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テオドール・アドルノ『美の理論』+『補遺』 芸術とは奥歯を噛みしめること

 

アドルノは、こう書いている。「芸術に相応しい態度があるとするなら、それは眼を閉じ奥歯をじっとかみしめて、こらえるといった態度なのかもしれない (『補遺』大久保健治 訳)。」

テオドール・アドルノ『美の理論・補遺』

しかし、何時まで噛みしめていればいいんだ。もう歯が痛い。齢をとれば歯も危ういではないか。骨粗鬆症にもなりやすい。そもそも、芸術は終焉に達しているという議論さえある。長らく噛みしめてきたが、もう終わっているらしい。これは、歴史を通して、繰り返し色々と言われてきた問題なのだけれど、モダニズム以降特に目につくようになったと彼は言う。とりわけモダニズムに対する共産主義による破門宣言は、この問題の展開のエポックになった。

社会的進歩の名のもとに美的な運動は中止を余儀なくされたと言うのである。こうした事柄を思いついた共産党幹部の意識は古くて小市民的なものにすぎなかった (『補遺』)とアドルノは言うが、思想の上で、ヘーゲルが頭ごなしに感性的なものに対する有罪宣言をしたことに発端は、あるのかもしれないともいう。

この判決が、全体主義体制のモダニズム批判への追い風なった可能性はある。ナチズムやスターリニズムを過去の事として安心してはいられないが、問題は、芸術内部にあった。この終焉の議論は、弁証法的に新しいモード (形態) が先行するモード (形態) に対して突如、論争を挑むという形で出現し続けてきた。これはいつの時代にもあったけれど、確かにモダニズム以降クローズアップされて来たものだ。

優れた芸術は、わめきたてる文化哲学にとって単なる点に過ぎないかもしれない。しかし、その点は無限の豊かさを含む。この豊かさに対して、偽りの芸術廃止は野蛮を運んでくるという。芸術は外部から出現することは不可能であり、内在的な継続が必要とされる。それは、そもそも自身を否定して新たなものを展開しつつ持続していかなければならないという二律背反を背負ってきた。自らの没落を、我がものとする運命なのだ。だが、芸術にとって必要なの持続すること」であるとアドルノは言うのである。芸術とは大五郎なのだ。じっと我慢の子であれと言う。

テオドール・アドルノ『自律への教育』

今回は、長らくの宿題だったアドルノの遺作『美の理論』及び『補遺を取り上げたい。以前にアドルノの著作『自律への教育』を訳者の一人である柿木伸之 (かきぎ のぶゆき) さんに御恵送いただいていて、まじめにアドルノの著作を読まなくちゃと思っていたのだけれど、ようやく今回、それにこぎつけた。この『自律への教育』は、アドルノの著作としては読みやすいものだ。「アウシュヴッツをくりかえさない」をテーマに、当時主体だったラジオや新たに登場したテレビといったメディアと教育との問題を扱っている。その半分は、後にマックスプランク研究所の所長となるヘルムート・ベッカーとの対談を収録したものだった。

第二次大戦後、15年を経てもフライブルクなどでのユダヤ人墓地にナチス時代のスローガンが落書きされるといった問題が起こった。その一方で、ホロコーストを過ぎ去った出来事として清算しようといった風潮があった。この著作は、それらに対して「過去の総括の意味」を問うものだった。この問題はドイツの画家キーファーが歴史問題を扱う理由の一つになったことは関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇で少し触れておいた。過去の凄惨な「記憶」を犠牲者たちへの供犠とし、そのための方法として自己の偏見のメカニズムを意識化すること、そのための民主的な教育を重視した。幸福や平和を成就させることのない野蛮を永続化している文化を問う。このことを啓蒙し、自立に到るための権威の内在化とそれからの離脱というプロセスの必要性を訴えるのである。このことは、アドルノの考え方の一つの原型になっているように思われる。

アドルノは、1903年ドイツのフランクフルト・アン・マインに生まれた。ゲーテの生まれた街だ。ユダヤ系の父親はワイン商を営み母はイタリア系の声楽家だった。フランクフルト大学で哲学、心理学を学び、フッサールに関する論文で学位を取得する。この頃、8歳年上のマックス・ホルクハイマーの知友を得る。後のフランクフルト学派の代表になる人物だ。

ここで、何故かウィーンに出てアルバン・ベルクに師事する。音楽に対する憧れは母からの影響だろうが、新ウィーン楽派という新たな音楽の胎動に胸弾ませたのかもしれない。しかし、二年程で作曲家の道をあきらめ、故郷に戻った。学問の研究を再開すると同時にウィーンの前衛音楽雑誌『アンブルッフ』に投稿し始め、音楽批評家として以後も活躍するようになる。音楽に対する愛情は生涯続いた。これはいい。1931年にキルケゴールを主題に教授資格論文を提出し、その資格を得た。フランクフルト大学の私講師をしていたが、ナチスが政権を握ると、教授資格を剥奪される。オックスフォード大学で学位の再取得を目指し、イギリスとドイツを往還したが、ホルクハイマーからの誘いでニューヨークの社会研究所へ移り、1938年にアメリカに亡命することになった。その後、ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』や自身の『否定弁証法』を発表するなど、活躍はご存知の通りと思う。

今回は、具体的な例が多い『補遺』の方を適宜織り混ぜながら『美の理論』の内容をご紹介したいと思っている。部分部分のテキスト群を並列させながら、全体の中である焦点に結び合わせようとする書き方は、読んでいてスッとは頭に入らない。全体を見据えながら部分にこだわるかららしい 。ジャコメッティみたいだ。しかし、少し慣れると宝探しのような面白さがある。いささか、慰めにはなったろうか。手元に置いて折に触れ、読んでおきたい著作だ。

 

芸術への哀悼歌


 

テオドール・アドルノ『美の理論』

「芸術に関して自明なことは何一つないことが自明になった」とアドルノは『美の理論』の冒頭に述べる。それは、骨の髄まで曖昧なものとなった。しかし、ここまでハッキリと言われると何かスガスガしい。

芸術における自由は、それを消えてはまた生ずるような多年生植物のような状態にした。礼拝に奉仕するという機能を振り落として自律性を獲得はしたが、その自律性も人間性を支えに生きながらえてはきた。しかし、社会が非人間化されることによって、それも危うくなったと言うのである。自由と自己の尊厳の名のもとに主観の専制が始まる時、自然美は徐々にその存在する余地を失っていった。芸術は、それにとって不可欠となった世俗化によって憂さ晴らしのためのアトラクションとなり、慰めの言葉を贈り届けると言う罰を与えられている。なんとも情けない話になっている。

芸術作品は経験世界から離脱し、それとは対立する独自な本質を持つ世界を創造し、あたかもこの世界もまた存在するかのように示すものなったのである。古い地層に手をつけて質的に変化させ、異質なものとなる。そうなることができるのは、さまざまな時代を通じて形式の力を武器に既存のものに背を向けたためであった。形式化することによってある種の安定を得てきたが、同時に形式は、既存のものの否定にも一役買って来たのである。彼の考え方はあくまで弁証法的だ。

アルチュール・ランボー 1883年頃 エチオピアのハラールにあったバルデ商事 (皮革やコーヒー豆を扱った) に勤めていた頃。

アドルノにとって芸術作品はモナドだった。となると、彼の唯物論的アプローチは手段に過ぎないのかもしれない。モナドは精神的な最小原理である。窓を持たないが全てを映し出す鏡でもある。たとえ、外的な歴史性を模倣することがなくとも、それ自体が外的歴史性を映し出しているのである。この観点は僕の眼を開かせてくれた。芸術は徹頭徹尾歴史的であると言うが、それを歴史的変化の中で演繹的に導き出すことは不可能であるとも言う。かつて、芸術は歴史的な変革を夢見て反逆の狼煙をあげたが、今日では自身への反逆へと取って代わられている。ヘーゲルの「芸術は没落の時代に入った」という文化批判も低落の歯止めにはならなかった。

芸術のためのレクイエム、その序奏は、ランボーが沈黙の後、詩作を捨ててエチオピアでサラリーマン生活に入った100年以上も前に、既に奏でられていたのかもしれない。今日の美学は芸術への哀悼の辞となるかもしれないが、それに決着を付けようにも、今日の美学はそのための力を持たないと言う。許されているのは、その終末を確認することだ。文化が文化と呼ばれるに値しない野蛮なものの側に寝返ることなのだというのである。さあ、哀悼の鐘を鳴らすのはアドルノだけなのだろうか。

 

モダニズムは精神的テロ行為である。


 

新しさの概念は、禍に満ちた社会的傾向と市場における新しさの概念をない交ぜにしたものだとアドルノは言う。禍に満ちたとは如何なることか、まず見ていこう。新しいものは儚い、それは死にゆくものであり、死にゆくままに任せればよい。これが市民的存在論の根底にある新しさに対する憎悪だと言う。我が縄張りへの新たな侵入者に対する警戒感に等しい。1970年に、この著作が出版されていることを思うとなにか微妙だ。この頃は、科学的進歩が謳歌されはじめ、新しいものへの期待はあったと思う。そのような新しさは、社会的に有用なものとして活用のメカニズムに資してきた。市場における新しさの概念とはこれだ。

芸術に関して社会が保守的であることは、かつても現在も、ピカソの絵が理解できない作品の代表であることをみれば容易に分る。新しさというセンセーションは、そのような故意に作られた市民的恐怖/反感と同時に市民的な活用のメカニズムに順応して来た。現在では、テクノロジーの進化によってメディアアートやテクノロジーアートとか言ったものが進展してきている。それは、新たな手段を持つアートとして期待され、社会に受け入れてもらい易いかもしれないが、安直な合理性や目新しさだけに走るとただ消費されるだけの存在と化してしまうことは否定できない。アドルノは、第二次大戦後、美的な技術至上主義が技術的革新の代わりに芸術そのものの科学化を追求し、そこでは芸術は無力なものになった(美の理論)と言う。

