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柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part2 中世神学と国家理論

 

中世史家であるジョセフ・ストレイヤーは、11世紀までの西欧中世は<長期の冬であり、12世紀に<中世の春>が訪れると言う。それは、「12世紀ルネサンス」と言ってよかった。トマスの生きた13世紀は、その最盛期を極める独自に文化発展した時期であり、<中世の夏>と言われる。その後、14世紀にはヨハン・ホイジンガが著したように『中世の秋が訪れるのだ。

ペトロ・ネメシェギ(1923-2020)上智大学名誉教授

トマス・アクィナスは、南イタリアの侯爵の息子で、5歳の時からベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院で育てられ19歳の時にドミニコ会に入会し、それから一生涯大学の教授、及び教皇庁付きの神学顧問であった。彼は肉体労働をした経験もなく、司牧活動を通して庶民に接する機会もなかった。ベルナールのように政治に携わることもなく、ボナヴェントゥラのように修道会の長上になることもなかった。彼は、大きな絵の輪郭を白い紙に黒インクだけで描くように自分が専念した神学上の問題を考え、著述することだけに心を費やしたと、神学者のペトロ・ネメシェギ神父は述べる。トマスの五つの長所を挙げた後、彼には、生活体験と想像力の欠如があるとトマスの短所をこのように述べた。

これに対して著者の柴田平三郎さんは、トマスをこう弁護する。事物の論証を客観的、抽象的に行って生々しい生の感情を持ち込むのを拒否するのは一般に13世紀のスコラ学に特徴的なことであった。中世キリスト教の研究者であるデヴィッド・ノウルズの言うように12世紀は、文法の習得とラテン作家の作品読解に支えられた自己表現力豊かな文芸文化があった。それは、古代の賢者に対する敬意とそうした志向を持ち合わせた人々の友愛関係が培った土壌といえる。その精華が『薔薇物語』だったが、13世紀は論理の時代になるのであると言う。

柴田平三郎『中世の春』
ソールズベリのジョンの思想世界

ネメシェギ神父は、トマスは諸思想の多様性、独自性を消すような収録の仕方をしたとも批判する。トマスの体系に多くの思想家が合流した結果、一つ一つの思想の本来のユニークな価値がニュートラルなものになってしまった。福音書の魅力的な素朴さ、パウロの焔、アウグスティヌスの旋風、ディオニュシオスの神秘的な闇などトマスの書に探しても無駄だというのである。

これに対して柴田さんの弁護はこうである。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、トマスが問題にしている視点は、かつてのギリシアやローマの状況が如何なるものであったかと問うより、13世紀に生まれていたなら彼らはどのような貢献をもたらすのかを問うているのだと述べている。そのように、トマスにとって重要だったのは、過去の知をどう知るかではなく、真理とは何かであったというのである。

結局、トマスが13世紀という時代の中で行おうとしたのは、異質なものの「和解と調和」による「体系の構築」であり、「削除と綜合」を通じての「全体性」の実現であった。しかし、彼の政治理論と教会論を研究すると、まさにその逆であって、誠に独自な魅力を持っているが、首尾一貫していないように思えると柴田さんは言う。今回は柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』をご紹介している。前回 part1 ではトマスの『神学大全』を中心にご紹介した。今回 Part2 は、本題のトマスの政治学についてご紹介する。

 

人間は社会的・政治的動物である


 

『トマス・アクィナスの栄光』
ベノッツオ・ゴッツォリ(1420-1497)画

アリストテレス文献の流入

12世紀ルネサンスと呼ばれた時代にアリストテレスの著作群が組織的に紹介され始める。この時代にはギリシア文献だけでなく、それらを独占していたアラブ世界の文献も翻訳された。

そのルートは三つあり、①スペイン・ルートでは、12世紀クレモーナのヘラルドによってギリシアやアラブの哲学、科学書がアラビア語からラテン語に訳される。②シチリア・ルートでもプトレマイオス、エウクレイデス、プロクロスの天文学や数学、自然学のラテン語訳がなされた。そして、③北イタリア・ルートでは、ヴェネツィアのヤコブによってアリストテレスの『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁論』がラテン語訳され、初めてアリストテレスの論理学の全貌が明らかにされるのである。

トマスは、その政治学について同じドメニコ会士で友人であったムールベケのグイレルムスが訳したアリストテレスの『政治学』完全訳を用いたと言われる。

社会的・政治的動物である人間

人間は本性的に社会的動物なのであり、だから無垢の状態における人々もまた社会的な仕方で生きたであろう(『神学大全』第一部 96問題 4項)とトマス・アクィナスは述べた。

「人間は自然的に政治的 (ポリス) 動物である」というアリストテレスの言葉を「社会的動物」と言い換えているのである。社会的交わりの中で人間は、いわば、世界に差し込まれている。トマスは、政治の営みや国家の存在が人間にとって自然的なものであると述べるようになる。それまで、アウグスティヌスや伝統的キリスト教では政治や国家を人間の罪の所産、「罪に対する罰と矯正」と捉えられていたのである。

アウグスティヌスに代表されるキリスト教会の正統的教義では、政治社会や国家は神の望まぬ「人間の人間による支配」、つまり「奴隷制」を指すのであって、自然の秩序ではなかった。これに対して、トマスは原罪以前の政治的権威とは何かを問うた。多数者の社会生活は、共通の善を意図する何者かがこれを統轄するのでないかぎり存在しえないであろう(『神学大全』同上)と述べる。無垢な状態においても人間が人間を支配することはあり得るとしたのである。奴隷制とは別に「自由人の支配」は、原罪と関わりなく存在したと考えた。これは、革新的なことだったのである。

 

アリストテレス像  リシッポス作の失われたブロンズ彫刻の模刻(1~2世紀)

共通善による共同生活

アリストテレスにとって共通善とは、自由人の共同体としてのポリス(国)において、人間が単に生きるだけでなく、善く生きること、すなわち徳に従った善き生活を目指すことを意味していた。共通善を目指して共同生活を営もうとする国民相互間の積極的意思とそれへの適応能力たる徳 (アレテー) なしには、国は存続し得ないと彼は考えた。例え、国民一般の徳と人間の徳とが、さらに治者の徳と被治者の徳とが無条件に同じではないとしてもである。

トマスは、「人々は互いに真理を明示しあう者として、互いに信頼しあうのでなければ相互に共同生活を営むことはできないであろう。したがって、真実という徳は何らかの仕方で負債・義務という側面にかかわるのである(『神学大全』第二の二部 109問題 )」と述べている。マウリッツィオ・ッツァラートなら負債・義務こそ人間を奴隷化するものだと言うだろうが、これは金融資本主義の話だ。

ともあれ、トマスは、社会が存続するためには、真実を明示するという道徳性が不可欠なものと考える。それと同時に、悦び無しにも社会において生きることが出来ない。「苦痛を与える人や快くない人と一日中一緒に付き合える人はいない (アリストテレス『ニコマス論理学』) のだから。つまり、人は自然本性的な道徳的義務によって他の人たちと楽しく共同生活することを義務付けられているというわけである。

 

公的権力の行へ

トマスは、君主たちに対して公的権力が委託されると考える。それは彼らが正義の護持者となるためであり、正義の原則に基づいてのみ暴力や強制力を発揮することが可能なのである。国家は暴力=強制力の正統な独占者・行使者であるが、それは国家が正義を実践する限りにおいてである。私的人格者が暴力によって他者から何らかのものを奪い取るなら、それは強盗であるという。

聖アウグスティヌス

これは、アウグスティヌスの有名な国家強盗団説を逆手にとっている。「正義がなくなるとき、王国は大きな強盗団以外のなんであろうか。盗賊団も小さな王国以外の何でもないのである(『神の国』柴田平三郎 訳)。」アウグスティヌスにとって、国家には初めから正義などないのである。彼はアレクサンダー大王と海賊の会話を持ち出す。大王が海賊に「海を荒らすとはどういうつもりか」と聞くと、海賊はこう答える。「陛下が全世界を荒らすのと同じです。私は小さな船なので盗賊と呼ばれ、陛下は艦隊をお持ちなので皇帝と呼ばれるのです」と。

マキアヴェリが、信義を守ること、誠実であることなどの徳性は、君主にとって状況と必要に応じて踏みにじられて然るべきだとしていることを考えるとアウグスティヌスの意見もあながちペシミスティックともいえない。ともあれ、トマスは、アウグスティヌスを権威と仰ぎながら巧妙にその説を換骨奪胎させていると柴田さんは言うのだ。

罪によって人間から理性的であるということが全面的に取り去られるということは不可能である。そうなら罪を犯すことも出来なくなるからだとトマスは言う。そこで、この世の生において持ちうる不完全な幸福は、理性と言う自らの自然本性的なものによって獲得できるものであり、その仕方は、その働きにかかっている徳と異なるものではない。これに対して完全な幸福は、神の本質を見ることにあるというのである。現世の幸福は完全なものではないと釘を刺すことも忘れてはいない。

 

最善の国家制度


 

混合政体論

西欧政治思想の長い歴史の中で、一人の支配たる「君主制」、少数の支配である「貴族政」、多数の支配としての「民主政」、これら三つの支配形態の組合せによる「混合政体」が最善であるとする長い系譜があったと言われる。古代ギリシアのプラトン、アリストテレス、ローマ時代のポリュビオス、キケロ、そして、13世紀中葉にアリストテレスの『政治学』が紹介されるとトマス・アクィナスによって取り上げられるが、本格的な再生はルネサンス期のフィレンツェ、ヴェネツィア、そしてチューダー朝イングランド (1485-1603 ) だとされている。

『チャールズ一世』
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)画

この政体論は、内戦前夜のイングランドで「我が政体は混合政体」であると述べたチャールズ一世 (1600-1649) に予示されることになる。王権神授説を信奉する王の皮肉だったのだろうか。やがて、名誉革命を成功させるイングランドで「君主政」「貴族政」「民主政」の三要素は、議会における「国王」「上院議員」「下院議員」となり、立憲君主制の統治原理として18世紀のアメリカ合衆国へとつながると言うのが定説となっている。

しかし、この説は、今日の中世立憲思想研究では修正を余儀なくされていると著者は言う。まず、その制度には、次のような前提が必要とされている。統治権は法によって厳しく制限をうけること。正当な統治権の成立には被治者の同意が必用であること。その同意は代表者からなる議会を通じて表明されなければならないこと。これらの事柄は、西欧12世紀に復活したローマ法の法学者らによる世俗統治権に関する理論とそれを教会法に巧緻に取り入れた教会法学者たちによって形成されたことが、明らかにされてきたからである。しかし、ローマ法の影響力は大きい。

トマスもまた、混合政体論を最善としながら、一方でそれを否定するかのような主張もあるという。彼は、一体どちらの立場に立っているのだろうか。

 

君主の統治と混合政体

「私によって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める(『箴言8-15』)」と神が述べられているなら、人民の最善の統治は一人による統治である。明らかに教会の統治は、そのように配慮されているから一人の者を教会全体の長としている。このような理由をもとにトマスは、政治においても君主制擁護論を展開する。その典拠は、『君主の統治について』にある。おそらく、ドミニコ会の庇護者であったフーゴ2世のために書かれたと言われる。

この中では、擁護の詳細な理由として以下の事柄が挙げられている。それが、神の宇宙支配の理法に適応していること。政治支配者の最大の務めは、民衆の平和的統一を創出することであり、それは複数者よりも一者によって可能であること。心臓が体を統べるように、理性が霊魂を統べるように自然的統治は一者によって成されていること。預言者エレミアが述べたように一人の人間によって統治されていない領国や都市は、分裂に悩まされ、平和を知ることなく分裂すること。

明らかに君主政を支持しているように思える。問題は、トマスがアリストテレスの概念的枠組みと用語法をどのように駆使して自己の混合政体論を作り出したかという事になる。アリストテレスは、国家指導者が一人で君臨する場合は王政支配だが、統治の知識の原則に従って代わるがわる支配者となり被支配者となる場合は国家指導者であり、それは政治支配だというのである。

しかし、ムールベケのグイレルムスは、これをラテン語に置き換える時、アリストテレスの言う代わるがわる、つまり市民が交互に支配者となり服従者となるというヶ所を、一人の者が役割によって支配者となるとともに服従者となるとした。これは、明らかに誤訳だった。翻訳に誤訳はつきものだが、この誤訳は君主政があくまで統治の基本とするトマスの認識を「絶対的」な君主政か「法に従った」君主政かを問う形のもの変えたのである。前者を王政的支配 (regal rule) 、後者を政治的支配 (political rule) とした。しかし、その法は、一人の支配者が決めるものではなく、共同体の成員全ての意思の具現でなければならないとしたのである。

ジェームズ・M.・ブライスの最近の研究によれば、その共同体全体によって確立された法に支配される君主政は、少数の賢者 (貴族政) と全人民の意思によって宥和された、いわば混合政体なのである。これがトマス政体論の曖昧さに繋がっていると見られている。柴田さんは、このプライス説に概ね賛成だという。

トマス・アクィナス『君主の統治について』
君主の「鑑」という形式で統治と君主政について書かれたが、未完で終わっている。

アリストテレスの混合政体では、権力所有者の数と質によって成り立つ六つの政体分類がある。公共のための単独支配である君主政、公共のための少数支配としての貴族政、公共のための多数支配であるポリテイア (政体・国制) という三つの善き統治形態。そして、私事のための単独支配としての僭主政、私事のための少数者支配が寡頭政、私事のための多数支配である民主政の三つの堕落形態である。トマスは、そのうちの僭主政体が最悪だと述べている。それを防ぐための方策として、僭主になることなど考えられない様な人物の人民による選出、即位した君主が僭主に変る機会のないような手だての構築、王の権力も容易に僭主制に転化しないように宥和されるべきことを挙げている。

このように考えるとトマスの混合政体論のニュアンスが掴めてくる。この『君主による統治について』が中断された2年後の1269年に『神学大全』の「第二の一部」が執筆されるのだが、そこで、こう述べている。人定法は政治共同体を統治する者によって制定されるが、それは、政体との相関による。君主政においては君主の勅法であり、貴族政においては法学者の解答と元老院の議決、民主政においては平民会の議決である。「以上述べたものが融合した国制なるものがある、これが最善である(『神学大全』第二の一部 95問題 四項)。」全ての者が統治に何らかの仕方で参与するように配慮されなければならないという。

 

暴君は放伐可能か


 

ソールズベリのジョン『ポリクラティクス』
フランス語訳の序文、画中の人物は、賢明で狡猾といわれたフランスのシャルル5世。

徳を失った天子を天が見放す時、天命が革 (あらた) められる。天子が自らそのことを悟り、位を徳のある他者に譲ることが禅譲であり、天子を武力によって追放することが放伐である。古来、中国では、これを易姓革命と呼んだ。孟子が掲げたことで知られる思想だ。西欧中世思想においても統治権力に対する抵抗の問題は重要だった。それは、古典古代以来の長い系譜を持つといわれる。

11世紀に修道士ラウテンバッハのマネゴルトが、支配者と人民の間の誓約と誠実にもとづく契約に支配者の任免の根拠はあるとして、支配者が暴君と化して、その契約を破るなら進んでこれに抵抗する権利があるとした。そして、イングランドの人文主義者であったソールズベリのジョン (1115?-1180) のこの発言は、有名なものとなった。彼は『ポリクラティクス』の中で「暴君を殺害することは許されているばかりでなく、正当なことであり正義でもある」と述べたのである。

この1世紀後、トマスは、このジョンの思想を『命題集注解』の中で、より一層精緻にしたといわれる。彼は、「権威が獲得される方法」の暴君、これは資格や資質の欠如のことである。そして、「権威の行使の結果」としての暴君とに分ける。この区分は、14、15世紀のイタリアの政治理論の中で発展していった。

