柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part2 中世神学と国家理論

 

中世史家であるジョセフ・ストレイヤーは、11世紀までの西欧中世は<長期の冬であり、12世紀に<中世の春>が訪れると言う。それは、「12世紀ルネサンス」と言ってよかった。トマスの生きた13世紀は、その最盛期を極める独自に文化発展した時期であり、<中世の夏>と言われる。その後、14世紀にはヨハン・ホイジンガが著したように『中世の秋が訪れるのだ。

ペトロ・ネメシェギ(1923-2020)上智大学名誉教授

トマス・アクィナスは、南イタリアの侯爵の息子で、5歳の時からベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院で育てられ19歳の時にドミニコ会に入会し、それから一生涯大学の教授、及び教皇庁付きの神学顧問であった。彼は肉体労働をした経験もなく、司牧活動を通して庶民に接する機会もなかった。ベルナールのように政治に携わることもなく、ボナヴェントゥラのように修道会の長上になることもなかった。彼は、大きな絵の輪郭を白い紙に黒インクだけで描くように自分が専念した神学上の問題を考え、著述することだけに心を費やしたと、神学者のペトロ・ネメシェギ神父は述べる。トマスの五つの長所を挙げた後、彼には、生活体験と想像力の欠如があるとトマスの短所をこのように述べた。

これに対して著者の柴田平三郎さんは、トマスをこう弁護する。事物の論証を客観的、抽象的に行って生々しい生の感情を持ち込むのを拒否するのは一般に13世紀のスコラ学に特徴的なことであった。中世キリスト教の研究者であるデヴィッド・ノウルズの言うように12世紀は、文法の習得とラテン作家の作品読解に支えられた自己表現力豊かな文芸文化があった。それは、古代の賢者に対する敬意とそうした志向を持ち合わせた人々の友愛関係が培った土壌といえる。その精華が『薔薇物語』だったが、13世紀は論理の時代になるのであると言う。

柴田平三郎『中世の春』
ソールズベリのジョンの思想世界

ネメシェギ神父は、トマスは諸思想の多様性、独自性を消すような収録の仕方をしたとも批判する。トマスの体系に多くの思想家が合流した結果、一つ一つの思想の本来のユニークな価値がニュートラルなものになってしまった。福音書の魅力的な素朴さ、パウロの焔、アウグスティヌスの旋風、ディオニュシオスの神秘的な闇などトマスの書に探しても無駄だというのである。

これに対して柴田さんの弁護はこうである。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、トマスが問題にしている視点は、かつてのギリシアやローマの状況が如何なるものであったかと問うより、13世紀に生まれていたなら彼らはどのような貢献をもたらすのかを問うているのだと述べている。そのように、トマスにとって重要だったのは、過去の知をどう知るかではなく、真理とは何かであったというのである。

結局、トマスが13世紀という時代の中で行おうとしたのは、異質なものの「和解と調和」による「体系の構築」であり、「削除と綜合」を通じての「全体性」の実現であった。しかし、彼の政治理論と教会論を研究すると、まさにその逆であって、誠に独自な魅力を持っているが、首尾一貫していないように思えると柴田さんは言う。今回は柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』をご紹介している。前回 part1 ではトマスの『神学大全』を中心にご紹介した。今回 Part2 は、本題のトマスの政治学についてご紹介する。

 

人間は社会的・政治的動物である


 

『トマス・アクィナスの栄光』
ベノッツオ・ゴッツォリ(1420-1497)画

アリストテレス文献の流入

12世紀ルネサンスと呼ばれた時代にアリストテレスの著作群が組織的に紹介され始める。この時代にはギリシア文献だけでなく、それらを独占していたアラブ世界の文献も翻訳された。

そのルートは三つあり、①スペイン・ルートでは、12世紀クレモーナのヘラルドによってギリシアやアラブの哲学、科学書がアラビア語からラテン語に訳される。②シチリア・ルートでもプトレマイオス、エウクレイデス、プロクロスの天文学や数学、自然学のラテン語訳がなされた。そして、③北イタリア・ルートでは、ヴェネツィアのヤコブによってアリストテレスの『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁論』がラテン語訳され、初めてアリストテレスの論理学の全貌が明らかにされるのである。

トマスは、その政治学について同じドメニコ会士で友人であったムールベケのグイレルムスが訳したアリストテレスの『政治学』完全訳を用いたと言われる。

社会的・政治的動物である人間

人間は本性的に社会的動物なのであり、だから無垢の状態における人々もまた社会的な仕方で生きたであろう(『神学大全』第一部 96問題 4項)とトマス・アクィナスは述べた。

「人間は自然的に政治的 (ポリス) 動物である」というアリストテレスの言葉を「社会的動物」と言い換えているのである。社会的交わりの中で人間は、いわば、世界に差し込まれている。トマスは、政治の営みや国家の存在が人間にとって自然的なものであると述べるようになる。それまで、アウグスティヌスや伝統的キリスト教では政治や国家を人間の罪の所産、「罪に対する罰と矯正」と捉えられていたのである。

アウグスティヌスに代表されるキリスト教会の正統的教義では、政治社会や国家は神の望まぬ「人間の人間による支配」、つまり「奴隷制」を指すのであって、自然の秩序ではなかった。これに対して、トマスは原罪以前の政治的権威とは何かを問うた。多数者の社会生活は、共通の善を意図する何者かがこれを統轄するのでないかぎり存在しえないであろう(『神学大全』同上)と述べる。無垢な状態においても人間が人間を支配することはあり得るとしたのである。奴隷制とは別に「自由人の支配」は、原罪と関わりなく存在したと考えた。これは、革新的なことだったのである。

 

アリストテレス像  リシッポス作の失われたブロンズ彫刻の模刻(1~2世紀)

共通善による共同生活

アリストテレスにとって共通善とは、自由人の共同体としてのポリス(国)において、人間が単に生きるだけでなく、善く生きること、すなわち徳に従った善き生活を目指すことを意味していた。共通善を目指して共同生活を営もうとする国民相互間の積極的意思とそれへの適応能力たる徳 (アレテー) なしには、国は存続し得ないと彼は考えた。例え、国民一般の徳と人間の徳とが、さらに治者の徳と被治者の徳とが無条件に同じではないとしてもである。

トマスは、「人々は互いに真理を明示しあう者として、互いに信頼しあうのでなければ相互に共同生活を営むことはできないであろう。したがって、真実という徳は何らかの仕方で負債・義務という側面にかかわるのである(『神学大全』第二の二部 109問題 )」と述べている。マウリッツィオ・ッツァラートなら負債・義務こそ人間を奴隷化するものだと言うだろうが、これは金融資本主義の話だ。

ともあれ、トマスは、社会が存続するためには、真実を明示するという道徳性が不可欠なものと考える。それと同時に、悦び無しにも社会において生きることが出来ない。「苦痛を与える人や快くない人と一日中一緒に付き合える人はいない (アリストテレス『ニコマス論理学』) のだから。つまり、人は自然本性的な道徳的義務によって他の人たちと楽しく共同生活することを義務付けられているというわけである。

 

公的権力の行へ

トマスは、君主たちに対して公的権力が委託されると考える。それは彼らが正義の護持者となるためであり、正義の原則に基づいてのみ暴力や強制力を発揮することが可能なのである。国家は暴力=強制力の正統な独占者・行使者であるが、それは国家が正義を実践する限りにおいてである。私的人格者が暴力によって他者から何らかのものを奪い取るなら、それは強盗であるという。

聖アウグスティヌス

これは、アウグスティヌスの有名な国家強盗団説を逆手にとっている。「正義がなくなるとき、王国は大きな強盗団以外のなんであろうか。盗賊団も小さな王国以外の何でもないのである(『神の国』柴田平三郎 訳)。」アウグスティヌスにとって、国家には初めから正義などないのである。彼はアレクサンダー大王と海賊の会話を持ち出す。大王が海賊に「海を荒らすとはどういうつもりか」と聞くと、海賊はこう答える。「陛下が全世界を荒らすのと同じです。私は小さな船なので盗賊と呼ばれ、陛下は艦隊をお持ちなので皇帝と呼ばれるのです」と。

マキアヴェリが、信義を守ること、誠実であることなどの徳性は、君主にとって状況と必要に応じて踏みにじられて然るべきだとしていることを考えるとアウグスティヌスの意見もあながちペシミスティックともいえない。ともあれ、トマスは、アウグスティヌスを権威と仰ぎながら巧妙にその説を換骨奪胎させていると柴田さんは言うのだ。

罪によって人間から理性的であるということが全面的に取り去られるということは不可能である。そうなら罪を犯すことも出来なくなるからだとトマスは言う。そこで、この世の生において持ちうる不完全な幸福は、理性と言う自らの自然本性的なものによって獲得できるものであり、その仕方は、その働きにかかっている徳と異なるものではない。これに対して完全な幸福は、神の本質を見ることにあるというのである。現世の幸福は完全なものではないと釘を刺すことも忘れてはいない。

 

最善の国家制度


 

混合政体論

西欧政治思想の長い歴史の中で、一人の支配たる「君主制」、少数の支配である「貴族政」、多数の支配としての「民主政」、これら三つの支配形態の組合せによる「混合政体」が最善であるとする長い系譜があったと言われる。古代ギリシアのプラトン、アリストテレス、ローマ時代のポリュビオス、キケロ、そして、13世紀中葉にアリストテレスの『政治学』が紹介されるとトマス・アクィナスによって取り上げられるが、本格的な再生はルネサンス期のフィレンツェ、ヴェネツィア、そしてチューダー朝イングランド (1485-1603 ) だとされている。

『チャールズ一世』
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)画

この政体論は、内戦前夜のイングランドで「我が政体は混合政体」であると述べたチャールズ一世 (1600-1649) に予示されることになる。王権神授説を信奉する王の皮肉だったのだろうか。やがて、名誉革命を成功させるイングランドで「君主政」「貴族政」「民主政」の三要素は、議会における「国王」「上院議員」「下院議員」となり、立憲君主制の統治原理として18世紀のアメリカ合衆国へとつながると言うのが定説となっている。

しかし、この説は、今日の中世立憲思想研究では修正を余儀なくされていると著者は言う。まず、その制度には、次のような前提が必要とされている。統治権は法によって厳しく制限をうけること。正当な統治権の成立には被治者の同意が必用であること。その同意は代表者からなる議会を通じて表明されなければならないこと。これらの事柄は、西欧12世紀に復活したローマ法の法学者らによる世俗統治権に関する理論とそれを教会法に巧緻に取り入れた教会法学者たちによって形成されたことが、明らかにされてきたからである。しかし、ローマ法の影響力は大きい。

トマスもまた、混合政体論を最善としながら、一方でそれを否定するかのような主張もあるという。彼は、一体どちらの立場に立っているのだろうか。

 

君主の統治と混合政体

「私によって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める(『箴言8-15』)」と神が述べられているなら、人民の最善の統治は一人による統治である。明らかに教会の統治は、そのように配慮されているから一人の者を教会全体の長としている。このような理由をもとにトマスは、政治においても君主制擁護論を展開する。その典拠は、『君主の統治について』にある。おそらく、ドミニコ会の庇護者であったフーゴ2世のために書かれたと言われる。

この中では、擁護の詳細な理由として以下の事柄が挙げられている。それが、神の宇宙支配の理法に適応していること。政治支配者の最大の務めは、民衆の平和的統一を創出することであり、それは複数者よりも一者によって可能であること。心臓が体を統べるように、理性が霊魂を統べるように自然的統治は一者によって成されていること。預言者エレミアが述べたように一人の人間によって統治されていない領国や都市は、分裂に悩まされ、平和を知ることなく分裂すること。

明らかに君主政を支持しているように思える。問題は、トマスがアリストテレスの概念的枠組みと用語法をどのように駆使して自己の混合政体論を作り出したかという事になる。アリストテレスは、国家指導者が一人で君臨する場合は王政支配だが、統治の知識の原則に従って代わるがわる支配者となり被支配者となる場合は国家指導者であり、それは政治支配だというのである。

しかし、ムールベケのグイレルムスは、これをラテン語に置き換える時、アリストテレスの言う代わるがわる、つまり市民が交互に支配者となり服従者となるというヶ所を、一人の者が役割によって支配者となるとともに服従者となるとした。これは、明らかに誤訳だった。翻訳に誤訳はつきものだが、この誤訳は君主政があくまで統治の基本とするトマスの認識を「絶対的」な君主政か「法に従った」君主政かを問う形のもの変えたのである。前者を王政的支配 (regal rule) 、後者を政治的支配 (political rule) とした。しかし、その法は、一人の支配者が決めるものではなく、共同体の成員全ての意思の具現でなければならないとしたのである。

ジェームズ・M.・ブライスの最近の研究によれば、その共同体全体によって確立された法に支配される君主政は、少数の賢者 (貴族政) と全人民の意思によって宥和された、いわば混合政体なのである。これがトマス政体論の曖昧さに繋がっていると見られている。柴田さんは、このプライス説に概ね賛成だという。

トマス・アクィナス『君主の統治について』
君主の「鑑」という形式で統治と君主政について書かれたが、未完で終わっている。

アリストテレスの混合政体では、権力所有者の数と質によって成り立つ六つの政体分類がある。公共のための単独支配である君主政、公共のための少数支配としての貴族政、公共のための多数支配であるポリテイア (政体・国制) という三つの善き統治形態。そして、私事のための単独支配としての僭主政、私事のための少数者支配が寡頭政、私事のための多数支配である民主政の三つの堕落形態である。トマスは、そのうちの僭主政体が最悪だと述べている。それを防ぐための方策として、僭主になることなど考えられない様な人物の人民による選出、即位した君主が僭主に変る機会のないような手だての構築、王の権力も容易に僭主制に転化しないように宥和されるべきことを挙げている。

このように考えるとトマスの混合政体論のニュアンスが掴めてくる。この『君主による統治について』が中断された2年後の1269年に『神学大全』の「第二の一部」が執筆されるのだが、そこで、こう述べている。人定法は政治共同体を統治する者によって制定されるが、それは、政体との相関による。君主政においては君主の勅法であり、貴族政においては法学者の解答と元老院の議決、民主政においては平民会の議決である。「以上述べたものが融合した国制なるものがある、これが最善である(『神学大全』第二の一部 95問題 四項)。」全ての者が統治に何らかの仕方で参与するように配慮されなければならないという。

 

暴君は放伐可能か


 

ソールズベリのジョン『ポリクラティクス』
フランス語訳の序文、画中の人物は、賢明で狡猾といわれたフランスのシャルル5世。

徳を失った天子を天が見放す時、天命が革 (あらた) められる。天子が自らそのことを悟り、位を徳のある他者に譲ることが禅譲であり、天子を武力によって追放することが放伐である。古来、中国では、これを易姓革命と呼んだ。孟子が掲げたことで知られる思想だ。西欧中世思想においても統治権力に対する抵抗の問題は重要だった。それは、古典古代以来の長い系譜を持つといわれる。

11世紀に修道士ラウテンバッハのマネゴルトが、支配者と人民の間の誓約と誠実にもとづく契約に支配者の任免の根拠はあるとして、支配者が暴君と化して、その契約を破るなら進んでこれに抵抗する権利があるとした。そして、イングランドの人文主義者であったソールズベリのジョン (1115?-1180) のこの発言は、有名なものとなった。彼は『ポリクラティクス』の中で「暴君を殺害することは許されているばかりでなく、正当なことであり正義でもある」と述べたのである。

この1世紀後、トマスは、このジョンの思想を『命題集注解』の中で、より一層精緻にしたといわれる。彼は、「権威が獲得される方法」の暴君、これは資格や資質の欠如のことである。そして、「権威の行使の結果」としての暴君とに分ける。この区分は、14、15世紀のイタリアの政治理論の中で発展していった。

トマスによれば、暴君とは「暴力によって権威を奪う者」であり、「正当な権威の確立の目的に反する」命令や、「邪悪な命令」、「権威の権限を越えた命令」を人々に強制する者である。そうした暴君に対して、服従の義務はなく、カエサルの殺害を正当化するキケロを紹介しながら「暴君を殺害することによって、祖国を解放する者は賞賛され、報いられるべきである」とさえ言い切っているのである。しかし、より正しい判断が下せるという理由によって、放伐は、私人ではなく公的な権威によって為されなければならないとしている。この過激な暴君放伐論は、トマスの死後、彼の後継者たちにとって強力な理論武装の支えとなったのである。

16世紀宗教戦争のさなかに刊行された「モナルコマキ(暴君放伐論)」は、正当な資格を持たないのに暴力や邪悪な手段で王国の権力を簒奪した僭主、しかるべき資格によって王国を譲渡されたが暴虐の限りを尽くす僭主に対して、この権利の主張を行う。それは、やがてジョン・ロックの『統治二論』で「天に訴える権利」としての抵抗権が掲げられるのである。トマスに遅れること約4世紀後のことだったという。

 

戦争は許されうるのか


 

フーゴー・グロティウス(1583-1645)
国際法の父と呼ばれるオランダの法学者
ミヒール・ファン・ミーレフェルト 画 1608

トマスの正戦論

トマスがアウグスティヌスの「正戦論」を中世において体系化した思想家であるというのは通説となっていると言われる。戦争には正当な戦争と不正な戦争があるとしたトマスの正戦論には、二段階あり、「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」である。この正戦に関する教説は、カトリックの正統論として継承され16,17世紀のスペインの神学者ビトリアスとスアレスによって展開されて、キリスト教正戦論は一つの画期を迎えたという。この理論を神学から解放して世俗化し、近代主権国家のシステムに対応させた人が、「国際法の父」グロティウスであった。

さて、トマスがこの戦争をどのように考え、どのように分類したのかを探ってみたい。『神学大全 第二の二部 第40問題』は「戦争について」述べられている。

第一 ある戦争は許されうるか。
第二 聖職者が戦争するのは許されうるか。
第三 戦争する者が策略を使うのは許されうるか。
第四 祝日に戦争するのは許されうるか。

第一項は、「戦争は常に罪であるのか」という問題に集約される。戦争が正しいものであるための要点は、三つに絞られる。「その人の命令によって戦争が遂行されるところの、君主の権威」、「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」、「戦争する人々の意図の正しさ」が、正戦であるために必要とされる。因みに「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」に関して、トマスはアウグスティヌスのこの言葉を引いている。「正しい戦争とは不正を罰するところのものと定義されるのが普通である。すなわち、民族や国が、その成員によって不正になされたことを糺すのを怠ったり、不正に横領したものを返却するのを怠ったりして罰せられるべきであるときに、その不正を罰するのである(『問題集/モーセの七書について――ヨシュア記』)。」

第二項、「聖職者が戦争するのは許されうるか」については、こう述べられている。聖職者は、神に関わる諸々の事柄を観照し、神を賛美し、人々のために祈るのが仕事であるという一般的な理由、聖職位は祭壇の務めのために任ぜられるのであって殺すことや血を流出させることは相応しくないという特殊な理由によって、聖職者による戦争の遂行は全面的に許されない。

主に第一項によって「戦争に至る正義(法)」が説明される。すなわち、君主の権威、正当な理由(原因)、意図の正しさが満たされなければ、その戦争は正しくないのである。次は「戦争における正義(法)」という問題に移るが、これは、第三、四項で説明される。

第三項 「戦争する者が策略を使うのは許されうるか。」 策略には①「虚偽の語りと約束の不履行」があるが、これは敵同士の間にあっても守られるべきある種の戦時法規と協力条約があるのだから許されない。②「企みや考えの不開示」は、敵を攻略するための諸々の計画であり、欺瞞でも不正義でもないとしている。

第四項 「祝日に戦争するのは許されうるか。」 国家の安全は、一人の人間の身体のそれよりも一層保全されるべきもので、それによって多くの人の殺害や、地上的、霊的な悪が阻止される。それゆえ信者たちも国家を守るためには、必要なら祝日に正しい戦争をすることは許されるとしている。

ヨハンネス・グラティアヌス
(1100?-1150?)12世紀ボローニャの法学者
『教令集』の中世手写本

「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」二段階の理論構成は、12世紀の教会法の法典であるグラティアヌスの『教令集』に沿って構想されているといわれる。そして、トマスが、ここで権威として引用する神学者はアウグスティヌスただ一人である。

しかし、例えば「悪人に逆らうな(「マタイによる福音書」)、「愛する者たちよ、汝ら復讐すな、ただ神の怒りに任せよ(「ローマの信徒への手紙」)といった例を引いて、「戦争はつねに罪である」という異論を述べ、その反論として、それは常に心の準備として把持されるべきものであって、時として、共通的な善のためや、戦っている相手の善のためにも、それとは異なった行動をしなくてはならないと述べるのである。ここでも、アリストテレスの影響が見られることを柴田さんは指摘している。

 

異教徒への寛容

もう一つ筆者が指摘していることがある。それは、トマスには聖戦の観念がないことである。彼の時代が。第6回から第8回という三度にわたる十字軍を体験していることを考えると意外だと筆者は言うのだ。「いまだ受け入れていない信仰に反抗する者よりも、受け入れた信仰に反抗する者のほうが、信仰に対してより重い罪を犯すことになる」とトマスはのべるのだった(『神学大全 第二の二部 第10問題』)。彼は、教会がユダヤ人や異教徒たちの祭儀でさえ容認すべきだという立場をとっている。おそらく、これはトマスが、10代の頃にアラブ文化を盛んに取り入れていたナポリの大学で学んだことが影響しているのではないだろうか。彼が広い視野を持っていたことが、このことからも窺える。

 

トマスが置かれていた状況

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

彼の生きた13世紀は、近代的で大規模な戦争は勃発してはいなかったが、都市国家間での争い、君主国、公国などでの世俗権力間での紛争、スペイン人の対ムーア人戦争、度重なる十字軍、対モンゴル戦争、そして、神性ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝の崩壊とナポリにおけるシャルル・ダンジューの制覇と言った事柄が続出していた。そして、トマスのアクィノ家はナポリの近郊において、ナポリ・シチリア王国とローマ教皇領との狭間にあって危うい選択を迫られ続けた。長兄も次兄も皇帝フリードリッヒ二世の側についていたが、長兄はキプロス王フーゴの家臣によって捕虜となり、教皇グレゴリウス九世の介入によって解放され、以後、教皇側についた。次兄は、教皇インノケンティウス四世が皇帝を廃位すると教皇側につき、やがて皇帝暗殺の嫌疑をかけられて処刑される。

トマス自身は教権と俗権を巡る争いに対して穏健で中庸な態度を取っていたといわれるが、曖昧にしていたのかもしれない。このような家族の状況を見る時、トマスの心情も、また察せられるのである。彼は、これらの両権力にたいして距離を取り、自身は一切の顕職や地位を拒否したと言われる。『神学大全』は、このようなトマスの家族の状況と歴史的な背景の中で書かれた。そこには生々しい心の傷があった。トマスは戦争の問題を、人間存在そのものを根元的に問う倫理的、道徳的問題としていたのであって、けっして正義・不正義の問題を社会的な規範や外面的なルールに求めていた分けではないと柴田さんは言う。この思考の枠組みは近代の法学的発想と方法の基にはなったが、それを目指していた分けではなかったのである

 

黄昏に飛び立つミネルヴァの梟


梟を抱えたミルネヴァ ルーブル美術館
西暦2世紀と18世紀と二度に亘り復元された。

時代が傾く時、知のミネルヴァの愛鳥である梟が飛び立つとヘーゲルは述べた (『法の哲学』序文)。ちょうど、ギリシアのポリス世界が崩壊しようとした黄昏の時期に万学の祖と言われたアリストテレスが登場した。彼にこそ、このヘーゲルの言葉は相応しいと柴田さんは言う。そして、中世世界が徐々に傾斜していく中で、アリストテレスから自然主義的政治学の哲学を学び、それをキリスト教教義と調和させ、この世の自然的秩序の正当化を図ったトマスこそ、アリストテレス以上にこの形容に相応しいのではないかとも言うのである。彼もまた、中世世界の全構造を、思想のゴシック建築と比喩される壮大な『神学大全』の中に網羅しようとしたからである。

柴田さんは、本書の最後のあたりで、このように述べる。それまで、中世の人々の心を呪縛してきたアウグスティヌスのキリスト教的人間観と政治観をアリストテレスの思想を基に克服したのがトマスの思想であった。それは新たな中世のパラダイムだったのだが、その論は、やがて、近代のトマス・ホッブスによって全面的、根底的に否定される。ホッブスの人間とは、一切の歴史的、社会的文脈から切り離された「原子論的個人」であったという。そうした孤立した人間にとって「人間は人間に対して狼」だった。「万人の万人に対する戦い」から脱出するために相互の社会契約を取り交わし、強大な国家の形成を目指すことへと舵を切ったと。

アリストテレスが述べ、トマスが信奉した「より善く生きる」ためのロゴスを媒介とした「共通善」と言ったものが、現在では、もはや画餅と化したかに思える。それでも、「善く生きる」とはどういうことなのか人は問わざるを得ない。ここで、人間が社会的動物であるという前提には、「言葉の理解」があることが思い出されよう。理性の光としての「言葉」こそ「善と悪、正と不正を知覚できる能力である」というアリストテレスの思想をトマスが受け入れたことを考える時、ミネルヴァの梟のもたらす知とは何であったかが想像できる。しかし、さきほどの正戦論の中で著者は、ハンナ・アーレントのこの言葉を思い出すと述べている。

暴力自身は言葉を発する能力を持たないということであって、ただたんに、暴力に立ち向かう言葉は無力であるということだけではない。この言葉を発する能力を持たないという性格ゆえに、政治理論は暴力現象について何もいうことがなく議論をその道の専門家に委ねなければならないのである (『革命について』序章 志水速雄 訳)。

 

前回、ご紹介したヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』の続きは長くなりそうなので、別途、ご紹介する予定です。お楽しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

アリストテレス全集17 政治学 家政学
岩波書店  2018年刊

トマス・アクィナス『神学大全』17
第二の二部 第40問題「戦争について」収載
創文社 1997

ハンナ・アーレント『革命について』
社会主義や共産主義といったイデオロギーは死に絶え、残ったのは戦争と革命であり、その中で人が望むものは暴政に対する自由だという。

 

 

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part1 スンマに殉じた黙り牛

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

トマス・アクィナス (1225頃-1274) は、神学・哲学の巨大な総合体系を打ち立てたことであまりに有名だった。そのイメージは、いかにも痩身痩躯の学者肌の人と思われがちだけれど、肥満ぎみで、かなり巨体であったらしい。大きくて重い牛のような人物であったというから不思議だ。悠然としていて、穏やかで物静か、聖なる謙虚とは別に内気で、快活だったが社交的というわけにはいかなかった。時々訪れるけれども秘めていた脱魂・恍惚状態とは関係なくボンヤリしていたという。これに対して聖フランチェスコは、火のような人間で、せかせかし、突然姿を現すと、そこにいた聖職者たちは、皆、彼を狂人だと訝ったという。

トマスは、規則正しく授業に出席したが、とてもノロマだったので、学校の生徒たちは彼のことをうす馬鹿だと考えていたらしい。イギリスの作家であるギルバート・キース・チェスタトン (1874-1936) のトマス伝は、なかでもエピソードに溢れているものらしいけれど、トマスは「歩く酒樽」であって、その食卓は彼が坐れるように半月形に切り抜かれていたという。本書の著者は、こう付け加える。情熱的で詩を愛しながら、書物にあまり信用を置かなかった聖フランチェスコとは対照的に、彼は書物を愛し、書物によって生き、この世の与えるどんな富よりもアリストテレスとその哲学に関する百冊の書物の方を選んだ。神に対して何を感謝するかと問われて、彼はただ、「今まで読んだ書物のすべての頁を理解できたことです」と答えた。著者はこのように紹介するのである。これは、素晴らしい。

『トマス・アクィナス』
ヨース・ファン・ワッセンホフ画 1475

アウグスティヌス以来、長らく貶められていた自然世界の復権>、いいかえれば超自然的秩序から自然的秩序を相対的に自立させることをトマスは図ったと著者は言う。理性的被造物である人間の織りなす社会的、政治的営みが展開される位相とは、まさにこの自然的秩序=自然的世界においてだが、彼は政治や国家についてあるべきイメージをそこに、どう描いたのか、それを考察するのが本書の主題であるという。

今回は、この柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』を二回に分けて、ご紹介したいと思っている。何よりも本書の前半は、トマスの生涯や思想に関して、よく纏められた、極めて充実した内容が紹介されていて、僕には、とてもありがたかったからである。というのも、トマスの著作の多くは、聖職者や信者さんが書いたものが多く、やはり、信仰には<信>というものが前提にあるから、僕のような不信心者には相応しかろうはずもなく、内容も<知恵の探求>や<神の愛といった、いわば宗教的な核心を為すものがほとんで、ハードルが高すぎたということがあった。そういう意味でトマスの政治理念といった、いわば現世の問題を扱う本書は珍しいと言える。