宮川淳 著作集Ⅱ「絵画・あるいは無名の思想」収載
1980年刊

「新しさには、同時に自由への誘惑が輝いている。」この誘惑は魅惑的だ。新しさは、これまであったものを否定するものだが、やがて、これまであったものとなる運命にある。常に差異だけが反復される。モダニズムの質とは、そのようなものなのである。それは時代遅れなものとして捨て去るわけにはいかない。何故なら、支配的な装置に押し込められ、規格化される我々の生活に対する抵抗となっているからだ。しかし、抵抗が増せば増すほど混沌は深まる。

かつて、芸術は神を捨て、今度は芸術そのものを侵犯し続けてきた。この近代芸術の方向性はモダニズムによって先鋭化される。美術評論家の宮川淳 (みやかわ あつし) 氏は、芸術が存在し得たのは、神によってであれ、美によってであれ、常に隠され、偽られることによってであると述べている。

美を犯してでも現実に忠実であろうとした芸術はついに、もはや現実的であることに満足せず、さらにそれ自体が聖なる現実になろうとした。しかし、美術が自己を否定し続けてその先に見たものは「ただの不在であった」と述べている (『絵画・あるいは無名の思想』)。この人は、至極まっとうな美術批評家だと思うけれど、ちゃんと読まれているんだろうか ? 昨年 (2021年) 、オンライントークでお話した、アメリカで活躍されている美術史家の富井玲子さんは、さすがに宮川さんのことに言及しておられた。

モダニズムは精神的テロ行為である。  世界のテロ行為は、それによる悲鳴を圧倒するばかりだが、芸術はテロを拒否する。  しかし、芸術のテロ行為は「公的な文化の低能ぶりにたいする恥じらいとして、その治癒に有効である」という。これは‥‥キビシイね‥‥文化的な貴族意識が窺えるところだけれど、理解できないことを恥じる、あるいは自らの趣味への習慣を犠牲にするといったことを恐れない人には、作品という外部から心の内部へと向かう道が開ける可能性があると言う‥‥ドウカンダ !

工業化が物質生産にもたらした行動様式と新しさという美的範疇を分けて考えることは難しい。特に新たなテクノロジーが目白押しの現在ではそうだ。ベンヤミンが展示を媒介に両者を結び付けられると仮定していたらしいが、この問題は解決されていないとアドルノは述べている。

ボードレールはこう述べたと言う。「こんな貧寒な日々に、一つの新しい産業 (写真産業のこと) が出現して、芸術とは自然の忠実な再現以外のものではないし、またあり得ない、と言う浅薄な愚物どもの信仰を強めることに少なからず寄与した(「1857年の絵画展」に寄せた言葉)大久保健治 訳」 複製技術がアウラを喪失させるというが、全てそういう分けでもなかった。複製の仕方でキッチュなものになる場合もあるが、優れた写真にはアウラが顕現した。例えば、ウージェーヌ・アジェやカール・ブロスフェルトの写真は美しかったし、後のタルコフスキーや黒澤の映像は素晴らしかった。

問題なのは大衆文化の製品には利益が埋め込まれていて、見慣れたものの論理を越えようとする態度が無視されるということなのである。これが、いわゆる〈文化産業〉の弊害だった。これに対して、先鋭化したモダニズムは商品を経験することによって研ぎ澄まされてきた。それは、商品というものを知らない至福の野で咲き誇る薔薇ではないというのである。

モダニズムの歴史が成熟を目指す努力の歴史であるなら、幼稚な芸術に対する嫌悪感が組織化されたものの歴史だとも言える。インテリアという実用に耐え、狭小な合理性に囚われる時、芸術は幼稚なものとなる。同様に、芸術は、その目的を忘れ、手段を呪物化して目的に変えるたぐいの合理性にも反抗して来た。フェティシュにはモダニズムと相いれない部分があるのだ。モダニズムは、このような合理性を越えて非合理的であることを公言してはばからないと言う。しかし、成熟のうちから出現する未熟さもある。それが遊戯の原型であるともアドルノは言うのだが‥‥

芸術作品が自由から生まれることは芸術の誇りであり、自由なくしてその存在は危うくなると言えるが、それは芸術の奸智だとアドルノは言う。そのつど初めて作られるものは、作り出された瞬間に崩壊するような均衡を保っている。それがモダニズムによって闡明化されたテロ行為なのだ。彼は、「芸術作品において自己自身を、つまり部分としての自己を乗りこえて行くものは自己自身の没落を求めるものであって、作品の全体性とは没落の総体にほかならない (『美の理論』)」と述べる。ボードレールによっていち早く禍の鐘が鳴らされた時代、そのような時代から進展してきたモダニズムは死の兄弟だったと言うのである。

 

形式は構成する 直観は飛躍させる 無は創発する


 

パウル・クレー『造形思考』

論理や形式が芸術にとって有害な場合がないでもない。モダニズムは、そのような可能性を突然照らし出したと言う。芸術作品は自らのイデーを充たすために自身のイデーが意図するところを壊さなければならない。これは形式とそこからの逸脱という昔ながらの問題に行きつく。

クレーはこう述べている。「わたしたちはひたすら構成し続けるが、それにしても直観は依然として大切なことである。直観によらなくてもかなりのことはできるが、すべてのことはできない。‥‥原理から言えば、それは直観なしで進められる。それはあくまで論理的でありうるし、構成されもする‥‥ (『造形思考』土方定一 他訳)。」論理の切断やそれへの介入が芸術には必要なのである。

一方、ポール・ヴァレリーは『詩学「カイエ」より』でこう述べている。形式は内容と同じくらい多くの思考をもたらし、母なる観念についての考察と同じくらい、豊かに観念を生み出す。そして、形式には、《自分の思考を表現する》という素朴な問題とは逆向きの問題がある。それによって存在価値を発揮すると言う。というのも、詩においては、これらの規則が我々の技術 (アール) の高貴さを作っていると同時に、いかなる確実さも、いかなる楽な道もなきものにしているからだと言うのである。一方で、詩の規則は、霊感への障害物である。それでも、この束縛/妨害が重要だと述べる。〈霊感〉という素朴な観念は、それが稀なものだと判断され、意のままに獲得されるものではないことを要求する。ヴァレリーにとって規則は思考の調教の技術であり、霊感は精神の無秩序から現れるトポスを照らす稲妻だった。形式は骨格を構成し、内容は筋肉を形成し、霊感によって血が通うというわけだ。

ポール・ヴァレリー 『ヴァレリー集成Ⅲ』
『詩学「カイエ」より』収載

ヴァレリーは考える、自分が望むことと自分に可能なことのあいだを、 自分が見るものと自分がもっているもののあいだを、戦闘を受け入れたり拒んだり、敢行したり思いとどまったりしながら、ジグザグに帆走したりし、計略を用いて擦り抜けたりする術を芸術家の内密な感覚は、本能的に教える機能を持っているというまあ、何かを作ろうとする者なら誰しも思いあたることだろう。面白いのは、ジョイス以降の散文が整合性のある論証的な言語を停止、あるいは目立たないものにしようとしてきたアドルノが述べていることだそのような努力を払っても作品の形式的枠組みを重視し、それに従属させようとしたという

アドルノは、トラークルの詩は論証的論理と美的論理との相違とを示す良い手掛かりであると言う。一続きのイメージは確かに論理や因果律の手続きによるが、意味はずらされ、繋がりにくくされている。日常的な論理の整合性は、ないがしろにされると言っていい。詩人は、存在しないものが存在しているかのように語らせるとアドルノは言うが、それは、見えないものを見えるようにするというクレーのポリシーにも通じるものだった。

連想そのものは仮象だが、その仮象が作り上げていく構造は、音楽的な上昇と下降のなかで、その構成要素が曲線を描き、色あいを分散させるのに似て単純な連想へと傾斜することがない。論理的な繋がりの中に曖昧に変形されたものが紛れ込んでいく。イメージの構成要素は、形式的枠組みを組み立て、詩を組織するが、詩をして単なる偶然や個別的な事例を超えた世界へと昇華させていく。ある瞬間が他の瞬間を引き込む。そのような力能は論理や音楽における結末が要求するような力なのだと言うのである。そこには合理性もありはするが、分散した全てを繋げようとする力といって良いものかもしれない。形式による美学は単純には否定できない問題なのである。ともあれ、アドルノの指摘するようにトラークルが奏でるイメージ配列は美しい。

 

アーメン

腐ったものが朽ちはてた部屋のなかをすべってゆく。
黄色い壁掛けにうつる影。ほの暗い鏡のなかでは、ぼくたちの
手の象牙色の悲しみがアーチを描いている。

茶色の真珠が死んでしまった指のあいだを滑り落ちる。
静けさの中で
ひとりの天使の青い罌粟 (けし) の眼がひらく。

夕暮れもやはり青い。
ぼくたちの死にたえてゆく時、*アズラエルの影、
それが茶色の小庭をほの暗くする。

(ゲオルク・トラークル/吉村博次 訳)      *アズラエルは死の天使のこと

 

形式的な枠組はけっして無視できない。それは、数学的な比例、幾何学的な整合性、緊張や均衡と言った力学的な形式さえも含む。これらの機能を無視するなら過去の偉大な作品を捉えることはできないし、基準として実体化することは不可能になるとアドルノは言う。詩人は、もはや髪振り乱す錯乱家でも、熱に浮かされて作品を書き上げる情熱家でもなく、夢想家に仕える冷徹な学者、ほとんど代数学者であるとヴァレリーは述べている (『文学の技術について』)。

形式は切っ掛けに過ぎないが、内容についての多様な契機から切り離すことが出来ない。形式的枠組み、つまり形式的範疇は形式化されるものに応じて自らに変更を加える。この変更が一貫して否定を通して実行されてきたのがモダニズムの過激化であった。様々に形式の枠組みは回避され無効にされたのである。このような形式と霊感の生動も元々バラバラな要素をいかに一つに結び付けるかという方法の中での葛藤となる。芸術の真実内容は、感覚的なそれぞれ要素からではなく、それらの関係性の中から浮かび上がって来るものなのである。

創造は無から始まる。形式や霊感以前に全てはここから始まる。これはキリスト教的創造のみに限定しない。アドルノは、こんなふうに言う。芸術にある根元的要素に内在する無は、統合をもくろむ芸術を無定形なものに引き下げる。この内在する無が高度に組織化されて行けば行くほど、芸術を無定形なものへと引き下げる引力も逆に増大する。しかし、これらの要素は無に接近する場合にのみ、純粋に生成するものとして全体に溶け込むことができるようになるというのである (美の理論)。関係性を構築する力能は無に接する場に近ければ近いほどその発現と威力を高める。この生成過程が作品自体の歴史的運動であり、それを解釈し、批評することがアドルノにとって作品の「客観的理解」なのである。

