなミステリアスな存在であった。

18世紀末から19世紀はじめにかけて「汎神論論争」は、別名「スピノザ論争」といわれ、多くの知識人たちを巻き込んだ。ドイツでは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743-1819)によって火が付けられる。その頃、スピノザは「無神論者で汎神論者、やみくもな必然性を説く人物、啓示の敵で、宗教をあざ笑い、国家と市民社会を荒廃させるもの、要するに人類の敵」とさえ思われていた。ヤコービは、超感覚的な対象をスピノザのように理性によって捉えることは出来ないとする立場だった。人間は、何かしら「在る」という存在を感得できるとして、そこに人間の自由を認めようとするのだった。

フリードリヒ・ハインリッヒ・ヤコービ
ヨハン・ペーター・フォン・ランガー画 1801

コトの起こりは、ゴットホルト・エフライム・レッシング (1729-1781) がスピノザ主義者だということを知ったヤコービがユダヤ人であり、あの音楽家の祖父にあたる思想家モーゼス・メンデルスゾーン (1729-1786) に真実かどうかを確かめるための書簡やり取りすることから始まり、それらの写しがハーマンやゲーテ、ヘルダーに送られ、彼らとの間でも議論が交わされるようになったことにある。メンデルスゾーンは、レッシングがスピノザ主義者だということを知らなかったし、積年の友人であった自分よりも面識の浅いヤコービがそのことを知っていることに大変なショックを受けるのである。

メンデルスゾーンは、スピノザに対する偏見はないが、その思想に精通はしていなかった。逆にヤコービは、敵の手の内をよく研究していたのである。徐々に二人の仲は、険悪なものになっていった。メンデルスゾーンは、ヤコービがレッシングのスピノザ主義を発表する前に、その汎神論的主張は純化されたものであるという趣旨の出版物を刊行しようとし、それを知ったヤコービは、メンデルスゾーンの許可なく往復書簡集を出版してしまったのである。メンデルスゾーンは厳寒の夜、ヤコービへの反論である『レッシングの友たちへ』の原稿を出版社に届けたが、胸の痛みを訴えて寝込み、5日後に亡くなってしまう。今回ご紹介する著書の一つ、ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』の訳者である吉田達さんによれば、ヤコービがメンデルスゾーンの寿命を縮めたと言われてもしかたない状況だったという。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
(1730-1788)アントン・グラフ画 1785

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは1744年、プロイセン王国の東部のモールンゲン、現ポーランド領モロンクに生まれた。父は織物職人で貧しい家庭に育った。7年戦争当時にモールンゲンに駐在していた軍医に見初められケーニヒスベルク大学で医学を学べるようになるが、馴染めず神学部に移り、そこで偶々、カントの講義を聞いたことから、その百科全書的な知識に感化される。それに加えて「北方の博士」とか「北方の魔術師」と呼ばれたヨハン・ゲオルク・ハーマンに深い影響を受けた。ドイツ語圏の各地で教師として、あるいはプロテスタントの聖職者として働きながら、詩作、評論、言語学、哲学、歴史、宗教、教育、自然科学、各国の民謡採集、翻訳など幅広い活動を行った思想家である。

ヘルダーは、シュトラスブールでは若きゲーテに大きな影響を与えることになり親密な関係となる。だが、カントはヘルダーの主著『人類史の哲学の構想』に対して否定的な評価を下し、ヘルダーもカント批判を展開するなどしたし、終生の師と仰いだハーマンにも、もう一つの代表作『言語起源論』を巡って批判を浴びるなど、この肖像画からは窺えない辛辣な性格が災いして、蜜月の関係にあったゲーテとも平穏でなくなっている。訳者の吉田達さんは、ヘルダーには孤独の影が付きまとうという。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
『神 スピノザをめぐる対話』

前回のバルーフ・スピノザ part1 では、スピノザのマノとしての出自と後の詩人や思想家たち、ハイネ、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フロイトなどへの影響についてご紹介したが、今回 part2 は、柱の一つとしてヨハン・ゴットフリート・ヘルダー著『神 スピノザをめぐる対話』をお送りする。本書はヤコービとメンデルスゾーンとのやり取りの渦中にいたヘルダーのスピノザ論と言っても良いもので、ある種スピノザ論の解説にもなっている。

このヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』と、もう一つの柱としてスティーヴン・ナドラーの『スピノザ ある哲学者の人生』という浩瀚な伝記の内容を併せてご紹介します。スピノザの伝記としては最良のものではないだろうか。筆者のスティーヴン・ナドラーは、ウィスコンシン大学マディソン校の哲学教授である。マルブランシュ、デカルト、ライプニッツ、カント、そしてスピノザの研究者として知られる人で、とりわけスピノザ研究では注目すべき業績を上げていて、その人生と哲学の総合的な研究で世界的な顕学として知られている。

その他に『エチカ』の解読には必須のスピノザ学者、エドゥイン・カーリーの『スピノザ「エチカ」を読む』、そして、ジル・ドゥルーズの『スピノザ』なども交えて盛りだくさんでお送りしたいと思っている。

 

何故、破門だったのか


 

コレギアント派の集会へ

メナッセ・ベン・イスラエル (1604-1657)
レンブラント・ファン・レイン 版画

15歳の頃に、彼は「ユダヤ教徒の最高の知恵者にも解決困難な問題」に遭遇したという。道元が本学思想に身悶えしたのに似ている。しかし、何の問題だったかは、はっきりしていない。満足した解答が得られなかった彼は、商売の関係で得た証券取引所での交友関係に知的な活路を求めるようになる。父親を失った後、商売をしながら「律法の冠」と言われる学塾に通ってラビ・モルテーラに聖書とその注釈などを学び、先ほどのメナッセ・ベン・イスラエルからユダヤ教神秘主義の手ほどきを受けた可能性が大きいと言われるが、それに満足できなかったスピノザは、広い学識と視野を持ち、幼児洗礼に疑問を持つメノー派のようなプロテスタント諸派の人々と付き合いを深めていった。彼らは、コレギアント派と呼ばれる人々で、平等で非権威主義的なクエーカー教徒たちに似ていると言われる。牧師を置かず、信仰は心の奥深くの内的信仰によってのみ獲得され、誠実で率直な態度で信仰を表明することを願う人々の自由と平等を守ろうとした。

ファン・デン・エンデンとデカルトの影響

そのような人々の中でも、先ほど述べたラテン語教師、フランシスクス・ファン・デン・エンデンはスピノザに大きな影響を与えた人だった。イエズス会に入会したが放逐され、医学博士の学位を取得したが画商と書店を経営し、それも上手くいかず、1671年までアムステルダムでラテン語を中心に哲学、科学、数学、物理などを手広く教えていた。その後、パリに学校を移し、フランス王ルイ14世に対する陰謀と共和国形態の国家樹立に加担したとして絞首刑になっている。故国ネーデルランドへの侵攻とそれを突き動かしている大臣たちへの憎しみがあったという。

スティーヴン・ナドラー
『スピノザ ある哲学者の人生』

彼の主張は、宗教的信仰は個人的なことがらであり、いかなる組織、権威によっても統制されるべきでなく、真の敬虔とは神の愛と隣人愛のみにあって、その外向きの愛、つまり公共の宗教的実践における所作は、しばしば迷信的態度と隣合せだとするものだった。後のスピノザの『神学・政治論』を彷彿とさせるが、彼に出会うまでにスピノザは不完全な形ではあったにしてもこれと似た思想を既に培っていたと考えられ、ファン・デン・エンデンの影響は過大視されるべきでないとナドラーは述べている。だが、少なくとも、彼からギリシヤ・ローマの哲学と古典を学び、マキアヴェリ、ホッブス、フロティウス、カルヴァン、トマス・モアなどの16・17世紀の思想に精通することができた。そしてスピノザは、おそらく彼のラテン語教授の助手をするまでになっていた

とりわけ、最も大きな影響はデカルトの思想から受けることになる。ルネ・デカルトは1596年にフランスで生まれたが、人生のほとんどをここネーデルランドで過ごした。この国の豊かさ、治安の良さを愛で、彼の得たかった自由と孤独と平穏を得たことを言祝いだのである。宗教者たちから無神論の疑いの目で見られながらもその影響力は翳りを見せることなく、スピノザが1654年から翌年にかけて哲学と自然科学を学ぼうとする熱情に答えたのはデカルトの思想であった。ファン・デン・エンデン自身、デカルト学派としての名声を得ていたのである。

