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バルーフ・スピノザ part2「 スピノザとの対話」ヘルダー、ナドラー、カーリー、ドゥルーズ

 

レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)
『ユダヤの小さな花嫁』 版画

1640年代にレンブラントが、アムステルダムのブレーストラー通りの贅沢な邸宅に住んでいた頃、身近なユダヤ教徒たちを素描し、銅版画にし、油彩で描いていた。通りの向かいに住んでいたユダヤ教の師、つまりラビのメッセナ・ベン・イスラエルに『べルシャザルの饗宴』に描くアラム語の警句について教えを受けたり、彼の肖像を描いたりもし、ポーランド系のユダヤ人たちが礼拝堂 (シナゴーク) の外に集まっている様子をエッチングで制作した。オランダ人同様、ポルトガル系ユダヤ人もレンブラントのよき蒐集家だった。

そのポルトガル系ユダヤ人であるスピノザの生家は、この裏手の同じ区画にあった。レンブラント工房の徒弟の一人であるレーンデルト・ファン・べイエレンは、スピノザのラテン語教師だったフランシスクス・ファン・デン・エンデンの家に寄宿していたというし、エンデンは、かつては画商だった。レンブラントとスピノザ、果たして実際に遭遇していたのだろうか。フェルメールとの関係を言う人もあり、色々な憶測を呼んでいる。しかし、ただ、ただ、彼は静かに生活していた、と考えられていた。スピノザは、そんなミステリアスな存在であった。

18世紀末から19世紀はじめにかけて「汎神論論争」は、別名「スピノザ論争」といわれ、多くの知識人たちを巻き込んだ。ドイツでは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743-1819)によって火が付けられる。その頃、スピノザは「無神論者で汎神論者、やみくもな必然性を説く人物、啓示の敵で、宗教をあざ笑い、国家と市民社会を荒廃させるもの、要するに人類の敵」とさえ思われていた。ヤコービは、超感覚的な対象をスピノザのように理性によって捉えることは出来ないとする立場だった。人間は、何かしら「在る」という存在を感得できるとして、そこに人間の自由を認めようとするのだった。

フリードリヒ・ハインリッヒ・ヤコービ
ヨハン・ペーター・フォン・ランガー画 1801

コトの起こりは、ゴットホルト・エフライム・レッシング (1729-1781) がスピノザ主義者だということを知ったヤコービがユダヤ人であり、あの音楽家の祖父にあたる思想家モーゼス・メンデルスゾーン (1729-1786) に真実かどうかを確かめるための書簡やり取りすることから始まり、それらの写しがハーマンやゲーテ、ヘルダーに送られ、彼らとの間でも議論が交わされるようになったことにある。メンデルスゾーンは、レッシングがスピノザ主義者だということを知らなかったし、積年の友人であった自分よりも面識の浅いヤコービがそのことを知っていることに大変なショックを受けるのである。

メンデルスゾーンは、スピノザに対する偏見はないが、その思想に精通はしていなかった。逆にヤコービは、敵の手の内をよく研究していたのである。徐々に二人の仲は、険悪なものになっていった。メンデルスゾーンは、ヤコービがレッシングのスピノザ主義を発表する前に、その汎神論的主張は純化されたものであるという趣旨の出版物を刊行しようとし、それを知ったヤコービは、メンデルスゾーンの許可なく往復書簡集を出版してしまったのである。メンデルスゾーンは厳寒の夜、ヤコービへの反論である『レッシングの友たちへ』の原稿を出版社に届けたが、胸の痛みを訴えて寝込み、5日後に亡くなってしまう。今回ご紹介する著書の一つ、ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』の訳者である吉田達さんによれば、ヤコービがメンデルスゾーンの寿命を縮めたと言われてもしかたない状況だったという。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
(1730-1788)アントン・グラフ画 1785

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは1744年、プロイセン王国の東部のモールンゲン、現ポーランド領モロンクに生まれた。父は織物職人で貧しい家庭に育った。7年戦争当時にモールンゲンに駐在していた軍医に見初められケーニヒスベルク大学で医学を学べるようになるが、馴染めず神学部に移り、そこで偶々、カントの講義を聞いたことから、その百科全書的な知識に感化される。それに加えて「北方の博士」とか「北方の魔術師」と呼ばれたヨハン・ゲオルク・ハーマンに深い影響を受けた。ドイツ語圏の各地で教師として、あるいはプロテスタントの聖職者として働きながら、詩作、評論、言語学、哲学、歴史、宗教、教育、自然科学、各国の民謡採集、翻訳など幅広い活動を行った思想家である。

ヘルダーは、シュトラスブールでは若きゲーテに大きな影響を与えることになり親密な関係となる。だが、カントはヘルダーの主著『人類史の哲学の構想』に対して否定的な評価を下し、ヘルダーもカント批判を展開するなどしたし、終生の師と仰いだハーマンにも、もう一つの代表作『言語起源論』を巡って批判を浴びるなど、この肖像画からは窺えない辛辣な性格が災いして、蜜月の関係にあったゲーテとも平穏でなくなっている。訳者の吉田達さんは、ヘルダーには孤独の影が付きまとうという。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
『神 スピノザをめぐる対話』

前回のバルーフ・スピノザ part1 では、スピノザのマノとしての出自と後の詩人や思想家たち、ハイネ、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フロイトなどへの影響についてご紹介したが、今回 part2 は、柱の一つとしてヨハン・ゴットフリート・ヘルダー著『神 スピノザをめぐる対話』をお送りする。本書はヤコービとメンデルスゾーンとのやり取りの渦中にいたヘルダーのスピノザ論と言っても良いもので、ある種スピノザ論の解説にもなっている。

このヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』と、もう一つの柱としてスティーヴン・ナドラーの『スピノザ ある哲学者の人生』という浩瀚な伝記の内容を併せてご紹介します。スピノザの伝記としては最良のものではないだろうか。筆者のスティーヴン・ナドラーは、ウィスコンシン大学マディソン校の哲学教授である。マルブランシュ、デカルト、ライプニッツ、カント、そしてスピノザの研究者として知られる人で、とりわけスピノザ研究では注目すべき業績を上げていて、その人生と哲学の総合的な研究で世界的な顕学として知られている。

その他に『エチカ』の解読には必須のスピノザ学者、エドゥイン・カーリーの『スピノザ「エチカ」を読む』、そして、ジル・ドゥルーズの『スピノザ』なども交えて盛りだくさんでお送りしたいと思っている。

 

何故、破門だったのか


 

コレギアント派の集会へ

メナッセ・ベン・イスラエル (1604-1657)
レンブラント・ファン・レイン 版画

15歳の頃に、彼は「ユダヤ教徒の最高の知恵者にも解決困難な問題」に遭遇したという。道元が本学思想に身悶えしたのに似ている。しかし、何の問題だったかは、はっきりしていない。満足した解答が得られなかった彼は、商売の関係で得た証券取引所での交友関係に知的な活路を求めるようになる。父親を失った後、商売をしながら「律法の冠」と言われる学塾に通ってラビ・モルテーラに聖書とその注釈などを学び、先ほどのメナッセ・ベン・イスラエルからユダヤ教神秘主義の手ほどきを受けた可能性が大きいと言われるが、それに満足できなかったスピノザは、広い学識と視野を持ち、幼児洗礼に疑問を持つメノー派のようなプロテスタント諸派の人々と付き合いを深めていった。彼らは、コレギアント派と呼ばれる人々で、平等で非権威主義的なクエーカー教徒たちに似ていると言われる。牧師を置かず、信仰は心の奥深くの内的信仰によってのみ獲得され、誠実で率直な態度で信仰を表明することを願う人々の自由と平等を守ろうとした。

ファン・デン・エンデンとデカルトの影響

そのような人々の中でも、先ほど述べたラテン語教師、フランシスクス・ファン・デン・エンデンはスピノザに大きな影響を与えた人だった。イエズス会に入会したが放逐され、医学博士の学位を取得したが画商と書店を経営し、それも上手くいかず、1671年までアムステルダムでラテン語を中心に哲学、科学、数学、物理などを手広く教えていた。その後、パリに学校を移し、フランス王ルイ14世に対する陰謀と共和国形態の国家樹立に加担したとして絞首刑になっている。故国ネーデルランドへの侵攻とそれを突き動かしている大臣たちへの憎しみがあったという。

スティーヴン・ナドラー
『スピノザ ある哲学者の人生』

彼の主張は、宗教的信仰は個人的なことがらであり、いかなる組織、権威によっても統制されるべきでなく、真の敬虔とは神の愛と隣人愛のみにあって、その外向きの愛、つまり公共の宗教的実践における所作は、しばしば迷信的態度と隣合せだとするものだった。後のスピノザの『神学・政治論』を彷彿とさせるが、彼に出会うまでにスピノザは不完全な形ではあったにしてもこれと似た思想を既に培っていたと考えられ、ファン・デン・エンデンの影響は過大視されるべきでないとナドラーは述べている。だが、少なくとも、彼からギリシヤ・ローマの哲学と古典を学び、マキアヴェリ、ホッブス、フロティウス、カルヴァン、トマス・モアなどの16・17世紀の思想に精通することができた。そしてスピノザは、おそらく彼のラテン語教授の助手をするまでになっていた

とりわけ、最も大きな影響はデカルトの思想から受けることになる。ルネ・デカルトは1596年にフランスで生まれたが、人生のほとんどをここネーデルランドで過ごした。この国の豊かさ、治安の良さを愛で、彼の得たかった自由と孤独と平穏を得たことを言祝いだのである。宗教者たちから無神論の疑いの目で見られながらもその影響力は翳りを見せることなく、スピノザが1654年から翌年にかけて哲学と自然科学を学ぼうとする熱情に答えたのはデカルトの思想であった。ファン・デン・エンデン自身、デカルト学派としての名声を得ていたのである。

 

破門/へレム

スピノザはユダヤ教との距離をとり始め、徐々にシナゴーク (礼拝堂) から身を遠ざけるようになる。ピエール・ベール は『歴史批評辞典』の中で、有名な事件についてこう書いている。スピノザは「『劇場から立ち去ろうとする彼を刃物で切り付けるという一ユダヤ人による卑劣な襲撃がなされなかったならば少なくともその後のしばらくの間は、おそらく共同体との接触に真に自発的に保つつもりでいた。『その時の傷は浅かったが、暗殺者の意図は彼の殺害だったと彼は確信した』(有木宏二 訳)。」

この頃、棄教を執拗に敵視する風潮があったようだ。この事件によって穴の開いたマントを彼は手放さなかったという。ともあれ、スピノザは魂の不死性を否定し、ユダヤ教の背骨とも言うべきモーセ五書 (トーラー) の神的由来を否定してあっさり破門となった。

ユダヤ教シナゴーグのコミュニティによるポルトガル語のバルーフ・スピノザへの禁令 1656年7月27日

1656年に破門され、ユダヤ教徒の共同体から閉めだされるのである。最大の理由は上記の「異端思想」「邪悪な意見」にある。1660年に執筆され始めた『神、人間及び人間の幸福に関する短論文』やその後の『エチカ』において、人間の精神は身体と共に完全には破壊されず、その中の永遠なるものが残存する(第五部定理23)としているが、それは個物ないしその様態の形相が神にふくまれているように神の無限の観念の中に含まれると考えているからである(第二部定理八)。しかし、人間にとって、その精神は身体の持続する間だけしか持続しないとしている。スピノザにとっては延長も思惟も神の属性だったから人間の精神の一部は神の側にあるとするが、肉体の死はその個人の魂の死でもあるとした。そして、報酬と罰を分かち与える神の概念は、愚かな擬人化に基づくと言い切り、組織的宗教を否定する。人間存在はいかなる重大な意味においても自由であり、彼ら宗教者が自らの救済と福利に貢献すべく「彼ら自身によって」何かを行いうるということを否定するのである。

 

精神と物質の媒介概念


 

ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』からご紹介する。話は、ギリシア語で民衆の友を表すフィロラウスと神に心酔する者を表すテオフロンという二人の人物の会話から成り立つ伝統的な対話形式となっている。第五話からテアノという女性も登場するが、フィロラウスというと古代ギリシアで地動説を唱えた人として知られるし、テオフロンのテオ~というネーミングはよくある。テオは神を意味する言葉だ。

フィロラウスは、テオフロンからスピノザの『知性改善論』を見せられ、形而上学と道徳との心酔者としてのスピノザを発見して驚愕する。厚顔無恥の無神論者という風評に値する言葉など、全く無い、極めて真摯な倫理観を見たのである。そして、それは流布されてきたような汎神論でもないことに気づくのだった。キリスト教では、神は世界に対して超越的な存在であり人格性を備えている。汎神論のように神を世界そのものと見ることは、神の否定であり、無神論と同義となるのである。

スピノザの言う実体は、一切の事物の本質であり、存在の唯一の原因であり、彼はそれを根本に据えたかったのだとテオフロンは言う。普通いう意味の世界の実体的事物は何一つとして実体ではなく様態、つまりライプニッツのいう「実体の現象」である。全てが支え合っていて、最終的な一なるものに支えられている。それこそが自立性そのものであり、唯一で最高の実体だというのである。そして、万物をかつて産出し、いまなお産出して、どの事物にもそれぞれのあり方を分かち与えている力能は、その唯一の自律的なものに結びついているというのである。

しかし、フィロラウスはスピノザの言う無限に延長する神と言うのが全く理解できないという。それは、デカルトの誤った表現の影響だと指摘するのである。

ルネ・デカルト(1596-1650)
フランス・ハルス(1581-1666)画

テオフロンは、この疑問に対して、スピノザがこういう誤りを持ち出すのは物質から魂を、延長しているものから思考するものを区別する時だという。それは、物質と精神をつなぐ媒介概念を持っていなかったデカルトの二元論に反発したからであったというのだ。そして、「デカルトが物質を延長によって定義したのは間違っていました。延長からは物体の多様性は説明できません‥‥デカルトの自然原理は間違っているだけでなく馬鹿げてさえもいます(『遺稿集』)」というスピノザの言葉を紹介している。

フィロラウスは、属性といった不適切な言葉ではなく、「神はもろもろの無限の力となって無限な仕方で、つまりは有機的におのれを啓示している」と言うべきだと述べる。すべての世界において神は有機的なかたちで、つまり活動する力を通じておのれを啓示するというのである。その力は、どれも我々に一なる無限な能力の様々な属性を知らせてくれる。この力に引力や結合力、溶解力や斥力と言った多様なエルネギーを見るのは、ヘルダーの時代にあっては自然なことだったろう。スピノザが早くに世を去ることなく、これらの科学の巨大な進歩を体験していれば、彼の体系はもっと見事なものになっただろうというのである。

ちなみに、『エチカ』第二部の定理「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である。」これなど、唯物主義者の名を冠せられる理由の最たるものなのだろうけれど、その前の定理一では「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。」と述べられている。このことは、心身並行論の所でもう一度取り上げます。

 

アムステルダムの喧騒からレインスブルグへ


 

1650年代前半、アムステルダムの証券取引所で生涯の友となるヤリフ・イェレスゾーンと出会う。コレギアント派の会員で『普遍的キリスト教信仰の告白』を出版した人だ。忠実なスピノザの弟子となるピーター・バリンクはメノ―派の商人だった。そして、同じくメノー派の商人の出で、若くして亡くなった友人のシモン・ヨーステン・デ・フリースは、スピノザが経済的に困窮しないよう、彼の妹と義理の弟に生活費の支払いを約束させていた。ミルトンやホッブスとも親しかったイギリスに住むヘンリー・オルテンブルクやその友人で科学者だったクリティアーン・ホイヘンスとも親しくなっていた。

アドリアン・クールバハは、デカルトに強い影響を受けた思想家でスピノザとは互いに強い影響関係にあったといわれる。彼はスピノザの『神学・政治学』の初期の草稿に目を通していたといわれ、その著書『百花繚乱の花園』が宗教的冒涜を批判され、1669年に獄死したことが、スピノザをして『神学・政治学』を出版するトリガーになったといわれている。ロデウィック・メイエルは、熱心なデカルト派で理性的な聖書解釈を謳った『聖書解釈の哲学』を出版したが、発禁処分となっていて、スピノザが書いたのではないかと誤解する人もあったようだ。このような知的状況下にスピノザはいたのである。

1661~1663年にかけて住んでいたレインスブルグの下宿

1661年8月、スピノザはレインスブルグ (ラインスブルフ) へ移る。ライデンの近郊数キロにある小さな村で、かつて、コレギアント派の本拠地であった所である。化学者で外科医のヘルマン・ホーマンの家に下宿していた。この家の裏手にはスピノザがレンズ研磨のための道具を設置した部屋があった。彼は、望遠鏡や顕微鏡の製作でも知られるような存在になる。ライプニッツは、彼を卓越した光学器械製作者で、すばらしい鏡筒製作者と呼んだ。

スピノザの人間関係は、ファン・デン・エンデンのラテン語教室やコレギアント派の人々、レイデン大学のデカルト派の人脈から生まれたもので、スピノザは彼のサークルでデカルトの講義をしていた時期があった。この地でヨハンネス・カセリアスという弟子がスピノザの家に居つくようになったり、新たな自分のサークルができ始め、レイデンやアムステルダムなどの人々との交際を深めていた。静謐な生活とイメージされがちだが、かなり人的な交流があったようだ。しかし、訪問者には自分の思想を明らかにし過ぎることには慎重だったと言われる。

1663年頃には、生前唯一実名で出版された『デカルトの哲学原理』を完成させている。アムステルダムの友人たちが、デカルトの哲学をスピノザが概説したものを欲していて、知り合いのリューウェルツゾーンが印刷にかけることにスピノザは同意したのである。この頃には、『エチカ』の執筆は始まっていたようだ。

 

神の知性・神の意図


 

ライプニッツに月桂樹の冠を授けるゾフィー・フォン・デア・プファルツ
カール・カンデラッハ(1856-1920)制作 ハノーファー市庁舎 部分

フィロラウスはスピノザの神に知性も意図も無いことに当惑を覚える。スピノザに一目置いていたライプニッツでさえ、『弁神論』で、それについて反対していたものだった。これに対してテオフロンは、神の実在は、スピノザにおいて徹底的に現実だった。それは、いっさいの完全性を最高に完全な仕方で有しているのだから、思考を欠いているはずはない。スピノザはライプニッツより一歩先んじていたという。

神の完全で無限の思考を有限な実在の知性やイメージのあり方から厳しく区別するのは、神における思考が根元的で絶対的であり、種において唯一であって、有限な実在の知性やイメージとは比較にならないからだという。それが、ただ名前において一致しうるのみであって、他のいかなる点においても一致しえないことは、あたかも星座の犬と動物の犬との関係に等しいスピノザは言う。ちなみに大犬座の一等星がシリウスである。

「現実的知性は、有限なものであろうと無限なものであろうと、意志・欲望・愛などと同様に、能産的自然ではなく所産的自然に数えられなければならない(『エチカ』第一部定理三一)」とスピノザは述べる。能産的自然はいつも同じ自然であり、自然の力とその活動する力は、如何なるところでも同一である。すべてがそれによって生起し、一形態から他の形態へ変化していく自然の諸法則や諸規則は、どこにおいても常に同一だからである。如何なるものであれ、そのものの本性を認識するための根拠は、また、同一でなければならないとスピノザはいう (『エチカ』第三部 序文)。