ちなみに、逆の面から孔子は、こう述べている。天、性 (人間の実存)、鬼 (霊)、死は定義できないものである。しかし、詩などの芸術によって象徴的に知ることができるという(『論語』)。芸術には定義出来ないものをある仕方で知らしめる力があるというのである。そこに芸術の価値がある。

芸術作品の真実は、概念の尺度から測りえるものではなく、制作の過程において無のトポスから現れる偶然的なものを吸収し、それを内在的必然に変えられるかどうかという点にかかっているのだとアドルノは言う。それは形式と霊感がせめぎ合う場所で起こると言える。霊感は少なくとも意識に上ることであるが、意識に上らないでやってしまえていたことも多い。それは、行為と結果とのアブダクションと言っていいかもしれない。38憶年の生命進化の三つの鍵の内の一つは予測不能性であった。アクションペインティングやチャンスオペレーションといった意表をつくような不確定な要素が創造的な機能を持っていることは否定できない。唐の時代、既に筆が舞い墨が飛んで形を成していった發墨の画家たちの作品や狂草と呼ばれる書が登場している。つまり、根元的要素の形成作用は非線形的なのである。創発はカオスの縁で起きると言うのは実は古くから知られていたことなのかもしれない。  そのことを僕は随分前に書いたけれど、このコンセプトに興味を持ってくれたのはアラン・ロンジノだけだった。文学的に言えば、芸術創造の底には不条理なもの、測り知れないものが横たわっているということなのである。

 

芸術の即物性と芸術の非現実性


 

芸術作品は、当然ながら物である。音楽も楽譜やCDを媒介にするなら物である。演劇や演奏も肉体という現実の物体が行い、音や姿が形成されるなら物と言えなくもない。芸術には、この物質性の他に心地よい響き、調和した色彩、口当たりの良さといった特性があるが、芸術作品を覆うそこはかとなく漂うものである。カワイ~と見せかけたり、ポニョッと表面上に漂い始める例の感覚である。それは際物と化し、文化産業のトレードマークになったとアドルノは言う。感覚的満足は芸術にとって歴史的に敵対的なものになったのである。何故だろう ? 感覚的な魅力は、ベルクの『ルル』やアンドレ・マッソンの作品においては内容の担い手か機能であるという。内的な真実を運ぶ舟と言えるが、そのような場合でも、けっして、感覚的な魅力を目的としてはいないというのだ。芸術が断念したものは、美的に感性的なものを通しての模倣だった。

芸術を精神的なものとだけ規定することは、その物質性を否定することになる。精神的契機と物性は互いに鍛えあう。芸術作品は自らの精神を通して、自己を乗り越える。しかし、その精神は同時に、それに死をもたらすというのである。それは、自己を乗り越えなければならない強制的反省によるのだった。

芸術作品には、感覚的に美的なもの、感覚的に心地良いものが、この数千年に亘り随伴してきた。感覚的なもの作品の現実性に纏 (まと) わりついていたが、この美的なものと物的なものは重層的に重なってはいない。ここで、アドルノは重要な指摘を行う。「物としての構成が、その状態の力によって、作品を物でないものに作り上げる」というのである。内容の現実性が内容を真実性のあるものにするのだ。ルドルフ・シュタイナーは、美は「理念のごとくに出現した感覚的現実」であると述べている。これは正解だった。

理念とは対象化されず、意図どおりに的確に与えられないような客観性だとアドルノは言う。ベンヤミンは、「芸術は出現するものである」と述べた。それは、けっして秘密めいたものではないとアドルノは注釈する。そして、ついに、芸術作品の現実性は、芸術作品にとっても非現実であるという。つまり、妄想であると言うのだ‥‥オイ、オイ‥‥ これがアドルノの否定弁証法の手管でしょうか。芸術作品の物としての状態は、自己を止揚するための媒体なのだと締めくくる。それゆえに、作品の全体性とは没落の総体にほかならず、主観の消滅に他ならないのである。

芸術作品の仮象は芸術作品の精神的本質のうちにその起源を持つと言う。仮象とは簡単に言うと〈見てく〉や<見せかけ>のことだ。アリストテレスの言うように感性世界の仮象と見なすことも、プラトンのように真の存在としての純粋精神と見なすこともできないと言う。芸術は存在であり、精神を存在するものとして眼前に突きつける。こうして仮象としての精神を唯一の存在物として吟味するという。それは、即自存在という欺瞞であり、同時に即自存在としての欺瞞を否定するものである。芸術作品は精神を直接的に感性的なものへ変容させるのではなく、作品の感性的諸要素相互の関係を通して精神になるというのである。‥‥ココは、読んでいてウットリとしてしまう所だ‥‥こんな僕は、ちょっと変なんだろうか。

 

美的仮象の行へ


 

仮象とは芸術作品から現われ出るものとしての仮象であり、同時に芸術作品そのものとしての仮象である。それは、矛盾している。これが芸術作品の美を哲学的に追及できない理由だとアドルノは考えている。少なくとも完全にはできないと言う。もし、芸術の未来を問う問いが不毛なものでなく、技術至上主義の嫌疑を免れるものなら、「芸術は仮象を越えて生き延びれるのか」という一点に向かうとアドルノは言うのである。

美的仮象が19世紀に入って実証主義の台頭によって強化され、芸術は〈事実〉として存在するものと考えられるようになる。部分の寄せ集めで構成されたものに過ぎないことを隠蔽しようとして仮象性は絶対的なものとしての地位を与えられる。ヘーゲルの言う芸術信仰が生まれた。具体的には、ワーグナーの音楽である。この幻影的側面に異を唱えたのは長編小説家であるプルーストやジイドだった。小説の流れに注釈を挟んで中断するやり方は、芸術を人間によって作られたアプリオリに物の世界と置き替えられることを示している。

芸術は生えた角を振り落とそうとする動物のように仮象を振り落とそうとしてきたという。芸術の首尾一貫した反抗は、芸術が芸術以上のものであり得るという不遜な思いを抱かせることとなった。それに対する罰は、単なる物にすぎないものへと逆行することだった。今日の芸術はアウラに対するアレルギーを発症しているが、非人間的な社会性と無関係ではないと言う。芸術作品は狂信的に純粋であろうとするあまり、純粋性そのものを疑い、とうてい芸術とはなり得ぬものを表出するに至った。その行き着いた先がハプニングであったと言う。枠を壊そうとして掘った先は自分の足許だったと言うわけである。ハプニングを強調したフルクサスにも一分の理はあったのだが‥‥。

しかし、真正な芸術作品は、幻影的なものから最後のアウラの吐息さえ拒絶するものに至るまで、ある言語を語り続ける。偶然に主観が語るものに過ぎないものを浄化するための努力を続けるなら、作品の持つ言語は、その努力に応じて、いっそう彫琢されていくものなのである。作品は不可能を現実にする力業である。現状肯定的なイデオロギーに気に入られる作品は、すぐれた芸術は単純なものであると言う命題に方向づけられている。しかし、力業という理念は、芸術行為という概念によっては捉えられない段階に達している時のみ、その実体をさらけ出すと言う。

マルセル・デュシャン (1887-1968) 1920-21
マン・レイ撮影 Yale University Art Gallery

アヴァンギャルドの時代、その芸術と寄席やミュージックホールの出し物とが互いに共感しあっていたのは、この力業故であったかもしれないとアドルノはいう。極端なもの同士が繋がり合えるのではないか。そのような芸術は、内面性を食い物にする中間的な芸術の領域、つまり文化的であろうとして芸術のあるべき姿を裏切っているような芸術領域に対抗していたというのである。内面性、つまり純粋な主観性を強調してきた表現主義は既成のものを否定するあまり、完全な貧困化に陥り、ただの叫びになった。ダダは、この主観性を維持したが、体制的な人間たちの冗談のタネになり、ついに自己自身を冗談のタネとしたというのである。デュシャンの芸術は、そのような土壌から生まれているということはハッキリわきまえておく必要がある。ボイスがデュシャンの沈黙は過大評価されていると言ったのも宜 (むべ) なるかなである。

 

21世紀の美の理論


 

認識は自らの状況から未来を推論すると言う誘惑から逃れられない、それは瞬間のうちに自らを押し込むとアドルノは言う。現在は足枷でもあり、踏み台でもある。「芸術作品は芸術作品自体であり、同時にまた常に、芸術作品自体の他者でもある‥‥本質的に超美的なものは、美的なものから引き離され、両手で握られたかのように錯覚されると、たちまち蒸発してしまうためである (『美の理論・補遺』)」とアドルノは繰り返す。

もはや、芸術家はカスミを掴もうとする地に落ちた哀れな仙人といったところだ。このアドルノの遺作と言われる著作が発表されて既に半世紀を経た。この間に、状況が改善されたとは思われない。そう思っているのが僕だけなら、それは、それで結構なことだと思うのだが‥‥さて、この20世紀を代表する美の理論に対して21世紀の美学を彩る著作は生まれるのだろうか。残念ながらロザリンド・クラウスやジョナサン・クレーリーではアドルノに対抗できない。海仙、山仙の我らは、奥歯を噛みしめながら、次の朗報を期待している。それが、モダニズムの終息宣言であろうとも。アドルノは言う。芸術は謎である。その謎は芸術の本質的体験のうちに消え去る。思考によって捉えきることのできるものは芸術ではない。

 

今回のブログでは、『美の理論』の全体をカヴァーしていません。アドルノ独特のミメーシスの概念や自然美の問題など重要な部分は、まだまだあるのですが、今回はこれくらいにしておきます。続きはまたの機会に。

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

テオドール・アドルノ『否定弁証法』
アドルノの主著

ヴァルター・ベンヤミン
『複製技術時代の芸術』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『トラークル詩集』吉村博次訳
「アーメン」収載。

『アドルノ美学解読』藤野寛、西村誠 編 音楽、美術、哲学などの複数の著者によるが、玉石混淆の感がある。

 

