ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』笑いは世界を再生させる

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』

今回は、色々な本の中でちょこちょこ名前の出てくるミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン)のグロテスク・リアリズムを取りあげたい。魔術的リアリズムに近いようで遠い。エロ・グロ・ナンセンスのグロテスクとも似つかない。じゃあ、いったい何かと問われればお立合い。まずは、はるか昔のローマに遡る。


1.カーニバル・タイプの祝祭、様々な広場での笑劇的要素

「そして(ウダールは)この法院族め、ぽかぽか、この法院族め、どかどかと、殴りだしましたが四ほう八ぽうからも、こんこんに張り切った籠手が、法院族に雨霰と降り注ぎました。『めでたい嫁取り! (と一同は叫びました。)めでたや嫁入り! めでたや! めでたや! 末の世まで忘れまじ! 』と。法院族はさんざんに痛めつけられて口からも、鼻からも耳からも眼からも、血がだらだらと流れました。その上に、頭からも首も背も胸も腕も一切合財が、くたくた、がたがた、びりびりにされてしまったのでございますよ。まったく謝肉祭の折のアヴィニョンの若衆たちにしても、この法院族の時以上に、景気のよい音を立てて、殴打遊びをやったことは金輪際ございませんよ。とうとう奴めは地べたへ倒れてしまいました。皆は、その頭に葡萄酒をぶっかけ、胴着の袖に、黄と緑に染められた見事な布地を縛りつけ、奴の青洟垂らした馬の背に乗せました。(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第四の書』」

フランスの地方には、婚礼の祝の席でお互いを冗談めかして軽くこぶしで殴り合うという「二股手袋の婚礼」という風習があったが、この殴り合いは陽気な性格を持ち、笑いで始まり、笑いで終わる。法院族は道化としての王の役割が与えられ、打擲と嘲罵が加えられる。そうされながらも祝福される矛盾した存在となる。ここではアヴィニヨンのカーニバルが想起されているが、肉体の分断、それも解剖学的、カーニバル的、料理的、医術的な寸断がなされている。しかし、殴られる者は葡萄酒で赤く染められ、彩豊かに飾られる。このような祝祭的なイメージ体系には、けっして絶対的な否定はない。矛盾する統一体の中で生成の両極が捉えられるのである。


 

ドムス・アウレア内部 64年のローマ大火災後にネロが建てた黄金宮殿跡
16世紀には地下洞窟「グロッタ」として知られていた。

西暦64年、ローマが焼野原になった後、皇帝ネロは誇大妄想建築と名高いドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設しはじめた。その死後、宮殿は火災によって焼失する。宮殿の敷地はティトゥス浴場などの建築物に覆われドムス・アウレアは地下に埋まっていたが、15世紀末に地下道を掘って内部が見学できるようになった。

バフチンは、本書『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』の中でこう書いている。「15世紀末のローマでティトゥス帝の共同浴場の一部が発掘された時、その時まで知られていなかった種類のローマの絵画的装飾が発見された。この種類の装飾は、洞窟、地下室を意味するイタリア語の「グロッタ」から「グロッテスカ」と名付けられた。(川端香男里 訳)。」そこを訪れたラファエロは内部の装飾に眼をみはり、さっそくバチカン宮殿の壁画に試したという、いわくつきのフレスコやモザイクがあったのである。

このローマの装飾画には、奔放なアルス・コンビナトリア(結合術)、動物たちや人間との自由なキメラがあり、幻想と想像力が手を携えて壁面に浮遊していた。その特徴をバフチンは、このように述べる。このグロッテスカにあっては境界線は大胆に犯されていて、現実のありきたりの静態的表現はない。一定不変の世界の、植物であれ、動物であれ、出来上がった形、そのものの動きはもはやなくなり、存在自体の永遠で未完な性質に変えられている。そこには芸術的空想の並みはずれた自由と軽やかさがある。そして、「この自由は、ほとんど笑っているような、陽気気ままな自由である」と書いている。彼によれば、この新たな発見は、グロテスクイメージ表現の一断面に過ぎなかった。そのイメージは、実は古代のあらゆる時期に存在し、中世、ルネサンスにも生存し続けていた。このグロッテスカは、その後の生産的な生命に保障を与える存在となり、グロテスクなイメージ表現が拡張され測り知れない巨大世界へと発展していく過程での護符となるのである。

 


2.滑稽な文学的作品からの着想

「そこでにこにこしながら、見事なその股袋をはずして、その一物を宙に抜き出し、勢い劇しく人々に金色の雨を降らしたので、そのために溺れ死んだ者の数は、女や子供を除いて二十六万四百十八人であった。これらの連中のうち何人かは、脚が速いおかげで、この小便の洪水から逃れ出て汗をだらだら、咳をこんこん、唾をぺっペっと吐きながら、息も切れ切れになって大学の丘の頂上へたどり着いたが、ある者は、かんかんに怒り、ある者は笑い転げながら(Par rys/パ リ)、神も仏もあるものかと喚き立て、呪詛の声を上げ始めた。――神の災いに誓って! 主を否みまする! 主の血にかけて! 主の母君、みそなわせ! 主の頭にかけて=ガスコーニュ 主の受難がお前をくじいてしまわぬように‥‥やれ聖女マミカ様、冗談ごと(Par ry)からすっかり濡れ鼠にされてしまったわい! こういう理由から、それ以来この町はパリと名付けられたわけだ‥‥(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第一の書』」

バフチンは、ラブレーの同時代のロジェ・ド・コルリーはこんな詩を書いたと紹介している。

≪主の復活祭≫みまかりし時  ≪主の良き日≫後を継ぎぬ。
≪主の良き日≫故人となりし時、 あとを継ぎしは≪悪魔よわれを取れ≫なり。
その歿したるのち、≪貴人の名誉≫がわれらを惹きつけているのを見る。

当時、聖なる言葉が瀆神的、冒涜的に使われるのを恐れた国王たちは一度ならず誓言禁止の法令をだしたという。ルイ11世の ≪主の復活祭≫、シャルル8世の ≪主の良き日≫、フランソワ1世の ≪貴人の名誉にかけて≫ など、彼らのお気に入りの誓言は、禁令を発した王たちと分かちがたく結びついて王たちのあだ名にさえなった。コルリーの詩はこれらのエピグラムとなっているのである。ラブレーの文学にはこのような滑稽な文学作品のパロディが散りばめられていた。


 

バフチン『ドストエフスキイ論』
『ドストエフスキイ創作方法の諸問題』1963年版の翻訳

幻想と想像力が手を携える。それって、シュルレアリスム、いやマニエニスムじゃないのかと不審に思われる人もあるだろう。いや、あってほしい。あるかなあ‥‥ルネサンス末期から登場したマニエリスムは、奇想をこととする手法主義を指している。ルネ・ホッケは、それをルネサンスの古典主義に対抗する概念にまで高め、西欧文化の二つのあざなえる縄の一つにまで持ち上げたのである。バフチンは、グロテスクを大衆的な笑いの原理、生活の物質的・肉体的原理、アンビヴァレントな価値を併せ持つ変化の両極性、再生と復活のユートピア性を持つと規定し、宗教の厳格性や学問の抽象性をこととするお堅い文学とやはり対抗させた。しかし、文化って基本的にアンビヴァレントなものなのかしら。

フランソワ・ラブレーやそれに類するルネサンスの作家たち、ボッカチオ、シェイクスピア、セルヴァンテスらの物質的・肉体的原理に基づくイメージが民衆の笑いの文化の継承に違いないとバフチンは思った。生に対する独特な美的概念の継承である。近代から始まる美的概念とは鋭く対立する美的概念をゴシック・リアリズム、後にグロテスク・リアリズムと名付ける。

既に古典古代において、叙事詩、悲劇、歴史、弁論術(レトリック)などの真面目な文学と田園詩、ソプロンの物真似、『ソクラテスの対話』『メニッポスの諷刺』といった、いわゆる真面目な茶番と呼ばれる文学とに分けることができるという。特に『メニッポスの諷刺』は、カーニバル的世界観から発し、ドストエフスキイの創作の中で新たに生まれ変わったというのだ。ドストエフスキイ文学は真面目な茶番の末裔に分類される。さて、これを読んでオッたまげた人はバフチンの『ドストエフスキイ論』をお読みくださいませ。

ミハイル・バフチン(1895-1975)
1924‐25年頃

ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチンは1895年にウクライナに近いロシアのオリョールに次男として生まれた。伝記については、カテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイストによる著書『ミハイール・バフチーンの世界』からご紹介する。兄と三人の妹があった。父方は貴族の家系に連なるが爵位は持っていなかった。祖父が市中銀行を設立していて、父はそのほうぼうの支店で支店長をしている。それで、何度かの転勤をすることになった。両親は子供たちに最良の教育を受けさせたが、家風はかたぐるしく、その中でもミハイルは打ち解けない性格だったといわれる。9歳で学校に上がる前は、ドイツ人の女性家庭教師がついていて、『イーリアス』『オデュッセイア』などをドイツ語で教え、劇にして演じさせていたりした。

9歳の時、父の転勤に伴って現在のリトアニアの首都ヴィーリニュスへ移り、15歳まで暮らすことになる。そこは、様々な文化、様々な時代の生きた博物館であり、伝説と謎に満ちていた。言語、階級、民族は多様で、異言語混交の生きた実例であったといわれる。ロシア人が支配しロシア語を公用語としたが、ポーランド人とリトアニア人が大半でユダヤ人も比較的多かったが、大勢はローマ・カトリックであり、知的・文化的にはポーランドに傾斜していた。兄弟はギリシア語を家庭教師に学びながら学校ではロシア中心のカリキュラムを吸収した。一時的な革命熱のためにマルクス主義に浸ったこともあったが、11歳の時『悲劇の誕生』を読んだことは、後に反ニーチェ主義者になりはするものの人生の転機になったという。やがて象徴主義に興味は移った。ロシアのブローク、アンネンスキー、イヴァーノフら象徴主義の詩を終生愛した。特にイヴァーノフは、「私」がもう一人の「私」、すなわち内なる「汝」を意識化していくという表現によって宗教的・認識論的体験の基礎となるコミュニケーション理論を築き上げていた。ここは、重要であろう。

1911年、15歳の時に黒海沿岸のオデッサ(現ウクライナ)に移った。一年だけオデッサ大学で学んだあと1914年からペテルブルク大学で歴史・言語学部の古典学科に在籍し、1918年に卒業した。この頃は、象徴主義に対抗する新しい運動が胎動していた。マンデリシュタームやグミリョフを中心としたアクメイズム、ヤマコフスキイらの未来派である。バフチンは言葉の実験を信条にしていた未来派に興味を持った。未来派に近い立場の人たちとしてペテルブルク大学で学んでいた、あるいは教えていたメンバーたち、シクロフスキ―などのフォルマリストを指摘できる。他にヤコブソンらがいるが、彼らはやがてバフチンの「あっぱれな敵」となるのである。これがバフチンの20代前半までの様子である。

 


3.無遠慮で粗野な広場の言葉(罵言、誓詞、呪詛、民衆的プロパガンダ)による語り

「はっ、はっ、はあ! わーい! こいつは一体何じゃいな? これなるものを何とお呼びになる? 便とも糞とでも、尿とでも排泄物とでも、うんことでも、便通とでも、糞便とでも、大便とでも狼の糞とでも、熊の糞とでも、鳥の糞とでも、鹿の糞とでも、絞り糞とでも、固糞とでも、山羊の糞とでもお呼びになりますかな? 私は思うのだが、イベルニヤのさふらんですわい。ほっ、ほっ、ひーい! こりゃイベルニヤのさふらんさね! 誓羅(せら)! 飲もうや、皆さん! (ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第四の書』」

この糞のオンパレードは、香具師の口上、広場での罵言のようである。さあ、さあ、みなさん、御用とお急ぎでない方は、よってらっしゃい、見てらっしゃい‥‥というのに代表される語り、あるいは、おまえのカアチャンのちょめちょめがなあ! くそったれ! などという罵詈雑言などの類です。


 

ピーテル・ブリューゲル(1525頃-1569)『謝肉祭と四旬節の喧嘩』1559 部分 美術史美術館 カーニバル的世界の描写

ここで、ラブレーのスカトロジー(糞尿譚)に触れます。イャダーとか言わないように。重要なのです。私が意識の座を得てからというものうんこなど食べたことも舐めたこともないことは誓って申し上げるのだが、恍惚の人となり、年齢も年齢ですから、そうなればどうなるかは定かではない。先ほどのラブレーの糞のオンパレードで、うんこがイベルニヤのさふらんという何やら貴重で快いものとされていることにバフチンは気づいた。自分の尿を飲むというのは民間療法として根強い人気があるらしいのだが、うんこはさすがに食べられません。しかしながら、うんこは大地と身体との中間にあって両者を結びつけるもの、再生と改新をもたらす陽気なブツなのです。うんこは死人の肉体と同じように土地を肥沃にするものなのです。

ギュスターブ・ドレ画『ガルガンチュア物語』挿絵  大聖堂からオシッコをして人々をセーヌ川に押し流すガルガンチュア

それで、バフチンはこう書いている。「ラブレーのスカトロジー的イメージには、少しも粗野でシニカルなものはないし、また、あり得ない。(他の同様のグロテスク・リアリズムと同じように。)糞を投げつけ、尿を浴びせ、古い死にゆく(と同時に生み出す)世界に糞尿譚的罵言を雨あられのように浴びせること――これは古い世界の陽気な埋葬であり、愛情のこもった土の塊を墓に投げてやる行為や、墦種――畑の溝(大地の母胎)に種を投げる行為とまったく同様の(ただし笑いの次元における)ものなのである。陰うつな、肉体のない中世的真実に対し、これは真実の陽気な肉体化であり、滑稽な地上化である。(川端香男里訳)」

つまり、うんこは「くそっ!」になるのだ。芸術的空想の並外れた自由な陽気さは、このうんこのメタファーにも見て取ることができる。いわば下方超越し、再生と復活を人間にもたらすと言うべき世界観は、古代における農耕神サトゥルヌスの黄金時代へ、全民衆的なユートピア世界への回帰に繋がっていくのである。

バフチンは、カーニバルやフェスト、大道芸、多種多様なパロディ文化等々に見られる諸形式を三つの基本的な形式にまとめた。それが今まで挙げてきた民衆文化の三つの表現形式(1.儀式的・見世物的形式、2.滑稽な文学的作品、3.様々の形式やジャンルの無遠慮で粗野な広場の発言)である。しかし、基本的に重要な形式は1.のカーニバルであろう。

「わたしがビール樽なら、あんたは足なしです‥‥」
「なに、わしが足なしだって」
「ええ、そうです、足なしですよ、おまけに歯欠けじいさんで、そうなんです、あんたは」
「おまけに目っかち」とマリア・アレクサンドロヴナが喚き立てた。
「あんたはあばら骨の代わりにコルセットをはめてるんでしょう」とナタリア・ドミトリエヴナがつけ加えた。
「顔はぜんまい仕掛け」
「自分の髪の毛はないし‥‥」
「口髭ときたら、バカみたい、こしらえ物でしょ」マリア・アレクサンドロヴナは黄色い声を張りあげた。
「いや、せめて鼻だけはよしてもらいたいな、マリア・ステパノヴナ、これは本ものなんだから」と意外なすっぱ抜きにびっくり仰天して公爵は叫んだ‥‥
「いやはや」と哀れな公爵はいった。「‥‥おまえ、わしをどっかへ連れ出してくれ。さもないと、八つ裂きされてしまう‥‥」。(ドストエフスキイ『伯父様の夢』新谷敬三郎訳)

バフチンは、このドストエフスキイの作品を、解体した身体の部分を数え上げる典型的な「カーニバル解剖」の例として挙げている(『ドストエフスキイ論』)。この数え立てはルネサンスのカーニバル化した文学において広く行われた、例えば、ラブレーにおいて盛んに、目立たなくはあるがセルヴァンテスにおいても。ここでは、カーニバル王の役割をしているのはマリア・アレクサンドロヴナ・モスカリョーワであった。彼女は娘を年老いた公爵の嫁にと画策するのだが、その手管を周りの社交界のご婦人方に非難され、彼女の名声は地に落ちる。その結婚話と対を成す娘とその恋人ワーシャとの関係は、彼の悲劇的な死をもって終わる。話は互いに反映しあい、お互いに透視しあい、一方が喜劇なら他方は悲劇、一方が卑俗なら他方は崇高という相反するデュアルな関係になっているという。これが文学化されたカーニバル感覚の一つの例なのである。

さきほどのブリューゲルのカーニバルの絵を見ていただきたい。この人物たちそれぞれに吹き出しをつけて会話を挿入する。それをアニメーションのように動かすと異種混淆の会話のポリフォニーになる。ポリフォニーというより会話のクラスター(群れ)と言った方がよいかもしれない。それは、カオティックなエネルギーに満ちた世界であり、次の年にもその次の年にも似たように繰り返される行事だった。カーニバルの形象は絶えず生き返り常に終わりは新しい始まりであり、決定的な終局に反対するとバフチンは言う。そして、ドストエフスキイ作品の世界はこのようなものであるとも言う。「世界にはいまだかつて何ひとつ決定的なことは起こっていない、世界についての、また世界の最後の言葉はまだ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからであろう(新谷敬三郎訳)」と。つまり、開放系である。

ドストエフスキイは制約的で一面的な真面目さ、独断論や終末論とも無縁ではない、しかし、ひとたび小説の中に入ると開かれたまま終わることのない対話の生の声の一つになってしまうという。「彼の小説にあっては、すべてがまだ語られたことのない、予め用意されてない『新しい言葉』に向う。(新谷敬三郎訳)」新たな言葉の創発が起こると言う分けだが、残念ながらカーニバル的世界には時間の矢がない。それは、ともかく、この『ドストエフスキイ論』は『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』とセットにするとカーニバル的世界観、ひいては、グロテスク・リアリズムが理解できる仕組みになっているのです。

ジュリア・クリステヴァがまだ、ブルガリアの学生だった当時、バフチンは、革命的存在だったという。しかし、1965年にフランスに留学してみるとバフチンは全く知られていなかった。ロラン・バルトは、彼女にバフチンの著作についての報告をするように勧めたという。それが『バフチン ―― 言葉  対話  小説』というテクストであり、雑誌「クリティック」に掲載され、やがてバフチンの名が西側世界でも知られる契機となるのである(桑野隆『バフチン』)。しかし、彼女は、バフチンの思想に自分のアイデアを繋げた。

それが、「間テクスト性」の問題だった。「一つのテクストが別のテクストの引用のモザイクとして形成され、テクストが全て別のテキストの吸収と変形に他ならない」と考える。前半のテクストという言葉を声に後半のテクストを会話に置き換えてみよう。すると、「一つの声が別の声の引用のモザイクとして形成され、会話が全て別の会話の吸収と変形に他ならない」となる。バフチンがドストエフスキイについて述べた会話のポリフォニー性とは、小説が作者のモノローグだけに終わらない、つまり、登場人物が作者の意図や思想を代弁して語る存在としてではなく、小説内で作者とは独立したそれぞれ自由な存在として登場し語ることによって生まれる。会話のポリフォニー性から直ちに「間テクスト性」は導けない。ただ、カーニバル化の機能は、ジャンルや孤立化した思想の諸体系、異質なスタイル等々の柵を全て取り払う作用をしてきた。それは、あらゆる孤立化、相互の無関心を絶滅し、遠くのものを引き寄せ、ばらばらのものを一つにまとめた(『ドスエフスキイ論』)。全ては繋がっているというわけである。そう考えれば、「カーニバル化」と「間テクスト性」とは繋がる。

これに加えてカーニバルにおける記号性についても考えなければなりません。バフチンは有意味な事・物は、全て外部になんらかの形で姿を見せると信じていた(桑野隆『バフチン』)。ここら辺りは、カッシーラの『シンボル形式の哲学』に近づいて行くのだろうけれど、今回はここまでとします。ところで、気づいたのだけれどパロディとは世界を未完にするための手段、再生するための強力な方法だったのですね。

「はっ、はっ、はあ! わーい! こいつは一体何じゃいな? これなるものを何とお呼びになる? カーニバルともポリフォニーとでも、間テクスト性とでもパロディーとでも、クソッタレ! ともグロテスク・リアリズムとでもお呼びになりますかな? 私は思うのだが、モルドヴィアのさふらんですわい。ほっ、ほっ、ひーい! こりゃモルドヴィアのさふらんさね! 誓羅(せら)! 読もうや、皆さん! 」

 

 

引用文献・参考図書

カテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイスト『ミハイール・バフチーンの世界』

桑野隆『バフチン』 バフチンに関するとても良い入門書

フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』「ガルガンチュアとパンタグリュエル」第一巻

フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル』「ガルガンチュアとパンタグリュエル」第二巻(全4巻)

『变臉/この櫂に手をそえて』 名優・朱旭と中国映画

川劇 中国四川省の伝統劇

映画を見た。中国の老いた大道芸人を扱った作品だった。中国の四川省には川劇(せんげき)と呼ばれる京劇に似た伝統芸があるらしい。その劇は、正に瞬く間もなく瞼譜(れんふ/隈取)を取り換える技、変臉(へんれん)を以って知られている。臉(れん)は顔のことだそうだから「変面」と訳すのは正しいだろう。一子相伝、それも男子にしか伝えない極秘の技だった。


1930年代の四川、子供を失い、変臉を得意とした老いた大道芸人である王(ワン)が、その技をどうしても伝えたいと人買いから8歳の男の子・狗娃(コウワ―/子犬の意味)を買った。爺爺(イエ、イエ ! /おじいちゃん)と呼びかけるその子に何かを感じたのだ。喜び有頂天となるワンだったが、街角の露店でゴムパチンコで手を打たれ、小さな鉈を自らの足に落としてしまう。酒で消毒した後、小さな子のおしっこは刀傷に効くと信じていたワンはコウワ―におしっこを出すように言うのだが、窮したコウワ―は、実は自分は女の子だと白状してしまうのである。


 

この映画のタイトルは、邦題を『変臉/この櫂に手をそえて』、英語の題名が『The King of Masks』である。主演は朱旭(チュー・シュイ)、狗娃(コウワ―)役を周任蛍(チョウ・レイイン)が演じている。二人とも素晴らしい役者だが、猿回しの芸のために飼われている猿も恐るべき演技をする。