スピノザ研究者のエドゥイン・カーリーは、『スピノザ「エチカ」を読む』の中でこう述べる。スピノザは人格的創造者としての神を拒否し神の内に刻み込まれている属性としての自然の法則と同一視した。「彼は、神と自然を同一視するが、その際、自然は事物の全体と考えられるものではなく、事物によって例示される、秩序ある最も一般的な法則と考えられている (開龍美・福田喜一郎 訳)。」これに対して、所産的自然は神の本性、あるいは神の属性から生み出される一切のもの。神のうちに在り、かつ神なしには在ることも考えることもできない物と見られる限りにおいての神の属性のすべての様態である。従って、神を能産的自然=法則と同一視するなら、汎神論とは言えないことになるのである。これについては、ヘルダーも既に気づいていたようでフィロラウスも納得する筋になっている。

ベネディクトゥス・デ・スピノザ『エチカ』
ベネディクトゥスはラテン語名

さらに、カーリーは、スピノザの『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の言葉を引用する。「‥‥すべての人が神に帰している多くの『属性を、私は被造物と見なします。これに反して、彼らが先入見にとらわれて被造物とみなしている他のことどもを、私は神の属性とし、彼らの考えに誤解があることを主張します(同上」神が自己自身から、あるいは自己自身によって存在する存在者、万物の原因、全知、全能、永遠、無限‥‥といったものはいずれも被造物であって思惟する存在者の様態にすぎないという。表象や概念は、人間の身体から、あるいは身体を通して生じるのであって、それらを生み出す原因とは異なるのである。これが、犬座と犬の違いである。

『エチカ』第一部 定理一七では「神は本性の法則によってのみ活動する」と述べる。これは言いかえると、自由原因として考えられている神は、自分自身の本性の法則によって神以外の事物を生み出し、それに作用してゆくのであり、神以外のそうした事物はそのような法則から結果するものと理解されなければならないのである。

ここで、スピノザの心身並行論に触れておきたい。まず、「精神と身体とはまったく同一の個体であり、それがある時に思惟の属性のもとで、またある時は延長の属性のもとで考えられる」という『エチカ』第二部 定理二 備考にある言葉が最重要となる。肉体と精神というような二元論から、デカルトは、人間がそのような異なる実体の合体だと考えた。そのことは既に述べた。スピノザでは、精神と肉体は一つにして同じものの二つの異なる表現となる。人間の精神と同じものである人間の身体とは、延長の様態であると考えるのである。

ここで、鍵となるのは、存在するのは唯一の実体であり、その実体が完全性を含み、如何なるものも欠いていないという意味で、思惟実体と延長実体があるとすれば、両者は同一の実体でなければならないということを私たちが納得している限りにおいて、肉体と精神は同じものであるということが言えるのである(エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』。デカルトの私は考えるものであるという主張は、スピノザにおいては、私の精神は思惟の様態であるというふうに言いかえることができる。そして、思惟の様態が存在するのであれば、思惟実体がなければならないし、同様に延長の様態が存在するのであれば、延長実体が存在しなければならない。実体が一つであれば、思惟実体と延長実体は一つのものである。これが心身並行論のスピノザの論拠である。そこには、身体と精神の一対一対応があるだけでなく、同一性が存在しているのである。

 

エチカと神学・政治論の執筆


 

スピノザ『エチカ』草稿 バチカン図書館

1665年、スピノザは、レインスブルグを離れて、デン・ハーグの近郊にあるフォールブルグに移る。画家の親方というダニエル・ティーデマンの自宅に下宿していた。この頃、デン・ハーグで、天文学や物理学などで知られるクリティアーン・ホイヘンスやその弟のコンスタンティンとも親交を深めていた。新たなサークルも出来はじめる。しかし、北ヨーロッパを疫病が襲い、スヒーダムという田舎の農園で過ごすことになる。1664年から1665年にかけて『エチカ(倫理学)』の草稿は、ほぼ完成に近いものになっていた。それは、『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の「神・人間・人間の幸福」という三つの主題に対応する三部構成だったと思われる。しかし、1675年頃まで彼の手元にあり、死後友人たちが出版したものは、「神・人間の精神・感情・感情に対する隷属・知性の力を介しての自由」という五部構成に変更されていた。

オランダにおける田舎暮らしは、平穏であったが、1665年にフォールブルグの地元教会の牧師職を巡る人事で、保守派と自由主義的な抗議派との対立に巻き込まれた。スピノザは、無神論者と決めつけられる。胡散臭く、表面的な議論で、見かけ倒しの無神論を説いていると言われ、あらゆる宗教を否定したという非難に面食らった。この神学者たちの偏見に対して、それを回避すべく書かれたのが『神学・政治論』である。自分たちが考えている事柄を口にする自由と、行き過ぎた権威と牧師たちの利己主義に抑圧されないための対抗手段だった。

ヨハン・デ・ウィット(1625-1672)
アドリアン・ハーマン(1603-1671)画

1666年は千年王国論者たちにとってキリストの再臨と聖者たちの支配が確立される年だった。ユダヤ教のメシアへの希望はサバッタイ・ツェヴィというトルコ出身の東欧系ユダヤ人の手によって実現されるかに見えた。ガザのナターンという弟子によってメシアに祭り上げられたツェヴィに対してユダヤ教徒たちが熱狂し、キリスト教徒たちにも影響を与えるほどになる。ユダヤ教の中心地となっていたアムステルダムは、その坩堝と化したが、結局、ツェヴィはイスラム教への改宗か死かを迫られ、改宗を選択し、ユダヤ教徒の夢は水泡と帰した。これも、宗教の本質とは何かを考えさせる事件の一つだったようだ。

1670年に『神学・政治論』が匿名で、架空の出版社名で出版された。三年半にわたる労作だった。総督の廃止に対する指導的役割を担っていた共和主義者のヨハン・デ・ウィットは、デカルト派による大学紛争時にもある程度の学問の自由を認めた人だったが、そのウィットも『神学・政治論』には寛容ではなかった。その内容を弁護しようとしたスピノザの面会を断っている。著者のナドラーの言葉を借りれば、原理的自由主義者のスピノザと実用的自由者のデ・ウィットとは同じ政治的見解を持つことはなかったのである。ただ、二人ともオランダ改革派教会の宗教的権威と対決する立場にはあった。彼ら二人が接触していたかどうかは分かっていない。

しかし、この著作がもたらした結果は壮絶なものだった。かつて、スピノザの哲学を知りたがったウィレム・ファン・ブライエンベルフでさえ「それは用意周到な憎悪と地獄で鍛錬された思考の堆積に満たされ、それらに対してすべての理性的な人間は、事実すべてのキリスト教徒は、吐き気をもよおす著作である」と述べた。カルヴァン派の支流である抗議派、デカルト派、コレギアント派からさえも反論が相次ぎ、トマス・ホッブスでさえその大胆さに当惑したと言われる。流通差し止めにはなったが、そのような決定を実地に移すかどうかは各市長の判断にゆだねられていた。1670年代前半を通じて書店でその本を買うことは可能だったという。発禁処分になったのは1674年だった。スピノザは、自分が執拗に捜索され逮捕されなかったのは、一般の人たちが読めないラテン語で書いたということを理解していて、オランダ語に翻訳されたものの出版は差し止めたという。

1671年には、光学へ関心を持っていたライプニッツから手紙を受けとっているが、このドイツの顧問官に対して気を許してはいなかったという。スピノザ没後の著作集に触れたライプニッツは『人間知性新論』(こちらは、フィラレートとテオフィルとの対話になっている) の中で、こう述べている。「それらの神学的な教えが、一般的に考えられているほどには実際的な効果を持たないと主張する卓越した善良な人々がいく人かいることを私は知っている。同様に、教義によっては進んで何の価値もないことをするようには、けっして導かれないすばらしい性格の人々も私は知っている。‥‥エピキュロスとスピノザは、模範的な人生を送ったと認めることができる。(有木宏二 訳)」

 

ネーデルランド共和国とスピノザの死


 

デン・ハーグとデ・ウィットの虐殺

1669年の暮か1670年の早くにスピノザはデン・ハーグに引っ越している。最初波止場の裏通りに下宿したが、1年後にヘンドリック・ファン・デル・スパイクという画家の親方の家に移った。ここで亡くなるまでの5年半を過ごすことになる。その部屋には寝台と小さな机、三脚の各卓があり、より小さな机が二つ、レンズ研磨機、約150冊の本、そして、肖像画とチェス盤があるだけだった。彼の生活ぶりは物静かで、遠慮がちだったが、郎らかで、自制心に富み、親切で思いやりがあったとスピノザの伝記作者でルター派の牧師であったコレルスは書いている。

オランダの地図

スピノザは、ファン・デル・スパイク家の信心深さに興味を持ったようで、コレルスの前任者であるコルデスの説教についての内容を家族から聞くと、それを高く評価し、自らもその説教を聞きに行くほどだったという。スピノザは、神の言葉による啓示の受託者としてのキリストを賞賛していた。

英蘭戦争当時に在ってフランスは都合の良い存在だったが、今や敵にまわった。1667年にはスペイン領ネーデルランドに侵攻する。ネーデルラント連邦共和国の政治指導者で、英蘭戦争で共和国を率いたヨハン・デ・ウィットは戦争を回避しようとし、オランダは経済制裁をフランスにかけるようになる。ルイ14世は、スペイン領ネーデルランドの接収のみならず、ネーデルラント連邦共和国を打倒し、ウィレム三世を主権者とする君主政に移行させようとして1672年、共和国に侵攻した。

オランダは大敗し、デ・ウィットと彼の支持層は軍事的に無能力で、公金を着服し、共和国を敵に委ねようとしていると非難される。彼は四人の刺客に襲われ、手傷を負い政務を行えなくなる。その間にウィレム三世は総督として宣せられたが、今度は、デ・ウィットの兄のコルネリウスが総督暗殺の容疑で捕らえられるという事件が起こる。たが、濡れ衣だった。無罪となったが、総督派にたきつけられた群衆は、監獄に押しかけた。デ・ウィットは兄が付き添って監獄から出ることを希望していると信じ込まされ、彼が到着した時には、そこには彼ら二人しかいないという状況だった。こうして、群衆に取り囲まれ虐殺されたのである。これによって、州の自治と寛容な知的環境は一掃され、オランダの真の自由は終わったのである。

1676年、デン・ハーグを通過したライプニッツは、この事件についてスピノザと話していて、彼が「君たちは最悪の野蛮人たちだ」という張り紙をしに現場に行こうとしたところ、大家のファン・デル・スパイクは家の鍵をかけて、それを阻んだと語った。この時、数週間にわたって何度か顔を合わせ、互いの哲学について話し合っている。おそらく『エチカ』の内容についても話題にのぼった。ライプニッツは、「しかし、私は彼が表明し、私に示した証明のいくつかは、必ずしも正確ではないことに気が付いた。形而上学において真の証明を提出することは、人が考えているほどには簡単ではない(『哲学著作集』)」と述べている。

高まってゆく評価とエチカの出版延期

『プファルツ選帝侯カール・フィリップ』
アンソニー・ヴァン・ダイク 画 1637

スピノザの評価は、一部では高まりを見せるようになっていった。1673年には、ゾフィーの兄にあたるプファルツ選帝侯カール・ルートヴィッヒの代理人からハイデルベルク大学の哲学正教授の誘いを受けている。これはデカルト学の造詣の深さを買われたのである。しかし、彼は断った。理由は二つあると著者のナドラーは述べている。まず、教えるための時間が割かれること、そして、公的に確立された宗教を撹乱しないために哲学の自由を制限しなければならないことだった。この判断は適正だった。フランス軍はこの翌年、ハイデルベルクに進軍し、大学は閉鎖され、教授たちは全員追放されたのである。

1672年にはオランダ共和国の大部分がフランス軍の手に落ちた。ユトレヒト市は1673年までの一年半、フランスのコンデ公に支配されることになる。彼は、モリエール、ラシーヌ、フォンテーヌといった作家を支援していた人で、スピノザと話しをしてみたがり、ルイ14世のために、彼の著書を一冊献呈すれば、年金を受け取れるように計らうとまで言った。それで彼をユトレヒトに招いたのである。実際にスピノザがコンデ公に会えたかどうかははっきりしないが、そこで出会った知識人たちとはよい仲間となった。しかし、結局年金の話は断っている。

知名度が増すに従って、彼の一日の大半は訪問客の相手をすることとなり、健康が既に不安なものになっている今、時間は貴重なものになっていった。そんな中でヘブライ語の文法書を手掛け始める。それは、超自然言語ではなく、普通に話せるための文法書で、彼の没後『ヘブライ語文法綱要』と題して出版されている。1675年までには『エチカ』も出版されてもよい状態までになっていた。しかし、またしても改革派の指導者たちによる非難が再発しはじめた。あの『神学・政治論』の筆者が、それを上回る著作を生み出そうとしているというのである。こうして『エチカ』の出版は延期された。

1676年には彼の胸の病気はかなり悪化していた。おそらく、長年、レンズを磨いた時に生じる粉塵を吸い込んできたことが原因にもなったのだろう。この苦しいなか『神学・政治論』の続編である『国家論』が執筆され始める。あらゆる政体の中で民主政が最善であるという主張は、ネーデルランド共和国の政治的状況に密接に関係していた。個人が理性に基づく生活を営む社会を目指し、なんらかの実用的な政治科学が考察される。

終焉が近づきつつあった。瀉血によって何度か静脈を切開していくらかは良くなったが、やせ細り、顔色は悪くなっていった。突然の死だった。死去する前には、深刻な兆候は見られなかったが、死んだら手紙と『エチカ』などの草稿をアムステルダムで出版を手掛けるリューウェルツゾーンに送るように大家に頼んでいた。彼は、自らの死についてあれこれ思い悩むことはなかったという。「自由の人は死の全てを最小に思惟する。そしてその叡智は、死についてではなく、生についての瞑想である」と彼は『エチカ』に書いていた。

 

スピノザ「レンズ磨きは完成するのか」


 

ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』の中で、テオフロンは影響には二つあると語っている。一方はいたるところに広がり、他方は広がらないが、しっかり根を下ろすと言う。青二才ではなく哲学的で批判的な人物が、いまこの時代にスピノザの『神学・政治論』に注釈をつけて出版してくれたらよいのだがと述べているのである。その後の時代が彼の議論の何を確証し、なにを反駁したかを見るのは有益だろうという。

part1でご紹介したようにスピノザの思想の持つ巨大な力能は、その影響力を現在にまで及ぼし続けている。アントニオ・ネグリやジル・ドゥルーズなどは良い例だと思うが、その核は「思想を表現する自由」と「生の哲学」かと思われる。ドゥルーズの著作『スピノザ』から少し拾ってみたい。

ジル・ドゥルーズ『スピノザ』

ドゥルーズは、スピノザには、「生の哲学」があるとは言う。私たちを生から切り離し、生に敵対する一切の超越的価値を告発するというのである。善悪、功罪、罪と贖いといった概念に人は毒される。生を毒する物、それは憎しみであり、それが反転して自己に向けられ罪悪感となる。悲しみそれ自体、憎しみ、反撥、嘲り、恐れ、絶望、良心の呵責、憐れみ、敵意、妬み、‥‥を一歩一歩たどっていく。その徹底した分析は、希望の内にさえ、安堵の内にさえ、それを隷属感情とするに足る悲しみを含むというのである。真の国家 (共同社会) は国民に、褒章への希望や財産の安全よりも、自由への愛を提供するものなのだ。‥‥彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えているような在り方を否定する。生をあげて私たちは、死を礼賛しているにすぎないのだと。

あの一見、冷たい幾何学表現の『エチカ』から、このような温かいものが流れ出していることは、ある意味驚異といえるのではないか。思うにスピノザはレンズを芸術的に研磨する。そのように自己の思想も、けっして長いとは言えない生涯の中で磨き続けてきたのだ。ヘンリ―・ミラーの言うように。

「思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしない準備でしかない。いつかレンズは完成されるだろう。そして、その日こそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれるだろう‥‥‥(鈴木雅大 訳)」

 

 

参考図書 並びに 引用文献

 

エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』 デカルト説とスピノザ説を比較しながらスピノザ説が解説されていく名著。

バルーフ・スピノザ part1 イルミヤフ・ヨベル『スピノザ 異端の系譜』自由としての人間の力

 

スピノザの迷宮、危険な思想家、異端者、唯物論者、無神論者などなど様々なレッテルを貼られてきた思想家。今回は、そのバルーフ・スピノザを取り上げます。

「本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示した様々な論考からできている(吉田量彦 訳)」と彼は『神学・政治論』に書いている。何が問題だったんだろうか。まともな正論に思える。生まれたのが早すぎたのか。あるいは、社交辞令を欠いた文章だったのだろうか。世間を怒らせ、騒がせたのは確かだったようだ。

「表現の自由」の代表者「自由の擁護者」とも言えるのだが、それだけの哲学者でなかったことは後世の思想家たちへの影響を考えればわかる。イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』からご紹介しよう。

●ハイネ「我々の同時代の哲学者たちは皆、おそらくそうと知ることもなく、バルーフ・スピノザが磨いた眼鏡越しに世界を見ている」
●ヘーゲル 「哲学をはじめるにあたっては、人はまずスピノザ主義者であらねばならない。」
●マルクスは、1841年、23歳の時に『カール・ハインリヒ・マルクスによるスピノザの〔神学・政治論〕』を書いたが、すべてスピノザの文章の引用であった。
●ニーチェは、1881年の夏、37歳頃、こう友人への手紙に書いている。「ぼくはすっかり驚きに打たれ、すっかり魅了されている。ぼくには先行者がいたのだ、しかもなんという先行者だろう ! ぼくはこれまでほとんどスピノザを知らなかった。」
●フロイト「私は自分がスピノザの学説に負っていることを喜んで認めます。私がはっきりと彼の名前に言及しなかった理由は、私が私の仮説に思い至ったのが、彼の著作の研究よりも彼が創出した雰囲気からであった、という以外にありません。」(小岸昭、E.ヨリッセン、細見和之 訳)

彼が創出した雰囲気とは何か。今回は、それを追ってみたい。

筆者のイルミヤフ・ヨベルは、1935年、イギリスの統治下にあったパレスチナのハイフアに生まれる。イスラエルの哲学者、思想家として知られる人だ。エルサレムのヘブライ大学で哲学と経済学を学ぶ。ラジオニュースの編集や司会者などをしながら学業を支えたという。ソルボンヌ大学やプリンストン大学で学び、後にそれらの大学の客員教授となっている。1968年にヘブライ大学のネイサン・ローテンストライヒのもとで博士号を取得する。

彼の哲学的な位置は、スピノザのように内在世界を存在する全てのものの源泉とする「内在の哲学」と言われている。イスラエルの政治コラムニストでもあり、文化・政治評論家でもある。イスラエル哲学賞、フランスのパルムアカデミック勲章のオフィシエでもあるらしい。

 

 

マラーノ (豚) とスピノザ


 

ポルトガル-イスラエル・シナゴーグ 内部  アムステルダム 
スペイン系ユダヤ人であるセファルディックユダヤ人によって建てられた、当時、世界最大のシナゴーグ。

スピノザの破門

1656年7月、アムステルダムにいた24歳のスピノザに破門宣言が下され、ユダヤ人のポルトガル共同体から追放される。これは、スピノザ一個人に関わるだけではない複雑な歴史的経緯が介在していた。

