三人のゴヤ—— 野生の空気・啓蒙の光・主観の影

 

ゴヤですか ? 恐ろしい作家ですね。王国で最も美しく、自由奔放なアルバ侯爵夫人との恋愛ですか? 実際はどうだったんでしょう。どちらにしても夫人の突然の死をもって、その関係は終りを告げました。晩年、耳に障害を生じて閉じこもり、奇怪な絵ばかり描いていた作家ですって? アール・ブリュットの作家ではないんです。それは文学的粉飾なんじゃないんでしょうか。これも晩年のことですね、レオカーディアとのただならぬ関係ですか? どうなんでしょうか。彼女の娘のマリア・ロザリオをゴヤは、たいそう可愛がっていたのは確かなようです。

でもね、何が恐ろしい作家かと言うと彼の中には、三人の画家が存在していたのですよ。いいですか、三人もの作家です。タピストリーの下絵作家から王室主席画家にまで成り上がったオフィシャルな画家としての彼は、制作量は減少していくものの晩年までその地位を捨てることはなかった。一方で、魔女・仮面・戯画といった上辺の世界を剥ぎ取って、真の現実を露呈させてしまうアウトサイダーとしての画家がいて、啓蒙の光が作り出す影の世界を描いたのです。また一方では、人間の暴力が産み出す残酷、戦争の憎悪が巻き起こす数々の狂気、惨鼻を極める性的暴力をじっと見つめ、記憶の面影の中の定型へと鋳込んでいく、ただ自分のためだけに制作するアンダーグラウンドの作家としての彼がいました

この2週間まさに、バタバタの日々でした。8月の終りに広島で開催されるはずの展覧会を東京に変更したのです。2か月前にも関わらず、よく、京橋のギャラリーを確保してもらえたと思います。奇跡に近いんじゃないのかな。そのせいでブログが遅れてしまいました。でも、東京の皆さんには朗報かも知れません。展覧会で二つのトークが企画されているのですが、とても豪華なメンバーなので僕はちょっと及び腰です。しかし、かなり、疲れました。それに、四回目のコロナウイルス予防接種、注射していただいた腕が突っ張ってる。そんなこんなでいささかヨレヨレしていますが、今回は問題の作家、フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス (1746-1828) を取り上げます。

 

ゴヤに関する著作

ゴヤに関する著作、色々あります。端正で格調の高いイヴォ・アンドリッチの『ゴヤとの対話』、バタイユとの関連を窺わせる「サクレ/聖なるもの」を標榜するアンドレ・マルローの『ゴヤ ― サチュルヌ』、この著作にはアレッサンドロ・マニャスコなどとの関連が指摘されていますね。そのマルローの著作を敷衍する形で書かれたツヴェタン・トドロフの『ゴヤ 啓蒙の光の影で』は、ゴヤを中心に過去の人々の織りなしてきた思考を掘り下げているトドロフらしい真摯な著作です。堀田善衛 (ほった よしえ) さんの『ゴヤ』全4巻は、とにかく面白い、いささか事を単純化しすぎるきらいはあるけれど、その独断が痛快です。それに、当時のスペインやその周辺の様子がつぶさに語られているのは貴重かと思います。どれも良いので困りました。それで、アラカルト方式で良いとこ取りすることにします。いかがなりましょうや。

 

野生の空気を吸って生まれた宮廷画家


 

ゴヤは1746年、アラゴン地方のサラゴーサの近郊、フェンデトードス村に生まれます。生家は現在修復されて残っていますが、縦に長い洞窟のようで、窓は鉄格子だけ、トイレはなく、台所はオンドル風な炉だけしかなくて、低い腰掛と両側に寝台風な設えがあったそうです。要するに生家は貧しいかったと判断されるような代物でした。1960年代には村全体が廃屋のようだったと堀田善衛さんは言います。海抜800メートルの砂漠のようなこの地は、アラゴンの風という風がここで渦巻くといわれ、夏は熱風、冬は寒風の吹きすさぶ、貧寒たる土地でした。ヨーロッパの遅れた辺境という野生に流れる空気を吸って彼は生まれた。これで、ゴヤは、とても貧しい生まれから身を起したという出世譚ができあがりますが、父親はサラゴーサの鍍金師で祖父は公証人であったと言いますから、言われているほど貧しくはなかったかもしれない。けれど不遇を託 (かこ) って貧しく亡くなっている。母はアラゴンの郷士の家系でした。この生家は母親の家の持ち物だったようです。

ゴヤの生家  外観内部

家族と共にサラゴーサに引っ越した後、5人兄弟姉妹の次男だったゴヤは、画家を目指して奮闘していくことになります。若くして才能を迸 (ほとば) らせるというタイプでは、なかったけれど、如才ない人だった。自費で、短期ではあってもローマに遊学し、箔をつけた後、故郷サラゴーサの教会の天井画の契約をとりつけた。そして、アカデミーの会員であった兄弟子のフランシスコ・バイユーの妹を嫁に迎えた。共にサラゴーサでルサーン師に学んだ同窓でした重要なのは、この義兄がヴィンケルマン主義者で、国王カルロス三世の寵愛を受けた宮廷筆頭画家ラファエル・メングスに気に入られていたことでした。そのメングスが国家事業としてのタピストリー製造に梃入れを始め、義兄のフランシスコをアシスタントにします。そのタピストリーの下絵を描く仕事がゴヤにも回ってくる。これで、定期的な収入が得られた。

ゴヤ 自画像 1783年  37歳頃

そうこうしている内に、おそらく、義兄の伝手を頼ってミランダ伯爵やドン・ルイ―ス親王といった天上人の肖像画を手掛けるようになります。この親王にゴヤはアレーナス・デ・サン・ペドロの離宮に呼ばれ、親王やその家族の肖像を描くという光栄に与ることになる。1783年のことです。共に狩りに出かけるほど親しくしてもらった。これが本当の意味での画家としての出発点となるのです。1786年宮廷画家、1789年に王室画家、1799年には王室主席画家にまで上り詰めることになります。1780年にはアカデミー会員、1795にはアカデミー会長となっていった。アラゴンの野生の空気を吸って生まれた子は、画家として国の最高の地位に就くことになりました。闘牛と狩りとココアを飲むこと、そして、多分、女性も生きがいのこの人、人たらしと言っていいような才覚があったのです。

ちなみに彼がレンブラントと共に影響を受けたベラスケスは画家として死ななかった。と、言えば奇妙に思われるでしょうが、式部長官職、つまり儀式・祭典といった国家行事のプランナーを兼ねていた。数百人の気位の高い役人や召使を統轄しなければならない激務激職でした。最後はマラリアと過労で亡くなった。レンブラントのように片時も絵筆を離さないというタイプではなかったようです。しかし、堀田さんの言葉を借りれば、「無類の知的透明さの中に氷結した真理を描いた」人でした。

 

アルバ侯爵夫人との奇妙な関係


 

アルバ侯爵夫人、この世の花と詠われ、道を通れば全ての人が窓に群がり、子供でさえ遊びを止めて見とれたという。でも、ゴヤの絵を見る限り、そう美形と言うのでもない様な‥‥彼は、モデルを美化はしなかったらしいのです。

アルバ侯爵と結婚したから侯爵夫人ではないそうです。スペイン第一の家柄で、生まれながらの女侯爵でした。祖父はスペイン大使としてベルサイユ宮で君臨し、他国の大使やルイ家の王族たちを見下していたというし、父親はフランスで教育を受け、ヴォルテール、ルソー、ディドロなどの自由思想にどっぷり浸かって育ちました。しかし、彼女が8歳の時に他界、母親も自由思想、女性解放の先頭を走るような女性で、三度結婚して三度とも夫に先立たれた。詩や絵画といった芸術活動に浸り、フランスの芝居をスペイン語で上演させたりと散財を繰り返しながらマドリード狭しと飛び回るような人でした。

堀田さんによれば、アルバ侯爵夫人の年収は金貨50万ドゥカード、つまり月収にすると10万ドル相当という破格の大金持ちだったのです。ルソーのエミール』によって教育された自由思想を持つ不羈奔放で気さくな性格だったと言うから人気者であって当然と言ったところでしょうか。13歳の時に19歳のビリフランカ侯爵の長男を養子に迎えてアルバ家を継がせたのだそうです。しかし、旦那は40歳で他界してしまいます。

 

『気まぐれ』より「彼らは飛んだ」

彼女とゴヤの出会いは唐突で、或る日彼女がゴヤのアトリエに入り込んで来て、「顔を塗ってちょうだい」と頼んだのだと友人のサパテール宛ての手紙に書いているというのです。トドロフは、何と突飛な情景だろうと舌を巻いている。国王の画家に化粧させようというのだと。ゴヤ49歳、アルバ侯爵夫人33歳でした。それから、おきゃんな侯爵夫人を持て余しそうになりながら親密な付き合いが始まりますが、どの程度進行したのかは分かりません。1797年に描かれたアルバの肖像画にはゴヤ・アルバと刻まれた指輪があり、地面にはゴヤだけと描かれていたことが修復時に発見されています。それに、同年にアルバは遺書を口述していますが、遺産の受取人の中にゴヤの息子のハビエールの名があるのです。ただ、例の『裸のマハ』のモデルだったかどうかは謎です。それを巡って小説のネタになりましたがね。

1797年から1798年まで制作された版画集気まぐれ』にはアルバに似た女性が頭に蝶の羽をつけ、三人のしょぼくれた男たちを足下に従えて、見事そらを飛んでいる作品がありますが、これなどは彼女の性格をよく表現しているのかもしれません。1792年にはゴヤは、ほとんど死にかけたというほどの病気を患って全聾になっていた。堀田さんは梅毒の治療のための水銀が内耳神経を麻痺させたのではないかと考えているようですが、どんなものなんでしょう。彼女との付き合いが始まった時には、既にこの状態だったのですね。それは病を得て年齢の坂道を転がっていく画家にとっては、束の間で、最初?の老いらくの恋だったのかもしれませんが、この恋愛は1年も満たずに唐突に終わりを告げました。そして、アルバは1802年に突然、蝶のようにあの世へ飛んで行ってしまうのです。性悪なスペイン王妃マリア・ルイーサによって毒殺されたと巷の噂が広がります。40歳でした。

 

聾となった耳は理性の影を聴く


 

モンテーニュは言ったそうです。「私の理性は身を屈め、折れ曲がるようにはできていない。そのように出来ているのは私の膝である」と。大病の後、ゴヤの耳は全く聞こえなくなり、彼の絵画の中に魔女、仮面、戯画といったモチーフが登場するようになります。1797年から1799年にかけて制作された『気まぐれ/ロス・カプリッチョス』の版画集ですね。しかし、彼の理性は、屈したのではなく夢見るようになる。その夢が怪物を産み出し始めたのです。存在不可能な妖怪が産み出され、それに同調することこそが諸芸術の母であり、驚異の起源になるのだという。それが彼の言う「普遍言語」なのです。

1784年には、こうサパテールに宛てて書いている。「僕はもう魔女も亡霊も幽霊もはったりの巨人も臆病者も追いはぎも、どんな種類の徒党もおそれない。僕がおそれるのは人間だけで、他の誰であれ何であれ恐れたりしない (小野潮 訳) 

ヒエロニムス・ボスの描く幻想も当時としては既によく知られていました。切り取られた両耳がピンで止められ、その間からナイフが飛び出ていたり、丸っこい鍋を被った鳥のをした人間が裸の人を銜 (くわ) えていて、そのお尻から黒い鳥と黒い煙が噴き出したりしています。これは、アルス・コンビナトリアですよね。ボスは人間たち描き出す地獄のような宇宙に連れていくけれど、ゴヤは地獄的なものを人間世界に引き入れるとマルローは書いています。トドロフは、ゴヤの描く怪物たちは、私たちの現実に住まっている存在を暗示してはいるが、変形され、その固有の法則に支配された存在なのだというのです。この固有の法則と言うのは何なんでしょうね。

この頃、ゴヤはレアンドロ・デ・モラティンという啓蒙派劇作家と親しくなっていました。彼から魔法使いや異端審問所の情報を得たようです。啓蒙派の思想は東方からピレネーを超えて流入していた。その時代に啓蒙の光に照らされた意識を持つ作家たちは、その時代の迷信といった滑稽に見えるものを風刺している。しかし、一方で無意識的なものへの沈潜があったと考えられています。

 

ヤン・ポトツキ『サラゴーサ手稿』工藤幸雄 訳

ポーランドにヤン・ポトツキという伯爵がいました。1761年生まれの彼は、数ヶ国語を話し、多数の外国を旅した政治家、歴史家で、ヘルダーやゲーテ、フランスの幻想小説家カゾット、百科全書派に近しいジェルメーヌ・ド・スタールらと親しくつき合っていました。その彼が、度々中断した後の1815年に『サラゴーサ手稿』を完成させます。そこには悪魔、幽霊、吸血鬼といった存在が超自然な存在の現前として描かれていたのです。例えばこんな具合です。「亡霊は大口を開けたので、頭はふたつに分かれたように見えた(工藤幸雄 訳)。」惜しみなく愛撫する美女と眠り込んだ後、目覚めてみると人間の女たちと一緒なのか、狡猾な女淫夢魔たちと一緒なのか分からなくなるといった具合です。『サラゴーサ手稿』はナポレオンがスペインに侵攻し、サラゴーサを包囲して戦場になった際、或る瀟洒な小館にて、その原稿を偶々発見するという触れ込みになっています。あの史上初のゲリラ戦が行われたサラゴーサの戦いでした。

この18世紀には理性的にものを思考するという傾向がいや高まっていきます。そんな中で、悪魔や妖精や怪物を表現する文学は、そのような者たちを非現実世界の存在ではなく、現実と非現実の混乱した境界の中に気息するもののように意図的に変化させていきます。これによって狂気と理性との境界、見かけと現実との境界は素通しなのだと主張されることになる。ゴヤの作品もまたそのようなものであった考えられるのです。理性の眠りですね。トドロフが言う「固有の法則に支配された存在」とはそのようなものではなかったかと考えられます。

 

深い意図――抵抗への道


 

戦争の惨禍より『真実は死んだ』

いわゆる「暴力」というものが、芸術の中に乱入し、正々堂々たる地位を確立したどころか、驚愕と感動を以て迎えられたのであれば、ゴヤを嚆矢とするというのは無理もありますまい。なにしろ、サラゴーサの戦闘を描いた『戦争の惨禍』という81枚もの版画を制作した画家であってみれば、当然のことかもしれないのです。そのせいか、堀田善衛さんは、若い頃のゴヤの伝記類には暴力沙汰が定番のテーマになって登場するといいます。

しかし、彼は、同時期の闘牛の版画を売ることはあっても、それらの版画を売ることはなかったのですよ。つまり、それらは自分のために制作されました。この1810年から1820年にかけて制作された『戦争の惨禍』という版画集で彼が描きたかったのは、人間の中にある制御不能の得体のしれない力でした。トドロフの表現を借りれば「人間の内部には、何ものにも還元不可能な混沌が潜んでいる」、それをゴヤの鋭い感性は暴いてみせた。真実への愛は死ぬこともあり得るけれど、彼はそれをけっして諦めようとはしなかった。眼前には「何故」に向かうアラゴンの荒れ野のような抵抗の道が広がっていたのです。

 

戦争の惨禍より『何故だ』

「por qué?(何故だ)、獣人と化した三人の兵士が一人の俘虜を首吊りにしている光景へ、ゴヤはそう書き込む。聾で病気で孤独な老人は、自身に課した問いを考え抜く時間を持っていた。そうして、一つの問が他の問を圧殺する苦悩に満ちた自己の内的対話を続けているかのように、しばらく後、もう一枚のさらに戦慄を催す戦争の残虐場面へ、かれは No sepuede saber por qué.(何故だか分かるわけがないと記す(『ゴヤとの対話』田中一生 訳)」。

とイヴォ・アンドリッチは書いています。ゴヤの結論がこれだったのでしょうか。世界に存在する悪、それが何故あるのかを知ることは不可能だった。彼は、81枚もの版画を制作しながら問い続けました。ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の中でこう書いていた。「我は悪魔なれば、すべて人間的なるもの、我に無縁ならず(米川正夫 訳)。」

 

『戦争の惨禍』より「戦争の災厄」

ところで、アンドレ・マルローはゴヤのエクリチュール/筆法について書いているではありませんか。騎兵突撃も、暴行に引き込まれる女たちも、引き回される死体や山なす屍を描く時、ゴヤが求めたのは表現であると。銃殺、縛り首、捕縛、亡きがらの前の女、立ち尽くす男、ゴヤが現実の中に貧欲に追求したものは、身振り、光と影、それらの表現だったと言うのはさすがですね。

情念定型と明暗の構成と言いかえられるでしょう。それらは、彼が実際に見たものもあるかもしれないが、見たと思い込むほど圧倒的な伝聞が中心であったのではないでしょうか。登場する人物たちは、おずおずと一ヶ所に集められ、揺れ動くマッスとなってカオスから立ち上がり、捩れ、よだち、崩れ落ちる。そんな形態を形成していくのですよ。動きが、大きな役割を演じるようになるのですが、これはミケランジェロとは異なる仕方でした。絵画とは運動の芸術なのです。

 

何のために描かれたのだろうか


 

聾者の家  現在は失われている。

聾者の家と呼ばれた建物で「黒い絵」の制作がなされたのは、1820年から1823年と言うスペインが自由を謳歌した時代でした。しかし、保守派が勝利するとゴヤは、この家を孫のマリアーノに譲ってしまい、この家には住まなくなってしまうのです。何故なんでしょうね。

もっと不思議なことは、この絵は家の壁という壁に直接描かれていた。つまり、エジプトやポンペイのように移動不可の建物と一体だったということなのです。後にカンヴァスに移し替えられますが、どういうふうにしたんでしょうね。それも、気になります。ともかくも、ただ、描きたいから描いた、あるいは一つの美術館のようなものとして制作した、孫のために家ごと残したかった、それらのいずれかの理由からということになるのでしょうが、いかにも、不思議な次第でした。黒い絵は上下二つの階に以下のように配置されていた。おそらく窓がいくつか改装されたのではないかと想像しています。

聾の家における「黒い絵」のシリーズの配置   入口左にレオカーディア像

この黒い絵が描かれ始めた1820年には、ラファエル・デル・エゴがセビリアで蜂起し、フェルナンド7世を捕らえて1812年憲法を順守することを誓わせます。議会を招集させ、言論の自由化、教会財産の国有化 (おかげでイエズス会は追い出された)、異端審問所を廃止させ、政府は改組されました。それは追放されていた政治犯や囚人からなる「徒刑囚の政府」とさえ呼ばれます。まさに、30年遅れのバスティーユの様相を呈していました。

ナポレオンの支配から脱却するための7年に亘るスペイン戦争が終わった時、フェルナンド7世は民主化の期待を一身に受けた指導者でありながら保守反動、王政を復活させ、あろうことか戦争で戦ってきた功労者たちを追放・投獄します。『戦争の惨禍』は、そんな時代に制作されていた。黒い絵を描いた時代は、その失意の時代が終わった束の間の4年間、かりそめの光の時代だったと言えるでしょう。1819年末、ゴヤは二度目の大病をアリエータ医師に救われ、32歳のレオカーディアと息子と娘のマリア・ロザリオと生活を共にすることになるのですが、今度は、根気のいる銅版画という手仕事ではなく、なんと33平方メートルもの巨大な壁に絵を描き続けていくのです。半死半生だった74歳の老人です。これは驚異ですよね。

入口から入って左手の大きな壁には『魔女の集会』があった。左に悪魔である大山羊が鎮座していますが、牡山羊は牡牛と共に一神教のユダヤ教に敵対したフェニキアから西アジアにかけて崇拝されていた豊穣と力の神の象徴でした。それが、キリスト教の台頭とともに偶像崇拝の対象としての悪魔になっていったと考えてよいのではないでしょうか。僕は、この陽物のような集団の端にレオカーディアとも若い見習い魔女ともみなされている女性が配されているのを見て苦笑してしまった。これは、けっして狂気の老人の描いた絵ではないのです。一説には右側1メートル余りが破損のため修復時にカットされたと言います。そして、一階の向かいの壁には『サン・イシードロの巡礼』がありました。この聾の家からほど遠からぬ所にサン・イシドロの墓地があり、葬儀場もあったそうです。

 

これは、黒い絵のシリーズの中で最も謎とされる絵ですね。ただ犬だけが描かれている。それも首まで砂に埋められ、茫漠たる天空を見入っている。何のための、何の意味がある絵なのだろうかと。この空間表現は、真に素晴らしものですが、ロマン派のフリードリヒやターナーの空間表現を彷彿とさせるものがある。しかし、この犬は‥‥

僕は今でもそうですが、犬占いの絵ではなかろうかと勝手に思っています。これは、確か夢野久作の『犬神博士』に登場するもので、犬をこんな風に土に埋めて、何日も飲まず食わずで飢えさせる。もう今生の別れかと言う時に目の前に食べ物を投げて、その表情で吉凶を占うという、かなり凄惨な占いですが日本にそれが、あったとしたら、もしかすると、スペインにもあったかもしれません。他にちょっと考えようがありません。一説には犬の前に巨岩が描かれていたが修復で失われたのではないかとも言われます。そうだとすると別な意味が生まれてきます。

ともあれ、これが、ゴヤ本人の抜き差しならない姿であった可能性もある。啓蒙派でありながら王室主席画家、それも飾りとしてだけで、実質、王室からの仕事は後輩のロペスに任されていました。フェルナンド7世が王室に返り咲いた時、前王の無能な宰相であったゴドイの美術コレクションは新設のプラド美術館に追いやられてしまった。フェルナンドが忌み嫌った父王のカルロス4世と性悪な王妃マリア・ルイーサ、その愛人のゴドイの肖像画など見たくもなかったのですよ。王宮に置いておく気はしなかった。しかし、その中に、『裸のマハ』があった。これは異端審問に引っかかるような問題でした。高齢で重病、耳の聞こえない功績厚かったこの画家であったなれば、周囲の計らいで問題は、もみ消されました。しかし、啓蒙派であることは、親仏派と見なされる危険はついて回っていたのです。

そうこうしているうちに、先ほど述べたリエゴの反乱で重ぐるしさからは全て解放されることになった。ゴヤにとっては安堵の時だったはずです。二階の左奥の壁には、二人の男たちが膝まで砂に埋まりながら棍棒で殴り合っている姿が描かれている。実は、この絵もその時期の状況を考えて見ればいかにも意味深な作品なのです。堀田さんによれば、1823年に束の間の光明の時代は終わり、「徒刑囚の政府」は極右と極左に分裂します。極右は立憲君主制と教会国家の併立を望み、極左は王の処刑追放と無制限の民主化を要求します。問題なのは、両派ともフランス占領時代にボナパルトに膝を屈したために投獄されていた有能な数千人の官僚や知識人を取り込もうとしなかったことでしょう。愚かな君主が二人になっただけのことだったのです。やがて、メキシコや中南米諸国の植民地を失ったスペインは急速に国力を疲弊させ大混乱に陥るのでした。二つの政治的派閥の争いは両者が死ぬまで続けられるのです。ですから、これら黒い絵は歴史の記念碑的ドキュメントでもありうるのです。

 

亡命の中の平和


 

1805年にゴヤの息子が結婚した時、その嫁の親戚の中のレオカーディアという17歳の娘をゴヤは見初めた (らしい)。彼女は裕福な商人と結婚するも、離婚、夫に不貞を訴えられますが、これがゴヤに関係したという証拠はありません。1812年には、ゴヤの妻ホセファが亡くなり、翌年、ゴヤはマドリードを去ろうとします。これにはレオカーディアが一緒だったらしいとトドロフは書いていますね。1814年、彼女は女の子を出産します。これがマリア・ロザリオでした。ゴヤは、この子にメロメロだったようです。はて? 誰の子だったのでしょうか。ゴヤの子であるかどうかは定かでありません。の頃は70歳前後ですから、しかし、可能性がないわけではない。まあ、あまり詮索するのも野暮ですね。

1823年、聖ルイの10万の息子たちと呼ばれるフランス軍が、幽閉されたフェルナンド7世を解放して、再度王位につけるために進軍してきましたが、人民戦線の抵抗は、ほとんどなく逆に歓迎されるといった具合だった。またも、反動、弾圧、迫害が始まります。マドリードでは「皆殺しの天使団」と呼ばれるテロ組織が自由主義者や立憲君主制の支持者を殺害し始めていた。レオカーディアは生粋の憲法派だったから、ゴヤの周辺は益々危険なものになっていきました。それで、ゴヤは宮廷画家として年俸を受け取りながら合法的に亡命する手立てを講じます。病と老躯のためにフランスのプロビエール鉱泉への湯治の許可を求めた。はなからそんなことに明け暮れる気はなかったのです。当時のデッサンの詞書きにはこのように書かれてあった。「こいつらと一緒にいたくない。」

『俺は、まだ学ぶぞ』1825-1828 リトグラフ

ボルドーに着いた後、パリに二か月ほど滞在して、アングルの『ルイ13世の誓願』やドラクロアの『キオス島の虐殺』などを見ています。そしてボルドーに戻ります。レオカーディアとは、全く不釣り合いな夫婦と言った感じでしたが、彼女の子供たちと一緒に暮らしています。ボルドーはスペイン語がかなり通じたようです。しかし、1825年の春にはまた、病に倒れました。だが、不死身です。79歳の老人は、リトグラフ象牙を使った細密画を手掛けるようになっていくのです。北斎ばりの活力だった。

そして、1826年、画家はマドリードへ向かい、国王フェルナンド7世に宮廷画家の職を辞すること、そして、フランス滞在の許可と終身俸給5万レアールを願い出て許可されています。ボルドーでの最後の作品は『ボルドーのミルク売り娘』でした。毎朝ミルクを届けに来る娘を描いています。彼の遺作が、この作品であることは、一つの救いであった。それは彼にとっても彼の研究者たちにとってもそうだったでしょう。

1828年、ゴヤは息子ハビエールの妻と孫のマリアーノに看取られて亡くなっています。82歳でした。こうして、啓蒙の光に照らされた主観の巨大な影は死の闇の中に記憶の面影と共に溶けて行ったのです。

 

引用文献

 

イヴォ・アンドリッチ 『ゴヤとの対話』

アンドレ・マルロー『ゴヤ論 サチュルヌ』

堀田善衛『ゴヤ スペインの光と影』

堀田善衛『ゴヤ マドリード・砂漠と緑』

堀田善衛『ゴヤ 巨人の影に』

堀田善衛『ゴヤ 運命・黒い絵』

ツヴェタン・トドロフ『ゴヤ 啓蒙の光の影で』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カマル・アブドゥッラ『欠落ある写本』交響する伝承と創作 付『デデ・コルクトの書』

 

カマル・アブドゥッラ『欠落ある写本』2017年刊

用事があって市内まで出たので、久しぶりに図書館に踏み込んでみる。やっぱり、ネットで探すより本物がいい。不思議の国のアリスかひみつのあっ子ちゃんの気分だ。何か清楚なのに魅惑的なオーラを放つ背表紙が僕を呼んでいる。手にとってみると表紙のデザインがまた良い。カバンから老眼鏡を取り出そうとした‥‥がナイ。人目を気にしながら底まで物色したが‥‥ナイ。仕方がないので本の最初の方を開いて手に持ち、できる限り目から離して眺めてみた。なにか、ぼんやりした文字らしきものの羅列が見える。オオッ、ショックだ。

表紙から察するにイスラム圏の本のようだし、写本と書いてあるから古い文献をテーマにしたものらしい。デデ・コルクトの失われた書とある。借りようか書架に戻そうか、しばらく思案したが、『欠落ある写本』というタイトルに魂をグイと掴まれて借りることに決めた。タイトルは大切なものらしい。知り合いたちの話では出版の会議でもっとも重要な事項は、何とタイトルの決定だという。さもアリなんである。

話は国立写本研究所で12世紀の写本を司書さんに紹介されたことから始まる。それは普通のものだと言うにもかかわらず、この写本には、一つ「けれども」があるともいう。最初と最後が欠落しているのだ。著者は、この『欠落ある写本』を廃棄されなかった『デデ・コルクトの書』の下書きとして設定する。そこに謎を振りかけたのである。人間の記憶は、『イーリアス』や『オデュッセイア』、『デデ・コルクトの書』のような長大な物語詩を口頭で完全に未来に伝えることができるのだろうかと著者は問う。‥‥できるんですよ。主人公は、デデ・コルクトの書』の語り手である老コルクト、つまりオグズ族の賢者として知られる人である デデは、古老を意味する。 この欠落ある写本には、デデ・コルクトのメモが全て散りばめられているとしたのである。

それは、古代オズ国家のハーンの中のハーン、バユンドゥル・ハーンによってなされる審問の過程が描かれる。12世紀アゼルバイジャンの北西の都市ガンジャで地震があり、その後のスパイ事件がテーマになっている。スパイを逃がしたのは誰か ?  内オズの長、勇士サルル・カザンか ?  婚礼の準備をしていたベレキが襲われ、捕囚され、バイブドルの砦に16年もの長きに亘って監禁される切っ掛けとなる密告をしたのは誰か ?  栄えある英雄ベキルが足を折ったことを敵に通報し、襲おうとしたのは誰か ?  この地震に襲われた寄る辺ない町を敵は無慈悲に襲撃しようとしているのだ。この審問によって内オズと外オズの間に起こる軋轢、内紛の原因が明かされる。本物のデデ・コルクトの書』自体もなかなか魅力的なのだけれど、著者は、それを縦横に活用しながら一篇の推理小説に仕立てるのである。編集力がほとばしる傑作と言っていい。

今回はこのオズグの史詩を基に描かれたアセルバイジャンの作家カマル・アブドゥッラの小説『欠落ある写本』をご紹介する。はて、アゼルバイジャン ? ‥‥何処にあったっけ。調べてみなければなりません。

 

カマル・アブドゥッラは、1950年アゼルバイジャンの首都バクーに生まれる。父は教師で、母は医師という家庭で育った。アゼルバイジャン国立大学哲学部で学んだ後、ソ連科学アカデミーの言語学研究所でテュルク (チュルク) 語を学び、叙事詩デデ・コルクトに関する論文で博士号を取得。1977年から1984年までアゼルバイジャン科学アカデミーの言語学研究所において研究員やテュルク語学科長を務めながら1984年に『アゼルバイジャン語の構文の理論的問題』で言語学の博士号を取得した。言語学のエキスパートでもある。また、一時期、文学、芸術、科学に関するテレビ番組にも関わっているようだ。外交的な性格を窺わせる。

テュルク系民族の古代叙事詩文学の研究者として活躍し、アゼルバイジャン外国語大学、トルコのウルダッグ大学、アゼルバイジャン外交アカデミーなどで教鞭を執った。アゼルバイジャン・ロシア語・ロシア文学教育研究所センター長、バクー・スラヴィック大学、アゼルバイジャン言語大学で学長を歴任する一方で、国務参事官、文化財団理事長、バクー国際多文化共生センター評議会議長などの公人でもある。昔の中国で言えば、士大夫のようなと人だ言っていい。最近でいうと、アンドレ・マルローといったところだろうか。学術書、文学研究、文学批評、美学などの著書の他、『秘められた「デデ・コルト」』があり、邦訳があるものとしては本書『欠落ある写本』及び魔術師の谷』がある。

僕は、『デデ・コルクトの書』を並行して読んで楽しんだのだけれど、もし、手に入れば併読されることをお勧めしたい。

 

バユンドゥル・ハーンの疑惑


 

その日、ハーンの中のハーンであるバユンドゥル・ハーンは、老コルクトを呼び寄せ、良くないことが国に起こるという。スパイを捕らえたが、誰かが、その者を地下牢から解放し、逃がした。共に真相を明らかにしたいとハーンはいうのである。しかし、コルクトはハーンが全てを知っていて、自分からもその情報を聞きたがっているのだ、下手に何かを言えば、身の破滅にもなりかねないと心胆を寒からしめる。ハーンの影、懐刀のクルバシュだけがハーンの秘密の全てを知っている。

ハーンは、オグズの重鎮・勇者サルル・カザンを召喚した。最も信頼しているベグ (族長) だった。ハーンは問う、スパイの脱走を助けたのは誰だ。クルバシュが、カザンの頭を締め付けるとカザンは失神した。頭から水をかけられ蘇生したカザンは、馬の口のアルズ・コジャがスパイをさらいましたと母に誓ってと述べるのだった。かつて、サルル・カザンが狩りに出かけた時、留守に異教徒によって幕舎が襲撃され、カザンの母親、息子のウルズ、妻でありハーンの娘であるボルラ・ハトゥンが一族郎党と共に捕らえられる。ハトゥンは高貴な女性への尊称だ。彼らを救いに行ったカザンは、意外にも異教徒の首領に全てをお前に与えるが母だけは返せと迫るのである。(『デデ・コルクトの書』第二話 サルル・カザンの幕舎が掠奪された物語を語る。アルズとは、カザンが若いころから仲の悪い叔父であった。

コルクトはハーンにこう語る。「我がハーンよ、聞かないでください。私に問わないでください。ここでカザンはアルズの名を挙げました――それはあなたも聞いての通りです。私に問わないでください。お望みの者に聞いてください、だが私だけには聞かないでほしい。よいですか――内オグズと外オズは、今やもはや昔の全オグズではありませぬ。我がハーンよ、疑いもなく、彼らの間には憎しみが生じております。全能のテングリ (中央アジアの天空神) よ、ハーンをお守りください ! (伊藤一郎 訳)」しかし、コルクトは話さざるを得なくなり、話は、三日三晩続くが、その写本の箇所は、すっかり汚損され判読できない。話の展開のうえで写本の破損と途切れは、巧みに読者の意識のカーソルを変移させていく。

 

ヤクザ者のベレキとべギルの屈辱


 

コルクトは、ベレキという若者の名付け親となるよう、その両親に招かれる。しかし、この若者の心はコルクトの心を凍らせ、黄色い毒蛇のような疑いを蠢かせた。この若者は、狂暴な敵から商人たちを守ったことで名声を得たが、一人で多勢を相手にして怖くなかったかとコルクトが聞くと、盗賊などはいなかったと答える。自分と仲間の狂言だったし、首を刎ねたのは、一人だけで、商人の一人に傷を負わせて奪った商品を自分のものにしようとした裏切り者だったが、それも、その双子の違う方を斬ったのだと平然と言うのである。このことは、自分の副官他、あなた以外は誰も知らないという。

コルクトは雷に打たれたように立ちすくんだ。このヤクザ者は、自分に秘密を結わえ付け縄をかけたのだという。ベレキの秘密を守る運命が自分に義務付けられたのだというのだ。これは辛い定めだった。罪を暴かれ辱めを受けた殺人者、自分の子の本当の父親を知っている母親、その子を疑う父親、愛されているのに愛せない者、愛しているが愛されない者、全てのオグズの秘密がコルクトに打ち明けられる。彼は、絶対に秘密を漏らしたりしないからだ。彼が重圧に耐え、生きてこれたのは、それを全て輝光石に托してきたからだったという。