この映画のためにチュー・シュイは、変臉の技をその筋の名人に習った。つまり、本人の実演がワンカットで撮られているのである。スローモーションにしても変臉の瞬間は分からなかった。自分ができるのは3枚までで、名人は7、8枚から10枚までできるのだという。自分のやり方は一番原始的・伝統的やり方であって面は全て絹であり、今のような合繊や化繊ではダメなのだそうだ。それに、コウワ―のアクロバットもやはり実演であった。彼女は、既に雑技団の売れっ子であったというからその演技も頷ける。しかし、撮影当時、両親の離婚に伴って親権が争われる裁判中であった。稼ぎがあるというのが理由だったという。その身の上が映画のストーリーと相まって心に痛い。(石子順『中国映画の明星』から「朱旭」より)

今回は、どうしてもこの朱旭(チュー・シュイ)という人をご紹介したかった。それで、石子順氏の『中国映画の明星』を中心に彼の経歴を追ってみたいと思っている。この俳優さんは、「世界一の劇団」と言われた北京人民芸術劇院所属の舞台俳優だった。この芸術劇院は、京劇などの伝統的な演劇ではなく現代劇(話劇)や歴史劇の専門集団である。劇院最初の演目が「北京の花」と謳われた作家、老舎(ラオ・ショー)の作品『龍髯溝』であり、その『茶館』は、この劇団の代表作となった。二千人収容可能な首都劇場を中心に140以上もの作品を公演してきた。所属する作家、演出家、俳優、全てが一流だといわれる。脚本、演出、俳優、舞台装置に関わる250人近い人々で構成されている。中国の俳優さんたちの演技には感心することが多いのだけれど、こんなところにもその要因があるのだろう。

チュー・シュイは、1930年、中国北東部、朝鮮半島にも近い遼寧省の瀋陽(はんよう)に生まれた。華北大学の第三部戯劇課で学び、日本占領下の北京に移り住んだ。その頃の日本兵との出会いは、辛い思い出になっているようだ。ここにも侵略の歴史の暗い影を見る思いがする。1952年の北京芸術劇院の結成にともなって、22歳の若さでここに俳優として配属された。最初は照明係や端役からスタートしたという。若くして頭角をあらわすというタイプではなかったが、徐々に役をもらえるようになっていった。しかし、三十代半ばで文化大革命の波に洗われることになるのである。1966年に文革が始った。

 


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騙されたと知ったワンは、コウワーに金を与え、彼女を岸に残して住まいにしている舟を出してしまう。コウワ―は泣きながら後を追うのだが、ついに泳げもしないのに川に飛び込んで舟に追いすがろうとした。ワンは水に飛び込んで助けてやるのである。しかし、もう祖父と孫のような関係は失われ、師匠とその弟子のような関係となってコウワ―に軽業の芸を仕込むと、共に大道芸をしながら暮らしていくようになる。

変臉の技に興味津々となったコウワ―は、ワンのいないある夜、瞼譜(れんふ/隈取)を取りだして火にかざして眺めていたのだが、運悪くそれに火がついてあっという間に舟は燃え上がってしまう。そんな時、ワンは、彼を尊敬する川劇(せんげき/四川オペラ)の女形、人気絶頂の梁素蘭(リャン・スラン)にコウワ―との写真を届けられる。なんとか、もとの水上生活にもどれるワンだが、コウワ―はいたたまれなくなって彼の元を離れ、浮浪児となって街をさまようようになる。あまりの空腹に焼き芋を盗もうとしてとがめられ、立ち去ろうとしたとき、彼女の手を捉える男があった。


 

中国の映画史は、黎明期の1910~1920年代の第一世代を経て、1930年代から1949年の中華人民共和国成立までの第二世代にまず分けることができる。その頃の上海は、外国人居留地、いわゆる租界として発展していて、イギリス、フランス、アメリカが主権を有していたため日本や中国本土などとは異なりダイレクトに欧米文化が流入していた。上海はモダンだったのである。アメリカ映画の影響と新左翼運動家の新劇的なシナリオ、資本家の投資とがあいまった。40余りの比較的小規模な映画会社が林立していて1928年から1931年の間に400本の映画が作られたという。

中華人民共和国が成立すると1953年には各地の撮影所は国有化される。そこから文化大革命が始る頃までの映画人を第三世代という。毛沢東の強い影響下にあり、共産党のプロパガンダ映画へと傾斜しはじめたのは自然なことだったろう。その中でも謝晋(シエ・チン)は重要な監督として注目されている。彼のことは、後でもう一度触れる。

呉天明(1939-2014)ウズール国際アジア映画祭 2007年

文革から1980年代半ばまでの時代の映画人が第四世代である。この世代は、文革中に反革命的な知識層として多くは糾弾の憂き目にあった。毛沢東が亡くなり10年続いた文革が終わって、その誤りを指摘しようということにはなったものの、どのように、あるいはどの程度表現して良いのか手さぐりの状況だったのである。その中で強い意思を見せたのが呉天明(ウー・ティエンミン)だった。この人が『変臉/この櫂に手をそえて』の監督さんである。彼は、文革中に年老いた撮影所の所長が重い木札を首にかけられトラックに乗せられて見せしめに引き回されようとした時、その車によじ登って、ありあわせの木札を首にかけ「俺もつるし上げろ」とその所長の横に並んだという。それに、ある女優が精神を病んで井戸に飛び込んだ時、自も井戸に飛び込んでその女優を助けた(石子順『中国映画の明星』)。そして、何よりも、彼が中国映画史の中で重要な位置を占めるようになるのは西安撮影所長としてのプロデューサーの手腕だった。

再開された北京の電影学院からの卒業生たちが自由な雰囲気を求めて地方の撮影所に集まるようになる。その一つが西安だった。『活きる/活着』の張芸謀(チャン・イーモウ/1950-)、『青い凧』の田壮壮(ティエン・チュアンチュアン/1952-)、『さらば我が愛/覇王別姫』の陳凱歌(チン・カイコ―/1952-)ら錚々たるメンバーがつどった。三人が三人とも若い頃に強制的に地方の生活を体験させられる下放を経験している。彼らの世代が第五世代といわれる。呉天明(ウー・ティエンミン)が綺羅星のような彼らを育てたのである。これらの作品は全て状況を異にする映画だが、文革やそれに先立つ反右派闘争を批判している点で共通している。これに先ほどの謝晋(シェ・チン)が1987年に撮った『芙蓉鎮』を加えることができるだろう。(竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている』)

 


コウワ―の手を掴んだのはワンに自分を売りつけた人買いだった。人買いの家に連れて行かれると、そこにはコウワ―よりもっと小さな裕福な家で育った四歳の男の子がさらわれて泣いていた。そこで、彼女はある決心をする。二人で屋根裏から屋根を伝って逃げた。そして、その子をワンの舟まで届けるのだった。舟に戻ってきたワンが、名前はと問うと天賜(ティエンシー)と答えた。これが誤解のもとになった。ワンは信仰する観音菩薩の恵みだと喜ぶのである。しかし、喜びも束の間、彼は幼児誘拐の疑いで警察へ連行されてしまう。コウワ―は泣きながら牢屋の格子越しにワンに瞼譜(れんふ/隈取)を手渡すのだった。


 

石子順『中国映画の明星』2003年刊
中国映画の四人のスターを紹介する

1958年から始まった大躍進政策の失敗によって、毛沢東は政治権力の座を失った。稚拙な製鉄法による木炭の消費は森林を壊滅させ、生産された6割は使い物にならない屑鉄だった。伝統農法も近代農法も無視した農業は大凶作を呼び、それでも輸出のために作物は吸いあげられた。それによって数千万の餓死者を出したといわれる。このあたりの農村の様子は『赤い高粱』で知られるノーベル文学賞作家、莫言(モー・イェン/1955-)がその講演で語っている(『莫言の思想と文学』「飢餓と孤独はわが創作の宝もの」)。彼は、川端康成の『雪国』とガブリエル・ガルケス=マルケスの『百年の孤独』、それにウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』にシビレテいた作家だ。

毛沢東は、劉少奇や鄧小平らが握った政治の実権を奪還しようとして、高校生を主体とする紅衛兵と呼ばれた学生たちの運動を扇動した。共産主義に部分的に資本主義を導入する実権派の修正主義を嫌ったのである。実権派の党幹部やその支持者、知識人、旧地主の子孫などが反革命分子とされ、紅衛兵を中心とした造反派によって迫害を受けることになる。これによって多くの人命と文化財が失われた。

この伝染病のような文革の嵐は、北京人民芸術劇院も襲った。院内に起こった造反によって「文芸の黒い線」一味、「反革命分子」として糾弾される。老舎は太平湖畔で死体で見つかり、実質的な指導者だった焦菊隠(チャオ・チュイイン)副院長は、迫害の後、死亡、高名な女優であった舒綉文(シュ・シウウェン)も迫害され亡くなった。チュー・シュイも吊し上げられ妻で女優であった宋鳳儀(スン・フォンイー)とともに、いわゆる「幹部学校」へ送られ北京郊外の元囚人農場で八年間畑を耕し、葡萄栽培を強いられた。小学生の長男と生まれたばかりの末っ子とは別れて暮らさなければならない辛い日々だった(石子順『中国映画の明星』)。

この文革の頃の様子は、先ほどの第五世代の監督たちの映画の中にそれぞれ描かれているが、チュー・シュイとの関わりで言うなら、1995年の日・中合作のテレビドラマ『大地の子』を挙げることができる。山崎豊子の原作なのだが、綿密な取材によってその頃の様子は迫真なものになっている。このドラマで彼は、中国残留孤児の男の子の養父で小学校教師であった陸徳志を演じて、その素晴らしい演技が一躍日本の人たちにも知られるようになった。ついでに言うと、中国側の制作した残留孤児のテレビドラマもあって、これも感動的だった。僕の大好きな孫麗(スン・リー)主演の『小姨多鶴』(多鶴叔母さんの意味)がそれで、アメリカの小説家である厳歌苓(ヤン・ゲリン)の同名の小説が2009年にドラマ化されている。これでもかこれでもかと押しよせる不幸を懸命に生きていく女性を描いているのだ。ヤンは、『金陵十三釵』の作者でもあるが『紅楼夢』の関係で言えば『金陵十二釵』が美女12人を指しているから、かなり意味深なタイトルと言える。それはともかく、この『大地の子』が制作された翌年、アメリカから帰国したばかりの呉天明(ウー・ティエンミン)監督のもとで『変臉/この櫂に手をそえて』が制作されることになるのである。

 


ワンの友達の酒屋の主人は、コウワ―に川劇の女形・梁素蘭(リャン・スラン)なら助けてくれるかもしれないと告げた。コウワ―はリャンの住む建物の前で一夜をあかし、リャンに事の次第を告げる。だが、彼女はリャンが出演する劇の最中に驚くべき行動にでるのだった。クライマックスはどうか映画をご覧ください。


 

1983年アメリカの劇作家アーサー・ミラーが北京に滞在し、その作品『セールスマンの死』が北京人民芸術劇院によって演じられた。チュー・シュイは、主人公ウィリーを助ける心温かいチャーリー役だった。ミラーは、アメリカの俳優ヘンリー・フォンダを思わせる良い役者だと誉めたようだ。フォンダは、『怒りの葡萄』や『12人の怒れる男』といった作品で知られる名優である。その頃、チュー・シュイは、魯迅の『阿Q正伝』の主役を演じるまでになっていた。ミラーの『セールスマンの死』は北京で大成功を収めたのである(石子順『中国映画の明星』)。

そして、1984年、第五世代が躍動し始めた頃、チュー・シュイは、初めて映画に出演する。50歳半ばの遅れてやって来た映画俳優だった。『紅い服の少女/赤衣少女』というタイトルで16歳の少女の父親役である。教え子だった女性監督である陸小雅(ルー・シャオヤー)から声をかけられたのがきっかけだった。

その後、文革を描いた『胡同(フートン)模様/小巷名流』、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督の芸人一家の悲劇を描いた『鼓書芸人』に出演する。弦楽器と太鼓の伴奏で物語を歌う二人組の芸を鼓書といった。そして、名作として名高い、もと京劇役者の祖父を演じた『心の香/心香』がある。これで、祖父役が定着する。『孔家の人々』『変臉/この櫂に手をそえて』を経て『こころの湯/洗澡』『刮痧』『王様の漢方/漢方道』などに出演。そして最後の映画が2009年に制作された『我們天上見』(天国で会いましょうの意)で、やはり祖父役を演じて、この作品も素晴らしかったが、監督はなんと『大地の子』で主人公・陸一心と結婚する江月梅を演じた蒋雯麗(ジャン・ウェンリー)だった。張芸謀(チャン・イーモウ)もそうだが、俳優で監督、両方こなせるという人も中国には少なくない。

チュー・シュイのどこに惹かれるのかは言い難いものがある。確固として鍛え上げられた役者としての技術、何よりも香ってくる人柄の暖かさ、絶妙の間合い、神技とも言える声の抑揚、全ていい。そして、僕が何よりも言いたいのは、呉天明(ウー・ティエンミン)監督と組んだこの『変臉/この櫂に手をそえて』が、いかにも地に足の着いた職人肌の映像を僕たちに届けてくれているからだ。おまえの感覚は古いのだと言われそうだが、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『恋する惑星/重慶森林』といったシティポップな感覚も嫌いじゃない。チュー・シュイのこの作品は、ワイヤーでぴょんぴょん飛んだりしないし、流行りのCGによる壮麗なインチキもない。そんなのこの頃は、あんまり流行ってなかった。勿論、映画の形式美、色彩構成や造形美といった要素も大切ではあるが、僕は何よりこの丹精こめた職人芸による極められた演技とそれによって創り上げられた映像が好きだ。職人気質大好き。みなさんにも是非見てもらえたらと思っている。チュー・シェイは、昨年2018年に88歳で惜しくも亡くなっている。

 

 

参考図書


竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている』中国映画の歴史が比較的詳しくまとめられている。

藤井省三『中国映画 百年を描く、百年を読む』
莫言文学の翻訳者が中国・香港・台湾の映画35篇を紹介する。

莫言『莫言の思想と文学』莫言の講演を集めている著書 2015年刊

清少納言『枕草子』 鵺の如き複合体としての日記

 

清少納言の『枕草紙、随分不思議なものだと思ってきた。勿論、彼女の才気を煥発させている文章ではあるのだが、それだけではない。ある種のカタログである。「‥‥花によろこびといかりあり、いねたるとさめたるとあり、暁と夕あり‥‥」と書いたのは、明の時代の袁宏道(『瓶史』)だけれど、こんな表現は、よく似ている。それは、何か画集をめくって眺めていく感覚にも近い。そのことは、ロベルト・カラッソ 『カドモスとハルモニアの結婚』 一貫する差異に書いておいた。展覧会の準備があってブログをしばらくお休みしていましたが、展覧会の間にぽつぽつ書いておりました。今回はこの『枕草子』についていささか考えてみたいと思っている。


源氏物語を翻訳したアーサー・ウェイリーが1928年に『枕草子』を翻訳して出版していたことは、ほとんど知られていないのではないだろうか。西欧の気鋭な文学者がこの『枕草子』をどのように見ていたのかは、なかなか興味深いものがある。少しご紹介しよう。


 

津島知明『ウェイリーと読む枕草子』
ウェイリーが『枕草子』を抄訳し、その解説を書いた著作の紹介である。

『ピローブック』と訳されたそれは、ウェイリーが最も気に入っている作品だとして、後進のドナルド・キーンやアイヴァン・モリスを驚かせたという。その翻訳には意外にも「春はあけぼの」として知られる初段が切り捨てられていた。断章の集合体である『枕草子』は、「どこを、どの順序で、どう読んだらよいのか」を読者に突き付けてくるとは、『ウェイリーと読む枕草子』の著者である津島知明氏が指摘することである。つまり、読み手によってその価値が大きく異なってくる作品なのである。

ウェイリーの『ピローブック』の章立ては、「十世紀の日本」、「清少納言のピローブック」、「少納言の性格」、「翻訳ノート」の四章に分かれていて、「十世紀の日本」は、ある種の文化批評のようで興味深い。彼にとって当時の日本は、侵略にもコスモポリタニズムとも無縁な揺るぎない幾世期を満喫していた国だった。それは、ひたすら美的で、文芸的な世界だったが、一方で自国の歴史に対する好奇心は皆無で、相応の知的な探求心(ヨーロッパ人のイメージする数学、科学、哲学などに対してではあるが)は伴われなかったという。

この歴史に対する好奇心の差が我々イギリス人と古代日本人を分ける明確な相違点だというのだ。そして、強調すべきは「いまめかし」という当世風なものに対する熱狂的な興味であり、『万葉集』でさえ、清少納言や紫式部によって引用されることは稀で、引用しても「当代の人の目にかなわぬもの」という弁明つきであったという。催馬楽の流行もその「今めかしたるもの」の一端であったのだろうか。当時の日本は、ヨーロッパの言う一般的な知的基盤を持ちえなかった、それ故なのか、どこから見ても優雅で洗練された男女が中世のイギリスの人々の愚かさ以上の「幼稚さ」を見せていることに驚いている。多分、物忌みやまじないなどの迷信の氾濫や、書の上手さが信仰と化しているようなことを指しているのだろうけれど、こうした頼りなさが平安時代の不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出しているというのである。しかし、こうした視点も何故そう見えるのかを問うてみなければならない。

 


清少納言は、中級官僚の子、受領の娘であった。中宮定子に仕えた恐らく40人はいたと言われる四位・五位の家の娘の一人だったが、はじめから「清原元輔の娘」という大きなレッテルを背負っていた。歌の名手、当意即妙の猿楽言を得意とした父の娘である。漢学の素養があったことで知られるようだが、おそらく、清少納言程度の素養を持つ女房は他にもあったらしい。しかし、彼女の特質は定子を中心とした宮中生活を極めて肯定的にエンジョイしていた点にあると言っていいだろう。彼女は、ひたすら「をかし」の明るい世界を演出していた。


 

狩野安信 『三十六歌仙額』から清原元輔
江戸時代

清少納言は966年、三十六歌仙の一人で歌学者としても知られる清原元輔(きよはらのもとすけ/908-990)の娘として生まれた。母については分かっていない。『日本書紀』を編纂した舎人親王を祖とする家系であり、後に清原真人(まひと)姓を賜ることになるのだが、その清原姓を賜った二人のうちの一人が舎人親王の曽孫である清原夏野(きよはらのなつの)であり、『令義解』を編纂した一人である。また、曽祖父の清原深養父(きよはらのふかやぶ)は十世紀を代表する宮廷詩人であり、学問と文学とに造詣の深い家柄であったことは間違いない。

父親の元輔はひょうきんな側面を持つことで知られていた。今昔物語や宇治拾遺には、殿上人の物見車の立ち並ぶ一条大路で賀茂の祭りの使いとして通りかかった時の元輔の様子が描かれていて、冠を飛ばし禿げ頭をさらして落馬しながら、臆面もなく物見車に近づいて面白おかしく弁じたてたという。事実かどうかは別にして、この父親のひょうきんな側面を清少納言も受け継いでいたといわれる。それに定子の父、藤原道隆は軽口を好んだ大らかな性格で定子のサロンも当初そのような明るい雰囲気を持っていた(阿部秋生『清少納言』)。

清少納言の本名は分かっていないが、 981年頃に陸奥守であった橘則光(965-1028)と結婚し、一子、則長を出産するも離婚、後に藤原棟世(むねよ)と再婚し、一条天皇の二人目の皇后である上東門院彰子に仕えたことから上東門院小馬命婦(こまのみょうぶ)と呼ばれる娘を生んだといわれている。棟世が実父であり、元輔の養子になったのではないかという説もある。ともあれ、『万葉集』の講義や『後撰集』の選者として知られる父、元輔は、990年に亡くなり、その翌年、24歳頃に一条帝の最初の中宮(皇后)となった定子のもとに出仕することとなる。推定で定子より10歳くらい上、道長や公任とはほぼ同年と言われている。初めて定子のもとに出仕した時は、コチコチになってしまって涙もこぼれ落ちる寸前だったという。ただ、明かりに照らされた着物の袖からほんの少し見えた桃色の美しい定子の手に素敵な衝撃を受けるのだった。

 


僕が何故、折口信夫の著作を愛しているのかは、くどくど述べないけれど、彼が日本の古代に関する最高のストーリーテラーであったことは確かだと思っている。そんなことを中上健次氏が色々な著作で述べていることに僕はく賛成だ。このことは、宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』の中で少し書いておいたのでお読みください。次の章では折口信夫の「まくらことば」の絶妙な解説をご紹介する。


 

折口信夫の『枕草子解説』

里の巫女が山の神を迎えるという古来の神事は山の神の使いとしての男とその土地の精霊の代理としての巫女、つまり女とのある種の戦いとなる。外から来る異神との境決めとも関わるからである。この関係は、女が男を迎えるという歌垣という行事の発展とパラレルな側面をみせる。歌垣には、男と女が語らうという面より、争い、かけあい、ひやかし、折り合うという面が強く、物の交換が伴うために歌垣の場所は、市のたつ場所ともなっていった。

問答歌として二首で完結する五・七・七三句形式の片歌が使われたこのかけあい、いわば口争いは、男が女を手に入れようとする口どきを女の側がもどくという技の修練を催すようになる。やがて、片歌の一部が強調されて短歌ともなった。その女の側の修練が、女房文学を宮廷において発展させる端緒となるというのである。奈良朝におけるかけあいは、ある地方の物語が放浪者の持ち来る物語や歌とともに広がり、色々な地方の歌垣で使われるようになるに伴って自由で豊かなものになっていき、文学的にも洗練され、内容も民衆の心に適うものになり、文学として評価しえるようになっていった。平安朝の女房文学の基盤は、そのような経過を経て成立したのである。

