今道友信『ダンテ「神曲」講義』part3 天国篇 ―― 美の神学

今道友信(1922-2012)『ダンテ 神曲 講義』

クラシックって古典のことだろ、と当たり前に思っていたのですが、恥ずかしながらその語源について知ったのは、本書を通じてでした。クラシックとはラテン語の classis= 艦隊を意味する名詞から派生した形容詞であると言う。ラテン語辞典で調べるとなるほど海軍となっている。それはローマの国家的危機に際して一艘とかではなく、艦隊を寄付できるような国家に寄与できる富裕層を指した。古代ローマでは徴兵制はあったが、軍艦は税金ではなく寄付を募って造ったと言う。この国家の危機に自分の子供= proles しか差し出せないような貧しい層の人をプローレータリウスと言った。そこから貧困な労働階級を意味するドイツ語プロレタリアートが生まれたのである。この意外な展開に吃驚仰天したのは言うまでもない。転じて人間の心の危機において本当に精神に力を与えてくれるような書物、絵画、音楽、演劇などの偉大な芸術をクラシクスと呼ぶようになったというのである。これは古典と訳されたが、典は猫脚の机の上に巻物を大切に置く象形文字で、大切にして読むという意味です。けっして積読の意味ではありません。

ダンテの古典に学ぶというわけで今道さんの『ダンテ「神曲」講義』に拠りながら神曲の各歌を要約してご紹介している。今回はその最終回、「天国篇」をご紹介します。ダンテ研究はフマニスムス、つまり人文主義を学ぶことである。この言葉は1809年にフリードリヒ・ニータンマ―という人によって人間愛=フィラントロピスムスに対して作られたドイツ語である。それは古典研究を介して言語に習熟すること、言語に馴染み生きるということであった。ダンテの直後にイタリアでウマニスタと呼ばれる古典研究を中心とした人文主義のグループが現われる。その人々の運動こそが19世紀以来のヒューマニズムを先駆けるものであった。

今道友信(1922-2012)

今道さんのフリーの肖像写真を探していたのですが、あまり良いものが無くて、ご紹介が遅くなってしまって恐縮です。今道さんは1922年東京生まれ。父親は支店長も務める銀行員で、転勤もあり、山形、高知と転校した。この辺りはバフチンを思い起こさせる。いずれも当時は方言がきつく、それで英語が好きになったと冗談めかしておっしゃっている。1948年に東京大学文学部哲学科に入学、出隆(いで たかし)に学んだ。パリ大学やヴュルツブルク大学で非常勤講師を勤め、1958年から九州大学や東京大学などで教鞭を執るようになる。国際美学会副会長、東京大学名誉教授であられた。1982年に哲学美学比較国際センターを創設され、2010年まで所長をされる。2012年、大腸がんのため89歳で亡くなっている。エコエティカ(生命倫理に基づく人間学、倫理学)を提唱した美学・哲学者として知られている。簡単ではあるが今道さんの経歴をご紹介した。

煉獄篇では地獄篇と異なり、悲惨や絶望への哀訴はなく、教理の理解や政治論などを踏まえながら巡礼叙事詩の形をとって天国への接近が図られる。ダンテは、ここで前著の『帝政論』の行き過ぎを訂正しているという。改宗者スタティウスやベアトリーチェとの関係を想像させる女性マテルダらが加わり秘儀めいた雰囲気が演出され、ウェルギリウスが表舞台から退くと、聖体拝領を境とする信者のみが正式参加を許されるようなミサの雰囲気を醸し出しはじめる。宗教的な色彩を濃くするのだ。浄罪救済の叙事詩としての性格を煉獄篇は持っていた。これに対して天国篇は天国の至福の叙事詩とならなければならない。それは宗教的宇宙論と言ってもよく、極めて教導的である。そんなものは、たいてい詰らないものだというが、この神曲は面白い。何故だろうか。さて、天国篇に入ろう。

天国篇

地上楽園から天界への上昇 第一歌から九歌

ジョヴァンニ・セルカンビ(1348-1424)画
ダンテ神曲より火星天の登場人物、15世紀
地上楽園から月光天、水星天、火星天へと上昇していく。

冒頭ダンテは予言の神アポロンに呼びかける。地獄篇でも煉獄篇でも冒頭に呼びかける対象は詩の神々ミューズであった。それはホメロスの「憤りを歌いたまえ詩のミューズよ」に始まり、ヴェルギリウスによって「ミューズの女神よ、私に事の由を思い起こさせたまえ」と受け継がれた伝統と言って良い。ここでダンテは「願わくは我を汝の徳の器とし」「汝の愛する桂(アルローロ)を受くるにふさわしき者たらしめよ」と願っている。ミューズは過去を歌う女神である。パウロが行ったとされる天国は、それ以外誰も行ったことがない。アポロンの予言力を借りなければ、とうてい表現不可能だというのである。(一歌)

ダンテはベアトリーチェと共に地上楽園から月光天へと上昇している。太陽さえ凝視できる力を備えるようになった。ベアトリーチェは、こう説明する。創造物には神が刻印したそれぞれの価値がある。その定めによりその根源に向けて傾斜していく。それが本能であり、火は月へ動き、下等生物には機動力となり、大地には凝固させる力となる。私たちは神の摂理の光によって原初動が全速回転する、しかも極めて静かな至高点へと向かっているのだと語る。

天国篇は難解であるから私を見失い、途方に暮れるかもしれないと小さな舟でついて来る人たち、つまり読者に警告が発せられる。話は哲学・科学・神学へと傾斜していくのだ。矢のような速さで月光天に着いた。ダンテはあの月の斑点を問い、彼女はそれに科学的に答える。そして、至高天は回転する力の中に全ての実在を持っていて、第八天である恒星天は、実在のそれぞれの本質に分かれている。七つの天球はそれぞれの性格に従って内部に各々の本質と種を持っていて、上の天の影響は下の天に伝えられる。様々な力が天体に応じて種々に結合し、天体を賦活する。それは魂の様々な能力が異なる五体に行き渡り生命が人間に結びつく仕方に似ているという。(二歌)

サンドロ・ボッティチェリ 『天国篇』 第二歌

「万物を動かすところの者」を神としたのはアリストテレスである(『形而上学』λ 巻)。形而上は易経にある言葉で形体あるものを越えて考えることを指している。それは神学でもある。今道さんは、アリストテレスの第一動者としての神の存在証明をトマス・アクィナスが受け継ぎ、その伝統がダンテにまで継承されているという。

月光天でダンテはフォレーゼ・ドナーティ(煉獄二十三、四歌)の妹、ピッカルダに会う。立てた誓願が軽んじられ、一部は破られたためにこの天界に割り当てられたという。しかし、何も望むこととはなく、神意のうちに留まっていることこそ幸福であると語る。そして、同じく尼となりながら還俗を余儀なくされた大王妃コンスタンツァを紹介する。(三歌)

プラトンの言う、死後に魂は星に帰るという疑問とピッカルダのように他人の暴力が何故自分の功徳を減らすのかという疑問にダンテは捉えられた。前者については自然が魂に肉体という形相を与えた時、魂がその星から別れたというプラトンの考えには一笑に付すことができない問題があるとベアトリーチェは答える。後者については、意志の弱さに起因することだという。(四歌)

ギュスタ―ヴ ・ドレ『天国篇』 第五歌

破られた誓願は他の善行によって償いうるものかという疑問にベアトリーチェが答える。天地創造に際して神が与えた最大の贈り物は意志の自由であった。誓願は意志の自由を犠牲にする。それ故高い価値を持っている。誓願の内容を勝手に変えることは出来ず、神との契約が果たされなければそれが取り消されることはないと語った。そして、二人は第二の天、水星天に駆け上がった。そこには、千余りの光明が近づいてきて、その中から声が聞こえた。(五歌)

皇帝ユスティニアヌスの魂が、鷲の旗の下にアエネアスから始まる代々のローマ皇帝の偉業を語る。そして、教皇党と皇帝党とがそれぞれの党利党略に走るのを嘆いた。生前、名誉のために善行を積んだ人々が集っているが、とりわけ、水星真珠天の光輝は、プロヴァンスの宰相ロミューであると語る。(六歌)

ダンテはベアトリーチェへの畏敬の念にかられ、「べ」とも「イーチェ」とも言えず眠りこむように頭を垂れるしかない。彼は、人間の贖罪に対する疑問に囚われる。生まれたことのない男性、つまりアダムの堕落以来、造物主から離反した人性はキリストという永遠の愛の働きによって再び神に結びつけられた。十字架によって課せられた罰はキリストが帯びていた人性を考えれば正当な罰であり、キリストの持つ神の位格にとっては、かつてなく不当な罰であった。一つの事から異なった結果が生じた。正義の復讐が、その後、正義の法廷によって報復を加えられたのだとベアトリーチェはいう。正義の復讐とはアダムの犯した罪がキリストの死によって贖われたことである。報復とはキリストの血を流させた民の都エルサレムを皇帝ティトゥスが破壊したことを指している。神が支配する世界で復讐は何故繰り返されるのか? こういったキリスト教的歴史観、歴史が神と救いの論理で解釈されるのはアウグスティヌスの『神国論』をもって始まる。ティトゥスについての解釈は、その弟子のオロシウスによると今道さんは述べている。(七歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第八歌

第三の天、金星天へと二人は昇る。ダンテと旧知の間柄であったハンガリア王カルロ・マルテㇽロが喜悦の情によって一層輝いていた。自分が若死にしなければこれほど害悪が世に広がることはなかったろうと語る。そして甘い種から苦い実、つまり立派な親から不肖の子が生まれるのかを問うダンテに答えてやる。(八歌)

第九歌は地獄篇でも煉獄篇でもその門の内に入る場面に選ばれている。天国篇でも、ここから本当の天国に入っていくのだ。大地に立って手をかざすと、それが陽の光に投げかけられてできる影の先となる。同じように地球の影はこの金星天までのびて影の端を作る。そこから先は地球の影響は及ばない。真の天国となるのである。普通の人でも命がけで善行をなせばこの金星天までは行ける。そこから上は、聖人が登場するが、ダンテは自分の高祖父もこの天国に入れている。よほど家門の誉れだったのだろうか。ロマーノ家のクニッツァは多情ではあったが晩年改心して善行を積んだ。彼女はイタリア各地の惨状を語る。吟遊詩人であったフォルケは神の摂理を讃えて歓び笑う。そして、ヨシュアを助けた遊女ラハブがいた。たとえ、遊女であっても、たとえ、一度でも命がけで善行を行えば天国に迎えられるとダンテは考えていたのである。(九歌)

不可視のものが可視のものを統べる

プラトンの「線分の比」の教え 本書より

神が創ったものは滅びない。原質料がその一つである。それは背後にある。原質料から諸々の力により多くのものが形成された。形成されたものは滅びる。それは外に現われでる現象に過ぎない。質料と形相とは神によって作られた。何でも形成できるスーパー物質とその鋳型と言って良いのかもしれない。例えば、土は無から創られた原質料から土になる可能性を巡って運行する星の上に、神の内在せしめた形相に基づいて形成されると考える。

プラトンには外に現われ出る可視のものと、その背後にある不可視のものについて語られる「線分の比」という教えがある。ADは理性によってのみ把握しうる不可視の世界イデア=神の思い、DCは悟性によって把握できるエイドス(概念・法則)、ここまでが不可視の世界である。CEは、いささか現象学的に言えば経験世界における事物への確信の世界、BEは感覚によって得られる世界と言ってよいのではないかと思うけれど、プラトンの言う可視の世界である。この不可視のものが可視のものを統べるという考えは、アリストテレスを通じてトマス・アクィナスへと流れ込んだ。

火の花冠 神学者と聖人たちの天界 第十歌から二十二歌

第四天、すなわち太陽天ではトマス・アクィナス、そしてアリストテレスをキリスト教の基盤に据えたといわれるアルベルトゥス・マグヌスら多くの神学者や哲学者がいる。そこでダンテは「己の一切の愛を神に注いだ」といえるほど真剣に考えた。天国では、人は直観知の明証性を論理化することができる。多くの聖人の説教を聞き、ベアトリーチェ自らも理論を述べ、問答を通して知的会話が為され「歓喜は永遠となる」。

ダンテとベアトリーチェを中心に生き生きと輝く火が冠のように拡がり照り映えている。真実の愛は恩寵の光に火を発すると愛によって益々強まってゆき、君を高みに導くという声が聞こえてきた。トマス・アクィナスの声だった。その右にはケルンのアルベルトゥス、グラチアーノ、ソロモン、スペインの司祭オロシウスなど光の輪を構成する12人のキリスト教の智者たちが紹介されていく。すると甘味な清音のような合唱が聞こえてきた。(十歌)

ギュスタヴ・ドレ『天国篇』 第十二歌
12人よりいささか多い。

彼女は、まだうら若い女であったために父の怒りを買った。この女に対しては死神同様、誰一人門戸を開かなかった。そいて、司教法廷、並びに父親の前で彼はその女と結婚し、それ以後その女を熱愛した。トマスはダンテにアッシジの聖フランチェスコとポヴェルタ、つまり清貧との逸話を語りはじめる。(十一歌)

第一の光の輪を取り囲んで第二の輪が廻りはじめる。第二の輪も12人の魂で輝いている。その中の一人ボナヴェントゥーラがトマスの所属したドミニコ会の創設者・ドミニコの逸話を語る。ボナヴェントゥーラ自身はフランチェスコ会士だった。そして、ユーグ・ド・サンヴィクトールら他の11名を紹介する。(十二歌)

 

あまりにたやすく事をきめつけ
野原の穂など熟せぬうちに
値踏みするような人にはなるな。
茨は冬こそ恐ろしげだが、
後その小枝に薔薇の花を
咲かせていたのを見たことがある。
遠い海原を舟足速く
はるかな舟路を渡った舟が
港に沈むのを見た。
一人が盗み他が寄付するを
見たとて世人よ神の審判が
定まると思うな、ありうることは
前者の更生後者の堕落(130-142 今道友信 訳)

神曲はトマス神学の詩的結晶と呼ばれる。ここでもう一度、トマスがダンテに語りかける。アリストテレスの『ニコマス倫理学』の実践理性をトマスがキリスト教的に展開した徳目についての解説になっている。自らの中に道徳的判断の基準となるどのような原理を持つかを問うているのだ。人生は計画どおりに機械的に進行しはしない。偶然と必然の間を揺れ動く、アリストテレスは理論理性(エピステーメー)に対して実践理性(ブロネーシス)を分立した。それが徳目プルデンティア(智慧)である。(十三歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第十四歌

別の光明が現われると先ほどの二つの光の輪のまわりを煌めきながら舞いつつ回り始める。両の眼は眩み、もはや凝視に耐えなくなる。二人は火星天へと上昇した。天の川の星たちのように、赤い光明たちが居並ぶと円内で直交する二直径からなる尊い印を形づくり、十文字の光がキリストの姿を描いた。その光明の群れから身も心も恍惚とさせるような旋律が流れた。(十四歌)

晴れ渡り澄み切った夜空を火が突然よぎる。流れ星と異なるのは、星は消えずその光跡が消えることだった。そのように十字架の右手から一つの星が駆け下りてきた。ダンテを待ち焦がれていた高祖父のカッチャグイダの魂だった。彼は、ダンテに12世紀の平和で地味で貞潔だったフィレンツェを語り、コンラード皇帝旗下の騎士となって第二十次十字軍に従軍して回教徒と闘い、1147年に戦死して殉教者となったことを教える。(十五歌)

ダンテは、先祖やカッチャグイダの幼年時代のことを尋ねる。当時の有力な貴族や名門の名が語られ、アミデイ家がダンテたちの災いの元凶であり、ブォルデルモンテ家がそのアミデイ家との婚約を破棄し、その後の殺傷沙汰に至ったことが告げられた。(十六歌)

ダンテは、この先祖に対して自分の未来を問うた。高祖父はこう答える。

お前自ら経験しよう
どんなに苦いか他人のパンは、
他家の階段を降りるつらさも。(58-60 今道友信 訳)

そして、ダンテは自分の意志をこの言葉に凝結させる。

父上(一門の古老を指す)、時勢は私に迫り
拍車を加えて討とうとします、
士気を失えば図に乗るでしょう。
されば、先見で我が身を鎧(よろ)い、
たといふるさとが奪われたとて
我が詩の在り処は確保しましょう。
はてない苦難の世界に降り、
淑女が示した峰に向って
美しい山を経めぐり登り、
光、光と昇りつづけて
学びえたことをまた言うならば
酢を飲まされたと人は言います。
だがもし私が真理に対し
卑怯になるなら今を昔と
呼ぶ世代からは否定されます。(106‐120 今道友信 訳)

未来とは何か ? 動物と人間を分けるものは理性であるとトマスは言う。自然における形態の変化ではなく、生き方の変化としての歴史が人間の理性の内にしかないのなら、歴史形成の根拠は人間にある。歴史形成へ向けて理想が求められるなら、それは理性に求めなければならない。(十七歌)

フランチェスコ・スカラムザ(1803-1886)
『天国篇』 第十八歌 TERRAMのM字、鷲が頭を沈めた形に見える。

火星天には下界で名を馳せた多くの勇者たちの魂が光明を放っていた。ヨシュア、マカベウス、シャルルマーニュ、ローランたちの名が呼ばれる。やがて、二人は、第六天である木星天の白い静光の中にいた。そこでは、光芒に包まれた魂たちが時に D、時に I、時に L の文字を組むのだった。DILIGITE  IUSTITIAM(愛せよ正義を)、QUI IUDICATIS TERRAM(地を裁く者らよ)という文字が金で象嵌した銀のように輝いていた。無数の光明が火花のようにあたり一面に飛び散ると鮮明な光芒となって鷲の頭と首を形づくりはじめた。(十八歌)

鷲は多くの象徴的な意味を持っている。木星の神ユピテルは鷲に変身したし、ローマの旗印は鷲であり、正義の象徴、キリストの象徴と考える人たちもいる。光たちが集まって出来た鷲は、一つの魂であるかのように語った。正義感と慈悲心のおかげで私はこの栄光の高みまでやってこれたと。ヴェルギリウスに対する思いなのか、キリスト教を信仰していなかったものの救いはあるのかと問うと、永遠の裁きは人間には不可解だという答えが返ってきた。(十九歌)

第六の星では、光明の群れが合唱し、光彩陸離、宝石珠玉を鏤めて輝いていた。その鷲の形の中の最高位は、頭の位置にある六つの光だった。ダビデ、トラヤヌス、ヒゼキア、コンスタンティヌス、シチリア王グリエルモ、トロイア人リペウスの魂だがキリスト以前の人々もいる。天の王国は、熾烈な望みによって掟が破られることを許すことがあるのだとダンテは知らされる。(二十歌)

二人は第七の天、土星天に昇る。ベアトリーチェは言う。もし、私が笑えば、あなたは光輝くユピテルを見て灰と化したセメレーのようになるでしょう。ダンテは、まだその光輝に対する準備が出来ていない。この水晶宮の中に黄金のヤコブの梯子がはるか彼方まで延びている。オスティアの大司教ピエトロ・ダミーノの魂が君の聴力はその視力と同じく現世の人間のそれだ。ベアトリーチェが笑わないのと同じ理由でこの天の甘美な交響は止んでいるのだと教える。(二十一歌)

百余りの光明の中のひときわ大きく輝く魂がダンテの望みを叶えてくれる。彼はモンテ・カッシーノに西欧最大の僧院をつくった聖ベネディクトゥスだった。あなたの姿をはっきり見ることができるような恵みに与れるのかという問いに、君の望みは最高天で叶えられると答える。ベアトリーチェが梯子を昇るように目で合図する。ダンテは飛翔し瞬く間に金牛宮を過ぎ、その中に入っていった。(二十二歌)

ウィリアム・ブレイク『天国篇』 天の九層

天国とはどのように構想されたか

ダンテの描いた天国は単に眠りのような不活発な世界ではなく希望の渦巻くような世界である。天界は、上に行けば行くほど旋回運動が大きくなり、次第に広がっていく。荘子では逆に狭くなっていって一点に収束する。それは不思議な対照をなしているのである。そのような動的な天国をベアトリーチェは「嵐を待望している天国」という。下界の大転換が天にとっても必要だと述べているのだ。苦労なしに永眠のできる所というふうには描かれない。天国は、光における神との一致の中で世界を美しく、より良いものになるようにと望むものとして描かれている。第二十四・五歌では、聖ペトロや聖ヤコブがダンテに信仰について問う。これに対してダンテは「信は望まれたものの実体/まだ来ないものの証しなのです。/これが信仰でしょう」と答える。新約聖書のヘブル書に「信仰とは望まれしことの実体、見えざるものの証なり」という言葉が既にある。トマスの『神学大全』の注にも「信仰とは望まるべき事どもの実体である」という言葉が述べられていると今道さんは書いている。

ミケランジェロ・カエターニ(1804-1882)
『神曲』天界の秩序

 

天界の構造

第十天(至高天)
第九天(原動天 天使)
第八天(恒星天/神学的な徳――信仰・希望・愛)
―― ↑ ヤコブの梯子 ――
第七天(土星天/観想生活者 真の天の門)
第六天(木星天/正義の徳とその象徴=鷲)
第五天(火星天/殉教者の勇徳)
第四天(太陽天/キリスト教的賢明の徳)
―――  ↑ 地球の影響の及ばない天界 ――
第三天(金星天/愛と節制の徳)
第二天(水星天/名誉のための積善)
第一天(月光天/誓願の不成就者)

地球 (地獄界 地上界 煉獄界)

基本的にプトレマイオスの宇宙観に従っているが、大まかに三層になっていて、天界は完全数の10に分割されている。

 

恒星天 ダンテへの試問 ― 信・望・愛(対神徳) 第二十三歌から二十七歌

二人は恒星天にいる。太陽がそこにさしかかると日脚がおそくみえる方角を一心に見つめるベアトリーチェは、天が明るくなるとほとんど同時に「さあ、キリストの凱旋の軍勢が来ました。天球の回転が取り集めた戦利品の数々とともにやってきます」と言った。その顔は一面に輝いて喜悦の情に満ち溢れた。その光輝にダンテは耐えられず彼女に助けを請うが、もう私の笑顔を見ることが出来るほどあなたの目は強くなったのですと励ました。キリストが至高天に昇った後、冠の形をした炬火(たいまつ)が降りてきて、一つの多きな星を取り巻きゆっくりと回った。わが子の後に従って冠をいただいたその焔が空を昇って行った。マリアの姿を直視するだけの力がダンテにはまだ無かった。(二十三歌)

彗星のように尾を曳きながら、中心は極めてゆっくりと周辺はさながら飛ぶように魂の群が回転している。その中でもひときわ幸(さきわ)う火がダンテに試問する。聖ペトロが問うのだ。「信仰とは何か ?」するとダンテは「まだ見ぬものの論証です」と答えた。そして、天上において見えるものは下界において隠されていてその姿は見えない。そうした事物の存在は信仰に由来し、その信仰の基盤は希望であり、それゆえ信仰は実体の性格を帯びるのだと補足した。そして、信仰の内容と由来について、自分は唯一にして永遠の神を信じていると述べ、この信仰を証しているのは物理や哲理だけでなく、福音書、詩編、預言書、聖人の著作がその真理を裏付けている。それゆえ自分は永遠の三位を信じますと語った。これが根源であり、火花なのだと。つまり、信こそが天国に入るための門なのである。(二十四歌)

ダンテは、もし、この『神曲』が世に出て政敵である邪な狼たちの無法を打ち破ることができるなら、フィレンツェに迎えられ、洗礼堂の泉の前で冠を戴く自分を夢に見る。聖ペトロに続いて聖ヤコブの光が現われる。そして「希望とは何か ?」を問う。 ダンテは、希望とは未来の栄光を疑うことなく待つことだと答える。これはペトロス・ロンバルデスの『命題論』から引かれている。ダンテのスコラ学の素養は並みのものではない。その期待は、神の恩寵と人のその時に到るまでの功徳に由来する。私の心にそれを注いだのは最高の指導者の最高の詩人だったと語る。ダビデである。聖ペテロと聖ヤコブの二つの光に聖ヨハネの光が加わる。焔の舞が止んで後をふり返ると、なんとベアトリーチェの姿が消えていた。(二十五歌)

ウイリアム・ブレイク 『天国篇』 聖ペテロと聖ヨハネ

聖ヨハネを見ようとして目がくらんだ。ヨハネはダンテを慰め、そして、問う。「愛とはなにか ? 」 ダンテは、アリストテレス流に、善は善として理解されると たちまちに愛に火を点す。愛が完全に近ければ近いほど大きい。神は至上善である。それゆえ神は最も愛されて然るべきであると答えて、目を癒してもらう。ダンテは、ベアトリーチェにあの第四の光は何かと尋ねる。それはアダムの魂だった。地上と辺獄での生活を経てキリストによって救われたが、追放の真の原因は限界を勝手に超えたことにあった。人間の好みは天体に左右され理性の産物が長続きしたことはないし、私が話した言葉は既に滅びている。人間が、どのように話そうが、その話し方は自然の裁量によって君たちに任されているが、至上善である神は、地上では I と呼ばれ、ついで EL(エル) と呼ばれた。こうした変化も人間の習俗から考えれば自然のなりゆきだろうと語った。(二十六歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第二十七歌

第二十七歌、神の御子の御前で空席になっている私の地位を簒奪しているものたちが、私の墓を穢したと憤った聖ペテロの光明が白色から紅へと変わった。と、ベアトリーチェの顔色も変った。そして、第八天は夕焼けのような紅と化した。やがて、天の磨羯宮の角が太陽に触れると凍った水気は雪片となって地球に降るのとは逆に、恒星天の水気は雪片となって上天を指して精気の中を上に昇っていった。ダンテは彼女の勧めにしたがって眼下の地球を眺めた。彼女の笑顔を見た時、神々しい歓喜が彼に降り注いだ。その視線の力によって彼は全速力で回る天の中に押し上げられた。(二十七歌)

神を見ること 第二十八歌から三十三歌

ここはアリストテレスのいう不被動の動者(キヌーン・アキネートン)としての神の働きに与る場所である。凝視できないほどの光を放つ一点が見える。その周りを月とその暈くらいの間隔で円い輪が回転している。中心に近いほど速く、周辺になるほどゆっくりだった。やがて、火花が次々に飛んで火輪とともに回り、ホザナの頌歌を歌った。天使達だった。第一の位階は、熾天使、智天使、座天使であり、第二の位階は、統治の天使、権威の天使、権力の天使、第三の階級が主権の天使、大天使、天使である。これは著名なディオニシウス・アレオパギタの天使のヒエラキアとは訳が少し異なっている。(二十八歌)

永遠の愛はこれ以上自分のために善を集めることができず、時間を越えた永遠の中でいっさいの分限を越えて思いのまま永遠の愛を新しい愛の中に広げた。形相と質料は、結合したものも含めてみな同時に出来上がって光を発した。その時、形相だけのものが天使、質料そのままのものが地球(原料)、二つが結合したものが各々の天となった(『神曲』平川祐弘訳注)。墜落の第一の原因は、あの地獄の底であらゆる重みで身動きできなくなった反逆の天使ルチフェルだった。そして天使たちは全ての事柄が映し出されている神の顔から目をそらすことが出来ずにいるため記憶がないのだとベアトリーチェはダンテに説明する。(二十九歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第三十一歌

ダンテはベアトリーチェと共に第十天に入った。そこは、アリストテレスが信じる神を超える場所であった。自分が包むものに包まれたかと思えるあの点の周囲を舞っていた凱旋の光が消えてゆく。ベアトリーチェの美しさは人間の把握の域を超えていた。活光がダンテを廻り照らすと彼の視力は一層力に満ち、身体には新たな力が湧きあがった。神来の光の波の大河が円い湖のように広がる。天上に戻った人々がその光の周りで幾千という円い段状の列を作って上から見ている姿を映していた。それは永遠の生命の源である神を暗示する巨大な薔薇の花を思わせた。天国の市(まち)と皇帝となるべきアㇽリーゴ七世の座が示される。(三十歌)

