ジョージ・ビショプ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』あなたにとってキリストとは誰ですか?

ジョージ・ビショップ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』
緒形隆之訳 アルぺ神父の列福を祈る会刊
SJ はラテン語の Societas Jesu(イエズス会)の略

イエズス会とは何か。と聞かれてもおそらく信者さんで、その教会に関わっている人でなければ良く分からないのではないだろうか。これはドミニコ会やフランシスコ会といったキリスト教会派でも同様であろう。かくいう筆者もイエズス会の経営する学校で長らく教えてきたけれど神父さんに知り合いはいても、どのような活動がなされているのかはボンヤリとしか分からない。もっとも僕がボンヤリしていただけなのかもしれない。今回はかつてのイエズス会総長、つまり最高責任者と言ってよいと思うのだけれど、その人の伝記『ペドロ・アルぺ SJ 伝』を借りることができたのでご紹介したいと思っている。広島と縁の深い人だった。筆者は、ジョージ・ビショップという人ですが、イエズス会の関係者とは思うけれど、この著者について、あまり紹介がないので詳しく分からない。インド生まれで、ロンドンの学校で教鞭を執った後、ローマやジャマイカの大学で教え、ユネスコの派遣でタンザニアやフィジーへ赴いたとある。

イエズス会のイメージ

「私が日本で修練院長をしていた時、若者達がイエズス会に入会しようとやって来たことを思い起こします。岩波という大きな出版社が編集した哲学辞典をよく使ったものですが、それには、イエズス会の古典的な定義として五行が割かれており、それには、ジェズイット(イエズス会士)は偽善者の典型であり、目的を達成するためには手段を選ばない者、常に権力と張り付こうとする者、とあります。これが五行の中にあるすべてです。これを若者達に見せて、尋ねました。『これをどう思うかね ? 』」

今では岩波の辞典にはこのような記載はないだろうけれど、アルぺ神父はイタリアのテレビネットワーク RAI のインタビューで上のように述べている。続けてこう答えた。私たちの与える印象がどうであろうと私達が望んでいることは、人々に「仕える」ことであり、そのために私たちの組織の人的資源を自由に活用しようと試みている。しかし、権力の力に依って活動することなど望んでいない、それは特異なことだと思う。まして、政治的な権力など問題にならないし、大きな影響力を持つために大金を持ちたいという個人的な思いも問題外である。富の所有は、私たちの「清貧の誓い」に反すると語った。

アタナシウス・キルヒャー画『幾何学原本』に描かれたマッテオ・リッチと徐光啓 1667

そして、狡猾さという悪口に対してはこう答えている。せいぜい、それは思慮分別の問題です。時には政治的な便宜主義の行動として解釈されるかもしれないような問題だが、それは思慮分別と人間的な理解力によって進められるもっと大きな人間的、福音的問題と関わっていて慈愛や隣人の必要を知りたいという願望の問題なのだと答えている。

実は、この問題は古くに遡る。例えば、マッテオ・リッチは、中国語を学び、その言葉で著作を書き、儒者の服を着たし、儒教の上帝とキリスト教の神との類似性を指摘し、自らの国が世界の華と自負する官僚やその家族たちの警戒を解こうとした。確かに、鎖国下の明末に、士大夫の伝(つてで宮廷に接近し、華麗なる自鳴鐘(時計)やチェンバロなどを贈って北京に居住の許可と生活費の保証、そして布教の許可を得ている。草の根の布教という観点から言えば非難を受けるかもしれないのだが、独裁体制をしく皇帝神宗の許可なしには、布教を続けることはおろか中国に留まることも困難であり、中国入りを前に倒れたザビエルの遺志を貫くことも叶わなかったろう。結果として、ルネサンスの自然科学を中国にもたらし、中国の文化を西欧に知らしめ、東西の架け橋となったことも確かである。

ルルドの奇跡

ペドロ・アルぺは1907年スペインの北西にあるビルバオに生まれた。父マルセリーノは建築家で、母ドロレスはバスク地方の医師の娘だった。上に4人の姉のいる一番下の長男として中流の家庭に生まれた。幸せな家族に不幸が訪れたのはアルぺが8歳の時で、母が亡くなる。11歳の時に無原罪の聖母マリア修道院に入会し同じバスク人だったフランシスコ・ザビエルに興味を抱くようになった。1922年にマドリード大学の医学部の学生となる。後にDNAやRNAの研究でノーベル医学賞を受賞したセベロ・オチョアと同級だった。この頃、貧困者の援助組織である聖ポール・ビンセント会に友人と二人で参加している。貧しさとはどのようなものかを目の当たりに見た。だが、またもや不幸が襲う、医学部在学中に父親が亡くなったのだ。

1926年、医学部の最終学年だったアルぺはフランスのルルド村に向けて出発した。「奇跡の回復」を医学的に検証する奉仕活動だった。1858年にベルナデッタという名の少女がマッサビエルの洞窟で若い婦人に出会うようになる。その夫人が聖堂を建てるように望んでいると教会関係者に伝えた。そして彼女がその名を尋ねたところ「無原罪の御宿り」と告げる。カトリック教会が聖母マリアが無原罪であると公認したのは、そのたった4年前のことだった。村の娘が知っているようなことではなかったのである。そこでは、見捨てられるような病気の患者が次々と回復していくという奇跡が伝えられている。

アルぺは検証局の正式な医師として、ルルドで回復した脊椎カリエスの修道女を診察し、X線写真でその回復状態を検証した。末期の胃癌だった75歳の老女はルルドの奇跡に一縷の望みを託してやって来たが、三日目にはすでに元気に歩けるようになっていたのである。X線写真で胃が撮影されたが、癌の痕跡は見つからなかった。彼はマドリードに帰ると大学院への進学の準備を始めた。既に最終学年の試験を最優秀の成績で終えていた。しかし、彼は迷った。貧困者の援助活動の中で出会った家族たちやルルドの奇跡が彼の頭を占めるようになっていた。そして、彼はロヨラに行って修練院に入る手はずを整えたのだった。2年の修練期の間にローマの長上たちに日本に行ってザビエルの事業を引き継ぎたいという意思を手紙にして送っている。

ロヨラの聖域  スペイン アスペイティア

山口の牢獄

この著作は、山口でのアルぺ神父の逮捕の場面から始まる。彼は、1938年に神学を学んでいたアメリカから日本にやって来た。東京で18ヶ月、日本語と日本の習を学ぶと1940年に宇部を経て山口に赴任する。そこで彼は憲兵隊にスパイ容疑で逮捕されたのである。既に日本はアメリカに宣戦布告し、運の悪いことに彼はドイツ人ではなくスペイン人であり、おまけにアメリカから来日していた。結局30日以上留置され尋問を受けた後、1942年の1月に開放された。

尋問は23時間ぶっ通しを含めて37時間に及んだこともあった。それは、彼にとって重要な体験であった。尋問に対してどう話せば日本人の心に訴えかけるのか、分かってもらえるにはどう表現するかを腐心していた彼にとって取り調べ官の態度が徐々に軟化していき、モーゼの律法についてさえ尋ねられるようになったことは、ある種の勝利であったろう。一時は死刑の覚悟さえしなければならなかった。そして、一枚の汚い畳と金属の容器があるだけの狭い独房での孤独は「魂に訪れる客」との重要な対話の時となった。彼は、釈放を刑務所長に宣言された時、こう言われた。有罪か無罪かを判断する最良の方法は、日々の様子を細かに観察することだと。この時、アルぺ神父は所長に「ありがとう」と感謝の言葉を述べて彼を狼狽させるのだった。

アルぺ神父と長束修練院  三重の塔の上には十字架がある。
ホアン・カトレット著『アルぺ神父とともに祈る』より

ラサール神父とセルツメント

この年、アルぺ神父は日本のイエズス会の責任者であったラサール神父から修練院長として広島へ来てくれと依頼される。広島には毛利元就の息子・秀兼の援助でセルソ・コンファロニエリ神父によってイエズス会の住居が建設され、秀金も洗礼を受けてシモンと名乗っていた。関ヶ原の戦い後、その住居は失われたが、1604年には福島正則の支援で住居は再開され、二人の司祭が住んでいた。しかし、これも宗教弾圧によって再び閉鎖されるという過去があった。

1908年ローマ教皇は日本への大学の設置をイエズス会に要請し、結果として東京に上智大学が開校する。1933年にイエズス会修練院は上智大学と合流したが、1938年に修練院は広島の長束に移された。修練院とは聖職者の養成機関のことだ。ラサール神父は38歳で日本のミッションの地区長に選ばれた人で、それまで上智でドイツ語を教えながら東京の三河島にあった貧民窟にカトリックセルツメントを開いた。寄付を集め、資金を貯め、土地を買い、建物を建てて病人や住居のない貧しい人たちを支援しチャリティー音楽会などの催し物をした。彼は、地区長になると岡山にあった広島地区長館を広島に移してそこに住んだ。日本管区の本部は広島に移されたことになる。それが幟町教会だった。彼は、日本のカトリック教会は、日本文化にもっと親しまれるようにどうしてもインカルチュレーション(受肉)が必要であると考えていた。それで長束に聖堂も畳、修練者の生活の場所も畳という和式の修練院が建てられたのである。(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)

フーゴ・ラサール神父(1898-1990)
1948年に帰化 日本名は愛宮真備

ラサール神父は、戦後日本に帰化するとともに広島に平和記念聖堂を建設しようと奔走した。自らもチェロを演奏する音楽の愛好家でもあった彼はエリザベト音楽大学を構想したといわれる。そして、黙想や観想の世界と禅との共通性を理解し、カトリックに禅の瞑想を取り入れた。瞑想のための座禅会が開かれ、それを世界に広めたのである。同じイエズス会士であるリントネル神父や門脇神父たちがその影響下にあった(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)。こうして見てみるとラサール神父の社会に向う行動力と観想的な生活という二つの車輪はペドロ神父にも引き継がれていったと考えてよいのではないかと思う。これが会の本質なのかもしれないが、本書にはアルぺ神父のラサール神父への言及は記されていない。

ピカドンと長束

その朝、アルぺ神父は8時10分に部屋に入り、学びの時間の準備をしていた。やがて目も眩む稲妻のような光が部屋全体を満たした。当時、写真の撮影時に焚いていたマグネシウムによるフラッシュのような閃光だった。しかし、音はなかった。彼は何事かと市内に面した窓を開けた。その瞬間、強大な轟音と熱い爆風に鼓膜を叩かれ、別の部屋まで吹き飛ばされた。反対側の壁にガラス片が突き刺さり、畳の上はガラス片や粉々になった瓦礫が散乱していた。柱時計は8時10分過ぎで停止し、まるで人類初の大量破壊兵器の誕生を記録するかのようだった。

何人かの修練者と司祭がガラスの破片で出血していたが、重症者はいなかった。しかし、広島市内は真っ赤に燃え上がり、巨大なキノコの雲が上空に向けて噴き上がっていた。街は、完全に破壊しつくされ、8万もの命が死を自覚する前に消滅したのである。修練院の司祭たちは、市内から逃げ延びてきた50人ほどの人々を収容したが、ほとんどの人が出血して火傷を負っていた。やがて収容者は増えて、150人を越え、建物に入りきらない人は、庭や畑や道路に横たわるしかなかった。医学を学んできたアルぺ神父はさっそく治療を開始するのであった。

原爆被災後に治療にあたるアルぺ神父 本書より

市内の中心部に近かった幟町の教会堂、修道院は全て焼失し、ラサール院長とシェファー神父は、かなり深い傷を負った。二人は、幟町の近くにあった、かつての浅野家藩庭である現在の縮景園の片隅に横たえられていた。アルぺ神父やクラインゾルゲ神父たちに救出されている。本書で被爆して名前が挙げられているイエズス会の神父は14名で日本人一人を除いて全て外国人、日本人の修道士が1名、日本人を含めたブラザーが2人である。それにメゾシスト会の日本人牧師が一人いる。重症の二名を除く彼等は、被爆地で怪我人の救護を行い、死体を荼毘に付すのを助けていた。ここでは、原爆投下の経緯や原爆投下後の広島の惨状が、かなり詳細に書かれているが、これを書くのは、ちょっと胸が詰まるので控えさせていただくけれど、バランスのとれたとても良い内容だと思うので機会があれば、是非本書を手にとっていただければと思う。

薬は、ほとんどなかった。手術は麻酔もなく神父の机の上で家庭用の消毒したはさみが使われた。ホウ酸が13キロ余り手に入り、基本的には傷口を洗浄し、ホウ酸の湿布で消毒することが全てになっていった。しかし、修練院で治療した90名のうち亡くなったのは一人だけだった。8月7日は、1733年の教皇クレメンス14世によるイエズス会禁止令から解放された記念日だった。アルぺ神父は、破壊に耐え、負傷者で溢れた長束の聖堂の中でミサを行った時のことをこのように述べている。「私は麻痺したように両腕を広げてそこにじっとしていた。そして、科学や技術の進歩が人類を破壊するために使われたという悲劇をじっと考えていた。彼等は皆、祭壇から何らかの慰めがもたらされるのを待っているかのように、苦痛と絶望の眼差しで私を凝視していた。(緒形隆之訳)」

総長への道

1950年、ローマで開かれた修道会の代表者会議に日本の代表として出席したアルぺ神父は当時の総長から原爆の体験を世界中に伝えるように依頼され、ヨーロッパとアメリカへ14か月の講演旅行に旅立っている。4年後に準管区長になり、翌年には原爆の語り部としてラテンアメリカを含む二度目の講演旅行に旅立つ。この講演は計3回に及んだ。彼は、著作も活発に行い、フランシスコ・ザビエルの一生、イグナチオ・ロヨラの霊躁(霊魂のための観想を中心とした修行法)の解説書、カルメル会神秘主義者・十字架の聖ヨハネに関する著作の翻訳、原爆体験などを著している。1958年には日本管区の管区長となった。

ペドロ・アルぺ『キリストのこころ』
「イエズス会士への訓話」「キリストの心の神学」「司牧的指針」収載
新生社 1988年刊

彼が管区長を務めている間に世界は大きく変わっていった。日本もそうだった。西側諸国の考え方を急速に吸収した結果は、溢れんばかりの物質的豊かさをもたらしたが、日本人に具わっていた慎みと自然な感性は、あらゆるものに浸透する相対主義と無神論へと傾斜していった。世俗化が広がって行きつつあった。イエズス会士の戦いは戦前とは異質なものを要求されるようになる。アルぺ神父の補佐をしていたロバート・ラッシュ神父は、アルぺ神父は若い時から伝統的で型にはまった制度にぶつかり、常にそのような人たちからの無理解にさらされたという。多くの新しいアイデアを持っていて性急に前に突き進みすぎると危惧されるというのだった。しかし、そういう人が必要とされる時代もある。ところで、ラッシュ神父には、僕は大変お世話になったので頭が上がりません。

1965年、第二十七代総長が亡くなり、90か国、3600人のイエズス会士を代表する218人による選挙が行われ、アルぺ神父が第二十八代の総長に選任された。仲間からの祝福を受けるために前に進み出たアルぺ神父は、こう述べた。「ところで、私は何をすればよいのですか ? 」オテーナ神父はこう答えた。「今、あなたは、人生で最後の服従をすればよいのです。」一度、選ばれたら降りることの出来ない職責だった。アルぺ神父はイタリアのテレビ局のインタビューに答えているが、その中で、教皇の回勅にある発展途上国における不正義や不平等と戦うことを強調し、それらの労働者たちが我々に食料を供給してくれている一方で飢餓と栄養失調に苦しんでいる。私たちは正義のために戦うと述べている。これは以後のイエズス会の活動の中で闡明となっていく事柄だった。ちなみにイエズス会出身のフランシスコ教皇(第266代・現教皇)は、この頃(1967年ブエノスアイレスで神学の勉強を本格的に開始していた。

北米における人種間の危機を踏まえて、その地域の会士たちに新総長はこう勧告している。少数者を常に意識し、黒人居住地で活動し、学校における人種差別撤廃を推進し、その居住区に修道院を建てるべきだと。異なる人種間における活動は後のイエズス会のマグナカルタになったと筆者は述べている。ラテンアメリカの司祭たちには、露骨な不正義や暴力の驚異が存在する中で、貧しい人たちに福音を伝えること、弱者や財産を奪われた者たちを守ること、公正な社会に向けて平等な権利と奴隷状態や抑圧からの解放を進展させることを訴えた。しかし、この代償もまた大きなものだった。第三世界で、難民、排除された人々、放浪者たちの権利を守るために戦った20人以上ものイエズス会士が殉教しているのである。アルぺ総長自身がイタリアの極左テロ組織「赤い旅団」のブラックリストに載っていたといわれる。

あなたにとってキリストとは誰ですか ?

この社会に対する働きかけ、「他者のための人間であれ」というイエズス会学校卒業生たちへのメッセージ(1973年バレンシアにおけるイエズス会卒業生国際会議)、これらの一方でアルぺ神父が繰り返し強調してきたことは、霊的な生活と清貧だった。アルぺ神父はこのように述べるのである。

「聖イグナチオの霊躁は、抑制された人間を作り出すための形の決まった鋳型ではありません。それは、『人の生き方、いかなる不節制な愛着にも影響されることのないものに整えるために』祈りにより、瞑想により、イエス・キリストの生き方をじっくり味わう単純な方法なのです。イエズス会士にとって、イエス・キリストは最も大切な方です。霊躁は彼の生き方を、彼が自分自身を捧げた事業を理解するための、唯一可能な鍵なのです。(緒形隆之訳)

マザー・テレサと語るアルぺ神父 本書より

「友達や知り合いが一人もいない大都会で、自分がたった一人であることに気づくこと、持ち物や、人との関わりの中から生じる支え合う心や安心感、そんな生きていく上で必要なものを何も持たないこと、言葉によってもそうであるが、貧しいということを自分自身で表現できないこと、常に自分が劣った立場にいるということ、話すことを覚え始めたばかりの子供のように話しても軽蔑され相手にされないこと、自分がいつも貧しい人だと思われていること、憐みや敵意を抱かれていること、そのことに気づいて胸を痛めること、また、そのような目でみられているということ。奪い取られるという根本的な意味において、貧しさとはいったいどういうことなのかを空しく理論分析するよりも、これら全てのことの方が人を真理に導くのだ。(緒形隆之訳)」これは、アルぺ神父自身が、スペインからのイエズス会士追放をうけて一時滞在していたベルギーのマルネッフェで、山口の刑務所で、原爆に被災した広島などで実際に体験したことに基づいている。そして続けてこう述べている。

「貧しい者は、私利私欲と利潤追求で構築された社会では何ら権利を持たない。貧しい者は主張する声を持たない。列の最後尾にいるのである。貧しい者の状態を理解するためには、貧しさを経験する必要がある。その経験が無かったとしたら、抽象的な理論や立派な決意は、ほとんど役に立たない。我々のことが、ほとんど認められていない 非キリスト教国や無神論者の国おいて、我々はそのような社会の中では無駄で危険な要素として、あるいは、解散するよう選別されたものとして見なされていた。この様な環境できちっと生きてきた我々の兄弟達に関して、私がこれまで受けとってきた報告が、如何に深く感動させるものであるかを私はあなたがたに伝えざるを得ない。(緒形隆之訳)

ペドロ・アルぺ『キリストの横顔』
カトリシズムからみた立体的キリスト論
ドン・ボスコ社 2004年刊

アルぺ神父へのインタビューのなかで最も印象的な質問はこういうものだった。「あなたにとってキリストとは誰ですか ?」この質問に僕は虚を突かれた思いがした。それを自分に向けた時、その答えが探せなかったからである。自分がキリストという存在を対象化したことがないからだった。つまり、自分のキリストはいなかったのである。アルぺ神父はこう即答している。「全てです。」自分にとって全てと言えるようなものは何なのか ? 再び考えて見なければならなかった。

1981年世界中を飛び回っていた疲れを知らない総長は、イタリアのフィウミチーノ空港で手荷物を受けとろうとした時、動けなくなった。頸動脈の閉塞が脳卒中を引き起こしていたのだ。飛行機での長旅が原因だろう。2年後に総長を辞職し、長く重い闘病生活の末、1991年に帰天している。83歳だった。

 


アルぺ神父の写真の掲載については、長束修練院のアレックス神父の了承を得ましたが、不都合がありましたら当サイトの問い合わせフォームまでお知らせください。尚、本書は市販されていませんが長束の修練院には何冊か保管されているので、こちらにお問い合わせくださればと思います。http://www.gloriadei.jp/

 

参考図書

ホアン・カトレット『アルぺ神父とともに祈る』

クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』冊子

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』 全三巻
リッチとイエズス会だけでなく比較文化論の観点からも面白い。

ドナルド・キーン『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道


確かに人形が生きていると錯覚させるほどの芸がある。それは多くの人たちが体験してきたことだ。その人形に生命を吹き込んできたのは人形遣いたちである。彼らは、ある時代には河原者と同一視され賤民と呼ばれ、時には神事に奉仕する者たち、信仰を呼び覚ます者たちであった。それは、やがて文楽と呼ばれる素晴らしい芸として開花したのである。その歴史を追ってみる。


ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』能、文楽については簡潔だが充実した内容を誇っている。歌舞伎についての紹介は短い。

ドナルド・キーンは、『文楽』の冒頭で、人間は何千年もの間、世界の至るところで自分の像を何かの形で作ってきた。それが今では人間の本能の一部を成すのではないかと思われると述べ、現在知られる最も古い人形はエジプト時代のもので、人間が神々の真似をするのが冒涜であると考えることから宗教上の儀式で神々がすることを演じるのに人形が用いられたのではないかとしている。

日本でも、祓のための人形(ひとがた)や玩具の人形は別にしても、東北のオシラサマ、山梨の天津司舞(てんづしまい)の傀儡田楽、九州の古表・古要神社の神相撲を見れば神の依代としての人形が舞ったり、相撲をとったりするのが見て取れる。人形芝居が神道の行事の一部となっていったのは事実である。やがて、神々だけでなく人間も喜ばせる余興としての性格を持つようになる。日本に伝わったとされる操り人形がどのようなものであったかは、はっきりしない。

キーンは、このように述べる。「人形は生命がなくてもそれを人形遣いから借りて、人形遣いが望むとおりのものになることができる。それは神々の一人にも、吃りの愚かな人間にもなれて、ただ、それ自身にだけはなれないのは、人形には自分というものがないからであり、それ故にまた、人形は神聖な儀式にも、粗野な喜劇にも向いている。(吉田健一、松宮史郎 訳)」この指摘は、深い。

 


人形浄瑠璃は、およそ300年ほどの歴史を持つと言われる。今日では「文楽」とも呼ばれるけれど、古くは「操り」「操り芝居」と呼ばれ、人形浄瑠璃の呼び名が一般化するのは明治以降のことである。上演する座がいくつかあった中で、この明治の初めに「文楽座」だけが残っていた時期があって「文楽」の名で呼ばれるようにもなった。物語る太夫、伴奏する三味線弾き、演ずる人形遣いの三業からなる演劇である。


 

『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道――では、ドナルド・キーンの『文楽』を縦糸に他にいくつかの著作を横糸にして、人形浄瑠璃以前の人形操りの時代、そして人形浄瑠璃として展開した後世の時代をご紹介する。これは、いわば文楽への道行である。

人形操りの来た道

もともと「人形操り」が、どこから来たかは諸説ある。キーワードのクグツという言葉が人形芝居を表わす語として八世紀の経文の注釈にあるのが初見のようだ。傀儡は人形を指し、人形遣いを指す言葉は、傀儡子、あるいは傀儡師である。中国語の傀儡子(かいらいし)、朝鮮語の傀儡子人形(コクトゥカシ)といった言葉の他、ロマ語のクキ、あるいはククリ、トルコ語のククラ、後期ギリシア語のクークラなどあり、人形芝居が近東から中央アジアを経て中国、朝鮮から日本にきたというが、確証はない。廣瀬久也は、唐と新羅の連合軍を指揮した唐の李勣(りせき/594-669)が、高句麗を滅ぼした時、戦利品として傀儡子とからくり人形を唐に持ち帰ったという元代の『文献通考』に注目し、高句麗から奈良時代に傀儡子と人形が伝わったのではないかとしている(『人形浄瑠璃の歴史』)。ちなみに後述する大江匡房(おおえ まさふさ)のいう傀儡子に近い存在として朝鮮の楊水夫(ヤンスヨーク)があり、その記述が十世紀に遡って存在するとキーンの指摘にある。

日本で最も古いとされる人形操りは、平安末から鎌倉時代にかけて西宮で発祥したと言われる。一説には西宮の八幡戎三郎(はちまんえびすさぶろう)信仰と宇佐八幡やその傘下にある古表・古要神社の八幡信仰とが関わって操り人形の発展を催したのではないかと言う。福岡の古表神社、大分の古要神社で遣われる現存する人形は、鎌倉時代の作とされているが、より古い時代の形式を残しているのかもしれない。片足を握り、他の片足と両手を紐でひく形式になっている。

それらの神社で人形によって行われる細男舞(さいのうまい/くわしおのまい)は、九州の海人族(あまぞく)安曇氏の祖神・安曇磯良(あづみのいそら)神話に発する。大嘗祭などの宮廷儀式の中で中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上において九州豪族の海人族たちが天皇に対する服属の誓いや寿祝として細男舞を舞ったことは想像に難くない。海人族の中央進出のよすがのように福岡の志賀島(しかのしま/志賀海)神社の磯良鞨鼓(かっこ/ばちで打つ鼓)の舞、春日大社の若宮おん祭などにその名残がみられる。それは、人による舞である。

西宮神社本殿 蛭子神(えびす大神)を祀る。境内には百太夫神の祀られる末社がある。西宮市

一方、西宮神社は、三年たっても足が立たなかったために海に流された蛭子神(ひるこのかみ)が祀られている。蛭子を戎(えびすと読む説もあれば、摂津に着いて戎三郎として祀られたという説、えびすは渡来の海洋神を指すという説もある。この神社の約100メートル北にあった山上村に平安末期から既に石の道祖神である百太夫(ひゃくだゆう)が存在したといわれる。この山上村を別名、産所村といった。ここの女性たちが助産もしていたからである。浜松歌国(1776-1827)の『摂陽奇観』によれば、江戸の元禄時代には民家が三~四十軒あったという。江戸末期の天保に、この村が廃れて百太夫社は西宮神社の境内に移された。この山上村の辺りは、室町期に人形遣いたる傀儡子として全国をまわり、恵比須信仰を布教した神人(じにん/神社の下働き)たちの住まいとなる地域である。

「南は住吉、西は広田これをもて徴嬖(ちょうへい/客に寵愛されること)を祈る処と為す。殊に百太夫に事(つか)ふ。道祖神(さえのかみ)の一名なり。人別にこれを剜(え)れば数は百千に及ぶ。能く人の心を蕩(とろか)す。(大江匡房『遊女記』)」

広田神社 西宮市

広田には天照大神の荒御霊(あらみたま)を祀る広田神社があり、そのすぐ近くにある西宮神社は、もともとこの神社の摂社だった。遊女たちが百太夫の像を作って奉納したが、その数がに達したと言う。平安末期の大江匡房(おおえ まさふさ/1041-1111)は、道祖神・百太夫が遊女の信仰を集めていたと書いたのである。彼は、『傀儡子記/くぐつき』に人形遣いである傀儡子が、蒙古の遊牧民のように家畜とともに移動する民であり、男は狩猟をし、田楽や雑技のような曲芸をし、女は化粧し、歌舞をよくし、時には春をひさぐロマたちであったと記している。

「‥‥或は木人を舞はせて桃梗(とうこう)を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒(えん)の戯に近し『傀儡子記』」木偶を舞わせ、魔よけの人形に相撲を取らせ、手品や幻術のごとく生きた人のように見せたというのである。美濃、三河、近江の集団が勢力を持ち、播州、但馬がこれに次いだ。西海は振るわなかった。高名な傀儡女(くぐつめ)は歌唱の達人で、今様、催馬楽、田歌、神歌、風俗などの多くの歌を歌ったという。傀儡女の歌は天下一だと匡房は書いている。

離宮八幡宮 京都大山崎

海人族の信仰する安曇磯良神、秦氏や辛島氏と縁の深い八幡神は、渡来系の神であり、瀬戸内海を遡上して中央に接近するにつれ、操り人形も伝搬していったと見ることもできるのではないかとは廣瀬説である(『人形浄瑠璃の歴史』)。清和天皇が即位した九世紀半ばには、春日大社で大山崎の離宮八幡宮から頭と手のついた人形を迎えたことが藤原仲倫(ふじわらのなかとも/江戸中期)の『春日大宮若宮御祭礼図』下巻の記述に見える。離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社である。この地は荏胡麻(えごま)油発祥の地、日本初の製油地として名高い。おそらく、このような神社に関係した傀儡師たちもいたのかもしれない。

日本の十一世紀が文学の面で多くの傑作を残したにもかかわらず傀儡師たちの人形芝居は、その頃の文献には姿を現わさない。クグツという名は、文献に出てきてもその中の男はどこかに定住はしたが納税の義務が免除されたとか、昔のように猟をすることもあるとか、人夫になって人に雇われたとか、女は純然たる娼婦で街道筋の娼家に住むとかいった内容になっている。やがてクグツは娼婦だけを意味する言葉となる。この頃、人形芝居が続けられていたかどうかは定かではないとドナルド・キーンは、いささか当惑ぎみに述べている。

古い形式の人形操りを伝える古表神社の神相撲の動画を掲載しておきます。4:04min.