 

 

 

ヘルムート・ベッティガー『パウル・ツェラーンの場所』遠ざかる道程としての芸術

 

ヘルムート・ベッティガー『パウル・ツェラーンの場所』1999年刊

絵画は運動の芸術だといったら、たいていの人は頭を捻るだろう。そういった認識を持つキュレーターにも出会ったことがない。少なくともクレーはそう述べている(『造形思考』)。色彩と形態と質感がその運動の中でほぼ完全な調和を生み出すと静謐が生まれる。ゴッホやセザンヌの作品などにあるような静けさだ。じゃあ、映画は何の芸術かと言えば、時間の芸術なのである。タルコフスキーはそう言っている (『映像のポエジア』)。

絵画にはイメージが存在する。そこには情念定型や、象徴とその連鎖があり、多様な世界と結び合わせる役割を持つ。形態による思考活動と呼ばれるものに通じるが、言葉に汚染されていないイメージを探すのは困難な問題である。今ある世界とは、別な所にあるイメージを探さなければならないからだ。そういう時、アルス・コンビナトリアも役にたつことはあるが、けっしてオールマイティじゃない。

では、詩は何の芸術ナンダ ?  勿論、言葉の芸術だけど、ちょっと違う種類の言葉の芸術なのである。それを教えてくれたのは、パウル・ツェランだった。彼は、言葉を踏み台にして、いわば疎ましいものから言葉を解放し、別の世界を提示しうる詩人だった。ギリシア人は、昔、人は死ねば影の世界に生きると信じていた。しかし、逆なのではないか。私たちは影の世界にいるのではないか ?  それは、なかば脳の生み出すイリージョンなのかもしれない。だからこそ、まれな芸術は現実の存在を垣間見せてくれる。

 

ドイツ語圏を旅するとパウル・ツェランは別人になる。彼がフランクフルトの花屋に入って行くと店員がこう言うのが聞こえた。まあ、ご覧、またユダヤ人だわ。1952年、バルト海沿岸のニーンドルフの47年グループの会合で、パウル・ツェランが歌うように自分の詩を朗読した時、グループのメンバーはただ、笑っていただけだった。この47年グループはインゲボルグ・バッハマンなどを世に出した戦後ドイツの新進文学グループとして知られる。

本書ではツェラーンという表記だが、ツェランが一般的な呼び方なのでこちらに統一させていただいた。

やがて、ドイツ文学者たちはツェランの詩を一つの神話に仕立てしまう。高いもの、深い言葉が輝き出す神話だ。しかし、ツェランの詩は実際の体験と社会的状況とから切り離すことが出来ない。70年代のドイツ文壇が、日常生活体験のつまらぬ詩作によって覆われていた時代、つまり言語的空転期を経ると、ツェランはより高いもの表現する文学の救い手として捉えられ、同時に、それを政治から切り離すために利用されたという。

神学的、哲学的、言語神秘主義的な解釈がなされ、近年では、それに構造主義的で言語学的な断片的解釈も付け加わるテクスト内在的、言語解釈的な学問が隆盛したことによってツェランの伝記は視野から消え、80年代のポストモダン的、脱構築主義的な滑走遊戯ともいうべき流れの中に浮かんでいった。その研究成果は、まさにドイツ文学研究における総覧といった感があったという。

ツェランの詩が人口に膾炙したのは『死のフーガ』を嚆矢とするが、その詩が世に出た時、ドイツ文学界は苛立ちと興奮に包まれた。現在はウクライナに帰属するツェランの故郷であるチェルノヴィッツ、その作家たちとの関連が取り沙汰された。『死のフーガ』に登場する有名な言葉「黒いミルク」は、既に、ツェランと交友のあったローゼ・アウスレンダーが1925年に使用していたし、モーゼス・ローゼンクランツには『血のフーガ』があり、他の詩人たちも似た表現を使っていたと言う。ツェランもまた、チェルノヴィッツという土壌から生まれた詩人の一人だった。

ツェランの『死のフーガ』は、印刷物やテレビ画面に強制収容所の写真や映像と共に掲載され、いわば、読まれ過ぎ、押しつぶされたとツェランは感じたのかもしれない。そのことが彼の詩を単なる線形的な読みではなく、多義的で意味疎通を困難に感じさせる作品へと傾斜させたとヘルムート・ベッティガーは述べている。

ヘルムート・ベッティガーは1956年生まれのドイツのジャーナリスト、作家フライブルク大学で旧東独の作家フリッツ・ルドルフ・フリースの研究で博士号を取得した。「フランクフルター・ルントシャウ」誌の編集部で文芸欄を担当して、様々な役職を経た後、2002年からフリーの作家となっている。ジャーナリストとしての素地の上に、丁寧な取材をベースとして一つの文学世界を立ち上げる人だと訳者の鈴木美紀さんは書いている

1993年にドイツサッカーのドラマを描いた『ノー・マン、ノー・シュート、ノーゴール』を発表。サッカーには思い入れが深いようだ。続いて1996年に。邦訳された本書『パウル・ツェラーンの場所』を刊行している。2006年にブターニュの風景とツェランに関する『詩と風景の読み方』を連打した。2012年に『47年グループ』でライプツッヒブックフェア―賞受賞すると翌年、2013年に『インゲボルグ・バッハマン』を刊行している。

以前、関口裕昭さんの『パウル・ツェランとユダヤの傷』をご紹介しているけれども、今回はツェランの周囲について少し膨らみを持たせている本書をご紹介したいと思っている。

 

ルーマニアからパリへ


 

ユダヤ人であるツェランの伝記を語る上で、両親の強制収容所での死は決定的出来事である。自身も強制労働収容所に収容されていた。ソ連軍に解放された1年後、ツェランはソ連の軍用トラックでルーマニアの首都ブカレストに着いた。1945年、25歳だった。若さゆえか、そこでは意外に明るさに溢れていたという。ユーモアは、この詩人の知的構造の有機的要素として、彼の苦痛に満ちた詩の時代にあっても失われることはなかったと友人のペートレ・ソロモンは述べている。それは、彼の詩の悲劇的体系を損なうものでは無く、逆に補うものなのだと言うのだ。

現在のチェルノヴィッツの街並 ウクライナ

ブカレストのシュルレアリストたちと交流を持った後、1947年、ハンガリーのブタペストを経由してウィーンに入った。そこは、故郷よりも何もかも一回り大きかったが、かつてこのオーストリア帝国の一部であったチェルノヴィッツと何か間違いようのない雰囲気を醸し出していた。はるか遠くにあっても到達しなければならない場所ウィーン、しかし、かつてドイツに併合されていたこの街はユダヤ人には居づらかった。期待とは裏腹に、そこは到達不可能な所となったのである。シュルレアリストのエドガー・ジュネと親交を深め、やがて詩人として名を成すインゲボルグ・バッハマンと相思相愛となったが、翌年にはパリに立った。ウィーンはドイツに近すぎた。

ツェランはジュネに関する文章を残していて、シュルレアリスムにたいする理解が深まっていたことを示すものとして興味深い。既に自己の側から輝かしさを見、輝かしさの側からも自己が見られると言う主客同一の視線が表現されている。このような文章だ。

「新しいもの、つまりまた純粋でもあるものは、ではどのようにして生成すべきか。さまざまの言語や形姿、さまざまなイメージや身振りが、最も隔たった遠い精神の各領域から、夢のようなヴェールをかぶって、夢のようにヴェールをぬいで、やって来ることが願わしいのだ。そして、それらが疾駆のうちに出会い、異なるものが最も異なるものと結婚させられたために世にも不思議な火花が誕生するなら、ぼくはその新たな輝かしさの内部をのぞきこみ、そのかがやかしさもぼくをふしぎそうにのぞき込むだろう。 (パウル・ツェラン『エドガー・ジュネと夢のまた夢』飯吉光夫 訳)」

 

花開く石


 

1952年、シュトゥットガルトの出版社から詩集『罌粟 (けし) と記憶』が出版された。それは、狂酔的で、夢から生まれたかのようで、シュルレアリスムとの関連が窺え、少しリルケの影響が残っていたかもしれない。

ベッティガーは、むしろ、ドイツ・ロマン派が発見した中世のドイツ語で書かれた情熱に関係しているという。夜、心、石、秋、髪といったキーワードが見られるが、これらの詩にあって、意味関連は少しずらされ、境界はぼかされ、容易に解きほぐせない新しい結合となっていたというのである。

その結合は、属格 (英語の所有格にあたる) による隠喩や「のような」といった直喩も見られるなど、その時代の表現主義文学の大物である老ゴットフリート・ベンによって時代遅れと断定された詩的要素だった。ツェランは当時支配的だった文学世界の周縁にいたのである。それは、言葉のリズムや色彩が暗示的にとどまった新しい種類の意味の網細工だった。しかし、全体は自ら一つの世界を映し取り、侵されまいとして、独自の魔力をはなっていたとベッティガーは強調する。

 

コロナ

ぼくの手から 秋は葉を食べる ― ぼくたちは友達だ。
ぼくたちは 時を胡桃の殻から剥いて取り出し それに往くことを教える ―
時は殻のなかへ還る。

鏡のなかは日曜日、
夢のなかは眠っている、
口は真実を喋る。

僕の目は 恋人の性器へと下りていく ―
ぼくたちは みつめあう、
ぼくたちは暗黒を語り合う、
ぼくたちは 罌粟と記憶のように愛し合う、
ぼくたちは 貝殻の中の葡萄酒のように眠る、
月の血の光のなかの海のように

ぼくたちは 抱き合ったまま窓のなかに立つ、彼らは ぼくたちを通りから見る
さあ 知る時だ!
石がようやく花開こうとする時だ、
ざわめく心が鼓動する時だ。
時になる時だ。

その時だ。

(パウル・ツェラン『コロナ』今井美恵 訳)

 

訳は、今井美恵さんの『パウル・ツェラン新論』から引用させていただいている。この人のツェラン論は、脱構築的な書き方で賑やかだ。

絶えざる変化に晒される直接的な体験としての時間とそれ自体の中に閉ざされる思い出が対照的に描かれる。それらを仲介し書き記す行為は、世間一般に通じる自明性とは無縁の、独自の形式を探し求める。詩を書く行為は知られざる、いわば、暗い領域で行われる。落葉と胡桃の記憶、往還する時。恋人との時、過ぎ去る記憶。

そこで、花開こうとする時とは何か?  石とは何を意味するのか?  ブルトンの言う聴く者のひとりひとりの尺度に応じて、石たちは言語をもち、聴く者の知りたがっていることを教えてくれるという太古の会話が花開く時だろうか?