 

破門/へレム

スピノザはユダヤ教との距離をとり始め、徐々にシナゴーク (礼拝堂) から身を遠ざけるようになる。ピエール・ベール は『歴史批評辞典』の中で、有名な事件についてこう書いている。スピノザは「『劇場から立ち去ろうとする彼を刃物で切り付けるという一ユダヤ人による卑劣な襲撃がなされなかったならば少なくともその後のしばらくの間は、おそらく共同体との接触に真に自発的に保つつもりでいた。『その時の傷は浅かったが、暗殺者の意図は彼の殺害だったと彼は確信した』(有木宏二 訳)。」

この頃、棄教を執拗に敵視する風潮があったようだ。この事件によって穴の開いたマントを彼は手放さなかったという。ともあれ、スピノザは魂の不死性を否定し、ユダヤ教の背骨とも言うべきモーセ五書 (トーラー) の神的由来を否定してあっさり破門となった。

ユダヤ教シナゴーグのコミュニティによるポルトガル語のバルーフ・スピノザへの禁令 1656年7月27日

1656年に破門され、ユダヤ教徒の共同体から閉めだされるのである。最大の理由は上記の「異端思想」「邪悪な意見」にある。1660年に執筆され始めた『神、人間及び人間の幸福に関する短論文』やその後の『エチカ』において、人間の精神は身体と共に完全には破壊されず、その中の永遠なるものが残存する(第五部定理23)としているが、それは個物ないしその様態の形相が神にふくまれているように神の無限の観念の中に含まれると考えているからである(第二部定理八)。しかし、人間にとって、その精神は身体の持続する間だけしか持続しないとしている。スピノザにとっては延長も思惟も神の属性だったから人間の精神の一部は神の側にあるとするが、肉体の死はその個人の魂の死でもあるとした。そして、報酬と罰を分かち与える神の概念は、愚かな擬人化に基づくと言い切り、組織的宗教を否定する。人間存在はいかなる重大な意味においても自由であり、彼ら宗教者が自らの救済と福利に貢献すべく「彼ら自身によって」何かを行いうるということを否定するのである。

 

精神と物質の媒介概念


 

ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』からご紹介する。話は、ギリシア語で民衆の友を表すフィロラウスと神に心酔する者を表すテオフロンという二人の人物の会話から成り立つ伝統的な対話形式となっている。第五話からテアノという女性も登場するが、フィロラウスというと古代ギリシアで地動説を唱えた人として知られるし、テオフロンのテオ~というネーミングはよくある。テオは神を意味する言葉だ。

フィロラウスは、テオフロンからスピノザの『知性改善論』を見せられ、形而上学と道徳との心酔者としてのスピノザを発見して驚愕する。厚顔無恥の無神論者という風評に値する言葉など、全く無い、極めて真摯な倫理観を見たのである。そして、それは流布されてきたような汎神論でもないことに気づくのだった。キリスト教では、神は世界に対して超越的な存在であり人格性を備えている。汎神論のように神を世界そのものと見ることは、神の否定であり、無神論と同義となるのである。

スピノザの言う実体は、一切の事物の本質であり、存在の唯一の原因であり、彼はそれを根本に据えたかったのだとテオフロンは言う。普通いう意味の世界の実体的事物は何一つとして実体ではなく様態、つまりライプニッツのいう「実体の現象」である。全てが支え合っていて、最終的な一なるものに支えられている。それこそが自立性そのものであり、唯一で最高の実体だというのである。そして、万物をかつて産出し、いまなお産出して、どの事物にもそれぞれのあり方を分かち与えている力能は、その唯一の自律的なものに結びついているというのである。

しかし、フィロラウスはスピノザの言う無限に延長する神と言うのが全く理解できないという。それは、デカルトの誤った表現の影響だと指摘するのである。

ルネ・デカルト(1596-1650)
フランス・ハルス(1581-1666)画

テオフロンは、この疑問に対して、スピノザがこういう誤りを持ち出すのは物質から魂を、延長しているものから思考するものを区別する時だという。それは、物質と精神をつなぐ媒介概念を持っていなかったデカルトの二元論に反発したからであったというのだ。そして、「デカルトが物質を延長によって定義したのは間違っていました。延長からは物体の多様性は説明できません‥‥デカルトの自然原理は間違っているだけでなく馬鹿げてさえもいます(『遺稿集』)」というスピノザの言葉を紹介している。

フィロラウスは、属性といった不適切な言葉ではなく、「神はもろもろの無限の力となって無限な仕方で、つまりは有機的におのれを啓示している」と言うべきだと述べる。すべての世界において神は有機的なかたちで、つまり活動する力を通じておのれを啓示するというのである。その力は、どれも我々に一なる無限な能力の様々な属性を知らせてくれる。この力に引力や結合力、溶解力や斥力と言った多様なエルネギーを見るのは、ヘルダーの時代にあっては自然なことだったろう。スピノザが早くに世を去ることなく、これらの科学の巨大な進歩を体験していれば、彼の体系はもっと見事なものになっただろうというのである。

ちなみに、『エチカ』第二部の定理「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である。」これなど、唯物主義者の名を冠せられる理由の最たるものなのだろうけれど、その前の定理一では「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。」と述べられている。このことは、心身並行論の所でもう一度取り上げます。

 

アムステルダムの喧騒からレインスブルグへ


 

1650年代前半、アムステルダムの証券取引所で生涯の友となるヤリフ・イェレスゾーンと出会う。コレギアント派の会員で『普遍的キリスト教信仰の告白』を出版した人だ。忠実なスピノザの弟子となるピーター・バリンクはメノ―派の商人だった。そして、同じくメノー派の商人の出で、若くして亡くなった友人のシモン・ヨーステン・デ・フリースは、スピノザが経済的に困窮しないよう、彼の妹と義理の弟に生活費の支払いを約束させていた。ミルトンやホッブスとも親しかったイギリスに住むヘンリー・オルテンブルクやその友人で科学者だったクリティアーン・ホイヘンスとも親しくなっていた。

アドリアン・クールバハは、デカルトに強い影響を受けた思想家でスピノザとは互いに強い影響関係にあったといわれる。彼はスピノザの『神学・政治学』の初期の草稿に目を通していたといわれ、その著書『百花繚乱の花園』が宗教的冒涜を批判され、1669年に獄死したことが、スピノザをして『神学・政治学』を出版するトリガーになったといわれている。ロデウィック・メイエルは、熱心なデカルト派で理性的な聖書解釈を謳った『聖書解釈の哲学』を出版したが、発禁処分となっていて、スピノザが書いたのではないかと誤解する人もあったようだ。このような知的状況下にスピノザはいたのである。

1661~1663年にかけて住んでいたレインスブルグの下宿

1661年8月、スピノザはレインスブルグ (ラインスブルフ) へ移る。ライデンの近郊数キロにある小さな村で、かつて、コレギアント派の本拠地であった所である。化学者で外科医のヘルマン・ホーマンの家に下宿していた。この家の裏手にはスピノザがレンズ研磨のための道具を設置した部屋があった。彼は、望遠鏡や顕微鏡の製作でも知られるような存在になる。ライプニッツは、彼を卓越した光学器械製作者で、すばらしい鏡筒製作者と呼んだ。

スピノザの人間関係は、ファン・デン・エンデンのラテン語教室やコレギアント派の人々、レイデン大学のデカルト派の人脈から生まれたもので、スピノザは彼のサークルでデカルトの講義をしていた時期があった。この地でヨハンネス・カセリアスという弟子がスピノザの家に居つくようになったり、新たな自分のサークルができ始め、レイデンやアムステルダムなどの人々との交際を深めていた。静謐な生活とイメージされがちだが、かなり人的な交流があったようだ。しかし、訪問者には自分の思想を明らかにし過ぎることには慎重だったと言われる。

1663年頃には、生前唯一実名で出版された『デカルトの哲学原理』を完成させている。アムステルダムの友人たちが、デカルトの哲学をスピノザが概説したものを欲していて、知り合いのリューウェルツゾーンが印刷にかけることにスピノザは同意したのである。この頃には、『エチカ』の執筆は始まっていたようだ。

 

神の知性・神の意図


 