 


人形操りが再び文献に登場するのは室町期になってからである。それは、手遣いの人形ではなく、糸操り、つまりマリオネットのような人形だった。一休が糸で操る傀儡を題材に深遠な詩を詠っている。これに加えて中国からの精巧な機械仕掛けの人形たちが、日本の職人たちに刺激を与えた。やがて西宮神社を拠点とした戎舁(えびすかき)たちが手操りの人形を携えて全国に恵比須舞いや大黒舞いを浸透させていった。


 

人形操りの揺籃期 中世から近世へ

マリオネットのように糸で操る人形が日本に入ったのは十四世紀頃との指摘がある。五山僧・令淬(れいさい/?-1365)に『傀儡』という詩があるという。十五世紀に将軍足利義満の中国趣味によって多くの操り人形が請来され、日本の職人を刺激して糸や水力で動く精巧な人形も現われる。十六世紀には、1.8メートル四方の城の中で二千の兵隊人形がせめぎあうといったものまで登場しているし、イエズス会の宣教師たちが「出エジプト記」などを糸操りの人形で見せたことも記録に残されていた。しかし、こういった新たな刺激は長続きせず、後世、日本の操り人形に与えた影響としては、目、口、手などが人形内部から糸で操作されるようになることだった。

抽牽(ちゅうけん)する者(は)、即ち主人公
地水合成して、火風に随う。
一曲の勾欄(こうらん)、曲終って後、
本然の大地、忽(たちま)ち空(くう)と為る。(一休宗純『傀儡/かいらい』)

一休は、傀儡(くぐつ)の芝居を見てこんな詩を詠っている。人形の糸を引く者が主人公であり、地水からなる粗雑なものが火風のような精妙なものに従うのに似ている。人形の立ち位置となる手すりがいわば、大地であったが、曲が終われば忽ち空虚となるといった意味だろうか。それで、水上勉はこう述べた。

「案外、この世は、すべて、一曲の人形芝居かもしれぬ。うらで糸をひき、操る者がいて、人も風も、火もうごく。操るものは主人公である。その主人公をとっつかまえねばならぬ。いや、その主人公こそ、求めつづける正伝の正体なのだ。狂雲もまた狂風に舞っている」(『一休文芸私抄』)

広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史』 古代から現代までの人形操りの歴史を扱っている。いささか荒っぽいが古代の人形操りの紹介は興味深い。

十四世紀は、南北朝の時代であり、兵火によって寺社の多くが廃れていった。西宮神社も例外でなく、神人たちは門前町で酒造りに流れた。酒造りの技量を持たない傀儡師たちは途方にくれ、往来の自由になった淡路島に移って行く者もあった。廣瀬久也によれば、『道薫坊(どうくんぼう)伝記』に記されている百太夫と名乗る傀儡師が淡路の広田にやって来たのは、このような経緯ではなかったかとしている。ただ、どの時代かは、はっきりしない。西隣の三原村へ移り、一子・重太夫を儲けた。百太夫没後、その子は源之丞と称して百姓に百太夫の技を教えたという。

この源之丞の上村家には『道薫坊伝記』が伝わっていて、このような話になっている。西宮で戎三郎神を祀っていた道薫坊の死後、祀る者がいなくなると海は荒れ、漁は不作となり、多くの災いが人々に降りかかるようになる。百太夫が、このことを帝に伝えると、道薫坊の人形を作るよう勅命を受ける。そっくりな人形を仕上げると戎神に奉納した。すると、風雨は治まり豊漁が続いた。百太夫は人形操りをしながら諸国を回り、やがて淡路に落ち着き、淡路人形座の元祖となったのである。

16世紀後半、戦国の乱世も猖獗を極めようとする頃、西宮神社の神人たちが人形を携えて恵比須信仰を広めるために戎舁(えびすかき)として全国を廻りはじめる。経典を入れる箱を首から吊るしてそれを台として木偶(でこ)を操り芸を演じた。戎舁は恵比須神をかたどった人形を舞わす門付け芸を行う者を指すが、1555年には四人の戎舁が宮中で能を人形芝居で演じて人気を得た。正親町(おおぎまち)天皇の御代である。その後、度々宮中に召されるようになり、人形芝居を叡覧に供するようになった。人形芝居が江戸時代に入って人形浄瑠璃として本格化する前の揺籃期は、この16世紀、つまり室町後期・安土桃山時代にかけてである催馬楽今様白拍子、田楽、猿楽、小歌などもそうだけれど民間の芸能をこのように宮中が吸収し、ソフィスティケートされる契機を作っていった役割は日本文化にとって極めて重要だったと言える。

 

西宮神社の百太夫神社祭における恵比須舞いの様子を動画で紹介しています。戎舁の芸を垣間見ることができます。阿波の人形遣いの人のようですが、新春を言祝ぐにふさわしいおめでたい芸です。前座の後、2:06くらいから始まります。

 


三味線の原型は十六世紀に琉球から伝わった。十七世紀初頭には、京都で戎舁が浄瑠璃の物に合わせて芝居をやったことで、非常な成功を得た。それが、人形操りと浄瑠璃とのカップリングの最初ではないかと言われる。こうして、人形、三味線、浄瑠璃の三業が揃う環境が整い始める。最初、京都で盛んになり、江戸大阪と盛んになっていった。


 

人形浄瑠璃の黄金時代

1614年、後陽成院は、『阿弥陀胸割』を戎舁に演じさせている。大阪冬の陣の始まる年である。それに、『浄瑠璃物語』を人形芝居ですることを発案したともいわれている。その御子の後水尾天皇も人形芝居を庇護した。こうした経緯もあって人形芝居は、まず京都から発展し始める。ついで江戸で人気を得た。坂田金時の子、金平(きんぴら)を扱った勇壮な金平浄瑠璃が当たった。この頃には、江戸随一といわれた小平太という人形遣いが現れている。林羅山(1583-1657)は、観劇記を書いて人形が生きているとしか思えなかったという感想を残した。しかし、1657年、明暦の大火によって江戸の大半が灰になるという大惨事が起こる。主な太夫たちが上方に移ったことから大阪と人形浄瑠璃が結びつくのである。これ以後、江戸では歌舞伎が流行し始める。

二世瀬川如皐『牟芸古雅志』より 曽根崎心中
中央右端から左向きに三味線弾き、太夫竹本筑後掾、竹本頼母ツレ語る、人形遣いは辰松八郎兵衛と書かれている。
倉田喜弘『文楽の歴史』に掲載

1648年、竹本義太夫(1651-1741)が大阪道頓堀に竹本座を創設した。徳川家光の時代である。その最初の出し物は近松門左衛門の『世継曽我』だった。本格的な人形浄瑠璃のはじまりである。ここからは文楽と呼ばせていただきたい。1703年には『曽根崎心中』が決定的な成功を収め、竹本座の地位をゆるぎないものにした。二世瀬川如皐(せがわじょこう/1775-1833)の随筆『牟芸古雅志(むぎこがし)』に当時の様子を思い起こさせる図が掲載されている。その頃は、人形は、まだ突込み式の一人遣いで、太夫は既に舞台の表に出ていたことが分かる。この頃、竹本座から独立した竹本采女(うねめ)は、豊竹若太夫を名乗って豊竹座を立ち上げた。竹・豊時代が始まったのである。

1690年代には人形の手が動かせるようになる。1727年には目や口を開けたり閉じたり出来るようになり、指を動かすことも可能になる。1733年には指の第一関節だけが別に操作できるようになった。1734年には三人の人形遣いが一体の人形を操る方法が生まれ、文楽以外では見ることのできない微妙な動きを表現できる端緒となった。人形の頭・顔と胴、右手を動かす主(おも)遣い、左手を動かす左手遣い、足を動かす足遣いである。三人もの人形遣いが舞台に登場することについて、ドナルド・キーンは日本の聴衆でなければ受け入れ難いかもしれない負担を想像力に課することになったと述べている。近松が亡くなった1724年から1780年までが文楽の全盛だった。歌舞伎の人気もそれには及ばなかったのである。

三人がかりの人形 今の人形浄瑠璃で使われるサイズよりも小さい。倉田喜弘『文楽の歴史』より

そのような工夫がなされ今日のような文楽が見られるようになったわけだが、良質な浄瑠璃作者がいなくなり、火災による芝居小屋の焼失や座本の度重なる死などによって豊竹、竹本両座ともに十八世紀の終わりには道頓堀から姿を消した。とりわけ人形遣いは、零落の憂き目をみるようになり、文楽は地方へ散って行った。その後、文楽を復興させたのは淡路の人形芝居の太夫・植村文楽軒(1751-1810)であった。1805年に大阪新地で人形興行を始めている。淡路は江戸時代に入っても蜂須賀家の歴代藩主の庇護もあって多くの座が存在した。植村の姓は淡路人形座の座本である上村源之丞の姓に由来するという説もある。六年後、二世の時に、大阪稲荷神社(現在の難波神社)の境内で文楽軒一座の名で興業をはじめた。1872年(明治5年)に文楽座を名乗るに及んで人形浄瑠璃の総称となったのである。

人形操りの修行は何処に向うのか

キーンは、太夫、三味線弾き、人形遣いは一体であるが、太夫は常に文楽界の知識階級と見做されていたという。彼らは浄瑠璃の研究を常にしていなければならないからである。三味線弾きは、キーンに言わせればオペラの指揮者に似ていて、太夫も三味線弾きの指示には従わざるを得ず、その弾き方に力が入っていなければ人形遣いも満足に人形が操れないと言われる。しかし、人形遣いとその技術は、長い間冷遇されてきたという。その理由の一つに太夫や三味線弾きに関する文献は残ってはいても人形遣いには、そういったものがないことを挙げている。それは体で覚えるものだからだ。弟子たちは、ただ見て覚えろ言われるだけなのである。何故、そうなったのかは、巻末の桐竹勘十郎氏の人形操りの解説が掲載された動画を見てもらえば、お分かりいただけるのではないかと思う。

桐竹勘十郎『一日に一字学べば…』
「一日に一字学べば…」は『菅原伝授手習鑑』の「寺入りの段」にある台詞。

太夫は、その声になるのに20年かかるといわれている。人形遣いの修行はもっと長くて、足遣いの修行に10年、左手遣いに15年、それからようやく主遣いになれる。好運に恵まれ、才があれば早くから左手遣い、主遣いになれるが、運が悪ければ足遣いで終わる人形遣いもいるという。気の遠くなるような修行が待っているのだ。どのような修行なのか。キーンは、人形遣いにはかなり冷たいコメントがあるが、おそらく彼らの修行の内容について多くは知らなかったのではないかと思える。言葉で伝えられないことを知るには、想像を可能にしうるような何らかの体験が必要だろう。「間合い」とか「あうんの呼吸」といっても私たち日本人にも理解できない言葉になりつつある。主(おも)遣いのむずかしさの例を一つ挙げておこう。

文楽には人形の手の先にその視線を合わせるという決まりがある。主遣いは、基本的に人形を後ろから見ているのでその目線の方向は把握しずらい。憶測で手と目線を合わせなければならない。合わなければ、首を動かす主遣いの左手をなおすか、人形の右手の位置をなおすかして修正しなければならないのである。それを鏡の前で訓練する。人形の左手は、左手遣いが扱うので今は考えない。ゆったりした場面では修正もきくが、早い場面で目線と手をピタッと合わせるのは、かなり難しい。それで、三世桐竹紋十郎さんは、その勘を鍛えるために風呂で左手で直線状にお湯の出るシャワーを遠く持ち、目をつむって、右手の位置をあちこち変えても指先にお湯が一発で当たるように訓練したという(『一日に一字学べば…』)。このようなことを言葉で伝えようとしても弟子たちにとっては全然助けにはならない。

このような訓練によって人形は生きているかのように振る舞えるようになるのである。人形遣いの腕が良ければ良いほど人形が自力で動いているという印象を与える。「人形遣いは人形に宿る力を信じて、人形への畏れをもって日々舞台に立つ」と勘十郎さんはいう。人形を操るとは言わない。「人形が存分に動けるように技を磨き、人形を人形足らしめるのが、私たちの仕事」だというのである。人形と人形遣いは一体となっていく。しかし、‥‥ もしかして‥‥ 完全に一体になりきることが出来るのかもしれないのだ。

人形遣いは自分がしていることを舞台で言葉に表現できないし、観衆からは忘れられることが望ましい。ある意味、無名な存在として考えられていたのかもしれない。それゆえにこそ人形を動かす主遣いが素顔で舞台に登場することが求められた。そのようにバランスがとられたと見ることもできるのではないだろうか。自分というものがない人形に生命を吹き込むのは、人形遣いである。その者に無名が求められるとしたら、人形とは何であり、人形遣いとは何者であるのか。その境を見極めることは難しい。

 

 

三世桐竹勘十郎さんによる非常に興味深い人形遣いの解説が掲載されている動画です。三人遣いがどのように連携するかが語られています。日本記者クラブ主催。12:02~37:08あたりがその場面です。

 

 

参考図書

倉田喜弘『文楽の歴史』
江戸から平成までの文楽の歴史をまとめている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドナルド・キーン『文楽』part1 浄瑠璃と山葵は泣きながら誉める

2019年文楽公演解説 生写朝顔話 他

だめだ。目の辺りがうるうるしてきた。涙が瞼の堤防を越えそうだ。あっ~っ、袂(たもと)に河原の石を詰めはじめた。身投げする気だ。しかし、両隣に坐っているおばさんたちは、いっこうに動ずる気配がない。ひょっとして鉄のハートなのか。大の男が一人だけ涙を流している場面はいただけないぞ‥‥なんとかしないと‥‥しかし、おォ~っ、助けがやって来た。関介だ‥‥よくぞ来た、よくぞ来た~~。

「ヤア何、川が止まった。ハゝア悲しや」と張り詰めし力も落ちて伏し転び、前後不覚に泣きけるが、また起き上がって見えぬ目に、空を睨んで「天道様、エゝ聞こえませぬ〳〵〳〵〳〵〳〵聞こえませぬわいなあ。この年月の艱難辛苦も、どうぞ今一度その人に逢わしてたべとも片時も、祈らぬ間とてはないものを、今日に限ってこの大雨。川止めとは〳〵、エゝ何事ぞいの。‥‥焦がれ〳〵たその人に、逢うても知らぬ盲目の、この目はいかなる悪業ぞや。夫の跡を恋ひ慕ひ、石になったる松浦潟、ひれふる山の悲しみも、身に比べては数ならず、三千世界を尋ねても、こんな因果がまたと世にあるべきかは。(生写朝顔話「大井川の段」床本)

儒学師範の駒澤了庵の甥である宮城阿曾次郎(儒学者・熊沢蕃山がモデル)、彼を慕う安芸国岸戸家の家老秋月弓之助の娘、深雪。親の決めた駒澤次郎左衛門(実は叔父の家督を継いだ阿曾次郎)との縁談話から家出し、阿曾次郎の後を追いながら人買いの手に落ち、そこから逃れてもなお、失明の憂き目に会う。それでも夫と心に決めた人の後を追い続けた朝顔こと深雪。この十月久しぶりに文楽を見た。生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)は、文化年間(19世紀初頭)、講釈師の司馬芝叟(しばしそう)が書いた長話(ながばなし)『蕣(あさがお)』が原作で、歌舞伎で上演されていたものを山田案山子が五段の時代物に翻案した人形浄瑠璃である。僕が、最初に義太夫節を聞いたのは『菅原伝授手習鑑』だったけれど、その時は義太夫節に違和感を感じたものの何か引っかかるものがあった。それが無かったなら、また見たいとは思わなかっただろう。こん度は何の障害もなくすっと入ってくる。すっかり嵌ってしまいました。

ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』
能、文楽については、簡潔だが充実した内容を誇っている。歌舞伎については短い紹介に終わっている。今回は『文楽』だけのご紹介となる。

谷崎潤一郎(1886-1965)が、関東大震災で東京を焼け出され、大阪に移って人形浄瑠璃に目覚めたことは『蓼喰う虫』などの作品で窺い知ることができる。淡路島まで人形浄瑠璃を見に行くほど熱くなるのだが、焼失前の文楽座で『法然上人恵月影(めぐみのつきかげ)』を観劇したのが契機だという。その数年前、谷崎は上海に旅行に出かけて、日本橋に住んでいた頃の30年も前の父母の面影を心に浮かべ、日本ではあらかた亡びてしまった懐かしいしきたりを思い出している。西洋崇拝から抜け出て日本回帰に向った時期だったのかもしれない。彼は、この『蓼喰う虫』の中でことさら芸の「型」について述べるのである。

谷崎は、『浄瑠璃人形の思ひ出』で『生写朝顔話』の淡路版である『朝顔日記』の序段「宇治の蛍狩り」の場面で深雪と阿曾次郎が屋形船の中でささやき交わす場面や「明石の船別れの段」で互いに名残を惜しむといった場面のお伽話的光景は俳優の舞台では演出できないと述べる。「浜松小屋」の段も取りあげて、深雪の母の死を乳母の浅香が知らせに深雪を訪ね当てた折りも折り、人買いとの血みどろの戦いになる場面をこう述べる。「二つの人形の顔と足とがカチカチ触れ合って割れそうになるほどの激しい立ち廻り。ああいう光景は生きた俳優同士の力闘ではとてもあれほどの真剣味は出ない」と書いている。人形にしか出せない演出を見出しているのだ。この『浄瑠璃人形の思ひ出』は、ドナルド・キーンの著書『文楽』に対するオマージュだったようだ。

日本への永住を果たして亡くなったドナルド・キーンについては多くを紹介する必要はないと思う。1922年ニューヨーク生まれ。16歳でコロンビア大学文学部に入学したが、そのころ漢字に興味を持ち始める。アーサー・ウェイリーの翻訳した『源氏物語』に感動し、日本語を学び始めた。第二次大戦後、コロンビア大学に復帰し、後にハーヴァード大学に学んだ。ケンブリッジ大学でも学ぶと同時にその講師となった。そこでは、バートランド・ラッセルやウェイリーらと親交を持つ。1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科の博士過程を修了したあと京都大学に学ぶ。1955年からコロンビア大学で教鞭を執った。同大学の名誉教授であられる。三島由紀夫や阿部公房らとも親交があり、朝日新聞の編集委員を務めるなど日本との関係は、極めて濃密だった。2011年に日本国籍を取得。2019年に心不全で亡くなっている。

 


人形浄瑠璃は、およそ300年ほどの歴史を持つと言われる。今日では「文楽」とも呼ばれるけれど、古くは「操り」「操り芝居」と呼ばれ、人形浄瑠璃の呼び名が一般化するのは明治以降のことである。上演する座がいくつかあった中で、この明治の初めに「文楽座」だけが残っていた時期があって「文楽」の名で呼ばれるようにもなった。物語る太夫、伴奏する三味線弾き、演ずる人形遣いの三業からなる演劇である。


この――『文楽』part1 浄瑠璃と山葵は泣きながら誉める――では、ドナルド・キーンの『文楽』を中心に、主に人形浄瑠璃での浄瑠璃の歴史と太夫の芸に関して、三味線のことも少し交えてご紹介し、最後は「型」の問題に踏み込む予定です。

杉村治兵衛『牛若丸と浄瑠璃姫 鳳凰丸舟遊び』
江戸時代 18世紀 東京国立博物館

人形浄瑠璃は「語りもの」の総称である浄瑠璃と人形操りを合わせた芝居ではあるが、本質的には「語り」が生命の芸術といわれる。浄瑠璃とは、伴奏楽器を伴う音楽劇で、歌うというより語るという性格が強かった。その名称は、15世紀に書かれた語りもの『浄瑠璃物語』の主人公浄瑠璃姫の名前からとられている。平家物語は節をつけた偉大語りものとして一世を風靡し、平曲という名で知られ、音楽的には天台系の声明から発したといわれている。この平家物語は後世に大きな影響を及ぼし、幸若舞や説経節といった芸能に盛んに取り入れられる。しかし、15世紀の半ばになると平家物語の文章をそのまま語ることに人気の翳りを見るようになり、同じ登場人物を廻る他の話が語りものとして創作されていった。とりわけ義経のような存在には人気があり、この『浄瑠璃物語』もそのような作品の一つとして創作される。話はこうである。

『浄瑠璃物語』

義経が東国に向う途中、三河の国で一人の美女と出会う。この姫が待女たちと管弦をしている所に義経は笛を合わせた。彼は、笛の美しさに惹かれた姫を口説いて一夜をともにする。義経が吹上の浦まで来ると奇妙な病に罹り生死をさまよう。すると、源氏の氏神である正八幡神が老僧姿で現れ都から人を呼んで看病させるという。そこで、義経は浄瑠璃姫の看護を願った。八幡神のお告げで事の次第を知った姫は、義経のもとにやって来る。海で斎戒沐浴し万の神に祈った。その時の涙が義経の口に入ると彼は蘇生し、十六人の山伏たちの加持によって本復する。姫との再会を約束して平家の滅亡を期し、旅立つという物語になっている。

1531年には盲目の法師がこの浄瑠璃姫の話を既に語っていたことが分かっていて、十六世紀の終わりには、浄瑠璃という名称が法師などがする語りものの総称となっていった。それほど流行っていたということだろう。1614年には後陽成院が『阿弥陀胸割(あみだのむねわり)』や能の高砂、賀茂などを傀儡子である戎舁(うびすかき)に演じさせた。『浄瑠璃物語』を人形芝居でするように発案したのはこの院であると言われている。

『阿弥陀胸割』珍書大観金平全集 倉田喜弘『文楽の歴史』より転載

浄瑠璃は、能で切り捨てられてきた個性と個性の衝突とか、激しいアクションとか、英雄なら英雄ならではの際立った性格を逆に重視したため西欧の劇に近い脚本となって登場人物を小説風に細かく描写することが可能だった。浄瑠璃や仏教的な出自を持つ説経節は、このような劇的要素で民衆に訴えた。『阿弥陀胸割』は、初期の浄瑠璃の有名なものの一つである。これは『浄瑠璃物語』と異なり、最初から人形芝居の脚本として書かれた。

『阿弥陀胸割』

話は天竺に設定されていて、初期浄瑠璃の定石どおり六段からなる。悪魔を祓う剣や若さを取り戻させる松の木などの七つの宝を持つ長者夫婦、七歳の娘と五歳の息子を大切にしている。妻は、他の人は後生を気にかけて善行を積むが、私たちには永遠の若さがあって後生を考える必要はない。それなら悪行を積んでみましょうと夫に持ちかける。それからは寺を焼き、お布施を断り、悪事を重ねた。釈迦は二人を懲らしめようとするが、送り込んだ魔王たちは魔法の剣で追い払われる。そこで、地獄の鬼たちが呼び集められ、彼らは長者の剣を溶かし、召使いたちを殺し、夫婦は鉄を口から流しこまれて死ぬ。残された二人の子は乞食となって彷徨うのだが、両親の七回忌になっても供養できないことを悲しんで隣国に行って自分たちの身を売ろうとするが、売れない。お寺で一心に祈ると、阿弥陀仏が夢に買い手の金持ちが現われることを告げる。

その金持ちには原因の分からない病にかかった十二歳の一人息子がいて、医師によれば、この男のと同じ年の、同じ月、同じ日、同じ刻に生まれた女の子の生胆を食べさせなければ治らないという。十二歳の女の子が集められ、その中に例の姉が含まれていて、この条件にぴたりと当てはまった。金持ちの妻はその子を殺して胆を取ることを懼れた。姉は自分が死んだ後の弟が心配で泣き、金持ち夫婦もそれに同情して泣いた。姉は自分の両親のために寺を建立し、阿弥陀三尊を安置してもらい弟を大切にしてもらえることを条件に承諾する。兵士たちがやってきて約束通り姉の胆を取ろうとして躊躇するのだが、姉は兵士に指図して自分を殺させた。胆の効果は、てきめんで息子はすぐに快癒する。姉の死骸のある寺に行ってみると娘はなんと弟と手をとりあって眠っている。驚いたことに傍らの阿弥陀の胸が裂かれていて、おびただしい血が流れていた。皆、阿弥陀が姉の身代わりとなったことを知るのである。

『生写朝顔話』(朝顔日記)本書より
この場面では実際に琴が演奏されるのだけれど太棹の音と混じるとはっとさせられる。

実はこのような不思議譚は、後世繰り返し作られていて、近松の最初の成功作といわれる『出世景清』では景清の身代わりに彼が帰依する観音菩薩の首が切られることになる。生胆、生血の不思議譚は『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』や冒頭の『生写朝顔話』でも登場する。朝顔こと深雪の目のために駒澤次郎衛門こと阿曾次郎が与えた薬は甲子(きのえね)の年に生まれた男子の生血で飲まなければ効果がないとされている。嶋田の宿にある宿屋・戎(えびす)屋の主人徳衛門こそ、その甲子の年の男子で深雪の乳母浅香の父であり、深雪の父秋月には大変な恩義があった。それで、自らに刃をあてて生血を深雪にさし出すのである。こうして深雪は視力を回復して阿曾次郎の後を追う。ここでは、徳衛門が阿弥陀の役をしている。

初期の浄瑠璃が人形芝居の脚本へと傾斜し始めた頃、人形芝居で浄瑠璃が語られる節は能の謡に近いものであった。人形芝居が宮中のような所で行われれば能のような形態に合わせることが必要とされた。浄瑠璃物語の十二段は、初期には六段に、次いで五段ものとなる。一段目は、ことの起こりで、例えば何かの悪事が描かれる。二段目はその悪に対する善の力が胎動しはじめ、三段目では登場人物の犠牲によって善の力が優位となり、四段目は善と悪との相克があって善が勝利する。五段目は最も短く、善の勝利が祝われるといった順序を踏む。この構成の根幹には能における序・破・急という要素があり、その影響は大きいといわれている。

 


16世紀に三味線の原型である三線が琉球から伝わった。胴に蛇の皮が張られていて蛇皮線とも呼ばれたが、強くばちで打つと皮が破れやすかったため猫の皮にかえられて江戸初期には現在の三味線となった。珍しさもあって色々な伴奏に使われたと想像されるが、その高い打楽器に似た音が人形遣いが人形を操る際の拍子とりに最適であった。現在、人形浄瑠璃で使われる三味線は太棹(ふとざお)と呼ばれて音が大きく強いのが特徴である。


 

人形芝居の脚本が、それ自身のための進化を遂げていく中で、その語りを行う人、すなわち太夫の存在は極めて大きなものとなっていった。まず、挙げられるのは薩摩浄雲(1595-1672)で、坂田金時の子、金平(きんぴら)の語りで名を馳せた。鉄の棒を叩いて拍子を取ったと言われる。せっかく江戸に定着しかかっていた人形芝居だったが、明暦の大火で江戸が焼野原になると太夫たちの多くが上方に移り、大阪の地で人形芝居が発展していくこととなる。

倉田喜弘『文楽の歴史』
江戸から平成までの文楽の歴史をまとめている。

宇治嘉太夫(うじかたゆう/1635-1711)は、宮中や公家から拝領する掾号を賜って加賀掾(かがのじょう)を名乗った人だが、芸論集『竹子集』の中で浄瑠璃の芸には手本となる先行芸はないと言いきっている。ただ、謡曲から派生したことを忘れてはいけないと言い、浄瑠璃は太夫の声だけで行うもので三味線を考慮する必要はないとも言う。声の出し方には、祝言、幽玄、恋慕、哀傷の四音あるとしていて、ここには修羅が欠けている。この人の語りは節配り細やかで、よはよはしく、たよたよしく、美しく語り出したので京都では評判が良かった。また、扇拍子でテンポの変化を三味線に伝えるようにと書いている。俗にいうタタキである。一方、井上播磨掾(1632?-1685?)は強い声で節回しもよく、言葉遣いもはっきりしていて、宇治嘉太夫と対照的だったようだ。その芸風は播磨風と呼ばれた。(倉田喜弘『文楽の歴史』)

大阪・天王寺村で生まれた五郎兵衛は、この播磨掾の流れを汲む近所の利兵衛に浄瑠璃を学び、後に京へ出て宇治嘉太夫の一座に入って、清水理太夫(きよみずりだゆう)の名で四条の芝居に出た。高低、声の良く出る、はっきりした言葉で、どんなに大入りでも声が通ったと言う。1684年西国への巡業を終わると道頓堀に竹本座の櫓を上げた。彼こそが竹本義太夫(1651-1714)だったのである。

彼以前の浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれるようになる。それまでの浄瑠璃を総合して新たなスタイルの浄瑠璃を創始したからだ。その後のスタンダードとなったこの浄瑠璃は義太夫節とも呼ばれる。人形芝居のための浄瑠璃の代名詞となり、歌舞伎でも使われることがある。竹本座の最初の出し物が近松門左衛門(1653-1725)の『世継曽我(よつぎそが)』であるが、1685年のことで、それが上演された時が本格的な人形浄瑠璃のはじまりとされている。ここからは、人形浄瑠璃を文楽と呼ばせていただきたい。蛇足ながら浄瑠璃は語りものの総称であるので、義太夫節の他に常磐津、清元、新内などがある。

竹本義太夫(1651-1714)『摂津名所図絵大成』

決定的な作品は『曽根崎心中』だった。それ以来、近松は歌舞伎にも脚本を書いていたのをやめて文楽のみに書きはじめ、住まいも京から大阪に移した。もはや平家物語や太平記に登場する英雄や武勇談は、そこにはなく、超自然の幽霊や龍や狐といったアクションものとも異なった。それは世話物と呼ばれる。醤油屋の手代と遊女の心中という世間を騒がせた実話を描いたのである