トマスによれば、暴君とは「暴力によって権威を奪う者」であり、「正当な権威の確立の目的に反する」命令や、「邪悪な命令」、「権威の権限を越えた命令」を人々に強制する者である。そうした暴君に対して、服従の義務はなく、カエサルの殺害を正当化するキケロを紹介しながら「暴君を殺害することによって、祖国を解放する者は賞賛され、報いられるべきである」とさえ言い切っているのである。しかし、より正しい判断が下せるという理由によって、放伐は、私人ではなく公的な権威によって為されなければならないとしている。この過激な暴君放伐論は、トマスの死後、彼の後継者たちにとって強力な理論武装の支えとなったのである。

16世紀宗教戦争のさなかに刊行された「モナルコマキ(暴君放伐論)」は、正当な資格を持たないのに暴力や邪悪な手段で王国の権力を簒奪した僭主、しかるべき資格によって王国を譲渡されたが暴虐の限りを尽くす僭主に対して、この権利の主張を行う。それは、やがてジョン・ロックの『統治二論』で「天に訴える権利」としての抵抗権が掲げられるのである。トマスに遅れること約4世紀後のことだったという。

 

戦争は許されうるのか


 

フーゴー・グロティウス(1583-1645)
国際法の父と呼ばれるオランダの法学者
ミヒール・ファン・ミーレフェルト 画 1608

トマスの正戦論

トマスがアウグスティヌスの「正戦論」を中世において体系化した思想家であるというのは通説となっていると言われる。戦争には正当な戦争と不正な戦争があるとしたトマスの正戦論には、二段階あり、「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」である。この正戦に関する教説は、カトリックの正統論として継承され16,17世紀のスペインの神学者ビトリアスとスアレスによって展開されて、キリスト教正戦論は一つの画期を迎えたという。この理論を神学から解放して世俗化し、近代主権国家のシステムに対応させた人が、「国際法の父」グロティウスであった。

さて、トマスがこの戦争をどのように考え、どのように分類したのかを探ってみたい。『神学大全 第二の二部 第40問題』は「戦争について」述べられている。

第一 ある戦争は許されうるか。
第二 聖職者が戦争するのは許されうるか。
第三 戦争する者が策略を使うのは許されうるか。
第四 祝日に戦争するのは許されうるか。

第一項は、「戦争は常に罪であるのか」という問題に集約される。戦争が正しいものであるための要点は、三つに絞られる。「その人の命令によって戦争が遂行されるところの、君主の権威」、「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」、「戦争する人々の意図の正しさ」が、正戦であるために必要とされる。因みに「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」に関して、トマスはアウグスティヌスのこの言葉を引いている。「正しい戦争とは不正を罰するところのものと定義されるのが普通である。すなわち、民族や国が、その成員によって不正になされたことを糺すのを怠ったり、不正に横領したものを返却するのを怠ったりして罰せられるべきであるときに、その不正を罰するのである(『問題集/モーセの七書について――ヨシュア記』)。」

第二項、「聖職者が戦争するのは許されうるか」については、こう述べられている。聖職者は、神に関わる諸々の事柄を観照し、神を賛美し、人々のために祈るのが仕事であるという一般的な理由、聖職位は祭壇の務めのために任ぜられるのであって殺すことや血を流出させることは相応しくないという特殊な理由によって、聖職者による戦争の遂行は全面的に許されない。

主に第一項によって「戦争に至る正義(法)」が説明される。すなわち、君主の権威、正当な理由(原因)、意図の正しさが満たされなければ、その戦争は正しくないのである。次は「戦争における正義(法)」という問題に移るが、これは、第三、四項で説明される。

第三項 「戦争する者が策略を使うのは許されうるか。」 策略には①「虚偽の語りと約束の不履行」があるが、これは敵同士の間にあっても守られるべきある種の戦時法規と協力条約があるのだから許されない。②「企みや考えの不開示」は、敵を攻略するための諸々の計画であり、欺瞞でも不正義でもないとしている。

第四項 「祝日に戦争するのは許されうるか。」 国家の安全は、一人の人間の身体のそれよりも一層保全されるべきもので、それによって多くの人の殺害や、地上的、霊的な悪が阻止される。それゆえ信者たちも国家を守るためには、必要なら祝日に正しい戦争をすることは許されるとしている。

ヨハンネス・グラティアヌス
(1100?-1150?)12世紀ボローニャの法学者
『教令集』の中世手写本

「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」二段階の理論構成は、12世紀の教会法の法典であるグラティアヌスの『教令集』に沿って構想されているといわれる。そして、トマスが、ここで権威として引用する神学者はアウグスティヌスただ一人である。

しかし、例えば「悪人に逆らうな(「マタイによる福音書」)、「愛する者たちよ、汝ら復讐すな、ただ神の怒りに任せよ(「ローマの信徒への手紙」)といった例を引いて、「戦争はつねに罪である」という異論を述べ、その反論として、それは常に心の準備として把持されるべきものであって、時として、共通的な善のためや、戦っている相手の善のためにも、それとは異なった行動をしなくてはならないと述べるのである。ここでも、アリストテレスの影響が見られることを柴田さんは指摘している。

 

異教徒への寛容

もう一つ筆者が指摘していることがある。それは、トマスには聖戦の観念がないことである。彼の時代が。第6回から第8回という三度にわたる十字軍を体験していることを考えると意外だと筆者は言うのだ。「いまだ受け入れていない信仰に反抗する者よりも、受け入れた信仰に反抗する者のほうが、信仰に対してより重い罪を犯すことになる」とトマスはのべるのだった(『神学大全 第二の二部 第10問題』)。彼は、教会がユダヤ人や異教徒たちの祭儀でさえ容認すべきだという立場をとっている。おそらく、これはトマスが、10代の頃にアラブ文化を盛んに取り入れていたナポリの大学で学んだことが影響しているのではないだろうか。彼が広い視野を持っていたことが、このことからも窺える。

 

トマスが置かれていた状況

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

彼の生きた13世紀は、近代的で大規模な戦争は勃発してはいなかったが、都市国家間での争い、君主国、公国などでの世俗権力間での紛争、スペイン人の対ムーア人戦争、度重なる十字軍、対モンゴル戦争、そして、神性ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝の崩壊とナポリにおけるシャルル・ダンジューの制覇と言った事柄が続出していた。そして、トマスのアクィノ家はナポリの近郊において、ナポリ・シチリア王国とローマ教皇領との狭間にあって危うい選択を迫られ続けた。長兄も次兄も皇帝フリードリッヒ二世の側についていたが、長兄はキプロス王フーゴの家臣によって捕虜となり、教皇グレゴリウス九世の介入によって解放され、以後、教皇側についた。次兄は、教皇インノケンティウス四世が皇帝を廃位すると教皇側につき、やがて皇帝暗殺の嫌疑をかけられて処刑される。

トマス自身は教権と俗権を巡る争いに対して穏健で中庸な態度を取っていたといわれるが、曖昧にしていたのかもしれない。このような家族の状況を見る時、トマスの心情も、また察せられるのである。彼は、これらの両権力にたいして距離を取り、自身は一切の顕職や地位を拒否したと言われる。『神学大全』は、このようなトマスの家族の状況と歴史的な背景の中で書かれた。そこには生々しい心の傷があった。トマスは戦争の問題を、人間存在そのものを根元的に問う倫理的、道徳的問題としていたのであって、けっして正義・不正義の問題を社会的な規範や外面的なルールに求めていた分けではないと柴田さんは言う。この思考の枠組みは近代の法学的発想と方法の基にはなったが、それを目指していた分けではなかったのである

 

黄昏に飛び立つミネルヴァの梟


梟を抱えたミルネヴァ ルーブル美術館
西暦2世紀と18世紀と二度に亘り復元された。

時代が傾く時、知のミネルヴァの愛鳥である梟が飛び立つとヘーゲルは述べた (『法の哲学』序文)。ちょうど、ギリシアのポリス世界が崩壊しようとした黄昏の時期に万学の祖と言われたアリストテレスが登場した。彼にこそ、このヘーゲルの言葉は相応しいと柴田さんは言う。そして、中世世界が徐々に傾斜していく中で、アリストテレスから自然主義的政治学の哲学を学び、それをキリスト教教義と調和させ、この世の自然的秩序の正当化を図ったトマスこそ、アリストテレス以上にこの形容に相応しいのではないかとも言うのである。彼もまた、中世世界の全構造を、思想のゴシック建築と比喩される壮大な『神学大全』の中に網羅しようとしたからである。

柴田さんは、本書の最後のあたりで、このように述べる。それまで、中世の人々の心を呪縛してきたアウグスティヌスのキリスト教的人間観と政治観をアリストテレスの思想を基に克服したのがトマスの思想であった。それは新たな中世のパラダイムだったのだが、その論は、やがて、近代のトマス・ホッブスによって全面的、根底的に否定される。ホッブスの人間とは、一切の歴史的、社会的文脈から切り離された「原子論的個人」であったという。そうした孤立した人間にとって「人間は人間に対して狼」だった。「万人の万人に対する戦い」から脱出するために相互の社会契約を取り交わし、強大な国家の形成を目指すことへと舵を切ったと。

アリストテレスが述べ、トマスが信奉した「より善く生きる」ためのロゴスを媒介とした「共通善」と言ったものが、現在では、もはや画餅と化したかに思える。それでも、「善く生きる」とはどういうことなのか人は問わざるを得ない。ここで、人間が社会的動物であるという前提には、「言葉の理解」があることが思い出されよう。理性の光としての「言葉」こそ「善と悪、正と不正を知覚できる能力である」というアリストテレスの思想をトマスが受け入れたことを考える時、ミネルヴァの梟のもたらす知とは何であったかが想像できる。しかし、さきほどの正戦論の中で著者は、ハンナ・アーレントのこの言葉を思い出すと述べている。

暴力自身は言葉を発する能力を持たないということであって、ただたんに、暴力に立ち向かう言葉は無力であるということだけではない。この言葉を発する能力を持たないという性格ゆえに、政治理論は暴力現象について何もいうことがなく議論をその道の専門家に委ねなければならないのである (『革命について』序章 志水速雄 訳)。

 

前回、ご紹介したヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』の続きは長くなりそうなので、別途、ご紹介する予定です。お楽しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

アリストテレス全集17 政治学 家政学
岩波書店  2018年刊

トマス・アクィナス『神学大全』17
第二の二部 第40問題「戦争について」収載
創文社 1997

ハンナ・アーレント『革命について』
社会主義や共産主義といったイデオロギーは死に絶え、残ったのは戦争と革命であり、その中で人が望むものは暴政に対する自由だという。

 

 

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part1 スンマに殉じた黙り牛

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

トマス・アクィナス (1225頃-1274) は、神学・哲学の巨大な総合体系を打ち立てたことであまりに有名だった。そのイメージは、いかにも痩身痩躯の学者肌の人と思われがちだけれど、肥満ぎみで、かなり巨体であったらしい。大きくて重い牛のような人物であったというから不思議だ。悠然としていて、穏やかで物静か、聖なる謙虚とは別に内気で、快活だったが社交的というわけにはいかなかった。時々訪れるけれども秘めていた脱魂・恍惚状態とは関係なくボンヤリしていたという。これに対して聖フランチェスコは、火のような人間で、せかせかし、突然姿を現すと、そこにいた聖職者たちは、皆、彼を狂人だと訝ったという。

トマスは、規則正しく授業に出席したが、とてもノロマだったので、学校の生徒たちは彼のことをうす馬鹿だと考えていたらしい。イギリスの作家であるギルバート・キース・チェスタトン (1874-1936) のトマス伝は、なかでもエピソードに溢れているものらしいけれど、トマスは「歩く酒樽」であって、その食卓は彼が坐れるように半月形に切り抜かれていたという。本書の著者は、こう付け加える。情熱的で詩を愛しながら、書物にあまり信用を置かなかった聖フランチェスコとは対照的に、彼は書物を愛し、書物によって生き、この世の与えるどんな富よりもアリストテレスとその哲学に関する百冊の書物の方を選んだ。神に対して何を感謝するかと問われて、彼はただ、「今まで読んだ書物のすべての頁を理解できたことです」と答えた。著者はこのように紹介するのである。これは、素晴らしい。

『トマス・アクィナス』
ヨース・ファン・ワッセンホフ画 1475

アウグスティヌス以来、長らく貶められていた自然世界の復権>、いいかえれば超自然的秩序から自然的秩序を相対的に自立させることをトマスは図ったと著者は言う。理性的被造物である人間の織りなす社会的、政治的営みが展開される位相とは、まさにこの自然的秩序=自然的世界においてだが、彼は政治や国家についてあるべきイメージをそこに、どう描いたのか、それを考察するのが本書の主題であるという。

今回は、この柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』を二回に分けて、ご紹介したいと思っている。何よりも本書の前半は、トマスの生涯や思想に関して、よく纏められた、極めて充実した内容が紹介されていて、僕には、とてもありがたかったからである。というのも、トマスの著作の多くは、聖職者や信者さんが書いたものが多く、やはり、信仰には<信>というものが前提にあるから、僕のような不信心者には相応しかろうはずもなく、内容も<知恵の探求>や<神の愛といった、いわば宗教的な核心を為すものがほとんで、ハードルが高すぎたということがあった。そういう意味でトマスの政治理念といった、いわば現世の問題を扱う本書は珍しいと言える。

著者の柴田平三郎 (しばた へいざぶろう) さんは、1946年生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科、並びに同大学院法学研究科博士課程を修了された。法学博士で、中世政治思想史の研究で知られる。千葉商科大学や獨協大学で教鞭を執られ、獨協大学名誉教授でいらっしゃる。著書に『アウグスティヌスの政治思想』『中世の春――ソールズベリのジョンの思想世界』がある。この『中世の春』は薔薇物語の所で少しご紹介しておいた。訳書にJ.B.モラル『中世の政治思想』A.P.ダンドレーヴ『政治思想への中世の貢献』R.M.ハッチンス『聖トマス・アクィナスと世界国家』などがある。

 

トマスの生涯 


 

トマスは、1225年頃、ローマとナポリの中間にある都市アクィノ近郊のロッカ・セッカの城塞で生まれている。アクィナスの名前はこのアクィノに由来する。父は、そこの領主で、母はナポリ出身の貴婦人だった。男女合わせて9人とも12人とも言われる兄弟の末っ子だった。当時の貴族は子弟の教育を修道院で受けさせるのが慣習になっていたし、末の子は将来聖職者にと望まれたのであろう。ロッカ・セッカ近郊のモンテ・カッシーノ大修道院に修道志願児童として送られることになる。5歳のときである。このベネディクト会の大修道院の院長は、父の遠縁にあたるランドルフォ・シニバルドだった。

トマスがどのような少年時代を過ごしたかはよく分かっていない。伝記作者グイのベルナルドゥスによれば、無駄なおしゃべりを避け、孤独を好み、周りの子よりも早熟な態度を見せた。口数は少ないが、物思うことの多く、生真面目で黙想に専念していたという。ベネディクト会という観想修道会における濃厚な宗教的雰囲気の中で10年近く過ごしたことは大きな意味があったようだ。それに、この修道院は西ローマ崩壊以降、壊滅状態といってよかった古典の文化遺産を守り抜いていた唯一の場所だといわれている。

しかし、この地はもともと神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世が国王を兼務したナポリ・シチリア王国とローマ教皇領の接する地域で、その対立が激化すると、フリードリッヒ二世は派兵、占領し、他国出身の全ての聖職者を追放した。トマスはというとナポリの大学に入学することになる。1239年、14歳の時のことだったこの大学はフリードリッヒ二世によって設立された官僚養成のための最初の実学的大学といわれている。特筆すべきは、アヴェロエスやアヴィセンナの注釈のついたアリストテレスの著作が、盛んに翻訳されていたことだった。これは、再三に亘ってアリストテレス研究の禁令を受けたパリ大学と対照的だった。

フリードリッヒ二世は、ヤーコプ・ブルクハルトによって「王座に位した最初の近代的人間」と言われた人物で、4歳にしてシチリア王となり、フランス王フィリップ二世の支持によってローマ王となり、26歳頃に皇帝の座についた。中世の教皇庁が出会う最強の敵となった彼は、帝国の中心部をドイツからイタリアに移そうとしていた。古代ローマ礼賛の勢いはシチリアに及び、アラブ文化の愛好は周りの国々には異様に感じられたという。

