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矢部良明『茶の湯の祖、珠光』 身の丈の茶とつるぎの植木

 

矢部良明『茶の湯の祖 珠光』

茶の湯の創始者は村田珠光だと言うと、え?、利休じゃないんですかと聞き返される。「茶の湯の開山は、珠光である」と利休は述べたというから間違いない。何故、一般に利休の方が有名で珠光はマイナーかというと、利休と秀吉の確執はあまりに有名であり、利休の切腹という悲劇に彩られるからで、珠光が知られていないのは、その記録が、ほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれているからです

「惣別 (そうべつ/おおよそ) 珠光いろゐたる事をさわる事、努努不可有 (ゆめゆめ あるべからず)。」珠光が携わったものに手をつけるなと利休は細川三斎に語った。

古田織部は、まだ初心の頃、かつて珠光が所有し、松屋久好が、その手許に持っていた徐熙 (じょき) が描いた鷺の絵を見てくるように利休に諭される。徐熙筆の鷺の絵を感得するなら天下の数寄を合点できるだろうと。もし、合点がいかないなら、己の数寄心が至らないからだと言われるのである。

利休以前は、紹鷗 (じょうおう) の事績が突出していて、珠光は既に過去の人になっていた。だが、慶長六年 (1601) の茶会で織部は、紹鷗の表具は悪く、利休がそれを改めてしまったとのべている。紹鷗は、その美学において侘び茶の伝統を継承してはいたけれど、侘び茶の四畳半茶席の床に唐物を一品飾って<書院の茶の湯風な味を加え、和歌の軸を掛けるなど新機軸を打ち出して絶大な人気を得ていた。

松花堂の露地 市中の隠としての茶室

しかし、若い利休には紹鷗の<一座建立が鼻に付きはじめる。もともと世阿弥が、演者と客席が一体となることを指した言葉だが、堺の茶の湯においては、所柄、話題が政治や商談と言った俗事に流れやすかった。それに反発した結果「本来、茶の湯は超俗でなければならない」と唱え、その精神においても草創期の茶の湯に帰ろうとした。その本尊として珠光に白羽の矢を立てたのではないかと見られている。

それで、今回は、利休が慕った珠光とその茶の湯がどのようなものであったのか、矢部良明 (やべ よしあき) の『茶の湯の祖、珠光』を縦軸に、山上宗二 (やまのうえ そうじ)『山上宗二記』、『茶道学体系二 茶道の歴史』、渡辺誠一『侘びの世界』、内藤湖南『支那絵画史』などの著作を交えて概観できればと思っている。珠光に関する著作は真に少ない。それは、利休やその弟子の山上宗二らの発言著作を通してしか窺い知ることしかできないからである。

矢部さんは、1943年神奈川県の大磯のお生まれ。東北大学文学部美術史科をご卒業。東京国立博物館陶磁課長を経て郡山市立美術館館長を務められた。陶器・磁器の専門家でいらっしゃる。工芸的な観点から、道具を通して見た茶の湯論は大変優れているように思う。著書に『染付と色絵磁器』『中国陶磁の八千年』『日本陶磁の一万二千年』『千利休の創意』『古田織部』『武野紹鷗 茶の湯と生涯』『日本陶磁大辞典』などがある

 

珠光の生い立ち


 

西山浄土宗 日輪山称名寺 千体石仏と茶室獨蘆庵で知られる。

村田珠光は1423(応永三十)年、奈良に生まれた。しゅこうと読むのが本来で、じゅこうは後の読み方のようだ。父は、杢市 (もくいち) という検校であったと言われる。何か複雑な生い立ちを思わせるが、記録は何も残っていない。童名を茂吉といった。奈良で、11歳の年に浄土宗の称名寺で出家することになる。幕末まで興福寺の末寺であったという寺である。海上人に師事し珠光という法名が授けられ可愛がられたという。称名寺の宝林庵に住んだが、結局、茶に道を求めて恐らく30歳前後に僧体のまま京都に出た。

京の三条近くの小庵に住まいしたと言われる。千利休の高弟であった山上宗二 (やまのうえ そうじ/1544-1590) が残した『山上宗二記』は、珠光の秘伝書「一紙目録」の紹介から始まる。それによると、ありきたりの遊びに飽きた足利義政の「何か珍しいものはないか」の問いに能阿弥が「楽道の上には御茶湯というものがあります」と答えた。30年の間、茶の湯へ身を投じ、名声を博してから奈良に住まいする珠光なる者がいて、一休禅師から宋代の圜悟克勤 (えんごこくごん) 禅師の一軸を与えられ、これを数寄の一つとして楽しむような者ですと述べた。それで珠光は召し上げられ、師匠に定められて、御一世の御楽しみは、この一興となったと伝える。

これは利休や宗二らの間で作られた逸話だろうと言われているが、珠光を茶の湯の祖としていること、将軍家に仕えた茶堂の祖であるとしていることは、注目されると熊倉功夫氏は述べている。この珠光の秘伝書「一紙目録」は、能阿弥に目聞きの大事など稽古の時の質問を日記にしたもので養嗣子の宗珠に伝えられたとされている。珠光が実際に能阿弥と交際があったことは間違いないと思われる(尊鎮法親王『親王日記』)。

 

侘び茶の前奏


 

『茶道学体系二 茶道の歴史』

歌人であり、禅僧であった正徹が『正徹物語』の中で茶飲みを三種類に分けている。茶道具、心の及ぶほど嗜 (たしな) み持ちたる「数寄者」。茶道具のことは言わないが、どこでも十服茶のような飲み比べをし、その所々の茶をよく飲み知っているような「茶飲み」。大茶碗に茶の良し悪しを言わず飲む「茶くらい」という分類である。

15世紀の山科家礼記などには公卿であった山科家への茶の贈答の記録が残っていて、公家の茶といえば正徹の言う「茶数寄」かと思うけれど、実は「茶飲み」も「茶くらい」もあったようなのである。この頃、山科家では茶の贈答は、かなり盛んであって、例えば無塩の鯛一懸けの返礼が茶十袋、生成りの荒巻鮭のお礼に古茶五袋を送ったなどの記載が見える。茶には無上、別儀 (べちぎ)、揃 (そそり) という等級があった。無上が最上の茶で、揃が一番低級ということになるが、茶所としては宇治が重視されていた。ちなみに、当時のお茶の形状は抹茶にする前の碾茶 (ひきちゃ) で数ミリ程度の大きさの乾燥させた茶葉だった。飲む前に碾茶を茶臼で挽いて抹茶にするのだが、挽いた状態で出荷するのは近代以降のことのようだ。(『茶道学体系二 茶道の歴史』より稲垣弘明「中世公家の茶」)

 

村田珠光が、侘び茶を創始した時代は室町後期にあたる。それ以前は、一体どんな茶が行われていたのだろうか。 この頃、いくつかの飲茶の形態があった。「会所」における室礼 (しつらい) の茶、禅宗寺院での茶礼、闘茶、そしてや路傍での一服一銭の茶である。闘茶については一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃで少しご紹介しておいた。

上 茶の湯棚飾り『君台観左右帳記』より   下 台子

茶の湯は足利将軍家の唐物蒐集から始まると言われる。足利義満が、別荘の北山第に寝殿、舎利殿(金閣)、会所などを建てたが、その名残が鹿苑寺である。その会所は、一周できるように広縁がぐるりと巡らされていた接客の場であり、和歌、連歌、猿楽などの文芸・芸能の催される場所として独立して建てられた。室町後期の文化が「集う文化」であることは、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておきました。そこには、押板飾 (三幅対ないし四幅対の唐絵、香炉、燭台、花瓶など)、書院飾 (硯、筆架、筆、水入、刀など)、飾棚 (建盞/けんさん、台、香炉、食籠、花瓶、茶碗、茶壷など) の室礼 (しつらい/飾り) の基本が同朋衆の手によって出来上がっていた。

会所の正式な飾り方を打ち立てたのは六代将軍・義教といわれるが、能阿弥や孫の相阿弥が記した『君台観左右帳記 (くんだいかんそうちょうき)』には、八代将軍・義政の座敷飾りが図解されている。京の今出川に新築した小川殿の様子であろうか。珠光にも伝えられたとされる伝書だが、唐絵などの美術品の等級や鑑識のこころえ、茶や華道、香道などの史料が記されている。

会所の嵯峨の間が客と対面する御対面所で、九間ある中心の部屋となっていた。この部屋の北側には押板が設けられている。卓が置かれ、その上に香炉、燭台、花立の三具足が置かれる。その背後の壁面に絵画が掛かる。客のために見せる飾り物と言って良い。嵯峨の間に向かって右に狩りの間があり一段高くなった書院が付属している。主人のプライベートな書斎となっていて、ここの棚板には文房具が飾られ、いわば自分のための飾りがあった。

会所に、茶湯所は付属していたが、茶を点 (た) てるための準備場所、茶たて所として使われる所だった。そこで、同朋集によって点てられた茶が、それぞれの間に運ばれて飲まれた。点てる者と飲む者とは身分が違い、居る部屋も異なっていたのである。この会所での茶湯は、室町将軍たちが楽しんだ「会所の茶」とか「書院の茶」と呼ばれるもので、後には、能阿弥、芸阿弥、相阿弥らが禅寺にあった台子を使って台子飾りの茶の湯を洗練させていった。この義政の東山文化は1470年代から1490年代にかけての時期であったから、珠光が50歳から60歳にかけての初老期に当たっていたことは、茶の湯の発展にとって、おそらく大きな意味があったと考えられるのである。この書院の茶に対して新興商人や新興武士たちに、高額な茶器はなくとも禅の精神性をバックボーンにした「草庵の茶」を提案したのが珠光だった。

『慕帰絵』第五巻 14世紀 本願寺第三世覚如の伝記絵巻で「帰寂を慕う」がタイトルとなっている。
右上に柿本人麻呂と梅、竹の三幅対の絵、香炉、花瓶、台など正式な押板飾りが描かれ、下中央では、廊下でお茶を準備している様子が描かれている。釜は接客の座敷に置かれていなかった。

 

珠光の弟子たち


 

珠光が生まれた奈良には独特の茶の文化があった。淋汗 (りんかん) の茶と茶盛 (ちゃもり) である。茶盛は奈良の西大寺の大茶盛が有名で毎年4月に両手で抱える大茶椀に薄茶をたてて、回し飲みするなかなか壮観な行事で、禅宗の風を取り入れたのではないかと考えられている。後に利休が始めた吸茶 (すいちゃ) を思わせるが、こちらは濃茶だ。。禅宗の茶には、法会の後に一般の人に出される普茶、開山忌などの特別の行事に招待客に出される特為茶 (とくいちゃ) があった。

淋汗 (りんかん) の茶は、風呂と茶の湯を合わせた遊山の茶といわれる。淋汗とは、禅寺で夏に汗をながす風呂のことで、湯風呂、蒸し風呂などがあり、庶民に提供する功徳風呂、入湯料をとる勧進風呂があったが、風呂にお茶が付くとなれば贅沢なものであったろう。15世紀には京都の栂尾、宇治についで、奈良でも大和の寺々が茶を作るようになっていた。

珠光が応仁の乱 (1467-1478) を避けて奈良に疎開していた頃、古市氏が茶盛を盛大に行っていた。茶と風呂と酒肴がつくという贅沢なものだった。世に淋汗 (りんかん) の茶会とよばれる。この古市氏に古市澄(ふるいち ちょういん/1452-1508) がいた。山城国一揆で農民、そして跡目争いをしていた管領の畠山氏との間で上手く利を稼ぐような者で、大和守護格にまで、のし上がった。金春善鳳に謡を習い、連歌を嗜み、茶の湯も名人とされている。ちなみに、善鳳は「月も雲間のなきはいやにて候」という兼好まがいの珠光の言葉を『善鳳雑談』に残していた。この澄胤が、珠光の弟子であったことは間違いないが、どのように出会い、どのような稽古があったかは、全く記録がない。珠光にとっては大きな後ろ盾だったが、50歳半ばで戦死している。

『山上宗二記』は、胤を「数寄者、名人」と述べ、連歌の猪苗代兼載 (いなわしろ けんさい) から心敬の著作『心敬法印庭訓』が送られていて、その奥書には里村紹巴によって「古市播州とて、茶湯者・謳 (うたいの) 上手、名人にて候」と書かれているという。珠光の茶は宗珠、宗悟、大富善好、藤田宗理、宗宅、紹宅、紹鷗と引き継がれたが、紹鷗の時にその風は改められたという。澄胤のような弟子たちの中でも、特に粟田口に住む善法を飯や汁を炊く鍋一つで茶の湯もするような身上を楽しむ「胸のきれいな者」として珠光が、褒めていたことを宗二は記している『山上宗二記』)。

 

侘びとは何か


古今の唐物を集め、名物の御厳 (おかざ) り全く、数寄人は大名湯茶というなり。また目聞きの茶湯も上手にて、世上数寄の師匠を仕りて身を過ぐる、茶湯者(ちゃのゆしゃ)という。また、侘び数寄というは物持たざる者、胸の覚悟ひとつ、手柄一つ、この三か条調 (ととの) うる者をいうなり。(『山上宗二記』)

渡辺誠一『侘びの世界』

侘び茶の「侘ぶ」とは何か? わぶとは自分の思い通りにならないことらしい。そういわれると、僕など侘びだらけだ。ともあれ、渡辺誠一さんの『侘びの世界』からご紹介する。

「侘び」という言葉は、万葉集において「和備」「和天」「惑」という言葉で既に使われていたが、恋や愛が満足されないことからくるわびしさと人間関係のなせる疎外や孤独の感覚に分けられるという(筒井紘一)。「侘び」の語源「わぶ」には、「つらく苦しい」「がっかりする」「つまらない、ものたりない」「みすぼらしい、貧しい」などの意味がある。在原行平は須磨の地に流謫の身となった時、歌にうらぶれた身の失意、落魄させた者への怨恨を詠った。

わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつわぶと答へよ

この時の「わぶ」は否定的、消極的な意味合いで使われていた。しかし、後の観阿弥が作り、世阿弥が手を入れた謡曲『松風』では「‥‥ことさらこの須磨の浦に心あらん人はわざとも(意識して)侘びてこそ住むべけれ、わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答えよ、行平も詠じ給ひしとなり‥‥」

ここでは、須磨へのわび住まいは、風雅を志す積極的な意味合いを持ち始めるのである。これが、すなわち村田珠光の生きていた時代の「侘び」だったのである。

日本の美意識に幽玄があり、それが仏教から伝来したことは、能勢朝次『幽玄論』part1僧肇から二条良基までで述べた。王朝のみやびに、「心の艶」としての幽玄を注ぎ込んだのは源氏物語だった。歌の世界の余情という言葉に窮(きわま)りない深さと縹渺 (ひょうびょう) 性とを求めたのが俊成であり、それを拡張したのは息子の定家であった。この美意識は鴨長明を経て、14世紀の吉田兼好において仏教色、とりわけ禅の影響の濃い美学へと変貌する。それについて、渡辺誠一さんは、道元の兼好への影響は大きかったとしている