ライプニッツに月桂樹の冠を授けるゾフィー・フォン・デア・プファルツ
カール・カンデラッハ(1856-1920)制作 ハノーファー市庁舎 部分

フィロラウスはスピノザの神に知性も意図も無いことに当惑を覚える。スピノザに一目置いていたライプニッツでさえ、『弁神論』で、それについて反対していたものだった。これに対してテオフロンは、神の実在は、スピノザにおいて徹底的に現実だった。それは、いっさいの完全性を最高に完全な仕方で有しているのだから、思考を欠いているはずはない。スピノザはライプニッツより一歩先んじていたという。

神の完全で無限の思考を有限な実在の知性やイメージのあり方から厳しく区別するのは、神における思考が根元的で絶対的であり、種において唯一であって、有限な実在の知性やイメージとは比較にならないからだという。それが、ただ名前において一致しうるのみであって、他のいかなる点においても一致しえないことは、あたかも星座の犬と動物の犬との関係に等しいスピノザは言う。ちなみに大犬座の一等星がシリウスである。

「現実的知性は、有限なものであろうと無限なものであろうと、意志・欲望・愛などと同様に、能産的自然ではなく所産的自然に数えられなければならない(『エチカ』第一部定理三一)」とスピノザは述べる。能産的自然はいつも同じ自然であり、自然の力とその活動する力は、如何なるところでも同一である。すべてがそれによって生起し、一形態から他の形態へ変化していく自然の諸法則や諸規則は、どこにおいても常に同一だからである。如何なるものであれ、そのものの本性を認識するための根拠は、また、同一でなければならないとスピノザはいう (『エチカ』第三部 序文)。

スピノザ研究者のエドゥイン・カーリーは、『スピノザ「エチカ」を読む』の中でこう述べる。スピノザは人格的創造者としての神を拒否し神の内に刻み込まれている属性としての自然の法則と同一視した。「彼は、神と自然を同一視するが、その際、自然は事物の全体と考えられるものではなく、事物によって例示される、秩序ある最も一般的な法則と考えられている (開龍美・福田喜一郎 訳)。」これに対して、所産的自然は神の本性、あるいは神の属性から生み出される一切のもの。神のうちに在り、かつ神なしには在ることも考えることもできない物と見られる限りにおいての神の属性のすべての様態である。従って、神を能産的自然=法則と同一視するなら、汎神論とは言えないことになるのである。これについては、ヘルダーも既に気づいていたようでフィロラウスも納得する筋になっている。

ベネディクトゥス・デ・スピノザ『エチカ』
ベネディクトゥスはラテン語名

さらに、カーリーは、スピノザの『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の言葉を引用する。「‥‥すべての人が神に帰している多くの『属性を、私は被造物と見なします。これに反して、彼らが先入見にとらわれて被造物とみなしている他のことどもを、私は神の属性とし、彼らの考えに誤解があることを主張します(同上」神が自己自身から、あるいは自己自身によって存在する存在者、万物の原因、全知、全能、永遠、無限‥‥といったものはいずれも被造物であって思惟する存在者の様態にすぎないという。表象や概念は、人間の身体から、あるいは身体を通して生じるのであって、それらを生み出す原因とは異なるのである。これが、犬座と犬の違いである。

『エチカ』第一部 定理一七では「神は本性の法則によってのみ活動する」と述べる。これは言いかえると、自由原因として考えられている神は、自分自身の本性の法則によって神以外の事物を生み出し、それに作用してゆくのであり、神以外のそうした事物はそのような法則から結果するものと理解されなければならないのである。

ここで、スピノザの心身並行論に触れておきたい。まず、「精神と身体とはまったく同一の個体であり、それがある時に思惟の属性のもとで、またある時は延長の属性のもとで考えられる」という『エチカ』第二部 定理二 備考にある言葉が最重要となる。肉体と精神というような二元論から、デカルトは、人間がそのような異なる実体の合体だと考えた。そのことは既に述べた。スピノザでは、精神と肉体は一つにして同じものの二つの異なる表現となる。人間の精神と同じものである人間の身体とは、延長の様態であると考えるのである。

ここで、鍵となるのは、存在するのは唯一の実体であり、その実体が完全性を含み、如何なるものも欠いていないという意味で、思惟実体と延長実体があるとすれば、両者は同一の実体でなければならないということを私たちが納得している限りにおいて、肉体と精神は同じものであるということが言えるのである(エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』。デカルトの私は考えるものであるという主張は、スピノザにおいては、私の精神は思惟の様態であるというふうに言いかえることができる。そして、思惟の様態が存在するのであれば、思惟実体がなければならないし、同様に延長の様態が存在するのであれば、延長実体が存在しなければならない。実体が一つであれば、思惟実体と延長実体は一つのものである。これが心身並行論のスピノザの論拠である。そこには、身体と精神の一対一対応があるだけでなく、同一性が存在しているのである。

 

エチカと神学・政治論の執筆


 

スピノザ『エチカ』草稿 バチカン図書館

1665年、スピノザは、レインスブルグを離れて、デン・ハーグの近郊にあるフォールブルグに移る。画家の親方というダニエル・ティーデマンの自宅に下宿していた。この頃、デン・ハーグで、天文学や物理学などで知られるクリティアーン・ホイヘンスやその弟のコンスタンティンとも親交を深めていた。新たなサークルも出来はじめる。しかし、北ヨーロッパを疫病が襲い、スヒーダムという田舎の農園で過ごすことになる。1664年から1665年にかけて『エチカ(倫理学)』の草稿は、ほぼ完成に近いものになっていた。それは、『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の「神・人間・人間の幸福」という三つの主題に対応する三部構成だったと思われる。しかし、1675年頃まで彼の手元にあり、死後友人たちが出版したものは、「神・人間の精神・感情・感情に対する隷属・知性の力を介しての自由」という五部構成に変更されていた。

オランダにおける田舎暮らしは、平穏であったが、1665年にフォールブルグの地元教会の牧師職を巡る人事で、保守派と自由主義的な抗議派との対立に巻き込まれた。スピノザは、無神論者と決めつけられる。胡散臭く、表面的な議論で、見かけ倒しの無神論を説いていると言われ、あらゆる宗教を否定したという非難に面食らった。この神学者たちの偏見に対して、それを回避すべく書かれたのが『神学・政治論』である。自分たちが考えている事柄を口にする自由と、行き過ぎた権威と牧師たちの利己主義に抑圧されないための対抗手段だった。

ヨハン・デ・ウィット(1625-1672)
アドリアン・ハーマン(1603-1671)画

1666年は千年王国論者たちにとってキリストの再臨と聖者たちの支配が確立される年だった。ユダヤ教のメシアへの希望はサバッタイ・ツェヴィというトルコ出身の東欧系ユダヤ人の手によって実現されるかに見えた。ガザのナターンという弟子によってメシアに祭り上げられたツェヴィに対してユダヤ教徒たちが熱狂し、キリスト教徒たちにも影響を与えるほどになる。ユダヤ教の中心地となっていたアムステルダムは、その坩堝と化したが、結局、ツェヴィはイスラム教への改宗か死かを迫られ、改宗を選択し、ユダヤ教徒の夢は水泡と帰した。これも、宗教の本質とは何かを考えさせる事件の一つだったようだ。

1670年に『神学・政治論』が匿名で、架空の出版社名で出版された。三年半にわたる労作だった。総督の廃止に対する指導的役割を担っていた共和主義者のヨハン・デ・ウィットは、デカルト派による大学紛争時にもある程度の学問の自由を認めた人だったが、そのウィットも『神学・政治論』には寛容ではなかった。その内容を弁護しようとしたスピノザの面会を断っている。著者のナドラーの言葉を借りれば、原理的自由主義者のスピノザと実用的自由者のデ・ウィットとは同じ政治的見解を持つことはなかったのである。ただ、二人ともオランダ改革派教会の宗教的権威と対決する立場にはあった。彼ら二人が接触していたかどうかは分かっていない。

しかし、この著作がもたらした結果は壮絶なものだった。かつて、スピノザの哲学を知りたがったウィレム・ファン・ブライエンベルフでさえ「それは用意周到な憎悪と地獄で鍛錬された思考の堆積に満たされ、それらに対してすべての理性的な人間は、事実すべてのキリスト教徒は、吐き気をもよおす著作である」と述べた。カルヴァン派の支流である抗議派、デカルト派、コレギアント派からさえも反論が相次ぎ、トマス・ホッブスでさえその大胆さに当惑したと言われる。流通差し止めにはなったが、そのような決定を実地に移すかどうかは各市長の判断にゆだねられていた。1670年代前半を通じて書店でその本を買うことは可能だったという。発禁処分になったのは1674年だった。スピノザは、自分が執拗に捜索され逮捕されなかったのは、一般の人たちが読めないラテン語で書いたということを理解していて、オランダ語に翻訳されたものの出版は差し止めたという。