キーンは、文楽の歴史を通して写実主義に向かって不断の努力がなされてきたという。この頃、人形そのものにも改良が加えられ細かな動きが可能となった。1705年に上演された『用明天皇職人鑑』では、既に人形遣いが舞台に現われ、太夫も舞台の陰でなく観客の見える所で語っていた。誰にもお馴染みの郭(くるわ)言葉を話す芝居が書かれるようになった時、観衆は人形遣いや太夫が舞台に出て演じるという趣向を喜んでいたという。舞台上では実と虚が対立の度を深めていたようだ。

近松門左衛門(1653-1725)
永井如雲編『国文学名家肖像集』1939年

近松が日本のシェークスピアと呼ばれようと、その作品は後に改悪されていったとキーンは言う。例えば『曽根崎心中』は昭和30年に改作されていて、それまで再演はなかったので新作とかわりなかった(竹本住大夫『文楽のこころを語る』)。この近松作品には、主君のために我が子を殺すと言うような法外な設定が無く、刺激に乏しいと思われたため、原文にない部分が書き加えられたり、誇張された文句が書き連ねられたりした。それに、彼の頃の人形は舞台下から操る現在のものより小さい一人遣いのそれだった。三人遣いの人形では動きが遅くなるために近松の台詞にあわせて操ると浄瑠璃が間のびするほかなく台詞はカットされた。

もっと悪いのは、人形の首(かしら)が、年齢や性別だけでなく善悪による性格分けで表現されるようになり、首そのもので善人の老人か、悪年増かが一目瞭然にされてしまったことだ。近松が登場人物に与えようとした個性を表わすには不向きになるのである。それ故に、例えば『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋の段」で悪役風の松王丸が初めから主人の菅公に忠義だったといった思いがけない展開が逆に可能になった。キーンは、近松が意図したように、ある登場人物を完全に良い人間とも悪い人間ともつかないようにしておくことや、最後までその判断をさせないようにすることが不可能になり、後の改作では、そういう人物が完全な善玉か悪玉かに書き換えられているとしている。近松のいう虚と実の間の薄い被膜は分厚くなっていったのである。

歌舞伎では、脚本は芝居の材料であって役者は舞台で即席にセリフが言えた。しかし、文楽では人形と三味線の伴奏は脚本と完全に一致しているために単に一音節それまでより長く引っ張るだけでも相当な変化となる場合がある。二世綱太夫が1822年に『艶容女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)』の「酒屋」で半兵衛がセリフを言っている時に咳を一つする箇所を付け加えた。これ以降、綱太夫を襲名したものは、それを伝統的に踏襲するようになる。人形遣い、三味線弾き、太夫という三者はきめ細かな共働をしているのであり、かつての宇治嘉太夫のように三味線を軽視してはいられないのである。

『用明天皇職人鑑』の舞台 『今昔操年代記』 人形は突込み式の一人操りである。倉田喜弘『文楽の歴史』収載

ここで、少し三味線の役割に触れておこう。文楽の脚本は太夫によって解釈され、それが三味線弾きに伝えられると、今度は三味線弾きが演出家となって指揮をとる局面がある。彼が合図をださないと太夫は語れず、人形遣いも登場できない。三味線の名手豊沢団平は、ある時、それを弾くと太夫がある叫び声を出す決まりになっている一連の音を立て続けに弾いたものだから、太夫が倒れてしまったことがある。その日の芝居では、それが必要と思ったからそうしたのであり、そんなことのできる三味線弾きは今日ではいないだろうとキーンは述べている。

指揮者でありながら、三味線弾きが太夫の女房役であることは確かで、まれに三味線弾きが観衆の注意を惹きつけることもあるけれど、あくまで伴奏役であるという。綱太夫は二十五年間(この著書は1966年に刊行されている)、竹沢弥七の三味線で語ってきたが、綱太夫が語り始めると、その日の調子がどんなものか察知して、調子が良ければ思い切り語れるように、悪ければ、それを補うように、調子を変えて弾いたと言う。三味線弾きが掛け声を出すのも、太夫の調子が悪ければ助けになるし、良ければかえって邪魔になることもある。ちなみに文楽で作曲してきたのは三味線弾きたちで、ある部分では五・六人で演奏する華麗で快活な曲を作り、道行では当時の歌謡がアレンジされた。余談になるけれど、三島由紀夫が、自作である歌舞伎用の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』を文楽に改作しようとしていた途中で自決してしまった。歌舞伎用の浄瑠璃に曲をつけていたのは三味線弾きの人間国宝鶴澤燕三(つるざわえんざ)だったという。三島は、その太棹の音を愛していた。(桐竹勘十郎『一日、一字学べば…』)。

文楽は脚本に多くの文学上の傑作が書かれた唯一の人形芝居である。人形の仕組みや音楽においても発達を遂げ、写実主義的な傾向を強める一方で、観客には多くが要求されるようになるとキーンは指摘する。写実に一歩進むごとに、その反対の様式化に向って一歩進められた。それは文楽に携わる人間たちが、観衆を写実で食傷させる危険を心得ていたからであるという。脚本が文学的になるにつれ人形遣いのセリフを別の語り手がするようになり、近松のような日常生活に近い情景が設定されるようになると舞台裏にいた語り手は舞台に出て語るようになる。それは、人形が口を利いているといった幻覚を否定することであると共に脚本の言葉を尊重することにつながる。太夫が語る脚本の言葉も普通では使われない言葉遣いで書かれていることが多かったし、幕が上がると黒子が出てきて、いちいち太夫と三味線弾きを紹介する口上を述べるのもその関係であろう。

こういった、ある種写実に傾きながらそれを否定するような設定は、中世フランスの『薔薇物語』における寓意そのままを自らの名前としている登場人物たちを思い起こさせる。そのようなニュートラルな空間が、人形へと感情移入するためには必要ではなかったのだろうか。写実に徹した人形芝居は恐らく不気味なものとなったろう。確かに、今日でも文楽の観衆は、こういった芝居の統一感をわざと乱すような条件を克服しながら、義太夫語りと三味線弾きと人形・人形遣いをかわるがわるに見てそれを楽しむのである。

歌川国貞(1786-1865/三代目 歌川豊国)
『櫓のお七人形振り』

さて、この現実と非現実との均衡が、長い年月にわたって培われて来たことの結果であることは疑いない。人形遣いについては、次回 part2 で改めて取り上げるけれど、ここで人形の振りと型について触れておきたい。振りは人間が普通にする動作で、焦燥、絶望といった時の仕草、縫い物、演奏などでの日常の動作が様式化されたもので人間が普通にすることだから多数ある。これに対して人形に独特の線の美しさを表現させるのが型である。振りについて言えば、『艶容女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)』の「酒屋の段」では、半七の妻、お園が女を連れて家出した夫を思って独り言を繰り返しながら無意識に行燈(あんどん)の埃を払うというお園の性格を際立たせる振りがあり、別の振りでは酒屋の入り口まで出てあちこち見回して片手を懐に入れ、悲嘆にくれて立ち尽くすという美しい振りがある。

型は、それほど多くはない。人形は太夫が語る言葉一つ一つをいちいち表現するわけではないから、必ずしも脚本どおりそのままということではない。勿論、登場人物の性格を脚本から正確に解釈した上だが、人形の演技は一連の言葉の中心をなす部分に力点が置かれる。その中で視覚的に美しい表現をすることを求められる場面が多々ある。そこに型が使われるのである。舞台に文楽の独特の魅力が横溢しはじめるのはここなのである。先日見た『生写朝顔話』で深雪が帯振り乱し、嗚咽しながら天を仰げば、日本舞踊を思わせるような後姿が絵に描いたように表現される。日本のパトスフォルメン(情念定型)なのか。観客は、太夫の扇情的な声とこの人形の美しさに恍惚となる。これが文楽にしか出せない演出の秘密なのかもしれない。テレビドラマの『水戸黄門』のように定番とは知りながら、まんまと嵌るのである。それが、型の魅力なのだ。それは、るで面影のように脳裏に焼き付いて増幅しはじめる。現実と非現実の被膜の上に文楽が乗っているなら、非現実を支えていた柱は、実はこの型であったのかもしれない。

文楽は、歌舞伎と同じく庶民の芸であった。「お涙頂戴」は、勿論ある。僕は、けっしてこの「お涙頂戴」を蔑む気になれない。オジチャンもオバチャンも日頃の憂さを忘れて涙し、カタルシスしてきたのだから。しかし、昨今のオバチャンは鉄のハートなのではなかろうか。言っておくが、浄瑠璃と山葵(わさび)は泣きながら誉めるのである。

 

 

惜しくも昨年(2018年)亡くなった人間国宝の七世竹本住大夫さんが太夫をつとめる『心中天網島』「河庄の段」です。近松ものは字余り、字足らずでやりにくいが、この段に出てくる孫右衛門は好きだとおっしゃる。やがて心中する紙屋治兵衛と遊女の小春を治兵衛の兄の孫右衛門が別れさせようとする場面です。孫右衛門は、治兵衛が小春を思い切ったというので喜ぶものの、実は治兵衛の妻おさんからの手紙で小春がおさんへの義理立てに治兵衛にあいそつかしをさせようとしていたのだと知る。治兵衛の手前、「真実のないは女郎の常」と蔑み、そんな者と心中しようとは、「思いまわせば可笑しいやら不憫なやら」と高笑いで手紙の件を紛らわせようとするのですが、小春への感謝と憐憫の情がその笑いのなかに折り畳まれていきます。ここは素晴らしい。

 

参考図書

桐竹勘十郎『一日に一字学べば…』人形遣い三世桐竹勘十郎の修行にまつわる興味深いエッセイ。

『竹本住大夫 文楽のこころを語る』 名大夫が文楽の十九作品の解釈や面白さを語る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今道友信『ダンテ「神曲」講義』part3 天国篇 ―― 美の神学

今道友信(1922-2012)『ダンテ 神曲 講義』

クラシックって古典のことだろ、と当たり前に思っていたのですが、恥ずかしながらその語源について知ったのは、本書を通じてでした。クラシックとはラテン語の classis= 艦隊を意味する名詞から派生した形容詞であると言う。ラテン語辞典で調べるとなるほど海軍となっている。それはローマの国家的危機に際して一艘とかではなく、艦隊を寄付できるような国家に寄与できる富裕層を指した。古代ローマでは徴兵制はあったが、軍艦は税金ではなく寄付を募って造ったと言う。この国家の危機に自分の子供= proles しか差し出せないような貧しい層の人をプローレータリウスと言った。そこから貧困な労働階級を意味するドイツ語プロレタリアートが生まれたのである。この意外な展開に吃驚仰天したのは言うまでもない。転じて人間の心の危機において本当に精神に力を与えてくれるような書物、絵画、音楽、演劇などの偉大な芸術をクラシクスと呼ぶようになったというのである。これは古典と訳されたが、典は猫脚の机の上に巻物を大切に置く象形文字で、大切にして読むという意味です。けっして積読の意味ではありません。

ダンテの古典に学ぶというわけで今道さんの『ダンテ「神曲」講義』に拠りながら神曲の各歌を要約してご紹介している。今回はその最終回、「天国篇」をご紹介します。ダンテ研究はフマニスムス、つまり人文主義を学ぶことである。この言葉は1809年にフリードリヒ・ニータンマ―という人によって人間愛=フィラントロピスムスに対して作られたドイツ語である。それは古典研究を介して言語に習熟すること、言語に馴染み生きるということであった。ダンテの直後にイタリアでウマニスタと呼ばれる古典研究を中心とした人文主義のグループが現われる。その人々の運動こそが19世紀以来のヒューマニズムを先駆けるものであった。

今道友信(1922-2012)

今道さんのフリーの肖像写真を探していたのですが、あまり良いものが無くて、ご紹介が遅くなってしまって恐縮です。今道さんは1922年東京生まれ。父親は支店長も務める銀行員で、転勤もあり、山形、高知と転校した。この辺りはバフチンを思い起こさせる。いずれも当時は方言がきつく、それで英語が好きになったと冗談めかしておっしゃっている。1948年に東京大学文学部哲学科に入学、出隆(いで たかし)に学んだ。パリ大学やヴュルツブルク大学で非常勤講師を勤め、1958年から九州大学や東京大学などで教鞭を執るようになる。国際美学会副会長、東京大学名誉教授であられた。1982年に哲学美学比較国際センターを創設され、2010年まで所長をされる。2012年、大腸がんのため89歳で亡くなっている。エコエティカ(生命倫理に基づく人間学、倫理学)を提唱した美学・哲学者として知られている。簡単ではあるが今道さんの経歴をご紹介した。

煉獄篇では地獄篇と異なり、悲惨や絶望への哀訴はなく、教理の理解や政治論などを踏まえながら巡礼叙事詩の形をとって天国への接近が図られる。ダンテは、ここで前著の『帝政論』の行き過ぎを訂正しているという。改宗者スタティウスやベアトリーチェとの関係を想像させる女性マテルダらが加わり秘儀めいた雰囲気が演出され、ウェルギリウスが表舞台から退くと、聖体拝領を境とする信者のみが正式参加を許されるようなミサの雰囲気を醸し出しはじめる。宗教的な色彩を濃くするのだ。浄罪救済の叙事詩としての性格を煉獄篇は持っていた。これに対して天国篇は天国の至福の叙事詩とならなければならない。それは宗教的宇宙論と言ってもよく、極めて教導的である。そんなものは、たいてい詰らないものだというが、この神曲は面白い。何故だろうか。さて、天国篇に入ろう。

天国篇

地上楽園から天界への上昇 第一歌から九歌

ジョヴァンニ・セルカンビ(1348-1424)画
ダンテ神曲より火星天の登場人物、15世紀
地上楽園から月光天、水星天、火星天へと上昇していく。

冒頭ダンテは予言の神アポロンに呼びかける。地獄篇でも煉獄篇でも冒頭に呼びかける対象は詩の神々ミューズであった。それはホメロスの「憤りを歌いたまえ詩のミューズよ」に始まり、ヴェルギリウスによって「ミューズの女神よ、私に事の由を思い起こさせたまえ」と受け継がれた伝統と言って良い。ここでダンテは「願わくは我を汝の徳の器とし」「汝の愛する桂(アルローロ)を受くるにふさわしき者たらしめよ」と願っている。ミューズは過去を歌う女神である。パウロが行ったとされる天国は、それ以外誰も行ったことがない。アポロンの予言力を借りなければ、とうてい表現不可能だというのである。(一歌)

ダンテはベアトリーチェと共に地上楽園から月光天へと上昇している。太陽さえ凝視できる力を備えるようになった。ベアトリーチェは、こう説明する。創造物には神が刻印したそれぞれの価値がある。その定めによりその根源に向けて傾斜していく。それが本能であり、火は月へ動き、下等生物には機動力となり、大地には凝固させる力となる。私たちは神の摂理の光によって原初動が全速回転する、しかも極めて静かな至高点へと向かっているのだと語る。

天国篇は難解であるから私を見失い、途方に暮れるかもしれないと小さな舟でついて来る人たち、つまり読者に警告が発せられる。話は哲学・科学・神学へと傾斜していくのだ。矢のような速さで月光天に着いた。ダンテはあの月の斑点を問い、彼女はそれに科学的に答える。そして、至高天は回転する力の中に全ての実在を持っていて、第八天である恒星天は、実在のそれぞれの本質に分かれている。七つの天球はそれぞれの性格に従って内部に各々の本質と種を持っていて、上の天の影響は下の天に伝えられる。様々な力が天体に応じて種々に結合し、天体を賦活する。それは魂の様々な能力が異なる五体に行き渡り生命が人間に結びつく仕方に似ているという。(二歌)

サンドロ・ボッティチェリ 『天国篇』 第二歌

「万物を動かすところの者」を神としたのはアリストテレスである(『形而上学』λ 巻)。形而上は易経にある言葉で形体あるものを越えて考えることを指している。それは神学でもある。今道さんは、アリストテレスの第一動者としての神の存在証明をトマス・アクィナスが受け継ぎ、その伝統がダンテにまで継承されているという。

月光天でダンテはフォレーゼ・ドナーティ(煉獄二十三、四歌)の妹、ピッカルダに会う。立てた誓願が軽んじられ、一部は破られたためにこの天界に割り当てられたという。しかし、何も望むこととはなく、神意のうちに留まっていることこそ幸福であると語る。そして、同じく尼となりながら還俗を余儀なくされた大王妃コンスタンツァを紹介する。(三歌)

プラトンの言う、死後に魂は星に帰るという疑問とピッカルダのように他人の暴力が何故自分の功徳を減らすのかという疑問にダンテは捉えられた。前者については自然が魂に肉体という形相を与えた時、魂がその星から別れたというプラトンの考えには一笑に付すことができない問題があるとベアトリーチェは答える。後者については、意志の弱さに起因することだという。(四歌)

ギュスタ―ヴ ・ドレ『天国篇』 第五歌

破られた誓願は他の善行によって償いうるものかという疑問にベアトリーチェが答える。天地創造に際して神が与えた最大の贈り物は意志の自由であった。誓願は意志の自由を犠牲にする。それ故高い価値を持っている。誓願の内容を勝手に変えることは出来ず、神との契約が果たされなければそれが取り消されることはないと語った。そして、二人は第二の天、水星天に駆け上がった。そこには、千余りの光明が近づいてきて、その中から声が聞こえた。(五歌)

皇帝ユスティニアヌスの魂が、鷲の旗の下にアエネアスから始まる代々のローマ皇帝の偉業を語る。そして、教皇党と皇帝党とがそれぞれの党利党略に走るのを嘆いた。生前、名誉のために善行を積んだ人々が集っているが、とりわけ、水星真珠天の光輝は、プロヴァンスの宰相ロミューであると語る。(六歌)

ダンテはベアトリーチェへの畏敬の念にかられ、「べ」とも「イーチェ」とも言えず眠りこむように頭を垂れるしかない。彼は、人間の贖罪に対する疑問に囚われる。生まれたことのない男性、つまりアダムの堕落以来、造物主から離反した人性はキリストという永遠の愛の働きによって再び神に結びつけられた。十字架によって課せられた罰はキリストが帯びていた人性を考えれば正当な罰であり、キリストの持つ神の位格にとっては、かつてなく不当な罰であった。一つの事から異なった結果が生じた。正義の復讐が、その後、正義の法廷によって報復を加えられたのだとベアトリーチェはいう。正義の復讐とはアダムの犯した罪がキリストの死によって贖われたことである。報復とはキリストの血を流させた民の都エルサレムを皇帝ティトゥスが破壊したことを指している。神が支配する世界で復讐は何故繰り返されるのか? こういったキリスト教的歴史観、歴史が神と救いの論理で解釈されるのはアウグスティヌスの『神国論』をもって始まる。ティトゥスについての解釈は、その弟子のオロシウスによると今道さんは述べている。(七歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第八歌

第三の天、金星天へと二人は昇る。ダンテと旧知の間柄であったハンガリア王カルロ・マルテㇽロが喜悦の情によって一層輝いていた。自分が若死にしなければこれほど害悪が世に広がることはなかったろうと語る。そして甘い種から苦い実、つまり立派な親から不肖の子が生まれるのかを問うダンテに答えてやる。(八歌)

第九歌は地獄篇でも煉獄篇でもその門の内に入る場面に選ばれている。天国篇でも、ここから本当の天国に入っていくのだ。大地に立って手をかざすと、それが陽の光に投げかけられてできる影の先となる。同じように地球の影はこの金星天までのびて影の端を作る。そこから先は地球の影響は及ばない。真の天国となるのである。普通の人でも命がけで善行をなせばこの金星天までは行ける。そこから上は、聖人が登場するが、ダンテは自分の高祖父もこの天国に入れている。よほど家門の誉れだったのだろうか。ロマーノ家のクニッツァは多情ではあったが晩年改心して善行を積んだ。彼女はイタリア各地の惨状を語る。吟遊詩人であったフォルケは神の摂理を讃えて歓び笑う。そして、ヨシュアを助けた遊女ラハブがいた。たとえ、遊女であっても、たとえ、一度でも命がけで善行を行えば天国に迎えられるとダンテは考えていたのである。(九歌)

不可視のものが可視のものを統べる

プラトンの「線分の比」の教え 本書より

神が創ったものは滅びない。原質料がその一つである。それは背後にある。原質料から諸々の力により多くのものが形成された。形成されたものは滅びる。それは外に現われでる現象に過ぎない。質料と形相とは神によって作られた。何でも形成できるスーパー物質とその鋳型と言って良いのかもしれない。例えば、土は無から創られた原質料から土になる可能性を巡って運行する星の上に、神の内在せしめた形相に基づいて形成されると考える。

プラトンには外に現われ出る可視のものと、その背後にある不可視のものについて語られる「線分の比」という教えがある。ADは理性によってのみ把握しうる不可視の世界イデア=神の思い、DCは悟性によって把握できるエイドス(概念・法則)、ここまでが不可視の世界である。CEは、いささか現象学的に言えば経験世界における事物への確信の世界、BEは感覚によって得られる世界と言ってよいのではないかと思うけれど、プラトンの言う可視の世界である。この不可視のものが可視のものを統べるという考えは、アリストテレスを通じてトマス・アクィナスへと流れ込んだ。

火の花冠 神学者と聖人たちの天界 第十歌から二十二歌

第四天、すなわち太陽天ではトマス・アクィナス、そしてアリストテレスをキリスト教の基盤に据えたといわれるアルベルトゥス・マグヌスら多くの神学者や哲学者がいる。そこでダンテは「己の一切の愛を神に注いだ」といえるほど真剣に考えた。天国では、人は直観知の明証性を論理化することができる。多くの聖人の説教を聞き、ベアトリーチェ自らも理論を述べ、問答を通して知的会話が為され「歓喜は永遠となる」。

ダンテとベアトリーチェを中心に生き生きと輝く火が冠のように拡がり照り映えている。真実の愛は恩寵の光に火を発すると愛によって益々強まってゆき、君を高みに導くという声が聞こえてきた。トマス・アクィナスの声だった。その右にはケルンのアルベルトゥス、グラチアーノ、ソロモン、スペインの司祭オロシウスなど光の輪を構成する12人のキリスト教の智者たちが紹介されていく。すると甘味な清音のような合唱が聞こえてきた。(十歌)

ギュスタヴ・ドレ『天国篇』 第十二歌
12人よりいささか多い。

彼女は、まだうら若い女であったために父の怒りを買った。この女に対しては死神同様、誰一人門戸を開かなかった。そいて、司教法廷、並びに父親の前で彼はその女と結婚し、それ以後その女を熱愛した。トマスはダンテにアッシジの聖フランチェスコとポヴェルタ、つまり清貧との逸話を語りはじめる。(十一歌)

第一の光の輪を取り囲んで第二の輪が廻りはじめる。第二の輪も12人の魂で輝いている。その中の一人ボナヴェントゥーラがトマスの所属したドミニコ会の創設者・ドミニコの逸話を語る。ボナヴェントゥーラ自身はフランチェスコ会士だった。そして、ユーグ・ド・サンヴィクトールら他の11名を紹介する。(十二歌)

 

あまりにたやすく事をきめつけ
野原の穂など熟せぬうちに
値踏みするような人にはなるな。
茨は冬こそ恐ろしげだが、
後その小枝に薔薇の花を
咲かせていたのを見たことがある。
遠い海原を舟足速く
はるかな舟路を渡った舟が
港に沈むのを見た。
一人が盗み他が寄付するを
見たとて世人よ神の審判が
定まると思うな、ありうることは
前者の更生後者の堕落(130-142 今道友信 訳)

神曲はトマス神学の詩的結晶と呼ばれる。ここでもう一度、トマスがダンテに語りかける。アリストテレスの『ニコマス倫理学』の実践理性をトマスがキリスト教的に展開した徳目についての解説になっている。自らの中に道徳的判断の基準となるどのような原理を持つかを問うているのだ。人生は計画どおりに機械的に進行しはしない。偶然と必然の間を揺れ動く、アリストテレスは理論理性(エピステーメー)に対して実践理性(ブロネーシス)を分立した。それが徳目プルデンティア(智慧)である。(十三歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第十四歌

別の光明が現われると先ほどの二つの光の輪のまわりを煌めきながら舞いつつ回り始める。両の眼は眩み、もはや凝視に耐えなくなる。二人は火星天へと上昇した。天の川の星たちのように、赤い光明たちが居並ぶと円内で直交する二直径からなる尊い印を形づくり、十文字の光がキリストの姿を描いた。その光明の群れから身も心も恍惚とさせるような旋律が流れた。(十四歌)

晴れ渡り澄み切った夜空を火が突然よぎる。流れ星と異なるのは、星は消えずその光跡が消えることだった。そのように十字架の右手から一つの星が駆け下りてきた。ダンテを待ち焦がれていた高祖父のカッチャグイダの魂だった。彼は、ダンテに12世紀の平和で地味で貞潔だったフィレンツェを語り、コンラード皇帝旗下の騎士となって第二十次十字軍に従軍して回教徒と闘い、1147年に戦死して殉教者となったことを教える。(十五歌)

ダンテは、先祖やカッチャグイダの幼年時代のことを尋ねる。当時の有力な貴族や名門の名が語られ、アミデイ家がダンテたちの災いの元凶であり、ブォルデルモンテ家がそのアミデイ家との婚約を破棄し、その後の殺傷沙汰に至ったことが告げられた。(十六歌)

ダンテは、この先祖に対して自分の未来を問うた。高祖父はこう答える。

お前自ら経験しよう
どんなに苦いか他人のパンは、
他家の階段を降りるつらさも。(58-60 今道友信 訳)

そして、ダンテは自分の意志をこの言葉に凝結させる。

父上(一門の古老を指す)、時勢は私に迫り
拍車を加えて討とうとします、
士気を失えば図に乗るでしょう。
されば、先見で我が身を鎧(よろ)い、
たといふるさとが奪われたとて
我が詩の在り処は確保しましょう。
はてない苦難の世界に降り、
淑女が示した峰に向って
美しい山を経めぐり登り、
光、光と昇りつづけて
学びえたことをまた言うならば
酢を飲まされたと人は言います。
だがもし私が真理に対し
卑怯になるなら今を昔と
呼ぶ世代からは否定されます。(106‐120 今道友信 訳)

未来とは何か ? 動物と人間を分けるものは理性であるとトマスは言う。自然における形態の変化ではなく、生き方の変化としての歴史が人間の理性の内にしかないのなら、歴史形成の根拠は人間にある。歴史形成へ向けて理想が求められるなら、それは理性に求めなければならない。(十七歌)

フランチェスコ・スカラムザ(1803-1886)
『天国篇』 第十八歌 TERRAMのM字、鷲が頭を沈めた形に見える。

火星天には下界で名を馳せた多くの勇者たちの魂が光明を放っていた。ヨシュア、マカベウス、シャルルマーニュ、ローランたちの名が呼ばれる。やがて、二人は、第六天である木星天の白い静光の中にいた。そこでは、光芒に包まれた魂たちが時に D、時に I、時に L の文字を組むのだった。DILIGITE  IUSTITIAM(愛せよ正義を)、QUI IUDICATIS TERRAM(地を裁く者らよ)という文字が金で象嵌した銀のように輝いていた。無数の光明が火花のようにあたり一面に飛び散ると鮮明な光芒となって鷲の頭と首を形づくりはじめた。(十八歌)

鷲は多くの象徴的な意味を持っている。木星の神ユピテルは鷲に変身したし、ローマの旗印は鷲であり、正義の象徴、キリストの象徴と考える人たちもいる。光たちが集まって出来た鷲は、一つの魂であるかのように語った。正義感と慈悲心のおかげで私はこの栄光の高みまでやってこれたと。ヴェルギリウスに対する思いなのか、キリスト教を信仰していなかったものの救いはあるのかと問うと、永遠の裁きは人間には不可解だという答えが返ってきた。(十九歌)

第六の星では、光明の群れが合唱し、光彩陸離、宝石珠玉を鏤めて輝いていた。その鷲の形の中の最高位は、頭の位置にある六つの光だった。ダビデ、トラヤヌス、ヒゼキア、コンスタンティヌス、シチリア王グリエルモ、トロイア人リペウスの魂だがキリスト以前の人々もいる。天の王国は、熾烈な望みによって掟が破られることを許すことがあるのだとダンテは知らされる。(二十歌)

二人は第七の天、土星天に昇る。ベアトリーチェは言う。もし、私が笑えば、あなたは光輝くユピテルを見て灰と化したセメレーのようになるでしょう。ダンテは、まだその光輝に対する準備が出来ていない。この水晶宮の中に黄金のヤコブの梯子がはるか彼方まで延びている。オスティアの大司教ピエトロ・ダミーノの魂が君の聴力はその視力と同じく現世の人間のそれだ。ベアトリーチェが笑わないのと同じ理由でこの天の甘美な交響は止んでいるのだと教える。(二十一歌)

百余りの光明の中のひときわ大きく輝く魂がダンテの望みを叶えてくれる。彼はモンテ・カッシーノに西欧最大の僧院をつくった聖ベネディクトゥスだった。あなたの姿をはっきり見ることができるような恵みに与れるのかという問いに、君の望みは最高天で叶えられると答える。ベアトリーチェが梯子を昇るように目で合図する。ダンテは飛翔し瞬く間に金牛宮を過ぎ、その中に入っていった。(二十二歌)