我が庵は越のしらやま冬こもり 凍(こおり)も雪も雲かかりけり 道元
冬かれはかぜになびく草もなく こほるしも夜の月ぞさびしく   兼好

絶頂ではなく、端緒や衰退に兆す美学、思いやり偲ぶ美学、欠けたるものへの思いが兼好の美意識にはあった。それを、和歌・連歌の正徹が心にとめ、その弟子の心敬 (1406-1475) は、定家と兼好を取り合わせて「艶深くや」と述べるが、その論は「氷ばかり艶なるはなし」に至る。そして、彼の「冷え痩せる」には死の冷たさが沁みる。さび」ゆく

淡雪の消えゆく野べに身をもしれ  <応仁元年夏心敬独吟山何(やまなに)百韻より

 

和漢のさかいをまぎらす


唐の物は、薬の外は無くとも事欠くまじ。書どもはこの国に多く広まりぬれば、書きも写してむ。もろこしの舟のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取ってみて、所狭く渡しもてくる、いと愚かなり。遠きものを宝とせずとも、得がたき貨(たから)尊まずとも、文にも侍るとかや。(吉田兼好『徒然草』)

 

村田珠光『心の文』 矢部良明『茶の湯の祖 珠光』収載

珠光が弟子の古市播磨 (ふるいち ばんしゅう) つまり、胤 (ちょういん) に残した手紙があった。『心の文』と呼ばれている。

この道において大事なことは心の慢心と我執を絶つことである。上手の人を妬み、初心者を見下すようなことがあってはならない。巧者には、自分の方から寄り添い一言なりとも深き言葉をもらい、初心の者には心を配って育てるように心がけよ。この道の和漢の境いを取り払う事こそ肝要である。だが、冷えかかるといって初心の者が備前、信楽などを所持して、許されないほどに思い上がるなどは言語道断である。枯れるということは、良い道具を持ち、その味わいを知り尽くして心の下地も出来て、上手の位にたどり着いたのちのことであって、そこでこそ冷え痩せる事がおもしろいのである。とはいえ、道具を揃えることも叶わぬ人は、それにこだわる必要はない。手取釜 (てどりがま/鉄瓶) しかないと嘆くことも、この道においては大切なことである。ただ、慢心、執着の心が何よりも悪いのである。しかし、独自性がなくてはならぬ道でもある。道の至言として 心の師となれ、心を師としてはならない と古人も言われた。

心の師とは なれ、心を師と せざれ」とは、「心を使え、心に使われるな」という意味で、確か禅語にも似た言葉があったような気がする。『北本涅槃経』『往生要集』『発心集』などにある言葉のようだ日蓮は『六波羅密教』の言葉だとして武蔵国池上の門下への手紙に書いている。

珠光は、まず、茶の湯を「道」と呼んだ。どのような道具で、どのように飲むかが意識され、求道としての茶の湯がはじまる。そして、道具については、和漢の境界を取り払うと言っても唐物によって磨かれた鑑賞眼なしに和の物をむやみに持ち上げる事を戒めている。和歌・連歌の心敬は「初心の時は正しく美しく心にかけ、‥‥中程になりては奇特玄妙神変のかたへ心をやる」べきで「余情、面影、ひえやせたることは、上手の位にいたり、おのずから知らるべき物也」としている心敬が、若い頃の伸び伸びとした歌があってこそ、老境の冷えさびた境地も知られるのだと指摘していることに通じるのである。珠光は世阿弥より60歳くらい年下であるが、『花伝書』を彷彿とさせるような内容を弟子に残している。この見上げた老婆心。

 

徐熙の鷺の絵


徐熙の鷺の絵は、昔珠光が所持していた数寄道具である。絹本着色で武野紹鷗や北向道陳をはじめ古人が称美した。‥‥この絵には口伝があると宗二は書いている。(『山上宗二記)

 

伝徐熙(?-975)『雪竹図』 上海博物館

唐の末から、従来の着色画が衰え水墨画が盛んとなる。内藤湖南は禅宗の庶民への浸透が理由ではないかとみている。唐滅後における五代の内の一つ南唐は、最後の君主となったが李煜 (りいく) の時代に芸術が栄え、蜀の地と同じく唐の遺法が残っていたと言われる。この時代の花鳥を描いて傑出した画家が徐熙 (じょき/?-975) であった。

同じ花鳥画で知られる黄筌 (こうせん/903-965) が蜀で孟昶 (もうちょう) の朝廷に仕えていたのに対して徐熙は江南において在野の画家であった。書院における画家は黄筌を学び、士大夫の画家は徐熙を学んだといわれ、士大夫の家には徐熙の絵は無くてはならないものとされた。しかし、湖南は徐熙の真筆は既に失われたと考えている。北宋宮廷コレクションの記録である『宣和画譜』の批評に黄筌の絵は神にして妙ならず、趙昌の絵は妙にして神ならず、神妙共に兼ねて一洗して之を空しくするは徐熙なりと伝えられている。凝った言い方だが、分かったようでよく分からない。その画法は、墨で大体の形を定めたあとに彩色するもので、後に、彼の孫である徐崇嗣が没骨画を創始したと言われている。(内藤湖南『支那絵画史』

珠光が愛した徐熙の鷺の絵があったと言われる。千利休が「茶の湯数寄の根本をなす」とまで述べた問題の作品だが、現存していない。上海博物館にある『雪竹図』が伝わっているし、台北故宮博物院にはやはり徐熙の作品と伝えられる『玉堂富貴図』があるが、この二つの作風は、かけ離れている。「茶の湯数寄の根本をなす」とまで言われ、「一洗して之を空しくする」といった画風を考えるなら、やはり画風は『雪竹図』に近いものだったのではないかと僕は思うのだが‥‥。

 

茶禅一味


茶湯は禅宗より出でたるによりて、僧の行いを専らにす。珠光、紹鷗、悉 (ことごと) く禅宗なり。密伝あり。(『山上宗二記』

圜悟克勤禅師の印可状 東京国立博物館

床の掛物は最初、牧谿、玉澗などの唐絵が尊ばれたが、珠光が一休宗純(1394-1481)に参禅して、その印可を証して圜悟の墨跡を頂戴し、それを茶掛けとしたのが「墨蹟の掛け始め」と宗二は書いた。宋代の圜悟克勤 (えんごこくごん/1063-1135) 禅師の印可状一軸のことだ。その後、紹鷗が三条西実隆から定家の『詠哥大概』を授与され、定家の色紙を床に掛けるようになった。次いで、利休が手紙を掛ける。「宗祇黒木文(そうぎくろきのふみ)」が有名だ。

一休関係の話がもうひとつある。芝山監物が住吉の一休寺から一休筆の「初祖菩提達磨大師」の墨跡を購入したが、細川三斎は、この掛け軸が一休の弟子だった珠光が表具をほどこしたものであり、一目置かれる墨跡であること、長すぎて床には掛からないだろうと手紙に書いた。それで、監物は蒲生氏郷と三斎に表具について利休にお伺いを立てるように頼む。床に掛けられるように短くしてもらえないかとと聞いたのだ。利休は、珠光のものに手をいれてはならんと、にべもなかったのである。

一休宗純(1394-1481)

大徳寺の塔頭である真珠庵 (永享年間 <1429年 – 1441年> に創建) は、開祖一休とするが、大徳寺の住持 (寺の長) になったのは、一休が81歳、珠光が52歳の時のことである。この毒気の抜けない逸格の禅僧に師事して、印可を受けたとあれば、珠光も並の人ではなかったのではないか。真珠庵の過去帳には「珠光庵主」の名が見えると言うし、七・五・三の枯山水は珠光作として伝わっている。それに、応仁の乱で焼けて一休没後に再建された真珠庵の落慶法要や十三回忌などにも御布施の記録が残っている。しかし、これも子弟にどのような交わりがあったのか何も分からない。

 

珠光名物


されども昔、珠光申され候は、わら屋に名馬つなぎたるが好しと、旧語に有る時は、名物の道具をそそうなる座敷に置きたるは当世の風体。なお以て面白きか。『山上宗二記』

 

「わら屋に名馬つなぎたるがよい」とは珠光の美意識であった。この対照を際立たせる美学は、世阿弥らの能のように象徴的で簡素な舞台と鬼神や霊たちの豪華な衣装の対比を思い起こさせる。利休はそれに「よろず事たらぬがよし」という「不足の美学」を注ぎ入れたのである。

黄天目 珠光天目 13-14世紀(宋~元)
矢部良明『千利休の創意』掲載

珠光は名物を沢山持つのではなく、幾たびか買い替えていると言われる。茶碗に限らず陶磁器の最高峰は青磁や白磁で、8世紀の陸羽はこれらの磁器を茶碗として考えていた。青磁の中では、南宋の砧 (きぬた) 青磁と呼ばれる青みがかった青磁が最高とされ、一般向けには廉価な緑がかった青磁があった。それも黄ばんでいたり茶褐色になったものまである。珠光の青磁茶碗は、そちらの粗相な青磁である。通称 猫掻き手と呼ばれるヘラ目が入った 珠光青磁茶 は、高価なものではなかったろうが、利休が持っていたものを三好実休に売った時には千貫文にもなっていた。侘び茶は、身の丈の茶である。高価なものではなく、見立て、掘り出しの工夫が必要とされる。

11世紀の宋の時代の蔡襄 (そうじょう) は、『茶録』という著書に「茶の色は白いから黒い茶碗が相応しい」と書くようになる。実際、研膏 (けんこう)などは白色をしていた。この頃から茶道具に黒釉が好まれるようになる。有名なものに福建省の建窯で作られた建盞 (けんさん) と呼ばれる茶碗があった。すり鉢型で口縁にすっぽん口と呼ばれるくびれがあり保温に優れていた。その序列は、曜変、油滴、禾目 (のぎめ)、次に天目となる。珠光の所持していたとされる天目茶碗の一つが上に掲載してある。天目について、相阿弥は一般的な茶碗で将軍家には用がないと述べた茶碗だった。道具への美意識が大きく転換していくのである。

黒釉の小壺を抹茶壺とか茶入れとし、黒釉の大壺は葉茶壺とか茶壷とするようになる。珠光の茶入れで有名なものは、珠光が発見して義政の所有となった 九十九髪茄子 (つくもかみなす)、三好実休が二千貫で買って茶道具沸騰の口火を切る珠光小茄子、形見とした投頭巾 (なげずきん) 、新田肩衝 (にったかたつき) は後に秀吉が三千五百貫という法外な値段で手に入れている。このような珠光の名物は、全部で19に及ぶ。これらの道具は、荘厳・華麗ではなかったが、兆す美学、偲ぶ美学、侘びる美学から選り分けられた名馬だったのである。

紹鷗茶室 『山上宗二記』より

14~15世紀に描かれた『掃墨 (はいずみ)物語絵巻』には、このような様子が描かれている。座敷の中央に炉が切ってあり、手取釜が掛かり、側に杓立て朱塗りの水指があり、右の壁側に押板があって水墨画が掛かり、黒塗りの卓の上に青磁の香炉が置かれている。左奥に床の間があって水墨の山水画が描かれた貼り付け壁が仕込まれていた。

この絵巻に描かれているのは裕福な人の屋敷の様子ではあるが、この時代、喫茶の風は既に貴賤を問うことなく流行していて、囲炉裏に釜を掛けて茶をたてることは庶民の間でも広まっていたと言われる。民間にも茶室に近い設えが既に出来上がっていた。それで、どのような室礼でどのように茶を飲むかという問題になる。

ここから、16世紀の紹鷗 (じょうおう) の茶室までは近い。1502年、珠光が80歳近くで亡くなった年に紹鷗は生まれていて、その弟子の一人が利休だった。紹鷗の茶室は、4畳半で炉が切ってあり、床の間に唐物名物一つ飾り、和紙の貼り付け壁、すでに押板は無く、天井高が低い。光が変わると名物の外見が変わるので北向きの部屋だった。その他に、書隠と二間が併設されている。珠光の茶室は畳敷きの四畳半だったといわれるが、紹鷗の茶室に似たものだったと考えてよいだろう。

珠光が京都に出て地下 (じげ) の人々を主な対象として生み出した茶の湯は、自由都市堺で応仁の乱から逃げ出した文化人と豪商、町衆の結びつきによってその下地が形成され、座敷と露地に工夫をこらした「市中の隠」での茶の湯として展開されていった。それが、後に紹鷗を経て千利休によって草庵座敷での究極の侘び茶として完成するのである。

 

今の世は


 

僕は、思うのだけれど、珠光は、能阿弥から教えを受けていたのだから、武将や僧侶の会所における茶の湯が権威を持ったものであることは当然分かっていた。豪奢な建築、絢爛な飾り物の中で政治・軍事・経済・文化のリーダーたちが集い、一服の茶を飲む。室町幕府が如何に形骸化していたとしても、大名たちが行うこの文化が政治・経済・軍事と密着していたのは十分理解していたはずである。その彼が貴賤を問わない「心のしつらい」「心の所作」とも呼べるような茶の湯を求めたことは象徴的なことだった。

やがて、室町幕府を揺るがす波乱が訪れる。応仁の乱である。その乱を避けて江戸の品川に滞在していた心敬は、文明三年 (1471)、師の正徹の十三回忌の追善供養ための百首和歌を詠作した。それが『心敬僧都百首』である。その中に戦乱の世を嘆いてこう詠んだ。

今の世は花もつるぎのうゑ木にて 人の心をころす春かな 心敬

この大乱を端緒として猖獗を極める戦国の世となりはてる。その覇者たろうとした信長は、会所の茶や大名茶で行われたような政治的な茶を利休を使って空前の規模で復活させた。「茶の湯ご政道」である。茶の湯は政商と武家との政治セレモニーとなったのである。茶は武家の儀礼となり、それを利休が差配し、同時に文化の下剋上と呼ばれるほどに茶の湯の改革を断行した(生形貴重)。しかし、この二つの方向は明らかに相反している。利休の祖父は、かつて千阿弥と呼ばれる義政の同朋衆の一人だったが、利休は、珠光の侘び茶を祖とし、それを徹底しようとした。この茶の湯を大成したのは間違いなく利休だ。だが、彼の悲劇も、遠因は、この相反する二つの流れにあったのではなかろうか。花もつるぎの植木となったのである。

 

 

引用文献 及び 参考文献

山上宗二 『山上宗二記』

内藤湖南『支那絵画史』1975年
支那学と日本文化研究の巨匠が綴る中国絵画論。

矢部良明『千利休の創意』1995年刊
利休に関する茶の湯の道具が詳しく述べられている。道具に興味のある人にはお勧めします。

 

 

エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート 『戦争と資本』 境界を失った戦争と平和

 