1671年には、光学へ関心を持っていたライプニッツから手紙を受けとっているが、このドイツの顧問官に対して気を許してはいなかったという。スピノザ没後の著作集に触れたライプニッツは『人間知性新論』(こちらは、フィラレートとテオフィルとの対話になっている) の中で、こう述べている。「それらの神学的な教えが、一般的に考えられているほどには実際的な効果を持たないと主張する卓越した善良な人々がいく人かいることを私は知っている。同様に、教義によっては進んで何の価値もないことをするようには、けっして導かれないすばらしい性格の人々も私は知っている。‥‥エピキュロスとスピノザは、模範的な人生を送ったと認めることができる。(有木宏二 訳)」

 

ネーデルランド共和国とスピノザの死


 

デン・ハーグとデ・ウィットの虐殺

1669年の暮か1670年の早くにスピノザはデン・ハーグに引っ越している。最初波止場の裏通りに下宿したが、1年後にヘンドリック・ファン・デル・スパイクという画家の親方の家に移った。ここで亡くなるまでの5年半を過ごすことになる。その部屋には寝台と小さな机、三脚の各卓があり、より小さな机が二つ、レンズ研磨機、約150冊の本、そして、肖像画とチェス盤があるだけだった。彼の生活ぶりは物静かで、遠慮がちだったが、郎らかで、自制心に富み、親切で思いやりがあったとスピノザの伝記作者でルター派の牧師であったコレルスは書いている。

オランダの地図

スピノザは、ファン・デル・スパイク家の信心深さに興味を持ったようで、コレルスの前任者であるコルデスの説教についての内容を家族から聞くと、それを高く評価し、自らもその説教を聞きに行くほどだったという。スピノザは、神の言葉による啓示の受託者としてのキリストを賞賛していた。

英蘭戦争当時に在ってフランスは都合の良い存在だったが、今や敵にまわった。1667年にはスペイン領ネーデルランドに侵攻する。ネーデルラント連邦共和国の政治指導者で、英蘭戦争で共和国を率いたヨハン・デ・ウィットは戦争を回避しようとし、オランダは経済制裁をフランスにかけるようになる。ルイ14世は、スペイン領ネーデルランドの接収のみならず、ネーデルラント連邦共和国を打倒し、ウィレム三世を主権者とする君主政に移行させようとして1672年、共和国に侵攻した。

オランダは大敗し、デ・ウィットと彼の支持層は軍事的に無能力で、公金を着服し、共和国を敵に委ねようとしていると非難される。彼は四人の刺客に襲われ、手傷を負い政務を行えなくなる。その間にウィレム三世は総督として宣せられたが、今度は、デ・ウィットの兄のコルネリウスが総督暗殺の容疑で捕らえられるという事件が起こる。たが、濡れ衣だった。無罪となったが、総督派にたきつけられた群衆は、監獄に押しかけた。デ・ウィットは兄が付き添って監獄から出ることを希望していると信じ込まされ、彼が到着した時には、そこには彼ら二人しかいないという状況だった。こうして、群衆に取り囲まれ虐殺されたのである。これによって、州の自治と寛容な知的環境は一掃され、オランダの真の自由は終わったのである。

1676年、デン・ハーグを通過したライプニッツは、この事件についてスピノザと話していて、彼が「君たちは最悪の野蛮人たちだ」という張り紙をしに現場に行こうとしたところ、大家のファン・デル・スパイクは家の鍵をかけて、それを阻んだと語った。この時、数週間にわたって何度か顔を合わせ、互いの哲学について話し合っている。おそらく『エチカ』の内容についても話題にのぼった。ライプニッツは、「しかし、私は彼が表明し、私に示した証明のいくつかは、必ずしも正確ではないことに気が付いた。形而上学において真の証明を提出することは、人が考えているほどには簡単ではない(『哲学著作集』)」と述べている。

高まってゆく評価とエチカの出版延期

『プファルツ選帝侯カール・フィリップ』
アンソニー・ヴァン・ダイク 画 1637

スピノザの評価は、一部では高まりを見せるようになっていった。1673年には、ゾフィーの兄にあたるプファルツ選帝侯カール・ルートヴィッヒの代理人からハイデルベルク大学の哲学正教授の誘いを受けている。これはデカルト学の造詣の深さを買われたのである。しかし、彼は断った。理由は二つあると著者のナドラーは述べている。まず、教えるための時間が割かれること、そして、公的に確立された宗教を撹乱しないために哲学の自由を制限しなければならないことだった。この判断は適正だった。フランス軍はこの翌年、ハイデルベルクに進軍し、大学は閉鎖され、教授たちは全員追放されたのである。

1672年にはオランダ共和国の大部分がフランス軍の手に落ちた。ユトレヒト市は1673年までの一年半、フランスのコンデ公に支配されることになる。彼は、モリエール、ラシーヌ、フォンテーヌといった作家を支援していた人で、スピノザと話しをしてみたがり、ルイ14世のために、彼の著書を一冊献呈すれば、年金を受け取れるように計らうとまで言った。それで彼をユトレヒトに招いたのである。実際にスピノザがコンデ公に会えたかどうかははっきりしないが、そこで出会った知識人たちとはよい仲間となった。しかし、結局年金の話は断っている。

知名度が増すに従って、彼の一日の大半は訪問客の相手をすることとなり、健康が既に不安なものになっている今、時間は貴重なものになっていった。そんな中でヘブライ語の文法書を手掛け始める。それは、超自然言語ではなく、普通に話せるための文法書で、彼の没後『ヘブライ語文法綱要』と題して出版されている。1675年までには『エチカ』も出版されてもよい状態までになっていた。しかし、またしても改革派の指導者たちによる非難が再発しはじめた。あの『神学・政治論』の筆者が、それを上回る著作を生み出そうとしているというのである。こうして『エチカ』の出版は延期された。

1676年には彼の胸の病気はかなり悪化していた。おそらく、長年、レンズを磨いた時に生じる粉塵を吸い込んできたことが原因にもなったのだろう。この苦しいなか『神学・政治論』の続編である『国家論』が執筆され始める。あらゆる政体の中で民主政が最善であるという主張は、ネーデルランド共和国の政治的状況に密接に関係していた。個人が理性に基づく生活を営む社会を目指し、なんらかの実用的な政治科学が考察される。

終焉が近づきつつあった。瀉血によって何度か静脈を切開していくらかは良くなったが、やせ細り、顔色は悪くなっていった。突然の死だった。死去する前には、深刻な兆候は見られなかったが、死んだら手紙と『エチカ』などの草稿をアムステルダムで出版を手掛けるリューウェルツゾーンに送るように大家に頼んでいた。彼は、自らの死についてあれこれ思い悩むことはなかったという。「自由の人は死の全てを最小に思惟する。そしてその叡智は、死についてではなく、生についての瞑想である」と彼は『エチカ』に書いていた。

 

スピノザ「レンズ磨きは完成するのか」


 

ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』の中で、テオフロンは影響には二つあると語っている。一方はいたるところに広がり、他方は広がらないが、しっかり根を下ろすと言う。青二才ではなく哲学的で批判的な人物が、いまこの時代にスピノザの『神学・政治論』に注釈をつけて出版してくれたらよいのだがと述べているのである。その後の時代が彼の議論の何を確証し、なにを反駁したかを見るのは有益だろうという。

part1でご紹介したようにスピノザの思想の持つ巨大な力能は、その影響力を現在にまで及ぼし続けている。アントニオ・ネグリやジル・ドゥルーズなどは良い例だと思うが、その核は「思想を表現する自由」と「生の哲学」かと思われる。ドゥルーズの著作『スピノザ』から少し拾ってみたい。

ジル・ドゥルーズ『スピノザ』

ドゥルーズは、スピノザには、「生の哲学」があるとは言う。私たちを生から切り離し、生に敵対する一切の超越的価値を告発するというのである。善悪、功罪、罪と贖いといった概念に人は毒される。生を毒する物、それは憎しみであり、それが反転して自己に向けられ罪悪感となる。悲しみそれ自体、憎しみ、反撥、嘲り、恐れ、絶望、良心の呵責、憐れみ、敵意、妬み、‥‥を一歩一歩たどっていく。その徹底した分析は、希望の内にさえ、安堵の内にさえ、それを隷属感情とするに足る悲しみを含むというのである。真の国家 (共同社会) は国民に、褒章への希望や財産の安全よりも、自由への愛を提供するものなのだ。‥‥彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えているような在り方を否定する。生をあげて私たちは、死を礼賛しているにすぎないのだと。