16世紀の終わり頃、スペインやポルトガルからユダヤ人たちがアムステルダムにやって来るようになる。いわゆる、セファルディムと呼ばれる人々で、彼らは、まだ、公でその宗教を実践することを許されていなかったが、1639年にアムステルダムのハウトグラフに初めてのシナゴーグ (通称ユダヤ教会) が建設され、後の1675年に大規模なポルトガル – イスラエル・シナゴーグが完成した。

スピノザは、1632年アムステルダムで生まれる。ユダヤ教徒共同体の記録では、「祝福されし(者)」を意味するベントという名前になっているが、公式文書では、そのヘブライ語であるバルーフと記載されているようだ。父親ミカエルは、ポルトガルから渡って来たアムステルダムの共同体行政の理事で、信望の厚い貿易商人だったがスピノザが22歳の時に亡くなる。6歳の時には既に母ハンナを失ってした。

スピノザは、ヘブライ語やタルムード、聖書などを学び、伝統的なユダヤ教育を受け、ユダヤ哲学を学んだ。やがて弟ガブリエルと共同で「ベントならびにガブリエル・デ・スピノザ商会」を設立して果物の輸出入を手掛けるようになる。23歳まではスピノザとユダヤ人共同体との友好な関係は表面的には変化がなく、シナゴークとも問題はなく、税金も納め、寄付も支払っていたという。ここからは、再びイルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』からご案内する。

イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』

破門は、アムステルダムのユダヤ人共同体における規律と宗教的権威を行き渡らせるための一般的な措置だったらしい。異端行為や冒涜行為の他、シナゴーグに武器を持ち込む、人を中傷する文書を配る、非公式の集会を開く、納税の拒否などの、いわば、違反行為への訓戒という意味が強かったという。悔い改め、慈善金を寄付するなどすれば破門は解かれた。しかし、スピノザは謝罪せず、破門を受け入れる。

ユダヤ社会からは、完全にオミットされ、存在しないのと同然の扱いを宣言される。しかし、財産を奪われることもなく、迫害の犠牲などでもなく、社会から追放されたのでもなかったという。その生活において必要な孤独ではあったが、世間から疎外されているわけでもなく、社会性を失うことなく、友人にも崇拝者にも恵まれていた。研究を続けていけるような年金で質素な生活を営んでいけたという。

マラーノ

16世紀終わり頃から、スペイン・ポルトガルといったイベリア半島からユダヤ人たちが宗教的に寛容だったオランダに避難し始めていた。異端審問から逃れるためだった。

500年に亘ってスペインは、世界におけるユダヤ人離散地「ディアスポラ」の中心地であった。しかし、1391年に下級聖職者や失意の副司教たちに扇動された暴徒によって「死か洗礼か」をスローガンにユダヤ人虐殺が行われ、生き残ったユダヤ人たちは十字架に屈することになる。1411年には、ユダヤ人改宗化熱が再燃し、その後イベリア半島の一つの社会現象といったものに発展していった。キリスト教側は、キリスト教への改宗者とその子孫を「コンベルソ」と呼び、ユダヤ教徒側は強制改宗者「アヌシム」と呼んだ。しかし、当初から彼らは一緒くたに「マ」、つまり「豚」という蔑称で呼ばれいたが、やがてこの呼び名が定着していった。

改宗者の多くは隠れユダヤ教徒であって日本の隠れキリシタンのように秘密裏に信仰を守り続けた。そのことは当局にとっては、頭痛の種となり、トラブルや迫害を誘引する結果にもなる。そして、改宗クリスチャンのユダヤ人の中には、その商才をふるって新興都市ブルジョワ階級にのし上がり、羨望や嫉妬の的にもなった。ついに、1449年、トレドは最初の深刻なユダヤ人虐殺「ポグロム」の地となった。それは、忌まわしいあの優生思想に基づくものだったのである。ナチスより約500年早い。

イザベル一世(1451-1504)作者未詳

アラゴン王にフェルナンド二世が、カスティリャ王に、その妻イザベル一世が即位し、スペインは近代的統一と世界帝国への基礎を形作るが、彼らはカトリックによる新たな専制君主国家を作り上げるための政策としてローマ教皇庁とは無関係なスペイン独自の異端審問所を設けた。異端者と魔女を一掃するためのこの装置は、スペイン全土に恐怖と疑惑と虚実あいまった密告の嵐をもたらしたのである。

コロンブスがインドに向かって旅立とうとしていた頃、多くのユダヤ人が隣国に逃れていった。しかし、ポルトガル王がマヌエル一世に交代すると、彼はスペインのフェルナンド、イザベル両王の娘との政略結婚を望み、彼らは自国と同様にポルトガルでのユダヤ教徒の一掃を条件にした。はポルトガルでよく組織され、とりわけ国際貿易での活躍は目覚ましかった。しかし、その地で、ほぼ半世紀の間、迫害されずにいたユダヤ教徒にも異端審問の魔の手が伸び始めるのである。1536年に異端審問所がポルトガルでも開設された。

ユダヤ人たちは16世紀から17世紀を通じてベニス、ハンブルク、ロンドンなどへ、とりわけ貿易都市アムステルダムへ逃れていき、中には公然とユダヤ教徒に復帰した人たちも多かったのである。彼らが大切に守り続けていた信仰は、モーゼの律法が最も重要なものだった。しかし、断片的で、歪められてしまっていたのである。モーゼの律法の個々の規律と慣習は徐々に記憶から消えていくが、手に入れられる情報は、ラテン語訳聖書、キリスト教の史料、反ユダヤ教文献でしかなかった。記憶にとどめていた数少ない戒律は、異端審問所に見つかれば命にかかわった。マが保持していたユダヤ教にもキリスト教の影響が入り込んでいった。そういった状況の中にスピノザの両親もいたのである。

 

『神学・政治論』既成観念を切り捨てる


 

このような複雑な宗教的・社会的境遇の中に彼は育った。そして、表面的には平穏なオランダの宗教・政治事情は、内部で軋轢を深めていたのである。オランダは、カトリック教国スペインの支配から脱した独立戦争後、カルヴァン派の流れを汲むプロテスタントが興隆する。この改革派は主流派と幾つかの非主流派に分裂し、訳者の吉田量彦さんの言葉を借りれば育ちすぎて収集のつかなくなった盆栽のようになった。

バルーフ・スピノザ『神学・政治論』上

それに、政治体制も総督派と議会派が抗争していた。総督はスペイン支配時代の監督責任者で、独立後は独立戦争の英雄オラニエ公ウィレムの子孫が世襲していた。原則として州ごとの任命だったが、いくつもの州を兼務したである。それに対して総督を排して議会主導を狙うのが議会派だった。改革派の宗教者たちは、それらの政治家たちに取り入ろうとしていたのである。

『神学・政治論』が書かれたのはこのような状況の中だった。著者名なし、出版元はハンブルクのヘンリクス・キュンラート出版だが架空の出版社名でした。実際に出版されたのはアムステルダムでスピノザの友人の出版社だったという。でも、すぐにスピノザが書いたのではないかと噂され始める。

こんな風に書かれていた。「自然的な神の法において、特定の歴史物語を信じるよう求められることはない。神への愛は神を知ることから生じるが、神の知のほうは、それ自体で確実に知られる共有概念から汲み出す必要があるからだ。(吉田量彦 訳)」ここまでは、おおよそ問題などないのだが、次はかなりどぎつい。「だから、わたしたちが最高善をきわめるには〔たとえば聖書という歴史物語を信じることが必ず求められる、などという意見こそ的外れのきわみなのである。(同上)」宗教界にケンカを売っているとしか思えない。

この1670年に出版された本は、当時の新たな政権によって危険視され1674年には禁書処分となった。これで、本書は異端の書とされ、よくて「無神論と紙一重の自然主義」と呼ばれるようになる。ライプニッツの大学時代の教官だったヤーコプ・トマジウス (1622-1684) の言葉だ。だが、この時のスピノザの気持ちを200年後の、フロイトのこの言葉ほどに代弁しているものはないのではないだろうか。

「精神分析を最初に提唱した者が一人のユダヤ人だったということも、おそらくは全く偶然ということはないだろう。こういう新しい理論の形で信念を公言するためには、孤独な野党という位置を受け入れる、ある程度の覚悟が必要だった――そのような状況にユダヤ人ほど親しんでいる者はいないのである(『精神分析への抵抗』小岸昭 他訳)。」

 

エチカ』幾何学的迷宮


 

バルーフ・スピノザ『エチカ』上

本質・属性・様態

スピノザは宗教の本質とは何かを考えようとした。そう考えても不思議でない状況でもあった。それに思想的な背景としてデカルトの機械論的二元論とホッブスの社会契約論の登場があった。彼は、最初、デカルトの顰 (ひそみ) に倣おうとしたが考えを改め、独自な道を歩もうとする。こうしてスピノザの主著『エチカ』は書かれるのだが、結局彼の死後にしか日の目を見なかったのである。

エチカ』の翻訳者畑中尚志さんは、こう纏めておられる。実体 (スブスタンティア) とは自己原因と等置であり、自然と等置である。スピノザは凡ての原因であり自らは何の原因も要しない存在を神としている。この自己原因の神は実体と等しいものとなる。神が自然と等しいとなれば汎神論となると。

スピノザはデカルトよりもアリストテレス派だと言われるが、アリストテレスの強い影響下にあったトマス・アクィナスがエッセ (存在) を神としていることスピノザが、神は実体 (存在) と等しいとしていることには確認しておかなければならない。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、スピノザの「実体」「本質」「属性」「性質/態」といった言葉の使い分けに注目しているので、まず、アリストテレスの実体、本質、属性、性質についての定義を見てみたい。

今道友信さんの『アリストテレス』によれば、存在には、ギリシア語で on (存在)、ousia (実体)、einai (存在すること) の区別がある。存在については、ヨハネス・ロッツ『ハイデガーとトマス・アクィナス』神は創造において性起するに書いておいた。これらの語は、いずれも、英語で言う to be にあたる einai の文法変化によるものでousia は einai の女性形現在分詞 ousa の変形であるという。実体 (ousia/ウーシア) に関していえば、以下のように区分できる。

(一)第一実体 他の属性として述語とならないもの、究極の主語または主体(基体)、すなわち個体のこと。端的な物体ないし単純物質のことであり、自ら主語であって他の述語とならないもの。特定の人や特定の物を指している。
(二)第二実体 これと指しうる存在であり、かつ離れて存在しうるもの、つまり各々のものの形式 (morphē) と形相 (eidos) である。一般的な人や馬と言った類や種といった普遍的観念的な実体を指している。

今道友信『アリストテレス』

このように実体とは、<形相と質量からなるそれぞれの個体である「個物」と普遍的観念的な実体としての「形相」の二つに分類される。ちなみにスコラ学では個的現実的存在 (ens) と本質 (essentia) に向かう実体とに分けられている。第二実体における形相が本質ということになる。次は、表現である諸属性とは何かと言うことになる。

認識されるということは何らかの意味で述語化されることであり、自己において述語とならないものは認識不能ではある。述語になるものを纏めたものとして範疇がよく知られていて、主語的存在者が範疇的存在者を属性として持つと考えられていた。範疇が実体的存在者の属性ということになる。その範疇には、実体 (ousia/羅substantia)、量、質、関係、場所、時間、状態、持前(所持)、能動、受動の10項目が挙げられていて、ものの大きさ、形、色、それが在る場所などの性質、特長を指している。それで、属性とは、本質=形相を構成する性質と考えられる。巻末に存在から範疇へ至る一覧表を掲載しておきます。

しかし、アリストテレスは、個物としての「個の存在」を実体として設定したために、その個物性を普遍者であるカテゴリー(述語)で主張し尽くすことは出来ない。例えば、日々、刻々と変化するものを表現し尽くすことには限界がある。それで、カテゴリーの諸形式による一般的な述語に留まってしまうと今道さんは言う。実体的存在の<存在は底をつかれず残るというのである。そこには、従来の論理学の限界があったのである。

一方、『エチカ』では、実体、属性、様態の定義はこのようになっている。

・定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
・定義四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
・定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在り、かつ他の物によって考えられるもの、と解する。
・定義六 神とは絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
(『エチカ』第一部 「神について」/畠中尚志 訳)

バルーフ・スピノザ『エチカ』下

唯一の実体である神は無限に多くの属性からなり、その属性の各々が、その類において無限であると述べられている。自然の中の一切のものは、属性の変状もしくは、様態であり、これらは個物と言う名で呼ばれる。属性には、現実に人間の認識の対象となる延長 (物体が空間の部分を占めている性質) の属性と思惟の属性が挙げられているが、このようなものが属性、つまり「実体の表現」である。

アリストテレスでは、存在ー実体=個物・形相ー本質ー範疇となっていた階層構造が、スピノザでは、実体―属性ー様態という形に圧縮されている。

デカルトの考えでは、物体という実体の属性延長であり精神の属性思惟であり、それらによって認識が可能になるとして、延長と思惟とを別々の属性の様態として区別した。人間は合成的実体で精神と身体から成り立っている。しかし、延長を持たない精神が、どうやって延長を持つ体を動かせるのか十分な説明ができなくなる。

スピノザにとっては、存在するのは唯一の実体で、完全なものであり、如何なるものも欠くことがない。もし、思索実体と延長実体が存在するとしたら両者は同一の実体でなければならない。『エチカ』第二部の第一定理「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である」、同じく第二定理「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である」を受け入れるなら思惟実体の様態はことごとく延長実体のいずれかの様態と同一でなければならず、その逆も然りということになる。この対応関係を明らかにしているのが定理七「観念の秩序及び連結は物の秩序及び連結と同一である」ということになる。これが、デカルトと決別する心身並行論となるのである。 (エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』)

様態は実体が変化してゆくかりそめの形であり、実体の本質と知性が把握するものである。神は自己原因であり、あらゆる事物の原因であるが、固有の本質を構成する諸々の形相自身のうちに事物を産出し、その本質の観念のうちに自らを理解するままに諸観念を創出するという。それらの産出は、範型といったものを模倣することなく直接に生み出される。そこには、自身が産出し作用する絶対的な力=コナトゥスがあるとドゥルーズはいうのである(『スピノザと表現の問題』)

スピノザは、神という実体から無限というマジックを使いながら「自然」に直結させようとしているかに見える。ドゥルーズは、メルロ=ポンティが17世紀の哲学における最も理解しがたいものとして「無限から出発する無邪気な思惟方法」と呼ぶものを紹介している (『有名な哲学者』) が、ドゥルーズ自身は、積極的な無限の力と現実性とを説明するために、独創的な概念要素を持つあらゆる手段がスピノザには必要であったという。それで 『スピノザと表現の問題』という著作が生まれた。僕は、思うのだけれど、アリストテレスの底をつかれず残る実体的存在の<存在>は、無限によって救われるのかもしれないのだが

スピノザの無限とパースの点

伊藤邦武『パ―スの宇宙論』

自身が絶対無限である実有の神は、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなる実体であった。自然の中の一切の物は神あるいは属性の変状ないし様態であり、個物と言う名で呼ばれる。神はこれらを自由意志ではなく法則によって必然的に生じせしめる。ここは『エチカ』の最大の謎である。誰でも疑問に思う。絶対無限には、無限の属性があり、無限の様態が生まれる。どうやって?

その糸口を探るのに絶好の著書がある。伊藤邦武さんの『パ―スの宇宙論』である。そこには、基本的でありながら哲学的にも数学的にも極めて厄介な連続性の問題が述べられていた。直線は、点の無数の連続的な繋がりとして考えられるが、その線を切ったときその切り口は点なのか?もし、点と点の間を切り離すことができるのなら隙間がすでに存在することになり、その直線は、有限個の点でできていることになる。ライプニッツも悩ませたこの問題は、深刻な「迷宮」だったのである。

この問題を解決するためにアメリカの論理学者・思想家であるチャールズ・パース(1839-1914)は、アリストテレスの言う線を作る点は「線を連続させるとともに、これを限定区分しもする。点は、長さの部分の始めであるとともに、他の部分の終わりでもある。」という考え方をとる。この考え方からすると、点は自分の分身を作るらしい。なんだか忍者みたいだ。ルール違反のような気もするのだが、線の端っこは、魔法のようにいくつもの点が飛び出すことができ、それらの点は、分裂(破裂)の前には一点であったというのである。一つの点は、0と1の間の存在する無理数のようなものとして考えているのだ(超準解析の無限小の概念を思わせるといわれている)。この考えは、ぼくが『出現と運動』というシリーズを描く時にずっと頭にあったことだけれど、これならスピノザの無限という迷宮を抜け出るためのアリアドネの赤い糸口になるんじゃないのかな。メルロ=ポンティはスピノザの無限を見くびっていたのだと思う。

カントール集合

ちなみに、この問題を数学的に解決したのはドイツの数学者ゲオルク・カントール (1845-1918) だと言われる。集合論から様々な種類の「数の系列について、無限の連鎖の特徴を規定する方法を確立するとともに、様々な無限系列の種類の間に見られる階層的関係を明瞭にする方法を提示した。図のカントール集合は線分を三等分して、その真ん中の三分の一を抜き取る操作を無限に繰り返す。面白いのは、パースが連続体を扱っている時にカントールの方法を見出していることだ。連続と無限。だか、無限には気をつけた方がいい。

 

スピノザの雰囲気


 

イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』に戻ろう。スピノザは聖書をそれ自体の記述から科学的とも言えるテキスト解釈から出発しようとする。それは聖書以外の間テクスト性を考慮しなければならないことを意味していた。一方で、スピノザの神は絶対的な内在性の神であり、現実の総体と等しいという理性的直観を根幹に据えていた。それをどう見るかは問題となる。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
(1770-1831)シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるレリーフ

ヘーゲルが150年を経てスピノザの観点からより精神性の強い哲学を発展させようとしていた。存在や実体を超える神といった超越の観念を否定するだけでなく、内在の領域を神聖なものとみなした唯一の思想家だとヨベルは言う。弁証法的な過程を通して彼が「絶対知」と呼んだ哲学の最終的な総合形態の体系を現わそうとした。まず、最初にスピノザの立場を本質的で必然的なものと承認し、その後にこの立場それ自身が自らより高次の立場に高まっていくようにさせたスピノザの内在性を踏み台にしようとしたのだ。

ヘーゲルの新しい体系の中で特権的な地位にあるのは、このスピノザとアリストテレス、カントのみだとヨベルはいう。ヘーゲルにとって絶対的なものは、スピノザの言う「もの」のような実体ではなく、カントの言うような主観の「私は考える」でもなかった。これらを契機としながら、よりいっそう高次の総合的立場で包含しうるような「概念」と呼ばれる絶対者だったのである。ヘーゲルは、スピノザの問題は、あまりに神が多すぎる点にあるという。スピノザの果てしない全体性は、一切の差異を抹消する圧倒的な原理だというのである。