ここからは、コルクトがハーンに語る場面が続く。デデ・コルクトの書』の話が下敷きになっているが要旨は巻末に掲載しておいたので興味があればご覧いただくと良い。

コルクトは、バイブルドの砦でベレキが幽閉されている情景を幻視したが、敵の首領の娘とねんごろになっている場面だった ( 第三話 バイ・ピュレの子バムス・ベレキの物語を語る) 。ついで、アルズ・コジャの子バサトが独眼鬼との一騎打ちの場面を幻視する。これは、デペギョズという独眼鬼を打ち殺す ( 第八話 バサトがデペギョズを殺した物語を語る) がベースとなっていた。オデュッセイア』のキュプクロスを連想させる話だ。

そしてべギルとカザンとが衝突した話が語られる。ある日、ベキルはハーンに呼ばれ、カズルク・コジャの子イェゲネキの遠征について相談を受ける ( 第七話 カズルク・コジャの子イェゲネキの物語を語る)。その後で、大掛かりな狩りに参加する。弓の名手だったべギルだったが、サルル・カザンは技量は馬のもので勇者のものではないとべギルを貶めた。カザンの腹心のベレキもベキルをなじった。彼は、腹を立ててハーンからの贈り物を投げ捨てて自分の幕舎に帰るが、妻に宥められ、気晴らしに狩りに出た。ところが鹿を狩る最中に誤って岩に足をぶつけ骨折してしまうのである。間者がベキルの骨折を知ると敵が攻めて来るが息子のエムレンが迎え撃った ( 第九話 べギルの子エムレンの物語を語る)。エムレンは、斬り殺されるすんでのところでコルクトの輝光石の力によって救われるのだった。

かくして、カザンはアルズと反目し、アルズとベイレキは反目し、ベイレキはベキルと反目する。オグズは、かつてのオグズではなくなっていた。

 

孕み女とスパイ


 

バユンドゥル・ハーンはカザンの側近であるシェルシャムサッディンを喚問する。ハーンは、お前たちは〈異教徒の息子の異教徒を穴に放り込み、格子で覆い、鍵をかけ、その夜、ファティマという孕み女と会ったろうと問い詰める。答えを失ったシェルシャムサッディンは、危うく拷問にかけられるところだった。彼は、カザンの妻ボルラ・ハトゥンがベイレキと密会し、カザンにスパイが現れたと告げるように、スパイはアルズの息子バサトだと言うように彼に命じたとハーンに話す。

しかし、ベレキはカザンにスパイの名を告げず、じれたカザンはコルクトから授けられた小箱の中にあった魔法の髪の毛を燃やして彼を呼び出した。コルクトは問い詰められ、とうとうスパイは孕み腹のファティマという女の一人息子だと語る。一人息子はシェルシャムサッディンによって捕らえられ、土牢の穴に入れられるが、彼の母親である孕み女がシェルシャムサッディンを訪ねて、息子は、お前との間の子だと語ったと述べるのである。ハーンをはじめコルクトたちも唖然とするのだった。

その後、カザンの部屋から孕み女が出てくるのをシェルシャムサッディンは見た。翌日、カザンは小規模な評定を開いた。オグズにスパイが現れ、ファティマの子が捕らえられている。全くの子共だが、どう扱えばよいかとカザンは諮問する。オグズに騒乱を持ち込むべきではないとベキルが述べ、アルズも賛成し、ベイレキはカザンの思うとおりにと答えた。カザンは、ファティマの息子を釈放するように命じたが、ベイレキは他国に追放するように進言する。解放された息子を母親は黙って肩を抱き、立たせるとゆっくりとカザンらのそばを通って行った、その後、母子の消息は杳 (よう) として知れないとシェルシャムサッディンは語り終えるのだった。

 

ヒズルとシャー


 

オスマントルコのセリフ1世とサファヴィー朝ペルシアのイスマーイール1世との歴史的決戦は、アナトリア東部のチャルディラーンで行われた。歴史上では、オスマントルコの銃火器が、サファヴィー門徒の不敗の騎馬軍団クズルバシュの神話を打ち砕いた戦いとして知られる。織田信長と武田勝頼との長篠の戦いによく比肩される。この戦いでサファヴィー朝のイスマーイール1世は捕囚される寸前で逃れた。

 

『欠落ある写本』に戻ろう。それより前、イスマーイール・シャーの側近フセイン・べク・レレは、秘かにシャー (王) の影武者を探していた。そして、ある村でシャーと瓜二つのヒズルを見つけたのである。ちなみに、『デデ・コルクトの書』で、ヒズは聖者として描かれている。しかし、シャーが激しく、決然とした性格で、罪には容赦なく、君主あるいは最高指導者としての自己の使命を信じ、神に選ばれた者として振る舞ったのに対して、ヒズルは従順で柔和、かつ優雅で詩を好むような性格だった。ベク・レレは時にヒズルを哀れになることがあった。

チャルディラーンの戦いで、敵がシャーの天幕まで迫った時、ヒズルを引き寄せてシャーはこう述べた。「立つのだ、若者よ ! 」「立つのだ、我がシャーよ。戦いの命運は尽きた。私は去る。おまえは残るのだ。どうかお願いだ、少しだけ頭巾をとってくれ‥‥」シャーはヒズルの顔をじっと眺めた後、これからは私とレレなしで人々の前に立つのだと、シャーは決して死んではならないと諭した。自分はセリムを罰することなく捨て置くことは出来ないと述べ、戦いの中に身を投じていったのである。この時からヒズルはイスマーイール・シャーとなるのであった。

ヒズルは、後に、奇跡的に生きていたレレにこう回想する。私は、あの時、シャーにこう問いかけた。「我がシャーよ、我らは誰を欺くのですか ? 」シャーは答えた。「我らは誰も欺かぬ。内なる隠れた真実は多くの者たちにはいかなる意味も持たぬ。すべては外に見える本質の中にあるのだ。これを肝に命じておけ」

一見、全く異なる (時代も下って16世紀初頭のエピソードとして挿入されたかのようなヒルズとシャーの物語は、バユンドゥル・ハーンの詰問の結果にも、そして、ガンジャの地震にも交響していく共通するある哲学的命題というべきものの調べを奏でていく。そして、それは『デデ・コルクトの書』を生きた素材として構築された素晴らしい大伽藍でもあるのだ。隻手 (せきしゅ) の声さえ引用する著者は、深い思索者と言える。

 


物語は、ここで折り返し点を迎える。後半は、ハーンのベキルへの喚問、カザンの妻ボルラ・ハトゥンとベイレキの妻バヌチチェキがハーンにそれぞれの夫のことで訴え出た後、カザンは再び喚問され、最後にアルズが呼び出された。ハーンとコルクトが導き出した結論とはどのようなものであったのか。後半は是非本書を手にとっていただければ思います。


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オグズ族の歴史と『デデ・コルクトの書』


6世紀後半の突厥  552年の成立、582年に東西に分裂し、741年に西突厥が745年に東突厥は滅んでいる

東洋文庫の『デデ・コルクトの書をめぐる歴史について林佳世子さんは、こう書いている。6世紀頃、バイカル湖の南からアラル海、カスピ海あたりまで広がっていたテュルク系遊牧民族の一部にオグズ族があった。テュルク系遊牧民は、人種としては、もともとモンゴロイドといわれている。その中にトクズ・オグズ (中国名鉄勒Türkの音写) と呼ばれる部族連合体があり、同じテュルク系の突厥に従属と離反を繰り返していた。だが、8世紀に突厥がウイグル族によって滅ぼされるとオグズ族は西方に移動するようになる。遊牧民族の習いだ。10世紀にはアラル海に注ぐシル川 (ダリアはペルシア語で川の意) の中・下流域を版図とするようになった。

テュルクは、広義にはテュルク語を話す遊牧民族全般を指し、狭義ではトルコ人を指している。テュルク語は、日本語と同じように目的語や助詞に活用語尾の付く膠着語で母音の調音のための一種のクセがあると言われる。日本語のように主語ー目的語ー述語という語順になるものが多いらしい。ちなみに、トルキスタンとは「テュルク人の土地」を指す言葉だった。東トルキスタンは、およそ新疆ウイグル自治区の辺りを、西トルキスタンは、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの辺りを指している。

 

マー・ワラー・アンナフル地域   ギリシア・ローマではトランスオクシアナ(オクサス川=アム川より向こうの地)と呼ばれた。

10世紀の中央アジアには初のテュルク系イスラム国家カラ・ハーン朝 (840-1212) が成立し、999年に西トルキスタンにあったペルシア系のサーマーン朝に侵攻して、フェルドウスキーが『シャー・ナーメ』を完成させる前に滅ぼしてしまった。その領土は、ほぼ、シル川とアム川に挟まれたマー・ワラー・アンナフル (斜線部) とよばれた地域にあたる。これによって、イスラム化が少しずつ進行していったが、その北側や西側ではオグズを含め、キプチャクやウイグルなどが鎬を削っていたのである。こうした部族間の戦いの中で、君主の記憶や歴史的な戦いを伝える伝承が産み出されていった。それらが『デデ・コルクトの書』の原形となっていく。ちなみに、伝承によれば、カラ・ハーンの息子であるオグズ・ハーンがオグズ族の祖とされ、そこから内オズ12氏族と外オズ12氏族の計24の氏族に分かれたとされる。デデ・コルクトは、外オズのバヤト氏の出身とされていて、吟遊詩人オザンとしての性格も持っていた。『欠落ある写本』ではトリックスター的な要素も見せている。

 

セルジューク朝版図  (1038-1157/滅亡年は異説が色々ある)

11世紀には、部族の一部が西アジア・イスラム世界、つまりイラン高原、アゼルバイジャン、アナトリアへと移動した。こうした西進の過程で、もともと、モンゴロイド人種だったオグズは、コーカソイドとの混血が進んで行く。ちなみに、遊牧生活をしながらムスリムとなったテュルク系遊牧部族のことをペルシア語でトゥルクマーンという。そうそう、最近トルコ語も分からないのにkuruluş osman/オスマンの組織というトルコのテレビドラマを見ているのだけれど容貌はバラエティに富んでいる。オスマン帝国の創始者のドラマだ。1038年には、オグズ族の中のクヌク氏族のリーダーであるトゥグリル・ベグがイラン北東部の二シャープルに無血入場してセルジューク朝を打ち立て、1055年にはバグダッドのカリフからスルタンの称号が与えられる。こうしてイラン北東からアナトリアに至る地域にはオグズ族の遊牧民が広く分布するようになった。

9世紀頃から始まる中央アジアのイスラム化は、吟遊詩人オザンが物語る「オグズ・ハーン伝承」や「デデ・コルクト伝承」などのオグズ族の伝承にも変化をもたらしていった。東アナトリアのオグズ族たちは、黒海沿岸やコーカサスのグルジア系やギリシア系のキリスト教徒たちと勢力争いを演じるようになり、かつてのテュルク系同士の戦い、つまりベチェネグ族やキプチャク族とのシル川での戦いの伝承へ、そういった異教徒たちとの戦いの物語が紛れ込むようになり、ホメロスやエウリピデスに関連しそうなものまで吸収されていくのである。このアナトリアでの新たな体験が加味され、かつての伝承が変化していったと考えられる。著者のアブドゥッラが、この小説『欠落ある写本』に設定した国立写本研究所の12世紀の写本とは、そのようなものをさしているのである。

 

参考図書

 

カマル・アブドゥッラ『魔術師の谷』

カマル・アブドゥッラの『魔術死の谷は復讐に燃えた二人の親子の物語である。父のマメドクリは、姦通した生みの母と相手の男を殺害したが、先代のシャーに救われ、カルマによって刑吏となる。しかし、父はシャーの命に背いて、シャーが征服した街に妻と残ろうとした。父の継子である兄は殺され、母は父マメドクリの手からその身を深い谷へと躍らせた。息子は、シャーに復讐することを夢に見続けてきたが、既に新しいシャーの代になっていた。ギャラバンの統率者として名望を得ていた息子は魔術師の谷で、魂を呼び寄せることのできる魔術師サイヤフを探し出し、ついに父の霊からその真実を知るのである。

魔術師サイヤフは、その師の敵対者であった者から、闇の円環の欠けたる輪がやがて転生し、生まれ出ると告げられる。その輪が完結すれば、この世の終わりが訪れるというのだ。その生まれ変わりとは誰か。息子の復讐は成し遂げられるのか。本書はスーフィズムを底流に持ち、闇と光の相克を描く傑作と言える。

 

 

付 『デデ・コルクトの書』の要約


 

『デデ・コルクトの書』 2003年刊

15世紀アナトリアは、西からオスマン帝国が伸長してくる時期であり、その地の支配の正当性を喧伝するべく『サルトゥクナーメ*』などでオスマン家をオグズ系に位置づけようとする史書が編纂され、対抗的にアク・コユルン朝 (白羊朝) でも同様な編纂が行なわれた可能性があるという。現存する『デデ・コルクトの書』の写本では、バユンドゥル・ハーンが王として登場するが、アク・コユルン朝の初代君主カラ・オスマンバユンドゥル (バヤンドル) 氏族の出身だった。一方で、後の世に王権がカユ氏族のオスマン・ガーズィ―(オスマン帝国の創始者)の子孫の手になるという記述もある。ある種の後付けがなされているようだ。結局、オスマン帝国がアナトリアを支配すると『デデ・コルクトの書』は、必要とされなくなり埋もれてしまうのである。

今まで『デデ・コルクトの書』の写本は二冊発見されていて、一冊は19世紀にドレスデンで、もう一冊は1950年にヴァチカン図書館で発見されたが、イスタンブールの図書館には、所蔵されてないという。だが、オスマン帝国が崩壊し、トルコ共和国へ移行すると、トルコ人のアイデンティティが求められ、トルコ民族固有の伝承に注目が集まるようになる。そのような中で、『デデ・コルクトの書』は広く知られるようになったのである。内・外12氏族にちなんで12章で構成される本書の概略をご紹介する。

サルトゥクナーメ* (サルトゥクの書) サルトゥクル公国は、1071年にマラズギルトの戦い後にセルジューク国の司令官の一人であるエブュル・カースム・イズディン・サルトゥク・ベイによって創設されたエルズルムにあったアナトリア・トルコ公国。1202年に滅んだ。

 

・序章 慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

預言者ムハンマドに近い時代にバヤト氏族の中からコルクト・アタという無謬の賢者が現れ、神は彼の心に霊感を賜った。彼は遠い将来を見通し、オグズ族の問題を解決していった。吟遊詩人でもあるデデ・コルクト (デデとは古老のこと) は後の世に王権がカユ氏族のオスマン・ガーズィ―(オスマン帝国の創始者)の子孫の手に戻ると予言する。彼は、アッラーに対する頌歌を詠い、正しき者の行い、ムハンマドの家系とコーラン、メッカやウンマ (信徒集団) などを言祝ぐ。そして何故か、良妻から愚妻までの四種類の妻を詠い、アッラーの加護を願う。

・第一話 ディセル・ハーンの子ボカチ・ハーンの物語を語る

子のいないことをバユンドゥル・ハーンらに辱められたディセル・ハーンは、神に願掛けて息子を得た。立派な勇士となった息子のボカチに家来たちは嫉妬し、ディセル・ハーンに讒言して息子を殺させようとし、ハーン自身も囚われの身となる。息子は聖者ヒルと母の力によって救われ、父親を解放する。

・第二話 サルル・カザンの幕舎が掠奪された物語を語る

バユンドゥル・ハーンの娘婿、力強いオグズの幸運、残された勇者の後ろ盾であるサルル・カザンは部族の長であるベグたちと狩りに出かけるが、留守に異教徒によって幕舎が襲撃され、カザンの母親、息子のウルズ、妻でありハーンの娘であるボルラ・ハトゥンは一族郎党と共に捕らえられ財産全てを奪われる。羊飼いのカラジュクと共に彼らを救いに出たカザンは、意外にも異教徒の首領に全てをお前に与えるが母だけは返せと迫るのである。やがてオグズのベグ (族長) たちが到着して異教徒たちを殲滅して全てを解放する。

・第三話 バイ・ピュレの子バムス・ベレキの物語を語る

カザンの配下であるバイ・ビュレ・ベグには子供がいなかった。念願の男の子を授かり勇者ベレキに成長する。それとは知らず、許嫁のバヌス・チチェキとの馬や弓などの勝負に勝ち、ベレキは彼女との結婚を約束する。しかし、狂暴なチチェキの兄は、牝駱駝を見たことのない牡駱駝千頭、牝馬と番ったことのない種馬千頭、耳と尾のない犬千匹、蚤千匹を要求する。コルクトは犬と蚤を集め、ベレキは馬と駱駝を集めて、その兄を蚤のいる囲いにとじ込めて結婚を承認させた。婚礼の夜、異教徒の間者の知らせで、その襲撃を受け、ベレキはハイブルドの砦に16年間幽閉される。ヤランジュの息子ヤルタジュクがベレキは死んだと偽ってチチェキと結婚しようとし、ベイレキは砦に来た商人たちからその知らせを聞くと、異教徒の娘の手引きで砦を抜け出し、父母の許に還るとベグたちを引き連れて砦を攻め、まだ幽閉されていた仲間を解放するのである。

・第四話 カザン・ベグの子ウルズ・ベグが慮囚となった物語を語る

ある日、カザン・ベグは、まだ、戦いの経験も勲しもない息子のウルズ見て涙する。息子は、父の手本を見せよと迫った。カザンは、40人のベグとウルズを連れて異教徒との国境に向かった。間者は、それを知らせ1万6千の敵兵がそれを迎えた。ウルズは小高い場所で待機を命じられたが、戦場の右翼に出て捕らえられてしまう。カザンは救出に向かい、妻のボルラ・ハトゥンも後を追った。ベグとその家来たちが、到着し、異教徒を打ちウルズは解放される。

・第五話 ドゥハ・コジャの子デリ・ドムルルの物語を語る

ドゥハ・コジャの子デリ・ドムルルは、ある若者の命が朱き翼の死の天使アズラーイールの手によって奪われたと知ると、天の使いとも知らずに会えば勝負しようと大言壮語する。アッラーは彼の許にアズラーイールを遣わし罰するが、彼はアッラーに取り成しを願い、死の天使は他のものがお前に命を差し出せば、代わりにお前の命は助かるだろうと告げた。父も母も命を与えなかったが妻が命を与えるという。ドムルルは奪うなら妻と共に、助けるなら二人ともとアッラーに祈った。アズラーイールは、父母の命を奪い、ドルムムの命は助けるのである。

・第六話 カンル・コジャの子カン・トゥラルの物語を語る

カンル・コジャの子カン・トゥラルは、妻には勇者のような娘が欲しいという。東部アナトリアのトラブソンには三頭の猛獣を嫁入りのために飼っているという異教徒の美しい娘がいた。一頭は黒い牡牛、一頭は猛りたつ獅子、一頭は黒い駱駝だったが、嫁にと望む者は皆黒い牛によって殺された。カン・トゥラルは、力と知恵で三頭をみごと倒した。しかし、娘の父親はオグズの若者に嫁がせるのを後悔し、彼を襲わせたが娘のセルジェン・ハトゥンは彼を助けて二人は襲いくる敵を撃退した。

・第七話 カズルク・コジャの子イェゲネキの物語を語る

バユンドゥル・ハーンのヴェズィール (宰相) であるカズルク・コジャは、ハーンに敵を襲撃に出ることを願い出る。デュズミュルドの砦にはディレキ・テキュルという剛の者がいて、コジャは捕らえられ、16年間虜囚となった。彼にはイェゲネキという息子がいて、今や16歳になっていた。彼は、ハーンに父親の救出を願い出て、ハーンは、彼に24人の勇士を与えたが、24人はディレキ・テキュルには勝てなかった。イェゲネキはアッラーにすがり、ついにディレキ・テキュルを倒して父を解放する。

・第八話 バサトがデペギョズを殺した物語を語る

ある日、敵がオグズを攻めた。アルズ・コジャは夜の内に逃げたが、彼の幼子が途中で落ちる。獅子がこれを見つけ養った。時がたち、幼子は獅子のようになり馬を襲った。その子は捕まえられ、コルクトは獣と友とならぬようにと諭し、バサトという名を与えた。ある夏の日、羊飼いのウズン・ブルナは泉で遊ぶ妖精を捕まえ交わった。妖精は一年後に戻ると「オグズの破壊を受け取るが良い」と述べて皮袋を置いて去った。アルズは、その袋から出た子供を養ったが遊び仲間の鼻や耳を食べた。追い出されたが、妖精の母は矢も剣も通さぬ指輪をその子、デペギョズに与えた。大山賊となり、人を食べ、英雄のカザンでさえ一撃を喰らった。数々の英雄が殺され、アルズも血を吐かされ、息子のクヤン・セルジュクの胆は、はじけた。コルクトは使者に立ったが、一日に二人の人間と羊5百頭を要求される。子供を差し出さねばならない親の懇願によってバサトはデペギョズを打ち取ることになる。その一つ目に焼き串を突き刺し、アッラーの加護もあって洞窟に宙吊りとなっている魔の剣でデペギョズの首をはねた。

・第九話 べギルの子エムレンの物語を語る

国境を守る勇者のいないことを悲しむバユンドゥル・ハーンにべギルが名のり出て、バルダやガンジゃの地に向かった。ある日、ベキルはハーンに呼ばれ、大掛かりな狩りに参加する。弓の名手だったべギルだったが、サルル・カザンは技量は馬のもので勇者のものではないとべギルを貶めた。彼は、腹を立ててハーンからの贈り物を投げ捨てて自分の幕舎に帰るが、妻に宥められ、気晴らしに狩りに出た。ところが鹿を狩る最中に誤って岩に足をぶつけ骨折してしまう。そのことは内密にしていたが妻が召使に漏らし、噂は広がった。異教徒の間者が聞きつけ、テキュルと呼ばれるアナトリアのキリスト教候に告げたが、ベキルの間者もテキュルが襲撃することを知らせた。べギルの子エムレンが父の鎧を着、父の馬にまたがって敵に向かった。敵のテキュルと打ち合うが勝負がつかない。アッラーに祈ると大天使ジャブラーイールが40人力を彼に授け、敵を平定するのである。

・第十話 ウシュン・コジャの子セグレキの物語を語る

コプズ テュルク系民族の三弦の楽器、ウードの原型と言われる。

ウシュン・コジャの二人の息子の内、兄はエグレキという勇者で豪胆だった。いまだ勲しのないことを指摘され敵を襲撃に出た。カラ・テキュルの禁地にいた時に、間者に通報され捕虜となってアルンジャ砦の牢に入れられる。下の息子のセグレキは勇敢で逞しい青年に成長する。父母は兄が捉えられていることを隠していたが、婚礼も彼を思いとどまらせることはできず弟は禁地に向かった。異教徒の間者はこれを知り、60人の兵士を差し向けるが、眠っているセグレキを馬が起こすのでセグレキは敵を打ち破ることができる。次は100人が差し向けられたが同じ結果となる。テキュルは、捕らえていた兄を騙して弟を打たせようとしたが、弟は相手が手にしていたコプズ (三弦の楽器) を見、それをきっかけに兄と知り、二人で異教徒追い払い故郷に帰る。

・第十一話 サルル・カザンが虜囚となりその子ウルズが救い出した物語を語る

トラブゾンのテキュル (アナトリアのキリスト教候) が隼をサルル・カザンに進呈した。隼を持たせて鷹匠と狩りに出た。しかし、隼は異教の国のトヌマン砦に舞い下りた。カザンとベグたちは砦の前に着くと、敵の間者がテキュルに知らせ、追手を差し向け、ベグたちを殺し、眠っているカザンを生け捕りにした。カザンは碾き臼で蓋をした井戸に入れられる。テキュルの妃がやって来て「おまえは何を食べ、何を飲み、何に乗っているのだ」と冷やかしたが、カザンは、お前たちが死者に供えた食料を食べ、脚の軽い死者に乗り、脚の重い死者を馬にしていると答える。娘を失くした妃はすぐに井戸からカザンを出すようにテキュルに懇願する。異教徒に服従せず、称えもしないカザンは豚小屋に押し込められた。息子のウルズは、父カザンがトヌマン砦に囚われていることを知り、助けに向かう。テキュルは、この若者の隊をカザンに打たせようとした。カザンは隊の豪傑たちをや込めて次々に追い返した。ウルズがカザンに向かって一撃すると鎧を裂いて肩に傷を負わせる。ここでカザンは自分の名を明かし、皆で敵の砦を攻略するのである。

・第十二話 内オズに外オズが叛いてベレキが死んだ物語を語る

カザンは習わしとして自分の幕舎を内オズと外オズに掠奪させるが、今回は外オグズを招かなかった。これによってアメンやアルズといった外オグズはカザンの許に集まらなくなった。クルバシュが、外オズが敵にまわったかどうかを確認に行くともはや敵であることが分かる。アルズは自分の娘婿であり、カザンの側近であったベレキを呼んで外オグズに忠誠を誓わせようとしたが、無駄に終わった。ベレキはアルズに太ももを斬り落とされて亡くなる。カザンはアルズを討伐し、外オグズのべグたちはカザン忠誠を誓うことになる。

 

『デデ・コルクトの書』に登場する地域名

オスマン帝国とアク・コユルン朝(白羊朝/1378-1508)

時代は下って14世紀後半には、バユンドゥル (バヤンドル) 氏族のカラ・ユルク・オスマンがアク・コユルン (白羊) 朝の実質的な始祖として勢力を拡大した。そして、第4代君主ウズン・ハサンの時代にライバルの黒羊朝を倒して東部アナトリアからイラン西部までの覇権を確立する。しかし、ウズン・ハサンの死後王位争いが続き次第に衰退していった。

16世紀に入ると、神秘主義教団サファヴィーの教主イスマーイールによってアク・コユルン朝は滅び、サファヴィー朝が成立するけれど、イスマーイール1世の母はウズン・ハサンの娘だったし、サファヴィーの軍隊もアク・コユルン朝を支えた遊牧民族だったと言われる。それをペルシアの官僚が支え、国家を成り立たせていたのである。

 

 

フィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流』戦争犯罪における国家と個人

 

フィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流』
「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源

話は、法廷弁護士である著者がウクライナのリヴィウで講演を依頼されたことに端を発する。当時、国際刑事裁判所 (ICC) の創設に関わっていて、チリの元大統領ピノチェットに関するジェノサイドと人道に対する罪の案件にも携わっていた。彼の机の上には、ユーゴスラヴィアやルワンダの案件が届けられ、続いて、コンゴ、リビア、アフガニスタン、イラン、シリアといった国からの申し立てが次々届けられるようになる。それは、6百万のユダヤ人を殺害するにいたったナチスの「最終的解決」に対するニュルンベルク裁判の判決が風化していった証拠でもあった。この2010年は、ロシアによるクリミア併合が行われる4年前にあたる。

このノンフィクション作品『ニュルンベルク合流』は、戦争犯罪と人道に対する罪、そして集団殲滅に関する国際法を確立するために戦った二人の法律家が登場する。その一人ラウターパクトは、ウクライナの北西部ジョウクヴァ (ポーランド語名ジュウキエフ) に生まれた、その家は奇しくも著者の曾祖母マルケの実家と同じ東西通りにあった。もう一人の法律家レムキンの両親は、ポーランドのヴァウカヴィスクからトレブリンカ収容所に移送され亡くなったが、そこは祖母マルケがウィーンから移送されて同じく亡くなった場所だったのである。

著者は、国際紛争を法律的に考えるにあたってニュルンベルク裁判を検証していた経緯があり、それに大きく関わった法律家が先ほど述べた二人だった。彼らが法律を学んだ町がウクライナのリヴィウであり、ラウターパクトの両親とその家族が殺害された収容所もそこにあった。同時に、著者の祖父の故郷でもあり、そこで講演を行うことになったのである。それは、驚くべき偶然だった

 

著者のフィリップ・ジョセフ・サンズは1960年、ロンドンに生まれ。ヨーロッパにまたがる法廷弁護士の組織マトリックス・チェンバースのメンバーの一人である。国際法の専門家として、国際司法裁判所、国際海洋法裁判所、欧州司法裁判所、欧州人権裁判所、国際刑事裁判所など多くの国際法廷や裁判所に顧問や弁護人として出廷している。今回のウクライナでの戦争に関する訴訟にも関わっているかもしれない。

また、国際投資紛争解決センター(ICSID)およびスポーツ仲裁裁判所(CAS)の仲裁人でもある。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの国際法廷・裁判センター教授を務めると同時にセンター長として活躍しているという。忙しそうな人だ。 

国際法に関する17冊の著書の内にはアメリカの国際法を無視したイラク戦争計画を扱った無法の世界』があって、やっぱりという感を強くした。他にブッシュが拷問の使用を許可する経緯を書いた『拷問チーム』もある。ノンフィクション作品である本書『ニュルンベルク合流 (原題 East West Street ) ジェノサイドと人道の罪に対する起源』 は、2016年ベイリー・ギフォード賞ノンフィクション部門をはじめ、数々の賞を受賞した。最新作は、ナチスの政治家で弁護士でもあったオットー・ベヒターを扱った『ラットライン ナチスの逃亡者の軌跡、その愛、嘘、正義(2020年)がある。2018年より英国ペンクラブの会長を務めているが、今のところ邦訳は本書のみである。

今回は、ウクライナ西部を中心としたガリツィアとその周辺を舞台に、ニュルンベルク裁判と深い関りを持つ二人の法律家と著者の家族を絡ませた作品をご紹介する。ガリツィアは僕の好きな詩人ゲオルク・トラークルや作家ブルーノ・シュルツに関係する土地だし、その南にはパウル・ツェランの生まれ故郷ブコーヴィナがあった。

 

祖父レオン


著者フィリップ・サンズの母方の祖父レオン・ブホルツは、1904年、オーストリア・ハンガリー帝国領であった現ウクライナのリヴィウのユダヤ人の家庭に生まれた。ポーランド語ではルヴフ、ドイツ語でレンベルクと呼ばれる。第一次大戦が始まると、ロシア赤軍の侵攻が始まったが、ドイツ・オーストリア軍が巻き返すという地域で、東部戦線と呼ばれた地域にあたる。幼いレオンは戦禍を避け、一番上の姉を頼ってウィーンに逃れた。大戦後もそのままウィーンに留まり、蒸留酒製造業者として成功する。彼とその家族は、第一次大戦前夜、現在のウクライナ西部とポーランドの南端を含む地域であるガリツィアからウィーンへ移住した数万家族の一つだった。

ガリツィアとウクライナの地図

ゲオルク・トラークルが、「もうこれ以上生きていけない」と叫び、野戦病院がわりの納屋から飛び出した後を戦友たちが追いかけて彼から拳銃を取りあげたのは、そのガリツィアにある町ゴロドク (ドイツ語名グローデク) だった。

1917年のロシア革命の間隙をぬってウクライナはコサック国家としてロシアからの独立を宣言する。人種が判然としない武装農民コサックだが、ウクライナや南ロシアにいた軍事共同体を指していて、独立派と親ロシア派があるらしい。昨今の火種は、既にここにあるんだろう。だが、ドイツが連合国へ降伏したため、1919年から1920年にかけて、ウクライナ人民共和国軍、革命蜂起軍、帝政派の白軍と赤軍に分かれたロシアによって曲折浮沈の混乱した戦いとなるが、それに加えて白軍を支持するフランス、イギリス、ポーランドが拍車をかけた。結局はロシア赤軍が勝利し、1920年冬にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国が成立した

一方、ガリツィアは第一次大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国からポーランドとウクライナに分離し、1918年にリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国を樹立した。しかし、ウクライナ派と都市部に多いポーランド派が対立し、ユダヤ人虐殺もあってユダヤ人たちは自発的な市民軍を組織して三つ巴の戦いとなる。1919年から始まるポーランドとロシア赤軍との戦いでポーランドが勝利し、ガリツィアは1923年までポーランド領となっている

祖父レオン・ブホルツ (1904-1997) 本書より

レオンはウィーンで成長し、蒸留酒製造業者として成功し、妻、つまり筆者の祖母と結婚したのも束の間、ドイツがオーストリアを併合する。ウィーンの警視庁から彼に追放命令が出され、パリに逃れた。幼児の娘 (著者の母) は、エルシー・ティルニーというユダヤ人の福祉に全力を傾けていた福音派のイギリス人宣教活動家によって、レオンに半年遅れでパリに連れてこられたが、彼女は驚くべき勇敢な人だったようだ。妻のリタは2年後にパリに遅れて到着している。その間の事情はよく分からない。あらゆる手が尽くされたが、レオンの母親マルケはパスポートを取得することができなかったためにウィーンからチェコ北部のテレージェンシュタット、さらにワルシャワを越えてトレブリンカ近郊の収容所に輸送用列車で送られ、亡くなっている。列車で一緒だった1985人の中には、フロイトの高齢の妹三人も含まれていたという。パリの占領に終止符が打たれた時、家族がどのような運命をたどったかレオンは知らなかった。彼は、孫の著者に戦時中のことは一切話さなかったという。

ちなみに、ガリツィアに接するウクライナ南東部には、ブコーヴィナ地方があるけれど、その中心都市チェルノウツィー (ドイツ語名チェルノヴィッツ ) は、詩人パウル・ツェラン (1920-1970) の生地で、やはり彼の両親もドイツ軍の絶滅収容所で亡くなっている。

 

ハーシュ・ラウターパクト


 

リヴィウとユダヤ人

二人の法律家の一人、ラウターパクトは、1897年にリヴィウ近郊のジョウクヴァ (ポーランド語名ジュウキエフ) で生まれた。父親は油を販売し製材所を経営する人物で、中流階級に属する教養あるユダヤ人だった。音楽に満ちた暖かい家庭でイディシュ語が話された。ラウターパクトは、1915年から1919年という動乱の時期にリヴィウ (ドイツ語名レンベルク) 大学で法学を学ぶことになる。ちなみに、画家で小説家のブルーノ・シュルツ (1892-1942) が学んだのはリヴィウの理工科大学の方だった。1918年にはユダヤ人が虐殺される事件が起こり、ラウターパクトはガリツィア・シオニスト学会のリーダーとなっている。

ユダヤ人の意見は割れた。かつてのオーストリア・ハンガリー帝国内に独立国家を望む者もあり、独立したポーランド内で自治権を持つべきだと考える人たちもいたし、正統派ユダヤ教徒はポーランド人やウクライナ人との平和な共存を望んだ。このような状況で、法律の問題が政治的な議論の中でクローズアップされていった。それにマイノリティーを保護するための国際法をどうするかという問題があった。国家内の国民の生殺与奪は、その国に握られている。リヴィウに住み、大学でも教えていたマルティン・ブーバーはシオニズムはナショナリズムの一形態で、パレスチナでのユダヤ国家樹立はアラブ系住民の迫害に繋がるとしてラウターパクトに影響を与えていた。

ウィーンと新憲法草案

ハーシュ・ラウターパクト(1897-1960)本書より

大学は、東部ガリツィアの出身のユダヤ人を排除したため、ラウターパクトは卒業試験が受けられなくなり、ウィーンへと向かった。彼が降り立った町は赤いウィーンと呼ばれ、社会民主主義の市長がいて、ガリツィアからの難民で溢れ、インフレと貧困が蔓延していた。戦争に敗れ、領土の大部分を失った屈辱は、ガリツィアからやって来てオストユーデン、すなわち東方ユダヤ人に向けられる。1921年には、ブルク劇場の総監督ホラート・ミレンコヴィッチがユダヤ人の就職を制限せよと反ユダヤ主義同盟の集会を主催し、4万人が参加している。