第6回十字軍の中のフリードリッヒ二世
真中の赤いマントの人物 ドイツ、ヴァルトブルク城内のモザイク壁画

彼が没したのは1250年で、トマスが25歳の時だった。それは、ドイツに皇帝が不在となる大空位時代(1256-1273)をもたらした。この時期がトマスの後半生と重なるのである。教皇と皇帝との二中心の楕円的世界であり、中世が緩慢なカーヴを描いて解体へと向かう時期だった。この二つの権力構造は、イタリアをゲルフ党 (教皇派) とギベリン党 (皇帝派) という二つの勢力に分断する。この軋轢の中で陰謀に巻き込まれるのがダンテ (1265-1321) だった。

この後、19歳でドミニコ会に入会し、ケルン大学での修業時代(1248-52)となる。師アルベルトゥス・マグヌスのもとで本格的な神学の勉強を開始するのである。この時期に学友たちから<黙り牛>のニックネームがつけられた。しかし、師は、こう語ったという。「われわれは、この若者を黙り牛などと呼んでいるが、諸君に言っておく、やがて世界は彼の鳴き声で満たされるだろう。(トッコのグイレルムス『聖トマス・アクィナスの生涯』柴田平三郎 訳)。」

やがてパリ大学で教鞭を執った後、イタリアに戻り、オルヴィエト、ローマ、ヴィテルボなどに滞在し、パリに帰還、再びイタリアに戻ってフィレンツェ、ナポリで過ごし、フランスのリヨンで開かれる公会議に出席する旅の途中、生まれ故郷に近いフォッサノーヴァの修道院で亡くなっている。49歳だった。

 

トマスの時間


フリードリヒ・へ―アは、20世紀のウィーンに生まれ、カトリックの進歩的ジャーナリストだったが、歴史に対する独自の想いがあったという。それが、彼の『ヨーロッパ精神史』だった。オーストリア人であるアドルフ・ヒトラーの手先と闘う中で成長したという彼は、「ヨーロッパとは千年以上にもわたる一つの内乱」であると述べ、「新しい文明は、一切の人種、一切の文明が紛糾する只中で響く和音の中でしか、生きることができない」と述べたという。

この『ヨーロッパ精神史の八章には、13世紀の精神史を「トマスの時間」として、こう述べている。「フリードリッヒ二世がつくった最初の学校のあるナポリが、アヴェロエス主義から、次の世紀に『新プラトン主義的汎神論の影響下にあり、シチリア王シャルル・ダンジュールの支配となるまでの間に、トマス・アクィナスの生涯が横たわる。トマスの仕事は次のいくつかのことを前提としている。すなわち、<神聖ローマ帝国の皇帝に対するゲルフ党の教皇権の勝利、『啓蒙主義的な地中海君主の台頭、予言的な精神主義の衰え、乞食修道会同士の争いである。新しくできた大学はイスラム諸侯の宮廷で行われていた論争や対話の習慣を相続して、パリ大学は互いに非常に異なったキリスト教、汎神論、無神論、<自由思想>の学説と人物の対決する場所となった(『ヨーロッパ精神史』小山宙丸、小西邦雄 訳)。」これには、いくつかの解説が必要だ。

 

修辞から論理へ――スコラ主義

ヨハン・ホイジンガは、12世紀の知識人の言語・思想を羽ばたかせていた自由の世界は終り、スコラ学の領域に閉じこめられ、三段論法に縛られ、ドグマ的公式に立つ哲学的見解に押し込められる時代がやって来るという。しかし、まだ初期の頃は、ボナヴェントゥラやトマスの確固たる不動の体系には閉じこめられておらず、世界の姿、生活と精神の形式は、まだゴシック様式の中に結晶してはいなかったという文法重視の古典の味読と言語表現に心を砕く12世紀の人文主義とは決定的に異なる13世紀のスコラ学の精神、それを説明する場合、「三段論法」「ドグマ的公式に成り立つ哲学的見解」「不動の体系」といった言葉で特徴づけられ、マイナスのイメージを漂わせるものが多かった。

一方で、イギリスの中世史家、リチャード・ウイリアム・サザーンは、司教座聖堂付属学校で営まれていた文法と修辞学を柱とする12世紀の古典研究は、13世紀に入って新しい都市文化の中で活動する人々の関心を失い、新しい状況に応じる新たな知の場所である大学での論理と実証に重点を置く論理学研究が時代の主流になっていったという。それは、「修辞から論理へ」という言葉で表現される。アウグスティヌスの修辞学については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1 記号の発生と象徴=交換能力に書いておいた。

イエズス会のクラウス・リーゼンフーバー神父は、人間に対する尊厳、自然の秩序、理性の力といったものに対する価値の高まりを受けて、11世紀の後半以降に古典ラテン語文学の精神的価値が、次いで12世紀後半から13世紀半ばにかけてアリストテレスといった古代哲学の新たな意義が、見いだされるようになり、神学的<権威>と並んで哲学的な<理性>がクローズアップされるようになるという。ここで、神学は、内的な知恵の欲求よりも言葉によって伝達可能で論証上説得力のある知への欲求に駆り立てられようになるというのである。

 

パリ大学

『小鳥に説法する聖フランチェスコ』
ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃-1337)画

先ほどのへ―アによれば、西方<自由世界>の教皇、諸侯らによる都市国家間の争いや大学管理者、教授、学生、市民間の中の絶えざる争いの中、大学は宮廷世界や知識階級における討論を引き受ける形で成立する。修道院学校、司教座聖堂学校が寄り集まってパリ大学はできた。人文学部、法学部、医学部、および神学部よりなり、中でもその中枢は<教区>司祭からなる教授団だった。そこは、パリ司教、教会、王侯、教皇庁のパリ機関といった諸力のせめぎ合いの場となる。

宗教的な新たな息吹を求める者は、乞食 (こつじき) 修道会に向かい、世俗的に心を動かす者は、法律研究に向かい、知識人たちは、人文学部に急いだという。1252年、このパリ大学に新たな修道会たる乞食修道会、すなわち、ドミニコ会やフランシスコ会の会士たちがやって来る。この年から乞食修道会と大学とは数十年に亘る争いを続けることになる。

かれら修道会士は、修道会長の命には従うが、大学の決定には従わなかった。つまり、大学という団体には何ら寄与しないまま、在俗教師の職と学生とを奪うことになるのである。このパリ大学にトマスがやって来たのは、この1252年という年だった。すぐ後に大学とパリ市当局の間で、司法権をめぐって争いが起こり、大学側はストライキに入ったが、その最中にトマスは、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の講義を行うといういわば、「スト破り」決行することになるのである。

ドミニコ会

『聖ドメニコ』
ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃-15126)画

乞食 (こつじき) 修道会は別名、托鉢修道会ともいう。13世紀初頭に中世初期からの既成の修道会の世俗化、富裕化に対する批判の中から生まれた。ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスティヌス会、カルメル会が知られている。

トマスはこのドミニコ会に入会するのだが、ベネディクト会の修道院長を親戚に持つ家族は猛反対し、入会を翻意させようとするが果たせず、ついに、最後の手に出る。トマスの部屋に美少女を送り込んで、彼を誘惑させようとするのだが、暖炉の燃えさしを振り回して部屋から彼女を追い出し、その燃えさしで壁に十字を描いたという逸話が残っている。

トマスの師であったアルベルトゥス・マグヌスもドミニコ会士で、アリストテレス受容に積極的であったし、錬金術師としても知られ、自動人形を作ったとされる興味深い人物である。トマスの死後、彼に異端容疑が、かけられた時にはケルンからパリまで出向いて弟子を擁護したという人だった。

上智大学で教鞭を執ったペトロ・ネメシェギ神父は、13世紀がトマスに影響を与えた三つの大きな要素についてこう述べている。12世紀からの経済的発展や生活様式の変化という社会的な要因、アリストテレス主義の流入と受容、そして、福音的信仰の復活の三つである。人々は従来の教会における権威主義的な教職制度に安住しなくなり、俗世から離れた修道者の修道態度にも好意を持たなくなる。そんな時、アッシジの聖フランチェスコや聖ドメニコの貧しい者たちの中で小さな兄弟として共にキリストの福音を生きるという姿は共感をもって迎えられるのである。

 

アリストテレス哲学の受容

イブン・ルシュド(1126-1198/アヴェロエス)
ラファエロの『アテネの学堂』に描かれた中央の人物

アリストテレス哲学の受容という問題に関して、フランシスコ会は頑なに保守的だったが、逆にパリ大学内の人文学部には、ブラバンのシゲリウスやダキアのボエティウスといった過激なアリストテレス主義者たちがいた。いわゆるラテン・アヴェロエス派といわれる人たちだ。彼らは、既存の教会から危険視されていた。

イブン・ルシュド、通称アヴェロエスはアラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの研究者として知られる人だった。このラテン・アヴェロエス派にたいしては度重なる禁令がだされ、ついに、パリ司教からの断罪が行われる。トマスがパリ大学に赴任して2年目のことだった。彼は、アリストテレスの原理を真なるものとして、真なるものであるが故に有用だと考えた。そのため、教会からも不信の目で見られ、一方で、大学内でもフランシスコ会からも危険視されることになる。筆者の柴田さんは、トミズムが13世紀中世におけるカトリック教会の唯一の正統的体系として見るのは誤りだと強調している。

一般に、13世紀後半以降のアリストテレスの影響が思想的な変革をもたらし、中世と近代との分水嶺になったと言われている。この<13世紀アリストテレス革命>は、アリストテレスの『政治学』の再発見にあり、その最大の功労者がトマスであるとされてきた。しかし、実際には12世紀に「もう一つのアリストテレス受容」といったものがあったと著者は言う。それは、キケロの影響による「政治的自然主義」と言うべきもので、相当な素地ができていたのである。ちなみに、悪寓の世界にいたアウグスティヌス(354-430)初めて知の輝きを知ったは、キケロの書によってであった。ゲインズ・ポウストは、『中世法思想の研究』で、12世紀ルネサンスにおいて、復活したローマ法の影響を受けた前期教会法学者デクレティスト、そして、カルキディウ、セネカ、キケロ、ウェルギリウスら古典作家たちの著作を通して、独特の自然理解を示したシャルトル学派のソールズベリのジョンやフランスで活躍したリールのアラヌスの中に「社会的、政治的自然主義」の展開を見出している。

中世史家マルティン・グラープマンは、トマスがアリストテレスを独自に研究し、アウグスティヌスと初期スコラ学によって科学的に叙述されたキリスト教的世界観と有機的に結合し、適度に修正されたアリストテレス哲学の方法と形式を借り、しかも教会的神学的伝統の体系を少しも離れることなく。哲学・思弁的神学の建設に一種のキリスト教的アリストテレス主義を創造したという。

 

トマスの神学大全


マリー=ドミニック・シュヌー(1895-1990)
フランス生まれのローマ・カトリックの神学者、改革派雑誌『コンシリウム』の創刊者の一人。

大全/スンマの来歴

神学大全とは「スンマ・テオロギアエ」の訳である。<テオロギア>は神学、<スンマ>には、「全 () 体」「要点」「頂上」「最高の地位」などの意味がある。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、「この言葉を創りだした12世紀の学校用語では、<スンマ>は、キリスト教教義の真理を提示することを目的とする<諸命題>(ないし何らかの一群の教義)の、簡単明瞭で総合的で完全なる資料集であるとしている。

しかし、トマス自身は神学という言葉は使わず『聖なる教え sacra doctina』というタイトルをつけている。

シュヌーによれば、サン=ヴィクトルのフーゴ―のものと見なされてきた有名な集成が、この意味における『諸命題のスンマ』であったという。中世フランスの神学者で唯名論の創始者として知られるピエール・アベラール (1079-1142) は、『神学への誘い』の中で、「三つの人間の救済の<要約 sunmma>として信仰、慈愛、秘蹟」を挙げている。12世紀の間に<スンマ>は、単なる語句の集成にすぎない「命題集」「詞華集」ではなくなり、学問の諸領域における主要な著述形式となって13世紀に引き継がれたという。

ススのヘンドリクスの『法のスンマ』、ロバート・グロステストの『哲学のスンマ』、ギョーム・ペローの『諸徳のスンマ』といったように知識や学問諸領域全般にわたって「簡潔明瞭な総合化」が求められるようになる。諸学のカタログ化が始まるのである。13世紀における最初の偉大な作品が、フランシスコ会士アレクサンデル・ハレンシスの『神学のスンマ』である。それはアリストテレス哲学導入以前の神学大全であった。

 

神学大全/聖なる教え

トマスが『神学大全』に着手するのは、一回目のパリ大学神学部における教授活動を終え、イタリア各地で教えていた時期にあたる。これが第一部開始時期である。パリ大学では、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』がテキストとして多く使われたが、無益な問題や論議の重複が多く、学問的な秩序もなく、同じ事柄の反復が多くて学生の倦怠や混乱の基になっていた。それを改めようとしたのである。全体の構造は、(一)神論(二)人間論 (三)キリスト論となっていて、それぞれのテーマは、以下のようになっている。

(一)神論/神自身と神からの万物の発出
(二)人間論/万物の中の理性的被造物としての人間が神へと帰還していく運動
(三)キリスト論/神のもとへと帰還していく道であるキリスト

論の進め方は、幾つかの権威の提示としての ①異論、それに対する他の権威の提示 ②反対異論、両者の調和的解決 ③主文、異論に対する個別的な批判 ④異論解答となっている。これは、スコラ学の講義形式に沿ったものだと著者は指摘している。

神学大全』の第一問題は、以下のように十項からなっているが、今は、論の進め方の例として第一項のみを柴田さんの解説から見てみる。

第一問題(全十項)
聖教について――それはどのような性質のものであるか、またその及ぶところの如何。

一 この教えの必要について
二 それは学であるか
三 それは単一な学か、それとも幾つかの学か
四 それは観照の学であるか、それとも実践の学であるか
五 その他の諸学との比較について
六 それは智慧であるか
七 それの主観はなにか
八 れは論議を行う性質のものか
九 比喩的乃至は象徴的語りかたの可否について
十 この教えの基づく聖書は、幾つかの意味に従って解釈さるべきであるか
(高田三郎訳)

第一項「この教えの必要について」の論の進め方は、このようになっている。

トマス・アクィナス『神学大全』

異論、「汝より高きものを尋ねるな」「真と有とは置換される」‥‥人間は、理性を超える事柄について探求すべきでない。理性に属する事柄は、既に哲学的学問において十分伝えられている。真と有とは置換されるというスコラ的原理に基づき有 (存在するもの) についての教えは哲学的諸学問の中に含まれる。アリストテレスの言うように哲学の一部門として「神学」が既に存在する。

反対異論、「聖書は全て神感によるものであって、教え、戒め、矯正し、義に導くために有用である」‥‥神感による書は、人間理性によって発見された哲学的諸学問には属さない。従って、哲学的諸学のほかに別個の学は有用である。

主文、‥‥「人間救済のためには、人間理性をもって探求されるところの哲学的諸学問の他に、なお神の啓示によって知らされることが必要であった」その理由として人間は神を目的として神に向かって秩序づけられている。そして、神についての人間理性によって追求することがらも人間は神の啓示をうける必要があった。

異論解答‥‥異論で述べられた二つの説を再度論じ、「人間の認識能力を超える所での理性の探求は間違っている」「認識の対象を構成する観点が異なれば学の性格も異なる。同じ結論〈地球は丸い〉を論証するにも天文学と自然学では方法が異なる。」‥‥それゆえ、聖教に属する所の「神学」は哲学の一部門とされる所のかの「神学」とは類を異にする。

このような論証のされ方がなされていた。トマスは、理性の能力、その探求と認識の領域を認めながらも、理性を超えた神の啓示を信仰によって認識する神学の必要性をのべている。「哲学は神学の婢女」なのである。『神学大全』全体の構成は巻末に記載しておきます。

 