ベッティガーは述べる。詩の形式と内容、具象的なものと抽象的なものが浸透しあい、新しい、煌めく関係の場が生み出されると。

バッハマンとの往還――対話としての詩


 

ツェランがウィーンを去った後、バッハマンは二度パリを訪れている。それは「距離を保った恋愛関係 」と言われた。最初は、1950年の10月から12月で、ウィーン大学でハイデッガーに関する哲学の博士号取得直後のことだ。

 

猶予された時

さらに厳しい日々が来る。
取り消しのときまで猶予された時が
地平線に見えてくる。
‥‥ ‥‥
ルピナスの光はほそぼそと燃えている。
おまえのまなざしは霧の中でシュプールをつける。
取り消しのときまで猶予された時が
地平線に見えてくる。

向こうでおまえの恋人が砂に沈む、
砂は彼女のなびいている髪のぶんだけ高くなる、
砂は彼女に黙るよう命じる、
砂は彼女が死ぬ運命にあり
快く別れを受け入れると思う
一つ一つの
抱擁のうちに

振り返るな。
‥‥ ‥‥
ルピナスを消せ!

さらに厳しい日々が来る。

(インゲボルグ・バッハマン『猶予された時』鈴木美紀 訳) 一部省略している。

 

「取り消しのときまで猶予された時」「おまえの恋人が砂に沈む」「砂は彼女が死ぬ運命にあり」「快く別れを受け入れると思う」「振り返るな」「さらに厳しい日々が来る」‥‥これらの詩句によって バッハマンの『猶予された時』はツェランの『コロナ』に反論するとベッティガーは言う。

バッハマンは、その恋が終焉に近いことを予感している。ツェランの『コロナ』では一体となることが可能な不確かな暗黒の中で語り合い、ぼくが君となることのできる虚構の場所が探し求められる。バッハマンでは、恋人は砂の中に沈み、その場所は砂にうずもれている。彼女には、さらに厳しい日々がやって来るのである。

バッハマンの詩には、暖かさと冷たさ、光と闇といった対極的な関係があり、その感性的要素とは別に、男性的で支配的なものを拒否する傾向が同時に存在するとベッティガーは考えている。2008年にバッハマンとツェラン往復書簡が公表され、その邦訳が三年後に出版された。ツェランの妻であるジゼルは、いくつかの例外はあるが、長らくプライヴェートな書簡類の公開を禁止していたからである。バッハマンは、後にマックス・フリッシュと同棲するが、ツェランに匹敵する人物ではなかった。当然のように破局が訪れ、互いのスキャンダラスな小説の応酬は文学界を騒然とさせた。

バッハマンは、そんな小説『マリーナ』に関するインタビューの中で、18歳から25歳の間の決定的な数年間について語っていて、女性である自分にとって、人格の破壊が起きた時期だったと述べている。18歳の時には、オーストリアには、まだファシズムがあったし、近親相姦的な父がいた。バッハマンはツェランとの出会いによって解き放たれと感じ、アドルノが言及した「アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮である」という発言に抵抗するために詩を書くようになる。そのような召命を受けたのだとベッティガーは言う。しかし、まるで遅延したホロコーストの魔の手によってツェランは自死した。計画された作品集の中で唯一完成した『マリーナ』には、その作品の中に幾つかの死が浮かび上がってくる。ツェランと同様にバッハマンも重い軛を背負っていた。

 

誰のものでもない第三のドイツ語


 

ツェランは1958年(38歳)にブレーメン文学賞を受賞、1960年にドイツにおける最高の文学賞であるビューヒナー賞を受賞し、詩人としての地位を確立し、名声はいや増していた。その頃、イヴァン・ゴルの未亡人によって夫の詩を剽窃したと言う噂がばらまかれ、ドイツ文壇を騒然とさせる事件となった。無実は証明されたものの、ツェランはドイツ人の友人たちとの繋がりを次々に絶っていった。ツェランは、それまで感じていたユダヤ人ゆえの自分に対する差別と迫害に対する思いを一層強めるようになった。

インゲボルグ・バッハマン(1926-1973)
『三十歳』 初めての小説集

ツェランが第二の母と慕った詩人のネリー・ザックスバッハマンと共に手紙のやり取りが多かったのはスイスにいたフランツ・ヴルムである。彼が13歳の時、両親はプラハからイギリスへ彼を逃れさせるために列車の中に押し込んだ。イギリスへのビザはオランダの国境にあるという知らせが来ていた。その時、両親との永訣を予感したと言う。両親も家族の多くもアウシュビッツで亡くなっている。彼は、ジャーナリストとして、教育学の研究所の運営者として、詩人として人生を歩んできた。

ヴルムは、一般に言われるツェランの「迫害妄想」が過敏な感受性によるものだと感じていた。どんな女性でも夜、人通りのない道を歩く時には、たとえ聞こえなくても誰かに50メートル後ろから跡をつけられていないかと思うものだと言うのである。

こんなことがあった。チューリッヒで、ヴルムの知人のチェコの女性とあるサークルで同席となった。ツェランは、しばらく黙って座っていたが、ドアに向かって歩き出すと、彼女に気を付けろ、危険人物だと言い残して出て行った。2年後、その女性はチェコの国家公安局の情報部員であることが分かったと言う。こういった鋭敏な感覚がツェラン自身にも耐えがたいものになっていったとヴルムは言うのである。

ツェランのドイツ語はチェルヴィッツのもので、ドイツともオーストリアのものとも異なるものだった。ヴルムにもスイス・ドイツ語的な要素とともにオーストリア的な抑揚があったと言われる。ツェランは自分の慰めのために詩を書いた作家ではない。彼は自らを告発者、良心の代弁者と感じていた。だから、彼は標準語の、すなわち第三帝国のドイツ語は使えなかった。それとは異なるドイツ語を探した。そのような中で植物学、地質学、鉱物学などの専門用語は、大きな役割を果たしていったのである。

ツェランの言語は母の言語であり、母を殺した者の言語でもある。この二つの言語を区別し、分かつことに彼は力を注いだが、それについての対話は実に苦しいものであったとヴルムは述べている。ツェランの未刊行の詩に『オオカミマメ』と言うタイトルのものがある。それはルピナスのズデーテン・ドイツ語の呼び名だった。ズデーテンはチェコにおけるドイツとの接境地帯で、ツェランの母は少女時代にその言葉をボヘミアから持ち帰った。最も幸福な青春時代の思い出と共に。

ルネ・シャール(1907-1988) 1941

60年代に入るとツェランは益々気難しくなり、人を寄せ付けなくなる。やがて精神に異常をきたすようになった。ヴルムはツェランのために一度ウェーベルンと彼の詩を比較してこう述べた。「この扇のように広げられ、ずらされる音楽 ―― けれども正しく演奏されれば、まさしくシューベルトのメロディーがその間から聞こえてくるのだ (水野美紀訳)」とツェランは、その言葉に感謝したという。

ツェランは躁鬱的な傾向を強め、1965年(45歳)には錯乱状態になり妻のジゼルをナイフで刺そうとした。精神病院への入退院をくり返すようになる。1967年には、パリのゲーテ研究所でイヴァン・ゴルの未亡人と遭遇し、これをきっかけとして、彼の精神状態は極度に悪化した作家のルネ・シャールが精神病院の隔離治療室から彼を引き取った時、彼は狂ってはいない、しかし、ここではそうなってしまうのだとヴルムに語ったと言う。

 

対立の中の存在と不在、あるいはその対話


 

ドイツ文学者ゲルハルト・バウフマン教授のフライブルク大学における講演『パウル・ツェラン 言語に向けての存在』をベッティガーは聴講している。修辞的な型の中で脈打っている対立するものの結合それが絶えず呼び出され、新たな対立へ突き進むための限りなく多くの長い助走があった。それによって、そこに存在する全てが不在の何かを示す。揺れ動く言葉の音楽、これまで聞いたこともない、語られたこともないものの姿が現われる律動をもたらす語りだったという。

ツェランは、フライブルク大学に来校し、朗読を行っている。そこで、バウフマンやハイデッガーとも出会った。対立するものの結合という修辞的な型」、それはツェランの詩にも当てはまるものだった。「黒いミルク」「雨の松明たち」「僕たちは死んでいて息をすることができる」「それは一つの名前を持つ。それは一つの名前を持っていない。」と言った例は枚挙にいとまがない。それは、教授の言うツェランの「説明しがたいものを伝える能力」と結びついたものなのである。同時に、彼は詩の中である示唆を与えても「すぐにそれらを多義的なものへと送り返した」とも言うのである。それは、ウェーベルンの音楽のようであり、マンデリシュタームがベルグソンから学んだものでもある。

だが、それだけではない。彼が一つのキーワードに込める多重の意味は、世界を爆発させると言っていい。何故アドルノがツェランを秘教的文学の重要な代表者だと言うのか (『美の理論・補遺』)。その在り方は魔術的なのである。彼は苦悩を取り上げ、極限的な恐怖と沈黙を通して語ろうとする。それは寄る辺ない人々、そうした人間のもとにある言葉を模している。全ての有機物の下敷きにされた石や星や死の言葉。それを模倣するのだとも言う。この恐怖から沈黙にいたる軌跡を完結した形象でもって再構築する。それは、いわば生命を剥ぎ取られた言葉であり、どのような意味も奪われた死にたいする究極の慰めだと言うのである。

『パウル・ツェラン詩論集』「エドガー・ジュネと夢のまた夢」収載

「詩は‥‥、途上にあるものです――何かを目指しています。何を目指しているのでしょう。何かひらかれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけ得る「君」、語りかけ得る現実を目指しているのです(パウル・ツェラン『ブレーメン文学賞受賞挨拶』飯吉光夫 訳)」 