折口信夫全集15 「枕草子解説」収載

歌物語と諺物語が、皇子たちの教育に役立てられていたために宮中では物語は重要なものだった。そのような中で短編物語が女房の日記、それ自身の歌から生まれていくこととなった。過去の歌、過去の諺を記録するかわりに自分の主人の為の代作歌をその次第とともに書き添えていく習慣が女房自身の抒情歌、実際に使われる相聞・唱和の歌とその詞書をも発達させた。かつてのみこともちの慣習は平安朝でも継承され、貴人は人を介して言葉をやり取りした。歌の場合も、女房の即席の歌が貴女自身の歌と考えられ、そのようにとっさに優れた歌を作れる女房を抱えることが、とりもなおさず貴女の評判を高めることとなる。女房は主人の意を汲んだ歌を作ったものと考えられ、それは主人の歌そのものとされていたのである。清少納言もそのような女房の一人であった。もっとも歌は苦手だと本人は言っていたらしい。

巻物の時代の後には「そうし」の時代がやってくる。草紙は二つ折りした紙の折り目の部分を糊ないし糸でとじる冊子である。それでは枕とは何かというと、文章の中心になって、その生命を握っている単語、あるいは句を指すという。「ことのはまくら」「まくらことば」の意味である。必ずしも文頭にくる言葉ではない。「まくらそうし」とは、文章に生命を与える言葉を書き付けるための草紙ということになる。まくら(枕)は魂、特に生魂(いきみたま)を蔵する場所であり、「まくらごと」は魂を込めて長上に献上する「よごと(寿言)」と同じ意味であった。長上に歌詞を奉ることは自分の霊威を奉献することであったからである。「まくら」の第一義は献上する歌詞の全体、第二義は、その歌詞の中の生命を握っている語ということになる。「まくらごと・まくらことば」については色々の説があるが、折口信夫の「霊魂論」の枠組みの中では、この語は確固とした定義と価値づけが与えられ、説得力がある。

女房たちは、「まくらそうし」を特定の貴族の子女のための手習いの材料として奉った。それは、教育の方便となるのである。ついでに言うと、本歌とりとは、ある歌のまくらを取り込んで新しい歌を作り本歌の持っている霊威を取り込もうとすることである。本歌とりの起こりは替え歌で、本歌の声楽的な霊威を取り込んで完全に移せるものと考えたのである。その時、まくらは必ず入れておかなければならなかった。その名残が、はやし詞であるという。手習いの材料が分量を増し、形を成してくると艶書集となる。恋文の指南書である。こうした艶書に熟達することは、貴公主。貴公子の世才、つまり「やまとだましい(才能・知識)」を殖やす有力な方法であった。

日本古典文学全集『枕草子』小学館 1997年刊

女房たちの書いた日記は、色々な意味を含んでいた。そこに書かれた歌には、女房自身の実感・境遇を詠んだ歌もあれば、代作したものもあり、男女の相聞・問答歌さえ実際の恋愛から生まれたものだけではなく、社交上の辞令で使ったものもあった。平安朝の日記は、教訓書であり、データボックスであり、有職典礼集、言行録、生活記録でありながら物語的な要素もあり、場合によっては家集でもあった。それは、広い意味の随筆であったという。平安後期王朝の女房日記、女房歌集には、このような要素が多く見られるのだけれど、清少納言の場合、「まくらごと」の配列が目に付く。同種類の「まくらそうし」のなかで清少納言の日記に属するものが著名となるに及んでその名をもっぱらにしたのだと折口さんは言う。

閉じおける枕ざうしの上にこそ昔語りの夢は見えけれ(『新選六帖』鎌倉中期の和歌集)

この歌からは「まくらそうし」が備忘録として考えられていたことが分かる。まくらごとを集めることによって自家の誇りや自讃歌を筆にまかせて書き連ねる。このような備忘録としての性格は清少納言の『枕草子』にもあって過去を回想する形の文章となっている。例えば「仰せらるるもをかし」の「をかし」という結びは、ある意味人の動作や目の前の情景を回想する形式にもなっているのではなかろうか。こうしたまくらごとを含んだ日記、総じて随筆的なものは、時間的に整理されたものではなく、書かれた材料にも決まった選択がない。ノートのように書き連ねられていて備忘録のようになる。それも、宮廷や貴族の家で実際に行われた年中行事、あるいは事件を描写する日記に対して、かなり誇張と文飾を加えた、もののあはれの日記とでも言うべきものであったという。フィクションも多分に含まれていた。

『枕草子絵詞』部分 鎌倉時代末
一条帝が石清水八幡への御幸の際に生母詮子に会う場面

一方で、『枕草子』に関して、宮廷生活の日記の部分を絵巻物にした『枕草子絵詞』として知られる作品が存在している。古典的生活を紹介する一種の行事絵巻としての有職絵であるが、そのために文章の一部が改変されている。当世風の『宇治拾遺』『信貴山縁起』その他、漫画的な絵巻にあるような智慧の勝利、をこなる男の失敗、歪んだ世相といったようなテーマはない。この『枕草子絵詞』のような物語日記絵は、かなり古典的な形式のものであり、描かれたのは過去の典型的な生活であったという。そのような生活を描く絵詞は日記のように備忘録としての性格を持っていた。しかし、ページをめくるという新機能を持つ草紙の内容が、絵巻という古い媒体へとフィードバックされている点で面白い。絵巻から草紙というテクノロジーの進化が人間の感覚のある部分を拡張したとするなら、ページをめくりながら絵巻の断簡を眺めいるような感覚だったかもしれないのだが。

当時は文章を書き写すしかコピーの手段はなく、原本も当然そう写した。そうするとしてもいくつかの章を抜粋した写本もあり、人によってその取捨選択は異なった。そのため幾通りかの抄本が存在するようになる。これは『源氏物語』などでも同様である。それに各個人の書き入れが挿入されたものもあり、場合によって書き換えさえあった。それが、作者複数説の所以でもある。完全なコピーを作ろうとする意図で写されない場合も多かったのだ。『枕草子』にもこのような異本があり、大きく分けて四種類の系統があると言われる。既に写す段階で編集および加筆がなされていた。現在、使われている『枕草子』のテキストは、その中でも原典に近いと考えられているものであることは言うまでもないだろう。

 


このように見ていくと『枕草子』が「まくらごと」を集めた辞書であり、その備忘録、事実やフィクションを織り交ぜた日記、歌物語でもあり、短編小説をも含んだ気ままに書かれた随筆であったことが分かる。それに加えて、写本の段階で多くの編集・加筆が行われていたのである。つまり、清少納言と読者とのコラボ的性格さえも持っていた。


 

私たちが『枕草子』を読む時、ありのままの日記であることを前提として、つまり、清少納言の感想つきの記録として読んでいないだろうか。例えば、286段(古典文学全集/小学館による)の「うちとくまじきもの」には、「船に乗って漕ぎまわる人ほど畏怖を感じさせるものはない」と油断のならない気の許せないものに関する一般論を言っているかと思えば、自分の乗っている船は「きれいに作ってあって‥‥まるで小さな家にでも乗っているようだ」と書いている。先ほどの津島知明さんの指摘にあるが、カタログのように書かれているかと思えばふっと体験談が挿入される。これをウェイリーらが英(仏)訳する場合、必ず誰が何時述べているのかという人称時称は確定されなければならない。そうなると現実の記録としての意味あいは絶対的なものとなる。ある意味これらの訳は現在の私たちの読みに近いものとなるだろう。しかし、原文のいわば、カタログへと一般論化しようとする拡張と現実の記録としての一点への収縮という呼吸のような振幅は失われるのである。

三田村雅子 編 『枕草子 表現と構造』日本文学研究資料新集4
 阿部秋生「清少納言」、三田村雅子「枕草子の笑ひと語り」収載

特に指摘しておきたいのは、道化役に徹した清少納言の中宮定子への愛情である。定子の父・藤原道隆が身罷り、その弟の道長に権力の座が移ると、後ろ盾をなくした定子は、徐々に落魄の憂き目を見ることになる。道隆の中関白家の明るい家風は前にも述べた。道隆在世中は定子を取り巻く中関白家の人々の屈託のない笑いが『枕草子』の中で総動員されているかのようだという。しかし、道隆亡き後、徐々に切迫する定子の周囲は笑うには暗い。その中で笑いを懸命に探そうとする清少納言の姿があった。笑いをとる人物は生昌、方弘、信経、宣方、則光、常陸介などに限定され、決まって最後に笑いを引き受けるのは清少納言自身のある種物狂おしいまでの姿なのである。そこに演出のドラマがあった(三田村雅子『枕草子の笑ひと語り』)。「まくらそうし」が献上することを前提とされていたのなら、定子の落魄を描くはずはない。歴史に対する無感覚を指摘するのは誤りと言えるだろう。定子の兄の伊周(これちか)とその弟の隆家が花山院に矢を射かけた事件、いわゆる長徳の変など書けなかったのである。

清少納言は、決して「我ぼめ」し「吹き語り」するだけの才女ではなさそうなのだ。三田村雅子さんは同じ著作の中でこう述べている。「『清少納言集』などによって知られる涙もろい一面を持ち、拡がりを持った現実の清少納言と、忠実でプライド高い女房役を演じる清少納言と、そのような演技を更に誇張し、切り取り、語り、書く清少納言と、すくなくともこの三層を意識化することなしに今後の枕草子研究はあり得まい」と

このような『枕草子』をヨーロッパの知識階級がどのように見たかはウェイリーの感想を見ていただければよいだろう。彼は『枕草子』を不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出す平安後期という時代の貴重なドキュメントとしてのみ見ていた。『枕草子』だけを通してそう思ったのかどうかは分からないけれど、清少納言の「日記」が如何なる性質を持っていたのかを知ることなしには、その時代を正しく理解するのは難しかったのではないだろうか。笑いの散りばめられた日記の背後に透けて見える文章は、ある種、鵺やキマイラの如き複合体なのである。

ことの葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな(清少納言)

 


このところ展覧会の準備ということもあってブログを書いてこなかった。最近は、とみに老眼が進んでメガネなしにモニターをみることができなくなった。ド近眼ならぬ、ド老眼なのである。3、4時間も坐っている腰が痛くなる。残念ながらリクライニングチェアはないので家の床に寝っころがっていると家内に掃除機で吸われそうになったりする。そんなこんなで前のように定期的に書くことは難しいかもしれないけれど、本があれば書くことに事欠くことはないのだから、興にまかせて時々は書きたいと思っている。でも、あまり期待しないでくださいね。

石を聴く― 天と地を結んでけつまずくもの

 

わたしは星が好きだ
道の上の石に似ているから
空をはだしで歩いたら
やはり星にけつまずくだろう

わたしは道の上の石が好きだ
星に似ているから
朝から晩までわたしの
行く先を照らしてくれる(イジ―・ヴォルケル『巡礼のひとりごと』栗栖継 訳)

 

瑪瑙  Ploczki Gorne, Kaczawskie Mts., Poland

今回は石がテーマですが、いろんな人が色々に書いているのが面白い。まるでカタログのように石について述べているのは澁澤龍彦の『石の夢』。博覧強記の人も色々いるけれど、ちょっと感心する。古代エペイロスの王であったピュロスの持つ宝石のうちの一つ、それは九人のミューズと竪琴を手にしたアポロンの姿を見ることのできる瑪瑙だった。プリニウスの『博物誌』の中の記述である。それは、自然に石理(いしめ)によって生じた模様であった。同じように『和漢三才図絵』の「瑪瑙」の項にも「その中に人物、鳥、獣の形有るもの最も貴し」とあり、こんな石の模様を人間の想像力と「類推の魔」が、意味ある形に捉えてしまうのは洋の東西を問わないらしい。

瑪瑙 Dendritic Agate from Ken River, Bundelkhand Region, India 描かれた樹のような模様を見ることができる。

「絵のある石」については、フランスの美術史家バルトルシャイテスの著書『アベラシオン』に例が沢山紹介されているし、僕は未見だけれどもカイヨワの『石の書』にもあるらしい。普遍博士とよばれたケルンのキリスト教神学者であったアルベルトゥス・マグヌスは石の中に形成される絵は星の影響だとしている。稀代の錬金術師でもあったから魔術や錬金術と占星術とが親和しているのは当然だった。ルイ13世の宮廷司祭であり、リシュリュー枢機卿の司書でもあり、並びなき東洋学者でもあったジャック・ガファレルは、パラケルススのいう「ガマエ」なる石が星と感応し、その降り注ぐ光を吸収して成長する生きた霊石だと信じていた。フランスの詩的な哲学者・科学者であったガストン・バシュラールは『大地と意志の夢想』の中で「黄金は土中の中で松露のように熟する。しかし、完全な熟成に達するためには数千年が必要である。」と書いている。大地が意志と結びつけられているのは良い。

アポロ・ミトラス神の頭部 ネルムート・ダー、トルコ

17世紀の驚嘆すべきエンサイクロペディストであるわれらがイエズス会士アタナシウス・キルヒャーにとって、地球は一個の有機体であり、鉱物も金属も燃える地殻の内部に生じるとした。ということは岩石火生説の立場ということになろう。かたや、ノヴァーリスの師であった鉱物学者アブラハム・ゴットロップ・ウェルネルは岩石水生説を標榜し、おびただしい石の標本を家族のように愛していたという。

石を愛した人は多い。明恵上人は白上峰の眼下にある鷹島と刈藻島から拾ってきた小さな丸い石を生涯手もとに置いて愛玩していたと言うし、『雲根志』を著した木内石亭は幼き頃より玉石を珍玩し、ユングは少年の頃、ライン河から拾ってきた楕円の石を上下絵具で塗り分けてポケットに入れて持ち歩いていたと回想している。誰しも少年・少女の頃の記憶の断片の中にこのような光景が、そっと忍んでいないだろうか。そのユングは「神々の生まれた場所と見做された石(例えばミトラ神の生まれた石)は、石の誕生を説く原始の伝説と結びついている(『元型研究』)」と書き、折口信夫は「神の容れものとしての石(『霊魂の話』)と書いていてぴったり符合するというのである。

 


ときとして、星々からふりそそがれた光線は(同じ本性であるかぎり)、最高所からおちてきた金属、石、鉱物と結合し、それらにすっかり浸みこんで、それらと結合する。このような接合にこそ、ガマエはその起源をもつ。(ヨハンニス・グラセット『カバラ化学の円型視象をめぐる自然生理学』)


 

宮澤賢治の『虹の絵具皿』

水生説と火生説ではないけれど、石の中には火と水がある。石の中の水を書いているのはカイヨワで「程よい大きさの瑪瑙は‥‥その内部が中空になっていて水が入っていることが分かる(『石』)」という。「水以前の液体」だというのだ。石を気長に磨り上げて水から一分というところまでで留めると石の中の魚が泳いでいるこの上なく美しい姿が見えるというのは「長崎の石」の民話である。一方、石の中の火を書いたのは宮澤賢治の『貝の火』で、子ウサギが贈られたのは中が赤や黄の焔をあげてせわしく燃える玉だった。そして、鉱石の百花繚乱というべき世界を言祝いだ彼の極め付けの作品は、十力(じゅうりき)の金剛石を描いたこの『虹の絵具皿』である。

ほろびのほのお 湧きいでて
つちとひととを つつめども
こはやすらけき くににして
ひかりのひとら みちみてり
ひかりにみてる あめつちは
…………………

(宮澤賢治『虹の絵具皿』より)

オパール(蛋白石) 火が見えるプレシャス・オパール

ある日、王子は光輝く蛋白石や大臣の子のいう虹の脚もとにあるルビーの絵具皿を探そう、あるいは山の頂上の金剛石を目指そうと出かけることになりました。霧が晴れて虹が立ちます。虹の脚元に行こうとするが虹は逃げるのです。また、霧が出ると「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。はやしのなかにふる霧は、蟻のお手玉、三角帽子のちいさなけまり」と歌うものがある。王子の青い大きな帽子につけられた雀蜂の飾りでした。彼らの案内で王子たちは、草の丘の頂上に立つ。あたりが明るくなると雨がざーと降りはじめ、あられに変わりました。それはみんなダイヤモンドやトパーズ、それにサファイアだったのです。賢治の描写が続きます。

「その宝石の雨は、草に落おちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどうの花は刻まれた天河石(アマゾンストン)と、打ち劈(くだか)れた天河石で組み上がり、その葉は、なめらかな硅孔雀石(クリソコラ)でできていました。黄色な草穂は、かがやく猫睛石(キャッツアイ)、いちめんのうめばちそうの花びらは、かすかな虹を含ふくむ乳色の蛋白石、とうやくの葉は碧玉(へきぎょく)、そのつぼみは紫水晶(アメシスト)の美しいさきを持っていました。そして、それらの中でいちばん立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は、茶色の琥珀や紫がかった霰石(アラゴナイト)でみがきあげられ、その実は、まっかなルビーでした。(『虹の絵具皿』)」

天河石(アマゾナイト)の結晶 コロラド、エル・パソ産

しかし、ダイヤモンドの露をしたたらせながら、りんどうは悲しげで、うめばちそうもこう歌います。「青空はふるい ひかりはくだけ 風のしきり 陽は織れど かなし」と。 そして、丘一面の草や花はいっせいに「十力の金剛石はきょうも来ず めぐみの宝石(いし)はきょうも降らず 十力の宝石の落ちざれば、 光の丘も まっくろのよる」と歌うのでした。さらにりんどうは、「十力の金剛石は春の風よりやわらかく、ある時はまるくあるときは卵がたです。霧より小さなつぶにでもなれば、そらとつちとをうずめもします」と語ります。と、俄かにスズメバチがキイーンと背中の鋼鉄の骨もはじけたかと思うほど鋭い叫びをあげると、とうとう十力の金剛石が降って来るのでした。かすかな楽の響、光の波、芳しく清い香り、透き通った風とともに、スズランの葉は今やほんとうに柔らかな、うす光する緑色となりました。賢治はこう書きます。

「ああ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかがやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹(あおたか)のように若い二人がつつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいたことはなぜでしょうか(『虹の絵具皿』)。」

 


涯もなく青空おほふはてもなき闇(くら)がりを彫(ゑ)りて星々の棲む

身がわりの石くれ一つ投げおとし真昼のうつつきりぎし(切岸)を離(か)る

(明石海人『白描・白描以後』より)


 

日本の石信仰

大洗磯前神社の神磯鳥居
二つの奇妙な石が出現し、その神霊が人に依って大己貴(おおむなち)命、少名彦命と名のった。その石が現われた大洗磯前の二柱降臨の地。

石が海岸に漂着するという寄り石信仰は常陸の大洗磯前神社などが有名であるらしい。それから石の成長する話、その類話は石が子を産む話だろうか。石女といえば不生女(うまずめ)という蔑称の感があるが、救いはあった。富士山の麓の子持石村にはその名の石があり、石の脇の穴を竹竿でくじると羽根つきの球くらいの石が転び出たという。土地の伝承では「子無き婦人が一七日(七日)の間、身を清く保ち、朔日(ついたち)毎にこの石を清浄な水に浸し、その水を服する時は忽ち子を孕む」と伝えられたと江戸時代の奇石収集家であった木内石亭は『雲根志』に書いている。同じ石を持ち上げた時の軽重によって事の成就を占う「天神石」の話も同書に載っている。いわゆる石占いである。それから、ナマズが地震を起こすのを押えているというかなめ石は常陸の鹿島明神にあるが、これなどは石の霊力のなせる業と考えられていた。それにもう一つの石信仰は、生殖器の形をした石の崇拝で、岐(さえ)の神と呼ばれる。道祖神を思い浮かべていただければ良いだろう。これが折口信夫のいう石信仰のラインナップである。

中国の石のイメジャリー

女媧 簫雲従(1596-1673)「天問図」より 岩峰に巻きつく人面蛇身の神

どうも同じような内容の話は、中国の神話・伝承にもあるようだ。ジン・ワンの『石の物語』には中国の石に関する神話・伝承が紹介され、『紅楼夢』『西遊記』『水滸伝』に共通する石のイメジャリーが展開されるという極めて興味深い内容の本になっている。その石の話は女媧(じょか)の伝説に集約されそうだ。

「女媧は人の頭と蛇の体をもっていたと言われ、一日に七十回『化』した(屈原『洪興祖』)。」さらに『山海経』には「女媧の腸(はらわた)という十人の神がいる。彼らは神の姿となり、栗広の野に住んで道をふさいだ」とある。エーリッヒ・ノイマンは、それがグレート・マザー元型を支配する女性性に具わる変形という特徴であり、妊娠と出産においてその働きを象徴しているという。そして、女媧は、黄色い土を固めて人を作ったが、それが重労働であったために今度は泥の中に縄を入れて引き揚げ、振り落とされた泥で人を作った。しかし、前者は富貴で聡明な人となり、後者は貧賤で凡庸な人になったと習俗、伝承を集めた後漢末の『風俗通義』に記録されている。人を産みだす神であった。

共工は顓頊(せんぎょく)と天子の座を争った時、勝てなくて怒りにまかせて不周山に激突した。天の柱は折れ、地の四隅を繋いだ綱が切れて大地は傾いた。そこで、女媧は五色の石を溶かして天を補修した(『淮南子』)。石の霊力を以って癒す神である。縁結びと子授けの地母神である高媒においては、その祭壇に石が置かれている。高媒は夏王朝では女媧または塗山、殷では簡狄、周では姜嫄と女性の始祖として呼ばれたという説がある。石は地母神の最古の象徴であるという。ちなみに塗山は禹の妻で熊の姿になった夫を見ると石に変身し、その石が裂けて子供の啓を産んだ。「啓」の意味は「ひらく」である。禹の出生には諸説あるが、『淮南子』には禹が石から生まれたとあり、その母は石に感応して彼を産んだという注もある。また、別のテキスト『史記』には禹の母が、流星が昴を貫くのを見て、夢で心に感じるものがあって彼を産んだとある。禹は舜帝から黒い玉(ぎょく)を贈られて治水の功績を天下に知らされることになる。別のテキストでは人面蛇身の神が玉のふだを彼に授け、それによって禹は水と土を治めるのである。こうなると多くが繋がってくる。

玉壁 祭祀用の最も重要な玉器(透閃石や緑閃石などの軟玉で造られる。これに対して翡翠は硬玉と呼ばれる。)

その他に、秦の始皇帝がはじめたとされる泰山に登り石を立て壇を築いて供犠を行う封禅、厄除け石として知られる石敢当、漁師の網にかかった成長する石、動くのみならず足の生えた石、子授け石である乞子石、音・音楽や言葉を発する鳴石、鏡のように光る照石や石鏡、僧の説法を聞いて頷く点頭頑石(これなどは可愛らしい)、そして石女が紹介されている。

 