カール・マルクス (1818-1883) 1865

マルクスは、スピノザの『神学・政治論』から社会的・文化的発展の微妙なメカニズムを哲学者として追及するという強い示唆を得る。スピノザは、そのための言語や神話や解釈学のある種の用法を編み出し、それを大衆の意識の次元に役立てようとしたが、それは、いわば上から目線だった。これをマルクスは、大衆自体をプロレタリアートとして変容されること、理論は大衆の意識を彼らが経験している何らかの現実の窮状に対して目覚めさせるようにしなければならないとした。ボトムアップにしようとしたのだ。大衆=マルチチュードへの目線である。マルクスは、未来のための変革は、ユートピア的な夢想ではなく、現実の状況が指し示している事柄に対する科学的な理解を伴っていなければならないとしたが、そのことをスピノザは既に予言していたとヨベルは述べている。

ニーチェは、スピノザの言う神即ち自然が「世界とは結局古くから愛されてきた無限の‥‥神に似たものだ」「何らかの仕方で古き神がなお生きている」と信じたいという「願望」であると語った。ニーチェは、神から至高の善と智恵を取り除き、至高の力に還元してしまう。それは、「運命への愛」と「永劫回帰」によって排除されたものだった。スピノザの考えた「自身が産出し作用する絶対的な力」であるコナトゥスだけが残ったのである。

フロイトは、ニーチェの陶酔的で華麗な思弁的思想を恐れて読むのをやめたという。彼には純然たる経験的な探求が必要だった。それには、ニーチェは濃すぎたのである。スピノザの思考様式こそ、ダ・ヴィンチとの共通する性格を持っていたという。それがフロイトの言う「雰囲気」だった。『レオナルド・ダ・ヴィンチと彼の幼少期の記憶』の中で彼はこう述べた。「その飽くことなき、倦むことなき知への渇望のゆえに、レオナルドはイタリアのファウストと呼ばれてきた。しかし、‥‥レオナルドの発展はスピノザの思考様式に近づいていくという意見を口にしてみることも可能なのかもしれない(小岸昭 他訳)。」

ハイネは、こう述べている。「汎神論はドイツでは公然たる秘密である。実際我々は有神論の段階から抜け出たのである。我々は自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない。我々は成年に達し、父の監視を必要としていない。我々はまた偉大な職人の工作品でもない。有神論は、奴隷と子供、ジュネーブ人たちの宗教、時計職人たちの宗教なのだ(『歴史』小岸昭 他訳)。」

ヘブライ人たちは神を恐るべき専制君主と考え、キリスト教徒たちは慈愛に満ちた父と考える。ルソーとその弟子たち、ジュネーブ学派全体は、神を聡明な技術者と考えるとハイネは述べる。機械主義的世界観はデカルト以来、主流になりつつあった。ハイネは、スピノザの思想をヘーゲルよりに解釈しなおしているとヨベルは言う。神は自然と一体である。しかし、ハイネの場合、そこにはキリスト教の聖なる精神ではなく、「聖なる物質」があった。当世風の唯物的な影響が萌し始めている。しかし、注目すべきは「我々は自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない」という言葉だろう。「我々は神々の民主主義を創設しつつある」とも言う

 

自由としての人間の力


 

ハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)
シャルル・グレール 画  1851

スピノザの雰囲気とは、結局、ハイネの言う「自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない」という言葉につきるのではないかと思われる。それはどのような歴史的な権威よりも、当世を席巻する流行の思想よりも、自らが考え、自らが打ち立ててゆく思考の自由と言うべきものだった。これが、獄中から立候補して国会議員になった思想家アントニオ・ネグリへのスピノザの一撃である。

ネグリは、スピノザにおける先進的なもの、さらに強力な何かがあるとすれば、それは絶対的に唯物論的な意識であり、生政治的な意識であるとしてこう述べている。「制度的な関係が常によりいっそう構築されるとしたらそれは、常によりいっそう充溢していく自己が生産された結果です。スピノザの汎神論とは――今日もっとも宗教的な哲学者でさえだれもこのことを話さない理由はわかりませんが――愛を共同=<共>でいとなむことを通じて真実を生産するなかに、人間の力を再認することです(『スピノザとわたしたち』信友建志訳)。」

ちなみにノヴァーリスは、スピノザの愛についてこう述べている。「スピノザとツィンツェンドルフは愛の無限のイデーを探求し、花の雄蕊にとまって、愛のために自己を実現しつつ自己のために愛を実現する方法を予感していた(『ゾフィーへの手紙 1796/7/8』中井章子 訳)。」ノヴァーリス、う~ん、香しい。

さて、『エチカ』の最後にスピノザは、このように述べている。「私の示した道はきわめて峻厳であるように見えるけれども、なお発見されることはできる。また、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら幸福がすぐ手近にあって大した苦労なしに見つかるとしたら、それが、ほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である畠中尚志 訳)。」

Q.E.D.(Quod Erat Demonstrandum)これが示されるべきことであった。

 

付 アリストテレス「存在の一覧表」 今道友信『アリストテレス』より

付帯的存在とは、偶然的な意味で存在と言われるもの。例えば、家を建てた場合に、その家がある人には快適な存在となり、ある人には不便な存在になる。このような偶発的存在は学問の対象にならない。

第一実体とは、それぞれの個物、例えば、植田という名前の人であり、基体と呼ばれる。
第二実体とは、その個物に属する種や類に関する普遍者を指していて、精神の眼で見抜かれるという意味の「見られた形」= エイドスという言葉で呼ばれた。プラトンの言うイデアと同じものである。しかし、アリストテレスの形相は、生物における種概念のように個物に内在する普遍あるいは形式であるために実体と不可分であった。これに対してイデアは価値の理念として必ずしも実体を必要としない場合がある。アリストテレスは、人はイデアの影ではなく、私の私と言う実体の中に人と言う種を内包していると考える。第一、第二を併せて実体とは、個物(基体)と形相を示していることになる。

もし、私が人であるという判断が正しいなら、私の中に私と言う基体と私の本質的属性である人間とが、私において結合しているのを命題として結合させたからだということになる。そのような命題は無数に生み出せる。しかし、このような多様な存在が何故存在するのかを問う時、必然的に第一の存在、あらゆる現象の統括者の存在が想定される。それを探し求める第一の哲学が神の存在を証明する神学となる。

認識されるということは何らかの意味で述語化されることであり、自己において述語とならないものは認識不能ではあるが、個物を原因から分析することはできる。大別すると大理石の柱であれば、材料としての大理石である質量因、内的組織としての規定、型、形態である形相因、柱にするという目的である目的因、大理石が柱になるという転化、つまり物事の静止の第一の起点とそこから動き出すという始動因あるいは起動因に分類される。

その「述語する」という動詞であるカテゴリオからカテゴリー(範疇)という言葉は由来する。どちらかと言えば論理的整理というより文法的整理と言った意味合いが強いという。「ソクラテスは賢い」における「賢い」は形容詞であるし、「その事件はリュケイオンで起こった」と言えば、「リュケイオンで」は場所を表す副詞で「起こった」は動詞である。言辞の数だけカテゴリーがあるが、それを纏めて10に分類したものが有名な範疇である。そのうちの実体というのは紛らわしいけれど以下のような定義になっている。

実体 (ousia/羅substantia)、「なんであるかに応ずるもの」
量 「いかほどに応ずるもの」
質 「どのようにに応ずるもの」
関係「に対してどうあるかに応ずるもの」
場所「どこに応ずるもの」
時間「いつに応ずるもの」
状態(位置)「どう置かれているかに応ずるもの」
持前(所持)「何をそなえているかに応ずるもの」
能動「することに応ずるもの」
受動「されることに応ずるもの」

 

引用文献 及び 参考図書

 

バルーフ・スピノザ『神学・政治論』下

ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』

 

アントニオ・ネグリ『スピノザとわたしたち』

 

エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』

 

 

 

 

 

 

ヨハネス・ロッツ『ハイデガーとトマス・アクィナス』神は創造において性起する

 

『ヘラクレイトス』(前540頃-前480年頃)
ホセ・デ・リベラ(1591-1652)画

ヘラクレイトスが、人間の二面性について語っていることを前にご紹介しました。人間は自らの内奥でロゴスと一つでありながら、不可解にもロゴスから離反し、不幸な分裂に陥っている。この分裂が、生涯に亘る人間の行動、すなわちモノとの交わり、他者との交流、自分との交流を特徴づけている。人間は現にありながらも現に存在しないというのです。

ロッツは、このヘラクレイトスの言うロゴスが、ハイデッガーがあらゆるものの根拠としている<存在>に類似していると言います。ここで、ロゴスと<存在>が類似しているのを確認することは、彼の愛した詩人たち、トラークル、リルケ、ヘルダーリンの世界を考える上で非常に重要だと思われますが、今は置いておきましょう。

ハイデッガーの根本問題は<存在>を目指していました。この問題は<存在>の意味、<存在>が最も内的に何を言わんとしているかを目指しています。それが、ハイデッガーにとって究極の根源でした。人間は分離された主観性ではなく、世界と関わっていて、いわば世界にさしこまれています。それ故、人間は<世界内存在>と言えるでしょう。「人間は様々な存在者に囚われているので、存在者において間断なく存在が輝き出ているにもかかわらず、その一なる存在を考慮することなく忘却し、ついに否定してしまう」のです。

ここで、ロッツは問います。<存在>と神とは関係があるのかと。そして、彼は、ハイデッガーの思想が無神論でも有神論でもないと答えます。ただ、思惟の道は存在から聖なるものへ、聖なるものから神性へ、神性から「<神>という語で名づけられるべきもの(『ヒューマニズムに関する書簡』)」へと続いていると述べるのです。道は<存在>からなおも先に示された諸段階を通って、やっと神々へと至る。だから、<存在>を端的に神と同定することはできないとしているのです。

前々回、柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part1 スンマに殉じた黙り牛で、ハイデッガーの高弟であり、自身も神学者であったヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』から「トマスの存在論」を少しだけ書いておきました。その続きをご紹介します。僕は、いつもハイデガーと表記しているので、こちらの名称で統一させて下さい。

ヨハネス・バプティスト・ロッツは1903年にドイツのダムルシュタットに生まれます。新トミズムとカトリック的存在哲学を研究したイエズス会士です。オーストリアのインスブルックで神学を、オランダのファルケンブルクで哲学を学んだ後、ドイツのフライブルクでマルティン・ハイデッガーと、マルティン・ホーネッカーに哲学を学びました。

その後、イエズス会付属のプラハのベルスマンカレッジで、次いでミュンヘンの哲学大学で教鞭を執ります。1952年から1985年まで、ローマのポンティフィシア・グレゴリアン大学でも働いていました。ロッツは、現代哲学とカントの超越論的方法をキリスト教の教義における考え方の中に取り入れようとします。そして、ハイデッガーの思想を基にトマス・アクィナスの伝統を再解釈しようとしました。今回の著作は、その主著と言っていいでしょう。1992年にミュンヘンで亡くなっています。

 

存在と存在者


 

存在忘却、あるいは存在喪失によって人間の危機が訪れている。それは、西洋の宿命だった。このハイデッガーの主張は20世紀の思想に大きな波紋を投げかけました。救いは存在への回帰にあるが、人間は「故郷喪失」の内で「彷徨」している。それ故、この存在への回帰は今日的課題と言えるのです。しかし、そこに至るためには多くの階段を昇ることが必要であり、ハイデッガーが成し得たのは最初の段階だけだと彼自らが述べています。従って、存在へと至る道、更にそこから先の神性へと至る道は遠いと言えるのです。

ハイデッガーのこの存在に対する批判は勿論あります。フランクフルト学派が知られていますが、そのテオドール・アドルノは『否定弁証法』の中で、この存在は単なる幻想であって無意味だと結論付けたと言います。アドルノもまた存在者に向かい、存在忘却を免れてはいないと著者のロッツは言うのです。ハイデッガーは、『存在と時間』の中で「呼び声によって呼びかけられている」のは「世間的自己」であり、自己自身が「己自身に向かって、すなわち自己のもっとも固有な存在可能性に向かって」、「己にもっとも固有な可能性のうちへ」と「呼びたてられる」と述べます。「現存在は良心において自分自身を呼ぶ」と言うのです。

存在は存在者の背後にある

ヨハネス・ロッツ (1903-1992)
『ハイデガーとトマス・アクィナス』

この曰く言い難い<存在>は事物認識の刻一刻の時間化された形態においてのみもたらされます。眼差しは事物に照準が合わされ、この事物は意識の前景のみを形成します。それは、存在が時間を介して現前性として規定されるといいます。時間の系列に従って、見たり、聞いたり、触ったりしたものを存在者として認識し、そこにまた存在もあるということですね。しかし、その<存在>は背景にあって、背景として究明される。存在と存在者は明確に区別されています。しかし、この<存在>は逃げ去り、誤認され、誤解され、ついには拒絶されます。存在は、無という覆いに隠され、ついに存在忘却へと沈むと言うのです。真の存在は隠されているということです。そして、無から存在への転向が起こります。存在の空け開きが起こるのです。これらはハイデッガーの『存在と時間』を貫いている問題でした。

トマスの存在論は、存在への関係は語られるが存在からの根拠付けがないとして存在忘却を超えていないとハイデッガーは考えていました。しかし、ロッツは、トマスの言うエンス (存在者) は、人間にとって最初に把握されるものである。しかし、トマスにおいても存在者はエッセ (存在) の働きに由来し、それ故、存在者は存在を支持すると考えられるとしています。存在—存在者の関係にエッセ-エンスの関係を重ねていることになります。本書の重要な主題の一つはここにあります。

 

トマスのエッセとエンス

では、トマスにおいて存在エッセと存在者エンスとは何だったのでしょうか。トマスは『真理論』の第一項「真理とは何か」の中で、異論・反対異論・主文・異論回答というスコラ学の講義の形式で論を展開しながらエッセとエンスの関係を顕わにしていきます

①異論からの抜粋
<真>は<現体(エンス)>と同じものである。
アウグスティヌスは『独白』の中で「<>とは『現 (あ) るがままのもの (=エッセを有する) ものごと』であると言っているが「現るがままのものごと」とは「現体」に他ならない。したがって>の内容は現体>と全く同一事に帰する。

②反対異論からの抜粋
『原因論』(プロクロスの『神学網要』からの抜粋をまとめた小著) にいうように「被造事象の第一のものは、エッセである」し、‥‥それゆえ<>と現体>とは別のものである。

トマス・アクィナス『真理論』
『真理論』と『ペトルス・ロンバルドゥス命題集注解』からいくつか抜粋を収めた貴重な著書

③主文から抜粋
「実体」の名辞の顕示するのはエッセのある特殊様態であり、換言すれば「独立的<現体>」(per se ens) のことである。
アヴィケンナがその著『形而上学』のなかで、「おのおのの事象の真理はその事象に内蔵されるエッセの特性である」とし、また或る学者が「<真>とは、エッセとそのエッセを容れるものとの統一である」とするのはかかる見地に立つものである。

④異論回答から抜粋
「<真>とはエッセを有するものである」というとき、その「エッセを有する」はエッセの現実機能の意味でいわれているのではなく、結合 (=述定) する知性の標識であり、つまり命題の肯定を意味するとも解釈される。(花井一典訳)」

解説しますと、①異論では真理とはエンス (存在者) であるとされますが、②反対異論では、被造事象の第一のものはエッセであるという反論が紹介され、真とエンスとは別だと言います。③主文で、エッセの特殊状態が現体 (エンス) であり、真とはエッセとその容れ物エンスとの統一であると結論づけられます。そして、④異論回答で①の異論に登場したアウグスティヌスの「エッセを有する」という言葉は「AはBであると言う時のエッセ、つまり、Be動詞のことだと言っているのです。今道友信さんが、いみじくも「ガアル存在」の「デアル化」と呼んでいるものです。

エンスは存在者と訳されますが、訳者の花井さんによれば、印欧語思想圏にあっては質・量・関係・所有・時・所・配置・行為・受動といった範疇にわたる包括概念だったと指摘しています。「ものごとのあるがまま」を指す言葉だと注意を促しておられる。そして、ens は Be動詞 esse の分詞と言いますからエッセとは「在る」、「存在する」という意味になります。

存在動詞ッセは、トマスの神学においては「エッセンチア (本質) の現実化」を意味していました。本質は、実体の下位概念です。例えば、本があると言う場合、本を現実の個物と考えると「本がない」ということを説明する時、困ったことになります。「~がある」は、それ自体としては可能態にある本のエッセンチアが「現実化している」場面の記述であると考えられているというのです。そして、既に存在が保証されている個体について述定する場合ですが、例えば、石は重いという時、この命題はエッセンチア「重い」とエッセの結合から構成されているのです。エッセによって表現されるものが本質 (エッセンチア) だということができるでしょう。アリストテレスの存在解明は、存在に合わせて言語を明確にすることだと言われますが、それをトマスは引き継ぎ、ロッツはこれを踏まえて<存在>にエッセを当てました。

ハイデッガーの神とトマスの神


 

存在が存在者を問うということ

存在忘却は、存在の本質の見守りへと転回します。存在の空け開けが起こるというのです。空け開きを存在は与え、時間をも与えます。そこで、ロッツは問います。<それが与える存在とは何であるのか、<それが与える時間とは何であるのか。<それが与える>において何が与えられるのかと。ハイデッガーは、思惟を通して存在の存在者からの根拠づけに引き戻ることなく、時空間が開けられると考えます。しかし、この場合、<それ>は存在を指しています。

人間は、この本来的な時間の内に立つことによって存在を受け取ります。現前性が許し与えられるのです。それは、すなわち現前性としての存在を、及び開けたる場所の領域としての時間を、それらの独自的なるところへ差し渡し、譲り渡すこと」だと言います。そのように人を「彼の独自なるところへもたらす」ことが性起なのです。あたかも暗闇に光がさすように存在への一瞥が与えられると言っていいと思いますが、そこに、ある空間と時間が与えられるという分けですね。この存在が自らを様々に証しすることをハイデッガーは歴運と表現しました。この歴運において存在は自らを歴史として展開します。

「時間と存在は性起において性起し、それどころか存在は性起へと消滅する」とハイデッガーは言います。「性起はあるのではなく、それは性起を与える、のでもない」ただ、残っているのは「性起は性起する。」それで「われわれは同じものから同じものへ向かって同じものへと語る」というのですある種、悟りに近いと言っていいと思います。そして、ハイデッガーにとって、神もまた性起するのです。しかし、ハイデッガーの言う神は神々を指しています。「神もまた存在者であり、存在者としての存在と、世界を世界化することから性起する存在の本質において立っている 」と微妙な言い方で述べていますが、性起から由来する神が性起の始元としては見なされていません。トマスは、神は究極的に即自的に性起を凌駕する故に性起の始元と考えていると著者は言います。ここには大きな違いがあります。

ハイデッガーにとって神は肯定的にも否定的にも決定されないものです。「あらかじめ長い準備のうちで存在自身が自らを開け透かす」、それに続いてようやく、「存在の近さ」からのみ神の問題は決定しうるとハイデッガーは考えていました。存在の歴史の終りに神はあるのでしょうか? 彼は、人間が神へと至るのは、人間において世界が「もっとも近しいもの」として「存在の真理」に人間を近づけ、そして人間を「この性起とひとつにする」ことにあると考えていたようです。

著者はこう述べます。トマスは、性起を凌駕した存在者に繋がれない存在、すなわち性起に関して存在そのものを明らかにするように原因づけるものをはじめて可能にし、開くと言うのです。難しい言い方ですが、性起の始原としての存在を開くというのと同じ意味かと思います。この存在にハイデッガーが到達していない限り、存在の最も内的な自己に関しては、彼は究極の忘却を免れないというのです。ハイデッガーはここで反撃されていますね。存在は存在者という形で時間性の中に投げ出され、存在はその段階に留まっていて永遠性を獲得していないからだというのです。

