「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part2 オリヴァー・サックス『道程』

 

少し前に、ある学芸員さんと話していたら、最近あらぬものが見えて困るんだよ。オリヴァー・サックスの本に出てくるようなやつね、と、おっしゃる。ちょうど、ドイツのグリュッタース文化大臣が、新型コロナウィルス禍の中、自己責任のない困窮や困難に対応するとしてアーティストへの大規模な経済支援を打ち出した頃のことだ。文化は良き時代にのみ享受される贅沢品ではないという発言にシビレた。それはともかく、学芸員さんにそう言われても僕には「見えないはずのものが見える」ことについて違和感も不信感もない人間なので、「ああ、そうなんだ」で終わってしまった。

アニー・ベザントとC.W.リードビーダー
神智学における思考形態の内「自己的愛」

だいたい35歳頃をピークに結構いろんなヴィジョンを見ていた。図にあるのは赤色だけれど、僕が寝っ転がって白い天上を見ていると、明るい緑色のこんな形のものが呼吸するようにゆっくり変化して動くのは、よく目にしたし、朝、布団から起き上がると、いろんな色のモザイク状の色班が見えたりもした。夜中、瞼の内側が明るく閃光で輝くのでビックリして目が覚め、しばらくして、また寝てしまったこともあった。

この図は「思考形態」と神智学で呼ばれるものの一つだけれど、神秘主義的な解釈は僕には結局必要なかったし、考えても解決できる問題でもなかった。こんなヴィジョンを見るからといって、日常生活に全く支障をきたすこともない頻度だったから、不思議ではあったけれど結構楽しんでいられた。今は、全く起こらないといっていい。見ようと思えば、例の明るい緑色の運動は弱いながらも今でも見ることはできる。

 

オリヴァー・サックス
『見てしまう人びと 幻覚の脳科学』

しかし、あらぬものを見ている人たちはかなり多いのだということが脳神経科医のオリヴァー・サックスの著作を読むと分かる。一般には、主に脳の病気事故が原因で見る幻覚と精神的な病で見る幻覚に分けられる。両者が複合して起こることも勿論ある。しかし、病気とは言えない幻覚や幻聴もかなりの割合で起きているものらしい。

幻覚は、現実と同レベルのリアル感があり、いわば勝手に生じて、しつこく付きまとったり突然消えたりする。不気味なものや怖い幻覚はあっても、精神疾患による幻覚のように、話しかけられる、侮辱される、誘惑される、責められるなど、自分が完全に巻き込まれてしまうことはないという。心に浮かべる心象とは異なるし、夢ともまた異質なものだ。心象は自分でコントロールできるものだし、夢は持続的で物語性のあるものが多く、本人の願いを象徴していたり不安に陥れたり、場合によって明恵上人の場合のようにある種の教導や預言であったりする。

ついでに言うと、ロシアの心理学者アレクサンドル・ルリアは『偉大な記憶力の物語』の中で、この幻覚と似たものとして直感像を指摘している。それは、心象よりはるかに明確な、眼前にあるように見える記憶像で、コントロールできる。ロシアでの話かもしれないが大人で一割程度、12歳以下の子供なら五割くらいの人に見られ、芸術家には、しばしばみられるという。僕の知人には楽譜を見ることもできるピアニストがいる。

『見てしまう人びと』に入眠時幻覚と呼ばれるものが紹介されている。こちらは的でスナップショットのように瞬間的なものが多い。子供の頃には比較的起こりやすいと言われる。この幻像は、うっすらした夢のようなものから恐ろしく鮮明なものまであり、内容も極めて多様だ。万華鏡のように変化する模様、草が毛皮に変化したり波打って踊る光の線になったりと目まぐるしく変わる。見知らぬ言葉を話す人の声、名前を呼ぶ声、現実の電話の音のように聞こえ、電話機まで行って確かめて幻覚だとわかるといったものである。知らない甘美な音、クラシックの曲が聞こえたりもする幻聴もあり、異様な顔が見え、それが多重にみえることさえある。

これに対して出眠時幻覚は、まれにしか起こらないと言われているが、普通目を開けていても、明るい部屋でも見え、外の空間に現に存在していると感じられる。楽しさや喜びを感じさせるものもあれば、苦痛や恐怖、目覚めた人間を脅かそうとしている場合もある。綺麗なモザイクのような色なら人を幸せにもしようが、目覚めると目の前にエイリアンが口を開けて待っていれば、隣の人は恐怖の叫び声を聞く羽目になる。