第三十一歌、清らかな魂が真っ白な薔薇の形に並んで現われる。天使たちがその薔薇の花と神との間を飛び回っている。ベアトリーチェへと振り向くと優しげで慈父を思わせる老翁が一人いた。ベアトリーチェが自分を呼び出したのだ、最高段から三番目の円の中にある玉座に彼女が坐っているのが見えるだろうという。ダンテは遠くに彼女を見つめ心からの礼を述べた。彼女は微笑むとやがて永遠の和泉に向う。翁は聖ベルナール、観想の人、熱烈なマリア崇拝者だった。(三十一歌)

聖ベルナールは、マリアをじっと見つめ、その足もとにいるエバ、その下のラケル、ベアトリーチェの横に坐るサラ、リベカ、ユーディト、ダビデの曾祖母ㇽツがいることをダンテに教えた。ヘブライの女たちが壁となって円型を二つに分ける。キリストの到来を信じた人びとの反対側にはヨハネをはじめとした到来したキリストを信じた人びとがいる。ヨハネの他にフランチェスコ、ベネディクトゥス、アウグスティヌスらがいた。下の方には救われた幼児たちがいる。そのほか、アダム、ヨハネ、モーゼらがいることを教える。(三十二歌)

ウイリアム・ブレイク 『神曲』 天国篇 第三十二歌

最終歌、聖ベルナールはマリアを讃えると共にダンテに神の姿が見える恵みが授かるように祈る。祈りは聞き届けられた。光線の奥のさらに奥には言葉で及ばぬ言葉を越えた姿、記憶では及ばぬ記憶を越えた姿があった。善は意志の目的であり、善は全てこの光の中に集まっているから、そこから目をそむけることは出来ない。神人合一が成し遂げられる。至高の光の深く明るい実体の中に色の異なる同じ大きさの三つの輪が現われる。虹の二つの輪のように第一の輪が第二の輪に映って見え、そこには同じ色をした人間の姿があるように思える。第三の輪はその二つから同じく発する火のように見える。父から子に直接光が発する。それが産出であり、父と子双方から発する愛の息吹が精霊である。子なるキリストの内に人間の姿を見るとすれば受肉を暗示する。ダンテの中に稲妻のような閃きが走り、ついに三位一体とキリストにおける神性と人性との結びつきを直観するのである。人間は神の無限の愛の器として創られたのだという。ここはアウグスティヌスの神の光を彷彿とさせる場面である。(三十三歌)

ダンテは言葉にどのような意味を重ねたか

聖書の言葉の多義性とダンテのことばに対する解釈について今道さんの説をご紹介する。十二世紀の修辞学者で文芸論や論理学に通じたユーグ・ド・サン・ヴィクトルは、サン・ヴィクトルのフーゴと呼ばれたが、聖書を読む時、その言葉に四つの層があることを知らなければならないと述べているという。その四層のうちどの意味が使われているかは分からないと言うのだ。例えば、ラテン語の domus は、言葉通りには建物や家を表わす。修辞的に転用すると魂の意味になる。我が家は我が魂になるのだ。寓意的には教会を指している。そして、センス・アナゴジクス(神秘的解釈)では、天の家、神の家、即ち天の栄光を意味する。一つの言葉がその文でどのように使われているかを理解して読まなければならない。それには想像力が必要だという。

辺獄において智者のマエストロと呼ばれる人は、アリストテレスを意味した。彼とトマスの路線はダンテにとって重要だった。それに加えてソクラテスの倫理学とプラトンの形而上学があった。この古代ギリシアの三人の智者たちは二つのフィリアすなわち、精神的愛で結ばれていた。一つは神的叡知ソフィアへの憧憬(フィリア)であり、もう一つは、師弟愛としての友情(フィリア)であった。ダンテが神曲という哲学詩を書いたのはベアトリーチェへの愛のためであるが、それはエロスを越えてフィリアに高まっていたと今道さんはいう。ダンテは、この作品においてフィリア=友愛をこそテーマにしたのである。ヴェルギリウスとダンテの友情は、ダンテとベアトリーチェにおいて神のアガペー(無償の愛)に補完されていく壮大な詩劇になっていくと言うのである。つまり、智者のマエストロとはアリストテレスであると同時にフィリアであるかもしれないのである。「読み」とはこのように深めることができる。今道さんは、言葉に対する幾重もの解釈とその学問である解釈学の重要性を強調する。

至福直観 神を見ることのメタファー

アリストテレスの哲学が人生において何を求めていたのか。それは幸福であった。真理の知的直観、神を眺めることの幸福な生活であったという。トマスは、この幸福をこの世において実現可能ものではなく、天国において神に直面することによって得られるとしている。それは、神によって天使と同じように天国で与えられることが約束されているものであった(『神学大全』)。トマスにおいて、神は光源であり反照の光としてのキリストと照応する。それらの光に迫っていくことが至福直観であった。美とは明快と調和とによってなる。そこには客観的な認識としての透明性があり、幾何学的、数学的な輝きの美しさだった。一方、ダンテは「わたしの視力は見つつ強まり、唯一の姿が多様に見えた(天国篇 三十三歌)」と書いている。それは神秘の深まりとしての美的体験であると今道さんは言う。そこには美の認識の多様な深まりがある。無限者としての神に無限に近づこうとする努力が報われる場所が天国ではなかったか。ダンテは、光源としての神の中に呼びこまれ一つとなる。それは神秘的一致であり、天国における愛の完成である。これが、ダンテの考える途方もない企て「美の神学」であったと今道さんはいうのである。

 

 

引用文献

ダンテ『神曲』平川祐弘訳

今道友信『ダンテ「神曲」講義』part2 煉獄篇 ―― ああ ! ベアトリーチェ

今道友信(1922-2012)
『ダンテ 神曲 講義』

ダンテはヨーロッパ近代文学の祖と言われている。ほとんどの人が哲学者ダンテを言祝ぎ、詩人ダンテを激賞した。詩人哲学者と言って良い。『ヨブ記』はパトスの文学であるが、ヨブ自身は信仰の人ではあっても哲学者ではなく、ゲーテの『ファウスト』も第一部は非常に哲学的であるが、第二部は飛躍が多く純粋に文学だと今道さんは言う。古今の詩人の中で、詩人哲学者と言えるのは、パルメニデス、荘子、ダンテとニーチェくらいだと言うのである。

前回に続いて今道友信さんの『ダンテ「神曲」講義』をご紹介しています。地獄篇は比較的伝統的なイメージを生かせたのですが、煉獄は、当時かなり新しい概念でした。それで、ダンテは新たなイメージを作り出さなければならなかった。古典的な哲学とキリスト教信仰とを調和させようとしたトマス思想による影響が大きいといわれますが、ダンテには、詩人としての偉大な想像力があった。その想像力が、この「煉獄篇」を経て「天国篇」でクライマックスを迎えます。

「煉獄 purgatorio 」は12世紀に浄罪界として新たに提示された(ル・ゴフ『煉獄の誕生』)。ダンテは、それに関する文学的な先例を知らずホメロスのハデス(冥界)からイメージを借りるしかなかった。ホメロスが描いたハデス、そこは灰色の世界で人は影のように生きる。しかし、煉獄には魂が浄められるという希望があった。地獄の門の前では希望は置き去りにされる他ない。キリストの十字架上の死によって人は原罪から救われたが、自らの罪である自罪は、魂自身が自らを浄めなければならなかったのである。

ウイリアム・ブレイク『煉獄篇』 第一歌

煉獄篇

私は歌おう第二の国を
ここで人間の霊が浄まり、
天に昇るのにふさわしくなる。
(第一歌 4-6 今道友信 訳)

残酷な海=地獄を後にして、今や南極の四つの星(智慧・勇気・節制・正義)を見上げる。すると、一人の翁がいた。かつて、清廉な共和政ローマの執政官だった煉獄の七つの圏の番人カトである。ウェルギリウスは、天の計らいでダンテを案内している、自由のためには命を惜しまぬ者だと説明した。カトは謙譲の象徴である藺草(いぐさ)を腰にまいて煉獄山を登るように忠告を与える。(一歌)

魂を乗せた舟から煉獄の門へ 第二歌から九歌

美しい曙の白くほの朱い頬が時とともに燃えたつ柑子色に変わっていく時、濃い靄の中で火星が赤く輝くように一条の光が海原の上を飛ぶ鳥を凌ぐ速さでやって来る。魂を乗せた船が天使に連れられて来るのだ。百余りの魂たちは「イスラエルの民エジプトを出でて」を歌い終わると艫に立った天使は彼らのために十字をきった。そして彼らは浜辺に降りた。彼らはダンテが息をしているのを知って蒼ざめる。その中に友のガゼㇽラがいた。彼の歌声に皆聞き惚れていたが、早く山へ駆け上がって汚れを落とせとカトに一喝されてしまう。(二歌)

サンドロ・ボッティチェリ 『煉獄篇』 第二歌

煉獄には、はるかな眺望と海のさゆらぎが見える。ブルクハルトは、自然美が人間の感情に強く訴えかけることが示されたのはダンテを以って開始されると述べた(『イタリアにおけるルネサンスの文化』)。

ダンテは、背後からの光に自らの影が前に落ちるのにウェルギリウスの影が無いことに狼狽し、見捨てられたのかと一瞬思う。急な上りで一群の魂たちに出会った。その中の一人が奸計を弄して皇帝の冠を戴いたマンフレーディだった。法王クレメンテ四世はフランスからシャルル四世を呼んで彼を討たせた。亡骸はヴェルデ川のほとりに投げ捨てられる。彼のように破門された者は、例え、末期に前非を悔いても生前の30倍の時を煉獄で過ごさなければならない。それで、娘のコンスタンツァにこのことを伝えてくれとダンテに頼むのである。現世の人の祈りは、この長い時間を短縮することができる。(三歌)

「葡萄が褐色に熟するころ、村の者はとげのある枝を掻き集めて、畑の口をしばしば囲うが、魂の群れが私たちを離れた後で、先達を先に、私を後ろに、二人きり登った径はその口の幅さえもなかった(平川祐弘 訳)。」このあたりの表現は先達ウェルギリウスの『農耕詩』を意識したものだろう。途中、膝頭を抱えて坐りこんでいる男に出会った。フィレンツェの楽器職人ベラックワだった。どうせ、生きた間だけここで待たされるのだ。急ぐ人はお先にどうぞと言う。(四歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第五歌

山腹を横切って来るのは、非業の死を遂げたが臨終に前非を悔いたために地獄堕ちを免れた者たちだった。その中のカッセロがエステ家の手の者に殺された話を、またモンテフェルトロが、カンバルディーノの戦いで咽喉を刺されて絶命し、死体がアルノ川に流されたが、天使が悪魔から魂を救ってくれた顛末を語る。(五歌)

非業の最期を遂げた魂たちは、次々とダンテに現世の人々への言づけを頼むのだが、彼は祈りで天の決められたことが変えられることに疑問を抱く。ウェルギリウスは、やがてそれに答えて下さる人が現われるだろうと告げる。(六歌)

闇に覆われれば、誰も一歩たりとも上に登ることができない。夜の間は谷間で待つことになった。そこには、皇帝ルドルフ、ボヘミア王オットカル二世、アラゴンのペドロ三世、イギリス王ヘンリー三世らがいた。(七歌)

魂の一人が立ち上がって東方に目を据え「光消えざる先に」を歌い始めると他の魂たちもそれに和した。すると燃え盛る剣をかざした二人の天使が、蛇からこの谷を守るために舞い降りてきた。(八歌)

眠っていると聖女ルチアがダンテを抱き上げ煉獄の門まで運んでくれていた。ウェルギリウスもそれに従った。ルチアはラテン語の光を意味する。殉教したが、拷問によって目を抉られたものの物が見えたという奇跡を伝えている。それゆえ目の守護聖人でもある。ダンテは聖ルチアと縁が深かったと伝えられる。

ウイリアム・ブレイク『煉獄篇』 第九歌

目を覚ますと、高台に裂け目が見えた。時は、1300年の復活祭の月曜日である。その入口には三段の石段があり、一段目は滑らかな白の大理石、二段目は青紫より濃い焼石で縦横に縞が入った粗石である。三段目は鮮血のような赤い重みのある斑岩だった。これは後悔の三段階「心の悔悛」「口の告白」「行為の遂行」を表わしているという。

天使はダンテの額に剣の先で七つの大罪(peccatum)を意味する7つのPを刻み、ペトロから預かったと言う金と銀の鍵で煉獄の扉を慎重に開け、ダンテたちを中に通した。そして、振り向けば外に戻ることになると警告した。反省だけでは元に戻る。過去から救い出され、未来に向けた現在の勝利こそが必要とされるのである。(九歌)

神曲の詩型テㇽッアリマ

ダンテの詩の形式はテㇽッアリマと呼ばれる11音節つまり、一行に母音が11あり、三行から成る。これはすでに南仏プロヴァンスに盛んだったトルバトゥール(吟遊詩人)たちが使っていた形式だと言われる。各詩節の最後の母音はABA、BCB、CDC、DED‥‥といった形式の脚韻を踏む。イタリア語の最後の脚韻だけを示すとこのようになる。

われらの進んだ第一段は(io)
白大理石が磨かれひかり(o)
わが身を鏡のように映した(io)

二段目の石は紫蘇よりもこい(o)
焼けた色合いの荒れ石で(ia)
縦にも横にもひびわれがあり(o)

そこから登った三段目(ia)
堅い斑岩で赤く煌めく(e)
脈からあふれる血汐のようで(ia)

その石の上に両足をのせる(e)
神のみ使いは金剛石と(a)
覚しい敷居に腰かけている。(e)(煉獄篇 第九歌94-105 今道友信 訳)

消されてゆく額の罪の文字 第十歌から十八歌

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第十歌

岩間をよじ登ると第一の環道に出た。人の身長の三倍ほどの幅の道が煉獄山を取り巻いている。その道の山腹に面した側にはギリシァ彫刻を上回るほど優れた天使やマリアの像、聖なる櫃(はこ)を引く牛車、トラヤヌスなどのローマの君主たちが絵巻のように彫られている。その下を高慢の罪を償うために岩を背負った人々が泣きながら歩んでくる。(十歌)

「浮世の名聞はいわば風の一吹き、ある時はこちらへ、ある時はあちらへと吹く。風向きが変われば名も変わる。(平川祐弘 訳)」風の前の塵のような名声を鼻にかけた傲慢の災い。それをアルドブランデスコが、そして、細密画のオデリージが語る。(十一歌)

山肌や堅い敷石の上には聖書やギリシア神話から慢心を戒める彫像が並ぶ。明けの明星のように輝く天使がやってきて翼でダンテの額をはたき行路の安全を保障してくれた。美しい歌声を聴きながら石段を登ると、身体が軽やかなのに気がついた。額の罪を表わすPの字が一つ消えていた。(十二歌)

第二の環道に出た。岩と同じ色の外套を着た霊魂たちが岩に沿って坐りこんでいる。彼らの瞼は針金で縫いつけられ、その隙間から涙を流して羨望嫉妬の罪を浄めている。この圏では妬みの罪が鞭打たれる。粗織りの服をまとい、たがいに肩で身を支え、そして、みな崖にもたれている。祭りの日に集った物乞いたちが他人の同情をいち早く得ようと声を立て憐みをこう。そのような風景だった。その中のザービア・ダ・シエーナは嫉妬によってシエーナ軍の敗北を喜んだことを物語る。(十三歌)

その中のもう一人、グィド・デル・ドゥ―カが、アルノ川に面した緒都市やロマーニャ地方の悪徳をなじる。すると、空をつんざく雷のような声が、「我に遇うものは我を殺さん」「我は石と化したアグラウロスなり」と響く。ウェルギリウスはダンテに、これは人間を分限の内に限る堅い轡(くつわ)なのだという。天は人間の周りを巡って永遠の美を示すが彼らの目は地上にばかり注がれていると。(十四歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第十五歌

天使の関所を通過した時、また一つ額につけられた罪のP字が消えた。そして、第三の環道に至った時、ペイシストラトスが娘に公然で接吻した若者を許すように妻に語り、聖ステパノが石もて打たれる時、かの者たちを許すように天に祈る場面をダンテは幻視する。「怒りの火を消す」平和の水に対しては必ず心を開けという訓えなのだとウェルギリウスは語る。(十五歌)

二人は苦い濁った空気の中を進む。地獄の闇もこれほどではなかった。すると、怒りの結び目を解いているという「アニュウス・デイ」に始まる平安と祈りの歌声が聞こえてくる。マルコ・ロンバルドが、世の中から徳が姿を消し悪意が巣食うのは何故かというダンテの質問に答える。それは世俗の権力と宗教の権力の分立が侵された結果だと彼は言う。(十六歌)

ダンテは濃霧の中で水面に浮かぶ泡沫(うたかた)のようにペルシア王アハシュロスと王妃エステル、アエネアスの婚約者となるラウィニアとその母アマタなどの幻影を見ている。すると天の霊が、ここを登れと告げる。第四の環道に登ると夜になった。ウェルギリウスは、ダンテにこう語る。自然愛はけっして誤らない、意識的愛は動機の不純や過不足で誤ることがある。愛が人間のあらゆる徳であり、罰に値する行為の種である。隣人を踏み台にして優越を狙う者、権力や名声を失うことを恐れて他人の不幸を愛する者、不正を蒙り血の復讐に飢える者、これらの者達はこの環道で前非を悔いた上、呵責に遭うのだと。(十七歌)

人間には生得の思考能力があり、善や悪を愛し、その愛を集めて選りだすことができる。理を究め、根本まで遡った人は生得の自由を認めて後世に道徳を残した。ベアトリーチェが貴い力というのはこの自由意志を指しているのだから、彼女に会う時には、そのことに留意しろと先達は注意を催す。環道沿いに走ってくる魂たちの声が聞こえた。善を行う心が生ぬるかったために今その償いをしている人々だ。その中のヴェローナのサン・ゼーノ寺の僧院長をしていたミラーノが自分たちの後についてくれば石段の所にでられるだろうと告げた。(十八歌)

清新体から神学詩へ

サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)
『ダンテの肖像』1495

ダンテは詩人として四段階の発展をみせているといわれる。当時、フィレンツェではブルネット・ラッティーニが文化的な中心人物であり、キケロに則った『発想論』という修辞学の著書を書き、まだ大学のなかったフィレンツェでは大きな影響を及ぼしていた。地獄篇第十五歌で「私がいかに先生に恩を感じているか‥‥」とダンテは書いている。詩の修得における目標の第一段階は清新体であった。父にもあたるというグィド・グィニツェㇽリ(煉獄篇二十六歌)と清新派であり、かつての友人でもあったグィド・カヴァルカンティに学んだ。

その特徴の一つは dolce(甘味な)。十二世紀、南仏プロヴァンスの吟遊詩人の詩を継承する宮廷恋愛詩の系統であり、高嶺の花の美女への讃歌である。それにもう一つは nuvo(新しい)。13世紀後半にパリから全欧に広まったアリストテレス的・イスラム文明的自然学の知識による愛の心理学・生理学を指す。そして、最後は公用語と言えるラテン語ではなく俗語のイタリア語で謳ったことである。それは十三、四世紀にベギーヌ女子信心会の女性たちと同じく欧州における最初の母語文芸の試みの一つだった。1290年代の前半まではダンテは清新体の詩人であった。

第二期は、ベアトリーチェを失い、その死によって単なる感傷的な恋愛詩から彼女を賛美し思慕することから生まれた新しい響きの詩が産まれたといわれる。つまり『新生』に代表される新しい詩の段階である。『神曲』の詩には及ばないといわれる新詩だがこんな詩句がある。「われを見しとき、わが名を呼びて いへり、わが意(こころ)に従ひて汝の心の ありし遠きところより我は来れりと(中山昌樹 訳)」このあたりまでの詩の特徴をアウエルバッハは、高貴な遊戯と秘教的性格だったと述べている(『世俗詩人 ダンテ』)。

ダンテ『神曲』写本 1360

第三段階は、宮廷恋愛詩とその倫理的変容といわれる象徴詩から脱却し、キケロの『友情論』やボエティウスの『哲学の慰め』などの影響による哲学詩の時期である。途中で創作を止めてしまった『饗宴』という作品がある。とりわけ、キケロは後の時代にとっても重要な思想家だった。literatura = 文学という言葉が言語芸術を総括する言葉としてキケロによって作られた。彼がいなければヨーロッパの抽象名詞の多くは存在しなかったろうと言われている。

第四段階がこの神学詩といわれる『神曲』なのである。これらを踏まえた上で今道さんは、彼の文芸の特色を『新生』も『饗宴』も『神曲』もみな徹底した一人称文学であると言う。太宰や岩野泡鳴のような私小説家と同じだと言うのだ。夏目漱石もアンドレ・ジイドもハインリヒ・ベルもほとんど「私」を語っている。だが、ダンテには彼らと違う点がある。自己の欲望とその現象世界に、それらを越えた創造主の愛と摂理を描こうとした。それがボッカチオをして「この栄光に満ちた詩人」と言わしめた原因だろうと言う。「神の栄光に満たされた詩人」なのである。ちなみに、単に戯曲(Commedia)と題されたこの作品に神々しい(Divina)という文字を冠して『神曲』としたのは、このボッカチオであったと言われている。

夢の誘惑・地震と友情・天上楽園 第十九歌から二十九歌

夢の中にセイレーンが現われる。この声でオデュセウスを正道から誘き出したのだ語っていると聖らかな女性が現われ、この女は何者かと問う。ウェルギリウスはセイレーンをとらえると服を裂き、その前を開くと腹から立ち昇るあまりの臭気にダンテは目を覚ました。堅い岩と岩の間を進むよう天使が話しかけてくれる。見晴らしの良い第五の高台に出ると貧欲の罪を浄めるために人々がうつ伏せになっている。元法皇のアドリアーノ五世が、自分が法王に選ばれた時、嘘偽りの人生の正体を見破ったと語る。(十九歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第二十歌

第二十歌、第五の環道では腹這いになった人々が涙を流して前非を悔いている。フランス王家の始祖ユーグ・カペ―は自分がキリスト教世界の全土に暗い影を落としている悪の樹の根元なのだという。プロヴァンスの伯爵領という持参金に目がくらむまで悪事は働かなったが、その時から暴力と欺瞞がはじまった。子孫ども、シャルルはイタリアに南下しクㇽラディーノを犠牲にし、別のシャルルは海賊が奴隷女を売りとばすように自分の娘をせり売りしている。あまつさえ、フィリップはボニファチオ八世を逮捕し、死なせたと言う。彼の話が終わり、そこを離れると崩れ落ちんばかりに大地が揺れた。地震が終わると同時に歌声も止んだ。(二十歌)

煉獄では誰かが自分の魂の浄化を自覚した時、振動が生じ、合唱が和する。それは人の自由な意志が魂に働きかけた時に起こるのだと詩人スタティウスの魂が語る。それとは知らず彼は、本人を前にウェルギリウスを賛美するのだった。スタティウスは途中まで彼らの道連れとなる。煉獄では友情も芽生えるのだ。(二十一歌)

環道を過ぎる度に額から罪の文字がまた一つ消える。第六の環道に登る途中ウェルギリウスはスタティウスに煉獄で魂を浄化しなければならなかった理由を聞いた。スタティウスは金を惜しむことの無意味さをウェルギリウスの詩句から悟り、逆に浪費僻となってしまったこと、そして異教を装って隠れキリスト者になっていたことを告白する。この生ぬるさのために第四圏を400年余りも巡っていたのだと言う。道の真ん中に馥郁と香るこの実をたたえた樹が立っている。近づくと食べてはならぬという声がした。(二十二歌)

敬虔だが、痩せ衰えた亡者の一群が通り過ぎる。その中に友人だったフォレーゼがいた。生前度を超して飲食した者は飢えと餓えによる浄化を受けなければならないと語る。そして、自分が償うべき時を短くしてくれたのは妻のネㇽラの涙のお蔭だというのだ。そして、胸もあらわに乳首を出して出歩くフィレンツェの女たちを予言して嘆く。(二十三歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第二十四歌

もう一人のやつれた顔はルッカのボナジュンタだった。彼は、ルッカに生まれたジェントゥッカという一人の女性がダンテに好意を寄せてくれるだろうと語り、話は清新体に移った。連れとなっていたフォレーゼは、分かれ際に彼の兄でダンテの政敵・黒党の首領であったコルソ・ドナーティの悲惨な最期を予言する。すると、もう一本の樹が現われ、その下では人々が物をねだる子供のように手を差し伸べていたが、此処へ寄るなと声がして飽食の災いを語った。上にあがるにはこの道を曲がれと赤々と輝く玻璃のような光の姿が声を発すると風がダンテの額に吹き寄せ羽が動くのが感じられた。(二十四歌)

今は、復活祭の火曜日の午後二時を過ぎた。石段を登りながらダンテはウェルギリウスに肉体を捨てて養分を取る必要のないも者が何故やせ細るのだろうかと問うた。二十一歌で登場したスタティウスがそれに答える。血液が精化されてその能動力から魂が作られ、やがてクラゲのようなものが動きだし諸器官を形成し始める。こうして脳の組織が完成すると新たな霊魂が吹きこまれるが、生を終え、魂がきずなを脱しても記憶力、意志、知力は残る。魂は地獄か煉獄かに落ちて自己の道をゆくが、形成力は周辺に向って生きていた時と同じように魂が刻印する通りのかたちを大気の中に形成するという。やがて五官を作り出し視覚さえ備える。欲望や感情が魂に触れるとそれに応じて大気のような影の形も変るのだと言うのだ。最後の圏への道にたどり着いた時、山腹から焔が吹き出し亡者たちを焼いた。その間彼らは貞節を守った女や夫の名を呼び上げながら賛美歌を歌っていた。(二十五歌)

火の輝きに影を宿すものを見て魂たちは蒼ざめた、その中の一人はその理由を尋ねたがった。その人の名がグィド・グィニリツェㇽリだと知るとダンテはが感無量となった。詩人としての大先輩、父にもあたる人だと言う。僧院へ行くことがあったら「主の祈り」を一遍、この煉獄の者たちのために唱えてやってくれと頼むと魚が水に潜って水底に消えるように焔の中に姿を消した。(二十六歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第二十八歌

今道さんによれば煉獄で浄罪の火で焼かれるという概念は、12世紀に突如起こったわけではなくアウグスティヌスの『死者のための供養について』『神国論』に「罪によって穢れた魂を焼く火」を肯定する文章があるという。ウェルギリウスは、この火を越えればベアトリーチェに会えるのだとダンテを勇気づけて火を潜らせる。陽が落ちて岩間の透間から見える星も明るく大きく見えた。夢の中に旧約聖書のレアとラケルで知られるレアが現われた。それぞれ活動性と観想性を象徴とする。陽が登るとウェルギリウスは、こう語って間もなく姿を消すことを暗示するのだった。「永遠の劫火と一時の劫火を、息子よ、おまえは見た。そして、おまえが着いた地はもはや私の力では分別のつかぬ処だ。私はここまでおまえを智と才でもって連れてきたが、これから先はおまえのよろこびを先達とするがよい(平川祐弘 訳)。」(二十七歌)

さわやかな緑濃い神の林だった。ここちよい柔らかな風が軽やかに額を打った。花々で覆われ彩られた小径を歌いながら花を一本一本選りながら一人歩いてくる夫人がいた。夫人はこの地は神が永遠の平安の保証として善を行う者としての人間に与えたと告げる。地上楽園であった。こちら側では罪業の記憶を消すレテの川が、あちらでは善行の記憶を新たにするエウノエと呼ばれる川が流れていて、両方の水を飲まなければ効き目はないという。(二十八歌)