ラウターパクトはウィーン大学法学部に入学し、フロイトの友人だったハンス・ケルゼンに学んだ。ケルゼンが作成に貢献したオーストリアの革新的な憲法は、その後ヨーロッパ各国がモデルとしたもので、憲法解釈と適用の権限を持つ憲法裁判所を設置するとともに、問題があると思われる法律の合憲性を個人が同裁判所に直接問えるようにするものだった。個人の不可侵の権利は憲法によって規定されていて、その権利ゆえに裁判所への出訴権を持っているという。オーストリアでは個人が法秩序の核心にあったというのである。それにフロイトの個と集団との関係を問う心理学にも関心を持ち、多数の中の個という問題にも興味を持ち始めた。

リヴィウでの生活と法学部での経験によって、彼は国家権力の制御は可能だと考えるようになった。その実現には、文筆家や平和主義者の願望は役に立たず、正義を貫くための国際法の進歩が不可欠であり、気取らず、孤立せず外部の声に耳を貸すべきだとした。まあ、ここは著者も法律家なので、そういうことにしておきしょう。国際法に国内法の基本原則を応用するという彼の博士論文は今日でも重要基本文献となっているという。

音楽学生だったレイチェルと結婚し、王立音楽院で学びたがっていた新婦と共にイギリスに渡った。彼の方は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス (LSE)でアーノルド・マクネアに判例と実務を学ぶが、彼はラウターパクトの生涯の友人となる。LSEで、講師や准教授として教鞭を執る一方で国際法判例集』を出版して序文に「個人の福利こそがすべての法の究極の目的である」と書いた。しかし、自分の自説を曲げず、主張が通らないと相手に尊大になってしまい、周囲と事を構えてしまう彼は一旦弁護士に転身するが、1938年にはケンブリッジ大学国際法学部の教授に就任するのである。

 

ラファエル・レムキン


 

ポーランドとベルラーシの地図

ラファエル・レムキンは、1900年、白ルーシと呼ばれたベルラーシの西の端オゼリスコでユダヤ人の家庭に生まれた。ポーランド人とロシア人との抗争にユダヤ人が板挟みになっていた土地で父親は小作農として生活していた。そこは、ポーランドとの接境地帯で、南にはウクライナも近い。多くの家畜や大型犬や見事な白馬が走り回り、ライムギやクローバーを刈る鎌の音が聞こえる土地だった。10歳の時に勉学のために近くのヴァウカヴィスク (ヴォウコヴィスク) 市にある農場に引っ越している。

1915年にドイツ軍がやって来ると農場を荒らし、1918年の撤退時には母親の蔵書以外は破壊して出て行ったという。語学に驚異的な才能があったレムキンはビャウィストクのギムナジウムに進学するが戦争が終わると、そこはポーランド領になっていた。彼が18歳の時、1915年に起きたアルメニアの大量虐殺事件を知る。120万人のアルメニア人がキリスト教徒だという理由でオスマン帝国によって虐殺された。アメリカのオスマン帝国駐在員は史上最悪の犯罪と呼び、ロシア人はキリスト教と文明に対する罪、フランス人は人道と文明に対する犯罪と呼んだ。

ラファエル・レムキン(1900-1959)本書より

ラウターパクトより少し遅れて1921年から1926年までリヴィウ大学法学部で学び、同じくユリウシュ・マカレヴィッツ教授に刑法を学んでいる。二人の法学者は奇しくも、ほぼ同じ時期に同じ大学で学んでいたことになる。アルメニアの大量虐殺に端を発した事件が大学のクラスで話題になった。アルメニアの青年が両親を虐殺されたことに対する怨念からオスマン帝国の大臣タラート・パシャを殺害したのである。証人となったプロテスタントの牧師はアルメニア人の大量虐殺はトルコ人に責任があると証言して青年は無罪になった。詳しくは、ノーマン・M・ナイマーク『民族浄化のヨーロッパ史』を参照してください。そのことも驚きだったが、罪もないアルメニア人を殺して誰も罰せられないことに驚いたのである。

レムキンは、ある教授との会話を回想している。彼は「一人の男を殺したアルメニアの青年の行為は犯罪として問われても、百万人を殺した男は無罪なんですか」と教授に食い下がった。国家主権の名のもとに百万人を殺したトルコ人を逮捕できる法律は無かった。そうした国際法は、まだ整備されていなかったのである。

大学を卒業後、レムキンは、地方の検察官などを経てワルシャワで控訴裁判所の事務官や検察官としてのキャリアを積んだ。この頃、ポーランドの最高裁判所判事で、ポーランド自由大学を創設したエミール・スタニスワフ・ラバポートの知遇を得ている。レムキンは、マドリッドでの国際会議のために「残虐行為=種族集団の絶滅を防ぐためと「破壊行為=文明や伝統に対する攻撃」を禁じる新たな国際的ルールを作成するための小冊子を書く。これは、元々、ルーマニアの学者ヴェスペイジャン・V・ペラの考えで、重大犯罪の場合、世界各国の法廷がその加害者を裁判に付すことができるべきだとするものだった。しかし、彼のマドリッドへの出席に対して司法大臣から異議が出た。残虐行為を禁じよという彼自身がユダヤ人であり、彼がポーランド代表の一人になるのは、この国の体面に関わると、ある新聞が叩いたからだった。こういった事柄には、常に国家の都合と政治が絡んでいる。

このことがあったからか、レムキンは商法関連の弁護士に転身し、ワルシャワの大通りに事務所を構えて繁盛したようだ。テロリズムが横行する中、虐殺行為といった問題に対する法律改革に耳を澄ませていたレムキンは年に一冊、そういった関係の本を出版することを目標にした。アメリカのデューク大学の教授マルコム・マクダーモットは彼の著作を翻訳するためにワルシャワを訪れ、デューク大学の教員のポストを提案したが、母親の反対もあって断っている。

 

ドイツ侵攻と国際法


 

1920年におけるポーランド領   ベージュ色の部分

1939年、150万のドイツ陸軍は親衛隊とゲシュタポと共にポーランドに侵攻し、独ソ不可侵条約の秘密条項によってポーランドは二分され、独立は失われる。レムキンはワルシャワを逃れたが、東からのソ連軍にも迫られた。故郷のヴァウカヴィスクを目指して列車に乗るため、戒厳令の布かれた夜は逮捕を避けて駅のトイレで眠る。

故郷に戻ったレムキンは、両親と共にアメリカに渡りたかったが、高齢の両親は、決心がつかず、レムキンだけが父親の兄弟イザドラの住むアメリカに向かうことになった。彼はヴィリニュスからスウェーデンに出るためのビザを得るためにあちこち陳情書を出した。その中で以前に打診のあったアメリカのデューク大学教授マクダーモットから教授ポストの提供とビザ発給の知らせが届いたのである。

1940年の早春にストックホルムに着いた。大西洋航路は不通になり、ソ連経由の鉄道も間もなく短縮されるという噂が広がっていた。彼はモスクワから大陸を横断して日本に渡り、太平洋を横断してアメリカに渡る決心をする。ストックホルム滞在中、例の「残虐行為と「破壊行為」を禁じる新たな国際的ルールを作成するための小冊子が国際連盟の公式出版社であるパリのペドヌ書店から発行された。彼は、ヨーロッパの多くの地域に支店を持つスウェーデンの企業に依頼してナチスの出した公文書を集めて貰うことにした。それらが、ある明示されない隠された目的を持つことを明らかにしようとした。一つ一つの文書を足し合わせるよりも一塊として見て、初めて露呈するものがあるというのである。このカオス理論のような発想からドイツの犯した犯罪「議論の予知を残さない証拠」を確定しようとした。

賀川豊彦(1888-1960)

そこには一定のパターンがある。第一段階は、国籍の剥奪。第二は法律上の権利の剥奪、第三は特定の国民の精神と文化の破壊となる。レムキンは、一連のナチスからの命令がユダヤ人の完全な破壊に向けられていることを見破るのだった。彼は、ウラジオストックから敦賀行きの船に乗り、京都を訪れ、横浜からシアトルへの船に乗った。その船にはキリスト教社会運動家として知られる賀川豊彦がアメリカで反戦講演するために乗船していた。賀川は、その前年、日本の中国人虐待に対する謝罪を罪に問われ逮捕されている。二人は、憂いに満ちて世界の情勢を語り合ったという。

1941年、4月レムキンは、ノースカロ州ダラムに到着し、マクダーモット教授の出迎えを受けた。デューク大学のキャンパスに立った時レムキンは泣きくずれたという、故郷のヴァウカヴィスクを発って1年半が過ぎていた。1941年12月、日本の真珠湾攻撃の後、アメリカは日本に宣戦布告し、続いてドイツはアメリカに宣戦布告した。その頃、レムキンは、ワシントンの戦時局法律顧問となっていた。

 

1941年6月、ヒトラーは、独ソ不可侵条約を勝手に破棄してソ連占領下のポーランドに侵攻し、ジョウクヴァとリヴィウにもドイツ軍が進駐した。いわゆるバルバロッサ作戦である。ラウターパクトの妹の一人娘インカは、当時の様子をこう語っている。私立小学校に通っていた頃は、差別という言葉を知らなかったが、ソ連軍が到着してすべてが変わる。それまでのアパートに残ることはできたが、部屋や台所を他の人とシェアするように強要された。母親は、めちゃくちゃ魅力的な人だったからロシア人から山ほどの招待状を貰ったという。しかし、ドイツが来て、最悪の状態になる。ユダヤ人はゲットーへ立ち退きを命じられた。

1942年は、ガリツィアへのポーランド総督府編入の1周年記念として、その総督で、ヒトラーの顧問弁護士であったハンス・フランクがリヴィウを訪れた年だった。この夏、インカの母はドイツ軍に連行され、その後を追った父親も同様の運命となる。このゲットーでの大量検挙の後、ラウターパクトの両親と共に市内のヤノフスカ収容所に送られる。永遠の分かれを直感した。12歳の彼女は、孤児となり、乳母同然だった家庭教師の家に身を寄せたが、彼女の家族のようには見えなかった。その女性の田舎の家族のもとにも行ったが同じ理由でそこを去った。一般にアパートは11時ころには、正面玄関に鍵がかかるため、知人のいないアパートに忍び込み屋根裏部屋の脇の階段で眠った。そういったことが2ヶ月続いたが、結局修道院(どの修道院か定かでない)に行くことを勧められた。しかし、そこにいるためには洗礼を受けざるを得なかったのである。彼女は、命の引き換えに自分の出自を捨てたことへの仮借と70年間折り合いをつけなければならなかったと語る。

ヨーロッパからはドイツによる大量投獄、大量追放、大量処刑、大量虐殺の報告が届きはじめていた。ドイツの戦争犯罪についての調査が始まる。連合国戦争犯罪委員会が立ち上げられた。ラウターパクトが保護したいとする対象は、個人であったが、ユダヤ人がドイツによる犯罪の最大の犠牲者ならば集団としての対応も必要だった。この頃、集団への抹殺行為を指すジェノサイドという言葉が登場する。ラファエル・レムキンがアメリカで出版した著作で発表された概念だった。1944年に出版された『ヨーロッパ占領下における枢軸国の支配』という著作では、第一部の最終である第9章で「残虐行為」と「破壊行為」という言葉を捨ててギリシア語の genos (人種)とラテン語の cide (殺人)を組み合わせてジェノサイドという言葉を作り、それをその章の見出しに使った。

この考えには、レムキンの友人で、アメリカに亡命したオーストリア人レオポルド・コールがレムキン宛に批判的な手紙を寄せている。「スモール・イズ・ビューティフル」の発案者として知られる人だ。彼は自己の主張のために偏った事実を選択的に引用していること、とりわけ責任の所在は個人に求めるべきで集団に求めるべきではないとしている。ある集団を保護施策と国際法から「第一に恩恵を与える集団」にすることは反ユダヤ主義や反ドイツ崇拝主義を招く「生物主義的な考え方」と同等だというのだ。つまり、差別も逆差別も同じコインの裏・表なのである。

 

ニュルンベルク裁判


 

ヤルタ会談 1945年2月 旧ソ連クリミア自治区  前列左からチャーチル首相、ルーズベルト大統領、スターリン書記長

1945年5月、チャーチル、ルーズベルト、スターリンがクリミア半島のヤルタでヨーロッパの分割を話し合った。リヴィウはウクライナに属しはするが、ソ連の支配下となった。懸案だった戦争犯罪の国際法廷が開かれることに決まったが、その方針をめぐってソ連とフランスとは容易ならざる意見の相違があった。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四ヶ国は、裁判の権限が及ぶのは個人であって国ではないこと、被告人が国の権威の陰に隠れることはできないことで妥協する。裁判官は四ヶ国がそれぞれ正判事1名と副判事1名の計8名の判事と検事を1名ずつ出すことに決まった。ルーズベルトの死後、大統領となったトルーマンはドイツの主要戦犯を裁く法廷の検事にラウターパクトと懇意だったロバート・ジャクソンを指名している。

ソ連は、国際法廷の運営方針として、侵略、侵略時に文民に加えた残虐行為、戦時法違反を挙げ、アメリカはそれに加えて、違法な戦争行為、ナチス親衛隊やゲシュタポ・メンバーの犯罪性を提案している。ラウターパクトはジャクソンに各項目に一般の人に分かりやすい見出しをつけ、「侵略」という言葉を「戦争という犯罪」に置き換え、意見の割れていた「侵略時に文民に加えた残虐行為」を「人道に対する罪」としては、どうかとアドヴァイスした。これは1915年のトルコによるアルメニア人虐殺事件に対して英米が出した非難声明で使われた言葉だった。これによって、人道に対する罪は国際法の一部になるのである。

それにもう一つ新しい言葉が起訴状に付け加えられる。ジェノサイドである。レムキンはジャクソンに自分の著作を読むように勧めていたし、実務的でないという理由で煙たがられながらもロンドンでのニュルンベルク裁判における起訴状を検討する会議を巡って頑張り続けたのである。しかし、この言葉は、北米における先住民やアフリカ系住民、そして、イギリスなどの植民地住民への犯罪行為に対する追求へと発展する問題であり、おまけに戦争前の準備段階における行為に対しても罪の対象になるものであった。

ニュールンベルク裁判  1945-1946
左下から二列目にある被告席 右から5番目が書類を見つめるハンス・フランク

ニュルンベルク裁判が始まった。東京での極東国際軍事裁判のひな型になった裁判だった。被告人たちは全員無罪を主張し、アメリカの検察官ロバート・ジャクソンが冒頭陳述を開始する。彼は、外国人やユダヤ人に対する「平然と行った無数の人間の大量殺戮」と「人道に対する罪」を具体的に語る。それは、1941年と45年にニューヨークでラウターパクトと語り合ったことであり、レムキンが国際法の不在と「法の支配」の必要性を訴えた著書の影響でもあった。ポーランド総督であったハンス・フランクは、1940年に「一年くらいでは、すべてのシラミとユダヤ人を駆逐することはできない」と書き、1944年末になってもユダヤ人は「抹殺されなければならない人種だ」と彼の詳細な日記に書き残しているのである。

ジャクソンの要旨は、こうだった。この裁判は、法の規律を国家指導者に当てはめる取り組みであること、その成果は、新たな国際連合が平和と法の支配への道程を示したように法の不在状態を絶てるかどうかを問うものであること、本当の原告は連合国ではなく、文明そのものであることだった。そして、イギリスの詩人ラドヤード・キプリングの詩古い問題』を引用して「国際法は平和の側に立ってその力を発揮し、善良な男女はあらゆる国において法の保護下、だれの許可も仰ぐことなしに生きることが許される」と述べたのである。

 

ジェノサイドの行へ


 

ラウターパクトは英国検察官の最終論告の原稿を依頼され、国家のために行為した者は何らかの形で刑事責任から免れるといった、もはや通用しない時代遅れの考え方にすがることはできないと被告たちに向けて書いた。しかし、英国検察官のショークロスは最終論告で、そこには無い言葉も繰り返した。ナチスの広範な目的としてのジェノサイド、ジプシー (ロマ) やポーランド知識人やユダヤ人を標的にしたジェノサイド、ユーゴスラヴィア、アルザス=ロレーヌ、オランダ、そしてノルウェーでも、他のグループを標的にしたジェノサイドと。ただ、ショークロスは戦争に関連した事柄だけに限って用いたのである。それから、ラウターパクトの説を前面に押し出す。国家が人道に対する罪を犯した場合、それを助けた個人は責任から逃れることはできない、国家を盾に身を隠すことは許されず「個人は国家に超越する」と。だが、このニュールンベルク裁判でジェノサイドの罪で有罪を宣告された被告はいなかった

国際刑事裁判所 オランダ ハーグ

しかし、レムキンのひたむきな努力によって1948年には国連総会でジェノサイド条約が採択される。日本は批准していない。やがて、1998年、150以上の国の採択によって国際刑事裁判所 (ICC) の規定が採択され2002年に発効された。旧ユーゴスラヴィアとルワンダでの残虐行為がトリガーとなった。規定の発効後に起きたジェノサイドと人道に対する罪、戦争犯罪、侵略犯罪に関して個人を裁く権限を持つ国際裁判所が創設されたのである。著者は、その規定主旨に「国際的な犯罪についての責任を有する者に対して刑事裁判権を行使することが全ての国家の義務である」という簡単な一文を挿入したという。これによって国際法の下で国家はそうした義務を負うことになったのである。ただし、ジェノサイドと人道に対する罪などでの国家犯罪を含めて国家間の紛争を裁くのは国際司法裁判所となっている。

1998年、ルワンダの国際刑事裁判所 (国連の安全保障理事会により現地に設立) は、ジャン=ポール・アカイェスをジェノサイドの罪で初めて有罪とした。1999年には、セルビア大統領ミロシェビィッチが、コソボでの犯罪容疑を理由に人道に対する罪で起訴され、後にジェノサイドの罪も加わった。2000年には、ジョン・モリガンが1942年ウクライナの補助警察のメンバーであった際にユダヤ人の大量検挙に加担したとして人道に対する罪を問われ、アメリカの地方裁判所が彼のアメリカ国籍を剥奪しているさらに2009年には、国際司法裁判所が、セルビアをスレブリニツァで集団殺害を阻止せず、ボスニア・ヘルツェゴビナに対する保護義務に違反したとしてジェノサイド条約違反国家として糾弾した。

ロシアは、ウクライナ東部でジェノサイドを行うウクライナはネオ・ナチ化しているという主張をしてきたが、ゼレンスキー大統領はユダヤ系で祖父はホロコーストの犠牲になっている人だから、彼をナチというのは異様だ。これは、ウクライナ人のステパーン・バンデーラ (1909-1959) が、第二次大戦でポーランドからウクライナを解放するためにドイツを支持し、1941年にリヴィウでウクライナ国家再生宣言をしたが、逆に用済みとされてドイツに逮捕され、ベルリン近郊の強制収容所に送られることになる。戦後に解放され、ドイツで反ソ連運動したことから、そういった民族主義運動を行うバンデーラ主義者をプーチンはネオ・ナチとしたらしい。

『ハイブリッド戦争の著書で知られる慶応大学の廣瀬陽子教授は、かつての旧ソ連勢力圏であった旧ユーゴでNATOが空爆したことの名目にミロシェヴィッチはナチだというプロバガンダを行ったことに対する報復ではないかと考えられるという (日本記者クラブ講演2022年3月)。

今回のウクライナでの戦争で、ロシア人の戦争犯罪や人道に対する罪が国際刑事裁判所で問われている。日本は加盟しているが、ウクライナもロシアも加盟国でないために国際刑事裁判所の管轄外になる。しかし、事件の起きた国が国際刑事裁判所の管轄権を受託するか、国連の安保理がICCに付託すれば捜査が行われることになる。前者がウクライナの今回のスタンスである。ロシアは、勿論一切協力しないだろうが、時効はない。実は、アメリカも中国もICCの加盟国となっていないのだ。法の世界にも国家の利害や都合が絡んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

ノーマン・M・ナイマーク
『民族浄化のヨーロッパ史』  ロシアがソ連時代にチェチェン人、イングーシ人に続いて、1944年にクリミア・タタール人を中央アジアへ強制移住させることによって民族浄化したことが指摘されている。18万9千人のタタール人の内、強制移送と移住先で45%の人口が失われ、その多くは女性と子供と言われる。

レオポルド・コール『居酒屋の経済学』 肥大化する先進諸国への成長・巨大化の臨界規模を指摘する警鐘の書。1980年刊

中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム』
ウクライナ東部と西部の歴史的な差異、ソ連/ロシアとの親和か独立か、極めて複雑なウクライナのナショナリズムを紐解いている著作。

廣瀬陽子『ハイブリッド戦争』 ウクライナ危機で注目された非線形戦、通常の戦闘だけでなく政治技術者の投入、情報戦、プロパンガンダなどを含めた広範で新たな戦争形態を解説する。

 

 

 

 

 

 

 

イアン・マクリ―二―&ライザ・ウルヴァートン『知は如何にして「再発明」されたか』part2 アリストテレスとインターネット

 

アリストテレス リシッポス作の失われたブロンズ彫刻(1~2世紀)の模刻 古代ローマ

アリストテレスが、著書の中で行おうとした教義の異なる学派の相違点と矛盾の総ざらいは、アレクサンドリアの図書館が多様な書物を収蔵・保存し、それらの比較研究に資するようにというコンセプトのもとに立ち上げられ、引き継がれた。アベラールによってスコラ学の基礎が築かれるとアリストテレスにゾッコンになったトマス・アクィナスによって壮大なスンマのカタログである神学大全が生まれ、網羅主義のスコラ学が中世を席巻する。キケロを遠い祖とする文字の共和国、すなわち人文主義が生まれ、活版印刷が開発されると書物の増産は時空を超えて文字の世界を拡大させた。やがて、新世界の発見は、博物館や驚異の部屋の出現を催し、印刷媒体としての博物誌が生まれれば、百科事典までは、ほんの少しの距離だった。

この知の生きた図書館を目指す総合主義が分断する時期が訪れる。それはイギリスやフランスでもなく、開発途上のドイツだった。講堂での講義の他、セミナー室での濃密な授業は専門分野を産み出し、世界初の専門分野を頂点にした包括的な教育システムが作り出されるとドイツ式の研究大学制度は、今や世界中に広がった。そして、大学の卒業生を雇って学校が出来、次世代への文化のバトンは宗教組織を越えて世俗の世界へも受け渡されるようになる。

こうして、本物の知の大衆市場が成立し、アダム・スミスの予言通り、学問分野は専門化されて行ったが、孤立した象牙の塔の住人となりがちな集団は、自分たちの研究分野が世間で、どう位置付けられるかにはお構いなく、新しい研究を作り出すことを自己目的化していった。

 

専門分野/ディシプリン 18世紀から19世紀


 

百科事典

ドゥニ・ディドロ(1713-1784)
ジャン・ゴーテラン作 19世紀 パリ

西洋では啓蒙運動が進み、文字の共和国による知の共同体から生まれた知を整理して流布する作業に取り掛かり始める。ラテン語ではなく各国の言葉で百科全書が作られ始めた。フランスのものでは、リベラル・アーツ (文法学・修辞学・論理学の三学と算術・幾何学・天文学・音楽) の分野全てと自然科学から工芸といった7万を超える項目の記事に2900近い銅版画が添えられている。地球に散らばったあらゆる知を集めんと編集者の一人ドゥニ・ディドロは意気込んだ。

新聞、雑誌、暦、旅行記といった啓蒙に向けた新たな出版物も盛んに出版されるようになった。しかし、直接顔を突き合わせるエリート集団には張り合えない。立派な百科事典を揃えれば世間に乗り出せるという分けでもなかったからである。長期の学習や努力の末に優秀な成績を収めた者だけが研究を許されるのは現在でも変わらない。

当時、知の若返りを目指す人間が目を向けようとしなかった場所が大学だった。オックスフォードやケンブリッジが国政に参加させるための若者の作法に磨きをかけるだけで、ソルボンヌは国王の寄付で設立されたアカデミーより劣ったし、多数の国家からなる神聖ローマ帝国のドイツでは、職業訓練施設同士が張り合う中で、貴族の子弟は私立の教養学校に吸い上げられ、イェナ大学は、自由主義とナショナリズムによる国民運動の中心となったが、酒を飲んでは暴れ、果ては決闘に及ぶような乱暴な学生が多く、大学の施設を壊し、退屈な講義をする教師に暴力をふるうということもあったという。

こんな大学の教育事情の中で、ドイツが世界を近代的な学問の時代に導いたのは知の歴史上最も驚くべきことだと著者たちは言う。その契機は、1694年プロイセンのハレに、1737年にハノーファー王国のゲッティンゲンに大学のセミナーが開設されたことによってである。

 

ハレとゲッティンゲン

現在のハレ大学 大講堂  正式名称はマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク。

ドイツ連邦の中で発展に意気込むプロシアは、ハレに拠点大学を設立し、それとは別に教師セミナー (セミナリウム・プラエセプトルム) が作られた。それは、セミナーというより一種の神学校で、貧乏な神学生に読み書きを教え、社会で活躍できるようにと考えられたが、ハレ大学の神学教授となるアウグスト・ヘルマン・フランケ(1663-1727)が作った大規模な敬虔主義による伝導施設と結びつき、経済的な支えともなって、大いに発展した。彼は、慈善学校をも開設し、大学の卒業生を雇って読み・書き・算術・信仰の四つを柱にした教育を行った。そこでのシステムは、生徒名簿の作成、出席の義務化、質問時の挙手、教室机の整列といった今日の教育法の基本となるようなものだった。

敬虔主義の牧師たちは、息の詰まるようなルター派の正当信仰からは距離を置き、聖典が感情に及ぼす影響の方を重視していたが、こういった宗教的な権威筋とは相いれない世俗の啓蒙派の合理主義者も存在した。そこに、ヨハン・ダーヴィット・ミヒャエリスが現れて、敬虔主義と文字の共和国とを繋いだ。彼は、ハレ大学でヘブライ語を研究し、そこで私講師をしながらオランダやイギリスで学び、ゲッティンゲン大学に移って、二つの制度を融合する。ヨハン・アルブレヒト・ベンゲル (1687-1752) が編み出した現代の学問にも不可欠となった手法を用いて聖書を文献学的に探究し始めたのである。

ベンゲルが開発したのは、例えば、ホメロスの同じ間違いを持つ写本をグループ分けして、どのグループがどのグループから写されたのかを突き止める手法だった。こうして二つの文章の内どちらが古く、正当なのかを確認する際の反直観的な法則を導き出した。「読みづらい方が正しい」を標榜したのである。改ざんされるなら文体を簡単にして流れをよくする方向だという分けである。ミヒャエリスは、この手法を用いてゲッティンゲン大学のポストについた。

ゲッティンゲンはハノーファー王国が、ヨーロッパ中の貴族の子弟とその金を集めようとハレの大学に対抗して造り出した国際的な大学で、表現や出版の自由を看板にしたが、学問のための巨大企業体と呼ぶべきもので、教授たちに自分で教科書を書かせ、新聞に講義目録を掲載し、講義名に「応用数学」、「民事訴訟法」といった近代的な響きを持たせ、「非理神論的神学」という講義が堂々と登場した。また、「百科全書」と呼ばれた予備的な講義では、学生たちを啓発するために様々な分野が組み合わされ、ゲッティンゲン大学の講義は生きた百科全書となったというのである。

ヒャエリスは、1750年にゲッティンゲンの哲学の正教授となるが、興味の対象は矛盾の多い四つの福音書より旧約聖書だった。ハレ大学の教授たちでさえ聖書は神の永遠の言葉を一字一句引き写したものでなく、啓示する相手の当時の知的歴史的な限界に合わせて言葉を選んだと考えていた。古代のヘブライ語から近代ヨーロッパ言語に至る様々な文書を比較・検討すれば、記録に残る聖書の言語や文化の表現の特性から、神のメッセージの核となる、救済の起こる時間や場所に関する手がかりが得られるだろうと考えた。その手掛かりを得るために、聖地への国際的な探検隊がデンマーク王の支援を得て南アラビアのイエメンへと送りこまれる契機ともなった。彼は従来の修道院から発展した宗教学の読みと文字の共和国の読みとを見事につないだのである。

 

最初の専門分野 文献学

ゲッティンゲン大学における専門分野の歴史上最も大きな貢献と言われる文献学セミナー (セミナリウム・フィロロジクム) は、大学が出来て間もない1738年に既に作られていた。そのテーマは、聖書ではなく、当時まだ伝統的なカリキュラムの一つだったギリシアローマの古典だった。知と人格を陶冶する学校教師の養成を目的としていた。だが、このセミナーは、神学部ではなく教養部に属している。そこでは、それまでの型にはまった紳士を作り上げるのではなく、古代の異教徒のように思考するという行為を通して得られる内面の啓発を目標にした。これは、新しい感覚だったと言える。

ゲッティンゲン大学紋章 ハノーファー選帝侯 ゲオルグ・アウグストによって設立された。

特筆すべきは、現在の大学におけるようなセミナーの形式が既に出来上がっていたことである。単語の意味や文章の修辞なら講義で伝えて暗記させることはできるが、自然言語を習得させるような仕方で教授するには、一つのテーブルを囲んで話し合い、意見を述べ合って参加者が全員平等に扱われる形が最良だった。この円卓討論では、学生たちが順繰りに「その日の指導者」となり、新しく独創的な研究成果を発表しようとした。発表のレジメは前もって書かれなければならなかったから、そういった文書は対面型セミナーという新たな学問手法の基本通貨となったというのである。

この新たなシステムは貴族の子弟たちに囲まれた上昇志向の庶民出の学生にとって、妥協を強いられることなく教師となって人にものを教えられ、報酬に基づいて学問を広めることができ、世に出るための登竜門となったし、一方で、怠惰な学生は追放という措置もとられた。それによって、学問探求における専門分野のディシプリン (鍛錬・修養) と研究活動における規律のディシプリン (自己管理) が、このセミナリウム・フィロロジクムではじめて一つになった。

比較文献学という手法を取り入れ、古代文書を精査して再構成するような「下層批評」に留まらず、文書の作られた背景や事情を体系的に調べる「上層批評」を行ったミヒャエリスが、このセミナーに関わったのは1762年から63年の一年間のみで有名な二人の古典学者の間を繋ぐ役だったしかし、彼の研究態度は、このギリシアローマの古典を研究するセミナーに大きな影響を与えた。

ゲッティンゲン大学において、まだ学生だったフリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ は、教養部の学生としてではなく、文献学の学生として登録されたいと言い張って、大学のお偉方の不興を買った。1776年のことである。彼はミヒャエリスの手法を用いて独学に励み、徹底的に文献にこだわった。文書の間違いや矛盾、あるいは時代錯誤にフォーカスすればオリジナルの写本より貴重な何かが得られると考えた。

この年は、奇しくもアダム・スミスが『国富論』を発表した年であり、知識の生産も一種の産業であり、哲学でも他の仕事でも細分化して行えば効率的に行え、質も向上するとした。専門分野は、発想をも売買する市場の流通を促進するための人為的な産物と考えられるようになっていく。

ヴォルフは、地方で教師をしながらギリシア古典の研究を発表し、1783年にハレ大学に招聘された。その著書ホメロスへの序文』で、『イリアス』や『オデュッセイア』は、何百年にもわたる写本が融合したもので我々が復活できるのはアレクサンドリアの図書館での混成版が関の山だとした。彼は1793年に、教育改革者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトとの『イリアス』に関する往復書簡で本来単数だった単語が複数に間違えられたために脇役だったメリオネスが従者を引き連れて敵と戦うことになったりしていることを論じた。この人物が単独で行動するのは他の箇所で格語尾を探偵のように調べるなどして、はじめてホメロスの話し言葉の世界が明らかになると考えた。

言語学者たちは、教育プログラムを改善していく中で、印刷物を頼りに研鑽に励み、文字の共和国に独自の貢献を行えるようになる。聖職者の日常的な読みという習慣は、近代的で世俗的な研究分野での読みへと発展していった。こうして、百科全書派の広範囲だが、所詮は浅くならざるを得ない自学自習の世界は、深い読みによって克服され、文献を精査し比較検討の上、綜合するという学問のスタイルが一般に定着されていく道を開いたのである。

 

インドのパンデットと国家の復興


 

インドは歴史的にパンディットがサンスクリットの知を保存・活用してきた。パンディットとは、学者または教師のことで、特にサンスクリット語とヒンドゥー法、宗教、音楽、または哲学に精通している人を意味し、本来は、ヴェーダの大部分をその発音と歌のリズムと共に記憶しているヒンドゥー教徒を意味するとされる。

多くのパンディットが、自分の学派を率いていて、それは、ほぼセミナーに相当した。政治家への助言、一族の歴史の編纂、祝いの儀式への援助、カーストを巡る規則や制約の研究と言ったことに関わっていた。自発的な寄付だけを得て、個々の事柄に対する対価を受け取らなかったという。

しかし、イギリスの統治を受けるようになると、西洋流に対価を得ようとするパンディットが現れ始める。宣教師たちによって印刷所が開設され、『ラーマーヤナ』や『バカヴァッド・ギーター』が印刷されると、進取の気性に富むパンディットたちは詩や祈祷書を出版し始め、ベンガルの読者に特化した改革派の雑誌を刊行する者も出始めた。英国の文化が役に立つと思うような者が増え始め、法律やセックスや料理といった専門分野を専らにし、特定の顧客だけでなく広く文字を読める人々を対象にして倫理的で政治的な改革運動へと向かう者が現れるようになる。そのような人々が、ガンジーのようにインドのナショナリズムの基盤を形成していったのである

ここには、ドイツにおけるナショナリズムが文献学のセミナーを作り出したのと同じ力学が働いていたが、ヨーロッパは新たな分裂へ向かっていった。何故ならインドで扱われたのは生きた言語であり、それによって世俗の具体的な問題に関わろうとしたのに対して、ギリシア・ローマの古典語は死んだ言葉であり、学者たちは広い世界から切り離され、頭の中のものをさらに難解な形で専門化していったからである。19世紀初頭には、教授たちに純粋な教育者としてのサービスを求める声は消え、大規模教育がそれに代わっていった。

 

フンボルトの教育制度


 

ゲッティンゲン大学で法律と古典を学んだ後ヴォルフと親交を持ったヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、有能な外交官であり、ゲーテやシラーとも熱心に交友した人だったが、ナポレオンにイェナで屈辱的敗退を喫したプロシアは彼を文化・公教育局長に任命して教育改革に着手した。

19世紀だけで3万の小学校が開校、あるいは刷新され、全国一律の義務教育が布かれる。要となったのは、ギムナジウムと呼ばれるエリート高校で、初等教育と高等教育を橋渡しできたことだった。カトリックとプロテスタントに分裂していたドイツにとって包括的な古典学、近代言語、数学や宗教、初等の科学といったカリキュラムは、その亀裂を塞ぐのには有効だった。