エリック・アリエズ マウリツィオ・ラッツァラート『戦争と資本』

タイトルは「戦争と平和」ではなくて「戦争と資本」なのだ。何故だろう。戦争と信用こそ、資本主義における戦略的武器であり続けていると筆者たちは言う。ミッシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランスの最初の講義(1970~1971)で、通貨制度は、商業や取引、金儲けを理由に説明できないと述べた。これが、聴講者にとって驚天動地だったのか、青天の霹靂だったのかは分からない。少なくとも本書の著者たちにとって新たな啓示となったであろう。

富と権力の等価性を保証・維持する手段としての出自を持つ通貨は、やがて植民地化と内戦を催す手段となる。本書は、軍隊と戦争が、政治的な権力組織と資本の経済サイクルを統合する構成要素であることを明らかにしようとする。それは「資本の戦争政策としての経済学」なのである。

「真の戦争機械は金融化である」これを理解できなければ、我々は戦争機械の犠牲になるばかりだろうとエリック・アリエズとマウリツィオ・ラッツァラートは述べる。彼らフランスのインテリたちにとって、1968年は特別な意味を持っていた。あの奇妙な5月革命と筆者たちが呼ぶ事件。その後の反革命を分析すること、それが本書が生まれる背景であったかもしれないのである。

「資本主義の新精神」、資本主義のプロセスを推し進めようとする「加速主義」、思考と存在物の相関にしかアクセスできないとする「思弁的実在論」といったものが、「メイドイン68年」の恣意的批判に由来すると彼らは考える。この68年の思想的限界と対決するための彼らの武器が『戦争と資本なのである。しかし、彼らのこの情念は、我々市民革命など経験したことのない国民には理解を超えるものであるかもしれない。

 

マウリツィオ・ラッツァラート(左)とエリック・アリエズ(右) 『戦争と資本』より転載

著者の一人、マウリツィオ・ラッツァラートは、1955年イタリア生まれ。パリで活動してきた社会学者。1970年代にイタリアを中心に起こったアウトノミア運動に参加している。学校・工場・街頭などでの自治権の獲得を目指す左翼運動だった。パリに亡命し、非物質的労働、労働者の分裂、社会運動の研究を行い、非常勤芸能従事者 (フランス政府の保険によって守られた芸能者) 、不安定生活者などの活動に参加した。アントニオ・ネグリらと政治思想誌『マルティテュード』の編集長を務めている。また、ガブリエル・タルド研究の第一人者で『タルド著作集』の編集者の一人である。著書に『出来事のポリティックス』『<借金人間製造工場』がある。

エリック・アリエズは、1957年生まれの哲学者。ジル。ドゥルーズに師事した。パリ第八大学教授、及びキングストン大学 (ロンドン) 客員教授を務めている。国際的に広く知られたドゥルーズ学者と言われている。ウィーン美術アカデミーで教鞭を執ったこともあり『マティスの思想』といった著書もあるようだ。知らなかった。彼もまた、『タルド著作集』の編集者の一人である。邦訳のある著書に『ブックマップ 現代フランス哲学――フーコー、ドゥルーズ、デリダを継ぐ活成層』がある。

ラッツァラートはどちらかと言えば、ガタリの方に、アリエズの方はドゥルーズにより近いと言われるが、二人ともドゥルーズとガタリの研究者で、タルドの思想的な末裔たちと言えるのも面白い。ぼくは、本書に興味を持ったのは、タルドの社会学が、どのように実践されていくのか興味があったからである。

 

通貨と政治権力


ペルシア兵(左)と古代ギリシアの重装歩兵(右) 前5世紀
兜、盾、胴、脛当てで重装備の防御を施した歩兵

通貨の起源

フーコーは通貨制度の歴史的起源、それは古代ギリシア通貨を指しているのだが、それを商取引ではなく、新たな権力とに結び付けた。時の権力は、「重装歩兵」という新型の戦争機械の独占を図る。それは「重装歩兵革命」と言うべきもので、軍事的にも社会的にも大きな影響をもたらすことになった。この戦争機械を担ったのは、都市の防御に必要な小農民たちであって、戦争の英雄像たる貴族戦士ではなかった。行政の最小単位であるデモスに所属する「人民」は、戦士として育成されることによって最大多数が戦闘に参加可能となり、強力な戦闘力を持つようになる。

彼らは、相互扶助、集団の規律などによって、ある種の同質性を持つようになると兵士=市民としての平等を要求し、「階級権力」の維持のために彼らを利用しようとする者たちへ矛先を向ける可能性が生まれてくる。著者たちは、この問題の現代性を強調するのである。

前7世紀から前6世紀にかけてのコリントスにおいて、キュプセロスは重装歩兵団の元兵士たちの支持によって僭主の座につく。彼は、政治的な思惑から軍事力を経済的に統制するために通貨利用を思いついた。負債を持つ農民層である貧民層に、負債を帳消しにすることなく限定的な土地の再配分を行い、富裕層にはその財産の10分の1を天引きにし、その一部は直接、貧民に再分配され、、一部は「巨大建設事業」とそのための職人への前払いに使われる。この経済循環は、貧民に分配された資金を再分配された土地の補償金などとし富裕層の懐へと逆流させ、富裕層には租税を現金で支払わせるというシステムになっている。それは「通貨の流通ないし循環」と「富と兵役の等価性」を保証する制度だった。ひいては、有産階級の所有制度と権力保持を維持するための制度でもあったのだ。

リュディアのエレクトロン硬貨
前7世紀に小アジアのリュディアで製造された世界最古の硬貨。前6世紀にはコリントでも通貨が造られた。

こうして、通貨は政治権力の新たな形態の中から登場する。彼らが「所有制度や負債・返済のメカニズム」に介入し、筆者たちが言う「戦争機械の領土的制度化」=再領土化を保証するものとなるという。

領土化・脱領土化・再領土化

ドゥルーズとガタリは『アンチ・オイディプス』の中で、再領土化などについて述べているので、それをご紹介する。彼らは、国家を「原国家」「専制君主国家」「資本主義国家」に大別する。原始的な国家の身体を土地と表現すれば、これらの国家の社会体 (社会機械の形態として、それぞれ「大地の身体、「専制君主の身体、「貨幣の身体を割り当てることができる。

ジル・ドゥルーズ(1925-1944)& フェリックス・ガタリ(1930-1992)
『アンチ・オイディプス』

原始土地機械が動かなくなれば専制君主機械にとって替わられるが、それが「原国家」から「専制君主国家」への移行である。同様に専制君主国家から、資本主義国家が打ち立てられる。「専制君主の身体が脱領土 (土地) 化されることによって新たに資本主義身体 (機械) が生みだすされるのだ。それは同時に、再領土化を激しく受けることになるので、 脱領土化 (脱コード化)と同時に再領土化 (再コード化) といた二重運動の中に置かれることになる(「第一章 欲望する機械」

従って、領土化とは、「貨幣の身体といった社会的身体=社会機械を形成するということになる。だとすると脱領土化は、身体の解体、再領土化は身体の再生ということになるだろう。しかし、彼らはデカルトかデュシャンの末裔なのか、何でも機械にしてしまうだ、それは、欲望によって、微細に繋がったあらゆる流れの中で連動する生産機械で、コード化される。つまり制度化されるのである。

通貨と権力

フーコーは、通貨の所有が権力を生むのではなく、誰かが権力を握ったからこそ通貨は制度化されたというのである。通貨は、その起源が商業であるといった、単純な経済的「資本」ではない。通貨の役割は、社会における富の再分配であることよりも、権力の座を拡大再生産することにある。通貨こそ、政治以上に、富裕層と貧民との内戦を継続させる要因となる。通貨は万人の在り方を変え、貴族、戦士、職人、賃金労働者といった階級の分断を生みだし、かつ、再生産し、内戦の火種を恒常的に煽るものだったのである。ここが、押さえていてほしい第一の点です。

重装歩兵の共和国という初めての平等主義と通貨による計量単位による支配は同時に生まれ、通貨を通じて権力を奪取し戦争に勝利するという、いわば通貨戦争を行う権力によって経済は初めて政治的なものとなった。都市=ポリスで潜在的につねに戦争状態にあった貧民と富裕層との闘争の時代以来、諸革命の歴史が浮き彫りにするのは「通貨制度」と「新たな権力形態」との関係がもたらす政治の「原風景」なのである。

 

植民地とプロレタリア化


カール・マルクス (1818-1883)  1865

本源的蓄積と脱領土化

マルクスは、資本主義が生み出した脱領土化の二つの力を挙げる。一つは信用・公的債務で、資本の信仰宣言と言うべきものであり、もう一つは、征服戦争、つまり新世界の「処女地」を侵略し領有化する暴力だったという。植民地主義は、資本主義が生み出したという観点です。これが押さえておいてほしい第二の点。

農民が土地から追い出され、賃金で働く労働者が生まれると同時に、この植民地政策、奴隷貿易、公的債務などでの利益が資本に転化される。これが、本源的蓄積呼ばれるものである。それは生産者と生産手段の分離であり、全地球的脱領土化と呼ぶべきもので、グローバリゼーションの中であらゆる存在を支配し、商品化するプロセスを巧みに追及するという。

国内生産を支える村などの共同体の破壊、食料生産の放棄、農園の摂取によって生じた民衆の貧困化は、彼らを賃金生活のための規律訓練へと送り込む。それはエンクロージャー、土地集中、土地所有者の再編を伴っていた。そして、いわば、人間関係のエンクロージャーとして女性の蔑視と魔女裁判が指摘され、より大きなファクターとして専業主婦化が挙げられる。ドイツの社会学者マリア・ミースの言うように男性がプロレタリア化するためには女性を主婦に変える必要があったというのである。

この脱領土化的な破壊は、文明化された貧者たちや、植民地化された国の人々の生活の物質条件のみならず、彼らの宇宙観、神話などの実存的な領域や価値観の世界といった主体的な生活にまで及んだ。それは、国家間の戦争のように敵を「解体する」というより、人々の振舞いや行動の形態を資本の蓄積とその再生産の論理に適応させるという主体性の「転換」となった。

世界市場の継続的破壊/創造

ローザ・ルクセンブルク (1871-1919) 
ポーランドに生まれ、ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家

マルクスの言う本源的蓄積は、一度きりのものではない。最新の生産プロセスによる「取引」を隠れ蓑に征服と接収の現代版が、金融資本主義によって進められているという。それは、金融資本を原動力とした新たな植民地化となった。資本主義にとって帝国主義は、選択の余地のないものになっていったのである。ドイツで活躍したポーランド生まれのマルクス主義政治理論家であったローザ・ルクセンブルクが、本源的蓄積は、同時代的現象であり、20世紀においては帝国主義という形で継続していると既に指摘している。

しかし、現代のグローバル化は、第三世界」からの略奪と同様の形で、暴力、詐欺、弾圧、戦争などの形をとって北の賃金労働者に対しても行使され、資本主義は益々その恩恵に浴すことになる。本源的蓄積は、イギリスの地理学者デヴィッド・ハーヴェイにとって「下層階級に対する暴力」であると同時に、技術革新や組織改革の巨大な潮流へと社会を開く肯定的側面を持っている両刃の剣だった。「資源の所有者」からの剥奪、賃金労働からの搾取、戦争、暴力、略奪と実体経済とが比類のない形で共存しているというわけだ。しかし、筆者たちは、「搾取による蓄積」と「剥奪による蓄積」との区別が回避されているために問題があり、経済の戦争は経済内部の戦争であるという観点が無視されているという。

哲学者ハンナ・アーレントは、マルクス主義者ではなく、それゆえ資本の進歩主義については語ろうとしなかった。その代わり19世紀植民地戦争から20世紀の総力戦までの帝国主義を決算する。1870年あたりから始まる大不況はブルジョアジーに純然たる略奪という原罪を否が応でも意識させた。この原罪こそ本源的蓄積を可能にし将来の蓄積を誘発するものだったという。その突然の死を見たくなければこの先もそれを繰り返さざるを得ない。それは、本質的に自転車操業なのだ。誰しも感ずる資本主義への不安はここに根差しているだろう。資本家生産者たちは、彼らの生産システムの形態と法則は「その初めから全地球規模で計算されていた (ローザ・ルクセンブルク) 」ということを気づいた。

 

拡散する戦争機械


内戦化する戦争

レーニンは、第一次大戦のマトリックスが植民地にあると考えていた。「肥え太った奴隷所有者同志が奴隷制を維持し悪化させるために起こした戦争」と述べたのである。この大戦は、植民地化された人々が帝国主義と資本主義に対する闘争に入る、世界にとって重要なメルクマールであるとも述べるのだった。ロシアは2月革命、10月革命へと突入。ドイツでは、ヴィルヘルム2世を退位させたベルリン革命が起こり、極東でも革命運動に入っていった。

やがて戦争と生産とは、ない交ぜにされていく。資本は総力戦の第二のマトリックスとなるのだ。この総力戦は戦争のみならず、何よりも諸産業の戦争、労働戦争、科学技術戦争、情報・通信戦争となる。「生産」という視点から見れば、「総力」という語が指示しているのは、資本を再組織化させる戦争経済に社会全体が従属することであるという。敵の打倒という軍事目標は、無制限化し住民とその環境を壊滅させることとなるのである。総力戦という新たな体制は、ついに「平和を軍事化するよう要求する」ものとなるのである。ここも大切な第三の点です。

ドイツの法哲学者カール・シュミット (1888-1985) は、植民地の住民に対する「小戦争」が総力戦の最初の形態であったこと、そして、内戦と植民地戦争という二種類の戦争はパルチザンという観点からは特別重要であり、ある意味類似しているという。ナポレオン占領軍に対するスペイン人民軍の戦いは最初のゲリラ戦と言われる。19世紀、アルジェリア民族運動の父と呼ばれるアブド・アルカーディルのフランスへの抵抗運動は有名なものらしい。シュミットは、西洋の資本主義と東洋のボルシェヴィズムがヨーロッパ国際法による国家間戦争を世界内戦に変容させ、戦争をグローバルな全面的現象にしたという。アルカイダもISISも淵源はここにある。

植民地戦争は、「政府」と名乗る支配的な実体との戦争ではなかった。万人そして各人を相手取る戦争だった。この性格故に植民地戦争は、戦争の進化の歴史的母型となったという。総力戦が「脱文明化」のプロセスと呼ばれるものの中で捨て去った、戦争と平和、正規軍と非正規軍、軍人と民間人の区別は、植民地ではもともと通用していなかったのである。

プロイセンの軍人であり、軍事学者だったカルル・フォン・クラウゼヴィッツ (1780-1831) は、『戦争論』の中で、戦争は他の手段をもってする政治の継続であると述べた。全く政治の道具であり、政治的諸関係の継続であるという。「戦争とは、ペンのかわりに剣をもって行う政治である」というわけだ。マルクスもエンゲルスもすべての戦争を列強政治の延長と考えていたし、階級闘争は戦争の真の原動力となるはずだった。それゆえ、レーニンは階級闘争を絶対化したのである。最初の帝国主義戦争の後、極東は決定的に革命運動に入る。これについて、ハンナ・アーレントは「世界戦争は革命の帰結として、地球全体に広がる、ある種の内戦として登場した」としてシユミツトと説を同じくしている。こうして、世界はグローバルな内戦へとむかうのである。