サンドロ・ボッティチェリ『煉獄篇』 第二十九歌

その夫人マテルダとダンテは川の両岸を上流に向って歩んでいく。稲妻のような光が走ると光芒は燦爛と輝き始め、嚠喨(りゅうりょう)の楽の音が走る。ダンテはエバに対する義憤が湧きあがるのを感じた。七基の燭台が静々と進んでくると、その後ろに白衣をまとった人々が続き、川を隔てて焔が前に進んでくると彩られた空気は絵筆を走らせたように尾を曳いた。7色の幟は、はるか彼方へと棚引いた。百合の花をかざした24名の長老が進み、四匹の霊獣に囲まれて二輪の凱旋車をグリフィンが曳いていた。頭と翼は黄金の鷲で他は朱と白の獅子の姿だった。右側の車輪の近くには、一人は赤く、一人は緑玉で一人は雪のように真っ白な三人の天女が歌に合わせて歩んでいた。左の車輪の近くでは葡萄色の服を着た四人の天女が、その中の一人である三つ目の天女に従って舞っている。行列の最後にヒポクラテスの流れを汲む厳かな医師のような翁が二人と質素な服装の四人の姿があった。最後尾は、気色鋭い老翁が微睡みながら歩んでくる。《これらの登場する霊獣や登場人物の寓意については巻末に『ボルヘスの「神曲」講義』から紹介しておいた。》(二十九歌)

ああ !  ベアトリーチェ 第三十歌から最終三十三歌

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)
『煉獄におけるダンテとベアトリーチェの出会い』1852

ダンテは1265年5月にフィレンツェの貴族アリギエーリ家に生まれた。彼の永遠の恋人と言われたベアトリーチェは翌年の6月に生まれている。ダンテは彼女に9歳の時に初めて出会い、その後行き来はあったかもしれないが、18歳の時、道で出会った時の彼女の挨拶に生涯忘れ得ぬ「魂がおののくような経験をした」。その後、彼女は有名なバルディ家に嫁いで、24歳の若さで亡くなってしまう。それ故と言って良いのかもしれないが、彼の心の中にベアトリーチェは生涯生き続けていたのである。

巨大な燭台とグリフィンの間を進んできた民の一人が「新妻よ、レバノンより来れり」と歌いながら三度叫ぶと、その声に一斉に皆が和し、花々をあたり一面にまき散らした。それが雲のようにあたりを覆った時、白い面絹をかけ緑のマントに下に燃えたつような朱の衣を纏ったベアトリーチェがその車の上に凛々しい王女のように立ち上がった。

ウイリアム・ブレイク『煉獄篇』 第三十歌

彼女の神秘の力に動かされ、昔の愛の激情が甦る。狂おしく振り向くとウェルギリウスの姿はもはやなかった。涙が頬をつたって流れ落ちた。「泣いてはなりません。あなたは、ほかの剣になお泣かねばならないのです」とベアトリーチェは水兵を査閲する提督のように語った。

ベアトリーチェは、自分の言葉がダンテに罪に応じた悩みをいだかせるために発せられていると天使達にいう。私が天に昇った時、彼は私を愛さなくなり、善の虚像を追った。私は神に霊感を乞うたが受け入れられず彼は堕落に堕落を重ねた。救いの手段は破滅した者を見せる他なかったと言うのである。このベアトリーチェに同情した聖母マリアが聖ルチアを遣わせてウェルギリウスにダンテの案内を頼んだのである。(三十歌)

ダンテはベアトリーチェに詰問され、涙ながらに前非を悔いた。悔悛のイラクサがダンテを刺し、自分の罪に対する心痛のあまり失神した。眼を覚ますとマテルダ夫人が自分を曳き、小舟のように水上を進んだ。「汝我を清めたまえ」というあまりに優しい声で自分を水の中に浸した。ダンテを水から引き上げると4人の美しい天女が舞う中に連れて行った。ニンフである天女はベアトリーチェに清らかな眼をダンテに向けるようにもよおした。(三十一歌)

サンドロ・ボッティチェリ『煉獄篇』 第三十一歌

10年ぶりにベアトリーチェの笑顔を見た。まぶしさに視力を失いかけたが、やがて回復する。グリフィンの曳く車が向きを変えて動き出した。マテルダ夫人にダンテとスタティウスがそれに従う。葉も花もない巨大な樹の一本の枝でその轅を繋いだ。ベアトリーチェはダンテにしばらくここで森の番人となり自分と共に永遠のローマの民となり、ここで目にしたものを現世に戻って書くようにと語った。大鷲が降りてくると車に一撃を与え、女狐が走り込んできた。女狐が逃げ去るとまた、鷲がやってきて車の中に羽を散らかし、去っていった。今度は龍が地面の割れ目から現れ車の底の一端を食いちぎって去った。角を生やした異形の頭があらわれ、娼婦が色目を使いダンテを見ると情夫の巨人が鞭で女を叩きのめした。(三十二歌)

ベアトリーチェは先ほどの事件に関係していると思われる種々の事件を謎めいた言葉で語ると、あの巨大な樹が智慧の樹だったことをほのめかす。そして、ダンテとスタティウスはマテルダ夫人の勧めるままにエウノエの川の水を飲むのだった。しかし、ここで第二篇のために用意された紙数は尽きる。復活祭の水曜日の正午頃であった。(三十三歌)

煉獄山 作者未詳 九層からなり七つの環道を持つ。

煉獄山は、浜辺から山腹を登ると煉獄門(地獄門と同じく第9歌に登場する)に至る。ここから上に7つの環道がある。そこで、それぞれの罪を浄めるのであるが、下から順に第一(傲慢)、第二(嫉妬)、第三(怒り)、第四(怠惰)、第五(貪欲)、第六(大食)、第七(色欲)となっている。アリストテレス=トマスによる誤った愛に基づく悪徳の発生説からの分類である。そして、頂上には、かつてアダムとエバのいた地上楽園がある。したがって地獄と同じく、都合九層になっている。これが煉獄山の構成である。それは人が住まない南半球にあるとされた。

神曲の構成はというと、全部で百歌からなり、地獄篇は三十四歌だけれど第一歌は総序の意味があるので三十三歌と考えられている。煉獄篇は三十三歌、天国篇も同じく三十三歌となっている。三は三位一体から来る聖数であり、十は完全数である。ボルヘスがダンテの世界は、一と三と円環に支配されているというのは尤もなことなのだ。

これに関連して今道さんはミルコ・マンゴーリが指摘するダンテの数秘を紹介している。ベアトリーチェがダンテの前に姿を現わすのは煉獄篇の第三十歌であるが、それ以前に彼は六十三歌を費やしている。その後、三十六歌で『神曲』は完結する。彼女がダンテに名を告げるのは、その第三十歌の七十三行目であり、その後は七十二行ある。七十二は7+2=9となる。今道さんは、哲学にはソクラテスの言語のロゴスとピュタゴラスの秩序のロゴスの二つの系統があり、前者は人間の意識の展開が現象を支配する構造としてのイデアに迫るのに対して、後者は実在そのものが数を通して人間に理解可能なように自己を開示していることを観想することによって事象の本質に迫る思想だという。ダンテは、アリストテレス=トマス系統のスコラ哲学だけでなく、ピュタゴラスの数秘主義を別に発展させていた可能性もあるというのである。

エルヴィン・パノフスキー(1892-1963)
『ゴシック建築とスコラ哲学』

新プラトン主義の哲学的影響もあるとされるトマスだが、一般的にアリストテレスの哲学とキリスト教の信仰をいかに調和させるかが、トマス神学の課題だったと言われる。「聖なる教え(神学)は、信仰を証明するためではなく、この教えに示されているその他のすべてを明瞭にするために人間の理性を使うのである(トマス『神学大全』前川道郎 訳)」という。啓示や神の本質といったこと以外の自然学、倫理学、哲学に関する事柄に明確な証明を与えること。啓示については積極的な論証はできないにしても、ある種のアナロジーによってその神秘を「顕わにする(マニフェスト)」ことを目指した。もし、神曲とトマス神学との関係を問われるなら、このアナロジーによるマニフェストが最も重要な部分になるだろう。ともあれ、この「顕わにすること」=「明瞭にすること(クラリフィケイション)」はトマス神学の第一原理だとパノフスキーは言う(『ゴシック建築とスコラ学』)。

その明瞭化の手段として、1.全体性(十分な列挙)、2.相同な部分と部分の部分との一つの体系に従った配列(十分な分節化)、3.明確性と演繹的説得性(十分な相関性)をパノフスキーは挙げている。1.と2.については、例えば、見出しと数字と段落とによる紙面の視覚的分節化などがよい例となる。要するにある順序に従って配列することが「精神的習慣」となりつつあったのである。ダンテもまた、そのような雰囲気の中にあった。3.の演繹的説得性が神曲の場合重要なのだが、ダンテの表現する対象とその表現とは対象の具体性とその意義とに重なり合って、テクストの構成全体とテクストとの関係をより確かなものにしている。ダンテの新しさは、トマスのように対象を理論的に明確にすることよりも詩的イマジネーションによって顕にすることを目指したことであった。そのことは天国篇においてより一層明らかになる。ともあれ、私たちは、この緻密な構成と豊かな詩的表現に魅惑されて止むことが無い。次回天国篇でも、その哲学と詩的表現を探ってみたいと思っている。

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1889-1986)
『ボルヘスの「神曲」講義』

付『ボルヘスの「神曲」講義』から 第二十九歌の霊獣・人物たちの寓意

ボルヘスは、この本の八章「夢の中の出会い」において、第二十九歌に登場するものたちの寓意に関する諸説をこのように紹介している。興味のある方は、こちらも読まれるとよい。

24人の長老は、ヨハネ黙示録にある24の座と長老のことであるが、旧約聖書の全24巻を指す(聖ヒエロニムス『弁明的序言』による)。

六つの翼の生えた獣は福音史家あるいは福音書を、また、空間の六つの方向への教理の伝搬を指している。

凱旋車は普遍教会であり、その二つの車輪については、複数の説がある。
旧約・新約二つの聖書、
活動的生活と観想的生活、
聖ドミニクスと聖フランチェスコ、
あるいは正義と憐憫であるという。

グリフィンはキリストないし教皇を
右手の女たちは対神徳(信仰・希望・愛)を、
左手の女たちは枢要徳(智慧・勇気・節制・正義)であり、三つ目の天女は智慧で過去・現在・未来を見通している。

 

今道さんの講演『ダンテと愛の構造性』の一部分が収録されています。ダンテ思想と現代の問題を結びつける講演の前半のあたりです。

 

引用文献

ダンテ『神曲』平川祐弘訳

エーリッヒ・アウエルバッハ
『世俗詩人 ダンテ』 ダンテを包括的に知るには非常に良い本です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今道友信『ダンテ「神曲」講義』part1 地獄篇 ―― 嘆きの都市へ

今道友信(1922-2012)
『ダンテ「神曲」講義』

今道友信(いまみち とものぶ)さんの講演を聞くことができたことは、幸福な思い出となっている。今でも忘れがたい。2001年の北九州市立美術館での講演だと記憶している。演題は『東洋の美学――二十一世紀の課題として――』だった。その格調の高さと親しみやすさが入り混じった語り口、国内外の詩・文学を縦横に引用しながら全く違和感なく話の中に滑り込ませる力量にすぐに引き込まれた。こんな話ができたらいいなあと淡い憧れをいだいたものだ。講演の後、挨拶のような言葉を二言・三言交えた、そんな刹那が、代え難い瞬間になることもあるのだ。

講演の中での驚天動地の言葉は、これだった。「日本が必ず21世紀に独立国として残るかどうか保証はないんですね。歴史を見ればどんな国でも800年も続いたという国は滅多にないのです。‥‥どうしても皆が守らなければならないのは私どもの、多くの方の母語である日本、これを大事に続けていかなければなりません。日本が国家として盛んになっても、日本語が乱れて日本の文化が無くなってしまうのだったら、滅びても日本語が残って、日本の文化が残っていることが余程人類のためになりますね。」今道さんは、自分は修道院に入ったこともあるけれど、召命がなくて世俗の中で哲学をするようになったとおっしゃっていた。カトリックの敬虔な信者であった。ダンテの神曲については、多くの本が書かれているのだろうけど、キリスト教の教義に関して、僕も含めて日本人は詳しくないと思う。それで、神曲の宗教哲学に関する部分は、不明なことが多い。今道さんは、本書『ダンテ「神曲」講義』で、特に「天国篇」に関する解説を分かりやすくしてくださっている。今回は平川祐弘さんの訳をもとに神曲全体は扱うけれど、特に天国篇をご紹介したいと思っている。

オーギスュスト・ロダン(1840-1917)
『地獄門』石膏  1880-1917 オルセー美術館
門の上の三人は象徴的な意味を持っている

地獄編

地獄の道連れ 第一歌から三歌

時は、1300年の聖金曜日、ダンテは暗い森の中に行き暮れていた。あるのは、自分は誠の道を踏み外してしまったのだという悔恨だけだった。一匹の斑紋のある美しい豹に向いあったが、朝陽に救われた。今度は獅子が、続いて狼が現われた。色欲、権力欲、貧欲をそれぞれ象徴している。ダンテは谷底まで逃げる途中、「今は人ではないが、かつては人であった」者に出会った。これから永劫の場所へ連れて行ってやるという。それがローマの偉大なる詩人ウェルギリウスであった。彼については、小川正廣 『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』 ホメロスとウェルギリウスで書いておいたのでここでは繰り返さない。ホメロスをウェルギリウスは讃え、ウェルギリウスをダンテは手本とした。ここに三重の輪がある。(第一歌)

ダンテは1300年にフィレンツェのプリオーレ(長官)の職に選ばれた。こちらは史実である。この時、フィレンツェは神性ローマ帝国皇帝を支持する皇帝派のギベリン党と教皇を支持するグェルフィ党とが勢力を争っていたが、そのグェルフィ党も黒派と白派とに分裂した。黒派は白派と教皇との切り離しに成功する。ダンテは、この白派の指導者だったのである。彼は、欠席裁判により税金の使い込みと教皇に対する陰謀罪を問はれ、罰金と2年間の追放刑を宣告されたが、この裁定を不当として当局への出頭に応じず、1302年、3月15日に死刑(火刑)宣告され、4月4日にフィレンツェを脱出した。そして、ほぼイタリア全土を逃亡する者となり、フィレンツェに一度も帰ることなく、最後はラヴェンナで領主グィド・ダ・ポレンタにかくまわれ、子供たちと2年ほど一緒に暮らしたのち1321年に亡くなっている。1265年生まれだから56歳前後で亡くなったことになる。

ウェルギリウスへ地獄めぐりに対する不安を吐露するダンテだったが、天国にいる人たちが、自らも地獄めぐりの体験を持つヴェルギリウスに依頼したのだと語り、彼を安心させる。(第二歌)

ウイリアム・ブレイク(1757-1827)
『神曲』 地獄篇 第三歌

地獄門

われを過ぎひとは嘆きの都市へ。
われを過ぎひとは永遠(とわ)の嘆きに。
われを過ぎひとは亡者にいたる。
正義は至高の主を動かして、
神の権能と最高の知と
原初の愛が、われを創った。
われに先立った被造物とは
永遠のものだけで、われ永遠に立つ。
ここに入るもの望みを捨てよ

(1-9/今道友信 訳)

神曲の中の名句の一つであるが、ここでも「われを過ぎて」は三度繰り返されている。地獄の門をくぐるものはここに一切の希望を置いて進めというのである。天、天使達、不滅の諸要素、純粋質料は永遠のものである。しかし、天使ルチフェルは堕落し、その者を幽閉するために地獄はつくられた。それゆえ地獄は永遠に存在する。(第三歌)

地獄は神の義と愛によってつくられた。中国で言う義とは英語の responsibility 、つまり応答できる能力を指していると今道さんは言う。正名(正しい定義)にこだわってきた人らしい。ヨーロッパにおいて、この responsibility という単語は19世紀には哲学辞典にさえない言葉だった。この主体的応答性に客観的な公平が前提とされる時、正義となる。義歯とは正義の歯のことではない。歯の機能に応答してくれるもののことであり、不義とは不正ではなく応答性の負、つまり裏切りであった。人々を善導しようとする神ゆえに、地獄は因果応報の正義を重んじる神の愛の所産であった。ダンテには罪を忌む厳しい思い、裏切りに対する仮借ない怒りがあった。地獄はそのような罪を犯した者が入る絶望の府としたのである。

地獄は永遠に存在する。そして、そこでは溜息や泣声や声高の叫びが星もない空中に鳴り響いていた。神曲において星とは希望である。希望とは徳目であった。トマス・アクィナス、さらにさかのぼってアウグスティヌスの頃から聖パウロが述べる「信仰」「希望」「愛」は、神に対する徳、対神徳と呼ばれていたのである。地獄は、それが無い嘆きの都市であった。希望の無いところは地獄となる。私たちは、自らに対して、あるいは他者に対して地獄の門になっているかもしれないのである。

辺獄から愛欲の圏谷へ、そして泥水に沈む者たち 第四歌から九歌

ウイリアム・ブレイク『神曲』地獄篇 辺獄 1824-27

アケロン(三途の)川でカロンの渡し場が描かれた後、第四歌に入って、辺獄(リンボ)が歌われる。善良な人々であったが、キリスト教の洗礼を受けられなかったために第一の谷に住まう人々であった。ウェルギリウスは、自分がこの谷に来て間もなく、キリストがアダムやアベル、ノア、モーゼらイスラエルの善良な民とそれに忠実に仕えたものたちを祝福し連れ出したとダンテに語る。それ以前に人の魂が救われた例はないと。

ウェルギリウスは、ホメロス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌスらとしばらく談笑して別れた。高い城壁に七重に囲まれた高貴な城のなかには、エレクトラ、ヘクトル、アエネアス、カエサル、サラディン、それにアリストテレス、ソクラテス、プラトンらギリシアの哲学者や学者たちが次々と現れた。二人は静寂の中から出てゆらめく大気の中に入り、光明の無い場所へと入っていった。(四歌)

二の谷へと入る。その入り口では罪業を吟味するミノスが仁王立ちで歯噛みしている。閻魔大王の役割をしているのだ。その中空には肉欲の罪を犯した者の魂の群れが止むことのない地獄の黒い飈風(ひょうふう)に煽られている。ティドやクレオパトラがいて、パリスやトリスタンが見える。愛ゆえに現世を追われた幾千もの魂たちだった。ダンテはその内の一組に目をとめ、話しかけた。知りたいとお望みならとフランチェスカは話しはじめた。

アンリ・マルタン(1860-1943)『パオロとフランチェスカ』

「ある日私どもはつれづれに、ランスロットがどうして愛にほだされたか、その物語を読んでおりました、二人きりで別にやましい気持ちはございませんでした。
その読書の途中、何度か私どもの視線がかちあい、そのたびに顔色が変わりましたが、
次の一節で私どもは負けたのでございます。
あの憧れの微笑みにあのすばらしい恋人が接吻(くちづけ)る
あの条(くだり)を読みました時に、この人は、私から永久に離れることのないこの人は、うちふるえつつ私の口に接吻(くちづけ)いたしました。」(125-136/平川祐弘 訳)

ラヴェンナの城主グィド・ダ・ポレンタの娘フランチェスカはリーミニの城主ジャンチオット・マラテスタに嫁した。しかし、彼女は騙されて美男の弟パオロと見合いをしたのであり、嫁した後、兄で醜男のジャンチオットの連れ合いになったことを知った。しかし、フランチェスカはパオロと相思相愛になる。そして、二人ともジャンチオットに殺されたのである。(五歌)

大粒の雹や濁った水や雪が降りしきる三の谷、貪欲に飽食をしてきた者たちが三つの頭のある怪物、地獄の番犬ケルべロスに食いちぎられていた場所だった。(六歌)

冥府の神ハデスであり鉱物の守護神でもあるプルートンが現われるがウェルギリウスの一喝で倒れてしまう。四の谷に降りると貪欲な人間と浪費家たちが渦巻きのように互いに逆方向に向かって重い荷物を転がしながら走り、円周上の一点で出会うと互いに罵り合い殴り合ってまた来た道を逆走するのである。青紫よりも暗い色の水が流れ落ちて薄暗い陰惨な崖の下で川はステュクスと言う名の沼になっている。泥まみれの裸体は怒気を含んだ表情でたがいに殴り合い、蹴り合い、歯で相手の肉を噛み千切っている。憤怒に破れたものの魂だった。(七歌)

ウイリアム・ブレイク 『地獄篇』 第八歌 沼を渡すプレギュアス

沼の船頭プレギュアスがダンテとヴェルギリウスを向う岸に渡す。途中、フィレンツェの亡魂フィリッポ・アルジェンティが現われるが体を引き裂かれ汚水の中に沈んだ。そして、二人は地獄の下層ディースの市(まち)に着く。五の谷である。そこの城門には千人余りの悪魔が道を閉ざしていた。(八歌)

三人の復讐の女神エリニュスたちが塔の上に現われた。やがて、天上からの使いが登場して地獄の内門を杖で叩いて開けると悪魔たちを一喝して立ち去った。門の中には至る所に墓があり炎を噴いている。六の谷である。それは異教異端の徒がその派ごとに埋められていたのである。(九歌)

地獄の内門から悪の十濠へ 第十歌から十八歌

ウイリアム・ブレイク 『地獄篇』 第十歌

墓所では皇帝党の党首であったファリナータ、そしてダンテの友人の父親カヴァルカンティと会話する。傲岸なファリナータも自己の党派の敗北を知り、そのことが、この焔の床よりも自分を苦しめると叫ぶのだった。(十歌)

ウェルギリウスが地獄の分類と地理をダンテに語り、天が許さぬ三つの性質、放縦、邪悪、狂おしい獣性が説明される。そして、高利貸しが神の慈愛に背く理由を説く。(十一歌)

怒りに狂うミノタウロスの横をすり抜けて岩間から道を降りると孤を描いた濠にケンタウロスの群れが見えた。その中の一人ネッソスに血の川を案内させた。そこでは煮えたぎる湯に、人の血を流し産を奪ったものが漬けられていた。アレクサンドロス、シチリアを制したディオニュジオスがいる。深い淵には、アッチラやピロス、セクストゥスらがいた。ここは七の谷の三つの円の一番目である。この七層以下の谷は悪意による罪人が堕ちる地獄でそれ以前の六層に比べてより一層凄惨なものとなる。(十二歌)

ギュスターヴ ・ドレ(1832-1883) 『地獄篇』 第十三歌

七の谷の二番目の円へ到る。自殺者は自分に暴力をくわえた者であり、彼らは、節くれだって曲がった木となる。棘のある一本の大木の枝を折るとどす黒い血にまみれて「なぜ私をひきちぎる」と声がした。ウェルギリウスはダンテにかわってその木の一つに尋ねた。どうしてこのような幹の中に囚われたのだと。

「激した魂が自らの手で命を絶って肉体から離れた時、ミノスは第七の圏谷(たに)へ、その魂を送り込む。落ちていく先はこの森だが、席は別に定まっていない。
運命のままに飛ばされたところで荒麦の粒のように芽を出し、若枝となり野生の大樹となる。
すると鳥身女面の怪鳥がその葉をついばみ、苦痛を与え、苦痛に排け口を与える。
[最後の審判の日に]皆と同様、私らも亡骸を探しに行くが誰一人それを身につけることはできない。自分で捨てたものをつけるのは道理にあわぬからだ。」(94-105/平川祐弘 訳)

その時、木々の枝を折りながら、黒い牝犬に追い立てられてきた者があった。自分の財産を無理やり蕩尽した者が噛みつかれ、引き裂かれて悶絶した。別のもう一本の木は未来のフィレンツェの不幸を語る。(十三歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『地獄篇』 第十四歌

七の谷の二の円から荒涼とした砂漠である三の円へと至る。熱砂の上では神と自然の法に叛いた者たちが火の雪を浴びていた。その中にテーバイ攻めの7将の一人カバネウスが瀆神の言葉を吐き続けている。ウェルギリウスは、かつて清らかな世界であったクレタのイダ山とそこに聳えたつ巨人とその涙からなるアケロン、ステュクス、プレゲトンの三つの川について語る。(十四歌)

川沿いに進むと自然に叛いた性を望んだ者たちの群れが現われる。その中にダンテの師であり『宝辞典』を著したブルネット・ラティー二がいた。彼はダンテの将来を明かして身の処し方を諭す。(十五歌)

七の谷が終わり、八の谷に到る場所で、川は滝となる。そこでは、グィド・グエラら三人のフィレンツェの亡者たちと出会い、フィレンツェの成り上がった俄か大尽どもの気風を嘆いた。やがて深い谷に行きあうとヴェルギリウスはダンテの腰縄をその淵に投げ落とした。(十六歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『地獄篇』 第十七歌

その淵から怪物ゲリュオンが現われた。ウェルギリウスはゲリュオンの手を借りて谷底に降ろしてもらう交渉を始める。その間にダンテは首から財嚢をぶら下げ、苦患の炎に身を焼かれる高利貸したちを見て回った。話はまとまり、ゲリュオンは二人を背に乗せ、苦悩の叫びを発する第八の谷に降りていった。(十七歌)

八の谷は十層のマレボルジュ[悪の濠]に分かれ、十種の罪人が罰せられている。全て鉄色をした岩からできている。絶壁に囲まれ、その魔性の荒野に巨大な穴がある。この魔性の荒野は十の濠に分かれていて、その濠を石橋が繋いでいる。一の濠では女衒たちが角を生やした鬼たちに鞭打たれていた。その中にボローニャの教皇党の首領の息子、ヴェネディーコ・カッチャネミーコがいた。エステ家のオビッツォ二世のために実の妹を斡旋したのだ。石橋の下では金羊毛のイアソンら女たらしと呼ばれた者たちがいる。二の壕には、ルッカの貴族アレッシオ・インテルミネイがいた。こんな所に俺が沈んだのは倦むこともないオベンチャラを繰り返したせいだと言う。そこには遊女タイスら阿諛追従の徒らが糞尿の中に沈んでいたのである。(十八歌)

ミケランジェロ・カエター二『地獄図』1885

地獄の構造

A 地獄の門
B アケロン川とカロンの渡し場
① 辺獄 第一の谷

地獄の外円
②-⑤ 第二の谷から第五の谷(それぞれ愛欲、飽食、貪欲、憤怒が罰せられる。
C 第四と第五の谷の間にプレギュアスが渡すステュクス川の流れ込む沼がある。

地獄の内円/内門とディースの都市
⑥ 第六の谷(異端)
⑦ 第七の谷(他者・自己・神と自然への暴力/三つの円)―― プレゲトン川と渡し ――
怪物ゲリュオンによる降下↓
⑧ 第八の谷《10の濠/女衒・阿諛追従・聖職売買・占い・汚職・詐欺・瀆神・権謀術数・中傷・贋金作りが罰せられる》
巨人アンタイオスによる降下↓
⑨ 第九の谷 凍てついたコキュトスと呼ばれる地(裏切の四つの円/肉親・祖国・客人・主)

サンドロ・ボッティチェリ『神曲』地獄図
地獄の9つの圏谷を横から大地を透して描いている。

ダンテの構想した地獄は九つの谷、九層に分かれている。聖書外典のペテロの黙示録の影響もあると言われるが、それは独創的で精緻な構造の地獄である。そのような構造に史実や当時世を騒がせた風聞や醜聞を織り交ぜて現実感を持たせた。いささかは自らの溜飲を下げたことであろう。アリストテレスは、徳はブロネーシス(実践的理性)によってなるとし、悪徳はパヌウルギア(奸知)によって生まれるとした。実践知に長けた者は容易に奸知に陥る。地獄には大臣や教皇などの高位の人々も堕ちている。キケロは義務を重視し、「何に忠実であるか」つまり、「何が義務であるか」を間違えてはならないと言ったが、後にアベラールやトマス・アクィナスは、一番大切なものは志向性、つまり意図だとした。明確な悪意を伴う罪が最も重い。さらに重い罪は背信である。トマスは、アウグスティヌスの考えを受け継いで「人間は神に向けられて創られている」と言った。それゆえ、神に背くこと、裏切ることは最悪の罪であり、ダンテにとっても裏切りは最も重い罪なのである。