ギムナジウムで小規模の文献学のセミナーが設けられ、そのカリキュラムをマスターすれば、ベルリン大学に入学できる条件となったフンボルトによって、新たな文献学が、ゲーテやシラーらの新人文主義の船に乗ってプロシアの新たなエリートの許へと運ばれていった。新人文主義とドイツの大学制度は、もう一つの発展途上国アメリカを魅了し、19世紀にはドイツで学んだアメリカ人は一万人近かったという。

その頃、哲学は大学において網羅的な領域であり、その中で専門の研究が出来た。かつての教養部だったものが哲学部となり、ドクター・オブ・フィロソフィーという学位が高度の専門家である信用状となったのである。物理の教授もロシア文学の教授も哲学博士だった。ゲッティンゲンの文献学者だったグリム兄弟は、ドイツ民話の中にホメロス作品に匹敵するほどの民族固有な特性を見出して民俗学を始めたのである。ギムナジウムで養成された精読を活用して文献学、歴史、哲学、法学、神学、数学が研究された。しかし、セミナーが新たな研究分野を必ず確立できたという分けでもなかったし、初期の自然学セミナーは消滅することもあり、独創性のある研究者ではなく、善き教師を輩出するにとどまることもあった。自然科学の世界では、やがてセミナーだけではなく、実験室 (ラボ) が必要とされる時代が来るのである。

 

進展する科学

ピーター・ブリューゲル『錬金術師』16世紀

実験科学は、最初の家内工業的なシステムから始まり、熟練の技と実験器具を駆使して、自然物を操作し成果を上げる様子は、ハイテク機器に囲まれる錬金術工房さながらだった。閉ざされた扉の後ろに引き籠ってはいても、再現可能な結果が得られ、科学者たちの共同体からの合意が得られれば、その学説は広く受け入れられて大衆からも拍手喝采された。そこには、賢者の石の神秘はないが、黄金に代わる名誉と報酬が得られた。そういう意味でも、これまでの学問とは全く異なる新しい形態だった。女性にも比較的扉が開かれていたことは、キュリー夫人の例でも分る。以下、ざっくりとご紹介する。

他に俎上に上がるのは、自然科学と人文科学を調和させた地理学の祖であるヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟アレクサンダーで、自然誌研究に大きな影響を与えた。世界中の観測所に温度や気圧の計測器などを置いて、その情報を植生や気候、高度などと勘案して地図に記入していった。彼は、そのために、ほぼ70年に亘って5万通の手紙を送り、10万通を受け取るという国際的な通信ネットワーク通じて計測してくれるボランティアからそれらの情報を得たのである。

パリの銃器庫に実験室を作り燃素と呼ばれた酸素を発見したラヴォワジエは、化学の命名法を炭酸塩とか硝酸塩といった明晰なものに改革しようとしたが、不可解な式や複雑な装置は、一般の人々に訴えるものではなく、大衆の啓蒙という野望は諦めるしかなかった。

科学肥料や科学染料を開発して有機化学を発展させたリービッヒは、大企業と提携することによってブイヨン・キューブ (マギー・ブイヨンなどの名で知られる) や粉ミルクを商品化することによって化学は有用で国家の経済を発展させるということを証明してみせた。

炭疽菌のワクチンを作ったパスツールは、人々に高価な滅菌装置を買わせ、政府にある種の病気に対する法律を作らせ、衛生環境を変えさせるといった政治・経済的な側面とも関係していくことによって、実験室での方法論を広い世界へと拡張させていったことになる。

しかし、文書に沈潜していく人々と物としての対象に向き合って人々の間には、大きな亀裂が生じ始めた。

 

社会科学の誕生

科学の成功は、技能者の作業場と学部のセミナーでの活動との相乗効果故だったが、やがて、実験室で培われた手法を人々が暮している場に適用しようとする学問が生まれる。それが社会科学だった。工業化された都市に周囲から人々が流れ込むようになると社会的な軋轢が生じ始めていた。経済学、社会学、人類学でマックス・ウェーバー、アダム・スミス、エミール・デュルケームらは文献学的手法を使って追随する者たちに数々のテキストを提供していたが、新たな人文主義者たちは、白衣の化学者を真似て知能テストを実施し、効率的なシステムを作り出し、広く社会を変革しようと乗り出したのである。

アルフレッド・ビネー (1857-1911) フェテシズムという言葉を心理学に導入したことでも知られる。

フランスの心理学者アルフレッド・ビネーの知能検査は、人間を科学的、定量的に研究する強力な技法となりアメリカに渡ってひろく使われるようになった。知能指数という言葉も生まれたが、その検査をアメリカで推し進めたのは実験科学者の衣を脱ぎ捨てた、公の政策に関わろうとする商人と化した御用心理学者だった。

資本主義化した社会に登場した大工場や大規模官僚機構は、社会科学者たちが研究するのに絶好のフィールドとなる。科学マネージメントのグル (導師) と言われたアメリカのフレデリック・ウィンズロー・テイラー (1856-1915) は、人よりシステムが第一だとうそぶいた。彼は、ストップウォッチを片手に工場のあらゆる作業を細かく分けて、一つの作業に時間無駄が最小限になるようなやり方を労働者に押し付けた。

テイラー流のシステムに心理学的なヒューマンファクターを加えたのは、フランクとリリアンのギルブレス夫妻で、工場労働での肉体の動作と精神的な働きを16項目に分け、それらを記録するために写真とストロボライトと立体鏡を使って奥行きのある画像を撮った。予想外だったのは、撮影されることによって労働者の積極的な協力が得られ、新たなベストプラクティスを開発するための意見を提示できるようになったことである。著者たちは、観察された物/人間は振舞いを変えるというハイゼンベルグの不確定性定理の社会版が発見されたと述べている。

これによってアメリカの社会科学の手法が変わることになる。オーストラリア出身のエルンスト・メイヨー (1880-1949) は、労働者の感情が不適応を起す原因をつきとめようと広範なカウンセリングを行ったのである。作業能率をわざと落とすソルジャリングは、労働者たちが管理側の出しゃばりと戦うための調整と言うことができ、作業現場の文化から生み出されるものであることが分かった。

アメリカでも一つの変化が生まれる。慈善活動を梃にフィールドワークによる調査・研究活動を公的な改革に繋げようとするものだった。20世紀初頭のアメリカには400を超す隣保館があって、有名なものにソーシャルワークの先駆者と言われるジェーン・アダムスのハルハウスがあった。キリスト教的博愛主義と徳義の義務の意識に支えられた点でフランケがハレに開設した財団とよく似ていた。工場労働者の住居子供のための教育施設、文化施設があり、同時に児童労働や搾取工場などの問題に関する著作が社会学雑誌に投稿され、著作も刊行された。政治的に対立する者たちの意見を交換する場も提供する。地域的で直接参加型で、時には党派的な議論の中にあっても社会科学は人が互いに教え合うものだったと著者たちは言うのである

別の形態の資金援助としては、ロックフェラーやカーネギーといった財界の大物たちが、慈善団体に対する寄付よりも、社会にとって有意義で実りのありそうな集団を探すべく主導権をとったものが挙げられるが、三つの特徴があった。どれほどの成果が上げられるのかの基準を明確にしたうえで補助金を出し、あるいは契約を行ったこと、個人的な研究よりも学際的なチームによるものを選んだこと、純粋な科学的研究よりも実際に結果を出すことを求めたことである。

これらの財団は、南部からシカゴに流入した黒人たちに対する人種間の社会学研究をするにあたり、いかなる異人種間にも応用できるモデルを作り上げたシカゴ大学の研究チームに援助したり、サハラ以南のアフリカや南太平洋でのフィールドワークといった広範囲な学問に資金援助していったのである。こうして公的な科学世界は、その手法を手に実験室からはみ出して、人々が出会う空間全てを研究対象にしていくのだった。付け加えると、この社会学研究も最近では行き詰まりを見せていて、ガブリエル・タルドの社会法則が見直されたりしている。

爆発するシステム科学

原子を崩壊させて原爆を作るマンハッタン計画から30年間の冷戦時代は、ビック・サイエンスの時代と呼ばれる。それを支えたのは、純粋な知性への信仰を捨てたシンクタンクと呼ばれた研究者たちだった。その原型と言われるRAND研究所は、実験的な世界周遊宇宙船を計画し、核戦争のシュミレーションを行い、アラブ社会の階層性を研究したかと思えばソビエト経済省のひな型を作るといった知能指数の高さを誇る集団だった。RANDのシステム分析があってこそ、マクナマラと国防省はベトナム戦争時の費用便益分析や死傷者比率計算を手に入れることができたし、ニューヨーク市は都市再生計画を立てることができたという。

1945年8月14日「WAR ENDS」ノックスビル・ジャーナル紙

イギリスのオペレーション・リサーチから発したシステム分析、システム・エンジニアリング、プロジェクト・マネージメントといった社会工学のツールは、人よりシステムだと豪語したテイラーの科学的マネージメントに由来していた冷戦下では、客観的に鍛え上げられた知性が、先見的なパトロンにお墨付きをもらえばアポロ計画と言った科学的課題や軍事、あるいは社会問題も同様に解決できると信じられていた。

しかし、免疫学、情報技術、月面着陸、人ゲノムの解析といった果てしない開拓とその輝かしい成果は、ハルマゲドンのジレンマと抱き合わせになっている。ソ連崩壊後の一時期、核の脅威は減少したものの、昨今のウクライナ戦争でロシアが核の使用をチラつかせているのをみれば、人間の愚かさにも果てしが無いことが確認される。これに加えて地球温暖化問題が浮上しているのだ。ともあれ、それらのシステム分析によって成功したものもあれば失敗したものもあるが、このビック・サイエンスを構成した制度そのものは20世紀の初頭に開発されたものであり、物理の実験室と社会的な実験とが融合して成立したものだった。著者たちは、基本的な制度は、ほとんど革新されてないというのである。

 

情報時代にあって


 

西洋の歴史において、6度に亘って知は根本から再発明されたと著者たちは言うが、実験室の制度だけが残っているという分けではない。古い制度は、どれも滅んだ分けではなく、新たな使命を与えられ新しい制度に組み込まれるか、置き去りにされるかになる。いまや知の社会の中央に君臨するのは、実験室で生まれ、商業主義の中で民主化されたコンピューターシステムである。それはアメリカの科学政策を牛耳っていたヴァネヴァー・ブッシュ (1890-1974) が記憶の拡張 (メメックス) と名付けたものだった。戦時中、ブッシュから射撃制御装置の開発を命じられたMITの数学者ノーバート・ウィーナーは、戦後、通信理論に関心を寄せ、古代ギリシアの操舵者を意味するサイバネティックスという人間と機械とが交流するためのシステムを定式しようとした。続けて、ジョゼフ・カール・ロブネット・リックライダー(1915-1990)が、今日のインターネットのコンセプトを作り上げる。

インターネットが登場した頃のパイオニアたちには、宗教的な争いの中で、中世のスコラから解き放たれた近代初期の文字の共和国の人たちとひどく似たところがあったという。企業組織化の切り札のようなコンピューターは長髪族の手によって人間同士を繋ぐネットワークと個人の表現を可能にするツールに作り替えられた。『全地球カタログ』の編集で知られるスチュアート・ブランドは、サーバーの脆弱性をチェックするハッカー・カンファレンスを主宰し、一万年図書館を提案している。コンピューターネットワークを社会に浸透させていったのは彼のような現代の情報ユートピア的感覚を持つ人たちだった。

民主化され、商業化されたインターネットは、指一本で自由に情報が収集でき、発信も出来る。それはブッシュやリックライダーが思い描いたものをはるかに超えた。しかし、著者たちは、情報=知識ではないと強調する。Wikiやブログなどの新たな電子コミュニティーによって、従来から信用されてきた文化の番人たちが不要とされる状況になれば、オンラインで信用できる正当な知識を得ることはますます困難になる。確かに本質的で理に適ったエリート主義のデータベースに代わるネットワークフォーラムは稀だ。専門分野における思想、芸術、音楽といった文化に関する解釈には、もはや価値が置かれていないともいう。

 

アリストテレスの総合主義とプラトンの梯子


 

イアン・F・マクニーリ―&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発見」されたか』

古い制度を超える新たな制度を生みだす力学は、実験室の制度を改変、あるいは、そこからの再発明を催すことになるかもしれないし、オンライン・コミュニティーから全く別の知の制度が生まれる可能性もある。それが、どのようなものになるかは分からい。実験室の覇権が、もたらした輝かしい成果とは裏はらに、問題は、ますます混迷の度を深めようとしている。自然に対する科学的な操作と人間の価値を保証するための基準は、衝突し始めた。遺伝暗号が解読されれば、人間の定義が揺らぎ始め、経済学にコンピーターが導入されると、人間に固有とされてきた選択合理性といった属性が再定義される。人文科学の最も古い哲学でさえ、抽象的な数学と化そうとしているというのだ。

本書はアリストテレスの総合主義から発した知の伝統が細分化され、自然への操作へと変化する流れの中で制度としての知がどのように変遷したかを検証している。このアリストテレスの系譜とも言うべき総合的で網羅的な思想の核心部は「ある程度全体を見回せて、はじめて新たな洞察が起きる」と述べたバックミンスター・フラーの言葉に集約できるのではないだろうか。20世紀のレオナルド・ダヴィンチと言われた人だ。

しかし、もう一つの知の柱には触れられていない。それは、プラトンの階梯であり、世界の連続性を探求したライムンドゥス・ルルススピノザライプニッツの結合術の系譜である。近年では、ビジュアルの世界でバーバラ・スタフォードが熱弁をふるっていたようだ。その思想の核は、バラバラな知の破片をどのように繋げるかということだった。充満する宇宙としての不完全さや連続性の跳躍が指摘されたにしても、知とは単に情報ではなく、それらを繋ぎ合わせてひとつの結晶にならなければ役に立たないのは事実である。そこには、西洋の知のもう半分がある。

 

参考図書

 

アーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』 プラトンの梯子を巡る名著

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

ヴィルヘルム・フォン・フンベルト『人間形成と言語』 言語のエネルゲイアと自己陶冶について。1989年刊

 

イアン・マクリ―二―&ライザ・ウルヴァートン『知は如何にして「再発明」されたか』part1 シンクロする制度と知の変遷

 

イアン・F・マクニーリ―&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発見」されたか』2010年刊

古代ギリシアの知が帝国という新たな制度に飲み込まれた時、図書館は帝国の出先機関となり、地中海世界に広くギリシア文化を浸透させる役割を担うことになる。アウグスティヌスのような教父はギリシアやローマの知の伝統を受け入れ、キリスト教文献の解明や分析に使えるように作り替えた。修道院には、どこにも付設の図書館があり、信仰を深めるための読書や沈黙を守るための場となったが、活発に知を生産する所ではなかった。

12世紀になると大学の原型が現れるようになり、法律家や医師の職業訓練を行うような全く新しい機能を担う機関となっていった。しかし、宗教紛争が知的な分裂を生むようになると人文主義者たちは、典雅な手紙というコミュニケーション手段によって知のネットワークを形成し始め、古代の修辞の再発見を催した。この後、18世紀には、専門分野の学者たちが瀕死になった大学を設計し直し、刷新し始める。フィヒテたちは過去の実践とは全く異なった「研究大学」を出発させるべきだと説いた。

19世紀になると知の歴史の中で、二つの流れ、つまり専門分野と実験室とに分かれる。自然科学や社会学は研究大学における専門分野として確固たる地位を確立するが、一方で実験室は新たな知によって技術を開発していくことで社会生活を向上させ、人々の生活を変えていくことに貢献し始めた。インターネットは情報を氾濫させたが、それは知の破片だった。このように、古い制度を超える新たな制度を生みだすことは、知の歴史を刷新する原動力となってきた。では、今後、何が専門分野や実験室を改革し、新たな知の制度を作り出すのか。本書は知の仕組みが、どのように変遷して来たかを六つの制度から確認していこうというなかなか稀少な視点から考察されている。多くのエピソードを紹介しながらも良くまとめられ、スリリングな興味ある著作となっているのがとても嬉しい。

著者のイアン・マクリ―二―と妻であり同僚でもあるライザ・ウォルヴァートンは、二人ともオレゴン大学の歴史学の研究者である。夫のマクリ―二―はドイツ近代史とヨーロッパ文化史を専攻したが、次第に比較文化に興味が移ってきたようだ。大学のプロフィールには、ルネサンス期のアカデミー、幼稚園の哲学的起源、フンボルト型研究大学の起源に関する研究などもしていて、1970年以降のアメリカの高等教育をテーマにした本を執筆中だとある。著書に、19世紀の医師と政治改革者に関する『壮大なスケールの医学』、ナポレオン侵攻後のドイツ南西部の市民と政治の変革に携わった地方書記者・シュライバーに関する『書くことの解放』があるようだ。

ライザ・ウォルヴァートンは、中世東ヨーロッパの歴史と宗教の研究者で、ザクセン戦争時代のチェコや12世紀のコスマス年代記、オルトニアン時代の中央ヨーロッパの研究に携わっている。著書に『プラハのコスマス―― 物語、古典主義、政治』、『プラハへの急ぎ足―― 中世チェコにおける権力と社会』、訳書に『プラハのコスマス・チェコの年代記』がある。

いずれも邦訳は本書のみである。

それでは、本書『知はいかにして「再発見」されたか』を順を追って要約していきたい。

 

図書館 前3世紀~5世紀


 

アレクサンドロス大王が亡くなり、将軍たちが、ディアドゴイ (後継者) にならんとして、そのギリシア化された領土を分割統治しようとしていた頃、エジプトの地を発展させていたプトレマイオス1世は、リュケイオンの指導者をアレクサンドリアに招聘しようとして断られた。彼は、アリストテレスが招かれたミエザの学園でアレクサンダー大王と共に学んだ人だったのである。次に白羽の矢を立てたのはファレロンのデメトリウス (前360頃-前280) だった。アテネを治めていた彼は、髪をブロンドに染め、人妻や青年と色恋に走り、自分は奢侈に走ったが、アテネ市民には贅沢や娯楽を取り締まり顰蹙を買ってテーベに亡命した人物だったという。

デメトリウスは、プトレマイオス1世の宮廷に仕え、アレクサンドリアの図書館と博物館の建設を提案し、監督にあたったことで知られる。ここで、著者たちは、図書館を形作ることは、その単調さに耐え、「図書館いのち」というほどの気構えがいると喝破した上で、何と言っても「書く」ことの確信なくして知の組織化は覚つかなかったと強調する。しかし、ソクラテスやプラトンが文章を書くことより議論を好み、ホメロスの叙事詩を聞くことが、とどのつまり教養を高めることで、それらが表現されるのは演劇が一番と考えられていた当時であってみれば、そういった文化的伝統に育まれた人間がギリシア世界初の図書館建設を決定したのは、まさに意外な展開と思われると言うのである。

ファレロンのデメトリウス 美術史美術館 ウィーン

しかし、デメトリウスは、アリストテレスの直系の弟子で、書くことは話すことと同様に重要であり、分析や統合のためには全てを書下ろし、図書館に収めるべきだと考えた。ギリシアのポリス社会に図書館が登場するのは、古代社会がその輝きを失い、ギリシアと古代オリエントが手を携えたヘレニズム世界が生まれてからで、プトレマイオス1世やそれに続く統治者がギリシアの学問を集積しようとしたのは有能な人材を集めるためであり、それによって富を獲得し覇権を確立しようとする野心があったことは想像に難くない。

前6~前5世紀の政治闘争の中からアテネの民主主義は確立されていったが、ポリスのような小規模な地域での政治では弁舌が武器となる。それに必要とされるのは叙事詩や古代詩の教養、中でもホメロスの解釈と弁論術を教えたソフィストと呼ばれる文章家たちの話術である。言語を極端に使いまわし、既存の詩から論拠を引用し、弁舌を弄して悪名を轟かせたが、彼らは書かれた言葉、つまり、文章に依存した者たちだったのである。ソフィストが文章に依存したことについては、アイスキネス前390‐前315)の演説が書き下ろされて後世に残されたといった記述が、ピロストラトスの古期ソフィスト列伝にある。

ピロストラトス、エウナピオス『哲学者・ソフィスト列伝』

ソクラテスの弟子のプラトンは議論を論理的に追った対話篇の文章を書いて、対話を重視したソクラテスと文章に依存したソフィストとの間の均衡を保った。プラトンと弟子たちはソクラテス以前の原子や数や四大といった究極の要素を探求した形而上学的なスタイルと文献重視の姿勢を融合することになる。こうして、日和見主義的なソフィストの個人の利益を優先する姿勢と公共心を持ったフィロ・ソフィアとは対峙さるべく登場することになるのである。

一方、アリストテレスはアカデメイアの学頭になりそこなうと新たにリュケイオンを作って学問は文字に依るべきだと主張し、教義の異なる学派の相違点と矛盾を総ざらいし始める。そのためプラトンのような思想の生きた火花はないが、包括的で百科事典的な細目を統合する力を持っていた。

図書館は、諸説入り乱れた状況を整理して簡潔にしてくれるわけではない。あらゆる学説の居場所を確保し、新たな知識を飲み込んで、それらを比較し、新参者にも学べる環境を整えた。それはアリストテレスが著作によって小規模に行っていたことを大規模に行える施設であったと著者たちは言うのである。アレクサンドリアの図書館では、パピルスに書かれた著作が集められ、照合、編集された稿本が写され、分析され、内容を組み立てなおし、翻訳され、注釈をつける。写本のミスは徹底して取り除かなければならなかった。改ざんを防ぐためにも厳格な正確さが求められたのである。

中国が統一国家の時代になれば、文化が標準化され、皇帝が特定の学問を保護し始め、組織立てられた図書館が生まれている。秦の焚書坑儒は、李斯 (りし) が画策したが、一方で書き言葉の標準化をもたらしたという。その書き言葉のシステムが、中国文明の統一をもたらしたと考えられている。

左 竹簡『孫氏兵法』乾隆帝御書 右 熹平石経残石 後漢時代の儒学の経典を刻んだ石経の一部。

漢の時代には中国初の大図書館が作られ、秦が破壊した儒学の復興を目指したが、漢の学者たちが直面した困難はアレクサンドリアの学者たちの比ではなかったという。絹や竹簡は壊れやすかった。孔子が易経を繰り返し読み過ぎて紐が3回も切れた故事は韋編三絶 (いへんさんぜつ) と呼ばれて後世に伝えられたが、竹簡は束ねた糸が朽ちればバラバラの断片になった。パピルスの書籍は3メートルほどの巻物だったから、まだ前後の脈絡は想像しやすかったのだ。漢時代の文書の復元は推測と編集者の主観と国家的な都合によるバイアスがかかった。康有為 (1858-1927) や現代の中国の学者の中には、「この復元が古代の文書の典拠に与えたダメージは秦の時代の焚書を凌ぐ」という人もいるらしい。

漢王朝の図書館はアレクサンドリアのそれに匹敵したが、漢はエジプトなどと同じように知をモニュメントの形にして残そうとした。高さ2メートルを超える石板40~50枚に儒教の教えを刻み洛陽の国立の学問所である太学に設置したのである。漢では聖典の知的伝統の永続性が求められ、それが失われることのないように図書館が作られたのに対し、アレクサンドリアでは「既存の知全体を信頼性のある形で再生産して持ち歩ける」ような形に発展したと著者たちは述べている。

 

修道院 2世紀~11世紀


 

聖ヒエロニムスは (347頃-420)、ヘブライ語やギリシア語の聖書をラテン語へと翻訳する決意をするまで、キリストよりキケロを愛しているのではないかと責められる悪夢を見続けたというし、アウグスティヌス (354-430) は、聖書世界に従属的にではあるが、プラトン主義を据えたというので後世の人々に尊敬されたという。アウグスティヌスの死後、ローマは徐々に解体していき、その200年後に生まれたのは、文盲で口承に頼るしかない文化と人が少なく田舎じみた貧困な生活と兵士が幅をきかせ、絶えずいがみ合っていながら誰もがキリストを信じた社会であったと言えば散々なようだが、イスラム世界に比較していえば真実であったかもしれない。だが、そんな中から修道院が生まれたわけではないという。地中海世界でキリスト教が公認されると、迫害されたり殉教を目にしてきた信者は、生ぬるくなった信仰の地を捨ててエジプトやシリアの砂漠に旅立ち始めていた。

左 登搭者シメオン(390頃-459) プリンスオゼルスキー修道院  右 聖シメオン教会跡 シリア

全ての修道士の父と言われる聖アントニウス (251頃-356) は、知の都アレクサンドリアを捨て、学問の伝統から離れて西方のニトリア砂漠に向かった。聖書を諳んじ、戒律を実際に生きたその姿は、アウグスティヌスたち後に続く修道士たちの鑑となる。砂漠の修行者たちが生活の中心に位置づけた言葉や文章に対する態度は、学者のものとは異質な、後の修道院での生活にも通じる「神へとひたすら心を向け祈りにも似た瞑想的な読み取り、いわゆる『聖なる読書』だった (富永星 訳)」というのである。4世紀末には、エジプト北部の砂漠には5千人もの信者が隠遁者として、あるいは、その共同体のメンバーとなっていたといわれる。その中の一人、登搭者シメオンは、シリアの地に18メートルの搭を建て、その上に小屋を作り37年に亘りそこで祈祷し、人々を教え導いた。

ウィウァリウム バンベルク写本 8世紀 この名称は「養魚池」に因んだが、魚はキリストの象徴でもあった。

シメオンが搭の上で生活していた頃、ヨハネ・カシアヌス (360年頃-433) はマルセイユの近郊に二つの修道院を建て、修道生活の理想とそのための方法を著作に残し広めた。

その後、ローマ人のカッシオドルス (485頃-585頃) は、南イタリアにウィウァリウム (ヴィヴァリウムと呼ばれる修道院学校を設立する。東ゴート王国の国王テオドリックに仕えた執政官だった人物だった。その学校は共同修道院とより孤独な生活を行うための隠遁所からなるが、彼は修道士たちに、既にラテン世界にギリシア語を話す人間はいないにもかかわらず、教会の宝である書籍を守って魂を啓蒙するためにギリシア語の写本を残すように命じた。カッシオドルスは修道院が古い知を保存・維持できることを最初に気づいた人だったが、その制度が、知の伝達手段として限界を持つことも明らかになる。生き残ったのは、彼の修道院ではなく、先ほどのカシアヌスの著作をもとにした『綱要』だったからである。

1400年以上に亘り修道院生活の手引きとなったのは、ヌルシアのベネディクトゥス (480頃-547) の戒律だった。ローマ貴族の末裔としてイタリア中部のノルチャに生まれ、ローマに学ぶが、やがて喧騒を離れて郊外のスビアコの地にあるスペコという洞窟で修行するようになる。その周辺に12の修道院を設立したのち、やはりイタリア中部は西寄りの地、モンテカッシーノに修道院を建てた。トマス・アクィナスが幼少から学んだ所だ。彼が設立したベネディクト会「祈りかつ働け」のモットー、それらと共に西方教会の修道院制度を形作ったことで知られる人だった。

サクロ・スぺコ修道院
ベネディクトゥスが修行した洞窟に因む修道院

2~3時間毎に鐘が鳴り、その時間に即して祈り、季節や気候の変化によって日々をどのように過ごすか、いつ何を食べるのか、いつ起きて何を着、いつ眠るのかなど手引書には極め細かく決められていた。とりわけ話す言葉に対する禁忌は注目される。詠唱や音読される文章への傾聴、読書、それも西洋初の黙読が生活の中に織り込まれる。生活サイクルの中で、自然に文字を読むことが重視されるようになるのである。

 

大学 12世紀~15世紀


 

5世紀にローマ帝国が滅亡し、その痛手から7世紀から9世紀かけてドン底だったヨーロッパは、11世紀から12世紀にかけて経済的な発展をみるようになる。交易が盛んになると貨幣経済も進展し、都市が生まれ、官僚制度が整い、人は旅をするようになるのである。商人、巡礼や吟遊詩人、説教師がキリスト教圏内を経巡り、イスラムにとっては理不尽この上ない十字軍の遠征が始まる。社会が流動的になると大学が出来て知の再整理が起こり、学者たちは都市になだれ込むようになると信用状があればキリスト教圏の何処でも教えられるようになった。ドイツの学生はパリで神学を、ポーランドの学生はボローニャで法律を、イングランドの学生はトレドでアラビア経由の科学を学ぼうと足にマメを作った。

著者たちによれば、12~13世紀に出現したパリやボローニャの大学は学生や教師のネットワークのもとに自然発生した集団で意図して作られたものではなかったという。人が集まるには都市に存在しなければならなかったが、驚くべきことに大学の建物は存在しなかったらしい。箱より中身が先だったのだ。universitas (ウニベルシタス) という言葉はギルドと同じように一群の人々を指す言葉で、元々宣誓した個人から成る団体を指す古代ローマ法から来た言葉だったという。

ギルドと同様に、ウニベルシタスは、職業訓練が第一の目的であり、今日のビジネススクールやエンジニアやジャーナリストを養成するための職業訓練校と同様だった。学問の自由とか啓蒙に燃える理想主義や公平無私な研究などといったスローガンは学者が集まった後に出現した予想外の副産物であったというのである。

ピエール・アベラール (1079-1142) は、大学が登場する頃の新たな知的興奮を象徴するような人物だった。エロイーズとの悲恋は有名だが、論理学を武器にけんか腰の討論を煽る学者であり、唯名論学派の創始者となりスコラ学の基礎を築き、神学という言葉を発明した人物として知られる。彼の周囲に集まったのは、定住に頓着なく、生活苦や盗賊の被害にもめげない強者ばかりで、集まっては論争し推論し合った。論理学を通して後の大学で制度化されるような男性的な学問スタイルを作り出したが、このカテドラル学校には女性は入れなかった。子供が出来たエロイーズは、結婚を隠そうとしたアベラールに「生徒と子守女、机とゆりかごを一緒にすることはできない (富永星 訳)」となじったといわれる。彼女は、アベラールによってアルジャントゥイユの修道院に送られ、後に著名な尼僧院長になった。聡明な人だったのである。

フォントネー・シトー会修道院 フランス ブルゴーニュ地方 モンバール
ベルナルドゥスによって設立された現存する修道院建造物。簡素だが美しい。

アベラールは多くの敵を作るが、その中で最も有名な人物がクレアボーのベルナルドゥス (1090-1153) だった。彼が発展させたシトー修道会は、ベネディクトゥスの戒律を順守しようとする、いわば、荒野へ向かった古の修道士たちの精神へ立ち帰ろうとする復古主義だったと言ってよいかもしれない。ベネディクトゥスにとってアベラールは、どうあっても破滅させずにはおれない敵であり、実際サンスの宗教会議での討論でベルナールを打ち負かした。これによりベルナールは異端とされ、クリューニー修道院で匿われる身となる。

ベルナールの先駆者としての受難とも身から出た錆びともいえる事態だったが、かくして、大学が修道院に代わって、宗教的な学問を保存するという役目を担い、神学部の学生がキリスト教の教えを喧伝するという時代が訪れる契機となったのである。しかし、宗教改革の嵐が吹き始めると、知の標準化に益するはずだった神学は、逆にヨーロッパ大陸を分断していったのである。

 

文字の共和国 16世紀~18世紀


 

ヨーロッパがイスラム帝国のように文化的に一枚岩になれないと分かった時、西洋の偉大な思想家を産み出し、育てたのは、この制度だった。そのことは前回の原田安啓『中世イスラムの図書館と西洋』知はブーメランのように帰還するで少し触れておいた。宗教改革や科学革命の時代、大航海時代、絶対王政の時代、啓蒙運動の時代もこの制度の中にあった。ヨーロッパ中を荒れ狂う戦争や疫病や圧政に耐えて生き残り、海外に植民地ができ、布教活動や地球規模の交易が始まるとヨーロッパの外にも広がっていったという。

マルクス・トゥッリウス・キケロ (前106‐前43) グリップトテーク ミュンヘン

手紙から始まり、印刷された書籍や雑誌を媒介することによって国際的な学問の共同体を形成した制度と言える。専制に対抗して共和制を擁護し、アントニウスによって暗殺されたキケロを遠い祖とする。彼は元老院でカエサルに並ぶほどの雄弁をふるったが、田舎の地所で著作に専念し、教養ある友人たちと手紙を交わし、精神的な修養を積み、政治にも関わっていった。

キケロが理想とした文字の共和国 (レスプブリカ・リテラリア) は、14世紀にペトラルカ、ダンテ、ボッチオらが彼の人間性を称揚し、15世紀には、彼の文体がラテン語文の規範とされキケロ主義さえ生まれるに及んで新たな時代に復活を遂げる。それは、一般に人文主義と呼ばれた。この文字の共和国は既存の学問の制度が危機に陥ったり崩壊したからこそ、新たな知を生産する正統な制度となったと著者たちは言う。そして、この文字の国の中には、印刷物を売る店、博物館、学士院といった実際の建物を伴う制度も含まれるようになる。

勿論、手紙は古くから通信手段だったが、文字の共和国では印刷された書籍と支え合う形で発展した経緯があった。人文主義者のはしりとなったペトラルカ (1304-1374) は、故人のキケロやホメロスらに親密なムードの手紙を書き、自分の手紙で撰修を編み、そのまとめとして後世の人に宛てた手紙を書くといった念の入れようだったし、エラスムスも自分の手紙を上手に編集し、著作として発表して、著名知識人となった。当然手紙の修辞は極めて重要になる。それは、ポリスや元老院での演説に使われる修辞ではなく、書き言葉としての修辞だった。丁重さ、上品さ、度量の広さ、博愛や友情を感じさせる言葉は、いわば人間性を表す文字であり、紳士的な会話に代わるものだったのである。修辞については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1 記号の発生と象徴=交換能力で触れておいた。

グーテンベルグ (1398-1468) によって活版印刷技術が開発されて書籍の数は爆発的に増えた。時空を超えた知の伝達手段としては革命的だったが、知を再編成するための包括的な手段にはならなかったと著者たちは言う。これは意外だったが、典型的な例としてガリレオの場合が挙げられている。

コペルニクスが地動説を説いた『天体の回転』では、序文が何通かの手紙の体裁で書かれていて、この発見を抜け目なく仮説の形で紹介していたし、版元はこれは、仮説にすぎないと強調して教会との摩擦を避けようとした。しかし、ガリレオはこれを事実として発表したために検閲に引っかかり、宗教裁判所によって自宅軟禁される。この検閲は書物にとって最大の脅威となっていたのである。これを救うべく手紙による知のネットワークを活用したのがオリオン大星雲を発見した天文学者・役人であった、二コラ=クロード・ファブリ・ド・ぺーレスク (1580-1637) だった。

二コラ=クロード・ファブリ・ド・ぺーレスク
(1580-1637) 書簡集が残っている。

彼は法王に近い人物たちに次々と書簡を送りガリレオとの仲裁に乗り出したのである。ガリレオはパトロンでもあり友でもあったぺーレスクに「親切と善意の感情が、わが不運をもたらした幸運を、素晴らしいものに思わせてくれています (富永星 訳)」と感謝の手紙を書いている。ガリレオとて自分の発見を守るためには書簡による繋がりを活用するほかないことを知っていたのである。検閲が1500年を境に急拡大して行ったのは、印刷所が正当性より利益優先のための書物を大量生産したからであり、当局が出版元で検閲をかけられるようになったからだという。