あの一見、冷たい幾何学表現の『エチカ』から、このような温かいものが流れ出していることは、ある意味驚異といえるのではないか。思うにスピノザはレンズを芸術的に研磨する。そのように自己の思想も、けっして長いとは言えない生涯の中で磨き続けてきたのだ。ヘンリ―・ミラーの言うように。

「思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしない準備でしかない。いつかレンズは完成されるだろう。そして、その日こそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれるだろう‥‥‥(鈴木雅大 訳)」

 

 

参考図書 並びに 引用文献

 

エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』 デカルト説とスピノザ説を比較しながらスピノザ説が解説されていく名著。

バルーフ・スピノザ part1 イルミヤフ・ヨベル『スピノザ 異端の系譜』自由としての人間の力

 

スピノザの迷宮、危険な思想家、異端者、唯物論者、無神論者などなど様々なレッテルを貼られてきた思想家。今回は、そのバルーフ・スピノザを取り上げます。

「本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示した様々な論考からできている(吉田量彦 訳)」と彼は『神学・政治論』に書いている。何が問題だったんだろうか。まともな正論に思える。生まれたのが早すぎたのか。あるいは、社交辞令を欠いた文章だったのだろうか。世間を怒らせ、騒がせたのは確かだったようだ。

「表現の自由」の代表者「自由の擁護者」とも言えるのだが、それだけの哲学者でなかったことは後世の思想家たちへの影響を考えればわかる。イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』からご紹介しよう。

●ハイネ「我々の同時代の哲学者たちは皆、おそらくそうと知ることもなく、バルーフ・スピノザが磨いた眼鏡越しに世界を見ている」
●ヘーゲル 「哲学をはじめるにあたっては、人はまずスピノザ主義者であらねばならない。」
●マルクスは、1841年、23歳の時に『カール・ハインリヒ・マルクスによるスピノザの〔神学・政治論〕』を書いたが、すべてスピノザの文章の引用であった。
●ニーチェは、1881年の夏、37歳頃、こう友人への手紙に書いている。「ぼくはすっかり驚きに打たれ、すっかり魅了されている。ぼくには先行者がいたのだ、しかもなんという先行者だろう ! ぼくはこれまでほとんどスピノザを知らなかった。」
●フロイト「私は自分がスピノザの学説に負っていることを喜んで認めます。私がはっきりと彼の名前に言及しなかった理由は、私が私の仮説に思い至ったのが、彼の著作の研究よりも彼が創出した雰囲気からであった、という以外にありません。」(小岸昭、E.ヨリッセン、細見和之 訳)

彼が創出した雰囲気とは何か。今回は、それを追ってみたい。

筆者のイルミヤフ・ヨベルは、1935年、イギリスの統治下にあったパレスチナのハイフアに生まれる。イスラエルの哲学者、思想家として知られる人だ。エルサレムのヘブライ大学で哲学と経済学を学ぶ。ラジオニュースの編集や司会者などをしながら学業を支えたという。ソルボンヌ大学やプリンストン大学で学び、後にそれらの大学の客員教授となっている。1968年にヘブライ大学のネイサン・ローテンストライヒのもとで博士号を取得する。

彼の哲学的な位置は、スピノザのように内在世界を存在する全てのものの源泉とする「内在の哲学」と言われている。イスラエルの政治コラムニストでもあり、文化・政治評論家でもある。イスラエル哲学賞、フランスのパルムアカデミック勲章のオフィシエでもあるらしい。

 

 

マラーノ (豚) とスピノザ


 

ポルトガル-イスラエル・シナゴーグ 内部  アムステルダム 
スペイン系ユダヤ人であるセファルディックユダヤ人によって建てられた、当時、世界最大のシナゴーグ。

スピノザの破門

1656年7月、アムステルダムにいた24歳のスピノザに破門宣言が下され、ユダヤ人のポルトガル共同体から追放される。これは、スピノザ一個人に関わるだけではない複雑な歴史的経緯が介在していた。

16世紀の終わり頃、スペインやポルトガルからユダヤ人たちがアムステルダムにやって来るようになる。いわゆる、セファルディムと呼ばれる人々で、彼らは、まだ、公でその宗教を実践することを許されていなかったが、1639年にアムステルダムのハウトグラフに初めてのシナゴーグ (通称ユダヤ教会) が建設され、後の1675年に大規模なポルトガル – イスラエル・シナゴーグが完成した。

スピノザは、1632年アムステルダムで生まれる。ユダヤ教徒共同体の記録では、「祝福されし(者)」を意味するベントという名前になっているが、公式文書では、そのヘブライ語であるバルーフと記載されているようだ。父親ミカエルは、ポルトガルから渡って来たアムステルダムの共同体行政の理事で、信望の厚い貿易商人だったがスピノザが22歳の時に亡くなる。6歳の時には既に母ハンナを失ってした。

スピノザは、ヘブライ語やタルムード、聖書などを学び、伝統的なユダヤ教育を受け、ユダヤ哲学を学んだ。やがて弟ガブリエルと共同で「ベントならびにガブリエル・デ・スピノザ商会」を設立して果物の輸出入を手掛けるようになる。23歳まではスピノザとユダヤ人共同体との友好な関係は表面的には変化がなく、シナゴークとも問題はなく、税金も納め、寄付も支払っていたという。ここからは、再びイルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』からご案内する。

イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』

破門は、アムステルダムのユダヤ人共同体における規律と宗教的権威を行き渡らせるための一般的な措置だったらしい。異端行為や冒涜行為の他、シナゴーグに武器を持ち込む、人を中傷する文書を配る、非公式の集会を開く、納税の拒否などの、いわば、違反行為への訓戒という意味が強かったという。悔い改め、慈善金を寄付するなどすれば破門は解かれた。しかし、スピノザは謝罪せず、破門を受け入れる。

ユダヤ社会からは、完全にオミットされ、存在しないのと同然の扱いを宣言される。しかし、財産を奪われることもなく、迫害の犠牲などでもなく、社会から追放されたのでもなかったという。その生活において必要な孤独ではあったが、世間から疎外されているわけでもなく、社会性を失うことなく、友人にも崇拝者にも恵まれていた。研究を続けていけるような年金で質素な生活を営んでいけたという。

マラーノ

16世紀終わり頃から、スペイン・ポルトガルといったイベリア半島からユダヤ人たちが宗教的に寛容だったオランダに避難し始めていた。異端審問から逃れるためだった。

500年に亘ってスペインは、世界におけるユダヤ人離散地「ディアスポラ」の中心地であった。しかし、1391年に下級聖職者や失意の副司教たちに扇動された暴徒によって「死か洗礼か」をスローガンにユダヤ人虐殺が行われ、生き残ったユダヤ人たちは十字架に屈することになる。1411年には、ユダヤ人改宗化熱が再燃し、その後イベリア半島の一つの社会現象といったものに発展していった。キリスト教側は、キリスト教への改宗者とその子孫を「コンベルソ」と呼び、ユダヤ教徒側は強制改宗者「アヌシム」と呼んだ。しかし、当初から彼らは一緒くたに「マ」、つまり「豚」という蔑称で呼ばれいたが、やがてこの呼び名が定着していった。

改宗者の多くは隠れユダヤ教徒であって日本の隠れキリシタンのように秘密裏に信仰を守り続けた。そのことは当局にとっては、頭痛の種となり、トラブルや迫害を誘引する結果にもなる。そして、改宗クリスチャンのユダヤ人の中には、その商才をふるって新興都市ブルジョワ階級にのし上がり、羨望や嫉妬の的にもなった。ついに、1449年、トレドは最初の深刻なユダヤ人虐殺「ポグロム」の地となった。それは、忌まわしいあの優生思想に基づくものだったのである。ナチスより約500年早い。

イザベル一世(1451-1504)作者未詳

アラゴン王にフェルナンド二世が、カスティリャ王に、その妻イザベル一世が即位し、スペインは近代的統一と世界帝国への基礎を形作るが、彼らはカトリックによる新たな専制君主国家を作り上げるための政策としてローマ教皇庁とは無関係なスペイン独自の異端審問所を設けた。異端者と魔女を一掃するためのこの装置は、スペイン全土に恐怖と疑惑と虚実あいまった密告の嵐をもたらしたのである。