凄愴の濠から極限へ

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第十九歌

三の濠には聖職売買の徒が罰せられている。ダンテの憤りは激しい。そこでは元法皇ニッコロ三世が穴の中に突っ込まれ燃える両脚をばたつかせていた。

「おお魔術師シモン、おお哀れなシモンの徒よ !
本来は美徳と結ばれて花嫁となるべき
聖物や聖職を、おまえら盗人は
金や銀と引き換えに売りひさいでいる。
おまえらが三の濠にいる以上、
いまこそ宣告のラッパが高鳴ってしかるべき時だ。」(1-6/平川祐弘 訳)

シモンとは聖フィリッポに洗礼を授けられたサマリアの魔術師だったが、使徒たちが手を置くことで「霊」が与えられるのを見て、金でその力を授けてもらえるように懇願したという。その記載が聖書の使徒言行録にある。(十九歌)

四の濠では生前未来を占った者たち、魔術妖術を行った者が、胴体に頭を前後逆さにつけられて後ろ向きに歩いている。テーバイを攻めた預言者アムピアラオス、オイディプスに予言したティレーシアスらが見える。(二十歌)

五の濠では汚職収賄の徒が煮えたぎる瀝青(チャン)の中に漬けられている。黒い鬼がルッカのサンタ・ジーラの長老の一人をそこに漬け、浮かび上がると百余りの鉤で頭を引っ掻けて沈めるのだ。(二十一歌)

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第二十二歌

同じ濠をダンテたちは10匹の鬼たちと進んだ。彼らが近づくと詐欺師の亡者たちは瀝青の中に身を潜める。だが、愚図っていれば鉤で吊し上げられた。そういった男の一人に上手く逃げられてしまうと鬼たちは互いに諍いを始めた。(二十二歌)

ダンテたちは八の谷の六の濠へ逃げ延びた。そこでは、偽善者たちが外は金着せで、内は鉛という重い服を着せられてのろのろと歩いている。地面にはユダヤの大司祭カヤバが磔刑にされていた。(二十三歌)

七の濠では盗賊たちが毒蛇に咬まれ、責めさいなまれていた。咬まれれば、忽ち火を発し灰となって焼け落ちるのだ。ピストィアの教会堂から聖器類を盗み出したヴァンニ・フッチがダンテに予言する。白党の人々は皆傷つくだろうと。(二十四歌)

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第二十五歌

瀆神のフッチにそれ以上は言わさぬと蛇が絡みつき縛り上げるが、彼は逃げだし、その後をケンタウロスの一人カクスが追った。フィレンツェの三人の亡者のうちの二人に蛇が襲いかかる。一人には六つの脚を持つ大蛇が背後から締め付け、二つの姿は一つに融け合い見たこともない姿へと変わりはてた。もう一人には胡椒のような青黒い蛇がへそに噛みつくと、人は傷口から、蛇は口から煙を激しく吐き、蛇は人に人は蛇に成りまさっていったのである。(二十五歌)

八の濠にやって来た。谷あいには権謀術策を事とした亡者たちが一人ずつ焔にくるまれて焼かれていた。その中の一つは先が二つに割れて燃えている。トロイの木馬を企てたオデュセウスとディオメデスが二人一緒に焼かれていたからだった。(二十六歌)

別の焔がロマーニャの地の安否を問う。グィド・モンテフェルトロは、法王ボニファチオ八世にパレストリーナ陥落の策を教えた。グィドが死んだ時、聖フランチェスコが迎えに来てくれたが、黒天使の一人が彼に言った。連れていくな。おれの権利を侵すな。こいつは瞞着の助言をした上は俺の奴隷たちの間に落ちるのが定めだと。(二十七歌)

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第二十八歌

八の谷の九の濠。生前中傷し不仲を煽った亡者たちが、ある者は頤から屁をひるところまで真っ二つに裂かれ、ある者は咽喉を裂かれ、鼻をえぐられ、ある者は両手を切り取られていた。ダンテを見て「ああ」と叫ぶ者があった。イギリス王ヘンリー二世の王子に父への反逆をたきつけたベルトラン・ド・ボルンだった。切られた首を手に捧げ持っていた。(二十八歌)

そこは八の谷の最後、十の濠。贋金作りを罰する悪疫の蔓延する谷だった。疥癬に苦しめられる者たちの内の一人が錬金術で贋金を作ったカポッキオの亡霊だった。(二十九歌)

飢えた豚が檻から解き放たれたようにある亡者はカポッキオのうなじに噛みついた。そして石だらけの谷底を腹這いのまま引きずっていった。それは他人の遺言状を偽造したジャンニ・スキッキだ。もう一人噛みついてまわる亡者は、父親に道ならぬ恋をいだき他人の姿に成りすましたキプロスの王女ミュラ。贋金作りたちは互いにいがみ合い、殴りあった。(三十歌)

コキュトスの魔王へ 第三十一歌から最終三十四歌

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第三十一歌

角笛が聴こえるとわずかしかない視界に塔のようなものが聳えているのが見えた。巨人たちである。その中の一人アンタイオスに向ってウェルギリウスは冷気でコキュトスの水が凍っている地底に我々を降ろしてくれるように頼んだ。(三十一歌)

九の谷は裏切りの谷である。凍てついた厚いガラスのような氷に覆われた地は同心円状に四つに分かれている。第一の円はカインの国、カイーナと呼ばれる肉親を裏切った者の堕ちる所だ。第二の円はアンテノーラと呼ばれる祖国を裏切った者の行く所である。百姓女が落穂拾いを夢に見る頃、水中から顔だけ出してガアガアと鳴く蛙のように頬まで鉛色になり、歯をガチガチと鳴らす亡者たちが氷の中に浸かっている。ダンテはそんな頭につまずくのである。(三十二歌)

これらの頭が並ぶ中に、一つの穴に二人が氷漬けになった者たちが見えた。飢えた男がパンを貪るように上になった方が下の者の脳蓋に噛みついている。噛みつきながら憎悪のたけをぶちまけていた。それは、ウゴリーノとルッジェーリ大司教の二人だった。

三の円はトロメーアと呼ばれる。客人を裏切って殺したアルベリーゴやブランカ・ドーリアらが涙もろともに眼球を凍りつかせている。肉体はまだ地上にありながら彼らの魂はこの地へ堕ちている。13世紀末、ピサではグェルフィ党(教皇派)が主流で、その中でもウゴリーノ伯とその一族のニーノ・デ・ヴィスコンティの二つの派に分かれていた。一方、ギベリン党(皇帝派)の代表は同市の大司教ルッジェーリだった。市の覇権を握るためにウゴリーノはルッジェーリと共謀してニーノを追放するが、今度はルッジェーリがウゴリーノとその子、孫五名を塔に幽閉し、彼らは餓死するのである。こちらは史実だ。

オーギュスト・ロダン 『地獄門』 部分
中央上 ウゴリーノと子供たち  中央下 パオロとフランチェスカ

「この憂いの牢獄の中にも かすかな光がさして、四人の子供の顔にも この俺と同じような表情が見えた、
彼は悲嘆のあまりわれとわが腕に喰らいついた。
すると子供たちは空腹のあまり
そうしたと思い、すぐ立ちあがっていった、
『父さん、父さんが僕たちを食べてくれたら、それだけ僕らの苦しみも減る、父さんが着せてくれた  このみじめな肉だもの、父さん取っておくれよ』
子供たちを悲しませまいと俺は心を静めた、その日もその翌日もみな黙りこくっていた。
ああ冷酷な大地よ、なぜおまえは口を開かなかったのだ ?
五日目と六日目の間に、ほかの三人は一人また一人 俺の見ている前で倒れた。それから俺はもう目が見えなくなったが、一人一人手探りで探った、子供らが死んでから二日の間はその名を呼び続けた、それから、苦悩には負けなかった俺も絶食に敗れた。」(55-75/平川祐弘 訳)(三十三歌)

地獄篇最終歌、九の谷の第四円はユダの国ジュデッカと呼ばれ、恩人を裏切った者が全身を氷漬けにされている。ある者は横たわり、ある者は起立し、ある者は爪先立ちしていてガラスの下の藁のように透けてみえた。さらに奥に進むとこの苦悩の王国の帝王が見えた。胸の半ばから上を氷から出し、腕の長さは巨人の背丈を凌いでいる。三つ頭があり、中央は朱、右は白と黄色の間、左は黒色だった。蝙蝠のような羽で羽ばたくと風が起こり、コキュトスの水を全て凍らせていた。血の混じったよだれの垂れる口に罪人を一人ずつ咥え、かみ砕いている。中央は爪で裂かれて皮がはげ背骨が顕わになったユダ、黒い顔に咬まれているのはブルトゥス、もう一つの顔が噛み砕いているのは、やはりカエサルを裏切ったカシウスだった。(三十四歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ 『地獄篇』 第三十四歌

だがもう夜がまためぐってきた、いよいよ立ち去らねばぬらぬ、私たちは全てを見たのだ。そう言うとウェルギリウスはダンテを首に抱きつかせ魔王の脇腹から下の地殻へと降った。途中で脚と頭の位置を逆さにして今度は登った。それから岩の穴から出るとその縁に腰を下ろした。上を見るとなんと魔王ベルゼブルの脚が上に向って伸びている。

こうして聖金曜日の夕暮から始まった地獄への苦難の行旅は翌土曜日の夕方をもって丸一日の行程を終えたのである。穴から出た場所は、南半球であり、ユダの国の裏面にあたる。向うの夕方はこちらでは朝であった。岩間から聞こえるせせらぎの音をたよりにこの暗い道をひたすら上った。そして、円い孔から天上にある美しいものが見えた。そこを通って再び外へ出ると空に暁の明星を仰いだ。それは希望の星である。

さて、次回は12世紀の初頭に確立された領域と言われる煉獄が登場します。当時、人々は真面目に煉獄の場所は何処かと探したと言います。この世の何処かにあると考えられていた。それゆえダンテの煉獄篇にも星が見え、空が見えるのです。

最後に今道さんが、地獄篇の冒頭のイタリア語を聴講者と朗唱している動画があるので興味のある方はご覧になってください。この人は語りの名手だということが良く分かります。

 

 

引用文献

ダンテ『神曲』平川祐弘訳

ミハイル・バフチン 私とあなたの私との対話/結び合う記号のネットワーク

ミハイル・バフチン(1895-1975)
1924‐25年頃

私と物、主観と客観、精神と外界‥‥この二つの世界を巡って百家が争鳴し、スッタモンダの挙句にどうにもなっていないのか、それとも少しは明るい見通しがあるのか。ここは問題です。今回は、このテーマを契機に前回に続いてロシアの恐るべき思想家ミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン)の思想をカテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイストの共著『ミハイール・バフチーンの世界』とツヴェタン・トドロフの『ミハイル・バフチン 対話の原理』を中心にご紹介します。

モノには限度がある。何の限度かというと知ることの限界です。知るには悟性と感性という二つの道具があり、例えばライプニッツは悟性寄り、ロックは感性寄りと言われますが、カントは、知るためには理性による悟性と感性の統合が必要だと考えた。物それ自体は決して認識しえないが、物自体の領域である世界と概念の領域である精神との相互作用によって思考は生まれるというわけです。

1.マージナルであることの運命

バフチンは1929年にいくつもの罪状で逮捕されたが、その罪状の一つは、ペトログラード周辺の司祭養成所で私的な講義を行い「若者を堕落させた」というものだった。彼は、非正統的・非党派的なギリシア正教にさえ接近していた。この頃は言語学や社会学の言説に没頭してゆく時期でもある。ロシアの極北、白海に浮かぶソロヴェーツキイ諸島への10年の流刑が決まったが、副腎炎によって脚の持病が悪化していて身体障害の重度が一段引き揚げられたことがあったせいか、カザフスタンのクスナタイという町へ6年の流刑へと減刑されている。ウラル山脈の真東である。4年に減刑され刑期が終わると友人のメドヴェージェフの助力でロシア南東のサランスクにあるモルドヴィア師範学校の教職に就くことができた。1936年のことだった。

オガレフ・モルドヴィア州立大学
サランスクに1931年に創立されたモルドヴィア師範学校は1957年に州立大学へと拡張された。

だが、大粛清の波に襲われそうになって1年でそこを辞し、モスクワ近郊のサヴェロヴォに避難した。そこでは、かねての持病の骨髄炎が悪化して右足切断の手術がなされる。この頃は、定職がなく生活は逼迫したが逆に執筆は盛んだった。いくつかの論文の中に『リアリズムの歴史におけるF.ラブレー』があった。ゴーリキイ研究所に学位論文として提出するが、第二次大戦のために審査はストップしてしまう。しかし、後の1965年に『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』として晴れて出版されることになる。戦争が終わると、かつてのサランスクの師範学校に復職できた。宙吊りになっていた学位論文『リアリズムの歴史におけるF.ラブレー』はやっと審査が開始されるが、結局、準博士論文としてはパスしたが、博士論文としては認められなかった。

戦後もバフチンは、逮捕の危険には警戒を怠らなかった。彼の講演は巧みで、その授業にも抜群な人気があったようだ。バフチンはスポットライトの当たることのない静かな生活を愛していた。彼のことを紹介しようと努めたのは、シクロフスキ―やヤコブソンといった言語の詩的機能などを研究したロシア・フォルマリストたちだった。やがて若い世代たちの中からコージノフのような人がバフチンの著作の刊行しようと積極的に働きかけるようになるのである。晩年は世に知られる存在になっていった。1971年、妻のエレーナが亡くなり、失意のバフチンも肺気腫が悪化して4年後に亡くなっている。

2.新カント学派という抜け道

1870年代から1920年代までドイツではコーエン、ナトルプ、カッシーラらのマールブルク学派に代表される新カント学派が哲学の主流であり、ロシアにも大きな影響を及ぼしていた。世界は思考にとってはじめから対象として与えられるのではなく、未知のXと出会い、一連の統合によってそのXを理解の対象とするのだが、この時、Xは物それ自体ではなく、概念化の限界となる。物自体は、けっして把握できないとカントは宣告を下していた。物そのものに迫りはするのだが、それは近似的であり、けっして完結しない。バフチンにとってこの未完成は肯定的な意味を持っていた。発展の可能性と捉えたのである。コーエンが過程を重視したこと、「世界は与えられたものではなく課せられたものである」としたこと、そうした視点が約束する開放性とエネルギーにバフチンはある「抜け穴」を見つけたという。しかし、コーエンは極端に走った「物質は仮説にすぎない」としたのである。

視覚を例にとって考えてみよう。例えば、二つの物が同時に同じ空間を占有することができない。私がここにいる間、あなたは、あそこにいなければならない。したがって同時に二人が厳密に同じ光景を見ることはない。そして、その場に立って見えるものにも限界がある。柱があれば、その向うは見えない。「その他すべて」が見えないおかげで「これ」が見えるとも言える。バフチンはそんな自己の視点を「視覚の余剰」と呼んだ。彼は、自己を統一的な全体としては見ていなかった。それゆえ、自己は独立した実体でも本質でもなく他者との対話的な了解によってしか存在しえないものであり、「他者の自己たち」との柔軟な関係の中にしか存在しないと考えていた。

見えるというような直観(感覚的直接知)像から対象を把握しようとすることも平凡な白昼夢においても「私自身」は、まさしく「私に見えない」のである。その状況のなかで、この世界を理解しようとする企ては、作家が登場人物を視覚化しようとする企てに似てくるという。他者の目を通して知覚した世界、他者の諸価値を通して屈折させた世界を概念化して自分自身を見るのである。このことによって、世界における自分の役割を一貫したストーリーにしようと企てる。意識の本質は、絶えず自己を生み出し、創作し、想定したいという欲求であり、未来を計画することによって現在に応答しているとも言える。作家と登場人物のポリフォニー的対話については前回の「ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』笑いは世界を再生させる」に書いておいた。

フッサールは、自己と他者との解き難い矛盾を解消しようと闘った。それが現象学であり、ハイデッガーに大きな影響を与えた。われわれは、自分の固有の欲望を持ち、それに応じた自分の世界の有様をそれぞれ持っている。それを交換しあって関係を結び、そのことで常に共通世界を作り上げ編みかえている。人は独自の情状性(気分)を持ち、独自の了解から生まれた可能性の意味の網の目としての世界を持っているといわれる所以である。それが、それぞれの人間の実存世界であって、それを常に交換しながら関係を結びあう。私たちにあるのは、与えられた客観的世界ではなく、自分が創り上げた意味のネットワークであり、そのネットワークを他者と交換しあいながら関係を結びあっているのだとハイデッガーは考えた。この辺りは竹田青嗣さんが上手に説明してくださっている。意味を投げかけ合い、編み変えあったりして共通了解を生み出しているということをハイデッガーは、フッサールの現象学から学んだのである。ついでに言うとフッサールは客観世界を()に入れて棚上げしてしまい、人間の意識経験の世界だけを問題にする。人間に、意識経験がどのようにして世界に対する超越(竹田青嗣さんのいう確信)をもたらすのかを明らかにしようとした。

3.世界に応答する責任

ソシュールが意味の恣意性を説くなら、発言に対する意味の重さは誰に問えばよいのか、フロイトのいう無意識の世界があるなら心の主人は人間の自我なのかエスという非人称的力なのか、神学において行為の責任は人間の意志にあるのか神の意志にあるのか。自分の行動に責任を持つ自我と様々に概念化される他者との葛藤はどのように解消されるのだろうか。バフチンにとって事物の世界は、カントと同様に「与えられたもの」であった。しかし、精神は決して世界とは完全に一致しない。精神には、この世界をいかに「見る」か、世界をいかに翻訳するかという自己にとってのある種の「課題」が課せられる。この世界と精神との間に架ける橋が、バフチンの言う「課題」に答えること、つまり「応答責任」である。存在の呼びかけに答えるハイデッガーのいう「気遣い」に近いと言われる。

この応答責任とは、世界の必要に応答する行動であり、他者の必要に応答する自我の活動を通して遂行される。世界は本質的に意味を欠いていて、人は本質的に意味の創造者であり、消費者であるという。応答責任を果たすということは、「与えられたもの」の世界から「抜きんでる」ことであり、バフチン流に言えば「構築論的特権」であった。そのことによって私自身の外部に世界を発見するのである。バフチンのこの「構築学」に関する一連のテクストが書かれたのは、クラークとホルクイストら筆者たちによれば1919年であり、ハイデッガーの『存在と時間』に先立つこと8年前のことなのである。

4.作者とオートポイエーシスの中の主人公

バフチンは神学の中にも現代的な課題を見ていた。霊魂と肉体という神学における二元性の対話関係は、精神と世界、自己と他者という二元性にパラレルに関係していた。作者による創作は、意味が肉となる様々な過程だった。彼の美学では、自己と他者は作者と主人公という立場に変わる。バフチンはこう述べる。「作者は創造するが、自分が形作る対象の中にしか自分の創造物を見ることは出来ない。彼は創造の産物が実現されてゆくのを見るだけであって、その内的な心理的に決定された過程を見るわけではない。」

ミハイル・バフチン『作者と主人公』
1920年代後半の著書と考えられている。

何故、作者は自分の作り出す対象の中にしか自分の創造物を見ることができないのだろうか。この自己の創造とそれに関わる意識の問題を別の観点から眺めて見ることもできる。主人公を描くことを自転車に乗ることと置き換えてみたい。自転車に乗ろうとする時、自己は作動しているが、それを意識が全て捉えきれているわけではない。ハンドルをどのように保ち、どれくらいの速度でペダルをこぎ、右に傾きそうになったらハンドルをどのくらい反対方向にきったらよいか、意識は全てを把握できない。でも、この時、行為はまぎれもなく形成され、それを通じてこの行為を行う自己を形成している。つまり、自転車に乗れる自分になっているわけだが、その時の自己が何であったかという問いは、すでに起きている事態とはすれ違ったものとなっている。これは河本英夫さんがオートポイエーシスを扱った「システム現象学」と呼ばれる領域の話である。

体験は体験自身を聞くことも見ることもできない。見聞きできるのは作り出された産物だけなのである。作者=創造者は、テクストの中にいるが、テクストの中にいる登場人物とは異なる次元にいる。ここに神学的な意味があると思えるのだが、作者は、自身が生み出すものとは別の次元にいるのである。これは、記号を作り出す能動的な「自己」とそれが生み出す「自己の記号」とは決して一致しないということを示している。内側/外側、独白/対話、完成/未完、公式/非公式、叙事詩/小説、このような二項対立の背後にあるものは、やはり自己/他者なのである。バフチンとって重要だったのは、自と他をめぐる「現象学的記述」だった。それは彼の全思想の根幹をなしている。

5.記号と意識

ここからは、ツヴェタン・トドロフの『ミハイル・バフチン 対話の原理』を交えて言葉や文化の記号論をめぐるバフチンの思想をご紹介します。彼のいうイデオロギー的なもの、つまり文化価値を持つようなものは、全て意味を持っていて、自分の外にあるものの表象となり、描写となり、その代理となりうる。つまり、自らの外にあるものの記号となっているのである。彼によれば、記号もそれぞれに独自な物理的な物体である。記号としてのあらゆる現象は、音なり物体なり、色なり身振りなり、様々な現象を伴うものである。その外にある記号が内面化され、形成されて心理・意識内の記号にもなる。この記号を解読する作業は、受け取った記号をすでに解読した記号に関連づける作業であり、新たな記号へと連鎖していく過程はコミュニケーション論に発展してゆく。

ツヴェタン・トドロフ
『ミハイル・バフチン 対話の原理』
バフチン思想を知る上での必読書。トドロフは1939年生まれ。ロラン・バルトのもとで構造主義文学批評を行う。フランス国立科学研究所の芸術・言語研究センターで指導的立場にある。

記号は、個々人の意識と意識の間に渡され、それらの意識を互いに結び合わせていて、個人の意識も記号に充たされ、社会的な相互作用を生む。記号としての事物に媒介されて、はじめて意識は形成され、客観的に実在するようになるというわけだ。個人の意識は、記号によって養われ、記号によって成長し、自らの内に記号の論理と記号の規則性とを映しているというのである。

その記号の中でも大きな要素を占めるものが言語である。すでにソシュールは、言語の記号論を打ち立てていて言語記号の表現をシニフィアン、意味をシニフィエとして区別していた。言葉は内面で働く記号であり、意識の記号的実体になっている。発声器官や紙上のインクといったものによって存在する言葉もまた物質である。同時に言葉は意味を持つという点で物質を超越している。そして、記号はけっしてそれを指示しているものではない。木という言葉は木ではない。記号の世界がそれを命名する事物世界と一致しないという二元性を人間は運命づけられている。誰でも私は「わたし」に合致しないという事実に直面しなければならない。われわれは、われわれがみんな同一であるかのように振舞い、同一という虚構を作り上げる。言語が合致という虚構に合わせて作用するのと同じである。『ミハイール・バフチーンの世界』の筆者たち、クラークとホルクイストはこう述べている。この皆が共有する意識と自己との二元性と、言語と世界の二元性があるからこそ「人間は記号である」というチャールズ・パースの定言が意味をもつのだと。

ミハイル・バフチン+V.N.ヴォロシーノフ
『言語と文化の記号論』バフチン・グループの一人であるヴォロシーノフの名で出版されているがほぼバフチンの著作とされている。

バフチンの『言語と文化の記号論』の訳者である北岡誠司さんは、その「解説」の中で、これはなかなか素晴らしいのですが、このように指摘しておられる。バフチンは、ソシュール言語学・記号学が自/他の対立を飛び越えて他の意識を一切排してメタレベルに構築される無人称の学であるとして批判し、あくまでも自/他の相対的な意識の相互作用による具体相という経験のレベルに固執しながら記述を進めることで人間文化の各領域の特徴を明らかにしようとしていたと。バフチンはソシュールのいうラングを評価せず、パロールのほうを重視したのである。

意味のネットワークという血管を走っているのは記号であり、それが間主観的に意識を結び合わせているということになるのだろう。私の反復不可能なこの現実と私に先行する言葉という純粋に抽象的で反復可能な体系との境界線上に意識は出入りするのである。ここは、重要な指摘である。そして、意識の論理とは、どこまでもイデオロギー(文化価値)的送受のコミュニケーションの論理であるという。意識の中には孤立した行為はなく、あらゆる思考は他の思考と結びついていて、同時に他者の思考とも結びついている。その意味で意識は常に共意識であり、存在は「共存在」である。先の『ミハイール・バフチーンの世界』の著者たちは、この同時性と共有性の強調はバフチンの全著作の特徴になっていると考えている。そして、バフチンは、「意識のすべての要素は何かを表象し、ある象徴的機能を担っている」という。

6.象徴的機能と像の形成

認識とは精神(主観)による存在(客観)の把握と解釈の中で一つの形式を与えることである。その形式を記号と言ってよいのだと思うけれど、形式とするための形態化には論理的科学的な方法とは全く異なる方法がある。その方法とは、「像を形成する力」によってなされる。新カント学派だったエルンスト・カッシーラは『シンボル形式の哲学』の中でそのことを最大限に拡張しようとした。最も興味深いのはここだ。

「精神の真の根本機能はすべて、単に模写するだけでなく、根源的に像を形成する力を内蔵するという決定的な特徴を、認識と共有している。精神の根本機能は、ただ受動的にそこにあるものを表現するだけでなく、内に精神の自立的エネルギーを蓄えており、このエネルギーによってただ存在するだけの現象がある特定の『意味』、ある独自な理念的内容を受けとることになるのだ。このことは、認識にとってと同じく芸術にも当てはまり、宗教にも神話にも当てはまる(『シンボル形式の哲学』第一巻「シンボル形式の概念とさまざまなシンボル形式の体系学」生松敬三/木田元 訳)。」

ヴァ―ルブルクを彷彿とさせる言葉なのだが、この「根源的に像を形成する力」をカッシーラは、言語的思考の原理とは異なる原理に導かれ支配される新たな「ロゴス」となると考えていた。つまり、造形芸術などの形は理念を担いうる材料になり、意味を形成する自立的エネルギーを起動させるトリガーにもなるということなのです。しかし、この「像を形成する力」をカッシーラは、感性的なものそれ自身の積極的活動、ゲーテの言う「精密な感性的想像力」であるとしたのだが、その力が何処に由来するのかはスッタモンダの議論の一つになったらしい。バフチンは象徴構造の解釈についてはこう述べている。「象徴構造の解釈は、象徴的意味の無限性のなかにもぐり込んでいかざるをえない。したがって厳密な学において科学的という語が帯びる意味では象徴構造の解釈は科学的とはなりえない。だが、それは根本的に認知的である。(『人文科学の方法論について』大谷尚文 訳)」

7.対話原理とは何か

一つ指摘しておきたいのは、バフチンが人文科学と自然科学をはっきり分けていたことである。自然科学は対象を認識しようとし人文科学は主体を認識しようとする。その主体とは自己の主体と他者の主体である。人文科学の対象はテクストの生産者としての人間であった。思考に関する思考、経験の経験、言説にかんする言説、テクストを対象としたテクスト、つまり、間テクスト性が人文科学の根本的な特殊性としてある。しかし、自然科学との境界は、さほどはっきりしたものではないという。

記号よる社会的な相互作用によって社会的コミュニケーションは生まれる。その過程で生じる互いの「理解」とは、バフチンにとってこのようなことだった。「問題なのは、他者の経験を自己の内部に自動的に正確に反映することでも、自己の内部で倍加することでもまったくない(そもそもそのような倍加は不可能である)。そうではなく、この経験を全面的に異なった価値論的パースペクティブにもとづいて、新しい評価と知識のカテゴリーに翻訳することである(『美的活動における作者と登場人物』大谷尚文 訳)。」つまりこれが、カーニバル的「生き返り」である。対話による理解の特徴とは、最初の発言(認識すべき対象)に触発された応答の形式をとる傾向があるということ。そして、他の発言を記述する発話が、その発話と対話関係を結ぶようになると言う。それはテクストとそれに問いかける、あるいは反対するようなコンテクストとの複合関係から生まれるのであって、既にあるテクストと創造途上にある反応としてのテクストとの出会いとなる。それは二つの主体、二人の作者の出会いなのだと言うのである。