著者の柴田平三郎 (しばた へいざぶろう) さんは、1946年生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科、並びに同大学院法学研究科博士課程を修了された。法学博士で、中世政治思想史の研究で知られる。千葉商科大学や獨協大学で教鞭を執られ、獨協大学名誉教授でいらっしゃる。著書に『アウグスティヌスの政治思想』『中世の春――ソールズベリのジョンの思想世界』がある。この『中世の春』は薔薇物語の所で少しご紹介しておいた。訳書にJ.B.モラル『中世の政治思想』A.P.ダンドレーヴ『政治思想への中世の貢献』R.M.ハッチンス『聖トマス・アクィナスと世界国家』などがある。

 

トマスの生涯 


 

トマスは、1225年頃、ローマとナポリの中間にある都市アクィノ近郊のロッカ・セッカの城塞で生まれている。アクィナスの名前はこのアクィノに由来する。父は、そこの領主で、母はナポリ出身の貴婦人だった。男女合わせて9人とも12人とも言われる兄弟の末っ子だった。当時の貴族は子弟の教育を修道院で受けさせるのが慣習になっていたし、末の子は将来聖職者にと望まれたのであろう。ロッカ・セッカ近郊のモンテ・カッシーノ大修道院に修道志願児童として送られることになる。5歳のときである。このベネディクト会の大修道院の院長は、父の遠縁にあたるランドルフォ・シニバルドだった。

トマスがどのような少年時代を過ごしたかはよく分かっていない。伝記作者グイのベルナルドゥスによれば、無駄なおしゃべりを避け、孤独を好み、周りの子よりも早熟な態度を見せた。口数は少ないが、物思うことの多く、生真面目で黙想に専念していたという。ベネディクト会という観想修道会における濃厚な宗教的雰囲気の中で10年近く過ごしたことは大きな意味があったようだ。それに、この修道院は西ローマ崩壊以降、壊滅状態といってよかった古典の文化遺産を守り抜いていた唯一の場所だといわれている。

しかし、この地はもともと神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世が国王を兼務したナポリ・シチリア王国とローマ教皇領の接する地域で、その対立が激化すると、フリードリッヒ二世は派兵、占領し、他国出身の全ての聖職者を追放した。トマスはというとナポリの大学に入学することになる。1239年、14歳の時のことだったこの大学はフリードリッヒ二世によって設立された官僚養成のための最初の実学的大学といわれている。特筆すべきは、アヴェロエスやアヴィセンナの注釈のついたアリストテレスの著作が、盛んに翻訳されていたことだった。これは、再三に亘ってアリストテレス研究の禁令を受けたパリ大学と対照的だった。

フリードリッヒ二世は、ヤーコプ・ブルクハルトによって「王座に位した最初の近代的人間」と言われた人物で、4歳にしてシチリア王となり、フランス王フィリップ二世の支持によってローマ王となり、26歳頃に皇帝の座についた。中世の教皇庁が出会う最強の敵となった彼は、帝国の中心部をドイツからイタリアに移そうとしていた。古代ローマ礼賛の勢いはシチリアに及び、アラブ文化の愛好は周りの国々には異様に感じられたという。

第6回十字軍の中のフリードリッヒ二世
真中の赤いマントの人物 ドイツ、ヴァルトブルク城内のモザイク壁画

彼が没したのは1250年で、トマスが25歳の時だった。それは、ドイツに皇帝が不在となる大空位時代(1256-1273)をもたらした。この時期がトマスの後半生と重なるのである。教皇と皇帝との二中心の楕円的世界であり、中世が緩慢なカーヴを描いて解体へと向かう時期だった。この二つの権力構造は、イタリアをゲルフ党 (教皇派) とギベリン党 (皇帝派) という二つの勢力に分断する。この軋轢の中で陰謀に巻き込まれるのがダンテ (1265-1321) だった。

この後、19歳でドミニコ会に入会し、ケルン大学での修業時代(1248-52)となる。師アルベルトゥス・マグヌスのもとで本格的な神学の勉強を開始するのである。この時期に学友たちから<黙り牛>のニックネームがつけられた。しかし、師は、こう語ったという。「われわれは、この若者を黙り牛などと呼んでいるが、諸君に言っておく、やがて世界は彼の鳴き声で満たされるだろう。(トッコのグイレルムス『聖トマス・アクィナスの生涯』柴田平三郎 訳)。」

やがてパリ大学で教鞭を執った後、イタリアに戻り、オルヴィエト、ローマ、ヴィテルボなどに滞在し、パリに帰還、再びイタリアに戻ってフィレンツェ、ナポリで過ごし、フランスのリヨンで開かれる公会議に出席する旅の途中、生まれ故郷に近いフォッサノーヴァの修道院で亡くなっている。49歳だった。

 

トマスの時間


フリードリヒ・へ―アは、20世紀のウィーンに生まれ、カトリックの進歩的ジャーナリストだったが、歴史に対する独自の想いがあったという。それが、彼の『ヨーロッパ精神史』だった。オーストリア人であるアドルフ・ヒトラーの手先と闘う中で成長したという彼は、「ヨーロッパとは千年以上にもわたる一つの内乱」であると述べ、「新しい文明は、一切の人種、一切の文明が紛糾する只中で響く和音の中でしか、生きることができない」と述べたという。

この『ヨーロッパ精神史の八章には、13世紀の精神史を「トマスの時間」として、こう述べている。「フリードリッヒ二世がつくった最初の学校のあるナポリが、アヴェロエス主義から、次の世紀に『新プラトン主義的汎神論の影響下にあり、シチリア王シャルル・ダンジュールの支配となるまでの間に、トマス・アクィナスの生涯が横たわる。トマスの仕事は次のいくつかのことを前提としている。すなわち、<神聖ローマ帝国の皇帝に対するゲルフ党の教皇権の勝利、『啓蒙主義的な地中海君主の台頭、予言的な精神主義の衰え、乞食修道会同士の争いである。新しくできた大学はイスラム諸侯の宮廷で行われていた論争や対話の習慣を相続して、パリ大学は互いに非常に異なったキリスト教、汎神論、無神論、<自由思想>の学説と人物の対決する場所となった(『ヨーロッパ精神史』小山宙丸、小西邦雄 訳)。」これには、いくつかの解説が必要だ。

 

修辞から論理へ――スコラ主義

ヨハン・ホイジンガは、12世紀の知識人の言語・思想を羽ばたかせていた自由の世界は終り、スコラ学の領域に閉じこめられ、三段論法に縛られ、ドグマ的公式に立つ哲学的見解に押し込められる時代がやって来るという。しかし、まだ初期の頃は、ボナヴェントゥラやトマスの確固たる不動の体系には閉じこめられておらず、世界の姿、生活と精神の形式は、まだゴシック様式の中に結晶してはいなかったという文法重視の古典の味読と言語表現に心を砕く12世紀の人文主義とは決定的に異なる13世紀のスコラ学の精神、それを説明する場合、「三段論法」「ドグマ的公式に成り立つ哲学的見解」「不動の体系」といった言葉で特徴づけられ、マイナスのイメージを漂わせるものが多かった。

一方で、イギリスの中世史家、リチャード・ウイリアム・サザーンは、司教座聖堂付属学校で営まれていた文法と修辞学を柱とする12世紀の古典研究は、13世紀に入って新しい都市文化の中で活動する人々の関心を失い、新しい状況に応じる新たな知の場所である大学での論理と実証に重点を置く論理学研究が時代の主流になっていったという。それは、「修辞から論理へ」という言葉で表現される。アウグスティヌスの修辞学については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1 記号の発生と象徴=交換能力に書いておいた。

イエズス会のクラウス・リーゼンフーバー神父は、人間に対する尊厳、自然の秩序、理性の力といったものに対する価値の高まりを受けて、11世紀の後半以降に古典ラテン語文学の精神的価値が、次いで12世紀後半から13世紀半ばにかけてアリストテレスといった古代哲学の新たな意義が、見いだされるようになり、神学的<権威>と並んで哲学的な<理性>がクローズアップされるようになるという。ここで、神学は、内的な知恵の欲求よりも言葉によって伝達可能で論証上説得力のある知への欲求に駆り立てられようになるというのである。

 

パリ大学

『小鳥に説法する聖フランチェスコ』
ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃-1337)画

先ほどのへ―アによれば、西方<自由世界>の教皇、諸侯らによる都市国家間の争いや大学管理者、教授、学生、市民間の中の絶えざる争いの中、大学は宮廷世界や知識階級における討論を引き受ける形で成立する。修道院学校、司教座聖堂学校が寄り集まってパリ大学はできた。人文学部、法学部、医学部、および神学部よりなり、中でもその中枢は<教区>司祭からなる教授団だった。そこは、パリ司教、教会、王侯、教皇庁のパリ機関といった諸力のせめぎ合いの場となる。

宗教的な新たな息吹を求める者は、乞食 (こつじき) 修道会に向かい、世俗的に心を動かす者は、法律研究に向かい、知識人たちは、人文学部に急いだという。1252年、このパリ大学に新たな修道会たる乞食修道会、すなわち、ドミニコ会やフランシスコ会の会士たちがやって来る。この年から乞食修道会と大学とは数十年に亘る争いを続けることになる。

かれら修道会士は、修道会長の命には従うが、大学の決定には従わなかった。つまり、大学という団体には何ら寄与しないまま、在俗教師の職と学生とを奪うことになるのである。このパリ大学にトマスがやって来たのは、この1252年という年だった。すぐ後に大学とパリ市当局の間で、司法権をめぐって争いが起こり、大学側はストライキに入ったが、その最中にトマスは、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の講義を行うといういわば、「スト破り」決行することになるのである。

ドミニコ会

『聖ドメニコ』
ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃-15126)画

乞食 (こつじき) 修道会は別名、托鉢修道会ともいう。13世紀初頭に中世初期からの既成の修道会の世俗化、富裕化に対する批判の中から生まれた。ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスティヌス会、カルメル会が知られている。

トマスはこのドミニコ会に入会するのだが、ベネディクト会の修道院長を親戚に持つ家族は猛反対し、入会を翻意させようとするが果たせず、ついに、最後の手に出る。トマスの部屋に美少女を送り込んで、彼を誘惑させようとするのだが、暖炉の燃えさしを振り回して部屋から彼女を追い出し、その燃えさしで壁に十字を描いたという逸話が残っている。

トマスの師であったアルベルトゥス・マグヌスもドミニコ会士で、アリストテレス受容に積極的であったし、錬金術師としても知られ、自動人形を作ったとされる興味深い人物である。トマスの死後、彼に異端容疑が、かけられた時にはケルンからパリまで出向いて弟子を擁護したという人だった。

上智大学で教鞭を執ったペトロ・ネメシェギ神父は、13世紀がトマスに影響を与えた三つの大きな要素についてこう述べている。12世紀からの経済的発展や生活様式の変化という社会的な要因、アリストテレス主義の流入と受容、そして、福音的信仰の復活の三つである。人々は従来の教会における権威主義的な教職制度に安住しなくなり、俗世から離れた修道者の修道態度にも好意を持たなくなる。そんな時、アッシジの聖フランチェスコや聖ドメニコの貧しい者たちの中で小さな兄弟として共にキリストの福音を生きるという姿は共感をもって迎えられるのである。

 

アリストテレス哲学の受容

イブン・ルシュド(1126-1198/アヴェロエス)
ラファエロの『アテネの学堂』に描かれた中央の人物

アリストテレス哲学の受容という問題に関して、フランシスコ会は頑なに保守的だったが、逆にパリ大学内の人文学部には、ブラバンのシゲリウスやダキアのボエティウスといった過激なアリストテレス主義者たちがいた。いわゆるラテン・アヴェロエス派といわれる人たちだ。彼らは、既存の教会から危険視されていた。

イブン・ルシュド、通称アヴェロエスはアラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの研究者として知られる人だった。このラテン・アヴェロエス派にたいしては度重なる禁令がだされ、ついに、パリ司教からの断罪が行われる。トマスがパリ大学に赴任して2年目のことだった。彼は、アリストテレスの原理を真なるものとして、真なるものであるが故に有用だと考えた。そのため、教会からも不信の目で見られ、一方で、大学内でもフランシスコ会からも危険視されることになる。筆者の柴田さんは、トミズムが13世紀中世におけるカトリック教会の唯一の正統的体系として見るのは誤りだと強調している。

一般に、13世紀後半以降のアリストテレスの影響が思想的な変革をもたらし、中世と近代との分水嶺になったと言われている。この<13世紀アリストテレス革命>は、アリストテレスの『政治学』の再発見にあり、その最大の功労者がトマスであるとされてきた。しかし、実際には12世紀に「もう一つのアリストテレス受容」といったものがあったと著者は言う。それは、キケロの影響による「政治的自然主義」と言うべきもので、相当な素地ができていたのである。ちなみに、悪寓の世界にいたアウグスティヌス(354-430)初めて知の輝きを知ったは、キケロの書によってであった。ゲインズ・ポウストは、『中世法思想の研究』で、12世紀ルネサンスにおいて、復活したローマ法の影響を受けた前期教会法学者デクレティスト、そして、カルキディウ、セネカ、キケロ、ウェルギリウスら古典作家たちの著作を通して、独特の自然理解を示したシャルトル学派のソールズベリのジョンやフランスで活躍したリールのアラヌスの中に「社会的、政治的自然主義」の展開を見出している。

中世史家マルティン・グラープマンは、トマスがアリストテレスを独自に研究し、アウグスティヌスと初期スコラ学によって科学的に叙述されたキリスト教的世界観と有機的に結合し、適度に修正されたアリストテレス哲学の方法と形式を借り、しかも教会的神学的伝統の体系を少しも離れることなく。哲学・思弁的神学の建設に一種のキリスト教的アリストテレス主義を創造したという。

 

トマスの神学大全


マリー=ドミニック・シュヌー(1895-1990)
フランス生まれのローマ・カトリックの神学者、改革派雑誌『コンシリウム』の創刊者の一人。

大全/スンマの来歴

神学大全とは「スンマ・テオロギアエ」の訳である。<テオロギア>は神学、<スンマ>には、「全 () 体」「要点」「頂上」「最高の地位」などの意味がある。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、「この言葉を創りだした12世紀の学校用語では、<スンマ>は、キリスト教教義の真理を提示することを目的とする<諸命題>(ないし何らかの一群の教義)の、簡単明瞭で総合的で完全なる資料集であるとしている。

しかし、トマス自身は神学という言葉は使わず『聖なる教え sacra doctina』というタイトルをつけている。

シュヌーによれば、サン=ヴィクトルのフーゴ―のものと見なされてきた有名な集成が、この意味における『諸命題のスンマ』であったという。中世フランスの神学者で唯名論の創始者として知られるピエール・アベラール (1079-1142) は、『神学への誘い』の中で、「三つの人間の救済の<要約 sunmma>として信仰、慈愛、秘蹟」を挙げている。12世紀の間に<スンマ>は、単なる語句の集成にすぎない「命題集」「詞華集」ではなくなり、学問の諸領域における主要な著述形式となって13世紀に引き継がれたという。

ススのヘンドリクスの『法のスンマ』、ロバート・グロステストの『哲学のスンマ』、ギョーム・ペローの『諸徳のスンマ』といったように知識や学問諸領域全般にわたって「簡潔明瞭な総合化」が求められるようになる。諸学のカタログ化が始まるのである。13世紀における最初の偉大な作品が、フランシスコ会士アレクサンデル・ハレンシスの『神学のスンマ』である。それはアリストテレス哲学導入以前の神学大全であった。

 

神学大全/聖なる教え

トマスが『神学大全』に着手するのは、一回目のパリ大学神学部における教授活動を終え、イタリア各地で教えていた時期にあたる。これが第一部開始時期である。パリ大学では、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』がテキストとして多く使われたが、無益な問題や論議の重複が多く、学問的な秩序もなく、同じ事柄の反復が多くて学生の倦怠や混乱の基になっていた。それを改めようとしたのである。全体の構造は、(一)神論(二)人間論 (三)キリスト論となっていて、それぞれのテーマは、以下のようになっている。

(一)神論/神自身と神からの万物の発出
(二)人間論/万物の中の理性的被造物としての人間が神へと帰還していく運動
(三)キリスト論/神のもとへと帰還していく道であるキリスト

論の進め方は、幾つかの権威の提示としての ①異論、それに対する他の権威の提示 ②反対異論、両者の調和的解決 ③主文、異論に対する個別的な批判 ④異論解答となっている。これは、スコラ学の講義形式に沿ったものだと著者は指摘している。

神学大全』の第一問題は、以下のように十項からなっているが、今は、論の進め方の例として第一項のみを柴田さんの解説から見てみる。

第一問題(全十項)
聖教について――それはどのような性質のものであるか、またその及ぶところの如何。

一 この教えの必要について
二 それは学であるか
三 それは単一な学か、それとも幾つかの学か
四 それは観照の学であるか、それとも実践の学であるか
五 その他の諸学との比較について
六 それは智慧であるか
七 それの主観はなにか
八 れは論議を行う性質のものか
九 比喩的乃至は象徴的語りかたの可否について
十 この教えの基づく聖書は、幾つかの意味に従って解釈さるべきであるか
(高田三郎訳)

第一項「この教えの必要について」の論の進め方は、このようになっている。

トマス・アクィナス『神学大全』

異論、「汝より高きものを尋ねるな」「真と有とは置換される」‥‥人間は、理性を超える事柄について探求すべきでない。理性に属する事柄は、既に哲学的学問において十分伝えられている。真と有とは置換されるというスコラ的原理に基づき有 (存在するもの) についての教えは哲学的諸学問の中に含まれる。アリストテレスの言うように哲学の一部門として「神学」が既に存在する。

反対異論、「聖書は全て神感によるものであって、教え、戒め、矯正し、義に導くために有用である」‥‥神感による書は、人間理性によって発見された哲学的諸学問には属さない。従って、哲学的諸学のほかに別個の学は有用である。

主文、‥‥「人間救済のためには、人間理性をもって探求されるところの哲学的諸学問の他に、なお神の啓示によって知らされることが必要であった」その理由として人間は神を目的として神に向かって秩序づけられている。そして、神についての人間理性によって追求することがらも人間は神の啓示をうける必要があった。

異論解答‥‥異論で述べられた二つの説を再度論じ、「人間の認識能力を超える所での理性の探求は間違っている」「認識の対象を構成する観点が異なれば学の性格も異なる。同じ結論〈地球は丸い〉を論証するにも天文学と自然学では方法が異なる。」‥‥それゆえ、聖教に属する所の「神学」は哲学の一部門とされる所のかの「神学」とは類を異にする。

このような論証のされ方がなされていた。トマスは、理性の能力、その探求と認識の領域を認めながらも、理性を超えた神の啓示を信仰によって認識する神学の必要性をのべている。「哲学は神学の婢女」なのである。『神学大全』全体の構成は巻末に記載しておきます。

 

トマスの構造


パリのノートルダム大聖堂
トマスはパリのシテ島の建築現場を見ていたという。1255年に完成した大聖堂だが、最初に師のマグヌスとパリに来たのは1245年である。

以前にも今道友信さんの『ダンテ神曲講義』の煉獄篇でパノフスキーの著作からご紹介したことがあるけれども、ゴシック建築とスコラ学の間には、構造的に相似性がある。「その構造的特徴とは、その骨格における二つの相反する要素、上下の柱の間の垂直的連続性と内部の壁面の水平的方向性との葛藤と対立が実に見事に調和総合されている点にあり、この調和と総合の構造は盛期スコラ学のスンマ(大全)と対応している」と柴田さんは言う。

中世初期のスコラ学は、実在(念)論と唯名論という二つの説が存在していた。それらについては、ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』タルドの波動/ドゥルーズとラトゥールに少し触れておいた。実在論は個物を超えた種や類と言った概念がモノとして存在するという説で、唯名論は、実在するのは個々のものだけだと考える。当初は実在論が正統とされていた。その理由の一つはプラトンのイデア論の影響で、それは、ちょうど教会が、個々の信徒の集合ではなく、個々の地方教会の総合体でもなく、それらを大きく超えた普遍的な実在機構であるとの考えと一致していた。それは、個々の被造物が理想としてのイデアの何等かを分有しているという考えとパラレルだった。これは、プラトン的垂直性と言えるだろう。

「普遍的なものが、ただ精神の中にのみ存在するのか、現実の中にも存在するのか、もし、現実として存在するなら、物体としてなのか、非物体としてなのか、さらに非物体としてであるとするなら、それらは個々の物体から切り離された形で存在するのか (プラトン説)、あるいは個々の実体の内に存在する (アリストテレス説) のか」と著者は問う。

これについてトマスは、『神学大全』の中で、「世界の創造性というものは、まず、世界そのものの側から論証をうけとることができない。けだし、論証の出発点はものの『何たるかにある。しかるに、いかなるものも各自の種的特質におけるかぎり『ここ・いまを捨像しているのであって、『普遍はどこにも、また常にある』といわれるのもこうした意味にほかならない。だからして、人間にせよ、石にせよ、それがつねに存在していたものではないということは、論証されることのできない事柄なのである――(柴田平三郎 訳)。」トマスは、個々の事物から知性の抽象化を経て普遍は存在するという立場をとっている。ここで、水平性が垂直性と統合される。

とりあえず前半のpart1スンマに殉じた黙り牛を終了します。後半 part2 は、トマスの政治思想をご紹介する予定です。ここからは、僕がずっと気になっていたトマスの存在論をハイデッガーの高弟であり、自身も神学者であるヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』から少しご紹介しましょう。

 

付 トマスの存在論


ヨハネス・ロッツ (1903-1992)
『ハイデガーとトマス・アクィナス』

ロッツは、ヘラクレイトスが、人間の二面性について語っていることを紹介する。人間は自らの内奥でロゴスと一つでありながら、不可解にもロゴスから離反し、不幸な分裂に陥っている。この分裂が、生涯に亘る人間の行動、すなわちモノとの交わり、他者との交流、自分との交流を特徴づけている。人間は現にありながらも現に存在しないというのである。

ハイデッガーは、このヘラクレイトスの言うロゴスが、あらゆるものの根拠としての<存在>に類似しているという。ハイデッガーの根本問題は<存在>を目指していた。この問題は<存在>の意味、<存在>が最も内的に何を言わんとしているかを目指している。それが、ハイデッガーにとって究極の根源だった。人間は分離された主観性ではなく、世界と関わっていて、いわば世界にさしこまれている。それ故、人間は<世界内存在>と言える。「人間は様々な存在者に囚われているので、存在者において間断なく存在が輝き出ているにもかかわらず、その一なる存在を考慮することなく忘却し、ついに否定してしまう」のである。

ここで、ロッツは問う。<存在>と神とは関係があるのかと。そして、彼はハイデッガーの思想が無神論でも有神論でもないと答える。ただ、思惟の道は存在から聖なるものへ、聖なるものから神性へ、神性から「<神>という語で名づけられるべきもの(『ヒューマニズムに関する書簡』)」へと続いているという。道は<存在>からなおも先に示された諸段階を通って、やっと神へと至る。だから、<存在>を端的に神と同定することはできないとしている。

トマスにとって<存在>は人間の生において人間が第一に認識するものであり、それは常に最も知られるものである。人間が把握する全てのものは<存在の了解がいつも含まれている。この「存在の開け」、あるいは人間に分与されている<存在への適合は、人間の生全体を動かしている最も内的な力であるとロッツはいう。この探求への挑戦、これが、稲垣良典さんが『神学大全』を「挑戦の書」と呼ぶ理由である。そして、「神が存在するということの認識は本性的に我々に植えつけられている」とトマスが言う時、ハイデッガーの言う「存在者において間断なく存在が輝き出ている」という言葉をパラレルに思い出させるのである。

しかし、<存在>から神へは、なお隔たりがある。世界との関わりの中で人間は、本来的な自己を失い、他者の支配のもとにある。このことによって<存在>はかき消され、存在者は深淵に向かって転落するという。しかし、ハイデッガーが愛した詩人ヘルダーリンの言うように「されど危険の存するところ、おのずと救うものも生い育つ(『パトモス』村上喜良 訳)」とロッツは言うのである。続きは、またの機会に‥‥

 

 

付 『神学大全』 全構成


第一部
第一冊   第  1-13   問題    神の存在と本質について
第二冊   第 14-26  問題    神の生、認識ならびに意志について
第三冊   第 27-43  問題    三位一体について
第四冊   第 44-64  問題    創造について、天使について
第五冊   第 65-74  問題    物体的被造物の創造について
第六冊   第 75-89  問題    人間の本質と能力について
第七冊   第 90-102問題    人間の創造ならびに人間の最初の状態について
第八冊   第103-119問題   神の世界統宰について

第二の一部
第九冊   第   1-21  問題   人間の目的と行為について
第十冊   第 22-48  問題   情念について
第十一冊  第 49-70  問題   能力態について、徳について
第十二冊  第 71-89  問題   悪徳と罪について
第十三冊  第 90-105問題   法について――旧法について
第十四冊  第106-114問題    新法について、恩寵について
第二の二部
第十五冊  第  1-16   問題   信仰について
第十六冊  第 17-33  問題   希望について、愛について
第十七冊  第 34-56  問題   愛について(続)、思慮について
第十八冊  第 57-79  問題   正義について
第十九冊  第 80-100問題   正義につながる諸徳について
第二十冊  第101-122問題         同
第二十一冊 第123-150問題  勇気について、節制について
第二十二冊 第151-170問題  節制について(続)
第二十三冊 第171-182問題  預言の特別の恩寵について、観照的生活と実践的生活について
第二十四冊 第183-189問題  職務と身分の分化について

第三部
第二十五冊 第  1-15   問題    托身について
第二十六冊 第 16-34  問題  キリスト並びに聖母について
第二十七冊 第 35-45  問題  キリストの生涯について
第二十八冊 第 46-59  問題  キリストの受難ならびに復活と昇天について
第二十九冊 第 60-72  問題  秘蹟について――洗礼と堅信の秘蹟について
第三十冊    第 73-83  問題  聖体の秘蹟について
第三十一冊 第 84-90  問題  改悛の秘蹟について
第三部 補遺 
同 冊       第   1-16 問題        同
第三十二冊 第 17-40 問題  終油と叙階の秘蹟について
第三十三冊 第 41-54 問題  婚姻の秘蹟について
第三十四冊 第 55-68 問題     同
第三十五冊 第 69-87 問題  肉の復活について
第三十六冊 第 88-99 問題  最後の審判について

1273年、聖ニコラウスの日のミサにおける啓示によって『神学大全』の執筆は突然中止され、弟子たちによって完成される。

 

 

参考図書 及び 引用文献

稲垣良典 トマス・アクィナス『神学大全』
『神学大全』の翻訳者の一人が語る知的挑戦としてのトマス学

山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の神学』
生に対するポジティブなヴィジョンとしてのトマス神学

 

エティエンヌ・ジルソン/フィロテウス・ベーナ『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』中世哲学の権威ジルソンとフランシスコ会研究で知られるベーナ―の共著

トマス・アクィナス『神学大全』第一冊
創文社 1960年刊

 

 

 

 

 

矢部良明『茶の湯の祖、珠光』 身の丈の茶とつるぎの植木

 

矢部良明『茶の湯の祖 珠光』

茶の湯の創始者は村田珠光だと言うと、え?、利休じゃないんですかと聞き返される。「茶の湯の開山は、珠光である」と利休は述べたというから間違いない。何故、一般に利休の方が有名で珠光はマイナーかというと、利休と秀吉の確執はあまりに有名であり、利休の切腹という悲劇に彩られるからで、珠光が知られていないのは、その記録が、ほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれているからです

「惣別 (そうべつ/おおよそ) 珠光いろゐたる事をさわる事、努努不可有 (ゆめゆめ あるべからず)。」珠光が携わったものに手をつけるなと利休は細川三斎に語った。

古田織部は、まだ初心の頃、かつて珠光が所有し、松屋久好が、その手許に持っていた徐熙 (じょき) が描いた鷺の絵を見てくるように利休に諭される。徐熙筆の鷺の絵を感得するなら天下の数寄を合点できるだろうと。もし、合点がいかないなら、己の数寄心が至らないからだと言われるのである。

利休以前は、紹鷗 (じょうおう) の事績が突出していて、珠光は既に過去の人になっていた。だが、慶長六年 (1601) の茶会で織部は、紹鷗の表具は悪く、利休がそれを改めてしまったとのべている。紹鷗は、その美学において侘び茶の伝統を継承してはいたけれど、侘び茶の四畳半茶席の床に唐物を一品飾って<書院の茶の湯風な味を加え、和歌の軸を掛けるなど新機軸を打ち出して絶大な人気を得ていた。

松花堂の露地 市中の隠としての茶室

しかし、若い利休には紹鷗の<一座建立が鼻に付きはじめる。もともと世阿弥が、演者と客席が一体となることを指した言葉だが、堺の茶の湯においては、所柄、話題が政治や商談と言った俗事に流れやすかった。それに反発した結果「本来、茶の湯は超俗でなければならない」と唱え、その精神においても草創期の茶の湯に帰ろうとした。その本尊として珠光に白羽の矢を立てたのではないかと見られている。