ウィリアム・ブレイク『天国篇』 天の九層

天国とはどのように構想されたか

ダンテの描いた天国は単に眠りのような不活発な世界ではなく希望の渦巻くような世界である。天界は、上に行けば行くほど旋回運動が大きくなり、次第に広がっていく。荘子では逆に狭くなっていって一点に収束する。それは不思議な対照をなしているのである。そのような動的な天国をベアトリーチェは「嵐を待望している天国」という。下界の大転換が天にとっても必要だと述べているのだ。苦労なしに永眠のできる所というふうには描かれない。天国は、光における神との一致の中で世界を美しく、より良いものになるようにと望むものとして描かれている。第二十四・五歌では、聖ペトロや聖ヤコブがダンテに信仰について問う。これに対してダンテは「信は望まれたものの実体/まだ来ないものの証しなのです。/これが信仰でしょう」と答える。新約聖書のヘブル書に「信仰とは望まれしことの実体、見えざるものの証なり」という言葉が既にある。トマスの『神学大全』の注にも「信仰とは望まるべき事どもの実体である」という言葉が述べられていると今道さんは書いている。

ミケランジェロ・カエターニ(1804-1882)
『神曲』天界の秩序

 

天界の構造

第十天(至高天)
第九天(原動天 天使)
第八天(恒星天/神学的な徳――信仰・希望・愛)
―― ↑ ヤコブの梯子 ――
第七天(土星天/観想生活者 真の天の門)
第六天(木星天/正義の徳とその象徴=鷲)
第五天(火星天/殉教者の勇徳)
第四天(太陽天/キリスト教的賢明の徳)
―――  ↑ 地球の影響の及ばない天界 ――
第三天(金星天/愛と節制の徳)
第二天(水星天/名誉のための積善)
第一天(月光天/誓願の不成就者)

地球 (地獄界 地上界 煉獄界)

基本的にプトレマイオスの宇宙観に従っているが、大まかに三層になっていて、天界は完全数の10に分割されている。

 

恒星天 ダンテへの試問 ― 信・望・愛(対神徳) 第二十三歌から二十七歌

二人は恒星天にいる。太陽がそこにさしかかると日脚がおそくみえる方角を一心に見つめるベアトリーチェは、天が明るくなるとほとんど同時に「さあ、キリストの凱旋の軍勢が来ました。天球の回転が取り集めた戦利品の数々とともにやってきます」と言った。その顔は一面に輝いて喜悦の情に満ち溢れた。その光輝にダンテは耐えられず彼女に助けを請うが、もう私の笑顔を見ることが出来るほどあなたの目は強くなったのですと励ました。キリストが至高天に昇った後、冠の形をした炬火(たいまつ)が降りてきて、一つの多きな星を取り巻きゆっくりと回った。わが子の後に従って冠をいただいたその焔が空を昇って行った。マリアの姿を直視するだけの力がダンテにはまだ無かった。(二十三歌)

彗星のように尾を曳きながら、中心は極めてゆっくりと周辺はさながら飛ぶように魂の群が回転している。その中でもひときわ幸(さきわ)う火がダンテに試問する。聖ペトロが問うのだ。「信仰とは何か ?」するとダンテは「まだ見ぬものの論証です」と答えた。そして、天上において見えるものは下界において隠されていてその姿は見えない。そうした事物の存在は信仰に由来し、その信仰の基盤は希望であり、それゆえ信仰は実体の性格を帯びるのだと補足した。そして、信仰の内容と由来について、自分は唯一にして永遠の神を信じていると述べ、この信仰を証しているのは物理や哲理だけでなく、福音書、詩編、預言書、聖人の著作がその真理を裏付けている。それゆえ自分は永遠の三位を信じますと語った。これが根源であり、火花なのだと。つまり、信こそが天国に入るための門なのである。(二十四歌)

ダンテは、もし、この『神曲』が世に出て政敵である邪な狼たちの無法を打ち破ることができるなら、フィレンツェに迎えられ、洗礼堂の泉の前で冠を戴く自分を夢に見る。聖ペトロに続いて聖ヤコブの光が現われる。そして「希望とは何か ?」を問う。 ダンテは、希望とは未来の栄光を疑うことなく待つことだと答える。これはペトロス・ロンバルデスの『命題論』から引かれている。ダンテのスコラ学の素養は並みのものではない。その期待は、神の恩寵と人のその時に到るまでの功徳に由来する。私の心にそれを注いだのは最高の指導者の最高の詩人だったと語る。ダビデである。聖ペテロと聖ヤコブの二つの光に聖ヨハネの光が加わる。焔の舞が止んで後をふり返ると、なんとベアトリーチェの姿が消えていた。(二十五歌)

ウイリアム・ブレイク 『天国篇』 聖ペテロと聖ヨハネ

聖ヨハネを見ようとして目がくらんだ。ヨハネはダンテを慰め、そして、問う。「愛とはなにか ? 」 ダンテは、アリストテレス流に、善は善として理解されると たちまちに愛に火を点す。愛が完全に近ければ近いほど大きい。神は至上善である。それゆえ神は最も愛されて然るべきであると答えて、目を癒してもらう。ダンテは、ベアトリーチェにあの第四の光は何かと尋ねる。それはアダムの魂だった。地上と辺獄での生活を経てキリストによって救われたが、追放の真の原因は限界を勝手に超えたことにあった。人間の好みは天体に左右され理性の産物が長続きしたことはないし、私が話した言葉は既に滅びている。人間が、どのように話そうが、その話し方は自然の裁量によって君たちに任されているが、至上善である神は、地上では I と呼ばれ、ついで EL(エル) と呼ばれた。こうした変化も人間の習俗から考えれば自然のなりゆきだろうと語った。(二十六歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第二十七歌

第二十七歌、神の御子の御前で空席になっている私の地位を簒奪しているものたちが、私の墓を穢したと憤った聖ペテロの光明が白色から紅へと変わった。と、ベアトリーチェの顔色も変った。そして、第八天は夕焼けのような紅と化した。やがて、天の磨羯宮の角が太陽に触れると凍った水気は雪片となって地球に降るのとは逆に、恒星天の水気は雪片となって上天を指して精気の中を上に昇っていった。ダンテは彼女の勧めにしたがって眼下の地球を眺めた。彼女の笑顔を見た時、神々しい歓喜が彼に降り注いだ。その視線の力によって彼は全速力で回る天の中に押し上げられた。(二十七歌)

神を見ること 第二十八歌から三十三歌

ここはアリストテレスのいう不被動の動者(キヌーン・アキネートン)としての神の働きに与る場所である。凝視できないほどの光を放つ一点が見える。その周りを月とその暈くらいの間隔で円い輪が回転している。中心に近いほど速く、周辺になるほどゆっくりだった。やがて、火花が次々に飛んで火輪とともに回り、ホザナの頌歌を歌った。天使達だった。第一の位階は、熾天使、智天使、座天使であり、第二の位階は、統治の天使、権威の天使、権力の天使、第三の階級が主権の天使、大天使、天使である。これは著名なディオニシウス・アレオパギタの天使のヒエラキアとは訳が少し異なっている。(二十八歌)

永遠の愛はこれ以上自分のために善を集めることができず、時間を越えた永遠の中でいっさいの分限を越えて思いのまま永遠の愛を新しい愛の中に広げた。形相と質料は、結合したものも含めてみな同時に出来上がって光を発した。その時、形相だけのものが天使、質料そのままのものが地球(原料)、二つが結合したものが各々の天となった(『神曲』平川祐弘訳注)。墜落の第一の原因は、あの地獄の底であらゆる重みで身動きできなくなった反逆の天使ルチフェルだった。そして天使たちは全ての事柄が映し出されている神の顔から目をそらすことが出来ずにいるため記憶がないのだとベアトリーチェはダンテに説明する。(二十九歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『天国篇』 第三十一歌

ダンテはベアトリーチェと共に第十天に入った。そこは、アリストテレスが信じる神を超える場所であった。自分が包むものに包まれたかと思えるあの点の周囲を舞っていた凱旋の光が消えてゆく。ベアトリーチェの美しさは人間の把握の域を超えていた。活光がダンテを廻り照らすと彼の視力は一層力に満ち、身体には新たな力が湧きあがった。神来の光の波の大河が円い湖のように広がる。天上に戻った人々がその光の周りで幾千という円い段状の列を作って上から見ている姿を映していた。それは永遠の生命の源である神を暗示する巨大な薔薇の花を思わせた。天国の市(まち)と皇帝となるべきアㇽリーゴ七世の座が示される。(三十歌)

第三十一歌、清らかな魂が真っ白な薔薇の形に並んで現われる。天使たちがその薔薇の花と神との間を飛び回っている。ベアトリーチェへと振り向くと優しげで慈父を思わせる老翁が一人いた。ベアトリーチェが自分を呼び出したのだ、最高段から三番目の円の中にある玉座に彼女が坐っているのが見えるだろうという。ダンテは遠くに彼女を見つめ心からの礼を述べた。彼女は微笑むとやがて永遠の和泉に向う。翁は聖ベルナール、観想の人、熱烈なマリア崇拝者だった。(三十一歌)

聖ベルナールは、マリアをじっと見つめ、その足もとにいるエバ、その下のラケル、ベアトリーチェの横に坐るサラ、リベカ、ユーディト、ダビデの曾祖母ㇽツがいることをダンテに教えた。ヘブライの女たちが壁となって円型を二つに分ける。キリストの到来を信じた人びとの反対側にはヨハネをはじめとした到来したキリストを信じた人びとがいる。ヨハネの他にフランチェスコ、ベネディクトゥス、アウグスティヌスらがいた。下の方には救われた幼児たちがいる。そのほか、アダム、ヨハネ、モーゼらがいることを教える。(三十二歌)

ウイリアム・ブレイク 『神曲』 天国篇 第三十二歌

最終歌、聖ベルナールはマリアを讃えると共にダンテに神の姿が見える恵みが授かるように祈る。祈りは聞き届けられた。光線の奥のさらに奥には言葉で及ばぬ言葉を越えた姿、記憶では及ばぬ記憶を越えた姿があった。善は意志の目的であり、善は全てこの光の中に集まっているから、そこから目をそむけることは出来ない。神人合一が成し遂げられる。至高の光の深く明るい実体の中に色の異なる同じ大きさの三つの輪が現われる。虹の二つの輪のように第一の輪が第二の輪に映って見え、そこには同じ色をした人間の姿があるように思える。第三の輪はその二つから同じく発する火のように見える。父から子に直接光が発する。それが産出であり、父と子双方から発する愛の息吹が精霊である。子なるキリストの内に人間の姿を見るとすれば受肉を暗示する。ダンテの中に稲妻のような閃きが走り、ついに三位一体とキリストにおける神性と人性との結びつきを直観するのである。人間は神の無限の愛の器として創られたのだという。ここはアウグスティヌスの神の光を彷彿とさせる場面である。(三十三歌)

ダンテは言葉にどのような意味を重ねたか

聖書の言葉の多義性とダンテのことばに対する解釈について今道さんの説をご紹介する。十二世紀の修辞学者で文芸論や論理学に通じたユーグ・ド・サン・ヴィクトルは、サン・ヴィクトルのフーゴと呼ばれたが、聖書を読む時、その言葉に四つの層があることを知らなければならないと述べているという。その四層のうちどの意味が使われているかは分からないと言うのだ。例えば、ラテン語の domus は、言葉通りには建物や家を表わす。修辞的に転用すると魂の意味になる。我が家は我が魂になるのだ。寓意的には教会を指している。そして、センス・アナゴジクス(神秘的解釈)では、天の家、神の家、即ち天の栄光を意味する。一つの言葉がその文でどのように使われているかを理解して読まなければならない。それには想像力が必要だという。

辺獄において智者のマエストロと呼ばれる人は、アリストテレスを意味した。彼とトマスの路線はダンテにとって重要だった。それに加えてソクラテスの倫理学とプラトンの形而上学があった。この古代ギリシアの三人の智者たちは二つのフィリアすなわち、精神的愛で結ばれていた。一つは神的叡知ソフィアへの憧憬(フィリア)であり、もう一つは、師弟愛としての友情(フィリア)であった。ダンテが神曲という哲学詩を書いたのはベアトリーチェへの愛のためであるが、それはエロスを越えてフィリアに高まっていたと今道さんはいう。ダンテは、この作品においてフィリア=友愛をこそテーマにしたのである。ヴェルギリウスとダンテの友情は、ダンテとベアトリーチェにおいて神のアガペー(無償の愛)に補完されていく壮大な詩劇になっていくと言うのである。つまり、智者のマエストロとはアリストテレスであると同時にフィリアであるかもしれないのである。「読み」とはこのように深めることができる。今道さんは、言葉に対する幾重もの解釈とその学問である解釈学の重要性を強調する。

至福直観 神を見ることのメタファー

アリストテレスの哲学が人生において何を求めていたのか。それは幸福であった。真理の知的直観、神を眺めることの幸福な生活であったという。トマスは、この幸福をこの世において実現可能ものではなく、天国において神に直面することによって得られるとしている。それは、神によって天使と同じように天国で与えられることが約束されているものであった(『神学大全』)。トマスにおいて、神は光源であり反照の光としてのキリストと照応する。それらの光に迫っていくことが至福直観であった。美とは明快と調和とによってなる。そこには客観的な認識としての透明性があり、幾何学的、数学的な輝きの美しさだった。一方、ダンテは「わたしの視力は見つつ強まり、唯一の姿が多様に見えた(天国篇 三十三歌)」と書いている。それは神秘の深まりとしての美的体験であると今道さんは言う。そこには美の認識の多様な深まりがある。無限者としての神に無限に近づこうとする努力が報われる場所が天国ではなかったか。ダンテは、光源としての神の中に呼びこまれ一つとなる。それは神秘的一致であり、天国における愛の完成である。これが、ダンテの考える途方もない企て「美の神学」であったと今道さんはいうのである。

 

 

引用文献

ダンテ『神曲』平川祐弘訳

今道友信『ダンテ「神曲」講義』part2 煉獄篇 ―― ああ ! ベアトリーチェ

今道友信(1922-2012)
『ダンテ 神曲 講義』

ダンテはヨーロッパ近代文学の祖と言われている。ほとんどの人が哲学者ダンテを言祝ぎ、詩人ダンテを激賞した。詩人哲学者と言って良い。『ヨブ記』はパトスの文学であるが、ヨブ自身は信仰の人ではあっても哲学者ではなく、ゲーテの『ファウスト』も第一部は非常に哲学的であるが、第二部は飛躍が多く純粋に文学だと今道さんは言う。古今の詩人の中で、詩人哲学者と言えるのは、パルメニデス、荘子、ダンテとニーチェくらいだと言うのである。

前回に続いて今道友信さんの『ダンテ「神曲」講義』をご紹介しています。地獄篇は比較的伝統的なイメージを生かせたのですが、煉獄は、当時かなり新しい概念でした。それで、ダンテは新たなイメージを作り出さなければならなかった。古典的な哲学とキリスト教信仰とを調和させようとしたトマス思想による影響が大きいといわれますが、ダンテには、詩人としての偉大な想像力があった。その想像力が、この「煉獄篇」を経て「天国篇」でクライマックスを迎えます。

「煉獄 purgatorio 」は12世紀に浄罪界として新たに提示された(ル・ゴフ『煉獄の誕生』)。ダンテは、それに関する文学的な先例を知らずホメロスのハデス(冥界)からイメージを借りるしかなかった。ホメロスが描いたハデス、そこは灰色の世界で人は影のように生きる。しかし、煉獄には魂が浄められるという希望があった。地獄の門の前では希望は置き去りにされる他ない。キリストの十字架上の死によって人は原罪から救われたが、自らの罪である自罪は、魂自身が自らを浄めなければならなかったのである。

ウイリアム・ブレイク『煉獄篇』 第一歌

煉獄篇

私は歌おう第二の国を
ここで人間の霊が浄まり、
天に昇るのにふさわしくなる。
(第一歌 4-6 今道友信 訳)

残酷な海=地獄を後にして、今や南極の四つの星(智慧・勇気・節制・正義)を見上げる。すると、一人の翁がいた。かつて、清廉な共和政ローマの執政官だった煉獄の七つの圏の番人カトである。ウェルギリウスは、天の計らいでダンテを案内している、自由のためには命を惜しまぬ者だと説明した。カトは謙譲の象徴である藺草(いぐさ)を腰にまいて煉獄山を登るように忠告を与える。(一歌)

魂を乗せた舟から煉獄の門へ 第二歌から九歌

美しい曙の白くほの朱い頬が時とともに燃えたつ柑子色に変わっていく時、濃い靄の中で火星が赤く輝くように一条の光が海原の上を飛ぶ鳥を凌ぐ速さでやって来る。魂を乗せた船が天使に連れられて来るのだ。百余りの魂たちは「イスラエルの民エジプトを出でて」を歌い終わると艫に立った天使は彼らのために十字をきった。そして彼らは浜辺に降りた。彼らはダンテが息をしているのを知って蒼ざめる。その中に友のガゼㇽラがいた。彼の歌声に皆聞き惚れていたが、早く山へ駆け上がって汚れを落とせとカトに一喝されてしまう。(二歌)

サンドロ・ボッティチェリ 『煉獄篇』 第二歌

煉獄には、はるかな眺望と海のさゆらぎが見える。ブルクハルトは、自然美が人間の感情に強く訴えかけることが示されたのはダンテを以って開始されると述べた(『イタリアにおけるルネサンスの文化』)。

ダンテは、背後からの光に自らの影が前に落ちるのにウェルギリウスの影が無いことに狼狽し、見捨てられたのかと一瞬思う。急な上りで一群の魂たちに出会った。その中の一人が奸計を弄して皇帝の冠を戴いたマンフレーディだった。法王クレメンテ四世はフランスからシャルル四世を呼んで彼を討たせた。亡骸はヴェルデ川のほとりに投げ捨てられる。彼のように破門された者は、例え、末期に前非を悔いても生前の30倍の時を煉獄で過ごさなければならない。それで、娘のコンスタンツァにこのことを伝えてくれとダンテに頼むのである。現世の人の祈りは、この長い時間を短縮することができる。(三歌)

「葡萄が褐色に熟するころ、村の者はとげのある枝を掻き集めて、畑の口をしばしば囲うが、魂の群れが私たちを離れた後で、先達を先に、私を後ろに、二人きり登った径はその口の幅さえもなかった(平川祐弘 訳)。」このあたりの表現は先達ウェルギリウスの『農耕詩』を意識したものだろう。途中、膝頭を抱えて坐りこんでいる男に出会った。フィレンツェの楽器職人ベラックワだった。どうせ、生きた間だけここで待たされるのだ。急ぐ人はお先にどうぞと言う。(四歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第五歌

山腹を横切って来るのは、非業の死を遂げたが臨終に前非を悔いたために地獄堕ちを免れた者たちだった。その中のカッセロがエステ家の手の者に殺された話を、またモンテフェルトロが、カンバルディーノの戦いで咽喉を刺されて絶命し、死体がアルノ川に流されたが、天使が悪魔から魂を救ってくれた顛末を語る。(五歌)

非業の最期を遂げた魂たちは、次々とダンテに現世の人々への言づけを頼むのだが、彼は祈りで天の決められたことが変えられることに疑問を抱く。ウェルギリウスは、やがてそれに答えて下さる人が現われるだろうと告げる。(六歌)

闇に覆われれば、誰も一歩たりとも上に登ることができない。夜の間は谷間で待つことになった。そこには、皇帝ルドルフ、ボヘミア王オットカル二世、アラゴンのペドロ三世、イギリス王ヘンリー三世らがいた。(七歌)

魂の一人が立ち上がって東方に目を据え「光消えざる先に」を歌い始めると他の魂たちもそれに和した。すると燃え盛る剣をかざした二人の天使が、蛇からこの谷を守るために舞い降りてきた。(八歌)

眠っていると聖女ルチアがダンテを抱き上げ煉獄の門まで運んでくれていた。ウェルギリウスもそれに従った。ルチアはラテン語の光を意味する。殉教したが、拷問によって目を抉られたものの物が見えたという奇跡を伝えている。それゆえ目の守護聖人でもある。ダンテは聖ルチアと縁が深かったと伝えられる。

ウイリアム・ブレイク『煉獄篇』 第九歌

目を覚ますと、高台に裂け目が見えた。時は、1300年の復活祭の月曜日である。その入口には三段の石段があり、一段目は滑らかな白の大理石、二段目は青紫より濃い焼石で縦横に縞が入った粗石である。三段目は鮮血のような赤い重みのある斑岩だった。これは後悔の三段階「心の悔悛」「口の告白」「行為の遂行」を表わしているという。

天使はダンテの額に剣の先で七つの大罪(peccatum)を意味する7つのPを刻み、ペトロから預かったと言う金と銀の鍵で煉獄の扉を慎重に開け、ダンテたちを中に通した。そして、振り向けば外に戻ることになると警告した。反省だけでは元に戻る。過去から救い出され、未来に向けた現在の勝利こそが必要とされるのである。(九歌)

神曲の詩型テㇽッアリマ

ダンテの詩の形式はテㇽッアリマと呼ばれる11音節つまり、一行に母音が11あり、三行から成る。これはすでに南仏プロヴァンスに盛んだったトルバトゥール(吟遊詩人)たちが使っていた形式だと言われる。各詩節の最後の母音はABA、BCB、CDC、DED‥‥といった形式の脚韻を踏む。イタリア語の最後の脚韻だけを示すとこのようになる。

われらの進んだ第一段は(io)
白大理石が磨かれひかり(o)
わが身を鏡のように映した(io)

二段目の石は紫蘇よりもこい(o)
焼けた色合いの荒れ石で(ia)
縦にも横にもひびわれがあり(o)

そこから登った三段目(ia)
堅い斑岩で赤く煌めく(e)
脈からあふれる血汐のようで(ia)

その石の上に両足をのせる(e)
神のみ使いは金剛石と(a)
覚しい敷居に腰かけている。(e)(煉獄篇 第九歌94-105 今道友信 訳)

消されてゆく額の罪の文字 第十歌から十八歌

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第十歌

岩間をよじ登ると第一の環道に出た。人の身長の三倍ほどの幅の道が煉獄山を取り巻いている。その道の山腹に面した側にはギリシァ彫刻を上回るほど優れた天使やマリアの像、聖なる櫃(はこ)を引く牛車、トラヤヌスなどのローマの君主たちが絵巻のように彫られている。その下を高慢の罪を償うために岩を背負った人々が泣きながら歩んでくる。(十歌)

「浮世の名聞はいわば風の一吹き、ある時はこちらへ、ある時はあちらへと吹く。風向きが変われば名も変わる。(平川祐弘 訳)」風の前の塵のような名声を鼻にかけた傲慢の災い。それをアルドブランデスコが、そして、細密画のオデリージが語る。(十一歌)

山肌や堅い敷石の上には聖書やギリシア神話から慢心を戒める彫像が並ぶ。明けの明星のように輝く天使がやってきて翼でダンテの額をはたき行路の安全を保障してくれた。美しい歌声を聴きながら石段を登ると、身体が軽やかなのに気がついた。額の罪を表わすPの字が一つ消えていた。(十二歌)

第二の環道に出た。岩と同じ色の外套を着た霊魂たちが岩に沿って坐りこんでいる。彼らの瞼は針金で縫いつけられ、その隙間から涙を流して羨望嫉妬の罪を浄めている。この圏では妬みの罪が鞭打たれる。粗織りの服をまとい、たがいに肩で身を支え、そして、みな崖にもたれている。祭りの日に集った物乞いたちが他人の同情をいち早く得ようと声を立て憐みをこう。そのような風景だった。その中のザービア・ダ・シエーナは嫉妬によってシエーナ軍の敗北を喜んだことを物語る。(十三歌)

その中のもう一人、グィド・デル・ドゥ―カが、アルノ川に面した緒都市やロマーニャ地方の悪徳をなじる。すると、空をつんざく雷のような声が、「我に遇うものは我を殺さん」「我は石と化したアグラウロスなり」と響く。ウェルギリウスはダンテに、これは人間を分限の内に限る堅い轡(くつわ)なのだという。天は人間の周りを巡って永遠の美を示すが彼らの目は地上にばかり注がれていると。(十四歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第十五歌

天使の関所を通過した時、また一つ額につけられた罪のP字が消えた。そして、第三の環道に至った時、ペイシストラトスが娘に公然で接吻した若者を許すように妻に語り、聖ステパノが石もて打たれる時、かの者たちを許すように天に祈る場面をダンテは幻視する。「怒りの火を消す」平和の水に対しては必ず心を開けという訓えなのだとウェルギリウスは語る。(十五歌)

二人は苦い濁った空気の中を進む。地獄の闇もこれほどではなかった。すると、怒りの結び目を解いているという「アニュウス・デイ」に始まる平安と祈りの歌声が聞こえてくる。マルコ・ロンバルドが、世の中から徳が姿を消し悪意が巣食うのは何故かというダンテの質問に答える。それは世俗の権力と宗教の権力の分立が侵された結果だと彼は言う。(十六歌)

ダンテは濃霧の中で水面に浮かぶ泡沫(うたかた)のようにペルシア王アハシュロスと王妃エステル、アエネアスの婚約者となるラウィニアとその母アマタなどの幻影を見ている。すると天の霊が、ここを登れと告げる。第四の環道に登ると夜になった。ウェルギリウスは、ダンテにこう語る。自然愛はけっして誤らない、意識的愛は動機の不純や過不足で誤ることがある。愛が人間のあらゆる徳であり、罰に値する行為の種である。隣人を踏み台にして優越を狙う者、権力や名声を失うことを恐れて他人の不幸を愛する者、不正を蒙り血の復讐に飢える者、これらの者達はこの環道で前非を悔いた上、呵責に遭うのだと。(十七歌)

人間には生得の思考能力があり、善や悪を愛し、その愛を集めて選りだすことができる。理を究め、根本まで遡った人は生得の自由を認めて後世に道徳を残した。ベアトリーチェが貴い力というのはこの自由意志を指しているのだから、彼女に会う時には、そのことに留意しろと先達は注意を催す。環道沿いに走ってくる魂たちの声が聞こえた。善を行う心が生ぬるかったために今その償いをしている人々だ。その中のヴェローナのサン・ゼーノ寺の僧院長をしていたミラーノが自分たちの後についてくれば石段の所にでられるだろうと告げた。(十八歌)

清新体から神学詩へ

サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)
『ダンテの肖像』1495

ダンテは詩人として四段階の発展をみせているといわれる。当時、フィレンツェではブルネット・ラッティーニが文化的な中心人物であり、キケロに則った『発想論』という修辞学の著書を書き、まだ大学のなかったフィレンツェでは大きな影響を及ぼしていた。地獄篇第十五歌で「私がいかに先生に恩を感じているか‥‥」とダンテは書いている。詩の修得における目標の第一段階は清新体であった。父にもあたるというグィド・グィニツェㇽリ(煉獄篇二十六歌)と清新派であり、かつての友人でもあったグィド・カヴァルカンティに学んだ。

その特徴の一つは dolce(甘味な)。十二世紀、南仏プロヴァンスの吟遊詩人の詩を継承する宮廷恋愛詩の系統であり、高嶺の花の美女への讃歌である。それにもう一つは nuvo(新しい)。13世紀後半にパリから全欧に広まったアリストテレス的・イスラム文明的自然学の知識による愛の心理学・生理学を指す。そして、最後は公用語と言えるラテン語ではなく俗語のイタリア語で謳ったことである。それは十三、四世紀にベギーヌ女子信心会の女性たちと同じく欧州における最初の母語文芸の試みの一つだった。1290年代の前半まではダンテは清新体の詩人であった。

第二期は、ベアトリーチェを失い、その死によって単なる感傷的な恋愛詩から彼女を賛美し思慕することから生まれた新しい響きの詩が産まれたといわれる。つまり『新生』に代表される新しい詩の段階である。『神曲』の詩には及ばないといわれる新詩だがこんな詩句がある。「われを見しとき、わが名を呼びて いへり、わが意(こころ)に従ひて汝の心の ありし遠きところより我は来れりと(中山昌樹 訳)」このあたりまでの詩の特徴をアウエルバッハは、高貴な遊戯と秘教的性格だったと述べている(『世俗詩人 ダンテ』)。

ダンテ『神曲』写本 1360

第三段階は、宮廷恋愛詩とその倫理的変容といわれる象徴詩から脱却し、キケロの『友情論』やボエティウスの『哲学の慰め』などの影響による哲学詩の時期である。途中で創作を止めてしまった『饗宴』という作品がある。とりわけ、キケロは後の時代にとっても重要な思想家だった。literatura = 文学という言葉が言語芸術を総括する言葉としてキケロによって作られた。彼がいなければヨーロッパの抽象名詞の多くは存在しなかったろうと言われている。

第四段階がこの神学詩といわれる『神曲』なのである。これらを踏まえた上で今道さんは、彼の文芸の特色を『新生』も『饗宴』も『神曲』もみな徹底した一人称文学であると言う。太宰や岩野泡鳴のような私小説家と同じだと言うのだ。夏目漱石もアンドレ・ジイドもハインリヒ・ベルもほとんど「私」を語っている。だが、ダンテには彼らと違う点がある。自己の欲望とその現象世界に、それらを越えた創造主の愛と摂理を描こうとした。それがボッカチオをして「この栄光に満ちた詩人」と言わしめた原因だろうと言う。「神の栄光に満たされた詩人」なのである。ちなみに、単に戯曲(Commedia)と題されたこの作品に神々しい(Divina)という文字を冠して『神曲』としたのは、このボッカチオであったと言われている。

夢の誘惑・地震と友情・天上楽園 第十九歌から二十九歌

夢の中にセイレーンが現われる。この声でオデュセウスを正道から誘き出したのだ語っていると聖らかな女性が現われ、この女は何者かと問う。ウェルギリウスはセイレーンをとらえると服を裂き、その前を開くと腹から立ち昇るあまりの臭気にダンテは目を覚ました。堅い岩と岩の間を進むよう天使が話しかけてくれる。見晴らしの良い第五の高台に出ると貧欲の罪を浄めるために人々がうつ伏せになっている。元法皇のアドリアーノ五世が、自分が法王に選ばれた時、嘘偽りの人生の正体を見破ったと語る。(十九歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第二十歌