8.最後に――言葉の物象化という危機

このようにみていくと、20世紀の初等からバフチンがマージナルな環境に身をおきながら、現象学、フロイト批判、言語の記号学、ドストエフスキイやラブレーの文学などを通して独特の思想を形成していったことが分かる。彼の思想を貫いているものは対話だった。間テクスト性のなかでのポリフォニー的対話である。それはカーニバルにおけるような民衆的な生きたパロールによって培われる。その生きた言葉を追求してきたバフチンが『言語と文化の記号論』の結びの中で、既に、発話が、その意味を真剣に考察されるような対象ではなくなっていると述べ、自分自身が責任を持って発した言葉、断定した言葉が無くなりつつある。既存の発話を組み合わせた、いわばブリコラージュ的な言葉が支配的になってきているというのだ。「他人の言葉」と「あたかも他人の言葉であるかのような言葉」とのカット&ペーストでしかない。これも複製技術時代の災厄なのか。芸術テクスト、修辞的発話、哲学的文章、人文科学の記述は「既存の意見」の王国となりつつある。前面に打ち出されているのは「何が私念されているか」ではなく、「どのように私念されているか」なのだと言う。こうした発話の運命は言葉を物となす「言葉の物象化」と「テーマ性の低下」をもたらすと言うのである。僕にとっても耳の痛い話である。そう、ここにはもうひとつの「ヨーロッパ諸学の危機」があったのだ。

 

引用文献 参考図書

竹田青嗣(たけだ せいじ/1947‐)
『はじめての現象学』

河本英夫『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』

エルンスト・カッシーラ『シンボル形式の哲学』第一巻(全4巻)

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』笑いは世界を再生させる

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』

今回は、色々な本の中でちょこちょこ名前の出てくるミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン)のグロテスク・リアリズムを取りあげたい。魔術的リアリズムに近いようで遠い。エロ・グロ・ナンセンスのグロテスクとも似つかない。じゃあ、いったい何かと問われればお立合い。まずは、はるか昔のローマに遡る。


1.カーニバル・タイプの祝祭、様々な広場での笑劇的要素

「そして(ウダールは)この法院族め、ぽかぽか、この法院族め、どかどかと、殴りだしましたが四ほう八ぽうからも、こんこんに張り切った籠手が、法院族に雨霰と降り注ぎました。『めでたい嫁取り! (と一同は叫びました。)めでたや嫁入り! めでたや! めでたや! 末の世まで忘れまじ! 』と。法院族はさんざんに痛めつけられて口からも、鼻からも耳からも眼からも、血がだらだらと流れました。その上に、頭からも首も背も胸も腕も一切合財が、くたくた、がたがた、びりびりにされてしまったのでございますよ。まったく謝肉祭の折のアヴィニョンの若衆たちにしても、この法院族の時以上に、景気のよい音を立てて、殴打遊びをやったことは金輪際ございませんよ。とうとう奴めは地べたへ倒れてしまいました。皆は、その頭に葡萄酒をぶっかけ、胴着の袖に、黄と緑に染められた見事な布地を縛りつけ、奴の青洟垂らした馬の背に乗せました。(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第四の書』」

フランスの地方には、婚礼の祝の席でお互いを冗談めかして軽くこぶしで殴り合うという「二股手袋の婚礼」という風習があったが、この殴り合いは陽気な性格を持ち、笑いで始まり、笑いで終わる。法院族は道化としての王の役割が与えられ、打擲と嘲罵が加えられる。そうされながらも祝福される矛盾した存在となる。ここではアヴィニヨンのカーニバルが想起されているが、肉体の分断、それも解剖学的、カーニバル的、料理的、医術的な寸断がなされている。しかし、殴られる者は葡萄酒で赤く染められ、彩豊かに飾られる。このような祝祭的なイメージ体系には、けっして絶対的な否定はない。矛盾する統一体の中で生成の両極が捉えられるのである。


 

ドムス・アウレア内部 64年のローマ大火災後にネロが建てた黄金宮殿跡
16世紀には地下洞窟「グロッタ」として知られていた。

西暦64年、ローマが焼野原になった後、皇帝ネロは誇大妄想建築と名高いドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設しはじめた。その死後、宮殿は火災によって焼失する。宮殿の敷地はティトゥス浴場などの建築物に覆われドムス・アウレアは地下に埋まっていたが、15世紀末に地下道を掘って内部が見学できるようになった。

バフチンは、本書『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』の中でこう書いている。「15世紀末のローマでティトゥス帝の共同浴場の一部が発掘された時、その時まで知られていなかった種類のローマの絵画的装飾が発見された。この種類の装飾は、洞窟、地下室を意味するイタリア語の「グロッタ」から「グロッテスカ」と名付けられた。(川端香男里 訳)。」そこを訪れたラファエロは内部の装飾に眼をみはり、さっそくバチカン宮殿の壁画に試したという、いわくつきのフレスコやモザイクがあったのである。

このローマの装飾画には、奔放なアルス・コンビナトリア(結合術)、動物たちや人間との自由なキメラがあり、幻想と想像力が手を携えて壁面に浮遊していた。その特徴をバフチンは、このように述べる。このグロッテスカにあっては境界線は大胆に犯されていて、現実のありきたりの静態的表現はない。一定不変の世界の、植物であれ、動物であれ、出来上がった形、そのものの動きはもはやなくなり、存在自体の永遠で未完な性質に変えられている。そこには芸術的空想の並みはずれた自由と軽やかさがある。そして、「この自由は、ほとんど笑っているような、陽気気ままな自由である」と書いている。彼によれば、この新たな発見は、グロテスクイメージ表現の一断面に過ぎなかった。そのイメージは、実は古代のあらゆる時期に存在し、中世、ルネサンスにも生存し続けていた。このグロッテスカは、その後の生産的な生命に保障を与える存在となり、グロテスクなイメージ表現が拡張され測り知れない巨大世界へと発展していく過程での護符となるのである。

 


2.滑稽な文学的作品からの着想

「そこでにこにこしながら、見事なその股袋をはずして、その一物を宙に抜き出し、勢い劇しく人々に金色の雨を降らしたので、そのために溺れ死んだ者の数は、女や子供を除いて二十六万四百十八人であった。これらの連中のうち何人かは、脚が速いおかげで、この小便の洪水から逃れ出て汗をだらだら、咳をこんこん、唾をぺっペっと吐きながら、息も切れ切れになって大学の丘の頂上へたどり着いたが、ある者は、かんかんに怒り、ある者は笑い転げながら(Par rys/パ リ)、神も仏もあるものかと喚き立て、呪詛の声を上げ始めた。――神の災いに誓って! 主を否みまする! 主の血にかけて! 主の母君、みそなわせ! 主の頭にかけて=ガスコーニュ 主の受難がお前をくじいてしまわぬように‥‥やれ聖女マミカ様、冗談ごと(Par ry)からすっかり濡れ鼠にされてしまったわい! こういう理由から、それ以来この町はパリと名付けられたわけだ‥‥(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第一の書』」

バフチンは、ラブレーの同時代のロジェ・ド・コルリーはこんな詩を書いたと紹介している。

≪主の復活祭≫みまかりし時  ≪主の良き日≫後を継ぎぬ。
≪主の良き日≫故人となりし時、 あとを継ぎしは≪悪魔よわれを取れ≫なり。
その歿したるのち、≪貴人の名誉≫がわれらを惹きつけているのを見る。

当時、聖なる言葉が瀆神的、冒涜的に使われるのを恐れた国王たちは一度ならず誓言禁止の法令をだしたという。ルイ11世の ≪主の復活祭≫、シャルル8世の ≪主の良き日≫、フランソワ1世の ≪貴人の名誉にかけて≫ など、彼らのお気に入りの誓言は、禁令を発した王たちと分かちがたく結びついて王たちのあだ名にさえなった。コルリーの詩はこれらのエピグラムとなっているのである。ラブレーの文学にはこのような滑稽な文学作品のパロディが散りばめられていた。


 

バフチン『ドストエフスキイ論』
『ドストエフスキイ創作方法の諸問題』1963年版の翻訳

幻想と想像力が手を携える。それって、シュルレアリスム、いやマニエニスムじゃないのかと不審に思われる人もあるだろう。いや、あってほしい。あるかなあ‥‥ルネサンス末期から登場したマニエリスムは、奇想をこととする手法主義を指している。ルネ・ホッケは、それをルネサンスの古典主義に対抗する概念にまで高め、西欧文化の二つのあざなえる縄の一つにまで持ち上げたのである。バフチンは、グロテスクを大衆的な笑いの原理、生活の物質的・肉体的原理、アンビヴァレントな価値を併せ持つ変化の両極性、再生と復活のユートピア性を持つと規定し、宗教の厳格性や学問の抽象性をこととするお堅い文学とやはり対抗させた。しかし、文化って基本的にアンビヴァレントなものなのかしら。

フランソワ・ラブレーやそれに類するルネサンスの作家たち、ボッカチオ、シェイクスピア、セルヴァンテスらの物質的・肉体的原理に基づくイメージが民衆の笑いの文化の継承に違いないとバフチンは思った。生に対する独特な美的概念の継承である。近代から始まる美的概念とは鋭く対立する美的概念をゴシック・リアリズム、後にグロテスク・リアリズムと名付ける。

既に古典古代において、叙事詩、悲劇、歴史、弁論術(レトリック)などの真面目な文学と田園詩、ソプロンの物真似、『ソクラテスの対話』『メニッポスの諷刺』といった、いわゆる真面目な茶番と呼ばれる文学とに分けることができるという。特に『メニッポスの諷刺』は、カーニバル的世界観から発し、ドストエフスキイの創作の中で新たに生まれ変わったというのだ。ドストエフスキイ文学は真面目な茶番の末裔に分類される。さて、これを読んでオッたまげた人はバフチンの『ドストエフスキイ論』をお読みくださいませ。

ミハイル・バフチン(1895-1975)
1924‐25年頃

ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチンは1895年にウクライナに近いロシアのオリョールに次男として生まれた。伝記については、カテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイストによる著書『ミハイール・バフチーンの世界』からご紹介する。兄と三人の妹があった。父方は貴族の家系に連なるが爵位は持っていなかった。祖父が市中銀行を設立していて、父はそのほうぼうの支店で支店長をしている。それで、何度かの転勤をすることになった。両親は子供たちに最良の教育を受けさせたが、家風はかたぐるしく、その中でもミハイルは打ち解けない性格だったといわれる。9歳で学校に上がる前は、ドイツ人の女性家庭教師がついていて、『イーリアス』『オデュッセイア』などをドイツ語で教え、劇にして演じさせていたりした。

9歳の時、父の転勤に伴って現在のリトアニアの首都ヴィーリニュスへ移り、15歳まで暮らすことになる。そこは、様々な文化、様々な時代の生きた博物館であり、伝説と謎に満ちていた。言語、階級、民族は多様で、異言語混交の生きた実例であったといわれる。ロシア人が支配しロシア語を公用語としたが、ポーランド人とリトアニア人が大半でユダヤ人も比較的多かったが、大勢はローマ・カトリックであり、知的・文化的にはポーランドに傾斜していた。兄弟はギリシア語を家庭教師に学びながら学校ではロシア中心のカリキュラムを吸収した。一時的な革命熱のためにマルクス主義に浸ったこともあったが、11歳の時『悲劇の誕生』を読んだことは、後に反ニーチェ主義者になりはするものの人生の転機になったという。やがて象徴主義に興味は移った。ロシアのブローク、アンネンスキー、イヴァーノフら象徴主義の詩を終生愛した。特にイヴァーノフは、「私」がもう一人の「私」、すなわち内なる「汝」を意識化していくという表現によって宗教的・認識論的体験の基礎となるコミュニケーション理論を築き上げていた。ここは、重要であろう。

1911年、15歳の時に黒海沿岸のオデッサ(現ウクライナ)に移った。一年だけオデッサ大学で学んだあと1914年からペテルブルク大学で歴史・言語学部の古典学科に在籍し、1918年に卒業した。この頃は、象徴主義に対抗する新しい運動が胎動していた。マンデリシュタームやグミリョフを中心としたアクメイズム、ヤマコフスキイらの未来派である。バフチンは言葉の実験を信条にしていた未来派に興味を持った。未来派に近い立場の人たちとしてペテルブルク大学で学んでいた、あるいは教えていたメンバーたち、シクロフスキ―などのフォルマリストを指摘できる。他にヤコブソンらがいるが、彼らはやがてバフチンの「あっぱれな敵」となるのである。これがバフチンの20代前半までの様子である。

 


3.無遠慮で粗野な広場の言葉(罵言、誓詞、呪詛、民衆的プロパガンダ)による語り

「はっ、はっ、はあ! わーい! こいつは一体何じゃいな? これなるものを何とお呼びになる? 便とも糞とでも、尿とでも排泄物とでも、うんことでも、便通とでも、糞便とでも、大便とでも狼の糞とでも、熊の糞とでも、鳥の糞とでも、鹿の糞とでも、絞り糞とでも、固糞とでも、山羊の糞とでもお呼びになりますかな? 私は思うのだが、イベルニヤのさふらんですわい。ほっ、ほっ、ひーい! こりゃイベルニヤのさふらんさね! 誓羅(せら)! 飲もうや、皆さん! (ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第四の書』」

この糞のオンパレードは、香具師の口上、広場での罵言のようである。さあ、さあ、みなさん、御用とお急ぎでない方は、よってらっしゃい、見てらっしゃい‥‥というのに代表される語り、あるいは、おまえのカアチャンのちょめちょめがなあ! くそったれ! などという罵詈雑言などの類です。


 

ピーテル・ブリューゲル(1525頃-1569)『謝肉祭と四旬節の喧嘩』1559 部分 美術史美術館 カーニバル的世界の描写

ここで、ラブレーのスカトロジー(糞尿譚)に触れます。イャダーとか言わないように。重要なのです。私が意識の座を得てからというものうんこなど食べたことも舐めたこともないことは誓って申し上げるのだが、恍惚の人となり、年齢も年齢ですから、そうなればどうなるかは定かではない。先ほどのラブレーの糞のオンパレードで、うんこがイベルニヤのさふらんという何やら貴重で快いものとされていることにバフチンは気づいた。自分の尿を飲むというのは民間療法として根強い人気があるらしいのだが、うんこはさすがに食べられません。しかしながら、うんこは大地と身体との中間にあって両者を結びつけるもの、再生と改新をもたらす陽気なブツなのです。うんこは死人の肉体と同じように土地を肥沃にするものなのです。

ギュスターブ・ドレ画『ガルガンチュア物語』挿絵  大聖堂からオシッコをして人々をセーヌ川に押し流すガルガンチュア

それで、バフチンはこう書いている。「ラブレーのスカトロジー的イメージには、少しも粗野でシニカルなものはないし、また、あり得ない。(他の同様のグロテスク・リアリズムと同じように。)糞を投げつけ、尿を浴びせ、古い死にゆく(と同時に生み出す)世界に糞尿譚的罵言を雨あられのように浴びせること――これは古い世界の陽気な埋葬であり、愛情のこもった土の塊を墓に投げてやる行為や、墦種――畑の溝(大地の母胎)に種を投げる行為とまったく同様の(ただし笑いの次元における)ものなのである。陰うつな、肉体のない中世的真実に対し、これは真実の陽気な肉体化であり、滑稽な地上化である。(川端香男里訳)」

つまり、うんこは「くそっ!」になるのだ。芸術的空想の並外れた自由な陽気さは、このうんこのメタファーにも見て取ることができる。いわば下方超越し、再生と復活を人間にもたらすと言うべき世界観は、古代における農耕神サトゥルヌスの黄金時代へ、全民衆的なユートピア世界への回帰に繋がっていくのである。

バフチンは、カーニバルやフェスト、大道芸、多種多様なパロディ文化等々に見られる諸形式を三つの基本的な形式にまとめた。それが今まで挙げてきた民衆文化の三つの表現形式(1.儀式的・見世物的形式、2.滑稽な文学的作品、3.様々の形式やジャンルの無遠慮で粗野な広場の発言)である。しかし、基本的に重要な形式は1.のカーニバルであろう。

「わたしがビール樽なら、あんたは足なしです‥‥」
「なに、わしが足なしだって」
「ええ、そうです、足なしですよ、おまけに歯欠けじいさんで、そうなんです、あんたは」
「おまけに目っかち」とマリア・アレクサンドロヴナが喚き立てた。
「あんたはあばら骨の代わりにコルセットをはめてるんでしょう」とナタリア・ドミトリエヴナがつけ加えた。
「顔はぜんまい仕掛け」
「自分の髪の毛はないし‥‥」
「口髭ときたら、バカみたい、こしらえ物でしょ」マリア・アレクサンドロヴナは黄色い声を張りあげた。
「いや、せめて鼻だけはよしてもらいたいな、マリア・ステパノヴナ、これは本ものなんだから」と意外なすっぱ抜きにびっくり仰天して公爵は叫んだ‥‥
「いやはや」と哀れな公爵はいった。「‥‥おまえ、わしをどっかへ連れ出してくれ。さもないと、八つ裂きされてしまう‥‥」。(ドストエフスキイ『伯父様の夢』新谷敬三郎訳)

バフチンは、このドストエフスキイの作品を、解体した身体の部分を数え上げる典型的な「カーニバル解剖」の例として挙げている(『ドストエフスキイ論』)。この数え立てはルネサンスのカーニバル化した文学において広く行われた、例えば、ラブレーにおいて盛んに、目立たなくはあるがセルヴァンテスにおいても。ここでは、カーニバル王の役割をしているのはマリア・アレクサンドロヴナ・モスカリョーワであった。彼女は娘を年老いた公爵の嫁にと画策するのだが、その手管を周りの社交界のご婦人方に非難され、彼女の名声は地に落ちる。その結婚話と対を成す娘とその恋人ワーシャとの関係は、彼の悲劇的な死をもって終わる。話は互いに反映しあい、お互いに透視しあい、一方が喜劇なら他方は悲劇、一方が卑俗なら他方は崇高という相反するデュアルな関係になっているという。これが文学化されたカーニバル感覚の一つの例なのである。

さきほどのブリューゲルのカーニバルの絵を見ていただきたい。この人物たちそれぞれに吹き出しをつけて会話を挿入する。それをアニメーションのように動かすと異種混淆の会話のポリフォニーになる。ポリフォニーというより会話のクラスター(群れ)と言った方がよいかもしれない。それは、カオティックなエネルギーに満ちた世界であり、次の年にもその次の年にも似たように繰り返される行事だった。カーニバルの形象は絶えず生き返り常に終わりは新しい始まりであり、決定的な終局に反対するとバフチンは言う。そして、ドストエフスキイ作品の世界はこのようなものであるとも言う。「世界にはいまだかつて何ひとつ決定的なことは起こっていない、世界についての、また世界の最後の言葉はまだ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからであろう(新谷敬三郎訳)」と。つまり、開放系である。

ドストエフスキイは制約的で一面的な真面目さ、独断論や終末論とも無縁ではない、しかし、ひとたび小説の中に入ると開かれたまま終わることのない対話の生の声の一つになってしまうという。「彼の小説にあっては、すべてがまだ語られたことのない、予め用意されてない『新しい言葉』に向う。(新谷敬三郎訳)」新たな言葉の創発が起こると言う分けだが、残念ながらカーニバル的世界には時間の矢がない。それは、ともかく、この『ドストエフスキイ論』は『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』とセットにするとカーニバル的世界観、ひいては、グロテスク・リアリズムが理解できる仕組みになっているのです。

ジュリア・クリステヴァがまだ、ブルガリアの学生だった当時、バフチンは、革命的存在だったという。しかし、1965年にフランスに留学してみるとバフチンは全く知られていなかった。ロラン・バルトは、彼女にバフチンの著作についての報告をするように勧めたという。それが『バフチン ―― 言葉  対話  小説』というテクストであり、雑誌「クリティック」に掲載され、やがてバフチンの名が西側世界でも知られる契機となるのである(桑野隆『バフチン』)。しかし、彼女は、バフチンの思想に自分のアイデアを繋げた。

それが、「間テクスト性」の問題だった。「一つのテクストが別のテクストの引用のモザイクとして形成され、テクストが全て別のテキストの吸収と変形に他ならない」と考える。前半のテクストという言葉を声に後半のテクストを会話に置き換えてみよう。すると、「一つの声が別の声の引用のモザイクとして形成され、会話が全て別の会話の吸収と変形に他ならない」となる。バフチンがドストエフスキイについて述べた会話のポリフォニー性とは、小説が作者のモノローグだけに終わらない、つまり、登場人物が作者の意図や思想を代弁して語る存在としてではなく、小説内で作者とは独立したそれぞれ自由な存在として登場し語ることによって生まれる。会話のポリフォニー性から直ちに「間テクスト性」は導けない。ただ、カーニバル化の機能は、ジャンルや孤立化した思想の諸体系、異質なスタイル等々の柵を全て取り払う作用をしてきた。それは、あらゆる孤立化、相互の無関心を絶滅し、遠くのものを引き寄せ、ばらばらのものを一つにまとめた(『ドスエフスキイ論』)。全ては繋がっているというわけである。そう考えれば、「カーニバル化」と「間テクスト性」とは繋がる。

これに加えてカーニバルにおける記号性についても考えなければなりません。バフチンは有意味な事・物は、全て外部になんらかの形で姿を見せると信じていた(桑野隆『バフチン』)。ここら辺りは、カッシーラの『シンボル形式の哲学』に近づいて行くのだろうけれど、今回はここまでとします。ところで、気づいたのだけれどパロディとは世界を未完にするための手段、再生するための強力な方法だったのですね。

「はっ、はっ、はあ! わーい! こいつは一体何じゃいな? これなるものを何とお呼びになる? カーニバルともポリフォニーとでも、間テクスト性とでもパロディーとでも、クソッタレ! ともグロテスク・リアリズムとでもお呼びになりますかな? 私は思うのだが、モルドヴィアのさふらんですわい。ほっ、ほっ、ひーい! こりゃモルドヴィアのさふらんさね! 誓羅(せら)! 読もうや、皆さん! 」

 

 

引用文献・参考図書

カテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイスト『ミハイール・バフチーンの世界』

桑野隆『バフチン』 バフチンに関するとても良い入門書

フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』「ガルガンチュアとパンタグリュエル」第一巻

フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル』「ガルガンチュアとパンタグリュエル」第二巻(全4巻)

『变臉/この櫂に手をそえて』 名優・朱旭と中国映画

川劇 中国四川省の伝統劇

映画を見た。中国の老いた大道芸人を扱った作品だった。中国の四川省には川劇(せんげき)と呼ばれる京劇に似た伝統芸があるらしい。その劇は、正に瞬く間もなく瞼譜(れんふ/隈取)を取り換える技、変臉(へんれん)を以って知られている。臉(れん)は顔のことだそうだから「変面」と訳すのは正しいだろう。一子相伝、それも男子にしか伝えない極秘の技だった。


1930年代の四川、子供を失い、変臉を得意とした老いた大道芸人である王(ワン)が、その技をどうしても伝えたいと人買いから8歳の男の子・狗娃(コウワ―/子犬の意味)を買った。爺爺(イエ、イエ ! /おじいちゃん)と呼びかけるその子に何かを感じたのだ。喜び有頂天となるワンだったが、街角の露店でゴムパチンコで手を打たれ、小さな鉈を自らの足に落としてしまう。酒で消毒した後、小さな子のおしっこは刀傷に効くと信じていたワンはコウワ―におしっこを出すように言うのだが、窮したコウワ―は、実は自分は女の子だと白状してしまうのである。


 

この映画のタイトルは、邦題を『変臉/この櫂に手をそえて』、英語の題名が『The King of Masks』である。主演は朱旭(チュー・シュイ)、狗娃(コウワ―)役を周任蛍(チョウ・レイイン)が演じている。二人とも素晴らしい役者だが、猿回しの芸のために飼われている猿も恐るべき演技をする。

この映画のためにチュー・シュイは、変臉の技をその筋の名人に習った。つまり、本人の実演がワンカットで撮られているのである。スローモーションにしても変臉の瞬間は分からなかった。自分ができるのは3枚までで、名人は7、8枚から10枚までできるのだという。自分のやり方は一番原始的・伝統的やり方であって面は全て絹であり、今のような合繊や化繊ではダメなのだそうだ。それに、コウワ―のアクロバットもやはり実演であった。彼女は、既に雑技団の売れっ子であったというからその演技も頷ける。しかし、撮影当時、両親の離婚に伴って親権が争われる裁判中であった。稼ぎがあるというのが理由だったという。その身の上が映画のストーリーと相まって心に痛い。(石子順『中国映画の明星』から「朱旭」より)

今回は、どうしてもこの朱旭(チュー・シュイ)という人をご紹介したかった。それで、石子順氏の『中国映画の明星』を中心に彼の経歴を追ってみたいと思っている。この俳優さんは、「世界一の劇団」と言われた北京人民芸術劇院所属の舞台俳優だった。この芸術劇院は、京劇などの伝統的な演劇ではなく現代劇(話劇)や歴史劇の専門集団である。劇院最初の演目が「北京の花」と謳われた作家、老舎(ラオ・ショー)の作品『龍髯溝』であり、その『茶館』は、この劇団の代表作となった。二千人収容可能な首都劇場を中心に140以上もの作品を公演してきた。所属する作家、演出家、俳優、全てが一流だといわれる。脚本、演出、俳優、舞台装置に関わる250人近い人々で構成されている。中国の俳優さんたちの演技には感心することが多いのだけれど、こんなところにもその要因があるのだろう。

チュー・シュイは、1930年、中国北東部、朝鮮半島にも近い遼寧省の瀋陽(はんよう)に生まれた。華北大学の第三部戯劇課で学び、日本占領下の北京に移り住んだ。その頃の日本兵との出会いは、辛い思い出になっているようだ。ここにも侵略の歴史の暗い影を見る思いがする。1952年の北京芸術劇院の結成にともなって、22歳の若さでここに俳優として配属された。最初は照明係や端役からスタートしたという。若くして頭角をあらわすというタイプではなかったが、徐々に役をもらえるようになっていった。しかし、三十代半ばで文化大革命の波に洗われることになるのである。1966年に文革が始った。

 


『The King of Masks』DVD

騙されたと知ったワンは、コウワーに金を与え、彼女を岸に残して住まいにしている舟を出してしまう。コウワ―は泣きながら後を追うのだが、ついに泳げもしないのに川に飛び込んで舟に追いすがろうとした。ワンは水に飛び込んで助けてやるのである。しかし、もう祖父と孫のような関係は失われ、師匠とその弟子のような関係となってコウワ―に軽業の芸を仕込むと、共に大道芸をしながら暮らしていくようになる。

変臉の技に興味津々となったコウワ―は、ワンのいないある夜、瞼譜(れんふ/隈取)を取りだして火にかざして眺めていたのだが、運悪くそれに火がついてあっという間に舟は燃え上がってしまう。そんな時、ワンは、彼を尊敬する川劇(せんげき/四川オペラ)の女形、人気絶頂の梁素蘭(リャン・スラン)にコウワ―との写真を届けられる。なんとか、もとの水上生活にもどれるワンだが、コウワ―はいたたまれなくなって彼の元を離れ、浮浪児となって街をさまようようになる。あまりの空腹に焼き芋を盗もうとしてとがめられ、立ち去ろうとしたとき、彼女の手を捉える男があった。


 

中国の映画史は、黎明期の1910~1920年代の第一世代を経て、1930年代から1949年の中華人民共和国成立までの第二世代にまず分けることができる。その頃の上海は、外国人居留地、いわゆる租界として発展していて、イギリス、フランス、アメリカが主権を有していたため日本や中国本土などとは異なりダイレクトに欧米文化が流入していた。上海はモダンだったのである。アメリカ映画の影響と新左翼運動家の新劇的なシナリオ、資本家の投資とがあいまった。40余りの比較的小規模な映画会社が林立していて1928年から1931年の間に400本の映画が作られたという。