それで、今回は、利休が慕った珠光とその茶の湯がどのようなものであったのか、矢部良明 (やべ よしあき) の『茶の湯の祖、珠光』を縦軸に、山上宗二 (やまのうえ そうじ)『山上宗二記』、『茶道学体系二 茶道の歴史』、渡辺誠一『侘びの世界』、内藤湖南『支那絵画史』などの著作を交えて概観できればと思っている。珠光に関する著作は真に少ない。それは、利休やその弟子の山上宗二らの発言著作を通してしか窺い知ることしかできないからである。

矢部さんは、1943年神奈川県の大磯のお生まれ。東北大学文学部美術史科をご卒業。東京国立博物館陶磁課長を経て郡山市立美術館館長を務められた。陶器・磁器の専門家でいらっしゃる。工芸的な観点から、道具を通して見た茶の湯論は大変優れているように思う。著書に『染付と色絵磁器』『中国陶磁の八千年』『日本陶磁の一万二千年』『千利休の創意』『古田織部』『武野紹鷗 茶の湯と生涯』『日本陶磁大辞典』などがある

 

珠光の生い立ち


 

西山浄土宗 日輪山称名寺 千体石仏と茶室獨蘆庵で知られる。

村田珠光は1423(応永三十)年、奈良に生まれた。しゅこうと読むのが本来で、じゅこうは後の読み方のようだ。父は、杢市 (もくいち) という検校であったと言われる。何か複雑な生い立ちを思わせるが、記録は何も残っていない。童名を茂吉といった。奈良で、11歳の年に浄土宗の称名寺で出家することになる。幕末まで興福寺の末寺であったという寺である。海上人に師事し珠光という法名が授けられ可愛がられたという。称名寺の宝林庵に住んだが、結局、茶に道を求めて恐らく30歳前後に僧体のまま京都に出た。

京の三条近くの小庵に住まいしたと言われる。千利休の高弟であった山上宗二 (やまのうえ そうじ/1544-1590) が残した『山上宗二記』は、珠光の秘伝書「一紙目録」の紹介から始まる。それによると、ありきたりの遊びに飽きた足利義政の「何か珍しいものはないか」の問いに能阿弥が「楽道の上には御茶湯というものがあります」と答えた。30年の間、茶の湯へ身を投じ、名声を博してから奈良に住まいする珠光なる者がいて、一休禅師から宋代の圜悟克勤 (えんごこくごん) 禅師の一軸を与えられ、これを数寄の一つとして楽しむような者ですと述べた。それで珠光は召し上げられ、師匠に定められて、御一世の御楽しみは、この一興となったと伝える。

これは利休や宗二らの間で作られた逸話だろうと言われているが、珠光を茶の湯の祖としていること、将軍家に仕えた茶堂の祖であるとしていることは、注目されると熊倉功夫氏は述べている。この珠光の秘伝書「一紙目録」は、能阿弥に目聞きの大事など稽古の時の質問を日記にしたもので養嗣子の宗珠に伝えられたとされている。珠光が実際に能阿弥と交際があったことは間違いないと思われる(尊鎮法親王『親王日記』)。

 

侘び茶の前奏


 

『茶道学体系二 茶道の歴史』

歌人であり、禅僧であった正徹が『正徹物語』の中で茶飲みを三種類に分けている。茶道具、心の及ぶほど嗜 (たしな) み持ちたる「数寄者」。茶道具のことは言わないが、どこでも十服茶のような飲み比べをし、その所々の茶をよく飲み知っているような「茶飲み」。大茶碗に茶の良し悪しを言わず飲む「茶くらい」という分類である。

15世紀の山科家礼記などには公卿であった山科家への茶の贈答の記録が残っていて、公家の茶といえば正徹の言う「茶数寄」かと思うけれど、実は「茶飲み」も「茶くらい」もあったようなのである。この頃、山科家では茶の贈答は、かなり盛んであって、例えば無塩の鯛一懸けの返礼が茶十袋、生成りの荒巻鮭のお礼に古茶五袋を送ったなどの記載が見える。茶には無上、別儀 (べちぎ)、揃 (そそり) という等級があった。無上が最上の茶で、揃が一番低級ということになるが、茶所としては宇治が重視されていた。ちなみに、当時のお茶の形状は抹茶にする前の碾茶 (ひきちゃ) で数ミリ程度の大きさの乾燥させた茶葉だった。飲む前に碾茶を茶臼で挽いて抹茶にするのだが、挽いた状態で出荷するのは近代以降のことのようだ。(『茶道学体系二 茶道の歴史』より稲垣弘明「中世公家の茶」)

 

村田珠光が、侘び茶を創始した時代は室町後期にあたる。それ以前は、一体どんな茶が行われていたのだろうか。 この頃、いくつかの飲茶の形態があった。「会所」における室礼 (しつらい) の茶、禅宗寺院での茶礼、闘茶、そして、路傍での一服一銭の茶である。闘茶については一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃで少しご紹介しておいた。

上 茶の湯棚飾り『君台観左右帳記』より   下 台子

茶の湯は足利将軍家の唐物蒐集から始まると言われる。足利義満が、別荘の北山第に寝殿、舎利殿(金閣)、会所などを建てたが、その名残が鹿苑寺である。その会所は、一周できるように広縁がぐるりと巡らされていた接客の場であり、和歌、連歌、猿楽などの文芸・芸能の催される場所として独立して建てられた。室町後期の文化が「集う文化」であることは、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておきました。そこには、押板飾 (三幅対ないし四幅対の唐絵、香炉、燭台、花瓶など)、書院飾 (硯、筆架、筆、水入、刀など)、飾棚 (建盞/けんさん、台、香炉、食籠、花瓶、茶碗、茶壷など) の室礼 (しつらい/飾り) の基本が同朋衆の手によって出来上がっていた。

会所の正式な飾り方を打ち立てたのは六代将軍・義教といわれるが、能阿弥や孫の相阿弥が記した『君台観左右帳記 (くんだいかんそうちょうき)』には、八代将軍・義政の座敷飾りが図解されている。京の今出川に新築した小川殿の様子であろうか。珠光にも伝えられたとされる伝書だが、唐絵などの美術品の等級や鑑識のこころえ、茶や華道、香道などの史料が記されている。

会所の嵯峨の間が客と対面する御対面所で、九間ある中心の部屋となっていた。この部屋の北側には押板が設けられている。卓が置かれ、その上に香炉、燭台、花立の三具足が置かれる。その背後の壁面に絵画が掛かる。客のために見せる飾り物と言って良い。嵯峨の間に向かって右に狩りの間があり一段高くなった書院が付属している。主人のプライベートな書斎となっていて、ここの棚板には文房具が飾られ、いわば自分のための飾りがあった。

会所に、茶湯所は付属していたが、茶を点 (た) てるための準備場所、茶たて所として使われる所だった。そこで、同朋集によって点てられた茶が、それぞれの間に運ばれて飲まれた。点てる者と飲む者とは身分が違い、居る部屋も異なっていたのである。この会所での茶湯は、室町将軍たちが楽しんだ「会所の茶」とか「書院の茶」と呼ばれるもので、後には、能阿弥、芸阿弥、相阿弥らが禅寺にあった台子を使って台子飾りの茶の湯を洗練させていった。この義政の東山文化は1470年代から1490年代にかけての時期であったから、珠光が50歳から60歳にかけての初老期に当たっていたことは、茶の湯の発展にとって、おそらく大きな意味があったと考えられるのである。この書院の茶に対して新興商人や新興武士たちに、高額な茶器はなくとも禅の精神性をバックボーンにした「草庵の茶」を提案したのが珠光だった。

『慕帰絵』第五巻 14世紀 本願寺第三世覚如の伝記絵巻で「帰寂を慕う」がタイトルとなっている。
右上に柿本人麻呂と梅、竹の三幅対の絵、香炉、花瓶、台など正式な押板飾りが描かれ、下中央では、廊下でお茶を準備している様子が描かれている。釜は接客の座敷に置かれていなかった。

 

珠光の弟子たち


 

珠光が生まれた奈良には独特の茶の文化があった。淋汗 (りんかん) の茶と茶盛 (ちゃもり) である。茶盛は奈良の西大寺の大茶盛が有名で毎年4月に両手で抱える大茶椀に薄茶をたてて、回し飲みするなかなか壮観な行事で、禅宗の風を取り入れたのではないかと考えられている。後に利休が始めた吸茶 (すいちゃ) を思わせるが、こちらは濃茶だ。禅宗の茶には、法会の後に一般の人に出される普茶、開山忌などの特別の行事に招待客に出される特為茶 (とくいちゃ) があった。

淋汗 (りんかん) の茶は、風呂と茶の湯を合わせた遊山の茶といわれる。淋汗とは、禅寺で夏に汗をながす風呂のことで、湯風呂、蒸し風呂などがあり、庶民に提供する功徳風呂、入湯料をとる勧進風呂があったが、風呂にお茶が付くとなれば贅沢なものであったろう。15世紀には京都の栂尾、宇治についで、奈良でも大和の寺々が茶を作るようになっていた。

珠光が応仁の乱 (1467-1478) を避けて奈良に疎開していた頃、古市氏が茶盛を盛大に行っていた。茶と風呂と酒肴がつくという贅沢なものだった。世に淋汗 (りんかん) の茶会とよばれる。この古市氏に古市澄(ふるいち ちょういん/1452-1508) がいた。山城国一揆で農民、そして跡目争いをしていた管領の畠山氏との間で上手く利を稼ぐような者で、大和守護格にまで、のし上がった。金春善鳳に謡を習い、連歌を嗜み、茶の湯も名人とされている。ちなみに、善鳳は「月も雲間のなきはいやにて候」という兼好まがいの珠光の言葉を『善鳳雑談』に残していた。この澄胤が、珠光の弟子であったことは間違いないが、どのように出会い、どのような稽古があったかは、全く記録がない。珠光にとっては大きな後ろ盾だったが、50歳半ばで戦死している。

『山上宗二記』は、胤を「数寄者、名人」と述べ、連歌の猪苗代兼載 (いなわしろ けんさい) から心敬の著作『心敬法印庭訓』が送られていて、その奥書には里村紹巴によって「古市播州とて、茶湯者・謳 (うたいの) 上手、名人にて候」と書かれているという。珠光の茶は宗珠、宗悟、大富善好、藤田宗理、宗宅、紹宅、紹鷗と引き継がれたが、紹鷗の時にその風は改められたという。澄胤のような弟子たちの中でも、特に粟田口に住む善法を飯や汁を炊く鍋一つで茶の湯もするような身上を楽しむ「胸のきれいな者」として珠光が、褒めていたことを宗二は記している『山上宗二記』)。

 

侘びとは何か


古今の唐物を集め、名物の御厳 (おかざ) り全く、数寄人は大名湯茶というなり。また目聞きの茶湯も上手にて、世上数寄の師匠を仕りて身を過ぐる、茶湯者(ちゃのゆしゃ)という。また、侘び数寄というは物持たざる者、胸の覚悟ひとつ、手柄一つ、この三か条調 (ととの) うる者をいうなり。(『山上宗二記』)

渡辺誠一『侘びの世界』

侘び茶の「侘ぶ」とは何か? わぶとは自分の思い通りにならないことらしい。そういわれると、僕など侘びだらけだ。ともあれ、渡辺誠一さんの『侘びの世界』からご紹介する。

「侘び」という言葉は、万葉集において「和備」「和天」「惑」という言葉で既に使われていたが、恋や愛が満足されないことからくるわびしさと人間関係のなせる疎外や孤独の感覚に分けられるという(筒井紘一)。「侘び」の語源「わぶ」には、「つらく苦しい」「がっかりする」「つまらない、ものたりない」「みすぼらしい、貧しい」などの意味がある。在原行平は須磨の地に流謫の身となった時、歌にうらぶれた身の失意、落魄させた者への怨恨を詠った。

わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつわぶと答へよ

この時の「わぶ」は否定的、消極的な意味合いで使われていた。しかし、後の観阿弥が作り、世阿弥が手を入れた謡曲『松風』では「‥‥ことさらこの須磨の浦に心あらん人はわざとも(意識して)侘びてこそ住むべけれ、わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答えよ、行平も詠じ給ひしとなり‥‥」

ここでは、須磨へのわび住まいは、風雅を志す積極的な意味合いを持ち始めるのである。これが、すなわち村田珠光の生きていた時代の「侘び」だったのである。

日本の美意識に幽玄があり、それが仏教から伝来したことは、能勢朝次『幽玄論』part1僧肇から二条良基までで述べた。王朝のみやびに、「心の艶」としての幽玄を注ぎ込んだのは源氏物語だった。歌の世界の余情という言葉に窮(きわま)りない深さと縹渺 (ひょうびょう) 性とを求めたのが俊成であり、それを拡張したのは息子の定家であった。この美意識は鴨長明を経て、14世紀の吉田兼好において仏教色、とりわけ禅の影響の濃い美学へと変貌する。それについて、渡辺誠一さんは、道元の兼好への影響は大きかったとしている

我が庵は越のしらやま冬こもり 凍(こおり)も雪も雲かかりけり 道元
冬かれはかぜになびく草もなく こほるしも夜の月ぞさびしく   兼好

絶頂ではなく、端緒や衰退に兆す美学、思いやり偲ぶ美学、欠けたるものへの思いが兼好の美意識にはあった。それを、和歌・連歌の正徹が心にとめ、その弟子の心敬 (1406-1475) は、定家と兼好を取り合わせて「艶深くや」と述べるが、その論は「氷ばかり艶なるはなし」に至る。そして、彼の「冷え痩せる」には死の冷たさが沁みる。さび」ゆく

淡雪の消えゆく野べに身をもしれ  <応仁元年夏心敬独吟山何(やまなに)百韻より

 

和漢のさかいをまぎらす


唐の物は、薬の外は無くとも事欠くまじ。書どもはこの国に多く広まりぬれば、書きも写してむ。もろこしの舟のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取ってみて、所狭く渡しもてくる、いと愚かなり。遠きものを宝とせずとも、得がたき貨(たから)尊まずとも、文にも侍るとかや。(吉田兼好『徒然草』)

 

村田珠光『心の文』 矢部良明『茶の湯の祖 珠光』収載

珠光が弟子の古市播磨 (ふるいち ばんしゅう) つまり、胤 (ちょういん) に残した手紙があった。『心の文』と呼ばれている。

この道において大事なことは心の慢心と我執を絶つことである。上手の人を妬み、初心者を見下すようなことがあってはならない。巧者には、自分の方から寄り添い一言なりとも深き言葉をもらい、初心の者には心を配って育てるように心がけよ。この道の和漢の境を取り払う事こそ肝要である。だが、冷えかかるといって初心の者が備前、信楽などを所持して、許されないほどに思い上がるなどは言語道断である。枯れるということは、良い道具を持ち、その味わいを知り尽くして心の下地も出来て、上手の位にたどり着いたのちのことであって、そこでこそ冷え痩せる事がおもしろいのである。とはいえ、道具を揃えることも叶わぬ人は、それにこだわる必要はない。手取釜 (てどりがま/鉄瓶) しかないと嘆くことも、この道においては大切なことである。ただ、慢心、執着の心が何よりも悪いのである。しかし、独自性がなくてはならぬ道でもある。道の至言として 心の師となれ、心を師としてはならない と古人も言われた。

心の師とは なれ、心を師と せざれ」とは、「心を使え、心に使われるな」という意味で、確か禅語にも似た言葉があったような気がする。『北本涅槃経』『往生要集』『発心集』などにある言葉のようだ日蓮は『六波羅密教』の言葉だとして武蔵国池上の門下への手紙に書いている。

珠光は、まず、茶の湯を「道」と呼んだ。どのような道具で、どのように飲むかが意識され、求道としての茶の湯がはじまる。そして、道具については、和漢の境界を取り払うと言っても唐物によって磨かれた鑑賞眼なしに和の物をむやみに持ち上げる事を戒めている。和歌・連歌の心敬は「初心の時は正しく美しく心にかけ、‥‥中程になりては奇特玄妙神変のかたへ心をやる」べきで「余情、面影、ひえやせたることは、上手の位にいたり、おのずから知らるべき物也」としている心敬が、若い頃の伸び伸びとした歌があってこそ、老境の冷えさびた境地も知られるのだと指摘していることに通じるのである。珠光は世阿弥より60歳くらい年下であるが、『花伝書』を彷彿とさせるような内容を弟子に残している。この見上げた老婆心。

 

徐熙の鷺の絵


徐熙の鷺の絵は、昔珠光が所持していた数寄道具である。絹本着色で武野紹鷗や北向道陳をはじめ古人が称美した。‥‥この絵には口伝があると宗二は書いている。(『山上宗二記)

 

伝徐熙(?-975)『雪竹図』 上海博物館

唐の末から、従来の着色画が衰え水墨画が盛んとなる。内藤湖南は禅宗の庶民への浸透が理由ではないかとみている。唐滅後における五代の内の一つ南唐は、最後の君主となったが李煜 (りいく) の時代に芸術が栄え、蜀の地と同じく唐の遺法が残っていたと言われる。この時代の花鳥を描いて傑出した画家が徐熙 (じょき/?-975) であった。

同じ花鳥画で知られる黄筌 (こうせん/903-965) が蜀で孟昶 (もうちょう) の朝廷に仕えていたのに対して徐熙は江南において在野の画家であった。書院における画家は黄筌を学び、士大夫の画家は徐熙を学んだといわれ、士大夫の家には徐熙の絵は無くてはならないものとされた。しかし、湖南は徐熙の真筆は既に失われたと考えている。北宋宮廷コレクションの記録である『宣和画譜』の批評に黄筌の絵は神にして妙ならず、趙昌の絵は妙にして神ならず、神妙共に兼ねて一洗して之を空しくするは徐熙なりと伝えられている。凝った言い方だが、分かったようでよく分からない。その画法は、墨で大体の形を定めたあとに彩色するもので、後に、彼の孫である徐崇嗣が没骨画を創始したと言われている。(内藤湖南『支那絵画史』

珠光が愛した徐熙の鷺の絵があったと言われる。千利休が「茶の湯数寄の根本をなす」とまで述べた問題の作品だが、現存していない。上海博物館にある『雪竹図』が伝わっているし、台北故宮博物院にはやはり徐熙の作品と伝えられる『玉堂富貴図』があるが、この二つの作風は、かけ離れている。「茶の湯数寄の根本をなす」とまで言われ、「一洗して之を空しくする」といった画風を考えるなら、やはり画風は『雪竹図』に近いものだったのではないかと僕は思うのだが‥‥。

 

茶禅一味


茶湯は禅宗より出でたるによりて、僧の行いを専らにす。珠光、紹鷗、悉 (ことごと) く禅宗なり。密伝あり。(『山上宗二記』

圜悟克勤禅師の印可状 東京国立博物館

床の掛物は最初、牧谿、玉澗などの唐絵が尊ばれたが、珠光が一休宗純(1394-1481)に参禅して、その印可を証して圜悟の墨跡を頂戴し、それを茶掛けとしたのが「墨蹟の掛け始め」と宗二は書いた。宋代の圜悟克勤 (えんごこくごん/1063-1135) 禅師の印可状一軸のことだ。その後、紹鷗が三条西実隆から定家の『詠哥大概』を授与され、定家の色紙を床に掛けるようになった。次いで、利休が手紙を掛ける。「宗祇黒木文(そうぎくろきのふみ)」が有名だ。

一休関係の話がもうひとつある。芝山監物が住吉の一休寺から一休筆の「初祖菩提達磨大師」の墨跡を購入したが、細川三斎は、この掛け軸が一休の弟子だった珠光が表具をほどこしたものであり、一目置かれる墨跡であること、長すぎて床には掛からないだろうと手紙に書いた。それで、監物は蒲生氏郷と三斎に表具について利休にお伺いを立てるように頼む。床に掛けられるように短くしてもらえないかと聞いたのだ。利休は、珠光のものに手をいれてはならんと、にべもなかったのである。

一休宗純(1394-1481)

大徳寺の塔頭である真珠庵 (永享年間 <1429年 – 1441年> に創建) は、開祖一休とするが、大徳寺の住持 (寺の長) になったのは、一休が81歳、珠光が52歳の時のことである。この毒気の抜けない逸格の禅僧に師事して、印可を受けたとあれば、珠光も並の人ではなかったのではないか。真珠庵の過去帳には「珠光庵主」の名が見えると言うし、七・五・三の枯山水は珠光作として伝わっている。それに、応仁の乱で焼けて一休没後に再建された真珠庵の落慶法要や十三回忌などにも御布施の記録が残っている。しかし、これも子弟にどのような交わりがあったのか何も分からない。

 

珠光名物


されども昔、珠光申され候は、わら屋に名馬つなぎたるが好しと、旧語に有る時は、名物の道具をそそうなる座敷に置きたるは当世の風体。なお以て面白きか。『山上宗二記』

 

「わら屋に名馬つなぎたるがよい」とは珠光の美意識であった。この対照を際立たせる美学は、世阿弥らの能のように象徴的で簡素な舞台と鬼神や霊たちの豪華な衣装の対比を思い起こさせる。利休はそれに「よろず事たらぬがよし」という「不足の美学」を注ぎ入れたのである。

黄天目 珠光天目 13-14世紀(宋~元)
矢部良明『千利休の創意』掲載

珠光は名物を沢山持つのではなく、幾たびか買い替えていると言われる。茶碗に限らず陶磁器の最高峰は青磁や白磁で、8世紀の陸羽はこれらの磁器を茶碗として考えていた。青磁の中では、南宋の砧 (きぬた) 青磁と呼ばれる青みがかった青磁が最高とされ、一般向けには廉価な緑がかった青磁があった。それも黄ばんでいたり茶褐色になったものまである。珠光の青磁茶碗は、そちらの粗相な青磁である。通称 猫掻き手と呼ばれるヘラ目が入った 珠光青磁茶 は、高価なものではなかったろうが、利休が持っていたものを三好実休に売った時には千貫文にもなっていた。侘び茶は、身の丈の茶である。高価なものではなく、見立て、掘り出しの工夫が必要とされる。

11世紀の宋の時代の蔡襄 (そうじょう) は、『茶録』という著書に「茶の色は白いから黒い茶碗が相応しい」と書くようになる。実際、研膏 (けんこう)などは白色をしていた。この頃から茶道具に黒釉が好まれるようになる。有名なものに福建省の建窯で作られた建盞 (けんさん) と呼ばれる茶碗があった。すり鉢型で口縁にすっぽん口と呼ばれるくびれがあり保温に優れていた。その序列は、曜変、油滴、禾目 (のぎめ)、次に天目となる。珠光の所持していたとされる天目茶碗の一つが上に掲載してある。天目について、相阿弥は一般的な茶碗で将軍家には用がないと述べた茶碗だった。道具への美意識が大きく転換していくのである。

黒釉の小壺を抹茶壺とか茶入れとし、黒釉の大壺は葉茶壺とか茶壷とするようになる。珠光の茶入れで有名なものは、珠光が発見して義政の所有となった 九十九髪茄子 (つくもかみなす)、三好実休が二千貫で買って茶道具沸騰の口火を切る珠光小茄子、形見とした投頭巾 (なげずきん) 、新田肩衝 (にったかたつき) は後に秀吉が三千五百貫という法外な値段で手に入れている。このような珠光の名物は、全部で19に及ぶ。これらの道具は、荘厳・華麗ではなかったが、兆す美学、偲ぶ美学、侘びる美学から選り分けられた名馬だったのである。

紹鷗茶室 『山上宗二記』より

14~15世紀に描かれた『掃墨 (はいずみ)物語絵巻』には、このような様子が描かれている。座敷の中央に炉が切ってあり、手取釜が掛かり、側に杓立て朱塗りの水指があり、右の壁側に押板があって水墨画が掛かり、黒塗りの卓の上に青磁の香炉が置かれている。左奥に床の間があって水墨の山水画が描かれた貼り付け壁が仕込まれていた。

この絵巻に描かれているのは裕福な人の屋敷の様子ではあるが、この時代、喫茶の風は既に貴賤を問うことなく流行していて、囲炉裏に釜を掛けて茶をたてることは庶民の間でも広まっていたと言われる。民間にも茶室に近い設えが既に出来上がっていた。それで、どのような室礼でどのように茶を飲むかという問題になる。

ここから、16世紀の紹鷗 (じょうおう) の茶室までは近い。1502年、珠光が80歳近くで亡くなった年に紹鷗は生まれていて、その弟子の一人が利休だった。紹鷗の茶室は、4畳半で炉が切ってあり、床の間に唐物名物一つ飾り、和紙の貼り付け壁、すでに押板は無く、天井高が低い。光が変わると名物の外見が変わるので北向きの部屋だった。その他に、書隠と二間が併設されている。珠光の茶室は畳敷きの四畳半だったといわれるが、紹鷗の茶室に似たものだったと考えてよいだろう。

珠光が京都に出て地下 (じげ) の人々を主な対象として生み出した茶の湯は、自由都市堺で応仁の乱から逃げ出した文化人と豪商、町衆の結びつきによってその下地が形成され、座敷と露地に工夫をこらした「市中の隠」での茶の湯として展開されていった。それが、後に紹鷗を経て千利休によって草庵座敷での究極の侘び茶として完成するのである。

 

今の世は


 

僕は、思うのだけれど、珠光は、能阿弥から教えを受けていたのだから、武将や僧侶の会所における茶の湯が権威を持ったものであることは当然分かっていた。豪奢な建築、絢爛な飾り物の中で政治・軍事・経済・文化のリーダーたちが集い、一服の茶を飲む。室町幕府が如何に形骸化していたとしても、大名たちが行うこの文化が政治・経済・軍事と密着していたのは十分理解していたはずである。その彼が貴賤を問わない「心のしつらい」「心の所作」とも呼べるような茶の湯を求めたことは象徴的なことだった。

やがて、室町幕府を揺るがす波乱が訪れる。応仁の乱である。その乱を避けて江戸の品川に滞在していた心敬は、文明三年 (1471)、師の正徹の十三回忌の追善供養ための百首和歌を詠作した。それが『心敬僧都百首』である。その中に戦乱の世を嘆いてこう詠んだ。

今の世は花もつるぎのうゑ木にて 人の心をころす春かな 心敬

この大乱を端緒として猖獗を極める戦国の世となりはてる。その覇者たろうとした信長は、会所の茶や大名茶で行われたような政治的な茶を利休を使って空前の規模で復活させた。「茶の湯ご政道」である。茶の湯は政商と武家との政治セレモニーとなったのである。茶は武家の儀礼となり、それを利休が差配し、同時に文化の下剋上と呼ばれるほどに茶の湯の改革を断行した(生形貴重)。しかし、この二つの方向は明らかに相反している。利休の祖父は、かつて千阿弥と呼ばれる義政の同朋衆の一人だったが、利休は、珠光の侘び茶を祖とし、それを徹底しようとした。この茶の湯を大成したのは間違いなく利休だ。だが、彼の悲劇も、遠因は、この相反する二つの流れにあったのではなかろうか。花もつるぎの植木となったのである。

 

 

引用文献 及び 参考文献

山上宗二 『山上宗二記』

内藤湖南『支那絵画史』1975年
支那学と日本文化研究の巨匠が綴る中国絵画論。

矢部良明『千利休の創意』1995年刊
利休に関する茶の湯の道具が詳しく述べられている。道具に興味のある人にはお勧めします。

 

 

エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート 『戦争と資本』 境界を失った戦争と平和

 

エリック・アリエズ マウリツィオ・ラッツァラート『戦争と資本』

タイトルは「戦争と平和」ではなくて「戦争と資本」なのだ。何故だろう。戦争と信用こそ、資本主義における戦略的武器であり続けていると筆者たちは言う。ミッシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランスの最初の講義(1970~1971)で、通貨制度は、商業や取引、金儲けを理由に説明できないと述べた。これが、聴講者にとって驚天動地だったのか、青天の霹靂だったのかは分からない。少なくとも本書の著者たちにとって新たな啓示となったであろう。

富と権力の等価性を保証・維持する手段としての出自を持つ通貨は、やがて植民地化と内戦を催す手段となる。本書は、軍隊と戦争が、政治的な権力組織と資本の経済サイクルを統合する構成要素であることを明らかにしようとする。それは「資本の戦争政策としての経済学」なのである。

「真の戦争機械は金融化である」これを理解できなければ、我々は戦争機械の犠牲になるばかりだろうとエリック・アリエズとマウリツィオ・ラッツァラートは述べる。彼らフランスのインテリたちにとって、1968年は特別な意味を持っていた。あの奇妙な5月革命と筆者たちが呼ぶ事件。その後の反革命を分析すること、それが本書が生まれる背景であったかもしれないのである。

「資本主義の新精神」、資本主義のプロセスを推し進めようとする「加速主義」、思考と存在物の相関にしかアクセスできないとする「思弁的実在論」といったものが、「メイドイン68年」の恣意的批判に由来すると彼らは考える。この68年の思想的限界と対決するための彼らの武器が『戦争と資本なのである。しかし、彼らのこの情念は、我々市民革命など経験したことのない国民には理解を超えるものであるかもしれない。

 