『トマス・アクィナス』(1225頃-1274)
サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)画

トマスのエッセは神なのか

トマスは『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第一項「真理は事象の本質をなすものであるか」において神とエッセとの関係をこの様に述べていますが、主文の一部だけをご紹介します。

神の (本質) たるエッセは全てのエッセの原因であるとともに、神のなす認識は凡ての認識の原因だからである。それゆえ、神は本原的<現体>(primum ens) であったように、本原的真理 (primum veritas) をなす。右論述から推察されるように「いかなるものもエッセを有する程度に応じて真理 (合致の度合い) を有するからである」(花井一典 訳)。

トマスは、神を現体 (エンス) の本原体であるとしてその本質をエッセと考えていたようです。同じく『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第二項では、こう述べています。

「‥‥いかなる事象も被造的エッセを分有しており、これによってそれ自体の内実としてエッセの述語を得る(formaliter est)。そして、他方、個々の知性も光を分有しており、これによって事象について判断を下す。ただし、ここに言う光は超被造的光を範型に仰いでいる (花井一典 訳)。」

真理の概念を構成するのは、「事象のエッセ」と「認識能力が事象のエッセに適った把握を為すこと」の二点であるとしているのです。知性によって<存在の充溢>が知らしめられる。トマスに於いては、真理の認識に、この両輪が必要とされているのです。付け加えると、トマスは、悟性は媒介、すなわち移行であって、この媒介は感性において始まり理性において終りを告げると考えていました。感覚的なものの最も高次なものが精神であるとして認識の全体性を破壊することなく、時間を通り抜け、永遠なるものへの上昇する。そのことによって<存在の充溢>へ接近を図るというわけです。これは、感性・悟性・理性の三位一体的な浸透と言うことができ、カントの考え方に一石を投じます。

 

存在の階梯を登り切った時


 

ロッツは、トマスが新プラトン主義的な命題をアリストテレスでもって補完し、深めたと言います。新プラトン主義は、超越的なイデアに上位の段階の存在が下位の存在に徐々に不完全性を増しながらも触れていて、その本質を分有する形で存在の大いなる連鎖を形作っていると考えます。存在の大いなる連鎖については、アーサー・O・ラブジョイの同名の立派な著書がありますが、”記号の組み合わせが全知を導く ” part1 ルルスの術 「アルス・コンビナトリア」にも少し書いておきました。この無の淵に至る垂直性に対して個々のものの中に、アリストテレスのいう形相 (個々のものの本質) を見ていることになると思われますが、存在者 (エンス) は存在 (エッセ) の容れものであったことを思い出してください。ここで、プラトンの垂直性とアリストテレスの水平性は、ゴシック建築の如く見事に統合されることになります。

ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』

新プラトン主義の一者からの流出という問題と存在との関係を考える上で非常に面白い例があります。それは、ジル・ドゥルーズがスピノザの命題と表現を考える場面です (「第11章 表現の内在性と歴史的要素」)。内在性と表現の論理的な結びつきは複雑な伝統を持っているのですが、ドゥルーズは、全てはプラトンの分有から始まるように見えると言います。何が面白いかというと分有する側と分有される側の問題なのです。つまり、存在と存在者との分有の関係です。

流出と分有

プラトンの分有の原理は、とりわけ分有する側から考えられてきました。分有は、分有される側にいわば突発的・暴力的に現れている。つまり、トップダウン型の方向性を持っていて、いわば押し付けられるという分けです。しかし、分有されるものが不完全なものであるなら、分有を賦与されることは、完全なものが模倣されて与えられるということになり、外部に模倣者、つまり芸術家を必要とするとドゥルーズは言うのです。賦与者と賦与されるもの、そして被賦与者の三者がありますが、流出の過程ではそれぞれの被賦与者に対して賦与される内容が異なっているということになるでしょう。

ここで、なぜ第一原因は一者なのかとドゥルーズは問います。分有される側から分有の原因を求める時、分有を超えて、あるいは分有の上にその原理は見出されなければならないからです。第一原因は必然的に有あるいは実体を超えています。つまり、存在者や存在を超えていると考えることもできるわけですね。存在の向こうに別のメタ存在を立て、それを神として考えることもできる。ロッツは、この問題を神の創造という問題の中で取り扱いますが、そのことは、トマスの創造の所で取り上げましょう。

分有の変遷

プロティノスは、分有は質量的でも、模倣的でも、ダイモーン的でもなく流出的であると考えていました。やがて、新プラトン学派でアカデメイアの最後の学頭であったダマスキス (480頃-550) は、多が一者の内に集められ、集中され、包括されているが、一者はまた多の中に自らを展開しているとしています。これが、中世からルネサンスにかけて極めて重要になった一対の概念、「包み込む-展開する」であるとドゥルーズは述べています。双方向的ですね。

アウグスティヌス (354-430) は、この流出を神の創造に繋げます。神の内に諸々のイデアがあり、このイデアは範型的な価値、つまり手本としての価値を持つと考えます。イデアは神の無限の有を表しながら、神が意図し、為すことのできるものを表現している。神の内のイデアは範型的な類似であり、神によって無から創造される事物は模倣的な類似と言えるでしょう。分有は一種の模倣ですが、模倣の原理はモデルと模倣されるものの側に見出されるとしました。後に、ボナベントゥラ (1221頃-1274) は、表現は内在的で永遠であり、自らを表現するものとの関連においては多であるとしました。表現する芸術家は神の側にあるということでしょうか。

ちなみに、スピノザは流出や範型といった事柄に関する従属を取り払って、解放してしまいます。「無限の様態的変様に様態化される限りにおいて」神は、常に直接的に産出するとしました。「実体は自己自身のために自らを表現する。」この表現は形相的 か、あるいは質的だとドゥルーズは言います。「実体はあらゆる属性を包括する神の観念において自らを表現する」という分けです。

 

創造とは性起のことなのか


 

ギリシアのポイエーシスとキリスト教の創造

アウグスティヌスは、創造する精神は、時間も空間もなくして自らを動かし、それは創造した精神を時間を介して空間なしに動かし、物質的なものを時間と空間を介して動かすと述べています。これは明らかにアリストテレスの第一動者を思い出させます。ダンテの神曲』天国篇に登場しますね。ロッツは、トマスにとって運動は「創造」であるが、それはハイデッガーの言う性起に近いのか? 性起は「創造」の意味で解釈しうるのか? と問います。

聖アウグスティヌス(354-430)
マルク・アルシス 作 1715

ギリシアにおける創造=ポイエーシスには、キリスト教のように無からの創造という概念がありません。ギリシアのポイエーシスは変化なのです。第一質量の地水火風への変化を考えていただければ良いでしょう。ハイデッガーの言う創造は、ポイエーシスであり、変化であるとロッツは言います。性起から出来する、現前するものを現前化させることは、「アリストテレスにおいてはポイエーシスとして解釈され」、「のちに創造と解され」、最終的には超越論的意識による対象の措定へと流入すると述べているからです。

キリスト教の伝統に立つトマスにとって「創造」は「変化」では、ありませんでした。この「創造」は、個々のものの本質である形相原理がモノにおいて創造されると言うのです。それだけでなく、第一質量をも創造され、モノそのものとそれに付帯するすべてと共に創造されることになります。

創造は性起を思い起こさせる

トマスは『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第一項の中で、「エッセの第一原因は同時にまた真理の第一原因であり、自ら第一の<真>をなしており、それは神である」としています。一方で、『真理論』では、創造された第一のものはエッセ (存在) だと述べています。「自ら第一の」という言葉に注目したいと思います。スピノザは「実体は自己自身のために自らを表現する」と述べましたが、トマスにとって神は自己の原因であり、その自己表現が創造であるといったらよいでしょう。トマスの神は第一原因なのです。ハイデッガーの神々は自己原因の神ではありません。

全ての存在者の存在が問題にされます。存在者 (エンス) は「変化」に留まり、存在 (エッセ) は「創造」に到達しているとロッツは述べています。絶対的な存在から「創造」が起こると言い換えてもよいと思います。存在はそれぞれの存在者をこれこれであると規定する形相の諸規定を含んでいる。つまり、存在者は存在の一部を分有していて、存在が第一のものであるということになり、存在は絶対的であるということになるのです。それはいかなる仕方でも存在者の存在ではなく、自存する存在なのだというのです。神は「創造」によって自らを被造物に伝達し、それと同時に神は自らに留まるという分けです。これはハイデッガーの言う「脱去」に近いと言います。ロッツはこう述べます。

「神は『創造』によって自らを被造物に伝達し、それと同時に神は自らに留まる。あるいは、神は被造物から脱け去る。神の発露において、本質的には、神は覆蔵されたものとしてとどまる。ここから帰結することは、創造』はまたハイデッガーの性起に近く、脱去における出来事であり、それはあまりにも自ら抜け去る根本的な出来事であるがゆえに、『変化』の中に消え去り、それに至る人は多くない。かくして、結局のところ、創造』あるいは性起から出来する存在は存在者のうちに消え去り、そうして通常の眼差しから脱け去り、それどころか否定される。脱去を辿って神まで至ることを排除したようだが、それはあとで本来的に正当化されることが必要とされる (村上喜良 訳)

先に述べたようにハイデッガーにとって、神は性起しますが、「存在者としての存在と、世界を世界化することから性起する存在の本質において立っている 」のでした。神が神であるかどうかは存在の配置から、その配置の内で性起するとしたのです。性起から由来する神が性起の始元としては見なされていません。彼の考え方を、キリスト教でいう創造の在り方に当てはめるのには、無理があるのです。トマスでは「創造」における神は存在者ではなく、神の本質としての存在 (エッセ) としてでした。存在としての無限の超越者は、容易にみて取れないし、無限の内在者は容易に見過ごされるから、性起は無に基づいているとロッツは言います。この無はあらかじめ与えられた材料の無いこと、つまり質料的原因のない無なのだと言います。キリスト教の「創造」は無から始まります。このことから、「創造」は奇しくもハイデッガーの言う性起に近いということが言えるのでしょう。これが、本書の重要なもう一つの主題です。

 

無と自由としての存在


 

存在者と無

スピノザは『エチカ』の第一部の中で「実体の性質には存在することが属している (定理7)」、「全ての実態は必然的に無限である (定理8)」、「神は全てのものの内在的原因であって超越的原因ではない (定理18)」「神の存在とその本質は同一である (定理20)」と述べています。彼の考えでは、諸属性は諸様態の本質を包み込み、そして、それらによって自らを表現します。ドゥルーズは、いくつかの矛盾を指摘していますが、これは神の観念があらゆる諸観念を包括し、それらによって自らを展開するのと同じであると述べています(『スピノザと表現の問題』)。スピノザにあるのは絶対無限の存在である唯一の実体であり、ないのは性起における無なのです。

ロッツはこう述べます。「性起は無から性起する」ここで、知っておいてほしいことは、ハイデッガーが、存在に向かう方向性をオントロギッシュと呼び、存在者に向かう方向をオンティッシュと呼んでいたことです。存在論 ontlogia から来ている言葉ですが、on は存在を logia は論理を表しますロッツはこの無を空虚な深淵としての無ではなく、オンテッシュに原因づけるものは全て排除されることだと言います。つまり、絶対的な存在 (esse absolute) に至ることのないものは全て無から存立すると言うのです。ここで、無が存在の覆いだという意味が分かります。

ヤコブ・ベーメ(1575-1624)もまた、「光り輝く」無を見ました。ベーメの無はあらゆるものから超越した無根拠の無を語っています。その無は、同時にあらゆるものの原因となる「根拠の根拠としての無」でもありました。そこから自己展開像として「よろこびのたわむれ」が起こるのです。調べてみないと断言はできませんが、「根拠の根拠としての無」はロッツの言う無なのかもしれませんね

存在の遊戯と言葉

ヘラクレイトスは、存在にも等しいロゴスの出現は隠れることを好むと言います。この出現はオンテッシュなものを突破することで初めてオントロギッシュな深みにおいて発見されるので、しばしば見過ごされると著者は言います。出現は真理と自由の「生起」であり、ハイデッガーはそれを創作や必然性とは区別しています。性起から現れる様々なエポックは自由な流れの中で如何なる理由も示さず、自らを展開します。それは、ヘラクレイトスの遊動、つまり最も高き遊戯として把握されるべきものだと著者は言います。神遊びということでしょうか。

マルティン・ハイデッガー
『ヘルダーリンの詩作の解明』
「ヘルダーリンと詩作の本性」収載

私たちの思惟の多様な活動は、一なる存在それ自身の遣わしによるとハイデッガーは言いました。その存在自身に呼びとめられて、様々な表象の仕方、経験の仕方、表現の仕方の内でそれらすべてにおいて「歴史的に同じもの」を思惟すると言いうのです。この歴運は、ある流れゆく過程を形成していきます。ここで、人間を存在に根拠付ける言葉は決定的な意義を持ちます。それは、その都度の分与から現れてくるからです。言葉の根拠は、存在の語りかけにあり、人間は自らの語りによってそれに応答するという分けです。ここに対話が生じるのです。ミハイル・バフチンの言う対話に近いと言えるかもしれません。

存在者には存在という根拠がありましたが、ハイデッガーの言うように存在は脱根拠、つまり自身の根拠ではないなら、根拠のないものに絶対的な必然性はあり得ないことになります。ここで、存在はヘラクレイトスの言う最高の遊戯として把握されることになるのです。この遊戯から存在の遣わしや分与が由来し、それらは人間に向かい、人間によって全ての存在者を包括するのです。この遣わしによって何が正確に分与されるかを読み取れるのは、この遣わしが言葉として思惟に関連付けられているからだと考えられています。

ハイデッガーは、『ヒューマニズムについて』のなかでこう述べています。「言葉は存在の家である。言葉という住居の中に人間は住む。思惟しているもの、作詩しているものは、この住居の番人である(小磯仁訳)。」ハイデッガーの愛した詩人のヘルダーリンはこう歌います「‥‥そして、合図は/はるか昔から神々の言葉なのだ」と。根源的な命名力によって名づけられた神々の言葉があったのかもしれません。そのことにより物事の本性が語りだし、それによって初めて事物が輝き始める。そのことによって「人間が現に有ること」が確固とした関わりのなかに引き込まれ、根拠づけられるとハイデッガーは言うのです。存在の開けの時空間の中で言葉が出会う時、詩が生まれます。ハイデッガーの言語論に特殊な感じを僕は持つのですが、トマスのエッセがBe動詞でもあったことが思い出されるのです。そこにはアリストテレスの余韻があります。本書の主題には、もう一つ「時間」の問題があるのですが、僕の興味本位でこちらの方を付け加えさせていただきました。

 

存在の親和性


 

ハイデッガーの言う存在が宗教的な思想に親和性が高いというふうに感じる人は、恐らく僕だけではないでしょう。ヘーゲルが「神は死んだ」という標語を言挙げし、それを地球の核に届けとばかり喧伝したのはニーチェであり、マルキシズムやサルトルもまた「神なき神学」を標榜します。こういう流れの中で神の問題を再び問い直せる思想の鍵は、ハイデッガーの言う存在ではなかったかと思われるのです。

神学者である筆者は、それを中世最大の神学者であるトマス・アクィナスの思想に結び付けようとしました。キリスト教に受け入れられたギリシア哲学が、そこから近世哲学へと旅立っていく結節点ですね。ここで顕わになるのは、この二人の思想家の違いの方だったのかもしれません。しかし、時に頭をよぎるのは、一つの思想を理解しようとする時、異なるパースペクティブからそれを眺めることによって新たな洞察が得られるというミハイル・バフチンの指摘です。少なくとも、ロッツは、神をとおしてハイデッガーの<存在>に新たな光を投げかけてくれていると言えます。そして、トマスと共に神学への新たな地点に立とうとしたと言えるのかもしれないのです。とは言え、トマスのスコラ学の凄みと同時にアリストテレスの復権がヨーロッパという土壌へ「在る」の探求という巨大な楔を打ち込んだ。そのことを実感した次第です。

 

 

参考図書

マルティン・ハイデッガー『存在と時間』上

マルティン・ハイデッガー『存在と時間』下  ハイデッガー選集 16・17

 

 

 

 

マルティン・ハイデッガー『オントロギー 事実性の解釈学』ハイデッガー全集 第63巻 現象学からみた存在論

 

 

アーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』

 

 

 

 

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part2 中世神学と国家理論

 

中世史家であるジョセフ・ストレイヤーは、11世紀までの西欧中世は<長期の冬であり、12世紀に<中世の春>が訪れると言う。それは、「12世紀ルネサンス」と言ってよかった。トマスの生きた13世紀は、その最盛期を極める独自に文化発展した時期であり、<中世の夏>と言われる。その後、14世紀にはヨハン・ホイジンガが著したように『中世の秋が訪れるのだ。

ペトロ・ネメシェギ(1923-2020)上智大学名誉教授

トマス・アクィナスは、南イタリアの侯爵の息子で、5歳の時からベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院で育てられ19歳の時にドミニコ会に入会し、それから一生涯大学の教授、及び教皇庁付きの神学顧問であった。彼は肉体労働をした経験もなく、司牧活動を通して庶民に接する機会もなかった。ベルナールのように政治に携わることもなく、ボナヴェントゥラのように修道会の長上になることもなかった。彼は、大きな絵の輪郭を白い紙に黒インクだけで描くように自分が専念した神学上の問題を考え、著述することだけに心を費やしたと、神学者のペトロ・ネメシェギ神父は述べる。トマスの五つの長所を挙げた後、彼には、生活体験と想像力の欠如があるとトマスの短所をこのように述べた。

これに対して著者の柴田平三郎さんは、トマスをこう弁護する。事物の論証を客観的、抽象的に行って生々しい生の感情を持ち込むのを拒否するのは一般に13世紀のスコラ学に特徴的なことであった。中世キリスト教の研究者であるデヴィッド・ノウルズの言うように12世紀は、文法の習得とラテン作家の作品読解に支えられた自己表現力豊かな文芸文化があった。それは、古代の賢者に対する敬意とそうした志向を持ち合わせた人々の友愛関係が培った土壌といえる。その精華が『薔薇物語』だったが、13世紀は論理の時代になるのであると言う。

柴田平三郎『中世の春』
ソールズベリのジョンの思想世界

ネメシェギ神父は、トマスは諸思想の多様性、独自性を消すような収録の仕方をしたとも批判する。トマスの体系に多くの思想家が合流した結果、一つ一つの思想の本来のユニークな価値がニュートラルなものになってしまった。福音書の魅力的な素朴さ、パウロの焔、アウグスティヌスの旋風、ディオニュシオスの神秘的な闇などトマスの書に探しても無駄だというのである。

これに対して柴田さんの弁護はこうである。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、トマスが問題にしている視点は、かつてのギリシアやローマの状況が如何なるものであったかと問うより、13世紀に生まれていたなら彼らはどのような貢献をもたらすのかを問うているのだと述べている。そのように、トマスにとって重要だったのは、過去の知をどう知るかではなく、真理とは何かであったというのである。