トマスの構造


パリのノートルダム大聖堂
トマスはパリのシテ島の建築現場を見ていたという。1255年に完成した大聖堂だが、最初に師のマグヌスとパリに来たのは1245年である。

以前にも今道友信さんの『ダンテ神曲講義』の煉獄篇でパノフスキーの著作からご紹介したことがあるけれども、ゴシック建築とスコラ学の間には、構造的に相似性がある。「その構造的特徴とは、その骨格における二つの相反する要素、上下の柱の間の垂直的連続性と内部の壁面の水平的方向性との葛藤と対立が実に見事に調和総合されている点にあり、この調和と総合の構造は盛期スコラ学のスンマ(大全)と対応している」と柴田さんは言う。

中世初期のスコラ学は、実在(念)論と唯名論という二つの説が存在していた。それらについては、ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』タルドの波動/ドゥルーズとラトゥールに少し触れておいた。実在論は個物を超えた種や類と言った概念がモノとして存在するという説で、唯名論は、実在するのは個々のものだけだと考える。当初は実在論が正統とされていた。その理由の一つはプラトンのイデア論の影響で、それは、ちょうど教会が、個々の信徒の集合ではなく、個々の地方教会の総合体でもなく、それらを大きく超えた普遍的な実在機構であるとの考えと一致していた。それは、個々の被造物が理想としてのイデアの何等かを分有しているという考えとパラレルだった。これは、プラトン的垂直性と言えるだろう。

「普遍的なものが、ただ精神の中にのみ存在するのか、現実の中にも存在するのか、もし、現実として存在するなら、物体としてなのか、非物体としてなのか、さらに非物体としてであるとするなら、それらは個々の物体から切り離された形で存在するのか (プラトン説)、あるいは個々の実体の内に存在する (アリストテレス説) のか」と著者は問う。

これについてトマスは、『神学大全』の中で、「世界の創造性というものは、まず、世界そのものの側から論証をうけとることができない。けだし、論証の出発点はものの『何たるかにある。しかるに、いかなるものも各自の種的特質におけるかぎり『ここ・いまを捨像しているのであって、『普遍はどこにも、また常にある』といわれるのもこうした意味にほかならない。だからして、人間にせよ、石にせよ、それがつねに存在していたものではないということは、論証されることのできない事柄なのである――(柴田平三郎 訳)。」トマスは、個々の事物から知性の抽象化を経て普遍は存在するという立場をとっている。ここで、水平性が垂直性と統合される。

とりあえず前半のpart1スンマに殉じた黙り牛を終了します。後半 part2 は、トマスの政治思想をご紹介する予定です。ここからは、僕がずっと気になっていたトマスの存在論をハイデッガーの高弟であり、自身も神学者であるヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』から少しご紹介しましょう。

 

付 トマスの存在論


ヨハネス・ロッツ (1903-1992)
『ハイデガーとトマス・アクィナス』

ロッツは、ヘラクレイトスが、人間の二面性について語っていることを紹介する。人間は自らの内奥でロゴスと一つでありながら、不可解にもロゴスから離反し、不幸な分裂に陥っている。この分裂が、生涯に亘る人間の行動、すなわちモノとの交わり、他者との交流、自分との交流を特徴づけている。人間は現にありながらも現に存在しないというのである。

ハイデッガーは、このヘラクレイトスの言うロゴスが、あらゆるものの根拠としての<存在>に類似しているという。ハイデッガーの根本問題は<存在>を目指していた。この問題は<存在>の意味、<存在>が最も内的に何を言わんとしているかを目指している。それが、ハイデッガーにとって究極の根源だった。人間は分離された主観性ではなく、世界と関わっていて、いわば世界にさしこまれている。それ故、人間は<世界内存在>と言える。「人間は様々な存在者に囚われているので、存在者において間断なく存在が輝き出ているにもかかわらず、その一なる存在を考慮することなく忘却し、ついに否定してしまう」のである。

ここで、ロッツは問う。<存在>と神とは関係があるのかと。そして、彼はハイデッガーの思想が無神論でも有神論でもないと答える。ただ、思惟の道は存在から聖なるものへ、聖なるものから神性へ、神性から「<神>という語で名づけられるべきもの(『ヒューマニズムに関する書簡』)」へと続いているという。道は<存在>からなおも先に示された諸段階を通って、やっと神へと至る。だから、<存在>を端的に神と同定することはできないとしている。

トマスにとって<存在>は人間の生において人間が第一に認識するものであり、それは常に最も知られるものである。人間が把握する全てのものは<存在の了解がいつも含まれている。この「存在の開け」、あるいは人間に分与されている<存在への適合は、人間の生全体を動かしている最も内的な力であるとロッツはいう。この探求への挑戦、これが、稲垣良典さんが『神学大全』を「挑戦の書」と呼ぶ理由である。そして、「神が存在するということの認識は本性的に我々に植えつけられている」とトマスが言う時、ハイデッガーの言う「存在者において間断なく存在が輝き出ている」という言葉をパラレルに思い出させるのである。

しかし、<存在>から神へは、なお隔たりがある。世界との関わりの中で人間は、本来的な自己を失い、他者の支配のもとにある。このことによって<存在>はかき消され、存在者は深淵に向かって転落するという。しかし、ハイデッガーが愛した詩人ヘルダーリンの言うように「されど危険の存するところ、おのずと救うものも生い育つ(『パトモス』村上喜良 訳)」とロッツは言うのである。続きは、またの機会に‥‥

 

 

付 『神学大全』 全構成


第一部
第一冊   第  1-13   問題    神の存在と本質について
第二冊   第 14-26  問題    神の生、認識ならびに意志について
第三冊   第 27-43  問題    三位一体について
第四冊   第 44-64  問題    創造について、天使について
第五冊   第 65-74  問題    物体的被造物の創造について
第六冊   第 75-89  問題    人間の本質と能力について
第七冊   第 90-102問題    人間の創造ならびに人間の最初の状態について
第八冊   第103-119問題   神の世界統宰について

第二の一部
第九冊   第   1-21  問題   人間の目的と行為について
第十冊   第 22-48  問題   情念について
第十一冊  第 49-70  問題   能力態について、徳について
第十二冊  第 71-89  問題   悪徳と罪について
第十三冊  第 90-105問題   法について――旧法について
第十四冊  第106-114問題    新法について、恩寵について
第二の二部
第十五冊  第  1-16   問題   信仰について
第十六冊  第 17-33  問題   希望について、愛について
第十七冊  第 34-56  問題   愛について(続)、思慮について
第十八冊  第 57-79  問題   正義について
第十九冊  第 80-100問題   正義につながる諸徳について
第二十冊  第101-122問題         同
第二十一冊 第123-150問題  勇気について、節制について
第二十二冊 第151-170問題  節制について(続)
第二十三冊 第171-182問題  預言の特別の恩寵について、観照的生活と実践的生活について
第二十四冊 第183-189問題  職務と身分の分化について

第三部
第二十五冊 第  1-15   問題    托身について
第二十六冊 第 16-34  問題  キリスト並びに聖母について
第二十七冊 第 35-45  問題  キリストの生涯について
第二十八冊 第 46-59  問題  キリストの受難ならびに復活と昇天について
第二十九冊 第 60-72  問題  秘蹟について――洗礼と堅信の秘蹟について
第三十冊    第 73-83  問題  聖体の秘蹟について
第三十一冊 第 84-90  問題  改悛の秘蹟について
第三部 補遺 
同 冊       第   1-16 問題        同
第三十二冊 第 17-40 問題  終油と叙階の秘蹟について
第三十三冊 第 41-54 問題  婚姻の秘蹟について
第三十四冊 第 55-68 問題     同
第三十五冊 第 69-87 問題  肉の復活について
第三十六冊 第 88-99 問題  最後の審判について

1273年、聖ニコラウスの日のミサにおける啓示によって『神学大全』の執筆は突然中止され、弟子たちによって完成される。

 

 

参考図書 及び 引用文献

稲垣良典 トマス・アクィナス『神学大全』
『神学大全』の翻訳者の一人が語る知的挑戦としてのトマス学

山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の神学』
生に対するポジティブなヴィジョンとしてのトマス神学

 

エティエンヌ・ジルソン/フィロテウス・ベーナ『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』中世哲学の権威ジルソンとフランシスコ会研究で知られるベーナ―の共著

トマス・アクィナス『神学大全』第一冊
創文社 1960年刊

 

 

 

 

 

矢部良明『茶の湯の祖、珠光』 身の丈の茶とつるぎの植木

 

矢部良明『茶の湯の祖 珠光』

茶の湯の創始者は村田珠光だと言うと、え?、利休じゃないんですかと聞き返される。「茶の湯の開山は、珠光である」と利休は述べたというから間違いない。何故、一般に利休の方が有名で珠光はマイナーかというと、利休と秀吉の確執はあまりに有名であり、利休の切腹という悲劇に彩られるからで、珠光が知られていないのは、その記録が、ほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれているからです

「惣別 (そうべつ/おおよそ) 珠光いろゐたる事をさわる事、努努不可有 (ゆめゆめ あるべからず)。」珠光が携わったものに手をつけるなと利休は細川三斎に語った。

古田織部は、まだ初心の頃、かつて珠光が所有し、松屋久好が、その手許に持っていた徐熙 (じょき) が描いた鷺の絵を見てくるように利休に諭される。徐熙筆の鷺の絵を感得するなら天下の数寄を合点できるだろうと。もし、合点がいかないなら、己の数寄心が至らないからだと言われるのである。

利休以前は、紹鷗 (じょうおう) の事績が突出していて、珠光は既に過去の人になっていた。だが、慶長六年 (1601) の茶会で織部は、紹鷗の表具は悪く、利休がそれを改めてしまったとのべている。紹鷗は、その美学において侘び茶の伝統を継承してはいたけれど、侘び茶の四畳半茶席の床に唐物を一品飾って<書院の茶の湯風な味を加え、和歌の軸を掛けるなど新機軸を打ち出して絶大な人気を得ていた。

松花堂の露地 市中の隠としての茶室

しかし、若い利休には紹鷗の<一座建立が鼻に付きはじめる。もともと世阿弥が、演者と客席が一体となることを指した言葉だが、堺の茶の湯においては、所柄、話題が政治や商談と言った俗事に流れやすかった。それに反発した結果「本来、茶の湯は超俗でなければならない」と唱え、その精神においても草創期の茶の湯に帰ろうとした。その本尊として珠光に白羽の矢を立てたのではないかと見られている。

それで、今回は、利休が慕った珠光とその茶の湯がどのようなものであったのか、矢部良明 (やべ よしあき) の『茶の湯の祖、珠光』を縦軸に、山上宗二 (やまのうえ そうじ)『山上宗二記』、『茶道学体系二 茶道の歴史』、渡辺誠一『侘びの世界』、内藤湖南『支那絵画史』などの著作を交えて概観できればと思っている。珠光に関する著作は真に少ない。それは、利休やその弟子の山上宗二らの発言著作を通してしか窺い知ることしかできないからである。

矢部さんは、1943年神奈川県の大磯のお生まれ。東北大学文学部美術史科をご卒業。東京国立博物館陶磁課長を経て郡山市立美術館館長を務められた。陶器・磁器の専門家でいらっしゃる。工芸的な観点から、道具を通して見た茶の湯論は大変優れているように思う。著書に『染付と色絵磁器』『中国陶磁の八千年』『日本陶磁の一万二千年』『千利休の創意』『古田織部』『武野紹鷗 茶の湯と生涯』『日本陶磁大辞典』などがある

 

珠光の生い立ち


 

西山浄土宗 日輪山称名寺 千体石仏と茶室獨蘆庵で知られる。

村田珠光は1423(応永三十)年、奈良に生まれた。しゅこうと読むのが本来で、じゅこうは後の読み方のようだ。父は、杢市 (もくいち) という検校であったと言われる。何か複雑な生い立ちを思わせるが、記録は何も残っていない。童名を茂吉といった。奈良で、11歳の年に浄土宗の称名寺で出家することになる。幕末まで興福寺の末寺であったという寺である。海上人に師事し珠光という法名が授けられ可愛がられたという。称名寺の宝林庵に住んだが、結局、茶に道を求めて恐らく30歳前後に僧体のまま京都に出た。

京の三条近くの小庵に住まいしたと言われる。千利休の高弟であった山上宗二 (やまのうえ そうじ/1544-1590) が残した『山上宗二記』は、珠光の秘伝書「一紙目録」の紹介から始まる。それによると、ありきたりの遊びに飽きた足利義政の「何か珍しいものはないか」の問いに能阿弥が「楽道の上には御茶湯というものがあります」と答えた。30年の間、茶の湯へ身を投じ、名声を博してから奈良に住まいする珠光なる者がいて、一休禅師から宋代の圜悟克勤 (えんごこくごん) 禅師の一軸を与えられ、これを数寄の一つとして楽しむような者ですと述べた。それで珠光は召し上げられ、師匠に定められて、御一世の御楽しみは、この一興となったと伝える。

これは利休や宗二らの間で作られた逸話だろうと言われているが、珠光を茶の湯の祖としていること、将軍家に仕えた茶堂の祖であるとしていることは、注目されると熊倉功夫氏は述べている。この珠光の秘伝書「一紙目録」は、能阿弥に目聞きの大事など稽古の時の質問を日記にしたもので養嗣子の宗珠に伝えられたとされている。珠光が実際に能阿弥と交際があったことは間違いないと思われる(尊鎮法親王『親王日記』)。

 

侘び茶の前奏


 

『茶道学体系二 茶道の歴史』

歌人であり、禅僧であった正徹が『正徹物語』の中で茶飲みを三種類に分けている。茶道具、心の及ぶほど嗜 (たしな) み持ちたる「数寄者」。茶道具のことは言わないが、どこでも十服茶のような飲み比べをし、その所々の茶をよく飲み知っているような「茶飲み」。大茶碗に茶の良し悪しを言わず飲む「茶くらい」という分類である。

15世紀の山科家礼記などには公卿であった山科家への茶の贈答の記録が残っていて、公家の茶といえば正徹の言う「茶数寄」かと思うけれど、実は「茶飲み」も「茶くらい」もあったようなのである。この頃、山科家では茶の贈答は、かなり盛んであって、例えば無塩の鯛一懸けの返礼が茶十袋、生成りの荒巻鮭のお礼に古茶五袋を送ったなどの記載が見える。茶には無上、別儀 (べちぎ)、揃 (そそり) という等級があった。無上が最上の茶で、揃が一番低級ということになるが、茶所としては宇治が重視されていた。ちなみに、当時のお茶の形状は抹茶にする前の碾茶 (ひきちゃ) で数ミリ程度の大きさの乾燥させた茶葉だった。飲む前に碾茶を茶臼で挽いて抹茶にするのだが、挽いた状態で出荷するのは近代以降のことのようだ。(『茶道学体系二 茶道の歴史』より稲垣弘明「中世公家の茶」)

 

村田珠光が、侘び茶を創始した時代は室町後期にあたる。それ以前は、一体どんな茶が行われていたのだろうか。 この頃、いくつかの飲茶の形態があった。「会所」における室礼 (しつらい) の茶、禅宗寺院での茶礼、闘茶、そして、路傍での一服一銭の茶である。闘茶については一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃで少しご紹介しておいた。

上 茶の湯棚飾り『君台観左右帳記』より   下 台子

茶の湯は足利将軍家の唐物蒐集から始まると言われる。足利義満が、別荘の北山第に寝殿、舎利殿(金閣)、会所などを建てたが、その名残が鹿苑寺である。その会所は、一周できるように広縁がぐるりと巡らされていた接客の場であり、和歌、連歌、猿楽などの文芸・芸能の催される場所として独立して建てられた。室町後期の文化が「集う文化」であることは、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておきました。そこには、押板飾 (三幅対ないし四幅対の唐絵、香炉、燭台、花瓶など)、書院飾 (硯、筆架、筆、水入、刀など)、飾棚 (建盞/けんさん、台、香炉、食籠、花瓶、茶碗、茶壷など) の室礼 (しつらい/飾り) の基本が同朋衆の手によって出来上がっていた。