 

ファシズムと冷戦からグローバル戦争へ

アーレントは、全体主義の研究に生涯を捧げたけれど、ファシズムについて、こう述べている。それは、自身を加速すること以外のゴールを持たない絶対的破壊の運動だと。ドゥルーズも、行先も目標もない総力戦の純粋に破壊的な運動だとアーレントと説を等しくしている。ファシズムの戦争機械が国家装置に対してある種の自立性のようなものを持っていることから、ファシズムは国家装置とは言えないと規定した。この「運動のための運動」と「純粋破壊」は、殺す権利の一般化と強化をもたらした。ナチズムは、もはや破壊のためでしかない国家装置のシュミラークルを道連れに死んだとドゥルーズは言う。戦争に組み込むことが不可能な敵を無制限に破壊しようとしていたのである。

ベアトリス・ホイザー
『クラウゼヴィッツの正しい読み方』
戦略論、安全保障体制の研究者がクラウゼヴィッツの『戦争論』を語る。

戦略論、安全保障体制の研究者であるベアトリス・ホイザーは、クラウゼヴィッツについて述べた著書の中で彼の同僚であった、オーグスト・ルール=フォン・リリエンシュターンのこの言葉を引いてドイツや日本の戦略的誤りを指摘するのである。

戦争初期の一時的な優位や鮮やかな征服などは、もしそれが長期的な優位や征服に繋がらないのであれば、本来なら計算され尽くされ、数世紀に亘って確保すべき「国家の生存」にとってほとんど価値がない。そして、闘っている二国間の関係と同じくらい重要なものは、すべての文明国が多少は持っている政治的つながりやネットワークであり、一時的にせよ中立の立場をとっている他国の利害である(『クラウゼヴィッツの正しい読み方』)。

ついで、米ソの冷戦がやって来る。この冷戦は、「軍備競争」と呼ばれてきた。ローザ・ルクセンブルクは、軍事投資は生産力の発展とそれを吸収する市場能力の格差を調整することによって剰余価値の実体化という矛盾をコントロールし解消するという。ポーランドの経済学者ミハウ・カレツキは「完全雇用」は軍と戦争産業の賃労働者の巨大雇用のおかげで達成され、冷戦にせよ実戦にせよ、戦争なくして完全雇用はないという。そして、戦争への投資は、「科学研究」の発展とコントロールの主要なベクトルでもあった。ビッグ・サイエンスは軍事と産業の結合線でもあるという。

冷戦は、あの時期、あの期間に限定されたものではない。およそ戦争なるものは、直接経済的な戦略機能を果たすもので、冷戦は、そこに社会的なコントロール機能を付け加えただけに過ぎないと著者たちは言う。しかし、新たなパラダイムがやって来る。「住民の中で両陣営が戦う」という事態が起き始めるのである。軍事戦略家たちは、住民の中で生活し、身を隠し、増殖し自由で創造性のある敵と戦うことになるのだが、68年に結晶した反植民地主義、反人種主義、労働者、フェミニスト、エコロジストの闘争から姿をあらわしたグローバル化した内戦の力学から「現実的で過酷、恒常的な紛争の時代」と呼ぶべきものに足を踏み入れたことを認識している。テロ社会である。敵は非正規的であり、介入の唯一の方法は、内部に非正規兵のいる住民が生活している場所をコントロールすることとなる。これが大事な第四の点です。

1999年に中国空軍の二人の大佐、喬良と王湘穂によって『超限戦』という著書が出版されたようだ。その後のインタヴューで彼らは、こう述べている。今日、国家の安全保障を脅かす要因は敵国の一国家の軍事力ではなく「資源の領有、市場の獲得、資本のコントロール、貿易制裁といった経済的要因」であり、これら非軍事的武器の与えるダメージは軍事武器と等しいものになると。まさに、米中経済戦争が、していることが、それだ。一国のレベル、さらには地球規模で不安を生み出させる最も有効な手段は金融なのである。

この数か月で (本書の基になる講演は2014年~2015年に行われた)、輸出商品の外貨表示価格の引き下げを狙って10%もの平価切下げを数回行い、経済危機に瀕したタイとインドネシアの状況は軍事攻撃と経済封鎖の直撃にあったイラクと同じであり、ギリシアと超国家的な金融機関との紛争を「戦争」「植民地戦争」「占領」などと再定義することは単なるメタファーではないと筆者たちは言うのである。マウリツィオ・ラッツァラートの『<借金人間>製造工場』を翻訳した杉村昌昭氏は「訳者あとがき」の中でこう述べている。金融機関は、ギリシア国債を金融市場でおもちゃにしておきながら債務不履行の可能性が現れるとEUに公的資金の投入を働きかけたと。

 

戦争≒平和なのか


本書には、宗教戦争やスターリンの粛清や天安門事件については、取り立てて語られていない。訳者の一人、杉村昌昭氏が指摘するように本書は、「資本とリベラリズムの融合による支配に<敗北>し続けてきた<左翼思想/勢力>としての苦い総括の試み、そこからの脱出の試み」であったのかもしれない。しかし、資本主義とリベラリズムが支配思想として存在する世界への不安を人々が何かしら持っているとするなら、その不安は何処から来るかを鮮やかに教えてくれているのは、本書ではなかろうか。確かに、今、戦争は様々な分化した形態で諸国家の内外に遍在している。もはや、絵に描いたような平和など望むべくもないのかもしれない。そういった時代に、もう一度、戦争と平和とは何か問い直してみることは有益だろう。ハイデッガーはこう述べた。

「平和がいつ戻るのか? という質問に答えることができないのは、戦争の終りを見つけることが出来ないからではなくて、戦争が平和に通じるようなことはもはやないのだから、‥‥。この長期にわたる戦争はゆっくり進行するが、この戦争は昔ながらの平和に向かってではなくて、<戦争が戦争と感じられない、そして<平和がもはや意味も実体も持たないような、ものごとの状態に向かっていくのである。(杉村昌昭+信友健志 訳)」

 

引用文献 及び 参考図書

 

カルル・フォン・クラウゼヴィッツ
『戦争論』 1983年 徳間書店

ハンナ・アーレント『全体主義の起源』
第二巻 帝国主義

マウリツィオ・ラッツァラート
『<借金人間>製造工場』
我々は金融資本主義によって生まれながらに負債者とされる。未来をコントロールする手段としての「負債」を語る著書。

川原繁人『「あ」は「い」より大きい!? 』音象徴とコトの葉

 

川原繁人『「あ」は「い」より大きい !? 』

「あ」は「い」より大きい。なんとなくそんな気もする。malumaは丸く、taketeは角ばってる。これは、そう思える。何故か「かなまな」より「まなかな」方が言いやすい。
「ガンダム」と「カンタム」、「クレヨンしんちゃん」と「グレヨンしんちゃん」どっちが可愛い?  アイスクリームの名前には frosh と frisk どちらが向いてる? そう言われても‥‥

などなど、言葉と語感については色々面白いことがあるらしいのです。本書は、音声学の専門家が、「音象徴」を扱う本です。音象徴が、分かりやすく音声学を説明できるからです。それには、「言語学」「音韻論」「心理学」などが関係してきます。音の科学だから理系的な側面もあるのですが、普通の読み物としても、教科書としても使える本を目指したと著者は、言っておられる。

著者の川原繁人さんは、1980年東京都のお生まれ、国際基督教大学を卒業後、カルフォルニア大学サンタクルーズ校で理論言語学を学び、マサチューセッツ大学言語学科大学院で博士号を取得。その後、ジョージア大学、ラトカーズ大学で教鞭を執られ、現在は、慶應義塾大学言語文化研究所の准教授であられる。音声学のエキスパートのようです。

言語学には様々な学派があって、言語の諸相に様々なアブローチがなされますが、言葉の「音」を科学するのが「音声学」です。つまり、「音声を使ったコミュニケーション」を研究する学問というわけです。音声学には三つの要素があって言葉の発音に関する「調音音声学」、発話がどのように空気の振動によって相手の耳に伝わるかを研究する「音響音声学」、耳に伝わった音がどのように理解されるかを研究する「知覚音声学」に分かれます。口→空気→耳と一応分けて考えられる。

音声を発する側からすると声帯の振動という事柄があります。男性では1秒間に100回声帯を震わせるのは普通で、女性では1秒間に300回は珍しくない。ソプラノ歌手では1秒間800回振動させることが出来るようです。どうしてこんなに速く振動させられるかというと声帯間の空気圧の変化に関わるベルヌーイ効果によるようです。この効果についての説明は、どうも分かったようでよく分かりません。もう少し、勉強しておきます。

 

心理学から見た音


 

声のゲシュタルト

声のゲシュタルト

maluma という言葉と takete という言葉についての心理学的テストです。どちらの形が maluma をイメージさせ、どちらが takete をイメージさせるでしょう。maluma は丸い形を、takete は尖った形を連想させますよね。これはゲシュタルト心理学の研究者ヴォルフガング・ケラー (1887-1967) による実験です。同様に mama と papa という言葉を形のイメージに置き換えてみると比較的にですが mama の方が papa より丸い感じがします。

これについては、一歩進めた実験 (篠原和子+田中秀幸) があって、光源だけが被験者に見える状態で上の図のような形を懐中電灯のようなものを動かして空中に描きます。その動きに自由な名前を付けてもらいます。すると左側の円的な光の軌跡には rorimu、 munaya  のような名が右側の三角な光の軌跡には kikito、siteki などの名がつけられました。運動科学などで選手にどのような言葉を使って体の動きを伝えるかは重要な課題です。イメージを喚起できる擬音語や擬態語を使うことは、その指導に大きな効果をもたらすというわけです。

名前の魅力度

これも心理学的な実験です。認知学者のエイミー・パーフォースがウェブ上に異なる名前をつけた同一人物の写真をアップし、名前の差による魅力度の違いを調べました。そこでは、阻害音と呼ばれる子音と共鳴音と呼ばれる子音が重要な要素を占めたようです。

阻害音は、カ行、ガ行、サ行、ザ行、タ行、ダ行、ハ行、パ行、バ行の音で、このような濁点がついたもの、あるいは濁点が付けられるものが阻害音です。共鳴音は、マ行、ナ行、ヤ行、ラ行、ワ行の音のように濁点が付けられない音です。

男性の名前では、Jack、 Jessie、 David、 Georgeなどの名がついていると魅力度が上がることが確かめられました。これらの名前には阻害音が多く含まれています。女性だとLara、 Melannie、 Lauri、 Ninaなどが好まれます。これには共鳴音が多い。すると、こういう図式が出来上がるというわけです。

共鳴音→丸っこい→女性的
阻害音→角ばっている→男性的

筆者は、男性は逆三角形であれ、女性は丸くあれを推奨しているわけではない、あるいは、この実験結果に実在するスターなどの名前が影響を与えている可能性もあると断りながらも、音にある種の心理的な影響があるかもしれないことに注目するのです。

 

言語の有縁性と恣意性


 

本書ではプラトンの対話編『クラテュロス』が紹介されています。言葉の音と意味には繋がりがあるのか、ないのかが論議されるのですが、クラテュロスは「音と意味とは繋がりがある」と言い、ヘルモゲネスは「ないと言う。」この議論については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1  記号の発生と象徴=交換能力の付録に言葉の有縁性と恣意性というテーマで書いておきました。

ヘルモゲネスは、名前は、人々がそう呼ぶことを取り決めて、自分たちの言語の一つとして発音し、呼び習わしているものである。音と意味とは、申し合わせで決まると主張しますが、これは恣意性の立場に立っている。これに対して、クラテュロスは、名前には、それぞれの「もの」に対して本性的に定まっていて、名前には本来の自然な正しさが備わっていると主張します。言葉と音とは有縁性を持つと考える立場です

ソクラテス彫像  ミュンヘン文化研究所の古典彫刻博物館

ソクラテスは、クラテュロスの言うように「音と意味とは繋がりがある」という意見に賛成してこう言います。現実に、音声と舌と口で表現しようとすれば、それらを介して何らかの対象の模造品が生じ、それが対象の表現として得られる。従って、「名前とは、模倣される対象の音声による模造品」ということになる。音のシュミラークルというわけです。

ソクラテスは続けて、ギリシア語の ρ (ロー)つまり、アルファベットの r は、ρειν (rhein/流れる)、τρομοσ (tromos/震え) などの運動を表す単語によく使われるとしている。それに、α (アルファ) 、η (イータ)、ι (イオタ) は、それぞれ「大きい」「長い」「細やか」に繋がると語ります。ここらあたりは、言葉の舞踏的表現であるオイリュトミーと考え合わせる面白いところです。20世紀の初めにルドルフ・シュタイナーが編み出した新しい舞踏でした。

荀子(前313?-前238?)