マウリツィオ・ラッツァラート(左)とエリック・アリエズ(右) 『戦争と資本』より転載

著者の一人、マウリツィオ・ラッツァラートは、1955年イタリア生まれ。パリで活動してきた社会学者。1970年代にイタリアを中心に起こったアウトノミア運動に参加している。学校・工場・街頭などでの自治権の獲得を目指す左翼運動だった。パリに亡命し、非物質的労働、労働者の分裂、社会運動の研究を行い、非常勤芸能従事者 (フランス政府の保険によって守られた芸能者) 、不安定生活者などの活動に参加した。アントニオ・ネグリらと政治思想誌『マルティテュード』の編集長を務めている。また、ガブリエル・タルド研究の第一人者で『タルド著作集』の編集者の一人である。著書に『出来事のポリティックス』『<借金人間製造工場』がある。

エリック・アリエズは、1957年生まれの哲学者。ジル。ドゥルーズに師事した。パリ第八大学教授、及びキングストン大学 (ロンドン) 客員教授を務めている。国際的に広く知られたドゥルーズ学者と言われている。ウィーン美術アカデミーで教鞭を執ったこともあり『マティスの思想』といった著書もあるようだ。知らなかった。彼もまた、『タルド著作集』の編集者の一人である。邦訳のある著書に『ブックマップ 現代フランス哲学――フーコー、ドゥルーズ、デリダを継ぐ活成層』がある。

ラッツァラートはどちらかと言えば、ガタリの方に、アリエズの方はドゥルーズにより近いと言われるが、二人ともドゥルーズとガタリの研究者で、タルドの思想的な末裔たちと言えるのも面白い。ぼくは、本書に興味を持ったのは、タルドの社会学が、どのように実践されていくのか興味があったからである。

 

通貨と政治権力


ペルシア兵(左)と古代ギリシアの重装歩兵(右) 前5世紀
兜、盾、胴、脛当てで重装備の防御を施した歩兵

通貨の起源

フーコーは通貨制度の歴史的起源、それは古代ギリシア通貨を指しているのだが、それを商取引ではなく、新たな権力とに結び付けた。時の権力は、「重装歩兵」という新型の戦争機械の独占を図る。それは「重装歩兵革命」と言うべきもので、軍事的にも社会的にも大きな影響をもたらすことになった。この戦争機械を担ったのは、都市の防御に必要な小農民たちであって、戦争の英雄像たる貴族戦士ではなかった。行政の最小単位であるデモスに所属する「人民」は、戦士として育成されることによって最大多数が戦闘に参加可能となり、強力な戦闘力を持つようになる。

彼らは、相互扶助、集団の規律などによって、ある種の同質性を持つようになると兵士=市民としての平等を要求し、「階級権力」の維持のために彼らを利用しようとする者たちへ矛先を向ける可能性が生まれてくる。著者たちは、この問題の現代性を強調するのである。

前7世紀から前6世紀にかけてのコリントスにおいて、キュプセロスは重装歩兵団の元兵士たちの支持によって僭主の座につく。彼は、政治的な思惑から軍事力を経済的に統制するために通貨利用を思いついた。負債を持つ農民層である貧民層に、負債を帳消しにすることなく限定的な土地の再配分を行い、富裕層にはその財産の10分の1を天引きにし、その一部は直接、貧民に再分配され、一部は「巨大建設事業」とそのための職人への前払いに使われる。この経済循環は、貧民に分配された資金を再分配された土地の補償金などとし富裕層の懐へと逆流させ、富裕層には租税を現金で支払わせるというシステムになっている。それは「通貨の流通ないし循環」と「富と兵役の等価性」を保証する制度だった。ひいては、有産階級の所有制度と権力保持を維持するための制度でもあったのだ。

リュディアのエレクトロン硬貨
前7世紀に小アジアのリュディアで製造された世界最古の硬貨。前6世紀にはコリントでも通貨が造られた。

こうして、通貨は政治権力の新たな形態の中から登場する。彼らが「所有制度や負債・返済のメカニズム」に介入し、筆者たちが言う「戦争機械の領土的制度化」=再領土化を保証するものとなるという。

領土化・脱領土化・再領土化

ドゥルーズとガタリは『アンチ・オイディプス』の中で、再領土化などについて述べているので、それをご紹介する。彼らは、国家を「原国家」「専制君主国家」「資本主義国家」に大別する。原始的な国家の身体を土地と表現すれば、これらの国家の社会体 (社会機械の形態として、それぞれ「大地の身体、「専制君主の身体、「貨幣の身体を割り当てることができる。

ジル・ドゥルーズ(1925-1944)& フェリックス・ガタリ(1930-1992)
『アンチ・オイディプス』

原始土地機械が動かなくなれば専制君主機械にとって替わられるが、それが「原国家」から「専制君主国家」への移行である。同様に専制君主国家から、資本主義国家が打ち立てられる。「専制君主の身体が脱領土 (土地) 化されることによって新たに資本主義身体 (機械) が生みだされるのだ。それは同時に、再領土化を激しく受けることになるので、 脱領土化 (脱コード化)と同時に再領土化 (再コード化) といた二重運動の中に置かれることになる(「第一章 欲望する機械」

従って、領土化とは、「貨幣の身体といった社会的身体=社会機械を形成するということになる。だとすると脱領土化は、身体の解体、再領土化は身体の再生ということになるだろう。しかし、彼らはデカルトかデュシャンの末裔なのか、何でも機械にしてしまうのだ、それは、欲望によって、微細に繋がったあらゆる流れの中で連動する生産機械で、コード化される。つまり制度化されるのである。

通貨と権力

フーコーは、通貨の所有が権力を生むのではなく、誰かが権力を握ったからこそ通貨は制度化されたというのである。通貨は、その起源が商業であるといった、単純な経済的「資本」ではない。通貨の役割は、社会における富の再分配であることよりも、権力の座を拡大再生産することにある。通貨こそ、政治以上に、富裕層と貧民との内戦を継続させる要因となる。通貨は万人の在り方を変え、貴族、戦士、職人、賃金労働者といった階級の分断を生みだし、かつ、再生産し、内戦の火種を恒常的に煽るものだったのである。ここが、押さえていてほしい第一の点です。

重装歩兵の共和国という初めての平等主義と通貨による計量単位による支配は同時に生まれ、通貨を通じて権力を奪取し戦争に勝利するという、いわば通貨戦争を行う権力によって経済は初めて政治的なものとなった。都市=ポリスで潜在的につねに戦争状態にあった貧民と富裕層との闘争の時代以来、諸革命の歴史が浮き彫りにするのは「通貨制度」と「新たな権力形態」との関係がもたらす政治の「原風景」なのである。

 

植民地とプロレタリア化


カール・マルクス (1818-1883)  1865

本源的蓄積と脱領土化

マルクスは、資本主義が生み出した脱領土化の二つの力を挙げる。一つは信用・公的債務で、資本の信仰宣言と言うべきものであり、もう一つは、征服戦争、つまり新世界の「処女地」を侵略し領有化する暴力だったという。植民地主義は、資本主義が生み出したという観点です。これが押さえておいてほしい第二の点。

農民が土地から追い出され、賃金で働く労働者が生まれると同時に、この植民地政策、奴隷貿易、公的債務などでの利益が資本に転化される。これが、本源的蓄積呼ばれるものである。それは生産者と生産手段の分離であり、全地球的脱領土化と呼ぶべきもので、グローバリゼーションの中であらゆる存在を支配し、商品化するプロセスを巧みに追及するという。

国内生産を支える村などの共同体の破壊、食料生産の放棄、農園の摂取によって生じた民衆の貧困化は、彼らを賃金生活のための規律訓練へと送り込む。それはエンクロージャー、土地集中、土地所有者の再編を伴っていた。そして、いわば、人間関係のエンクロージャーとして女性の蔑視と魔女裁判が指摘され、より大きなファクターとして専業主婦化が挙げられる。ドイツの社会学者マリア・ミースの言うように男性がプロレタリア化するためには女性を主婦に変える必要があったというのである。

この脱領土化的な破壊は、文明化された貧者たちや、植民地化された国の人々の生活の物質条件のみならず、彼らの宇宙観、神話などの実存的な領域や価値観の世界といった主体的な生活にまで及んだ。それは、国家間の戦争のように敵を「解体する」というより、人々の振舞いや行動の形態を資本の蓄積とその再生産の論理に適応させるという主体性の「転換」となった。

世界市場の継続的破壊/創造

ローザ・ルクセンブルク (1871-1919) 
ポーランドに生まれ、ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家

マルクスの言う本源的蓄積は、一度きりのものではない。最新の生産プロセスによる「取引」を隠れ蓑に征服と接収の現代版が、金融資本主義によって進められているという。それは、金融資本を原動力とした新たな植民地化となった。資本主義にとって帝国主義は、選択の余地のないものになっていったのである。ドイツで活躍したポーランド生まれのマルクス主義政治理論家であったローザ・ルクセンブルクが、本源的蓄積は、同時代的現象であり、20世紀においては帝国主義という形で継続していると既に指摘している。

しかし、現代のグローバル化は、第三世界」からの略奪と同様の形で、暴力、詐欺、弾圧、戦争などの形をとって北の賃金労働者に対しても行使され、資本主義は益々その恩恵に浴すことになる。本源的蓄積は、イギリスの地理学者デヴィッド・ハーヴェイにとって「下層階級に対する暴力」であると同時に、技術革新や組織改革の巨大な潮流へと社会を開く肯定的側面を持っている両刃の剣だった。「資源の所有者」からの剥奪、賃金労働からの搾取、戦争、暴力、略奪と実体経済とが比類のない形で共存しているというわけだ。しかし、筆者たちは、「搾取による蓄積」と「剥奪による蓄積」との区別が回避されているために問題があり、経済の戦争は経済内部の戦争であるという観点が無視されているという。

哲学者ハンナ・アーレントは、マルクス主義者ではなく、それゆえ資本の進歩主義については語ろうとしなかった。その代わり19世紀植民地戦争から20世紀の総力戦までの帝国主義を決算する。1870年あたりから始まる大不況はブルジョアジーに純然たる略奪という原罪を否が応でも意識させた。この原罪こそ本源的蓄積を可能にし、将来の蓄積を誘発するものだったという。その突然の死を見たくなければこの先もそれを繰り返さざるを得ない。それは、本質的に自転車操業なのだ。誰しも感ずる資本主義への不安はここに根差しているだろう。資本家生産者たちは、彼らの生産システムの形態と法則は「その初めから全地球規模で計算されていた (ローザ・ルクセンブルク) 」ということを気づいた。

 

拡散する戦争機械


内戦化する戦争

レーニンは、第一次大戦のマトリックスが植民地にあると考えていた。「肥え太った奴隷所有者同志が奴隷制を維持し悪化させるために起こした戦争」と述べたのである。この大戦は、植民地化された人々が帝国主義と資本主義に対する闘争に入る、世界にとって重要なメルクマールであるとも述べるのだった。ロシアは2月革命、10月革命へと突入。ドイツでは、ヴィルヘルム2世を退位させたベルリン革命が起こり、極東でも革命運動に入っていった。

やがて戦争と生産とは、ない交ぜにされていく。資本は総力戦の第二のマトリックスとなるのだ。この総力戦は戦争のみならず、何よりも諸産業の戦争、労働戦争、科学技術戦争、情報・通信戦争となる。「生産」という視点から見れば、「総力」という語が指示しているのは、資本を再組織化させる戦争経済に社会全体が従属することであるという。敵の打倒という軍事目標は、無制限化し住民とその環境を壊滅させることとなるのである。総力戦という新たな体制は、ついに「平和を軍事化するよう要求する」ものとなるのである。ここも大切な第三の点です。

ドイツの法哲学者カール・シュミット (1888-1985) は、植民地の住民に対する「小戦争」が総力戦の最初の形態であったこと、そして、内戦と植民地戦争という二種類の戦争はパルチザンという観点からは特別重要であり、ある意味類似しているという。ナポレオン占領軍に対するスペイン人民軍の戦いは最初のゲリラ戦と言われる。19世紀、アルジェリア民族運動の父と呼ばれるアブド・アルカーディルのフランスへの抵抗運動は有名なものらしい。シュミットは、西洋の資本主義と東洋のボルシェヴィズムがヨーロッパ国際法による国家間戦争を世界内戦に変容させ、戦争をグローバルな全面的現象にしたという。アルカイダもISISも淵源はここにある。

植民地戦争は、「政府」と名乗る支配的な実体との戦争ではなかった。万人そして各人を相手取る戦争だった。この性格故に植民地戦争は、戦争の進化の歴史的母型となったという。総力戦が「脱文明化」のプロセスと呼ばれるものの中で捨て去った、戦争と平和、正規軍と非正規軍、軍人と民間人の区別は、植民地ではもともと通用していなかったのである。

プロイセンの軍人であり、軍事学者だったカルル・フォン・クラウゼヴィッツ (1780-1831) は、『戦争論』の中で、戦争は他の手段をもってする政治の継続であると述べた。全く政治の道具であり、政治的諸関係の継続であるという。「戦争とは、ペンのかわりに剣をもって行う政治である」というわけだ。マルクスもエンゲルスもすべての戦争を列強政治の延長と考えていたし、階級闘争は戦争の真の原動力となるはずだった。それゆえ、レーニンは階級闘争を絶対化したのである。最初の帝国主義戦争の後、極東は決定的に革命運動に入る。これについて、ハンナ・アーレントは「世界戦争は革命の帰結として、地球全体に広がる、ある種の内戦として登場した」としてシユミツトと説を同じくしている。こうして、世界はグローバルな内戦へとむかうのである。

 

ファシズムと冷戦からグローバル戦争へ

アーレントは、全体主義の研究に生涯を捧げたけれど、ファシズムについて、こう述べている。それは、自身を加速すること以外のゴールを持たない絶対的破壊の運動だと。ドゥルーズも、行先も目標もない総力戦の純粋に破壊的な運動だとアーレントと説を等しくしている。ファシズムの戦争機械が国家装置に対してある種の自立性のようなものを持っていることから、ファシズムは国家装置とは言えないと規定した。この「運動のための運動」と「純粋破壊」は、殺す権利の一般化と強化をもたらした。ナチズムは、もはや破壊のためでしかない国家装置のシュミラークルを道連れに死んだとドゥルーズは言う。戦争に組み込むことが不可能な敵を無制限に破壊しようとしていたのである。

ベアトリス・ホイザー
『クラウゼヴィッツの正しい読み方』
戦略論、安全保障体制の研究者がクラウゼヴィッツの『戦争論』を語る。

戦略論、安全保障体制の研究者であるベアトリス・ホイザーは、クラウゼヴィッツについて述べた著書の中で彼の同僚であった、オーグスト・ルール=フォン・リリエンシュターンのこの言葉を引いてドイツや日本の戦略的誤りを指摘するのである。

戦争初期の一時的な優位や鮮やかな征服などは、もしそれが長期的な優位や征服に繋がらないのであれば、本来なら計算され尽くされ、数世紀に亘って確保すべき「国家の生存」にとってほとんど価値がない。そして、闘っている二国間の関係と同じくらい重要なものは、すべての文明国が多少は持っている政治的つながりやネットワークであり、一時的にせよ中立の立場をとっている他国の利害である(『クラウゼヴィッツの正しい読み方』)。

ついで、米ソの冷戦がやって来る。この冷戦は、「軍備競争」と呼ばれてきた。ローザ・ルクセンブルクは、軍事投資は生産力の発展とそれを吸収する市場能力の格差を調整することによって剰余価値の実体化という矛盾をコントロールし解消するという。ポーランドの経済学者ミハウ・カレツキは「完全雇用」は軍と戦争産業の賃労働者の巨大雇用のおかげで達成され、冷戦にせよ実戦にせよ、戦争なくして完全雇用はないという。そして、戦争への投資は、「科学研究」の発展とコントロールの主要なベクトルでもあった。ビッグ・サイエンスは軍事と産業の結合線でもあるという。

冷戦は、あの時期、あの期間に限定されたものではない。およそ戦争なるものは、直接経済的な戦略機能を果たすもので、冷戦は、そこに社会的なコントロール機能を付け加えただけに過ぎないと著者たちは言う。しかし、新たなパラダイムがやって来る。「住民の中で両陣営が戦う」という事態が起き始めるのである。軍事戦略家たちは、住民の中で生活し、身を隠し、増殖し自由で創造性のある敵と戦うことになるのだが、68年に結晶した反植民地主義、反人種主義、労働者、フェミニスト、エコロジストの闘争から姿をあらわしたグローバル化した内戦の力学から「現実的で過酷、恒常的な紛争の時代」と呼ぶべきものに足を踏み入れたことを認識している。テロ社会である。敵は非正規的であり、介入の唯一の方法は、内部に非正規兵のいる住民が生活している場所をコントロールすることとなる。これが大事な第四の点です。

1999年に中国空軍の二人の大佐、喬良と王湘穂によって『超限戦』という著書が出版されたようだ。その後のインタヴューで彼らは、こう述べている。今日、国家の安全保障を脅かす要因は敵国の一国家の軍事力ではなく「資源の領有、市場の獲得、資本のコントロール、貿易制裁といった経済的要因」であり、これら非軍事的武器の与えるダメージは軍事武器と等しいものになると。まさに、米中経済戦争が、していることが、それだ。一国のレベル、さらには地球規模で不安を生み出させる最も有効な手段は金融なのである。

この数か月で (本書の基になる講演は2014年~2015年に行われた)、輸出商品の外貨表示価格の引き下げを狙って10%もの平価切下げを数回行い、経済危機に瀕したタイとインドネシアの状況は軍事攻撃と経済封鎖の直撃にあったイラクと同じであり、ギリシアと超国家的な金融機関との紛争を「戦争」「植民地戦争」「占領」などと再定義することは単なるメタファーではないと筆者たちは言うのである。マウリツィオ・ラッツァラートの『<借金人間>製造工場』を翻訳した杉村昌昭氏は「訳者あとがき」の中でこう述べている。金融機関は、ギリシア国債を金融市場でおもちゃにしておきながら債務不履行の可能性が現れるとEUに公的資金の投入を働きかけたと。

 

戦争≒平和なのか


本書には、宗教戦争やスターリンの粛清や天安門事件については、取り立てて語られていない。訳者の一人、杉村昌昭氏が指摘するように本書は、「資本とリベラリズムの融合による支配に<敗北>し続けてきた<左翼思想/勢力>としての苦い総括の試み、そこからの脱出の試み」であったのかもしれない。しかし、資本主義とリベラリズムが支配思想として存在する世界への不安を人々が何かしら持っているとするなら、その不安は何処から来るかを鮮やかに教えてくれているのは、本書ではなかろうか。確かに、今、戦争は様々な分化した形態で諸国家の内外に遍在している。もはや、絵に描いたような平和など望むべくもないのかもしれない。そういった時代に、もう一度、戦争と平和とは何か問い直してみることは有益だろう。ハイデッガーはこう述べた。

「平和がいつ戻るのか? という質問に答えることができないのは、戦争の終りを見つけることが出来ないからではなくて、戦争が平和に通じるようなことはもはやないのだから、‥‥。この長期にわたる戦争はゆっくり進行するが、この戦争は昔ながらの平和に向かってではなくて、<戦争が戦争と感じられない、そして<平和がもはや意味も実体も持たないような、ものごとの状態に向かっていくのである。(杉村昌昭+信友健志 訳)」

 

引用文献 及び 参考図書

 

カルル・フォン・クラウゼヴィッツ
『戦争論』 1983年 徳間書店

ハンナ・アーレント『全体主義の起源』
第二巻 帝国主義

マウリツィオ・ラッツァラート
『<借金人間>製造工場』
我々は金融資本主義によって生まれながらに負債者とされる。未来をコントロールする手段としての「負債」を語る著書。

川原繁人『「あ」は「い」より大きい!? 』音象徴とコトの葉

 

川原繁人『「あ」は「い」より大きい !? 』

「あ」は「い」より大きい。なんとなくそんな気もする。malumaは丸く、taketeは角ばってる。これは、そう思える。何故か「かなまな」より「まなかな」方が言いやすい。
「ガンダム」と「カンタム」、「クレヨンしんちゃん」と「グレヨンしんちゃん」どっちが可愛い?  アイスクリームの名前には frosh と frisk どちらが向いてる? そう言われても‥‥

などなど、言葉と語感については色々面白いことがあるらしいのです。本書は、音声学の専門家が、「音象徴」を扱う本です。音象徴が、分かりやすく音声学を説明できるからです。それには、「言語学」「音韻論」「心理学」などが関係してきます。音の科学だから理系的な側面もあるのですが、普通の読み物としても、教科書としても使える本を目指したと著者は、言っておられる。

著者の川原繁人さんは、1980年東京都のお生まれ、国際基督教大学を卒業後、カルフォルニア大学サンタクルーズ校で理論言語学を学び、マサチューセッツ大学言語学科大学院で博士号を取得。その後、ジョージア大学、ラトカーズ大学で教鞭を執られ、現在は、慶應義塾大学言語文化研究所の准教授であられる。音声学のエキスパートのようです。

言語学には様々な学派があって、言語の諸相に様々なアブローチがなされますが、言葉の「音」を科学するのが「音声学」です。つまり、「音声を使ったコミュニケーション」を研究する学問というわけです。音声学には三つの要素があって言葉の発音に関する「調音音声学」、発話がどのように空気の振動によって相手の耳に伝わるかを研究する「音響音声学」、耳に伝わった音がどのように理解されるかを研究する「知覚音声学」に分かれます。口→空気→耳と一応分けて考えられる。

音声を発する側からすると声帯の振動という事柄があります。男性では1秒間に100回声帯を震わせるのは普通で、女性では1秒間に300回は珍しくない。ソプラノ歌手では1秒間800回振動させることが出来るようです。どうしてこんなに速く振動させられるかというと声帯間の空気圧の変化に関わるベルヌーイ効果によるようです。この効果についての説明は、どうも分かったようでよく分かりません。もう少し、勉強しておきます。

 

心理学から見た音


 

声のゲシュタルト

声のゲシュタルト

maluma という言葉と takete という言葉についての心理学的テストです。どちらの形が maluma をイメージさせ、どちらが takete をイメージさせるでしょう。maluma は丸い形を、takete は尖った形を連想させますよね。これはゲシュタルト心理学の研究者ヴォルフガング・ケラー (1887-1967) による実験です。同様に mama と papa という言葉を形のイメージに置き換えてみると比較的にですが mama の方が papa より丸い感じがします。

これについては、一歩進めた実験 (篠原和子+田中秀幸) があって、光源だけが被験者に見える状態で上の図のような形を懐中電灯のようなものを動かして空中に描きます。その動きに自由な名前を付けてもらいます。すると左側の円的な光の軌跡には rorimu、 munaya  のような名が右側の三角な光の軌跡には kikito、siteki などの名がつけられました。運動科学などで選手にどのような言葉を使って体の動きを伝えるかは重要な課題です。イメージを喚起できる擬音語や擬態語を使うことは、その指導に大きな効果をもたらすというわけです。

名前の魅力度

これも心理学的な実験です。認知学者のエイミー・パーフォースがウェブ上に異なる名前をつけた同一人物の写真をアップし、名前の差による魅力度の違いを調べました。そこでは、阻害音と呼ばれる子音と共鳴音と呼ばれる子音が重要な要素を占めたようです。

阻害音は、カ行、ガ行、サ行、ザ行、タ行、ダ行、ハ行、パ行、バ行の音で、このような濁点がついたもの、あるいは濁点が付けられるものが阻害音です。共鳴音は、マ行、ナ行、ヤ行、ラ行、ワ行の音のように濁点が付けられない音です。

男性の名前では、Jack、 Jessie、 David、 Georgeなどの名がついていると魅力度が上がることが確かめられました。これらの名前には阻害音が多く含まれています。女性だとLara、 Melannie、 Lauri、 Ninaなどが好まれます。これには共鳴音が多い。すると、こういう図式が出来上がるというわけです。

共鳴音→丸っこい→女性的
阻害音→角ばっている→男性的

筆者は、男性は逆三角形であれ、女性は丸くあれを推奨しているわけではない、あるいは、この実験結果に実在するスターなどの名前が影響を与えている可能性もあると断りながらも、音にある種の心理的な影響があるかもしれないことに注目するのです。

 

言語の有縁性と恣意性


 

本書ではプラトンの対話編『クラテュロス』が紹介されています。言葉の音と意味には繋がりがあるのか、ないのかが論議されるのですが、クラテュロスは「音と意味とは繋がりがある」と言い、ヘルモゲネスは「ないと言う。」この議論については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1  記号の発生と象徴=交換能力の付録に言葉の有縁性と恣意性というテーマで書いておきました。

ヘルモゲネスは、名前は、人々がそう呼ぶことを取り決めて、自分たちの言語の一つとして発音し、呼び習わしているものである。音と意味とは、申し合わせで決まると主張しますが、これは恣意性の立場に立っている。これに対して、クラテュロスは、名前には、それぞれの「もの」に対して本性的に定まっていて、名前には本来の自然な正しさが備わっていると主張します。言葉と音とは有縁性を持つと考える立場です

ソクラテス彫像  ミュンヘン文化研究所の古典彫刻博物館

ソクラテスは、クラテュロスの言うように「音と意味とは繋がりがある」という意見に賛成してこう言います。現実に、音声と舌と口で表現しようとすれば、それらを介して何らかの対象の模造品が生じ、それが対象の表現として得られる。従って、「名前とは、模倣される対象の音声による模造品」ということになる。音のシュミラークルというわけです。

ソクラテスは続けて、ギリシア語の ρ (ロー)つまり、アルファベットの r は、ρειν (rhein/流れる)、τρομοσ (tromos/震え) などの運動を表す単語によく使われるとしている。それに、α (アルファ) 、η (イータ)、ι (イオタ) は、それぞれ「大きい」「長い」「細やか」に繋がると語ります。ここらあたりは、言葉の舞踏的表現であるオイリュトミーと考え合わせる面白いところです。20世紀の初めにルドルフ・シュタイナーが編み出した新しい舞踏でした。

荀子(前313?-前238?)