会所の正式な飾り方を打ち立てたのは六代将軍・義教といわれるが、能阿弥や孫の相阿弥が記した『君台観左右帳記 (くんだいかんそうちょうき)』には、八代将軍・義政の座敷飾りが図解されている。京の今出川に新築した小川殿の様子であろうか。珠光にも伝えられたとされる伝書だが、唐絵などの美術品の等級や鑑識のこころえ、茶や華道、香道などの史料が記されている。

会所の嵯峨の間が客と対面する御対面所で、九間ある中心の部屋となっていた。この部屋の北側には押板が設けられている。卓が置かれ、その上に香炉、燭台、花立の三具足が置かれる。その背後の壁面に絵画が掛かる。客のために見せる飾り物と言って良い。嵯峨の間に向かって右に狩りの間があり一段高くなった書院が付属している。主人のプライベートな書斎となっていて、ここの棚板には文房具が飾られ、いわば自分のための飾りがあった。

会所に、茶湯所は付属していたが、茶を点 (た) てるための準備場所、茶たて所として使われる所だった。そこで、同朋集によって点てられた茶が、それぞれの間に運ばれて飲まれた。点てる者と飲む者とは身分が違い、居る部屋も異なっていたのである。この会所での茶湯は、室町将軍たちが楽しんだ「会所の茶」とか「書院の茶」と呼ばれるもので、後には、能阿弥、芸阿弥、相阿弥らが禅寺にあった台子を使って台子飾りの茶の湯を洗練させていった。この義政の東山文化は1470年代から1490年代にかけての時期であったから、珠光が50歳から60歳にかけての初老期に当たっていたことは、茶の湯の発展にとって、おそらく大きな意味があったと考えられるのである。この書院の茶に対して新興商人や新興武士たちに、高額な茶器はなくとも禅の精神性をバックボーンにした「草庵の茶」を提案したのが珠光だった。

『慕帰絵』第五巻 14世紀 本願寺第三世覚如の伝記絵巻で「帰寂を慕う」がタイトルとなっている。
右上に柿本人麻呂と梅、竹の三幅対の絵、香炉、花瓶、台など正式な押板飾りが描かれ、下中央では、廊下でお茶を準備している様子が描かれている。釜は接客の座敷に置かれていなかった。

 

珠光の弟子たち


 

珠光が生まれた奈良には独特の茶の文化があった。淋汗 (りんかん) の茶と茶盛 (ちゃもり) である。茶盛は奈良の西大寺の大茶盛が有名で毎年4月に両手で抱える大茶椀に薄茶をたてて、回し飲みするなかなか壮観な行事で、禅宗の風を取り入れたのではないかと考えられている。後に利休が始めた吸茶 (すいちゃ) を思わせるが、こちらは濃茶だ。禅宗の茶には、法会の後に一般の人に出される普茶、開山忌などの特別の行事に招待客に出される特為茶 (とくいちゃ) があった。

淋汗 (りんかん) の茶は、風呂と茶の湯を合わせた遊山の茶といわれる。淋汗とは、禅寺で夏に汗をながす風呂のことで、湯風呂、蒸し風呂などがあり、庶民に提供する功徳風呂、入湯料をとる勧進風呂があったが、風呂にお茶が付くとなれば贅沢なものであったろう。15世紀には京都の栂尾、宇治についで、奈良でも大和の寺々が茶を作るようになっていた。

珠光が応仁の乱 (1467-1478) を避けて奈良に疎開していた頃、古市氏が茶盛を盛大に行っていた。茶と風呂と酒肴がつくという贅沢なものだった。世に淋汗 (りんかん) の茶会とよばれる。この古市氏に古市澄(ふるいち ちょういん/1452-1508) がいた。山城国一揆で農民、そして跡目争いをしていた管領の畠山氏との間で上手く利を稼ぐような者で、大和守護格にまで、のし上がった。金春善鳳に謡を習い、連歌を嗜み、茶の湯も名人とされている。ちなみに、善鳳は「月も雲間のなきはいやにて候」という兼好まがいの珠光の言葉を『善鳳雑談』に残していた。この澄胤が、珠光の弟子であったことは間違いないが、どのように出会い、どのような稽古があったかは、全く記録がない。珠光にとっては大きな後ろ盾だったが、50歳半ばで戦死している。

『山上宗二記』は、胤を「数寄者、名人」と述べ、連歌の猪苗代兼載 (いなわしろ けんさい) から心敬の著作『心敬法印庭訓』が送られていて、その奥書には里村紹巴によって「古市播州とて、茶湯者・謳 (うたいの) 上手、名人にて候」と書かれているという。珠光の茶は宗珠、宗悟、大富善好、藤田宗理、宗宅、紹宅、紹鷗と引き継がれたが、紹鷗の時にその風は改められたという。澄胤のような弟子たちの中でも、特に粟田口に住む善法を飯や汁を炊く鍋一つで茶の湯もするような身上を楽しむ「胸のきれいな者」として珠光が、褒めていたことを宗二は記している『山上宗二記』)。

 

侘びとは何か


古今の唐物を集め、名物の御厳 (おかざ) り全く、数寄人は大名湯茶というなり。また目聞きの茶湯も上手にて、世上数寄の師匠を仕りて身を過ぐる、茶湯者(ちゃのゆしゃ)という。また、侘び数寄というは物持たざる者、胸の覚悟ひとつ、手柄一つ、この三か条調 (ととの) うる者をいうなり。(『山上宗二記』)

渡辺誠一『侘びの世界』

侘び茶の「侘ぶ」とは何か? わぶとは自分の思い通りにならないことらしい。そういわれると、僕など侘びだらけだ。ともあれ、渡辺誠一さんの『侘びの世界』からご紹介する。

「侘び」という言葉は、万葉集において「和備」「和天」「惑」という言葉で既に使われていたが、恋や愛が満足されないことからくるわびしさと人間関係のなせる疎外や孤独の感覚に分けられるという(筒井紘一)。「侘び」の語源「わぶ」には、「つらく苦しい」「がっかりする」「つまらない、ものたりない」「みすぼらしい、貧しい」などの意味がある。在原行平は須磨の地に流謫の身となった時、歌にうらぶれた身の失意、落魄させた者への怨恨を詠った。

わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつわぶと答へよ

この時の「わぶ」は否定的、消極的な意味合いで使われていた。しかし、後の観阿弥が作り、世阿弥が手を入れた謡曲『松風』では「‥‥ことさらこの須磨の浦に心あらん人はわざとも(意識して)侘びてこそ住むべけれ、わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答えよ、行平も詠じ給ひしとなり‥‥」

ここでは、須磨へのわび住まいは、風雅を志す積極的な意味合いを持ち始めるのである。これが、すなわち村田珠光の生きていた時代の「侘び」だったのである。

日本の美意識に幽玄があり、それが仏教から伝来したことは、能勢朝次『幽玄論』part1僧肇から二条良基までで述べた。王朝のみやびに、「心の艶」としての幽玄を注ぎ込んだのは源氏物語だった。歌の世界の余情という言葉に窮(きわま)りない深さと縹渺 (ひょうびょう) 性とを求めたのが俊成であり、それを拡張したのは息子の定家であった。この美意識は鴨長明を経て、14世紀の吉田兼好において仏教色、とりわけ禅の影響の濃い美学へと変貌する。それについて、渡辺誠一さんは、道元の兼好への影響は大きかったとしている

我が庵は越のしらやま冬こもり 凍(こおり)も雪も雲かかりけり 道元
冬かれはかぜになびく草もなく こほるしも夜の月ぞさびしく   兼好

絶頂ではなく、端緒や衰退に兆す美学、思いやり偲ぶ美学、欠けたるものへの思いが兼好の美意識にはあった。それを、和歌・連歌の正徹が心にとめ、その弟子の心敬 (1406-1475) は、定家と兼好を取り合わせて「艶深くや」と述べるが、その論は「氷ばかり艶なるはなし」に至る。そして、彼の「冷え痩せる」には死の冷たさが沁みる。さび」ゆく

淡雪の消えゆく野べに身をもしれ  <応仁元年夏心敬独吟山何(やまなに)百韻より

 

和漢のさかいをまぎらす


唐の物は、薬の外は無くとも事欠くまじ。書どもはこの国に多く広まりぬれば、書きも写してむ。もろこしの舟のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取ってみて、所狭く渡しもてくる、いと愚かなり。遠きものを宝とせずとも、得がたき貨(たから)尊まずとも、文にも侍るとかや。(吉田兼好『徒然草』)

 

村田珠光『心の文』 矢部良明『茶の湯の祖 珠光』収載

珠光が弟子の古市播磨 (ふるいち ばんしゅう) つまり、胤 (ちょういん) に残した手紙があった。『心の文』と呼ばれている。

この道において大事なことは心の慢心と我執を絶つことである。上手の人を妬み、初心者を見下すようなことがあってはならない。巧者には、自分の方から寄り添い一言なりとも深き言葉をもらい、初心の者には心を配って育てるように心がけよ。この道の和漢の境を取り払う事こそ肝要である。だが、冷えかかるといって初心の者が備前、信楽などを所持して、許されないほどに思い上がるなどは言語道断である。枯れるということは、良い道具を持ち、その味わいを知り尽くして心の下地も出来て、上手の位にたどり着いたのちのことであって、そこでこそ冷え痩せる事がおもしろいのである。とはいえ、道具を揃えることも叶わぬ人は、それにこだわる必要はない。手取釜 (てどりがま/鉄瓶) しかないと嘆くことも、この道においては大切なことである。ただ、慢心、執着の心が何よりも悪いのである。しかし、独自性がなくてはならぬ道でもある。道の至言として 心の師となれ、心を師としてはならない と古人も言われた。

心の師とは なれ、心を師と せざれ」とは、「心を使え、心に使われるな」という意味で、確か禅語にも似た言葉があったような気がする。『北本涅槃経』『往生要集』『発心集』などにある言葉のようだ日蓮は『六波羅密教』の言葉だとして武蔵国池上の門下への手紙に書いている。

珠光は、まず、茶の湯を「道」と呼んだ。どのような道具で、どのように飲むかが意識され、求道としての茶の湯がはじまる。そして、道具については、和漢の境界を取り払うと言っても唐物によって磨かれた鑑賞眼なしに和の物をむやみに持ち上げる事を戒めている。和歌・連歌の心敬は「初心の時は正しく美しく心にかけ、‥‥中程になりては奇特玄妙神変のかたへ心をやる」べきで「余情、面影、ひえやせたることは、上手の位にいたり、おのずから知らるべき物也」としている心敬が、若い頃の伸び伸びとした歌があってこそ、老境の冷えさびた境地も知られるのだと指摘していることに通じるのである。珠光は世阿弥より60歳くらい年下であるが、『花伝書』を彷彿とさせるような内容を弟子に残している。この見上げた老婆心。

 

徐熙の鷺の絵


徐熙の鷺の絵は、昔珠光が所持していた数寄道具である。絹本着色で武野紹鷗や北向道陳をはじめ古人が称美した。‥‥この絵には口伝があると宗二は書いている。(『山上宗二記)

 

伝徐熙(?-975)『雪竹図』 上海博物館

唐の末から、従来の着色画が衰え水墨画が盛んとなる。内藤湖南は禅宗の庶民への浸透が理由ではないかとみている。唐滅後における五代の内の一つ南唐は、最後の君主となったが李煜 (りいく) の時代に芸術が栄え、蜀の地と同じく唐の遺法が残っていたと言われる。この時代の花鳥を描いて傑出した画家が徐熙 (じょき/?-975) であった。

同じ花鳥画で知られる黄筌 (こうせん/903-965) が蜀で孟昶 (もうちょう) の朝廷に仕えていたのに対して徐熙は江南において在野の画家であった。書院における画家は黄筌を学び、士大夫の画家は徐熙を学んだといわれ、士大夫の家には徐熙の絵は無くてはならないものとされた。しかし、湖南は徐熙の真筆は既に失われたと考えている。北宋宮廷コレクションの記録である『宣和画譜』の批評に黄筌の絵は神にして妙ならず、趙昌の絵は妙にして神ならず、神妙共に兼ねて一洗して之を空しくするは徐熙なりと伝えられている。凝った言い方だが、分かったようでよく分からない。その画法は、墨で大体の形を定めたあとに彩色するもので、後に、彼の孫である徐崇嗣が没骨画を創始したと言われている。(内藤湖南『支那絵画史』

珠光が愛した徐熙の鷺の絵があったと言われる。千利休が「茶の湯数寄の根本をなす」とまで述べた問題の作品だが、現存していない。上海博物館にある『雪竹図』が伝わっているし、台北故宮博物院にはやはり徐熙の作品と伝えられる『玉堂富貴図』があるが、この二つの作風は、かけ離れている。「茶の湯数寄の根本をなす」とまで言われ、「一洗して之を空しくする」といった画風を考えるなら、やはり画風は『雪竹図』に近いものだったのではないかと僕は思うのだが‥‥。

 

茶禅一味


茶湯は禅宗より出でたるによりて、僧の行いを専らにす。珠光、紹鷗、悉 (ことごと) く禅宗なり。密伝あり。(『山上宗二記』

圜悟克勤禅師の印可状 東京国立博物館

床の掛物は最初、牧谿、玉澗などの唐絵が尊ばれたが、珠光が一休宗純(1394-1481)に参禅して、その印可を証して圜悟の墨跡を頂戴し、それを茶掛けとしたのが「墨蹟の掛け始め」と宗二は書いた。宋代の圜悟克勤 (えんごこくごん/1063-1135) 禅師の印可状一軸のことだ。その後、紹鷗が三条西実隆から定家の『詠哥大概』を授与され、定家の色紙を床に掛けるようになった。次いで、利休が手紙を掛ける。「宗祇黒木文(そうぎくろきのふみ)」が有名だ。

一休関係の話がもうひとつある。芝山監物が住吉の一休寺から一休筆の「初祖菩提達磨大師」の墨跡を購入したが、細川三斎は、この掛け軸が一休の弟子だった珠光が表具をほどこしたものであり、一目置かれる墨跡であること、長すぎて床には掛からないだろうと手紙に書いた。それで、監物は蒲生氏郷と三斎に表具について利休にお伺いを立てるように頼む。床に掛けられるように短くしてもらえないかと聞いたのだ。利休は、珠光のものに手をいれてはならんと、にべもなかったのである。

一休宗純(1394-1481)

大徳寺の塔頭である真珠庵 (永享年間 <1429年 – 1441年> に創建) は、開祖一休とするが、大徳寺の住持 (寺の長) になったのは、一休が81歳、珠光が52歳の時のことである。この毒気の抜けない逸格の禅僧に師事して、印可を受けたとあれば、珠光も並の人ではなかったのではないか。真珠庵の過去帳には「珠光庵主」の名が見えると言うし、七・五・三の枯山水は珠光作として伝わっている。それに、応仁の乱で焼けて一休没後に再建された真珠庵の落慶法要や十三回忌などにも御布施の記録が残っている。しかし、これも子弟にどのような交わりがあったのか何も分からない。

 

珠光名物


されども昔、珠光申され候は、わら屋に名馬つなぎたるが好しと、旧語に有る時は、名物の道具をそそうなる座敷に置きたるは当世の風体。なお以て面白きか。『山上宗二記』

 

「わら屋に名馬つなぎたるがよい」とは珠光の美意識であった。この対照を際立たせる美学は、世阿弥らの能のように象徴的で簡素な舞台と鬼神や霊たちの豪華な衣装の対比を思い起こさせる。利休はそれに「よろず事たらぬがよし」という「不足の美学」を注ぎ入れたのである。

黄天目 珠光天目 13-14世紀(宋~元)
矢部良明『千利休の創意』掲載

珠光は名物を沢山持つのではなく、幾たびか買い替えていると言われる。茶碗に限らず陶磁器の最高峰は青磁や白磁で、8世紀の陸羽はこれらの磁器を茶碗として考えていた。青磁の中では、南宋の砧 (きぬた) 青磁と呼ばれる青みがかった青磁が最高とされ、一般向けには廉価な緑がかった青磁があった。それも黄ばんでいたり茶褐色になったものまである。珠光の青磁茶碗は、そちらの粗相な青磁である。通称 猫掻き手と呼ばれるヘラ目が入った 珠光青磁茶 は、高価なものではなかったろうが、利休が持っていたものを三好実休に売った時には千貫文にもなっていた。侘び茶は、身の丈の茶である。高価なものではなく、見立て、掘り出しの工夫が必要とされる。