荀子の正名篇二十二には、孔子の正名を引用しながら「名に固宜(こぎ)なし。之を約してもって命じ、約定まりて俗なる。之を宜と謂う」とあります。つまり、名称には必然はない。人の約束のもとに命名し、そう定まれば慣用される。これを筋道にかなうと言うと述べられているから恣意性の立場に立っていますね。

西欧では、ジョン・ロックが単語は概念の恣意的記号だとしたのが恣意的という語が使われた最初のようです。後に、ソシュールが音と意味とは恣意的である、つまり関係性がないとしました。それが理論言語学では踏襲されています。音と意味とが完全に一致するとすると、それぞれの対象に対して全ての言語は同じ言葉にならなければならないからです。

ソシュールは、言葉をその約束事としてのラングと発話に関するパロールに分けました。後に、プラハ学派が音声におけるラングの研究を音韻論とし、音声におけるにパロールついて研究を音声論としたようです。したがって、音声の機能についての研究が音韻論、音声の発話に関する研究が音声論となります。その音声論を分かりやすく説明してくれるものが音象徴なのです。

 

音象徴とは何か


音象徴を実験的に研究したエドワード・サピアは、声の心理学、認知学、音声学に大きな影響を及ぼします。それぞれの言葉は、それを使う人間の思考を枠づけると考えていました。言語と意味が恣意的に現れない部分は何処なのかと考えた。そして、どれくらいの確率で現れ、何故現れるのかを考えました。私たちが使う単語には明らかに音と意味が繋がっている言葉が存在するのです。

エドワード・サピア
(1884-1939)ドイツ生まれのアメリカの言語学者、人類学者

動物の鳴き声は、音象徴の良い例となります、日本語の「わんわん」、英語の「woof,woof/ウーフ、ウーフ」。日本語の「にゃーにゃ―」、英語の「meow,meow/ミャオ、ミャオ」など多くの例が挙げられます。このように言葉の音と対象とが関係するケースがあるのです。擬音語や擬態語として知られていて、二つを合わせてオノマトペと言いますが、それは音象徴と密接な関係を持っています。もう一つの音象徴の重要な要素は共感覚です。音が別の感覚を誘発してある意味合いを感じさせます。先ほどの心理学と音声の関係では子音を取り上げましたが、今度はサピアの研究から母音を考えて見ましょう。

母音のサイズ感覚

彼はアメリカの高校生500人を対象に二つの単語 mil と mal を挙げ、大きいテーブルと小さいテーブルの名としてどちらにそれらの単語を当てはめるかと問いました。多くの高校生は mal の方を大きなテーブルに結び付けました。この実験を著者も日本語、韓国語、中国語を話す人を対象にした実験をしていて、同じ結果を得ています。a は i より大きいという結論になるのです。どうしてでしょうか。

大局的に見て、音からくるイメージは、音声学的に導かれるある共通性を持つようです。日本語の母音を「あ、お、え、う、い」の順に並べると言葉のイメージが順に小さくなっていくと感じられます。「あ、お」は大きく、「え」が真ん中で、「う、い」が小さいと思える。このことは、これらの語の発音の仕方に関わってきます。

基本母音における前母音と後母音の最高舌位置

「あ」と発音すると顎が下がって口腔内が開き、舌が同時に下がるので口腔内の空間は大きくなります。「お」と発音すると唇が丸まりますが、舌が下がるのでやはり口腔内の空間は大きくなります。「え」では唇の両端が左右に開きますが舌の位置はニュートラルです。「う」ではやはり唇が丸くなりますが、舌は「お」の時より上に上がっています。「い」では唇の両端が小さく開いて舌の位置が、かなり上がるので口腔内の空間はとても小さくなります。

日本語の母音は、このように「あ」「お」「え」「う」「い」の順に口腔内が狭く、小さくなるのです。これは生理的な問題ですが語感に影響を与えているということになりますね。それで、「あ」は「い」より大きいという分けなのです。

英語では「い=i 」を単語の最後にくっつけると「かわいい」とかのニュアンスが生まれます。mom は mommy 、dad は daddy 、抱擁の hug は huggy となると抱っこの意味になります。日本語でも擬態語や擬声語に使われる拗音、小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」は「ぴょこぴょこ」「ちょろちょろ」といった使われ方をして幼な言葉を連想させますが、これも発音が唇をすぼめて舌の位置が高くなる「い」の発音に近いためだと考えられます。しかし、英語の「おおきい」は big で i が使われていますよね。音象徴には例外もかなりあることを著者は注意しています。

濁音はビックでダークなのか

クレヨンしんちゃんには、カンタムという名のロボットが登場するらしのです。アニメが不案内な僕には、よくは分かりませんが、これはガンダムから濁点をとったもののようです。ゴジラの濁点をとってとコシラにするのも同様の印象を受けますね。それから、これも僕には全く未知の分野なのですが、『ファイナルファンタジー』に登場する剣である「エクスカリバー」の偽物で「エクスカリパー」というのも登場するようです。やはり、なんだかチープな感じがします。もともとエクスカリバーはアーサー王伝説に登場する神剣ですが‥‥。ガンダムとカンタムでは、如何にも前者が大きくて重くて強そうなのです。

濁音にはもう一つのイメージがあります。悪役の名前には濁音が多く使われています。「ジャイアン」「ジャイ子」「ばいきんまん」「ドキンちゃん」などの例は多いようです。「ウルトラマンシリーズ」に登場する怪獣たちの名にもたくさん使われています。「ベムラー」「ネロンガ」「ラゴン」「グリーンモス」有名な所では「ゲスラ」「バルタン星人」などがあります。濁音が使われてる怪獣のパーセンテージは『ウルトラマン』で73%、『セブン』で56%、『帰って来たウルトラマン』で70%、『エース』で59%、『タロウ』で55%に及びます。2016年における安田生命の人の名前に関する調査で、濁音が使われているのは男の子で6%、女の子で4%ですから、怪獣の名には、濁音が圧倒的シェアを誇っています。しかし、よく調べていますよね。

濁音は汚い音でもあります。特に語頭に濁音がつくブスとかバカなどの言葉は耳を覆いたくなります。例えば、 g 音などが発音される時には、声帯を無理に振動させなければなりません。肺から空気が上昇してくる時に唇や舌がその流れを邪魔します。このような音を阻害音と言うようです。これは、声帯振動を維持するのが大変な、ある意味で面倒な音なのだと言われます。おそらく調音上のめんどくささがネガティブなイメージに繋がっているのだろうとは筆者の言です。

 

共感覚と音象徴


音象徴は、外国語の単語を覚える場合に影響すると言われています。日本語の「速い」は英語の「fast」ですが、「blunt(鈍い)」と教えた場合より「fast」と教えられた場合の方が記憶に残りやすいと言われています。筆者は音象徴が言語習得に大きな影響をあたえているのではないかと考えているようです。音象徴のおかげで異なる言語間にもある程度の感覚の共有が可能になっていると筆者は言います。

川原繁人『音と言葉のふしぎな世界』2015年 
『「あ」は「い」より大きい』に新たな内容を加えよりコンパクトにした書

それには訳があります。最初にご紹介した形と音の関係を思い出してください。丸い音と丸い形、角張った音と角張った形をみました。人間が音を聞く時には視覚の影響を受けてしまうことが知られています。例えば、「が」の発音をしている人の顔を見ながら「ば」の音を聞くと「だ」という音に聞いてしまうことが多い。これを「マガーク効果」と呼びます。これは共感覚の名残です。ある研究では「高い音」を聞くと「甘味」が強調され、「低い音」を聞くと「苦み」が強調されるという結果が出ています。それに雑音の中では「甘味」「塩味」を感じにくくなるというデータも出ている。これは、味と音の共感覚です。正確にはその名残です。一般に、良い音楽を聴きながら食事をとる場合、共感覚があると食事を美味しく感じると言われています。ターフェルムジーク (食卓の音楽) も意味があったわけですね。

このような共感覚に近い感覚相互の繋がりがあるとすると、「脳が音をどのように聞くのか」という問題に行き当たると筆者は言います。言葉の構造や文法などのラングとは別個に、パロールに関わる音声の問題が私たちの脳の色々な働きと密接に関係していることが分かります。「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part2 オリヴァー・サックス『道程』で、僕が少しご紹介しておきましたが、ここで、是非、脳神経科医のオリヴァー・サックス先生が書いた『音楽嗜好症』をお読みになればよいと思います。サックス先生が語る、音や音楽と記憶がどのように密接に関わるかという問題を再確認していただけれと思っています。

 

 

参考文献

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』
音楽に関する極めて興味深い逸話が掲載されている。お薦めの著作である。

石井洋二郎『時代を「写した」男 ナダール』肖像/天球からパリのカタコンべまで

 

石井洋二郎『時代を「写した」男ナダール 』2017年

写真家ナダール‥‥若き日のボードレール、死の床にあるユゴー、20歳のサラ・ベルナール、得意絶頂のドラクロア、老いてもなお学究の徒たりえたファーブル、彼の音楽そのものを漂わせるプッチーニ、それに日本の文久遣欧使節団とその通訳だった福沢諭吉、彼らの歴史的肖像写真を手掛けたのはこの男だった。しかし、彼には写真家とは別の知られざる幾多の顔があった。

医学生、ジャーナリスト、批評家、作家、スパイ、カリカチュリスト、写真家、飛行実験家などの経歴は、この人物の好奇心の強度、熱狂的活動力、他人と渡り合う交際能力などのあらわれと言える。今回、ご紹介する時代を「写した」男 ナダール』には、並外れたスケールで時代を駆け抜けたナダールの生涯が、その幾多の著名人との交流と共に描かれ、そのことを通じて、この時代の「肖像」が浮き彫りにされる。著者の石井洋二郎さんは、これまで、「文学史」「思想史」「芸術史」などで個別に語られてきたこの19世紀の文化の担い手たちをナダールという一人の芸術家を蝶番にして相互に結びつけ、彼のレンズから見た当時のフランスの外貌を紹介してみたいとおっしゃる。

石井洋二郎さんは、1951年東京のお生まれ。東京大学法学部、パリ第四大学、東京大学大学院人文科学研究科で学ばれ、京都大学や東京大学で教鞭を執られた。東京大学名誉教授であられる。この人は、地域文学・フランス文学の研究者だけれど、ロートレアモンの研究者と言っていいのかもしれない。『ロートレアモン イシドール・デュカス全集』で日本翻訳出版文化賞を受賞、『ロートレアモン 超越と越境 』という著作で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されている。著書に『差異と欲望――ブルデュー「ディスタンクシオン」を読む』『科学から空想へ――よみがえるフーリエ』『フランス的思考 野生の思考者たちの系譜』などがある。他の翻訳としてブルデューの『ディスタンクシオン』があり、渋沢・クローデル賞を受賞されている。

 


 

ナダールの生い立ち

ナダール(1820-1910) セルフポートレート 1854

ナダールというのは本名ではない。本名は、ガスパール=フェリックス・トゥルナションという。1838年頃、友人で当時戯作者だったオーギュスト・ルフランが、トゥルナションの語尾をトゥルナダールに変え、それが略されてナダールになったらしい。多分、ふざけ半分だったのだろう。

父親はリヨンで印刷業を営んでいて、そこでは『リヨン・ローヌ県新聞』を発刊していたが、反革命思想を扇動する危険な業者として革命政府から睨まれていたという。面白いのは、この父親が、あの空想社会主義者と呼ばれたシャルル・フーリエと付き合いがあったことだ。

印刷所が倒産した後、父は20歳も年下のテレーズ・マイエという女性とパリに書店を出した。そしてフェリックスは1820年にパリで長男として生まれる。下に弟が一人いた。当時、パレ=ロワイヤルでは華麗なアーケード街が整備されていたけれど、宮殿に面した南側は資金不足のために木造の三列に並ぶ掘立小屋で「ギャラリー・ド・ボウ (木造回廊)」と呼ばれ、書店や雑貨店などが寄せ集まっていて、逆に人気のスポットとなっていた。人間には、小綺麗な所よりこんな場所が必要なんだ。フェリックス少年は、この信じ難く汚らしい悪魔の巣窟と彼が呼んだパラダイスで育まれることになる。これは、「パサージュ」の先駆けだったという。

 

ボヘミアン生活と文筆活動

1832年、コレージュ・ロワイヤル・ブルボンに入学して中等教育を受けることになる。同時代にはデュマ・フィスやゴング―ル兄弟がいた。後にはベルレーヌ、プール―スト、ヴァレリー、コクトーなどが学んでいる名門だ。友人には恵まれたが、学業不振、素行不良といったコースを進んだ。1833年に父の書店が倒産し、家族は彼を残してリヨンへ戻っている。その2年後に父が亡くなり、コレージュを結局卒業しないまま中退となった。

『ラ・ボエーム』 ポスター 1896年
アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活情景』が原作。

1837年の秋、フェリックスはリヨンの医学校に入学。興味本位の入学だったらしいが、この頃から短編小説を新聞に発表している。翌年、パリへ帰還、18歳になっていた。どういう伝手を手繰ったのか、すぐに雑誌や週刊誌の出版社に寄稿し始める。翌年には友人たちと週刊誌『リーヴル・ドール』を創刊し、編集長となった。執筆者にはバルザック、デュマ・ペール、ゴーチェ、ネルヴァルなどの錚々たる顔ぶれがいた。ここから、フェリックス、つまりナダールの進撃が始まるのだ。

この頃、ボヘミアンと呼ばれる作家や画家、音楽家を志し、貧しいながら陽気で気儘な生活を送る若者たちがいた。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』で一躍知られるようになる。ナダールもこのような若者たちの一人だったのである。友人ら三人で、ラ・ボエームの原作者にあやかった『ミュルジェール物語り――真のボヘミアン史のために 三人の水飲み仲間による』を後に出版している。

この本に登場するのは、煮る火力がないために母の送ってくれたジャガイモを1週間生でかじっていた若者や、三日三晩飲まず食わず、暖房がないので夜中外を歩き回っていたが疲労と空腹で道に倒れて寒さで目覚めるといった若者たちであった。彼自身もこの物語りを地でいっていた。

 

ナダール、スパイになる

このボヘミアン仲間の救世主はポーランド系の石版画家キャロル・ダネルだった。貧乏なのに、いつも自分の屋根裏部屋に仲間を受け入れ食事や寝床を提供してくれる人で、ナダールが『ラ・ボエームの原作者ミュルジェールと知り合ったのも彼を介してだった。筆者の石井さんは、フーリエの私有制のない社会主義運動の広がりのようなものと、このゆるやかな繋がりのボヘミアン集団とのある種の共通性を指摘している。

1848年、選挙権の不平等とギゾー内閣への不満は二月革命へと発展し、国王ルイ・フィリップは退位し、フランスの王政は終りを告げた。それが、ドイツ、オーストリアへと広がり中欧全体が三月革命へと巻き込まれ、ウィーン体制が崩壊する。この頃、ポーランドは領土の四分の三がロシア皇帝の支配下にあり、独立運動の度にロシアに弾圧されていた。

救世主ダネルの母が経営するレストランはポーランドの亡命貴族や亡命軍人のたまり場で、そこにはコレージュ・ド・フランスで公開講座を開いていた詩人・作家であったアダム・ミツキェヴィチもいた。彼らとナダールとは親しくなり、意気に感じもしたナダールは、弟らと共に祖国解放に燃えるポーランド系移民300名と共和派フランス人民志願兵200名からなる義勇軍に参加、ポーランド遠征に旅立った。しかし、ドイツ東部のマグデブルクで捉えられ、しばらく拘留の後、あえなくフランスへ強制送還となる。彼にとっては、明確な信条に基づく政治的行動というより、自堕落な生活を清算するための契機、少年期のような純粋な熱狂への回帰であったと石井さんは言う。

ナダールがパリに帰って来た頃は、青年労働者たちによる大規模で特異な反乱と呼ばれる「六月蜂起」が発生、行政長官となっていたカヴェニャック将軍により数日のうちに鎮圧されるという事件が起こっている。この頃、編集者のピエール=ジュール・エッツェルがナダールに接近する。後には、ジュール・ベルヌを世に出すことになる人だ。熱心な共和主義者で、二月革命以降は外務大臣ジュール・バスチードのもとで官房長官をしていた。プロイセン領ポーランド国境地帯におけるロシア軍侵攻状況の情報収集をしてくれるように密かにナダールに依頼するのだった。

ナダールはポーランドに入り、バルト海沿岸からダンツッヒ (今日のグダニスク) に滞在、ティルシット、ケーニヒスベルク (今日のカリーニングラード)、ベルリン滞在と2か月に及ぶ隠密行動だったが、ロシア警戒地域には軍隊が終結している様子はなかったと報告している。民衆を弾圧したカヴェニャック政権のために働くナダールは、政治的立場より血沸き肉躍る所ならという生来の活動欲求の方が強かったのではないかとは石井さんの弁である。あるいは、ポーランドのためになるならという気持ちもあったのかもしれない。