印刷技術の発展は知識を広く普及させることを可能にさせ、出版された著作は「学問をどのような流れで捉えればよいのか、新しい発見をどう解釈すればよいのかを既に知っている不特定多数の人々に語りかけた (富永星 訳)。」そういった人々が、新たな知を咀嚼する力を持てるようになったのは、文字の共和国の市民となっていたために他ならず、それは現在とても同じではなかろうか。

16世紀から17世紀にかけて新たな衝動が起こり始める。アレクサンドリアの図書館が手当たり次第に著作を集めたように、珍奇なものなら何でも集める博物館が登場するのである。例え、どんな所であろうともキリストの福音を宣べ伝えようとする海外宣教師たちや帝国主義の版図へ旅立った進取の気性の商人たちが持ち帰るスパイスや工芸品や物珍しい自然の産物がカオスの如く陳列され始める。それは、人々に驚異の念を抱かせたことから「驚異の部屋/ヴンダーカンマー」と呼ばれることもあった。

木版画や銅版画によって本に図版が掲載されることが盛んになると、それらは「印刷されたミュージアム」となる。胚の標本やルーン文字を掲載したデンマークの医師・博物学者であるオーレ・ヴオルム (1588-1654) の『ヴオルムの博物館』やアタナシウス・キルヒャーの『中国図説』が有名なものだが、著者たちによれば、キルヒャーはローマに本拠を置いた世界最大の通信ネットワークと布教活動を行うイエズス会の中央に蜘蛛のように陣取って、ローマ・カレッジ・ミュージアムにヨーロッパでも一、二を争うコレクションを作ったという。言い得て妙だ。

しかし、それらのあっと驚く雑多な文物を前にミュージアム・コレクターには、ありがちな早とちりの推論や牽強付会な結論は世界の有り様に対する新たな解釈を持ち込み、古い権威との衝突を招いた。どうすれば正しい主張とそうでないものを区別できるのか、雑多な事実をどう均せば、秩序ある理論化が可能なのか、これは今日的課題でもあるけれど、フランシス・ベーコンならずともこの不確かな状況に抵抗せざるを得なかったのである。

このような中で自然を観察し、真に科学の発展を考える人々は、フランス、ドイツ、イタリア、イングランドでアカデミーサエティー、コンファレンスと称して定期的に集まり始めた。その成果は今日の学術雑誌にあたる会報や紀要となって国境を超えて行った。手紙に頼る単独の学者には、できない作業だった。新たな科学実験の報告を受けたアカデミーの人たちは検証を通じて客観的な知識を選り出そうとする。つまり、アカデミーとは創造的な考え方を推し進めるのではなく、新たな知にお墨付きを与える機関なのである。

知の共和国に新たに参入したアカデミーは現実の政治の世界にいる独裁者や絶対王政の支配者たちとは距離を置いて新たな知に関する議論を続けることができた。そうでなければ、国際的な知の共和国の市民だと宣言するアカデミーの会員たちは、政治結社をつくって国家転覆を企む者たちとして引っ括られただろうというのである。

東林書院 北宋末から南宋初の儒者・楊時によって江蘇省の太湖の北にある現在の無錫市に創建され、一時廃止されたが、明の万歴年間に顧賢成によって再建された。左 石碑坊 右 精舎

ちょうどこの頃、イエズス会士・マテオリッチは明のアカデミーをつぶさに観察していた。中国版アカデミーは科挙のための予備校といっていいものだったが、地方の人士を時事問題の講義によって目を開かせ、旅費を工面してやり、儒教の教えに基づいて国家の政策に物申す反体制的なネットワークを形成し、科挙を通じて優秀な卒業生を官僚として送り込んでいたという。だが、宦官の魏忠賢と対立するようになり罪をでっちあげられて1626年には一時閉鎖される。しかし、三年後には、その名も複社として復活し、儒教の思想を政治問題に組み込もうとする全国的な圧力団体となり、複社の出版物を科挙の採点のための事実上の基準とさせ、官僚の人事を牛耳ったという。17世紀の半ばにはヨーロッパの学者集団に匹敵する規模と力を持った学識者の集団が知的基準の管理を自分たちに渡せと政府に要求していたというのである。

中国においてもヨーロッパでも血統や家柄だけでなく学識や振舞いによって人物を評価し、政治や社会での活動を促してきたし、これらの人々は、古代の叡智や人徳を持つ人々を手本にしてきた。どちらの世界にも、そのような文化的土壌を醸成するようなアカデミーが存在したが、政治権力との関係は、全く異なった。中国の識者は儒教の古典に忠実であり続けることで政治的影響力を担保し、ヨーロッパでは自然科学において前例のない発展を遂げたが、学者たちは政治を捨て、架空の文字の共和国を形成したからこそ、かつてない暴力と混乱の中で繁栄し続けることができたというのである。その努力は、ひとえに人格を鍛錬することではなく「客観的」真理を見出し、新たな知を産み出すことに注がれるようになる。

今、前回ご紹介したイブン=ハルドゥーンの歴史序説』もよそ見しているのだけれど、この稀代の歴史学者は、「まえがき」にこう述べているので要約してご紹介する。凡庸な歴史家は、情況の変化が人間関係に、あるいは、人間の習慣に如何なる影響を及ぼすのかを顧みないし、世代の交代の重要性を見逃していると。この世代という言葉を知の制度に置き換えるとまさに本書はイブン=ハルドゥーンが彼の著作で重視している柱の一つに合致していることが分かるのである。

さて次回part2は専門分野と実験室について語られる。お楽しみに。

 

 

参考図書 及び 引用文献

 

マーシャル・マクルーハン(1911-1980)
『グーテンベルクの銀河系』

イブン=ハルドゥーン『歴史序説』1

原田安啓『中世イスラムの図書館と西洋』知はブーメランのように帰還する

 

原田安啓『中世イスラムの図書館と西洋』

中世イスラム世界、それも図書館について書かれている。う~ん、なんて香しいんだろう。史上最も有名な図書館は、アレクサンドリアの図書館といってよいと思うけれど、これに匹敵する図書館がイスラムに登場する。人間の知は、戦争、災害、略奪、焚書、宗教・政治上の弾圧によって、繰り返し飛び散り、焼かれ、土に埋められて朽ち果ててきた。アレクサンドリアの図書館も例外ではなかった。

西洋の歴史上、最も危機的時代であったのは中世であったという。エジプト、バビロニア、ギリシア、ローマの知は、キリスト教の登場によって切断されたのである。これによって医学、自然科学、哲学といった諸学は異端となり、それらを保存していた図書館は破壊され、本は焼き捨てられ、永遠に閉じられた。

このキリスト教が浸透した西洋に対して、かつては知の中心であったこともある中東にイスラム教が登場し、知を尊び、学問を奨励したのである。ムハンマドの言行録であるハディースには『神よ、わたしは、あなたの知識によって、わたしに知識をお与え下さるよう求め、あなたの力によって、わたしに力をお授け下さるよう求め、またあなたのお恵みを切に求めます。‥‥(ブハーリー訳)』とある。古代の英知はイスラム世界に残存し、発展を見るのである。エジプト、バビロニアで生まれた最古の文明は再び中東の地で改良され、新たな発見をみ、アラビア語からラテン語へと翻訳され、西洋にもたらされることになる。イスラム初期の学者アル=ファーラービーは、哲学の祖をイラクに置いて、エジプト、ギリシアへと伝わり、シリアを経てアラブに伝わり、ついにバクダッド (バグダード) においてルネサンスの花が開いたと文化のブーメラン現象を述べているという。

日本であまり紹介されないイスラム文化、とりわけ図書館などは皆無と言っていいのではないだろうか。この『中世イスラムの図書館と西洋』、多少の瑕疵は、あるものの資料として極めて貴重な著書と思われる。著者の原田安啓 (はらだ やすひろ) さんは1947年のお生まれ、明治大学、近畿大学に学び、司書として公立図書館に勤められた。教育委員会で生涯学習に従事していた間に、米国図書館研究のため日本図書館協会より派遣され渡米、文部省給費だった。国内各地の図書館設立にかかわり、奈良大学教養部で図書館情報学を、次いで近大姫路大学教育学部でも図書館情報学についての教鞭をとられた。専門は図書館史、図書館政策論、図書館評価法、各国図書館事情とある。著書に『最新図書館用語辞典』、『フィンランドの図書館』、『図書・図書館史』などがある。図書館一筋の人のようだ。

今回は、この『中世イスラムの図書館と西洋』を軸に他の図書の内容や史実も加味してイスラムの図書館を中心とした文化をご紹介する予定である。名前などの固有名詞は現在一般に使われているものに変更ないし併記しておいた。

 

席巻するイスラム教


 

ムハンマドの遺体が埋葬されたアルマスジッドアルナバウィ(預言者のモスク)の門に刻まれたムハンマドの名前 「神の使節」という称号付

ムハンマドのムスリム

イスラム教の始祖ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、6世紀の571年頃、アラビア半島のマッカ (メッカ) に生まれた。早くして両親を失い祖父に育てられた。叔父のアブ・ターリブに伴われ隊商に加わり、商人として成功するようになる。しかし、40歳の時に大天使ジブリ―ル (キリスト教におけるガブリエル) によって唯一神アッラーの啓示を受けてマッカで布教活動を開始する。しかし、そこは多神教を奉ずる遊牧民であるクライシュ族の支配する都市であり、迫害を受けることになる。622年にマディーナ (メディナ) にアラブ部族の調停者として招かれ、ムハンマドは、そこに定住した。これがヒジュラと呼ばれるイスラム歴の元年となる。

力の行使を伴わない布教活動が行われ、安息日を金曜日に、ラッパと鐘の代わりにミナレットからの呼びかけであるアザーンを唱え、断食の月ラマダンを定め、礼拝の方向であるキブラをエルサレムからマッカのカーバに変更されていったのである。ムスリム、つまりイスラム教徒の啓典である『クルアーン』は経典であると同時に哲学、倫理、民法、刑法、商法、国際法、儀礼にいたる「暮らしの百科全書」のような性格を持っているという。それにワクフ (喜捨) の精神は「飢えない社会的仕組み」を形成していた。ヒジュラ歴10年の632年にはアラビア半島のほぼ全域がアッラーのウンマ、すなわち信徒集団の地となったのである。イスラムとは元々、神への服従という意味であるらしい。

イスラム帝国へ

正統カリフ時代において、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスとサーサーン朝ペルシアの最後の偉大な王と言われるホスロー2世は長く死力を尽くして戦い、両国とも疲弊しきっていたし、特にペルシアは度重なる反乱に苦しんでいた。そこに砂漠から強力な第三者の登場など全く予期していなかったのである。エジプトでもコプト教会とアレクサンドリアの主教とが対立し、コプトは独自路線を歩んでビザンツと敵対していたことによって、わずか4~5000人のウマル・イヴン・ハッターブ率いるアラブ軍によって征服されている。彼は2代目のカリフとなる人物であるが、カリフとは、ムハンマドの後継者を指す言葉だった。

アラブの兵は少数の例外を除いて征服した街での略奪を行わず、住民の虐殺もあまりなかったと言われる。時代が下れば、そうも言えなくなるのだろうが、「クルアーンか然らずんば剣か」と言われるようなイメージとはかなり異なる。遊牧民の彼らは宿泊するための家屋を接収することなく郊外にテントを張り、植民しても自分たちの街は郊外に形成し、税の徴収もそれまでより低く設定した。重要なことはイスラムへの改宗を強制しなかったことである。他の支配地域から逃れた者もムスリムになれば官に仕えることができたから徐々にイスラム化が進展したためにムスリムに対する抵抗が少なかった。例えば、北アフリカを攻略し、その知事となり、やがてイベリア半島攻略の立役者となったムーサ―・イヴン・ヌサイルの父親はアラム人で、イラクでアラブ兵の捕虜となって監獄送りとなり、やがてイスラムに改宗した人物だった。

スペイン南部のへレスを流れるグアダレーテ河

カリフの座を巡る抗争からクライシュ族の名門ウマイヤ家の世襲となるウマイヤ朝時代になる。イスラムの先遣隊が710年にアンダル(スペイン) に上陸した頃、その地を支配していた西ゴートは、国内の安定を欠き、圧政を繰り返していて、ユダヤ人に対するキリスト教への改宗を強要していた。イスラムの登場は彼らにとって天の恵みであり、その圧迫から逃れるために内通者が続出した。711年に、西ゴートの王ロデリックはイベリア半島北部のバスク人征伐に向かっていたが、ムーサ―・イヴン・ヌサイル旗下のベルベル人 (北アフリカの先住民) の武将ターリク・イブン・ズィヤード率いる1万2000人のイスラム軍の侵入を受け、グアダレーテ河畔の戦いで敗れ、西ゴート王は戦死た。首都トレドは陥落し、716年までにイベリア半島をほぼ制圧したのである。

 

アラビア語の国際化


 

アラビア半島のシリアで話されるのはギリシア語かシリア語 (アラム語の方言) である、イラクはペルシア語かアラム語、エジプトはギリシア語かコプト語であり、イランはパフラヴィ―語 (中期ペルシア語) というようにアラビア語は一地方語に過ぎなかったが、ムハンマドが布教活動を開始してから100年も経たないうちに西はイベリア半島から東はインド国境までの広大な版図を持つようになるとアラビア語は国際語となった。クルアーン』はアラビア語で読誦されなければならず、アラビア語でしか記述されない。神が選び定めた言葉の翻訳は禁止されていたのである。アラビア語が分からなければムスリムにはなれなかったし、宗教儀式は全てアラビア語で行われた。

アラム語から派生したアラビア語は、セム系の言語で基本的に子音のみで書き表される。短母音を文字によって表記しないが、補助的なシャクルと呼ばれる小さな記号を用いて他言語の固有名詞なども表現する工夫がなされているらしい。アラビア文字の母音は、ا/alif/a、ي/ya/iو /waw/u の3つ、つまり、ア、イ、ウとそれを長音化したもの、及び、それらを組み合わせた二重母音のみである。基本文字は28文字だがハムザと呼ばれる声門閉鎖音のための文字や他言語の子音を表すための記号が存在しているという。あのクネクネした文字と記号の華やかさはアートにまで洗練されていく。

イスラム教は、都市の宗教だった。その領土では、当然イスラムの法が優先される。そこでは神学ではなく法として機能することが、征服者としてのイスラムがその土地の文化に埋没しなかった大きな要因となった。もともとアラブ人が交易商業に従事していた民であったことも大きな要素であったろう。イスラム地域は世界に先駆けて貨幣経済の発達した地域でもある。商業には、それなりの自由が許されていたろうし、アラビア語はそのためのコミュニケーション手段となった。イスラム教へと勧誘はするが拒絶も許容していたことは、宗教を選ぶ自由を留保していたことに繋がる。

 

知恵の館の誕生


 

750年にウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝が成立する。非アラブ民にたいする人頭税の課税とアラブ人への年金支給が不満を招いていたことと最高指導者 (イマーム) をムハンマドの血統であるアリーに連なる聖家族とすべきだという「シーア・アリー」つまり「アリーの党」の主張が高まったことが契機となった。これが、シーア派であるが、これに対するスンナ (スン二) 派は信者の合意のもとに最高指導者は決定されるべきだと考える。

ちなみに、アリーとは、ムハンマドの父方の従弟で、ムハンマドの娘婿となった人物であり、第四代カリフとなったがウマイヤ朝の初代カリフとなるムアーウィヤとの戦いに敗れ暗殺された。ともあれ、このシーア派の主張は、ウマイヤ家に対する反発であり、宗教的な争いというより政治的な主張だった。このアッバース朝では、アラビア人の特権が廃止され、ムスリム間の平等が確立されることになり、アラビア帝国は真にイスラム帝国となったのである。

ハールーン・アッ=ラシッド(786-809)『千夜一夜物語』には風流君主として登場する。

イスラム文化が花開くのは、このアッバース朝の第二代カリフであるアル=マンスール (712-775) によってバクダッド (バグダード) が建造され、そこに遷都してからだと言われている。彼は歴代カリフの中で唯一弁論術で名を馳せた人物で、公文書の逓信網を拡充し、俸給で雇用したプロの官僚を用いた。知に対する欲求も人並みすぐれた人物だったという。このバクダッドに図書館が登場するのは第五代カリフ、ハールーン・アッ=ラシッドの時で、サーサーン朝ペルシア起源の言葉で「知恵の宝庫」と呼ばれた。それは王立の図書館か少なくとも国家行政による公的なものであったと推定される。

この知恵の宝庫での翻訳作業には、ユークリッドの『幾何学原論』が知られているが、サーサーン朝文化の復興という色彩が強く、イランのパフラヴィ―語からアラビア語への翻訳が重要事項となっていた。サーサーン朝ペルシアでは歴史、戦記、恋愛などの作品は王のために詩に書き直され知恵の宝庫に収められたと言われている。後のサーマーン朝時代 (10世紀) の『シャー・ナーメ(王書)の原型に当たるものになるんだろうか。

アッバース朝の第七代カリフであるマームーン (マムーン/786-833) の統治期に「知恵の宝庫」は、「知恵の館」に改称された。館長はペルシアの民族主義者で、パフラヴィ―語の専門家であるサフル・イブン・ハールーンであったが、天文学者のヤフヤと3人の若いバヌー・ムーサ兄弟、やがて図書館長にもなる数学と天文学で名を馳せたアル=フワーリズミーが雇用されていた。このマームーンの時代から夥しいギリシア文献の翻訳が本格的に始まっていて、以後100年間続くことになる。10世紀の図書目録フィフリストには「マームーンが夢の中でアリストテレスと対話した」という記事が掲載されている。フィフリストについては後で改めてご紹介する。

813年にマームーンに忠誠を誓う大衆 『千年の歴史』より16世紀

知恵の館が設立される以前にビザンツから異端とされたネストリウス派などのキリスト教徒がイランの東部のグンデシャプール (ジュンディ―シャープール) の地に住んでギリシア語からアラビア語への翻訳にあたっていたという記録が残っている。この地はアテネのアカデメイアが閉鎖された後、多数の学者が移り住んだサーサーン朝ペルシアの知の中心だった所だ。この頃ペルシアは既にギリシア化されていた。

それらの人々はバグダッドの知恵の館に招聘され、ギリシア語文献の翻訳に従事するようになった。ここにはダマスクスと並ぶ付属の天体観測所が設けられてもいる。こうして知恵の館は前3世紀のアレクサンドリアの図書館以降、最も重要な知の集積地・教育機関となったのである。

館長職を務めた著名な学者としてイスラム世界だけでなくキリスト教国にもその名を轟かせた医学のフナイン・イスハーク (809-873)、アリスタルコスやユークリッドの翻訳を手掛けたキリスト教徒のクスター・ルーカー (?-913)、占星術家ムーサ・ブン・シャキールの三人の息子たち、ムハンマド、アフマド、ハサンはアルキメデスの研究で知られ、そのうちのハサンは館長にもなっている。

他に、館長ではなかったが、星崇拝で知られるサービア教徒であり、メソポタミアの古代都市ハランで生まれたタービト・クッラ (824-901) がいた。彼は、アルキメデスやアポロニウスの翻訳を手がけた。ユークリッドの『幾何学原論』とプトレマイオスが天動説を説いた『アルマゲスト』の改訂を行い、いずれも12世紀にクレモナのジェラルドによってラテン語訳されているものだった。

 

図書目録フィフリスト


 

文化が発展し、書物の数が増えれば目録が必要となるのは自然な流れだと思う。それを一冊に書き上げたのが名だたるイブン・アン=ナディーム (932?-990) だった。バグダッドに生まれ、政府の事務官だった人で、父親は書籍商であった。シリアのアレッポやイラクにあるモスルの図書館を訪れているが、ほとんどをバグダッドで過ごしている。このフィフリストという言葉はペルシア語で一覧という意味であったことから、彼が民族的にはペルシア人ではなかったかという説がある。

987年頃書き上げられたこの書は、約1万冊の本と2000人の著者に言及され、主題別、年代別に書かれていて、内容は、1.クルーン、2.文法、3.ハディース、4.詩論と詩、5.神学・教義、6.法律、7.哲学・古代科学、8.伝説・寓話・魔術、9.非一神教の文献、10.錬金術の十章である。古代やイスラム期のイランの史料として重要であるだけでなく、特に、マニ教とグノーシスに関する史料として一級と言われる。邦訳は無いんじゃなかろうか。数多くの詩人、能書家の作品、学者の業績に言及しているが、書籍の紹介だけでなく、自分の意見を述べていることもあり、それらの記述は、10世紀としては驚くほどの客観性を持ち、バグダッドの文化水準の高さと当時の文化状況を知るための貴重な資料となっている。

フィフリストにはローマ時代の図書館を調査して翻訳に必要な書物を持ち帰ったことが述べられていた。ビザンツの巨大な神殿やトルコ西部のエーゲ海に臨むエフェソスにある神殿に設置された図書館である。ギリシア語文献の翻訳のための未知の書籍を求めて使節団が送られたことが窺える。また、このフィフリストの書にはアリストテレスの記述が非常に詳しく書かれていて、アリストテレス熱に沸き立った経緯が偲ばれる。しかし、著者の原田さんによれば、この時代にはギリシア語からアラビア語への翻訳は、ほぼ終了していてイスラム世界はギリシアを越えようとしていたという。

知恵の館で物語が集められ、本としてまとめられて保管されていたことは既に述べたが、ナディームが図書館員だったことを窺わせる記述として以下の事柄が挙げられている。インドやペルシアの話は、館長をはじめとする一連のメンバーによって選別され編集されたこと、千物語』、つまり『千夜一夜物語』は、まだ完結していなかったこと、それらの話がペルシアの『シャハラザード』などの影響を受けていること、『シンドバッドの冒険』の話は既に存在していたこと、性や冒険譚は図書館の本からの内容を巷でストーリーテラーが話し聞かせていたなど、ナディームが図書館内部の事情に通じている様子が見受けられるのである。

 

組織化される図書館


 

バスラの公立図書館 ハリーリー『マカーマート』1237年画 図書館で催される文学サロンの様子

目録作り

首都に公の図書館が出来上がれば、他の都市にも図書館がつきつぎと立ち上げられる、その中には個人の所有する図書館もかなりの数にのぼった。個人図書館の中には権力者によって接収されないように喜捨 (ワクフ) として設立したものもあり、持ち主が亡くなって喜捨されるものもあった。喜捨すれば公のものであり、何人も手が出せなかったのである。こうした公立の図書館も増えていった。

このワフの制度が目録つくりに一役買ったと言われる。イスラム法によって喜捨を受けた図書は、リスト化され登録され、これを立会人が確認した後に神の恩寵が一冊ごとに記される。目録にはタイトル、主題、書かれた書体が記され、改変を防ぐために各ページに目録のシールが貼られたという。それらは主題ごとに収納される。このためイスラムの図書館には必ずと言ってよいほど目録が存在した。しかし、このような個別の目録は、大きな図書館の統一した目録作りのためには煩雑さを増大させこれが却って邪魔になったらしい。

目録は大きく三分類され、第一はクルアーンを中心とする宗教学、第二は宗教学をサポートする学問としての文学、言語学、歴史、第三は科学、すなわち、医学、天文学、数学であった。哲学がないのは意外だ。同じ主題の図書があれば次のように優先順位が決められた。第一はクルアーンの中の言葉を多く含もの、次は預言者の言葉が記されたハディースが引用されているもの、その次は著者の評価が高いもの、最後は真正で権威のあるものという順である。

 

革新する製本技術

パピルスは巻子本に向いていて、冊子にすると強度的に問題があった。その起源はエジプトで紀元前3千年まで遡ると言われるが、前1100年頃から地中海東部に輸出されるようになり、ギリシア・ローマを通じて最も優れた書写材料だった。加工は単純で刈りとられたパルスの茎を縦にして切り広げ、さらに切り広げたもう一枚さらにもう一枚とつないで茎を槌で叩くと樹液によってくっ付いた。文献によっていくらか数値に差はあるが、縦に30~40センチ、横10~24センチに切り揃えたものを通常20枚繋いで作る。全体の長さは3メートル程度が標準で中には、もっと長いものもあったらしい。スムースで変形しやすく白くて文字が書きやすかった。

冊子 (コデックス) が作られるのは、一般にローマ時代の蝋板からと言われる。既にエジプトでパピルス製の冊子が作られていたようだが、折り曲げに弱いために使えなかった。やがて木の板に文字を刻み、それらを束ねた。木に代わって羊皮紙が使われるようになる。パーチメント、つまり、羊皮紙はアレクサンドリアに次ぐ図書館を擁した小アジア (現トルコ) にあったペルガモンに因む名で、この地で白く改良されたことから有名になった。フランス語の子牛から来たヴェラムは高級羊皮紙として知られる。

タラス河 キルギス北西部

イスラムの伝統として冊子 (コデックス) 状の本が一般的だったが、8世紀から9世紀にかけて、本製作にとって二大革命が起きる。一つは大文字から小文字主体の使用となって紙幅の量が節約できるようになったこと、そして紙の量産である。それまで紙は、輸入されたわずかな量だった。751年のタラス河畔の戦いの結果、その製法が中国からイスラム世界に伝わったことはよく知られている。アッバース朝軍に捕えられた唐の捕虜に紙職人がいたのである。サマルカンドに製紙場が建てられ、794年にはバグダッドにも出来ている。

初期のクルアーンは羊皮紙に書かれたものだったが、紙の使用は8世紀後半のアル=マンスールの頃には既に始まっていた。現在残っているアラビア語の写本で紙に書かれたものはアッバース期の866年のものである。10世紀半ばには、イベリア半島のアンダルスにも流通するようになっている。こうして、紙が生産されることによって書写材料が大量に生まれ、本の量もそれにつれて増加したのである。

付け加えて言えば、本の製作には沢山の業者が関わっていて書家、画家、飾り師、箔押しや裁断を行う職人、そして綴じ師などが必要とされ、マームーンの時代の頃から分業制がとられるようになる。

 

図書館の施設

図書館に入るには長方形に立ち並んだ柱廊と廊下を通り、華麗に装飾された部屋に入る。大理石の床は夏にはむしろで、冬にはフェルトや木で覆われていたし、窓やドアはカーテンで覆われ太陽の強い光線が遮られていた。建物にはパイプを通して水が流れて泉が作られ飲み水などに使われた。写本専用の部屋もある。一冊の本を同時に多数写本する場合は、一人が読み上げ、周りの者がそれを書きとっていった

 

図書館業務

モロッコのマドラサのあるアル=カラウィ―イーン・モスクの中庭 9世紀に設立され、現在は大学となっている。

図書館の利用は誰にでも開かれていて、利用者が来館すると目録と紙とインクが渡される。一冊全部写本したい場合はインクと紙は自前となるようだ。床かクッションに坐り、壁に寄りかかる。組まれた足の上か小さな木机の上に本を置いて読むが、本は床に置かないように注意された。貧乏学者は大図書館にやって来ては写本をし、販売して糊塗を凌いだという。

バグダッドの学林やモスクに併設される学校であるマドラサの図書館は毎日開いているが、一般の公立図書館は週のうち2、3日の開館で、日中にかぎられる。本は原則、持ち帰れなかったが、数時間の持ち出しは許される場合もあった。貸出の承認が得られないと、本と同等の保証金を払う必要があり、写本一日分の量のみが貸し出されたという。役所の高官など本を返却しない恐れのある場合は、もう一冊写本を作って貸し出したようだ。図書館員の仕事は現在と同等かそれより専門的だったと言われている。給料は学者の半分だった。図書館の財源は主に寄進された土地の賃料で、東方イスラムでは布業者、造幣家、羊毛の商人などが支えとなっていた。

 

アンダルスの花嫁 コルドバ


 

イスラム帝国は、アンダルス (スペイン) で756年にウマイヤ朝の系統の後ウマイヤ朝が既に成立していたが、北アフリカでシーア派のファーティマ朝が909年に起こるに及んで、それぞれの指導者が従来のアッバース朝に対抗する形でカリフを名乗るようになる。この三つの地域のカリフたちは敵対していたもののイスラム圏での人・物・金の流れにそれほどの支障はなかったようだ。これに応じて、それぞれの地域の都市で図書館を含めた文化が花開くことになり、10~11世紀はイスラム・ルネサンスと呼ぶに相応しい時代となっていくのである。ファーティマ朝が973年に首都をカイロに定め、アンダルスでは、かつて、この地の攻略を主導したムーサ・イヴン・ヌサイルが開発した都市コルドバが首都だった。

コルドバのメスキータ・モスク アブド・アッラフマーン1世により784年に建設が始められ、10世紀まで拡張が続けられた。

ファーティマ朝のカイロには988年に図書館が新設され、蔵書は10万冊とも60万冊とも言われ、そのうち2400冊は金と銀で装飾された華麗な『クルアーン』だった。一方アンダルスのコルドバではハカム2世 (在位961-967) の時に宮殿図書館の蔵書は40万冊とも60万冊ともいわれる規模に膨らんでいた。目録だけで44巻に上り、その各卷は詩歌作品だけに20頁を割いていた。

コルドバは、バグダッドやコンスタンティノープルに勝るとも劣らない繁栄を見せ始める。ラフマン2世 (在位822-852) は、優雅なファションやマナー、新たな化粧法や調理法を考案したペルシア人の音楽家ズィリヤーブを雇い、重用したが、このような才能を持つ人物が、アフリカ、エジプト、アラビア、シリア、イラク、ホラサーンといったムスリムの地から出現していた。ちなみにコルドバが知識の街ならセビリアは音楽の街だった。

コルドバ グアダルキビール川から望む対岸のメスキータ・モスク

カリフとなったラフマン3世 (在位929-961) とそれに続く先ほどのハカム2世の宮廷にイスラム地域から良書が集められ、同時に知識人や学者が集まってくる。宦官のバキヤが宮廷図書館を管理すると同時に、貧しい者でも教育を受けられるよう27の無償の学校を設立した。宗教に関係なく学ぶことができ、教員の給与はバキヤが負担した。13万件の家屋があり、街路沿いには、それらの家からの灯火に輝く舗装街路が数キロも続いた。多数の図書館や書店、モスク、宮殿を擁して、旅行者は感嘆し畏敬の念を抱いたと言われる。アラブの年代記者が「アンダルスの花嫁」と讃えたコルドバの絶頂期であった。トマス・アクィナス (1225頃-1274) が心酔したのがアリストテレスだったが、その最も著名な注釈を書いたイブン・ルシェド (1126‐1198/ラテン語名アヴェロエス) は、このコルドバで生まれている。

アンダルスは、アラブ式水車とカナート (地下用水路) による灌漑によって農地が拡大され、肥沃な土地からオリーブ、小麦、ブドウ、ヤシ、レモン、ライム、アーモンド、アプリコットなどが生産され、同時にイスラムの交易ネットワークによって、北アフリカからインディゴや小麦、エジプトから亜麻、真珠、染料に用いる蘇芳、遠くは中国やチベットの産物までもが、もたらされていた。その富が文化を支えていたのである。

11世紀に後ウマイヤ朝の滅亡後、キリスト教側のレコンキスタ (失地回復運動) が激しくなると次第にイスラムは南部に追い詰められ、1492年のグラナダ王国の滅亡によってアンダルスの地を失う。それまで、そこには宗教に関係なく多様な民族が暮らした。とりわけユダヤ人には住みやすい地域だったのである。イベリア半島が全面的にキリスト教国化されると、イザベル1世 (在位1479-1504) とフェルナンド2世 (在位1479-1516) 両王による異端審問が過激化し、まずユダヤ人が標的にされた。打ち続くユダヤ人迫害によって、彼らは比較的自由な雰囲気を持つ都市に逃れていったが、その中に16世紀末、アムステルダムに逃げ延びたスピノザの両親もいた。やがて、ムスリムも異端審問の対象になっていく。

ヨーロッパがアラビア語によるギリシア文献を手にいれるための窓口としたのは、シチリア、北イタリア、そしてスペインだったのだが、これがイスラムのスペイン、つまりアンダルスの辿った経緯だったのである。

 

知の統合と再発見


 

イアン・F・マクニーリ―&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

イアン・F・マクニーリ―とライザ・ウルヴァートンは『知はいかにして「再発明」されたか』の中でこう述べている。

イスラム教そのものが学問共同体と考えてよかったが、その中で知を支えてきたのはウラマー (法学者や神学者などの知識層を指す) と呼ばれる学者集団である。彼らは、国家や宗教的なエリートではなく、多くは裕福な地方の出身者で学識のある信心深い人物だった。中国の士大夫層に匹敵した。これに対して、ヨーロッパは貴族的なエリートに最初に仕えたのは学者ではなく騎士であり、ウラマーに相当する階層は無かったという。ちなみに、アメリカに支援を受けたパフラヴィー朝を打倒し、イラン革命を主導したホメイニー師もウラマーだった。

イスラムにおける新たな学問的解釈には、誤りなく説明され、記録された過去の文書に依拠している真実知恵であることを示すことが必要とされる。これはアレクサンドリアで確立された学問の伝統といってよいものだったろう。文書を照合して翻訳するためには、その様な態度がとられてきたのである。それは、統合と再発見への窓口であり続けた。知識とは苦労して勝ち得るものだったのである。

エジプトやメソポタミアの資料から錬金術/化学が、ヒンドゥーの数学から代数学が、天文学はプトレマイオスの天動説を地動説に変える一歩手前まで到達していた。イブン・スィーナ (ラテン語名アウィケンナ/980-1037) を頂点とする医学においては麻酔や鎮痛剤を用いての手術や感染症や癌の摘出に関する知識さえあった。こうした知の継承には、モスク付属の学校であるマドラサなどで、できるだけ対面によって親密な人間関係が形作られることが望ましいとされてきた。こうした学問の伝統は、宗教と法律、そして文書と口承の統合においてユダヤ教に匹敵するものだったという。

著者たちは、東方教会、カトリック、プロテスタントと分裂し、けっして和解することのなかったヨーロッパがイスラム圏のような一つの文化圏になるためには、イデオロギーの違いを超えた新たな制度が必要だったという。それが文字の共和国であったというのである。キケロが理想とした文字の共和国、それは、人文主義と言いかえてよいものだった。

 

イスラム文化の黄昏


 

歴史家のアーノルド・トインビーやジョージ・サートンが、アラブの天才、マキャベリやヴィーコ、コントの先駆者と呼んだイブン=ハルドゥーン (1332-1406) は、1377年に『歴史序説』を完成させた。チュニスに生まれた人だ。そこにはこのように書かれていた。「やがてマグレブ (北西アフリカ) とスペインで文明の息吹は止み、学問は文明の減退につれて衰退した。その結果、学問活動はそこでは消滅して、ただわずかな痕跡だけが散り散りにになった人々のあいだに見られ、それも正統派イスラーム学者の統制下に置かれているだけとなった (『歴史序説』3 第6章 森本公誠 訳)。」

1258年にフラグの率いるモンゴル軍によってバクダッドは陥落し、アッバース朝は滅びる。しかし、モンゴルは知識・情報を中心にイスラム文化を吸収しようとした。チンギス・ハンの孫にあたり、フラグの兄である第4代モンゴル帝国皇帝モンケ・ハン (在位1251-1259) は、ユークリッドの幾何学によく通じていたと言われ、首都のカラコルムやサマルカンド、イラン北部のダブリーズなどは文化の中心地となった。