中華人民共和国が成立すると1953年には各地の撮影所は国有化される。そこから文化大革命が始る頃までの映画人を第三世代という。毛沢東の強い影響下にあり、共産党のプロパガンダ映画へと傾斜しはじめたのは自然なことだったろう。その中でも謝晋(シエ・チン)は重要な監督として注目されている。彼のことは、後でもう一度触れる。

呉天明(1939-2014)ウズール国際アジア映画祭 2007年

文革から1980年代半ばまでの時代の映画人が第四世代である。この世代は、文革中に反革命的な知識層として多くは糾弾の憂き目にあった。毛沢東が亡くなり10年続いた文革が終わって、その誤りを指摘しようということにはなったものの、どのように、あるいはどの程度表現して良いのか手さぐりの状況だったのである。その中で強い意思を見せたのが呉天明(ウー・ティエンミン)だった。この人が『変臉/この櫂に手をそえて』の監督さんである。彼は、文革中に年老いた撮影所の所長が重い木札を首にかけられトラックに乗せられて見せしめに引き回されようとした時、その車によじ登って、ありあわせの木札を首にかけ「俺もつるし上げろ」とその所長の横に並んだという。それに、ある女優が精神を病んで井戸に飛び込んだ時、自も井戸に飛び込んでその女優を助けた(石子順『中国映画の明星』)。そして、何よりも、彼が中国映画史の中で重要な位置を占めるようになるのは西安撮影所長としてのプロデューサーの手腕だった。

再開された北京の電影学院からの卒業生たちが自由な雰囲気を求めて地方の撮影所に集まるようになる。その一つが西安だった。『活きる/活着』の張芸謀(チャン・イーモウ/1950-)、『青い凧』の田壮壮(ティエン・チュアンチュアン/1952-)、『さらば我が愛/覇王別姫』の陳凱歌(チン・カイコ―/1952-)ら錚々たるメンバーがつどった。三人が三人とも若い頃に強制的に地方の生活を体験させられる下放を経験している。彼らの世代が第五世代といわれる。呉天明(ウー・ティエンミン)が綺羅星のような彼らを育てたのである。これらの作品は全て状況を異にする映画だが、文革やそれに先立つ反右派闘争を批判している点で共通している。これに先ほどの謝晋(シェ・チン)が1987年に撮った『芙蓉鎮』を加えることができるだろう。(竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている』)

 


コウワ―の手を掴んだのはワンに自分を売りつけた人買いだった。人買いの家に連れて行かれると、そこにはコウワ―よりもっと小さな裕福な家で育った四歳の男の子がさらわれて泣いていた。そこで、彼女はある決心をする。二人で屋根裏から屋根を伝って逃げた。そして、その子をワンの舟まで届けるのだった。舟に戻ってきたワンが、名前はと問うと天賜(ティエンシー)と答えた。これが誤解のもとになった。ワンは信仰する観音菩薩の恵みだと喜ぶのである。しかし、喜びも束の間、彼は幼児誘拐の疑いで警察へ連行されてしまう。コウワ―は泣きながら牢屋の格子越しにワンに瞼譜(れんふ/隈取)を手渡すのだった。


 

石子順『中国映画の明星』2003年刊
中国映画の四人のスターを紹介する

1958年から始まった大躍進政策の失敗によって、毛沢東は政治権力の座を失った。稚拙な製鉄法による木炭の消費は森林を壊滅させ、生産された6割は使い物にならない屑鉄だった。伝統農法も近代農法も無視した農業は大凶作を呼び、それでも輸出のために作物は吸いあげられた。それによって数千万の餓死者を出したといわれる。このあたりの農村の様子は『赤い高粱』で知られるノーベル文学賞作家、莫言(モー・イェン/1955-)がその講演で語っている(『莫言の思想と文学』「飢餓と孤独はわが創作の宝もの」)。彼は、川端康成の『雪国』とガブリエル・ガルケス=マルケスの『百年の孤独』、それにウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』にシビレテいた作家だ。

毛沢東は、劉少奇や鄧小平らが握った政治の実権を奪還しようとして、高校生を主体とする紅衛兵と呼ばれた学生たちの運動を扇動した。共産主義に部分的に資本主義を導入する実権派の修正主義を嫌ったのである。実権派の党幹部やその支持者、知識人、旧地主の子孫などが反革命分子とされ、紅衛兵を中心とした造反派によって迫害を受けることになる。これによって多くの人命と文化財が失われた。

この伝染病のような文革の嵐は、北京人民芸術劇院も襲った。院内に起こった造反によって「文芸の黒い線」一味、「反革命分子」として糾弾される。老舎は太平湖畔で死体で見つかり、実質的な指導者だった焦菊隠(チャオ・チュイイン)副院長は、迫害の後、死亡、高名な女優であった舒綉文(シュ・シウウェン)も迫害され亡くなった。チュー・シュイも吊し上げられ妻で女優であった宋鳳儀(スン・フォンイー)とともに、いわゆる「幹部学校」へ送られ北京郊外の元囚人農場で八年間畑を耕し、葡萄栽培を強いられた。小学生の長男と生まれたばかりの末っ子とは別れて暮らさなければならない辛い日々だった(石子順『中国映画の明星』)。

この文革の頃の様子は、先ほどの第五世代の監督たちの映画の中にそれぞれ描かれているが、チュー・シュイとの関わりで言うなら、1995年の日・中合作のテレビドラマ『大地の子』を挙げることができる。山崎豊子の原作なのだが、綿密な取材によってその頃の様子は迫真なものになっている。このドラマで彼は、中国残留孤児の男の子の養父で小学校教師であった陸徳志を演じて、その素晴らしい演技が一躍日本の人たちにも知られるようになった。ついでに言うと、中国側の制作した残留孤児のテレビドラマもあって、これも感動的だった。僕の大好きな孫麗(スン・リー)主演の『小姨多鶴』(多鶴叔母さんの意味)がそれで、アメリカの小説家である厳歌苓(ヤン・ゲリン)の同名の小説が2009年にドラマ化されている。これでもかこれでもかと押しよせる不幸を懸命に生きていく女性を描いているのだ。ヤンは、『金陵十三釵』の作者でもあるが『紅楼夢』の関係で言えば『金陵十二釵』が美女12人を指しているから、かなり意味深なタイトルと言える。それはともかく、この『大地の子』が制作された翌年、アメリカから帰国したばかりの呉天明(ウー・ティエンミン)監督のもとで『変臉/この櫂に手をそえて』が制作されることになるのである。

 


ワンの友達の酒屋の主人は、コウワ―に川劇の女形・梁素蘭(リャン・スラン)なら助けてくれるかもしれないと告げた。コウワ―はリャンの住む建物の前で一夜をあかし、リャンに事の次第を告げる。だが、彼女はリャンが出演する劇の最中に驚くべき行動にでるのだった。クライマックスはどうか映画をご覧ください。


 

1983年アメリカの劇作家アーサー・ミラーが北京に滞在し、その作品『セールスマンの死』が北京人民芸術劇院によって演じられた。チュー・シュイは、主人公ウィリーを助ける心温かいチャーリー役だった。ミラーは、アメリカの俳優ヘンリー・フォンダを思わせる良い役者だと誉めたようだ。フォンダは、『怒りの葡萄』や『12人の怒れる男』といった作品で知られる名優である。その頃、チュー・シュイは、魯迅の『阿Q正伝』の主役を演じるまでになっていた。ミラーの『セールスマンの死』は北京で大成功を収めたのである(石子順『中国映画の明星』)。

そして、1984年、第五世代が躍動し始めた頃、チュー・シュイは、初めて映画に出演する。50歳半ばの遅れてやって来た映画俳優だった。『紅い服の少女/赤衣少女』というタイトルで16歳の少女の父親役である。教え子だった女性監督である陸小雅(ルー・シャオヤー)から声をかけられたのがきっかけだった。

その後、文革を描いた『胡同(フートン)模様/小巷名流』、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督の芸人一家の悲劇を描いた『鼓書芸人』に出演する。弦楽器と太鼓の伴奏で物語を歌う二人組の芸を鼓書といった。そして、名作として名高い、もと京劇役者の祖父を演じた『心の香/心香』がある。これで、祖父役が定着する。『孔家の人々』『変臉/この櫂に手をそえて』を経て『こころの湯/洗澡』『刮痧』『王様の漢方/漢方道』などに出演。そして最後の映画が2009年に制作された『我們天上見』(天国で会いましょうの意)で、やはり祖父役を演じて、この作品も素晴らしかったが、監督はなんと『大地の子』で主人公・陸一心と結婚する江月梅を演じた蒋雯麗(ジャン・ウェンリー)だった。張芸謀(チャン・イーモウ)もそうだが、俳優で監督、両方こなせるという人も中国には少なくない。

チュー・シュイのどこに惹かれるのかは言い難いものがある。確固として鍛え上げられた役者としての技術、何よりも香ってくる人柄の暖かさ、絶妙の間合い、神技とも言える声の抑揚、全ていい。そして、僕が何よりも言いたいのは、呉天明(ウー・ティエンミン)監督と組んだこの『変臉/この櫂に手をそえて』が、いかにも地に足の着いた職人肌の映像を僕たちに届けてくれているからだ。おまえの感覚は古いのだと言われそうだが、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『恋する惑星/重慶森林』といったシティポップな感覚も嫌いじゃない。チュー・シュイのこの作品は、ワイヤーでぴょんぴょん飛んだりしないし、流行りのCGによる壮麗なインチキもない。そんなのこの頃は、あんまり流行ってなかった。勿論、映画の形式美、色彩構成や造形美といった要素も大切ではあるが、僕は何よりこの丹精こめた職人芸による極められた演技とそれによって創り上げられた映像が好きだ。職人気質大好き。みなさんにも是非見てもらえたらと思っている。チュー・シェイは、昨年2018年に88歳で惜しくも亡くなっている。

 

 

参考図書


竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている』中国映画の歴史が比較的詳しくまとめられている。

藤井省三『中国映画 百年を描く、百年を読む』
莫言文学の翻訳者が中国・香港・台湾の映画35篇を紹介する。

莫言『莫言の思想と文学』莫言の講演を集めている著書 2015年刊

清少納言『枕草子』 鵺の如き複合体としての日記

 

清少納言の『枕草紙、随分不思議なものだと思ってきた。勿論、彼女の才気を煥発させている文章ではあるのだが、それだけではない。ある種のカタログである。「‥‥花によろこびといかりあり、いねたるとさめたるとあり、暁と夕あり‥‥」と書いたのは、明の時代の袁宏道(『瓶史』)だけれど、こんな表現は、よく似ている。それは、何か画集をめくって眺めていく感覚にも近い。そのことは、ロベルト・カラッソ 『カドモスとハルモニアの結婚』 一貫する差異に書いておいた。展覧会の準備があってブログをしばらくお休みしていましたが、展覧会の間にぽつぽつ書いておりました。今回はこの『枕草子』についていささか考えてみたいと思っている。


源氏物語を翻訳したアーサー・ウェイリーが1928年に『枕草子』を翻訳して出版していたことは、ほとんど知られていないのではないだろうか。西欧の気鋭な文学者がこの『枕草子』をどのように見ていたのかは、なかなか興味深いものがある。少しご紹介しよう。


 

津島知明『ウェイリーと読む枕草子』
ウェイリーが『枕草子』を抄訳し、その解説を書いた著作の紹介である。

『ピローブック』と訳されたそれは、ウェイリーが最も気に入っている作品だとして、後進のドナルド・キーンやアイヴァン・モリスを驚かせたという。その翻訳には意外にも「春はあけぼの」として知られる初段が切り捨てられていた。断章の集合体である『枕草子』は、「どこを、どの順序で、どう読んだらよいのか」を読者に突き付けてくるとは、『ウェイリーと読む枕草子』の著者である津島知明氏が指摘することである。つまり、読み手によってその価値が大きく異なってくる作品なのである。

ウェイリーの『ピローブック』の章立ては、「十世紀の日本」、「清少納言のピローブック」、「少納言の性格」、「翻訳ノート」の四章に分かれていて、「十世紀の日本」は、ある種の文化批評のようで興味深い。彼にとって当時の日本は、侵略にもコスモポリタニズムとも無縁な揺るぎない幾世期を満喫していた国だった。それは、ひたすら美的で、文芸的な世界だったが、一方で自国の歴史に対する好奇心は皆無で、相応の知的な探求心(ヨーロッパ人のイメージする数学、科学、哲学などに対してではあるが)は伴われなかったという。

この歴史に対する好奇心の差が我々イギリス人と古代日本人を分ける明確な相違点だというのだ。そして、強調すべきは「いまめかし」という当世風なものに対する熱狂的な興味であり、『万葉集』でさえ、清少納言や紫式部によって引用されることは稀で、引用しても「当代の人の目にかなわぬもの」という弁明つきであったという。催馬楽の流行もその「今めかしたるもの」の一端であったのだろうか。当時の日本は、ヨーロッパの言う一般的な知的基盤を持ちえなかった、それ故なのか、どこから見ても優雅で洗練された男女が中世のイギリスの人々の愚かさ以上の「幼稚さ」を見せていることに驚いている。多分、物忌みやまじないなどの迷信の氾濫や、書の上手さが信仰と化しているようなことを指しているのだろうけれど、こうした頼りなさが平安時代の不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出しているというのである。しかし、こうした視点も何故そう見えるのかを問うてみなければならない。

 


清少納言は、中級官僚の子、受領の娘であった。中宮定子に仕えた恐らく40人はいたと言われる四位・五位の家の娘の一人だったが、はじめから「清原元輔の娘」という大きなレッテルを背負っていた。歌の名手、当意即妙の猿楽言を得意とした父の娘である。漢学の素養があったことで知られるようだが、おそらく、清少納言程度の素養を持つ女房は他にもあったらしい。しかし、彼女の特質は定子を中心とした宮中生活を極めて肯定的にエンジョイしていた点にあると言っていいだろう。彼女は、ひたすら「をかし」の明るい世界を演出していた。


 

狩野安信 『三十六歌仙額』から清原元輔
江戸時代

清少納言は966年、三十六歌仙の一人で歌学者としても知られる清原元輔(きよはらのもとすけ/908-990)の娘として生まれた。母については分かっていない。『日本書紀』を編纂した舎人親王を祖とする家系であり、後に清原真人(まひと)姓を賜ることになるのだが、その清原姓を賜った二人のうちの一人が舎人親王の曽孫である清原夏野(きよはらのなつの)であり、『令義解』を編纂した一人である。また、曽祖父の清原深養父(きよはらのふかやぶ)は十世紀を代表する宮廷詩人であり、学問と文学とに造詣の深い家柄であったことは間違いない。

父親の元輔はひょうきんな側面を持つことで知られていた。今昔物語や宇治拾遺には、殿上人の物見車の立ち並ぶ一条大路で賀茂の祭りの使いとして通りかかった時の元輔の様子が描かれていて、冠を飛ばし禿げ頭をさらして落馬しながら、臆面もなく物見車に近づいて面白おかしく弁じたてたという。事実かどうかは別にして、この父親のひょうきんな側面を清少納言も受け継いでいたといわれる。それに定子の父、藤原道隆は軽口を好んだ大らかな性格で定子のサロンも当初そのような明るい雰囲気を持っていた(阿部秋生『清少納言』)。

清少納言の本名は分かっていないが、 981年頃に陸奥守であった橘則光(965-1028)と結婚し、一子、則長を出産するも離婚、後に藤原棟世(むねよ)と再婚し、一条天皇の二人目の皇后である上東門院彰子に仕えたことから上東門院小馬命婦(こまのみょうぶ)と呼ばれる娘を生んだといわれている。棟世が実父であり、元輔の養子になったのではないかという説もある。ともあれ、『万葉集』の講義や『後撰集』の選者として知られる父、元輔は、990年に亡くなり、その翌年、24歳頃に一条帝の最初の中宮(皇后)となった定子のもとに出仕することとなる。推定で定子より10歳くらい上、道長や公任とはほぼ同年と言われている。初めて定子のもとに出仕した時は、コチコチになってしまって涙もこぼれ落ちる寸前だったという。ただ、明かりに照らされた着物の袖からほんの少し見えた桃色の美しい定子の手に素敵な衝撃を受けるのだった。

 


僕が何故、折口信夫の著作を愛しているのかは、くどくど述べないけれど、彼が日本の古代に関する最高のストーリーテラーであったことは確かだと思っている。そんなことを中上健次氏が色々な著作で述べていることに僕はく賛成だ。このことは、宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』の中で少し書いておいたのでお読みください。次の章では折口信夫の「まくらことば」の絶妙な解説をご紹介する。


 

折口信夫の『枕草子解説』

里の巫女が山の神を迎えるという古来の神事は山の神の使いとしての男とその土地の精霊の代理としての巫女、つまり女とのある種の戦いとなる。外から来る異神との境決めとも関わるからである。この関係は、女が男を迎えるという歌垣という行事の発展とパラレルな側面をみせる。歌垣には、男と女が語らうという面より、争い、かけあい、ひやかし、折り合うという面が強く、物の交換が伴うために歌垣の場所は、市のたつ場所ともなっていった。

問答歌として二首で完結する五・七・七三句形式の片歌が使われたこのかけあい、いわば口争いは、男が女を手に入れようとする口どきを女の側がもどくという技の修練を催すようになる。やがて、片歌の一部が強調されて短歌ともなった。その女の側の修練が、女房文学を宮廷において発展させる端緒となるというのである。奈良朝におけるかけあいは、ある地方の物語が放浪者の持ち来る物語や歌とともに広がり、色々な地方の歌垣で使われるようになるに伴って自由で豊かなものになっていき、文学的にも洗練され、内容も民衆の心に適うものになり、文学として評価しえるようになっていった。平安朝の女房文学の基盤は、そのような経過を経て成立したのである。

折口信夫全集15 「枕草子解説」収載

歌物語と諺物語が、皇子たちの教育に役立てられていたために宮中では物語は重要なものだった。そのような中で短編物語が女房の日記、それ自身の歌から生まれていくこととなった。過去の歌、過去の諺を記録するかわりに自分の主人の為の代作歌をその次第とともに書き添えていく習慣が女房自身の抒情歌、実際に使われる相聞・唱和の歌とその詞書をも発達させた。かつてのみこともちの慣習は平安朝でも継承され、貴人は人を介して言葉をやり取りした。歌の場合も、女房の即席の歌が貴女自身の歌と考えられ、そのようにとっさに優れた歌を作れる女房を抱えることが、とりもなおさず貴女の評判を高めることとなる。女房は主人の意を汲んだ歌を作ったものと考えられ、それは主人の歌そのものとされていたのである。清少納言もそのような女房の一人であった。もっとも歌は苦手だと本人は言っていたらしい。

巻物の時代の後には「そうし」の時代がやってくる。草紙は二つ折りした紙の折り目の部分を糊ないし糸でとじる冊子である。それでは枕とは何かというと、文章の中心になって、その生命を握っている単語、あるいは句を指すという。「ことのはまくら」「まくらことば」の意味である。必ずしも文頭にくる言葉ではない。「まくらそうし」とは、文章に生命を与える言葉を書き付けるための草紙ということになる。まくら(枕)は魂、特に生魂(いきみたま)を蔵する場所であり、「まくらごと」は魂を込めて長上に献上する「よごと(寿言)」と同じ意味であった。長上に歌詞を奉ることは自分の霊威を奉献することであったからである。「まくら」の第一義は献上する歌詞の全体、第二義は、その歌詞の中の生命を握っている語ということになる。「まくらごと・まくらことば」については色々の説があるが、折口信夫の「霊魂論」の枠組みの中では、この語は確固とした定義と価値づけが与えられ、説得力がある。

女房たちは、「まくらそうし」を特定の貴族の子女のための手習いの材料として奉った。それは、教育の方便となるのである。ついでに言うと、本歌とりとは、ある歌のまくらを取り込んで新しい歌を作り本歌の持っている霊威を取り込もうとすることである。本歌とりの起こりは替え歌で、本歌の声楽的な霊威を取り込んで完全に移せるものと考えたのである。その時、まくらは必ず入れておかなければならなかった。その名残が、はやし詞であるという。手習いの材料が分量を増し、形を成してくると艶書集となる。恋文の指南書である。こうした艶書に熟達することは、貴公主。貴公子の世才、つまり「やまとだましい(才能・知識)」を殖やす有力な方法であった。

日本古典文学全集『枕草子』小学館 1997年刊

女房たちの書いた日記は、色々な意味を含んでいた。そこに書かれた歌には、女房自身の実感・境遇を詠んだ歌もあれば、代作したものもあり、男女の相聞・問答歌さえ実際の恋愛から生まれたものだけではなく、社交上の辞令で使ったものもあった。平安朝の日記は、教訓書であり、データボックスであり、有職典礼集、言行録、生活記録でありながら物語的な要素もあり、場合によっては家集でもあった。それは、広い意味の随筆であったという。平安後期王朝の女房日記、女房歌集には、このような要素が多く見られるのだけれど、清少納言の場合、「まくらごと」の配列が目に付く。同種類の「まくらそうし」のなかで清少納言の日記に属するものが著名となるに及んでその名をもっぱらにしたのだと折口さんは言う。

閉じおける枕ざうしの上にこそ昔語りの夢は見えけれ(『新選六帖』鎌倉中期の和歌集)

この歌からは「まくらそうし」が備忘録として考えられていたことが分かる。まくらごとを集めることによって自家の誇りや自讃歌を筆にまかせて書き連ねる。このような備忘録としての性格は清少納言の『枕草子』にもあって過去を回想する形の文章となっている。例えば「仰せらるるもをかし」の「をかし」という結びは、ある意味人の動作や目の前の情景を回想する形式にもなっているのではなかろうか。こうしたまくらごとを含んだ日記、総じて随筆的なものは、時間的に整理されたものではなく、書かれた材料にも決まった選択がない。ノートのように書き連ねられていて備忘録のようになる。それも、宮廷や貴族の家で実際に行われた年中行事、あるいは事件を描写する日記に対して、かなり誇張と文飾を加えた、もののあはれの日記とでも言うべきものであったという。フィクションも多分に含まれていた。

『枕草子絵詞』部分 鎌倉時代末
一条帝が石清水八幡への御幸の際に生母詮子に会う場面

一方で、『枕草子』に関して、宮廷生活の日記の部分を絵巻物にした『枕草子絵詞』として知られる作品が存在している。古典的生活を紹介する一種の行事絵巻としての有職絵であるが、そのために文章の一部が改変されている。当世風の『宇治拾遺』『信貴山縁起』その他、漫画的な絵巻にあるような智慧の勝利、をこなる男の失敗、歪んだ世相といったようなテーマはない。この『枕草子絵詞』のような物語日記絵は、かなり古典的な形式のものであり、描かれたのは過去の典型的な生活であったという。そのような生活を描く絵詞は日記のように備忘録としての性格を持っていた。しかし、ページをめくるという新機能を持つ草紙の内容が、絵巻という古い媒体へとフィードバックされている点で面白い。絵巻から草紙というテクノロジーの進化が人間の感覚のある部分を拡張したとするなら、ページをめくりながら絵巻の断簡を眺めいるような感覚だったかもしれないのだが。

当時は文章を書き写すしかコピーの手段はなく、原本も当然そう写した。そうするとしてもいくつかの章を抜粋した写本もあり、人によってその取捨選択は異なった。そのため幾通りかの抄本が存在するようになる。これは『源氏物語』などでも同様である。それに各個人の書き入れが挿入されたものもあり、場合によって書き換えさえあった。それが、作者複数説の所以でもある。完全なコピーを作ろうとする意図で写されない場合も多かったのだ。『枕草子』にもこのような異本があり、大きく分けて四種類の系統があると言われる。既に写す段階で編集および加筆がなされていた。現在、使われている『枕草子』のテキストは、その中でも原典に近いと考えられているものであることは言うまでもないだろう。

 


このように見ていくと『枕草子』が「まくらごと」を集めた辞書であり、その備忘録、事実やフィクションを織り交ぜた日記、歌物語でもあり、短編小説をも含んだ気ままに書かれた随筆であったことが分かる。それに加えて、写本の段階で多くの編集・加筆が行われていたのである。つまり、清少納言と読者とのコラボ的性格さえも持っていた。


 

私たちが『枕草子』を読む時、ありのままの日記であることを前提として、つまり、清少納言の感想つきの記録として読んでいないだろうか。例えば、286段(古典文学全集/小学館による)の「うちとくまじきもの」には、「船に乗って漕ぎまわる人ほど畏怖を感じさせるものはない」と油断のならない気の許せないものに関する一般論を言っているかと思えば、自分の乗っている船は「きれいに作ってあって‥‥まるで小さな家にでも乗っているようだ」と書いている。先ほどの津島知明さんの指摘にあるが、カタログのように書かれているかと思えばふっと体験談が挿入される。これをウェイリーらが英(仏)訳する場合、必ず誰が何時述べているのかという人称時称は確定されなければならない。そうなると現実の記録としての意味あいは絶対的なものとなる。ある意味これらの訳は現在の私たちの読みに近いものとなるだろう。しかし、原文のいわば、カタログへと一般論化しようとする拡張と現実の記録としての一点への収縮という呼吸のような振幅は失われるのである。

三田村雅子 編 『枕草子 表現と構造』日本文学研究資料新集4
 阿部秋生「清少納言」、三田村雅子「枕草子の笑ひと語り」収載

特に指摘しておきたいのは、道化役に徹した清少納言の中宮定子への愛情である。定子の父・藤原道隆が身罷り、その弟の道長に権力の座が移ると、後ろ盾をなくした定子は、徐々に落魄の憂き目を見ることになる。道隆の中関白家の明るい家風は前にも述べた。道隆在世中は定子を取り巻く中関白家の人々の屈託のない笑いが『枕草子』の中で総動員されているかのようだという。しかし、道隆亡き後、徐々に切迫する定子の周囲は笑うには暗い。その中で笑いを懸命に探そうとする清少納言の姿があった。笑いをとる人物は生昌、方弘、信経、宣方、則光、常陸介などに限定され、決まって最後に笑いを引き受けるのは清少納言自身のある種物狂おしいまでの姿なのである。そこに演出のドラマがあった(三田村雅子『枕草子の笑ひと語り』)。「まくらそうし」が献上することを前提とされていたのなら、定子の落魄を描くはずはない。歴史に対する無感覚を指摘するのは誤りと言えるだろう。定子の兄の伊周(これちか)とその弟の隆家が花山院に矢を射かけた事件、いわゆる長徳の変など書けなかったのである。

清少納言は、決して「我ぼめ」し「吹き語り」するだけの才女ではなさそうなのだ。三田村雅子さんは同じ著作の中でこう述べている。「『清少納言集』などによって知られる涙もろい一面を持ち、拡がりを持った現実の清少納言と、忠実でプライド高い女房役を演じる清少納言と、そのような演技を更に誇張し、切り取り、語り、書く清少納言と、すくなくともこの三層を意識化することなしに今後の枕草子研究はあり得まい」と

このような『枕草子』をヨーロッパの知識階級がどのように見たかはウェイリーの感想を見ていただければよいだろう。彼は『枕草子』を不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出す平安後期という時代の貴重なドキュメントとしてのみ見ていた。『枕草子』だけを通してそう思ったのかどうかは分からないけれど、清少納言の「日記」が如何なる性質を持っていたのかを知ることなしには、その時代を正しく理解するのは難しかったのではないだろうか。笑いの散りばめられた日記の背後に透けて見える文章は、ある種、鵺やキマイラの如き複合体なのである。

ことの葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな(清少納言)

 


このところ展覧会の準備ということもあってブログを書いてこなかった。最近は、とみに老眼が進んでメガネなしにモニターをみることができなくなった。ド近眼ならぬ、ド老眼なのである。3、4時間も坐っている腰が痛くなる。残念ながらリクライニングチェアはないので家の床に寝っころがっていると家内に掃除機で吸われそうになったりする。そんなこんなで前のように定期的に書くことは難しいかもしれないけれど、本があれば書くことに事欠くことはないのだから、興にまかせて時々は書きたいと思っている。でも、あまり期待しないでくださいね。