 

文士かカリカチュリストか

ナダール ボードレールの肖像 1855

文士生活

時は、少し戻ります。ボヘミアン生活をしていた1843年頃、ナダールはボードレール (1821-1867) と出会う。二人とも20代の前半だった。ナダールは後に出会った時の様子をこの様に回想している。

「エナメルの長靴の上にぴんと伸ばした黒いズボン、皺が新しくこわばった車引き用の青い上っ張り、そして自然にカールした長い黒髪だけが頭を覆い、まったく糊のついていない鮮やかな布地の白い袖口を着け、鼻の下と顎には髭が何本か生えかかり、真新しい薔薇色の手袋をはめている。こんな服装で、帽子もかぶらずに、ボードレールは自分の住む区域や町中を、猫のように少しぎこちない、神経質な、と同時に鈍い足取りで、まるで卵を踏みつぶすのを避けるように、舗石のひとつひとつを選びながら歩き回っていた。(『シャルル=ピエール・ボードレール』フィガロ紙 石井洋二郎 訳)

その後、ナダールは小説を書き始める。『デーイアネイラの衣』はボヘミアン生活をしていた若者が、不幸な結婚をした婦人とある事件を契機に恋愛に向かうという風俗小説で、他に『私が学生だったころ』などがある。後にもいくつか作品は書いているようだ。石井さんによれば、写真家としての名声がなければ、一流小説家にはなれなくても19世紀フランスの文学史の一角に名を残すくらいの小説家にはなれたのではないかという。

 

カリカチュアへ

ナダール ネルヴァル(1808-1855)の肖像画と写真

年の離れた友人であるネルヴァルの紹介で、日刊紙『ジュルナル』の三面記事を担当するようになったナダールは、ジャーナリストして雑文は書き続けたが、創作活動は中止、1844年頃には出版物の表紙に自分の絵を載せるようになり、急速にカリカチュアの世界に目覚めていった。

1847年には、『ジュルナル・デュ・ディマンシュ (日曜新聞)』に文芸家100人の肖像を描く「文芸家たちのギャラリー」を発表。‥‥が、途中廃刊となり59人で終了。この年、シャルル・フィリッポンが主催する、権力の弾圧に屈しないことで著名な風刺新聞『シャリヴァリ』に挿絵が掲載されるようになる。ドーミエやガヴァルニ、ジルらを擁していた新聞だ。そこの画家であることはステータスだった。しかし、器用な男だ。

1848年、二月革命後、ルイ=ナポレオン・ボナパルトが第二共和制大統領に就任。その年から翌年まで『真面目な人々のための滑稽雑誌』にルイ=ナポレン批判の「お笑い皇太子の肖像画大コンクール展」、続いて日和見主義者を揶揄する「レアック氏の公的私生活」などを発表。

1850年には借金が原因で投獄される。ちなみに、翌年の1851年にはクーデターによりルイ=ナポレンがナポレオン3世として即位し、第二帝政が開始される。‥‥で、相変わらずお金はない。それでか、『パンテオン・ナダール』という予約版画を思いつく。74cm×105cmという大判石版画で4枚セットで約3万円の値をつけて予約を取った。登場人物はおよそ1200人。‥‥が、問題は1200人もの人間をどうやってモデルになってもらい、描くかだった。それで主だった文士や友人にこう手紙を出した。

「このギャラリーにあなたも加わっていただきたいのですが、私としてはそのために1200人のお宅を訪問しなければなりませんので、一回分を節約できるように、まことに恐縮ですが、できるだけ早く、ノートル=ダム=ロレット街十八番地の私のアトリエにお立ち寄りいただけないでしょうか。ほんの二分から五分くらいポーズをとっていただければ済むと思いますので(石井洋二郎 訳)」

付き合いの広さが功を奏したのだ。それにナダールの弟のアドリアンは写真の技術を習得していて、おそらく訪問して来た人の何人かは写真も撮ったのではないか石井さんは推測している。しかし、完成したのは4枚の内1枚だけで、あまり売れなかった。

ナダール 『パンテオン・ナダール』 1854年 
左下の白い胸像はジョルジュ・サンド、その右下はユゴー 『フィガロ』特別贈呈版

 

写真技術と写真芸術

写真技術は、粉塵爆発を応用した内燃機関を開発したことで知られるニセフォース・ニエプスによって開発されたが、露光時間が8時間以上を要した。その後、「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part1 伊藤俊治『見えることのトポロジー』でご紹介したダゲールとが共同で改良に努めるのだが、ニエプスの死によってダゲールがその技術を単独で発表することになる。銀メッキした銅板を感光させるが、最終的に露光時間を2分くらいにまで短縮した。その後、イギリスのタルボットやアーチャーらによって改良され、一つのネガから複数のポジが得られ、露光時間も1,2秒と短くなった。

デイヴィッド・オクタヴィアス・ヒル(1802-1870)
『籠を持つニューヘブンの漁村の女たち』1843-47

驚くべきことだが、ヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』の中で写真の最盛期は、ヒル、キャメロン、ナダールたちが活躍していた最初の10年だったというのである。写真家ヒルが撮影したこの漁村の女の写真には何か新しい特異なことが起こっているという。彼の技量の証しというだけでは割り切れない何かが。そして、現実がその映像の性格をいわば焼き付けるのに利用した一粒の偶然を凝縮した時空を探し求めずにはいられないという。

ここには、芸術としての写真が我々に考えさせる何かがあるのだ。ナダールは、写真理論なら1時間で、撮影方法の初歩なら1日で学べるという。学べないものは「光の感覚」であり、もっと学べないものは自分の主題を精神的に理解するすべであるという。モデルと心を通わせ、相手の性格に応じた習慣に近づき、その考えの中にまで入り込むようにあなたを仕向ける、そのような最も馴染み深く最も好ましい内面的な類似をもたらすのは、あの瞬間的な直感だというのだ。それが写真の心理学的側面だというのである。

ベンヤミンが写真に、撮影者の意図を超えた何かが表現される可能性を見ていたのに対して、ナダールは被写体としての人物の内面への共感が直感されることを重視していた。この差は興味深い。

ナダールと息子ポール撮影  ヴィクトル・ユゴーの死

親友のボードレールは、写真が芸術の代行をするようになれば、芸術の地位を奪うか、完全に堕落させるだろう。群衆の自然な同盟によって、その愚昧は明らかにされるだろう。そして、諸科学や諸芸術の下婢 (はしため) としての義務を果たすべきだ。印刷術や速記術は文学を創り出しもしなければ、その代行も果たせなかったではないかという。なかなか手厳しいが、ナダールには、ちゃんと何枚か写真を撮ってもらっている。

 

 

パリの上と下

オノレ・ドーミエ(1808-1879) 
気球から撮影するナダール

天空世界へ

1828年か29年頃、10歳になる前のことだ、ナダールはパリのシャンゼリゼ通りを両親と歩いていた。すると上空をものすごいスピードで気球と吊り篭にしがみついた人間が、通り過ぎていった。みんな尾を引くような喚声をあげながら、この落下物を追いかけていった。これがナダールの気球初体験だった。

1855年のパリ万博で弾みをつけたナポレオン3世はオスマンによるパリの大規模な都市改造を進行させていた。そのような中、気球製作者で飛行家のウジェーヌ・ゴダールの弟のルイから気球に乗らないかと誘われた。万博の3年後、ナダールは初の気球写真に野心を燃やして、何度もの失敗の後に撮影に成功するのだった。ついに、空まで飛んだのだ。

1861年、ナダールはキャピュシーヌ大通りに人工照明による撮影も可能な設備を持った四階建ての華麗なアトリエを完成させ、引っ越している。借金は膨大な額だったという。後に気球に関わるさらなる出費のために資金難となったナダールは、別の場所のより小規模なアトリエへと移るのだが、まだ所有権を有していた1874年に、第一回印象派展にこのキャピュシーヌ大通りのアトリエを提供した。美術史の上でも著名な建物となった。

地下世界に潜入

人工照明による撮影は、ナダールに地下世界への興味を湧き立たせた。今度は地下世界へ下降するのだ。パリは周辺地域から採石されて建てられた石の街で、中世には縦横に地下回廊が走っていた。町が周辺に拡大するにつれ、華やかな地上世界とは異質な地下世界を抱えるようになる。そこは、犯罪者の隠れ家、酒税逃れの酒運搬の径路となっていた。18世紀には地下の空洞のために道路の陥没が起きる。一方で、市内の墓地は収容能力の限界を生じはじめたために地下が納骨堂として使われるようになるのである。

ナダール パリのカタコンベ 1861

パリのカタコンベはこうして生まれた。この納骨堂は1810年から11年にかけて整備され、一般に公開されて、怖いもの見たさの大繁盛となった。ナダールは1861年頃、ここに電気照明設備を持ち込んで撮影しているのである。ちなみにカタコンベに電気が通ったのは1983年のことだった。

14世紀にはパリに最初の下水道が作られる。しかし、道路の中央下を走っていた排水溝はすぐに詰まってパリは長く泥と汚水に悩まされた。その後は、遅々として進展しなかったが、ナポレオン1世のもとブリュヌゾーによる調査が行われ、全長25キロの下水道が整備されセーヌ川にそそいだ。その調査の様子は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』に述べられている。

そして、続くオスマンによるパリ改造時に、ウジェーヌ・ベルグランは市内の全域に排水溝を整備するとともに郊外に汚水処理場をつくり、垂れ流していた汚水をそこに引いた。『レ・ミゼラブル』に刺激されていたナダールは、1862年にブリュッセルでの出版記念パーティーで、1851年のルイ=ナポレオンのクーデター以来、国外に逃れていたユゴーと初めて会っている。

ナダール パリの地下道 1864

1864年の秋にベルグランに許可を得たナダールは地下道を撮影しているのだが、ジャン・バルジャンが乗り移ったのではないかと思わせるような言葉で、その時の様子を後にこう語っている。

「円天井は、凍るような雫を間断なくぽたぽた落としながら、ますます低く迫り、両側の壁はいっそう窮屈に狭まっていく。‥‥特に水平に渡された太い柱は、ぬるぬるとして腐食した鉄が錆びの涙を流しているのだ。運搬者たちの長靴は、浸水した歩道の上で、恐ろしい液体につかってびちゃぴちゃ音をたてている。通路は下がる、さらに下がっていく。水位は上がってくる。運搬者たちは膝の上まで水につかり、やがて腰まで沈みながら、なおも走り続ける。周囲ではすべてがあふれ、しぶきをあげ、流れ落ち、したたり、しみ出してくる。完全に悲惨な状態になってしまった。あたりを漂うむっとする瘴気で、ランプの灯は青ざめて力を失い、ほとんど消えかかっている‥‥(石井洋二郎 訳)

 

夢は天空を駆け巡る

1863年ジュール・ヴェルヌが『気球に乗って五週間』を発表した年、元海軍将校で文筆家となっていたギョーム・ジョゼフ・ガブリエル・ド・ラ・ランデルがナダールを訪ね、空中自力飛行についての熱い思いを語った。元ボヘミアンのナダールと元海軍将校では反りが合うはずもないのだが、ナダールは彼の熱意にほだされて協力を請け負った。石井さんはこれを「異床同夢」だと面白がっている。

ナダールは「空気より重い機械装置を用いた空中飛行推進協会」の設立に加わり、自分の写真館で発足記念パーティーを開いた。ポントン・ダメク―ルは小型ヘリコプターのデモンストレーションを行い、ナダールはマニフェストたる「空中自力飛行宣言」を読み上げた。飛行機を実現させるためには資金がいる。そこでナダールは、入場券40万枚を刷って人々を集め巨大な気球を飛ばすことにした。その名も『巨人号』。しかし、1回目は4時間半、わずか40キロの距離で13名を乗せたゴンドラはパリ郊外に不時着した。

ナダール 気球『巨人号』1864

失敗にも懲りないナダールは二度目の飛行を試み、ブリュッセルまで飛ぶも、またもや不時着。ナダールも妻のエルネスチーヌも骨折のケガを負った。これは、気球を制作したゴダール兄弟との訴訟事件にまで発展する。直ぐに意気に感じて片棒を担ぐのだが、痛い目にばかり合っている。そうこうしているうちに、1870年、スペイン王位継承問題で普仏戦争が勃発、ナポレン3世は捕虜となり第二帝政はあえなく終焉する。共和制が敷かれ臨時国防政府が発足するもドイツ軍はパリを攻囲した。そこで、共和制のためならとナダールは気球の軍事利用を提案、敵情視察や郵便物などの物資輸送を買って出た。しかし、翌年、フランスの敗北、その後、国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対してプロレタリアート独裁を掲げるパリ・コミューンが成立するも2か月後には鎮圧された。気球による膨大な出費はナダールにとって大きな打撃となり、コミューンの瓦解は深い失望をもたらしたのである。

 

職業の尊厳/ボードレールとナダール そして夢の所有

君も僕と同じく甘味な苦悩を知っているのか。
そして、こんなふうに言われるのか、「やれやれ ! 変ったやつだ ! 」と。
――僕は死ぬところだった。それは恋するわが魂の中で、
おぞましさの混じった欲望であり、特別な苦痛だった。

46歳の若さで亡くなったボードレールは『悪の華』の中の詩、「好奇心の強い男の夢」をナダールに捧げている。一方、ナダールはボードレールに対してこのような言葉を残していた。

「ボードレールの人生は、ジェラール・ド・ネルヴァルのそれとともに、文学者にとっては職業の尊厳を物語る二つの例として残ることだろう。二つの美しい――ただし何の役にも立たない例として。(フィガロ紙 1867)

確かにナダールは「変ったやつ」だった。興味のある事なら何でも飛び込むし、そのスケールも並ではなかった。だが、その職業に対する倫理観はボードレールやネルヴァルのように見上げたものだった。それは、彼の回想録『ナダール 私は写真家である』を読んでいただければわかる。写真の出来が悪いと例え200フランという大金を積まれても写真を渡さなかった。貧しい駆け出しの何もかも足りなかった時でさえも。

ナダール セルフポートレート 1860年頃

スーザン・ソンタグは、その傑出した『写真論』の中で「写真を撮ることは写真に撮られるものを自分のものにすることだ (近藤耕人 訳)」と述べた。写真は近代国家が人口を監視・統制するための有用な道具にもなったという。だが、筆者の石井さんは、撮影者が被写体を撮影する時、撮影者によって切り取られた被写体の姿は、被写体をそのように切り取った撮影者の眼差しでもあるのではないかという。そして、写真を撮られる側も、自らに差し向けられた撮影者の空間的・時間的選択の身振りを捉え写真の中に投射しているという。そこには撮影する側、される側の双方向の所有がある。

彼は自分の夢を所有し続けようとした。それは、自分自身が自分の夢に所有されることであったかもしれないのである。彼はこう述べている。

―― 私が夢を見ているなら、もっと夢を見させてほしい ―― だが、私を目覚めさせることなどできるものか !