結局、トマスが13世紀という時代の中で行おうとしたのは、異質なものの「和解と調和」による「体系の構築」であり、「削除と綜合」を通じての「全体性」の実現であった。しかし、彼の政治理論と教会論を研究すると、まさにその逆であって、誠に独自な魅力を持っているが、首尾一貫していないように思えると柴田さんは言う。今回は柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』をご紹介している。前回 part1 ではトマスの『神学大全』を中心にご紹介した。今回 Part2 は、本題のトマスの政治学についてご紹介する。

 

人間は社会的・政治的動物である


 

『トマス・アクィナスの栄光』
ベノッツオ・ゴッツォリ(1420-1497)画

アリストテレス文献の流入

12世紀ルネサンスと呼ばれた時代にアリストテレスの著作群が組織的に紹介され始める。この時代にはギリシア文献だけでなく、それらを独占していたアラブ世界の文献も翻訳された。

そのルートは三つあり、①スペイン・ルートでは、12世紀クレモーナのヘラルドによってギリシアやアラブの哲学、科学書がアラビア語からラテン語に訳される。②シチリア・ルートでもプトレマイオス、エウクレイデス、プロクロスの天文学や数学、自然学のラテン語訳がなされた。そして、③北イタリア・ルートでは、ヴェネツィアのヤコブによってアリストテレスの『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁論』がラテン語訳され、初めてアリストテレスの論理学の全貌が明らかにされるのである。

トマスは、その政治学について同じドメニコ会士で友人であったムールベケのグイレルムスが訳したアリストテレスの『政治学』完全訳を用いたと言われる。

社会的・政治的動物である人間

人間は本性的に社会的動物なのであり、だから無垢の状態における人々もまた社会的な仕方で生きたであろう(『神学大全』第一部 96問題 4項)とトマス・アクィナスは述べた。

「人間は自然的に政治的 (ポリス) 動物である」というアリストテレスの言葉を「社会的動物」と言い換えているのである。社会的交わりの中で人間は、いわば、世界に差し込まれている。トマスは、政治の営みや国家の存在が人間にとって自然的なものであると述べるようになる。それまで、アウグスティヌスや伝統的キリスト教では政治や国家を人間の罪の所産、「罪に対する罰と矯正」と捉えられていたのである。

アウグスティヌスに代表されるキリスト教会の正統的教義では、政治社会や国家は神の望まぬ「人間の人間による支配」、つまり「奴隷制」を指すのであって、自然の秩序ではなかった。これに対して、トマスは原罪以前の政治的権威とは何かを問うた。多数者の社会生活は、共通の善を意図する何者かがこれを統轄するのでないかぎり存在しえないであろう(『神学大全』同上)と述べる。無垢な状態においても人間が人間を支配することはあり得るとしたのである。奴隷制とは別に「自由人の支配」は、原罪と関わりなく存在したと考えた。これは、革新的なことだったのである。

 

アリストテレス像  リシッポス作の失われたブロンズ彫刻の模刻(1~2世紀)

共通善による共同生活

アリストテレスにとって共通善とは、自由人の共同体としてのポリス(国)において、人間が単に生きるだけでなく、善く生きること、すなわち徳に従った善き生活を目指すことを意味していた。共通善を目指して共同生活を営もうとする国民相互間の積極的意思とそれへの適応能力たる徳 (アレテー) なしには、国は存続し得ないと彼は考えた。例え、国民一般の徳と人間の徳とが、さらに治者の徳と被治者の徳とが無条件に同じではないとしてもである。

トマスは、「人々は互いに真理を明示しあう者として、互いに信頼しあうのでなければ相互に共同生活を営むことはできないであろう。したがって、真実という徳は何らかの仕方で負債・義務という側面にかかわるのである(『神学大全』第二の二部 109問題 )」と述べている。マウリッツィオ・ッツァラートなら負債・義務こそ人間を奴隷化するものだと言うだろうが、これは金融資本主義の話だ。

ともあれ、トマスは、社会が存続するためには、真実を明示するという道徳性が不可欠なものと考える。それと同時に、悦び無しにも社会において生きることが出来ない。「苦痛を与える人や快くない人と一日中一緒に付き合える人はいない (アリストテレス『ニコマス論理学』) のだから。つまり、人は自然本性的な道徳的義務によって他の人たちと楽しく共同生活することを義務付けられているというわけである。

 

公的権力の行へ

トマスは、君主たちに対して公的権力が委託されると考える。それは彼らが正義の護持者となるためであり、正義の原則に基づいてのみ暴力や強制力を発揮することが可能なのである。国家は暴力=強制力の正統な独占者・行使者であるが、それは国家が正義を実践する限りにおいてである。私的人格者が暴力によって他者から何らかのものを奪い取るなら、それは強盗であるという。

聖アウグスティヌス

これは、アウグスティヌスの有名な国家強盗団説を逆手にとっている。「正義がなくなるとき、王国は大きな強盗団以外のなんであろうか。盗賊団も小さな王国以外の何でもないのである(『神の国』柴田平三郎 訳)。」アウグスティヌスにとって、国家には初めから正義などないのである。彼はアレクサンダー大王と海賊の会話を持ち出す。大王が海賊に「海を荒らすとはどういうつもりか」と聞くと、海賊はこう答える。「陛下が全世界を荒らすのと同じです。私は小さな船なので盗賊と呼ばれ、陛下は艦隊をお持ちなので皇帝と呼ばれるのです」と。

マキアヴェリが、信義を守ること、誠実であることなどの徳性は、君主にとって状況と必要に応じて踏みにじられて然るべきだとしていることを考えるとアウグスティヌスの意見もあながちペシミスティックともいえない。ともあれ、トマスは、アウグスティヌスを権威と仰ぎながら巧妙にその説を換骨奪胎させていると柴田さんは言うのだ。

罪によって人間から理性的であるということが全面的に取り去られるということは不可能である。そうなら罪を犯すことも出来なくなるからだとトマスは言う。そこで、この世の生において持ちうる不完全な幸福は、理性と言う自らの自然本性的なものによって獲得できるものであり、その仕方は、その働きにかかっている徳と異なるものではない。これに対して完全な幸福は、神の本質を見ることにあるというのである。現世の幸福は完全なものではないと釘を刺すことも忘れてはいない。

 

最善の国家制度


 

混合政体論

西欧政治思想の長い歴史の中で、一人の支配たる「君主制」、少数の支配である「貴族政」、多数の支配としての「民主政」、これら三つの支配形態の組合せによる「混合政体」が最善であるとする長い系譜があったと言われる。古代ギリシアのプラトン、アリストテレス、ローマ時代のポリュビオス、キケロ、そして、13世紀中葉にアリストテレスの『政治学』が紹介されるとトマス・アクィナスによって取り上げられるが、本格的な再生はルネサンス期のフィレンツェ、ヴェネツィア、そしてチューダー朝イングランド (1485-1603 ) だとされている。

『チャールズ一世』
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)画

この政体論は、内戦前夜のイングランドで「我が政体は混合政体」であると述べたチャールズ一世 (1600-1649) に予示されることになる。王権神授説を信奉する王の皮肉だったのだろうか。やがて、名誉革命を成功させるイングランドで「君主政」「貴族政」「民主政」の三要素は、議会における「国王」「上院議員」「下院議員」となり、立憲君主制の統治原理として18世紀のアメリカ合衆国へとつながると言うのが定説となっている。

しかし、この説は、今日の中世立憲思想研究では修正を余儀なくされていると著者は言う。まず、その制度には、次のような前提が必要とされている。統治権は法によって厳しく制限をうけること。正当な統治権の成立には被治者の同意が必用であること。その同意は代表者からなる議会を通じて表明されなければならないこと。これらの事柄は、西欧12世紀に復活したローマ法の法学者らによる世俗統治権に関する理論とそれを教会法に巧緻に取り入れた教会法学者たちによって形成されたことが、明らかにされてきたからである。しかし、ローマ法の影響力は大きい。

トマスもまた、混合政体論を最善としながら、一方でそれを否定するかのような主張もあるという。彼は、一体どちらの立場に立っているのだろうか。

 

君主の統治と混合政体

「私によって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める(『箴言8-15』)」と神が述べられているなら、人民の最善の統治は一人による統治である。明らかに教会の統治は、そのように配慮されているから一人の者を教会全体の長としている。このような理由をもとにトマスは、政治においても君主制擁護論を展開する。その典拠は、『君主の統治について』にある。おそらく、ドミニコ会の庇護者であったフーゴ2世のために書かれたと言われる。

この中では、擁護の詳細な理由として以下の事柄が挙げられている。それが、神の宇宙支配の理法に適応していること。政治支配者の最大の務めは、民衆の平和的統一を創出することであり、それは複数者よりも一者によって可能であること。心臓が体を統べるように、理性が霊魂を統べるように自然的統治は一者によって成されていること。預言者エレミアが述べたように一人の人間によって統治されていない領国や都市は、分裂に悩まされ、平和を知ることなく分裂すること。

明らかに君主政を支持しているように思える。問題は、トマスがアリストテレスの概念的枠組みと用語法をどのように駆使して自己の混合政体論を作り出したかという事になる。アリストテレスは、国家指導者が一人で君臨する場合は王政支配だが、統治の知識の原則に従って代わるがわる支配者となり被支配者となる場合は国家指導者であり、それは政治支配だというのである。

しかし、ムールベケのグイレルムスは、これをラテン語に置き換える時、アリストテレスの言う代わるがわる、つまり市民が交互に支配者となり服従者となるというヶ所を、一人の者が役割によって支配者となるとともに服従者となるとした。これは、明らかに誤訳だった。翻訳に誤訳はつきものだが、この誤訳は君主政があくまで統治の基本とするトマスの認識を「絶対的」な君主政か「法に従った」君主政かを問う形のもの変えたのである。前者を王政的支配 (regal rule) 、後者を政治的支配 (political rule) とした。しかし、その法は、一人の支配者が決めるものではなく、共同体の成員全ての意思の具現でなければならないとしたのである。

ジェームズ・M.・ブライスの最近の研究によれば、その共同体全体によって確立された法に支配される君主政は、少数の賢者 (貴族政) と全人民の意思によって宥和された、いわば混合政体なのである。これがトマス政体論の曖昧さに繋がっていると見られている。柴田さんは、このプライス説に概ね賛成だという。

トマス・アクィナス『君主の統治について』
君主の「鑑」という形式で統治と君主政について書かれたが、未完で終わっている。

アリストテレスの混合政体では、権力所有者の数と質によって成り立つ六つの政体分類がある。公共のための単独支配である君主政、公共のための少数支配としての貴族政、公共のための多数支配であるポリテイア (政体・国制) という三つの善き統治形態。そして、私事のための単独支配としての僭主政、私事のための少数者支配が寡頭政、私事のための多数支配である民主政の三つの堕落形態である。トマスは、そのうちの僭主政体が最悪だと述べている。それを防ぐための方策として、僭主になることなど考えられない様な人物の人民による選出、即位した君主が僭主に変る機会のないような手だての構築、王の権力も容易に僭主制に転化しないように宥和されるべきことを挙げている。

このように考えるとトマスの混合政体論のニュアンスが掴めてくる。この『君主による統治について』が中断された2年後の1269年に『神学大全』の「第二の一部」が執筆されるのだが、そこで、こう述べている。人定法は政治共同体を統治する者によって制定されるが、それは、政体との相関による。君主政においては君主の勅法であり、貴族政においては法学者の解答と元老院の議決、民主政においては平民会の議決である。「以上述べたものが融合した国制なるものがある、これが最善である(『神学大全』第二の一部 95問題 四項)。」全ての者が統治に何らかの仕方で参与するように配慮されなければならないという。

 

暴君は放伐可能か


 

ソールズベリのジョン『ポリクラティクス』
フランス語訳の序文、画中の人物は、賢明で狡猾といわれたフランスのシャルル5世。

徳を失った天子を天が見放す時、天命が革 (あらた) められる。天子が自らそのことを悟り、位を徳のある他者に譲ることが禅譲であり、天子を武力によって追放することが放伐である。古来、中国では、これを易姓革命と呼んだ。孟子が掲げたことで知られる思想だ。西欧中世思想においても統治権力に対する抵抗の問題は重要だった。それは、古典古代以来の長い系譜を持つといわれる。

11世紀に修道士ラウテンバッハのマネゴルトが、支配者と人民の間の誓約と誠実にもとづく契約に支配者の任免の根拠はあるとして、支配者が暴君と化して、その契約を破るなら進んでこれに抵抗する権利があるとした。そして、イングランドの人文主義者であったソールズベリのジョン (1115?-1180) のこの発言は、有名なものとなった。彼は『ポリクラティクス』の中で「暴君を殺害することは許されているばかりでなく、正当なことであり正義でもある」と述べたのである。

この1世紀後、トマスは、このジョンの思想を『命題集注解』の中で、より一層精緻にしたといわれる。彼は、「権威が獲得される方法」の暴君、これは資格や資質の欠如のことである。そして、「権威の行使の結果」としての暴君とに分ける。この区分は、14、15世紀のイタリアの政治理論の中で発展していった。

トマスによれば、暴君とは「暴力によって権威を奪う者」であり、「正当な権威の確立の目的に反する」命令や、「邪悪な命令」、「権威の権限を越えた命令」を人々に強制する者である。そうした暴君に対して、服従の義務はなく、カエサルの殺害を正当化するキケロを紹介しながら「暴君を殺害することによって、祖国を解放する者は賞賛され、報いられるべきである」とさえ言い切っているのである。しかし、より正しい判断が下せるという理由によって、放伐は、私人ではなく公的な権威によって為されなければならないとしている。この過激な暴君放伐論は、トマスの死後、彼の後継者たちにとって強力な理論武装の支えとなったのである。

16世紀宗教戦争のさなかに刊行された「モナルコマキ(暴君放伐論)」は、正当な資格を持たないのに暴力や邪悪な手段で王国の権力を簒奪した僭主、しかるべき資格によって王国を譲渡されたが暴虐の限りを尽くす僭主に対して、この権利の主張を行う。それは、やがてジョン・ロックの『統治二論』で「天に訴える権利」としての抵抗権が掲げられるのである。トマスに遅れること約4世紀後のことだったという。

 

戦争は許されうるのか


 

フーゴー・グロティウス(1583-1645)
国際法の父と呼ばれるオランダの法学者
ミヒール・ファン・ミーレフェルト 画 1608

トマスの正戦論

トマスがアウグスティヌスの「正戦論」を中世において体系化した思想家であるというのは通説となっていると言われる。戦争には正当な戦争と不正な戦争があるとしたトマスの正戦論には、二段階あり、「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」である。この正戦に関する教説は、カトリックの正統論として継承され16,17世紀のスペインの神学者ビトリアスとスアレスによって展開されて、キリスト教正戦論は一つの画期を迎えたという。この理論を神学から解放して世俗化し、近代主権国家のシステムに対応させた人が、「国際法の父」グロティウスであった。

さて、トマスがこの戦争をどのように考え、どのように分類したのかを探ってみたい。『神学大全 第二の二部 第40問題』は「戦争について」述べられている。

第一 ある戦争は許されうるか。
第二 聖職者が戦争するのは許されうるか。
第三 戦争する者が策略を使うのは許されうるか。
第四 祝日に戦争するのは許されうるか。

第一項は、「戦争は常に罪であるのか」という問題に集約される。戦争が正しいものであるための要点は、三つに絞られる。「その人の命令によって戦争が遂行されるところの、君主の権威」、「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」、「戦争する人々の意図の正しさ」が、正戦であるために必要とされる。因みに「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」に関して、トマスはアウグスティヌスのこの言葉を引いている。「正しい戦争とは不正を罰するところのものと定義されるのが普通である。すなわち、民族や国が、その成員によって不正になされたことを糺すのを怠ったり、不正に横領したものを返却するのを怠ったりして罰せられるべきであるときに、その不正を罰するのである(『問題集/モーセの七書について――ヨシュア記』)。」

第二項、「聖職者が戦争するのは許されうるか」については、こう述べられている。聖職者は、神に関わる諸々の事柄を観照し、神を賛美し、人々のために祈るのが仕事であるという一般的な理由、聖職位は祭壇の務めのために任ぜられるのであって殺すことや血を流出させることは相応しくないという特殊な理由によって、聖職者による戦争の遂行は全面的に許されない。

主に第一項によって「戦争に至る正義(法)」が説明される。すなわち、君主の権威、正当な理由(原因)、意図の正しさが満たされなければ、その戦争は正しくないのである。次は「戦争における正義(法)」という問題に移るが、これは、第三、四項で説明される。

第三項 「戦争する者が策略を使うのは許されうるか。」 策略には①「虚偽の語りと約束の不履行」があるが、これは敵同士の間にあっても守られるべきある種の戦時法規と協力条約があるのだから許されない。②「企みや考えの不開示」は、敵を攻略するための諸々の計画であり、欺瞞でも不正義でもないとしている。

第四項 「祝日に戦争するのは許されうるか。」 国家の安全は、一人の人間の身体のそれよりも一層保全されるべきもので、それによって多くの人の殺害や、地上的、霊的な悪が阻止される。それゆえ信者たちも国家を守るためには、必要なら祝日に正しい戦争をすることは許されるとしている。

ヨハンネス・グラティアヌス
(1100?-1150?)12世紀ボローニャの法学者
『教令集』の中世手写本

「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」二段階の理論構成は、12世紀の教会法の法典であるグラティアヌスの『教令集』に沿って構想されているといわれる。そして、トマスが、ここで権威として引用する神学者はアウグスティヌスただ一人である。

しかし、例えば「悪人に逆らうな(「マタイによる福音書」)、「愛する者たちよ、汝ら復讐すな、ただ神の怒りに任せよ(「ローマの信徒への手紙」)といった例を引いて、「戦争はつねに罪である」という異論を述べ、その反論として、それは常に心の準備として把持されるべきものであって、時として、共通的な善のためや、戦っている相手の善のためにも、それとは異なった行動をしなくてはならないと述べるのである。ここでも、アリストテレスの影響が見られることを柴田さんは指摘している。

 

異教徒への寛容

もう一つ筆者が指摘していることがある。それは、トマスには聖戦の観念がないことである。彼の時代が。第6回から第8回という三度にわたる十字軍を体験していることを考えると意外だと筆者は言うのだ。「いまだ受け入れていない信仰に反抗する者よりも、受け入れた信仰に反抗する者のほうが、信仰に対してより重い罪を犯すことになる」とトマスはのべるのだった(『神学大全 第二の二部 第10問題』)。彼は、教会がユダヤ人や異教徒たちの祭儀でさえ容認すべきだという立場をとっている。おそらく、これはトマスが、10代の頃にアラブ文化を盛んに取り入れていたナポリの大学で学んだことが影響しているのではないだろうか。彼が広い視野を持っていたことが、このことからも窺える。

 

トマスが置かれていた状況

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

彼の生きた13世紀は、近代的で大規模な戦争は勃発してはいなかったが、都市国家間での争い、君主国、公国などでの世俗権力間での紛争、スペイン人の対ムーア人戦争、度重なる十字軍、対モンゴル戦争、そして、神性ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝の崩壊とナポリにおけるシャルル・ダンジューの制覇と言った事柄が続出していた。そして、トマスのアクィノ家はナポリの近郊において、ナポリ・シチリア王国とローマ教皇領との狭間にあって危うい選択を迫られ続けた。長兄も次兄も皇帝フリードリッヒ二世の側についていたが、長兄はキプロス王フーゴの家臣によって捕虜となり、教皇グレゴリウス九世の介入によって解放され、以後、教皇側についた。次兄は、教皇インノケンティウス四世が皇帝を廃位すると教皇側につき、やがて皇帝暗殺の嫌疑をかけられて処刑される。