荀子の正名篇二十二には、孔子の正名を引用しながら「名に固宜(こぎ)なし。之を約してもって命じ、約定まりて俗なる。之を宜と謂う」とあります。つまり、名称には必然はない。人の約束のもとに命名し、そう定まれば慣用される。これを筋道にかなうと言うと述べられているから恣意性の立場に立っていますね。

西欧では、ジョン・ロックが単語は概念の恣意的記号だとしたのが恣意的という語が使われた最初のようです。後に、ソシュールが音と意味とは恣意的である、つまり関係性がないとしました。それが理論言語学では踏襲されています。音と意味とが完全に一致するとすると、それぞれの対象に対して全ての言語は同じ言葉にならなければならないからです。

ソシュールは、言葉をその約束事としてのラングと発話に関するパロールに分けました。後に、プラハ学派が音声におけるラングの研究を音韻論とし、音声におけるにパロールついて研究を音声論としたようです。したがって、音声の機能についての研究が音韻論、音声の発話に関する研究が音声論となります。その音声論を分かりやすく説明してくれるものが音象徴なのです。

 

音象徴とは何か


音象徴を実験的に研究したエドワード・サピアは、声の心理学、認知学、音声学に大きな影響を及ぼします。それぞれの言葉は、それを使う人間の思考を枠づけると考えていました。言語と意味が恣意的に現れない部分は何処なのかと考えた。そして、どれくらいの確率で現れ、何故現れるのかを考えました。私たちが使う単語には明らかに音と意味が繋がっている言葉が存在するのです。

エドワード・サピア
(1884-1939)ドイツ生まれのアメリカの言語学者、人類学者

動物の鳴き声は、音象徴の良い例となります、日本語の「わんわん」、英語の「woof,woof/ウーフ、ウーフ」。日本語の「にゃーにゃ―」、英語の「meow,meow/ミャオ、ミャオ」など多くの例が挙げられます。このように言葉の音と対象とが関係するケースがあるのです。擬音語や擬態語として知られていて、二つを合わせてオノマトペと言いますが、それは音象徴と密接な関係を持っています。もう一つの音象徴の重要な要素は共感覚です。音が別の感覚を誘発してある意味合いを感じさせます。先ほどの心理学と音声の関係では子音を取り上げましたが、今度はサピアの研究から母音を考えて見ましょう。

母音のサイズ感覚

彼はアメリカの高校生500人を対象に二つの単語 mil と mal を挙げ、大きいテーブルと小さいテーブルの名としてどちらにそれらの単語を当てはめるかと問いました。多くの高校生は mal の方を大きなテーブルに結び付けました。この実験を著者も日本語、韓国語、中国語を話す人を対象にした実験をしていて、同じ結果を得ています。a は i より大きいという結論になるのです。どうしてでしょうか。

大局的に見て、音からくるイメージは、音声学的に導かれるある共通性を持つようです。日本語の母音を「あ、お、え、う、い」の順に並べると言葉のイメージが順に小さくなっていくと感じられます。「あ、お」は大きく、「え」が真ん中で、「う、い」が小さいと思える。このことは、これらの語の発音の仕方に関わってきます。

基本母音における前母音と後母音の最高舌位置

「あ」と発音すると顎が下がって口腔内が開き、舌が同時に下がるので口腔内の空間は大きくなります。「お」と発音すると唇が丸まりますが、舌が下がるのでやはり口腔内の空間は大きくなります。「え」では唇の両端が左右に開きますが舌の位置はニュートラルです。「う」ではやはり唇が丸くなりますが、舌は「お」の時より上に上がっています。「い」では唇の両端が小さく開いて舌の位置が、かなり上がるので口腔内の空間はとても小さくなります。

日本語の母音は、このように「あ」「お」「え」「う」「い」の順に口腔内が狭く、小さくなるのです。これは生理的な問題ですが語感に影響を与えているということになりますね。それで、「あ」は「い」より大きいという分けなのです。

英語では「い=i 」を単語の最後にくっつけると「かわいい」とかのニュアンスが生まれます。mom は mommy 、dad は daddy 、抱擁の hug は huggy となると抱っこの意味になります。日本語でも擬態語や擬声語に使われる拗音、小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」は「ぴょこぴょこ」「ちょろちょろ」といった使われ方をして幼な言葉を連想させますが、これも発音が唇をすぼめて舌の位置が高くなる「い」の発音に近いためだと考えられます。しかし、英語の「おおきい」は big で i が使われていますよね。音象徴には例外もかなりあることを著者は注意しています。

濁音はビックでダークなのか

クレヨンしんちゃんには、カンタムという名のロボットが登場するらしのです。アニメが不案内な僕には、よくは分かりませんが、これはガンダムから濁点をとったもののようです。ゴジラの濁点をとってとコシラにするのも同様の印象を受けますね。それから、これも僕には全く未知の分野なのですが、『ファイナルファンタジー』に登場する剣である「エクスカリバー」の偽物で「エクスカリパー」というのも登場するようです。やはり、なんだかチープな感じがします。もともとエクスカリバーはアーサー王伝説に登場する神剣ですが‥‥。ガンダムとカンタムでは、如何にも前者が大きくて重くて強そうなのです。

濁音にはもう一つのイメージがあります。悪役の名前には濁音が多く使われています。「ジャイアン」「ジャイ子」「ばいきんまん」「ドキンちゃん」などの例は多いようです。「ウルトラマンシリーズ」に登場する怪獣たちの名にもたくさん使われています。「ベムラー」「ネロンガ」「ラゴン」「グリーンモス」有名な所では「ゲスラ」「バルタン星人」などがあります。濁音が使われてる怪獣のパーセンテージは『ウルトラマン』で73%、『セブン』で56%、『帰って来たウルトラマン』で70%、『エース』で59%、『タロウ』で55%に及びます。2016年における安田生命の人の名前に関する調査で、濁音が使われているのは男の子で6%、女の子で4%ですから、怪獣の名には、濁音が圧倒的シェアを誇っています。しかし、よく調べていますよね。

濁音は汚い音でもあります。特に語頭に濁音がつくブスとかバカなどの言葉は耳を覆いたくなります。例えば、 g 音などが発音される時には、声帯を無理に振動させなければなりません。肺から空気が上昇してくる時に唇や舌がその流れを邪魔します。このような音を阻害音と言うようです。これは、声帯振動を維持するのが大変な、ある意味で面倒な音なのだと言われます。おそらく調音上のめんどくささがネガティブなイメージに繋がっているのだろうとは筆者の言です。

 

共感覚と音象徴


音象徴は、外国語の単語を覚える場合に影響すると言われています。日本語の「速い」は英語の「fast」ですが、「blunt(鈍い)」と教えた場合より「fast」と教えられた場合の方が記憶に残りやすいと言われています。筆者は音象徴が言語習得に大きな影響をあたえているのではないかと考えているようです。音象徴のおかげで異なる言語間にもある程度の感覚の共有が可能になっていると筆者は言います。

川原繁人『音と言葉のふしぎな世界』2015年 
『「あ」は「い」より大きい』に新たな内容を加えよりコンパクトにした書

それには訳があります。最初にご紹介した形と音の関係を思い出してください。丸い音と丸い形、角張った音と角張った形をみました。人間が音を聞く時には視覚の影響を受けてしまうことが知られています。例えば、「が」の発音をしている人の顔を見ながら「ば」の音を聞くと「だ」という音に聞いてしまうことが多い。これを「マガーク効果」と呼びます。これは共感覚の名残です。ある研究では「高い音」を聞くと「甘味」が強調され、「低い音」を聞くと「苦み」が強調されるという結果が出ています。それに雑音の中では「甘味」「塩味」を感じにくくなるというデータも出ている。これは、味と音の共感覚です。正確にはその名残です。一般に、良い音楽を聴きながら食事をとる場合、共感覚があると食事を美味しく感じると言われています。ターフェルムジーク (食卓の音楽) も意味があったわけですね。

このような共感覚に近い感覚相互の繋がりがあるとすると、「脳が音をどのように聞くのか」という問題に行き当たると筆者は言います。言葉の構造や文法などのラングとは別個に、パロールに関わる音声の問題が私たちの脳の色々な働きと密接に関係していることが分かります。「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part2 オリヴァー・サックス『道程』で、僕が少しご紹介しておきましたが、ここで、是非、脳神経科医のオリヴァー・サックス先生が書いた『音楽嗜好症』をお読みになればよいと思います。サックス先生が語る、音や音楽と記憶がどのように密接に関わるかという問題を再確認していただけれと思っています。

 

 

参考文献

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』
音楽に関する極めて興味深い逸話が掲載されている。お薦めの著作である。

石井洋二郎『時代を「写した」男 ナダール』肖像/天球からパリのカタコンべまで

 

石井洋二郎『時代を「写した」男ナダール 』2017年

写真家ナダール‥‥若き日のボードレール、死の床にあるユゴー、20歳のサラ・ベルナール、得意絶頂のドラクロア、老いてもなお学究の徒たりえたファーブル、彼の音楽そのものを漂わせるプッチーニ、それに日本の文久遣欧使節団とその通訳だった福沢諭吉、彼らの歴史的肖像写真を手掛けたのはこの男だった。しかし、彼には写真家とは別の知られざる幾多の顔があった。

医学生、ジャーナリスト、批評家、作家、スパイ、カリカチュリスト、写真家、飛行実験家などの経歴は、この人物の好奇心の強度、熱狂的活動力、他人と渡り合う交際能力などのあらわれと言える。今回、ご紹介する時代を「写した」男 ナダール』には、並外れたスケールで時代を駆け抜けたナダールの生涯が、その幾多の著名人との交流と共に描かれ、そのことを通じて、この時代の「肖像」が浮き彫りにされる。著者の石井洋二郎さんは、これまで、「文学史」「思想史」「芸術史」などで個別に語られてきたこの19世紀の文化の担い手たちをナダールという一人の芸術家を蝶番にして相互に結びつけ、彼のレンズから見た当時のフランスの外貌を紹介してみたいとおっしゃる。

石井洋二郎さんは、1951年東京のお生まれ。東京大学法学部、パリ第四大学、東京大学大学院人文科学研究科で学ばれ、京都大学や東京大学で教鞭を執られた。東京大学名誉教授であられる。この人は、地域文学・フランス文学の研究者だけれど、ロートレアモンの研究者と言っていいのかもしれない。『ロートレアモン イシドール・デュカス全集』で日本翻訳出版文化賞を受賞、『ロートレアモン 超越と越境 』という著作で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されている。著書に『差異と欲望――ブルデュー「ディスタンクシオン」を読む』『科学から空想へ――よみがえるフーリエ』『フランス的思考 野生の思考者たちの系譜』などがある。他の翻訳としてブルデューの『ディスタンクシオン』があり、渋沢・クローデル賞を受賞されている。

 


 

ナダールの生い立ち

ナダール(1820-1910) セルフポートレート 1854

ナダールというのは本名ではない。本名は、ガスパール=フェリックス・トゥルナションという。1838年頃、友人で当時戯作者だったオーギュスト・ルフランが、トゥルナションの語尾をトゥルナダールに変え、それが略されてナダールになったらしい。多分、ふざけ半分だったのだろう。

父親はリヨンで印刷業を営んでいて、そこでは『リヨン・ローヌ県新聞』を発刊していたが、反革命思想を扇動する危険な業者として革命政府から睨まれていたという。面白いのは、この父親が、あの空想社会主義者と呼ばれたシャルル・フーリエと付き合いがあったことだ。

印刷所が倒産した後、父は20歳も年下のテレーズ・マイエという女性とパリに書店を出した。そしてフェリックスは1820年にパリで長男として生まれる。下に弟が一人いた。当時、パレ=ロワイヤルでは華麗なアーケード街が整備されていたけれど、宮殿に面した南側は資金不足のために木造の三列に並ぶ掘立小屋で「ギャラリー・ド・ボウ (木造回廊)」と呼ばれ、書店や雑貨店などが寄せ集まっていて、逆に人気のスポットとなっていた。人間には、小綺麗な所よりこんな場所が必要なんだ。フェリックス少年は、この信じ難く汚らしい悪魔の巣窟と彼が呼んだパラダイスで育まれることになる。これは、「パサージュ」の先駆けだったという。

 

ボヘミアン生活と文筆活動

1832年、コレージュ・ロワイヤル・ブルボンに入学して中等教育を受けることになる。同時代にはデュマ・フィスやゴング―ル兄弟がいた。後にはベルレーヌ、プール―スト、ヴァレリー、コクトーなどが学んでいる名門だ。友人には恵まれたが、学業不振、素行不良といったコースを進んだ。1833年に父の書店が倒産し、家族は彼を残してリヨンへ戻っている。その2年後に父が亡くなり、コレージュを結局卒業しないまま中退となった。

『ラ・ボエーム』 ポスター 1896年
アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活情景』が原作。

1837年の秋、フェリックスはリヨンの医学校に入学。興味本位の入学だったらしいが、この頃から短編小説を新聞に発表している。翌年、パリへ帰還、18歳になっていた。どういう伝手を手繰ったのか、すぐに雑誌や週刊誌の出版社に寄稿し始める。翌年には友人たちと週刊誌『リーヴル・ドール』を創刊し、編集長となった。執筆者にはバルザック、デュマ・ペール、ゴーチェ、ネルヴァルなどの錚々たる顔ぶれがいた。ここから、フェリックス、つまりナダールの進撃が始まるのだ。

この頃、ボヘミアンと呼ばれる作家や画家、音楽家を志し、貧しいながら陽気で気儘な生活を送る若者たちがいた。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』で一躍知られるようになる。ナダールもこのような若者たちの一人だったのである。友人ら三人で、ラ・ボエームの原作者にあやかった『ミュルジェール物語り――真のボヘミアン史のために 三人の水飲み仲間による』を後に出版している。

この本に登場するのは、煮る火力がないために母の送ってくれたジャガイモを1週間生でかじっていた若者や、三日三晩飲まず食わず、暖房がないので夜中外を歩き回っていたが疲労と空腹で道に倒れて寒さで目覚めるといった若者たちであった。彼自身もこの物語りを地でいっていた。

 

ナダール、スパイになる

このボヘミアン仲間の救世主はポーランド系の石版画家キャロル・ダネルだった。貧乏なのに、いつも自分の屋根裏部屋に仲間を受け入れ食事や寝床を提供してくれる人で、ナダールが『ラ・ボエームの原作者ミュルジェールと知り合ったのも彼を介してだった。筆者の石井さんは、フーリエの私有制のない社会主義運動の広がりのようなものと、このゆるやかな繋がりのボヘミアン集団とのある種の共通性を指摘している。

1848年、選挙権の不平等とギゾー内閣への不満は二月革命へと発展し、国王ルイ・フィリップは退位し、フランスの王政は終りを告げた。それが、ドイツ、オーストリアへと広がり中欧全体が三月革命へと巻き込まれ、ウィーン体制が崩壊する。この頃、ポーランドは領土の四分の三がロシア皇帝の支配下にあり、独立運動の度にロシアに弾圧されていた。

救世主ダネルの母が経営するレストランはポーランドの亡命貴族や亡命軍人のたまり場で、そこにはコレージュ・ド・フランスで公開講座を開いていた詩人・作家であったアダム・ミツキェヴィチもいた。彼らとナダールとは親しくなり、意気に感じもしたナダールは、弟らと共に祖国解放に燃えるポーランド系移民300名と共和派フランス人民志願兵200名からなる義勇軍に参加、ポーランド遠征に旅立った。しかし、ドイツ東部のマグデブルクで捉えられ、しばらく拘留の後、あえなくフランスへ強制送還となる。彼にとっては、明確な信条に基づく政治的行動というより、自堕落な生活を清算するための契機、少年期のような純粋な熱狂への回帰であったと石井さんは言う。

ナダールがパリに帰って来た頃は、青年労働者たちによる大規模で特異な反乱と呼ばれる「六月蜂起」が発生、行政長官となっていたカヴェニャック将軍により数日のうちに鎮圧されるという事件が起こっている。この頃、編集者のピエール=ジュール・エッツェルがナダールに接近する。後には、ジュール・ベルヌを世に出すことになる人だ。熱心な共和主義者で、二月革命以降は外務大臣ジュール・バスチードのもとで官房長官をしていた。プロイセン領ポーランド国境地帯におけるロシア軍侵攻状況の情報収集をしてくれるように密かにナダールに依頼するのだった。

ナダールはポーランドに入り、バルト海沿岸からダンツッヒ (今日のグダニスク) に滞在、ティルシット、ケーニヒスベルク (今日のカリーニングラード)、ベルリン滞在と2か月に及ぶ隠密行動だったが、ロシア警戒地域には軍隊が終結している様子はなかったと報告している。民衆を弾圧したカヴェニャック政権のために働くナダールは、政治的立場より血沸き肉躍る所ならという生来の活動欲求の方が強かったのではないかとは石井さんの弁である。あるいは、ポーランドのためになるならという気持ちもあったのかもしれない。

 

文士かカリカチュリストか

ナダール ボードレールの肖像 1855

文士生活

時は、少し戻ります。ボヘミアン生活をしていた1843年頃、ナダールはボードレール (1821-1867) と出会う。二人とも20代の前半だった。ナダールは後に出会った時の様子をこの様に回想している。

「エナメルの長靴の上にぴんと伸ばした黒いズボン、皺が新しくこわばった車引き用の青い上っ張り、そして自然にカールした長い黒髪だけが頭を覆い、まったく糊のついていない鮮やかな布地の白い袖口を着け、鼻の下と顎には髭が何本か生えかかり、真新しい薔薇色の手袋をはめている。こんな服装で、帽子もかぶらずに、ボードレールは自分の住む区域や町中を、猫のように少しぎこちない、神経質な、と同時に鈍い足取りで、まるで卵を踏みつぶすのを避けるように、舗石のひとつひとつを選びながら歩き回っていた。(『シャルル=ピエール・ボードレール』フィガロ紙 石井洋二郎 訳)

その後、ナダールは小説を書き始める。『デーイアネイラの衣』はボヘミアン生活をしていた若者が、不幸な結婚をした婦人とある事件を契機に恋愛に向かうという風俗小説で、他に『私が学生だったころ』などがある。後にもいくつか作品は書いているようだ。石井さんによれば、写真家としての名声がなければ、一流小説家にはなれなくても19世紀フランスの文学史の一角に名を残すくらいの小説家にはなれたのではないかという。

 

カリカチュアへ

ナダール ネルヴァル(1808-1855)の肖像画と写真

年の離れた友人であるネルヴァルの紹介で、日刊紙『ジュルナル』の三面記事を担当するようになったナダールは、ジャーナリストして雑文は書き続けたが、創作活動は中止、1844年頃には出版物の表紙に自分の絵を載せるようになり、急速にカリカチュアの世界に目覚めていった。

1847年には、『ジュルナル・デュ・ディマンシュ (日曜新聞)』に文芸家100人の肖像を描く「文芸家たちのギャラリー」を発表。‥‥が、途中廃刊となり59人で終了。この年、シャルル・フィリッポンが主催する、権力の弾圧に屈しないことで著名な風刺新聞『シャリヴァリ』に挿絵が掲載されるようになる。ドーミエやガヴァルニ、ジルらを擁していた新聞だ。そこの画家であることはステータスだった。しかし、器用な男だ。

1848年、二月革命後、ルイ=ナポレオン・ボナパルトが第二共和制大統領に就任。その年から翌年まで『真面目な人々のための滑稽雑誌』にルイ=ナポレン批判の「お笑い皇太子の肖像画大コンクール展」、続いて日和見主義者を揶揄する「レアック氏の公的私生活」などを発表。

1850年には借金が原因で投獄される。ちなみに、翌年の1851年にはクーデターによりルイ=ナポレンがナポレオン3世として即位し、第二帝政が開始される。‥‥で、相変わらずお金はない。それでか、『パンテオン・ナダール』という予約版画を思いつく。74cm×105cmという大判石版画で4枚セットで約3万円の値をつけて予約を取った。登場人物はおよそ1200人。‥‥が、問題は1200人もの人間をどうやってモデルになってもらい、描くかだった。それで主だった文士や友人にこう手紙を出した。

「このギャラリーにあなたも加わっていただきたいのですが、私としてはそのために1200人のお宅を訪問しなければなりませんので、一回分を節約できるように、まことに恐縮ですが、できるだけ早く、ノートル=ダム=ロレット街十八番地の私のアトリエにお立ち寄りいただけないでしょうか。ほんの二分から五分くらいポーズをとっていただければ済むと思いますので(石井洋二郎 訳)」

付き合いの広さが功を奏したのだ。それにナダールの弟のアドリアンは写真の技術を習得していて、おそらく訪問して来た人の何人かは写真も撮ったのではないか石井さんは推測している。しかし、完成したのは4枚の内1枚だけで、あまり売れなかった。

ナダール 『パンテオン・ナダール』 1854年 
左下の白い胸像はジョルジュ・サンド、その右下はユゴー 『フィガロ』特別贈呈版

 

写真技術と写真芸術

写真技術は、粉塵爆発を応用した内燃機関を開発したことで知られるニセフォース・ニエプスによって開発されたが、露光時間が8時間以上を要した。その後、「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part1 伊藤俊治『見えることのトポロジー』でご紹介したダゲールとが共同で改良に努めるのだが、ニエプスの死によってダゲールがその技術を単独で発表することになる。銀メッキした銅板を感光させるが、最終的に露光時間を2分くらいにまで短縮した。その後、イギリスのタルボットやアーチャーらによって改良され、一つのネガから複数のポジが得られ、露光時間も1,2秒と短くなった。

デイヴィッド・オクタヴィアス・ヒル(1802-1870)
『籠を持つニューヘブンの漁村の女たち』1843-47

驚くべきことだが、ヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』の中で写真の最盛期は、ヒル、キャメロン、ナダールたちが活躍していた最初の10年だったというのである。写真家ヒルが撮影したこの漁村の女の写真には何か新しい特異なことが起こっているという。彼の技量の証しというだけでは割り切れない何かが。そして、現実がその映像の性格をいわば焼き付けるのに利用した一粒の偶然を凝縮した時空を探し求めずにはいられないという。

ここには、芸術としての写真が我々に考えさせる何かがあるのだ。ナダールは、写真理論なら1時間で、撮影方法の初歩なら1日で学べるという。学べないものは「光の感覚」であり、もっと学べないものは自分の主題を精神的に理解するすべであるという。モデルと心を通わせ、相手の性格に応じた習慣に近づき、その考えの中にまで入り込むようにあなたを仕向ける、そのような最も馴染み深く最も好ましい内面的な類似をもたらすのは、あの瞬間的な直感だというのだ。それが写真の心理学的側面だというのである。

ベンヤミンが写真に、撮影者の意図を超えた何かが表現される可能性を見ていたのに対して、ナダールは被写体としての人物の内面への共感が直感されることを重視していた。この差は興味深い。

ナダールと息子ポール撮影  ヴィクトル・ユゴーの死

親友のボードレールは、写真が芸術の代行をするようになれば、芸術の地位を奪うか、完全に堕落させるだろう。群衆の自然な同盟によって、その愚昧は明らかにされるだろう。そして、諸科学や諸芸術の下婢 (はしため) としての義務を果たすべきだ。印刷術や速記術は文学を創り出しもしなければ、その代行も果たせなかったではないかという。なかなか手厳しいが、ナダールには、ちゃんと何枚か写真を撮ってもらっている。

 

 

パリの上と下

オノレ・ドーミエ(1808-1879) 
気球から撮影するナダール

天空世界へ

1828年か29年頃、10歳になる前のことだ、ナダールはパリのシャンゼリゼ通りを両親と歩いていた。すると上空をものすごいスピードで気球と吊り篭にしがみついた人間が、通り過ぎていった。みんな尾を引くような喚声をあげながら、この落下物を追いかけていった。これがナダールの気球初体験だった。

1855年のパリ万博で弾みをつけたナポレオン3世はオスマンによるパリの大規模な都市改造を進行させていた。そのような中、気球製作者で飛行家のウジェーヌ・ゴダールの弟のルイから気球に乗らないかと誘われた。万博の3年後、ナダールは初の気球写真に野心を燃やして、何度もの失敗の後に撮影に成功するのだった。ついに、空まで飛んだのだ。

1861年、ナダールはキャピュシーヌ大通りに人工照明による撮影も可能な設備を持った四階建ての華麗なアトリエを完成させ、引っ越している。借金は膨大な額だったという。後に気球に関わるさらなる出費のために資金難となったナダールは、別の場所のより小規模なアトリエへと移るのだが、まだ所有権を有していた1874年に、第一回印象派展にこのキャピュシーヌ大通りのアトリエを提供した。美術史の上でも著名な建物となった。

地下世界に潜入

人工照明による撮影は、ナダールに地下世界への興味を湧き立たせた。今度は地下世界へ下降するのだ。パリは周辺地域から採石されて建てられた石の街で、中世には縦横に地下回廊が走っていた。町が周辺に拡大するにつれ、華やかな地上世界とは異質な地下世界を抱えるようになる。そこは、犯罪者の隠れ家、酒税逃れの酒運搬の径路となっていた。18世紀には地下の空洞のために道路の陥没が起きる。一方で、市内の墓地は収容能力の限界を生じはじめたために地下が納骨堂として使われるようになるのである。

ナダール パリのカタコンベ 1861

パリのカタコンベはこうして生まれた。この納骨堂は1810年から11年にかけて整備され、一般に公開されて、怖いもの見たさの大繁盛となった。ナダールは1861年頃、ここに電気照明設備を持ち込んで撮影しているのである。ちなみにカタコンベに電気が通ったのは1983年のことだった。

14世紀にはパリに最初の下水道が作られる。しかし、道路の中央下を走っていた排水溝はすぐに詰まってパリは長く泥と汚水に悩まされた。その後は、遅々として進展しなかったが、ナポレオン1世のもとブリュヌゾーによる調査が行われ、全長25キロの下水道が整備されセーヌ川にそそいだ。その調査の様子は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』に述べられている。

そして、続くオスマンによるパリ改造時に、ウジェーヌ・ベルグランは市内の全域に排水溝を整備するとともに郊外に汚水処理場をつくり、垂れ流していた汚水をそこに引いた。『レ・ミゼラブル』に刺激されていたナダールは、1862年にブリュッセルでの出版記念パーティーで、1851年のルイ=ナポレオンのクーデター以来、国外に逃れていたユゴーと初めて会っている。

ナダール パリの地下道 1864

1864年の秋にベルグランに許可を得たナダールは地下道を撮影しているのだが、ジャン・バルジャンが乗り移ったのではないかと思わせるような言葉で、その時の様子を後にこう語っている。

「円天井は、凍るような雫を間断なくぽたぽた落としながら、ますます低く迫り、両側の壁はいっそう窮屈に狭まっていく。‥‥特に水平に渡された太い柱は、ぬるぬるとして腐食した鉄が錆びの涙を流しているのだ。運搬者たちの長靴は、浸水した歩道の上で、恐ろしい液体につかってびちゃぴちゃ音をたてている。通路は下がる、さらに下がっていく。水位は上がってくる。運搬者たちは膝の上まで水につかり、やがて腰まで沈みながら、なおも走り続ける。周囲ではすべてがあふれ、しぶきをあげ、流れ落ち、したたり、しみ出してくる。完全に悲惨な状態になってしまった。あたりを漂うむっとする瘴気で、ランプの灯は青ざめて力を失い、ほとんど消えかかっている‥‥(石井洋二郎 訳)

 

夢は天空を駆け巡る

1863年ジュール・ヴェルヌが『気球に乗って五週間』を発表した年、元海軍将校で文筆家となっていたギョーム・ジョゼフ・ガブリエル・ド・ラ・ランデルがナダールを訪ね、空中自力飛行についての熱い思いを語った。元ボヘミアンのナダールと元海軍将校では反りが合うはずもないのだが、ナダールは彼の熱意にほだされて協力を請け負った。石井さんはこれを「異床同夢」だと面白がっている。

ナダールは「空気より重い機械装置を用いた空中飛行推進協会」の設立に加わり、自分の写真館で発足記念パーティーを開いた。ポントン・ダメク―ルは小型ヘリコプターのデモンストレーションを行い、ナダールはマニフェストたる「空中自力飛行宣言」を読み上げた。飛行機を実現させるためには資金がいる。そこでナダールは、入場券40万枚を刷って人々を集め巨大な気球を飛ばすことにした。その名も『巨人号』。しかし、1回目は4時間半、わずか40キロの距離で13名を乗せたゴンドラはパリ郊外に不時着した。

ナダール 気球『巨人号』1864

失敗にも懲りないナダールは二度目の飛行を試み、ブリュッセルまで飛ぶも、またもや不時着。ナダールも妻のエルネスチーヌも骨折のケガを負った。これは、気球を制作したゴダール兄弟との訴訟事件にまで発展する。直ぐに意気に感じて片棒を担ぐのだが、痛い目にばかり合っている。そうこうしているうちに、1870年、スペイン王位継承問題で普仏戦争が勃発、ナポレン3世は捕虜となり第二帝政はあえなく終焉する。共和制が敷かれ臨時国防政府が発足するもドイツ軍はパリを攻囲した。そこで、共和制のためならとナダールは気球の軍事利用を提案、敵情視察や郵便物などの物資輸送を買って出た。しかし、翌年、フランスの敗北、その後、国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対してプロレタリアート独裁を掲げるパリ・コミューンが成立するも2か月後には鎮圧された。気球による膨大な出費はナダールにとって大きな打撃となり、コミューンの瓦解は深い失望をもたらしたのである。

 

職業の尊厳/ボードレールとナダール そして夢の所有

君も僕と同じく甘味な苦悩を知っているのか。
そして、こんなふうに言われるのか、「やれやれ ! 変ったやつだ ! 」と。
――僕は死ぬところだった。それは恋するわが魂の中で、
おぞましさの混じった欲望であり、特別な苦痛だった。

46歳の若さで亡くなったボードレールは『悪の華』の中の詩、「好奇心の強い男の夢」をナダールに捧げている。一方、ナダールはボードレールに対してこのような言葉を残していた。

「ボードレールの人生は、ジェラール・ド・ネルヴァルのそれとともに、文学者にとっては職業の尊厳を物語る二つの例として残ることだろう。二つの美しい――ただし何の役にも立たない例として。(フィガロ紙 1867)

確かにナダールは「変ったやつ」だった。興味のある事なら何でも飛び込むし、そのスケールも並ではなかった。だが、その職業に対する倫理観はボードレールやネルヴァルのように見上げたものだった。それは、彼の回想録『ナダール 私は写真家である』を読んでいただければわかる。写真の出来が悪いと例え200フランという大金を積まれても写真を渡さなかった。貧しい駆け出しの何もかも足りなかった時でさえも。

ナダール セルフポートレート 1860年頃

スーザン・ソンタグは、その傑出した『写真論』の中で「写真を撮ることは写真に撮られるものを自分のものにすることだ (近藤耕人 訳)」と述べた。写真は近代国家が人口を監視・統制するための有用な道具にもなったという。だが、筆者の石井さんは、撮影者が被写体を撮影する時、撮影者によって切り取られた被写体の姿は、被写体をそのように切り取った撮影者の眼差しでもあるのではないかという。そして、写真を撮られる側も、自らに差し向けられた撮影者の空間的・時間的選択の身振りを捉え写真の中に投射しているという。そこには撮影する側、される側の双方向の所有がある。

彼は自分の夢を所有し続けようとした。それは、自分自身が自分の夢に所有されることであったかもしれないのである。彼はこう述べている。

―― 私が夢を見ているなら、もっと夢を見させてほしい ―― だが、私を目覚めさせることなどできるものか !