11世紀の宋の時代の蔡襄 (そうじょう) は、『茶録』という著書に「茶の色は白いから黒い茶碗が相応しい」と書くようになる。実際、研膏 (けんこう)などは白色をしていた。この頃から茶道具に黒釉が好まれるようになる。有名なものに福建省の建窯で作られた建盞 (けんさん) と呼ばれる茶碗があった。すり鉢型で口縁にすっぽん口と呼ばれるくびれがあり保温に優れていた。その序列は、曜変、油滴、禾目 (のぎめ)、次に天目となる。珠光の所持していたとされる天目茶碗の一つが上に掲載してある。天目について、相阿弥は一般的な茶碗で将軍家には用がないと述べた茶碗だった。道具への美意識が大きく転換していくのである。

黒釉の小壺を抹茶壺とか茶入れとし、黒釉の大壺は葉茶壺とか茶壷とするようになる。珠光の茶入れで有名なものは、珠光が発見して義政の所有となった 九十九髪茄子 (つくもかみなす)、三好実休が二千貫で買って茶道具沸騰の口火を切る珠光小茄子、形見とした投頭巾 (なげずきん) 、新田肩衝 (にったかたつき) は後に秀吉が三千五百貫という法外な値段で手に入れている。このような珠光の名物は、全部で19に及ぶ。これらの道具は、荘厳・華麗ではなかったが、兆す美学、偲ぶ美学、侘びる美学から選り分けられた名馬だったのである。

紹鷗茶室 『山上宗二記』より

14~15世紀に描かれた『掃墨 (はいずみ)物語絵巻』には、このような様子が描かれている。座敷の中央に炉が切ってあり、手取釜が掛かり、側に杓立て朱塗りの水指があり、右の壁側に押板があって水墨画が掛かり、黒塗りの卓の上に青磁の香炉が置かれている。左奥に床の間があって水墨の山水画が描かれた貼り付け壁が仕込まれていた。

この絵巻に描かれているのは裕福な人の屋敷の様子ではあるが、この時代、喫茶の風は既に貴賤を問うことなく流行していて、囲炉裏に釜を掛けて茶をたてることは庶民の間でも広まっていたと言われる。民間にも茶室に近い設えが既に出来上がっていた。それで、どのような室礼でどのように茶を飲むかという問題になる。

ここから、16世紀の紹鷗 (じょうおう) の茶室までは近い。1502年、珠光が80歳近くで亡くなった年に紹鷗は生まれていて、その弟子の一人が利休だった。紹鷗の茶室は、4畳半で炉が切ってあり、床の間に唐物名物一つ飾り、和紙の貼り付け壁、すでに押板は無く、天井高が低い。光が変わると名物の外見が変わるので北向きの部屋だった。その他に、書隠と二間が併設されている。珠光の茶室は畳敷きの四畳半だったといわれるが、紹鷗の茶室に似たものだったと考えてよいだろう。

珠光が京都に出て地下 (じげ) の人々を主な対象として生み出した茶の湯は、自由都市堺で応仁の乱から逃げ出した文化人と豪商、町衆の結びつきによってその下地が形成され、座敷と露地に工夫をこらした「市中の隠」での茶の湯として展開されていった。それが、後に紹鷗を経て千利休によって草庵座敷での究極の侘び茶として完成するのである。

 

今の世は


 

僕は、思うのだけれど、珠光は、能阿弥から教えを受けていたのだから、武将や僧侶の会所における茶の湯が権威を持ったものであることは当然分かっていた。豪奢な建築、絢爛な飾り物の中で政治・軍事・経済・文化のリーダーたちが集い、一服の茶を飲む。室町幕府が如何に形骸化していたとしても、大名たちが行うこの文化が政治・経済・軍事と密着していたのは十分理解していたはずである。その彼が貴賤を問わない「心のしつらい」「心の所作」とも呼べるような茶の湯を求めたことは象徴的なことだった。

やがて、室町幕府を揺るがす波乱が訪れる。応仁の乱である。その乱を避けて江戸の品川に滞在していた心敬は、文明三年 (1471)、師の正徹の十三回忌の追善供養ための百首和歌を詠作した。それが『心敬僧都百首』である。その中に戦乱の世を嘆いてこう詠んだ。

今の世は花もつるぎのうゑ木にて 人の心をころす春かな 心敬

この大乱を端緒として猖獗を極める戦国の世となりはてる。その覇者たろうとした信長は、会所の茶や大名茶で行われたような政治的な茶を利休を使って空前の規模で復活させた。「茶の湯ご政道」である。茶の湯は政商と武家との政治セレモニーとなったのである。茶は武家の儀礼となり、それを利休が差配し、同時に文化の下剋上と呼ばれるほどに茶の湯の改革を断行した(生形貴重)。しかし、この二つの方向は明らかに相反している。利休の祖父は、かつて千阿弥と呼ばれる義政の同朋衆の一人だったが、利休は、珠光の侘び茶を祖とし、それを徹底しようとした。この茶の湯を大成したのは間違いなく利休だ。だが、彼の悲劇も、遠因は、この相反する二つの流れにあったのではなかろうか。花もつるぎの植木となったのである。

 

 

引用文献 及び 参考文献

山上宗二 『山上宗二記』

内藤湖南『支那絵画史』1975年
支那学と日本文化研究の巨匠が綴る中国絵画論。

矢部良明『千利休の創意』1995年刊
利休に関する茶の湯の道具が詳しく述べられている。道具に興味のある人にはお勧めします。

 

 

エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート 『戦争と資本』 境界を失った戦争と平和

 

エリック・アリエズ マウリツィオ・ラッツァラート『戦争と資本』

タイトルは「戦争と平和」ではなくて「戦争と資本」なのだ。何故だろう。戦争と信用こそ、資本主義における戦略的武器であり続けていると筆者たちは言う。ミッシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランスの最初の講義(1970~1971)で、通貨制度は、商業や取引、金儲けを理由に説明できないと述べた。これが、聴講者にとって驚天動地だったのか、青天の霹靂だったのかは分からない。少なくとも本書の著者たちにとって新たな啓示となったであろう。

富と権力の等価性を保証・維持する手段としての出自を持つ通貨は、やがて植民地化と内戦を催す手段となる。本書は、軍隊と戦争が、政治的な権力組織と資本の経済サイクルを統合する構成要素であることを明らかにしようとする。それは「資本の戦争政策としての経済学」なのである。

「真の戦争機械は金融化である」これを理解できなければ、我々は戦争機械の犠牲になるばかりだろうとエリック・アリエズとマウリツィオ・ラッツァラートは述べる。彼らフランスのインテリたちにとって、1968年は特別な意味を持っていた。あの奇妙な5月革命と筆者たちが呼ぶ事件。その後の反革命を分析すること、それが本書が生まれる背景であったかもしれないのである。

「資本主義の新精神」、資本主義のプロセスを推し進めようとする「加速主義」、思考と存在物の相関にしかアクセスできないとする「思弁的実在論」といったものが、「メイドイン68年」の恣意的批判に由来すると彼らは考える。この68年の思想的限界と対決するための彼らの武器が『戦争と資本なのである。しかし、彼らのこの情念は、我々市民革命など経験したことのない国民には理解を超えるものであるかもしれない。

 

マウリツィオ・ラッツァラート(左)とエリック・アリエズ(右) 『戦争と資本』より転載

著者の一人、マウリツィオ・ラッツァラートは、1955年イタリア生まれ。パリで活動してきた社会学者。1970年代にイタリアを中心に起こったアウトノミア運動に参加している。学校・工場・街頭などでの自治権の獲得を目指す左翼運動だった。パリに亡命し、非物質的労働、労働者の分裂、社会運動の研究を行い、非常勤芸能従事者 (フランス政府の保険によって守られた芸能者) 、不安定生活者などの活動に参加した。アントニオ・ネグリらと政治思想誌『マルティテュード』の編集長を務めている。また、ガブリエル・タルド研究の第一人者で『タルド著作集』の編集者の一人である。著書に『出来事のポリティックス』『<借金人間製造工場』がある。

エリック・アリエズは、1957年生まれの哲学者。ジル。ドゥルーズに師事した。パリ第八大学教授、及びキングストン大学 (ロンドン) 客員教授を務めている。国際的に広く知られたドゥルーズ学者と言われている。ウィーン美術アカデミーで教鞭を執ったこともあり『マティスの思想』といった著書もあるようだ。知らなかった。彼もまた、『タルド著作集』の編集者の一人である。邦訳のある著書に『ブックマップ 現代フランス哲学――フーコー、ドゥルーズ、デリダを継ぐ活成層』がある。

ラッツァラートはどちらかと言えば、ガタリの方に、アリエズの方はドゥルーズにより近いと言われるが、二人ともドゥルーズとガタリの研究者で、タルドの思想的な末裔たちと言えるのも面白い。ぼくは、本書に興味を持ったのは、タルドの社会学が、どのように実践されていくのか興味があったからである。

 

通貨と政治権力


ペルシア兵(左)と古代ギリシアの重装歩兵(右) 前5世紀
兜、盾、胴、脛当てで重装備の防御を施した歩兵

通貨の起源

フーコーは通貨制度の歴史的起源、それは古代ギリシア通貨を指しているのだが、それを商取引ではなく、新たな権力とに結び付けた。時の権力は、「重装歩兵」という新型の戦争機械の独占を図る。それは「重装歩兵革命」と言うべきもので、軍事的にも社会的にも大きな影響をもたらすことになった。この戦争機械を担ったのは、都市の防御に必要な小農民たちであって、戦争の英雄像たる貴族戦士ではなかった。行政の最小単位であるデモスに所属する「人民」は、戦士として育成されることによって最大多数が戦闘に参加可能となり、強力な戦闘力を持つようになる。

彼らは、相互扶助、集団の規律などによって、ある種の同質性を持つようになると兵士=市民としての平等を要求し、「階級権力」の維持のために彼らを利用しようとする者たちへ矛先を向ける可能性が生まれてくる。著者たちは、この問題の現代性を強調するのである。

前7世紀から前6世紀にかけてのコリントスにおいて、キュプセロスは重装歩兵団の元兵士たちの支持によって僭主の座につく。彼は、政治的な思惑から軍事力を経済的に統制するために通貨利用を思いついた。負債を持つ農民層である貧民層に、負債を帳消しにすることなく限定的な土地の再配分を行い、富裕層にはその財産の10分の1を天引きにし、その一部は直接、貧民に再分配され、一部は「巨大建設事業」とそのための職人への前払いに使われる。この経済循環は、貧民に分配された資金を再分配された土地の補償金などとし富裕層の懐へと逆流させ、富裕層には租税を現金で支払わせるというシステムになっている。それは「通貨の流通ないし循環」と「富と兵役の等価性」を保証する制度だった。ひいては、有産階級の所有制度と権力保持を維持するための制度でもあったのだ。

リュディアのエレクトロン硬貨
前7世紀に小アジアのリュディアで製造された世界最古の硬貨。前6世紀にはコリントでも通貨が造られた。

こうして、通貨は政治権力の新たな形態の中から登場する。彼らが「所有制度や負債・返済のメカニズム」に介入し、筆者たちが言う「戦争機械の領土的制度化」=再領土化を保証するものとなるという。

領土化・脱領土化・再領土化

ドゥルーズとガタリは『アンチ・オイディプス』の中で、再領土化などについて述べているので、それをご紹介する。彼らは、国家を「原国家」「専制君主国家」「資本主義国家」に大別する。原始的な国家の身体を土地と表現すれば、これらの国家の社会体 (社会機械の形態として、それぞれ「大地の身体、「専制君主の身体、「貨幣の身体を割り当てることができる。

ジル・ドゥルーズ(1925-1944)& フェリックス・ガタリ(1930-1992)
『アンチ・オイディプス』

原始土地機械が動かなくなれば専制君主機械にとって替わられるが、それが「原国家」から「専制君主国家」への移行である。同様に専制君主国家から、資本主義国家が打ち立てられる。「専制君主の身体が脱領土 (土地) 化されることによって新たに資本主義身体 (機械) が生みだされるのだ。それは同時に、再領土化を激しく受けることになるので、 脱領土化 (脱コード化)と同時に再領土化 (再コード化) といた二重運動の中に置かれることになる(「第一章 欲望する機械」

従って、領土化とは、「貨幣の身体といった社会的身体=社会機械を形成するということになる。だとすると脱領土化は、身体の解体、再領土化は身体の再生ということになるだろう。しかし、彼らはデカルトかデュシャンの末裔なのか、何でも機械にしてしまうのだ、それは、欲望によって、微細に繋がったあらゆる流れの中で連動する生産機械で、コード化される。つまり制度化されるのである。

通貨と権力

フーコーは、通貨の所有が権力を生むのではなく、誰かが権力を握ったからこそ通貨は制度化されたというのである。通貨は、その起源が商業であるといった、単純な経済的「資本」ではない。通貨の役割は、社会における富の再分配であることよりも、権力の座を拡大再生産することにある。通貨こそ、政治以上に、富裕層と貧民との内戦を継続させる要因となる。通貨は万人の在り方を変え、貴族、戦士、職人、賃金労働者といった階級の分断を生みだし、かつ、再生産し、内戦の火種を恒常的に煽るものだったのである。ここが、押さえていてほしい第一の点です。

重装歩兵の共和国という初めての平等主義と通貨による計量単位による支配は同時に生まれ、通貨を通じて権力を奪取し戦争に勝利するという、いわば通貨戦争を行う権力によって経済は初めて政治的なものとなった。都市=ポリスで潜在的につねに戦争状態にあった貧民と富裕層との闘争の時代以来、諸革命の歴史が浮き彫りにするのは「通貨制度」と「新たな権力形態」との関係がもたらす政治の「原風景」なのである。

 

植民地とプロレタリア化


カール・マルクス (1818-1883)  1865

本源的蓄積と脱領土化

マルクスは、資本主義が生み出した脱領土化の二つの力を挙げる。一つは信用・公的債務で、資本の信仰宣言と言うべきものであり、もう一つは、征服戦争、つまり新世界の「処女地」を侵略し領有化する暴力だったという。植民地主義は、資本主義が生み出したという観点です。これが押さえておいてほしい第二の点。

農民が土地から追い出され、賃金で働く労働者が生まれると同時に、この植民地政策、奴隷貿易、公的債務などでの利益が資本に転化される。これが、本源的蓄積呼ばれるものである。それは生産者と生産手段の分離であり、全地球的脱領土化と呼ぶべきもので、グローバリゼーションの中であらゆる存在を支配し、商品化するプロセスを巧みに追及するという。

国内生産を支える村などの共同体の破壊、食料生産の放棄、農園の摂取によって生じた民衆の貧困化は、彼らを賃金生活のための規律訓練へと送り込む。それはエンクロージャー、土地集中、土地所有者の再編を伴っていた。そして、いわば、人間関係のエンクロージャーとして女性の蔑視と魔女裁判が指摘され、より大きなファクターとして専業主婦化が挙げられる。ドイツの社会学者マリア・ミースの言うように男性がプロレタリア化するためには女性を主婦に変える必要があったというのである。

この脱領土化的な破壊は、文明化された貧者たちや、植民地化された国の人々の生活の物質条件のみならず、彼らの宇宙観、神話などの実存的な領域や価値観の世界といった主体的な生活にまで及んだ。それは、国家間の戦争のように敵を「解体する」というより、人々の振舞いや行動の形態を資本の蓄積とその再生産の論理に適応させるという主体性の「転換」となった。

世界市場の継続的破壊/創造

ローザ・ルクセンブルク (1871-1919) 
ポーランドに生まれ、ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家