コロンブスがインドに向かって旅立とうとしていた頃、多くのユダヤ人が隣国に逃れていった。しかし、ポルトガル王がマヌエル一世に交代すると、彼はスペインのフェルナンド、イザベル両王の娘との政略結婚を望み、彼らは自国と同様にポルトガルでのユダヤ教徒の一掃を条件にした。はポルトガルでよく組織され、とりわけ国際貿易での活躍は目覚ましかった。しかし、その地で、ほぼ半世紀の間、迫害されずにいたユダヤ教徒にも異端審問の魔の手が伸び始めるのである。1536年に異端審問所がポルトガルでも開設された。

ユダヤ人たちは16世紀から17世紀を通じてベニス、ハンブルク、ロンドンなどへ、とりわけ貿易都市アムステルダムへ逃れていき、中には公然とユダヤ教徒に復帰した人たちも多かったのである。彼らが大切に守り続けていた信仰は、モーゼの律法が最も重要なものだった。しかし、断片的で、歪められてしまっていたのである。モーゼの律法の個々の規律と慣習は徐々に記憶から消えていくが、手に入れられる情報は、ラテン語訳聖書、キリスト教の史料、反ユダヤ教文献でしかなかった。記憶にとどめていた数少ない戒律は、異端審問所に見つかれば命にかかわった。マが保持していたユダヤ教にもキリスト教の影響が入り込んでいった。そういった状況の中にスピノザの両親もいたのである。

 

『神学・政治論』既成観念を切り捨てる


 

このような複雑な宗教的・社会的境遇の中に彼は育った。そして、表面的には平穏なオランダの宗教・政治事情は、内部で軋轢を深めていたのである。オランダは、カトリック教国スペインの支配から脱した独立戦争後、カルヴァン派の流れを汲むプロテスタントが興隆する。この改革派は主流派と幾つかの非主流派に分裂し、訳者の吉田量彦さんの言葉を借りれば育ちすぎて収集のつかなくなった盆栽のようになった。

バルーフ・スピノザ『神学・政治論』上

それに、政治体制も総督派と議会派が抗争していた。総督はスペイン支配時代の監督責任者で、独立後は独立戦争の英雄オラニエ公ウィレムの子孫が世襲していた。原則として州ごとの任命だったが、いくつもの州を兼務したである。それに対して総督を排して議会主導を狙うのが議会派だった。改革派の宗教者たちは、それらの政治家たちに取り入ろうとしていたのである。

『神学・政治論』が書かれたのはこのような状況の中だった。著者名なし、出版元はハンブルクのヘンリクス・キュンラート出版だが架空の出版社名でした。実際に出版されたのはアムステルダムでスピノザの友人の出版社だったという。でも、すぐにスピノザが書いたのではないかと噂され始める。

こんな風に書かれていた。「自然的な神の法において、特定の歴史物語を信じるよう求められることはない。神への愛は神を知ることから生じるが、神の知のほうは、それ自体で確実に知られる共有概念から汲み出す必要があるからだ。(吉田量彦 訳)」ここまでは、おおよそ問題などないのだが、次はかなりどぎつい。「だから、わたしたちが最高善をきわめるには〔たとえば聖書という歴史物語を信じることが必ず求められる、などという意見こそ的外れのきわみなのである。(同上)」宗教界にケンカを売っているとしか思えない。

この1670年に出版された本は、当時の新たな政権によって危険視され1674年には禁書処分となった。これで、本書は異端の書とされ、よくて「無神論と紙一重の自然主義」と呼ばれるようになる。ライプニッツの大学時代の教官だったヤーコプ・トマジウス (1622-1684) の言葉だ。だが、この時のスピノザの気持ちを200年後の、フロイトのこの言葉ほどに代弁しているものはないのではないだろうか。

「精神分析を最初に提唱した者が一人のユダヤ人だったということも、おそらくは全く偶然ということはないだろう。こういう新しい理論の形で信念を公言するためには、孤独な野党という位置を受け入れる、ある程度の覚悟が必要だった――そのような状況にユダヤ人ほど親しんでいる者はいないのである(『精神分析への抵抗』小岸昭 他訳)。」

 

エチカ』幾何学的迷宮


 

バルーフ・スピノザ『エチカ』上

本質・属性・様態

スピノザは宗教の本質とは何かを考えようとした。そう考えても不思議でない状況でもあった。それに思想的な背景としてデカルトの機械論的二元論とホッブスの社会契約論の登場があった。彼は、最初、デカルトの顰 (ひそみ) に倣おうとしたが考えを改め、独自な道を歩もうとする。こうしてスピノザの主著『エチカ』は書かれるのだが、結局彼の死後にしか日の目を見なかったのである。

エチカ』の翻訳者畑中尚志さんは、こう纏めておられる。実体 (スブスタンティア) とは自己原因と等置であり、自然と等置である。スピノザは凡ての原因であり自らは何の原因も要しない存在を神としている。この自己原因の神は実体と等しいものとなる。神が自然と等しいとなれば汎神論となると。

スピノザはデカルトよりもアリストテレス派だと言われるが、アリストテレスの強い影響下にあったトマス・アクィナスがエッセ (存在) を神としていることスピノザが、神は実体 (存在) と等しいとしていることには確認しておかなければならない。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、スピノザの「実体」「本質」「属性」「性質/態」といった言葉の使い分けに注目しているので、まず、アリストテレスの実体、本質、属性、性質についての定義を見てみたい。

今道友信さんの『アリストテレス』によれば、存在には、ギリシア語で on (存在)、ousia (実体)、einai (存在すること) の区別がある。存在については、ヨハネス・ロッツ『ハイデガーとトマス・アクィナス』神は創造において性起するに書いておいた。これらの語は、いずれも、英語で言う to be にあたる einai の文法変化によるものでousia は einai の女性形現在分詞 ousa の変形であるという。実体 (ousia/ウーシア) に関していえば、以下のように区分できる。

(一)第一実体 他の属性として述語とならないもの、究極の主語または主体(基体)、すなわち個体のこと。端的な物体ないし単純物質のことであり、自ら主語であって他の述語とならないもの。特定の人や特定の物を指している。
(二)第二実体 これと指しうる存在であり、かつ離れて存在しうるもの、つまり各々のものの形式 (morphē) と形相 (eidos) である。一般的な人や馬と言った類や種といった普遍的観念的な実体を指している。

今道友信『アリストテレス』

このように実体とは、<形相と質量からなるそれぞれの個体である「個物」と普遍的観念的な実体としての「形相」の二つに分類される。ちなみにスコラ学では個的現実的存在 (ens) と本質 (essentia) に向かう実体とに分けられている。第二実体における形相が本質ということになる。次は、表現である諸属性とは何かと言うことになる。

認識されるということは何らかの意味で述語化されることであり、自己において述語とならないものは認識不能ではある。述語になるものを纏めたものとして範疇がよく知られていて、主語的存在者が範疇的存在者を属性として持つと考えられていた。範疇が実体的存在者の属性ということになる。その範疇には、実体 (ousia/羅substantia)、量、質、関係、場所、時間、状態、持前(所持)、能動、受動の10項目が挙げられていて、ものの大きさ、形、色、それが在る場所などの性質、特長を指している。それで、属性とは、本質=形相を構成する性質と考えられる。巻末に存在から範疇へ至る一覧表を掲載しておきます。

しかし、アリストテレスは、個物としての「個の存在」を実体として設定したために、その個物性を普遍者であるカテゴリー(述語)で主張し尽くすことは出来ない。例えば、日々、刻々と変化するものを表現し尽くすことには限界がある。それで、カテゴリーの諸形式による一般的な述語に留まってしまうと今道さんは言う。実体的存在の<存在は底をつかれず残るというのである。そこには、従来の論理学の限界があったのである。

一方、『エチカ』では、実体、属性、様態の定義はこのようになっている。

・定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
・定義四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
・定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在り、かつ他の物によって考えられるもの、と解する。
・定義六 神とは絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
(『エチカ』第一部 「神について」/畠中尚志 訳)

バルーフ・スピノザ『エチカ』下

唯一の実体である神は無限に多くの属性からなり、その属性の各々が、その類において無限であると述べられている。自然の中の一切のものは、属性の変状もしくは、様態であり、これらは個物と言う名で呼ばれる。属性には、現実に人間の認識の対象となる延長 (物体が空間の部分を占めている性質) の属性と思惟の属性が挙げられているが、このようなものが属性、つまり「実体の表現」である。