別世界の書は別世界の話を伝え、
人と石は再びまったき一つのものとなる

(曹雪芹『紅楼夢』)


 

西遊記・紅楼夢・水滸伝を結ぶ石

四大部州の一つ、東勝神州の海のかなたの傲来(ごうらい)国、その近くの大海中に花果山という名山があった。その頂には仙石があり、高さ三丈六尺五寸は天周三百六十五度に準じ、周囲二丈四尺は暦の二十四気になぞらえられていて、九つの竅(きょう/細い穴)と孔(つきぬけた穴)は九宮と八卦に基づくといわれている。この石は天地開闢以来、日月の精華を受けて霊気を孕み仙胎を宿す。ある日、その石が裂け割れて石の卵が生まれ、そこから一匹の石猿が生まれた。御存じ孫悟空である。

金陵十二釵 林黛玉 費丹旭(1801-1850)
『中国歴代仕女集』より

女媧が石を鍛えて天のほころびをつくろった時、大荒山の無稽崖にて高さ十二丈、幅二十四丈の大きな荒石三万六千五百一個を精錬するのだが、その内一つだけが使われずに青挭峰の下に捨てられる。この石は、精錬によって霊性を備え、歩くことも大きさを変えることも自由にできたが、使われなかった悲しみに昼夜泣いていた。ある日、僧と道士が通りがかり紅塵の下界の話をしていると石は富貴の園、温柔の郷に遊び楽しみたいと頻りに頼み込む。話す石なのである。願いを聞いてやった二人は、その石を扇子の根付くらいの大きさの通霊宝玉という美しい玉(ぎょく)に変えてやった。一方、天上界の太虚幻境では神瑛待者(しんえいじしゃ)が霊河のほとりに生えた絳珠草(こうじゅそう)に甘露をかけてやったので女性の姿に変わることができた。神瑛待者は下界に降りることを望んだ。姿を変えてもらった女媧石の五彩に輝く通霊宝玉を口にくわえて賈宝玉(か ほうぎょく)として下界に生まれ変わる。絳珠草は、林黛玉(りん たいぎょく)としてその後を追い、大貴族の賈(か)家に集うことになる。白話(口語体)小説『紅楼夢』は、こうして始まるのです。

ジン・ワン『石の物語』 アメリカの比較文学研究者の著作。間テキスト性満載になっている。

蔓延する疫病を調伏するための祈祷を竜虎山に住む仙人張天師に願うために北宋の皇帝仁宗は、国防大臣にあたる大尉の洪信を遣わした。仙人に出会えた洪信は翌日、道教寺院である道観内で「伏魔殿」という額の掛った建物を目にする。腕の太さほどもある鎖で閉ざされ数十枚の封印とその上に押された珠印で厳重に封印された朱塗りの格子扉があった。かつて、老祖天師が魔王をその中に閉じ込めたのだと道士たちはいう。止める道士たちを押し切って洪信は扉を開けさせた。ただ、石碑が真ん中に一つあるだけだった。高さは五・六尺ほどで下には石亀の台座があり、松明で照らしてみても表側は古代文字で読めない、しかし、裏には「洪に偶いて開く」と彫られてあった。欣喜雀躍した洪信は警告などものともせず、台座の下の四角い石版を掘り出して除けると忽ち閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去ったという。その石版が「かなめ石」であり、それらの星が梁山泊の百八人の頭領たちだった。つまり、石が魔星を封じていた。

水滸伝における読めない文字が彫られた石碑のかなめ石は、天の意思として開かれることが定められていた。一方、『紅楼夢』の話は人間界で過ごした女媧石がその経験した事件の顛末を自らに刻んで石碑の如くとなる。その文字を仙道修行の空空道人が写し取って世に伝えたとされている。それに、宝玉がくわえて生まれる玉には、その裏に三つの文章が刻まれていて、その一つが「祟りを除(はら)う」であった。そして玉になる前の女媧石は大きくなることも小さくなることも話すこと歩くことさえ可能だった。それは、石の持つエネルギー、ある種の豊饒さにつながる。石猿の孫悟空が如意棒を自在に操り、多彩に変化(へんげ)する活躍にも、梁山泊の頭領たちの立ちまわりにもそのエネルギーを見ることができるだろう。中国のこの三小説に関連する広大なテキスト相関的空間を横断しているのは、特定可能な神話や儀礼の一団であると筆者のワンは述べている。気の核である石は女媧の伝説に集約されてそのイメジャリーを巡る円環が生じるように僕にも思えるのである。そういえば、文学の統合原理は穏喩と神話だと言ったのはノースロップ・フライだった。

 


石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。聴く者のひとりひとりの尺度に応じて、石たちは言語をもつ。聴く者のしりたがっていることを教えてくれる。石たちの中には呼びあっているように見えるものもある。ふと近づいてみると、石どうしが語りあっているさまにであうこともある。そんな場合、石たちの会話は、太古のもの、不滅のものの実質そのものを私たち自身の思念の鋳型に流しこむことによって、私たちの条件をのりこえさせてくれるというはかりしれぬ益をもつ。(アンドレ・ブルトン『石の言葉』巖谷國士 訳)


 

石を聴く

ヘイデン・ヘレーラ『石を聴く』2018年刊 とても詳しいイサム・ノグチの伝記

石に耳を傾け、太古のもの、不滅のものの実質をその作品の中に鋳込んだ芸術家、それが、イサム・ノグチだった。2018年にヘイデン・ヘレーラによる詳しい伝記が出版されている。1960年代の末、ノグチには四国の香川で石工の和泉正敏と運命的な出会いがあった。彼は花崗岩や玄武岩といった硬い石を彫りたいと考えるようになっていた。『黒い太陽』はブラジルから30トンの花崗岩を取り寄せ、高松近郊の庵治(あじ)で和泉をアシスタントとして彫られた素晴らしい作品だった。

同じく高松の牟礼(むれ)でノグチはこう語った。「自然石と向き合っていると、石が話をはじめるのですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです。‥‥」一方で石を彫る時のノグチは、石を征服しようとするかの如くで、そんな時には人が変るという。小さな子供なら近くによって話しかけられないほどの空気がみなぎるのだ 。あまりに顔を近づけて強く彫るので、石工たちは眼に石屑が入るのではないかと心配していた。実際、眼に入ってもノグチは、そんな心配を無視したという。1986年のヴェネチア・ビエンナーレの後、彼はインタヴューにこう答えた。「日本にもどり、石と向かい合ったら、石がともかくもぼくに語りかけてくれるだろう。ぼくは石の頭を叩く。石になにかを語らせるためなら、ぼくはなんでもするだろう。」

聴こえる人には聴こえるのだ。


さて、今回の石を巡るお話しはいかがでしたか。僕も石の話が聴こえる人になりたいと思った次第ですが、真のアーティストにしか与えられない特権かもしれませんね。しかし、石が語るのは天界の秘密だったのでしょうか。最後に、石に関する僕の最愛の詩をご紹介して終わりましょう。

 

きょうは こどもを
ころばせて
きょうは お馬を
つまずかす。
あしたは 誰が
とおるやら。

田舎のみちの
石ころは
赤い夕日に
けろりかん。(金子みすゞ『石ころ』)

 

矢崎節夫『童謡詩人 金子みすゞの生涯』やさしさの倫理とリヴァースする視線

金子みすゞ(1903-1930/本名 金子テル)
大正12(1923)年5月3日撮影 本書より

昭和二年の夏、西条八十(さいじょう やそ)は所用で九州に向う途中、下関のプラットフォームに降り立った。彼が高く評価していた童謡詩人と会う約束をしていた。プラットフォームには、それらしい人影はなかった。関門海峡を渡る連絡船に乗るためにあまり時間はない。構内を懸命に探した彼は、ほの暗い一隅に人目をはばかるように佇んでいる、一、二歳くらいの我が子を背負った彼女を見出した。二十二・三歳くらいのつくろわぬ蓬髪に普段着姿の彼女は、裏町の小さな商店の内儀のようであったという。手紙では饒舌で十枚近い消息をよこす彼女は、意外にも寡黙だったが、黒曜石のような瞳だけが雄弁に輝いていた。「お目にかかりたさに、山を越えてまいりました。これからまた山を越えて家へ戻ります」と彼女は言う。彼女と言葉を交わす時間よりも、その子の頭を撫でている時間のほうが長かったようにも思われる。何事も語る暇もなく分かれたが、連絡船に乗り移る時、彼女は群衆の中でしばらく白いハンカチを振っていた。が、間もなく混雑の中に消え去ったという。

彼女の名前は金子テル。大正12年6月、テルは、『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星(金の船から改名)』という四誌に童謡詩を投稿してみた。その頃、童謡・童話の世界は驚異の発展を見せていた。大正7年、鈴木三重吉編集の月刊『赤い鳥』が、子供達のための芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動として発刊される。それに呼応したのは、泉鏡花、徳田秋声、高浜虚子、有島武朗、芥川龍之介、島崎藤村、谷崎潤一郎、佐藤春男、菊池寛、北原白秋、そして西条八十ら、錚々たるメンバーだった。

翌年、斉藤佐次郎によって『金の船』、その翌年にも千葉省三によって『童話』が生まれ、三大童謡・童話雑誌が出揃うこととなる。大正14年にはラジオ放送も始まり、白秋の『からたちの花』『待ちぼうけ』、雨情の『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』などがラジオで放送されるようになった。雑誌が文化を牽引した時代だったのである。『赤い鳥』の選者は北原白秋が、『金の船』は野口雨情、『童話』は西条八十が選者だった。彼らは、これらの雑誌に盛んに作品を発表し、自らが投稿欄の選者を務め、その評も書いた。希望に溢れる若い読者がそれに呼応しようとした。大正デモクラシーの良き時代であった。下関の商品館の一角に書店の小さな出店を任されていたテルは、そんな読者の一人だった。

テルは西条八十の詩の世界に惹かれた。この本の著者である矢崎節夫(やざき せつお)は八十とテルの作品世界の共通性を挙げている。

蟻 蟻 寂しかろ
はこべの葉っぱに ついてきた
道権山の 黒蟻を 神田の通りで 放したが
蟻 蟻 寂しかろ 路がわからず さびしかろ (西条八十『蟻』大正9年)

思いだすのは雪の日に 落ちて砕けた窓硝子
あとで あとでと思ってて ひろはなかった窓がらす
びっこの犬をみるたびに もしやあの日の窓下を とほりやせぬかと思っては
忘れられない、雪の日の 雪にひかった窓がらす(金子みすゞ『硝子』)

西条八三(1892-1970)

ここにあるのは、小さな者たちへの眼差しとやさしさゆえに生まれる倫理性というべきものであろうか。テルのペンネームは「みすゞ」という、篠竹のことを指すけれど、もともと「信濃の国」にかかる枕詞である「みすゞ刈る」に由来すると言われる。だが、筆者は、万葉集の「信濃」の国にかかる枕詞は「みこも刈る」であり、この「みこも」を江戸時代に賀茂真淵が「みすゞ」と読み間違えたために普及した言葉だという国文学者の稲岡耕治の説を引いている。アララギ派の詩人は、この「みすゞ」を好んで使っていたというのだ。

投稿してから三ヶ月後、みすゞは逃げ出したいほどの気持を抑えて、9月号の雑誌のページを開いた。『童話』には彼女の作品『お魚』『打ち出の小槌』が、『婦人倶楽部』には『芝居小舎』が、『金の星』には『八百屋のお鳩』が、『婦人画報』には『おとむらい』が入選していた。特にこの『おとむらい』は童謡欄ではなく抒情小曲欄に掲載されていて、後に西条八十編による『現代抒情小曲選集』に選ばれている。みすゞの作品は、優れた童謡詩人のそれとして、このように最初から受け入れられていたのである。

海の魚はかわいそう

お米は人につくられる
牛は牧場で飼われてる
鯉もお池で麩をもらう

けれども海のお魚は
何にも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる

ほんとに魚はかわいそう(金子みすゞ『お魚』)

クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)詩
『とんでいけ海のむこうへ』バーナデット・ワッツ画

この『お魚』ともう一つの『打出の小槌』について西条八十は『童話』誌の選評にこのように書いている。「言葉や調子の扱い方にはずいぶん不満の点があるが、どこかふっくりした温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じはちょうどあの英国のクリスティーナ・ロセッテイ女史のそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力していただきたいとおもう。」クリスティーナ・ロセッティはあのラファエル前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹にあたる。やはり詩人で童謡詩も多い。興味深いので、みすゞの作品と比較してみていただきたい。

 

もしも ネズミが空をとべて
もしも カラスがすいすいおよげて
もしも 魚があるいたり
おはなししたりできるなら
わたしだって
ねずみやカラスや魚になってみたい

ネズミが空をとべたなら
とおくへとんでいってしまいそう
カラスが水の中をおよげたら
灰色にかわってしまいそう
魚があるいたり おはなしできたら
さあ いったいなんていうかしら ? (クリスティーナ・ロセッティ『とんでいけ海のむこうへ』より 高木あきこ訳)

 

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)は速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。(金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』)

 

上 海上アルプスと呼ばれる青海島  下 仙崎の街と仙崎港

金子みすゞは、明治36年(1903)山口県長門市仙崎に生まれた。日本海に面した漁師町である。向いには、海上アルプスと異名をとり多くの文人が訪れた風光明媚な青海島(おおみしま)がある。大型の真鰯である大羽鰯の獲れるシーズンには町は祭りのようになったという。土佐の津呂、紀州の太地とならぶ捕鯨基地でもあった。このような漁業を基盤にみすゞの生まれた明治の末から大正にかけて小さな町にもかかわらず芸者が三、四十人もいて、遊郭も七、八件あるような豊かさを誇っていたようだ。

父庄之助、母ミチの長女として生まれた。その父は下関の上山(うえやま)文英堂という叔母フジの嫁ぎ先であった書店の支店長として清国にある営口という町に赴任した。大連の近くだが、折からの反日運動によってこの営口で殺害される。テル(みすゞ)が三歳になろうという時だった。兄弟は、兄の堅助と弟の正祐(まさすけ)がいたが、叔母フジと嫁いだ上山文英堂の店主であった上山松蔵との間には、子供がなく、当時一歳だった正祐が養子に出された。それが悲劇の序章となるのだが、まだ誰も予想だにしなかったことである。

それらの関係もあってのことだろうが、金子文英堂という書籍と文房具を売る近辺の大津郡で唯一の書店を開業することになる。祖母ウメ、兄堅助、母ミチ、そしてみすゞとの四人暮らしだった。母は物静かで賢く美人で鈴を震わせるような声であったという。丁稚にさえ「あなたは本屋さんにきたのだから、本をたくさん読みなさい」と言ったような人で、文学志望する彼に「雲が流れる」という文章には何通りもの書き方があるのだと教えたとも言われている。店には、いつも子供たちの笑いが絶えなかった。

「母さま私は何になる。」
「いまに大きくなるんです。」

杉のこどもは想います
(大きくなったらさうしたら
峠のみちの百合のよな
大きな花を咲かせよし
ふもとの藪のうぐひすの
やさしい唄もおぼえよし‥‥‥。)

「母さま、大きくなりました
そして、私は何になる。」
杉の親木はもうゐない
山が答へていひました
「母さんみたいな杉の木に。」(金子みすゞ『杉の木』「童話」大正14年6月号に掲載)

みすゞは瀬戸崎尋常小学校、大津高等女学校を卒業した。級友たちは異口同音に彼女の優しさ、人の悪口を決して言わない性格の円満さ、笑顔の美しさ、頭の良さを指摘している。一度、先生にあてられて答えに窮していた時、ふと見るとみすゞは居眠りしている。あたらなければよいがと思っていると「金子さんはどうですか」と先生は問う。すると眠っていたはずの彼女は、すっくと立ち上がってすらすらと答え、級友たちをあっと驚かせた。「こっくり正解物語」は、一度ではないらしく下級生にも知れ渡っていたという。

大正7年、叔母のフジが亡くなった。翌年は、みすゞが女学校を卒業した年にあたるが、妻フジを亡くした上山松蔵と母ミチとの再婚が決まった。その後、兄堅助が結婚し、みすゞは、上山文英堂の手伝いをするために母のいる下関に移った。文英堂は、下関の中心部にあり、店員が常時5,6人いる比較的大きな書店で、洋書も扱い中国の営口や大連にも支店を持っていた。日露戦争当時は日本人が多く中国に進出し、日本の書籍に飢えた時期があって、成功を収めた。みすゞはというと、商品館と呼ばれた幅2.5メートルの道の両側にずっと小さな店の並ぶ一角にあった文英堂の支店を一人任されていた。好きな本に囲まれ、好きな時に好きな本が読め、童謡を書く時間も持てる。立ち読みしてもにっこり笑って怒らない、一緒に並んで読ませてくれるお姉さんに子供たちは、すぐになつくようになった。この頃、みすゞが童謡を童謡誌に投稿するようになる時期なのである。

矢崎節夫『童謡詩人金子みすゞの生涯』

筆者の矢崎節夫は、1947年東京の生まれ。早稲田大学英文科を卒業。詩人の佐藤義美、まど・みちおに師事した。佐藤義美さんと言えば『犬のおまわりさん』、まどさんと言えば『ぞうさん』という童謡を作詞した人として知られる。日本人なら誰でも知っている童謡である。ちなみに、まどさんは「詩は自分のなかの自分が書き、童謡は自分のなかのみんなが書く」と語った人だ。矢崎さん自身も1975年に『二十七ばん目のはこ』で児童文学学会賞、1982年には『ほしとそらのしたで』で赤い鳥文学賞を受賞している。

矢崎にとって金子みすゞは、10代の終わりからずっと憧れの存在だったという。ずっと時代は遡るけれど、童謡を雑誌に投稿し続けていた彼女は、当時、多くの若い読者たちの憧れの的でもあった。彼は、時という塵に覆われた彼女の作品を1960年代半ばからずっと探し続けていたという。端緒は、大学一年の時に『日本童謡集』の中に収録された『大漁』という詩を読んだとき、自分の中心と思っていた目の位置を逆転させられるほどの激しく、優しい鮮烈さを味わったという。それまで知っていた童謡の作品は全て消え去った。次にもう一つの作品を知ったのは大学のアルバイトで佐藤義美の所に原稿を取りに行った時である。佐藤は、みすゞと同じ時代に童謡誌に投稿していた人だった。しかし、みすゞ探しはいっこうに進展しなかった。1982年のこと、試しにと思い下関の書店のことを知人に調べてもらったのだが、偶然にも実弟上山正祐うえやま まさすけ)氏が東京の劇団若草で働いていることが分かったのである。こうして金子みすゞの生涯と作品が奇跡的に明らかとなる。その生涯を綴ったものが本書であり、それによって矢崎氏は日本児童文学学会賞を、『金子みすゞ全集』を編纂したことによって同特別賞を受賞されている。

 

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。(金子みすゞ『大漁』大正13年)

 

しかし、事態は一歩一歩破局へと進んでいった。上山文英堂に養子に行った正祐には、養子であることは厳重に伏せられていた。したがって、みすゞが実の姉であることは知らずに恋心をいつしかいだくようになる。文学や作曲について話のできる女性、みすゞの兄と共にある種の文化サロンのような集まりもできるようになった。しかし、周囲はあわてはじめた。特に正祐の父親である松蔵は、みすゞの結婚を早めたかったのである。正祐は、「好きな人はいないのか」と詰め寄ったが、みすゞは「仕方がないの」、好きな人は「黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」と謎の言葉を漏らすだけだった。結婚相手として白羽の矢がたったのは宮本啓喜という上山文英堂書店の手代格の男だった。父親の松蔵としては息子の正祐が店を継げるようになるまで店を任せられる人間と考えていたようだ。

大正15年(1926)にみすゞは結婚した。夫の宮本啓喜は、1901年に熊本の酒屋と氷の卸業を営む家に生まれたが、母を亡くして後添えが実家に入ると家を飛び出すように博多に出て株屋に奉公した。当時は第一次大戦中の好景気で儲かれば遊郭で遊ぶ青春だった。しかし、大戦が終わると経済破綻と不況の時代がやってくる。結婚の2年前には、博多で遊郭の女性と心中事件も起こしていた。下関に渡って、大正14年に上山文英堂に勤めたのである。商売のうまさを店主の松蔵に買われた。

金子みすず『繭と墓』 壇上春清 編 金子みすゞと同時代の投稿詩人によって編集された初めてのまとまった詩集だった。1970年刊

養子であることの事実を知った弟の正祐は父親の松蔵にいっそう反抗するようになり家を飛び出した。松蔵は家出の原因をみすゞと宮本啓喜との不仲にあると思い、啓喜に当り散らし、夫婦二人は文英堂から出ていくことになる。一旦は松蔵と宮本の仲は修復するが、他の女性問題が浮上して、松蔵はみすゞと宮本を離婚させようとした。しかし、彼女は子供を宿している。この年、西条八十の渡仏に伴って童謡誌への寄稿を控えていたみすゞの詩は、その帰国とともに再び掲載されるようになるが『童話』誌そのものが突然廃刊になってしまう。一方で、大正15年7月には童謡詩人会編の『日本童謡集一九二六年版』に彼女の『大漁』と『お魚』が選ばれるという快挙を果たしている。みすゞが西条八十と下関の駅で会ったのは、この翌年のことだった。こうして、みすゞは「童謡詩人会」の一人として迎えられるのである。与謝野晶子に継ぐ女性会員であった。

 

蚕は繭に
はいります。
きゅうくつそうな
あの繭に。

けれど 蚕は
うれしかろ
蝶々になって
飛べるのよ。

人はお墓へ
はいります。
暗いさみしい
あの墓へ。

そしていい子は
翅が生え
天使になって
飛べるのよ。(金子みすゞ『繭と墓』)

 

一度、夫婦二人は熊本に里帰りした後、下関に戻って駄菓子屋とくじの景品につくおもちゃ卸業を始めた。しかし、夫の花柳病である淋病に感染したみすゞは娘のふさえと一緒に風呂に入ることもはばかる状態となり昭和3年には一時病床に伏せった。夫から童謡を書くことや投稿仲間からの多くの手紙に返事を書くことを止められていた。この頃、正祐は上京して文芸春秋社に就職している。みすゞの手紙が編集長の古川緑波を動かしたようだ。夫の啓喜は遊郭遊びが再燃し、家に金も入れず他に好きな女性をつくっていた。『みんなを好きに』や『私と小鳥と鈴と』は、結婚してからの作品だという。それらの作品とは、うらはらに夫婦仲は険悪になっていった。昭和4年から三冊の自らの童謡集を清書し始める。娘は3歳になり、その片言のおしゃべりを『南京玉』と題して記録するようになった。その年までに遊郭の周辺を4回もの転居を繰り返し、みすゞの体調は悪化していった。