トマス自身は教権と俗権を巡る争いに対して穏健で中庸な態度を取っていたといわれるが、曖昧にしていたのかもしれない。このような家族の状況を見る時、トマスの心情も、また察せられるのである。彼は、これらの両権力にたいして距離を取り、自身は一切の顕職や地位を拒否したと言われる。『神学大全』は、このようなトマスの家族の状況と歴史的な背景の中で書かれた。そこには生々しい心の傷があった。トマスは戦争の問題を、人間存在そのものを根元的に問う倫理的、道徳的問題としていたのであって、けっして正義・不正義の問題を社会的な規範や外面的なルールに求めていた分けではないと柴田さんは言う。この思考の枠組みは近代の法学的発想と方法の基にはなったが、それを目指していた分けではなかったのである

 

黄昏に飛び立つミネルヴァの梟


梟を抱えたミルネヴァ ルーブル美術館
西暦2世紀と18世紀と二度に亘り復元された。

時代が傾く時、知のミネルヴァの愛鳥である梟が飛び立つとヘーゲルは述べた (『法の哲学』序文)。ちょうど、ギリシアのポリス世界が崩壊しようとした黄昏の時期に万学の祖と言われたアリストテレスが登場した。彼にこそ、このヘーゲルの言葉は相応しいと柴田さんは言う。そして、中世世界が徐々に傾斜していく中で、アリストテレスから自然主義的政治学の哲学を学び、それをキリスト教教義と調和させ、この世の自然的秩序の正当化を図ったトマスこそ、アリストテレス以上にこの形容に相応しいのではないかとも言うのである。彼もまた、中世世界の全構造を、思想のゴシック建築と比喩される壮大な『神学大全』の中に網羅しようとしたからである。

柴田さんは、本書の最後のあたりで、このように述べる。それまで、中世の人々の心を呪縛してきたアウグスティヌスのキリスト教的人間観と政治観をアリストテレスの思想を基に克服したのがトマスの思想であった。それは新たな中世のパラダイムだったのだが、その論は、やがて、近代のトマス・ホッブスによって全面的、根底的に否定される。ホッブスの人間とは、一切の歴史的、社会的文脈から切り離された「原子論的個人」であったという。そうした孤立した人間にとって「人間は人間に対して狼」だった。「万人の万人に対する戦い」から脱出するために相互の社会契約を取り交わし、強大な国家の形成を目指すことへと舵を切ったと。

アリストテレスが述べ、トマスが信奉した「より善く生きる」ためのロゴスを媒介とした「共通善」と言ったものが、現在では、もはや画餅と化したかに思える。それでも、「善く生きる」とはどういうことなのか人は問わざるを得ない。ここで、人間が社会的動物であるという前提には、「言葉の理解」があることが思い出されよう。理性の光としての「言葉」こそ「善と悪、正と不正を知覚できる能力である」というアリストテレスの思想をトマスが受け入れたことを考える時、ミネルヴァの梟のもたらす知とは何であったかが想像できる。しかし、さきほどの正戦論の中で著者は、ハンナ・アーレントのこの言葉を思い出すと述べている。

暴力自身は言葉を発する能力を持たないということであって、ただたんに、暴力に立ち向かう言葉は無力であるということだけではない。この言葉を発する能力を持たないという性格ゆえに、政治理論は暴力現象について何もいうことがなく議論をその道の専門家に委ねなければならないのである (『革命について』序章 志水速雄 訳)。

 

前回、ご紹介したヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』の続きは長くなりそうなので、別途、ご紹介する予定です。お楽しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

アリストテレス全集17 政治学 家政学
岩波書店  2018年刊

トマス・アクィナス『神学大全』17
第二の二部 第40問題「戦争について」収載
創文社 1997

ハンナ・アーレント『革命について』
社会主義や共産主義といったイデオロギーは死に絶え、残ったのは戦争と革命であり、その中で人が望むものは暴政に対する自由だという。

 

 

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part1 スンマに殉じた黙り牛

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

トマス・アクィナス (1225頃-1274) は、神学・哲学の巨大な総合体系を打ち立てたことであまりに有名だった。そのイメージは、いかにも痩身痩躯の学者肌の人と思われがちだけれど、肥満ぎみで、かなり巨体であったらしい。大きくて重い牛のような人物であったというから不思議だ。悠然としていて、穏やかで物静か、聖なる謙虚とは別に内気で、快活だったが社交的というわけにはいかなかった。時々訪れるけれども秘めていた脱魂・恍惚状態とは関係なくボンヤリしていたという。これに対して聖フランチェスコは、火のような人間で、せかせかし、突然姿を現すと、そこにいた聖職者たちは、皆、彼を狂人だと訝ったという。

トマスは、規則正しく授業に出席したが、とてもノロマだったので、学校の生徒たちは彼のことをうす馬鹿だと考えていたらしい。イギリスの作家であるギルバート・キース・チェスタトン (1874-1936) のトマス伝は、なかでもエピソードに溢れているものらしいけれど、トマスは「歩く酒樽」であって、その食卓は彼が坐れるように半月形に切り抜かれていたという。本書の著者は、こう付け加える。情熱的で詩を愛しながら、書物にあまり信用を置かなかった聖フランチェスコとは対照的に、彼は書物を愛し、書物によって生き、この世の与えるどんな富よりもアリストテレスとその哲学に関する百冊の書物の方を選んだ。神に対して何を感謝するかと問われて、彼はただ、「今まで読んだ書物のすべての頁を理解できたことです」と答えた。著者はこのように紹介するのである。これは、素晴らしい。

『トマス・アクィナス』
ヨース・ファン・ワッセンホフ画 1475

アウグスティヌス以来、長らく貶められていた自然世界の復権>、いいかえれば超自然的秩序から自然的秩序を相対的に自立させることをトマスは図ったと著者は言う。理性的被造物である人間の織りなす社会的、政治的営みが展開される位相とは、まさにこの自然的秩序=自然的世界においてだが、彼は政治や国家についてあるべきイメージをそこに、どう描いたのか、それを考察するのが本書の主題であるという。

今回は、この柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』を二回に分けて、ご紹介したいと思っている。何よりも本書の前半は、トマスの生涯や思想に関して、よく纏められた、極めて充実した内容が紹介されていて、僕には、とてもありがたかったからである。というのも、トマスの著作の多くは、聖職者や信者さんが書いたものが多く、やはり、信仰には<信>というものが前提にあるから、僕のような不信心者には相応しかろうはずもなく、内容も<知恵の探求>や<神の愛といった、いわば宗教的な核心を為すものがほとんで、ハードルが高すぎたということがあった。そういう意味でトマスの政治理念といった、いわば現世の問題を扱う本書は珍しいと言える。

著者の柴田平三郎 (しばた へいざぶろう) さんは、1946年生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科、並びに同大学院法学研究科博士課程を修了された。法学博士で、中世政治思想史の研究で知られる。千葉商科大学や獨協大学で教鞭を執られ、獨協大学名誉教授でいらっしゃる。著書に『アウグスティヌスの政治思想』『中世の春――ソールズベリのジョンの思想世界』がある。この『中世の春』は薔薇物語の所で少しご紹介しておいた。訳書にJ.B.モラル『中世の政治思想』A.P.ダンドレーヴ『政治思想への中世の貢献』R.M.ハッチンス『聖トマス・アクィナスと世界国家』などがある。

 

トマスの生涯 


 

トマスは、1225年頃、ローマとナポリの中間にある都市アクィノ近郊のロッカ・セッカの城塞で生まれている。アクィナスの名前はこのアクィノに由来する。父は、そこの領主で、母はナポリ出身の貴婦人だった。男女合わせて9人とも12人とも言われる兄弟の末っ子だった。当時の貴族は子弟の教育を修道院で受けさせるのが慣習になっていたし、末の子は将来聖職者にと望まれたのであろう。ロッカ・セッカ近郊のモンテ・カッシーノ大修道院に修道志願児童として送られることになる。5歳のときである。このベネディクト会の大修道院の院長は、父の遠縁にあたるランドルフォ・シニバルドだった。

トマスがどのような少年時代を過ごしたかはよく分かっていない。伝記作者グイのベルナルドゥスによれば、無駄なおしゃべりを避け、孤独を好み、周りの子よりも早熟な態度を見せた。口数は少ないが、物思うことの多く、生真面目で黙想に専念していたという。ベネディクト会という観想修道会における濃厚な宗教的雰囲気の中で10年近く過ごしたことは大きな意味があったようだ。それに、この修道院は西ローマ崩壊以降、壊滅状態といってよかった古典の文化遺産を守り抜いていた唯一の場所だといわれている。

しかし、この地はもともと神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世が国王を兼務したナポリ・シチリア王国とローマ教皇領の接する地域で、その対立が激化すると、フリードリッヒ二世は派兵、占領し、他国出身の全ての聖職者を追放した。トマスはというとナポリの大学に入学することになる。1239年、14歳の時のことだったこの大学はフリードリッヒ二世によって設立された官僚養成のための最初の実学的大学といわれている。特筆すべきは、アヴェロエスやアヴィセンナの注釈のついたアリストテレスの著作が、盛んに翻訳されていたことだった。これは、再三に亘ってアリストテレス研究の禁令を受けたパリ大学と対照的だった。

フリードリッヒ二世は、ヤーコプ・ブルクハルトによって「王座に位した最初の近代的人間」と言われた人物で、4歳にしてシチリア王となり、フランス王フィリップ二世の支持によってローマ王となり、26歳頃に皇帝の座についた。中世の教皇庁が出会う最強の敵となった彼は、帝国の中心部をドイツからイタリアに移そうとしていた。古代ローマ礼賛の勢いはシチリアに及び、アラブ文化の愛好は周りの国々には異様に感じられたという。

第6回十字軍の中のフリードリッヒ二世
真中の赤いマントの人物 ドイツ、ヴァルトブルク城内のモザイク壁画

彼が没したのは1250年で、トマスが25歳の時だった。それは、ドイツに皇帝が不在となる大空位時代(1256-1273)をもたらした。この時期がトマスの後半生と重なるのである。教皇と皇帝との二中心の楕円的世界であり、中世が緩慢なカーヴを描いて解体へと向かう時期だった。この二つの権力構造は、イタリアをゲルフ党 (教皇派) とギベリン党 (皇帝派) という二つの勢力に分断する。この軋轢の中で陰謀に巻き込まれるのがダンテ (1265-1321) だった。

この後、19歳でドミニコ会に入会し、ケルン大学での修業時代(1248-52)となる。師アルベルトゥス・マグヌスのもとで本格的な神学の勉強を開始するのである。この時期に学友たちから<黙り牛>のニックネームがつけられた。しかし、師は、こう語ったという。「われわれは、この若者を黙り牛などと呼んでいるが、諸君に言っておく、やがて世界は彼の鳴き声で満たされるだろう。(トッコのグイレルムス『聖トマス・アクィナスの生涯』柴田平三郎 訳)。」

やがてパリ大学で教鞭を執った後、イタリアに戻り、オルヴィエト、ローマ、ヴィテルボなどに滞在し、パリに帰還、再びイタリアに戻ってフィレンツェ、ナポリで過ごし、フランスのリヨンで開かれる公会議に出席する旅の途中、生まれ故郷に近いフォッサノーヴァの修道院で亡くなっている。49歳だった。

 

トマスの時間


フリードリヒ・へ―アは、20世紀のウィーンに生まれ、カトリックの進歩的ジャーナリストだったが、歴史に対する独自の想いがあったという。それが、彼の『ヨーロッパ精神史』だった。オーストリア人であるアドルフ・ヒトラーの手先と闘う中で成長したという彼は、「ヨーロッパとは千年以上にもわたる一つの内乱」であると述べ、「新しい文明は、一切の人種、一切の文明が紛糾する只中で響く和音の中でしか、生きることができない」と述べたという。

この『ヨーロッパ精神史の八章には、13世紀の精神史を「トマスの時間」として、こう述べている。「フリードリッヒ二世がつくった最初の学校のあるナポリが、アヴェロエス主義から、次の世紀に『新プラトン主義的汎神論の影響下にあり、シチリア王シャルル・ダンジュールの支配となるまでの間に、トマス・アクィナスの生涯が横たわる。トマスの仕事は次のいくつかのことを前提としている。すなわち、<神聖ローマ帝国の皇帝に対するゲルフ党の教皇権の勝利、『啓蒙主義的な地中海君主の台頭、予言的な精神主義の衰え、乞食修道会同士の争いである。新しくできた大学はイスラム諸侯の宮廷で行われていた論争や対話の習慣を相続して、パリ大学は互いに非常に異なったキリスト教、汎神論、無神論、<自由思想>の学説と人物の対決する場所となった(『ヨーロッパ精神史』小山宙丸、小西邦雄 訳)。」これには、いくつかの解説が必要だ。

 

修辞から論理へ――スコラ主義

ヨハン・ホイジンガは、12世紀の知識人の言語・思想を羽ばたかせていた自由の世界は終り、スコラ学の領域に閉じこめられ、三段論法に縛られ、ドグマ的公式に立つ哲学的見解に押し込められる時代がやって来るという。しかし、まだ初期の頃は、ボナヴェントゥラやトマスの確固たる不動の体系には閉じこめられておらず、世界の姿、生活と精神の形式は、まだゴシック様式の中に結晶してはいなかったという文法重視の古典の味読と言語表現に心を砕く12世紀の人文主義とは決定的に異なる13世紀のスコラ学の精神、それを説明する場合、「三段論法」「ドグマ的公式に成り立つ哲学的見解」「不動の体系」といった言葉で特徴づけられ、マイナスのイメージを漂わせるものが多かった。

一方で、イギリスの中世史家、リチャード・ウイリアム・サザーンは、司教座聖堂付属学校で営まれていた文法と修辞学を柱とする12世紀の古典研究は、13世紀に入って新しい都市文化の中で活動する人々の関心を失い、新しい状況に応じる新たな知の場所である大学での論理と実証に重点を置く論理学研究が時代の主流になっていったという。それは、「修辞から論理へ」という言葉で表現される。アウグスティヌスの修辞学については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1 記号の発生と象徴=交換能力に書いておいた。

イエズス会のクラウス・リーゼンフーバー神父は、人間に対する尊厳、自然の秩序、理性の力といったものに対する価値の高まりを受けて、11世紀の後半以降に古典ラテン語文学の精神的価値が、次いで12世紀後半から13世紀半ばにかけてアリストテレスといった古代哲学の新たな意義が、見いだされるようになり、神学的<権威>と並んで哲学的な<理性>がクローズアップされるようになるという。ここで、神学は、内的な知恵の欲求よりも言葉によって伝達可能で論証上説得力のある知への欲求に駆り立てられようになるというのである。

 

パリ大学

『小鳥に説法する聖フランチェスコ』
ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃-1337)画

先ほどのへ―アによれば、西方<自由世界>の教皇、諸侯らによる都市国家間の争いや大学管理者、教授、学生、市民間の中の絶えざる争いの中、大学は宮廷世界や知識階級における討論を引き受ける形で成立する。修道院学校、司教座聖堂学校が寄り集まってパリ大学はできた。人文学部、法学部、医学部、および神学部よりなり、中でもその中枢は<教区>司祭からなる教授団だった。そこは、パリ司教、教会、王侯、教皇庁のパリ機関といった諸力のせめぎ合いの場となる。

宗教的な新たな息吹を求める者は、乞食 (こつじき) 修道会に向かい、世俗的に心を動かす者は、法律研究に向かい、知識人たちは、人文学部に急いだという。1252年、このパリ大学に新たな修道会たる乞食修道会、すなわち、ドミニコ会やフランシスコ会の会士たちがやって来る。この年から乞食修道会と大学とは数十年に亘る争いを続けることになる。

かれら修道会士は、修道会長の命には従うが、大学の決定には従わなかった。つまり、大学という団体には何ら寄与しないまま、在俗教師の職と学生とを奪うことになるのである。このパリ大学にトマスがやって来たのは、この1252年という年だった。すぐ後に大学とパリ市当局の間で、司法権をめぐって争いが起こり、大学側はストライキに入ったが、その最中にトマスは、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の講義を行うといういわば、「スト破り」決行することになるのである。

ドミニコ会

『聖ドメニコ』
ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃-15126)画

乞食 (こつじき) 修道会は別名、托鉢修道会ともいう。13世紀初頭に中世初期からの既成の修道会の世俗化、富裕化に対する批判の中から生まれた。ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスティヌス会、カルメル会が知られている。

トマスはこのドミニコ会に入会するのだが、ベネディクト会の修道院長を親戚に持つ家族は猛反対し、入会を翻意させようとするが果たせず、ついに、最後の手に出る。トマスの部屋に美少女を送り込んで、彼を誘惑させようとするのだが、暖炉の燃えさしを振り回して部屋から彼女を追い出し、その燃えさしで壁に十字を描いたという逸話が残っている。

トマスの師であったアルベルトゥス・マグヌスもドミニコ会士で、アリストテレス受容に積極的であったし、錬金術師としても知られ、自動人形を作ったとされる興味深い人物である。トマスの死後、彼に異端容疑が、かけられた時にはケルンからパリまで出向いて弟子を擁護したという人だった。

上智大学で教鞭を執ったペトロ・ネメシェギ神父は、13世紀がトマスに影響を与えた三つの大きな要素についてこう述べている。12世紀からの経済的発展や生活様式の変化という社会的な要因、アリストテレス主義の流入と受容、そして、福音的信仰の復活の三つである。人々は従来の教会における権威主義的な教職制度に安住しなくなり、俗世から離れた修道者の修道態度にも好意を持たなくなる。そんな時、アッシジの聖フランチェスコや聖ドメニコの貧しい者たちの中で小さな兄弟として共にキリストの福音を生きるという姿は共感をもって迎えられるのである。

 

アリストテレス哲学の受容

イブン・ルシュド(1126-1198/アヴェロエス)
ラファエロの『アテネの学堂』に描かれた中央の人物

アリストテレス哲学の受容という問題に関して、フランシスコ会は頑なに保守的だったが、逆にパリ大学内の人文学部には、ブラバンのシゲリウスやダキアのボエティウスといった過激なアリストテレス主義者たちがいた。いわゆるラテン・アヴェロエス派といわれる人たちだ。彼らは、既存の教会から危険視されていた。

イブン・ルシュド、通称アヴェロエスはアラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの研究者として知られる人だった。このラテン・アヴェロエス派にたいしては度重なる禁令がだされ、ついに、パリ司教からの断罪が行われる。トマスがパリ大学に赴任して2年目のことだった。彼は、アリストテレスの原理を真なるものとして、真なるものであるが故に有用だと考えた。そのため、教会からも不信の目で見られ、一方で、大学内でもフランシスコ会からも危険視されることになる。筆者の柴田さんは、トミズムが13世紀中世におけるカトリック教会の唯一の正統的体系として見るのは誤りだと強調している。