語りかけえる「君」との対話

感じ取っている者と「君」との、現れ出るものへ眼差しを向けている者と「君」との、現れ出ているものに問いかけ語りかけている者と「君」との‥‥対話。

この対話の空間の中で、はじめて、語りかけるものが形作られる。語りかけ名指す者の周囲に語りかけるものが集まってくる。名指されることによって、いわば「君」となったものが、この現前の中に自分の別の有り様を持ち込むのだ。子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演

ここで、重要なのは「名指されたもの」から「別の有り様」が現れ出ることなのであり、名指す言葉によって別の場所へ運ばれることなのである。そして、一度限りの「いま」「ここ」において、そ「時」を語らせることだとも言う。それ故、扇のように今・此処を開いた時、「どこから」と「どこへ」をも同時に語らせているのである。しかし、それは何処にもない薔薇であった。

 

ビューヒナー子午線


 

ゲオルク・ビューヒナー(1813-1837)の肖像
アレクシス・マストン 画

詩、それは息の通いを意味した。詩は、往還することによって生まれる。地球を巡る子午線のように。詩も、芸術にとってそうであるような道のりを進む。ツェランは子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演』で、23歳の若さで他界したドイツの革命家、劇作家、自然科学者であったビューヒナーの作品を引用している。

谷沿いの石の上で金髪の髪を結っている乙女とそれを助けているもう一人の乙女の姿。「こんな佇 (たたず) まいを彫刻に変えられるなら、ひとはメドゥーサになってもいいくらいだ(『レンツ』)」とレンツは思う。しかし、やがて、生きているとも死んだとも分からない、引き離された恋人のフリーディケのことを思い煩い狂気に陥っていった。

金髪の乙女たちの仕草のように自然なものを自然なままに把握することが出来るなら人はメドゥーサになってもいいとビューヒナーはレンツに語らせている。ツェランは「人はなってもいい」と言っているのであって「わたしはなってもいい」とは言っていないと強調する。そして、これは人間的なものに対峙している不気味な領域への踏み出しでもあると言うのである。メドゥーサになることの誘惑。

同じくビューヒナー作品『レーオンスとレーナ』では、王子であるレーオンスと他国の王女であるレーナが、お互いに相手が誰とも分からない婚姻を避けるために道化役のヴァレーリオによって身代わりの自動機械に扮して結婚式に登場させられることになる。実は、お互いに身分を知らないながら、式場への途上で二人は魅かれ合うという設定になっている。そこには自動機械の不毛がある。

同じく『ダントンの死の中でカミーユが、世間の連中は芝居小屋や演奏会や展覧会の品目のような味気ない模倣品よりほかに見る眼も聞く耳も持たないのだと言い、関節が五脚の韻でカタカタ鳴るあやつり人形やちっぽけな情念や格言に手足をつけて服を着せ三幕に亘っての悪戦苦闘の上、結婚させるか自殺でもさせれば、これぞ芸術 ! と喚声が上がるような安っぽい模造品芸術を蔑むのだ。カタカタなる操り人形の不気味。

ゲオルク・ビューヒナー全集 1970年刊

芸術は既成の無条件な前提としてあるものではなく、メドゥーサのような気味悪さといったものの内にあるのかもしれない。詩は、この芸術同様に気味の悪い、疎ましいものの場所まで進んで行き自らを解放するのだとツェランは言う。疎ましいものの場所=暗闇。詩を書く行為は知られざる、いわば、暗い領域で行われるのだった。

それは、「詩との出会いのために必要な、どこかしら遠いもの、疎ましいものに由来する ―― おそらく詩自身が投企した ―― 晦渋さなのです(子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演』飯吉光夫 訳)」とツェランはいう。疎ましいものの場所は、おのれ自身の周縁にある。

詩との出会いという一瞬にメドゥーサの首は、たじろぎすくみ、あやつり人形はカタカタを止め、婚姻の身代わりの自動機械は停止する。ツェランはふと思う。芸術におけるそれら疎ましいものとそうして解き放たれた「私」と共にもう一つの「別のもの」が自由の身となる。ここで詩は、自己自身となり、自身の上にと還っていく。芸術のない芸術から自由な姿で、これまでとは別の道のりを。しかし、やはり芸術の道のりである道のりを進んでいくとツェランは考えている。一筋に。

 

見知らぬ空の下で
影 薔薇

見知らぬ大地の上で
薔薇と影のあいだで
見知らぬ水のなかで
わたしの影

(インゲボルグ・バッハマン『影の中の影』鈴木美紀 訳)

 

 

 

引用文献 並びに 参考文献

 

今井美恵『パウル・ツェラン新論』

インゲボルグ・バッハマン詩集

高井絹子『インゲボルグ・バッハマンの文学』  バッハマンに対する文芸批評を比較分析するという二次的なアプローチによるバッハマン論。

テオドール・アドルノ『美の理論・補遺』

2021年12月11日 | カテゴリー : Blog | 投稿者 : 植田信隆

梯 久美子『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』ベールの向こう側の「私」

 

梯久美子『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』

「すぐれた聖職者は、常に自分の祈祷書を携帯しているものだ。これと同じように、芸術家は彼の内に死を携えている」と、ドイツの小説家ハインリッヒ・ベルは述べたと言う。ガーン ! これは痛い所を突かれた。人は、死を携える、おもちゃのようにも鉄鎖のようにも。とりわけ、芸術家には死の匂いを漂わせる者も多い。原民喜 (はら たみき) もまたその一人だった。

どうも周期的に死に対する願望というか憧憬というか畏怖というべきか、やって来る。何かに背中を押されるようにツンのめることがある。もうこんな頭陀袋のような体の中に閉じこめられていたくないという足掻きなのか、故郷に対する郷愁なのかもよくは分からない。年を取れば、その切迫感はいや増して来るのは確かだ。まだ、生きねばならないのかという諦観もある。

日の暑さ死臭に満てる百日紅 民喜(俳号は杞憂)

自分を消したい、消そうとする衝動がある。それが死と繋がっていくものなのか、どうか。原の中学校時代を知る人は、彼が入学してから4年間、その声を聞いたことが無かったと言う。手足も機敏に動かせなかった。回れ右や歩調を取っての行進もできなかった。教練や体操の時間は、あざ笑いとからかいと罵りの対象だったと言う。

魂呆けて川にかがめり月見草 民喜

慶応の文学部予科に進んだ時、同級に山本健吉、瀧口修造、田中千禾夫 (たなか ちかお/後に劇作家)、葦原英了(あしはら えいりょう/後に音楽・舞踏評論家)、庄司総一 (後に小説家・詩人) らがいた。山本健吉にとって俗物には見えなかった学生が原だった。憂鬱そのもののような青白い顔をして打ち解ける者もなかった。同級の瀧口修造にも、三年生からの担当教官だった西脇順三郎にも原の記憶は無かったと言う。

ふるさとの山を怪しむ暗き春 民喜

原民喜 (1905-1951) 慶応義塾大学時代
定本 原民喜全集Ⅱ    青土社に収載 部分

原は郷里の広島で、付属中学の5年生になった時、同人誌に詩を掲載した。同級生熊平武二が思い切って声をかけると慌てて前かがみになり小走りに逃げた。眼に浮かぶようだ。しつこく頼むと「うん」と低い声で言った。初めて原の声を聞いた瞬間だった。彼の文才は校内でも知られていたらしい。彼が、自分の意志で所属したコミュニティーは「三田文学」などほとんどが同人誌であり、文学は原が世界と繋がるための唯一の回路だったと梯 久美子 (かけはし くみこ ) さんは書いている。

今回はノンフィクション作家の梯久美子さんの著作『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』をお送りする。丁寧に取材された内容を密度高く編集されている立派な作品だと思う。小説家、詩人として知られる原民喜 (はら たみき) の世界を本書を中心にご紹介したい。

(かけはし) さんは、熊本のお生まれ。北海道大学文学部卒業後、企業に入社して編集者となり、1986年に編集・プロダクション会社を設立。2001年からフリーライターとなる。2005年『散るぞ哀しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で作家デヴュ―。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞された。他の著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』、『昭和の遺書 55人の魂の記憶』、『百年の手紙 日本人が遺した言葉』がある。2017年の『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』は、第68回読売文学賞(評論・伝記賞)、第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞を受賞されている。

 

死と夢


 

お前が凍てついた手で
最後のマッチを擦ったとき
焔はパッと透明な球体をつくり
清らかな優しい死の床が浮かび上った

誰かが死にかかっている
誰かが死にかかっている と、
お前の頬の薔薇は呟いた。
小さなかなしい アンデルセンの娘よ。

僕が死の淵にかがやく星にみいっているとき、
いつも浮かんでくるのはその幻だ

『死について』 原民喜

 

原は広島の惨劇から辛くも逃れて蟋蟀のように痩せ衰え、飢えと寒さで戦きながら農家の二階でアンデルセンの童話を読んだ。人の世に見捨てられて死んでいく少女の最後のイメージは狂おしいほど美しかったという。これから先、生き延びれるのか、真っ暗な田舎道をとぼとぼ歩きながら、暗い地球に覆いかぶさる夜空を見上げた。そこには、ピュタゴラスを恍惚とさせた星の宇宙が鳴り響いていた。

ネリー・ザックス (1891-1970) 1966年

原が「大地の愛に胸を浸した母性の豊かな想像力」と讃えた作家セルマ・ラーゲルレーヴ、彼女の援助によってナチスの手からスウェーデンに逃れた詩人ネリー・ザックスは、かつて、こう述べていた。「死は私の先生でした。私のメタファーは私の傷です。」そして、こう詠った。

‥‥
子供たちが死ぬときには
つねに
人形の家の鏡たちが
ひとつの息に曇る、
子供の血の繻子を着た
指の*リリパットの踊りを見なくなる―
双眼鏡のなかで
月にうっとりした世界のように
動きのない踊り。

子供たちが死ぬときには
つねに
石と星と
そしてたくさんの夢が
故里を失くすのだ。

(『生き残った者たち』より 網島寿秀 訳)  *リリパット/ガリヴァー旅行記に登場する小人の国

 