今野勉『金子みすゞ ふたたび』

昭和5年、みすゞは宮本啓喜との離婚を決意し、上山文英堂の近くに別居する。夫は、離婚話に乗ったが娘は引き取りたかった。昭和5年には離婚届が提出された。啓喜は仕事もうまくいかず、娘か金かという要求をつきつけたが、みすゞは拒絶する。やがて、期日をきって3月10日に娘を引き取りに行くという強引な手紙がくる。3月9日、みすゞは、親しかった知人に会い、写真館で自らの写真を撮影してもらった。娘と沢山の童謡を唄ったあと寝付いたの見さだめて、文英堂の二階の奥の部屋に入り、三通の遺書を書いた。夫には「あなたが、ふうちゃん(娘のふさえ)に与えられるのは、お金であって、心の糧ではありません。ふうちゃんは心の豊かな子に育てたいのです」と書いている。もう一通は弟の正祐宛てで、母には、こう書いた。「主人と私は気性が合いませんでした。それで、私は主人を満足させるようなことはできませんでした。主人は私と一緒になっても、他で浮気をしていました。浮気をとがめたりはしません。そういうことをするのは、私にそれだけの価値がなかったからでしょう。また、私は妻に値する女ではなかったのでしょう。ただ、一緒にいることは不可能でした。」そして、睡眠薬のカルモチンを飲んだ。芥川龍之介が、それで自殺したことで知られる薬だ。こうして、26歳の彼女は旅立ったのである。

当時のならいとして、女性の立場とは、このようなものであったかもしれないが、童謡詩人として名を馳せようとしていた文学を目指す人間と商売に奔走し遊興に馴染んだ夫とは相いれるはずもなかったのである。そして、みすゞの性格では、結婚を拒否できなかったし、それらのことで人を非難できなかった。それは彼女の精神的な基盤を形成している何かだろう。それなくして、このような詩は生まれなかった。それもやさしさの倫理というべきものであった。刃は自らに向けられたのである。娘の将来を案じてでもあろうが、夫との価値観の相違を訴える手段でもあったろう。それを考える胸が詰まる。

 

流れの岸のみそはぎは、
誰も知らない花でした。
ながれの水のはるばると、
とおくの海へゆきました。

大きな、大きな、大海で、
小さな、小さな、一しずく、
誰も、知らないみそはぎを、
いつもおもって居りました。

それは、さみしいみそはぎの、
花からこぼれた露でした。(金子みすゞ『みそはぎ』)

 

みそはぎ(禊萩の名に由来する)

演出家で脚本家である今野勉(こんの つとむ)氏は、独自に金子みすゞの生涯を追った『金子みすゞ ふたたび』を著しているけれど、そこで、いくつかの疑問点を提起している。ひとつは、当の3月10日に夫の啓喜は東京にいて、みすゞの死の知らせを受け取り弟の正祐と下関へ向かっていることだった。そして、弟の正祐は、自殺の責任が全て夫の啓喜にあるとは思っていなかったという。啓喜自身は、麻雀と芝居好きで、後年の彼を知る人は酒の飲めない温厚な人柄だと語っている。みすゞの父親の命日が2月10日であったことから、その10日を選んだのではないかという推測もあった。その自死については謎がある。娘のふさえは、松蔵が啓喜の父親に懇願の手紙を出し、結局みすゞの母ミチによって育てられることになった。

確かにみすゞの詩は、童謡という枠からはみ出てしまっているようなところがある。『海を歩く母さま』という、こんな逼迫した悪夢を見るようなイメージは、うちの母様はえらいという言葉にまとめあげられているのだが、何かを暗示している。何だろうか。彼女の詩には、虫の目や鳥の目、リヴァースする驚異的な視線があり、スケーリングする輪廻さえある。しかし、詩についてあれこれ述べるのは控えたい。谷川俊太郎さんが、まど・みちおさんの詩について語ったように「その詩について、さかしらに物言えば言うほど、自分がアホに思えてくる」のだから。

 

母さま、いやよ、
そこ、海なのよ。
ほら、ここ、港、
この椅子、お舟、
これから出るの。
お船に乗ってよ。

あら、あら、だァめ、
海んなか歩いちゃ、
あっぷあっぷしてよ。
母さま、ほんと、
笑ってないで、
はよ、はよ、乗ってよ。

とうとう行っちゃった。
でも、でも、いいの、
うちの母さま、えらいの、
海、あるけるの。
えェらいな、えェらいな。(金子みすゞ『海を歩く母さま』)

 

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ『星とたんぽぽ』)

 

今回は久しぶりに本の紹介をしました。前回の歌謡のようにある程度全体を俯瞰するためには色々な材料が必要になるからです。今回は、自分のブログのための栄養補給ということになるでしょうか。機会があれば、またご紹介しますね。

金子みすゞの全集は『童謡詩集シリーズ』と『童謡全集』がある。コンパクトな『豆文庫』などもあるが、かなり色々な分野の人たちがみすゞについて書き、語っている。その中で矢崎氏が聞き手となっている『金子みすゞをめぐって』1,2,3と『あしたのジョー』の作者として知られる漫画家のちば・てつや氏が絵を添えた『わたしの金子みすゞ』をご紹介しておく。

『金子みすゞをめぐって』1,2,3 聞き手 矢崎節夫

ちば・てつや『わたしの金子みすゞ』

「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そして

文机房隆円『文机談』13世紀 宮内庁ホームページ

11世紀になると「今めかしたる」歌が一世を風靡し始める。「今様」である。催馬楽が徐々にその地位を今様に明け渡しはじめるのである。今様は、当時の最新流行のポップスであった。都市という生活環境が発達を見せ、人々が経済的余裕と余暇を持ち始めれば、芸謡を行う人々がそれを生業にしやすい環境が整っていったのである。『新猿楽記』には、熱狂する市井の姿が生き生きと描かれていた。それらの歌を傀儡女(くぐつめ)、遊女、白拍子などが歌ったのだが、その辺りのことは、沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』踊る大黒に三番叟に書いておいた。ちょっと、つけ加えておくと、遊女らは白拍子という素拍子で舞うのだが、もともと男巫(おとこみこ)たちの舞であったから巫女(みこ)の舞とは違って荘重なものであった。従って遊女たちが白拍子で舞えば自ずと男装ということになる。もともと白拍子に男装と神事性は欠かせないという(林屋辰三郎『歌謡と芸能』)。

梁塵秘抄

13世紀、琵琶奏者であった文机房隆円が対話形式で書いた琵琶の歴史物語『文机談』には、「そのころの上下、ちとうめきて頭(かしら)ふらぬ人はなかりけり。上の好む時、下の従わざる道なし。諸道の興廃は、ただ時の静謐なりとぞ申すめる」と書かれていた。この「うめきながら頭を振っていた」人のうちで最も知られた人は後白河院である。もっとも、古代中国の虞公(ぐこう)や韓娥(かんが)のように歌声の響で梁のうえの埃を舞いあがらせていたのかどうかは分からない。父親である鳥羽院も催馬楽を好んで歌っていたというから血筋だろうか。藤原俊成に『千載和歌集』を勅撰させたことでも知られる人だが、俊成の和歌に関する『俊成口伝』にならって『梁塵秘抄口伝集』全十巻を著し、勅撰歌詞集十巻を併せて『梁塵秘抄』二十巻とした。

後白河院『梁塵秘抄口伝』写本 国立国会図書館蔵

後白河院は、嘉応元年(1169)には、出家し、法皇となっている。33度に亘る熊野詣や京都内外の寺社への参詣、東大寺、比叡山での受戒など仏教への傾倒も一通りではなかった。しかし、重要なことは瓦坂法印家寛(かわらざかほういん かかん)に師事して声明にも研鑽を深めていたことである。言霊にも声霊にもシュプラッハ・ゲシュタルトゥング(振動が形態を形成するクラドニ図形と関係している)にも浸かっていたのである。「たとひまた今様うたふとも、などか蓮台の迎へにあづからざらむ」と一音成仏ならぬ一声成仏を確信していた。遊女でさえ一念の発起あれば極楽往生しうるし、法文の歌自体経文の尊い文章から離れたものではない、例え、世俗の文字の業であっても仏法を讃嘆する縁となり仏法を広める因ともなろうというわけである。

仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ(仏歌二四首より)

親鸞筆 『三帖和讃』 専修寺蔵

『梁塵秘抄』勅撰歌詞集の現存する巻一と巻二のうち巻二には法文歌220首、四句及び二句の神歌325首が収められている。法文歌には天台教学を軸とした法華経、浄土教、真言密教に関する内容が見られる。もし、今様が単なる流行歌謡でしかなかったのなら、後白河院のような知識人が終生夢中になるほどの意義は担い得なかったかもしれない。熊野参詣の折りの様子が『口伝』に次のように述べられていた‥‥法楽もの、長歌、心の今様、神歌などを歌いすませて、暁方皆人がしずまり、心澄ませて伊地古を歌っていると両所権現の内、西の御前からえもいわれぬ麝香の芳しい香りがしてきた。と、宝殿が鳴動しはじめ、御簾がそれをかかげて人が入ってくるかのように動いた。やがて、御神体の鏡が鳴り合って長い間揺れるという奇瑞があった。今様の歌唱が優れたものならこのような宗教的な奇瑞や霊験が起こることが、後白河院にとって、ともかくも現実であったのだろう。院が亡くなって50年後に親鸞が、日本語による声明の中でも最も秀逸とされる浄土和讃を作り上げる。

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし(雑法文歌 五十首より)

後白河院がまだ、帝位にある31歳頃、今様の師として五条の尼とも呼ばれていた乙前(おとまえ)を迎える。現在の岐阜県大垣付近である青墓出身の傀儡女(くぐつめ)であったが、その系譜をたどると目井、四三、なびき、小三、宮姫とだどることができるという。既に高齢であり、数度に及び辞退したが聞き入れられなかった。10数年を費やして専門的な歌曲の習得に励んだという。84歳の重篤の彼女を院が見舞った際、院自ら薬師如来の難病治癒の今様を歌い、乙前を感涙させたのであった。梁塵秘抄の四句神歌(しくのかみうた)のうち雑の歌は、とりわけ庶民の暮らしを彷彿とさせるような面白い歌が多い。巫女は目よりも上で鈴振りせよとか、山田の番小屋の鳴子や砧を打つ音が澄みわたるとか、天魔が八幡神に前世の報いで髪が生えないんでしょとちょっかいを出す歌とか、亀を殺(あや)め鵜の首を絞める鵜飼の後生を心配する歌だとか、恋路は陸奥へ駿河へと思いは千里を走るなどなど‥‥有名な歌をご紹介しておこう。

遊びせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(三五九)

舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 実(まことに)美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん(四〇八)

頭(こうべ)に遊ぶ頭虱(かしらじらみ)項(おなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食ふ
櫛の歯より天降る 麻笥(をごけ/曲げわっぱの桶)の蓋にて命終はる(四一〇)

 


宮廷歌謡は、中央や地方の氏族の長またはその代理による天皇に対する寿歌(ほかいうた)と彼らが服属の儀礼として歌った宴会歌謡に大別できる。そのために地方からの風俗(ふぞく)歌が宮廷に集うことになるのであった。神楽歌や東遊(あづまあそび)での歌謡が引き継がれて、そこに唐楽などの外来の音楽が和風化されながら醸成されていったものが催馬楽であった。他にも踏歌、朗詠などもあったが、やがて新たなムーヴメントとしての今様が勃興した。そして、16世紀初頭・室町中期には、小歌(こうた)の時代がやってくるのである。


 

小歌とは何か

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

小歌の歌詞集である閑吟集は、古代中国の歌詞を集めた毛詩三百余編にならって三百十一首よりなり、さながら連歌のごとく関連性を持たせた構成になっている。当時、連歌は最盛期にあったが、それについては、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておいた。この『閑吟集』を誰が編集したか分かっていない。各首には小、大、近などの略符がつけられていて、それぞれの出自を指している。それは、このような種類と数になっていた。小歌231、大和節48、近江節2、田楽節10、吟詩句7、早歌8、放下歌3、狂言小歌2という割合である。小歌とは、陰暦11月、宮廷での五節の帖台の試み、つまり新嘗祭(または大嘗祭)に行われる女楽の儀式であるが、そこで典雅に歌われる大歌に対する歌で、もともと歌曲の名ではなく演ずる楽人である小歌女官のことを指していたという。古くからあるもので、それらの席で歌われた歌謡が、女房たちによって儀式以外の席でも歌われるようになり、それが遊女、傀儡女、白拍子たちによって広く伝搬されていくことになるのである。大和節は大和猿楽、近江節は近江猿楽、田楽節は田楽能、吟詩は杜甫、温庭筠、蘇軾らの詩を取り込んだ漢詩風のもの、早歌は宴曲の一節が、放下歌は散楽系の大道芸などと共に歌われた歌が、狂言小歌は勿論狂言から引用され小歌風にアレンジされた。

閑吟集と謡曲

小歌の曲節、つまり曲調や節回しは、世阿弥の『申楽談義』に見られる「小歌ぶし」の流れを引くと言われる。世阿弥については、能勢朝次『幽玄論』part2 世阿弥に書いておいた。観阿弥以前の猿楽では、優美な旋律と拍節不定の自由なリズムを持つ当時の流行歌である小歌の曲節を軸にしていたが、それに白拍子系統の曲舞(くせまい)の音曲を加味したのが観阿弥だった(徳江元『閑吟集解説』)。新たな謡曲が、曲舞の音曲と小歌とがクロスオーヴァ―することによって生まれたのである。

木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても
なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば
いま幾日(いくか)ありて摘ままし
春立つと いふばかりにやみ吉野の 山も霞て白雪の
消えし跡こそ 路となれ(『閑吟集』四)

この小歌は大和節、つまり大和猿楽から生まれた謡曲『二人静』の一節からとられている。それは、もともと古今集の読人知らずの歌や新古今集の藤原良経らの歌を綴れ織りのように繋ぎ合わせたものだった。以下のような歌ですが、謡が作られていく過程において駆動するこのぞくぞくするような編集力はまさに偉大という他はない。謡曲の合成過程を上手に描いてくれる本がぜひ欲しい。

霞立ち木の芽春雨ふるさとの 吉野の花も今や咲くらん(後鳥羽院)
春日野の飛火(とぶひ)の野守出でて見よ 今幾日(いくか)ありて若菜摘みてん(読人しらず)
春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞て今朝は見ゆらむ(壬生忠岑)
み吉野は山も霞みて白雪の ふりにし里に春は来にけり(藤原良経)

その他に謡曲から引用された作品として『俊寛』『鞍馬天狗』『鵜羽(うのは)』『籠太鼓(ろうだいこ)』『春日神子』などがある。

春過ぎ夏闌(た)けて又 秋暮れ冬来るをも 草木のみただ知らするや
あら恋しの昔や 思い出は何につけても (『閑吟集』二百二十/謡曲『俊寛』)

西楼に月落ちて 花の間も添ひはてぬ 契りぞ薄き灯火の
残りて焦がるる 影恥ずかしきわが身かな (『閑吟集』二九/謡曲『籠太鼓』)

僕の大好きな能楽師である観世喜正さんがシテ役で謡う『二人静』から「菜摘の女」の小歌に引かれたヶ所をお聞きください。この人の謡は、本当に素晴らしい。7:25頃からその場面が始ります。

 

小歌とそれ以後の日本の歌謡

『梁塵秘抄』では巫女、武者、関守、咒師(じゅし)、鵜飼、遊女、海人など職人尽くしさながら歌詞の中にそれと判る人物、その職業、その姿が目に見えていたけれども、『閑吟集』では、そのような人々の具体的な姿、生業の様子などは背後に押しやられて、あたかも個から一般へという抽象化が行われるごとく「男」「女」「世」という枠のなかにそれらが折り畳まれていくとは、秦恒平さんの『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』からのご紹介である。

小歌の八割以上を男女間の抒情的な歌で占める。ほとんどラブソングと言っていい。その愛情の表現の仕方が極めて自由であり、その調律においても極めて細やかであるといわれる。七五七五の定律が最も多いが、七七七五、七五七七、七七七七などがある。小歌は一節切(ひとよぎり)つまり尺八によって伴奏され、比較的自由に口語調に歌われたという。この尺八の伴奏による中世小歌は『隆達節』まで続くが、やがて、踊小歌を経て三味線組歌や女歌舞伎踊り歌などに継承されていく。戦国時代に三味線が日本にもたらされ、江戸時代に入り、この楽器が盛んに伴奏に使われるようになって「小唄」とよばれるようになるものが近世小唄であるが、これは、ある意味中世小歌からの一続きとして考えて良いとは、志田延義さんの説である(『閑吟集』総説)。愛情表現色々をご紹介しておく。

逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜は己が袖枕 枕余りに床広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへに疎むか (『閑吟集』一七一)

余り言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の 速さよ(『閑吟集』二三五)

余り見たさに そと隠れて走(は)して来た 先づ放さないなう 放して物を言わさいなう そぞろ愛(いと)ほしうて 何とせうぞなう(『閑吟集』二八二)

 


歌は世につれ世は歌につれ。日本人の心に添うものは、この歌謡のなかに脈々と流れ続けてきたのか、流行の波の上でたゆたってきたのか。おそらく、その両方であったろう。しかし、その中に日本人の心情に喰い込んでくるべきものが見つかるとしたら、それは何だろうか。一言では勿論語れないが、一つの例を挙げてみたい。


和泉恒二郎『日本人の心情』閑吟集を起点として

樋口夏子の雅号は一葉である。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であった。一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったという。和泉恒二郎さんは『日本人の心情』の中でその一葉の雅号への思いは〈まけじだましい〉だったという。しかし、現実の生活が窮迫していくにつれて一種の楽天的現実主義となっていったと指摘している。そして閑吟集のこの歌を彼女の日記の前歌として掲載するのである。

なにともなやなう なにともなやなう うき世は風波の一葉よ(『閑吟集五十)

「人につねの産なければ、常のこころなし。手をふところにして、月花にあくがれぬとも塩噌なくして、天寿を終わるべきものならず。かつや文学は糊口の為に為すべき物ならず。おもひの馳するまま、趣くままにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどゐなどは、昨日の春の夢とわすれて、志賀の都のふりにしことは言わず、さざなみならぬ波銭小銭厘か毛なる利はもとめんとす。‥‥ひまあらば月もみん花もみん。興来らば歌もよまん文もつくらむ。小説もあらはさん。‥‥されど、うき世は、たなのだるま様。ねるもおきるも我が手にはあらず、造化の伯父様どうなとした給へとて、『とにかくにこえるをみまし空せみの よ渡る橋や夢のうきはし』」(樋口一葉『日記』明治26年7月)と、一葉は書いている。

桜かざして遊ぶ大宮人のような短歌仲間の集いもわすれよう。宮廷歌謡が廃れて今様や小歌の時代がやってきて、今は明治となったのだけれど、人のこころを趣くままに描き出す文学の時代が来たと言祝いででもいるかのようだ。一方で、生きていくために小商いまでせざるを得ない身の上と成り果てた。しかし、ここには、あなたまかせの処世、破れかぶれの大らかさがある。それは庶民の歌謡のなかに見られてきたものでもあるだろう。そして、何か自然という名の太母との繋がりに憧れているような感覚があるのだ。さらに一葉は書く。

「春のゆふべ よは花さきぬべしとて人ごころうかるゝ頃、三日四日のかけ斗(ばかり)に成りて一物も家にとゞめず、しづかにふみよむ時の心 いとをかし。はぎはぎの小袖の上に羽織きて何がしくれがしの会に出でつ。もすそふまれて破らじと心づかひする又をかし。身のいやしうて人のあなどる又をかし。折にふれて誰もいふなる一言のおもしろしとて才女などとたゝえられるいよいよをかし。此としの夏は江の嶋も見ん、箱根にもゆかん、名高き月花をなど家には一銭のたくはへもなくていひ居る ことにをかし。いかにして明日を過すらんとおもふに、ねがふこと大方 はづれゆくもをかし。おもひの外になるもをかし。すべて、よの中はをかしき物也。」(樋口一葉『日記』明治28年3月)

知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも (中島みゆき『命の別名』より)

一葉は20歳の日記にも、世の中の事業はどんどん進んでいるのに、私たちは昔のままで何一つ成し遂げたこともなくただ歳を取るばかりだと嘆くのである。中島みゆきさんの歌詞にも若い人たちの挫折や焦燥がある。と同時に自然との繋がりを感じさせるのである。家に一物も、一銭もなくても名高き月花を眺めたいという切実な願望は何処からくるのだろうか。結局、これは国見とその歌に通じるものなのか。そして、歌謡ではないけれど谷川俊太郎さんの詩にも生きている自然に抱かれる感覚を感じるのである。

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いま兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ (谷川俊太郎『生きる』より第四連から最終第五連)

 

「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part1 国見歌から催馬楽まで

 

忘れられない歌を 突然聞く
誰も知る人のない 遠い町の角で
やっと恨みも嘘も うすれた頃
忘れられない歌が もう一度はやる
愛してる愛してる 今は誰のため
愛してる愛してる 君よ歌う
やっと忘れた歌が もう一度はやる
(中島みゆき『りばいばる』)

思ひ出すとは 忘るるか
思ひ出さずや 忘れねば
(『閑吟集』八五)

真鍋昌弘『中世の歌謡』閑吟集の世界

中島みゆきさんは、僕より少し年上だから学生時代の頃からよく聞いていた。その詞にはジンときたものだった。ほぼ同時代を生きてきたといっていい。おお、青春の1ページ‥‥感傷はやめにしよう。谷川俊太郎さんは、彼女のファンだとか。ご本人に聞いたわけではないけれど噂ではそうらしい。彼女の歌詞と谷川さんの詩に使われる言葉との関係をみてみたら面白いかもしれないけれど、今回は、まず古代からの伝承文学と歌謡の流れなどを追ってみたいと思っている。伝承文学と歌謡とは互いに手を取り合ってきた。真鍋昌弘さんの『中世の歌謡 閑吟集の世界』には、恋やつれに関するこんな興味深いつながりが指摘されている。