第二十歌、第五の環道では腹這いになった人々が涙を流して前非を悔いている。フランス王家の始祖ユーグ・カペ―は自分がキリスト教世界の全土に暗い影を落としている悪の樹の根元なのだという。プロヴァンスの伯爵領という持参金に目がくらむまで悪事は働かなったが、その時から暴力と欺瞞がはじまった。子孫ども、シャルルはイタリアに南下しクㇽラディーノを犠牲にし、別のシャルルは海賊が奴隷女を売りとばすように自分の娘をせり売りしている。あまつさえ、フィリップはボニファチオ八世を逮捕し、死なせたと言う。彼の話が終わり、そこを離れると崩れ落ちんばかりに大地が揺れた。地震が終わると同時に歌声も止んだ。(二十歌)

煉獄では誰かが自分の魂の浄化を自覚した時、振動が生じ、合唱が和する。それは人の自由な意志が魂に働きかけた時に起こるのだと詩人スタティウスの魂が語る。それとは知らず彼は、本人を前にウェルギリウスを賛美するのだった。スタティウスは途中まで彼らの道連れとなる。煉獄では友情も芽生えるのだ。(二十一歌)

環道を過ぎる度に額から罪の文字がまた一つ消える。第六の環道に登る途中ウェルギリウスはスタティウスに煉獄で魂を浄化しなければならなかった理由を聞いた。スタティウスは金を惜しむことの無意味さをウェルギリウスの詩句から悟り、逆に浪費僻となってしまったこと、そして異教を装って隠れキリスト者になっていたことを告白する。この生ぬるさのために第四圏を400年余りも巡っていたのだと言う。道の真ん中に馥郁と香るこの実をたたえた樹が立っている。近づくと食べてはならぬという声がした。(二十二歌)

敬虔だが、痩せ衰えた亡者の一群が通り過ぎる。その中に友人だったフォレーゼがいた。生前度を超して飲食した者は飢えと餓えによる浄化を受けなければならないと語る。そして、自分が償うべき時を短くしてくれたのは妻のネㇽラの涙のお蔭だというのだ。そして、胸もあらわに乳首を出して出歩くフィレンツェの女たちを予言して嘆く。(二十三歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第二十四歌

もう一人のやつれた顔はルッカのボナジュンタだった。彼は、ルッカに生まれたジェントゥッカという一人の女性がダンテに好意を寄せてくれるだろうと語り、話は清新体に移った。連れとなっていたフォレーゼは、分かれ際に彼の兄でダンテの政敵・黒党の首領であったコルソ・ドナーティの悲惨な最期を予言する。すると、もう一本の樹が現われ、その下では人々が物をねだる子供のように手を差し伸べていたが、此処へ寄るなと声がして飽食の災いを語った。上にあがるにはこの道を曲がれと赤々と輝く玻璃のような光の姿が声を発すると風がダンテの額に吹き寄せ羽が動くのが感じられた。(二十四歌)

今は、復活祭の火曜日の午後二時を過ぎた。石段を登りながらダンテはウェルギリウスに肉体を捨てて養分を取る必要のないも者が何故やせ細るのだろうかと問うた。二十一歌で登場したスタティウスがそれに答える。血液が精化されてその能動力から魂が作られ、やがてクラゲのようなものが動きだし諸器官を形成し始める。こうして脳の組織が完成すると新たな霊魂が吹きこまれるが、生を終え、魂がきずなを脱しても記憶力、意志、知力は残る。魂は地獄か煉獄かに落ちて自己の道をゆくが、形成力は周辺に向って生きていた時と同じように魂が刻印する通りのかたちを大気の中に形成するという。やがて五官を作り出し視覚さえ備える。欲望や感情が魂に触れるとそれに応じて大気のような影の形も変るのだと言うのだ。最後の圏への道にたどり着いた時、山腹から焔が吹き出し亡者たちを焼いた。その間彼らは貞節を守った女や夫の名を呼び上げながら賛美歌を歌っていた。(二十五歌)

火の輝きに影を宿すものを見て魂たちは蒼ざめた、その中の一人はその理由を尋ねたがった。その人の名がグィド・グィニリツェㇽリだと知るとダンテはが感無量となった。詩人としての大先輩、父にもあたる人だと言う。僧院へ行くことがあったら「主の祈り」を一遍、この煉獄の者たちのために唱えてやってくれと頼むと魚が水に潜って水底に消えるように焔の中に姿を消した。(二十六歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『煉獄篇』 第二十八歌

今道さんによれば煉獄で浄罪の火で焼かれるという概念は、12世紀に突如起こったわけではなくアウグスティヌスの『死者のための供養について』『神国論』に「罪によって穢れた魂を焼く火」を肯定する文章があるという。ウェルギリウスは、この火を越えればベアトリーチェに会えるのだとダンテを勇気づけて火を潜らせる。陽が落ちて岩間の透間から見える星も明るく大きく見えた。夢の中に旧約聖書のレアとラケルで知られるレアが現われた。それぞれ活動性と観想性を象徴とする。陽が登るとウェルギリウスは、こう語って間もなく姿を消すことを暗示するのだった。「永遠の劫火と一時の劫火を、息子よ、おまえは見た。そして、おまえが着いた地はもはや私の力では分別のつかぬ処だ。私はここまでおまえを智と才でもって連れてきたが、これから先はおまえのよろこびを先達とするがよい(平川祐弘 訳)。」(二十七歌)

さわやかな緑濃い神の林だった。ここちよい柔らかな風が軽やかに額を打った。花々で覆われ彩られた小径を歌いながら花を一本一本選りながら一人歩いてくる夫人がいた。夫人はこの地は神が永遠の平安の保証として善を行う者としての人間に与えたと告げる。地上楽園であった。こちら側では罪業の記憶を消すレテの川が、あちらでは善行の記憶を新たにするエウノエと呼ばれる川が流れていて、両方の水を飲まなければ効き目はないという。(二十八歌)

サンドロ・ボッティチェリ『煉獄篇』 第二十九歌

その夫人マテルダとダンテは川の両岸を上流に向って歩んでいく。稲妻のような光が走ると光芒は燦爛と輝き始め、嚠喨(りゅうりょう)の楽の音が走る。ダンテはエバに対する義憤が湧きあがるのを感じた。七基の燭台が静々と進んでくると、その後ろに白衣をまとった人々が続き、川を隔てて焔が前に進んでくると彩られた空気は絵筆を走らせたように尾を曳いた。7色の幟は、はるか彼方へと棚引いた。百合の花をかざした24名の長老が進み、四匹の霊獣に囲まれて二輪の凱旋車をグリフィンが曳いていた。頭と翼は黄金の鷲で他は朱と白の獅子の姿だった。右側の車輪の近くには、一人は赤く、一人は緑玉で一人は雪のように真っ白な三人の天女が歌に合わせて歩んでいた。左の車輪の近くでは葡萄色の服を着た四人の天女が、その中の一人である三つ目の天女に従って舞っている。行列の最後にヒポクラテスの流れを汲む厳かな医師のような翁が二人と質素な服装の四人の姿があった。最後尾は、気色鋭い老翁が微睡みながら歩んでくる。《これらの登場する霊獣や登場人物の寓意については巻末に『ボルヘスの「神曲」講義』から紹介しておいた。》(二十九歌)

ああ !  ベアトリーチェ 第三十歌から最終三十三歌

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)
『煉獄におけるダンテとベアトリーチェの出会い』1852

ダンテは1265年5月にフィレンツェの貴族アリギエーリ家に生まれた。彼の永遠の恋人と言われたベアトリーチェは翌年の6月に生まれている。ダンテは彼女に9歳の時に初めて出会い、その後行き来はあったかもしれないが、18歳の時、道で出会った時の彼女の挨拶に生涯忘れ得ぬ「魂がおののくような経験をした」。その後、彼女は有名なバルディ家に嫁いで、24歳の若さで亡くなってしまう。それ故と言って良いのかもしれないが、彼の心の中にベアトリーチェは生涯生き続けていたのである。

巨大な燭台とグリフィンの間を進んできた民の一人が「新妻よ、レバノンより来れり」と歌いながら三度叫ぶと、その声に一斉に皆が和し、花々をあたり一面にまき散らした。それが雲のようにあたりを覆った時、白い面絹をかけ緑のマントに下に燃えたつような朱の衣を纏ったベアトリーチェがその車の上に凛々しい王女のように立ち上がった。

ウイリアム・ブレイク『煉獄篇』 第三十歌

彼女の神秘の力に動かされ、昔の愛の激情が甦る。狂おしく振り向くとウェルギリウスの姿はもはやなかった。涙が頬をつたって流れ落ちた。「泣いてはなりません。あなたは、ほかの剣になお泣かねばならないのです」とベアトリーチェは水兵を査閲する提督のように語った。

ベアトリーチェは、自分の言葉がダンテに罪に応じた悩みをいだかせるために発せられていると天使達にいう。私が天に昇った時、彼は私を愛さなくなり、善の虚像を追った。私は神に霊感を乞うたが受け入れられず彼は堕落に堕落を重ねた。救いの手段は破滅した者を見せる他なかったと言うのである。このベアトリーチェに同情した聖母マリアが聖ルチアを遣わせてウェルギリウスにダンテの案内を頼んだのである。(三十歌)

ダンテはベアトリーチェに詰問され、涙ながらに前非を悔いた。悔悛のイラクサがダンテを刺し、自分の罪に対する心痛のあまり失神した。眼を覚ますとマテルダ夫人が自分を曳き、小舟のように水上を進んだ。「汝我を清めたまえ」というあまりに優しい声で自分を水の中に浸した。ダンテを水から引き上げると4人の美しい天女が舞う中に連れて行った。ニンフである天女はベアトリーチェに清らかな眼をダンテに向けるようにもよおした。(三十一歌)

サンドロ・ボッティチェリ『煉獄篇』 第三十一歌

10年ぶりにベアトリーチェの笑顔を見た。まぶしさに視力を失いかけたが、やがて回復する。グリフィンの曳く車が向きを変えて動き出した。マテルダ夫人にダンテとスタティウスがそれに従う。葉も花もない巨大な樹の一本の枝でその轅を繋いだ。ベアトリーチェはダンテにしばらくここで森の番人となり自分と共に永遠のローマの民となり、ここで目にしたものを現世に戻って書くようにと語った。大鷲が降りてくると車に一撃を与え、女狐が走り込んできた。女狐が逃げ去るとまた、鷲がやってきて車の中に羽を散らかし、去っていった。今度は龍が地面の割れ目から現れ車の底の一端を食いちぎって去った。角を生やした異形の頭があらわれ、娼婦が色目を使いダンテを見ると情夫の巨人が鞭で女を叩きのめした。(三十二歌)

ベアトリーチェは先ほどの事件に関係していると思われる種々の事件を謎めいた言葉で語ると、あの巨大な樹が智慧の樹だったことをほのめかす。そして、ダンテとスタティウスはマテルダ夫人の勧めるままにエウノエの川の水を飲むのだった。しかし、ここで第二篇のために用意された紙数は尽きる。復活祭の水曜日の正午頃であった。(三十三歌)

煉獄山 作者未詳 九層からなり七つの環道を持つ。

煉獄山は、浜辺から山腹を登ると煉獄門(地獄門と同じく第9歌に登場する)に至る。ここから上に7つの環道がある。そこで、それぞれの罪を浄めるのであるが、下から順に第一(傲慢)、第二(嫉妬)、第三(怒り)、第四(怠惰)、第五(貪欲)、第六(大食)、第七(色欲)となっている。アリストテレス=トマスによる誤った愛に基づく悪徳の発生説からの分類である。そして、頂上には、かつてアダムとエバのいた地上楽園がある。したがって地獄と同じく、都合九層になっている。これが煉獄山の構成である。それは人が住まない南半球にあるとされた。

神曲の構成はというと、全部で百歌からなり、地獄篇は三十四歌だけれど第一歌は総序の意味があるので三十三歌と考えられている。煉獄篇は三十三歌、天国篇も同じく三十三歌となっている。三は三位一体から来る聖数であり、十は完全数である。ボルヘスがダンテの世界は、一と三と円環に支配されているというのは尤もなことなのだ。

これに関連して今道さんはミルコ・マンゴーリが指摘するダンテの数秘を紹介している。ベアトリーチェがダンテの前に姿を現わすのは煉獄篇の第三十歌であるが、それ以前に彼は六十三歌を費やしている。その後、三十六歌で『神曲』は完結する。彼女がダンテに名を告げるのは、その第三十歌の七十三行目であり、その後は七十二行ある。七十二は7+2=9となる。今道さんは、哲学にはソクラテスの言語のロゴスとピュタゴラスの秩序のロゴスの二つの系統があり、前者は人間の意識の展開が現象を支配する構造としてのイデアに迫るのに対して、後者は実在そのものが数を通して人間に理解可能なように自己を開示していることを観想することによって事象の本質に迫る思想だという。ダンテは、アリストテレス=トマス系統のスコラ哲学だけでなく、ピュタゴラスの数秘主義を別に発展させていた可能性もあるというのである。

エルヴィン・パノフスキー(1892-1963)
『ゴシック建築とスコラ哲学』

新プラトン主義の哲学的影響もあるとされるトマスだが、一般的にアリストテレスの哲学とキリスト教の信仰をいかに調和させるかが、トマス神学の課題だったと言われる。「聖なる教え(神学)は、信仰を証明するためではなく、この教えに示されているその他のすべてを明瞭にするために人間の理性を使うのである(トマス『神学大全』前川道郎 訳)」という。啓示や神の本質といったこと以外の自然学、倫理学、哲学に関する事柄に明確な証明を与えること。啓示については積極的な論証はできないにしても、ある種のアナロジーによってその神秘を「顕わにする(マニフェスト)」ことを目指した。もし、神曲とトマス神学との関係を問われるなら、このアナロジーによるマニフェストが最も重要な部分になるだろう。ともあれ、この「顕わにすること」=「明瞭にすること(クラリフィケイション)」はトマス神学の第一原理だとパノフスキーは言う(『ゴシック建築とスコラ学』)。

その明瞭化の手段として、1.全体性(十分な列挙)、2.相同な部分と部分の部分との一つの体系に従った配列(十分な分節化)、3.明確性と演繹的説得性(十分な相関性)をパノフスキーは挙げている。1.と2.については、例えば、見出しと数字と段落とによる紙面の視覚的分節化などがよい例となる。要するにある順序に従って配列することが「精神的習慣」となりつつあったのである。ダンテもまた、そのような雰囲気の中にあった。3.の演繹的説得性が神曲の場合重要なのだが、ダンテの表現する対象とその表現とは対象の具体性とその意義とに重なり合って、テクストの構成全体とテクストとの関係をより確かなものにしている。ダンテの新しさは、トマスのように対象を理論的に明確にすることよりも詩的イマジネーションによって顕にすることを目指したことであった。そのことは天国篇においてより一層明らかになる。ともあれ、私たちは、この緻密な構成と豊かな詩的表現に魅惑されて止むことが無い。次回天国篇でも、その哲学と詩的表現を探ってみたいと思っている。

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1889-1986)
『ボルヘスの「神曲」講義』

付『ボルヘスの「神曲」講義』から 第二十九歌の霊獣・人物たちの寓意

ボルヘスは、この本の八章「夢の中の出会い」において、第二十九歌に登場するものたちの寓意に関する諸説をこのように紹介している。興味のある方は、こちらも読まれるとよい。

24人の長老は、ヨハネ黙示録にある24の座と長老のことであるが、旧約聖書の全24巻を指す(聖ヒエロニムス『弁明的序言』による)。

六つの翼の生えた獣は福音史家あるいは福音書を、また、空間の六つの方向への教理の伝搬を指している。

凱旋車は普遍教会であり、その二つの車輪については、複数の説がある。
旧約・新約二つの聖書、
活動的生活と観想的生活、
聖ドミニクスと聖フランチェスコ、
あるいは正義と憐憫であるという。

グリフィンはキリストないし教皇を
右手の女たちは対神徳(信仰・希望・愛)を、
左手の女たちは枢要徳(智慧・勇気・節制・正義)であり、三つ目の天女は智慧で過去・現在・未来を見通している。

 

今道さんの講演『ダンテと愛の構造性』の一部分が収録されています。ダンテ思想と現代の問題を結びつける講演の前半のあたりです。

 

引用文献

ダンテ『神曲』平川祐弘訳

エーリッヒ・アウエルバッハ
『世俗詩人 ダンテ』 ダンテを包括的に知るには非常に良い本です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今道友信『ダンテ「神曲」講義』part1 地獄篇 ―― 嘆きの都市へ

今道友信(1922-2012)
『ダンテ「神曲」講義』

今道友信(いまみち とものぶ)さんの講演を聞くことができたことは、幸福な思い出となっている。今でも忘れがたい。2001年の北九州市立美術館での講演だと記憶している。演題は『東洋の美学――二十一世紀の課題として――』だった。その格調の高さと親しみやすさが入り混じった語り口、国内外の詩・文学を縦横に引用しながら全く違和感なく話の中に滑り込ませる力量にすぐに引き込まれた。こんな話ができたらいいなあと淡い憧れをいだいたものだ。講演の後、挨拶のような言葉を二言・三言交えた、そんな刹那が、代え難い瞬間になることもあるのだ。

講演の中での驚天動地の言葉は、これだった。「日本が必ず21世紀に独立国として残るかどうか保証はないんですね。歴史を見ればどんな国でも800年も続いたという国は滅多にないのです。‥‥どうしても皆が守らなければならないのは私どもの、多くの方の母語である日本、これを大事に続けていかなければなりません。日本が国家として盛んになっても、日本語が乱れて日本の文化が無くなってしまうのだったら、滅びても日本語が残って、日本の文化が残っていることが余程人類のためになりますね。」今道さんは、自分は修道院に入ったこともあるけれど、召命がなくて世俗の中で哲学をするようになったとおっしゃっていた。カトリックの敬虔な信者であった。ダンテの神曲については、多くの本が書かれているのだろうけど、キリスト教の教義に関して、僕も含めて日本人は詳しくないと思う。それで、神曲の宗教哲学に関する部分は、不明なことが多い。今道さんは、本書『ダンテ「神曲」講義』で、特に「天国篇」に関する解説を分かりやすくしてくださっている。今回は平川祐弘さんの訳をもとに神曲全体は扱うけれど、特に天国篇をご紹介したいと思っている。

オーギスュスト・ロダン(1840-1917)
『地獄門』石膏  1880-1917 オルセー美術館
門の上の三人は象徴的な意味を持っている

地獄編

地獄の道連れ 第一歌から三歌

時は、1300年の聖金曜日、ダンテは暗い森の中に行き暮れていた。あるのは、自分は誠の道を踏み外してしまったのだという悔恨だけだった。一匹の斑紋のある美しい豹に向いあったが、朝陽に救われた。今度は獅子が、続いて狼が現われた。色欲、権力欲、貧欲をそれぞれ象徴している。ダンテは谷底まで逃げる途中、「今は人ではないが、かつては人であった」者に出会った。これから永劫の場所へ連れて行ってやるという。それがローマの偉大なる詩人ウェルギリウスであった。彼については、小川正廣 『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』 ホメロスとウェルギリウスで書いておいたのでここでは繰り返さない。ホメロスをウェルギリウスは讃え、ウェルギリウスをダンテは手本とした。ここに三重の輪がある。(第一歌)

ダンテは1300年にフィレンツェのプリオーレ(長官)の職に選ばれた。こちらは史実である。この時、フィレンツェは神性ローマ帝国皇帝を支持する皇帝派のギベリン党と教皇を支持するグェルフィ党とが勢力を争っていたが、そのグェルフィ党も黒派と白派とに分裂した。黒派は白派と教皇との切り離しに成功する。ダンテは、この白派の指導者だったのである。彼は、欠席裁判により税金の使い込みと教皇に対する陰謀罪を問はれ、罰金と2年間の追放刑を宣告されたが、この裁定を不当として当局への出頭に応じず、1302年、3月15日に死刑(火刑)宣告され、4月4日にフィレンツェを脱出した。そして、ほぼイタリア全土を逃亡する者となり、フィレンツェに一度も帰ることなく、最後はラヴェンナで領主グィド・ダ・ポレンタにかくまわれ、子供たちと2年ほど一緒に暮らしたのち1321年に亡くなっている。1265年生まれだから56歳前後で亡くなったことになる。

ウェルギリウスへ地獄めぐりに対する不安を吐露するダンテだったが、天国にいる人たちが、自らも地獄めぐりの体験を持つヴェルギリウスに依頼したのだと語り、彼を安心させる。(第二歌)

ウイリアム・ブレイク(1757-1827)
『神曲』 地獄篇 第三歌

地獄門

われを過ぎひとは嘆きの都市へ。
われを過ぎひとは永遠(とわ)の嘆きに。
われを過ぎひとは亡者にいたる。
正義は至高の主を動かして、
神の権能と最高の知と
原初の愛が、われを創った。
われに先立った被造物とは
永遠のものだけで、われ永遠に立つ。
ここに入るもの望みを捨てよ

(1-9/今道友信 訳)

神曲の中の名句の一つであるが、ここでも「われを過ぎて」は三度繰り返されている。地獄の門をくぐるものはここに一切の希望を置いて進めというのである。天、天使達、不滅の諸要素、純粋質料は永遠のものである。しかし、天使ルチフェルは堕落し、その者を幽閉するために地獄はつくられた。それゆえ地獄は永遠に存在する。(第三歌)

地獄は神の義と愛によってつくられた。中国で言う義とは英語の responsibility 、つまり応答できる能力を指していると今道さんは言う。正名(正しい定義)にこだわってきた人らしい。ヨーロッパにおいて、この responsibility という単語は19世紀には哲学辞典にさえない言葉だった。この主体的応答性に客観的な公平が前提とされる時、正義となる。義歯とは正義の歯のことではない。歯の機能に応答してくれるもののことであり、不義とは不正ではなく応答性の負、つまり裏切りであった。人々を善導しようとする神ゆえに、地獄は因果応報の正義を重んじる神の愛の所産であった。ダンテには罪を忌む厳しい思い、裏切りに対する仮借ない怒りがあった。地獄はそのような罪を犯した者が入る絶望の府としたのである。

地獄は永遠に存在する。そして、そこでは溜息や泣声や声高の叫びが星もない空中に鳴り響いていた。神曲において星とは希望である。希望とは徳目であった。トマス・アクィナス、さらにさかのぼってアウグスティヌスの頃から聖パウロが述べる「信仰」「希望」「愛」は、神に対する徳、対神徳と呼ばれていたのである。地獄は、それが無い嘆きの都市であった。希望の無いところは地獄となる。私たちは、自らに対して、あるいは他者に対して地獄の門になっているかもしれないのである。

辺獄から愛欲の圏谷へ、そして泥水に沈む者たち 第四歌から九歌

ウイリアム・ブレイク『神曲』地獄篇 辺獄 1824-27

アケロン(三途の)川でカロンの渡し場が描かれた後、第四歌に入って、辺獄(リンボ)が歌われる。善良な人々であったが、キリスト教の洗礼を受けられなかったために第一の谷に住まう人々であった。ウェルギリウスは、自分がこの谷に来て間もなく、キリストがアダムやアベル、ノア、モーゼらイスラエルの善良な民とそれに忠実に仕えたものたちを祝福し連れ出したとダンテに語る。それ以前に人の魂が救われた例はないと。

ウェルギリウスは、ホメロス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌスらとしばらく談笑して別れた。高い城壁に七重に囲まれた高貴な城のなかには、エレクトラ、ヘクトル、アエネアス、カエサル、サラディン、それにアリストテレス、ソクラテス、プラトンらギリシアの哲学者や学者たちが次々と現れた。二人は静寂の中から出てゆらめく大気の中に入り、光明の無い場所へと入っていった。(四歌)

二の谷へと入る。その入り口では罪業を吟味するミノスが仁王立ちで歯噛みしている。閻魔大王の役割をしているのだ。その中空には肉欲の罪を犯した者の魂の群れが止むことのない地獄の黒い飈風(ひょうふう)に煽られている。ティドやクレオパトラがいて、パリスやトリスタンが見える。愛ゆえに現世を追われた幾千もの魂たちだった。ダンテはその内の一組に目をとめ、話しかけた。知りたいとお望みならとフランチェスカは話しはじめた。

アンリ・マルタン(1860-1943)『パオロとフランチェスカ』

「ある日私どもはつれづれに、ランスロットがどうして愛にほだされたか、その物語を読んでおりました、二人きりで別にやましい気持ちはございませんでした。
その読書の途中、何度か私どもの視線がかちあい、そのたびに顔色が変わりましたが、
次の一節で私どもは負けたのでございます。
あの憧れの微笑みにあのすばらしい恋人が接吻(くちづけ)る
あの条(くだり)を読みました時に、この人は、私から永久に離れることのないこの人は、うちふるえつつ私の口に接吻(くちづけ)いたしました。」(125-136/平川祐弘 訳)

ラヴェンナの城主グィド・ダ・ポレンタの娘フランチェスカはリーミニの城主ジャンチオット・マラテスタに嫁した。しかし、彼女は騙されて美男の弟パオロと見合いをしたのであり、嫁した後、兄で醜男のジャンチオットの連れ合いになったことを知った。しかし、フランチェスカはパオロと相思相愛になる。そして、二人ともジャンチオットに殺されたのである。(五歌)

大粒の雹や濁った水や雪が降りしきる三の谷、貪欲に飽食をしてきた者たちが三つの頭のある怪物、地獄の番犬ケルべロスに食いちぎられていた場所だった。(六歌)

冥府の神ハデスであり鉱物の守護神でもあるプルートンが現われるがウェルギリウスの一喝で倒れてしまう。四の谷に降りると貪欲な人間と浪費家たちが渦巻きのように互いに逆方向に向かって重い荷物を転がしながら走り、円周上の一点で出会うと互いに罵り合い殴り合ってまた来た道を逆走するのである。青紫よりも暗い色の水が流れ落ちて薄暗い陰惨な崖の下で川はステュクスと言う名の沼になっている。泥まみれの裸体は怒気を含んだ表情でたがいに殴り合い、蹴り合い、歯で相手の肉を噛み千切っている。憤怒に破れたものの魂だった。(七歌)

ウイリアム・ブレイク 『地獄篇』 第八歌 沼を渡すプレギュアス

沼の船頭プレギュアスがダンテとヴェルギリウスを向う岸に渡す。途中、フィレンツェの亡魂フィリッポ・アルジェンティが現われるが体を引き裂かれ汚水の中に沈んだ。そして、二人は地獄の下層ディースの市(まち)に着く。五の谷である。そこの城門には千人余りの悪魔が道を閉ざしていた。(八歌)

三人の復讐の女神エリニュスたちが塔の上に現われた。やがて、天上からの使いが登場して地獄の内門を杖で叩いて開けると悪魔たちを一喝して立ち去った。門の中には至る所に墓があり炎を噴いている。六の谷である。それは異教異端の徒がその派ごとに埋められていたのである。(九歌)

地獄の内門から悪の十濠へ 第十歌から十八歌

ウイリアム・ブレイク 『地獄篇』 第十歌

墓所では皇帝党の党首であったファリナータ、そしてダンテの友人の父親カヴァルカンティと会話する。傲岸なファリナータも自己の党派の敗北を知り、そのことが、この焔の床よりも自分を苦しめると叫ぶのだった。(十歌)

ウェルギリウスが地獄の分類と地理をダンテに語り、天が許さぬ三つの性質、放縦、邪悪、狂おしい獣性が説明される。そして、高利貸しが神の慈愛に背く理由を説く。(十一歌)

怒りに狂うミノタウロスの横をすり抜けて岩間から道を降りると孤を描いた濠にケンタウロスの群れが見えた。その中の一人ネッソスに血の川を案内させた。そこでは煮えたぎる湯に、人の血を流し産を奪ったものが漬けられていた。アレクサンドロス、シチリアを制したディオニュジオスがいる。深い淵には、アッチラやピロス、セクストゥスらがいた。ここは七の谷の三つの円の一番目である。この七層以下の谷は悪意による罪人が堕ちる地獄でそれ以前の六層に比べてより一層凄惨なものとなる。(十二歌)

ギュスターヴ ・ドレ(1832-1883) 『地獄篇』 第十三歌

七の谷の二番目の円へ到る。自殺者は自分に暴力をくわえた者であり、彼らは、節くれだって曲がった木となる。棘のある一本の大木の枝を折るとどす黒い血にまみれて「なぜ私をひきちぎる」と声がした。ウェルギリウスはダンテにかわってその木の一つに尋ねた。どうしてこのような幹の中に囚われたのだと。

「激した魂が自らの手で命を絶って肉体から離れた時、ミノスは第七の圏谷(たに)へ、その魂を送り込む。落ちていく先はこの森だが、席は別に定まっていない。
運命のままに飛ばされたところで荒麦の粒のように芽を出し、若枝となり野生の大樹となる。
すると鳥身女面の怪鳥がその葉をついばみ、苦痛を与え、苦痛に排け口を与える。
[最後の審判の日に]皆と同様、私らも亡骸を探しに行くが誰一人それを身につけることはできない。自分で捨てたものをつけるのは道理にあわぬからだ。」(94-105/平川祐弘 訳)

その時、木々の枝を折りながら、黒い牝犬に追い立てられてきた者があった。自分の財産を無理やり蕩尽した者が噛みつかれ、引き裂かれて悶絶した。別のもう一本の木は未来のフィレンツェの不幸を語る。(十三歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『地獄篇』 第十四歌