一般に、13世紀後半以降のアリストテレスの影響が思想的な変革をもたらし、中世と近代との分水嶺になったと言われている。この<13世紀アリストテレス革命>は、アリストテレスの『政治学』の再発見にあり、その最大の功労者がトマスであるとされてきた。しかし、実際には12世紀に「もう一つのアリストテレス受容」といったものがあったと著者は言う。それは、キケロの影響による「政治的自然主義」と言うべきもので、相当な素地ができていたのである。ちなみに、悪寓の世界にいたアウグスティヌス(354-430)初めて知の輝きを知ったは、キケロの書によってであった。ゲインズ・ポウストは、『中世法思想の研究』で、12世紀ルネサンスにおいて、復活したローマ法の影響を受けた前期教会法学者デクレティスト、そして、カルキディウ、セネカ、キケロ、ウェルギリウスら古典作家たちの著作を通して、独特の自然理解を示したシャルトル学派のソールズベリのジョンやフランスで活躍したリールのアラヌスの中に「社会的、政治的自然主義」の展開を見出している。

中世史家マルティン・グラープマンは、トマスがアリストテレスを独自に研究し、アウグスティヌスと初期スコラ学によって科学的に叙述されたキリスト教的世界観と有機的に結合し、適度に修正されたアリストテレス哲学の方法と形式を借り、しかも教会的神学的伝統の体系を少しも離れることなく。哲学・思弁的神学の建設に一種のキリスト教的アリストテレス主義を創造したという。

 

トマスの神学大全


マリー=ドミニック・シュヌー(1895-1990)
フランス生まれのローマ・カトリックの神学者、改革派雑誌『コンシリウム』の創刊者の一人。

大全/スンマの来歴

神学大全とは「スンマ・テオロギアエ」の訳である。<テオロギア>は神学、<スンマ>には、「全 () 体」「要点」「頂上」「最高の地位」などの意味がある。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、「この言葉を創りだした12世紀の学校用語では、<スンマ>は、キリスト教教義の真理を提示することを目的とする<諸命題>(ないし何らかの一群の教義)の、簡単明瞭で総合的で完全なる資料集であるとしている。

しかし、トマス自身は神学という言葉は使わず『聖なる教え sacra doctina』というタイトルをつけている。

シュヌーによれば、サン=ヴィクトルのフーゴ―のものと見なされてきた有名な集成が、この意味における『諸命題のスンマ』であったという。中世フランスの神学者で唯名論の創始者として知られるピエール・アベラール (1079-1142) は、『神学への誘い』の中で、「三つの人間の救済の<要約 sunmma>として信仰、慈愛、秘蹟」を挙げている。12世紀の間に<スンマ>は、単なる語句の集成にすぎない「命題集」「詞華集」ではなくなり、学問の諸領域における主要な著述形式となって13世紀に引き継がれたという。

ススのヘンドリクスの『法のスンマ』、ロバート・グロステストの『哲学のスンマ』、ギョーム・ペローの『諸徳のスンマ』といったように知識や学問諸領域全般にわたって「簡潔明瞭な総合化」が求められるようになる。諸学のカタログ化が始まるのである。13世紀における最初の偉大な作品が、フランシスコ会士アレクサンデル・ハレンシスの『神学のスンマ』である。それはアリストテレス哲学導入以前の神学大全であった。

 

神学大全/聖なる教え

トマスが『神学大全』に着手するのは、一回目のパリ大学神学部における教授活動を終え、イタリア各地で教えていた時期にあたる。これが第一部開始時期である。パリ大学では、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』がテキストとして多く使われたが、無益な問題や論議の重複が多く、学問的な秩序もなく、同じ事柄の反復が多くて学生の倦怠や混乱の基になっていた。それを改めようとしたのである。全体の構造は、(一)神論(二)人間論 (三)キリスト論となっていて、それぞれのテーマは、以下のようになっている。

(一)神論/神自身と神からの万物の発出
(二)人間論/万物の中の理性的被造物としての人間が神へと帰還していく運動
(三)キリスト論/神のもとへと帰還していく道であるキリスト

論の進め方は、幾つかの権威の提示としての ①異論、それに対する他の権威の提示 ②反対異論、両者の調和的解決 ③主文、異論に対する個別的な批判 ④異論解答となっている。これは、スコラ学の講義形式に沿ったものだと著者は指摘している。

神学大全』の第一問題は、以下のように十項からなっているが、今は、論の進め方の例として第一項のみを柴田さんの解説から見てみる。

第一問題(全十項)
聖教について――それはどのような性質のものであるか、またその及ぶところの如何。

一 この教えの必要について
二 それは学であるか
三 それは単一な学か、それとも幾つかの学か
四 それは観照の学であるか、それとも実践の学であるか
五 その他の諸学との比較について
六 それは智慧であるか
七 それの主観はなにか
八 れは論議を行う性質のものか
九 比喩的乃至は象徴的語りかたの可否について
十 この教えの基づく聖書は、幾つかの意味に従って解釈さるべきであるか
(高田三郎訳)

第一項「この教えの必要について」の論の進め方は、このようになっている。

トマス・アクィナス『神学大全』

異論、「汝より高きものを尋ねるな」「真と有とは置換される」‥‥人間は、理性を超える事柄について探求すべきでない。理性に属する事柄は、既に哲学的学問において十分伝えられている。真と有とは置換されるというスコラ的原理に基づき有 (存在するもの) についての教えは哲学的諸学問の中に含まれる。アリストテレスの言うように哲学の一部門として「神学」が既に存在する。

反対異論、「聖書は全て神感によるものであって、教え、戒め、矯正し、義に導くために有用である」‥‥神感による書は、人間理性によって発見された哲学的諸学問には属さない。従って、哲学的諸学のほかに別個の学は有用である。

主文、‥‥「人間救済のためには、人間理性をもって探求されるところの哲学的諸学問の他に、なお神の啓示によって知らされることが必要であった」その理由として人間は神を目的として神に向かって秩序づけられている。そして、神についての人間理性によって追求することがらも人間は神の啓示をうける必要があった。

異論解答‥‥異論で述べられた二つの説を再度論じ、「人間の認識能力を超える所での理性の探求は間違っている」「認識の対象を構成する観点が異なれば学の性格も異なる。同じ結論〈地球は丸い〉を論証するにも天文学と自然学では方法が異なる。」‥‥それゆえ、聖教に属する所の「神学」は哲学の一部門とされる所のかの「神学」とは類を異にする。

このような論証のされ方がなされていた。トマスは、理性の能力、その探求と認識の領域を認めながらも、理性を超えた神の啓示を信仰によって認識する神学の必要性をのべている。「哲学は神学の婢女」なのである。『神学大全』全体の構成は巻末に記載しておきます。

 

トマスの構造


パリのノートルダム大聖堂
トマスはパリのシテ島の建築現場を見ていたという。1255年に完成した大聖堂だが、最初に師のマグヌスとパリに来たのは1245年である。

以前にも今道友信さんの『ダンテ神曲講義』の煉獄篇でパノフスキーの著作からご紹介したことがあるけれども、ゴシック建築とスコラ学の間には、構造的に相似性がある。「その構造的特徴とは、その骨格における二つの相反する要素、上下の柱の間の垂直的連続性と内部の壁面の水平的方向性との葛藤と対立が実に見事に調和総合されている点にあり、この調和と総合の構造は盛期スコラ学のスンマ(大全)と対応している」と柴田さんは言う。

中世初期のスコラ学は、実在(念)論と唯名論という二つの説が存在していた。それらについては、ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』タルドの波動/ドゥルーズとラトゥールに少し触れておいた。実在論は個物を超えた種や類と言った概念がモノとして存在するという説で、唯名論は、実在するのは個々のものだけだと考える。当初は実在論が正統とされていた。その理由の一つはプラトンのイデア論の影響で、それは、ちょうど教会が、個々の信徒の集合ではなく、個々の地方教会の総合体でもなく、それらを大きく超えた普遍的な実在機構であるとの考えと一致していた。それは、個々の被造物が理想としてのイデアの何等かを分有しているという考えとパラレルだった。これは、プラトン的垂直性と言えるだろう。

「普遍的なものが、ただ精神の中にのみ存在するのか、現実の中にも存在するのか、もし、現実として存在するなら、物体としてなのか、非物体としてなのか、さらに非物体としてであるとするなら、それらは個々の物体から切り離された形で存在するのか (プラトン説)、あるいは個々の実体の内に存在する (アリストテレス説) のか」と著者は問う。

これについてトマスは、『神学大全』の中で、「世界の創造性というものは、まず、世界そのものの側から論証をうけとることができない。けだし、論証の出発点はものの『何たるかにある。しかるに、いかなるものも各自の種的特質におけるかぎり『ここ・いまを捨像しているのであって、『普遍はどこにも、また常にある』といわれるのもこうした意味にほかならない。だからして、人間にせよ、石にせよ、それがつねに存在していたものではないということは、論証されることのできない事柄なのである――(柴田平三郎 訳)。」トマスは、個々の事物から知性の抽象化を経て普遍は存在するという立場をとっている。ここで、水平性が垂直性と統合される。

とりあえず前半のpart1スンマに殉じた黙り牛を終了します。後半 part2 は、トマスの政治思想をご紹介する予定です。ここからは、僕がずっと気になっていたトマスの存在論をハイデッガーの高弟であり、自身も神学者であるヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』から少しご紹介しましょう。

 

付 トマスの存在論


ヨハネス・ロッツ (1903-1992)
『ハイデガーとトマス・アクィナス』

ロッツは、ヘラクレイトスが、人間の二面性について語っていることを紹介する。人間は自らの内奥でロゴスと一つでありながら、不可解にもロゴスから離反し、不幸な分裂に陥っている。この分裂が、生涯に亘る人間の行動、すなわちモノとの交わり、他者との交流、自分との交流を特徴づけている。人間は現にありながらも現に存在しないというのである。

ハイデッガーは、このヘラクレイトスの言うロゴスが、あらゆるものの根拠としての<存在>に類似しているという。ハイデッガーの根本問題は<存在>を目指していた。この問題は<存在>の意味、<存在>が最も内的に何を言わんとしているかを目指している。それが、ハイデッガーにとって究極の根源だった。人間は分離された主観性ではなく、世界と関わっていて、いわば世界にさしこまれている。それ故、人間は<世界内存在>と言える。「人間は様々な存在者に囚われているので、存在者において間断なく存在が輝き出ているにもかかわらず、その一なる存在を考慮することなく忘却し、ついに否定してしまう」のである。

ここで、ロッツは問う。<存在>と神とは関係があるのかと。そして、彼はハイデッガーの思想が無神論でも有神論でもないと答える。ただ、思惟の道は存在から聖なるものへ、聖なるものから神性へ、神性から「<神>という語で名づけられるべきもの(『ヒューマニズムに関する書簡』)」へと続いているという。道は<存在>からなおも先に示された諸段階を通って、やっと神へと至る。だから、<存在>を端的に神と同定することはできないとしている。

トマスにとって<存在>は人間の生において人間が第一に認識するものであり、それは常に最も知られるものである。人間が把握する全てのものは<存在の了解がいつも含まれている。この「存在の開け」、あるいは人間に分与されている<存在への適合は、人間の生全体を動かしている最も内的な力であるとロッツはいう。この探求への挑戦、これが、稲垣良典さんが『神学大全』を「挑戦の書」と呼ぶ理由である。そして、「神が存在するということの認識は本性的に我々に植えつけられている」とトマスが言う時、ハイデッガーの言う「存在者において間断なく存在が輝き出ている」という言葉をパラレルに思い出させるのである。

しかし、<存在>から神へは、なお隔たりがある。世界との関わりの中で人間は、本来的な自己を失い、他者の支配のもとにある。このことによって<存在>はかき消され、存在者は深淵に向かって転落するという。しかし、ハイデッガーが愛した詩人ヘルダーリンの言うように「されど危険の存するところ、おのずと救うものも生い育つ(『パトモス』村上喜良 訳)」とロッツは言うのである。続きは、またの機会に‥‥

 

 

付 『神学大全』 全構成


第一部
第一冊   第  1-13   問題    神の存在と本質について
第二冊   第 14-26  問題    神の生、認識ならびに意志について
第三冊   第 27-43  問題    三位一体について
第四冊   第 44-64  問題    創造について、天使について
第五冊   第 65-74  問題    物体的被造物の創造について
第六冊   第 75-89  問題    人間の本質と能力について
第七冊   第 90-102問題    人間の創造ならびに人間の最初の状態について
第八冊   第103-119問題   神の世界統宰について

第二の一部
第九冊   第   1-21  問題   人間の目的と行為について
第十冊   第 22-48  問題   情念について
第十一冊  第 49-70  問題   能力態について、徳について
第十二冊  第 71-89  問題   悪徳と罪について
第十三冊  第 90-105問題   法について――旧法について
第十四冊  第106-114問題    新法について、恩寵について
第二の二部
第十五冊  第  1-16   問題   信仰について
第十六冊  第 17-33  問題   希望について、愛について
第十七冊  第 34-56  問題   愛について(続)、思慮について
第十八冊  第 57-79  問題   正義について
第十九冊  第 80-100問題   正義につながる諸徳について
第二十冊  第101-122問題         同
第二十一冊 第123-150問題  勇気について、節制について
第二十二冊 第151-170問題  節制について(続)
第二十三冊 第171-182問題  預言の特別の恩寵について、観照的生活と実践的生活について
第二十四冊 第183-189問題  職務と身分の分化について

第三部
第二十五冊 第  1-15   問題    托身について
第二十六冊 第 16-34  問題  キリスト並びに聖母について
第二十七冊 第 35-45  問題  キリストの生涯について
第二十八冊 第 46-59  問題  キリストの受難ならびに復活と昇天について
第二十九冊 第 60-72  問題  秘蹟について――洗礼と堅信の秘蹟について
第三十冊    第 73-83  問題  聖体の秘蹟について
第三十一冊 第 84-90  問題  改悛の秘蹟について
第三部 補遺 
同 冊       第   1-16 問題        同
第三十二冊 第 17-40 問題  終油と叙階の秘蹟について
第三十三冊 第 41-54 問題  婚姻の秘蹟について
第三十四冊 第 55-68 問題     同
第三十五冊 第 69-87 問題  肉の復活について
第三十六冊 第 88-99 問題  最後の審判について

1273年、聖ニコラウスの日のミサにおける啓示によって『神学大全』の執筆は突然中止され、弟子たちによって完成される。

 

 

参考図書 及び 引用文献

稲垣良典 トマス・アクィナス『神学大全』
『神学大全』の翻訳者の一人が語る知的挑戦としてのトマス学

山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の神学』
生に対するポジティブなヴィジョンとしてのトマス神学

 

エティエンヌ・ジルソン/フィロテウス・ベーナ『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』中世哲学の権威ジルソンとフランシスコ会研究で知られるベーナ―の共著

トマス・アクィナス『神学大全』第一冊
創文社 1960年刊

 

 

 

 

 

ニュース

2021年『 植田信隆 展』と細川俊夫さんとのトーク ギャラリーG/広島

 

2021年 『 植田信隆 展』ギャラリーG/広島  5月25日()~30日(日)


 

細川俊夫さんとのトークイヴェント

今回は、世界的作曲家である細川俊夫さんをお迎えして『伝統から立ち上がる創造』をテーマにトークイヴェントが開催できることになりました。司会は、ピアニストで音楽学の研究者である植田ゆう子さんにお願いいたします。

5月29日(土) 18:30~19:45

新型コロナ対策のため先着順15名限定とさせていただきます。

申し込み期間 5月15日(土)~5月22日(土)
申し込み先 gallery G のホームページhttp://www.gallery-g.jp/をご確認の上以下の宛て先にE-mailでお願いします。
gg@gallery-g.jp


 

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

イェールユニオンの組織開催で、ポートランド、ロサンジェルス、ミネアポリス、ハワイとアメリカ国内を巡回しておりました『松澤 宥 展』がいよいよギャラリーG、広島で始まりました。

今回はこの展覧会を企画されたアラン・ロンジノさん、富井玲子さんとオンライントークをさせていただきました。下の写真がその時の様子です。

トークの内容ですが、
●主催者のギャラリーGの松波静香さんの挨拶
●私から本展覧会のキュレーターのお二人のご紹介
●富井玲子さんによる『松澤芸術の概説』
●アラン・ロンジノさんの『松澤芸術における量子というコンセプトとプサイという象徴』に関するトーク
●そして最後に皆さんで、「松澤さんとヒロシマ」「キュレーターの方たちの松澤芸術との出会い」「瞑想空間とコミュニケーション」」「環境問題と人類に対する警鐘」といった話題を中心にお話していただきました。
松澤芸術の魅力をこの三人の方々と共により広く、深めていけたのなら幸いに思います。尚、トークは、編集後 youtube、Facebook 等で配信の予定です。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一階展示シーン 左壁面が『九想の室』 右壁面が『白鳥の歌』

二階から一階部分を見下ろした様子

 

 

二階 展示シーン 『私の死』

展示シーン 一階から二階部分

2020年 5月『 松澤 宥・植田信隆 展』のご案内

2020 5/19-5/31『松澤 宥・植田 信隆 展』のご案内

 

2020年 5/19(火)- 5/31(日)展覧会期間が延長されました。
ギャラリーG/ Hiroshima
http://gallery-g.jp/  火曜ー土曜 11:00~20:00  月曜 休廊  最終日 11:00~16:30

5月24日 (日) 出原均、アラン・ロンギ―ノさんのシンポジウムについて
アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。19:00までは展覧会をご覧いただけます。

 

概念芸術の巨匠・松澤宥(まつざわ  ゆたか/1922-209)と植田信隆による展覧会です。2004年に制作した『消滅するヒロシマに捧げる九つの詩』のリメイク作品、そして以下に掲載しています松澤宥のオリジナル作品を展示します。この展覧会に際しては、ご家族と長沼宏昌氏の全面的な協力を得ました。ここに深く感謝いたします。

松澤 宥  出品作品

●草稿/『死のテーマ ヴェネチア・ビエンナーレに』『タントラを巡ってさまよう』 『A Black Hole』『ゾンスベーク国際展へのコメント』 他

●九字九行作品/『超人類の果て』『ドリコソマ』『エニグマ22』 他

●パフォーマンス草稿/『諏訪湖に白紙絵画を見せる』『私の死』 他

●チラシ作品/『ああニルああ荒野におけるプサイの秘具体入水式』『プサイの死体遺体』『プサイ函』 『人類よ消滅しよう』『ドンデン返し計画』他

●パフォーマンス写真(長沼宏昌 撮影)

 

『関連シンポジウム』が以下のように予定されています。

5月19日 (火) 19:00~20:00

無観客でのビデオ収録となりました。後日配信の予定です。

柿木 伸之(かきぎ  のぶゆき/広島市立大学国際学部教授 哲学、美学)、植田 信隆(作家)

ベンヤミン研究者として知られる広島市立大学の柿木伸之先生をお招きします。前半は私が松澤さんの芸術についておおまかに解説し、後半は、柿木先生に松澤芸術を起点として戦争と芸術をテーマにお話ししていただきます。

5月24日 (日) 15:00~16:00

出原均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)
アラン・ロンギーノ(インディペンデント・キュレーター)

アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。

2004年に広島市現代美術館で『松澤宥キュレーション展』を企画された当時の学芸員であられた出原 均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)さんに松澤芸術について解説していただきます。

どうぞ、皆さまマスクをお持ちになってご来場ください。

 

2020年3月27日

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

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