一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべくわが身はなりぬ (『万葉集』巻四)

なんぼ恋には身が細る 二重の帯が三重にまわる(『松の葉』三味線組歌裏組/江戸中期歌謡集)

こなた思うたらこれほど痩せた 二重廻りが三重廻る(『山家鳥虫歌』/江戸中期民謡集)

春二重(ふたえ)に巻いた帯
三重に巻いても余る秋
暗(くら)や涯(はて)なや塩屋の岬
見えぬ心を照らしておくれ
ひとりぽっちにしないでおくれ
(美空ひばり 『みだれ髪』より 星野哲郎 作詞)

みだれ髪、憎や、恋しや、辛や、重たやなどの言葉は『閑吟集』にもみられる中世近世小歌ゆかりの語句であるという。作詞者の意識にあったのか、なかったか分からないけれど、小歌の抒情の流れの中に存在するある類型と見ることができるようだ。歌は世につれるだけでなく、世は歌につれるのである。

 


歌謡とは歌われる歌である。当然、上古から歌謡はあった。代表的なものは、万葉集は舒明天皇の「望国歌」につながる国見歌である。国見は歌垣と共に行われた春のはじめの行事であり、山行き、山遊び、花見に連なる春山入りの行事だった。天文暦が取り入れられた推古朝以降、春の国見と秋の新嘗祭に加えて正月の儀礼が加わったと言われる。古代には歌謡は宮廷社会で発達し、平安末以降は民間の芸謡が勃興し、宮廷歌謡は衰退をみた。


 

上代の歌謡 国見と花見・歌垣・宮廷歌謡

土橋寛『古代歌謡の世界』1973年刊

上代の歌謡は、古事記・日本書紀・万葉集にみられる。記紀にある歌謡は、伝承者・作者が作った物語のための歌謡と物語のために取り入れた既に存在した歌謡とに分けることができる。後者は独立歌謡と呼ばれ、酒宴や国見での歌謡、あるいは、当時の民謡・芸謡・童謡(わざうた)などとして知ることができる。芸謡とは専門の歌手によって歌われ、歌い手と聞き手とは完全に分けられる。聴き手の娯楽としての歌謡である。平安末の今様が生まれるまで歌謡の中で大きなシェアを占めることはなかった。これに対して民謡は歌い手が同時に聴き手でもあり、宗教行事であると共に娯楽でもあった。支配者が代わっても時代の思想がどう変化しようと村の民謡の性格は変化しない。個人が泣きたい気持ちを歌いたくてもそれを皆と歌う訳にはいかなかった。その社会的機能が民謡を不変のものにした理由だと日本文学者である土橋寛(つちはし ゆたか)さんは言う(『古代歌謡の世界』)。奈良朝の風土記にある歌垣の歌のような古代民謡と明治以降の盆踊り歌である近代の民謡とは驚くほど似ているというのである。土橋さんのこの著作からご紹介する。

 

1.国見歌と花見歌

古代の国見歌と現在の民謡を比べてみたい。

大和は 国のまほろば
畳なづく 青垣
山ごもれる 大和しうるはし (古事記三十)
千葉の葛野を見れば
百千足(ももちた)る 家庭も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ(古事記四一)
おしてるや 難波の埼よ
出で立ちて わが国見れば
淡島 淤能碁呂島(おのころしま)
檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 佐気都島見ゆ(古事記五三)

高い山から谷底見れば 稲は苗代の花盛り (弘前 盆踊り歌)
八溝山から谷底見れば 瓜や茄子の花盛り (茨城 ヤーハー節)
桜山から瀬戸内見れば 瀬戸の島山真帆片帆(三原 やっさ節)

花盛りを讃めることは豊作の予祝行事であった。「田主さんの山には栗の花が咲いたげな 七重花が八重にさいたげな(山口 田植え歌)」山行は、山菜取り草取りと同時に宗教行事であり、男女の出会いを提供する場でもあった。栗や藤の花房は稲の穂を連想させるという。同じように花讃めに対して国讃めがある。豊作への祝歌が花讃め歌であるなら国讃め歌は郷土の繁栄の祝歌、お国自慢となる。

三諸は 人の守る山
本へは 馬酔木花咲き
末へは 椿花咲く
うら麗し 山ぞ 泣く子守る山 (『万葉集』)

人々が朝夕に眺める山は美しく花々の咲き乱れるたまふりの山。花讃め歌と同時に山讃め歌、国讃め歌ともなっていよう。国見は景色を愛でるのだが、とりわけ雲と煙への言及が注目される。景色の中の微妙な兆しを見るのは、そのような不定形なものに意を注ぐことが肝要にもなるのだろう。

2.歌垣の歌

天飛(あまだ)む 軽嬢子(かるおとめ)
したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(『古事記』)

夏草の あひねの浜の 蠣貝に
足踏ますな 明かして通れ(『古事記』)

歌垣の歌は異性を誘う歌が大胆にも歌われる。上の歌は古事記にある軽太子(かるのひつぎみこ)と母を同じくする実妹の軽大朗女(かるのおおいらつめ)との禁断の恋を描いた話しに登場する歌である。歌の内容が、話の流れとは繋がらないので独立歌謡であろうと言われている。軽は市の開かれた所であることから、上の歌は軽の市の歌垣で男たちが軽の乙女たちにこっそり寝て行きなさいと誘い、下は夜の浜は貝殻で足を傷つけるから明るくなってから帰ってよと男を引きとめる歌である。集団で行われる歌垣では大胆な歌詞が多い。誘う歌ばかりではない。相手を袖にする歌、結婚は早めにしろと忠告する歌、老いては懐旧の情と若者への教訓を歌うものなど特に現在まで残っている民謡には面白いものが多い。

二十過ぐれば奥山つつじ 咲いておれども人が見ん(石川 雑謡)
器量がよいとてけんたいぶり置きやれ、深山奥山その奥山の、岩に咲いたる千里のつつじ、なんぼ器量よく咲いたがとても、人が手出さなきゃ、その身そのままで果てる(岐阜 小大臣)
おらも若い時ゃ山でも寝たけゃ 山で木の蔭 草のかげ(岩手 さんさ踊り)

3.宮廷歌謡

東京楽所『日本古代歌謡の世界』CD 神楽歌、東歌、久米歌、田歌、倭歌など珍しい音源が多様に収録されている。特に一曲目の神楽歌の「縒合(よりあい)」は名曲、名演である。

正月行事が宮廷に取り入れられるようになって、春のはじめの国見の儀礼は次第に行われなくなる。宮廷行事も本質的に呪術行為であり、予祝儀礼であったことは民間と同様であったが、そこには当然政治的な意味合いも帯びていた。寿祝されるのは天皇であり、寿祝するのは中央や地方の氏族の長またはその代理であった。豊明(とよのあかり)などとも呼ばれた酒宴は新嘗会などの重要なファクターであり、主人の繁栄を寿ぐ儀礼的な「宴座」から主客入り乱れる無礼講たる「隠座」へと連続的に行われた。主人側が酒を勧める勧酒歌と客の方からの答礼となる謝酒歌がある。主役の天皇の傍で接待する役は「共食者(アヒタゲビト)」と呼ばれ、親王や一世源氏が勤めた。このような接待役を女性がつとめる場合、宮廷に限らないが、容姿の美しさ、美声が要求され、次第に専門化していった。民間では主人の子女がその役を果たしていたが、やがて接待役の女性が登場し、遊女と呼ばれるようになる。傀儡子(くぐつし)などの芸能者とも関係が深い。彼女たちが後代の今様などを流行させることになるのである。

宮廷儀式の中で最も重要なものは天皇即位に行われる大嘗祭である。それは中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上となる。「臣」姓氏族による勧酒的性格を持つ寿歌と「連」姓の伴造氏族による職制に即した忠誠を誓う戦歌謡に大きく分けることができる。前者には吉野に住む国栖(くず)が大御酒を応神天皇に捧げて歌った国栖の歌、天語(あめがたり)連の伝えた天皇への服属を誓う天語歌などがあり、後者には来目(くめ)部の戦時の酒宴の歌である来目歌がある。

白樺の生に 横臼を作り
横臼に 醸みして大御酒
甘らに 聞こしもち飲(を)せ まろが親(ち)(『記紀』国栖歌 部分)

 


宮廷における神楽歌・催馬楽・小歌の時代がやってくると外来の楽が日本の楽に融和し、歌詞が地方民謡の鄙びた性格を持ち始める。やがて、従来の宮廷歌謡は下火となり、平安時代末には最新流行の芸謡である今様が一世を風靡するようになる。こうして、中世は風俗的な歌謡の時代になっていくのである。


 

神楽歌

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

宮廷で行われる神楽は大嘗会の琴歌神宴に発したという。この神楽歌は、かがり火を焚き「庭火」の曲を奏する庭火に始まり、神降ろし(採物/とりもの)、神遊び(前張/さいばり)、神上がり(明星・其駒)という構成になっている。これはもともと石清水八幡の神遊びを宮廷に参上して行ったものが、宮廷の行事化されたものであるとは折口信夫の説である。天皇はまれ人神であり、群神を伴う長い旅路を象徴する庭でその経過を再演し、憑代である採物を人長が持ち、神の降臨によって一体化する。神遊び歌(前張)は一種の宴会歌謡であり催馬楽(さいばら)と同じく民間のものを多く取り入れている。このような神遊びの形態は民俗芸能にも多くみられ、笹の葉を先端に残した竹の枝によるサゲ杖を持った音頭取りであるサゲが「田の神おろし」の歌を歌って田の神そのものになっていくという「太田植」の神事などと同じであるという(臼田甚五郎『神楽歌』解説)。「明星」の歌にはじまって神々との別れを惜しみ、神を送る歌が終わると、神宴は御遊へと移り、雅楽、催馬楽の演奏となるのである。神楽歌の中から、もともとは恋の喩え歌であった「前張(さいばり)」と最後の曲である「神上」を掲載しておく。本と末とに分かれて歌われている。さしばりとは獣の害を防ぐために張り巡らした木綿の垂(しで)のことである。

「前張」
本 さしばりに 衣は染めむ 雨降れど
末 雨降れど 移ろひがたし 深く染めてば
本方 あちめ おおおお しししし
末方 あちめ おおおお しししし

「神上(かみあげ)」
本 すべ神は よき日祭りつ 明日よりは 八百万代を 祈るばかりぞ
末 すべ神の 今朝の神上に あふ人は 千歳のいのち ありといふなり

 

催馬楽

平安初期、清和天皇が即位した時の大嘗会が貞観元年(859)に行われた。大極殿の前に設けた悠紀、主基の両殿にて大嘗祭が終わると悠紀の帳で宴(うたげ)が開かれ、悠紀の国の産物が献上された。主基の座に移ると悠紀の国が風俗の歌舞を奏し、この国の献上した衣料を親王以下諸臣に賜った。この夜、天皇は豊楽殿の後房に留り文武百官も侍宿し、親王以下参議以上が御在所に侍り、琴歌神宴に終夜歓楽する。次の日は悠紀、主基の順番が入れ替わって同様の神宴が開かれる。三日目は悠紀・主基の両帳が取り払われ豊楽殿にて天皇が百官のための宴を開き、多治氏が田舞(たまい)、伴・佐伯の両氏による久米舞、阿倍氏の吉志舞(きしまい)、内舎人(うどねり)が倭舞(やまとまい)を、夜には宮人の五節舞が披露されたのである。この時には催馬楽の歌が多く取り上げられ、歌われた。同年に尚侍(ないしのかみ)であった広井女王(ひろいのひめみこ)が八十歳余りで亡くなったと記録に残っている。歌の名手であり催馬楽をも得意とした。諸大夫や少年の好事者が多くその歌を習ったという。この頃には既に催馬楽が宮中で盛んに歌われていたことになるのである。

催馬楽は、特に一条帝(980-1011)の頃が最も盛んであったが中世に入って衰退したといわれる。諸国から貢物を朝廷に運ぶときに歌われた歌というのが一般的な解釈であるが、万葉集にある『我駒(あがこま)』の歌が使われていることから馬を駆り催す歌であることは間違いない。こうしてみると万葉集の影響力は大きいのだ。それから唐楽の「催馬楽(さいばらく)」の拍子にあわせて歌われたという説、神楽歌の前張(さいばり)からサイバラになったなどの説があり、逆に催馬楽が前張に取り入れられ神楽歌になったなどの説があるようだ(臼田甚五郎『催馬楽解説』)。催馬楽は、律と呂という旋律で大別されているのだが、律の冒頭にある『我駒』をご紹介する。真土山(まつちやま)は特定の山というより、どの山にも当てはめることができる山である。

いで我(あ)が駒 早く行きこせ 真土山 あはれ 真土山 はれ
真土山 待つらむ人を 行て早(はや) あはれ 行きて早見む

催馬楽に歌われる世界は多様で、国見歌に繋がる在所の名物やお国自慢も多い。それから、歌垣歌に繋がる愛人との別れ、野遊びの求愛場面があり、博打の歌など日常世界にいたるまで広く人間世界を描いている。和琴、箏、琵琶、笛、笙、篳篥(ひちりき)で伴奏され、平安貴族の華麗な御遊(みあそび)と称された。大掛かりな御遊の饗宴だけでなく日常の色々の場面で口ずさまれていたのだろう。民間の歌謡が宮廷に浸透していた結果である。馬を催すとは「客人(まろうど)」が馬でやって来て馬で帰るというイメージが強く、その意味で「まれ人」の来臨と帰還という神楽歌と同じ構造を持つのではないかとは臼田甚五郎氏の説である。

なかなか良くできた催馬楽神楽の動画です。地鎮のために鈴を振りながら舞う神楽が登場しますので是非見てください。江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟でご紹介しましたが、三番叟を考える上で貴重です。久喜市公式動画チャンネルより(約11分)

 

催馬楽と源氏物語

ちょっと面白いのは源氏物語と催馬楽との関係である。この物語の中で催馬楽の語句、曲名などを含めて使われている例は、延べ56曲、曲数にして23曲にのぼるという。現存する催馬楽が61曲であるから三分の一を超える数である。『源氏物語』54帖のうち催馬楽が登場する巻は29巻に及ぶ。催馬楽は、民謡風な風俗歌を外来の雅楽調で歌った。舶来音楽に影響を受けた和製ポップスといったところだろうか。

「胡蝶」の巻には、冷泉帝が朱雀院に御幸の際、楽人を乗せた船が池を往来する華やかな宴会が催され、呂律の最初の曲『安名尊(あなとうと)』が歌われたとある。これは正式な宴席に歌われる催馬楽であった。

「物の師ども、ことにすぐれたる限り、双調吹きて、上に待ちとる御琴ども調べ、いとはなやかにかきたてて、『安名尊』遊びたまふほど、『生けるかひあり』と何のあやめも知らぬ賎の男も、御門のわたり隙なき馬、車の立処にまじりて笑みさかえ聞きたり。(『源氏物語』「胡蝶」)」

あな尊 今日の尊さや 古(いにしへ)も はれ
古も かくやあれけむや 今日の尊さ
あはれ そこよしや 今日の尊さ (『安名尊』)

これに対して笛か扇拍子程度の伴奏で気楽に歌われる場合や鼻歌まじりに口ずさむ場合もある。「花宴」の巻には、ほろ酔いの源氏が「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらやってくる女をとらえて一夜をともにする。女は名も明かさず、扇だけを交換して別れた。一ヶ月後、右大臣の藤の花の宴で、ここぞと思う几帳の前に立ち止まり「扇をとられてからき目を見る」と催馬楽の『石川』の替え歌を歌ってさぐりをいれた。「高麗人の言い違いですか」という者は事情を知らない者である。そこに、返事をせずに溜息をつく方がいるのである。色好みの源氏には、この種の例は多いという(仲井幸二郎『源氏物語と催馬楽』)。

「そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、 『扇を取られて、からきめを見る』と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。『あやしくも、さま変へける高麗人(こまうど)かな』といらふるは、心知らぬにやあらむ。(『源氏物語』「花宴」)」

石川の 高麗人に 帯を取られて からき悔いする
いかなる いかなる帯ぞ 縹(はなだ)の帯の 中はたいれなるか
かやるか あやるか 中はたいれたるか(『石川』)

このように源氏物語が書かれた11世紀初頭は、催馬楽が最も盛んな時代であった。催馬楽の歌詞は日常的につかわれるほど宮廷生活に浸透していたことになるのである。

 


今回は「国見歌から閑吟集へ」と題し、その part1 として「国見歌から催馬楽まで」をお送りした。歌は世につれるのだが、その中に見られる強力なファクターは万葉集だったことに今さらながら驚かされる。そして民謡の不変性を教えられた。若い人が民謡から離れていることに危惧を抱く人も多い。農村や町の共同体が失われていく現在では、皆で盆踊りを踊り、歌うということはなかろう。僕は、民謡が芸謡として特化するより、どんな人でもよいから町の盆踊り大会で民謡を小さな子供たちに歌って聞かせる、あるいは一緒に歌うことはできないのかと思っている。それが本来の民謡のあり方なのだから。


次回は、いよいよ今様と小歌をご紹介する予定です。お楽しみに。

 

「笑話あれこれ」笑いは東西を駆けまわる

琴栄辰『東アジア笑話比較研究』2012年刊

韓国には一度転ぶと三年しか生きられないという謂(いわ)れの『三年峠』という童話があるそうです。韓国伝来の童話として日本の小学校の国語の教科書にも紹介されたことがあるらしいのです。

三年峠で転ぶなよ。転ぶと三年しか生きられないという言い伝えがある。一人のお爺さんが石につまづいて、この峠で転んでしまった。気に病んだおじいさんはその日からご飯も食べれず寝込んでしまう。機転の利く水車屋のトリルという少年が、こう言ってお爺さんを慰めた。三年峠で一度転べば三年、二度ころべば六年、三度ころべば九年、何度も転べばうんと長生きできるよと。嬉しくなったお爺さんは峠から麓までころころところがり落ちて、すっかり元気になり、お婆さんと一緒に末長く仲良く暮らしたとさ。

実はこの話、植民地時代に日本から朝鮮にもたらされたのだといいます。もともと京都清水寺の「三年坂」にまつわる地名伝説でした。韓国の童話と信じて育った筆者の琴栄辰(ぐむ よんじん)さんにとって、これは驚くべき事実だったそうです。本書(『東アジア笑話比較研究』)の最大の特徴は日本近世の笑話の比較研究に中国一辺倒ではく朝鮮半島を視野に入れたことです。東アジア論という観点からも極めて貴重な研究と言わなければなりません。真に立派な研究論文なのですけれどかなり笑える。なにせ笑話がふんだんに盛り込まれているのですから。

李周洪 『韓国笑話集』

韓国にも日本にもある笑話をもう一つご紹介しておきましょう。共有の事実さえお互いに知らない笑話であるといいます。「姑の毒殺」という話ですが、ほんのりするような話になっています。

ある村に仲の悪い姑と嫁がいる。息子は二人の間に立って悩んでいた。ある日息子は妻にこう言う。「母さんが、お前をいびるやり方はあんまりだ。死なせたほうがいい。」息子は市場から栗を一斗買ってきて妻にこう言った。「これを毎朝三個ずつ焼いて母に食べさせなさい。この栗が亡くなる頃、母の命もないだろう。」その翌日から、嫁は毎朝栗を焼いては姑にやさしい声で勧める。すると、だんだん姑は嫁を虐めなくなり、二人はとうとう仲良くなったという話である(『任晳宰全集』韓国口伝説話)。

日本では霊松道人撰の『善謔随訳』という漢文体笑話集に類話があって、息子が医者に毒を与えてもらおうとするのですが医者は毒と称して砂糖を与え、焼いた餅に塗って姑に食べさせれば数日の内に効き目があらわれるだろうと言ってそれを渡す話になっています。安永七年(1775)の話ですから200年以上前から既にある話なのです。しかし、僕はこの話を全く知りませんでした。我ながら愕然とした次第です。『笑府』『笑海叢珠』などの中国の笑話集の影響は勿論大きなものがあり、シンデレラなどの童話が同工異曲の内容で世界規模の広がりを見せていることは南方熊楠などの著作で紹介されていますので意外な共通点は、まだまだあるのではないでしょうか。

 


日本の笑話集の起源はというとそれほど昔ではありません。平安末期の『今昔物語集』や鎌倉時代の『宇治拾遺物語』にはユーモラスな話が収録されてはいたのですが、本格的に笑話だけを集めたものが編集され、出版されるのは江戸時代になってからです。それをご紹介しましょう。


 

江戸の笑話集と落語

安楽庵策伝『醒睡笑』

日本で笑話が笑話集として集大成されたのは『醒睡笑(せいすいしょう)』八巻がその始まりでした。浄土宗の僧であった安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)が戦国時代の血生臭い時代を小僧として過ごした、その頃からの耳に触れて面白いと思った話を書きとめておいたものをまとめました。元和九年(1623)に序文が書かれますが、徳川家光が将軍職を継いだ年にあたります。後に京都所司代である板倉重宗に献じたもので、「是の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵という、柴の扉の明け暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかた しるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)を醒まして笑ふ」と序文にある、その「睡(ねむり)を醒まして笑ふ」がタイトルの由来になっています。眠たくても眼が覚めるほど笑えるというわけでしょうか。落語にもなっている有名な話を一つご紹介しましょう。

小僧あり、小夜ふけて長竿をもち、庭をあなたこなたに振りまはる。坊主これを見付け、それは何事するぞと問ふ。空の星がほしさに、打ち落とさんとすれども落ちぬと。扨(さ)て扨て鈍なるやつや。それほど作が無(の)うてなる物か。そこには竿がとゞくまい。屋根へあがれと。(「鈍副子」)