 

 

付 ナダールが撮影した肖像写真 僕の好みで

ナダール  アンリ・ファーブル(左)とジュール・ヴェルヌ(右)の肖像写真

 

引用文献 及び 参考文献

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』「写真小史」掲載

小倉孝誠『写真家ナダール 空から地下まで 十九世紀パリを活写した鬼才』 2016年
良くまとめられてナダールが紹介されている著書。図版も充実している。

大野多加志・橋本克己『ナダール』 1990年
ナダールのコメントを紹介しながら写真集の体裁をとった本。コンパクトに良く出来ている。

スーザン・ソンタグ『写真論』1979年
本格的な写真論の一つに挙げられる著書。

 

「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part2 オリヴァー・サックス『道程』

 

少し前に、ある学芸員さんと話していたら、最近あらぬものが見えて困るんだよ。オリヴァー・サックスの本に出てくるようなやつね、と、おっしゃる。ちょうど、ドイツのグリュッタース文化大臣が、新型コロナウィルス禍の中、自己責任のない困窮や困難に対応するとしてアーティストへの大規模な経済支援を打ち出した頃のことだ。文化は良き時代にのみ享受される贅沢品ではないという発言にシビレた。それはともかく、学芸員さんにそう言われても僕には「見えないはずのものが見える」ことについて違和感も不信感もない人間なので、「ああ、そうなんだ」で終わってしまった。

アニー・ベザントとC.W.リードビーダー
神智学における思考形態の内「自己的愛」

だいたい35歳頃をピークに結構いろんなヴィジョンを見ていた。図にあるのは赤色だけれど、僕が寝っ転がって白い天上を見ていると、明るい緑色のこんな形のものが呼吸するようにゆっくり変化して動くのは、よく目にしたし、朝、布団から起き上がると、いろんな色のモザイク状の色班が見えたりもした。夜中、瞼の内側が明るく閃光で輝くのでビックリして目が覚め、しばらくして、また寝てしまったこともあった。

この図は「思考形態」と神智学で呼ばれるものの一つだけれど、神秘主義的な解釈は僕には結局必要なかったし、考えても解決できる問題でもなかった。こんなヴィジョンを見るからといって、日常生活に全く支障をきたすこともない頻度だったから、不思議ではあったけれど結構楽しんでいられた。今は、全く起こらないといっていい。見ようと思えば、例の明るい緑色の運動は弱いながらも今でも見ることはできる。

 

オリヴァー・サックス
『見てしまう人びと 幻覚の脳科学』

しかし、あらぬものを見ている人たちはかなり多いのだということが脳神経科医のオリヴァー・サックスの著作を読むと分かる。一般には、主に脳の病気事故が原因で見る幻覚と精神的な病で見る幻覚に分けられる。両者が複合して起こることも勿論ある。しかし、病気とは言えない幻覚や幻聴もかなりの割合で起きているものらしい。

幻覚は、現実と同レベルのリアル感があり、いわば勝手に生じて、しつこく付きまとったり突然消えたりする。不気味なものや怖い幻覚はあっても、精神疾患による幻覚のように、話しかけられる、侮辱される、誘惑される、責められるなど、自分が完全に巻き込まれてしまうことはないという。心に浮かべる心象とは異なるし、夢ともまた異質なものだ。心象は自分でコントロールできるものだし、夢は持続的で物語性のあるものが多く、本人の願いを象徴していたり不安に陥れたり、場合によって明恵上人の場合のようにある種の教導や預言であったりする。

ついでに言うと、ロシアの心理学者アレクサンドル・ルリアは『偉大な記憶力の物語』の中で、この幻覚と似たものとして直感像を指摘している。それは、心象よりはるかに明確な、眼前にあるように見える記憶像で、コントロールできる。ロシアでの話かもしれないが大人で一割程度、12歳以下の子供なら五割くらいの人に見られ、芸術家には、しばしばみられるという。僕の知人には楽譜を見ることもできるピアニストがいる。

『見てしまう人びと』に入眠時幻覚と呼ばれるものが紹介されている。こちらは的でスナップショットのように瞬間的なものが多い。子供の頃には比較的起こりやすいと言われる。この幻像は、うっすらした夢のようなものから恐ろしく鮮明なものまであり、内容も極めて多様だ。万華鏡のように変化する模様、草が毛皮に変化したり波打って踊る光の線になったりと目まぐるしく変わる。見知らぬ言葉を話す人の声、名前を呼ぶ声、現実の電話の音のように聞こえ、電話機まで行って確かめて幻覚だとわかるといったものである。知らない甘美な音、クラシックの曲が聞こえたりもする幻聴もあり、異様な顔が見え、それが多重にみえることさえある。

これに対して出眠時幻覚は、まれにしか起こらないと言われているが、普通目を開けていても、明るい部屋でも見え、外の空間に現に存在していると感じられる。楽しさや喜びを感じさせるものもあれば、苦痛や恐怖、目覚めた人間を脅かそうとしている場合もある。綺麗なモザイクのような色なら人を幸せにもしようが、目覚めると目の前にエイリアンが口を開けて待っていれば、隣の人は恐怖の叫び声を聞く羽目になる。

 

前回 part1 では、15世紀の透視図、そして19世紀以来のメディアの急激な変化が人間の視覚にどのような影響を与え、変化させてきたのかをヴァルター・ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』と伊藤俊治さんの『見ることのトポロジ―』から見てきた。今回Part2は、普通は見えないはずのものが見えるという、いわゆる幻覚が、実はかなり頻繁に起こる現象で、脳がつくりだしているものであるということ。そして、その幻覚は脳に記憶される図式の一部のあらわれであり、この図式と芸術的な要素との関係をご紹介できればと思っている。それらを脳神経科医のオリヴァー・サックスの著作からご紹介する。とてもヒューマンで人気の先生だ。


 

オリヴァー・サックスは、1933年ロンドンで医者の両親のもとに生まれた。オックスフォードに進学する時、動物学の方面か医学の方面に進むか悩んでいた。魅かれたのは感覚の生理学だった。どう色を、奥行きを、動きを知るのか、それらをどうやって認知し世界を視覚的に理解するのか?

それで医学を学んで、アメリカのカルフォルニアでのインターンを終え、いくつかの病院で働くのだが、1966年から勤めるベス・アブラハム慈善病院で、何十年にもわたる記憶、知覚、意識の停止状態にあった脳炎後遺症患者の治療にあたって奇跡とも言える変化を起こした。Lドーパという薬を用いて彼らの意識を呼び戻したのだ。病状が一時的にしか改善されなかった人も多かったが、ずっと安定的な状態を保てた患者もいた。それを『めざめ』(邦題は『レナードの朝』) という本にして世間に彼らの実情を知らせた。これが大きな反響を呼んで映画化もされるのである。敬意を込めてサックス先生と呼ばせていただきます。

サックス先生は、幻覚や幻聴に悩む人々にある種の福音を与える人になる。そのようなものに悩まされる人々は、自分が気が狂ったのではないかと疑い、悩みを打ち明けることが出来なかったからである。それで脳の障害による色々なケースを本にし、有数なノンフィクション作家ともなったのである。脳の病気によって正常な機能が破壊され、それを取り戻そうとする人、取り戻せないと知ってもそれを何とか別のアプローチから自己の生活を豊かにしようとする人々の様子が感動的につづられている。色々な本が出版されているけれど、それらを概観するには、彼の自叙伝である『道程』をお読みになると良い。感動的な本です。

オリヴァー・サックス
『道程 オリヴァー・サックス自伝』

サックス先生には母譲りの片頭痛があったようだ。『見てしまう人びと』には、こう書かれている。3、4歳頃、庭で遊んでいると、目もくらむほどの閃光が左側に現れ、地面から空へと大きく孤を描き、そのくっきりした縁がギザギザ光って、色は鮮やかな青とオレンジだったと。

外科医でもあった母は、片頭痛の発作の先触れとして起こる現象なのだと説明してくれた。そのジグザグが中世の要塞に似ているので要塞スペクトル呼ばれていることも教えてくれた。そのようなヴィジョンが見えただけで頭痛の起こらないケースもあるという。

そういえば、僕の父方の祖母は片頭痛持ちで、よくノーシンという薬を飲んでいたのを思い出した。僕は、片頭痛や癲癇といった負担の大きい病気はなかったけれど40過ぎに一度きつい目まいの起きるメニエルになったことはある。眼前を電車が通り過ぎていくように視界が動いた。サックス先生の母親は、片頭痛は、よくあることで全人口の10%は罹っていると息子に説明している。

 


 

片頭痛の多彩な幻視とアート

ジグザグの要塞の例 ジュネーヴ近郊の城塞計画案 1841年
実際には建築されなかった。

片頭痛の典型的な症状は、先ほど述べたギザギザの形が現れるもので、15~20分にわたって広がり、視界の半分をゆっくり動いてゆく。たいていの場合、この光り輝く形の内側には、暗点と呼ばれる見えない領域があって、この暗点も含めた全体の形を閃輝暗点と呼ぶようだ。

片頭痛は、おかしな匂いや体の片側に妙な感覚を生じさせたり、一時的に会話をできなくさせたりする。色や奥行き、動きの知覚を変化させたり、数分視界をぼやかしてしまうこともあるという。不運な人は、激しい頭痛、嘔吐、光と音への過敏など様々な障害が起こるらしい。サックス先生自身は、この目もくらむほどのギザギザ閃光の他に、小枝のように分岐する線、格子、市松、クモの巣、蜂の巣といった幾何学構造が見えたようだ。これらの形は常に動いていて、形が出来ては再構成もされ、組み合わさって絨毯やモザイク画のようになったり、松ぼっくりウニのような立体にみえたりもする。視野のどらか片方に留まることもあり、あふれ出して全体に広がることもあるという。

ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)
左『黒い線』1923  タイトル・制作年未詳

これらの絵画は抽象絵画の祖、カンディンスキーの作品である。サックス先生は、ほぼ、あらゆる文化に何万年も前から見られる模様は、このような片頭痛などで起こる内的経験の表れではないかと考えている。

アートに現れる模様が、雷の形のように自然に存在する事物の単純化、抽象化されたものであることも否定できないので、全てここからアートの形を考えるのには無理があるのだが、模様に関わる視覚認識のパターンが存在している脳の箇所を片頭痛が刺激して、幻視を生じさせているのかもしれないのである。この幻覚による像は、記憶の織物の中のパターンが不意にあらわれるのだ。

 

感覚のポリフォニー 共感覚

天才少年だったマイケルは先生が曲をいくつかに分けると、ピアノを弾きながら別の順に編曲し直すことが出来た。彼は先生に言った。

「僕はその青い曲が好きです。」先生は聞き間違えたかと思い問い直した。「青い?」「そう、二長調の曲‥‥二長調は青ですよ。」(『音楽嗜好症』大田直子訳

心理学者のパトリック・エレンには、音楽だけでなく車のクラクション、人の声、動物の鳴き声、雷などの音、それに文字、数字、曜日にも色の共感覚があった。小学1年生の時、空中をみつめていたら、先生に何を見てるのと聞かれた。「金曜日まで色を数えています」と言ったらクラス全員が爆笑した。それ以来このことについては人に話さないようになった。

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』
音楽に関する極めて興味深い逸話が掲載されている。お薦めの著作である。

カンディンスキーやメシアンが色を見ると同時に音を聞いていたというのはよく知られている。色を聞いていたのだ。共感覚と呼ばれる現象である。共感覚の発生率は2000人に一人くらいと言われているけれど、もっと多いのではないかとサックス先生は考えている。それは病気ではないから、ことさらそれを訴える人は少ないからだ。共感覚は生理現象であり、それが起こるためには大脳皮質のいくつかの部分が同時に活性化される必要がある。

共感覚で見える色は、うすいベールのような光で外界の視界をさえぎったりしない。錬金術などで云うティンクトゥーラ (浮き上がった色) のようなものらしい。この色は人によって異なり、実際に外界を見る時のような色の整合性はないようだ。先ほどのマイケルにとって二長調は「青」だが、他の共感覚を持つ作曲家では違っていた。

共感覚という言葉が生まれる少し前、アルチュール・ランボーは、A (ァ-) は黒、E (ゥ-) 白、I (ィ-) は赤、U (ュ-) は緑、O (ォ-) は青と『母音』という詩で共感覚を高らかに詠ったし、トラークルの詩には「愛欲の赤い苦み」といった共感覚ならではの表現がある。だが、トラークルやランボーのこれら詩句は思いつき程度にしか考えられていなかった。科学的に調べられるようになったのは1980年代になってからだ。

共感覚は音と色に限らない。音楽を聴くと小さな棒や円のような形の光が見える人もあり、音楽と味が共感覚を起す人もいて、どの音程かを味によって捕捉できる。生まれたての赤ちゃんは脳がまだ未分化なために共感覚があると言われていて、三ヶ月くらいすると種々の感覚が分離されはじめる。それによって外界とその内容を完全に認識するのに必要な条件が整う。青りんごのみかけ、感触、味、かじった時の音が全て調和して初めて青りんごをかじったと認識できる。一連の図式が整うのだ。これをクロスリファレンスという。たいていは、ここで共感覚を失うけれど、その感覚が残っている人もある。

大人になって、それも人生の後半に共感覚が出現することもあり、その原因は、失明であった。これは脳の中に新たな接続が出来るのではなく、普通なら抑制されている視覚システムの過剰が解放されるためだと考えられている。脳には知覚の入力だけでなく、その変化も必要なのだ。だから、眼が見えないのに幻覚が起こる。シャルル・ボネ症候群と呼ばれた。それは聴覚障害による幻聴と似た状況で起こる。

 

見えることと脳の組織化

ジェラルド・エデルマン(1929-2014)
ノーベル生理学賞・医学賞を受賞したアメリカの神経科学研究者。

サックス先生が、人がどう、色、奥行き、動きを知るのか、それらをどうやって認知し世界を視覚的に理解するのかに興味があって医学の道に進んだことは既に述べた。人の視覚認識が病気やケガで損なわれ、幻視が起きるのは何故か。それは知覚が目や耳からの感覚データの単なる再現ではないからだ。

ジェラルド・エデルマンは、個々の生命体、特に高等生物では成長過程で経験した事柄が神経系に働きかけてその特定の接続や配置を強める一方、ある場合には、それらを弱めたり消したりすると考えている。ぴょんぴょん飛ぶものを見て育った子供は相対的に動体視力が良くなるだろうし、平面ばかり見て育った子供は奥行きの感覚が鈍るだろうというのは容易に想像できる。

神経細胞群選択説と呼ばれる仮説だが、神経ダーウィニズムという名で知られる。エデルマンによれば、「機構」と呼ばれる脳の真の機能は、無数のニューロン群が大きな単位、つまり、「マップ (地図)」に組織されてできるという。この地図は、とてつもなく複雑だけれど常に意味のあるパターンで対話していて、数分か数秒で変化する。イスを見た時、そのマップがその都度生成されると同時に過去のイスのマップと同期されるのである。この知覚のダイナミズムは絶えず更新され、無数の細部がたえまなく統合される必要があるという。脳の主な仕事はカテゴリー化であり、カテゴリー化そのものをカテゴリー化することによって壮大な階層構造が作られるというのだ (『道程』)。