アリストテレスでは、存在ー実体=個物・形相ー本質ー範疇となっていた階層構造が、スピノザでは、実体―属性ー様態という形に圧縮されている。

デカルトの考えでは、物体という実体の属性延長であり精神の属性思惟であり、それらによって認識が可能になるとして、延長と思惟とを別々の属性の様態として区別した。人間は合成的実体で精神と身体から成り立っている。しかし、延長を持たない精神が、どうやって延長を持つ体を動かせるのか十分な説明ができなくなる。

スピノザにとっては、存在するのは唯一の実体で、完全なものであり、如何なるものも欠くことがない。もし、思索実体と延長実体が存在するとしたら両者は同一の実体でなければならない。『エチカ』第二部の第一定理「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である」、同じく第二定理「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である」を受け入れるなら思惟実体の様態はことごとく延長実体のいずれかの様態と同一でなければならず、その逆も然りということになる。この対応関係を明らかにしているのが定理七「観念の秩序及び連結は物の秩序及び連結と同一である」ということになる。これが、デカルトと決別する心身並行論となるのである。 (エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』)

様態は実体が変化してゆくかりそめの形であり、実体の本質と知性が把握するものである。神は自己原因であり、あらゆる事物の原因であるが、固有の本質を構成する諸々の形相自身のうちに事物を産出し、その本質の観念のうちに自らを理解するままに諸観念を創出するという。それらの産出は、範型といったものを模倣することなく直接に生み出される。そこには、自身が産出し作用する絶対的な力=コナトゥスがあるとドゥルーズはいうのである(『スピノザと表現の問題』)

スピノザは、神という実体から無限というマジックを使いながら「自然」に直結させようとしているかに見える。ドゥルーズは、メルロ=ポンティが17世紀の哲学における最も理解しがたいものとして「無限から出発する無邪気な思惟方法」と呼ぶものを紹介している (『有名な哲学者』) が、ドゥルーズ自身は、積極的な無限の力と現実性とを説明するために、独創的な概念要素を持つあらゆる手段がスピノザには必要であったという。それで 『スピノザと表現の問題』という著作が生まれた。僕は、思うのだけれど、アリストテレスの底をつかれず残る実体的存在の<存在>は、無限によって救われるのかもしれないのだが

スピノザの無限とパースの点

伊藤邦武『パ―スの宇宙論』

自身が絶対無限である実有の神は、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなる実体であった。自然の中の一切の物は神あるいは属性の変状ないし様態であり、個物と言う名で呼ばれる。神はこれらを自由意志ではなく法則によって必然的に生じせしめる。ここは『エチカ』の最大の謎である。誰でも疑問に思う。絶対無限には、無限の属性があり、無限の様態が生まれる。どうやって?

その糸口を探るのに絶好の著書がある。伊藤邦武さんの『パ―スの宇宙論』である。そこには、基本的でありながら哲学的にも数学的にも極めて厄介な連続性の問題が述べられていた。直線は、点の無数の連続的な繋がりとして考えられるが、その線を切ったときその切り口は点なのか?もし、点と点の間を切り離すことができるのなら隙間がすでに存在することになり、その直線は、有限個の点でできていることになる。ライプニッツも悩ませたこの問題は、深刻な「迷宮」だったのである。

この問題を解決するためにアメリカの論理学者・思想家であるチャールズ・パース(1839-1914)は、アリストテレスの言う線を作る点は「線を連続させるとともに、これを限定区分しもする。点は、長さの部分の始めであるとともに、他の部分の終わりでもある。」という考え方をとる。この考え方からすると、点は自分の分身を作るらしい。なんだか忍者みたいだ。ルール違反のような気もするのだが、線の端っこは、魔法のようにいくつもの点が飛び出すことができ、それらの点は、分裂(破裂)の前には一点であったというのである。一つの点は、0と1の間の存在する無理数のようなものとして考えているのだ(超準解析の無限小の概念を思わせるといわれている)。この考えは、ぼくが『出現と運動』というシリーズを描く時にずっと頭にあったことだけれど、これならスピノザの無限という迷宮を抜け出るためのアリアドネの赤い糸口になるんじゃないのかな。メルロ=ポンティはスピノザの無限を見くびっていたのだと思う。

カントール集合

ちなみに、この問題を数学的に解決したのはドイツの数学者ゲオルク・カントール (1845-1918) だと言われる。集合論から様々な種類の「数の系列について、無限の連鎖の特徴を規定する方法を確立するとともに、様々な無限系列の種類の間に見られる階層的関係を明瞭にする方法を提示した。図のカントール集合は線分を三等分して、その真ん中の三分の一を抜き取る操作を無限に繰り返す。面白いのは、パースが連続体を扱っている時にカントールの方法を見出していることだ。連続と無限。だか、無限には気をつけた方がいい。

 

スピノザの雰囲気


 

イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』に戻ろう。スピノザは聖書をそれ自体の記述から科学的とも言えるテキスト解釈から出発しようとする。それは聖書以外の間テクスト性を考慮しなければならないことを意味していた。一方で、スピノザの神は絶対的な内在性の神であり、現実の総体と等しいという理性的直観を根幹に据えていた。それをどう見るかは問題となる。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
(1770-1831)シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるレリーフ

ヘーゲルが150年を経てスピノザの観点からより精神性の強い哲学を発展させようとしていた。存在や実体を超える神といった超越の観念を否定するだけでなく、内在の領域を神聖なものとみなした唯一の思想家だとヨベルは言う。弁証法的な過程を通して彼が「絶対知」と呼んだ哲学の最終的な総合形態の体系を現わそうとした。まず、最初にスピノザの立場を本質的で必然的なものと承認し、その後にこの立場それ自身が自らより高次の立場に高まっていくようにさせたスピノザの内在性を踏み台にしようとしたのだ。

ヘーゲルの新しい体系の中で特権的な地位にあるのは、このスピノザとアリストテレス、カントのみだとヨベルはいう。ヘーゲルにとって絶対的なものは、スピノザの言う「もの」のような実体ではなく、カントの言うような主観の「私は考える」でもなかった。これらを契機としながら、よりいっそう高次の総合的立場で包含しうるような「概念」と呼ばれる絶対者だったのである。ヘーゲルは、スピノザの問題は、あまりに神が多すぎる点にあるという。スピノザの果てしない全体性は、一切の差異を抹消する圧倒的な原理だというのである。

カール・マルクス (1818-1883) 1865

マルクスは、スピノザの『神学・政治論』から社会的・文化的発展の微妙なメカニズムを哲学者として追及するという強い示唆を得る。スピノザは、そのための言語や神話や解釈学のある種の用法を編み出し、それを大衆の意識の次元に役立てようとしたが、それは、いわば上から目線だった。これをマルクスは、大衆自体をプロレタリアートとして変容されること、理論は大衆の意識を彼らが経験している何らかの現実の窮状に対して目覚めさせるようにしなければならないとした。ボトムアップにしようとしたのだ。大衆=マルチチュードへの目線である。マルクスは、未来のための変革は、ユートピア的な夢想ではなく、現実の状況が指し示している事柄に対する科学的な理解を伴っていなければならないとしたが、そのことをスピノザは既に予言していたとヨベルは述べている。

ニーチェは、スピノザの言う神即ち自然が「世界とは結局古くから愛されてきた無限の‥‥神に似たものだ」「何らかの仕方で古き神がなお生きている」と信じたいという「願望」であると語った。ニーチェは、神から至高の善と智恵を取り除き、至高の力に還元してしまう。それは、「運命への愛」と「永劫回帰」によって排除されたものだった。スピノザの考えた「自身が産出し作用する絶対的な力」であるコナトゥスだけが残ったのである。

フロイトは、ニーチェの陶酔的で華麗な思弁的思想を恐れて読むのをやめたという。彼には純然たる経験的な探求が必要だった。それには、ニーチェは濃すぎたのである。スピノザの思考様式こそ、ダ・ヴィンチとの共通する性格を持っていたという。それがフロイトの言う「雰囲気」だった。『レオナルド・ダ・ヴィンチと彼の幼少期の記憶』の中で彼はこう述べた。「その飽くことなき、倦むことなき知への渇望のゆえに、レオナルドはイタリアのファウストと呼ばれてきた。しかし、‥‥レオナルドの発展はスピノザの思考様式に近づいていくという意見を口にしてみることも可能なのかもしれない(小岸昭 他訳)。」