江戸初期には、この『醒睡笑』の他に『昨日は今日の物語』という笑話集があり、なかなか洒落たネーミングになっています。室町後期の『閑吟集』に「‥‥夢の夢の夢の昨日は今日のいにしえ、今日は明日の昔」などという表現があって、このような言葉に因んでいるのでしょう。元禄時代には江戸の鹿野武左衛門、京には露の五郎兵衛が笑話を巧みな話術で口演を盛んに行い、軽口という名で人気を博しました。次なるエポックは安永元年(1772)に木室卯雲(きむろ ぼううん)が書いた『鹿子餅(かのこもち)』です。この書の最大の特徴は口承されていた話をそのまま文章にするのではなく地の文を努めて省略し、江戸の市井言葉による会話を主として、結末も話中の人物の言葉で打ち切りにして「‥‥と云われた」という言葉を省略します。江戸子気質が存分に生かされ、歯切れの良い簡素な読む文学へと変貌していきます。しかし、一方で笑話=小噺と思われがちにもなるのです。この頃には、笑話の中心が上方から江戸に移り笑話は盛期を迎えることになります。『鹿子餅』から一話ご紹介しておきましょう。

朝とく起きて、楊枝つかいながら、垣の透間から隣を覗けば、寝乱れすがたの娘、縁側にこしかけ、朝顔の花をながめている。これはかわゆらしいと、息もせず のぞき居たるに、庭におり、留まりに咲きた一りんをちぎり、手のひらへのせて見る風情、どうも言へず。歌でも案ずるよと、いよいよゆかしく見て居たるに、今度は葉をひとつちぎりたり。何にするぞ見て居たりや、チント鼻をかんで捨てた。(「朝顔」)

海賀変哲著『落語の落1』

寛政年間には70種類近い笑話の出版がありましたが、この頃、書名に「落噺(おとしばなし)」とか「落語」と名づけられたものが目立つようになります。『鹿子餅』以降には〈落/おち・さげ〉に重きがおかれるようになったからです。烏亭焉馬(うてい えんば)によって天明六年(1781)には第一回の話の会が開かれ、やがて落語へと発展する端緒となります。化政期からは十返舎一九や式亭三馬らが、戯作と呼ばれる通俗小説を書くようになり、その中に「滑稽本」と呼ばれるいわば、諧謔と機知を武器とするユーモア小説がありました。式亭三馬の『酩酊気質』は、座敷噺(ざしきばなし)の名人であった桜川甚幸のために書いた話の台本を滑稽本として出版したものでした。職業としての落語家が生まれ、いよいよ話芸が本格化していく時代です。ここで落語の落の代表的なものを一つ挙げておきましょう。

親の使いで本郷座の前を通った息子が「近日開場仕りそうろう」という張り紙を見て、明日開くのだと勘違いする。そう早くは開かない。そのうち、開くという意味だ。商売というものは機転が利かないといけない。先へ先へと気を働かせろとみっちり言い聞かされた。そうこうする内に父親は疝気で腰が傷みはじめる。息子は、ふいといなくなると医者がやって来た。父親が不審に思って尋ねると、今、お宅の息子が呼びに来たという。医者を呼ぶほどの病気じゃないと詫びて追い返すと、今度は棺桶屋が棺桶をかついでやってくる。吃驚して理由を聞くと、またしてもお宅の息子さんに頼まれたのだという。息子は帰ってくるなり、お寺へ行こうと思ったが寺へは一人で行くものでないと言われたので帰ってきたという。向いの家では、あの家は変だ。さっきから色んな人が出入りしているが何だろうと思っていると忌中と書いた簾が下がったので、打ち揃ってお悔みに行くと、実はこれこれで間違いでしたと言って父親が詫びる。父親は、息子を仕方のない馬鹿野郎だと叱りつけるのだが、息子は「お父さん近所の人は馬鹿だねえ」と言う。「どうして」「忌中の下の添え書きを見ずに来たんだから」「何と書いた」「近日」(『新編落語の落』「近日息子」)

 


笑いの哲学や心理学を述べるのは、やめておきましょう。どちらにしても無粋です。純粋に笑話とは言えないかもしれませんが、滑稽譚の中には頓智話があります。日本では、一休さんや吉四六(きっちょむ)さんが有名ですが、トルコを中心とした小アジアにはムラー・ナスレッディンつまり、ナスレッディン・ホジャの有名な話が伝承されています。今度はアジアの西の端に飛んで、その話を覗いてみましょう。


 

ナスレッディン・ホジャの物語から一話

ナスレッディン・ホジャのホジャとはペルシア語の「ハージャ」に由来する言葉で、学者たちから選ばれた官吏に対する尊称のようですが、オスマン・トルコ時代には「学校で教育を受け、ターバンを巻き、法衣をまとった教役者」を指していました。ナスレッディン・ホジャの物語は滑稽な話ではあるのですが、寸鉄人を刺しもするのです。その例からまず述べてみましょう。目の不自由な人たちに対する不適切な話ではありますが、昔話としてご容赦ください。

ある日、盲人たちが珈琲店で胸の悲しみを打ち明け合っていた。ホジャ・ナスレッディンが通りがかって、心から親しげに話している様子を見てすっかり感じいった。なんて人間は素晴らしいんだ。だが、ふいに彼らの友情は本物で、どれくらい純粋なものなのだろうかという疑いが頭をもたげた。そこで懐から銭袋を取りだしてジャラジャラと音を立て「みなさんや、この銭をあげるから、仲良く分け合ってお使いなさい」と言った。銭をもらおうと彼らは音のしたほうに飛びだし駆けだした。「銭をとったのは誰だ」「ふざけるな、取った奴は銭を出せ」「何が何でも俺の取り分はもらうぞ」と口々にわめくやら喧嘩を始めるやら。ホジャはだんだん哀れを催して、一人一人にいくらかずつ握らせてやった。そのあと「神よ! 銭ってもんは、人間になんて酷いことをさせるんでしょうか! 」と独り言を言ったそうな。(『ナスレッディン・ホジャの物語』「ホジャのいたずら」)

ムラー・ナスレッディンとグルジェフ

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ
(1877-1949)『ベルゼバブの孫への話』

トランス・コーカサスに住むジェリコ・ジャカスは商用で町に出かけた時、市場で見知らぬ果物を目にした。色も形もこの上なく美しい。すっかり魅せられた彼は、それをどうしても食べたくなり、金もないのに最低一つはこの偉大なる自然の贈り物を買って食べたいと思った。それで、彼にしては珍しく勇気を奮って店に入ると骨ばった指でその気に入った〈果物〉を指差して値段を聞くと1ポンドが2セントだという。そこで我がジャカスは1ポンド全部買うことにした。帰りの路で、食料袋からパンとあのとてもおいしそうに見えた〈果物〉を取りだしておもむろに食べ始めた。しかし、なんと恐ろしいことにたちまち彼の内蔵全体が燃えはじめるのだが、それにもかかわらず彼は食べ続けた。我らのジャカスが大自然の懐でこの奇妙な食事から生じた異様な感覚に圧倒されていたちょうどその時、その同じ道を村の者たちから賢人で経験豊かだとされている老人がやって来た。顔全体を燃えるような赤に染めて、目からは涙を流し、しかしそれにもかかわらず、まるで最も大切な義務でも果たすことに没頭しているかのように、正真正銘の〈赤トウガラシ〉を食べている彼を見てこう言った。「おい、ジェリコ、いったい何をしているんだ。生きたまま燃えてしまうぞ。そんな身体によくないとんでもないものを食べるのはよしなさい。」しかし、彼は答えた。「いえ、どんなことがあってもやめません。私は、これに最後の2セントを払ったんです。たとえ、私の魂が身体から離れようとも食べ続けます。」というわけで、我らが断固たるジェリコ・ジャカスは〈赤トウガラシ〉を食べ続けました(『ベルゼバブの孫への話』)。

グルジェフと言えば〈ごろつき聖者〉と異名をとった精神的な指導者、つまりグルとして知られます。アルメニアに生まれ、若くして「真理の探究者」というグループに参加し、エジプトなどの中近東・アフリカ、チベットを中心とした中央アジアなどを古代の叡知を求めて旅をします。ロシアで多くの弟子たちを教え、革命後はフランスに移ってフォンテンブローに「人間の調和発展のための学院」を設立しました。19世紀末から20世紀前半にかけて生まれたいくつかの神秘主義運動の一つの流れを作ったと言っていいでしょう。この『ベルゼバブの孫への話』は、笑話集ではありません。まるでスタートレックのような宇宙船のイメージから始まるこの書は、「真理探究」の結果として彼の人生の根本的な目標を達成するための方法全体の見取り図が表現されていると言われますが、暗号文書のようでもあるのです。晦渋この上ないのですが、その潤滑油の役割を果たしているのが、ふんだんに盛り込まれた笑話なのです。

グルジェフが賢者中の賢者と呼ぶムラー・ナスレッディンは先ほどご紹介したようにナスレッディン・ホジャという名で知られるトルコの頓智話の主人公でした。日本でいう吉四六(きっちょむ)さんにあたるでしょうか。彼の格言は、この本の中でまさに車の車軸に注す油のような役割を果たしています。「われらが令名高く、比ぶべき者のない師、ムラー・ナスレッディンがたびたび次のように言うのは、いわれなきことではありません。『どんなところに住んでも、賄賂を贈らなければ、我慢できる程度の生活どころか呼吸さえできはしない』‥‥というわけで何世紀にわたる人間集団生活の中で形成されてきた民間伝承のこう言った言葉やその他多くの格言に親しんでいる私は、誰もが知っているとおり、あらゆることに対するあり余る可能性と知識を所有しているベルゼバブ氏にきちんと〈賄賂を贈る〉ことに決めたのです」などと書かれているのです。

グルジェフは、あの〈赤トウガラシ〉のエピソードの後にこう述べています。金を払って何かを買ったら、それを最後の最後まで使い尽くさずにはおれないというこの人間固有の性質をわきまえ、また幾度となくその性質を憐れんできたこの私が〈欲求においても霊魂においても私の兄弟〉というべきあなた方に、―― この本を買った後で初めて、普通の便利で簡単に読める言語で書かれているものではないと判明したわけですから―― ただ外見だけに魅了されて買ったあの〈冗談どころではない〉高貴な赤トウガラシを食べ続けた村人のように、いかなる犠牲を払っても私の本を読み通そうなどという強迫観念を持つことのないよう、私がなぜ今、あらゆる手段を尽くそうと考えるに至ったか十分ご理解いただけるでしょうと。

この点に関して、このブログの筆者である私は極めて楽観視しております。私のブログを必ずやみなさんは読み通してくださるだろうと。なにせ無料ですから(汗)。

 

「アフロディテの系譜」エロスとタナトスの間

七月二十一日、思うことありて偶(たまた)ま題す

もやに包まれておぼろ月のもと、明け方の花の顔は露に泣きぬれ、柳に眠る夜のうぐいすは、その枝の冷たさに、まどかな夢を結びかねている。
いま起き上がったその石の枕に「恋しや」と刻まれた文字がある。むせるようなこの香り、それはあのベットを包むほのかな帷の中から漂ってくるのだ。
女が示すまっすぐな気持ち――その真実さは、ちょうど静かにたたえた水のようだ。そのかわいい顔がほころびて、それ、ポッと紅がさしてきた。
ともしびを背にして、汗にぬれた着物を脱ぎかえ、いとしい方に頼んで枕べから耳かざりを取って来てもらう。
別れの涙は、蘭の匂うしとねにも浸みるばかりにしとどなのに、愛し合うということが、蝉の羽にも似てはかないものであろうとは――
銀のひばしで、香炉の灰を掻きならしつつ、彼女は「幾久しく」と書きつけている。思えばそれは、幾層にも高く灯籠をかかげめぐらした楼館だった。その赤い欄干は、町の大通りから真向かいに仰ぎみられた。
だが今、かつてのあの歓楽の場所は、見ればただ草おいしげる高い塚があるだけ。ふと楓の根もとから亡霊の声が聞こえてくる。その淮楚のなまりには聞きおぼえがある。
おお、おんみ、おどろおどろしい女の魂よ、いまどこの山の雨となって降っているのか。
(入江義高 訳)

サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)
『ヴィーナスの誕生』部分 1484-1486

今回はちょっと艶(つや)な詩からはじまるのだけれど、終りのほうはなんだか卒塔婆小町ぽくてなかなか良いと思う。明代の袁宏道(えん こうどう)の詩の翻訳だ。この対比は、バタイユではないけれどエロスとタナトスと言えば定番すぎるだろうか。ディディ=ユベルマンが、その著書の中でヴィーナスの負の部分を切り開いていくのだが、裸体が欲望ばかりでなく残酷さと共鳴することについて、ボッティチェリの描いた『ナスタージョ・デリ・オネスティの物語』に描かれた臓器の抉り出しに言及し、バタイユを引き、あまつさえ18世紀のマルキ・ド・サドが書いた『イタリア紀行』に振っておいて、その著書『悪徳の栄え』のジュリエットの言葉を引く。いささか粘液質で力技だが、この結合の業は驚くべきものである。しかし、これ以上書くと脇道にそれそうなのでここで止めておく。

今回は中国の話ではなくて、美術史家ディディ=ユベルマンに刺激されて西アジアからギリシア・ローマへと話は飛びます。主人公は、ヴィーナス、つまりアフロディテ。その系譜を追ってみたいと思っている。

アフロディテの誕生

愛欲に満ちた大いなる天・ウラノスが夜を率いて大地・ガイアの全身を覆いその上に横たわる。待ち伏せしていた息子のクロノスは右手に握ったぎらぎらと光る大鎌で、父親の男根を一気に切り落とすと、それは限りない海原へと落ちていった。と、漂流していくうちに、その周囲から白い泡が湧きだし、中から一人の乙女が生まれたのである。ヘシオドスの神統記にはアフロディテの出自がうねるようなパトス(情念)の中に描かれていた。

一方、ホメロスのアフロディテ賛歌では、こう詠われている。

‥‥
女神は海に囲まれたキュプロス全島に聳える城塞を、その領邑として知ろしめす。
吹き渡る西風(ゼフィロス)の湿り気帯びた力が、
やわらかな水泡(みなわ)に女神をそっと包んで、
高鳴り轟く海の波間をわたって、この地に運び来た。
黄金の髪飾りしたホーラーたちが女神を喜び迎え、
神々のまとい賜う衣装を着せ、不死なる頭には、
美しい、黄金造りの見事な細工した冠を載せ、
穴穿った耳たぶには、真鍮と高価な黄金の花形の飾りをつけた。
柔らかなうなじと銀のごとく白く輝く胸を、黄金の首飾りで飾った。
‥‥
(『賛歌第六歌』沓掛良彦 訳)

アフロディテの岩 キプロス島 パフォス

アフロディテはキュプロス(現キプロス)島に上陸したのである。キュプロス島のパフォスには古代世界において最も有名な神殿の一つであるアフロディテ神殿があった。フェニキアのアスカロンから移住してきた人々によって建造された神殿だった。キュプロスの祭儀は近隣の小アジアの影響を受けていることを考えるとフェニキアの女神アスタルテの祭祀が取り入れられていた可能性は高い。

ここでは、バビロニアやアファカのように「神殿売春」が行われていたとJ.G.フレイザーは述べている。未婚の女性が神殿を訪れる男性に幾らかの代価で身を任せるしきたりがあった。それはキュプロス王のキ二ュラスによって創始されたと伝えられる。性愛と豊饒の女神アフロディテはそのキ二ュラスの美しさに惚れこんで求愛したという。その母であったパポスは自らが象牙で造ったガラテアと恋に落ちたピュグマリオンとの間に生まれた娘であった。ピュグマリオンの願いを叶え、彫刻のガラテアに命を与えたのはアフロディテだ。そして、キ二ュラスと実の娘との間にできた息子がアドニスであり、彼もまたアフロディテが愛する若者となる。キュプロスの地とその王キニュラスがいかにアフロディテと深い関わりを持つかを物語る。

 


古代の結婚制度は自由婚制から母権制を経て父権制のもとでの結婚制度へと舵をきった。その間には多くの諸段階があったといわれる。文化人類学・法学者だったバッハオーフェンは自由婚制をアフロディテに象徴させていた。性愛の神である。しかし、ある段階でこの性愛の神と母権制の象徴である地母神としてのデメテル的要素は混ざり合っていったのである。


 

乱婚制の象徴としてのアフロディテ

デメテル 国立ローマ博物館

古代の婚姻制に関する研究が進むにつれ、アフロディテ的な自由婚(乱婚)制から純粋なアポロン的父権制へと至る婚姻制度には諸々の段階があることがわかる。その一つは狂女のようなマイナスらに取り囲まれた酩酊させるファロスたるディオニソスに象徴される社会であり、あるいは男を奴隷的立場に追いやり、男の子であれば手足をなえさせ、女の子であれば右の乳房を焼いたというアマゾン的社会の制度である。婚姻を知らない母性の表象である野性の湿地植物という表象段階から永遠の若さを保つ父性というウラノス的天空世界の調和やアポロン的光輝という段階に至るとバッハオーフェンは述べている(『母権論』)。女性が肉体的に浪費されるという立場から逃れ、男性に伍するためには、嫁資という武器が必要だった。こうして娘だけに相続権が与えられるようになる。乱婚や売春という自由な性交渉を根絶するためには、このようなデメテル的原理と呼ばれる母権支配による社会制度が求められた。

祭祀における最も優位な天体の性、あるいは月崇拝が盛んな地域におけるその性によってその地で男性支配あるいは、女性支配のいずれが行われていたかを知ることができる。バッハオーフェンにとって神話は時代の生の現実を忠実に映し出す鏡であったのだ。神秘は全ての宗教の真の本質であり、女性が祭祀と日常世界の領域で指導的地位にある所では深い内的な敬虔さがあったという。地上における生と死との限りない交替は女性の内に、高次の再生を前提とする高い希望を呼びおこすとバッハオーフェンはいう。それが「秘儀の新たな獲得」であり、デメテルとその娘ペルセポネー信仰のように大地と豊饒と地下世界に関連していくのである。

 


ギルガメシュ叙事詩で知られる女神イシュタルはシュメールの女神イナンナの系譜を引いていてプリュギアではキュベレ、エジプトではイシス、フェニキアではアスタルテと呼ばれた。ギリシアのアフロディテは、この流れを汲む。豊饒神としての性格とともに、パートナーとして冥界と地上を往還する男神との関係が注目される。


 

愛と豊饒の女神イナンナ・イシュタル・キュベレ・アスタルテ

バビロンのイシュタル(夜の女王)
BC1800-1750

シュメールの豊饒の女神である大地母神イナンナは「全てのものを生み出す子宮、生けるものたちとともに 聖なる住まいに住みませるもの、生みの親、心に慈悲満てるもの、その手に全ての地の生命を保持しませるもの」と詠われた。イナンナの祭りは植物の神格であるドゥムジ神との祭儀であり、聖婚によって一年の半分の期間に生命を生み出し、その半分は地下に降る男神であった。アッカド人の間ではイシュタルとタンムズとなる。

メソポタミア神話においてギルガメッシュは、シュメールの都市ウルクの実在の王であったと言われている。神のごとき強力な王であったが、暴君でもあり、都の乙女たちはこの王に初夜権を握られていた。その英雄の姿にウルクの守護神イシュタルはぞっこんとなって、ギルガメシュに言い寄るが、女神の気の多さと思慮のなさを言い募りすげなく振ってしまうのである。

イシュタルは金星の女神であり、宵の明星としての女性的側面と明けの明星としての男性的・破壊的側面があるといわれる。因みにギルガメシュ叙事詩では、月は男神シンである。タンムズはイシュタルの夫、あるいは若い頃の恋人であり、弟という説もある。その祭礼のことはT.S.エリオット part1 『荒地』 リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリックに少し書いておいた。イシュタルの冥界降りとは、亡くなったタンムズをつれもどすために自分の姉である冥界の女王エレシュキガルのもとに行くために七つの門を通過し、再び地上に戻る話である。イシュタルは、アッカド語の呼び名で愛と逸楽の神であったが、同時に豊饒の女神でもあった。

エーゲ海沿岸地域

現アナトリア半島周辺のプリュギアではイシュタルにあたる女神は二頭の獅子を引き連れ、あるいは獅子の引く車にのる姿で表されるキュベレである。この女神はリュディア王の娘でキュベレ山に捨てられ、この名がある。この女神が愛したアッティスは植物の死と復活を司る。その魂は松の木に宿り、血からは菫が咲きでたとされる。このアッティスがギリシアではアドニスとなるのである。

アドニスの生誕

例のキュプロス王キニュラスとその娘ミュラとの間に生まれた子供がアドニスだった。王女はあまりに美しかったために家の者がミュラはアフロディテより美しいと自慢し、女神の恨みをかった。ミュラは父親を愛するように仕向けられ父を騙して床を共にするが、それが発覚するや父に殺されかける。この神話が成立した社会には、近親相姦のタヴーがあったことになる。憐れんだ神々によって没薬の木であるミルラに姿を変えられる。その木が裂けて生まれたのアドニスだった。成長した彼はアフロディテと冥界の女王ペルセポネーとの取り合いとなり一年の三分の一を冥界で三分の二をアフロディテと共に過ごすようになるのだが、やがて、狩りの途中に猪に突かれて死んでしまう。

アントニオ・コッラドーニ 『アドニス』 1723頃 メトロポリタン美術館

このアドニスという言葉は、おそらくフェニキア語で「わが主」を意味し、「アド二」「アドナイ」がなまったものであり、かつてタンムズを冥界から呼び戻すために女たちが発した言葉だと言われている。アドニスが亡くなった後には赤いアネモネの花が咲いたというが、タンムズ信仰の盛んだったレバノンでは春先に山から洗い流された赤土が河を赤く染め、赤いアネモネが咲き乱れるところから生じた神話ではないかという人もいる。

ここに登場する女神たちは、いずれも地母神的性格を付与されていながら男性神格をパートナーにしなければ豊饒神としての性格を全うできない。性愛の女神アフロディテに見られるエロスとタナトスという対比は、地母神としての生(豊饒)と死という対比となっていて物質を支配する女神としての性格が際立ち始めるのである。物質の暗黒面が死である。

 


ユッピテルによってトロイアの若者アンキセスを愛するように仕向けられたアフロディテはローマ建国の勇将アエネアスの母となり、アエネアスの英雄伝説とともにローマ神話の中に流れ込んでウェヌスとなった。やがて、中世世界を伏流してルネサンスに再び花開くことになる。


 