 

 

付 ナダールが撮影した肖像写真 僕の好みで

ナダール  アンリ・ファーブル(左)とジュール・ヴェルヌ(右)の肖像写真

 

引用文献 及び 参考文献

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』「写真小史」掲載

小倉孝誠『写真家ナダール 空から地下まで 十九世紀パリを活写した鬼才』 2016年
良くまとめられてナダールが紹介されている著書。図版も充実している。

大野多加志・橋本克己『ナダール』 1990年
ナダールのコメントを紹介しながら写真集の体裁をとった本。コンパクトに良く出来ている。

スーザン・ソンタグ『写真論』1979年
本格的な写真論の一つに挙げられる著書。

 

「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part2 オリヴァー・サックス『道程』

 

少し前に、ある学芸員さんと話していたら、最近あらぬものが見えて困るんだよ。オリヴァー・サックスの本に出てくるようなやつね、と、おっしゃる。ちょうど、ドイツのグリュッタース文化大臣が、新型コロナウィルス禍の中、自己責任のない困窮や困難に対応するとしてアーティストへの大規模な経済支援を打ち出した頃のことだ。文化は良き時代にのみ享受される贅沢品ではないという発言にシビレた。それはともかく、学芸員さんにそう言われても僕には「見えないはずのものが見える」ことについて違和感も不信感もない人間なので、「ああ、そうなんだ」で終わってしまった。

アニー・ベザントとC.W.リードビーダー
神智学における思考形態の内「自己的愛」

だいたい35歳頃をピークに結構いろんなヴィジョンを見ていた。図にあるのは赤色だけれど、僕が寝っ転がって白い天上を見ていると、明るい緑色のこんな形のものが呼吸するようにゆっくり変化して動くのは、よく目にしたし、朝、布団から起き上がると、いろんな色のモザイク状の色班が見えたりもした。夜中、瞼の内側が明るく閃光で輝くのでビックリして目が覚め、しばらくして、また寝てしまったこともあった。

この図は「思考形態」と神智学で呼ばれるものの一つだけれど、神秘主義的な解釈は僕には結局必要なかったし、考えても解決できる問題でもなかった。こんなヴィジョンを見るからといって、日常生活に全く支障をきたすこともない頻度だったから、不思議ではあったけれど結構楽しんでいられた。今は、全く起こらないといっていい。見ようと思えば、例の明るい緑色の運動は弱いながらも今でも見ることはできる。

 

オリヴァー・サックス
『見てしまう人びと 幻覚の脳科学』

しかし、あらぬものを見ている人たちはかなり多いのだということが脳神経科医のオリヴァー・サックスの著作を読むと分かる。一般には、主に脳の病気事故が原因で見る幻覚と精神的な病で見る幻覚に分けられる。両者が複合して起こることも勿論ある。しかし、病気とは言えない幻覚や幻聴もかなりの割合で起きているものらしい。

幻覚は、現実と同レベルのリアル感があり、いわば勝手に生じて、しつこく付きまとったり突然消えたりする。不気味なものや怖い幻覚はあっても、精神疾患による幻覚のように、話しかけられる、侮辱される、誘惑される、責められるなど、自分が完全に巻き込まれてしまうことはないという。心に浮かべる心象とは異なるし、夢ともまた異質なものだ。心象は自分でコントロールできるものだし、夢は持続的で物語性のあるものが多く、本人の願いを象徴していたり不安に陥れたり、場合によって明恵上人の場合のようにある種の教導や預言であったりする。

ついでに言うと、ロシアの心理学者アレクサンドル・ルリアは『偉大な記憶力の物語』の中で、この幻覚と似たものとして直感像を指摘している。それは、心象よりはるかに明確な、眼前にあるように見える記憶像で、コントロールできる。ロシアでの話かもしれないが大人で一割程度、12歳以下の子供なら五割くらいの人に見られ、芸術家には、しばしばみられるという。僕の知人には楽譜を見ることもできるピアニストがいる。

『見てしまう人びと』に入眠時幻覚と呼ばれるものが紹介されている。こちらは的でスナップショットのように瞬間的なものが多い。子供の頃には比較的起こりやすいと言われる。この幻像は、うっすらした夢のようなものから恐ろしく鮮明なものまであり、内容も極めて多様だ。万華鏡のように変化する模様、草が毛皮に変化したり波打って踊る光の線になったりと目まぐるしく変わる。見知らぬ言葉を話す人の声、名前を呼ぶ声、現実の電話の音のように聞こえ、電話機まで行って確かめて幻覚だとわかるといったものである。知らない甘美な音、クラシックの曲が聞こえたりもする幻聴もあり、異様な顔が見え、それが多重にみえることさえある。

これに対して出眠時幻覚は、まれにしか起こらないと言われているが、普通目を開けていても、明るい部屋でも見え、外の空間に現に存在していると感じられる。楽しさや喜びを感じさせるものもあれば、苦痛や恐怖、目覚めた人間を脅かそうとしている場合もある。綺麗なモザイクのような色なら人を幸せにもしようが、目覚めると目の前にエイリアンが口を開けて待っていれば、隣の人は恐怖の叫び声を聞く羽目になる。

 

前回 part1 では、15世紀の透視図、そして19世紀以来のメディアの急激な変化が人間の視覚にどのような影響を与え、変化させてきたのかをヴァルター・ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』と伊藤俊治さんの『見ることのトポロジ―』から見てきた。今回Part2は、普通は見えないはずのものが見えるという、いわゆる幻覚が、実はかなり頻繁に起こる現象で、脳がつくりだしているものであるということ。そして、その幻覚は脳に記憶される図式の一部のあらわれであり、この図式と芸術的な要素との関係をご紹介できればと思っている。それらを脳神経科医のオリヴァー・サックスの著作からご紹介する。とてもヒューマンで人気の先生だ。


 

オリヴァー・サックスは、1933年ロンドンで医者の両親のもとに生まれた。オックスフォードに進学する時、動物学の方面か医学の方面に進むか悩んでいた。魅かれたのは感覚の生理学だった。どう色を、奥行きを、動きを知るのか、それらをどうやって認知し世界を視覚的に理解するのか?

それで医学を学んで、アメリカのカルフォルニアでのインターンを終え、いくつかの病院で働くのだが、1966年から勤めるベス・アブラハム慈善病院で、何十年にもわたる記憶、知覚、意識の停止状態にあった脳炎後遺症患者の治療にあたって奇跡とも言える変化を起こした。Lドーパという薬を用いて彼らの意識を呼び戻したのだ。病状が一時的にしか改善されなかった人も多かったが、ずっと安定的な状態を保てた患者もいた。それを『めざめ』(邦題は『レナードの朝』) という本にして世間に彼らの実情を知らせた。これが大きな反響を呼んで映画化もされるのである。敬意を込めてサックス先生と呼ばせていただきます。

サックス先生は、幻覚や幻聴に悩む人々にある種の福音を与える人になる。そのようなものに悩まされる人々は、自分が気が狂ったのではないかと疑い、悩みを打ち明けることが出来なかったからである。それで脳の障害による色々なケースを本にし、有数なノンフィクション作家ともなったのである。脳の病気によって正常な機能が破壊され、それを取り戻そうとする人、取り戻せないと知ってもそれを何とか別のアプローチから自己の生活を豊かにしようとする人々の様子が感動的につづられている。色々な本が出版されているけれど、それらを概観するには、彼の自叙伝である『道程』をお読みになると良い。感動的な本です。

オリヴァー・サックス
『道程 オリヴァー・サックス自伝』

サックス先生には母譲りの片頭痛があったようだ。『見てしまう人びと』には、こう書かれている。3、4歳頃、庭で遊んでいると、目もくらむほどの閃光が左側に現れ、地面から空へと大きく孤を描き、そのくっきりした縁がギザギザ光って、色は鮮やかな青とオレンジだったと。

外科医でもあった母は、片頭痛の発作の先触れとして起こる現象なのだと説明してくれた。そのジグザグが中世の要塞に似ているので要塞スペクトル呼ばれていることも教えてくれた。そのようなヴィジョンが見えただけで頭痛の起こらないケースもあるという。

そういえば、僕の父方の祖母は片頭痛持ちで、よくノーシンという薬を飲んでいたのを思い出した。僕は、片頭痛や癲癇といった負担の大きい病気はなかったけれど40過ぎに一度きつい目まいの起きるメニエルになったことはある。眼前を電車が通り過ぎていくように視界が動いた。サックス先生の母親は、片頭痛は、よくあることで全人口の10%は罹っていると息子に説明している。

 


 

片頭痛の多彩な幻視とアート

ジグザグの要塞の例 ジュネーヴ近郊の城塞計画案 1841年
実際には建築されなかった。

片頭痛の典型的な症状は、先ほど述べたギザギザの形が現れるもので、15~20分にわたって広がり、視界の半分をゆっくり動いてゆく。たいていの場合、この光り輝く形の内側には、暗点と呼ばれる見えない領域があって、この暗点も含めた全体の形を閃輝暗点と呼ぶようだ。

片頭痛は、おかしな匂いや体の片側に妙な感覚を生じさせたり、一時的に会話をできなくさせたりする。色や奥行き、動きの知覚を変化させたり、数分視界をぼやかしてしまうこともあるという。不運な人は、激しい頭痛、嘔吐、光と音への過敏など様々な障害が起こるらしい。サックス先生自身は、この目もくらむほどのギザギザ閃光の他に、小枝のように分岐する線、格子、市松、クモの巣、蜂の巣といった幾何学構造が見えたようだ。これらの形は常に動いていて、形が出来ては再構成もされ、組み合わさって絨毯やモザイク画のようになったり、松ぼっくりやウニのような立体にみえたりもする。視野のどらか片方に留まることもあり、あふれ出して全体に広がることもあるという。

ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)
左『黒い線』1923  タイトル・制作年未詳

これらの絵画は抽象絵画の祖、カンディンスキーの作品である。サックス先生は、ほぼ、あらゆる文化に何万年も前から見られる模様は、このような片頭痛などで起こる内的経験の表れではないかと考えている。

アートに現れる模様が、雷の形のように自然に存在する事物の単純化、抽象化されたものであることも否定できないので、全てここからアートの形を考えるのには無理があるのだが、模様に関わる視覚認識のパターンが存在している脳の箇所を片頭痛が刺激して、幻視を生じさせているのかもしれないのである。この幻覚による像は、記憶の織物の中のパターンが不意にあらわれるのだ。

 

感覚のポリフォニー 共感覚

天才少年だったマイケルは先生が曲をいくつかに分けると、ピアノを弾きながら別の順に編曲し直すことが出来た。彼は先生に言った。

「僕はその青い曲が好きです。」先生は聞き間違えたかと思い問い直した。「青い?」「そう、二長調の曲‥‥二長調は青ですよ。」(『音楽嗜好症』大田直子訳

心理学者のパトリック・エレンには、音楽だけでなく車のクラクション、人の声、動物の鳴き声、雷などの音、それに文字、数字、曜日にも色の共感覚があった。小学1年生の時、空中をみつめていたら、先生に何を見てるのと聞かれた。「金曜日まで色を数えています」と言ったらクラス全員が爆笑した。それ以来このことについては人に話さないようになった。

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』
音楽に関する極めて興味深い逸話が掲載されている。お薦めの著作である。

カンディンスキーやメシアンが色を見ると同時に音を聞いていたというのはよく知られている。色を聞いていたのだ。共感覚と呼ばれる現象である。共感覚の発生率は2000人に一人くらいと言われているけれど、もっと多いのではないかとサックス先生は考えている。それは病気ではないから、ことさらそれを訴える人は少ないからだ。共感覚は生理現象であり、それが起こるためには大脳皮質のいくつかの部分が同時に活性化される必要がある。

共感覚で見える色は、うすいベールのような光で外界の視界をさえぎったりしない。錬金術などで云うティンクトゥーラ (浮き上がった色) のようなものらしい。この色は人によって異なり、実際に外界を見る時のような色の整合性はないようだ。先ほどのマイケルにとって二長調は「青」だが、他の共感覚を持つ作曲家では違っていた。

共感覚という言葉が生まれる少し前、アルチュール・ランボーは、A (ァ-) は黒、E (ゥ-) 白、I (ィ-) は赤、U (ュ-) は緑、O (ォ-) は青と『母音』という詩で共感覚を高らかに詠ったし、トラークルの詩には「愛欲の赤い苦み」といった共感覚ならではの表現がある。だが、トラークルやランボーのこれら詩句は思いつき程度にしか考えられていなかった。科学的に調べられるようになったのは1980年代になってからだ。

共感覚は音と色に限らない。音楽を聴くと小さな棒や円のような形の光が見える人もあり、音楽と味が共感覚を起す人もいて、どの音程かを味によって捕捉できる。生まれたての赤ちゃんは脳がまだ未分化なために共感覚があると言われていて、三ヶ月くらいすると種々の感覚が分離されはじめる。それによって外界とその内容を完全に認識するのに必要な条件が整う。青りんごのみかけ、感触、味、かじった時の音が全て調和して初めて青りんごをかじったと認識できる。一連の図式が整うのだ。これをクロスリファレンスという。たいていは、ここで共感覚を失うけれど、その感覚が残っている人もある。

大人になって、それも人生の後半に共感覚が出現することもあり、その原因は、失明であった。これは脳の中に新たな接続が出来るのではなく、普通なら抑制されている視覚システムの過剰が解放されるためだと考えられている。脳には知覚の入力だけでなく、その変化も必要なのだ。だから、眼が見えないのに幻覚が起こる。シャルル・ボネ症候群と呼ばれた。それは聴覚障害による幻聴と似た状況で起こる。

 

見えることと脳の組織化

ジェラルド・エデルマン(1929-2014)
ノーベル生理学賞・医学賞を受賞したアメリカの神経科学研究者。

サックス先生が、人がどう、色、奥行き、動きを知るのか、それらをどうやって認知し世界を視覚的に理解するのかに興味があって医学の道に進んだことは既に述べた。人の視覚認識が病気やケガで損なわれ、幻視が起きるのは何故か。それは知覚が目や耳からの感覚データの単なる再現ではないからだ。

ジェラルド・エデルマンは、個々の生命体、特に高等生物では成長過程で経験した事柄が神経系に働きかけてその特定の接続や配置を強める一方、ある場合には、それらを弱めたり消したりすると考えている。ぴょんぴょん飛ぶものを見て育った子供は相対的に動体視力が良くなるだろうし、平面ばかり見て育った子供は奥行きの感覚が鈍るだろうというのは容易に想像できる。

神経細胞群選択説と呼ばれる仮説だが、神経ダーウィニズムという名で知られる。エデルマンによれば、「機構」と呼ばれる脳の真の機能は、無数のニューロン群が大きな単位、つまり、「マップ (地図)」に組織されてできるという。この地図は、とてつもなく複雑だけれど常に意味のあるパターンで対話していて、数分か数秒で変化する。イスを見た時、そのマップがその都度生成されると同時に過去のイスのマップと同期されるのである。この知覚のダイナミズムは絶えず更新され、無数の細部がたえまなく統合される必要があるという。脳の主な仕事はカテゴリー化であり、カテゴリー化そのものをカテゴリー化することによって壮大な階層構造が作られるというのだ (『道程』)。

彼は意識や記憶が継続的な「再分類」によって維持されると考えている。「マップ」には「アップデート」が必要なのだ。それは、特に体の動き、それも滑らかで規則的な体の動きに依存しているという。この作業は大脳基底核の働きが不可欠で、エデルマンはそれを「継続する器官」と呼んだ (『レナードの朝』)。

太極拳やヨガやダンスは、脳にもよいのかもしれない。確かに、僕の年齢では中学生の時に度々感じたような空間の中を滑っていくように動くという感覚は最近ない。近所にも高齢化の波が押し寄せて、馴染みの人が、なんかギクシャク歩いている姿を見るようになった。それが、肉体的な問題だけなんだろうかとフト思うこともある。僕の知り合いにも80代のアーティストはいたけれど、みんなかなり滑らかに動いていた。気のせいだろうか。

 

ノーベル生理学賞を受賞したイギリスのチャールズ・スコット・シェリントン は脳を「魅惑的な織機」と詩的に描写した。脳のダイナミズムは、こんな風にも表現されるのだ。「無数の杼 (ひ) がすばやく動いて、崩れていく模様を織り上げている。つねに意味のある模様だが、けっして持続しないのだ。いくつもの小さい模様が移動しつつ調和している(『道程』大田直子 訳)。」

人は目だけで見るのではなく脳でも見る。後頭葉にある一次視野には、網膜から皮質への二地点間マッピングがあって、視野に現れる光、形、それらの方向、位置が表される。そこに在る視覚系ニューロンの大集団がデータをどのように形成するかについて有力視されているのが自己組織化理論だ(『見てしまう人びと』)ニューロンがそのような大域的な変化を素早く起こすことによって何が目に見えているのかを僕たちは知ることが出来るといわれる。

自己組織化は物理的なある条件が揃うと、まるで指揮者でもいるかのように物質が一糸乱れず、あるシステムを形成する働きを指している。結晶のように静かにゆっくりと形成される場合もあれば、台風のようなダイナミズムを持つ場合もある。雪の結晶の生成、荒れ狂う波のうねりと渦巻、ベロウソフ・ジャポチンスキー反応のような周期的に振動する化学反応にも見られる。とりわけ、生物の生命活動には欠かせない働きだ。

脳の中で起こっている動的な「時・空間のパターン」のようなもの、つまり、エデルマンのマップ、シェリントンの言う小さな模様が記憶に関わる重要な要素となるのである。

 

物語りのある神経心理学

脳の左半球のある部分に損傷があると失語症が起きる。『失語症』を著したフロイトはもっと複雑な生理的原因で「失認症」が起こると考えていた。脳の右半球は左半球より原始的と考えられている。左側には高次な中枢機能が集中しているからである。右半球には事実を認識するための重要な機能があるが、それは当然動物にもある。べーシックな機能を司る右側に高度な機能を司る左側が繋がっている。

右半球で障害が起きる場合、自分の問題がなんであるのか本人が知ることは、ほとんど不可能だという。それまで研究されてきたのは左半球に関するものがほとんどだったのである。右脳には知られざる部分があるらしい。脳考古学、人類学のジュリアン・ジェインズは右脳を神々が判断するのに相応しい場所とさえ呼んだ

アレクサンドル・ルリア(1902-1977)
神経心理学の草分けとなったロシアの心理学者。

『妻を帽子と間違えた男』に登場する音楽教師のP氏は、視覚的記憶に問題があり、サハラ砂漠の写真を見て、川があり、テラスのあるゲストハウスがあって、色とりどりの日傘が見えますと答えた。診察を終えたと思った彼は、帽子をとろうと妻の頭を持ち上げて被ろうとしたのである。

彼は、いくつかの主要な特質と大体の基本関係を取り込めたらそれをもとにコンピューターのように世界を構築していた。それによって作られた世界像は、外界など全く理解されていなくてもそれなりにつじつまがあってしまうのだという。脳の右半球が何らかの病気になると「病識欠損症」と呼ばれる状態になることがある。

サックス先生に大きな影響を与えたアレクサンドル・ルリアは右半球の脳のためには「個人主体」の新しい神経学が必要だと考えていた。そこでは、機械論的な神経学によってではなく「自己」や「人格」の根底にある基礎から検証し明るみにだそうとする姿勢が必要だという。この種の科学では病状の記述をする場合、物語の形を借りるのが最適だとした。それでサックス先生の著作が生まれたのだ。

 

巨大なパノラマのような記憶を見る双子

『妻を帽子と間違えた男』には異常な記憶力を持った双子の兄弟が紹介されている。タイトルもそのまま「双子の兄弟」だ。1966年にサックス先生がその兄弟に会った時、彼らは26歳だった。二人とも、自閉症、精神病、重度の精神遅滞などの診断を下されて7歳から施設に入っていた。

彼らには、たった一つだけ特異な能力があった。異常な記憶力があったのだ。意識はしていないが頭の中に過去や未来のどの日でも、その曜日を答えることが出来た。無意識アルゴリズムという言い方をされることもある。素数定理を予想した数学者・物理学者のカール・フリードリッヒ・ガウスでさえイースターの日を算定するアルゴリズムを作るのは、容易ではなかったと言われる。彼らは、足し算引き算が正確にできなかったし、割り算は何のことか分からなかった。

過去の日付なら、その日の天気や政治的事件、二人に起こったことが何の感情もなく告げられた。幼年時のつらい思い出も、人から受けた侮蔑やあざけりもあったはずなのにである。個人的な要素や感情が抜け落ちていた。この種の記憶にはパーソナルな性格がないかのようだった。

オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』
この本も素晴らしい。

どうして、6桁以上の素数を言い合ったり、三百桁の数字だの、過去40年間にあった何千億という事件を頭の中に入れておけるのかと聞くと、彼らは、さらりと「見るだけなんです」と答えた。この不思議を解くカギは「見る」ことにあるのだとサックス先生は気づいた。この双子の目の前には、途方もない巨大なパノラマが開けている。それは一種の風景 (ランドスケープ) で、過去の経験が映し出される。質問されれば、眼がくるっと動いたと思うと、ぴたっと動きが止まって、何かを凝視する。

二人のテーブルにあったマッチ箱が落ちて、中身が出てしまった。「百十一」と二人が同時に叫んだ。落ちたマッチの数を時間をかけて数えるとぴったり百十一本あったのである。サックス先生は「どうしてそんなに早く数えられるの?」と聞いた。彼らは「数えるんじゃないですよ。百十一が見えたんです」と答えた。一瞬のうちに全体の数も見えるのである。これは幻覚というのだろうか。

彼らは、頭の中に巨大な壁掛けのような記憶の織物を持っている。それは、ボルヘスの『伝奇集』にある『記憶の人フネス』やルリアの『偉大な記憶力の物語』に出てくるシィーを思い出させるという。「世界が始まって以来、あらゆる人間が持ったものをはるかに超える記憶を、わたし一人で持っています (鼓 直 訳)」とフネスは語る。普通の人の織物はシェリントンの言うように織る端から崩れてゆくのに彼らの織物は、あるカテゴリーに関するかぎり完全無欠らしい。観念や概念の介入なしにその織物の中の模様を見ることが出来るのだろう。

おそらく、記憶には、アップデートの必要がある断片的なものと、このような完全な状態を保っているが、通常は抑制がかかっていて全体が見えないものとがあるのではないだろうか。きっと、全てのカテゴリーが一挙に見える状態になったら正常ではいられなくなる。完全な記憶を保っている織物というとホログラフィック仮説を思い浮かべる人もいるかもしれないが、直ちに結び付けるのは控えたい。

ライプニッツは、音楽から受ける喜びは無意識に数を数える喜びから来るとピュタゴラス的発言をしているらしい。彼ら双子たちは、数に対して「図像的アプローチ」ができるのである。ニーチェは宇宙にあるシンフォニーの反響を自己の内部に聴き、それを観念の形にして外の世界に投射すると述べた。この双子の兄弟にとっては、宇宙のシンフォニーは数の形をとって見えたのではないかとサックス先生は言うのである。

 

「調和的(ハーモニカル)」であるということ

サックス先生らしいと思うのだけれど、こう述べている。「人間の魂は、その人のIQに関わりなく『調和的 (ハーモニカル)である」「なにか究極的な調和あるいは秩序を見出したい、それを感じたいという欲求は、その人の能力がどうあれ、どんなかたちをとるにせよ、誰の心にも普遍的に存在している」と(『妻を帽子と間違えた男』高見幸郎、金沢泰子 訳)

脳は生き物だ。胃には胃の言い分があるように脳には脳の言い分がある。脳は病気や欠損に応じて広範囲の再編成や再マッピングが出来る可能性を持っているが、限界もある。片頭痛や癲癇のような異常事態には、ある種の前兆として幻覚を生じさせ、時に機能分化し忘れて共感覚という、ある人たちにとっては特別な恩恵を与えてくれたりもするし、知的な障害を持つ子供たちに数という宇宙を残してくれたりもするのである。しかし、時に盲目の人たちに幻覚を見せて困らせたりもするし、抑制が外れてエネルギー過剰になれば、チック、衒奇的症状、唸り声、悪態といった困った状況をもたらすこともある。

フロイトは、精神分析の目的は、虚偽や空想的な追想を本当の過去の記憶、回想と置き換えることだと述べたという。人間のアイデンティティを形成するのは、その人の人生の記憶だ。サックス先生は、経験は図像的に纏められるようでなくては経験とは言えない、行為も図像的に纏められなければ行為とは言えないという。歩く場面を思い浮かべて体をバラバラに動かすだけでは歩けない。それらを統合する体のリズムが思い出せなければ歩けないのだ。

そして、「脳にとどめられたすべての物についての記録」は図像的なものにちがいないという。図像的なものとは、内なる「旋律」や「場面」のようなものを指している。そのような図柄 (パターン) には「経験」を成り立たせる内面的な特質があり、それを取り戻すことが治療の大いなる手段の一つになり得るという。

手足が自由に動かせないパーキンソン病の患者もダンスの中では、体を安定させられる。重度の知的障害を持つ人が演劇の中では普通の人と同じように語り、演技できたりもする。失認症の人も音楽を口ずさめば、それを導きの糸に着替えや食事を何とか出来る人もいる。トゥレット症候群の痙攣性チックも音楽の中では止まる例は事欠かない。音楽療法などは極めて高い効果を持っている。関節や筋肉を動かす時、連続する感覚的な流れのようなものがある。意識や記憶には滑らかで規則的な体の動きが重要だ。ベーシックな部分で、間の経験は、視覚的、劇的、音楽的、舞踏的な経験によって統合されている。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、一さじの紅茶に含まれたマドレーヌの味が記憶を呼び起こす。記憶と心にはプルースト的なものがあるのだとサックス先生は言う。脳が算定的、プログラム的な要素を多分に持っているとしても、脳における表現の最終的な形態は「芸術(アート)」にあるとサックス先生は言うのである。見ること聞くこと感じたことは、芸術が持つ香りのように織り上げられた心の模様として記憶に残る。記憶を織り上げる図式に関わり、それらを根底で調和させるものは芸術的な要素なのだ。アートは文化だ。文化は良き時代にのみ享受される贅沢品ではないという意味が、これほど闡明にされた例を僕は、他に知らない。

今回は、「見えないはずのものが見る」という幻覚を端緒に、織り上げられる記憶には脳の図像的特質があり、治療には、その図像を回復することが助けになることを見て来た。僕たちの生活を芸術的特質が支えてくれていることを僕たちは気づかない。サックス先生の著書からは、脳の器質的異常から多様な病気が生み出されることが分かる。時には、それにめげて絶望の淵の内に亡くなっていく人たちもいるだろう。しかし、彼がいつも強調するのは、何とか自分に起こった事態に調和しようとし、自らの生活を少しでも豊かにしようとする患者たちの姿なのである。

 

参考図書 及び 引用文献

アレクサンドル・ルリア『偉大な記憶力の物語』
サックス先生に大きな影響を与えた著書。驚異的な共感覚と直感像によって特殊な記憶力を持った人の例が書かれている。フランシス・イエイツの『記憶術』と読み比べると面白い。

オリヴァー・サックス『レナードの朝』

オリヴァー・サックス『火星の人類学者』

 

「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part1 伊藤俊治『見えることのトポロジー』

 

資生堂石鹸広告 1941年 モデル 山口淑子

アメリカ版VOGUEの8月号の表紙にシモーン・ヴァイルスという有名な黒人体操選手の写真が載って色々論を呼んでいるらしい。最近のジョージ・フロイドさんの警官による暴行死の余波であることは確かのようだ。主訴は、彼女の写真が黒人らしい肌の美しさを表現していないのではないか、VOGUEは黒人のカメラマンに撮らせるべきだったというものだ。照明の加減で肌が黄色っぽく写っている。僕は迂闊だったのだが、ここで黒人の人たちには美しい肌の色についてのしっかりした基準があるということに気が付いた。翻って我々黄色人種の美しい肌の色とは何なのか、その基準が無いのではないかと不安がよぎったのである。こんなことを考えている自分は暇人なんだろうか。

黒人、白人という言い方からすれば、我々は黄人ということになるのだろうけれど、昨今の化粧品広告などからすれば白人女性のような肌の色が基準にされているのかとも思ったが、「色の白いは七難隠す」などといわれたから「白い肌」が良いという基準は、昔から日本にはある。しかし、現実の黄人の肌の色とメディアなどを通じて世間に出回っているイメージとは隔たりが大きくなりつつあるのではないか。メディアが作り上げるイメージと我々世間一般が持つ概念とは益々強力な絆を形成しつつあるのは確かだ。この、現実に見るということとメディアから見せられるということとのギャップについて考えて見ようというのが今回の「見えていたものが見えなくなる」を書く契機だった。タイトル後半の「見えないはずのものが見える」は次回ご紹介する予定です。

 

ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品――そのパースペクティヴ

 

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』

柿木伸之(かきぎ のぶゆき)さんのベンヤミンを紹介する新刊『ヴァルター・ベンヤミン ―― 闇を歩く批評』が出版されて、しばらく経った。これについて書こう書こうと思いながら、いまだ踏み切れないのは、僕がベンヤミンについて抱いている幾つかの疑問が解けていないからである。例えば、『複製技術の時代における芸術作品』に出てくるアウラという言葉だ。AURAは、通常オーラを示す語だけれど、ベンヤミンによれば、「どんなに近距離にあっても近づくことが出来ないユニークな現象」「ある夏の日の午後、ねそべったまま、地平線をかぎる山なみ、影を投げかける樹の枝を眼で追う――これが山なみの、あるいは樹の枝のアウラを呼吸することである」と定義されている。