そして、ハルドゥーンは続ける。イラク=アジャミ(イラン高原西部) や東のマーワランナフ (ウズベキスタン、タジキスタンとカザフスタンの一部) では、叡智の学問がまだ相当なレベル維持されている。‥‥一方でローマの国とそれに接する地中海北岸地域のヨーロッパ・キリスト教国では哲学が大流行していて、そこでは体系的な内容の哲学が教えられており、それらを知ろうとする多くの人々がいると書き残した。文化の風はヨーロッパへと風向きを変えたのである。

 

767年から912年にかけてのバクダッドの地図 強固な城壁に囲まれた円城を中心とした人工都市で、一般市民は城外に居住していた。人口100万を超え、当時、長安と並ぶ世界最大の都市だった。

 

 

参考図書 及び 引用文献

モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』 非常に良くまとめられた良書である。

イブン=ハルドゥーン『歴史序説』3  とても良い訳だと思う。

前嶋信次『アラビアの医術』 歴代の宮廷医、歴史的名医、はては藪医者、インチキ医者まで紹介する面白い著書。

 

 

 

 

 

イヴォ・アンドリッチ『ドリナの橋』架橋を過ぎるボスニアの記憶

 

ソコルル・メフメト・パシャ橋/ドリナの橋 トルコの建築家ミマール・スィナンの設計によって1571年から1577年にかけて建設された。ミマールは建築家を意味する言葉。全長179.5m、2007年に世界遺産になっている。

ボスニアとセルビアの国境をなすドリナ川、そのボスニア側にあるヴィシェグラードには、その川に架かっている世界遺産となった美しい橋がある。オスマン・トルコ帝国の新設部隊イエニチェリが東南欧のキリスト教国から10~15歳くらいの少年を拉致して常備軍の兵士に仕立て上げていた。奴隷の身分ながら多くの特権があり、中には政治の中枢で活躍する者もあった。その者たちの一人だったソコルル・メフメト・パシャは、この帝国の名宰相と知られる人物だった。パシャはトルコ高官への敬称である。

イヴォ・アンドリッチ『ドリナの橋』

ソコルル・メフメトはヴィシェグラードの山波の背後にある小村ソコロヴィチで生まれた。1516年のある朝、生きた税金としてイエニチェリの部隊によって連れ去られた。その途上、当時は橋のなかったヴィシェグラードの渡しに差し掛かかる。カラスの鳴き交わす岩だらけの秋深い岸辺は、少年にとって絶望の深い淵へと続いていた。その思い出は、黒い刃物のように長く心をえぐったという。しかし、そこは、ドリナの上流から中流にかけての唯一安全な渡河地点であり、ボスニアとセルビアとを結び、ひいてはイスタンブールに到るための不可欠な要の地点だった。宰相となった彼はそこに壮麗な石橋を架けるように命じたのである。

双子の嬰児の人柱伝説、見たものは死ぬという中央橋脚の穴に住む黒い男の話、橋近くの崖にある対になった丸い窪みの連なりと巨人伝説、工事を邪魔する不死身のラディサダを絹糸で絞殺する話、セイク・トゥルハニヤという殉死した回教僧に関わる天からの光といった数々の伝承がこの橋を巡って生まれた。この物語はソコルル・メフメト・パシャ橋を中心にヴィシェグラードの町とボスニアを巡る悠揚な歴史物語として展開されていく。

今回は、イヴォ・アンドリッチの代表作の一つドリナの橋』をプロットしてご紹介したい。ボスニア語表記のいくつかは、現在一般に使われているものに直している。歴史を踏まえてはいるけれど小説であるということはお含みください。

 

作者のイヴォ・アンドリッチは1892年オスマン帝国からオーストリア・ハンガリー帝国の施政地となったボスニアの古都トラヴニクの近郊にあるドラツで生まれた。サラエボの出身で、カトリックであった父はコーヒー挽きなどを製作する金属細工師だったが彼が2歳の時に亡くなっている。母親は幼い彼をヴィシェグラードに住む夫の姉に托して、サラエボで働くことになる。ドリナの橋を見つめながら育った彼は小学校を卒業すると、サラエボのギムナジウムに進学しドイツ語を学び、フランス語を独学した。

ザグレブ大学、ウィーン大学、クラクフ大学で学んでいるが、第一次大戦が勃この大戦の引き金が、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでのオーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド暗殺であったことは、ご存じのことだろう。アンドリッチは、大戦直後に故国に戻ったが、南スラヴ民族独立運動の青年組織に加わった廉でオーストリアの官憲によって逮捕され、いくつかの牢獄で過ごした。新皇帝カール1世 (ハンガリー王国カーロイ4世) 即位の恩赦で1917年に釈放される。大戦終結後にオーストリアのグラーツ大学に学び、論文「トルコ支配の影響下におけるボスニアの精神生活の発展」で哲学博士の学位を得た。故国は、セルビア王国主導のもとにセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国となったが、通称はユーゴスラビアであった。

アンドリッチは、完全に独立を果たせていない祖国のために外交官となることを決意し、ローマ、ブカレスト、トリエステ、マドリード、ジュネーヴ、パリ、ブリュッセルで大使館員や一等書記官として過ごし、最後はユーゴスラビア特命大使としてベルリンに駐在した。その間に作家活動も行い、ゴヤやペトラルカについて執筆、19世紀にボスニアに赴いたフランス領事ピエール・ダヴィッドの資料を集めるなどしている。1941年に引退し祖国に帰った数時間後にはドイツ軍によるベオグラードの空襲を経験している。50歳の時である。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国とその後 2006年にモンテネグロとセルビアの連合国からモンテネグロが独立し、ユーゴスラビア連邦は消滅する。2008年にコソボはセルビアから一方的に独立したが、ヴォイヴォディナはセルビアの自治州に留まっている。

苦難の第二次大戦中、執筆活動を続けていた彼は、戦後三つの代表作を刊行した。このドリナの』、トルコ支配のもとにあり、ナポレオンのフランスとオーストリアとの政治的な駆け引に揺れる19世紀初頭のトラヴニクに暮らす人々のボスニア物語』、サラエボ出身の若い娘が拝金主義の老婆と変わっていく閉ざされた女の一生を描くお嬢さん』 (邦題はサラエボの女) である。1954年にはイスタンブールを舞台とした『呪われた中庭』を完成させ、1961年にノーベル文学賞を受賞している。

第二次大戦中は、ドイツの侵攻によって分割統治されていたユーゴスラビアは、1945年にチトーの主導のもとに共産主義国家としてユーゴスラビア連邦人民共和国となった。この連邦の一つにボスニア・ヘルツェゴビナ共和国が成立する。およそ北部がボスニア地域、南部がヘルツェゴビナ地域と考えていただければ良い。1990年に共産党独裁が終焉し、それに伴ってスロベニア、マケドニア、クロアチアが独立した。しかし、クロアチアやスロベニアなどが、ほぼ民族ごとの国家であったの対して、翌年独立するボスニア・ヘルツェゴビナは、約5割のイスラム教徒を抱えた多民族国家であった。

ノーマン・M・ナイマーク
『民族浄化のヨーロッパ史』

イスラム教徒主体のボシュニャ人とローマ・カトリック主体のクロアチア人は独立国家を望んだが、正教徒主体のセルビア人はセルビアと同様にユーゴスラビア連邦に留まることを望んで三つ巴の紛争が生じ始める。これが1992年から始まるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の端緒だった。それは、凄惨なエスニック・クレンジング/民族浄化を伴ったことで知られるようになる。女性と子供を標的にした民族浄化は惨鼻を極めた。このことについてはノーマン・ナイマーク氏の『民族浄化のヨーロッパ史』をごらんになると良い。ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ 』大量虐殺の記憶文化で触れておいた。

1995年、国連調停によるデイトン合意と呼ばれる平和調停によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という不安定な連合国家となったが火種は燻っている。既に鬼籍の内にあるアンドリッチには思いもよらない展開だったろう。

 

1915年 そして1914年


 

橋は破壊された。かつて、地元の人間にシュヴァーべン人と呼ばれたオーストリアの人間たちが、手入れをし、磨き、基礎を直し、水道管をひき、電灯をともした橋、そのあげくに彼らは空中に四散させてしまったのだ。かつて、この橋が出来た時、同時に石の宿舎 (ハン) が建設された。それを守ってきた由緒正しい先祖を持つアリホジャは、あの大宰相の贈り物であり、世の中で最も堅固で、神に帰すべき永遠な物が真珠の首飾りのように四散したことを知ったのである。

繁盛を極めたロッティカホテルも榴弾で古い廃墟のようになっていた。ホテルのユダヤ人たち、かつて美貌と才覚でホテルを切り回していたロッティカ (ロッテ) と名目上の支配人である年老いたツァーラーとその妻の病身で泣いてばかりいるデボラ―、恐怖のあまり変になってしまったその娘のミンナ (ミナ)、体と頭に障害を持つデボラーの息子は、いくつかの荷物を載せた手押し車を押して橋を渡った。もはや、彼らの姿は、その昔、先祖が世界中の街道をさ迷ったと同じだった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ 地図

商人のパヴレ・ランコヴィッチは、第一次大戦が始まった翌日、数人のセルビア系の有力者と共に広場の下手のバラックに監禁された。橋を破壊するものがないようにと生命を担保にされたのである。橋に対する破壊行為のどのような兆候があっても彼らを射殺するように命令が下されていた。橋に爆薬が仕掛けられたことは前から知っていた。それに榴弾が当たれば爆発を誘発しないともかぎらなかった

彼は14歳の時、旧トルコ領からこの地にやって来て、食事と年に一着の着物と二足のオパンケ (サンダル) をあてがわれる丁稚として奉公を始めた。足も伸ばせない小部屋で眠り、正式の社員となり、暖房も灯火も節約を重ねて、やがて結婚し、自分の店を持てるようになった。オーストリア占領軍が来て商売は活気づいた。新時代を掴み、順応し、対処しようと全力を尽くし、副市長にもなり、セルビアの銀行の株主総代、地方銀行の監督委員会のメンバーともなった。15年もの間、他人の髪一本損なわないようにと働いてきた。その結果がこれだった。いやしい盗賊のように兵士に挟まれて椅子に縛り付けられている。自分は本当に生きてきたのだろうかという疑問が頭をもたげた。ただ、働き、貯め、気をもんだだけではなかったのか。人間が理性をあざ笑い、教会が人々を閉め出し、政府が剝き出しの暴力に変る時代が来たのである。

事件の四日目か五日目の朝、新しい部隊、弾薬や食料、装備を運ぶ馬や車が橋をひっきりなしに通過するようになる。その橋と橋の傍の兵営に向けてセルビア側の榴散弾の砲撃が加えられるようになった。オーストリア軍の野砲隊がそれに応戦した。今度はべつの方角から二基の榴弾砲からの榴弾が飛んできて、近くのロッティカホテルや将校クラブにも損害を与えた。すぐに兵営は燃え上がった。砲撃は10日続いたが、榴弾は橋脚にあたって丸い穴を開け、榴散弾は平らな固い石に当たってもほとんど見えないほどの傷を与えただけだった。

回教徒にとっては、どちらの側についても碌なことにならないことは目に見えていた。キリスト教徒同士の戦いだったからだ。中にはかつて、セルビアの地から逃れてきた回教徒もいたのである。広場は、あらゆる種類の兵種や予備役兵、馬車などでごった返し、憲兵が縛られた農民や市民を引っ立てていった。国境の村の二人の農夫と請負師のヴァーヨという男が橋の真正面の広場に連れてこられた。絞首架が建てられている。ヴァーヨは片言のドイツ語で無実を訴えた。罪状は、セルビア国境の先に灯火信号を送っていたという。ハンガリーの予備中尉は軍法会議で死刑宣告を受けた三人にその判決を読み上げていた。セルビア人にとってオーストリアの軛から解放されるために流したのは我々の血だという思いは消えなかっただろう。

その事件は1914年6月に起きた。ドリナ川とルザヴ川の合流地点の高い緑の岸辺で楽隊たちが演奏し、若者や主婦や子供たちも集まってセルビアの民族舞曲コロが歌われ、つなぎ合わせた手の熱い広がりが、ひとつの血のリズムに溶けあって踊りも最高潮を迎えた頃、憲兵がやってきた。今朝、サラエボでフェルディナンド大公大公妃が暗殺されたのである。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が暗殺された。世にいうサラエボ事件である。その日からドリナの橋の中央部のカピアには歩哨の兵が立つようになった。テロリストは大セルビア主義を掲げるボスニア・ヘルツェゴビナ出身のセルビア人、ガブリロ・プリンツィプだったのである。セルビア人に対する迫害がささやかれ始める。ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人の中には大セルビアを目指す人間たちが数を増やしつつあった。

 

町の繁栄オーストリア・ハンガリー帝国への帰属


 

1913年にはオーストリア、トルコ、セルビアにそれぞれ面していた三国国境はセルビアとオーストリア、二国の国境となり、町から15キロほどの所にあったトルコ国境は千キロ以上も南下してアドリアノープル背後まで後退したのである。オスマン帝国は潮のように引いて行き、オーストリア帝国は民族独立の機運に大きく揺れ始め、空中分解寸前となる。1903年、公国から王国に移行していたセルビアでは王位の交代があり、トルコの政変が続いた。しかし、併合危機と呼ばれたこの時期もヴィシェグラードは無事に過ぎていった。

オーストリアの軍用馬車が初めて橋を渡って20年が過ぎた頃、ドリナ川の右岸に鉄道が敷かれ、ヴィシェグラードの郊外に駅が建設されるようになる。この時、これが町の生活を支えてきた橋にとってどういう意味があるのかを人々は理解し始める。左岸はすっかりさびれて橋も運命を共にした。サラエボには4時間で行けるようになり、日帰りしてくる人々を他人は、不思議そうに見ていた。物価は高騰して、もはや儲けよりも出費の方がかさみ始める。労働組合が生まれ、ストライキという言葉が囁かれる。サラエボではセルビア人や回教徒の宗教的・愛国的な団体が結成され、ウィーンやプラハで学んでいる大学生が休暇で帰省し、新たな言葉や珍しい土産を持ち帰った。若者の間にはセルビアを中心とした南スラヴ (ユーゴスラヴィア) 人が独立のために結束すべきだという主張が醸成され始めていた。アンドリッチもそのような若者の一人だったのかもしれない。

町が景気に沸き返るようになるとユダヤ人ツァーラ―は町でも有数の大きさを誇るホテルを開業した。二階には泊り客用の6部屋があり、一階は一般向け用の大きなサロンと官吏、将校、金満家向けの小さなサロンに分かれている。そこを実際に切り盛りしていたのは義妹のロッティカ (ロッテ) という美しく才気煥発な未亡人だった。それで人々はここをロッティカホテルと呼んだ。彼女のために金をはたいていく男たちが、アルコールに乗じて彼女に迫ることがあっても、彼女の話し方は優しく、機知に富み、鋭く、おもねるようでもあり、宥めるようでもあったという。彼女が何時休み、眠り、食べるのか、着物を着付けや化粧をする時間をどのように工面するのか誰も知らなかった。

しかし、忙しい中でも、誰も入れない小さな事務所にそっと入ると、株式市況を読み、預金を調べ、銀行に手紙を書き、決済を下し、新しい預金を送った。無数の親戚と手紙を交わし結婚した妹や弟、ガリチア、オーストリア、ハンガリーに散らばった赤貧に喘ぐ多くの従兄姉たちに金を送り、どんな細かな事、子供を学校にやること、病人の扱い、金遣いの荒い者への叱責と忠告、家庭紛争の調停といったことに知恵をかし、人生の意義を教えたのである。

ソコルル・メフメト・パシャ橋/ドリナの橋のカピアの反対側にあるトルコの碑文

オーストリア軍の進駐が終わると戸籍調査が行われ、下水が整備され、水道が敷かれるようになり、地方庁の役所や裁判所などが建てられ、ポーランド、チェコ、ハンガリーなどから人々がやって来るようになる。ヴィシェグラードの町は秩序立ち、豊かになり、新たなテンポと今までになかった安定とがもたらされた。19世紀の最後の四分の一は、めったに達成されることのない無風状態が続いたのである。

進駐後間もなく、カピアの反対側、トルコ語の碑文のすぐ下にオーストリア占領軍の布告が貼りだされた。我々は敵としてやってきたのではないし、この国土を暴力をもって制圧しに来たのでもないと書かれてあった。しかし、オーストリアを指すシュヴァーベン人は伏兵を恐れ、トルコ人はシュヴァーベン人を恐れ、セルビア人はその両方を恐れ、ユダヤ人は全てを恐れた。

1878年の夏、ヴィシェグラードはオーストリア軍の進駐を受けた。その時、セルビアは既にトルコからの独立を果たして公国となっていたし、トルコの正規軍はサラエボから撤退してドリナの橋を渡っていた。サルタンは抵抗なしにボスニアを譲歩するという噂も広がっていた。何世帯かのトルコ人はトルコ領へ移住し、その中には30年前にセルビアの支配下を脱してボスニアに移ってきた人々も含まれていた。

進駐が間もなく始まろうとする頃、回教の法僧であるムフティーは反オーストリア抵抗運動を組織しようと町に乗り込んできたが、この町の優柔不断な態度にいら立った。ムフティーに反抗したのはアリホジャ・ムテヴェリチという町でも屈指の家系で信望を集めていた人物だった。この一族の長は200年もの間メフメド・パシャの建造物であった石のハン (宿舎) の管理人の家系だった。オスマン帝国がハンガリーを喪失した時、ハンの維持費は打ち切られ、ムテヴェリチ家は、その官職を失うが永年正直に勤め上げた官職の誇りは今に残って続いていた。ヴィシェグラードのほとんどの回教徒と同じようにアリホジャも武装蜂起には反対だった。サルタンは既に割譲を約していたし、ちゃんと組織されていない民衆の抵抗運動は敗北するだけで不幸をもっとひどくするだけだと考えていた。

ムフティーたちは、オスマン・エフェンディ・カラマリンを残して立ち去り、アリホジャとの一騎打ちの様相を呈した。カラマリンは激高してホジャに迫ったが、アリホジャは冷静に意地が悪いと思えるほどの些事をあげつらって対抗した。しかし、オーストリア軍が町の近くまで迫ってくると、カラマリンはサルタンの命に反抗したトルコの敗残兵と共に町を出ようとし、置き土産にハンのあった台地に檞 (かしわ) の丸太を撃ち込んで、アリホジャの耳をそれに楔で撃ち込ませたのである。救ったのは赤い十字のマークをつけたオーストリアの兵士だった。

 

セルビアの反乱と独立


 

第一次大戦を挟んだ1882年から1918年にかけてセルビアは王国として存在した。それより前の1815年から1817年にかけての第二次セルビア人蜂起によって、セルビアは公国として独立を勝ち得た。しかし、なおオスマン帝国は宗主権を維持していた。それ以前の1804年から1813年にかけて第一次セルビア人蜂起があった。オスマン帝国の支配に対してセルビアで反乱が起きていた。カラジョルジェ (黒いジョルジェ/1762-1817) が反乱の将であり、後にその家系からセルビア王家の祖が誕生する。オスマン帝国内のボスニアとセルビアの接境地帯にあるヴィシェグラードの町は平穏ではいられなかった。いかなる国家、帝国と言えど反乱や陰謀がないということはあり得ない。セルビアの反乱が広がるとトルコ人に対する徴兵と戦費の供出のために租税の要求が、いや増していった。セルビアへ送られる兵士や物資の大部分はこの町を通った。近くのセルビア側では、反乱軍が地主の家を大砲で破壊しトルコ人の家を焼き払った。ボスニアのセルビア人は反乱の火が自分たちの住む地にも、もたらされるように、トルコ人たちはこの火がもみ消されるようにと祈ったし、キリスト教徒たちは闇に紛れて十字を切った。

ソコルル・メフメト・パシャ橋/ドリナの橋
中央部の碑が建つ反対側にカピアと呼ばれるスペースがある

セルビアとボスニアを結ぶたった一つの連絡手段としてのドリアの橋は重要性を増していく。セルビア側からは何人ものセルビア人がこの町にも避難し始めていた。やがて、トルコによって橋の中央部のカピアに木造の不細工な二階建ての関所が設けられた。二階は衛兵の宿所である。この世の旅人チャイニチェ村のイェリニシェは、セルビア諸王と貴族の聖跡、建物、墓所を訪れ、正義の上に築かれた復活の王国を夢見ていた。以前には、トルコの官憲は彼を狂信者として気にも留めなかったが、関所のできた日、彼は運悪く、そこを通りかかり、リイエスコ村の19歳になる孤児ミレとともに首をはねられた。ミレは、セルビアの勇者アリベイの歌を歌っていただけだった。セルビアの反乱が収まると関所の必要もなくなり、やがて火事で焼失した。

 

キャラヴァン・サライとドリナの橋


 

ハンガリーの地を百年近く占領していたトルコ軍の撤退の噂がボスニアでささやかれ始めた。17世紀末のことである。1683年に第二次ウィーン包囲を開始したトルコ軍はポーランドの参戦により大敗し、東欧での覇権をオーストリアに譲ることになる。ドリナの橋の傍には無料で泊まれるハン (宿舎) としてキャラヴァン・サライが二世紀もの間存続していたが、そのこととハンガリーからのトルコ軍の撤退が関係しようとはヴィシェグラードの住人には思いもよらなかった。ハンガリーを失うことによって、無料で泊まれていたハンの維持費は打ち切られた。しかし、管理人のダウツホジャ・ムテヴェリチはハンを救うために自分の財産をつぎ込み、あらゆる手を尽くした。この賢明で、敬虔で強情な男はどんな事態になっても諦めることがなかった。それ故、後々まで町の人々の記憶に残ったのである。ダウツホジャの死後、ハンは急速にさびれていった。

ドリアの橋の上 中央部は少し高くなっている。

このハンとちょうど同時にソコルル・メフメト・パシャ橋は建てられた。管理も維持費もいらない橋の方は度重なる大洪水によく耐えた。春と秋に大水が出たが20~30年に一度大水害が襲った。そのような洪水は人々の記憶に残り、長老たちの語り草となった。とりわけ18世紀末の大洪水はドリナ川とルザヴ川が町の上で一本になるという激しいものだった。泥水は橋のアーチや手すりさえも超えてカピアの高くなった部分だけを残して流れ続けたのである。

自然の力による共通の不幸はトルコ領に住む非回教徒であるラーヤーとトルコ人とを結び付けた。ミハイロ司教は、初代のヨヴァン司祭の祈りは神に聞いてもらえないから、願い事とは反対のことを唱えればいいと町の者から冷やかされたとか、回教僧のムラ・イスメットは洪水除けの祈祷は、安全な岡の上の坊さんより危険な下町の坊さんにさせろ、その坊さんは心半分しか祈ってないぞと言ったジプシーの話をするのだった。水が引くと町中が片付け修復に取り掛かった。人々は、自分の人生において、どんな自然の力にも譲歩しない測り知れない土台の力と極めがたい調和の力によってどんな試練にも無傷で耐え抜く存在のあることを知ったのである。

 

ソコルル・メフメト・パシャ橋の工事


 

1571年、大宰相ソコルル・メフメト・パシャが工事総監督に命じたアビダガがヴィシェグラードに赴任してきた。彼は、無慈悲でおそろしく厳格な、みさかいもない人間だと評判の人物だった。歌にもなった長い緑色の杖を持ち、病気かと思うような赤ら顔に緑色の眼をし、イスタンブール風の衣装にハンガリー風の奇妙に捻じれた口ひげを生やしている。怠けたり規定通り働かない者は、この杖で指され、警吏が直ちに鞭打ち、血みどろになり卒倒した者に水をぶっ掛けて配置に戻した。この町とその周辺の者には、いつ終わるともしれない災難が降りかかったと言ってよかった。森が切り開かれ夥しい木材がドリナの両岸に積み上げられた。土を掘り立杭を打つ作業が賦役として続いた。

冬には工事が中断されるが、次の春には岸辺から大量の石が切り出され、てっきり木の橋が出来るものと思っていた賦役の者を驚かせた。小屋の一大集落が建ち、新しい道や水路が出来上がり、選ばれた人夫たちが春の緑色の川の水に浸かって太杭を打ち込み水路を変えるために粘土を詰めた籠を並べていった。工事は3年目に入ったが、賃金は払われたり払われなかったりで、食料のパンは乏しく人々は疲れ果てていた。いつ終わるとも知れない賦役にトルコ人たちは動揺し始め、周辺からはキリスト教徒たちがニワトリのように捕まえられ強制的に集められた。

賦役農夫の中にラディサダという男がいた。彼の村は40年前にトルコ領になっている。周囲の者に不満をぶちまけて、工事を中断させよう、夜になったら橋を破壊して妖精が工事を嫌っているという噂を流そうとけしかけた。夜の間に堰や石垣に被害が出るようになる。不穏な空気が満ちるとあらぬ噂が立ち始めた。橋を壊す妖精がアビダガの夢枕に立ち、橋脚にストーヤ (止まれ)、オストーヤ (留まれ) という名の双子を人柱にすれば壊すのをやめるのだと言いふらす者が現れた。ヴィシェグラードの上手の村に住む言葉のない障害のある娘が父親の分からない双子を生んだが死産だった。娘は子供が死んだのを信じなかった。しつこく何処に行ったと聞かれたためにトルコ人の橋のある街にやったと言い訳がされた。それで、その娘は工事現場に現れては子供の居所を執拗にたずね歩いた。料理人は余った粥を与え、アビダガでさえ彼女に食事を出してやれと命じた。こうして橋脚に子供が人柱として塗りこめられたという噂が語り継がれていった。

ラディサダはとうとう捕らえられた。股から肩にかけて棒杭で貫かれ、刑場にその棒ごと突き立てられたのである。セルビアの女たちは妖精が彼の骸をブツコヴォの岩の上に葬り、夜な夜な強い光がその上に降ると語り合うのだった。翌年の春、アビダガに代わるアリフ・ベイという新しい工事総監督がやってきた。アビダガの周囲にいた誰かが彼の行状を大宰相に報告したのである。アビダガは着服した金を全て弁償させられた上、残りの財産とハーレムを携えて田舎に蟄居の身となった。アリフ・ベイは仕事に情熱を持ち、健康で正直な人物だった。人夫は皆賃金を貰い、粉と塩の配給を受けるようになり、工事ははかどった。その工事は5年目に入った。そしてとうとう11個のアーチに乗った目も奪うばかりの美しさに輝く石橋が完成したのである。

 

付 大宰相の死


右 ソコルル・メフメト・パシャ (1506-1579)  
左  側近のフェリドゥン・アーメド・ベイ

ソコルル・メフメト・パシャは、サルタンの宮殿で盾持ちから軍の大提督にまで上り詰めた。スレイマン1世のもとで大宰相になり、その後、無能といわれたセリム2世やムラト3世に仕えた人物である。世界にその名声をうたわれた軍人であり政治家だった。想像もつかないほどの権力と栄光の高みに登ったのである。しかし、子供の頃故郷からさらわれ、途中遭遇した渡し場の険しい岸と不気味な流れが、齢を重ねるごとに後味の悪さを思い出させた。

彼は、故郷ボスニアとイスタンブールを結ぶべく自分の出費で橋を架けることを決定したのである。橋が完成した翌年、彼はカスピ海進出を狙ってサファヴィー朝ペルシアに侵攻を開始する。しかし、1579年修行僧 (ダルヴィーシュ) に扮したペルシア人に面会を求められた時、彼の体はその男の黒い刃で刺され、暗殺されたのである。

 

 

 

参考文献

 

イヴォ・アンドリッチ『ボスニア物語』

イヴォ・アンドリッチ『サラエボの女』

イヴォ・アンドリッチ 『呪われた中庭』

 

 

 

 

 

 

 

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン part2 『ニンファ・モデルナ』イメージは落下しながら何処へ向かうのか

 

ステファノ・マデルノ『聖カエキリア』1600年 サンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂

極限の優美として知られる聖カエキリアの像。日本では中世ラテン語の聖チェチーリアという呼び名の方が知られている。カエキリアは、より古いラテン語の呼び名だ。ステファノ・マデルノという、あまり名の知られぬ古代彫刻の修復師の手になる大理石の作品だった。手折られた花のような小柄な体を少し丸め、ドレスの優美な襞が全身を波打つ、しかし、顔は地面へと真下に向けられ、しかも頭はヴェールで覆われている。前に投げ出された左手は「一者の神」を指し、右手は、それに答えて「三つの位格において」と答える。気をつけて見てほしい、首筋の傷と滴り落ちようとする血の雫。

ジェノヴァの第八代大司教であり、ドミニコ会士であったヤコブス・デ・ウォラギネ (1230?-1298) の『黄金伝説』は、ヨーロッパでもっとも広く読まれた聖者と殉教者の列伝である。そこに登場する聖カエキリアの殉教の様子は、このように伝えられている。首切り役人は、カエリアの首に三度刃を振ったが、血まみれになりながらも落とすことができなかった。受刑者に三度を過ぎて刃をたててはならないのが定めだった。彼女は半死半生のままに三日の間生き続け、財産を貧者に分かち、改宗させた信者を司教ウルバヌスに委ね、自らの家を教会にするよう遺言して息を引き取った。

『死せるペルシア人』 本書より

16世紀の最後の年、カエキリアを記念する教会であるサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂の地下墳墓で糸杉製の箱が発見される。棺と呼ぶには小さかった。絹の布地の塊と所々染みのついたガーゼが中に見えた。その下に遺体の骨があるかどうかを確認することは慮 (おもんばか) られた。そこに駆けつけた教皇クレメンス8世は、そのヴェールを上げさせず、星を縫い取った銀の布地でこの箱を包むように指示したと伝えられている。ディディ=ユベルマンは、マデルノの作品は、この「布に包まれた形」を変容させ、その名高い彼女のポーズは彼の想像力の成し得た成果ではなかったかと考える。このカエキリアの姿勢はヘレニズム期の古代ローマの彫刻『死せるペルシア人』という「定型」から、おそらく借用された。

ディディ=ユベルマン『ニンファ・モデルナ』

今回ご紹介する著書は、イタリア語でニンファ、英語ではニンフの「衣装=布地」が主人公である。モデルナは、「近代の」あるいは「現代の」という意味で、タイトルを訳せば「ニンフ・現代の」となる。ニンファは色んな姿に変化する若い女性像と考えていただいたほうが良い。そのニンファのものばかりではない「落ちた布」のイメージの変遷が追跡される。前回ご紹介したジョルジュ・ディディ=ユベルマンの著作『時間の前で』において詳述されたヴァールブルクの〈残存〉、ベンヤミンの〈根源〉、カール・アインシュタイン〈徴候〉を巡って考察された美術史のアナクロニズムが、ニンファの布というイメージを例にとって述べられるのである。

イメージとしての現在と過去との関係は時間的に連続したものではなく、〈昔〉と〈今〉の関係は弁証法的なもので、ギクシャクしたイメージなのだとベンヤミンは述べた。イメージは変容し続けるものなのであり、それが静止する時は思考の運動における中間休止となる。残存を気づかせる閃光は、時間のリズムが区切られた時に、歴史以前の化石の空間を開くという。思考が緊張で飽和したイメージの星座のなかで静止する時、弁証法的イメージが現れるというのである。今回の『ニンファ・モデルナ』では、この弁証法的展開が明瞭に示されている。

ウィリアム・ブグロー『ニンフたち』1878

本書のテーマは、くどいようだが、ニンファではない、真のテーマは、彼女の着ていた薄いヴェールのような服、あるいは体を包む布地である。そのイメージは、歴史の中でスローモーションのように地面に落ちてゆくとディディ=ユベルマンは言う。ニンファはヴィーナスとなり、横たわるしどけなき美女となり、相手を見据える娼婦となるが、その過程で布地は体からずり落ち、地面に置き去りとなり、ついには排水溝の口に押し流される存在となる。そのイメージの変遷をご覧いただくことになる。

 

第一章 テーゼ ニンファの布


 

ニンファ

フロイトが愛したギリシア時代のレリーフ (ローマ期におけるコピー) ヴァチカン美術館

ドイツの作家イェンゼンの小説『グラディーヴァ』、そのモデルになったのはフロイトの愛した古代ギリシアのニンファのレリーフだった。その名は、フロイトが『W.イェンゼンの《グラディーヴァ》における妄想と夢』という論文を発表して夙に知られるようになる。彼女は、フロイトのいう不気味なものを波及させるニンファのヒロインである。ディディ=ユベルマンはニンファについてこのように述べる。フロイトに影響を受けた美術史家アビ・ヴァールブルクにとってニンファは「謎の生体」だった。泉の傍で横たわり、洞窟で眠り、糸を紡ぎ、人には聞こえぬ旋律を歌い、踊ったり追いかけられたり、辱められたかと思えば、若い男に夢中になる。女神たちのお産を助け、幼子ディオニソスに乳を与え、泉を守護するかと思えば、人の命も奪いかねないと。それは、正邪の文目もつかぬ一つの運動体、数十世紀にわたって撮影され、強引に速回しでもしないと筋立てが掴めない映画のようだというのである。

アウラを放つ特性なきヒロインである彼女たちは、人の心を奪い感覚を麻痺させる力を持ち、風のように逃げ去りやすく、化石のようにしぶとい。そしてまた彼女は、数を増し、『遠まわしの類似』をわたしたちに差し出す。すると突然、あらゆる時が一斉に踊り出し、全ての化生が夢の如くまじりあうとも述べる。ヴァールブルクの記億・欲望・時間を巡るイコノグラフィーに登場するニンファは古代の大理石に、中世の『薔薇物語』の挿絵に、ルネサンスのボッティチェリの絵画の中に、ブグローの描く水浴びに登場する下級女神、あるいは、至る所に登場する海の精、山の精、冥界の精である。

 

聖なるイメージと布

左 ミケランジェロ『ピエタ』 右 ベルニーニ『福者ルドヴィーカ・アルベルト―二』

先にご紹介した『聖カエキリア』の彫像は、ほぼ全体が布と言っていい。それは『死せるペルシア人』という古代彫刻の「パトスフォルメル/情念定型」と交響している。眠るかのようにゆったりとした体に纏わりつく美しい襞は当時最も名高い彫刻として知られていた。それは「くず折れる身体」に形を与えたあまたの例の一つとなっているのである。ポーズ布地の襞が織りなす造形美と言える。ミケランジェロの『ピエタ』、ベルニーニの『福者ルドヴィーカ・アルベルト―二』、ジュゼッペ・ジョルジェティの『聖セバスティアヌス』、とりわけヴェールの美しさを際立出せるのは、ジュゼッペ・サマルティーノの『ヴェールに包まれたキリスト像』である。

ジュゼッペ・サマルティーノ 『ヴェールに包まれたキリスト像』1753 サンセヴェーロ聖堂  ナポリ

ディディ=ユベルマンは『聖カエキリア』の彫像のユニークさを強調する。先ほどの彫像たちが仰向けであったり、外に開かれているのに対して、聖カエキリアは体を丸めて伏せ、首を真下に向ける。それは、ヴァールブルクの言う「力性に満ちた反転」だと言うのだ。同じ形の類型を全くことなった文脈、象徴性に用いる時、その形態を反転しさえするような発想を作者は行っているのである。