童話的な世界を同じように設定しながら、この二人の世界はかくも差を見せる。ザックスの世界は、現実の中に痛みが沈み込む。彼女は恋人をゲシュタポに殺され、ユダヤ人であることによって精神的な傷を負い、精神障害を繰り返しながら生きた作家だった。原の世界はあくまで夢のようなベールがかかっている。彼の踵は大地から浮いて死に接しているともいえる。それが原という作家の天性だったのかもしれない。原はこう書いている。

「嘗て私は死と夢の念想にとらわれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いていた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかったのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂喜の如く熱愛してくれた妻がいた。その後私は妻と死に別れると、やがて広島の惨劇に会った。うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支えてくれたのは、あの妻の記憶であったかもしれない。そのことも私は『忘れがたみとして一冊は書き残したい。そして、私の文学が今後どのように変貌していくにしろ、私の自画像に題する言葉は     死と愛と孤独       恐らくこの三つの言葉になるだろう。‥‥‥十数年も着古した薄いオーバーのポケットに両手を突っ込んで、九段の壕に添う夕暮れの路を私はひとりとぼとぼと歩いている。(『死と愛と孤独』)

 

青春の挫折


 

原民喜 撮影年未詳

梯さんの著書に戻ろう。原は1905年、広島市の幟町に父信吉、母ムメの第八子として生まれたが上の兄二人は早世した。姉が二人、妹が二人いたが、姉二人も原が成人する前に亡くなっている。

ちなみに中原中也は1907年生まれで、父親の転勤で1909年から広島に3年ほど住んでいて、広島女学校附属幼稚園に通っていたというからかなり近い距離に住んでいたことになる。対照的な二人が、幼い頃、街ですれ違っていたと思うと何か不思議だ。

生家の原商店は、軍服、制服、天幕、雨覆いなどの製造・卸を行う陸海軍・官庁用達の繊維商で、1984年、日清戦争が始まり大本営が広島に置かれた年の創業だった。軍都広島の発展が原商店の発展でもあった。工場の他に複数の貸家もあり、かなり豊かな暮らしぶりだったと言う。

しかし、原は生家が戦争成金で、自分は工員たちから搾取した金でのうのうと生きてきたという負い目があった。生家が質屋だった宮澤賢治を思い出させる。

そのこともあってか一時、左翼思想に染まった。昼夜逆転生活がたたって、予科から学部へ進めず、結局5年も予科に在籍していたが、やっと慶応の文学部英文科に進んだ1929年 (24歳頃) から1931年の時期である。マルクス主義文献に触れ始め、読書会であるリーディング・ソサイティと弾圧された革命活動家への救援を目的とする国際組織である赤色救援会 (通称モップル) での活動へと進展していくことになる。所属は日本赤色救援会の東京地方委員会だった。

下宿の部屋を会合に提供していたのは分かるが、驚くべきは広島地区の組織拡充のための勧誘活動を行うというオルグの指示を受けて帰郷していたことだった。後に、これを知った友人一同唖然としたと言う。第一、勧誘と言ってもちゃんと喋れるとは思えなかったのである。原は1931年に検束されたが、短期間で釈放された。これを機に赤色救援会を離脱し、その運動を断念したと言う。

原の生涯で唯一社会に向かって能動的に働きかけようとした事件だったが、短期で終わってしまった。1932年、27歳で大学を卒業。卒論はワーズワースだった。友人の長光太 (ちょう こうた) の下宿に転がり込み、ダンス教習所の受付の仕事に就くや横浜の開港場のちゃぶ屋の女性と同棲する。相応の金を払った上で身請けしたようだが、半月もしないうちに逃げられている。

何もかも上手くいかなかった。挫折の連続を味わったのである。ひっそりと耐えたが二階の原の様子がおかしいのに気づいて、階段を駆け上がった長は、原の枕元にカルモチンの壜が転がっていたのを見た。芥川龍之介も金子みすゞもこの睡眠薬で死んでいる。しかし、多量に飲んだために吐いてしまっていた。長に揺り起こされた原は、一生、誰にも言わないでくれと低い声で頼んだと言う。

 

最愛の妻の死と家族の死


 

定本 原民喜全集 Ⅰ 1978年刊
「華燭」「昔の店」収載

こんな息子でも身を固めさせれば何とかなるだろうと思うのは親や親戚である。1933年、27歳の時に6歳年下の貞恵と結婚した。広島県、三原の出身だった。梯さんは結婚式の様子を彷彿とさせるような原の作品『華燭』を紹介してくれている。

母は夫から初めて聞かされる言葉は大切だから嫁に言い聞かせてやりなさいという。見合いの席で一言も口をきけなかった相手に何といったものやら思い惑った。大きなテープルを挟んで向かい合ったが、段々気づまりになってくる。早く何とか言わないと一生ものが言えなくなるかもしれない。相手は高島田の首を重そうに縮めている。

思い余って一声を放った。「オイ ! 」 あんまり大声で怒鳴ったものだから、自分の方が喫驚した。もう破れかぶれだった。「君は何と言う名だ ?」 我ながらなんとアホな事を聞いたのだろうと思ったが、もう遅かった。嫁は黙ってこちらを見つめるばかりだった。気が気でない。「オイ !」「なんとか言え ! 何とか !」 花嫁は、やおら赤い唇を開いた。「何ですか ! おたんちん ! 」「おたんちん ?」初めて聞く言葉だった。キョトンとして花嫁の怒れる顔を眺めていた。

ハハハ ! 面白い。この作品は1939年 (昭和14年) に三田文学に発表されている。貞恵は、ものにこだわらない明るい性格で、愛くるしい小柄な丸顔の人だったと言う。夫の才能を信じ、作家になるという夫の夢を自分のものとするような妻だった。ソウルメイトと言ってよかった。彼女と過ごした日々が原にとって最も幸福な時期であり、最も多作な期間だった。生活力のない原と別れて帰ってきたらどうだという実家からの誘いも頑として受け入れなかった。しかし、その妻も結婚して6年後に肺結核を発病し、5年後に亡くなっている。この痛手は想像にあまる。原にとって重大な死別の記憶がその他に二つあった。

定本 原民喜全集Ⅱ 1978年刊
「愛について」収載

一つは次姉の死だった。何気なく語る姉の言葉、死んでいく人の語るこの寓話が少年の微妙な魂の瞬間を捉え、胸に響いて全生涯にわたって木霊した。

画家は王様から天使の絵を描くように依頼され、公園にいた一人の可憐な少年を見つけてモデルにした。その純粋な美しさは評判となりその絵は宮殿に保存された。年月は流れて、今度、王は悪魔の絵を所望した。牢獄を巡り歩いて凶悪な相の男を探し出してモデルとした。その絵は天使の絵にも増して賞賛を得た。画家は、感謝のしるしに王宮にある自分の絵をそのモデルの男にみせた。すると、その囚人は天使の絵を見ながら嗚咽の底からこう呟いた。この絵は私なのだと。(「愛について」)

この21歳の姉を失ったのは小学校高等科1年生の時だった。それより前の小学校5年の時に、父親が51歳で亡くなっている。父の死は、原の精神的支柱と呼ぶべきものの喪失であったかもしれない。梯さんはその頃の様子を原の作品「昔の店」から紹介している。

父が健在の頃は、店の雰囲気も従業員たちも彼にとって親密なものだった。営業を終えると店の奥は兄弟の遊び場であり、丁稚と共に王様ごっこや猛獣狩りなどを演じて興じた。店から工場までの道のりは「四五町の距離がワクワクと彼の足許で踊り出す」し、工場の裏手の川が「素晴らしくおもえたのは、そっくり父の影響だったのかも知れなかった」と書いている。しかし、父が亡くなると自分は日向から日陰にうつされたかのようで、そこには味気ない死の影が潜んでいた。学校から帰ると自分の部屋に引き籠り、もう滅多に誰とも口をきかなくなったと書いている。(「昔の店」)

 

夏の花


 

原民喜全詩集

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依る変化ヲゴランナサイ
肉体ガ恐ロシク膨張シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカエル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス

(原民喜『原爆小景』)

原は、まるで広島の惨禍に会うために帰郷したようなものだったと述べている。妻の死の翌年、看病のために千葉に来ていた義母も里に帰り、空襲も激しさを増してきたので、1945年2月に原は広島に吸い寄せられるように帰った。39歳の時である。兄の家業を手伝うという名目だった。広島は、空襲にさいなまれていなかった、取っておかれたように

日ノクレ近ク
眼ノ細イ ニンゲンノカオ
ズラリト川岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ顔ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ 細イ眼ニ
翳ッテユク 陽ノイロ
シズカニ オソロシク
トリツクスベモナク

(原民喜『日ノクレ近ク』)

 

以前ご紹介した心理学者のロバート・リフトン博士は、目の象徴的イメージは、はるかな普遍性を持っていて、死者からの凝視は、生存者が自分は生き残ったということを罪悪と感じ、その「非を責める目の所有者」と一体化させてしまう(『ヒロシマを生き抜く』)という。しかし、原の描写はあくまで静かで深い。そのことが、ことさら心に響く。梯さんは、この文体は文学者としての原がこの状況を描写するために選んだ形式であると考えている。それまでの作品とは一線を画しているのは確かだ。

原民喜『戦後全小説』「夏の花」収載

原自身はこう書いている。「原子爆弾の惨劇の中に生き残った私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく引き出された(『死と愛と孤独。」被爆という空前絶後の経験によって原は地面にたたきつけられたと言ってもよいのかもしれない。

そして、被爆後、一つの決意が生まれた。リフトン博士は、過酷な体験を可成りな程度まで克服できると、生存者は自分の過去から生命肯定の要素を呼び出すことが出来、「能動的な緊張」と「はつらつとした現実感覚」を取り戻すことが出来るようになるとしている(『ヒロシマを生き抜く』)。

自分は奇跡的に無傷だった。そのことが、この惨状を伝えよとの天命と感じられた。自分の仕事は多かろうと書いている。原は亡くなった妻が用意してくれていたように簡単な医薬品やオートミール缶の食料、そして手帳と鉛筆の入った雑嚢袋を持って逃げていた。その手帳に原爆の有様をメモしていく。それは、現在、原爆資料館に収蔵されている。

ギラギラノ破片ヤ
灰色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剝ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ

(『夏の花』より)