マルクスの言う本源的蓄積は、一度きりのものではない。最新の生産プロセスによる「取引」を隠れ蓑に征服と接収の現代版が、金融資本主義によって進められているという。それは、金融資本を原動力とした新たな植民地化となった。資本主義にとって帝国主義は、選択の余地のないものになっていったのである。ドイツで活躍したポーランド生まれのマルクス主義政治理論家であったローザ・ルクセンブルクが、本源的蓄積は、同時代的現象であり、20世紀においては帝国主義という形で継続していると既に指摘している。

しかし、現代のグローバル化は、第三世界」からの略奪と同様の形で、暴力、詐欺、弾圧、戦争などの形をとって北の賃金労働者に対しても行使され、資本主義は益々その恩恵に浴すことになる。本源的蓄積は、イギリスの地理学者デヴィッド・ハーヴェイにとって「下層階級に対する暴力」であると同時に、技術革新や組織改革の巨大な潮流へと社会を開く肯定的側面を持っている両刃の剣だった。「資源の所有者」からの剥奪、賃金労働からの搾取、戦争、暴力、略奪と実体経済とが比類のない形で共存しているというわけだ。しかし、筆者たちは、「搾取による蓄積」と「剥奪による蓄積」との区別が回避されているために問題があり、経済の戦争は経済内部の戦争であるという観点が無視されているという。

哲学者ハンナ・アーレントは、マルクス主義者ではなく、それゆえ資本の進歩主義については語ろうとしなかった。その代わり19世紀植民地戦争から20世紀の総力戦までの帝国主義を決算する。1870年あたりから始まる大不況はブルジョアジーに純然たる略奪という原罪を否が応でも意識させた。この原罪こそ本源的蓄積を可能にし、将来の蓄積を誘発するものだったという。その突然の死を見たくなければこの先もそれを繰り返さざるを得ない。それは、本質的に自転車操業なのだ。誰しも感ずる資本主義への不安はここに根差しているだろう。資本家生産者たちは、彼らの生産システムの形態と法則は「その初めから全地球規模で計算されていた (ローザ・ルクセンブルク) 」ということを気づいた。

 

拡散する戦争機械


内戦化する戦争

レーニンは、第一次大戦のマトリックスが植民地にあると考えていた。「肥え太った奴隷所有者同志が奴隷制を維持し悪化させるために起こした戦争」と述べたのである。この大戦は、植民地化された人々が帝国主義と資本主義に対する闘争に入る、世界にとって重要なメルクマールであるとも述べるのだった。ロシアは2月革命、10月革命へと突入。ドイツでは、ヴィルヘルム2世を退位させたベルリン革命が起こり、極東でも革命運動に入っていった。

やがて戦争と生産とは、ない交ぜにされていく。資本は総力戦の第二のマトリックスとなるのだ。この総力戦は戦争のみならず、何よりも諸産業の戦争、労働戦争、科学技術戦争、情報・通信戦争となる。「生産」という視点から見れば、「総力」という語が指示しているのは、資本を再組織化させる戦争経済に社会全体が従属することであるという。敵の打倒という軍事目標は、無制限化し住民とその環境を壊滅させることとなるのである。総力戦という新たな体制は、ついに「平和を軍事化するよう要求する」ものとなるのである。ここも大切な第三の点です。

ドイツの法哲学者カール・シュミット (1888-1985) は、植民地の住民に対する「小戦争」が総力戦の最初の形態であったこと、そして、内戦と植民地戦争という二種類の戦争はパルチザンという観点からは特別重要であり、ある意味類似しているという。ナポレオン占領軍に対するスペイン人民軍の戦いは最初のゲリラ戦と言われる。19世紀、アルジェリア民族運動の父と呼ばれるアブド・アルカーディルのフランスへの抵抗運動は有名なものらしい。シュミットは、西洋の資本主義と東洋のボルシェヴィズムがヨーロッパ国際法による国家間戦争を世界内戦に変容させ、戦争をグローバルな全面的現象にしたという。アルカイダもISISも淵源はここにある。

植民地戦争は、「政府」と名乗る支配的な実体との戦争ではなかった。万人そして各人を相手取る戦争だった。この性格故に植民地戦争は、戦争の進化の歴史的母型となったという。総力戦が「脱文明化」のプロセスと呼ばれるものの中で捨て去った、戦争と平和、正規軍と非正規軍、軍人と民間人の区別は、植民地ではもともと通用していなかったのである。

プロイセンの軍人であり、軍事学者だったカルル・フォン・クラウゼヴィッツ (1780-1831) は、『戦争論』の中で、戦争は他の手段をもってする政治の継続であると述べた。全く政治の道具であり、政治的諸関係の継続であるという。「戦争とは、ペンのかわりに剣をもって行う政治である」というわけだ。マルクスもエンゲルスもすべての戦争を列強政治の延長と考えていたし、階級闘争は戦争の真の原動力となるはずだった。それゆえ、レーニンは階級闘争を絶対化したのである。最初の帝国主義戦争の後、極東は決定的に革命運動に入る。これについて、ハンナ・アーレントは「世界戦争は革命の帰結として、地球全体に広がる、ある種の内戦として登場した」としてシユミツトと説を同じくしている。こうして、世界はグローバルな内戦へとむかうのである。

 

ファシズムと冷戦からグローバル戦争へ

アーレントは、全体主義の研究に生涯を捧げたけれど、ファシズムについて、こう述べている。それは、自身を加速すること以外のゴールを持たない絶対的破壊の運動だと。ドゥルーズも、行先も目標もない総力戦の純粋に破壊的な運動だとアーレントと説を等しくしている。ファシズムの戦争機械が国家装置に対してある種の自立性のようなものを持っていることから、ファシズムは国家装置とは言えないと規定した。この「運動のための運動」と「純粋破壊」は、殺す権利の一般化と強化をもたらした。ナチズムは、もはや破壊のためでしかない国家装置のシュミラークルを道連れに死んだとドゥルーズは言う。戦争に組み込むことが不可能な敵を無制限に破壊しようとしていたのである。

ベアトリス・ホイザー
『クラウゼヴィッツの正しい読み方』
戦略論、安全保障体制の研究者がクラウゼヴィッツの『戦争論』を語る。

戦略論、安全保障体制の研究者であるベアトリス・ホイザーは、クラウゼヴィッツについて述べた著書の中で彼の同僚であった、オーグスト・ルール=フォン・リリエンシュターンのこの言葉を引いてドイツや日本の戦略的誤りを指摘するのである。

戦争初期の一時的な優位や鮮やかな征服などは、もしそれが長期的な優位や征服に繋がらないのであれば、本来なら計算され尽くされ、数世紀に亘って確保すべき「国家の生存」にとってほとんど価値がない。そして、闘っている二国間の関係と同じくらい重要なものは、すべての文明国が多少は持っている政治的つながりやネットワークであり、一時的にせよ中立の立場をとっている他国の利害である(『クラウゼヴィッツの正しい読み方』)。

ついで、米ソの冷戦がやって来る。この冷戦は、「軍備競争」と呼ばれてきた。ローザ・ルクセンブルクは、軍事投資は生産力の発展とそれを吸収する市場能力の格差を調整することによって剰余価値の実体化という矛盾をコントロールし解消するという。ポーランドの経済学者ミハウ・カレツキは「完全雇用」は軍と戦争産業の賃労働者の巨大雇用のおかげで達成され、冷戦にせよ実戦にせよ、戦争なくして完全雇用はないという。そして、戦争への投資は、「科学研究」の発展とコントロールの主要なベクトルでもあった。ビッグ・サイエンスは軍事と産業の結合線でもあるという。

冷戦は、あの時期、あの期間に限定されたものではない。およそ戦争なるものは、直接経済的な戦略機能を果たすもので、冷戦は、そこに社会的なコントロール機能を付け加えただけに過ぎないと著者たちは言う。しかし、新たなパラダイムがやって来る。「住民の中で両陣営が戦う」という事態が起き始めるのである。軍事戦略家たちは、住民の中で生活し、身を隠し、増殖し自由で創造性のある敵と戦うことになるのだが、68年に結晶した反植民地主義、反人種主義、労働者、フェミニスト、エコロジストの闘争から姿をあらわしたグローバル化した内戦の力学から「現実的で過酷、恒常的な紛争の時代」と呼ぶべきものに足を踏み入れたことを認識している。テロ社会である。敵は非正規的であり、介入の唯一の方法は、内部に非正規兵のいる住民が生活している場所をコントロールすることとなる。これが大事な第四の点です。

1999年に中国空軍の二人の大佐、喬良と王湘穂によって『超限戦』という著書が出版されたようだ。その後のインタヴューで彼らは、こう述べている。今日、国家の安全保障を脅かす要因は敵国の一国家の軍事力ではなく「資源の領有、市場の獲得、資本のコントロール、貿易制裁といった経済的要因」であり、これら非軍事的武器の与えるダメージは軍事武器と等しいものになると。まさに、米中経済戦争が、していることが、それだ。一国のレベル、さらには地球規模で不安を生み出させる最も有効な手段は金融なのである。

この数か月で (本書の基になる講演は2014年~2015年に行われた)、輸出商品の外貨表示価格の引き下げを狙って10%もの平価切下げを数回行い、経済危機に瀕したタイとインドネシアの状況は軍事攻撃と経済封鎖の直撃にあったイラクと同じであり、ギリシアと超国家的な金融機関との紛争を「戦争」「植民地戦争」「占領」などと再定義することは単なるメタファーではないと筆者たちは言うのである。マウリツィオ・ラッツァラートの『<借金人間>製造工場』を翻訳した杉村昌昭氏は「訳者あとがき」の中でこう述べている。金融機関は、ギリシア国債を金融市場でおもちゃにしておきながら債務不履行の可能性が現れるとEUに公的資金の投入を働きかけたと。

 

戦争≒平和なのか


本書には、宗教戦争やスターリンの粛清や天安門事件については、取り立てて語られていない。訳者の一人、杉村昌昭氏が指摘するように本書は、「資本とリベラリズムの融合による支配に<敗北>し続けてきた<左翼思想/勢力>としての苦い総括の試み、そこからの脱出の試み」であったのかもしれない。しかし、資本主義とリベラリズムが支配思想として存在する世界への不安を人々が何かしら持っているとするなら、その不安は何処から来るかを鮮やかに教えてくれているのは、本書ではなかろうか。確かに、今、戦争は様々な分化した形態で諸国家の内外に遍在している。もはや、絵に描いたような平和など望むべくもないのかもしれない。そういった時代に、もう一度、戦争と平和とは何か問い直してみることは有益だろう。ハイデッガーはこう述べた。

「平和がいつ戻るのか? という質問に答えることができないのは、戦争の終りを見つけることが出来ないからではなくて、戦争が平和に通じるようなことはもはやないのだから、‥‥。この長期にわたる戦争はゆっくり進行するが、この戦争は昔ながらの平和に向かってではなくて、<戦争が戦争と感じられない、そして<平和がもはや意味も実体も持たないような、ものごとの状態に向かっていくのである。(杉村昌昭+信友健志 訳)」

 

引用文献 及び 参考図書

 

カルル・フォン・クラウゼヴィッツ
『戦争論』 1983年 徳間書店

ハンナ・アーレント『全体主義の起源』
第二巻 帝国主義

マウリツィオ・ラッツァラート
『<借金人間>製造工場』
我々は金融資本主義によって生まれながらに負債者とされる。未来をコントロールする手段としての「負債」を語る著書。

川原繁人『「あ」は「い」より大きい!? 』音象徴とコトの葉

 

川原繁人『「あ」は「い」より大きい !? 』

「あ」は「い」より大きい。なんとなくそんな気もする。malumaは丸く、taketeは角ばってる。これは、そう思える。何故か「かなまな」より「まなかな」方が言いやすい。
「ガンダム」と「カンタム」、「クレヨンしんちゃん」と「グレヨンしんちゃん」どっちが可愛い?  アイスクリームの名前には frosh と frisk どちらが向いてる? そう言われても‥‥

などなど、言葉と語感については色々面白いことがあるらしいのです。本書は、音声学の専門家が、「音象徴」を扱う本です。音象徴が、分かりやすく音声学を説明できるからです。それには、「言語学」「音韻論」「心理学」などが関係してきます。音の科学だから理系的な側面もあるのですが、普通の読み物としても、教科書としても使える本を目指したと著者は、言っておられる。

著者の川原繁人さんは、1980年東京都のお生まれ、国際基督教大学を卒業後、カルフォルニア大学サンタクルーズ校で理論言語学を学び、マサチューセッツ大学言語学科大学院で博士号を取得。その後、ジョージア大学、ラトカーズ大学で教鞭を執られ、現在は、慶應義塾大学言語文化研究所の准教授であられる。音声学のエキスパートのようです。

言語学には様々な学派があって、言語の諸相に様々なアブローチがなされますが、言葉の「音」を科学するのが「音声学」です。つまり、「音声を使ったコミュニケーション」を研究する学問というわけです。音声学には三つの要素があって言葉の発音に関する「調音音声学」、発話がどのように空気の振動によって相手の耳に伝わるかを研究する「音響音声学」、耳に伝わった音がどのように理解されるかを研究する「知覚音声学」に分かれます。口→空気→耳と一応分けて考えられる。

音声を発する側からすると声帯の振動という事柄があります。男性では1秒間に100回声帯を震わせるのは普通で、女性では1秒間に300回は珍しくない。ソプラノ歌手では1秒間800回振動させることが出来るようです。どうしてこんなに速く振動させられるかというと声帯間の空気圧の変化に関わるベルヌーイ効果によるようです。この効果についての説明は、どうも分かったようでよく分かりません。もう少し、勉強しておきます。

 

心理学から見た音


 

声のゲシュタルト

声のゲシュタルト

maluma という言葉と takete という言葉についての心理学的テストです。どちらの形が maluma をイメージさせ、どちらが takete をイメージさせるでしょう。maluma は丸い形を、takete は尖った形を連想させますよね。これはゲシュタルト心理学の研究者ヴォルフガング・ケラー (1887-1967) による実験です。同様に mama と papa という言葉を形のイメージに置き換えてみると比較的にですが mama の方が papa より丸い感じがします。

これについては、一歩進めた実験 (篠原和子+田中秀幸) があって、光源だけが被験者に見える状態で上の図のような形を懐中電灯のようなものを動かして空中に描きます。その動きに自由な名前を付けてもらいます。すると左側の円的な光の軌跡には rorimu、 munaya  のような名が右側の三角な光の軌跡には kikito、siteki などの名がつけられました。運動科学などで選手にどのような言葉を使って体の動きを伝えるかは重要な課題です。イメージを喚起できる擬音語や擬態語を使うことは、その指導に大きな効果をもたらすというわけです。

名前の魅力度

これも心理学的な実験です。認知学者のエイミー・パーフォースがウェブ上に異なる名前をつけた同一人物の写真をアップし、名前の差による魅力度の違いを調べました。そこでは、阻害音と呼ばれる子音と共鳴音と呼ばれる子音が重要な要素を占めたようです。

阻害音は、カ行、ガ行、サ行、ザ行、タ行、ダ行、ハ行、パ行、バ行の音で、このような濁点がついたもの、あるいは濁点が付けられるものが阻害音です。共鳴音は、マ行、ナ行、ヤ行、ラ行、ワ行の音のように濁点が付けられない音です。

男性の名前では、Jack、 Jessie、 David、 Georgeなどの名がついていると魅力度が上がることが確かめられました。これらの名前には阻害音が多く含まれています。女性だとLara、 Melannie、 Lauri、 Ninaなどが好まれます。これには共鳴音が多い。すると、こういう図式が出来上がるというわけです。

共鳴音→丸っこい→女性的
阻害音→角ばっている→男性的

筆者は、男性は逆三角形であれ、女性は丸くあれを推奨しているわけではない、あるいは、この実験結果に実在するスターなどの名前が影響を与えている可能性もあると断りながらも、音にある種の心理的な影響があるかもしれないことに注目するのです。

 

言語の有縁性と恣意性


 

本書ではプラトンの対話編『クラテュロス』が紹介されています。言葉の音と意味には繋がりがあるのか、ないのかが論議されるのですが、クラテュロスは「音と意味とは繋がりがある」と言い、ヘルモゲネスは「ないと言う。」この議論については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1  記号の発生と象徴=交換能力の付録に言葉の有縁性と恣意性というテーマで書いておきました。

ヘルモゲネスは、名前は、人々がそう呼ぶことを取り決めて、自分たちの言語の一つとして発音し、呼び習わしているものである。音と意味とは、申し合わせで決まると主張しますが、これは恣意性の立場に立っている。これに対して、クラテュロスは、名前には、それぞれの「もの」に対して本性的に定まっていて、名前には本来の自然な正しさが備わっていると主張します。言葉と音とは有縁性を持つと考える立場です

ソクラテス彫像  ミュンヘン文化研究所の古典彫刻博物館

ソクラテスは、クラテュロスの言うように「音と意味とは繋がりがある」という意見に賛成してこう言います。現実に、音声と舌と口で表現しようとすれば、それらを介して何らかの対象の模造品が生じ、それが対象の表現として得られる。従って、「名前とは、模倣される対象の音声による模造品」ということになる。音のシュミラークルというわけです。

ソクラテスは続けて、ギリシア語の ρ (ロー)つまり、アルファベットの r は、ρειν (rhein/流れる)、τρομοσ (tromos/震え) などの運動を表す単語によく使われるとしている。それに、α (アルファ) 、η (イータ)、ι (イオタ) は、それぞれ「大きい」「長い」「細やか」に繋がると語ります。ここらあたりは、言葉の舞踏的表現であるオイリュトミーと考え合わせる面白いところです。20世紀の初めにルドルフ・シュタイナーが編み出した新しい舞踏でした。

荀子(前313?-前238?)