七の谷の二の円から荒涼とした砂漠である三の円へと至る。熱砂の上では神と自然の法に叛いた者たちが火の雪を浴びていた。その中にテーバイ攻めの7将の一人カバネウスが瀆神の言葉を吐き続けている。ウェルギリウスは、かつて清らかな世界であったクレタのイダ山とそこに聳えたつ巨人とその涙からなるアケロン、ステュクス、プレゲトンの三つの川について語る。(十四歌)

川沿いに進むと自然に叛いた性を望んだ者たちの群れが現われる。その中にダンテの師であり『宝辞典』を著したブルネット・ラティー二がいた。彼はダンテの将来を明かして身の処し方を諭す。(十五歌)

七の谷が終わり、八の谷に到る場所で、川は滝となる。そこでは、グィド・グエラら三人のフィレンツェの亡者たちと出会い、フィレンツェの成り上がった俄か大尽どもの気風を嘆いた。やがて深い谷に行きあうとヴェルギリウスはダンテの腰縄をその淵に投げ落とした。(十六歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ『地獄篇』 第十七歌

その淵から怪物ゲリュオンが現われた。ウェルギリウスはゲリュオンの手を借りて谷底に降ろしてもらう交渉を始める。その間にダンテは首から財嚢をぶら下げ、苦患の炎に身を焼かれる高利貸したちを見て回った。話はまとまり、ゲリュオンは二人を背に乗せ、苦悩の叫びを発する第八の谷に降りていった。(十七歌)

八の谷は十層のマレボルジュ[悪の濠]に分かれ、十種の罪人が罰せられている。全て鉄色をした岩からできている。絶壁に囲まれ、その魔性の荒野に巨大な穴がある。この魔性の荒野は十の濠に分かれていて、その濠を石橋が繋いでいる。一の濠では女衒たちが角を生やした鬼たちに鞭打たれていた。その中にボローニャの教皇党の首領の息子、ヴェネディーコ・カッチャネミーコがいた。エステ家のオビッツォ二世のために実の妹を斡旋したのだ。石橋の下では金羊毛のイアソンら女たらしと呼ばれた者たちがいる。二の壕には、ルッカの貴族アレッシオ・インテルミネイがいた。こんな所に俺が沈んだのは倦むこともないオベンチャラを繰り返したせいだと言う。そこには遊女タイスら阿諛追従の徒らが糞尿の中に沈んでいたのである。(十八歌)

ミケランジェロ・カエター二『地獄図』1885

地獄の構造

A 地獄の門
B アケロン川とカロンの渡し場
① 辺獄 第一の谷

地獄の外円
②-⑤ 第二の谷から第五の谷(それぞれ愛欲、飽食、貪欲、憤怒が罰せられる。
C 第四と第五の谷の間にプレギュアスが渡すステュクス川の流れ込む沼がある。

地獄の内円/内門とディースの都市
⑥ 第六の谷(異端)
⑦ 第七の谷(他者・自己・神と自然への暴力/三つの円)―― プレゲトン川と渡し ――
怪物ゲリュオンによる降下↓
⑧ 第八の谷《10の濠/女衒・阿諛追従・聖職売買・占い・汚職・詐欺・瀆神・権謀術数・中傷・贋金作りが罰せられる》
巨人アンタイオスによる降下↓
⑨ 第九の谷 凍てついたコキュトスと呼ばれる地(裏切の四つの円/肉親・祖国・客人・主)

サンドロ・ボッティチェリ『神曲』地獄図
地獄の9つの圏谷を横から大地を透して描いている。

ダンテの構想した地獄は九つの谷、九層に分かれている。聖書外典のペテロの黙示録の影響もあると言われるが、それは独創的で精緻な構造の地獄である。そのような構造に史実や当時世を騒がせた風聞や醜聞を織り交ぜて現実感を持たせた。いささかは自らの溜飲を下げたことであろう。アリストテレスは、徳はブロネーシス(実践的理性)によってなるとし、悪徳はパヌウルギア(奸知)によって生まれるとした。実践知に長けた者は容易に奸知に陥る。地獄には大臣や教皇などの高位の人々も堕ちている。キケロは義務を重視し、「何に忠実であるか」つまり、「何が義務であるか」を間違えてはならないと言ったが、後にアベラールやトマス・アクィナスは、一番大切なものは志向性、つまり意図だとした。明確な悪意を伴う罪が最も重い。さらに重い罪は背信である。トマスは、アウグスティヌスの考えを受け継いで「人間は神に向けられて創られている」と言った。それゆえ、神に背くこと、裏切ることは最悪の罪であり、ダンテにとっても裏切りは最も重い罪なのである。

凄愴の濠から極限へ

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第十九歌

三の濠には聖職売買の徒が罰せられている。ダンテの憤りは激しい。そこでは元法皇ニッコロ三世が穴の中に突っ込まれ燃える両脚をばたつかせていた。

「おお魔術師シモン、おお哀れなシモンの徒よ !
本来は美徳と結ばれて花嫁となるべき
聖物や聖職を、おまえら盗人は
金や銀と引き換えに売りひさいでいる。
おまえらが三の濠にいる以上、
いまこそ宣告のラッパが高鳴ってしかるべき時だ。」(1-6/平川祐弘 訳)

シモンとは聖フィリッポに洗礼を授けられたサマリアの魔術師だったが、使徒たちが手を置くことで「霊」が与えられるのを見て、金でその力を授けてもらえるように懇願したという。その記載が聖書の使徒言行録にある。(十九歌)

四の濠では生前未来を占った者たち、魔術妖術を行った者が、胴体に頭を前後逆さにつけられて後ろ向きに歩いている。テーバイを攻めた預言者アムピアラオス、オイディプスに予言したティレーシアスらが見える。(二十歌)

五の濠では汚職収賄の徒が煮えたぎる瀝青(チャン)の中に漬けられている。黒い鬼がルッカのサンタ・ジーラの長老の一人をそこに漬け、浮かび上がると百余りの鉤で頭を引っ掻けて沈めるのだ。(二十一歌)

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第二十二歌

同じ濠をダンテたちは10匹の鬼たちと進んだ。彼らが近づくと詐欺師の亡者たちは瀝青の中に身を潜める。だが、愚図っていれば鉤で吊し上げられた。そういった男の一人に上手く逃げられてしまうと鬼たちは互いに諍いを始めた。(二十二歌)

ダンテたちは八の谷の六の濠へ逃げ延びた。そこでは、偽善者たちが外は金着せで、内は鉛という重い服を着せられてのろのろと歩いている。地面にはユダヤの大司祭カヤバが磔刑にされていた。(二十三歌)

七の濠では盗賊たちが毒蛇に咬まれ、責めさいなまれていた。咬まれれば、忽ち火を発し灰となって焼け落ちるのだ。ピストィアの教会堂から聖器類を盗み出したヴァンニ・フッチがダンテに予言する。白党の人々は皆傷つくだろうと。(二十四歌)

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第二十五歌

瀆神のフッチにそれ以上は言わさぬと蛇が絡みつき縛り上げるが、彼は逃げだし、その後をケンタウロスの一人カクスが追った。フィレンツェの三人の亡者のうちの二人に蛇が襲いかかる。一人には六つの脚を持つ大蛇が背後から締め付け、二つの姿は一つに融け合い見たこともない姿へと変わりはてた。もう一人には胡椒のような青黒い蛇がへそに噛みつくと、人は傷口から、蛇は口から煙を激しく吐き、蛇は人に人は蛇に成りまさっていったのである。(二十五歌)

八の濠にやって来た。谷あいには権謀術策を事とした亡者たちが一人ずつ焔にくるまれて焼かれていた。その中の一つは先が二つに割れて燃えている。トロイの木馬を企てたオデュセウスとディオメデスが二人一緒に焼かれていたからだった。(二十六歌)

別の焔がロマーニャの地の安否を問う。グィド・モンテフェルトロは、法王ボニファチオ八世にパレストリーナ陥落の策を教えた。グィドが死んだ時、聖フランチェスコが迎えに来てくれたが、黒天使の一人が彼に言った。連れていくな。おれの権利を侵すな。こいつは瞞着の助言をした上は俺の奴隷たちの間に落ちるのが定めだと。(二十七歌)

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第二十八歌

八の谷の九の濠。生前中傷し不仲を煽った亡者たちが、ある者は頤から屁をひるところまで真っ二つに裂かれ、ある者は咽喉を裂かれ、鼻をえぐられ、ある者は両手を切り取られていた。ダンテを見て「ああ」と叫ぶ者があった。イギリス王ヘンリー二世の王子に父への反逆をたきつけたベルトラン・ド・ボルンだった。切られた首を手に捧げ持っていた。(二十八歌)

そこは八の谷の最後、十の濠。贋金作りを罰する悪疫の蔓延する谷だった。疥癬に苦しめられる者たちの内の一人が錬金術で贋金を作ったカポッキオの亡霊だった。(二十九歌)

飢えた豚が檻から解き放たれたようにある亡者はカポッキオのうなじに噛みついた。そして石だらけの谷底を腹這いのまま引きずっていった。それは他人の遺言状を偽造したジャンニ・スキッキだ。もう一人噛みついてまわる亡者は、父親に道ならぬ恋をいだき他人の姿に成りすましたキプロスの王女ミュラ。贋金作りたちは互いにいがみ合い、殴りあった。(三十歌)

コキュトスの魔王へ 第三十一歌から最終三十四歌

ウイリアム・ブレイク『地獄篇』 第三十一歌

角笛が聴こえるとわずかしかない視界に塔のようなものが聳えているのが見えた。巨人たちである。その中の一人アンタイオスに向ってウェルギリウスは冷気でコキュトスの水が凍っている地底に我々を降ろしてくれるように頼んだ。(三十一歌)

九の谷は裏切りの谷である。凍てついた厚いガラスのような氷に覆われた地は同心円状に四つに分かれている。第一の円はカインの国、カイーナと呼ばれる肉親を裏切った者の堕ちる所だ。第二の円はアンテノーラと呼ばれる祖国を裏切った者の行く所である。百姓女が落穂拾いを夢に見る頃、水中から顔だけ出してガアガアと鳴く蛙のように頬まで鉛色になり、歯をガチガチと鳴らす亡者たちが氷の中に浸かっている。ダンテはそんな頭につまずくのである。(三十二歌)

これらの頭が並ぶ中に、一つの穴に二人が氷漬けになった者たちが見えた。飢えた男がパンを貪るように上になった方が下の者の脳蓋に噛みついている。噛みつきながら憎悪のたけをぶちまけていた。それは、ウゴリーノとルッジェーリ大司教の二人だった。

三の円はトロメーアと呼ばれる。客人を裏切って殺したアルベリーゴやブランカ・ドーリアらが涙もろともに眼球を凍りつかせている。肉体はまだ地上にありながら彼らの魂はこの地へ堕ちている。13世紀末、ピサではグェルフィ党(教皇派)が主流で、その中でもウゴリーノ伯とその一族のニーノ・デ・ヴィスコンティの二つの派に分かれていた。一方、ギベリン党(皇帝派)の代表は同市の大司教ルッジェーリだった。市の覇権を握るためにウゴリーノはルッジェーリと共謀してニーノを追放するが、今度はルッジェーリがウゴリーノとその子、孫五名を塔に幽閉し、彼らは餓死するのである。こちらは史実だ。

オーギュスト・ロダン 『地獄門』 部分
中央上 ウゴリーノと子供たち  中央下 パオロとフランチェスカ

「この憂いの牢獄の中にも かすかな光がさして、四人の子供の顔にも この俺と同じような表情が見えた、
彼は悲嘆のあまりわれとわが腕に喰らいついた。
すると子供たちは空腹のあまり
そうしたと思い、すぐ立ちあがっていった、
『父さん、父さんが僕たちを食べてくれたら、それだけ僕らの苦しみも減る、父さんが着せてくれた  このみじめな肉だもの、父さん取っておくれよ』
子供たちを悲しませまいと俺は心を静めた、その日もその翌日もみな黙りこくっていた。
ああ冷酷な大地よ、なぜおまえは口を開かなかったのだ ?
五日目と六日目の間に、ほかの三人は一人また一人 俺の見ている前で倒れた。それから俺はもう目が見えなくなったが、一人一人手探りで探った、子供らが死んでから二日の間はその名を呼び続けた、それから、苦悩には負けなかった俺も絶食に敗れた。」(55-75/平川祐弘 訳)(三十三歌)

地獄篇最終歌、九の谷の第四円はユダの国ジュデッカと呼ばれ、恩人を裏切った者が全身を氷漬けにされている。ある者は横たわり、ある者は起立し、ある者は爪先立ちしていてガラスの下の藁のように透けてみえた。さらに奥に進むとこの苦悩の王国の帝王が見えた。胸の半ばから上を氷から出し、腕の長さは巨人の背丈を凌いでいる。三つ頭があり、中央は朱、右は白と黄色の間、左は黒色だった。蝙蝠のような羽で羽ばたくと風が起こり、コキュトスの水を全て凍らせていた。血の混じったよだれの垂れる口に罪人を一人ずつ咥え、かみ砕いている。中央は爪で裂かれて皮がはげ背骨が顕わになったユダ、黒い顔に咬まれているのはブルトゥス、もう一つの顔が噛み砕いているのは、やはりカエサルを裏切ったカシウスだった。(三十四歌)

ギュスタ―ヴ・ドレ 『地獄篇』 第三十四歌

だがもう夜がまためぐってきた、いよいよ立ち去らねばぬらぬ、私たちは全てを見たのだ。そう言うとウェルギリウスはダンテを首に抱きつかせ魔王の脇腹から下の地殻へと降った。途中で脚と頭の位置を逆さにして今度は登った。それから岩の穴から出るとその縁に腰を下ろした。上を見るとなんと魔王ベルゼブルの脚が上に向って伸びている。

こうして聖金曜日の夕暮から始まった地獄への苦難の行旅は翌土曜日の夕方をもって丸一日の行程を終えたのである。穴から出た場所は、南半球であり、ユダの国の裏面にあたる。向うの夕方はこちらでは朝であった。岩間から聞こえるせせらぎの音をたよりにこの暗い道をひたすら上った。そして、円い孔から天上にある美しいものが見えた。そこを通って再び外へ出ると空に暁の明星を仰いだ。それは希望の星である。

さて、次回は12世紀の初頭に確立された領域と言われる煉獄が登場します。当時、人々は真面目に煉獄の場所は何処かと探したと言います。この世の何処かにあると考えられていた。それゆえダンテの煉獄篇にも星が見え、空が見えるのです。

最後に今道さんが、地獄篇の冒頭のイタリア語を聴講者と朗唱している動画があるので興味のある方はご覧になってください。この人は語りの名手だということが良く分かります。

 

 

引用文献

ダンテ『神曲』平川祐弘訳

ミハイル・バフチン 私とあなたの私との対話/結び合う記号のネットワーク

ミハイル・バフチン(1895-1975)
1924‐25年頃

私と物、主観と客観、精神と外界‥‥この二つの世界を巡って百家が争鳴し、スッタモンダの挙句にどうにもなっていないのか、それとも少しは明るい見通しがあるのか。ここは問題です。今回は、このテーマを契機に前回に続いてロシアの恐るべき思想家ミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン)の思想をカテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイストの共著『ミハイール・バフチーンの世界』とツヴェタン・トドロフの『ミハイル・バフチン 対話の原理』を中心にご紹介します。

モノには限度がある。何の限度かというと知ることの限界です。知るには悟性と感性という二つの道具があり、例えばライプニッツは悟性寄り、ロックは感性寄りと言われますが、カントは、知るためには理性による悟性と感性の統合が必要だと考えた。物それ自体は決して認識しえないが、物自体の領域である世界と概念の領域である精神との相互作用によって思考は生まれるというわけです。

1.マージナルであることの運命

バフチンは1929年にいくつもの罪状で逮捕されたが、その罪状の一つは、ペトログラード周辺の司祭養成所で私的な講義を行い「若者を堕落させた」というものだった。彼は、非正統的・非党派的なギリシア正教にさえ接近していた。この頃は言語学や社会学の言説に没頭してゆく時期でもある。ロシアの極北、白海に浮かぶソロヴェーツキイ諸島への10年の流刑が決まったが、副腎炎によって脚の持病が悪化していて身体障害の重度が一段引き揚げられたことがあったせいか、カザフスタンのクスナタイという町へ6年の流刑へと減刑されている。ウラル山脈の真東である。4年に減刑され刑期が終わると友人のメドヴェージェフの助力でロシア南東のサランスクにあるモルドヴィア師範学校の教職に就くことができた。1936年のことだった。

オガレフ・モルドヴィア州立大学
サランスクに1931年に創立されたモルドヴィア師範学校は1957年に州立大学へと拡張された。

だが、大粛清の波に襲われそうになって1年でそこを辞し、モスクワ近郊のサヴェロヴォに避難した。そこでは、かねての持病の骨髄炎が悪化して右足切断の手術がなされる。この頃は、定職がなく生活は逼迫したが逆に執筆は盛んだった。いくつかの論文の中に『リアリズムの歴史におけるF.ラブレー』があった。ゴーリキイ研究所に学位論文として提出するが、第二次大戦のために審査はストップしてしまう。しかし、後の1965年に『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』として晴れて出版されることになる。戦争が終わると、かつてのサランスクの師範学校に復職できた。宙吊りになっていた学位論文『リアリズムの歴史におけるF.ラブレー』はやっと審査が開始されるが、結局、準博士論文としてはパスしたが、博士論文としては認められなかった。

戦後もバフチンは、逮捕の危険には警戒を怠らなかった。彼の講演は巧みで、その授業にも抜群な人気があったようだ。バフチンはスポットライトの当たることのない静かな生活を愛していた。彼のことを紹介しようと努めたのは、シクロフスキ―やヤコブソンといった言語の詩的機能などを研究したロシア・フォルマリストたちだった。やがて若い世代たちの中からコージノフのような人がバフチンの著作の刊行しようと積極的に働きかけるようになるのである。晩年は世に知られる存在になっていった。1971年、妻のエレーナが亡くなり、失意のバフチンも肺気腫が悪化して4年後に亡くなっている。

2.新カント学派という抜け道

1870年代から1920年代までドイツではコーエン、ナトルプ、カッシーラらのマールブルク学派に代表される新カント学派が哲学の主流であり、ロシアにも大きな影響を及ぼしていた。世界は思考にとってはじめから対象として与えられるのではなく、未知のXと出会い、一連の統合によってそのXを理解の対象とするのだが、この時、Xは物それ自体ではなく、概念化の限界となる。物自体は、けっして把握できないとカントは宣告を下していた。物そのものに迫りはするのだが、それは近似的であり、けっして完結しない。バフチンにとってこの未完成は肯定的な意味を持っていた。発展の可能性と捉えたのである。コーエンが過程を重視したこと、「世界は与えられたものではなく課せられたものである」としたこと、そうした視点が約束する開放性とエネルギーにバフチンはある「抜け穴」を見つけたという。しかし、コーエンは極端に走った「物質は仮説にすぎない」としたのである。

視覚を例にとって考えてみよう。例えば、二つの物が同時に同じ空間を占有することができない。私がここにいる間、あなたは、あそこにいなければならない。したがって同時に二人が厳密に同じ光景を見ることはない。そして、その場に立って見えるものにも限界がある。柱があれば、その向うは見えない。「その他すべて」が見えないおかげで「これ」が見えるとも言える。バフチンはそんな自己の視点を「視覚の余剰」と呼んだ。彼は、自己を統一的な全体としては見ていなかった。それゆえ、自己は独立した実体でも本質でもなく他者との対話的な了解によってしか存在しえないものであり、「他者の自己たち」との柔軟な関係の中にしか存在しないと考えていた。

見えるというような直観(感覚的直接知)像から対象を把握しようとすることも平凡な白昼夢においても「私自身」は、まさしく「私に見えない」のである。その状況のなかで、この世界を理解しようとする企ては、作家が登場人物を視覚化しようとする企てに似てくるという。他者の目を通して知覚した世界、他者の諸価値を通して屈折させた世界を概念化して自分自身を見るのである。このことによって、世界における自分の役割を一貫したストーリーにしようと企てる。意識の本質は、絶えず自己を生み出し、創作し、想定したいという欲求であり、未来を計画することによって現在に応答しているとも言える。作家と登場人物のポリフォニー的対話については前回の「ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』笑いは世界を再生させる」に書いておいた。

フッサールは、自己と他者との解き難い矛盾を解消しようと闘った。それが現象学であり、ハイデッガーに大きな影響を与えた。われわれは、自分の固有の欲望を持ち、それに応じた自分の世界の有様をそれぞれ持っている。それを交換しあって関係を結び、そのことで常に共通世界を作り上げ編みかえている。人は独自の情状性(気分)を持ち、独自の了解から生まれた可能性の意味の網の目としての世界を持っているといわれる所以である。それが、それぞれの人間の実存世界であって、それを常に交換しながら関係を結びあう。私たちにあるのは、与えられた客観的世界ではなく、自分が創り上げた意味のネットワークであり、そのネットワークを他者と交換しあいながら関係を結びあっているのだとハイデッガーは考えた。この辺りは竹田青嗣さんが上手に説明してくださっている。意味を投げかけ合い、編み変えあったりして共通了解を生み出しているということをハイデッガーは、フッサールの現象学から学んだのである。ついでに言うとフッサールは客観世界を()に入れて棚上げしてしまい、人間の意識経験の世界だけを問題にする。人間に、意識経験がどのようにして世界に対する超越(竹田青嗣さんのいう確信)をもたらすのかを明らかにしようとした。

3.世界に応答する責任

ソシュールが意味の恣意性を説くなら、発言に対する意味の重さは誰に問えばよいのか、フロイトのいう無意識の世界があるなら心の主人は人間の自我なのかエスという非人称的力なのか、神学において行為の責任は人間の意志にあるのか神の意志にあるのか。自分の行動に責任を持つ自我と様々に概念化される他者との葛藤はどのように解消されるのだろうか。バフチンにとって事物の世界は、カントと同様に「与えられたもの」であった。しかし、精神は決して世界とは完全に一致しない。精神には、この世界をいかに「見る」か、世界をいかに翻訳するかという自己にとってのある種の「課題」が課せられる。この世界と精神との間に架ける橋が、バフチンの言う「課題」に答えること、つまり「応答責任」である。存在の呼びかけに答えるハイデッガーのいう「気遣い」に近いと言われる。

この応答責任とは、世界の必要に応答する行動であり、他者の必要に応答する自我の活動を通して遂行される。世界は本質的に意味を欠いていて、人は本質的に意味の創造者であり、消費者であるという。応答責任を果たすということは、「与えられたもの」の世界から「抜きんでる」ことであり、バフチン流に言えば「構築論的特権」であった。そのことによって私自身の外部に世界を発見するのである。バフチンのこの「構築学」に関する一連のテクストが書かれたのは、クラークとホルクイストら筆者たちによれば1919年であり、ハイデッガーの『存在と時間』に先立つこと8年前のことなのである。

4.作者とオートポイエーシスの中の主人公

バフチンは神学の中にも現代的な課題を見ていた。霊魂と肉体という神学における二元性の対話関係は、精神と世界、自己と他者という二元性にパラレルに関係していた。作者による創作は、意味が肉となる様々な過程だった。彼の美学では、自己と他者は作者と主人公という立場に変わる。バフチンはこう述べる。「作者は創造するが、自分が形作る対象の中にしか自分の創造物を見ることは出来ない。彼は創造の産物が実現されてゆくのを見るだけであって、その内的な心理的に決定された過程を見るわけではない。」

ミハイル・バフチン『作者と主人公』
1920年代後半の著書と考えられている。

何故、作者は自分の作り出す対象の中にしか自分の創造物を見ることができないのだろうか。この自己の創造とそれに関わる意識の問題を別の観点から眺めて見ることもできる。主人公を描くことを自転車に乗ることと置き換えてみたい。自転車に乗ろうとする時、自己は作動しているが、それを意識が全て捉えきれているわけではない。ハンドルをどのように保ち、どれくらいの速度でペダルをこぎ、右に傾きそうになったらハンドルをどのくらい反対方向にきったらよいか、意識は全てを把握できない。でも、この時、行為はまぎれもなく形成され、それを通じてこの行為を行う自己を形成している。つまり、自転車に乗れる自分になっているわけだが、その時の自己が何であったかという問いは、すでに起きている事態とはすれ違ったものとなっている。これは河本英夫さんがオートポイエーシスを扱った「システム現象学」と呼ばれる領域の話である。

体験は体験自身を聞くことも見ることもできない。見聞きできるのは作り出された産物だけなのである。作者=創造者は、テクストの中にいるが、テクストの中にいる登場人物とは異なる次元にいる。ここに神学的な意味があると思えるのだが、作者は、自身が生み出すものとは別の次元にいるのである。これは、記号を作り出す能動的な「自己」とそれが生み出す「自己の記号」とは決して一致しないということを示している。内側/外側、独白/対話、完成/未完、公式/非公式、叙事詩/小説、このような二項対立の背後にあるものは、やはり自己/他者なのである。バフチンとって重要だったのは、自と他をめぐる「現象学的記述」だった。それは彼の全思想の根幹をなしている。

5.記号と意識

ここからは、ツヴェタン・トドロフの『ミハイル・バフチン 対話の原理』を交えて言葉や文化の記号論をめぐるバフチンの思想をご紹介します。彼のいうイデオロギー的なもの、つまり文化価値を持つようなものは、全て意味を持っていて、自分の外にあるものの表象となり、描写となり、その代理となりうる。つまり、自らの外にあるものの記号となっているのである。彼によれば、記号もそれぞれに独自な物理的な物体である。記号としてのあらゆる現象は、音なり物体なり、色なり身振りなり、様々な現象を伴うものである。その外にある記号が内面化され、形成されて心理・意識内の記号にもなる。この記号を解読する作業は、受け取った記号をすでに解読した記号に関連づける作業であり、新たな記号へと連鎖していく過程はコミュニケーション論に発展してゆく。

ツヴェタン・トドロフ
『ミハイル・バフチン 対話の原理』
バフチン思想を知る上での必読書。トドロフは1939年生まれ。ロラン・バルトのもとで構造主義文学批評を行う。フランス国立科学研究所の芸術・言語研究センターで指導的立場にある。

記号は、個々人の意識と意識の間に渡され、それらの意識を互いに結び合わせていて、個人の意識も記号に充たされ、社会的な相互作用を生む。記号としての事物に媒介されて、はじめて意識は形成され、客観的に実在するようになるというわけだ。個人の意識は、記号によって養われ、記号によって成長し、自らの内に記号の論理と記号の規則性とを映しているというのである。

その記号の中でも大きな要素を占めるものが言語である。すでにソシュールは、言語の記号論を打ち立てていて言語記号の表現をシニフィアン、意味をシニフィエとして区別していた。言葉は内面で働く記号であり、意識の記号的実体になっている。発声器官や紙上のインクといったものによって存在する言葉もまた物質である。同時に言葉は意味を持つという点で物質を超越している。そして、記号はけっしてそれを指示しているものではない。木という言葉は木ではない。記号の世界がそれを命名する事物世界と一致しないという二元性を人間は運命づけられている。誰でも私は「わたし」に合致しないという事実に直面しなければならない。われわれは、われわれがみんな同一であるかのように振舞い、同一という虚構を作り上げる。言語が合致という虚構に合わせて作用するのと同じである。『ミハイール・バフチーンの世界』の筆者たち、クラークとホルクイストはこう述べている。この皆が共有する意識と自己との二元性と、言語と世界の二元性があるからこそ「人間は記号である」というチャールズ・パースの定言が意味をもつのだと。

ミハイル・バフチン+V.N.ヴォロシーノフ
『言語と文化の記号論』バフチン・グループの一人であるヴォロシーノフの名で出版されているがほぼバフチンの著作とされている。

バフチンの『言語と文化の記号論』の訳者である北岡誠司さんは、その「解説」の中で、これはなかなか素晴らしいのですが、このように指摘しておられる。バフチンは、ソシュール言語学・記号学が自/他の対立を飛び越えて他の意識を一切排してメタレベルに構築される無人称の学であるとして批判し、あくまでも自/他の相対的な意識の相互作用による具体相という経験のレベルに固執しながら記述を進めることで人間文化の各領域の特徴を明らかにしようとしていたと。バフチンはソシュールのいうラングを評価せず、パロールのほうを重視したのである。

意味のネットワークという血管を走っているのは記号であり、それが間主観的に意識を結び合わせているということになるのだろう。私の反復不可能なこの現実と私に先行する言葉という純粋に抽象的で反復可能な体系との境界線上に意識は出入りするのである。ここは、重要な指摘である。そして、意識の論理とは、どこまでもイデオロギー(文化価値)的送受のコミュニケーションの論理であるという。意識の中には孤立した行為はなく、あらゆる思考は他の思考と結びついていて、同時に他者の思考とも結びついている。その意味で意識は常に共意識であり、存在は「共存在」である。先の『ミハイール・バフチーンの世界』の著者たちは、この同時性と共有性の強調はバフチンの全著作の特徴になっていると考えている。そして、バフチンは、「意識のすべての要素は何かを表象し、ある象徴的機能を担っている」という。

6.象徴的機能と像の形成

認識とは精神(主観)による存在(客観)の把握と解釈の中で一つの形式を与えることである。その形式を記号と言ってよいのだと思うけれど、形式とするための形態化には論理的科学的な方法とは全く異なる方法がある。その方法とは、「像を形成する力」によってなされる。新カント学派だったエルンスト・カッシーラは『シンボル形式の哲学』の中でそのことを最大限に拡張しようとした。最も興味深いのはここだ。