石を聴く― 天と地を結んでけつまずくもの

 

わたしは星が好きだ
道の上の石に似ているから
空をはだしで歩いたら
やはり星にけつまずくだろう

わたしは道の上の石が好きだ
星に似ているから
朝から晩までわたしの
行く先を照らしてくれる(イジ―・ヴォルケル『巡礼のひとりごと』栗栖継 訳)

 

瑪瑙  Ploczki Gorne, Kaczawskie Mts., Poland

今回は石がテーマですが、いろんな人が色々に書いているのが面白い。まるでカタログのように石について述べているのは澁澤龍彦の『石の夢』。博覧強記の人も色々いるけれど、ちょっと感心する。古代エペイロスの王であったピュロスの持つ宝石のうちの一つ、それは九人のミューズと竪琴を手にしたアポロンの姿を見ることのできる瑪瑙だった。プリニウスの『博物誌』の中の記述である。それは、自然に石理(いしめ)によって生じた模様であった。同じように『和漢三才図絵』の「瑪瑙」の項にも「その中に人物、鳥、獣の形有るもの最も貴し」とあり、こんな石の模様を人間の想像力と「類推の魔」が、意味ある形に捉えてしまうのは洋の東西を問わないらしい。

瑪瑙 Dendritic Agate from Ken River, Bundelkhand Region, India 描かれた樹のような模様を見ることができる。

「絵のある石」については、フランスの美術史家バルトルシャイテスの著書『アベラシオン』に例が沢山紹介されているし、僕は未見だけれどもカイヨワの『石の書』にもあるらしい。普遍博士とよばれたケルンのキリスト教神学者であったアルベルトゥス・マグヌスは石の中に形成される絵は星の影響だとしている。稀代の錬金術師でもあったから魔術や錬金術と占星術とが親和しているのは当然だった。ルイ13世の宮廷司祭であり、リシュリュー枢機卿の司書でもあり、並びなき東洋学者でもあったジャック・ガファレルは、パラケルススのいう「ガマエ」なる石が星と感応し、その降り注ぐ光を吸収して成長する生きた霊石だと信じていた。フランスの詩的な哲学者・科学者であったガストン・バシュラールは『大地と意志の夢想』の中で「黄金は土中の中で松露のように熟する。しかし、完全な熟成に達するためには数千年が必要である。」と書いている。大地が意志と結びつけられているのは良い。

アポロ・ミトラス神の頭部 ネルムート・ダー、トルコ

17世紀の驚嘆すべきエンサイクロペディストであるわれらがイエズス会士アタナシウス・キルヒャーにとって、地球は一個の有機体であり、鉱物も金属も燃える地殻の内部に生じるとした。ということは岩石火生説の立場ということになろう。かたや、ノヴァーリスの師であった鉱物学者アブラハム・ゴットロップ・ウェルネルは岩石水生説を標榜し、おびただしい石の標本を家族のように愛していたという。

石を愛した人は多い。明恵上人は白上峰の眼下にある鷹島と刈藻島から拾ってきた小さな丸い石を生涯手もとに置いて愛玩していたと言うし、『雲根志』を著した木内石亭は幼き頃より玉石を珍玩し、ユングは少年の頃、ライン河から拾ってきた楕円の石を上下絵具で塗り分けてポケットに入れて持ち歩いていたと回想している。誰しも少年・少女の頃の記憶の断片の中にこのような光景が、そっと忍んでいないだろうか。そのユングは「神々の生まれた場所と見做された石(例えばミトラ神の生まれた石)は、石の誕生を説く原始の伝説と結びついている(『元型研究』)」と書き、折口信夫は「神の容れものとしての石(『霊魂の話』)と書いていてぴったり符合するというのである。

 


ときとして、星々からふりそそがれた光線は(同じ本性であるかぎり)、最高所からおちてきた金属、石、鉱物と結合し、それらにすっかり浸みこんで、それらと結合する。このような接合にこそ、ガマエはその起源をもつ。(ヨハンニス・グラセット『カバラ化学の円型視象をめぐる自然生理学』)


 

宮澤賢治の『虹の絵具皿』

水生説と火生説ではないけれど、石の中には火と水がある。石の中の水を書いているのはカイヨワで「程よい大きさの瑪瑙は‥‥その内部が中空になっていて水が入っていることが分かる(『石』)」という。「水以前の液体」だというのだ。石を気長に磨り上げて水から一分というところまでで留めると石の中の魚が泳いでいるこの上なく美しい姿が見えるというのは「長崎の石」の民話である。一方、石の中の火を書いたのは宮澤賢治の『貝の火』で、子ウサギが贈られたのは中が赤や黄の焔をあげてせわしく燃える玉だった。そして、鉱石の百花繚乱というべき世界を言祝いだ彼の極め付けの作品は、十力(じゅうりき)の金剛石を描いたこの『虹の絵具皿』である。

ほろびのほのお 湧きいでて
つちとひととを つつめども
こはやすらけき くににして
ひかりのひとら みちみてり
ひかりにみてる あめつちは
…………………

(宮澤賢治『虹の絵具皿』より)

オパール(蛋白石) 火が見えるプレシャス・オパール

ある日、王子は光輝く蛋白石や大臣の子のいう虹の脚もとにあるルビーの絵具皿を探そう、あるいは山の頂上の金剛石を目指そうと出かけることになりました。霧が晴れて虹が立ちます。虹の脚元に行こうとするが虹は逃げるのです。また、霧が出ると「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。はやしのなかにふる霧は、蟻のお手玉、三角帽子のちいさなけまり」と歌うものがある。王子の青い大きな帽子につけられた雀蜂の飾りでした。彼らの案内で王子たちは、草の丘の頂上に立つ。あたりが明るくなると雨がざーと降りはじめ、あられに変わりました。それはみんなダイヤモンドやトパーズ、それにサファイアだったのです。賢治の描写が続きます。

「その宝石の雨は、草に落おちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどうの花は刻まれた天河石(アマゾンストン)と、打ち劈(くだか)れた天河石で組み上がり、その葉は、なめらかな硅孔雀石(クリソコラ)でできていました。黄色な草穂は、かがやく猫睛石(キャッツアイ)、いちめんのうめばちそうの花びらは、かすかな虹を含ふくむ乳色の蛋白石、とうやくの葉は碧玉(へきぎょく)、そのつぼみは紫水晶(アメシスト)の美しいさきを持っていました。そして、それらの中でいちばん立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は、茶色の琥珀や紫がかった霰石(アラゴナイト)でみがきあげられ、その実は、まっかなルビーでした。(『虹の絵具皿』)」

天河石(アマゾナイト)の結晶 コロラド、エル・パソ産

しかし、ダイヤモンドの露をしたたらせながら、りんどうは悲しげで、うめばちそうもこう歌います。「青空はふるい ひかりはくだけ 風のしきり 陽は織れど かなし」と。 そして、丘一面の草や花はいっせいに「十力の金剛石はきょうも来ず めぐみの宝石(いし)はきょうも降らず 十力の宝石の落ちざれば、 光の丘も まっくろのよる」と歌うのでした。さらにりんどうは、「十力の金剛石は春の風よりやわらかく、ある時はまるくあるときは卵がたです。霧より小さなつぶにでもなれば、そらとつちとをうずめもします」と語ります。と、俄かにスズメバチがキイーンと背中の鋼鉄の骨もはじけたかと思うほど鋭い叫びをあげると、とうとう十力の金剛石が降って来るのでした。かすかな楽の響、光の波、芳しく清い香り、透き通った風とともに、スズランの葉は今やほんとうに柔らかな、うす光する緑色となりました。賢治はこう書きます。

「ああ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかがやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹(あおたか)のように若い二人がつつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいたことはなぜでしょうか(『虹の絵具皿』)。」

 


涯もなく青空おほふはてもなき闇(くら)がりを彫(ゑ)りて星々の棲む

身がわりの石くれ一つ投げおとし真昼のうつつきりぎし(切岸)を離(か)る

(明石海人『白描・白描以後』より)


 

日本の石信仰

大洗磯前神社の神磯鳥居
二つの奇妙な石が出現し、その神霊が人に依って大己貴(おおむなち)命、少名彦命と名のった。その石が現われた大洗磯前の二柱降臨の地。

石が海岸に漂着するという寄り石信仰は常陸の大洗磯前神社などが有名であるらしい。それから石の成長する話、その類話は石が子を産む話だろうか。石女といえば不生女(うまずめ)という蔑称の感があるが、救いはあった。富士山の麓の子持石村にはその名の石があり、石の脇の穴を竹竿でくじると羽根つきの球くらいの石が転び出たという。土地の伝承では「子無き婦人が一七日(七日)の間、身を清く保ち、朔日(ついたち)毎にこの石を清浄な水に浸し、その水を服する時は忽ち子を孕む」と伝えられたと江戸時代の奇石収集家であった木内石亭は『雲根志』に書いている。同じ石を持ち上げた時の軽重によって事の成就を占う「天神石」の話も同書に載っている。いわゆる石占いである。それから、ナマズが地震を起こすのを押えているというかなめ石は常陸の鹿島明神にあるが、これなどは石の霊力のなせる業と考えられていた。それにもう一つの石信仰は、生殖器の形をした石の崇拝で、岐(さえ)の神と呼ばれる。道祖神を思い浮かべていただければ良いだろう。これが折口信夫のいう石信仰のラインナップである。

中国の石のイメジャリー

女媧 簫雲従(1596-1673)「天問図」より 岩峰に巻きつく人面蛇身の神

どうも同じような内容の話は、中国の神話・伝承にもあるようだ。ジン・ワンの『石の物語』には中国の石に関する神話・伝承が紹介され、『紅楼夢』『西遊記』『水滸伝』に共通する石のイメジャリーが展開されるという極めて興味深い内容の本になっている。その石の話は女媧(じょか)の伝説に集約されそうだ。

「女媧は人の頭と蛇の体をもっていたと言われ、一日に七十回『化』した(屈原『洪興祖』)。」さらに『山海経』には「女媧の腸(はらわた)という十人の神がいる。彼らは神の姿となり、栗広の野に住んで道をふさいだ」とある。エーリッヒ・ノイマンは、それがグレート・マザー元型を支配する女性性に具わる変形という特徴であり、妊娠と出産においてその働きを象徴しているという。そして、女媧は、黄色い土を固めて人を作ったが、それが重労働であったために今度は泥の中に縄を入れて引き揚げ、振り落とされた泥で人を作った。しかし、前者は富貴で聡明な人となり、後者は貧賤で凡庸な人になったと習俗、伝承を集めた後漢末の『風俗通義』に記録されている。人を産みだす神であった。

共工は顓頊(せんぎょく)と天子の座を争った時、勝てなくて怒りにまかせて不周山に激突した。天の柱は折れ、地の四隅を繋いだ綱が切れて大地は傾いた。そこで、女媧は五色の石を溶かして天を補修した(『淮南子』)。石の霊力を以って癒す神である。縁結びと子授けの地母神である高媒においては、その祭壇に石が置かれている。高媒は夏王朝では女媧または塗山、殷では簡狄、周では姜嫄と女性の始祖として呼ばれたという説がある。石は地母神の最古の象徴であるという。ちなみに塗山は禹の妻で熊の姿になった夫を見ると石に変身し、その石が裂けて子供の啓を産んだ。「啓」の意味は「ひらく」である。禹の出生には諸説あるが、『淮南子』には禹が石から生まれたとあり、その母は石に感応して彼を産んだという注もある。また、別のテキスト『史記』には禹の母が、流星が昴を貫くのを見て、夢で心に感じるものがあって彼を産んだとある。禹は舜帝から黒い玉(ぎょく)を贈られて治水の功績を天下に知らされることになる。別のテキストでは人面蛇身の神が玉のふだを彼に授け、それによって禹は水と土を治めるのである。こうなると多くが繋がってくる。

玉壁 祭祀用の最も重要な玉器(透閃石や緑閃石などの軟玉で造られる。これに対して翡翠は硬玉と呼ばれる。)

その他に、秦の始皇帝がはじめたとされる泰山に登り石を立て壇を築いて供犠を行う封禅、厄除け石として知られる石敢当、漁師の網にかかった成長する石、動くのみならず足の生えた石、子授け石である乞子石、音・音楽や言葉を発する鳴石、鏡のように光る照石や石鏡、僧の説法を聞いて頷く点頭頑石(これなどは可愛らしい)、そして石女が紹介されている。

 


別世界の書は別世界の話を伝え、
人と石は再びまったき一つのものとなる

(曹雪芹『紅楼夢』)


 

西遊記・紅楼夢・水滸伝を結ぶ石

四大部州の一つ、東勝神州の海のかなたの傲来(ごうらい)国、その近くの大海中に花果山という名山があった。その頂には仙石があり、高さ三丈六尺五寸は天周三百六十五度に準じ、周囲二丈四尺は暦の二十四気になぞらえられていて、九つの竅(きょう/細い穴)と孔(つきぬけた穴)は九宮と八卦に基づくといわれている。この石は天地開闢以来、日月の精華を受けて霊気を孕み仙胎を宿す。ある日、その石が裂け割れて石の卵が生まれ、そこから一匹の石猿が生まれた。御存じ孫悟空である。

金陵十二釵 林黛玉 費丹旭(1801-1850)
『中国歴代仕女集』より

女媧が石を鍛えて天のほころびをつくろった時、大荒山の無稽崖にて高さ十二丈、幅二十四丈の大きな荒石三万六千五百一個を精錬するのだが、その内一つだけが使われずに青挭峰の下に捨てられる。この石は、精錬によって霊性を備え、歩くことも大きさを変えることも自由にできたが、使われなかった悲しみに昼夜泣いていた。ある日、僧と道士が通りがかり紅塵の下界の話をしていると石は富貴の園、温柔の郷に遊び楽しみたいと頻りに頼み込む。話す石なのである。願いを聞いてやった二人は、その石を扇子の根付くらいの大きさの通霊宝玉という美しい玉(ぎょく)に変えてやった。一方、天上界の太虚幻境では神瑛待者(しんえいじしゃ)が霊河のほとりに生えた絳珠草(こうじゅそう)に甘露をかけてやったので女性の姿に変わることができた。神瑛待者は下界に降りることを望んだ。姿を変えてもらった女媧石の五彩に輝く通霊宝玉を口にくわえて賈宝玉(か ほうぎょく)として下界に生まれ変わる。絳珠草は、林黛玉(りん たいぎょく)としてその後を追い、大貴族の賈(か)家に集うことになる。白話(口語体)小説『紅楼夢』は、こうして始まるのです。

ジン・ワン『石の物語』 アメリカの比較文学研究者の著作。間テキスト性満載になっている。

蔓延する疫病を調伏するための祈祷を竜虎山に住む仙人張天師に願うために北宋の皇帝仁宗は、国防大臣にあたる大尉の洪信を遣わした。仙人に出会えた洪信は翌日、道教寺院である道観内で「伏魔殿」という額の掛った建物を目にする。腕の太さほどもある鎖で閉ざされ数十枚の封印とその上に押された珠印で厳重に封印された朱塗りの格子扉があった。かつて、老祖天師が魔王をその中に閉じ込めたのだと道士たちはいう。止める道士たちを押し切って洪信は扉を開けさせた。ただ、石碑が真ん中に一つあるだけだった。高さは五・六尺ほどで下には石亀の台座があり、松明で照らしてみても表側は古代文字で読めない、しかし、裏には「洪に偶いて開く」と彫られてあった。欣喜雀躍した洪信は警告などものともせず、台座の下の四角い石版を掘り出して除けると忽ち閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去ったという。その石版が「かなめ石」であり、それらの星が梁山泊の百八人の頭領たちだった。つまり、石が魔星を封じていた。

水滸伝における読めない文字が彫られた石碑のかなめ石は、天の意思として開かれることが定められていた。一方、『紅楼夢』の話は人間界で過ごした女媧石がその経験した事件の顛末を自らに刻んで石碑の如くとなる。その文字を仙道修行の空空道人が写し取って世に伝えたとされている。それに、宝玉がくわえて生まれる玉には、その裏に三つの文章が刻まれていて、その一つが「祟りを除(はら)う」であった。そして玉になる前の女媧石は大きくなることも小さくなることも話すこと歩くことさえ可能だった。それは、石の持つエネルギー、ある種の豊饒さにつながる。石猿の孫悟空が如意棒を自在に操り、多彩に変化(へんげ)する活躍にも、梁山泊の頭領たちの立ちまわりにもそのエネルギーを見ることができるだろう。中国のこの三小説に関連する広大なテキスト相関的空間を横断しているのは、特定可能な神話や儀礼の一団であると筆者のワンは述べている。気の核である石は女媧の伝説に集約されてそのイメジャリーを巡る円環が生じるように僕にも思えるのである。そういえば、文学の統合原理は穏喩と神話だと言ったのはノースロップ・フライだった。

 


石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。聴く者のひとりひとりの尺度に応じて、石たちは言語をもつ。聴く者のしりたがっていることを教えてくれる。石たちの中には呼びあっているように見えるものもある。ふと近づいてみると、石どうしが語りあっているさまにであうこともある。そんな場合、石たちの会話は、太古のもの、不滅のものの実質そのものを私たち自身の思念の鋳型に流しこむことによって、私たちの条件をのりこえさせてくれるというはかりしれぬ益をもつ。(アンドレ・ブルトン『石の言葉』巖谷國士 訳)


 

石を聴く

ヘイデン・ヘレーラ『石を聴く』2018年刊 とても詳しいイサム・ノグチの伝記

石に耳を傾け、太古のもの、不滅のものの実質をその作品の中に鋳込んだ芸術家、それが、イサム・ノグチだった。2018年にヘイデン・ヘレーラによる詳しい伝記が出版されている。1960年代の末、ノグチには四国の香川で石工の和泉正敏と運命的な出会いがあった。彼は花崗岩や玄武岩といった硬い石を彫りたいと考えるようになっていた。『黒い太陽』はブラジルから30トンの花崗岩を取り寄せ、高松近郊の庵治(あじ)で和泉をアシスタントとして彫られた素晴らしい作品だった。

同じく高松の牟礼(むれ)でノグチはこう語った。「自然石と向き合っていると、石が話をはじめるのですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです。‥‥」一方で石を彫る時のノグチは、石を征服しようとするかの如くで、そんな時には人が変るという。小さな子供なら近くによって話しかけられないほどの空気がみなぎるのだ 。あまりに顔を近づけて強く彫るので、石工たちは眼に石屑が入るのではないかと心配していた。実際、眼に入ってもノグチは、そんな心配を無視したという。1986年のヴェネチア・ビエンナーレの後、彼はインタヴューにこう答えた。「日本にもどり、石と向かい合ったら、石がともかくもぼくに語りかけてくれるだろう。ぼくは石の頭を叩く。石になにかを語らせるためなら、ぼくはなんでもするだろう。」

聴こえる人には聴こえるのだ。


さて、今回の石を巡るお話しはいかがでしたか。僕も石の話が聴こえる人になりたいと思った次第ですが、真のアーティストにしか与えられない特権かもしれませんね。しかし、石が語るのは天界の秘密だったのでしょうか。最後に、石に関する僕の最愛の詩をご紹介して終わりましょう。

 

きょうは こどもを
ころばせて
きょうは お馬を
つまずかす。
あしたは 誰が
とおるやら。

田舎のみちの
石ころは
赤い夕日に
けろりかん。(金子みすゞ『石ころ』)

 

矢崎節夫『童謡詩人 金子みすゞの生涯』やさしさの倫理とリヴァースする視線

金子みすゞ(1903-1930/本名 金子テル)
大正12(1923)年5月3日撮影 本書より

昭和二年の夏、西条八十(さいじょう やそ)は所用で九州に向う途中、下関のプラットフォームに降り立った。彼が高く評価していた童謡詩人と会う約束をしていた。プラットフォームには、それらしい人影はなかった。関門海峡を渡る連絡船に乗るためにあまり時間はない。構内を懸命に探した彼は、ほの暗い一隅に人目をはばかるように佇んでいる、一、二歳くらいの我が子を背負った彼女を見出した。二十二・三歳くらいのつくろわぬ蓬髪に普段着姿の彼女は、裏町の小さな商店の内儀のようであったという。手紙では饒舌で十枚近い消息をよこす彼女は、意外にも寡黙だったが、黒曜石のような瞳だけが雄弁に輝いていた。「お目にかかりたさに、山を越えてまいりました。これからまた山を越えて家へ戻ります」と彼女は言う。彼女と言葉を交わす時間よりも、その子の頭を撫でている時間のほうが長かったようにも思われる。何事も語る暇もなく分かれたが、連絡船に乗り移る時、彼女は群衆の中でしばらく白いハンカチを振っていた。が、間もなく混雑の中に消え去ったという。

彼女の名前は金子テル。大正12年6月、テルは、『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星(金の船から改名)』という四誌に童謡詩を投稿してみた。その頃、童謡・童話の世界は驚異の発展を見せていた。大正7年、鈴木三重吉編集の月刊『赤い鳥』が、子供達のための芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動として発刊される。それに呼応したのは、泉鏡花、徳田秋声、高浜虚子、有島武朗、芥川龍之介、島崎藤村、谷崎潤一郎、佐藤春男、菊池寛、北原白秋、そして西条八十ら、錚々たるメンバーだった。

翌年、斉藤佐次郎によって『金の船』、その翌年にも千葉省三によって『童話』が生まれ、三大童謡・童話雑誌が出揃うこととなる。大正14年にはラジオ放送も始まり、白秋の『からたちの花』『待ちぼうけ』、雨情の『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』などがラジオで放送されるようになった。雑誌が文化を牽引した時代だったのである。『赤い鳥』の選者は北原白秋が、『金の船』は野口雨情、『童話』は西条八十が選者だった。彼らは、これらの雑誌に盛んに作品を発表し、自らが投稿欄の選者を務め、その評も書いた。希望に溢れる若い読者がそれに呼応しようとした。大正デモクラシーの良き時代であった。下関の商品館の一角に書店の小さな出店を任されていたテルは、そんな読者の一人だった。

テルは西条八十の詩の世界に惹かれた。この本の著者である矢崎節夫(やざき せつお)は八十とテルの作品世界の共通性を挙げている。

蟻 蟻 寂しかろ
はこべの葉っぱに ついてきた
道権山の 黒蟻を 神田の通りで 放したが
蟻 蟻 寂しかろ 路がわからず さびしかろ (西条八十『蟻』大正9年)

思いだすのは雪の日に 落ちて砕けた窓硝子
あとで あとでと思ってて ひろはなかった窓がらす
びっこの犬をみるたびに もしやあの日の窓下を とほりやせぬかと思っては
忘れられない、雪の日の 雪にひかった窓がらす(金子みすゞ『硝子』)

西条八三(1892-1970)

ここにあるのは、小さな者たちへの眼差しとやさしさゆえに生まれる倫理性というべきものであろうか。テルのペンネームは「みすゞ」という、篠竹のことを指すけれど、もともと「信濃の国」にかかる枕詞である「みすゞ刈る」に由来すると言われる。だが、筆者は、万葉集の「信濃」の国にかかる枕詞は「みこも刈る」であり、この「みこも」を江戸時代に賀茂真淵が「みすゞ」と読み間違えたために普及した言葉だという国文学者の稲岡耕治の説を引いている。アララギ派の詩人は、この「みすゞ」を好んで使っていたというのだ。

投稿してから三ヶ月後、みすゞは逃げ出したいほどの気持を抑えて、9月号の雑誌のページを開いた。『童話』には彼女の作品『お魚』『打ち出の小槌』が、『婦人倶楽部』には『芝居小舎』が、『金の星』には『八百屋のお鳩』が、『婦人画報』には『おとむらい』が入選していた。特にこの『おとむらい』は童謡欄ではなく抒情小曲欄に掲載されていて、後に西条八十編による『現代抒情小曲選集』に選ばれている。みすゞの作品は、優れた童謡詩人のそれとして、このように最初から受け入れられていたのである。

海の魚はかわいそう

お米は人につくられる
牛は牧場で飼われてる
鯉もお池で麩をもらう

けれども海のお魚は
何にも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる

ほんとに魚はかわいそう(金子みすゞ『お魚』)

クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)詩
『とんでいけ海のむこうへ』バーナデット・ワッツ画

この『お魚』ともう一つの『打出の小槌』について西条八十は『童話』誌の選評にこのように書いている。「言葉や調子の扱い方にはずいぶん不満の点があるが、どこかふっくりした温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じはちょうどあの英国のクリスティーナ・ロセッテイ女史のそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力していただきたいとおもう。」クリスティーナ・ロセッティはあのラファエル前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹にあたる。やはり詩人で童謡詩も多い。興味深いので、みすゞの作品と比較してみていただきたい。

 

もしも ネズミが空をとべて
もしも カラスがすいすいおよげて
もしも 魚があるいたり
おはなししたりできるなら
わたしだって
ねずみやカラスや魚になってみたい

ネズミが空をとべたなら
とおくへとんでいってしまいそう
カラスが水の中をおよげたら
灰色にかわってしまいそう
魚があるいたり おはなしできたら
さあ いったいなんていうかしら ? (クリスティーナ・ロセッティ『とんでいけ海のむこうへ』より 高木あきこ訳)

 

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)は速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。(金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』)

 

上 海上アルプスと呼ばれる青海島  下 仙崎の街と仙崎港

金子みすゞは、明治36年(1903)山口県長門市仙崎に生まれた。日本海に面した漁師町である。向いには、海上アルプスと異名をとり多くの文人が訪れた風光明媚な青海島(おおみしま)がある。大型の真鰯である大羽鰯の獲れるシーズンには町は祭りのようになったという。土佐の津呂、紀州の太地とならぶ捕鯨基地でもあった。このような漁業を基盤にみすゞの生まれた明治の末から大正にかけて小さな町にもかかわらず芸者が三、四十人もいて、遊郭も七、八件あるような豊かさを誇っていたようだ。

父庄之助、母ミチの長女として生まれた。その父は下関の上山(うえやま)文英堂という叔母フジの嫁ぎ先であった書店の支店長として清国にある営口という町に赴任した。大連の近くだが、折からの反日運動によってこの営口で殺害される。テル(みすゞ)が三歳になろうという時だった。兄弟は、兄の堅助と弟の正祐(まさすけ)がいたが、叔母フジと嫁いだ上山文英堂の店主であった上山松蔵との間には、子供がなく、当時一歳だった正祐が養子に出された。それが悲劇の序章となるのだが、まだ誰も予想だにしなかったことである。

それらの関係もあってのことだろうが、金子文英堂という書籍と文房具を売る近辺の大津郡で唯一の書店を開業することになる。祖母ウメ、兄堅助、母ミチ、そしてみすゞとの四人暮らしだった。母は物静かで賢く美人で鈴を震わせるような声であったという。丁稚にさえ「あなたは本屋さんにきたのだから、本をたくさん読みなさい」と言ったような人で、文学志望する彼に「雲が流れる」という文章には何通りもの書き方があるのだと教えたとも言われている。店には、いつも子供たちの笑いが絶えなかった。

「母さま私は何になる。」
「いまに大きくなるんです。」

杉のこどもは想います
(大きくなったらさうしたら
峠のみちの百合のよな
大きな花を咲かせよし
ふもとの藪のうぐひすの
やさしい唄もおぼえよし‥‥‥。)

「母さま、大きくなりました
そして、私は何になる。」
杉の親木はもうゐない
山が答へていひました
「母さんみたいな杉の木に。」(金子みすゞ『杉の木』「童話」大正14年6月号に掲載)