そして、この布にディディ=ユベルマンは、話題を戻す。「閉ざしと差出し」、「女性と男性」、「貞潔とエロス」、「キリスト教と異教」、それらの両義的な価値を持つ身体の間でインターフェイスとして機能するのは布地なのである。それによって『聖カエキリア』の彫像は、古代のニンフのように官能的な軽やかさを持ち、大理石の上に身を投げ出して眠っているように見えるというのだ。そこに集約された欲望を見ることさえ可能だけれど、キリスト教という地平線上にある布地は、聖骸布や屍衣、つまり「布に切り詰められた身体」なのだという。そうした作品をジュゼッペ・サマルティーノの『ベールに包まれたキリスト像』に見ることができる。

パトスに満ちた、これらの彫像の襞はドゥルーズの言葉を借りれば「無限に至る襞」である。バロックの着衣は、ゆったりとして膨らみ、襞を寄せ、裾を膨らませ、身体それ自体を襞で囲むという。ベルニーニの彫刻は、身体を燃え上がらせる精神的な冒険によって説明される襞を無限にまでもたらし、無限において襞をとらえる。これはもはや構造の芸術ではなく、繊維の芸術であるというのである (ジル・ドゥルーズ『襞』)。

裸婦と布地

左 ベッリーニ+ティツィァーノ『神々の祝祭』  1514-1529  部分
中 ティツィアーノ      『アンドロス島の人々』  1523-1524    部分
右 ティツィアーノ   『バッカスとアリアドネ』  1520-1523    部分

一方、その現勢化の力が身体から抜け落ちて地面へと落下し始めるようなイメージ群も生じていた。ティツィアーノのバッカスシリーズが好例となっている。触覚的に裸体が描かれるルネサンス絵画において、布は一種の感光板、つまり形象化の力を支える場となっているとヴァールブルクは指摘する。上図左はベッリーニの作品にティツィアーノが加筆している『神々の祝祭』だが、ニンファが胸をはだけて眠っている。上図中の『アンドロス島の人々』では、眠っているニンファの衣装は肩の向こうにずり落ちている。そして、上図右の『バッカスとアリアドネ』では、ついに衣装は脱ぎ捨てられ地面に置き去りにされているのだ。ティツィアーノのこれらの作品でニンファは本当の意味で落ち始めるのである。

上 ジョルジョーネ (1477頃-1510)    『眠れるヴィーナス』 部分 1510
下 エドゥアール・マネ (1832-1883) 『オランピア』          部分 1863

欲望を巡る新たな情念=パトスを主題にした作品は、勿論それだけではない。ボッティチェリの一糸もまとうことのない『ヴィーナスの誕生』、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』、ジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』、ヴァトーの『ジュピターとアンティオペ』、ブーシェの『水浴のディアナ』などが知られる。

やがて、神話の世界の眠るヴィーナスでも、水浴びするニンフでもない存在、依頼主の恋人や実在の裸婦がキャンバスに現れる。ゴヤの『裸のマハ』であり、マネの『オランピア』である。このため、それらの絵はスキャンダルを呼んだ。ゴヤは何度か裁判所に呼び出され、マネは罵詈雑言を浴びせかけられることになった。しかし、それらの作品においても衣装や敷布は裸体の下に置かれ、なおも感光板の役割を果たしていた。これに19世紀末から20世紀初頭にかけての「堕ちたヴィーナス」たち、クリムトやシーレの裸婦、そしてロプスを挙げておけば十分だろう。

 

第二章 アンチテーゼ 襤褸布


 

エミール・ゾラ (1840-1902)

19世紀もどん詰まりの世紀末、エミール・ゾラが『パリの胃袋』で、パリの猥雑を書いた20年後のことである。彼は、あの聖カエキリアを記念する聖堂があるローマのトラステヴェレ地区を描いた。そこの通りには、あちこちに襤褸 (ぼろ) をまとった不潔な人々がうごめき、虱のたかった半裸の子らがいて、髪も露わにしてキャミソールやけばしけばしいペチコートを身に着けた女たちが何やら喚いている。そして、あらゆる窓やバルコニーに、あるいは道をまたいで張り巡らされたロープに洗濯物やら訳の分からぬ襤褸やらが満艦飾に連なっていた (『ローマ』)

そこにアウラの「世俗化」を見るかどうかは別にして、ディディ=ユベルマンは、街や街路も固有な考古学を持っていて、歴史の厚みの中でアナクロニズムの腐植土に満たされていると言う。ベンヤミンの指摘する「今」と「かつて」についての最も内奥のイメーである。それは、part1でご紹介した歴史の現在時にとって重要な条件であるイメージの記憶とその支配にまつわる問題だった。流行遅れとは人類の記憶が及ばぬ程古いということを指すとベンヤミンが述べたが、ボードレールのこの言葉「現代性そのものが太古の視線でわれわれを射すくめる」は、モードという言葉を改めて考え直させる。

このボードレールとベンヤミンの言葉は、グリーンバーグ主義の美学やそれに反対する美学においても見過ごされてきたものであり、「モード」は「死 mort」と「モデルニテ modernité」と両方に関わっていて、その反意語「時代遅れ」と併せて考える必要があるという。この関係は、英語では見えなくなる。「太古の視線」とは、あらゆる抽象的な美から手を切り、「一時的なものから永遠を取り出す」ことだと言う。それは「人間の生が意欲することなく、そこに込める不可思議な美しさ (『ボードレール批評』)」なのである。つまり、浮かび上がってくるイメージのことだ。

襤褸布のパトス

ウージェーヌ・アジェ『ポルト・ダスニエールの屑屋』1913

ここで、ディディ=ユベルマンは、ベンヤミンの言う「屑拾いの美術家」という言葉にひっかけて襤褸 (ぼろ) 布のイメージを追う。ニンファの衣服に対するアンチテーゼを求めるのだ。ここからの主人公の感光板、つまりニンファやヴィーナスが脱いだ衣服や褥の代わりになるものは、パリの側溝や舗道脇の排水溝、かつてのどぶ川である。汚水に浸かった布の塊、あちこちに小さなゴミをくっ付けて片隅にひっそりと呼吸している塊たち。

以前の話題作、スティーヴ・マックィーンの『ダム』(1998年) のシリーズが俎上に上る。捨てられ、側溝などに流された襤褸布の写真である。僕ぐらい世代の人ならマックィーンと言えば有名なアメリカの俳優さんだが、こちらはテートギャラリーからターナー賞も受賞した映像作家だ。評論家は、この人の作品のマテリアリズム、触覚的ヴィジョンにモダニズム以降の芸術の一時代を代表すると賛辞を送ったが、ディディ=ユベルマンはいささか皮肉を込めて、批評家や商業的な展覧会は、そうやって作品を歴史上の閉域に囲い込み自足してしまうが、遠近法的に相対化してみるなら「時の無意識」というものが見えてくると述べる。モードの空間から離れて、流行遅れの領域の方へとイメージの考古学者になり、本質的に埋もれてしまった過去へと遡れば、アナクロ二ックな意味での優れて「内奥のイメージ」が現れてくるというのである。

マックィーンに先立つ10年前にはドゥニーズ・コロンがパリの地面、石畳、水たまりに映った樹木や通行人を連作していたし、その20年前には、アンダーグラウンド作家のアラン・フレシェールが『地面の風景』と題して1967年から翌年にかけて制作したものがある。特にフレシェールの作品はカラーでサイズもマックィーンのものとほぼ同じ、作品もまったく遜色がないが、光彩の点でより強烈だった。彼の作品はYoutubeで見ることができるが、他の作品のために年齢制限がかかっている。それらの作品の中にはリヒターの作品との関係がありそうなものもあり興味深い。マックィーンの作品は観光写真だが、フレシェールのものは数年に亘って撮影された700から800枚に及ぶ労作で、探求の結果より探求の時間そのものにエネルギーを費やしているものだと強調する。それらの写真にはベンヤミンが述べた「物のただなかの強烈なパトスに満ちた働き」と呼ぶものが顕れているというのである。それらの襤褸布の作品が作られた当時、まだ「ポスト・モダンな」流行はなかったが、はっきりとアヴァンギャルドの作品と関係しながら緩やかに形成されていったものだという。

アヴァンギャルドの排水口と地獄の入り口

モホリ=ナギ・ラースロー『排水溝』1925 本書より

ベンヤミンが蠢く都市と呼んだパリの街。これらの襤褸布は、様々な人から様々に形容された地面や道路の設えのあちこちに見られたものだった。ボードレールが不快なものたちの流れゆく床と呼び、フロイトが馴染み深くも奇妙に不安を掻き立てると形容した側溝や排水口、それらは下水の口、水の目であり、大地の夢が流れ込む黄泉の国に通じる入り口だった。闇に向かう黄泉平坂に通じる穴、神曲の持っている人類学がこの世にあるとした地獄の入り口、バルザックの言う人間と同じ病に冒された物たちの流れる道の果てである。それは、ナダールが撮影のために潜入し、ユゴーが『レ・ミゼラブル』において周到に描写した水道へと通じている。「人の形を差し引いた汚物の行きかう所」と形容された水道へと。

ウージェーヌ・アジェは、デカルト通りのパン屋の店先にある排水口からあふれ出る水を防ぐかのように置かれた襤褸布を撮影している。その15年後、アヴァンギャルドの映像作家として知られるモホリ=ナジ・ラースローがパリを旅行した際、下水道のプレート、排水溝を流れる水、びしょびしょの布、金属、石、瀝青といった対象をリズミカルで眩い光に溢れた映像として写真に定着させていた。美術史家のフランツ・ローが、写真目に見える世界を切り取り閉じ込めるのではなく、物から引き出され享受される映像の領野を拡大すると述べたが、襤褸布のような打ち捨てられた物の細部によって大都市の地獄のような内実が深い意味を持ったものとして立ち現れる。こうしてファンタスムの契機が開かれるのである。 

ジェルメーヌ・クリュル『リヴォ通りと中央市場通りの交差点、午前10時半』1928 本書より

写真機は、下水とそれに関連する機械的な設備を機械的に作動させることによって写し取るが、その対象に視線を向け、シャッターを切る人間の生体とも当然関連している。それは機械的生と有機的な生との弁証法的な作業なのである。その作業によって浮き上がってくるのは、襤褸布にまつわる暴力的イメージ、物に溢れる強烈なパトスではないかとディディ=ユベルマンは述べる。モホリ=ナギが、「下から上へ、上から下へシャッターを切る」カウンター・コンポジションと名付けた方法によって覗いた都市の細部には、あるいはドゥニーズ・コロンやアラン・フレシェールが撮った襤褸布には、都市の地獄の匂いが感じられるという。ヴァールブルクの「神は細部に宿りたもう」という言葉の神は、ここでは、その対極に結び付けられる。

写真家のアンドレ・ケルテスもアンフォルメルで知られるヴォルスも排水口を撮ったけれど、もはや襤褸布は登場しない。しかし、ジェルメーヌ・クリュルは、舗道の襤褸布、腐ったりんごの山に社会的、人間的な有り様を反映させる。そこに何らかの残存、ひとつの記憶が存在しているとディディ=ユベルマンは述べる。モホリ=ナギは、写真が現実を正確に記録するために発明されたが、その特質として幻想や夢、超現実的な想像世界の装置にもなり得るのだと述べている。襤褸布には無意識へと入り込む不気味なものが存在する。それは、バタイユが述べる「形なきもの」が、押しつぶされた身体や水平化のパトスが、作動しているという。

ヴォルス (1913-1951)『無題』1946-1947

街路に落ちた襤褸布、ゴミのようなものが、解体という運動の内で、まだ人間と関わり合うもの (人間の姿をとどめるもの) と、もはや形を失くしたものとの過渡的段階を示している。あるいは、まだその働きの見極めのつくものと、何の役にもたたなくなったものの間、まだ、しかじかの物であることと何だか分からなくなった流産したマチエールの間を示している。ちょうどヴォルスの絵画のようだ。ベンヤミンは、この関係を掘り下げて、「中間的なものの取るに足らない細部の内でこそ、永遠に同一なものが露わになる (『パッサージュ論』)」と述べている。

ゴミはマルクスの言う商品のフェティシズムの弁証法に不可欠なカウンター・モティーフになっている。それは、ニンファの落下によるアウラの凋落が終わりなく引き延ばされているトポスと言えるのである。その舗道の襤褸布を連作写真に収めることによる新たな知の浮上、残存を巡る視覚人類学という「過渡的なもののイコノロジー」が登場するのだと言う。それが、前回 part1 『時間の前で』美術史は預言の学となるの主題でした。本来の姿を失ったゴミという不純な基層から逆流する記憶、その中からアレゴリーとしてのゴミが現れる。ちょうど、布の中に女性と死が浸透しあう第三のイメージが登場するように。包まれて落ちたものは悲嘆と恐怖にさえ連続していく。屠殺場に放置された布や殺人の犯行現場に残された血だらけのシーツの写真、外観を掻き乱し、人間性を否定し、獣性をも浮かび上がらせる。あの、アウシュヴッツの被収容者から簒奪された衣服の巨大な塊の写真。

 

第三章 ジンテーゼ 想像力の弁証法


 

1933年にベンヤミンは第一次大戦を評して「経験の相場が暴落したと述べた。戦後、復員者たちの沈黙は、恐るべき技術の発達による抗争が人間を全く新しい貧困の内に投げ入れたと書いた。我々は人類の遺産を少しずつ散り散りにした。経済の危機が戸口に立ち、その背後に影が控え、戦争の支度がなされている。人間は、既に大量虐殺を現実感を伴った経験の形として考えることができなくなっていた。現在も、ウクライナでは戦争が引き起こされている。ウクライナは大国間の抗争のスケープゴートにされている。しかし、彼は芸術家たちが根本的に新しい可能性を探ることを自らに課し、建築、絵画、物語において必要とあらば文明を越えて生き延びる準備を整えている (『経験と貧困』) と述べた。

歴史家の作業には二重のレジームがあるとディディ=ユベルマンは言う。歴史的な問いかけをするためには眼を開けていなくてはならない。しかし、その対象をもっとよく見つめ、解釈し、その対象が如何にして見つめ返して来るのかを理解するためには眼を閉じることも必要なのだと言う。事物に対して眼を開き、接近し、観察することには終わりがない。見ているもののすぐ後ろに、あるいはすぐ傍らに別の観察すべきものがあるかもしれない。しかし、そこに観察しようもない分厚い地層があるとしたら、生物進化におけるミッシング・リンクのような断絶があるとしたら、「観察できない結び目」が存在していることになる。

ヴァザーリはトスカーナの芸術家共同体の完璧なドキュメントを作ったと考えていたが、ヴィンケルマンはギリシアの過去を完全に想起することがいかに困難かを感じていた。歴史は自ら空白を作り、検閲を行ってきたのだ。眼に見えにくい逸脱した伝承や潜行した影響関係、長期の無意識的持続といった重層的堆積が、明確な確証に代わって歴史的決定因子となり得る可能性がある。ヴァールブルクこそが、過去から現在に至るイメージの歴史の中で抑圧と抑圧されたものの回帰が織りなしている律動を理解し認識した人だった。ウィーンの偉大な歴史家ユリウス・フォン・シュロッサーは確証し得ないものを前にする時、文献学者は哲学者にならなければならないと述べている。

その時、歴史学者に残されたものは、問いや仮説を立てること、時の厚みに隔てられた近づき難い混乱の系譜を何とか名づけうる思考を目指すという選択肢である。ボードレールは、〈想像力〉は空想ではなく、感受性でもないと述べた。哲学的方法の外にあり、事物の中の密やかな関係、照応とアナロジーを感知することだと述べている (『エドガー・ポーに関する新たな覚書』)。

ゲーテは、確証と想像力を駆使して原現象を追った。そこには外部の眼と内部の眼の弁証法がある。あらゆる対象を標本とカオスという二重の観点から問おうとしたのだ。カオスは、驚愕的な不均衡とともに世界から我々に一塊となって立ち現れる。秩序にとっては増幅する悪魔的側面である。標本化は怪物の群れを前にして認識と普遍的なものと理論的視覚の星辰を知覚可能にする契機となる。ゲーテは「秩序と無秩序の多様な表出、持続・生成の衝突、永続性と変態の調停、の戦闘、〔要するに〕極性のさまざまな変形に留意すること(ジャン・ラスコー)」をけっして止めなかったとディディ=ユベルマンは言う (『アトラス、不安な悦ばしき知』)

ゲーテにとって、各々の個別的存在は、存在するもの全ての一つの類比 (アナロジー) であり、それゆえ、存在は、われわれには分離されており、同時に結合されているものとして現れる。もし、われわれが、この類比に接近しすぎるならば、全が同一なものとなり、もし、そこから遠ざかるならば、全てが無限に分散する。この距離を調停するには芸術的な想像力が必須だった。

想像力と知と理性を結び付ける形態学者ゲーテがそこにいた。感覚と知、普遍的なものと個別、観念論と実証主義、最善のものと最悪のもの、聖なるものと悪魔的なもの、高貴なものとゴミ、こういった二元論の障壁を突破する方法が、ここにある。彼の言う原現象は、そのような生成の渦を捉えることだった。この非正統的な弁証法は、科学的方法論の外にあって、事物の中の密やかな関係、照応やアナロジーを感知するための跳躍なのである。

ロレンツォ・ロット (1480頃-1557頃) 『眠るアポロン』 右側のパネルは失われている。

眼を開けていなければ、イメージに近づき、もっとよく理解を得ることはできないが、眼は返す刀でイメージに掴み取られ、捉えられ、己を閉じ、再来する巨大な霊の試練を受けるという。これは、脳による視覚記憶のイリュージョンとその変容を指している。しかし、そのような対立の中でイメージを操らなければイメージについての知も築くことができない。ディディ=ユベルマンが、そのアレゴリーとして紹介する作品がイタリア・ルネサンスの画家ロレンツォ・ロットの『眠るアポロン』である。9枚の地面に置かれた鮮やかな布の色班が眠るアポロンの前に華やかな混乱を巻き起こす。そこには夢見る神の内に夢の作業のリズムに合わせてひしめくイメージと徴候的な切れ端のアレゴリーとなっているという。それは形象性の働きを表す形象そのものだというのである。眼をあけていればニンファたちの戯れも見ることが出来るだろう。「眼を開けていること」と「閉じていることの夢の想像力」との弁証法

左 パルテノン神殿彫刻 (筆者撮影) 右 クリスト 凱旋門を梱包する作品  2021

このアレゴリーをもって本書は閉じられるが、本書の通奏低音には、ジル・ドゥルーズの「襞」があるのではないかと僕には思われる。ドゥルーズは、その著作『襞』の中で、「折りたたむことー折り目をひろげること」、「包むことー展開すること」は、バロックと同じく今日でも、このような操作の恒常的要素であり、諸々の要素は、たとえ圧縮され、折りたたまれ、包まれていても、やはり世界を拡張し、伸長させる力能であるというのである。襞は力として潜んでいるものの現勢化の働きだというのだ。アドルノが、芸術作品とはモナドだと述べたことを踏まえれば、この襞の力能こそは、モナドの下層を構成する渦なのではないだろうか。同時に、世界のイメージを拡張させるディディ=ユベルマンの言う非正統的弁証法の渦でもあるかもしれないのである。こうして、わたしたちは衣服の襞のような存在が新たな知を開くことの意味を理解しうるのである。

 

前回に続いて、僕が1999年から2000年にかけて制作した『織り込まれる流れ運動』の作品のモンタージュをご覧いただきましょう。40代前半の作品で、カオスからの生成される形態と襞の力能と言ったもののイメージを追求していた時期の作品です。

『織り込まれる流れ運動』モンタージュ

 

 

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

ジル・ドゥルーズ
『襞 ライプニッツとバロック』

ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』アウシュビッツからもぎ取られた4枚の写真をめぐって

ディディ=ユベルマン『アトラス、不安な悦ばしき知』 『ムネモシュネ・アトラス』についての最良の解説書

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン part1 『時間の前で』美術史は預言の学となる

 

ディディ=ユベルマン『時間の前で』

ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは極めて特異な美術史家である。イメージ人類学者と呼ぶ人もいるが、彼はイメージを象徴としてではなく、徴候と捉える。これは、ヴァールブルクとベンヤミンに連なる系譜と言ってよい。その首尾一貫したテーマは、歴史記述におけるアナクロニズム、つまり時代錯誤の復権であった。しかし、歴史を時代錯誤してどうするんだろうか ?  実証的で正確な過去を描き出そうとするクロノジカルな従来の歴史に対して、抑圧反復の中で振動する記憶としての歴史が、亀裂や飛躍や退行を含みながら渦を巻く。それは、動的な反歴史主義的思考とさえ呼び得るものなのである。ふーん、そうなんだ。

この美術史家は、美術史の枠からはみ出しそうな、ちょっとスケールが大きい人だけれど、大好きだ。特に興味を引かれるようになったのは美術史家アビ・ヴァールブルクを扱った大著『残存するイメージ』触れた時で、そのは何かあると思いつつも、掴みきれなかった。ヴァールブルクのイコノロジーに人文科学という学問上で市民権を与えたのは、彼の弟子たち、とりわけ、パノフスキーやザクスルたちだった。エルヴィン・パノフスキーは、ヴァールブルクの考えの中の〈残存〉と呼ばれる特異な部分を取り去って従来の美術史との整合性を保とうとした。それは、大成功を収めたが、奇妙だが重要な部分が、ごっそり抜け落ちたのである。ディディ=ユベルマンはそれを「悪魔祓い」と呼んだのだけれど、彼はブルクハルトの「文化の生」、ゲーテの「メタモルフォーゼ」、ニーチェの「永劫回帰」、フロイトの「反復強迫」などを援用して〈残存〉の復権を図る。パノフスキーがイコノロジーを高らかに言祝いだ時に、産湯と一緒に流した奇妙な赤ん坊を拾って育てようとしているのはディディ=ユベルマンなのである。大きな仕事じゃないですか‥‥

 

ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは、1953年6月13日フランス中部のサン=テティエンヌに生まれた。奇しくもアビ・ヴァ―ルブルクの生まれた日である。運命なんだと本人が思ったかどうかは知らない。祖父はユダヤ系のチュニジア人で、祖母や大叔母ら家族と共にアウシュヴィッツの強制収容所に収容され、母とその兄弟だけが生き延びている。父親は画家だった。父方の姓であるディディと母方の姓であるユベルマンの両方を継承しているようだ。

リヨン大学で哲学を学び学士を取得後美術史に転向して修士号を取得したが、ボッロミーニの建築とケプラーの天文学についての研究テーマは美術史の埒外とされた。ここで、既に既成の学問からはみ出した。それで、パリの社会科学高等研究院に籍を移す。ここで、ルイ・マランとユベール・ダミッシュという鬼才たちに新たな美術史を学び博士号を得た。鬼才は、鬼才を知るんだろうか。その博士論文は『ヒステリーの発明』として出版されるが、ヴァールブルクへの道が開かれようとする感じのするテーマだ。

フラ・アンジェリコ『コルトーナの受胎告知
1433-1434 部分  左下の大理石模様

女優の姉、エヴリーヌ・ユベルマンの影響もあってか演劇の世界で一時、活動するようにもなる。アンドレ・エンゲル、ベルナール・ソーベルといった演出家のもとで助手を務め、コメディーフランセーズで有給職も得たようだ。この体験は重要かもしれない。その後、1984年からローマのヴィッラ・メディチで2年間、さらに、ハーヴァード大学研究奨学生としてフィレンツェのヴィッラ・イ・タッティーでさらに2年間学んだ。ヴェネチアでも半年学んでいる。このイタリア滞在中にフラ・アンジェリコのフレスコ画やドナテッロの彫刻と決定的な出会いがあった。

この出会いは、『フラ・アンジェリコ 神秘神学と絵画表現』という著作に結実している。僕がディディ=ユベルマンを最初に読んだ著作だ。フラ・アンジェリコのフレスコ画にある通常は装飾と言っていいような大理石の部分を抉り出す著作だったが、変わった人だと思った。1990年から社会科学高等研究院で教鞭を執っている。

彼の著作は随分多い。『ヒステリーの発明』、『ニンファ・モデルナ』、前回のキム・へスン『死の自叙伝』でご紹介した『ヴィーナスを開く』、ヴァールブルクのムネモシュネの解説である『アトラス あるいは不安な悦ばしき知』、アウシュヴッツを扱った『イメージ それでもなお』などがある。こういった著作の中でイメージの前で』とこの『時間の前で』はセットになっているけれど、今回は『時間の前で』をご紹介する。本書ではプリニウス、ベンヤミン、カール・アインシュタインが俎上に上がっている。とりあえずプリニウス、そしてベンヤミンの残存とモンタージュ、アインシュタインの闘争としての美術史、最後に預言の歴史という順に述べてみたい。

 

プリニウス 美術の起源と歴史の分離


 

プリニウスは、古代ローマの博物学者として知られている。かたや、ヴァザーリはイタリア・ルネサンスの美術家である。話は、ヴァザーリが、プリニウスの美術史を転覆させたという話から始まる。プリニウスは百科全書的なツリー体系という開かれた認識の体系を持っていたのに対して、ヴァザーリは芸術を形態の特殊で自律的な知として捉えていたという。

プリニウスにとって、医術を頂点とする「技芸」が『博物誌』の通奏低音である。これは芸術という概念よりは広い。彼の考える技芸はローマ的であり、反ギリシア的であったといわれる。ローマが基準なんです。この世界初の美術史には、表象の問題、芸術のジャンル、様式の区分、いずれもない。あるのは原材料種類、石、金属、粘土などとの営みである。彫金、塑像、染色といった現在では工芸と呼ばれる活動が主として語られる。絵画の始まりは、エジプトかギリシアが、その祖を争っているが、プリニウスは、ローマ的起源を問題にする。ここでは、歴史的時間が分裂しているのである。彼にとって問題なのは、ローマの法と正義と権利の観点から表現されるイメージとその類似が展開される系譜なのである。

プリニウスが博物誌を書いた時、既に美術は無きものであった。美術の起源は死んでいたのである。「確かに肖像画 (イマギウム・ピクトゥーラ) は、極度の類似を持った表象を長い間伝えていたが、ともかくもうすっかり廃れた」という。実は、イマギウム・ピクトゥーラは肖像画と訳すべきではない。なぜなら、その頃ポンペイでもプリニウスの別邸があったカンパーニアでも肖像画は盛んだったからである。彼の言うイマギウム・ピクトゥーラは、実は蠟で型取りした顔面像に彩色をほどこしたものを指していた。この型は、芸術に関わるイデアや作者の才能、魔術的技芸と関わらない。蝋や石膏といった材料と顔との直接の接触によって生まれる。もっとも、彩色の巧拙はあったかもしれないが‥‥。

ジョルジュ・ヴァザーリ (1511-1574) 自画像

それは、先祖の葬儀において使われるだけでなく、一族に市民としての名誉と尊厳をもたらした人々の顔を後世に永遠に伝える慣習だった。家の栄光の記憶としてアトリウムなどに永遠に残されるべきものであり、家を買い取った人といえど、それを取り外すことは許されていなかったのである。公的な法と私法の境界上にある「イメージの権利」であり、医学や農業などの技芸と同様に社会のしきたりや法と質料 (マチエール)と形相 (フォルマ)といった自然界に対する尊厳をもって初めて、この肖像画は意味を持つのである。この尊厳は、ローマにおける装飾の過剰、性的な目的での材料として蝋の使用の過剰、個人の特徴より類型的な形につぎ込む高価な材料の過剰によって、いわば殺される。それは。ネロによって頂点をきわめるのだ。

肖像像は顔面から直接型取られることによって唯一の肖像となるが、貴族たちの娘には新たな像を複製して嫁ぐことが許されていたため増殖が可能となっていた。この類型の系譜の伝達は、類似の交換を許しながらも他者への伝達は禁止すると言う二重の役割に応えるものになっていたのである。ともあれ、プリニウスの『博物誌』では美術の起源とその歴史とは別個に扱われる。これはアナクロニズムですよね‥‥。

ヴァザーリにとって、中世の灰塵から蘇った美術は、あらゆる形象的対象が様式の歴史、構想の善し悪しという趣味判断、芸術活動に関わるジャンルといったものから語られるべきものとなっている。既に今日の美術史の足場は固められていたのである。しかし、美術の起源とその歴史とを分離しようと1918年に試みた男がいた。ヴァルター・ベンヤミンである。彼にとって起源とは、はるか昔に存在するものではなく、この現在において歴史的対象の各々にダイナミックに現出する渦巻だったのである。

ヴァルター・ベンヤミン 『ドイツ悲劇の根源』

ベンヤミンは教授資格試験のための論文『ドイツ悲劇の根源』においてパノフスキーのメランコリー観を取り入れていて、フーゴ―・フォン・ホフマンスタールを通じてパノフスキーにその論文の評価を求めた。しかし、ベンヤミンが受け取ったのは「冷淡でルサンチマンに満ちた」手紙だったのである。パノフスキーをそれなりの資質を備えた人物と考えていたベンヤミンは、当てが外れ、当惑もしただろう。

研究者によれば、ベンヤミンの「イデー」は、パノフスキーの「イデア」ではなく、二人のプラトン理解は正反対だったし、ベンヤミンのアレゴリーはパノフスキーの象徴ではなく、二人のカント読解も真反対だったという。ベンヤミンの人類学とパノフスキーのイコノロジーは対立的なものでしかなかったと言うのである。パノフスキーはベンヤミンのアナクロニズムを嫌悪したに違いない。何故なら、それは、彼が師であるヴァールブルクの美術史から周到に取り除こうとしたものに他ならなかったからである。このアナクロニズムはヴァールブルクの言う〈残存〉、ベンヤミンの言う根源〉と深く関わっていた。

 

ボードレール・フロイト・ベンヤミンと残存


 

ボードレールが『玩具のモラル』で指摘する「玩具の現在」は、無意識に沈んだ幼年時代の憶が考古学的な対象となることを指している。これは残存と呼応するのである。生命を持たないイスが馬になり、子供は御者となって乗合馬車が動き始める。しかし、遊びの中では生きていた玩具は、壁にぶつけられ、床に投げつけられたりといった破壊衝動の犠牲になることも往々にしてある。このような記憶は、突然、記憶に上らないでいた過去を目覚めさせる。その退行によって「魔術」、「アニミズム」、「悪魔的なもの」の世界との結びつきを回復させるのである。同時に、おもちゃが単にモノにすぎないと言う子供にとっての冷めた認識も存在していた。これは、民族学者のエドワード・タイラーが、子供の遊戯などに古い文化の名残 (survival) を見ていたのに通じる。

フロイトは、子供が、おもちゃなどの手に入る細々したものを遠くへ放り投げる遊びについて書いている。それは「いない、いない」遊び、母親が不在となるのを逆らわらずに許すという衝動放棄に関連することだった。おもちゃを見つけ出して喜ぶ再現、つまり喜ばしい母親との再会にまつわる前置きとしての遊びは、確かに快感に結びつく。しかし、最初の不在行為、つまり、おもちゃ投げの方が、単独で現れる回数としては圧倒的に多かったのである。ここでは快感原則よりも別な動機があり、あたかも子供は受け身であって、いわば、この体験に捉えられていたとフロイトは述べるのである。物を投げ捨てることが不在の母親に対する、怒りの表現である可能性もある。不快な体験をこと新しく反復する度にそれに対する支配の度は改善されていくのである。それによって生じるのは、いわば敵意に満ちた興奮と言っても良いものであるが、子供の遊びにおける二重性に繋がるといってよいのではなかろうか。

患者の無意識を意識化するという目標をフロイトは掲げていたが、患者が抑圧したものをことごとくは思い出せないこと、とりわけ本質的なものこそ思い出すことができないことに気づいた。患者は過去を一片として追想するのではなく、現在の体験として反復することを余儀なくされるのである。これが、反復強迫である。自我というものは、ほとんど無意識だが、意識的な自我と前意識へと抑圧されていたものが解放されることによって呼び起こされる不快を免れようとして抵抗が生まれるという。こういった基本情動と意識にまつわる事柄が、ベンミンやヴァールブルクがユングよりもフロイトに親しむ理由でもある。

反復強迫がもたらすものは、たいてい自我にとっては不快なものである。それは、絶対に思い出してはならないものを避けるための必要悪なのだ。いわば最悪の状態を回避しうる緩衝器であって、快感原則に矛盾しない不快であるという。このような神経症者の転移現象は、神経症でない人々にも往々に認められるものらしい。それは、彼らや彼女たちに付きまとう宿命、デモーニッシュな性格という印象を与えるものだとフロイトは言うのである。あらゆる人間関係が同一の結果に終わってしまう人達、どんな友人を得ても裏切られてしまう人、恋愛関係がいつも同じ終わり方をする人たち、それは、運命強迫と呼ぶべきものなのである。お断りしておくけれど、僕は人間が少なからずみんな神経強迫症だと言っているわけではありません‥‥僕には多少その気があるかもしれないけれど‥‥これは、ある種の本能の特性、脳が発現する基本情動のメカニズムのある側面を示す極端な例の一つなのです‥‥誤解のありませんように。

ベンヤミンは、こう述べる。「過去が現在を光で照らすとか、現在が過去を光で照らすとか、言ってはならない。逆に、イメージは〈むかし〉と〈今〉が閃光で出会い、星座を形成する場なのだ言いかえれば、イメージは静止状態の弁証法なのである (『19世紀の首都、パリ』)。」

現在と過去との関係は時間的に連続したものであると考えられているのに対して、〈むかし〉と〈今〉の関係は弁証法的なものだという。そこで展開される関係は、「いない、いない、バー」のようにギクシャクしたイメージなのだ。思考が緊張で飽和したイメージの星座のなかで静止する時に弁証法的イメージが現れるという。イメージは変容し続けるものなのであり、その静止は思考の運動における中間休止である。残存を気づかせる閃光は、時間のリズムの区切られた時、歴史以前の化石の空間を開くという。

ベンヤミンが『パッサージュ論』の中で古代化するパリをイメージした時、残存を活用することになる。雑誌売り場の女性にダナエの姿を、メトロの入り口が地獄の入り口に、道路わきのルンペンに古代の物乞いを、凱旋門の下の行進が古代の通過儀礼の姿の内に残存する。イメージは再び、模倣的身振り、魔術的神話力、占星術の予知的時間などへと結びつく無意識的模倣となってヴァールブルクの残存へとベンミンを導いていくのである。

アビ・ヴァールク (1866-1929)

アナクロニズム、ファンタスム、統御不能な性質といったイメージは、フロイトの言う抑圧された衝動の転移現象であり、心の平静を脅かす罪の源泉があることを示唆する。同時に抑圧されているものは何かという認識の源泉ともなる。そのようなイメージは、現在において歴史を解体し、歴史性をモンタージュするという。モンタージュについては後で述べる。イメージは、この時、悪意となる。思考のあらゆる跳躍やギクシャクした動きは、解体される事柄が徴候という悪しき事態と知という啓示によって二重の転調を見せるのである。それは渦巻状にして構造的な二重の転調と言える。子供の世界にみられる二重性を持った遊びは、イメージの形態論の中で再び照明を当てられる。この二つの異質な時間軸、そして、渦巻状の転調。それは、ある種の認識への転調でもある。