『夏の花』に掲載された唯一の詩である。梯さんがこの著書に掲載した原爆詩は、この作品だけだった。それは、梯さんの見識といって良いとも思うが、ぼくは原爆詩を皆さんに知ってほしいと思ったので『日ノクレ近ク』や『原爆小景』をご紹介した。この「ギラギラの破片‥‥」の詩以外、『夏の花』は、全編、被爆後のドキュメントとなっている。この文章は手帳のメモがかなり正確に使われていて、1945年の秋頃には執筆されはじめ、まとめられた作品は1946年の12月半ば、原の亡くなった妻の実弟である東京の佐々木基一が編集していた『近代文学』への原稿として送られている。

原民喜夫妻  定本 原民喜全集Ⅰに収載

最初のタイトルは『原子爆弾』だった。当時、進駐軍の検閲は事前と事後に分けられていて、時事問題を扱う雑誌である『近代文学』は事前検閲が課せられていたと梯さんは指摘している。日本人の検閲官に内閲してもらったが、とても通らないと言われたと言う。結局、題名を『夏の花』に改め、一部削除して1947年6月に検閲のない「三田文学」に掲載された。

『夏の花』は、実は妻の墓参りのシーンから始まる。八月四日、原は黄色い花を買って墓前に供えた。小弁の野趣あふれた、いかにも夏らしい花だったと書いている。夏の黄色い花というとキンレンカか黄色の百日草と言ったところかもしれないが、僕は長らくこの夏の花を夾竹桃だと思い込んでいた。黄色い夾竹桃は無いですよね。妻の墓参りと被爆後の描写との間に何が在るのか、義弟への思いやりだけではなかったろうと思われる。

 

民喜の死


 

梯さんの、この著書は原民喜の自殺のシーンから始まる。鉄道自殺、いわゆる轢死だった。最も恐怖が募る自殺の仕方と言われる。彼の文学は作家の意識の流れを描くような作風に変わっていったようだが、おそらく早すぎたのだろう。理解されないままだった。そして、原は、一瞬で周囲の事物が崩壊するような恐怖を感じないかとある編集者にもらしている。稲妻の光にも椅子から腰跳ね上げるほど体震わせたという。PTSDがあったのは確かなようだった。そのような中でも、若い文学志望者である遠藤周作との心のふれあいを深めていた。祖田祐子という若いタイピストとの出会いにも繋がり、原に心の安らぎを提供していたのである。やがて、遠藤もフランスに立った。

‥‥
すべての別離がさりげなく とりかわされ
すべての悲劇がさりげなく ぬぐわれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えているいるように

私は歩み去ろう 今こそ消え去っていきたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

(原民喜『悲歌』)

 

まるで傷のある手で周囲をまさぐって生きることをよぎなくされた人のようだった。これは心の強さ・弱さといった問題ではなく、心の感度の違いと思っていただきたいが、心であろうと体であろうと痛みは人を衰弱させる。彼にとって、この地上に生きていくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ちていた。日毎、人間の心のなかで行われる惨劇、人間の一人一人に課せられているぎりぎりの苦悩、そういったものが、彼の中で烈しく疼く。それらによく耐え、それらを描いてゆくことが私にできるであろうかと自問を繰り返す(『死と愛と孤独。耐えがたい現実があった。しかし、原の「私」はベールの向こう側にいる。原爆が、ぱっと剥ぎ取ったのは、ヒロシマの街だけでなく、原のこのベールであったかもしれないのである。それでも、その「私」は「現実に向かって傷だらけになる私」とすれ違い続けた。

何もかも整えて去っていった。数か月前から友人を訪ね、それとなくお別れをしていった。友人や家族に宛てた17通の遺書、遠藤には航空便用の封筒に宛名が書かれ切手も貼られていた。ある友人には形見としてのネクタイが置かれてあった。残されていたのは『心願の国』の原稿とタオルが入った風呂敷包み、別の友人への折カバンと黒いトランクくらいだったという。

葬儀の時、柴田錬三郎は「あなたは死によって生きていた作家でした」と語りかけ山本健吉が『夏の花』の一説を朗読し、弔辞を読んだ埴谷雄高は、「原民喜さん 広島でうち倒れて あなたの静謐な諧調正しい鎮魂歌を奏でられた多くの人々の許へ そしてまたあなたが絶えずそこから出て そこへ帰っていった奥さんのもとへ安らかに行ってください」と結んだ。生前刊行されたのは『焔』と『夏の花』の二冊のみだった。

こうして、原民喜はベールの向こう側へ帰っていった。そこは安らぎの場所だったろうか。しかし、一つの疑問が残る。彼が亡き妻へ「忘れがたみ」として書き残したいと述べた一冊とは、どの作品なのだろう。それとも、それは苦しみの死の彼方にあるもう一つの美しい死であったのだろうか。

 

今宵
わたしは角をまがって
暗い裏通りを行きました
するとわたしの影が
わたしの腕にまとわってきました
この擦りきれた衣は
着てもらいたかったのです
そして無の色がわたしに話しかけてきました―
あなたがいるのは向こう岸なのよ !

(ネリー・ザックス『燃え上がる謎』より 網島寿秀 訳)

 

参考図書 及び 引用文献

 

『ネリー・ザックス詩集』 2008年
未知谷 刊  1966年ノーベル文学賞受賞

セルマ・ラーゲルレーヴ『キリスト伝説集』

北川典子『いま一度 原民喜』 まさに様々な見解を紹介しながら原文学を掘り下げている。

ニュース

2021年『 植田信隆 展』と細川俊夫さんとのトーク ギャラリーG/広島

 

2021年 『 植田信隆 展』ギャラリーG/広島  5月25日()~30日(日)

 

細川俊夫さんとのトークイヴェントは、新型コロナ蔓延による広島での非常事態宣言を受けて5月29日に無観客で収録されました。

今回は、世界的作曲家である細川俊夫さんをお迎えして『伝統から立ち上がる創造』をテーマにトークイヴェントが開催できることになりました。司会は、ピアニストで音楽学の研究者である植田ゆう子さんです。

 

 

こちらは、”Afterimage of Monochrome Ⅱ”の展覧会の模様です。音楽は細川俊夫さんのピアノ曲で、演奏は植田ゆう子さんです。

 

 

ギャラリーG 2021年 展示シーン

 

左 細川俊夫 (作曲家) 中 植田ゆう子 (音楽学・ピアニスト) 右 植田信隆

対談収録シーン 山藤万維 show Us (撮影)

 

 

 

 

 

 

 

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

イェールユニオンの組織開催で、ポートランド、ロサンジェルス、ミネアポリス、ハワイとアメリカ国内を巡回しておりました『松澤 宥 展』がいよいよギャラリーG、広島で始まりました。

今回はこの展覧会を企画されたアラン・ロンジノさん、富井玲子さんとオンライントークをさせていただきました。下の写真がその時の様子です。

トークの内容ですが、
●主催者のギャラリーGの松波静香さんの挨拶
●私から本展覧会のキュレーターのお二人のご紹介
●富井玲子さんによる『松澤芸術の概説』
●アラン・ロンジノさんの『松澤芸術における量子というコンセプトとプサイという象徴』に関するトーク
●そして最後に皆さんで、「松澤さんとヒロシマ」「キュレーターの方たちの松澤芸術との出会い」「瞑想空間とコミュニケーション」」「環境問題と人類に対する警鐘」といった話題を中心にお話していただきました。
松澤芸術の魅力をこの三人の方々と共により広く、深めていけたのなら幸いに思います。尚、トークは、編集後 youtube、Facebook 等で配信の予定です。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一階展示シーン 左壁面が『九想の室』 右壁面が『白鳥の歌』

二階から一階部分を見下ろした様子

 

 

二階 展示シーン 『私の死』

展示シーン 一階から二階部分

2020年 5月『 松澤 宥・植田信隆 展』のご案内

2020 5/19-5/31『松澤 宥・植田 信隆 展』のご案内

 

2020年 5/19(火)- 5/31(日)展覧会期間が延長されました。
ギャラリーG/ Hiroshima
http://gallery-g.jp/  火曜ー土曜 11:00~20:00  月曜 休廊  最終日 11:00~16:30

5月24日 (日) 出原均、アラン・ロンギ―ノさんのシンポジウムについて
アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。19:00までは展覧会をご覧いただけます。

 

概念芸術の巨匠・松澤宥(まつざわ  ゆたか/1922-209)と植田信隆による展覧会です。2004年に制作した『消滅するヒロシマに捧げる九つの詩』のリメイク作品、そして以下に掲載しています松澤宥のオリジナル作品を展示します。この展覧会に際しては、ご家族と長沼宏昌氏の全面的な協力を得ました。ここに深く感謝いたします。

松澤 宥  出品作品

●草稿/『死のテーマ ヴェネチア・ビエンナーレに』『タントラを巡ってさまよう』 『A Black Hole』『ゾンスベーク国際展へのコメント』 他

●九字九行作品/『超人類の果て』『ドリコソマ』『エニグマ22』 他

●パフォーマンス草稿/『諏訪湖に白紙絵画を見せる』『私の死』 他

●チラシ作品/『ああニルああ荒野におけるプサイの秘具体入水式』『プサイの死体遺体』『プサイ函』 『人類よ消滅しよう』『ドンデン返し計画』他

●パフォーマンス写真(長沼宏昌 撮影)

 

『関連シンポジウム』が以下のように予定されています。

5月19日 (火) 19:00~20:00

無観客でのビデオ収録となりました。後日配信の予定です。

柿木 伸之(かきぎ  のぶゆき/広島市立大学国際学部教授 哲学、美学)、植田 信隆(作家)

ベンヤミン研究者として知られる広島市立大学の柿木伸之先生をお招きします。前半は私が松澤さんの芸術についておおまかに解説し、後半は、柿木先生に松澤芸術を起点として戦争と芸術をテーマにお話ししていただきます。

5月24日 (日) 15:00~16:00

出原均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)
アラン・ロンギーノ(インディペンデント・キュレーター)

アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。

2004年に広島市現代美術館で『松澤宥キュレーション展』を企画された当時の学芸員であられた出原 均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)さんに松澤芸術について解説していただきます。

どうぞ、皆さまマスクをお持ちになってご来場ください。

 

2020年3月27日

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

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