みすゞは瀬戸崎尋常小学校、大津高等女学校を卒業した。級友たちは異口同音に彼女の優しさ、人の悪口を決して言わない性格の円満さ、笑顔の美しさ、頭の良さを指摘している。一度、先生にあてられて答えに窮していた時、ふと見るとみすゞは居眠りしている。あたらなければよいがと思っていると「金子さんはどうですか」と先生は問う。すると眠っていたはずの彼女は、すっくと立ち上がってすらすらと答え、級友たちをあっと驚かせた。「こっくり正解物語」は、一度ではないらしく下級生にも知れ渡っていたという。

大正7年、叔母のフジが亡くなった。翌年は、みすゞが女学校を卒業した年にあたるが、妻フジを亡くした上山松蔵と母ミチとの再婚が決まった。その後、兄堅助が結婚し、みすゞは、上山文英堂の手伝いをするために母のいる下関に移った。文英堂は、下関の中心部にあり、店員が常時5,6人いる比較的大きな書店で、洋書も扱い中国の営口や大連にも支店を持っていた。日露戦争当時は日本人が多く中国に進出し、日本の書籍に飢えた時期があって、成功を収めた。みすゞはというと、商品館と呼ばれた幅2.5メートルの道の両側にずっと小さな店の並ぶ一角にあった文英堂の支店を一人任されていた。好きな本に囲まれ、好きな時に好きな本が読め、童謡を書く時間も持てる。立ち読みしてもにっこり笑って怒らない、一緒に並んで読ませてくれるお姉さんに子供たちは、すぐになつくようになった。この頃、みすゞが童謡を童謡誌に投稿するようになる時期なのである。

矢崎節夫『童謡詩人金子みすゞの生涯』

筆者の矢崎節夫は、1947年東京の生まれ。早稲田大学英文科を卒業。詩人の佐藤義美、まど・みちおに師事した。佐藤義美さんと言えば『犬のおまわりさん』、まどさんと言えば『ぞうさん』という童謡を作詞した人として知られる。日本人なら誰でも知っている童謡である。ちなみに、まどさんは「詩は自分のなかの自分が書き、童謡は自分のなかのみんなが書く」と語った人だ。矢崎さん自身も1975年に『二十七ばん目のはこ』で児童文学学会賞、1982年には『ほしとそらのしたで』で赤い鳥文学賞を受賞している。

矢崎にとって金子みすゞは、10代の終わりからずっと憧れの存在だったという。ずっと時代は遡るけれど、童謡を雑誌に投稿し続けていた彼女は、当時、多くの若い読者たちの憧れの的でもあった。彼は、時という塵に覆われた彼女の作品を1960年代半ばからずっと探し続けていたという。端緒は、大学一年の時に『日本童謡集』の中に収録された『大漁』という詩を読んだとき、自分の中心と思っていた目の位置を逆転させられるほどの激しく、優しい鮮烈さを味わったという。それまで知っていた童謡の作品は全て消え去った。次にもう一つの作品を知ったのは大学のアルバイトで佐藤義美の所に原稿を取りに行った時である。佐藤は、みすゞと同じ時代に童謡誌に投稿していた人だった。しかし、みすゞ探しはいっこうに進展しなかった。1982年のこと、試しにと思い下関の書店のことを知人に調べてもらったのだが、偶然にも実弟上山正祐うえやま まさすけ)氏が東京の劇団若草で働いていることが分かったのである。こうして金子みすゞの生涯と作品が奇跡的に明らかとなる。その生涯を綴ったものが本書であり、それによって矢崎氏は日本児童文学学会賞を、『金子みすゞ全集』を編纂したことによって同特別賞を受賞されている。

 

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。(金子みすゞ『大漁』大正13年)

 

しかし、事態は一歩一歩破局へと進んでいった。上山文英堂に養子に行った正祐には、養子であることは厳重に伏せられていた。したがって、みすゞが実の姉であることは知らずに恋心をいつしかいだくようになる。文学や作曲について話のできる女性、みすゞの兄と共にある種の文化サロンのような集まりもできるようになった。しかし、周囲はあわてはじめた。特に正祐の父親である松蔵は、みすゞの結婚を早めたかったのである。正祐は、「好きな人はいないのか」と詰め寄ったが、みすゞは「仕方がないの」、好きな人は「黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」と謎の言葉を漏らすだけだった。結婚相手として白羽の矢がたったのは宮本啓喜という上山文英堂書店の手代格の男だった。父親の松蔵としては息子の正祐が店を継げるようになるまで店を任せられる人間と考えていたようだ。

大正15年(1926)にみすゞは結婚した。夫の宮本啓喜は、1901年に熊本の酒屋と氷の卸業を営む家に生まれたが、母を亡くして後添えが実家に入ると家を飛び出すように博多に出て株屋に奉公した。当時は第一次大戦中の好景気で儲かれば遊郭で遊ぶ青春だった。しかし、大戦が終わると経済破綻と不況の時代がやってくる。結婚の2年前には、博多で遊郭の女性と心中事件も起こしていた。下関に渡って、大正14年に上山文英堂に勤めたのである。商売のうまさを店主の松蔵に買われた。

金子みすず『繭と墓』 壇上春清 編 金子みすゞと同時代の投稿詩人によって編集された初めてのまとまった詩集だった。1970年刊

養子であることの事実を知った弟の正祐は父親の松蔵にいっそう反抗するようになり家を飛び出した。松蔵は家出の原因をみすゞと宮本啓喜との不仲にあると思い、啓喜に当り散らし、夫婦二人は文英堂から出ていくことになる。一旦は松蔵と宮本の仲は修復するが、他の女性問題が浮上して、松蔵はみすゞと宮本を離婚させようとした。しかし、彼女は子供を宿している。この年、西条八十の渡仏に伴って童謡誌への寄稿を控えていたみすゞの詩は、その帰国とともに再び掲載されるようになるが『童話』誌そのものが突然廃刊になってしまう。一方で、大正15年7月には童謡詩人会編の『日本童謡集一九二六年版』に彼女の『大漁』と『お魚』が選ばれるという快挙を果たしている。みすゞが西条八十と下関の駅で会ったのは、この翌年のことだった。こうして、みすゞは「童謡詩人会」の一人として迎えられるのである。与謝野晶子に継ぐ女性会員であった。

 

蚕は繭に
はいります。
きゅうくつそうな
あの繭に。

けれど 蚕は
うれしかろ
蝶々になって
飛べるのよ。

人はお墓へ
はいります。
暗いさみしい
あの墓へ。

そしていい子は
翅が生え
天使になって
飛べるのよ。(金子みすゞ『繭と墓』)

 

一度、夫婦二人は熊本に里帰りした後、下関に戻って駄菓子屋とくじの景品につくおもちゃ卸業を始めた。しかし、夫の花柳病である淋病に感染したみすゞは娘のふさえと一緒に風呂に入ることもはばかる状態となり昭和3年には一時病床に伏せった。夫から童謡を書くことや投稿仲間からの多くの手紙に返事を書くことを止められていた。この頃、正祐は上京して文芸春秋社に就職している。みすゞの手紙が編集長の古川緑波を動かしたようだ。夫の啓喜は遊郭遊びが再燃し、家に金も入れず他に好きな女性をつくっていた。『みんなを好きに』や『私と小鳥と鈴と』は、結婚してからの作品だという。それらの作品とは、うらはらに夫婦仲は険悪になっていった。昭和4年から三冊の自らの童謡集を清書し始める。娘は3歳になり、その片言のおしゃべりを『南京玉』と題して記録するようになった。その年までに遊郭の周辺を4回もの転居を繰り返し、みすゞの体調は悪化していった。

今野勉『金子みすゞ ふたたび』

昭和5年、みすゞは宮本啓喜との離婚を決意し、上山文英堂の近くに別居する。夫は、離婚話に乗ったが娘は引き取りたかった。昭和5年には離婚届が提出された。啓喜は仕事もうまくいかず、娘か金かという要求をつきつけたが、みすゞは拒絶する。やがて、期日をきって3月10日に娘を引き取りに行くという強引な手紙がくる。3月9日、みすゞは、親しかった知人に会い、写真館で自らの写真を撮影してもらった。娘と沢山の童謡を唄ったあと寝付いたの見さだめて、文英堂の二階の奥の部屋に入り、三通の遺書を書いた。夫には「あなたが、ふうちゃん(娘のふさえ)に与えられるのは、お金であって、心の糧ではありません。ふうちゃんは心の豊かな子に育てたいのです」と書いている。もう一通は弟の正祐宛てで、母には、こう書いた。「主人と私は気性が合いませんでした。それで、私は主人を満足させるようなことはできませんでした。主人は私と一緒になっても、他で浮気をしていました。浮気をとがめたりはしません。そういうことをするのは、私にそれだけの価値がなかったからでしょう。また、私は妻に値する女ではなかったのでしょう。ただ、一緒にいることは不可能でした。」そして、睡眠薬のカルモチンを飲んだ。芥川龍之介が、それで自殺したことで知られる薬だ。こうして、26歳の彼女は旅立ったのである。

当時のならいとして、女性の立場とは、このようなものであったかもしれないが、童謡詩人として名を馳せようとしていた文学を目指す人間と商売に奔走し遊興に馴染んだ夫とは相いれるはずもなかったのである。そして、みすゞの性格では、結婚を拒否できなかったし、それらのことで人を非難できなかった。それは彼女の精神的な基盤を形成している何かだろう。それなくして、このような詩は生まれなかった。それもやさしさの倫理というべきものであった。刃は自らに向けられたのである。娘の将来を案じてでもあろうが、夫との価値観の相違を訴える手段でもあったろう。それを考える胸が詰まる。

 

流れの岸のみそはぎは、
誰も知らない花でした。
ながれの水のはるばると、
とおくの海へゆきました。

大きな、大きな、大海で、
小さな、小さな、一しずく、
誰も、知らないみそはぎを、
いつもおもって居りました。

それは、さみしいみそはぎの、
花からこぼれた露でした。(金子みすゞ『みそはぎ』)

 

みそはぎ(禊萩の名に由来する)

演出家で脚本家である今野勉(こんの つとむ)氏は、独自に金子みすゞの生涯を追った『金子みすゞ ふたたび』を著しているけれど、そこで、いくつかの疑問点を提起している。ひとつは、当の3月10日に夫の啓喜は東京にいて、みすゞの死の知らせを受け取り弟の正祐と下関へ向かっていることだった。そして、弟の正祐は、自殺の責任が全て夫の啓喜にあるとは思っていなかったという。啓喜自身は、麻雀と芝居好きで、後年の彼を知る人は酒の飲めない温厚な人柄だと語っている。みすゞの父親の命日が2月10日であったことから、その10日を選んだのではないかという推測もあった。その自死については謎がある。娘のふさえは、松蔵が啓喜の父親に懇願の手紙を出し、結局みすゞの母ミチによって育てられることになった。

確かにみすゞの詩は、童謡という枠からはみ出てしまっているようなところがある。『海を歩く母さま』という、こんな逼迫した悪夢を見るようなイメージは、うちの母様はえらいという言葉にまとめあげられているのだが、何かを暗示している。何だろうか。彼女の詩には、虫の目や鳥の目、リヴァースする驚異的な視線があり、スケーリングする輪廻さえある。しかし、詩についてあれこれ述べるのは控えたい。谷川俊太郎さんが、まど・みちおさんの詩について語ったように「その詩について、さかしらに物言えば言うほど、自分がアホに思えてくる」のだから。

 

母さま、いやよ、
そこ、海なのよ。
ほら、ここ、港、
この椅子、お舟、
これから出るの。
お船に乗ってよ。

あら、あら、だァめ、
海んなか歩いちゃ、
あっぷあっぷしてよ。
母さま、ほんと、
笑ってないで、
はよ、はよ、乗ってよ。

とうとう行っちゃった。
でも、でも、いいの、
うちの母さま、えらいの、
海、あるけるの。
えェらいな、えェらいな。(金子みすゞ『海を歩く母さま』)

 

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ『星とたんぽぽ』)

 

今回は久しぶりに本の紹介をしました。前回の歌謡のようにある程度全体を俯瞰するためには色々な材料が必要になるからです。今回は、自分のブログのための栄養補給ということになるでしょうか。機会があれば、またご紹介しますね。

金子みすゞの全集は『童謡詩集シリーズ』と『童謡全集』がある。コンパクトな『豆文庫』などもあるが、かなり色々な分野の人たちがみすゞについて書き、語っている。その中で矢崎氏が聞き手となっている『金子みすゞをめぐって』1,2,3と『あしたのジョー』の作者として知られる漫画家のちば・てつや氏が絵を添えた『わたしの金子みすゞ』をご紹介しておく。

『金子みすゞをめぐって』1,2,3 聞き手 矢崎節夫

ちば・てつや『わたしの金子みすゞ』

「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そして

文机房隆円『文机談』13世紀 宮内庁ホームページ

11世紀になると「今めかしたる」歌が一世を風靡し始める。「今様」である。催馬楽が徐々にその地位を今様に明け渡しはじめるのである。今様は、当時の最新流行のポップスであった。都市という生活環境が発達を見せ、人々が経済的余裕と余暇を持ち始めれば、芸謡を行う人々がそれを生業にしやすい環境が整っていったのである。『新猿楽記』には、熱狂する市井の姿が生き生きと描かれていた。それらの歌を傀儡女(くぐつめ)、遊女、白拍子などが歌ったのだが、その辺りのことは、沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』踊る大黒に三番叟に書いておいた。ちょっと、つけ加えておくと、遊女らは白拍子という素拍子で舞うのだが、もともと男巫(おとこみこ)たちの舞であったから巫女(みこ)の舞とは違って荘重なものであった。従って遊女たちが白拍子で舞えば自ずと男装ということになる。もともと白拍子に男装と神事性は欠かせないという(林屋辰三郎『歌謡と芸能』)。

梁塵秘抄

13世紀、琵琶奏者であった文机房隆円が対話形式で書いた琵琶の歴史物語『文机談』には、「そのころの上下、ちとうめきて頭(かしら)ふらぬ人はなかりけり。上の好む時、下の従わざる道なし。諸道の興廃は、ただ時の静謐なりとぞ申すめる」と書かれていた。この「うめきながら頭を振っていた」人のうちで最も知られた人は後白河院である。もっとも、古代中国の虞公(ぐこう)や韓娥(かんが)のように歌声の響で梁のうえの埃を舞いあがらせていたのかどうかは分からない。父親である鳥羽院も催馬楽を好んで歌っていたというから血筋だろうか。藤原俊成に『千載和歌集』を勅撰させたことでも知られる人だが、俊成の和歌に関する『俊成口伝』にならって『梁塵秘抄口伝集』全十巻を著し、勅撰歌詞集十巻を併せて『梁塵秘抄』二十巻とした。

後白河院『梁塵秘抄口伝』写本 国立国会図書館蔵

後白河院は、嘉応元年(1169)には、出家し、法皇となっている。33度に亘る熊野詣や京都内外の寺社への参詣、東大寺、比叡山での受戒など仏教への傾倒も一通りではなかった。しかし、重要なことは瓦坂法印家寛(かわらざかほういん かかん)に師事して声明にも研鑽を深めていたことである。言霊にも声霊にもシュプラッハ・ゲシュタルトゥング(振動が形態を形成するクラドニ図形と関係している)にも浸かっていたのである。「たとひまた今様うたふとも、などか蓮台の迎へにあづからざらむ」と一音成仏ならぬ一声成仏を確信していた。遊女でさえ一念の発起あれば極楽往生しうるし、法文の歌自体経文の尊い文章から離れたものではない、例え、世俗の文字の業であっても仏法を讃嘆する縁となり仏法を広める因ともなろうというわけである。

仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ(仏歌二四首より)

親鸞筆 『三帖和讃』 専修寺蔵

『梁塵秘抄』勅撰歌詞集の現存する巻一と巻二のうち巻二には法文歌220首、四句及び二句の神歌325首が収められている。法文歌には天台教学を軸とした法華経、浄土教、真言密教に関する内容が見られる。もし、今様が単なる流行歌謡でしかなかったのなら、後白河院のような知識人が終生夢中になるほどの意義は担い得なかったかもしれない。熊野参詣の折りの様子が『口伝』に次のように述べられていた‥‥法楽もの、長歌、心の今様、神歌などを歌いすませて、暁方皆人がしずまり、心澄ませて伊地古を歌っていると両所権現の内、西の御前からえもいわれぬ麝香の芳しい香りがしてきた。と、宝殿が鳴動しはじめ、御簾がそれをかかげて人が入ってくるかのように動いた。やがて、御神体の鏡が鳴り合って長い間揺れるという奇瑞があった。今様の歌唱が優れたものならこのような宗教的な奇瑞や霊験が起こることが、後白河院にとって、ともかくも現実であったのだろう。院が亡くなって50年後に親鸞が、日本語による声明の中でも最も秀逸とされる浄土和讃を作り上げる。

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし(雑法文歌 五十首より)

後白河院がまだ、帝位にある31歳頃、今様の師として五条の尼とも呼ばれていた乙前(おとまえ)を迎える。現在の岐阜県大垣付近である青墓出身の傀儡女(くぐつめ)であったが、その系譜をたどると目井、四三、なびき、小三、宮姫とだどることができるという。既に高齢であり、数度に及び辞退したが聞き入れられなかった。10数年を費やして専門的な歌曲の習得に励んだという。84歳の重篤の彼女を院が見舞った際、院自ら薬師如来の難病治癒の今様を歌い、乙前を感涙させたのであった。梁塵秘抄の四句神歌(しくのかみうた)のうち雑の歌は、とりわけ庶民の暮らしを彷彿とさせるような面白い歌が多い。巫女は目よりも上で鈴振りせよとか、山田の番小屋の鳴子や砧を打つ音が澄みわたるとか、天魔が八幡神に前世の報いで髪が生えないんでしょとちょっかいを出す歌とか、亀を殺(あや)め鵜の首を絞める鵜飼の後生を心配する歌だとか、恋路は陸奥へ駿河へと思いは千里を走るなどなど‥‥有名な歌をご紹介しておこう。

遊びせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(三五九)

舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 実(まことに)美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん(四〇八)

頭(こうべ)に遊ぶ頭虱(かしらじらみ)項(おなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食ふ
櫛の歯より天降る 麻笥(をごけ/曲げわっぱの桶)の蓋にて命終はる(四一〇)

 


宮廷歌謡は、中央や地方の氏族の長またはその代理による天皇に対する寿歌(ほかいうた)と彼らが服属の儀礼として歌った宴会歌謡に大別できる。そのために地方からの風俗(ふぞく)歌が宮廷に集うことになるのであった。神楽歌や東遊(あづまあそび)での歌謡が引き継がれて、そこに唐楽などの外来の音楽が和風化されながら醸成されていったものが催馬楽であった。他にも踏歌、朗詠などもあったが、やがて新たなムーヴメントとしての今様が勃興した。そして、16世紀初頭・室町中期には、小歌(こうた)の時代がやってくるのである。


 

小歌とは何か

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

小歌の歌詞集である閑吟集は、古代中国の歌詞を集めた毛詩三百余編にならって三百十一首よりなり、さながら連歌のごとく関連性を持たせた構成になっている。当時、連歌は最盛期にあったが、それについては、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておいた。この『閑吟集』を誰が編集したか分かっていない。各首には小、大、近などの略符がつけられていて、それぞれの出自を指している。それは、このような種類と数になっていた。小歌231、大和節48、近江節2、田楽節10、吟詩句7、早歌8、放下歌3、狂言小歌2という割合である。小歌とは、陰暦11月、宮廷での五節の帖台の試み、つまり新嘗祭(または大嘗祭)に行われる女楽の儀式であるが、そこで典雅に歌われる大歌に対する歌で、もともと歌曲の名ではなく演ずる楽人である小歌女官のことを指していたという。古くからあるもので、それらの席で歌われた歌謡が、女房たちによって儀式以外の席でも歌われるようになり、それが遊女、傀儡女、白拍子たちによって広く伝搬されていくことになるのである。大和節は大和猿楽、近江節は近江猿楽、田楽節は田楽能、吟詩は杜甫、温庭筠、蘇軾らの詩を取り込んだ漢詩風のもの、早歌は宴曲の一節が、放下歌は散楽系の大道芸などと共に歌われた歌が、狂言小歌は勿論狂言から引用され小歌風にアレンジされた。

閑吟集と謡曲

小歌の曲節、つまり曲調や節回しは、世阿弥の『申楽談義』に見られる「小歌ぶし」の流れを引くと言われる。世阿弥については、能勢朝次『幽玄論』part2 世阿弥に書いておいた。観阿弥以前の猿楽では、優美な旋律と拍節不定の自由なリズムを持つ当時の流行歌である小歌の曲節を軸にしていたが、それに白拍子系統の曲舞(くせまい)の音曲を加味したのが観阿弥だった(徳江元『閑吟集解説』)。新たな謡曲が、曲舞の音曲と小歌とがクロスオーヴァ―することによって生まれたのである。

木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても
なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば
いま幾日(いくか)ありて摘ままし
春立つと いふばかりにやみ吉野の 山も霞て白雪の
消えし跡こそ 路となれ(『閑吟集』四)

この小歌は大和節、つまり大和猿楽から生まれた謡曲『二人静』の一節からとられている。それは、もともと古今集の読人知らずの歌や新古今集の藤原良経らの歌を綴れ織りのように繋ぎ合わせたものだった。以下のような歌ですが、謡が作られていく過程において駆動するこのぞくぞくするような編集力はまさに偉大という他はない。謡曲の合成過程を上手に描いてくれる本がぜひ欲しい。

霞立ち木の芽春雨ふるさとの 吉野の花も今や咲くらん(後鳥羽院)
春日野の飛火(とぶひ)の野守出でて見よ 今幾日(いくか)ありて若菜摘みてん(読人しらず)
春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞て今朝は見ゆらむ(壬生忠岑)
み吉野は山も霞みて白雪の ふりにし里に春は来にけり(藤原良経)

その他に謡曲から引用された作品として『俊寛』『鞍馬天狗』『鵜羽(うのは)』『籠太鼓(ろうだいこ)』『春日神子』などがある。

春過ぎ夏闌(た)けて又 秋暮れ冬来るをも 草木のみただ知らするや
あら恋しの昔や 思い出は何につけても (『閑吟集』二百二十/謡曲『俊寛』)

西楼に月落ちて 花の間も添ひはてぬ 契りぞ薄き灯火の
残りて焦がるる 影恥ずかしきわが身かな (『閑吟集』二九/謡曲『籠太鼓』)

僕の大好きな能楽師である観世喜正さんがシテ役で謡う『二人静』から「菜摘の女」の小歌に引かれたヶ所をお聞きください。この人の謡は、本当に素晴らしい。7:25頃からその場面が始ります。

 

小歌とそれ以後の日本の歌謡

『梁塵秘抄』では巫女、武者、関守、咒師(じゅし)、鵜飼、遊女、海人など職人尽くしさながら歌詞の中にそれと判る人物、その職業、その姿が目に見えていたけれども、『閑吟集』では、そのような人々の具体的な姿、生業の様子などは背後に押しやられて、あたかも個から一般へという抽象化が行われるごとく「男」「女」「世」という枠のなかにそれらが折り畳まれていくとは、秦恒平さんの『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』からのご紹介である。

小歌の八割以上を男女間の抒情的な歌で占める。ほとんどラブソングと言っていい。その愛情の表現の仕方が極めて自由であり、その調律においても極めて細やかであるといわれる。七五七五の定律が最も多いが、七七七五、七五七七、七七七七などがある。小歌は一節切(ひとよぎり)つまり尺八によって伴奏され、比較的自由に口語調に歌われたという。この尺八の伴奏による中世小歌は『隆達節』まで続くが、やがて、踊小歌を経て三味線組歌や女歌舞伎踊り歌などに継承されていく。戦国時代に三味線が日本にもたらされ、江戸時代に入り、この楽器が盛んに伴奏に使われるようになって「小唄」とよばれるようになるものが近世小唄であるが、これは、ある意味中世小歌からの一続きとして考えて良いとは、志田延義さんの説である(『閑吟集』総説)。愛情表現色々をご紹介しておく。

逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜は己が袖枕 枕余りに床広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへに疎むか (『閑吟集』一七一)

余り言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の 速さよ(『閑吟集』二三五)

余り見たさに そと隠れて走(は)して来た 先づ放さないなう 放して物を言わさいなう そぞろ愛(いと)ほしうて 何とせうぞなう(『閑吟集』二八二)

 


歌は世につれ世は歌につれ。日本人の心に添うものは、この歌謡のなかに脈々と流れ続けてきたのか、流行の波の上でたゆたってきたのか。おそらく、その両方であったろう。しかし、その中に日本人の心情に喰い込んでくるべきものが見つかるとしたら、それは何だろうか。一言では勿論語れないが、一つの例を挙げてみたい。


和泉恒二郎『日本人の心情』閑吟集を起点として

樋口夏子の雅号は一葉である。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であった。一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったという。和泉恒二郎さんは『日本人の心情』の中でその一葉の雅号への思いは〈まけじだましい〉だったという。しかし、現実の生活が窮迫していくにつれて一種の楽天的現実主義となっていったと指摘している。そして閑吟集のこの歌を彼女の日記の前歌として掲載するのである。

なにともなやなう なにともなやなう うき世は風波の一葉よ(『閑吟集五十)

「人につねの産なければ、常のこころなし。手をふところにして、月花にあくがれぬとも塩噌なくして、天寿を終わるべきものならず。かつや文学は糊口の為に為すべき物ならず。おもひの馳するまま、趣くままにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどゐなどは、昨日の春の夢とわすれて、志賀の都のふりにしことは言わず、さざなみならぬ波銭小銭厘か毛なる利はもとめんとす。‥‥ひまあらば月もみん花もみん。興来らば歌もよまん文もつくらむ。小説もあらはさん。‥‥されど、うき世は、たなのだるま様。ねるもおきるも我が手にはあらず、造化の伯父様どうなとした給へとて、『とにかくにこえるをみまし空せみの よ渡る橋や夢のうきはし』」(樋口一葉『日記』明治26年7月)と、一葉は書いている。

桜かざして遊ぶ大宮人のような短歌仲間の集いもわすれよう。宮廷歌謡が廃れて今様や小歌の時代がやってきて、今は明治となったのだけれど、人のこころを趣くままに描き出す文学の時代が来たと言祝いででもいるかのようだ。一方で、生きていくために小商いまでせざるを得ない身の上と成り果てた。しかし、ここには、あなたまかせの処世、破れかぶれの大らかさがある。それは庶民の歌謡のなかに見られてきたものでもあるだろう。そして、何か自然という名の太母との繋がりに憧れているような感覚があるのだ。さらに一葉は書く。

「春のゆふべ よは花さきぬべしとて人ごころうかるゝ頃、三日四日のかけ斗(ばかり)に成りて一物も家にとゞめず、しづかにふみよむ時の心 いとをかし。はぎはぎの小袖の上に羽織きて何がしくれがしの会に出でつ。もすそふまれて破らじと心づかひする又をかし。身のいやしうて人のあなどる又をかし。折にふれて誰もいふなる一言のおもしろしとて才女などとたゝえられるいよいよをかし。此としの夏は江の嶋も見ん、箱根にもゆかん、名高き月花をなど家には一銭のたくはへもなくていひ居る ことにをかし。いかにして明日を過すらんとおもふに、ねがふこと大方 はづれゆくもをかし。おもひの外になるもをかし。すべて、よの中はをかしき物也。」(樋口一葉『日記』明治28年3月)

知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも (中島みゆき『命の別名』より)

一葉は20歳の日記にも、世の中の事業はどんどん進んでいるのに、私たちは昔のままで何一つ成し遂げたこともなくただ歳を取るばかりだと嘆くのである。中島みゆきさんの歌詞にも若い人たちの挫折や焦燥がある。と同時に自然との繋がりを感じさせるのである。家に一物も、一銭もなくても名高き月花を眺めたいという切実な願望は何処からくるのだろうか。結局、これは国見とその歌に通じるものなのか。そして、歌謡ではないけれど谷川俊太郎さんの詩にも生きている自然に抱かれる感覚を感じるのである。

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いま兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ (谷川俊太郎『生きる』より第四連から最終第五連)