ちなみに、ベンヤミンの言う悪意とは、狡猾な方法で悪をなす性向、他人を手玉に取るように駆り立てる傾向であるが、狡知、ペテン、悪賢さ、子供のするような悪戯を指している。これはイメージの力強さであると同時に腹黒さ、表象の中での居心地の悪さである。破局に直結するような徴候を回避する心の機能、それは、強迫観念と恐怖症つまりヒステリーの状態とパラレルなのである。精神的に破局的な出来事を忘れるための心の防衛機能は当事者を手玉に取るような狡知と呼ぶべきものなのだ。

 

ベンヤミン モンタージュは悪意の渦巻


 

残存するイメージが、現在において構造化され、いわば自己組織化されていく時、過去は歪んだ形で突発に再生され、時間は、時計がそれぞれの部品に分解されるように解体される。その再生は渦のようにギクシャクとして歪んだ映像の不連続性を際立たせる。線形じゃないんです。ここは、カオス理論を先取りするかのようです‥‥。連続性の幻影は打ち破られ、映画におけるモンタージュのようなものになり、おまけにその映像は不可解なものなのである。それは解体を前提にしたモンタージュ、1秒24コマのモナドから成る映画のようなものなのだとディディ=ユベルマンは言う。そこでは、過去へと逆戻りし、埋もれた過去を想起し、同時にそれらを再構成するが、首尾一貫したストーリーを持たない。「歴史は解体されてイメージになるが、物語になるわけではない (『19世紀の首都、パリ』)」とベンヤミンは言うのである。

セルゲイ・エイゼンシュタイン(1898-1948)
モンタージュの技法を開発した映画監督 『全線』

1928年には、エルンスト・ブロッホがベンヤミンの方法を「哲学に応用されたシュルレアリスムのモンタージュ」と呼んでいたが、アドルノやその他の注釈者たちは、この美学的な形容に、ベンヤミンの考える歴史の「科学的」な妥当性に対する限界やアポリア (難問) を見ていた。この否定的な見解についてディディ=ユベルマンは、通俗的な「客観」「主観」問題にとらわれて明らかに本質を見誤っていると鰾膠 (にべ) もない。アドルノはベンヤミンの友人だったが、否定弁証法を通じて概念への到達を目指していたので主観・客観問題はついてまわっていた。一方で、ベンヤミンは文化全体が「夢を解釈する任務 (『19世紀の首都、パリ』)」を引き受けること によって、歴史の対象として無意識を引き入れようと考えていた。夢も登場するのである。

フロイトは、精神分析によって子供の精神的外傷の記憶を蘇らせる際に起こる夢について記している。この夢は、先ほど述べた反復強迫によって生じるものであり、忘却されたもの、抑圧されたものを呼び出そうとする願望によって支えられると述べる。そのような深層心理の有り様を人類へと拡張する時、狂気と神話がその俎上に上る。その茂みをかき分けて「歴史の中の非理性を解釈する」こと、そのためにベンヤミンは、解釈の対象を炙り出し、解釈者の位置を確認し、解釈者の「解釈への誘惑」を教える夢を重視するのである。

これは「認識における主観主義の権利を主張するものではなく、むしろ現在現れているあらゆる観念連合の中に、相互に『モンタージュ』し合うイメージの時間的にして文化的な厚みを認める」ことなのだとディディ=ユベルマンは言う。認識においてシュルレアリスムのように非理性を復権させるのではなく、理性による「批判」という研ぎ澄まされた斧をふるって「歴史の中の非理性を解釈する」ことなのだと言うのである。ベンヤミンにとって、イメージが歴史の原現象になりうるのは、想像力が単なるファンタジーではなく、「事物の内密な関係、すなわち照応と類似を感知する能力」だからである。この能力はモンタージュ作業の典型に現れるべきもので、歴史という深淵の上に浮かぶ認識の秩序を把握するための能力である。うーん、ここは深いですね……ここには弁証法的なプロセスが関わるためにアルス・コンビナトリアよりも、より動的な性格を持っていることを踏まえておく必要があります。

ベンヤミンは万華鏡に不規則な内的解体の構造を見ていたらしい。万華鏡か‥‥何年ぶりに聞く言葉だろう‥‥。彼はこの光学的モデルからギクシャクした視覚的布置の中に時間のポリリズム、幾層もの組合せという弁証法的な豊かさを見ていた。砕かれたガラスや貝殻の破片、布切れといった微小なものの散乱する、そんなゴミくずのような小さなものを回転させることによって、解体しながらも構成されていく二重性を彼は見た。アナクロニズムの科学者、モンタージュの魔術師が、白魔術のような視覚的ビックリ箱を子供の遊戯に結びつけていく。

カール・ブロスフェルト (1865-1932)   『芸術の原形態』 1928

ブロスフェルトの写真もまた万華鏡だった。ただ近接撮影された120枚の植物の写真。物言わぬコレクション。しかし、彼の知はそれを所有するものを沈黙させる知であり、知識よりはるかに重要な知だとベンヤミンは述べている。それにもましてベンヤミンにとって重要なのは、特異なものをモンタージュするブロスフェルトの手法だった。クローズアップすることによって見る者を視覚の新たな領域へ、全体像ではなく部分への解体へと導く。そこにあるのは、独特の悪意あるイメージであるという。植物がつぎからつぎへと120回もモンタージュされる。その写真集のページをめくることは、事象の視覚的モンタージュと取り組むことだと言えるのである。図らずも植物におけるゲーテのメタモルフォーゼを見せつけられることになる。なるほど、これは確かに狡知かもしれない‥‥。

ウィーン風りんごのシュトルーデル 美味しそう!

解体は、イメージの生成に繋がらなければならない。帝政時代に流行した不規則な部品から出発して一つの図柄を再構成する知恵の板が、ベンヤミンには歴史記述とキュビズムのような芸術作品の近代的方法に通じる構成原理と感じられた。適正な布置が求められるのである。彼は、ジグソーパズルで遊ぶように子供たちが、戯れながら構成する文章が聖なるテキストと親近性を持つと考えている。そのような構成が行われる時、時間は自然の中でシュトルーデルのような曲線を描くとディディ=ユベルマンは述べる。根源の時間に関してベンヤミン自身が「根源は生成の流れにおける渦巻である」と書いているらしい。

モンタージュはかくして、カレイドスコープと植物のクローズアップのように解体され、リンゴのパイの如く捻じれた層に再構成されたものとなる。‥‥これらは徴候に関わるメタファーなのです。

 

カール・アインシュタイン 美術史とは闘争である


 

カール・アインシュタイン(1885-1940)アニタ・リー画 1921

カール・アインシュタインと著作について‥‥読まれぬまま倉庫に寝かせておくべき著作、反時代的文章、強烈な窒息状態と異様な疲労感に襲われる文、奇態なるニーチェ的歴史家、ハンマーで歴史化する美術史家‥‥どんな人なんだ ? ここまで言われると興味津々になるのは人情ですよね。

アインシュタインはカントのいう趣味判断の美学によらないイメージの批判的分析を試みようとした。芸術と美とを同一化しない人類学的根源的な認識へと向かう。ここは、ヴァールブルクに通じる。彼にとって重要なのは美的趣味に浸ることではなく、美術作品に関わることによって現実と人間の構造や、世界の形勢を変える手段を持つことであり、そのためには作品を生きた魔術的力と理解するような社会学、あるいは美術の人類学を必要とするというのである。

カール・アインシュタイン『黒人彫刻』

そして、ニーチェ的な異議申し立てが続く。美術作品が我々の内部に切り拓く「死の危険」と危機的空間を回避しないという道徳要請、及び美術作品において作動する多様な起源を決して隠蔽しないという系譜学的要請に奉仕すべだと言う。それは、ニーチェの系譜学に裏打ちされた非ヘーゲル的弁証法であり、美術史は鎮めがたい闘争の歴史、絶対に還元不能な歴史になるとディディ=ユベルマンは指摘している。系譜学は作品の産出条件の研究に向かい、美術史のお気楽な進化の概念も否定されるのである。それは、このようなものだった。

アインシュタインはアフリカ彫刻という、あまりに根源的歴史にあって未来の源泉としか考えられないような起源とキュビズムといったアヴァンギャルドの芸術という対極を弁証法的に結合しようと試みる。これは画期的だった。それは、近代美術をプリミティヴなものに還元するものでもアフリカ美術の近代性を標榜するものでもない。彼にとってプリミティヴとは偽装したエキゾティシズムに他ならなかった。アフリカ彫刻の神性とそれを形作るものとの心的距離感、つまり崇高な神とその奴僕である作者との密着していながらも厳然とした距離感は、彫刻とそれを観る者との距離感に対応する。像のマッスは遠近法的な正面中心の視覚によって弱められるのではなく、運動表象感覚によって三次元の緻密な塊として直接的に感得され、像と観る者の間に密着しながらも距離を持つ閉じた自律的空間が形成される。このような宗教的リアリズムと彫刻-観者という形式が生むリアリズムは、その性質を共有しているというのである。際どいけれど面白い着眼点ですよね‥‥。

左 アフリカ彫刻 (筆者撮影) 右 パブロ・ピカソ『坐る裸婦』1909-1910

「神秘的仕方で感覚される形式を再発見する」ための「活動的な不安」。これがアインシュタインのキュビズムのテーマである。ピカソとブラックにおいては、ア・プリオリな空間は退いて、構成的方程式というより、内的経験と空間的経験の積分としての空間となる。‥‥この表現はなかなかイイ‥‥。そこでは、古典において無視されていた無意識や幻覚によって、平衡状態は活動的不安に取って代わられるという。アインシュタインは、彼がプチブル的と名付ける「自我の優位を美学と美術史から除去しようとする。無意識は主体の分裂であり、〈非-因果性を持つ。イメージはキアスム (主客の交差する眼差し) であり、何かのコピーではなくなる。ヴェルフリンの〈芸術様式に対抗して〈徴候-イメージ〉仮説を立てるのである。

これには、オーストリアの物理学者であるエルンスト・マッハの影響が大きかった。彼は、時間・空間のア・プリオリ性を否定して時空が「感覚の複合体」だと主張した。同時に、因果性は時代と共に変遷する可能性があり生得的なものと考える必要はないとも主張した。因果性の批判が出現したのである。これが、アルバート・アインシュタインやフロイト、ムジールに多大な影響を及ぼすことになる。カール・アインシュタインは近代的な思想家であると同時に近代性を批判する思想家だった。その点でベンヤミンに似ている。彼は、おそらくアメリカのモダニズムに反駁しポストモダンを憎悪しただろうとディディ=ユベルマンは言う。イメージの思考と近代的思考は、相乗して「危機を際立たせ」、「徴候を見出し」、「歴史をアナクロニズム化」する。それが、彼にとって近代への反時代的闘争だった。そのことによって、彼はイメージの未来予測的メカニズムを見定め、新しい知を開こうとしたのである。

ヘルクレス・セーヘルス(1589-1638)
『岩と網のある風景』エッチング 1625-1630

ドイツ系ユダヤ人であった彼は、早くからフランスに移ったが、ナチス・ドイツのパリ侵攻によって南仏へと追い詰められ、1940年7月5日にピレネー山脈の町レステルベタラムでベンヤミンと同じような状況で自殺したのである。

「月並みな現実を絶えず破壊し、そうして――小さな筏に乗って漂流するように――自らを強いて新しい実在をたえず創造するためには、どれほどの勇気を必要とするのだろうか。そうしてわれわれは現実の誕生と死を加速して、永遠の不安のうちにおのれ自身の個性を破壊するのである (カール・アインシュタイン『ジョルジュ・ブラック小野康夫男・三小田祥久 訳)。」

この文章を踏まえてディディ=ユベルマンは、アインシュタインが、彼の愛した17世紀のオランダの画家ヘルクレス・セーヘルスに向けた言葉でこの章を結ぶ。「彼はこのような態度のために自分の生命を代償にした。」

 

美術史は預言の歴史 そしてアウラ


 

美術史が歴史の現在の時点から、あるいは現在の観点からしか記述されないのなら、それぞれの時代は、先行する時代の芸術がその宛先へと向けた預言を解釈するための新たな可能性を持っていると言える。美術史にとって、過去の偉大な作品の中で、その時代にそれらの作品に価値を与えていたものを現在において解読する。作品というほの暗い空間の中で発酵していく未来は、さまざまに変形されて夢見る。ルネサンスという言葉を生んだフランスの歴史学者ジュール・ミシュレは「全ての時代は後に続く時代を夢見る」と述べた。

ベンヤミンは、この言葉を踏まえて、夢の意識に包まれる「空想的な前形式」が行われないなら新しいものは何も出現してこないと述べている。新たな時間性モデル、記憶の持つアナクロニズム性を評価し得るようなモデルをディディ=ユベルマンは要請する。それによってこそ、歴史の拡張を可能にし、歴史を開くことができるのである。それは、ベンヤミンが言う「芸術の限界を超えて想像力が至る所であふれ出す」ことによって生まれる世界であり、ヴァールブルクが従来の美術史を越えて真のイメージの人類学へ向かったのとパラレルな方向なのである。

バーネット・ニューマン(1905-1970)の絵画
『黒い焔Ⅰ』

アウラは空間と時間の奇妙な織物、遠さの出現である。モダニストは「アウラは死んだ」と言い、ポストモダ二ストは「モダニズムは死んだ」と言うだろうが、アウラは、通常の意味での歴史の問題ではなく、記憶の問題、つまり残存の問題だとディディ=ユベルマンは言う。歴史上の死などあり得ないことになる。それは忘却する現在と過ぎ去った過去との明快な対立を超えていると言うのである。

近代に対するルサンチマンと過去の芸術に対する贖罪的な回帰、宗教的なノスタルジー、20世紀芸術の「脱構築」や「破壊」に対する「精神性」と「意味」の復権といった問題が浮上する。過去を処刑するのか、過去を復興するのかという、二つの極端な言説の仲を取り持とうとすれば、パノフスキー的なイコノグラフィー主義とバーネット・ニューマンやアド・ラインハートのような徹底的抽象との両方の機嫌を伺うものとなるという。抽象芸術を「再イコノグラフィー化」すること、そこに「精神性」や「神秘神学」を持ち込むことは、過去と現在をごた混ぜにする過ちだと言うのである。

ベンヤミンの「根源」、ヴァールブルクのいう「残存」を説明できるような時間モデルが存在していれば、アウラを論じることは可能なのである。この場合、〈忘却-歴史モデル〉や〈反復-歴史モデル〉では用をなさない。つまり、ヴァザーリの言う「ルネサンスは古代を反復するが故に中世を忘却した」あるいは「芸術の恍惚状態の根源や聖なる根源を反復するには、モダニズムを忘却しなければならない」といった主張の手口である。

ベンヤミンが〈無意志的記憶の現在と表現した〈起源においては、過去は拒絶されるべきものでも、再生されるべきものでもなく、アナクロニズムとして再帰するものなのである。特異な作品のそれぞれの厚みの中で矛盾を考慮し、宥和させることなく収縮させ、結晶化させるような時間モデル、それは弁証法の「否定的なものの驚異的な力」を利用しようとする。その弁証法の重要なファクターは、両義性であり批判性であった。真正なイメージは両義的であり、それらのイメージに鋭利な理論的介入を行うのである。なんだかアドルノの否定弁証法ポイ‥‥。

こうして、過去に従ったり、過去に回帰したりすることなく記憶の衝撃を受け入れ、それらの記憶の参照関係を脱構築して批判する、そのようにしてアウラのノスタルジーを批判するのである。ベンヤミンは、神話と技術、夢と覚醒、ユングとマルクスのどちらの肩も持たない、彼が頼みとするのは目覚めの瞬間なのだとディディ=ユベルマンは言うのである。そのような事柄を可能にする時間モデルこそが未来を預言できるだろう。それは人類の新たな知の道具となる可能性があるのだ。

 

この様に見てくると、ベンヤミンの根源〉やヴァールブルク〈残存〉を理解するにあたってフロイトの心理学が鍵を握っていること、そして、想像力とはモンタージュが持つ内在的な能力であり、視覚的形態の美的パラダイムと知の認識的パラダイムを結び付ける力だと言うことが分かる。これは、カッシーラやランガーにはない観点ではないだろうか。‥‥最後に恐縮だけれど僕の作品『モノクロームの残像』モンタージュをご覧いただければと思う。

『モノクロームの残像』モンタージュ

 

参考文献 及び 引用文献

 

 

ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』

ディディ=ユベルマン『ニンファ・モデルナ』

ディディ=ユベルマン『アトラス、不安な悦ばしき知』 『ムネモシュネ・アトラス』についての最良の解説書

フロイト著作集 6「自我論・不安本能論」

ディディ=ユベルマン
『ヴィーナスを開く』夢・裸体・残酷

 

キム・ヘスン/金 惠順 『死の自叙伝』 詩は死を葬送する

 

キム・ヘスン/金 惠順(1955- ) フランクフルト 2019

魂があるなら、その前髪をつかまれて暗い淵を引きずり回される。あなたの孤独など屑籠に投げ入れるほどの価値もないのよと肩を叩かれる。そんな、インパクトのある詩人が韓国にいる。

「君は、そんな暗い詩が好きなのかね……?」と問われれば、胸を張って言いましょう。その通りです。この詩は素晴らしいです。」

こんな文学に出会えるのは嬉しい。彼女は書く。「まだ死んでいないなんて恥ずかしくないのかと、毎年毎月、墓地や市場から声が湧きあがる国、無念な死がこれほど多い国で書く詩は、先に死んだ人たちの声になるしかないではないか (本書あとがき)」と。そして、彼女は、詩の中でこのように書く。あなたの心臓は川岸の小石のように、川岸の砂のように死ぬ、あなたの呼吸は細い月のように止まる。そして、あなたの背後であなたになれなかった日々が泣き叫びながら波打つと。

彼女の無念や残念が、何時から生まれ、何処へ去来するのか、寡聞の僕には分からない。しかし、いくつかのヒントはある。その一つは、光州事件だった。軍事政権を率いた全斗煥は、民主化運動のリーダーだった金大中を逮捕し、戒厳令を布告した。1980年5月18日、それに抗議するデモ隊と軍との衝突によって死者を出したことから、市民の抵抗運動は全羅南道一帯に広がり、5月27日には抵抗する市民への射殺命令が下され、ついに鎮圧された。彼女が25歳の頃だ。死者は200名とも2000名とも未だに分からない。この犠牲者の追悼のために作曲家のユン・イサンが、交響詩『光州よ、永遠に』を作曲したことでも知られる事件だった。彼女は、そのことも詩に書く。「布団の中には緑色の服で銃剣を持った兵士の行列/陰部の中には血走った瞳がいくつもころがり‥‥あんなに殴ったのに/あんなに突き刺したのに   あの人たちが泣いている‥‥(吉川 凪 訳)」

 

原州にある雉岳山 (チアクサン)山頂 ソウルからも日帰りできる紅葉の名所

キム・ヘスン/金 惠順は、1955年、韓国の慶尚北道は蔚珍 (ウルチン) で生まれた。訳者の吉川凪 (よしかわ なぎ) さんの訳者解説からご紹介する。古くから韓紙の生産で知られる江原道原州 (カンウォンドウ ウォンジュ) で少女時代を過ごしたが、十代で病を得て療養のために海に近い母の実家に移った。祖父が、その街で書店を経営していたことが彼女の人生を決めた。ヘスン少女は、そこで日がな本を愛でる少女となったのである。詩に目覚めたが、誰の詩だったのだろう。ソウルの建国大学・国文科に入学する。三年生の時、東亜日報新春文芸に評論が当選し、志を強くしたようだ。

卒業後の1979年には季刊誌『文学知性』に詩が掲載され、詩人として早いデヴュ―を果たしている。出版社で働きながら大学院に通い、モダニスト、民主詩人として知られる金洙暎 (キム・スヨン) の研究で博士号を取得した。苦学したのだ。最初の詩集『また別の星で』、その後カレンダー工場の工場長さん、見て下さい』、『悲しみ歯磨き 鏡クリーム』、『花咲け ! 豚』、『翼の幻想痛』など十三冊の詩集を出版している。金洙暎文学賞、素月文学賞、未堂文学賞、大山文学賞など韓国で詩人に与えられるほとんどの賞は受賞しているという。そして、2019年には著名なカナダのグリフィン詩賞、2021年にスウェーデンの文学賞Cikada Prizeを受賞していて国際的な評価を得ていることが分かる。現在は、ソウル芸術大学文創作科の教授であられる。

 

キム・ヘスン/金 惠順 『死の自叙伝』

彼女のことを知ったのは、詩人の四元康祐 (よつもと やすひろ) さんがFacebook上で、Poetry Talks Live「韓国現代詩を読む」としてご紹介してくださったのを拝聴させていただいたのが契機です。とてもありがたい人だ。〈ひかりのうまというカフェ・バーでのライブだったが、本書の訳者である吉川凪さんとの対談で紹介された韓国の詩人の一人だった。

このキム・ヘスンさんの詩集は、死者の霊を弔う四十九日に見立てて詩集を構成したものだ。著者はこの四十九篇を一篇の詩として読んでほしいと願っている。四十九日は、現代の韓国でもその期日を待って忌開きとする家庭も多いと言う。儒教での喪はもっと長い。この最初の詩は、彼女が地下鉄の駅で気を失ったときの体験がその底にあるようだ。本人はこう書いている。

「私は死ぬ前に死にたかった。目覚めていても身体が死の世界を漂うのが感じられた。電車でめまいを起してホームで倒れたことがある。その時、ふと浮かび上がって自分自身を見下ろした。あの女は誰だ。哀れな女。孤独な女。その経験があってから、死の次に訪れる時間をおろおろと記した (吉川 凪 訳)。」その詩、第一日目の『出勤』を抜粋でご紹介する。

 

出勤
一日目

地下鉄の中で あなたは目を見開き一度眼球を動かした それが永遠だ

ぎらり の永遠の拡張

ドアの外に押し出されたようだ あなたは死ぬらしい

死にながら考える 死にながら聞く

おや この女 どうしたんだ?  通りすぎる 人々
あなたは倒れたゴミ ゴミは見ないふりをするものだ

地下鉄が出てゆくと老いた男が近づく
男はあなたのズボンの中に黒い爪をスッと入れる

‥‥

死は外から内に襲いかかるもの 内の宇宙のほうが広い
深い しばらくするとあなたは内から浮かび出す

彼女があちらに横たわっている 捨てられたズボンのように
あなたが左脚を入れればあなたの右脚が遠く走り去るズボン 縫い目もない服
ファスナーもない服が転がっている 出勤途中の地下道の隅に
哀れだ 一時はあの女を 骨が骨髄を抱くように抱きしめたのに
ブラジャーが胸を抱くように抱いたのに

‥‥

あなたはあなたから逃げ出す 影を離れた鳥のように
あなたはもうあの女と暮らす不幸に耐えないことにする

あなたはもうあの女へのノスタルジーなどなくなれと叫んでみる
それでもあなたはあの女の生前の眼光を一度ぎらりと放ち
職場目指して歩き出す 身体なしに

遅刻しないで着けるだろうか 生きないはずの人生に向かって歩く

(吉川 凪 訳)

 

ぎらりと眼光が走る永遠の時、それは反転されて死の時に裏返る。死は外から襲いかかり、内の宇宙から自身がゆらりと抜け出た。今度は外から、男のような目で、この哀れで孤独な女を別人のように、ゴミのように眺める。皮膚に包まれた肉体、縫い目もファスナーもない服を着た死体、今ではコロナウィルスの犠牲者を思い出させるが、過去にSARSなどが韓国でも話題になったこともあったろう。幽体離脱なら普通の人には大した体験だろうが、彼女は、そんなことに構ってはいられない。遅刻しないだろうかと心配になる。そこに現代人の悲哀が影を落とすというわけだ。そう、生きないはずの人生に向かって急ぐ。彼女の詩には、なにか、エミリー・ディキンスンの詩が木霊してくるような気がする。

 

『エミリー・ディキンスン詩集』新倉俊一(にいくら としかず)訳編

ディキンスンは、30歳を過ぎると隠棲して眼の治療以外に「屋敷」を出ることはなかった深窓の令嬢、生きながら伝説と化したアメリカの女性詩人であった。

生の一撃は死の一撃
死ぬまで目覚めなかった者には――
生きたとしてもずっと死んでいて
死んではじめて生が始まるものには――

(エミリー・ディキンスン 816番 新倉俊一 訳)

 

軽やかな気球は 大地からの
解放以外に 何も求めはしない
そのために存在した上昇
その舞い上がる旅――
そのように 霊は自分を
永い間縛っていた肉体を
憤慨しながら 見下ろす
丁度 歌をだましとられた
小鳥のように――

(エミリー・ディキンスン 1630番 古川隆夫 訳)

 

彼女はこの世に帰ってきた
しかしあの世の色彩をおびて―
ちょうど芝生がスミレを娶るような
いと複雑な物腰で―

夫というより むしろ天国に
嫁いでいった花嫁は
おずおずと 半ば地中の
半ば地上の暮しをするのだった

(エミリー・ディキンスン 830番 新倉俊一 訳)

 

キム・ヘスンさんにとってもう一つの重大な事件は、セウォル号の沈没だった。2014年、仁川 (インチョン) から出港した船は彼女が教える大学がある安山 (アンサン) 市の高校生325人と教員14名も乗せて済州 (チェジュ) 島に向かっていた。修学旅行だった。しかし、朝鮮半島の南西部の端にある観梅(クァンメ)沖で船は沈没する。乗客、乗員合わせて476人のうち死者は、その半数を超えた。事故原因は、船の無理な改造、積荷の超過とそれに伴うバラスト水の抜き取りにあった。バラスト水は船のバランスをとるため船内に積み込まれる海水である。これに加えて、乗員の操作ミスと適切な避難誘導が行われないという人的ミス、海洋警察庁の杜撰な対応が重なり韓国史上最大の海難事故となる。

この事故では、修学旅行生らが船の沈んでいく様子を携帯電話で訴えた。それは沈没の恐怖を生中継されている感があったと言う。この事件があって一年程は韓国の詩人、小説家は皆文章を書くことができなかったと訳者の吉川さんは述べている。2015年に谷川俊太郎さんと四元さんが、日・中・韓の詩人に呼び掛けて連詩を創作した時、彼女は、そのさなかにいた。それも、連詩のテーマは「海」だったという。

‥‥
千日目もあの島に着けない
あなたはまだあの島に到着できない
もうすぐ下船だと思った瞬間
あなたはまた真夜中 小さなキャリーバックを引いて旅客船に乗る
‥‥

(『あの島に行きたい 二十日目』より 吉川凪 訳)

 

連詩における彼女の詩は、セウォル号事件の高校生たちに関するものを思い起こさせるものばかりで、どんなに他の情景に振られても彼女は、そのテーマから抜け出せなかった。ようやく最後に聾唖学校の生徒たちをテーマに何か光のようなものを見せて四元さんを安心させたと言う。本書にも『水に寄りかかります 四日目』、『あの島に行きたい 二十日目』というタイトルで、この事件に関連すると思える詩が掲載されている。ちなみに、彼女はグリフィン詩賞の受賞講演に際して「国家の助けを得られずに死んでいった多くの哀れな霊魂にこの栄光を捧げる」と述べたと言う。彼女の書く死は、私の死や特定の個人の死もないわけではないけれど、訳者の吉川さんの言葉を借りれば、多くは「ある集合体の死」なのである。

彼女の詩のもう一つの特徴は穴だ。白いウサギは血を流して赤いウサギに変る。しばらくすると赤いウサギは腐って黒いウサギになる。大きな雲のようにもアリのようにも自在な大きさになれる死んだウサギ。その小さくなったアリウサギを耳の穴に入れてみる。耳鳴りがして耳は死んでゆくと、ウサギは血の付いた生理用品に生まれ変わり、その死んだウサギの耳のように匂う泣き声を毎月壁に掛ける。これが『カレンダー 二日目』という詩の概略である。

それに、彼女には『ア・エ・イ・オ・という詩について述べた身体の穴に関するコメントがある。母音は身体中の穴と結びついていて、特に女性の身体と死の身体は限りなく変性し生成しながら他の身体と交流し入り混じると言う。身体が名前を失い、公民権を剥奪され、追放された時に、死の言語、女性の言語か生まれると言うのだ。ア・エ・イ・オ・ウは「川原繁人『「あ」は「い」より大きい!? 』音象徴とコトの葉」で述べておいたけれど、五つの母音の順番が、それを発音した時に口蓋の中にできる空間の大きさの順になっている。身体の穴に関する言葉は、この詩集でも散見される。

「黒い喉に清らかな足の爪にも似た何かが」「男の眉毛の下で震えていた汚いブラックホール」「陰部の中には血走った瞳」「母の鼓膜を食べようと待っている」「あなたの鼻孔に下りれば 腐った墓」「舌が口の中で溶ける女が」、このほか、頭蓋骨の中の幽霊、ビーカー脳といった表現もある。身体、特に裸体と残酷の関係を闡明にしたのは僕の大好きな美術史家ディディ=ユベルマンだった。そのことはアフロディテの系譜」エロスとタナトスの間で少しだけ触れておいたけれど、ここでもう一度、振り返ってみよう。

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン
『ヴィーナスを開く』夢・裸体・残酷

ヴィーナスの裸体画のイメージがキリスト教化された時、そのイメージは貞潔に塗り替えられる。しかし、ヴァールブルクは、ボッティチェリの描くヴィーナスに「密やかな誘いかけ」と「近寄りがたさ」という二重性を見ていた。その晴れやかな裸体も外部は直接的に内部の形態から生じていることは明らかだろう。ディディ=ユベルマンは、『ヴィーナスを開く』で、ディドロの絵画論の一説を引く。

「生命体の外部とは、不断に変化する内部の出現でないとしたら、一体何だというのか。この外観、この皮は、内部の、多様で、複雑で、繊細な構造とぴったり合致しているわけで、それ自体が内部をともなっているのだ。というのも、内部と外部のふたつの規定は、完全な静止のうちにあっても、激しく運動していても、常に直接のかかわりを持っているからだ (宮下志朗・森元庸介 訳)。」内部は外部に反転する。

そして、「近寄りがたさ」はフロイトが指摘する「裸体に触れることのタブー」に繋がる。強迫神経症は、エロティックな接触を追求しながら退行を経て、攻撃という形の偽装の接触を追求する。そこには、魅力と欲望が作動する「気まずさ」「人を惑わす連想」が存在するという。無意識的な欲動は脳の深部に由来するものだ。イメージとは何よりも作動し続ける張力であり、「不純なる」状況であり、稼働中のプロセスなのだとディディ=ユベルマン言う。キム・ヘスンさんの穴は、外部にある内部であり、それはまさしく稼働するイメージなのである。

サンドロ・ボッティチェリナスタージョ・デリ・オネスティの物語』第二話 部分 1483年

その裸体に、バタイユの言うような純潔に対極する不純といった異質性や端的にエロスに対するタナトスを見るのは、まだ早い。ディディ=ユベルマンは、ボッティチェリが描いた『ナスタージョ・デリ・オネスティの物語』に登場する、ある場面を紹介する。しかし、なんだがロレンツォ・デ・メディチの死後、彼の作品はとっても冴えない。

それは騎士に追いかけられ、背中を割られた裸女の絵であった。ボッカチョの『デカメロン』五日目第八話のエピソードで、地獄での罰によって恋の闇路に惑う騎士が自分を顧みない冷淡な女を殺戮することを永遠に繰り返す「地獄狩り」の話である。ボッティチェリのこの絵はヴィーナスに象徴される女性の裸体を切り開き、心臓をあばいてみせるといったもので、永遠の業罰もここまでくると凄い。この穴は身体にまつわる欲動が残酷へと反転する象徴と言えるのではないか。エロティシズムが裸体そのものに宿る残酷さを開く。ヴィーナスを開くのである。身体そのものに残酷さが宿っている。それは、バタイユが『エロティシズム』の中で述べたように「己を引き裂き、消失させる、存在の過剰 」へと結びつくからである。

キム・ヘスンさんの詩について四元さんは、彼女のひとつひとつの言葉は難解ではないし、具体的で、明示的で、曖昧さが一つもないと言う。その言葉から表象されるイメージの変性は、強い生理的なファンタスムを作動させる。それは、イメージの物質性とも呼ぶべきものではないだろうか。イメージの衝突や夢の中の変容というより、イメージの異質性を照らし出す張力である。「この女性詩人の視点は教わったものではない、ナマのものです」などという男性評論家の言葉など彼女は一蹴する。女性詩人が、ナマの声を持っているなどとはお気楽な指摘だというのである。それは発声方法の違いであり、そのような視点を得るための不断の努力の結果だと言うのである。

 

さて、彼女の詩に戻ろう。詩集も大詰めを迎える四十六日目である。彼女はここで、奇想天外な仕掛けを見せてくれる。この『窒息 四十六日目』の詩は、接続詞の次に「息」という言葉が接続される18行もの羅列になっている。息が詰まりそうだ。しかし、彼女はその最後に、この上ない皮肉を死に浴びせかける。詩が死を葬送するのである。詩人はこう述べている。「現実の死が、詩の中の死によって打撃を受けることを願った最後の三行をご紹介する。

 

死は息をして あなたは夢を見たけれど

もう死から人工呼吸器をはずす時間
もう夢を壊す金槌が必要な時間

(『窒息 四十六日目』より 吉川凪 訳)

 

「死はこの世でたった一つの嘘」、「あなたがむずかる幼い死たちに乳をくわえさせる」など鮮烈なイメージを撒き散らしながら彼女は書く。そして、ついに「あとがき」の最後のほうにこう書いた。「もう死を記したから、再び死など書きたくない」とだけど、僕はもっと彼女に死のことを書いて欲しいと思っている。何故なら、沢山の災害やパンデミックで、多くの人が死に、多くの人が悲しみに沈む。その痛みを共有しうるのは、その悲しみに深く打ちひしがれた者の持つ感情だと思っているからである。死を扱わない文化、不死だけを言祝ぐ文化は浅い。

 

リズムの顔

死んだほうがましだと思っても
突然苦痛が終わると心細いのです
死んだほうがましだと思っても
突然苦痛が終わると苦痛が思い出せないのです
死んだほうがましだと思っても
突然苦痛が終わると死にたくなります

死もこれより深く私の中に入ることはできないから

 

(キム・ヘスン/金 惠順 詩集『翼の幻想痛』より 「リズムの顔」から第一連  吉川凪 訳)

 

 

本書は、韓国の現代文学を紹介するために立ち上げられたクオン/CUONから出版されている。東京の神保町にある出版社で、書店もあるらしいので近くの方は覗いてご覧になると良いと思う。それから、日本語訳をなさった吉川凪さんの手腕も素晴らしい。韓国文学には全く無知な僕だけれど、このような著作が日本で出版されたことを喜ぶほかない。

 

参考文献

 

『韓国三人詩選』金洙暎 (キム・スヨン)、金春洙 (キム・チュンス)、高銀 (コ・ウン)

古川隆夫『ディキンスンの詩法の研究』