「精神の真の根本機能はすべて、単に模写するだけでなく、根源的に像を形成する力を内蔵するという決定的な特徴を、認識と共有している。精神の根本機能は、ただ受動的にそこにあるものを表現するだけでなく、内に精神の自立的エネルギーを蓄えており、このエネルギーによってただ存在するだけの現象がある特定の『意味』、ある独自な理念的内容を受けとることになるのだ。このことは、認識にとってと同じく芸術にも当てはまり、宗教にも神話にも当てはまる(『シンボル形式の哲学』第一巻「シンボル形式の概念とさまざまなシンボル形式の体系学」生松敬三/木田元 訳)。」

ヴァ―ルブルクを彷彿とさせる言葉なのだが、この「根源的に像を形成する力」をカッシーラは、言語的思考の原理とは異なる原理に導かれ支配される新たな「ロゴス」となると考えていた。つまり、造形芸術などの形は理念を担いうる材料になり、意味を形成する自立的エネルギーを起動させるトリガーにもなるということなのです。しかし、この「像を形成する力」をカッシーラは、感性的なものそれ自身の積極的活動、ゲーテの言う「精密な感性的想像力」であるとしたのだが、その力が何処に由来するのかはスッタモンダの議論の一つになったらしい。バフチンは象徴構造の解釈についてはこう述べている。「象徴構造の解釈は、象徴的意味の無限性のなかにもぐり込んでいかざるをえない。したがって厳密な学において科学的という語が帯びる意味では象徴構造の解釈は科学的とはなりえない。だが、それは根本的に認知的である。(『人文科学の方法論について』大谷尚文 訳)」

7.対話原理とは何か

一つ指摘しておきたいのは、バフチンが人文科学と自然科学をはっきり分けていたことである。自然科学は対象を認識しようとし人文科学は主体を認識しようとする。その主体とは自己の主体と他者の主体である。人文科学の対象はテクストの生産者としての人間であった。思考に関する思考、経験の経験、言説にかんする言説、テクストを対象としたテクスト、つまり、間テクスト性が人文科学の根本的な特殊性としてある。しかし、自然科学との境界は、さほどはっきりしたものではないという。

記号よる社会的な相互作用によって社会的コミュニケーションは生まれる。その過程で生じる互いの「理解」とは、バフチンにとってこのようなことだった。「問題なのは、他者の経験を自己の内部に自動的に正確に反映することでも、自己の内部で倍加することでもまったくない(そもそもそのような倍加は不可能である)。そうではなく、この経験を全面的に異なった価値論的パースペクティブにもとづいて、新しい評価と知識のカテゴリーに翻訳することである(『美的活動における作者と登場人物』大谷尚文 訳)。」つまりこれが、カーニバル的「生き返り」である。対話による理解の特徴とは、最初の発言(認識すべき対象)に触発された応答の形式をとる傾向があるということ。そして、他の発言を記述する発話が、その発話と対話関係を結ぶようになると言う。それはテクストとそれに問いかける、あるいは反対するようなコンテクストとの複合関係から生まれるのであって、既にあるテクストと創造途上にある反応としてのテクストとの出会いとなる。それは二つの主体、二人の作者の出会いなのだと言うのである。

8.最後に――言葉の物象化という危機

このようにみていくと、20世紀の初等からバフチンがマージナルな環境に身をおきながら、現象学、フロイト批判、言語の記号学、ドストエフスキイやラブレーの文学などを通して独特の思想を形成していったことが分かる。彼の思想を貫いているものは対話だった。間テクスト性のなかでのポリフォニー的対話である。それはカーニバルにおけるような民衆的な生きたパロールによって培われる。その生きた言葉を追求してきたバフチンが『言語と文化の記号論』の結びの中で、既に、発話が、その意味を真剣に考察されるような対象ではなくなっていると述べ、自分自身が責任を持って発した言葉、断定した言葉が無くなりつつある。既存の発話を組み合わせた、いわばブリコラージュ的な言葉が支配的になってきているというのだ。「他人の言葉」と「あたかも他人の言葉であるかのような言葉」とのカット&ペーストでしかない。これも複製技術時代の災厄なのか。芸術テクスト、修辞的発話、哲学的文章、人文科学の記述は「既存の意見」の王国となりつつある。前面に打ち出されているのは「何が私念されているか」ではなく、「どのように私念されているか」なのだと言う。こうした発話の運命は言葉を物となす「言葉の物象化」と「テーマ性の低下」をもたらすと言うのである。僕にとっても耳の痛い話である。そう、ここにはもうひとつの「ヨーロッパ諸学の危機」があったのだ。

 

引用文献 参考図書

竹田青嗣(たけだ せいじ/1947‐)
『はじめての現象学』

河本英夫『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』

エルンスト・カッシーラ『シンボル形式の哲学』第一巻(全4巻)

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』笑いは世界を再生させる

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』

今回は、色々な本の中でちょこちょこ名前の出てくるミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン)のグロテスク・リアリズムを取りあげたい。魔術的リアリズムに近いようで遠い。エロ・グロ・ナンセンスのグロテスクとも似つかない。じゃあ、いったい何かと問われればお立合い。まずは、はるか昔のローマに遡る。


1.カーニバル・タイプの祝祭、様々な広場での笑劇的要素

「そして(ウダールは)この法院族め、ぽかぽか、この法院族め、どかどかと、殴りだしましたが四ほう八ぽうからも、こんこんに張り切った籠手が、法院族に雨霰と降り注ぎました。『めでたい嫁取り! (と一同は叫びました。)めでたや嫁入り! めでたや! めでたや! 末の世まで忘れまじ! 』と。法院族はさんざんに痛めつけられて口からも、鼻からも耳からも眼からも、血がだらだらと流れました。その上に、頭からも首も背も胸も腕も一切合財が、くたくた、がたがた、びりびりにされてしまったのでございますよ。まったく謝肉祭の折のアヴィニョンの若衆たちにしても、この法院族の時以上に、景気のよい音を立てて、殴打遊びをやったことは金輪際ございませんよ。とうとう奴めは地べたへ倒れてしまいました。皆は、その頭に葡萄酒をぶっかけ、胴着の袖に、黄と緑に染められた見事な布地を縛りつけ、奴の青洟垂らした馬の背に乗せました。(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第四の書』」

フランスの地方には、婚礼の祝の席でお互いを冗談めかして軽くこぶしで殴り合うという「二股手袋の婚礼」という風習があったが、この殴り合いは陽気な性格を持ち、笑いで始まり、笑いで終わる。法院族は道化としての王の役割が与えられ、打擲と嘲罵が加えられる。そうされながらも祝福される矛盾した存在となる。ここではアヴィニヨンのカーニバルが想起されているが、肉体の分断、それも解剖学的、カーニバル的、料理的、医術的な寸断がなされている。しかし、殴られる者は葡萄酒で赤く染められ、彩豊かに飾られる。このような祝祭的なイメージ体系には、けっして絶対的な否定はない。矛盾する統一体の中で生成の両極が捉えられるのである。


 

ドムス・アウレア内部 64年のローマ大火災後にネロが建てた黄金宮殿跡
16世紀には地下洞窟「グロッタ」として知られていた。

西暦64年、ローマが焼野原になった後、皇帝ネロは誇大妄想建築と名高いドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設しはじめた。その死後、宮殿は火災によって焼失する。宮殿の敷地はティトゥス浴場などの建築物に覆われドムス・アウレアは地下に埋まっていたが、15世紀末に地下道を掘って内部が見学できるようになった。

バフチンは、本書『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』の中でこう書いている。「15世紀末のローマでティトゥス帝の共同浴場の一部が発掘された時、その時まで知られていなかった種類のローマの絵画的装飾が発見された。この種類の装飾は、洞窟、地下室を意味するイタリア語の「グロッタ」から「グロッテスカ」と名付けられた。(川端香男里 訳)。」そこを訪れたラファエロは内部の装飾に眼をみはり、さっそくバチカン宮殿の壁画に試したという、いわくつきのフレスコやモザイクがあったのである。

このローマの装飾画には、奔放なアルス・コンビナトリア(結合術)、動物たちや人間との自由なキメラがあり、幻想と想像力が手を携えて壁面に浮遊していた。その特徴をバフチンは、このように述べる。このグロッテスカにあっては境界線は大胆に犯されていて、現実のありきたりの静態的表現はない。一定不変の世界の、植物であれ、動物であれ、出来上がった形、そのものの動きはもはやなくなり、存在自体の永遠で未完な性質に変えられている。そこには芸術的空想の並みはずれた自由と軽やかさがある。そして、「この自由は、ほとんど笑っているような、陽気気ままな自由である」と書いている。彼によれば、この新たな発見は、グロテスクイメージ表現の一断面に過ぎなかった。そのイメージは、実は古代のあらゆる時期に存在し、中世、ルネサンスにも生存し続けていた。このグロッテスカは、その後の生産的な生命に保障を与える存在となり、グロテスクなイメージ表現が拡張され測り知れない巨大世界へと発展していく過程での護符となるのである。

 


2.滑稽な文学的作品からの着想

「そこでにこにこしながら、見事なその股袋をはずして、その一物を宙に抜き出し、勢い劇しく人々に金色の雨を降らしたので、そのために溺れ死んだ者の数は、女や子供を除いて二十六万四百十八人であった。これらの連中のうち何人かは、脚が速いおかげで、この小便の洪水から逃れ出て汗をだらだら、咳をこんこん、唾をぺっペっと吐きながら、息も切れ切れになって大学の丘の頂上へたどり着いたが、ある者は、かんかんに怒り、ある者は笑い転げながら(Par rys/パ リ)、神も仏もあるものかと喚き立て、呪詛の声を上げ始めた。――神の災いに誓って! 主を否みまする! 主の血にかけて! 主の母君、みそなわせ! 主の頭にかけて=ガスコーニュ 主の受難がお前をくじいてしまわぬように‥‥やれ聖女マミカ様、冗談ごと(Par ry)からすっかり濡れ鼠にされてしまったわい! こういう理由から、それ以来この町はパリと名付けられたわけだ‥‥(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第一の書』」

バフチンは、ラブレーの同時代のロジェ・ド・コルリーはこんな詩を書いたと紹介している。

≪主の復活祭≫みまかりし時  ≪主の良き日≫後を継ぎぬ。
≪主の良き日≫故人となりし時、 あとを継ぎしは≪悪魔よわれを取れ≫なり。
その歿したるのち、≪貴人の名誉≫がわれらを惹きつけているのを見る。

当時、聖なる言葉が瀆神的、冒涜的に使われるのを恐れた国王たちは一度ならず誓言禁止の法令をだしたという。ルイ11世の ≪主の復活祭≫、シャルル8世の ≪主の良き日≫、フランソワ1世の ≪貴人の名誉にかけて≫ など、彼らのお気に入りの誓言は、禁令を発した王たちと分かちがたく結びついて王たちのあだ名にさえなった。コルリーの詩はこれらのエピグラムとなっているのである。ラブレーの文学にはこのような滑稽な文学作品のパロディが散りばめられていた。


 

バフチン『ドストエフスキイ論』
『ドストエフスキイ創作方法の諸問題』1963年版の翻訳

幻想と想像力が手を携える。それって、シュルレアリスム、いやマニエニスムじゃないのかと不審に思われる人もあるだろう。いや、あってほしい。あるかなあ‥‥ルネサンス末期から登場したマニエリスムは、奇想をこととする手法主義を指している。ルネ・ホッケは、それをルネサンスの古典主義に対抗する概念にまで高め、西欧文化の二つのあざなえる縄の一つにまで持ち上げたのである。バフチンは、グロテスクを大衆的な笑いの原理、生活の物質的・肉体的原理、アンビヴァレントな価値を併せ持つ変化の両極性、再生と復活のユートピア性を持つと規定し、宗教の厳格性や学問の抽象性をこととするお堅い文学とやはり対抗させた。しかし、文化って基本的にアンビヴァレントなものなのかしら。

フランソワ・ラブレーやそれに類するルネサンスの作家たち、ボッカチオ、シェイクスピア、セルヴァンテスらの物質的・肉体的原理に基づくイメージが民衆の笑いの文化の継承に違いないとバフチンは思った。生に対する独特な美的概念の継承である。近代から始まる美的概念とは鋭く対立する美的概念をゴシック・リアリズム、後にグロテスク・リアリズムと名付ける。

既に古典古代において、叙事詩、悲劇、歴史、弁論術(レトリック)などの真面目な文学と田園詩、ソプロンの物真似、『ソクラテスの対話』『メニッポスの諷刺』といった、いわゆる真面目な茶番と呼ばれる文学とに分けることができるという。特に『メニッポスの諷刺』は、カーニバル的世界観から発し、ドストエフスキイの創作の中で新たに生まれ変わったというのだ。ドストエフスキイ文学は真面目な茶番の末裔に分類される。さて、これを読んでオッたまげた人はバフチンの『ドストエフスキイ論』をお読みくださいませ。

ミハイル・バフチン(1895-1975)
1924‐25年頃

ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチンは1895年にウクライナに近いロシアのオリョールに次男として生まれた。伝記については、カテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイストによる著書『ミハイール・バフチーンの世界』からご紹介する。兄と三人の妹があった。父方は貴族の家系に連なるが爵位は持っていなかった。祖父が市中銀行を設立していて、父はそのほうぼうの支店で支店長をしている。それで、何度かの転勤をすることになった。両親は子供たちに最良の教育を受けさせたが、家風はかたぐるしく、その中でもミハイルは打ち解けない性格だったといわれる。9歳で学校に上がる前は、ドイツ人の女性家庭教師がついていて、『イーリアス』『オデュッセイア』などをドイツ語で教え、劇にして演じさせていたりした。

9歳の時、父の転勤に伴って現在のリトアニアの首都ヴィーリニュスへ移り、15歳まで暮らすことになる。そこは、様々な文化、様々な時代の生きた博物館であり、伝説と謎に満ちていた。言語、階級、民族は多様で、異言語混交の生きた実例であったといわれる。ロシア人が支配しロシア語を公用語としたが、ポーランド人とリトアニア人が大半でユダヤ人も比較的多かったが、大勢はローマ・カトリックであり、知的・文化的にはポーランドに傾斜していた。兄弟はギリシア語を家庭教師に学びながら学校ではロシア中心のカリキュラムを吸収した。一時的な革命熱のためにマルクス主義に浸ったこともあったが、11歳の時『悲劇の誕生』を読んだことは、後に反ニーチェ主義者になりはするものの人生の転機になったという。やがて象徴主義に興味は移った。ロシアのブローク、アンネンスキー、イヴァーノフら象徴主義の詩を終生愛した。特にイヴァーノフは、「私」がもう一人の「私」、すなわち内なる「汝」を意識化していくという表現によって宗教的・認識論的体験の基礎となるコミュニケーション理論を築き上げていた。ここは、重要であろう。

1911年、15歳の時に黒海沿岸のオデッサ(現ウクライナ)に移った。一年だけオデッサ大学で学んだあと1914年からペテルブルク大学で歴史・言語学部の古典学科に在籍し、1918年に卒業した。この頃は、象徴主義に対抗する新しい運動が胎動していた。マンデリシュタームやグミリョフを中心としたアクメイズム、ヤマコフスキイらの未来派である。バフチンは言葉の実験を信条にしていた未来派に興味を持った。未来派に近い立場の人たちとしてペテルブルク大学で学んでいた、あるいは教えていたメンバーたち、シクロフスキ―などのフォルマリストを指摘できる。他にヤコブソンらがいるが、彼らはやがてバフチンの「あっぱれな敵」となるのである。これがバフチンの20代前半までの様子である。

 


3.無遠慮で粗野な広場の言葉(罵言、誓詞、呪詛、民衆的プロパガンダ)による語り

「はっ、はっ、はあ! わーい! こいつは一体何じゃいな? これなるものを何とお呼びになる? 便とも糞とでも、尿とでも排泄物とでも、うんことでも、便通とでも、糞便とでも、大便とでも狼の糞とでも、熊の糞とでも、鳥の糞とでも、鹿の糞とでも、絞り糞とでも、固糞とでも、山羊の糞とでもお呼びになりますかな? 私は思うのだが、イベルニヤのさふらんですわい。ほっ、ほっ、ひーい! こりゃイベルニヤのさふらんさね! 誓羅(せら)! 飲もうや、皆さん! (ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル/第四の書』」

この糞のオンパレードは、香具師の口上、広場での罵言のようである。さあ、さあ、みなさん、御用とお急ぎでない方は、よってらっしゃい、見てらっしゃい‥‥というのに代表される語り、あるいは、おまえのカアチャンのちょめちょめがなあ! くそったれ! などという罵詈雑言などの類です。


 

ピーテル・ブリューゲル(1525頃-1569)『謝肉祭と四旬節の喧嘩』1559 部分 美術史美術館 カーニバル的世界の描写

ここで、ラブレーのスカトロジー(糞尿譚)に触れます。イャダーとか言わないように。重要なのです。私が意識の座を得てからというものうんこなど食べたことも舐めたこともないことは誓って申し上げるのだが、恍惚の人となり、年齢も年齢ですから、そうなればどうなるかは定かではない。先ほどのラブレーの糞のオンパレードで、うんこがイベルニヤのさふらんという何やら貴重で快いものとされていることにバフチンは気づいた。自分の尿を飲むというのは民間療法として根強い人気があるらしいのだが、うんこはさすがに食べられません。しかしながら、うんこは大地と身体との中間にあって両者を結びつけるもの、再生と改新をもたらす陽気なブツなのです。うんこは死人の肉体と同じように土地を肥沃にするものなのです。

ギュスターブ・ドレ画『ガルガンチュア物語』挿絵  大聖堂からオシッコをして人々をセーヌ川に押し流すガルガンチュア

それで、バフチンはこう書いている。「ラブレーのスカトロジー的イメージには、少しも粗野でシニカルなものはないし、また、あり得ない。(他の同様のグロテスク・リアリズムと同じように。)糞を投げつけ、尿を浴びせ、古い死にゆく(と同時に生み出す)世界に糞尿譚的罵言を雨あられのように浴びせること――これは古い世界の陽気な埋葬であり、愛情のこもった土の塊を墓に投げてやる行為や、墦種――畑の溝(大地の母胎)に種を投げる行為とまったく同様の(ただし笑いの次元における)ものなのである。陰うつな、肉体のない中世的真実に対し、これは真実の陽気な肉体化であり、滑稽な地上化である。(川端香男里訳)」

つまり、うんこは「くそっ!」になるのだ。芸術的空想の並外れた自由な陽気さは、このうんこのメタファーにも見て取ることができる。いわば下方超越し、再生と復活を人間にもたらすと言うべき世界観は、古代における農耕神サトゥルヌスの黄金時代へ、全民衆的なユートピア世界への回帰に繋がっていくのである。

バフチンは、カーニバルやフェスト、大道芸、多種多様なパロディ文化等々に見られる諸形式を三つの基本的な形式にまとめた。それが今まで挙げてきた民衆文化の三つの表現形式(1.儀式的・見世物的形式、2.滑稽な文学的作品、3.様々の形式やジャンルの無遠慮で粗野な広場の発言)である。しかし、基本的に重要な形式は1.のカーニバルであろう。

「わたしがビール樽なら、あんたは足なしです‥‥」
「なに、わしが足なしだって」
「ええ、そうです、足なしですよ、おまけに歯欠けじいさんで、そうなんです、あんたは」
「おまけに目っかち」とマリア・アレクサンドロヴナが喚き立てた。
「あんたはあばら骨の代わりにコルセットをはめてるんでしょう」とナタリア・ドミトリエヴナがつけ加えた。
「顔はぜんまい仕掛け」
「自分の髪の毛はないし‥‥」
「口髭ときたら、バカみたい、こしらえ物でしょ」マリア・アレクサンドロヴナは黄色い声を張りあげた。
「いや、せめて鼻だけはよしてもらいたいな、マリア・ステパノヴナ、これは本ものなんだから」と意外なすっぱ抜きにびっくり仰天して公爵は叫んだ‥‥
「いやはや」と哀れな公爵はいった。「‥‥おまえ、わしをどっかへ連れ出してくれ。さもないと、八つ裂きされてしまう‥‥」。(ドストエフスキイ『伯父様の夢』新谷敬三郎訳)

バフチンは、このドストエフスキイの作品を、解体した身体の部分を数え上げる典型的な「カーニバル解剖」の例として挙げている(『ドストエフスキイ論』)。この数え立てはルネサンスのカーニバル化した文学において広く行われた、例えば、ラブレーにおいて盛んに、目立たなくはあるがセルヴァンテスにおいても。ここでは、カーニバル王の役割をしているのはマリア・アレクサンドロヴナ・モスカリョーワであった。彼女は娘を年老いた公爵の嫁にと画策するのだが、その手管を周りの社交界のご婦人方に非難され、彼女の名声は地に落ちる。その結婚話と対を成す娘とその恋人ワーシャとの関係は、彼の悲劇的な死をもって終わる。話は互いに反映しあい、お互いに透視しあい、一方が喜劇なら他方は悲劇、一方が卑俗なら他方は崇高という相反するデュアルな関係になっているという。これが文学化されたカーニバル感覚の一つの例なのである。

さきほどのブリューゲルのカーニバルの絵を見ていただきたい。この人物たちそれぞれに吹き出しをつけて会話を挿入する。それをアニメーションのように動かすと異種混淆の会話のポリフォニーになる。ポリフォニーというより会話のクラスター(群れ)と言った方がよいかもしれない。それは、カオティックなエネルギーに満ちた世界であり、次の年にもその次の年にも似たように繰り返される行事だった。カーニバルの形象は絶えず生き返り常に終わりは新しい始まりであり、決定的な終局に反対するとバフチンは言う。そして、ドストエフスキイ作品の世界はこのようなものであるとも言う。「世界にはいまだかつて何ひとつ決定的なことは起こっていない、世界についての、また世界の最後の言葉はまだ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからであろう(新谷敬三郎訳)」と。つまり、開放系である。

ドストエフスキイは制約的で一面的な真面目さ、独断論や終末論とも無縁ではない、しかし、ひとたび小説の中に入ると開かれたまま終わることのない対話の生の声の一つになってしまうという。「彼の小説にあっては、すべてがまだ語られたことのない、予め用意されてない『新しい言葉』に向う。(新谷敬三郎訳)」新たな言葉の創発が起こると言う分けだが、残念ながらカーニバル的世界には時間の矢がない。それは、ともかく、この『ドストエフスキイ論』は『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』とセットにするとカーニバル的世界観、ひいては、グロテスク・リアリズムが理解できる仕組みになっているのです。

ジュリア・クリステヴァがまだ、ブルガリアの学生だった当時、バフチンは、革命的存在だったという。しかし、1965年にフランスに留学してみるとバフチンは全く知られていなかった。ロラン・バルトは、彼女にバフチンの著作についての報告をするように勧めたという。それが『バフチン ―― 言葉  対話  小説』というテクストであり、雑誌「クリティック」に掲載され、やがてバフチンの名が西側世界でも知られる契機となるのである(桑野隆『バフチン』)。しかし、彼女は、バフチンの思想に自分のアイデアを繋げた。

それが、「間テクスト性」の問題だった。「一つのテクストが別のテクストの引用のモザイクとして形成され、テクストが全て別のテキストの吸収と変形に他ならない」と考える。前半のテクストという言葉を声に後半のテクストを会話に置き換えてみよう。すると、「一つの声が別の声の引用のモザイクとして形成され、会話が全て別の会話の吸収と変形に他ならない」となる。バフチンがドストエフスキイについて述べた会話のポリフォニー性とは、小説が作者のモノローグだけに終わらない、つまり、登場人物が作者の意図や思想を代弁して語る存在としてではなく、小説内で作者とは独立したそれぞれ自由な存在として登場し語ることによって生まれる。会話のポリフォニー性から直ちに「間テクスト性」は導けない。ただ、カーニバル化の機能は、ジャンルや孤立化した思想の諸体系、異質なスタイル等々の柵を全て取り払う作用をしてきた。それは、あらゆる孤立化、相互の無関心を絶滅し、遠くのものを引き寄せ、ばらばらのものを一つにまとめた(『ドスエフスキイ論』)。全ては繋がっているというわけである。そう考えれば、「カーニバル化」と「間テクスト性」とは繋がる。

これに加えてカーニバルにおける記号性についても考えなければなりません。バフチンは有意味な事・物は、全て外部になんらかの形で姿を見せると信じていた(桑野隆『バフチン』)。ここら辺りは、カッシーラの『シンボル形式の哲学』に近づいて行くのだろうけれど、今回はここまでとします。ところで、気づいたのだけれどパロディとは世界を未完にするための手段、再生するための強力な方法だったのですね。

「はっ、はっ、はあ! わーい! こいつは一体何じゃいな? これなるものを何とお呼びになる? カーニバルともポリフォニーとでも、間テクスト性とでもパロディーとでも、クソッタレ! ともグロテスク・リアリズムとでもお呼びになりますかな? 私は思うのだが、モルドヴィアのさふらんですわい。ほっ、ほっ、ひーい! こりゃモルドヴィアのさふらんさね! 誓羅(せら)! 読もうや、皆さん! 」

 

 

引用文献・参考図書

カテリーナ・クラーク、マイケル・ホルクイスト『ミハイール・バフチーンの世界』

桑野隆『バフチン』 バフチンに関するとても良い入門書

フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』「ガルガンチュアとパンタグリュエル」第一巻

フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル』「ガルガンチュアとパンタグリュエル」第二巻(全4巻)

『变臉/この櫂に手をそえて』 名優・朱旭と中国映画

川劇 中国四川省の伝統劇

映画を見た。中国の老いた大道芸人を扱った作品だった。中国の四川省には川劇(せんげき)と呼ばれる京劇に似た伝統芸があるらしい。その劇は、正に瞬く間もなく瞼譜(れんふ/隈取)を取り換える技、変臉(へんれん)を以って知られている。臉(れん)は顔のことだそうだから「変面」と訳すのは正しいだろう。一子相伝、それも男子にしか伝えない極秘の技だった。


1930年代の四川、子供を失い、変臉を得意とした老いた大道芸人である王(ワン)が、その技をどうしても伝えたいと人買いから8歳の男の子・狗娃(コウワ―/子犬の意味)を買った。爺爺(イエ、イエ ! /おじいちゃん)と呼びかけるその子に何かを感じたのだ。喜び有頂天となるワンだったが、街角の露店でゴムパチンコで手を打たれ、小さな鉈を自らの足に落としてしまう。酒で消毒した後、小さな子のおしっこは刀傷に効くと信じていたワンはコウワ―におしっこを出すように言うのだが、窮したコウワ―は、実は自分は女の子だと白状してしまうのである。


 

この映画のタイトルは、邦題を『変臉/この櫂に手をそえて』、英語の題名が『The King of Masks』である。主演は朱旭(チュー・シュイ)、狗娃(コウワ―)役を周任蛍(チョウ・レイイン)が演じている。二人とも素晴らしい役者だが、猿回しの芸のために飼われている猿も恐るべき演技をする。

この映画のためにチュー・シュイは、変臉の技をその筋の名人に習った。つまり、本人の実演がワンカットで撮られているのである。スローモーションにしても変臉の瞬間は分からなかった。自分ができるのは3枚までで、名人は7、8枚から10枚までできるのだという。自分のやり方は一番原始的・伝統的やり方であって面は全て絹であり、今のような合繊や化繊ではダメなのだそうだ。それに、コウワ―のアクロバットもやはり実演であった。彼女は、既に雑技団の売れっ子であったというからその演技も頷ける。しかし、撮影当時、両親の離婚に伴って親権が争われる裁判中であった。稼ぎがあるというのが理由だったという。その身の上が映画のストーリーと相まって心に痛い。(石子順『中国映画の明星』から「朱旭」より)

今回は、どうしてもこの朱旭(チュー・シュイ)という人をご紹介したかった。それで、石子順氏の『中国映画の明星』を中心に彼の経歴を追ってみたいと思っている。この俳優さんは、「世界一の劇団」と言われた北京人民芸術劇院所属の舞台俳優だった。この芸術劇院は、京劇などの伝統的な演劇ではなく現代劇(話劇)や歴史劇の専門集団である。劇院最初の演目が「北京の花」と謳われた作家、老舎(ラオ・ショー)の作品『龍髯溝』であり、その『茶館』は、この劇団の代表作となった。二千人収容可能な首都劇場を中心に140以上もの作品を公演してきた。所属する作家、演出家、俳優、全てが一流だといわれる。脚本、演出、俳優、舞台装置に関わる250人近い人々で構成されている。中国の俳優さんたちの演技には感心することが多いのだけれど、こんなところにもその要因があるのだろう。

チュー・シュイは、1930年、中国北東部、朝鮮半島にも近い遼寧省の瀋陽(はんよう)に生まれた。華北大学の第三部戯劇課で学び、日本占領下の北京に移り住んだ。その頃の日本兵との出会いは、辛い思い出になっているようだ。ここにも侵略の歴史の暗い影を見る思いがする。1952年の北京芸術劇院の結成にともなって、22歳の若さでここに俳優として配属された。最初は照明係や端役からスタートしたという。若くして頭角をあらわすというタイプではなかったが、徐々に役をもらえるようになっていった。しかし、三十代半ばで文化大革命の波に洗われることになるのである。1966年に文革が始った。

 


『The King of Masks』DVD

騙されたと知ったワンは、コウワーに金を与え、彼女を岸に残して住まいにしている舟を出してしまう。コウワ―は泣きながら後を追うのだが、ついに泳げもしないのに川に飛び込んで舟に追いすがろうとした。ワンは水に飛び込んで助けてやるのである。しかし、もう祖父と孫のような関係は失われ、師匠とその弟子のような関係となってコウワ―に軽業の芸を仕込むと、共に大道芸をしながら暮らしていくようになる。