彼は意識や記憶が継続的な「再分類」によって維持されると考えている。「マップ」には「アップデート」が必要なのだ。それは、特に体の動き、それも滑らかで規則的な体の動きに依存しているという。この作業は大脳基底核の働きが不可欠で、エデルマンはそれを「継続する器官」と呼んだ (『レナードの朝』)。

太極拳やヨガやダンスは、脳にもよいのかもしれない。確かに、僕の年齢では中学生の時に度々感じたような空間の中を滑っていくように動くという感覚は最近ない。近所にも高齢化の波が押し寄せて、馴染みの人が、なんかギクシャク歩いている姿を見るようになった。それが、肉体的な問題だけなんだろうかとフト思うこともある。僕の知り合いにも80代のアーティストはいたけれど、みんなかなり滑らかに動いていた。気のせいだろうか。

 

ノーベル生理学賞を受賞したイギリスのチャールズ・スコット・シェリントン は脳を「魅惑的な織機」と詩的に描写した。脳のダイナミズムは、こんな風にも表現されるのだ。「無数の杼 (ひ) がすばやく動いて、崩れていく模様を織り上げている。つねに意味のある模様だが、けっして持続しないのだ。いくつもの小さい模様が移動しつつ調和している(『道程』大田直子 訳)。」

人は目だけで見るのではなく脳でも見る。後頭葉にある一次視野には、網膜から皮質への二地点間マッピングがあって、視野に現れる光、形、それらの方向、位置が表される。そこに在る視覚系ニューロンの大集団がデータをどのように形成するかについて有力視されているのが自己組織化理論だ(『見てしまう人びと』)ニューロンがそのような大域的な変化を素早く起こすことによって何が目に見えているのかを僕たちは知ることが出来るといわれる。

自己組織化は物理的なある条件が揃うと、まるで指揮者でもいるかのように物質が一糸乱れず、あるシステムを形成する働きを指している。結晶のように静かにゆっくりと形成される場合もあれば、台風のようなダイナミズムを持つ場合もある。雪の結晶の生成、荒れ狂う波のうねりと渦巻、ベロウソフ・ジャポチンスキー反応のような周期的に振動する化学反応にも見られる。とりわけ、生物の生命活動には欠かせない働きだ。

脳の中で起こっている動的な「時・空間のパターン」のようなもの、つまり、エデルマンのマップ、シェリントンの言う小さな模様が記憶に関わる重要な要素となるのである。

 

物語りのある神経心理学

脳の左半球のある部分に損傷があると失語症が起きる。『失語症』を著したフロイトはもっと複雑な生理的原因で「失認症」が起こると考えていた。脳の右半球は左半球より原始的と考えられている。左側には高次な中枢機能が集中しているからである。右半球には事実を認識するための重要な機能があるが、それは当然動物にもある。べーシックな機能を司る右側に高度な機能を司る左側が繋がっている。

右半球で障害が起きる場合、自分の問題がなんであるのか本人が知ることは、ほとんど不可能だという。それまで研究されてきたのは左半球に関するものがほとんどだったのである。右脳には知られざる部分があるらしい。脳考古学、人類学のジュリアン・ジェインズは右脳を神々が判断するのに相応しい場所とさえ呼んだ

アレクサンドル・ルリア(1902-1977)
神経心理学の草分けとなったロシアの心理学者。

『妻を帽子と間違えた男』に登場する音楽教師のP氏は、視覚的記憶に問題があり、サハラ砂漠の写真を見て、川があり、テラスのあるゲストハウスがあって、色とりどりの日傘が見えますと答えた。診察を終えたと思った彼は、帽子をとろうと妻の頭を持ち上げて被ろうとしたのである。

彼は、いくつかの主要な特質と大体の基本関係を取り込めたらそれをもとにコンピューターのように世界を構築していた。それによって作られた世界像は、外界など全く理解されていなくてもそれなりにつじつまがあってしまうのだという。脳の右半球が何らかの病気になると「病識欠損症」と呼ばれる状態になることがある。

サックス先生に大きな影響を与えたアレクサンドル・ルリアは右半球の脳のためには「個人主体」の新しい神経学が必要だと考えていた。そこでは、機械論的な神経学によってではなく「自己」や「人格」の根底にある基礎から検証し明るみにだそうとする姿勢が必要だという。この種の科学では病状の記述をする場合、物語の形を借りるのが最適だとした。それでサックス先生の著作が生まれたのだ。

 

巨大なパノラマのような記憶を見る双子

『妻を帽子と間違えた男』には異常な記憶力を持った双子の兄弟が紹介されている。タイトルもそのまま「双子の兄弟」だ。1966年にサックス先生がその兄弟に会った時、彼らは26歳だった。二人とも、自閉症、精神病、重度の精神遅滞などの診断を下されて7歳から施設に入っていた。

彼らには、たった一つだけ特異な能力があった。異常な記憶力があったのだ。意識はしていないが頭の中に過去や未来のどの日でも、その曜日を答えることが出来た。無意識アルゴリズムという言い方をされることもある。素数定理を予想した数学者・物理学者のカール・フリードリッヒ・ガウスでさえイースターの日を算定するアルゴリズムを作るのは、容易ではなかったと言われる。彼らは、足し算引き算が正確にできなかったし、割り算は何のことか分からなかった。

過去の日付なら、その日の天気や政治的事件、二人に起こったことが何の感情もなく告げられた。幼年時のつらい思い出も、人から受けた侮蔑やあざけりもあったはずなのにである。個人的な要素や感情が抜け落ちていた。この種の記憶にはパーソナルな性格がないかのようだった。

オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』
この本も素晴らしい。

どうして、6桁以上の素数を言い合ったり、三百桁の数字だの、過去40年間にあった何千億という事件を頭の中に入れておけるのかと聞くと、彼らは、さらりと「見るだけなんです」と答えた。この不思議を解くカギは「見る」ことにあるのだとサックス先生は気づいた。この双子の目の前には、途方もない巨大なパノラマが開けている。それは一種の風景 (ランドスケープ) で、過去の経験が映し出される。質問されれば、眼がくるっと動いたと思うと、ぴたっと動きが止まって、何かを凝視する。

二人のテーブルにあったマッチ箱が落ちて、中身が出てしまった。「百十一」と二人が同時に叫んだ。落ちたマッチの数を時間をかけて数えるとぴったり百十一本あったのである。サックス先生は「どうしてそんなに早く数えられるの?」と聞いた。彼らは「数えるんじゃないですよ。百十一が見えたんです」と答えた。一瞬のうちに全体の数も見えるのである。これは幻覚というのだろうか。

彼らは、頭の中に巨大な壁掛けのような記憶の織物を持っている。それは、ボルヘスの『伝奇集』にある『記憶の人フネス』やルリアの『偉大な記憶力の物語』に出てくるシィーを思い出させるという。「世界が始まって以来、あらゆる人間が持ったものをはるかに超える記憶を、わたし一人で持っています (鼓 直 訳)」とフネスは語る。普通の人の織物はシェリントンの言うように織る端から崩れてゆくのに彼らの織物は、あるカテゴリーに関するかぎり完全無欠らしい。観念や概念の介入なしにその織物の中の模様を見ることが出来るのだろう。

おそらく、記憶には、アップデートの必要がある断片的なものと、このような完全な状態を保っているが、通常は抑制がかかっていて全体が見えないものとがあるのではないだろうか。きっと、全てのカテゴリーが一挙に見える状態になったら正常ではいられなくなる。完全な記憶を保っている織物というとホログラフィック仮説を思い浮かべる人もいるかもしれないが、直ちに結び付けるのは控えたい。

ライプニッツは、音楽から受ける喜びは無意識に数を数える喜びから来るとピュタゴラス的発言をしているらしい。彼ら双子たちは、数に対して「図像的アプローチ」ができるのである。ニーチェは宇宙にあるシンフォニーの反響を自己の内部に聴き、それを観念の形にして外の世界に投射すると述べた。この双子の兄弟にとっては、宇宙のシンフォニーは数の形をとって見えたのではないかとサックス先生は言うのである。

 

「調和的(ハーモニカル)」であるということ

サックス先生らしいと思うのだけれど、こう述べている。「人間の魂は、その人のIQに関わりなく『調和的 (ハーモニカル)である」「なにか究極的な調和あるいは秩序を見出したい、それを感じたいという欲求は、その人の能力がどうあれ、どんなかたちをとるにせよ、誰の心にも普遍的に存在している」と(『妻を帽子と間違えた男』高見幸郎、金沢泰子 訳)

脳は生き物だ。胃には胃の言い分があるように脳には脳の言い分がある。脳は病気や欠損に応じて広範囲の再編成や再マッピングが出来る可能性を持っているが、限界もある。片頭痛や癲癇のような異常事態には、ある種の前兆として幻覚を生じさせ、時に機能分化し忘れて共感覚という、ある人たちにとっては特別な恩恵を与えてくれたりもするし、知的な障害を持つ子供たちに数という宇宙を残してくれたりもするのである。しかし、時に盲目の人たちに幻覚を見せて困らせたりもするし、抑制が外れてエネルギー過剰になれば、チック、衒奇的症状、唸り声、悪態といった困った状況をもたらすこともある。

フロイトは、精神分析の目的は、虚偽や空想的な追想を本当の過去の記憶、回想と置き換えることだと述べたという。人間のアイデンティティを形成するのは、その人の人生の記憶だ。サックス先生は、経験は図像的に纏められるようでなくては経験とは言えない、行為も図像的に纏められなければ行為とは言えないという。歩く場面を思い浮かべて体をバラバラに動かすだけでは歩けない。それらを統合する体のリズムが思い出せなければ歩けないのだ。

そして、「脳にとどめられたすべての物についての記録」は図像的なものにちがいないという。図像的なものとは、内なる「旋律」や「場面」のようなものを指している。そのような図柄 (パターン) には「経験」を成り立たせる内面的な特質があり、それを取り戻すことが治療の大いなる手段の一つになり得るという。

手足が自由に動かせないパーキンソン病の患者もダンスの中では、体を安定させられる。重度の知的障害を持つ人が演劇の中では普通の人と同じように語り、演技できたりもする。失認症の人も音楽を口ずさめば、それを導きの糸に着替えや食事を何とか出来る人もいる。トゥレット症候群の痙攣性チックも音楽の中では止まる例は事欠かない。音楽療法などは極めて高い効果を持っている。関節や筋肉を動かす時、連続する感覚的な流れのようなものがある。意識や記憶には滑らかで規則的な体の動きが重要だ。ベーシックな部分で、間の経験は、視覚的、劇的、音楽的、舞踏的な経験によって統合されている。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、一さじの紅茶に含まれたマドレーヌの味が記憶を呼び起こす。記憶と心にはプルースト的なものがあるのだとサックス先生は言う。脳が算定的、プログラム的な要素を多分に持っているとしても、脳における表現の最終的な形態は「芸術(アート)」にあるとサックス先生は言うのである。見ること聞くこと感じたことは、芸術が持つ香りのように織り上げられた心の模様として記憶に残る。記憶を織り上げる図式に関わり、それらを根底で調和させるものは芸術的な要素なのだ。アートは文化だ。文化は良き時代にのみ享受される贅沢品ではないという意味が、これほど闡明にされた例を僕は、他に知らない。

今回は、「見えないはずのものが見る」という幻覚を端緒に、織り上げられる記憶には脳の図像的特質があり、治療には、その図像を回復することが助けになることを見て来た。僕たちの生活を芸術的特質が支えてくれていることを僕たちは気づかない。サックス先生の著書からは、脳の器質的異常から多様な病気が生み出されることが分かる。時には、それにめげて絶望の淵の内に亡くなっていく人たちもいるだろう。しかし、彼がいつも強調するのは、何とか自分に起こった事態に調和しようとし、自らの生活を少しでも豊かにしようとする患者たちの姿なのである。

 

参考図書 及び 引用文献

アレクサンドル・ルリア『偉大な記憶力の物語』
サックス先生に大きな影響を与えた著書。驚異的な共感覚と直感像によって特殊な記憶力を持った人の例が書かれている。フランシス・イエイツの『記憶術』と読み比べると面白い。

オリヴァー・サックス『レナードの朝』

オリヴァー・サックス『火星の人類学者』

 

ニュース

2020年 5月『 松澤 宥・植田信隆 展』のご案内

2020 5/19-5/31『松澤 宥・植田 信隆 展』のご案内

 

2020年 5/19(火)- 5/31(日)展覧会期間が延長されました。
ギャラリーG/ Hiroshima
http://gallery-g.jp/  火曜ー土曜 11:00~20:00  月曜 休廊  最終日 11:00~16:30

5月24日 (日) 出原均、アラン・ロンギ―ノさんのシンポジウムについて
アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。19:00までは展覧会をご覧いただけます。

 

概念芸術の巨匠・松澤宥(まつざわ  ゆたか/1922-209)と植田信隆による展覧会です。2004年に制作した『消滅するヒロシマに捧げる九つの詩』のリメイク作品、そして以下に掲載しています松澤宥のオリジナル作品を展示します。この展覧会に際しては、ご家族と長沼宏昌氏の全面的な協力を得ました。ここに深く感謝いたします。

松澤 宥  出品作品

●草稿/『死のテーマ ヴェネチア・ビエンナーレに』『タントラを巡ってさまよう』 『A Black Hole』『ゾンスベーク国際展へのコメント』 他

●九字九行作品/『超人類の果て』『ドリコソマ』『エニグマ22』 他

●パフォーマンス草稿/『諏訪湖に白紙絵画を見せる』『私の死』 他

●チラシ作品/『ああニルああ荒野におけるプサイの秘具体入水式』『プサイの死体遺体』『プサイ函』 『人類よ消滅しよう』『ドンデン返し計画』他

●パフォーマンス写真(長沼宏昌 撮影)

 

『関連シンポジウム』が以下のように予定されています。

5月19日 (火) 19:00~20:00

無観客でのビデオ収録となりました。後日配信の予定です。

柿木 伸之(かきぎ  のぶゆき/広島市立大学国際学部教授 哲学、美学)、植田 信隆(作家)

ベンヤミン研究者として知られる広島市立大学の柿木伸之先生をお招きします。前半は私が松澤さんの芸術についておおまかに解説し、後半は、柿木先生に松澤芸術を起点として戦争と芸術をテーマにお話ししていただきます。

5月24日 (日) 15:00~16:00

出原均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)
アラン・ロンギーノ(インディペンデント・キュレーター)

アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。

2004年に広島市現代美術館で『松澤宥キュレーション展』を企画された当時の学芸員であられた出原 均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)さんに松澤芸術について解説していただきます。

どうぞ、皆さまマスクをお持ちになってご来場ください。

 

2020年3月27日

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日
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