荀子の正名篇二十二には、孔子の正名を引用しながら「名に固宜(こぎ)なし。之を約してもって命じ、約定まりて俗なる。之を宜と謂う」とあります。つまり、名称には必然はない。人の約束のもとに命名し、そう定まれば慣用される。これを筋道にかなうと言うと述べられているから恣意性の立場に立っていますね。

西欧では、ジョン・ロックが単語は概念の恣意的記号だとしたのが恣意的という語が使われた最初のようです。後に、ソシュールが音と意味とは恣意的である、つまり関係性がないとしました。それが理論言語学では踏襲されています。音と意味とが完全に一致するとすると、それぞれの対象に対して全ての言語は同じ言葉にならなければならないからです。

ソシュールは、言葉をその約束事としてのラングと発話に関するパロールに分けました。後に、プラハ学派が音声におけるラングの研究を音韻論とし、音声におけるにパロールついて研究を音声論としたようです。したがって、音声の機能についての研究が音韻論、音声の発話に関する研究が音声論となります。その音声論を分かりやすく説明してくれるものが音象徴なのです。

 

音象徴とは何か


音象徴を実験的に研究したエドワード・サピアは、声の心理学、認知学、音声学に大きな影響を及ぼします。それぞれの言葉は、それを使う人間の思考を枠づけると考えていました。言語と意味が恣意的に現れない部分は何処なのかと考えた。そして、どれくらいの確率で現れ、何故現れるのかを考えました。私たちが使う単語には明らかに音と意味が繋がっている言葉が存在するのです。

エドワード・サピア
(1884-1939)ドイツ生まれのアメリカの言語学者、人類学者

動物の鳴き声は、音象徴の良い例となります、日本語の「わんわん」、英語の「woof,woof/ウーフ、ウーフ」。日本語の「にゃーにゃ―」、英語の「meow,meow/ミャオ、ミャオ」など多くの例が挙げられます。このように言葉の音と対象とが関係するケースがあるのです。擬音語や擬態語として知られていて、二つを合わせてオノマトペと言いますが、それは音象徴と密接な関係を持っています。もう一つの音象徴の重要な要素は共感覚です。音が別の感覚を誘発してある意味合いを感じさせます。先ほどの心理学と音声の関係では子音を取り上げましたが、今度はサピアの研究から母音を考えて見ましょう。

母音のサイズ感覚

彼はアメリカの高校生500人を対象に二つの単語 mil と mal を挙げ、大きいテーブルと小さいテーブルの名としてどちらにそれらの単語を当てはめるかと問いました。多くの高校生は mal の方を大きなテーブルに結び付けました。この実験を著者も日本語、韓国語、中国語を話す人を対象にした実験をしていて、同じ結果を得ています。a は i より大きいという結論になるのです。どうしてでしょうか。

大局的に見て、音からくるイメージは、音声学的に導かれるある共通性を持つようです。日本語の母音を「あ、お、え、う、い」の順に並べると言葉のイメージが順に小さくなっていくと感じられます。「あ、お」は大きく、「え」が真ん中で、「う、い」が小さいと思える。このことは、これらの語の発音の仕方に関わってきます。

基本母音における前母音と後母音の最高舌位置

「あ」と発音すると顎が下がって口腔内が開き、舌が同時に下がるので口腔内の空間は大きくなります。「お」と発音すると唇が丸まりますが、舌が下がるのでやはり口腔内の空間は大きくなります。「え」では唇の両端が左右に開きますが舌の位置はニュートラルです。「う」ではやはり唇が丸くなりますが、舌は「お」の時より上に上がっています。「い」では唇の両端が小さく開いて舌の位置が、かなり上がるので口腔内の空間はとても小さくなります。

日本語の母音は、このように「あ」「お」「え」「う」「い」の順に口腔内が狭く、小さくなるのです。これは生理的な問題ですが語感に影響を与えているということになりますね。それで、「あ」は「い」より大きいという分けなのです。

英語では「い=i 」を単語の最後にくっつけると「かわいい」とかのニュアンスが生まれます。mom は mommy 、dad は daddy 、抱擁の hug は huggy となると抱っこの意味になります。日本語でも擬態語や擬声語に使われる拗音、小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」は「ぴょこぴょこ」「ちょろちょろ」といった使われ方をして幼な言葉を連想させますが、これも発音が唇をすぼめて舌の位置が高くなる「い」の発音に近いためだと考えられます。しかし、英語の「おおきい」は big で i が使われていますよね。音象徴には例外もかなりあることを著者は注意しています。

濁音はビックでダークなのか

クレヨンしんちゃんには、カンタムという名のロボットが登場するらしのです。アニメが不案内な僕には、よくは分かりませんが、これはガンダムから濁点をとったもののようです。ゴジラの濁点をとってとコシラにするのも同様の印象を受けますね。それから、これも僕には全く未知の分野なのですが、『ファイナルファンタジー』に登場する剣である「エクスカリバー」の偽物で「エクスカリパー」というのも登場するようです。やはり、なんだかチープな感じがします。もともとエクスカリバーはアーサー王伝説に登場する神剣ですが‥‥。ガンダムとカンタムでは、如何にも前者が大きくて重くて強そうなのです。

濁音にはもう一つのイメージがあります。悪役の名前には濁音が多く使われています。「ジャイアン」「ジャイ子」「ばいきんまん」「ドキンちゃん」などの例は多いようです。「ウルトラマンシリーズ」に登場する怪獣たちの名にもたくさん使われています。「ベムラー」「ネロンガ」「ラゴン」「グリーンモス」有名な所では「ゲスラ」「バルタン星人」などがあります。濁音が使われてる怪獣のパーセンテージは『ウルトラマン』で73%、『セブン』で56%、『帰って来たウルトラマン』で70%、『エース』で59%、『タロウ』で55%に及びます。2016年における安田生命の人の名前に関する調査で、濁音が使われているのは男の子で6%、女の子で4%ですから、怪獣の名には、濁音が圧倒的シェアを誇っています。しかし、よく調べていますよね。

濁音は汚い音でもあります。特に語頭に濁音がつくブスとかバカなどの言葉は耳を覆いたくなります。例えば、 g 音などが発音される時には、声帯を無理に振動させなければなりません。肺から空気が上昇してくる時に唇や舌がその流れを邪魔します。このような音を阻害音と言うようです。これは、声帯振動を維持するのが大変な、ある意味で面倒な音なのだと言われます。おそらく調音上のめんどくささがネガティブなイメージに繋がっているのだろうとは筆者の言です。

 

共感覚と音象徴


音象徴は、外国語の単語を覚える場合に影響すると言われています。日本語の「速い」は英語の「fast」ですが、「blunt(鈍い)」と教えた場合より「fast」と教えられた場合の方が記憶に残りやすいと言われています。筆者は音象徴が言語習得に大きな影響をあたえているのではないかと考えているようです。音象徴のおかげで異なる言語間にもある程度の感覚の共有が可能になっていると筆者は言います。

川原繁人『音と言葉のふしぎな世界』2015年 
『「あ」は「い」より大きい』に新たな内容を加えよりコンパクトにした書

それには訳があります。最初にご紹介した形と音の関係を思い出してください。丸い音と丸い形、角張った音と角張った形をみました。人間が音を聞く時には視覚の影響を受けてしまうことが知られています。例えば、「が」の発音をしている人の顔を見ながら「ば」の音を聞くと「だ」という音に聞いてしまうことが多い。これを「マガーク効果」と呼びます。これは共感覚の名残です。ある研究では「高い音」を聞くと「甘味」が強調され、「低い音」を聞くと「苦み」が強調されるという結果が出ています。それに雑音の中では「甘味」「塩味」を感じにくくなるというデータも出ている。これは、味と音の共感覚です。正確にはその名残です。一般に、良い音楽を聴きながら食事をとる場合、共感覚があると食事を美味しく感じると言われています。ターフェルムジーク (食卓の音楽) も意味があったわけですね。

このような共感覚に近い感覚相互の繋がりがあるとすると、「脳が音をどのように聞くのか」という問題に行き当たると筆者は言います。言葉の構造や文法などのラングとは別個に、パロールに関わる音声の問題が私たちの脳の色々な働きと密接に関係していることが分かります。「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part2 オリヴァー・サックス『道程』で、僕が少しご紹介しておきましたが、ここで、是非、脳神経科医のオリヴァー・サックス先生が書いた『音楽嗜好症』をお読みになればよいと思います。サックス先生が語る、音や音楽と記憶がどのように密接に関わるかという問題を再確認していただけれと思っています。

 

 

参考文献

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』
音楽に関する極めて興味深い逸話が掲載されている。お薦めの著作である。

ニュース

2021年『 植田信隆 展』と細川俊夫さんとのトーク ギャラリーG/広島

 

2021年 『 植田信隆 展』ギャラリーG/広島  5月25日()~30日(日)

 

細川俊夫さんとのトークイヴェントは、新型コロナ蔓延による広島での非常事態宣言を受けて5月29日に無観客で収録されました。

今回は、世界的作曲家である細川俊夫さんをお迎えして『伝統から立ち上がる創造』をテーマにトークイヴェントが開催できることになりました。司会は、ピアニストで音楽学の研究者である植田ゆう子さんです。

ギャラリーG 2021年 展示シーン

 

左 細川俊夫 (作曲家) 中 植田ゆう子 (音楽学・ピアニスト) 右 植田信隆

対談収録シーン 山藤万維 show Us (撮影)

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

松澤 宥 展 オンライントークのお知らせ

 

イェールユニオンの組織開催で、ポートランド、ロサンジェルス、ミネアポリス、ハワイとアメリカ国内を巡回しておりました『松澤 宥 展』がいよいよギャラリーG、広島で始まりました。

今回はこの展覧会を企画されたアラン・ロンジノさん、富井玲子さんとオンライントークをさせていただきました。下の写真がその時の様子です。

トークの内容ですが、
●主催者のギャラリーGの松波静香さんの挨拶
●私から本展覧会のキュレーターのお二人のご紹介
●富井玲子さんによる『松澤芸術の概説』
●アラン・ロンジノさんの『松澤芸術における量子というコンセプトとプサイという象徴』に関するトーク
●そして最後に皆さんで、「松澤さんとヒロシマ」「キュレーターの方たちの松澤芸術との出会い」「瞑想空間とコミュニケーション」」「環境問題と人類に対する警鐘」といった話題を中心にお話していただきました。
松澤芸術の魅力をこの三人の方々と共により広く、深めていけたのなら幸いに思います。尚、トークは、編集後 youtube、Facebook 等で配信の予定です。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一階展示シーン 左壁面が『九想の室』 右壁面が『白鳥の歌』

二階から一階部分を見下ろした様子

 

 

二階 展示シーン 『私の死』

展示シーン 一階から二階部分

2020年 5月『 松澤 宥・植田信隆 展』のご案内

2020 5/19-5/31『松澤 宥・植田 信隆 展』のご案内

 

2020年 5/19(火)- 5/31(日)展覧会期間が延長されました。
ギャラリーG/ Hiroshima
http://gallery-g.jp/  火曜ー土曜 11:00~20:00  月曜 休廊  最終日 11:00~16:30

5月24日 (日) 出原均、アラン・ロンギ―ノさんのシンポジウムについて
アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。19:00までは展覧会をご覧いただけます。

 

概念芸術の巨匠・松澤宥(まつざわ  ゆたか/1922-209)と植田信隆による展覧会です。2004年に制作した『消滅するヒロシマに捧げる九つの詩』のリメイク作品、そして以下に掲載しています松澤宥のオリジナル作品を展示します。この展覧会に際しては、ご家族と長沼宏昌氏の全面的な協力を得ました。ここに深く感謝いたします。

松澤 宥  出品作品

●草稿/『死のテーマ ヴェネチア・ビエンナーレに』『タントラを巡ってさまよう』 『A Black Hole』『ゾンスベーク国際展へのコメント』 他

●九字九行作品/『超人類の果て』『ドリコソマ』『エニグマ22』 他

●パフォーマンス草稿/『諏訪湖に白紙絵画を見せる』『私の死』 他

●チラシ作品/『ああニルああ荒野におけるプサイの秘具体入水式』『プサイの死体遺体』『プサイ函』 『人類よ消滅しよう』『ドンデン返し計画』他

●パフォーマンス写真(長沼宏昌 撮影)

 

『関連シンポジウム』が以下のように予定されています。

5月19日 (火) 19:00~20:00

無観客でのビデオ収録となりました。後日配信の予定です。

柿木 伸之(かきぎ  のぶゆき/広島市立大学国際学部教授 哲学、美学)、植田 信隆(作家)

ベンヤミン研究者として知られる広島市立大学の柿木伸之先生をお招きします。前半は私が松澤さんの芸術についておおまかに解説し、後半は、柿木先生に松澤芸術を起点として戦争と芸術をテーマにお話ししていただきます。

5月24日 (日) 15:00~16:00

出原均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)
アラン・ロンギーノ(インディペンデント・キュレーター)

アラン・ロンギ―ノ(アメリカ在住)さんは、アメリカからの入国制限措置のために来日できません。ご了承下さい。出原均(兵庫県立美術館学芸員)さんによるお話を5月30日(土)19:00より無観客でビデオ収録することととなりました。

2004年に広島市現代美術館で『松澤宥キュレーション展』を企画された当時の学芸員であられた出原 均(ではら ひとし/兵庫県立美術館学芸員)さんに松澤芸術について解説していただきます。

どうぞ、皆さまマスクをお持ちになってご来場ください。

 

2020年3月27日

2019年 ギャラリーG、広島での個展のご案内

2019年 広島での個展のご案内

2019  6/18(火)-6/23(日)

ギャラリーG Hiroshima http://gallery-g.jp/

contact  http://gallery-g.jp/contact/

火曜ー土曜 11:00~20:00
日曜 11:00~16:00

新作「モノクロームの残像 “Afterimage of Monochrome”」をご覧いただきます。ギャラリーの場所は、広島県立美術館の斜め向かいという絶好のロケーションです。

最近興味を持っている形は、まるまった落ち葉のような形、枯れかかった枝、蹲る大地に潜む虫たちが見せる姿です。三分の一は、水墨画のように、三部の一は、象徴画として、三分の一は抽象画のようになればいいと思っています。少しは年齢なみに落ちついてきたと言われたい。でも、どうなんでしょうね。

どうぞ、ご来場ください。

 

ギャラリーGマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年5月5日

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

2017年5月21日

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

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