ハイネは、こう述べている。「汎神論はドイツでは公然たる秘密である。実際我々は有神論の段階から抜け出たのである。我々は自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない。我々は成年に達し、父の監視を必要としていない。我々はまた偉大な職人の工作品でもない。有神論は、奴隷と子供、ジュネーブ人たちの宗教、時計職人たちの宗教なのだ(『歴史』小岸昭 他訳)。」

ヘブライ人たちは神を恐るべき専制君主と考え、キリスト教徒たちは慈愛に満ちた父と考える。ルソーとその弟子たち、ジュネーブ学派全体は、神を聡明な技術者と考えるとハイネは述べる。機械主義的世界観はデカルト以来、主流になりつつあった。ハイネは、スピノザの思想をヘーゲルよりに解釈しなおしているとヨベルは言う。神は自然と一体である。しかし、ハイネの場合、そこにはキリスト教の聖なる精神ではなく、「聖なる物質」があった。当世風の唯物的な影響が萌し始めている。しかし、注目すべきは「我々は自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない」という言葉だろう。「我々は神々の民主主義を創設しつつある」とも言う

 

自由としての人間の力


 

ハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)
シャルル・グレール 画  1851

スピノザの雰囲気とは、結局、ハイネの言う「自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない」という言葉につきるのではないかと思われる。それはどのような歴史的な権威よりも、当世を席巻する流行の思想よりも、自らが考え、自らが打ち立ててゆく思考の自由と言うべきものだった。これが、獄中から立候補して国会議員になった思想家アントニオ・ネグリへのスピノザの一撃である。

ネグリは、スピノザにおける先進的なもの、さらに強力な何かがあるとすれば、それは絶対的に唯物論的な意識であり、生政治的な意識であるとしてこう述べている。「制度的な関係が常によりいっそう構築されるとしたらそれは、常によりいっそう充溢していく自己が生産された結果です。スピノザの汎神論とは――今日もっとも宗教的な哲学者でさえだれもこのことを話さない理由はわかりませんが――愛を共同=<共>でいとなむことを通じて真実を生産するなかに、人間の力を再認することです(『スピノザとわたしたち』信友建志訳)。」

ちなみにノヴァーリスは、スピノザの愛についてこう述べている。「スピノザとツィンツェンドルフは愛の無限のイデーを探求し、花の雄蕊にとまって、愛のために自己を実現しつつ自己のために愛を実現する方法を予感していた(『ゾフィーへの手紙 1796/7/8』中井章子 訳)。」ノヴァーリス、う~ん、香しい。

さて、『エチカ』の最後にスピノザは、このように述べている。「私の示した道はきわめて峻厳であるように見えるけれども、なお発見されることはできる。また、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら幸福がすぐ手近にあって大した苦労なしに見つかるとしたら、それが、ほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である畠中尚志 訳)。」

Q.E.D.(Quod Erat Demonstrandum)これが示されるべきことであった。

 

付 アリストテレス「存在の一覧表」 今道友信『アリストテレス』より

付帯的存在とは、偶然的な意味で存在と言われるもの。例えば、家を建てた場合に、その家がある人には快適な存在となり、ある人には不便な存在になる。このような偶発的存在は学問の対象にならない。

第一実体とは、それぞれの個物、例えば、植田という名前の人であり、基体と呼ばれる。
第二実体とは、その個物に属する種や類に関する普遍者を指していて、精神の眼で見抜かれるという意味の「見られた形」= エイドスという言葉で呼ばれた。プラトンの言うイデアと同じものである。しかし、アリストテレスの形相は、生物における種概念のように個物に内在する普遍あるいは形式であるために実体と不可分であった。これに対してイデアは価値の理念として必ずしも実体を必要としない場合がある。アリストテレスは、人はイデアの影ではなく、私の私と言う実体の中に人と言う種を内包していると考える。第一、第二を併せて実体とは、個物(基体)と形相を示していることになる。

もし、私が人であるという判断が正しいなら、私の中に私と言う基体と私の本質的属性である人間とが、私において結合しているのを命題として結合させたからだということになる。そのような命題は無数に生み出せる。しかし、このような多様な存在が何故存在するのかを問う時、必然的に第一の存在、あらゆる現象の統括者の存在が想定される。それを探し求める第一の哲学が神の存在を証明する神学となる。

認識されるということは何らかの意味で述語化されることであり、自己において述語とならないものは認識不能ではあるが、個物を原因から分析することはできる。大別すると大理石の柱であれば、材料としての大理石である質量因、内的組織としての規定、型、形態である形相因、柱にするという目的である目的因、大理石が柱になるという転化、つまり物事の静止の第一の起点とそこから動き出すという始動因あるいは起動因に分類される。

その「述語する」という動詞であるカテゴリオからカテゴリー(範疇)という言葉は由来する。どちらかと言えば論理的整理というより文法的整理と言った意味合いが強いという。「ソクラテスは賢い」における「賢い」は形容詞であるし、「その事件はリュケイオンで起こった」と言えば、「リュケイオンで」は場所を表す副詞で「起こった」は動詞である。言辞の数だけカテゴリーがあるが、それを纏めて10に分類したものが有名な範疇である。そのうちの実体というのは紛らわしいけれど以下のような定義になっている。

実体 (ousia/羅substantia)、「なんであるかに応ずるもの」
量 「いかほどに応ずるもの」
質 「どのようにに応ずるもの」
関係「に対してどうあるかに応ずるもの」
場所「どこに応ずるもの」
時間「いつに応ずるもの」
状態(位置)「どう置かれているかに応ずるもの」
持前(所持)「何をそなえているかに応ずるもの」
能動「することに応ずるもの」
受動「されることに応ずるもの」

 

引用文献 及び 参考図書

 

バルーフ・スピノザ『神学・政治論』下

ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』

 

アントニオ・ネグリ『スピノザとわたしたち』

 

エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』

 

 

 

 

 

 

ニュース

2020年 5月『 松澤 宥・植田信隆 展』のご案内

2020 5/19-5/31『松澤 宥・植田 信隆 展』のご案内

 

2020年 5/19(火)- 5/31(日)展覧会期間が延長されました。
ギャラリーG/ Hiroshima
http://gallery-g.jp/  火曜ー土曜 11:00~20:00  月曜 休廊  最終日 11:00~16:30

5月24日 (日) 出原均、アラン・ロンギ―ノさんのシンポジウムについて
アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。19:00までは展覧会をご覧いただけます。

 

概念芸術の巨匠・松澤宥(まつざわ  ゆたか/1922-209)と植田信隆による展覧会です。2004年に制作した『消滅するヒロシマに捧げる九つの詩』のリメイク作品、そして以下に掲載しています松澤宥のオリジナル作品を展示します。この展覧会に際しては、ご家族と長沼宏昌氏の全面的な協力を得ました。ここに深く感謝いたします。

松澤 宥  出品作品

●草稿/『死のテーマ ヴェネチア・ビエンナーレに』『タントラを巡ってさまよう』 『A Black Hole』『ゾンスベーク国際展へのコメント』 他

●九字九行作品/『超人類の果て』『ドリコソマ』『エニグマ22』 他

●パフォーマンス草稿/『諏訪湖に白紙絵画を見せる』『私の死』 他

●チラシ作品/『ああニルああ荒野におけるプサイの秘具体入水式』『プサイの死体遺体』『プサイ函』 『人類よ消滅しよう』『ドンデン返し計画』他

●パフォーマンス写真(長沼宏昌 撮影)

 

『関連シンポジウム』が以下のように予定されています。

5月19日 (火) 19:00~20:00

無観客でのビデオ収録となりました。後日配信の予定です。

柿木 伸之(かきぎ  のぶゆき/広島市立大学国際学部教授 哲学、美学)、植田 信隆(作家)

ベンヤミン研究者として知られる広島市立大学の柿木伸之先生をお招きします。前半は私が松澤さんの芸術についておおまかに解説し、後半は、柿木先生に松澤芸術を起点として戦争と芸術をテーマにお話ししていただきます。

5月24日 (日) 15:00~16:00

出原均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)
アラン・ロンギーノ(インディペンデント・キュレーター)

アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。

2004年に広島市現代美術館で『松澤宥キュレーション展』を企画された当時の学芸員であられた出原 均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)さんに松澤芸術について解説していただきます。

どうぞ、皆さまマスクをお持ちになってご来場ください。

 

2020年3月27日

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日
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