肉体的な緊張はないが、呼吸するとあるからこれが隠喩だとしても、身体の内外にも関わるものであると分かる。そして、見る対象との間には埋めることのできない距離があり、眼で追うことによる時間感覚が発生する。外界+肉体+感覚のある特殊な精神状態であることは間違いないだろう。それを実物を前に感情移入した状態と安易に考えてよいのかどうか分からない。今回は、見るということがどのような変遷を経て来たのか概観してみたいと思うので伊藤俊治 (いとう としはる) さんの『見ることのトポロジー』をご紹介するのだが、まず、ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』をプロットします。

礼拝される「いま」「ここ」

例えば、オリジナルの絵画には経年の物理的変化と、所有者の変遷といった歴史が伴う。それと対峙することは「いま」「ここ」という一回性と歴史的な時間が交錯する場に立ち会うことである。太古に呪術的な儀礼から出発した芸術は、宗教的伝統に浸かって発展してきた。近代までの作品のほとんどは礼拝的な要素と関わっていたのである。「ほんものの芸術アウラ的性格を持ち、比類のない価値を体現するのは、他ならぬこの儀式性にあるとベンヤミンは述べる。しかし、複製技術による写真などは、一時的なもので反復可能なものだった。それらの侵略によって芸術の危機が叫ばれると、芸術は「芸術のための芸術」という芸術的神学の中へと逃げ込んだ。しかし、従来の芸術であろうと複製芸術であろうと、芸術作品のアクセントは展示的価値に置かれるようになるのである。

ウージェーヌ・アジェ(1857-1927)
サン・ルスティック通り 1922年

礼拝価値から展示価値へ

礼拝的価値は、最後の逃げ場を写真に撮られた顔の中に見出す。愛する人の顔の表情にはアウラの最後の活動領域があった。そして、人間が写真から姿を消すとき、展示的価値が礼拝的価値を凌駕する。例えば、ウージェーヌ・アジェの何気ない通りの写真はドキュメントとしての価値を持ち始めるのである。そこには「あの時」「あそこ」があった。一方で演劇と好対照である映画における美学の問題は、写真よりももっと厄介らしい。サイレント時代に映画の意義は、宗教的秘跡まではないが超自然世界の中にまさぐられているとベンヤミンは言う。

大衆の享受的態度

絵画は常に少人数による鑑賞を要求した。今日のように大勢の人間と直接対峙するような事態では、このことが足枷になるという。作品を美術館や画廊で大衆の面前に展示しようとする試みが起こっても大衆がこのような鑑賞に自己を開いて作品との一体化を会場全体で共有するという道は、まず存在しない。こんなところで場違いな声はあげられないのだ。しかし、映画では悲しい場面のすすり泣きとか、会場にある種の共感が漂っているように感じられることがある。グロテスク映画の中では恐怖という共感が起こり、それでも享受的態度を見せる大衆がシュルレアリスムの絵画の前では保守的で拒否的な反応をみせるとベンヤミンは言う。

特別な視覚の提供

フロイトの『日常生活の精神病理学』以来、ちょっとした言い間違いが突如、心の深層のパースペクティヴを開くということが起きるようになる。精神分析は、知覚の幅広い流れと共に押し流されてきた無意識的なものを分析可能にしたのである。映画もまた、視覚的記号世界や聴覚的記号世界全体にわたって同様の知覚の変化をもたらしたとベンヤミンは言う。映画の中では人体の標本模型のように人間の動作が奇麗に標本化される。この映画画面の圧倒的状況描写力は他のメディアを凌駕する。そして、科学と芸術の相互浸透を促進した。それは、高速度撮影や微速度撮影といった人間の持つことのなかった特別の視覚を提供するようにさえなるのである。

マルセル・デュシャン『泉』1917
撮影 アルフレッド・スティーグリッツ

新たな鑑賞形式

従来の芸術作品の魅惑的外観と圧倒的美しい響きは、享受者に精神集中や瞑想をもたらしてきた。しかし、ダダイストたちの作品の前では、芸術はスキャンダルの中心となる。男性用便器をそのまま展示するデュシャンの『』は、その典型的な作品の一つだろう。そこでは、芸術作品が公衆の怒りをかわなければならないものだったのである。映画は、けっして鑑賞者を瞑想に誘わないし極度の精神集中を要求しない。そもそも目まぐるしく展開する場面はそんなことを許さない。ダダイストは作品の無用性を獲得しようとして従来の鑑賞とは別の事態を引き起こそうとした。同様に芸術が大衆を動員しようとする場所では、鑑賞形式の新たな適用が行われる。映画館では観客は試験官を務めるが、それは極めて散漫な注意力の試験官だとベンヤミンは言うのである。

知覚の深刻な変化

映画の中において見られる芸術作品に対する散漫な姿勢は、知覚の深刻な変化に対する兆候であり、芸術のあらゆる分野でそれは顕著になりつつあるという。さすがにベンヤミンは鋭い。そして、現代の人間のプロレタリア化の進行と広範な大衆層の形成が同じコインの裏表であり、大衆は現在の所有関係の変革を迫っている (共産主義のこと) が、ファシズムは所有関係はそのままにしてプロレタリア大衆を組織化しようとするという。それが行き着く先は政治生活の耽美主義、マスコミをコントロールし大衆を征服して指導者崇拝の礼拝的価値を作り出すことだというのだ。

見世物の犠牲

この耽美主義への努力は必然的に一つの頂点を目指す。戦争である。ファシズムは技術によって変化した人間の知覚を芸術的に満足させるために戦争に期待をかけた。ベンヤミンは、ホメロスにとっては人間がオリンポスの神々の見世物であったが、今、人間は人間自身のための見世物になったという。人間の自己疎外は人間自身の破壊を最高級の美的享楽として味わうまでになったのである。やがて、ベンヤミン自身がその見世物の犠牲となる。ともあれ、こう見てくるとベンヤミンのアウラは、リアルな現実」に向き合った時に鑑賞者に瞑想とか精神集中とかを生起させるようなある前触れと見てよいのではなかろうか。ベンヤミンとは関係ないのだけれど、興味深いのは、脳神経医学などで脳の疾患によって特有の症状が現れる前に起きる前兆をアウラと呼んでいることだ (オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』)。

 

伊藤俊治『見ることのトポロジー』から

 

ジョン・バージャーはイギリスの美術批評家で、彼の他4人で構成されたテレビ番組「Ways of Seeing」をテキスト化したものが1972年に『イメージ』というタイトルで出版されている。これを翻訳した伊藤俊治 (いとう としはる) さんが、解説として書かれた『見ることのトポロジーが、ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』を踏まえ、バージャーの論を敷衍する形で20世紀までの視覚芸術を述べている。ここでは、ベンヤミンの言う知覚の深刻な変化に対する兆候とは何かが明らかにされる。今からそれをご紹介したい。

伊藤さんは1953年秋田生まれ。東京大学文学部美術史学科を卒業され、多磨美術大学や東京芸術大学先端芸術表現科で教鞭を執られたようだ。特に写真史についての著作が多いとある。詳しい履歴の紹介は残念ながらない。

 

カメラ・オブスキュラ
上 17世紀のカメラ・オブスキュラ
下 今日見られるカメラ・オブスキュラの映像 テクニカルコレクションドレスデン

対象化される視覚

美術の大きなエポックの一つとして、15世紀の透視図の発明が挙げられる。ブルネレスキの透視図は、次々と展開する時間軸の視野からたった一つの視点を取り出し世界像を切り取る。それまでの人々にとって混沌とした表象の連続から全てを統合できる神の視点とも言うべきものをもたらす技法だった。それを逆手にとったのは16世紀の画家エアハルト・シェーンのアナモルフォーズだった (巻末参照)。それはともかく、透視図の技法は、レオン・アルベルティによって空間と存在との関係性の中で「表現される全てのものが目に見えるものそっくりに浮かび上がって見えるようにする技術」として目的化されるようになる。

第二のエポックは19世紀後半の写真機の出現だった。フェルメールが絵を描く時に使っていたといわれる従来のカメラ・オブスキュラ (ピンホールカメラと同じ原理) は、飛躍的に改良された。細密な風景画によって劇場ジオラマを創り出したルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが、簡易な撮影技術を開発し、この写真術はあっという間に世界を席巻し、複製技術時代の本格的な到来をもたらしたのである。ある意味でルネサンスの画家たちは不完全ながらも現在の写真が成し遂げたことを先取りしようとしていたのかもしれないと伊藤さんは言う。これらのエポックを通じて起きて来たことは、透視図と同じ原理、つまり人間の連続的な視覚の中から一つの場面を切り取って人間の視覚世界から別の世界へと客体化する作業だった。その結果は、人間に世界を眼前に置いて所有するという意識の変化をもたらした。観光地へ行って実物を眺めるよりも写真を撮ることに熱中するのはその表れの一つである。東洋は主客を明確に分離しようとはしなかった。

 

写真と大衆化

この視覚的欲望は、革命後の19世紀フランスで政治の主導権を握った振興中産階級における社会システムに巧妙に組み込まれたという。この教訓と美徳を重んずるブルジョア的市民主義に反発したのがフランスを中心に勃興した象徴主義デカダンスだった。ボードレールやヴェルレーヌの詩、それらはブルジョア文化を逆撫でするものだったのだ。しかし、この所有欲は人々の精神構造を変化させ、世界を唯一の視点から眺める文化は眼を自己の内部へと閉塞させていった。表象と実物との絆は、徐々に遊離しはじめるのである。自己は閉じる病に侵されていったと伊藤さんは言う。

ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787-1851)
上、半透明キャンバスに細密描写された劇場用ジオラマ風景画多方向から光が当てられ圧倒的な効果を生んだといわれている。
下 ダゲールの写真 1837年

先ほど述べたダゲールによって開発された写真術は、ダゲレオタイプと呼ばれ、露光時間を大幅に短縮し、撮影した映像の定着、保存技術を確固としたものにした。この頃、パリでは万博が開催され新しい波が押し寄せていた。1861年にはパリだけで3万の職業写真家がいたと言われる。その写真家のなかにナダールという仇名で知られるガスパール=フェリックス・トゥールナションがいた。現在のメイプルソールやアヴェドンの作品を先取りしていると伊藤さんは言う。この人はとても面白そうな人なので、機会があれば、ご紹介したい。

当時の写真スタイルは、舞台装置や書き割りの前に表情やポーズを決めた人間を置く定型を作り上げた。写真機の前で、人は社会的な地位や仕事に応じたある役割を強制されることになる。肖像写真は、モデルの社会的地位などを強調する肖像 (エフィジィ) と個人の独自な内面性を表出しようとするポートレートに二分されるようになった。ナダールのような写真家たちの作品がポートレートと呼ばれる。

しかし、1871年のパリ市民と労働者階級の蜂起によって第二帝政政府を退け革命的自治権を確立したパリコミューンが成立する。その頃を境に大衆化が一気に進むとエフィジィが写真のほとんどを占めるようになる。ドガは肖像絵画から手を引き、ナダールもポートレートを撮らなくなったといわれる。ここから肖像写真は非象徴的で、非歴史的な人々の大量の断片となり、大量消費社会への高らかな前奏曲となっていったのである。

 

美術という制度の確立

ナダール(1820-1910)
サラ・ベルナールの肖像写真 1864年頃

18世紀中頃から王侯貴族の美術コレクションは美術館や博物館の中で開放されていった。ルーブル美術館は王権とブルジョアジーの遺産を保管する場所と考えられていた。この絵画や彫刻を隔離し、陳列する美術館の出現によって芸術は自律的なものとなる。財宝と神殿という二つの出自を持つと言われるこの建物は、切り取られた世界の断片を所有し、その威厳を高めることによって宗教的なムードを持ち、世俗化した異物ながら礼拝の対象ともなっていった。芸術を芸術自身で自立させることによって、芸術こそ最高の価値と見なす信仰が始まるのである。

美術館に収められた作品は、あらかじめ芸術であって、人々を道徳的に導き、教育し、向上させる社会的機能を持つと捉えられることが当たり前となっていく。この18世紀的啓蒙精神に支えられた美術館が国家の中でのそのような役割を期待されるようになると、芸術は政治的制度の中に組み込まれていくのである。そして、19世紀後半以降にブルジョアジーのコレクターに代わって美術商が現れ、しかるべき宣伝と戦略によって美術品は消費と投機の対象となっていったのである。

20世紀に入って、こうした美術制度に反対するアーティストたちは、ダダ、シュルレアリスム、ニューペインティング、フルクサスなどにおいて反芸術運動を繰り広げてきたが、それらは常に美術の制度へと同化されていくのが常だった。伊藤さんは、まず作品を作るということ自体が、今のこの時代の制度に嵌め込こまれているということを認識しなければならないと述べ、今迄の美術史はそれを隠蔽し、作品の自律性ばかりを云々し、芸術を芸術の中で独立させることに腐心してきたという。ここにはアートの社会学があるが、その傾向こそは近代の自閉化するヴィジョンに拍車をかけるものであったと言うのだ。

 

パノラマ的視覚と管理社会

現存するパプノティコン プレシディオ・モデーロ(キューバ) 内部(上)と外観(下)

ジオラマが出現する50年くらい前に、全ての眺望という意味の光学装置であるパノラマが1787年にイギリスの画家ロバート・バーカーによって発明された。負債のために投獄され、その監獄の中に入り込む光の効果からヒントを得たと言われる。大きな半円型や円弧の壁にぐるりと正確な遠近法によって街や風景を描き、色々な光を当てたり、画面の前に実物を置いて、それを円の中心から眺めるものだった。

パノラマが出来たのとほぼ同じころ、やはりイギリスのジェレミ・ベンサムによってパノラマを彷彿とさせる監獄が考え出される。ミシェル・フーコーによって知られるようになった近代管理社会の空間モデルだった。円形状に配置された独房を中心から一元的に監視できる。それは一点から周囲の現実をくまなく切り取っていくガラスと鉄の機械である写真機の視覚の延長上にあった。19世紀末アンリ・ベルグソンが『物質と記憶』の中で、私たちには一つの動的な連続性が与えられているだけなのに、事物を写真のように分割された諸個物と思いこんでしまうことに警戒を催している。実際には空間のあらゆる点に向かって既に撮影され、現像されていると言うのである。

「絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすへて紛 (まが) いの人為的な分割である(アンリ・ベルグソン『物質と記憶』合田正人、松本力 訳)。」

 

複製技術時代

複製芸術は存在の場と結びついたオリジナルの「今」「ここ」という性格を失効させ、人々が全身で感じ感情移入していく空間ではなくなり、自らの周囲に対象化する表層的な対象となった。オリジナルはその権威を失っていくのである。ベンヤミンの言う知覚の深刻な変化は従来の物を見る力を失わせつつある。これは聴覚にも言える。現実の空間に鳴り響く音はヘッドフォンやイヤフォンの中の空間では再現できない。音は空間を作るのだ。

もう一つ重要な指摘を伊藤さんはする。人々が複製に取り囲まれるようになると、作品のスタイルや空間性よりもその視覚的内容や情報に注意が向けられていくことである。アート雑誌や美術の全集はこのような考えに基づいているという。人々は直に見て考えるよりも写真のフラットな表面を現実を表す基準と考えるようになる。そこには物のテクスチャーも匂いも、重さも、光によって様々変わる色の変化もない。一方で複製によって多くの国々の芸術が比較可能となり、美の基準が相対化・多様化していった。同時にオリジナル作品が持つ歴史とサイズの感覚を無きものし、「大衆のための芸術」という図式を作り上げ、追い求められるものではなく、すべての人々に捧げられるものとなった。

 

広告の誕生

ケロッグのクリスピー (左) とシェル石油 (右) の広告

博覧会の祝祭的興趣は、やがて生活の中へも浸透し始めた。劇場やサーカスで行われるような刺激と驚異と新奇を求めて人々の欲望はショーウインドーのガラスを通して見るパノラマへと駆り立てられていった。見ることの快楽はやがて映画やテレビを生みだしたが、一方で、写真技術と印刷技術は手を携えて広告という新たなメディアとなった。広告は街へ衣服へ住宅の周囲へと環境の一環になり始める。

 

民家に設置されたホーロー看板広告

1960年頃までは、商品そのものを強調する即物的な広告が多かった。金鳥の蚊取り線香の広告には蚊取り線香しか描かれていなかった。でも、今見ても結構イカシテルと思う。やがてボンカレーに琴姫七変化の松山容子さんが登場した。これらの看板広告は、どんな田舎にもあって今だに印象に残っている。記憶はボンヤリだけれど、松山さんは、当時人気の粋な女優さんだった。その映像もYoutubeにUpされているので驚いた。Youtube恐るべし! それはともかく、広告にタレントさんが商品と一緒に大写しにされるのもかなり前からである。こうして徐々に広告体系のようなものができる。60年以降は、ムードやイメージそのものを売りにする広告へとシフトしていった。広告は唯物主義の時代の神話を築いていくのである。売れるものへの戦略は人間の無意識へと攻撃の対象を移していった。瞬間的な映像は強力な視覚言語となる。ロシア構成主義やエイゼンシュタインのモンタージュ、シュルレアリスムの映像に見られる視覚的方法論はナチス政権下で研究され、1970年代頃からアメリカの広告界で花開いたという。

 

無意識を攻撃する広告

カルヴァン・クライン アンダーウェアー広告

1990年頃にサブリミナル効果といわれる無意識に働きかける効果が取りざたされたことがある。通常のスピードの映像に知覚できないスピードの映像を挟み込んで宣伝効果を上げようというものだった。ほんとうにそんな効果があるのかどうかはよく分からない。しかし、水着や下着、煙草など多くのジャンルに「ある種のイメージ」が扱われるようになる。ジェンダーの取り換え、三角関係の暗示、性的刺激の先鋭化などといった挑発するファクターが広告の中に現れてくるのだ。広告は社会的禁忌や倒錯を介入させることによってイメージをより強烈なものに変えていった。それらの映像は意味の検閲を受けないメッセージとなって、我々の内部に入り込み、心の深層をマッサージするのだ。

して、今日では新たなメディアの変化が起こりつつある。第三のエポックが到来している。映画、テレビについでCGやネットの時代がやって来たのである。氾濫する大量のイメージは、常に「見える」という状態に置かれる。あらゆるイメージは「見せる」ために作られ世界を覆い尽くした。そのいわば「広告的トポス」と伊藤さんが呼ぶ領域では、イメージの背後にある現実は忘れ去られ、その手前に立ち現れるイメージと眼との間の不確かな領域において見るという経験が生起すると言う。広告が我々に顕わにしたものとは、見えるものでもなく見えないものでもない我々の見る欲望そのものであったというのである。社会現象の根本にあるものは欲望と信念だと社会学者ガブリエル・タルドは述べた。広告はその欲望の中でのみ生きることができるのだ。

 

新たな感覚の創出

色々な映像をMRIの中で被験者に見せて脳の活動を記録し、そのデータを数式化して「脳の映像言語 」(脳情報デコーディング) を作り上げる。別の映像 (左) をMRI内で被験者に見せて、脳の活動を記録すると同時に「脳の映像言語」に通して予測値を作り、観察された活動とこの予測された活動とが類似したものの映像 (右) を掲載している。しかし、この右の映像は発展途上なのか、このようなボンヤリした映像が脳の別の領域で明確化されるのかは、よく分からない。

 

メディアの時代の視覚的変化は二次元的な変化として集約される。そこでは、三次元の奥行きが二次元化されて把握される。奥行きの感覚は退化せざるを得ない。モノづくり立国も危ういのではないか。ある宮大工の棟梁が弟子にテレビを見る事を禁じたというエピソードがあるけれど、このことに関連しているだろう。人間は、「作る人間」から「感覚する人間」へと移行し、眼は身体から切り離されて一つの自律的な体系となり、記号的視覚人間へと導かれつつあると伊藤さんはいう。無数のイメージや記号同士の網の目の中で曖昧で不確かな記号自体の仕組みの中にすっぽりと埋め込まれていく。一方でコンピューターによる映像は映画を超えた全く異なる視覚的世界を提供し始めている。脳の意識レベルの映像さえCG画像は関与し始めた。脳情報デコーディングは人間が見る夢の映像さえ実現可能にしようとしている。それは、もう一つの新たな感覚の創出と言っていいだろう。

 

分離する感覚

ジョン・バージャー『イメージ』
伊藤俊治『見ることのトポロジー』
パルコ出版 1986年刊

伊藤さんは、この著書で「見るということ」がどのように作り上げられ、現在どのような方向に進みつつあるのかを概観し、そうした状況の中で見ることの始原を問い直そうしている。結論は、「見せる」ことが人間の記憶や概念を縛りあげようとしている現在の枠組みから人間を解放し、思考と知覚との一体感を回復すことによって「肉体を持った眼」を取り戻させるということだ。結局、本物に多く触れる他はないのだが、大衆の感覚がレベルダウンしていくとしたら、アートの世界も沈没していくほかはないのかもしれない。かなり深刻な問題なのだ。

マクルーハンの言うように印刷文化が人間経験を知性と感性に分離させたとすれば、メディアのデジタル化は人間経験の厚みを平板化し、感覚を分離しようとしていることになる。脳神経医学者のオリヴァー・サックスは『音楽嗜好症』の中でこう述べている。

「人は自分の感覚を当たり前と思っている。たとえば目に見える世界は、奥行き、色、動き、形、そして意味がすべて完璧に調和し、同期しているものと感じる。このように見かけが調和しているので、眼の前のたった一つの場面がじつは種々雑多な要素で構成されていて、そのすべてが別々に分析されてから統合される必要があるとは思いもよらないだろう(大田直子  訳)。」

このテクノロジーメディアの進化と洪水は止まることはない。その洪水が、僕たちの統合される必要のある感覚を徐々に解体しようとしていることに僕たちは気づかない。ベンヤミンは既に気づいていた。気を付けておかないと見世物の犠牲になるのだ。

 

参考作品

エアハルト・シェーン(1491-1542)アナモルフォーズ(歪像)。四人の人物の顔が透視図を用いて歪められている。バルトルシャイテスの『アナモルフォーズ』にはこのような色々な歪像が登場する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考図書 及び 引用文献

柿木伸之『ヴォルター・ベンヤミン ― 闇を歩く批評』

アンリ・ベルグソン『物質と記憶』

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』
音楽関係の人には結構怖いことが書かれている。

領家高子『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』 一葉舟は見事浮かび‥‥

樋口一葉(1872-1896)

舟は一葉、黄帝の故事は観阿弥の『自然居士』に結ばれ、桐の一葉は達磨の乗った葦の葉となり樋口夏子の本郷丸山福山町の住まい水の上に見事浮かんだ。

と述べても一体何のことやらと思われるでしょう。僕は文学関係の人間ではないし、文を書いて糊口を凌ぐこともできないので、ただ興の赴くままに色々な本のことを書いてきたのですが、極たまにメッセージを頂くことがあって、そのお一人が今回ご紹介する領家高子 (りょうけ たかこ) さんでした。ウィリアム・ブレイクと柳宗悦の関りを書いた時のことです。今回は小説家の領家さんの恐らくライフワークと言ってもよいのではないかと思われる樋口一葉にまつわる著書を縦軸に少し他の文献も交えてご紹介したいと思っています。

領家高子 (りょうけ たかこ) さんは、東京墨田区の向島のお生まれ。お生まれの場所にちなんだ『向島(むこうじま)』という花街の芸者を主人公にした小説は、さわやかなハッピーエンドで終わります。東京外国語大学ドイツ語学科中退、渡米され、アメリカ・ロサンゼルスで生活されたようでが、帰国後、1995年、『夜光盃』で小説家デビュー。舞踊劇の創作などにも携わりながら歴史・時代小説を主として書いてこられた。2001年、『九郎判官』が泉鏡花文学賞候補となります。歌舞伎・遊廓など近世情緒に関心が深いとありますが、とりわけ、樋口一葉には深い愛情を傾けてこられたようです。

 

越境するストーリー

「‥‥人の一生を旅と見て、まだ出立の二あし三あしがほどなる身には、是れのみにも非ざるべし。道のさまたげいと大からんに、心せでは叶はぬ事よ」と思ひ定むる時は、かしこう心定まりて、口惜しき事なく、悲しき事なく、くやむことなく、恋しき事なく、只 (ただ) 本善のぜんに帰りて、一意に、「大切なるは親兄弟、さては家の名なり。これにつけても我が身のなほざりになし難さよ」など思ふ折しもあれ、又さる人に訪 (と) はれなどして、かの人のことふと物がたり出たる(樋口一葉『にっ記』明治25年5月)。

領家高子『八年後のたけくらべ』
『お力のにごりえ』『葬列』『日記』収載

祖父は、甲府の農家の三男で俊敏な頭脳の努力家だったが失意の中で死に、父は、一生を士分に対する憧れと反発の中で揺れて過ごし、結局は偏屈な変わり者として市井に身を捨てることを選んでしまったとお力は語る。それは一葉の『にごりえ』ではなく、領家さんの『お力のにごりえ』にそう書かれている。

一葉の実際の祖父も甲斐の国の長 (おさ) 百姓で学問もあり進取の気性にも富み、父は、幕末に同心株を買い、運良く幕府直参となりました。明治維新後には下級役人として士族の身分を得て明治政府の官となり東京府庁に勤めましたが、明治9年に東京府庁を退官して起業します。しかし、負債を残したまま他界してしまう。一家は窮乏し始めます。兄は早くに結核で亡くなり、姉は他家へ嫁ぎ、次兄は勘当されてのち薩摩金襴 (にしきで) の陶画師になります。一葉は16歳で樋口家の戸主となり家を背負わなければならなくなる。家を存続させる為には婿養子をとらねばならない立場となったのです。

領家さんは、一葉の足跡をかなり丹念に調べてこられたようです。それらの知識をもとに一葉の作品をご自分の想像力のままに本歌どりされている。あの『たけくらべ』のその後を小説にし『八年後のたけくらべ』を書き、一葉の日記が世に出るまでを妹の邦子が語る『日記』を書いておられる。この『八年後のたけくらべ』では意外にもあの頭もよく愛敬ある高利貸し田中屋の正太郎(正吉)が、成りあがって実業家となり、美登利の姉で廓の火事で大やけどした大巻太夫を身請けするという展開になっている。太夫となった美登利もいずれは救う気でいるのです。その後もの」を書くについては色々なご意見もあるかもしれませんが、領家さんが何を越境したのか、何を重ねたかったのか、これを見ていくことはなかなか面白いのです。

 

文語文の最後の絶叫

「おのれ日々日記を作るに、言文一致なるあり、和 (やまと) めかしきあり、新聞躰 (てい) になるあり。かくては却 (かえ) りて文の為に弊害とのみなりて、利は侍らずやあらむ」とて師の君の異見とひ参らす (樋口一葉『日記』明治25年3月)

井上ひさし氏は、劇団こまつ座の公演紹介も兼ねた雑誌『the座』の創刊号で「樋口一葉に聞く!聞き手・井上ひさし」(1984)を書いていて例によって面白可笑しいのですが、一葉の文章が俗折衷体といわれ、中古の和文と西鶴の俗文を文章の骨組みとしてそこへ中古の雅言と近代の俗言、明治の語彙を加え、その時代の女性感覚を振りかけたものだと一葉女史に語っています。ここは当たっているのではないか。つまり、明治までのわが国の文章を良いとこどりして集約した。それは和文脈による文語文の最後の絶叫だと褒める。

一方で、すぐその後に言文一致体がやって来た時、口語文の文章であなたは傑作を書けただろうかと女史に意見します。女史は軽く「あたり」と言って受け流しますが、勿論これは架空のお話しです。一葉女史がもっと長生きしていたらなどと誘うのはよくある手ですが、これには引っ掛かりません。しかし、一葉女史の文語文は美しい。快進する流れの中に刻まれるきびきびとしたリズム、状況説明から直結される会話、適格な情景描写にからみあう心理描写‥‥ さて、文語の俗文と一葉女史の原文とを比較してみましょう。

さても源左ェ門その日のいでたち如何にと見てあれば、金小実緋縅 (きんこざねひおどし) の伊達鎧に同毛糸 (おなじけいと) 五枚錣 (しころ) の兜は、これぞ俵藤太秀郷 (たわらのとうたひでさと) が瀬田の唐橋にて、竜神より申し受けしと謂われある、先祖伝来の名兜なり 金にて鍬形銀青龍の前立て打ったるを猪首に着なし、腰には伯耆守安綱の陣刀を横たえ 三条子鍛冶宗近の鍛えあげたる大薙刀を小脇にかいこみ、痩せに痩せたる馬なれど大浪と名付けたる名馬にはゆらりがっきと轡 (くつわ) をはませ、向こう春風諸手綱、引き締めまたがり諸鐙 (もろあぶみ)、とおとおと乗り出だす (講談『鉢の木より いざ鎌倉』)

人数は大凡 (おほよそ) 十四五人、ねぢ鉢巻に大万燈ふりたてて、当るがままの乱暴狼藉、土足に踏み込む傍若無人、目ざす敵 (かたき) の正太が見えねば、何処へ隠くした、何処へ逃げた、さあ言はぬか、言はぬか、言はさずに置く物かと三五郎を取こめて撃つやら蹴るやら、美登利くやしく止める人を掻 (か) きのけて、これお前がたは三ちやんに何の咎 (とが) がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜 (よ) い、逃げもせねば隠くしもしない、正太さんは居ぬでは無いか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもささしはせぬ、ゑゑ憎らしい長吉め、三ちやんを何故ぶつ、あれ又引たほした、意趣があらば私をお撃ぶち、相手には私がなる(『たけくらべ』)