ローマのウェヌスへ

ホメロスは『緒神賛歌』の中で続けてこう書いた。「男神たちを死すべき身の人間の女たちと交わらせ、女たちは不死なる神々のために死すべき身の息子たちを産んだなどと神々のいならぶ中で(アフロディテが)自慢して言うことのないように」とユッピテルは、女神にイダの森で牛を放していたトロイア人のアンキセスへ甘い恋心を抱かせるよう差し向けたと。

この二人の間に生まれた子供がアエネアスであった。アエネアスについては小川正廣『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』ホメロスとウェルギリウスに詳しく書いておいたのでここでは繰り返さない。ホメロスが活躍していた紀元前8世紀から200年後には英雄アエネアスが地中海を放浪してイタリアにたどり着きローマ建国の礎を築いたという伝説が生まれている。この過程でアフロディテは航行の安全を守る海神としての性格を併せ持つようになる。

帝政初期の地理学者ストラボン(前63-23)の記録ではアエネアスはイタリア到着後ラウィニウム(ローマの故地)にアフロディテの神殿を造った。3世紀のローマの博物学者ソリヌスはアエネアスがラウィニウムの野に陣営を築いた時、シキリアから携えてきた立像を「フルティス」と呼ばれる母神ウェヌスに捧げたと書いている。「フルティス」はアフロディテのエトルリア語の変形であるとされる。エトルリア版アフロディテがこの地で崇拝されていたことは、アエネアス伝説の受容にこの文化が大きな役割を果たしたことの証しとなる。このフルティス=アフロディテが女神ウェヌスとなるのである。その女神は天の神々の心を和らげ、その好意を人間に結びつける神秘的な力を持つとされた。ウェヌスの語源は「人間が呪術的行為において用いる霊妙な力」である venus という宗教的言語であったようだ。ホイジンガが言うように抽象的な働きや性格を神格化するのはローマ人の特性なのだろう。その神格化された働きであるウェヌスは本来「神々の好意を引き寄せる神」なのであった。

ニコラ・クストゥ『ガイウス・ユリウス・カエサル』 ルーブル美術館

ローマ建国の祖アエネアスがウェヌスの子であった事とこの国でウェヌス信仰が盛んになることとは当然無関係ではない。もうひとつウェヌス信仰に重要だったことがある。最高権力を目指す政治家にとって、この女神への信仰と子孫に関する伝説が国家の統一にとって不可欠と思われていたことである。ユリウス・カエサルは、わが一門の本家ユリウス家はウェヌスの血統であると自らの演説で強調したという。自分がトロイア人の血をひくことを強調したのである。彼は、自分とアエネアスとの神話的血縁関係をローマ国民と国家的な宗教との関係にまで拡大しようとした。これによってウェヌスはローマの国家宗教の中でこれまでにない高い位置を持つようになったと言われる。強固な父権制の布かれたローマだったが、ここにウェヌス=アフロディテに象徴される母権の復権がなされるのである。いつの時代にも父権制と母権制の闘争は見られるのだろう。こうして、ユリウス家の守護神は再びローマ人=アエネアスの子孫全体の母神となった。カエサルの養子で初代皇帝となったアウグストゥスは父の宗教的遺産を最大限に生かそうとした。この頃、ウェルギリウスが詠った『アエネイス』は過去へのノスタルジアではなく、その時代の風潮を反映していたのである。しかし、やがてキリスト教の時代がやってくる。

 


ルネサンス以降も、愛情運の星として占星術に、そして、結合術・親和力、あるいは金属の銅として錬金術に登場するアフロディテ=ウェヌスではあるが、19世紀以降になるとその姿はネガティブな表象に変化し、母神的要素は消えかかっていく。何故だろうか。最後は記号化される裸体としてのウェヌス=ヴィーナスを概観してみたい。


 

記号化される裸体

中世の時代にはギリシアやローマの異教の神々は当然、信仰の対象とはなり得なかった。しかし、図像や物語には登場してくる。その晴れやかな復権はイタリア・ルネサンスを待たなければならない。その頃の最も重要なイメージはボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』であろう。ヴィーナスはウェヌスの英語読みである。僕が追いたいのは19世紀以降におけるヴィーナスの行方だ。その頃、フランスを中心としたヨーロッパ文化の中に際立って現われる女性たちは、ボードレールなどのデカダンス文学やマネやクリムトの絵画に現われる娼婦たち、男を破滅させるファム・ファタールであったりする。つまり、ネガティブなアフロディテ的側面である。象徴主義が代表するこの頃の時代的風潮については『エゴン・シーレ』part1 ジェスチャーする絵画に書いておいた。母のポジティブなイメージは聖母に吸収されたのかもしれない。もっと謎なのは20世紀以降のヴィーナスの行方だ。これを考えてみることは興味深い。アフロディテの古代からの流れを考えれば、銀幕の美女やプロモーション映像の女性アイドルたちはヴィーナスと言えるのか。ウーマン・リブやフェミニズムの波は母権というより女権の権利獲得の試みであったかもしれない。ジェンダー論も盛んだった。しかし、次の観点から性愛のアフロディテ=ウェヌスを眺めてみたい。

フェリシアン・ロプス『ポルノクラート』1878

象徴交換的視野から歴史的・構造的描写を展開するジャン・ボードリヤールが、衣服や化粧などのモードは性欲を無化すると書いているのは新鮮だった(『象徴交換と死』)。念入りに化粧された映像の女性たちは触れることのできない表象である。モードのレベルで作用しているのは自然の性欲ではなく変質した性欲であり、服装は儀式的な性格を失った記号となる。その儀式的な性格は18世紀までは維持されていた。モードが一般性を獲得して記号化される時、肉体はその性的な魅力を失ってマヌカンになってしまうと言うのだ。

同じように女性の裸体が性産業の中でメディア化された欲望と化す時、そのようなイメージは複製化され反復され、増殖し続ける。その表象を担うのは、現実の裸体ではなく、仮想の現実=商品でありながら人間を取り巻く別の現実となるのである。ここでは、現実の裸体は、裸体の摸造、つまり象徴的な記号に交換される。この商品=イメージに組み込まれたメッセージは消費者の体と脳をマッサージし続けるというわけだ。どんな時代よりも性欲のはるかに巧妙で根源的な抑圧とコントロールが行われ、前代未聞のシュミラークル(摸造)の生成が成し遂げられようとしている今、腐敗と死によって世界のあらゆる物質を次々に循環させてきた生命のプロセスは、仮想の現実の増殖によって中断されようとするかのようだ。何故なら完全な複製の可能性は、死のイメージを排除しようとするからである。今日では豊饒という問題に死の排除という答えが与えられようとしている。死がなければ裸体の残酷さもなく、タナトスが失われれば、真のエロスもない。この流れに対抗しうるものは何なのか。

僕が思っている神話を一つご紹介して終わろう。結合力・親和力としてのアフロディテから派生したもう一つの神話である。「記号内容と記号表現の区別は、男と女の差異と同じように今や廃絶されようとしている」とボードリヤールは述べているが、今はジェンダーの問題は置いておいてほしい。何故、この神話が、記号の王国である摸造の世界、浮動する諸価値に対抗しうる契機となるのか、是非考えてみていただきたいのである。

『ヘルマフロディトス』 ルーブル美術館
前2世紀のヘレニズム期の作品のコピー

ある絶世の美少年が故郷のイダ山を出て、リュキアに近いカリアの街近くまで来ると、そこに澄んだ池を初めて見た。その池には所在なくも呑気に暮らす水の精サルマキスが住んでいた。その美しさを見た水の精は恍惚となって彼に迫った。少年は赤く染まった象牙のように白銀の顔を赤らめながらすげなく彼女を追いかえすと透明なガラスの箱にいれられた白百合のような姿を水の中に煌めかせた。
水の精は、ここぞとばかり水に飛び込み必死に逆らう相手を四方に伸ばした触手で絡みつくヒドラのように捕まえ無理強いに接吻を奪うと強引に胸に触った。少年は待望の喜びをニンフに与えまいと頑張り抜く。と、水の精はいつまでも私からこの人を引き離さないでと神々に祈った。願いは聞き入れられ、二人は抱き合ったまま合体し男でもあり女でもある複合体となったのである。その少年とは、父をヘルメス、母をアフロディテとするヘルマフロディトスであった。

 

『徐渭の水墨』 疾走するストローク 超越か狂気か?

徐渭(じょい)が狂ったのか、それを演じたのか分からない。自分の墓誌銘を作り、斧で自分の頭を叩き割ろうとした。頭の骨は折れたが死ななかった。錐で耳を刺し、血は流れ続けたが死にはしなかった。ついには職人に自分の棺を作らせて槌で自分の睾丸を叩き潰したから悶絶はしただろう。同郷の張汝霖は、彼は失脚した胡宗憲(こ そうけん)との連座を恐れて狂気を演じたのだと言った。しかし、翌年の雪の降る日に召使いの少年に衣服を与えた後妻の張氏と言い争いになり、殴り殺した。46歳の年である。狂気は本物だったのだろうか。この年、明の世宗帝が崩御、穆宗(ぼくそう)帝が即位し、大赦が行われた。徐渭が死刑にならなかったのはそのためだろうが、それから7年もの間、獄中で過ごすことになるのである。

徐渭『雑花図巻』部分 南京博物院

狂気と造形作品との関係はハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』芸術家と精神病者の世界感情で詳しく書いておいた。しかし、徐渭の狂気がその絵画と全面的に関係しているのかどうかは断言できない。ずっと狂気に陥っていたわけではないからである。その作品は威容でもあり、異様でもある。風狂ではあったが、清狂、奇峭といった潔癖さや極端な鋭さはないと思う。その作品には、覇気があり洒脱もある。たっぷりとした墨を含んだ筆跡を見ていただければその性格を想像してもらえるのではないだろうか。

郭熙(1023頃-1085頃)『早春図』 台北故宮博物院

北と南

宋(960-1279)という時代は中国のルネサンスだった。絵画は技芸を越え、知性溢れる芸術となる。欧陽脩、蘇軾、黄庭堅、郭若虚らは視覚芸術が宇宙を写し出す鏡としての輝かしい芸術性を持つことに気づきはじめる。五代・宋初の山水画は荊浩(けいこう)に始まった。関同は荊浩に学び、范寛(はんかん)は関同、李成(919-967頃)によってその作風を確立した。

書画の鑑定をよくした北宋の董逌(とうゆう)は李成の絵に「霧と靄、自然の内的な働き、陰陽の交替」を見た。ここには風水や道教の洞天福地にみられる理想郷としてのトポスがトレースされていたはずである。風水と山水画の関係は壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』で解説しておいた。蘇軾は郭熙(かくき)の絵の中で過去を追想し、その情感の世界に遊び、華北の秋の響き、雲海に浮かぶ山々の姿に心を馳せたという。「山水は行くべきもの、望むもの、遊ぶべきもの、居るべきもの」なのである(『林良高致集』)。郭熙は画院画家でありながらこのような深遠な著書を書き蘇軾や黄庭堅の庇護を受け彼らに画を教えた。彼らの合言葉は「詩とは形のない画であり、画とは形になった詩」であったろう。蘇軾については一碗 茶・チャ・ちゃ part2 宋と明のチャで触れておいた。北宋山水画は、深遠・平遠・高遠の三遠を整理したこの郭熙によって一つの完成を見たのである。

馬遠(1160-1225)『春径山行図』 台北故宮博物院

一世を風靡した郭熙の作品だったが、風流天子と言われた徽宗は、その作品の息苦しいほどの完成度を嫌った。彼が好んだのは写実性と花鳥画にみるような自然の一角だった。サブライムな宇宙的山水など彼の好みではなかったのだ。時代は米芾(べいふつ)の言った「平淡天真」へと傾斜していくのである。北宋が滅び、南宋の時代になると、もはや華北にあるような峻厳な山々はなく画の題材としては、ゆるやかな山地しかない。現実の山塊をもって北宋のような山水を描くことは不可能になるのである。南宋四大家のうちの馬遠や夏珪は、よく自然の偏角を描いた。余白の美学である。馬遠の画面構成は馬一角とさえ呼ばれるようになる。もともと馬氏は山西の仏画家の末裔であり山水を得意としていない。画中の人物の持つ意味が大きくなったのは当然だろうという人もいる。いささかひねくれやの米芾(1051-1107)とその子の米友仁(1074-1153)は、同じ五代、宋初の画家でも江南の画家である董源と巨然を支持した。董源の用筆は大まかで、近くで見ると形をなしていなかったが、離れてみると粲然(さんぜん)として幽情遠思は異境を見るが如くだったという(沈括『夢渓筆談』)。李成や関同らの北方系の山水様式は否定され、江南画に対する強い共感が闡明にされるのである。

米友仁『雲山図』部分 クリーブランド美術館

 

墨戯から文人画へ

沈周(1427-1509)『蘆山高図』台北故宮博物院

黄庭堅は蘇軾の絵画を墨戯と名づけその筆意を讃えた。笹群や梅の枝などの自然の一角を描き、その自在な精神に禅機に似たものを見たようだ。ちょっとオーヴァーだが、その手腕を左官の鼻についた泥を落とすのに鉞を振るって旋風を起こすほどの技を以って為すことに例えた(『東坡居士墨戯賦』)。墨と筆によって遊戯し自在を得るための手段と言って良い。宋末までには文人の中に画工や画家では為し得ない精神性を表現できる者が出現するというわけである。

宋が滅び元の時代は、院体画は振るわず、いわゆる文人画の活況する時代であった。この頃、文人画家が文人という建前をつくろいながら画を売ることは既にさかんだった。文雅・文徳あるものを指す文人という言葉は古くからあるが、文人画と呼称するようになったのは明代からであるという(鈴木敬『中国絵画史下』)。明中期には文人画の中心は手工業や経済の中心地として繁栄を誇っていた呉、つまり蘇州だった。これに対して浙江省杭州を中心とした職業画家たちを浙派と呼んだ。その頃は、宋の時代と変わらないほど職業画家が活躍した時代でもあった。特にその中期は画院が盛期を迎えていた。このような中で文人画家も職業画家も相互に影響しあっていったのである。例えば明代中期の呉派の代表的画家である沈周(しん しゅう)だが、彼のような文人画家も職業画家のように技法的な完成を目指していたことが窺える。徐渭(じょい)が生まれるまでの時代とはこのような状況だったのである。

徐渭の前半生

明(1368-1644)の時代、それは復古と完全な皇帝独裁制の暗い時代であったと言われる。徐渭(じょい)は1521年(正徳16年)二月に紹興の士大夫の家に生まれた。父は四川の州同知を退官していたが、徐渭が生まれた100日後に亡くなり、後妻の苗宜人に育てられる。実母はこの後妻の侍女であったと言われる。10歳の頃、長兄の商売が思わしくなくなり生家は傾き始め、四人の奴僕は逃亡し、実母も暇を出された。嫡母には深く愛されたが、彼が14歳の時に亡くなった。その病が重くなるとあらゆる神仏に祈願し絶食は三日に及んだという。59歳で亡くなったが、百たび身を粉にしても報いられないとその墓誌銘に記した。徐渭は、恵まれない星の下に生まれたのかもしれない。

神童と言われた徐渭だったが20歳の時、杭州の郷試に受験するも落第。21年間に8回続けて落ちた。絶望的に退屈で画一的な勉学と受験技術の獲得には耐えられなかったのだろうと陳舜臣氏は述べている(『徐渭と董其昌』)。郷試に初めて落第した年、潘克敬の娘である介君と結婚した。入り婿のような形で妻の家族とともにその父親の任地であった広東の陽江に住んだ。四年後に息子の枚(ばい)が生まれたが、神仙を信じていた徐渭の長兄が丹薬を錬っていて亡くなり、妻も19歳の若さで亡くなるのである。束の間の幸せはあえなく消え去る。二年後に妻の実家を出て『荘子』から引いた「一枝堂」という名の塾を開いた。そして、19年も別れ別れだった実母を迎えている。

この頃、明は日本の倭寇に悩まされ続けていた。嘉靖(かせい)三十六年(1557)倭寇戦の戦死者のための慰霊祭が浙江で行われ、その時の祭文を徐渭が書いたのだが、それが、やがて兵部尚書(国防相)となる胡宗憲(こ そうけん)に認められることとなる。密貿易商人であり五島や平戸にも行き来し、やがて倭寇の頭目となった汪直も胡宗憲によって平定された。胡宗憲は厳嵩の派閥に属していたが、その八十歳の祝賀文を徐渭が書く。そして、翌年胡宗憲に代わって『鎮海楼記』を執筆。その報償として銀二百二十両という破格な金額を得る。40歳の時である。しかし、翌年再婚するもののその翌年には厳嵩が失脚した。明代にあっては、中央の派閥の頂点にあるものの失脚は、その系列にある人間たちの失脚をも意味した。胡宗憲も職を追われ、後に自殺する。徐渭の精神が歪みはじめるのはこの頃のことだ。

徐渭『雑花図巻』部分 南京博物院

 

逸格の系譜

日観『葡萄図』元

唐の中期には逸品画家と呼ばれる人たちが登場する。ちょうど呉道玄の白画の線が「意気をもちいて成る」と言われたように中唐の溌墨家たちが一気呵成で意志的な線描を発展させた。王墨、張志和、李霊省といった人たちが逸格の画家として知られているが、現存する作品はない。王墨は瘋癲にして酒狂と言われ松石山水を描いたが酔っては髻(もとどり)に墨を含ませて絹地に描いたという。張志和も山水を描くことを好み、痛飲しては興に乗って撃鼓吹笛し、目を閉じ、あるいは顔をそむけて筆が舞い墨が飛んで形を成していったと顔真卿(がん しんけい)が『文忠集』に書いている。そう言えば顔真卿の周囲には狂草と呼ばれる草書をよくした張旭(ちょう きょく)や懐素(かい そ)がいた。顔真卿については一碗 茶・チャ・ちゃ part1 陸羽『茶経』対話篇に触れておいた。茶聖陸羽はかつてこの張氏の食客であったという。墨を画面に注ぎ跳ね飛ばすといった動的な作画がなされた。それは墨がなせる不定形な形態から形象が現われ出てくると言った偶然を取り込むような作画である。アクション・ペインティングとオートマチズムの萌芽とも言えなくはないが中国には早くからこのような表現主義的な作品が登場する。想念にある形をイメージしながら一筆一筆、制作を積み重ねる従来の絵画とはまさに逆方向の絵画なのである。

その荒々しさや意気に溢れ画面に横溢する感情表現が禅の気風とも相まって水墨画に与えた影響は大きかった。蘇軾や黄庭堅のいう墨戯ともその精神において繋がるものもあっただろう。南宋の梁楷は自らを梁風子(狂人)と呼んだ画院画家であったが減筆体と呼ばれる水墨画も優れ、墨を惜しむこと金を惜しむが如しと皮肉られた。そして、元初に活躍した画僧日観は破れ袈裟と揶揄された葡萄図のような作品を描くようになる。明の中期には浙派の中に狂態邪学派と呼ばれる異端の画家たちが現われる。このネーミングはきっと呉派からの揶揄だろう。郭詡(かくく)、孫隆、陳子和、鄭顚仙(ていていせん)などの作家がいたが徐渭とは直接関係はなさそうである。しかし、徐渭の作品もまたこのような唐から続く逸格の系譜の内にあった。それは、筆が走りエネルギーがみなぎる。しかし、それだけではないのである。

狂気から浮かび上がる

七年の獄中生活は徐渭に心の安定をもたらした。読書や詩作の日々が許され、実母が亡くなった時も仮出獄が認められたという。州知事が変わるとより自由となり墓誌銘や郡学校の修復記念のための執筆などの依頼もされるようになる。1572年穆宗が崩御、大赦が行われ出獄が許された。52歳だった。その後の徐渭は数千の書籍を売り、絵を売り、詩文を作って糊塗をしのいだ。現在、我々が目にする作品はこの時期のものだという。

徐渭『雑花図巻』写し 徐渭旧居における展示

早くから英才教育を受けた徐渭だが、子どもの頃から激しやすい性格であり鬼神が乗り移るような発作がおきたともいう。一方で頓智話でも知られるような面もあったようだし、けっして世間に対して背を向けるタイプではなかった。文人として書第一、詩第二、文第三、画第四と自らランクづけしているが、詩に「山深くして石榴熟し/日に向って便(すなわ)ち開口す/深山 人の収ることまれにして/顆々(かか)明珠走れり」と自分の不遇を山深く顧みられることのない石榴に例えている。呉の知事をしたこともある詩人の袁宏道(えん こうどう/1568-1610)が彼を公安派の先駆と位置づけ、その伝記『徐文長伝』を書いていることは中田勇次郎の袁宏道『瓶史』文人と花の心に「文房清玩」のことと共に書いておいた。

牧谿『六柿図』 南宋・元初

そう言った複雑な性格であっても、世間との交わりを絶やさなかった徐渭なのだが、周囲の画家を手本にはしていないらしい。意外な画家を手本にしている。彼の作品がただ激しい、気魄あふれる、スピード感があるというだけではない、ある種の雅や潤いを持つのはそのためだ。その画家が牧谿なのである。この南宋末・元初の画僧の作品を最もよく理解した明の画家は徐渭ではなかったかと言われる。自然の一角を切り取って表現するような自然描写は北宋末の徽宗においては、自然景観とは完全に切り離されていなかったが、南宋の偏角画が一般化されるとこの頃には既に切枝画といったジャンルが定着していた。

「五十九年貧賤の身、何すれど嘗てみだりに洛陽の春を思いしや 然らざればあに胭脂(えんじ/紅い顔料)のあること少なからん、富貴の花 墨をもって神を写す」と自跋した徐渭の後半生は貧しかったではあろうが、その作品を見る限り心は豊かではなかったろうか。おそらく狂気は身を潜めていたにちがいない。万暦二十一年(1593)に73歳で亡くなるが、彼の作品は、やがて明末から清初にかけて活躍した八大山人や揚州八怪と呼ばれる画家たちに大きな影響を及ぼしていく。

実は、僕が徐渭に興味を持つのは、そこに何か東洋的な新たな絵画、それも自然に存在する形態の表象が内的に結びつくことができるような抽象と水墨画の間に存在するようなものの可能性を垣間見ているからである。その抽象と自然の形との関係はオーストリアの画家マックス・ヴェイラーによって眼を開かされた。僕にとって徐渭は、今極めて重要な作家なのである。

牧谿『燕と蓮』 南宋末・元初