変臉の技に興味津々となったコウワ―は、ワンのいないある夜、瞼譜(れんふ/隈取)を取りだして火にかざして眺めていたのだが、運悪くそれに火がついてあっという間に舟は燃え上がってしまう。そんな時、ワンは、彼を尊敬する川劇(せんげき/四川オペラ)の女形、人気絶頂の梁素蘭(リャン・スラン)にコウワ―との写真を届けられる。なんとか、もとの水上生活にもどれるワンだが、コウワ―はいたたまれなくなって彼の元を離れ、浮浪児となって街をさまようようになる。あまりの空腹に焼き芋を盗もうとしてとがめられ、立ち去ろうとしたとき、彼女の手を捉える男があった。


 

中国の映画史は、黎明期の1910~1920年代の第一世代を経て、1930年代から1949年の中華人民共和国成立までの第二世代にまず分けることができる。その頃の上海は、外国人居留地、いわゆる租界として発展していて、イギリス、フランス、アメリカが主権を有していたため日本や中国本土などとは異なりダイレクトに欧米文化が流入していた。上海はモダンだったのである。アメリカ映画の影響と新左翼運動家の新劇的なシナリオ、資本家の投資とがあいまった。40余りの比較的小規模な映画会社が林立していて1928年から1931年の間に400本の映画が作られたという。

中華人民共和国が成立すると1953年には各地の撮影所は国有化される。そこから文化大革命が始る頃までの映画人を第三世代という。毛沢東の強い影響下にあり、共産党のプロパガンダ映画へと傾斜しはじめたのは自然なことだったろう。その中でも謝晋(シエ・チン)は重要な監督として注目されている。彼のことは、後でもう一度触れる。

呉天明(1939-2014)ウズール国際アジア映画祭 2007年

文革から1980年代半ばまでの時代の映画人が第四世代である。この世代は、文革中に反革命的な知識層として多くは糾弾の憂き目にあった。毛沢東が亡くなり10年続いた文革が終わって、その誤りを指摘しようということにはなったものの、どのように、あるいはどの程度表現して良いのか手さぐりの状況だったのである。その中で強い意思を見せたのが呉天明(ウー・ティエンミン)だった。この人が『変臉/この櫂に手をそえて』の監督さんである。彼は、文革中に年老いた撮影所の所長が重い木札を首にかけられトラックに乗せられて見せしめに引き回されようとした時、その車によじ登って、ありあわせの木札を首にかけ「俺もつるし上げろ」とその所長の横に並んだという。それに、ある女優が精神を病んで井戸に飛び込んだ時、自も井戸に飛び込んでその女優を助けた(石子順『中国映画の明星』)。そして、何よりも、彼が中国映画史の中で重要な位置を占めるようになるのは西安撮影所長としてのプロデューサーの手腕だった。

再開された北京の電影学院からの卒業生たちが自由な雰囲気を求めて地方の撮影所に集まるようになる。その一つが西安だった。『活きる/活着』の張芸謀(チャン・イーモウ/1950-)、『青い凧』の田壮壮(ティエン・チュアンチュアン/1952-)、『さらば我が愛/覇王別姫』の陳凱歌(チン・カイコ―/1952-)ら錚々たるメンバーがつどった。三人が三人とも若い頃に強制的に地方の生活を体験させられる下放を経験している。彼らの世代が第五世代といわれる。呉天明(ウー・ティエンミン)が綺羅星のような彼らを育てたのである。これらの作品は全て状況を異にする映画だが、文革やそれに先立つ反右派闘争を批判している点で共通している。これに先ほどの謝晋(シェ・チン)が1987年に撮った『芙蓉鎮』を加えることができるだろう。(竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている』)

 


コウワ―の手を掴んだのはワンに自分を売りつけた人買いだった。人買いの家に連れて行かれると、そこにはコウワ―よりもっと小さな裕福な家で育った四歳の男の子がさらわれて泣いていた。そこで、彼女はある決心をする。二人で屋根裏から屋根を伝って逃げた。そして、その子をワンの舟まで届けるのだった。舟に戻ってきたワンが、名前はと問うと天賜(ティエンシー)と答えた。これが誤解のもとになった。ワンは信仰する観音菩薩の恵みだと喜ぶのである。しかし、喜びも束の間、彼は幼児誘拐の疑いで警察へ連行されてしまう。コウワ―は泣きながら牢屋の格子越しにワンに瞼譜(れんふ/隈取)を手渡すのだった。


 

石子順『中国映画の明星』2003年刊
中国映画の四人のスターを紹介する

1958年から始まった大躍進政策の失敗によって、毛沢東は政治権力の座を失った。稚拙な製鉄法による木炭の消費は森林を壊滅させ、生産された6割は使い物にならない屑鉄だった。伝統農法も近代農法も無視した農業は大凶作を呼び、それでも輸出のために作物は吸いあげられた。それによって数千万の餓死者を出したといわれる。このあたりの農村の様子は『赤い高粱』で知られるノーベル文学賞作家、莫言(モー・イェン/1955-)がその講演で語っている(『莫言の思想と文学』「飢餓と孤独はわが創作の宝もの」)。彼は、川端康成の『雪国』とガブリエル・ガルケス=マルケスの『百年の孤独』、それにウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』にシビレテいた作家だ。

毛沢東は、劉少奇や鄧小平らが握った政治の実権を奪還しようとして、高校生を主体とする紅衛兵と呼ばれた学生たちの運動を扇動した。共産主義に部分的に資本主義を導入する実権派の修正主義を嫌ったのである。実権派の党幹部やその支持者、知識人、旧地主の子孫などが反革命分子とされ、紅衛兵を中心とした造反派によって迫害を受けることになる。これによって多くの人命と文化財が失われた。

この伝染病のような文革の嵐は、北京人民芸術劇院も襲った。院内に起こった造反によって「文芸の黒い線」一味、「反革命分子」として糾弾される。老舎は太平湖畔で死体で見つかり、実質的な指導者だった焦菊隠(チャオ・チュイイン)副院長は、迫害の後、死亡、高名な女優であった舒綉文(シュ・シウウェン)も迫害され亡くなった。チュー・シュイも吊し上げられ妻で女優であった宋鳳儀(スン・フォンイー)とともに、いわゆる「幹部学校」へ送られ北京郊外の元囚人農場で八年間畑を耕し、葡萄栽培を強いられた。小学生の長男と生まれたばかりの末っ子とは別れて暮らさなければならない辛い日々だった(石子順『中国映画の明星』)。

この文革の頃の様子は、先ほどの第五世代の監督たちの映画の中にそれぞれ描かれているが、チュー・シュイとの関わりで言うなら、1995年の日・中合作のテレビドラマ『大地の子』を挙げることができる。山崎豊子の原作なのだが、綿密な取材によってその頃の様子は迫真なものになっている。このドラマで彼は、中国残留孤児の男の子の養父で小学校教師であった陸徳志を演じて、その素晴らしい演技が一躍日本の人たちにも知られるようになった。ついでに言うと、中国側の制作した残留孤児のテレビドラマもあって、これも感動的だった。僕の大好きな孫麗(スン・リー)主演の『小姨多鶴』(多鶴叔母さんの意味)がそれで、アメリカの小説家である厳歌苓(ヤン・ゲリン)の同名の小説が2009年にドラマ化されている。これでもかこれでもかと押しよせる不幸を懸命に生きていく女性を描いているのだ。ヤンは、『金陵十三釵』の作者でもあるが『紅楼夢』の関係で言えば『金陵十二釵』が美女12人を指しているから、かなり意味深なタイトルと言える。それはともかく、この『大地の子』が制作された翌年、アメリカから帰国したばかりの呉天明(ウー・ティエンミン)監督のもとで『変臉/この櫂に手をそえて』が制作されることになるのである。

 


ワンの友達の酒屋の主人は、コウワ―に川劇の女形・梁素蘭(リャン・スラン)なら助けてくれるかもしれないと告げた。コウワ―はリャンの住む建物の前で一夜をあかし、リャンに事の次第を告げる。だが、彼女はリャンが出演する劇の最中に驚くべき行動にでるのだった。クライマックスはどうか映画をご覧ください。


 

1983年アメリカの劇作家アーサー・ミラーが北京に滞在し、その作品『セールスマンの死』が北京人民芸術劇院によって演じられた。チュー・シュイは、主人公ウィリーを助ける心温かいチャーリー役だった。ミラーは、アメリカの俳優ヘンリー・フォンダを思わせる良い役者だと誉めたようだ。フォンダは、『怒りの葡萄』や『12人の怒れる男』といった作品で知られる名優である。その頃、チュー・シュイは、魯迅の『阿Q正伝』の主役を演じるまでになっていた。ミラーの『セールスマンの死』は北京で大成功を収めたのである(石子順『中国映画の明星』)。

そして、1984年、第五世代が躍動し始めた頃、チュー・シュイは、初めて映画に出演する。50歳半ばの遅れてやって来た映画俳優だった。『紅い服の少女/赤衣少女』というタイトルで16歳の少女の父親役である。教え子だった女性監督である陸小雅(ルー・シャオヤー)から声をかけられたのがきっかけだった。

その後、文革を描いた『胡同(フートン)模様/小巷名流』、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督の芸人一家の悲劇を描いた『鼓書芸人』に出演する。弦楽器と太鼓の伴奏で物語を歌う二人組の芸を鼓書といった。そして、名作として名高い、もと京劇役者の祖父を演じた『心の香/心香』がある。これで、祖父役が定着する。『孔家の人々』『変臉/この櫂に手をそえて』を経て『こころの湯/洗澡』『刮痧』『王様の漢方/漢方道』などに出演。そして最後の映画が2009年に制作された『我們天上見』(天国で会いましょうの意)で、やはり祖父役を演じて、この作品も素晴らしかったが、監督はなんと『大地の子』で主人公・陸一心と結婚する江月梅を演じた蒋雯麗(ジャン・ウェンリー)だった。張芸謀(チャン・イーモウ)もそうだが、俳優で監督、両方こなせるという人も中国には少なくない。

チュー・シュイのどこに惹かれるのかは言い難いものがある。確固として鍛え上げられた役者としての技術、何よりも香ってくる人柄の暖かさ、絶妙の間合い、神技とも言える声の抑揚、全ていい。そして、僕が何よりも言いたいのは、呉天明(ウー・ティエンミン)監督と組んだこの『変臉/この櫂に手をそえて』が、いかにも地に足の着いた職人肌の映像を僕たちに届けてくれているからだ。おまえの感覚は古いのだと言われそうだが、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『恋する惑星/重慶森林』といったシティポップな感覚も嫌いじゃない。チュー・シュイのこの作品は、ワイヤーでぴょんぴょん飛んだりしないし、流行りのCGによる壮麗なインチキもない。そんなのこの頃は、あんまり流行ってなかった。勿論、映画の形式美、色彩構成や造形美といった要素も大切ではあるが、僕は何よりこの丹精こめた職人芸による極められた演技とそれによって創り上げられた映像が好きだ。職人気質大好き。みなさんにも是非見てもらえたらと思っている。チュー・シェイは、昨年2018年に88歳で惜しくも亡くなっている。

 

 

参考図書


竹内実・佐藤忠男『中国映画が燃えている』中国映画の歴史が比較的詳しくまとめられている。

藤井省三『中国映画 百年を描く、百年を読む』
莫言文学の翻訳者が中国・香港・台湾の映画35篇を紹介する。

莫言『莫言の思想と文学』莫言の講演を集めている著書 2015年刊

清少納言『枕草子』 鵺の如き複合体としての日記

 

清少納言の『枕草紙、随分不思議なものだと思ってきた。勿論、彼女の才気を煥発させている文章ではあるのだが、それだけではない。ある種のカタログである。「‥‥花によろこびといかりあり、いねたるとさめたるとあり、暁と夕あり‥‥」と書いたのは、明の時代の袁宏道(『瓶史』)だけれど、こんな表現は、よく似ている。それは、何か画集をめくって眺めていく感覚にも近い。そのことは、ロベルト・カラッソ 『カドモスとハルモニアの結婚』 一貫する差異に書いておいた。展覧会の準備があってブログをしばらくお休みしていましたが、展覧会の間にぽつぽつ書いておりました。今回はこの『枕草子』についていささか考えてみたいと思っている。


源氏物語を翻訳したアーサー・ウェイリーが1928年に『枕草子』を翻訳して出版していたことは、ほとんど知られていないのではないだろうか。西欧の気鋭な文学者がこの『枕草子』をどのように見ていたのかは、なかなか興味深いものがある。少しご紹介しよう。


 

津島知明『ウェイリーと読む枕草子』
ウェイリーが『枕草子』を抄訳し、その解説を書いた著作の紹介である。

『ピローブック』と訳されたそれは、ウェイリーが最も気に入っている作品だとして、後進のドナルド・キーンやアイヴァン・モリスを驚かせたという。その翻訳には意外にも「春はあけぼの」として知られる初段が切り捨てられていた。断章の集合体である『枕草子』は、「どこを、どの順序で、どう読んだらよいのか」を読者に突き付けてくるとは、『ウェイリーと読む枕草子』の著者である津島知明氏が指摘することである。つまり、読み手によってその価値が大きく異なってくる作品なのである。

ウェイリーの『ピローブック』の章立ては、「十世紀の日本」、「清少納言のピローブック」、「少納言の性格」、「翻訳ノート」の四章に分かれていて、「十世紀の日本」は、ある種の文化批評のようで興味深い。彼にとって当時の日本は、侵略にもコスモポリタニズムとも無縁な揺るぎない幾世期を満喫していた国だった。それは、ひたすら美的で、文芸的な世界だったが、一方で自国の歴史に対する好奇心は皆無で、相応の知的な探求心(ヨーロッパ人のイメージする数学、科学、哲学などに対してではあるが)は伴われなかったという。

この歴史に対する好奇心の差が我々イギリス人と古代日本人を分ける明確な相違点だというのだ。そして、強調すべきは「いまめかし」という当世風なものに対する熱狂的な興味であり、『万葉集』でさえ、清少納言や紫式部によって引用されることは稀で、引用しても「当代の人の目にかなわぬもの」という弁明つきであったという。催馬楽の流行もその「今めかしたるもの」の一端であったのだろうか。当時の日本は、ヨーロッパの言う一般的な知的基盤を持ちえなかった、それ故なのか、どこから見ても優雅で洗練された男女が中世のイギリスの人々の愚かさ以上の「幼稚さ」を見せていることに驚いている。多分、物忌みやまじないなどの迷信の氾濫や、書の上手さが信仰と化しているようなことを指しているのだろうけれど、こうした頼りなさが平安時代の不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出しているというのである。しかし、こうした視点も何故そう見えるのかを問うてみなければならない。

 


清少納言は、中級官僚の子、受領の娘であった。中宮定子に仕えた恐らく40人はいたと言われる四位・五位の家の娘の一人だったが、はじめから「清原元輔の娘」という大きなレッテルを背負っていた。歌の名手、当意即妙の猿楽言を得意とした父の娘である。漢学の素養があったことで知られるようだが、おそらく、清少納言程度の素養を持つ女房は他にもあったらしい。しかし、彼女の特質は定子を中心とした宮中生活を極めて肯定的にエンジョイしていた点にあると言っていいだろう。彼女は、ひたすら「をかし」の明るい世界を演出していた。


 

狩野安信 『三十六歌仙額』から清原元輔
江戸時代

清少納言は966年、三十六歌仙の一人で歌学者としても知られる清原元輔(きよはらのもとすけ/908-990)の娘として生まれた。母については分かっていない。『日本書紀』を編纂した舎人親王を祖とする家系であり、後に清原真人(まひと)姓を賜ることになるのだが、その清原姓を賜った二人のうちの一人が舎人親王の曽孫である清原夏野(きよはらのなつの)であり、『令義解』を編纂した一人である。また、曽祖父の清原深養父(きよはらのふかやぶ)は十世紀を代表する宮廷詩人であり、学問と文学とに造詣の深い家柄であったことは間違いない。

父親の元輔はひょうきんな側面を持つことで知られていた。今昔物語や宇治拾遺には、殿上人の物見車の立ち並ぶ一条大路で賀茂の祭りの使いとして通りかかった時の元輔の様子が描かれていて、冠を飛ばし禿げ頭をさらして落馬しながら、臆面もなく物見車に近づいて面白おかしく弁じたてたという。事実かどうかは別にして、この父親のひょうきんな側面を清少納言も受け継いでいたといわれる。それに定子の父、藤原道隆は軽口を好んだ大らかな性格で定子のサロンも当初そのような明るい雰囲気を持っていた(阿部秋生『清少納言』)。

清少納言の本名は分かっていないが、 981年頃に陸奥守であった橘則光(965-1028)と結婚し、一子、則長を出産するも離婚、後に藤原棟世(むねよ)と再婚し、一条天皇の二人目の皇后である上東門院彰子に仕えたことから上東門院小馬命婦(こまのみょうぶ)と呼ばれる娘を生んだといわれている。棟世が実父であり、元輔の養子になったのではないかという説もある。ともあれ、『万葉集』の講義や『後撰集』の選者として知られる父、元輔は、990年に亡くなり、その翌年、24歳頃に一条帝の最初の中宮(皇后)となった定子のもとに出仕することとなる。推定で定子より10歳くらい上、道長や公任とはほぼ同年と言われている。初めて定子のもとに出仕した時は、コチコチになってしまって涙もこぼれ落ちる寸前だったという。ただ、明かりに照らされた着物の袖からほんの少し見えた桃色の美しい定子の手に素敵な衝撃を受けるのだった。

 


僕が何故、折口信夫の著作を愛しているのかは、くどくど述べないけれど、彼が日本の古代に関する最高のストーリーテラーであったことは確かだと思っている。そんなことを中上健次氏が色々な著作で述べていることに僕はく賛成だ。このことは、宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』の中で少し書いておいたのでお読みください。次の章では折口信夫の「まくらことば」の絶妙な解説をご紹介する。


 

折口信夫の『枕草子解説』

里の巫女が山の神を迎えるという古来の神事は山の神の使いとしての男とその土地の精霊の代理としての巫女、つまり女とのある種の戦いとなる。外から来る異神との境決めとも関わるからである。この関係は、女が男を迎えるという歌垣という行事の発展とパラレルな側面をみせる。歌垣には、男と女が語らうという面より、争い、かけあい、ひやかし、折り合うという面が強く、物の交換が伴うために歌垣の場所は、市のたつ場所ともなっていった。

問答歌として二首で完結する五・七・七三句形式の片歌が使われたこのかけあい、いわば口争いは、男が女を手に入れようとする口どきを女の側がもどくという技の修練を催すようになる。やがて、片歌の一部が強調されて短歌ともなった。その女の側の修練が、女房文学を宮廷において発展させる端緒となるというのである。奈良朝におけるかけあいは、ある地方の物語が放浪者の持ち来る物語や歌とともに広がり、色々な地方の歌垣で使われるようになるに伴って自由で豊かなものになっていき、文学的にも洗練され、内容も民衆の心に適うものになり、文学として評価しえるようになっていった。平安朝の女房文学の基盤は、そのような経過を経て成立したのである。

折口信夫全集15 「枕草子解説」収載

歌物語と諺物語が、皇子たちの教育に役立てられていたために宮中では物語は重要なものだった。そのような中で短編物語が女房の日記、それ自身の歌から生まれていくこととなった。過去の歌、過去の諺を記録するかわりに自分の主人の為の代作歌をその次第とともに書き添えていく習慣が女房自身の抒情歌、実際に使われる相聞・唱和の歌とその詞書をも発達させた。かつてのみこともちの慣習は平安朝でも継承され、貴人は人を介して言葉をやり取りした。歌の場合も、女房の即席の歌が貴女自身の歌と考えられ、そのようにとっさに優れた歌を作れる女房を抱えることが、とりもなおさず貴女の評判を高めることとなる。女房は主人の意を汲んだ歌を作ったものと考えられ、それは主人の歌そのものとされていたのである。清少納言もそのような女房の一人であった。もっとも歌は苦手だと本人は言っていたらしい。

巻物の時代の後には「そうし」の時代がやってくる。草紙は二つ折りした紙の折り目の部分を糊ないし糸でとじる冊子である。それでは枕とは何かというと、文章の中心になって、その生命を握っている単語、あるいは句を指すという。「ことのはまくら」「まくらことば」の意味である。必ずしも文頭にくる言葉ではない。「まくらそうし」とは、文章に生命を与える言葉を書き付けるための草紙ということになる。まくら(枕)は魂、特に生魂(いきみたま)を蔵する場所であり、「まくらごと」は魂を込めて長上に献上する「よごと(寿言)」と同じ意味であった。長上に歌詞を奉ることは自分の霊威を奉献することであったからである。「まくら」の第一義は献上する歌詞の全体、第二義は、その歌詞の中の生命を握っている語ということになる。「まくらごと・まくらことば」については色々の説があるが、折口信夫の「霊魂論」の枠組みの中では、この語は確固とした定義と価値づけが与えられ、説得力がある。

女房たちは、「まくらそうし」を特定の貴族の子女のための手習いの材料として奉った。それは、教育の方便となるのである。ついでに言うと、本歌とりとは、ある歌のまくらを取り込んで新しい歌を作り本歌の持っている霊威を取り込もうとすることである。本歌とりの起こりは替え歌で、本歌の声楽的な霊威を取り込んで完全に移せるものと考えたのである。その時、まくらは必ず入れておかなければならなかった。その名残が、はやし詞であるという。手習いの材料が分量を増し、形を成してくると艶書集となる。恋文の指南書である。こうした艶書に熟達することは、貴公主。貴公子の世才、つまり「やまとだましい(才能・知識)」を殖やす有力な方法であった。

日本古典文学全集『枕草子』小学館 1997年刊

女房たちの書いた日記は、色々な意味を含んでいた。そこに書かれた歌には、女房自身の実感・境遇を詠んだ歌もあれば、代作したものもあり、男女の相聞・問答歌さえ実際の恋愛から生まれたものだけではなく、社交上の辞令で使ったものもあった。平安朝の日記は、教訓書であり、データボックスであり、有職典礼集、言行録、生活記録でありながら物語的な要素もあり、場合によっては家集でもあった。それは、広い意味の随筆であったという。平安後期王朝の女房日記、女房歌集には、このような要素が多く見られるのだけれど、清少納言の場合、「まくらごと」の配列が目に付く。同種類の「まくらそうし」のなかで清少納言の日記に属するものが著名となるに及んでその名をもっぱらにしたのだと折口さんは言う。

閉じおける枕ざうしの上にこそ昔語りの夢は見えけれ(『新選六帖』鎌倉中期の和歌集)

この歌からは「まくらそうし」が備忘録として考えられていたことが分かる。まくらごとを集めることによって自家の誇りや自讃歌を筆にまかせて書き連ねる。このような備忘録としての性格は清少納言の『枕草子』にもあって過去を回想する形の文章となっている。例えば「仰せらるるもをかし」の「をかし」という結びは、ある意味人の動作や目の前の情景を回想する形式にもなっているのではなかろうか。こうしたまくらごとを含んだ日記、総じて随筆的なものは、時間的に整理されたものではなく、書かれた材料にも決まった選択がない。ノートのように書き連ねられていて備忘録のようになる。それも、宮廷や貴族の家で実際に行われた年中行事、あるいは事件を描写する日記に対して、かなり誇張と文飾を加えた、もののあはれの日記とでも言うべきものであったという。フィクションも多分に含まれていた。

『枕草子絵詞』部分 鎌倉時代末
一条帝が石清水八幡への御幸の際に生母詮子に会う場面

一方で、『枕草子』に関して、宮廷生活の日記の部分を絵巻物にした『枕草子絵詞』として知られる作品が存在している。古典的生活を紹介する一種の行事絵巻としての有職絵であるが、そのために文章の一部が改変されている。当世風の『宇治拾遺』『信貴山縁起』その他、漫画的な絵巻にあるような智慧の勝利、をこなる男の失敗、歪んだ世相といったようなテーマはない。この『枕草子絵詞』のような物語日記絵は、かなり古典的な形式のものであり、描かれたのは過去の典型的な生活であったという。そのような生活を描く絵詞は日記のように備忘録としての性格を持っていた。しかし、ページをめくるという新機能を持つ草紙の内容が、絵巻という古い媒体へとフィードバックされている点で面白い。絵巻から草紙というテクノロジーの進化が人間の感覚のある部分を拡張したとするなら、ページをめくりながら絵巻の断簡を眺めいるような感覚だったかもしれないのだが。

当時は文章を書き写すしかコピーの手段はなく、原本も当然そう写した。そうするとしてもいくつかの章を抜粋した写本もあり、人によってその取捨選択は異なった。そのため幾通りかの抄本が存在するようになる。これは『源氏物語』などでも同様である。それに各個人の書き入れが挿入されたものもあり、場合によって書き換えさえあった。それが、作者複数説の所以でもある。完全なコピーを作ろうとする意図で写されない場合も多かったのだ。『枕草子』にもこのような異本があり、大きく分けて四種類の系統があると言われる。既に写す段階で編集および加筆がなされていた。現在、使われている『枕草子』のテキストは、その中でも原典に近いと考えられているものであることは言うまでもないだろう。

 


このように見ていくと『枕草子』が「まくらごと」を集めた辞書であり、その備忘録、事実やフィクションを織り交ぜた日記、歌物語でもあり、短編小説をも含んだ気ままに書かれた随筆であったことが分かる。それに加えて、写本の段階で多くの編集・加筆が行われていたのである。つまり、清少納言と読者とのコラボ的性格さえも持っていた。


 

私たちが『枕草子』を読む時、ありのままの日記であることを前提として、つまり、清少納言の感想つきの記録として読んでいないだろうか。例えば、286段(古典文学全集/小学館による)の「うちとくまじきもの」には、「船に乗って漕ぎまわる人ほど畏怖を感じさせるものはない」と油断のならない気の許せないものに関する一般論を言っているかと思えば、自分の乗っている船は「きれいに作ってあって‥‥まるで小さな家にでも乗っているようだ」と書いている。先ほどの津島知明さんの指摘にあるが、カタログのように書かれているかと思えばふっと体験談が挿入される。これをウェイリーらが英(仏)訳する場合、必ず誰が何時述べているのかという人称時称は確定されなければならない。そうなると現実の記録としての意味あいは絶対的なものとなる。ある意味これらの訳は現在の私たちの読みに近いものとなるだろう。しかし、原文のいわば、カタログへと一般論化しようとする拡張と現実の記録としての一点への収縮という呼吸のような振幅は失われるのである。

三田村雅子 編 『枕草子 表現と構造』日本文学研究資料新集4
 阿部秋生「清少納言」、三田村雅子「枕草子の笑ひと語り」収載

特に指摘しておきたいのは、道化役に徹した清少納言の中宮定子への愛情である。定子の父・藤原道隆が身罷り、その弟の道長に権力の座が移ると、後ろ盾をなくした定子は、徐々に落魄の憂き目を見ることになる。道隆の中関白家の明るい家風は前にも述べた。道隆在世中は定子を取り巻く中関白家の人々の屈託のない笑いが『枕草子』の中で総動員されているかのようだという。しかし、道隆亡き後、徐々に切迫する定子の周囲は笑うには暗い。その中で笑いを懸命に探そうとする清少納言の姿があった。笑いをとる人物は生昌、方弘、信経、宣方、則光、常陸介などに限定され、決まって最後に笑いを引き受けるのは清少納言自身のある種物狂おしいまでの姿なのである。そこに演出のドラマがあった(三田村雅子『枕草子の笑ひと語り』)。「まくらそうし」が献上することを前提とされていたのなら、定子の落魄を描くはずはない。歴史に対する無感覚を指摘するのは誤りと言えるだろう。定子の兄の伊周(これちか)とその弟の隆家が花山院に矢を射かけた事件、いわゆる長徳の変など書けなかったのである。

清少納言は、決して「我ぼめ」し「吹き語り」するだけの才女ではなさそうなのだ。三田村雅子さんは同じ著作の中でこう述べている。「『清少納言集』などによって知られる涙もろい一面を持ち、拡がりを持った現実の清少納言と、忠実でプライド高い女房役を演じる清少納言と、そのような演技を更に誇張し、切り取り、語り、書く清少納言と、すくなくともこの三層を意識化することなしに今後の枕草子研究はあり得まい」と

このような『枕草子』をヨーロッパの知識階級がどのように見たかはウェイリーの感想を見ていただければよいだろう。彼は『枕草子』を不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出す平安後期という時代の貴重なドキュメントとしてのみ見ていた。『枕草子』だけを通してそう思ったのかどうかは分からないけれど、清少納言の「日記」が如何なる性質を持っていたのかを知ることなしには、その時代を正しく理解するのは難しかったのではないだろうか。笑いの散りばめられた日記の背後に透けて見える文章は、ある種、鵺やキマイラの如き複合体なのである。

ことの葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな(清少納言)

 


このところ展覧会の準備ということもあってブログを書いてこなかった。最近は、とみに老眼が進んでメガネなしにモニターをみることができなくなった。ド近眼ならぬ、ド老眼なのである。3、4時間も坐っている腰が痛くなる。残念ながらリクライニングチェアはないので家の床に寝っころがっていると家内に掃除機で吸われそうになったりする。そんなこんなで前のように定期的に書くことは難しいかもしれないけれど、本があれば書くことに事欠くことはないのだから、興にまかせて時々は書きたいと思っている。でも、あまり期待しないでくださいね。