 

領家高子『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』
表紙は鏑木清方『たけくらべの美登利』
この清楚で何かを内に秘めた女性像が素晴らしい。日本はこんな女性像を失った。

虚構と現実

うき世に はかなきものは恋也。さりとて、これのすてがたく、花紅葉のをかしきもこれよりと思ふに、いよいよ世は はかなきもの。等思三人、等思五人、百も千も、人も草木も、いずれか恋しからざらむ。深夜人なし、硯をならして、わがみをかへりみてほゝゑむ事多し。にくからぬ人のみ多し。我れは、さはたれと定めてこひわたるべき(樋口一葉『水の上の日記』明治27年)。

島崎藤村には『一葉舟』という詩集がある。領家さんの『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』には、藤村が上田敏の下宿を訪れた帰り、戸川秋骨、馬場孤蝶、平田禿木 (とくぼく) らと本郷丸山福山町の小さな池が窓下にある暗く風雅な古い屋敷に一葉を訪ねたことが述べられています。藤村、秋骨、孤蝶の三人はキリスト教系の明治学院の同級で禿木を含めていずれも英語が堪能だった。秋骨や孤蝶は早稲田や慶応で教え、禿木はフェノロサのために謡曲を英訳したことでヨーロッパに能が知られる契機を作った。みんな自死した北村透谷が結びつけた「文学界」の同人たちでした。

「ぼくは、ひょつと、透谷君が生きて元気でその場にいたら、と思ったことでした。『雪の日』からずっと、一葉君のことを言っていましたからね。きっと育ててやりたかったんでしょう」と藤村が語る場面が領家さんの『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』に書かれている。文芸作品について、安直なモデル問題を論じるのは危険なことだと断りながら、『たけくらべの藤本信如 (のぶゆき) は藤村がモデルではないかと領家さんは言う。この小説に登場する若者たちの実在のモデルはあったようですが、領家さんの言うのは性格的なモデルでしょう。明治26年、1893年に藤村は、元教え子への恋のために勤めていた明治学院を辞め、頭を剃って僧同然の姿で放浪し、自殺未遂するも翌年復職する。同じ年、親友北村透谷の自殺、兄は水道鉄管の不正疑惑に連座した疑いで逮捕されていたのです。

一葉と藤村の出会いを思い、領家さんの想像力は膨らむ。美登利は一葉、美少年正太郎 (正太) は馬場孤蝶、戯け者の二股かけのちびの三五郎は平田禿木 、乱暴者の長吉は、村上浪六と彼と仲のよい星野天知。それは、領家さんに亡くなった北村透谷の詩を連想させます。信如が美登利に贈った花一輪でしょうか。

一輪花の咲けかしと、願ふ心は君の為め。
薄雲月を蔽ふなと、祈るこゝろは君の為め。
吉野の山の奥深く、よろづの花に言伝 (ことづ) て、
君を待ちつゝ且つ咲かせむ。
(北村透谷『古藤庵に遠寄す』)

信如いかにしたるか平常の沈着 (おちつ) きに似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂も泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出だし、これにてお拭きなされと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬 (やきもち) や見つけて、藤本は坊主のくせに女と話しをして、嬉しさうに禮を言ったは可笑しいでは無いか、大方美登利さんは藤本の女房 (かみさん) になるのであらう、お寺の女房なら大黒さまと言ふのだなどゝ取沙汰しける、信如元來かゝる事を人の上に聞くも嫌ひにて、苦き顏をして横を向く質 (たち) なれば、我が事として我慢のなるべきや、夫 (それ) よりは美登利といふ名を聞くごとに恐しく、又あの事を言ひ出すかと胸の中もやくやして、何とも言はれぬ厭な氣持なり(『たけくらべ』)

 

一葉舟

なみ風のありもあらずも何かせん 一葉のふねのうきよ也けり 樋口一葉

『天狗草子』三井寺巻 部分
自然居士 (最上部に描かれた人物)
東京国立博物館

観阿弥作の『自然居士 (じねんこじ) 』では舟を一葉と呼ぶ。その故事は、黄帝の臣下である貨狄 (かてき) が柳の葉に蜘蛛が乗って汀に至るのを見て舟を公案し、それを使って黄帝の軍が烏江を漕ぎ渡るという内容で謡われています。実在の自然居士は、東福寺の開山である聖一国師・円爾 (えんに) の弟子であった鎌倉時代末の禅僧です。放下の禅師と号して、髪を剃らず烏帽子を着、座禅の床を忘れて南北の巷に簓(ささら)をすり、工夫の窓を出て東西の路に狂言したと『天狗草子』にその名をとどめた。風狂の説教師、勧進聖であり中世芸能の祖であったようです。

この能のストーリーは、自分を人買いに売って小袖を得て、それを自然居士に捧げて父母の追善供養を願う少女を人買いから助け出すというもので、理屈で勝てない人買いは居士に恥をかかせようと、簓 (ささら) や鞨鼓 (かっこ/撥で打つ鼓) を打って舞いをせよと求めた。船上の居士には、簓のようなものはなく、楽器を手ぶり身振りに表現して踊り続け、対岸に到着するや娘を取り戻すという話になっています。人買いから少女を救うストーリーは、領家さんの『八年後のたけくらべ』にある太夫となった美登利を廓から助け出そうと目論む正太郎に通じるものがあります。

能楽の研究者である伊藤正義さんは『謡曲入門』の中で舟を一葉と表現する故事は中国で説くところの輸入だが、かなり早い時期に入って来たと考えられるという。鎌倉前期の和漢朗詠集永済注には既に見られ、梧桐の一葉という表現も「後漢書に云う」と鎌倉中期の『弘安十年古今集歌注』にあると指摘しています。舟は葉とも数えられる。樋口夏子の雅号は一葉です。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であったともいわれますが、一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったといいます。そのことは「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そしてに書いておきました。しかし、これは彼女独特の居直りであったかもしれない。

 

一葉舟を浮かべたのは誰か

半井ぬし扨 (さて) の給ふやう、「種々に御事多かる中を、さぞ出でがたくやおはしけん。実は君が小説のことよ。さまざまに案じもしつるが、到底絵入り新聞などには向き難くや侍らん。さるつてをやうやうに見付けて、尾崎紅葉に君を引き合わせんとす。かれに依りて『読売』などにも筆とられなば、とく多かるべし、又、月々に極めての収入なくは経済のことなどに心配多からんとて、是をもよくよく計らんとす‥‥」(樋口一葉『日記 しのぶぐさ』明治25年6月)

半井桃水(1861-1926)
全集 樋口一葉 3 日記編 小学館 掲載

半井桃水(なからい とうすい)は、対馬に生まれて韓国の釜山で育ちます。明治21年、1888年に東京朝日新聞の記者となり、朝鮮語に堪能であったため釜山に駐在したこともある。やがて、小説家としての地位を確立するようになり、一葉が小説の教えを乞い、恋心を抱いていたことで知られています。領家さんは、一葉舟を浮かべた最大の功労者をこの半井ぬしだと見ている。

キリスト教系の明治女学校校長だった巌本善治は情操教育としての小説に着目し、文学に理想を求めて『女学雑誌』を主宰していました。しかし、中流社会の宗教家・教育者の性モラルを暴いた小説が現れ、女学生醜聞報道もあり、国粋化の影響もあってキリスト教教会なども批判の矢に曝されていた時期でした。一方、桃水は明治25年に後進の育成のために雑誌『武蔵野』を発行して一葉の『闇桜』を掲載している。この年、明治女学校のある教師が一葉の作品を『女学雑誌』へ寄稿してもらえるように桃水に頼みますが、これを断ります。その教師は、おそらくは、星野天知だといわれている (全集 樋口一葉3 日記編 注)。桃水はキリスト教関係には近づかないように一葉に警告していた。これは桃水の目配りだったといいます。

星野天知は日本橋本町の砂糖問屋「伊勢清」の次男で、『女学雑誌の主筆明治女学校の巌本善治に見込まれ大学中退後、教育界に入って雑誌編集に携わります。島崎と北村らと『文学界を創刊した切れ者でした。この頃、キリスト教女子教育に関わったものにはロマンティックで自由な恋愛を支持するものが多かったといいます。天知も透谷もクリスチャンだったし、藤村も一時期そうでした。そして、三人とも文学に理想を求める明治女学校で教えていた。彼らが女性の文学者を待望していた理由はここにあるのでしょう。平田禿木が初めて一葉を訪れるのは明治26年です一葉の『雪の日』を『文学界』の三号に載せたい旨を告げます。こうして、一葉は「文学界」のメンバーたちと親しくなっていきました。

この明治25年頃は透谷が、尾崎紅葉や幸田露伴の文学を保守反動だとして厳しく批判していた時期に当たります。尾崎紅葉ひきいる硯友社は政治的にノンポリだったし、紅葉は読売新聞に入社していて発表の主要な場もそこだった。それで、桃水は一葉と紅葉を結び付けようとしましたが、結局、一葉は紅葉と会うことをしませんでした。そのことについて、桃水は自分に宛てて手紙を書くように一葉に指示している。彼女と共に後難を避けようとしたためだといいます。しかし、明治28年には硯友社系の博文館支配人大橋乙羽が一葉に寄稿を依頼し、奇跡の14か月と呼ばれる期間に入っていきます。『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』が次々と発表され、幸田露伴や森鴎外に高く評価されるようになるのです。それは、自ら水の上に浮かべた一葉舟を桃水が大海に送り出す手配だったと領家さんは言います。一葉という名の黄帝を烏江の向こう岸に渡らせた臣下が、実は半井桃水だったということになるでしょう。

 

水の上と漬物石

全集 樋口一葉3 日記編 小学館

大切なるは親兄弟、さては家の名であり、文学は糊口を凌ぐため為すものにあらずという文学者としての矜持があり、我は人の世に苦痛と失望とを慰めるために生まれた詩の神の子であるという自負があったが、誠に我は女なりけるものをと弱気にもなる。明日は食べるものもないという貧困があり、家族のために借金を乞い小商いまで決意し、胡散臭い人種にも接近した。いかにして明日を過そうかと、願うことは大方はずれて想いの外になり、全て、世の中はをかしきものと放下に似た境涯にも近づく。やがて、結核を患って24歳という若さで亡くなっていった。このような中で一葉文学は生まれました。日記をみればそのことは分かる。かつての宮廷女官の日記はフィクションで彩られたと言いますが、一葉の日記にもある種の空想はあったかもしれない。しかし、水に浮かぼうとする足掻きと憧れへと進もうとする葛藤は真実だったでしょう。日記は、時に飛び飛びに連続するその水跡だったと思われます。

一葉舟は、みごと水の上に浮かびますが、領家さんは、その後の樋口家を『葬列』という小説の中で書いています。姉夏子の葬儀の日、妹の邦子は、姉が紫檀の文机の前に座って眺めていた池の面を仁王立ちになって睨みつけている。そして、台所の漬物石を頭上高くに振り上げ、一息に振り下ろします。水が盛大に跳ね、水しぶきが座敷にまでかかった。邦子はそこに魔物が居たのだというのです。そこには、姉を虐げた宿命という名の魔物がいたのかもしれない。しかし、そうさせずにはおかなかった無理無体な何ものかは、一葉の作品の中で巨大な波紋へと変容し、今に至るまで波動し続けているのです。

 

 

参考文献 並びに 引用文献

領家高子『向島』

伊藤正義『謡曲入門』

全集 樋口一葉 2 小説編 小学館

領家高子『一葉舟』 一葉の伝記的小説

ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』タルドの波動/ドゥルーズとラトゥール

 

サルラの通り マルロー法によってフランス国内最初の景観保護地区に指定された。

ガブリエル・タルドはフランス南西部のドルトーニュにあるサルラ (現 サルラ=ラ=カネダ) に1843年に生まれた。父は地方貴族の流れをくみ、その地の裁判官を務めていたが、タルドが7歳の時に亡くなっている。数学や科学に興味を抱き、理工系の学校で数学を学びたかったようだが、19歳ころから眼の病に苦しむようになる。やがて、父と同じ道を目指してトゥルーズの法科大学などで学ぶが、またも病状が悪化して故郷で独学する日々となった。しかし、1869年26歳の時にサルラの裁判所の判事補となり、32歳の時に同じくサルラの予審判事となっている。ここまでは父と同じ道をたどったと言っていいだろう。1886年、43歳頃から『犯罪人類学雑誌』に投稿し始めるようになる。その頃の論考の一つが『刑事哲学』だった。

サルラの裁判所

タルドの時代には個人の自由意志によって犯罪に及ぶとする古典学派と犯罪者の処遇は科学的な見地から実証的に行うべきだとする実証学派に二分されていたという。タルドは、社会の犯罪率がある程度一定であることから個人の自由意志が犯罪をもたらすのではなく、外在的要因が働いていると考えていた。その外的要因の主なものは犯罪の手口の模倣や犯罪に使用される道具の普及である。犯罪は貴族階級から庶民階級へ、都市から農村へと浸透するとした。こうして後述する模倣の法則にみられるように犯罪の社会的な動向や進化といったものを歴史的な過程から説明していくのである。

社会の中のある集団について考えるうちに、タルドはあらゆる集合体を「群集」と呼ぶことを混乱の原因と考えるようになる。「群集」は「肉体の接触からうまれた心理的伝染の束」であるが、「公衆」とは「純粋に精神的な集合体で、肉体的には分離し、心理的にだけ結合している個人たちの散乱分布」だと考えるようになった(『世論と群集』)。彼は、集合体の結びつきが身体的なものであるか、あるいは精神的なものであるかということによって、「群衆」と「公衆」という概念を同時に作り出したといわれる(『模倣の法則』解説)。

 

あらゆる事物は複合体であり色々な要素となる構成物だと考えた。それを遡れば無限小の事物に到達する。それは物ではなく精神的実体であった。つまり、ライプニッツのモナドである。その要素同士を結合する力は「信念」と「欲望」であるという。欲望は自己が拡大する力、信念は要素同士を結合し維持する力である。彼は、独自の精神一元論の立場から社会学を構想した。個人は自分自身の内に動因を持つ自発的存在であって、エミール・デュルケムが考えたように社会などによって拘束される他律的存在ではなかった。この精神原理は物質、生命、人間社会に共通する原理であり、原子、細胞、個人はそれらによって結合される。こうして、このテーゼが導き出される。

あらゆる事物は社会であり、あらゆる現象は社会的事実である(『社会法則/モナド論と社会学』村澤真保呂、信友建志 訳)。」

 

無限小の事物

鳥の俯瞰的視点と虫の近接的視点と言われるが、フランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールは、徹底的な近接的視点から社会事象を記述しようとする。名付けてアクター・ネットワーク・セオリー、略して ANT (アリとも読める) である。ラトゥールのタルド賛歌を彼の著書『社会的なものを組み直す』からご紹介する。

アクター・ネットワーク・セオリー (ANT) で知られるフランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールは、タルドについてこう述べる。タルドはあらゆるものが社会であるといった。科学は細胞社会について、原子社会について、あるいは天体社会について述べてもおかしくないようにあらゆる科学は社会学の下位に位置するように運命づけられている。科学がすべて個人の計画、個人が用意した素材によって生まれ、狭い範囲を照らす光となり、小学校のあらゆる児童にさえ浸透していく巨大な光になったのと同様に宗教的教義や法体系、政府、経済体制が同じように形成されていったという。

そして、ライプニッツのモナドを一般化させることでミクロとマクロの繋がりを反転させることもできるラトゥールは言う。社会的な事象の規則性、秩序、論理は高所から全般的な作用を一望する視点に立つのではなく、不規則な細部を観察することによって得られるのであって、人間の行動を導いているのは人間であって進化の法則ではないと言うのだ。大きな事実で小さな事実を説明し、全体で部分を説明するのではなく、微積分が数学の分野において生んだ変化と同様なものを、部分によって全体を説明することで社会学にもたらすだろうと予見した。このような社会的理論の先駆者としてのガブリエル・タルドを見ていたのである。

工業製品にせよ、詩文にせよ、政治思想にせよ、ある日、人の脳の片隅に出現し、際立った特徴を有する社会的産物が、人間のいるあらゆる場所に、無数の複製を通じて自己を広げようとするとタルドは述べる。そして、存在しているということは、異なっているということであるとも言う。いわば、差異は物事に共通した、その本質的側面であり、そこから出発すべきであって誤って同一性から出発すべきではないというのだ。というのも同一性は、最も小さな差異、限りなく珍しい一変種だからだ。何らかの同一性を出発点にすれば、到底あり得ない原点を出発点としてしまうことになり、単一の存在が特段の理由もなく分岐するという不可解な事態から始めることになるからである。それは、ちょうど円が楕円の一変種であるのに、円を基準にしてしまうようなものなのである。ここは差異と反復の問題に関係してくる。

 

差異と反復

フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、差異と反復とが生成される秘密が、自然と精神の中にあることを発見したのはタルドだとして称賛を惜しまない(『差異と反復』序章)」。

遺伝が無ければ有機体の進化がないように天体の運動に周期性がなく、地球の運動にリズムがないなら地質的年代や生物の豊かな多様性はなかっただろう。科学は現象の反復を扱う。このような現象の類似や反復は、普遍的な差異や変異にとって不可欠な主題であるとタルドは言う。社会は反復を通じて変化を生み出している。社会の外部者(アウトサイダーたち)というだけでなく、個人の中に潜在する無数の可能性としての異質性、つまり差異は、その社会内に侵入した時から模倣と発明の連鎖をつうじて社会全体を変容させていくという。

だが、一度回り始めた生命のコマが永遠に回り続けないのは何故か? 反復にはただ一つの存在理由があるのだとタルドは言う。それは、「固有の独自性が形をとることを求めて、あらゆる仕方で自らを表現する」ということだった。つまり、自己の表現が形であり、その形の変化が終わった時、形も終わるということだろう。変化が生じ尽くしたそのとき、死は必ず訪れる。生命は開花を求め、自己から解放されようとすると訳者の一人である村澤真保呂氏は『模倣の法則』の「あとがきに代えて」で述べている。

反復は変異のために存在する(『社会法則/モナド論と社会学』村澤真保呂、信友建志 訳)。」

反復と個物の関係は、ちょうど、中世の唯名論と実在論との関係にそのまま当てはめることが出来る。「個別的なもの」、つまり唯名論は考察の対象を唯一の実在的個物にしかないと考える。普遍的なものとは名前に過ぎないとし、その個物は差異という観点から理解されるのだ。「普遍的なもの」である実在論は、実在と呼ぶに値するものは個物に備わった特徴だけだと考える。この時、特徴は個物が別の個物に類似したり他の個物のうちに自己を再生産することを可能にする条件となるというのである。政治における個人主義的自由主義は唯名論の特殊例であり、社会主義は実在論の特殊例であるとタルドは言うのだ。この個物ー差異と普遍ー特徴という対比は『千のプラトー』における量子の流れと線‐切片に繋がるのではなかろうか。

 

流れ――信念と欲望

ドゥルーズ(+ガタリ)は、ミクロ社会学の影響のもとでタルドの今日的意味を見出したのである。このミクロの模倣は流れや波動と関連し、対立とは流れが二項化すること、創意とは流れの接合ないし、連結だという。そして、この流れとは信念と欲望であるとタルド理論を紹介するのである(『千のプラトー』「ミクロ政治学と切片性」)。

ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
『千のプラトー』

個の創意は光の波やシロアリの群れの歩調のように広まってゆく。この時、模倣が意識的なものか無意識的なものか強制か自発かは重要な問題ではないという。模倣は川であり、発明はその源流となる。模倣による反復の中で明瞭で典型的な形態は、社会的反復、有機的反復、物理的反復である。それは言い換えれば模倣的反復、遺伝的反復、振動的反復となる。これが普遍的反復の主要三形態と呼ばれるものである。その反復の中で伝搬されるスピードは、習慣や風習、さらに「人種的本能」と呼ばれるような長い時間をかけてゆっくりと広がるものからコーヒーやタバコなどが市場に出回るような幾何級数的な拡大まで様々ある。

様々な反復は、波動や生物種の間で干渉が起きるように社会現象の模倣の間でも起きる。それは波のように強め合ったり、弱め合ったりする。真に社会的遭遇や干渉が起こるためには、二つの社会的事象が同一の人物の脳の中に存在し同一の精神状態にあるだけでは不十分である。

タルドの言う模倣とは、意図されたものか受動的であるかに関わらず、ある精神から別の精神への距離を隔てた作用、つまり精神間の遠隔作用と脳内における写真の現像のような複製作用のことを指していた(『模倣の法則』「第二版への序文」)。しかし、二つの社会的事象が互いに支援せず、害さず、確認せず、矛盾しないような関係にあっては干渉は生じ得ない。一方が他方にとって障害あるいは手段となり、互いに「原理と結果」「肯定と否定」の関係になければならないという。この二項対立はドゥルーズの言う反復の「流れの二項化」にあたる。それらが反復される過程で対立関係となる時、干渉が起きる。

ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』

社会的事象は、教義、感情、法則、要求、慣習、風習というように様々な名前をとるが、それらを最後まで分析してみると根本的には信念と欲望でしかないという。つまり、模倣の流れを動かしている主な原動力は信念と欲望である。この二つの信念、二つの欲望、あるいは一つの信念と一つの欲望がふたつの社会事象として模倣の力を通じて長期にわたって別々に発展し、遭遇することもある。

個人の精神内において信念ないし欲望が干渉するのではなく、一部が個人に、他の一部が同類の誰かに属しているような場合、重要な事例となる。この場合、干渉は他者の観念によって自分の観念が肯定ないし否定され、他者の意志によって自分の意志が利益ないし損害を受けたことを個人が知覚する。そのような干渉から共感や契約が生まれ、あるいは反感や戦争が起きるのである。そして、根絶することが困難な恐るべき社会問題をタルドはこう述べる。

少数の分離派を多少なりとも強制的に排除したり改宗させることによって、いつか人間精神の完全な一致を達成することは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか?

諸個人の商業的・職業的・野心的競争、そして諸国民の政治的・軍事的競争が、これまで夢物語であった労働組合あるいは国家的社会主義によって抑圧されてしまい、そこから世界的な巨大連邦や新たなヨーロッパの均衡が生まれ、ヨーロッパ連合に向けての第一歩がふみだされるとしたら、それは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか?

あらゆる支配と抵抗から解放され、絶対的な主権をそなえた強力で自由な社会権力が生まれ、想像しうるかぎりもっとも博愛的で知性的な一党派や一国民によって、その権力が独裁的あるいは因習的な至上権として出現することは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか?
(いずれも『模倣の法則』池田祥英、村澤真保呂 訳)

歴史が答えを出そうとしている問題もあるようだ。

 

アリの眼で見る

ラトゥールに戻ります。彼は徹底的な近接的な視点、つまりANT/アリ(虫)の目で見ない限り新しく有用な社会的直観は生み出されないだろうと考えている。大雑把な概念だけで紋切り型に歴史を切断しようとすることが不毛なら、同様に社会科学の理論をそのように考えることは止めようというのだ。社会活動に対する新たな理解が必要とされている。そこでの「発明」が、あらゆる「個人的創意」が社会科学の中で必要とされている。

ガブリエル・タルドは、アリの労働は「模倣を伴う個々の創意」だという。それは動物社会学者のアルフレッド・エスピナスの説を援用している。山や谷にアーチやトンネルを他所にでなく此処に作るという観念を持つためには、技師ほどの革新的なアイデアに恵まれ、このような自発的な行動を多数のアリが模倣することが必要となる。そこでは固体の創意がどれほど重要な役割を果たしているかを知ることができるという。この社会学への生物学の影響は、細胞理論、遺伝理論、進化論などの発展に伴い19世紀前半から強まっていた。エスピナスの生物学的社会学もそのうちの一つだった。

ブリュノ・ラトゥールが、アクター・ネットワーク・セオリー (ANT) と呼ぶ時のこのアクターという言葉は演劇に由来する。舞台の役者は、例え、一人芝居であっても一人では演じない。演じるということは、さまざまな要素の媒介によって成り立っている。それは、ちょうどサルトルが『存在と無』の中で描く「ほんとうの自分」と「社会的な役割」との違いが分からなくなったカフェのギャルソンのような状態だとラトゥールは言う。

ブリュノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す』

劇が始まるや、これは本気なのか、見せかけなのか、観客の反応を取り込んでいるのか、照明や舞台裏のクルーの動向はどうか、脚本家のメッセージはどの程度伝わっているのか、人物は上手く造形されているのか、共演者は何をしているのか、プロンプター (演技中の俳優に陰でせりふを教える役) は何をしているのか、このようにアクターを取り巻く環境の展開を追っていけば、アクターの行為は徐々に非局所的 (ディスローカル) になっていくという。あるアクターが、アクター-ネットワークであると言われるなら、その語が表しているのは、行為の起源に関する不確定性の主なる発生源だということになる。

タルドは、人間の行為が歴史を動かす唯一の要因であると考えるのは単純すぎる。そのため我々は他の領域で流通している便利な虚構によってさまざまな原因を捏造するはめになったという。人間の行為による事象を非人格的な色合いで塗りつぶすのも、数人の偉人たちに帰することもできない。社会変動はいくつかの偉大な観念、あるいは難易度の異なる大小無数の観念の出現によって左右される。言語、宗教、政治、法律、産業、芸術といったあらゆる種類の社会現象は、先行するイノヴェーション (新機軸、技術革新) に新たなイノヴェーションが加算され、さらに改良がなされていく。社会集団の中にこのような新しい要素がもたらされるとそこから段階的な変化が途切れることなくもたらされるのだ。

モナドのネットワークにの中に生まれる「創意」を社会における新しい観念の出現とタルドは捉える。革新的な創意から出発しなければならない。この見方にしたがえば事実の最も細部から最も大きな全体まで描き出すことができる。つまり、歴史の精細さと単純さを余すところなく描写できる。それは、歴史家の観念によるものではなく、行為者の観念による歴史であるという。

ガブリエル・タルド『模倣の法則』

ラトゥールが警戒するのは、こうした複雑極まりない相互関係から成る奇妙、いびつ、風変わりと形容しても良いような状態を無視して社会的と言われる裏側の世界で流通している用語だけに還元してしまう危険性である。社会的説明という作り物の大半はこのように生み出されるというのである。行為の起源はどこに求められるのか。「広範囲に及ぶ社会の力」「私欲による開け広げの計算」「内なる情念」「人の志向性」「良心のとがめ」「社会的期待による役割」「自己欺瞞」といった事柄が果たして「アクターを動かす」社会的な力と言えるのか。かくれた社会的動因、無意識を考え出すことで事が済むのだろうか。彼が言うのは徹底的なANT/アリ(虫)の目で見ない限り新しく有用な社会的直観は生み出されないだろうということである。それは、ちょうどドゥルーズが哲学に新たな概念を生み出そうとしていたことに通じるものがある。

 

たとえ歴史家が、ガリアのローマ化について長々と話すとしても、彼は次のようなこと ―― たとえばローマ語における単語や文法形式、ローマの宗教における儀式の手順、指導士官による軍団員にたいする教練、ローマ建築の各種類(寺院、バシリカ会堂、劇場、円形闘技場、水道、アトリウム〈中庭のある別荘、等々)、学校で無数の生徒たちが習っていたヴェルギリウスやホラティウスなどの詩、ローマ法における法規、ローマ文明において職人から徒弟に、教師から生徒に対して忠実に際限なく伝達された産業・芸術的技法のひとつひとつ ―― を詳しく説明しようとはしないだろう。しかし、もっとも激しい変動過程にある社会がそなえている並外れた規則性は、それらを説明することによってしか正確に理解することができないのである(『模倣の法則』池田祥英、村澤真保呂 訳)。」

 

タルドは、裁判官を務めながら『比較犯罪学』『模倣の法則』『モナド論と社会科学』などを刊行していたが、1894年、司法省犯罪統計局長としてパリに赴任する。51歳の時である。翌年創設された「パリ社会学会」の会長となった。『社会法則』の刊行を経て、1900年、57歳の時にコレージュ・ド・フランスの近代哲学教授となっている。1904年、61歳でパリで亡くなった。ちなみに彼の後任はアンリ・ベルグソンだった。

今回は、比較的新しいラトゥールの著作『社会的なものを組み直す』を起点にタルドの思想に遡り、タルドとドゥルーズの思想的つながりを見て来た。そこには高らかなタルド賛歌があったのが嬉しい。それと、タルド思想との関係で言えば、西田幾多郎のそれやマウリツィオ・ラッツァラートの『出来事のポリティクス』との関係も指摘されている。だが、今回、残念ながら関係する本を手に取ることが出来なかった。機会があれは、ご紹介できればと思っている。特に西田幾多郎は、コレージュ・ド・フランスでタルドに師事し、京都大学で教えた米田正太郎(1872-1945)によってもたらされた心理学的社会学に触れていたようである。ここは、なかなか興味深い。

 

 

引用文献

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』