 

前回 part1 では、15世紀の透視図、そして19世紀以来のメディアの急激な変化が人間の視覚にどのような影響を与え、変化させてきたのかをヴァルター・ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』と伊藤俊治さんの『見ることのトポロジ―』から見てきた。今回Part2は、普通は見えないはずのものが見えるという、いわゆる幻覚が、実はかなり頻繁に起こる現象で、脳がつくりだしているものであるということ。そして、その幻覚は脳に記憶される図式の一部のあらわれであり、この図式と芸術的な要素との関係をご紹介できればと思っている。それらを脳神経科医のオリヴァー・サックスの著作からご紹介する。とてもヒューマンで人気の先生だ。


 

オリヴァー・サックスは、1933年ロンドンで医者の両親のもとに生まれた。オックスフォードに進学する時、動物学の方面か医学の方面に進むか悩んでいた。魅かれたのは感覚の生理学だった。どう色を、奥行きを、動きを知るのか、それらをどうやって認知し世界を視覚的に理解するのか?

それで医学を学んで、アメリカのカルフォルニアでのインターンを終え、いくつかの病院で働くのだが、1966年から勤めるベス・アブラハム慈善病院で、何十年にもわたる記憶、知覚、意識の停止状態にあった脳炎後遺症患者の治療にあたって奇跡とも言える変化を起こした。Lドーパという薬を用いて彼らの意識を呼び戻したのだ。病状が一時的にしか改善されなかった人も多かったが、ずっと安定的な状態を保てた患者もいた。それを『めざめ』(邦題は『レナードの朝』) という本にして世間に彼らの実情を知らせた。これが大きな反響を呼んで映画化もされるのである。敬意を込めてサックス先生と呼ばせていただきます。

サックス先生は、幻覚や幻聴に悩む人々にある種の福音を与える人になる。そのようなものに悩まされる人々は、自分が気が狂ったのではないかと疑い、悩みを打ち明けることが出来なかったからである。それで脳の障害による色々なケースを本にし、有数なノンフィクション作家ともなったのである。脳の病気によって正常な機能が破壊され、それを取り戻そうとする人、取り戻せないと知ってもそれを何とか別のアプローチから自己の生活を豊かにしようとする人々の様子が感動的につづられている。色々な本が出版されているけれど、それらを概観するには、彼の自叙伝である『道程』をお読みになると良い。感動的な本です。

オリヴァー・サックス
『道程 オリヴァー・サックス自伝』

サックス先生には母譲りの片頭痛があったようだ。『見てしまう人びと』には、こう書かれている。3、4歳頃、庭で遊んでいると、目もくらむほどの閃光が左側に現れ、地面から空へと大きく孤を描き、そのくっきりした縁がギザギザ光って、色は鮮やかな青とオレンジだったと。

外科医でもあった母は、片頭痛の発作の先触れとして起こる現象なのだと説明してくれた。そのジグザグが中世の要塞に似ているので要塞スペクトル呼ばれていることも教えてくれた。そのようなヴィジョンが見えただけで頭痛の起こらないケースもあるという。

そういえば、僕の父方の祖母は片頭痛持ちで、よくノーシンという薬を飲んでいたのを思い出した。僕は、片頭痛や癲癇といった負担の大きい病気はなかったけれど40過ぎに一度きつい目まいの起きるメニエルになったことはある。眼前を電車が通り過ぎていくように視界が動いた。サックス先生の母親は、片頭痛は、よくあることで全人口の10%は罹っていると息子に説明している。

 


 

片頭痛の多彩な幻視とアート

ジグザグの要塞の例 ジュネーヴ近郊の城塞計画案 1841年
実際には建築されなかった。

片頭痛の典型的な症状は、先ほど述べたギザギザの形が現れるもので、15~20分にわたって広がり、視界の半分をゆっくり動いてゆく。たいていの場合、この光り輝く形の内側には、暗点と呼ばれる見えない領域があって、この暗点も含めた全体の形を閃輝暗点と呼ぶようだ。

片頭痛は、おかしな匂いや体の片側に妙な感覚を生じさせたり、一時的に会話をできなくさせたりする。色や奥行き、動きの知覚を変化させたり、数分視界をぼやかしてしまうこともあるという。不運な人は、激しい頭痛、嘔吐、光と音への過敏など様々な障害が起こるらしい。サックス先生自身は、この目もくらむほどのギザギザ閃光の他に、小枝のように分岐する線、格子、市松、クモの巣、蜂の巣といった幾何学構造が見えたようだ。これらの形は常に動いていて、形が出来ては再構成もされ、組み合わさって絨毯やモザイク画のようになったり、松ぼっくりウニのような立体にみえたりもする。視野のどらか片方に留まることもあり、あふれ出して全体に広がることもあるという。

ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)
左『黒い線』1923  タイトル・制作年未詳

これらの絵画は抽象絵画の祖、カンディンスキーの作品である。サックス先生は、ほぼ、あらゆる文化に何万年も前から見られる模様は、このような片頭痛などで起こる内的経験の表れではないかと考えている。

アートに現れる模様が、雷の形のように自然に存在する事物の単純化、抽象化されたものであることも否定できないので、全てここからアートの形を考えるのには無理があるのだが、模様に関わる視覚認識のパターンが存在している脳の箇所を片頭痛が刺激して、幻視を生じさせているのかもしれないのである。この幻覚による像は、記憶の織物の中のパターンが不意にあらわれるのだ。

 

感覚のポリフォニー 共感覚

天才少年だったマイケルは先生が曲をいくつかに分けると、ピアノを弾きながら別の順に編曲し直すことが出来た。彼は先生に言った。

「僕はその青い曲が好きです。」先生は聞き間違えたかと思い問い直した。「青い?」「そう、二長調の曲‥‥二長調は青ですよ。」(『音楽嗜好症』大田直子訳

心理学者のパトリック・エレンには、音楽だけでなく車のクラクション、人の声、動物の鳴き声、雷などの音、それに文字、数字、曜日にも色の共感覚があった。小学1年生の時、空中をみつめていたら、先生に何を見てるのと聞かれた。「金曜日まで色を数えています」と言ったらクラス全員が爆笑した。それ以来このことについては人に話さないようになった。

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』
音楽に関する極めて興味深い逸話が掲載されている。お薦めの著作である。

カンディンスキーやメシアンが色を見ると同時に音を聞いていたというのはよく知られている。色を聞いていたのだ。共感覚と呼ばれる現象である。共感覚の発生率は2000人に一人くらいと言われているけれど、もっと多いのではないかとサックス先生は考えている。それは病気ではないから、ことさらそれを訴える人は少ないからだ。共感覚は生理現象であり、それが起こるためには大脳皮質のいくつかの部分が同時に活性化される必要がある。

共感覚で見える色は、うすいベールのような光で外界の視界をさえぎったりしない。錬金術などで云うティンクトゥーラ (浮き上がった色) のようなものらしい。この色は人によって異なり、実際に外界を見る時のような色の整合性はないようだ。先ほどのマイケルにとって二長調は「青」だが、他の共感覚を持つ作曲家では違っていた。

共感覚という言葉が生まれる少し前、アルチュール・ランボーは、A (ァ-) は黒、E (ゥ-) 白、I (ィ-) は赤、U (ュ-) は緑、O (ォ-) は青と『母音』という詩で共感覚を高らかに詠ったし、トラークルの詩には「愛欲の赤い苦み」といった共感覚ならではの表現がある。だが、トラークルやランボーのこれら詩句は思いつき程度にしか考えられていなかった。科学的に調べられるようになったのは1980年代になってからだ。

共感覚は音と色に限らない。音楽を聴くと小さな棒や円のような形の光が見える人もあり、音楽と味が共感覚を起す人もいて、どの音程かを味によって捕捉できる。生まれたての赤ちゃんは脳がまだ未分化なために共感覚があると言われていて、三ヶ月くらいすると種々の感覚が分離されはじめる。それによって外界とその内容を完全に認識するのに必要な条件が整う。青りんごのみかけ、感触、味、かじった時の音が全て調和して初めて青りんごをかじったと認識できる。一連の図式が整うのだ。これをクロスリファレンスという。たいていは、ここで共感覚を失うけれど、その感覚が残っている人もある。

大人になって、それも人生の後半に共感覚が出現することもあり、その原因は、失明であった。これは脳の中に新たな接続が出来るのではなく、普通なら抑制されている視覚システムの過剰が解放されるためだと考えられている。脳には知覚の入力だけでなく、その変化も必要なのだ。だから、眼が見えないのに幻覚が起こる。シャルル・ボネ症候群と呼ばれた。それは聴覚障害による幻聴と似た状況で起こる。

 

見えることと脳の組織化

ジェラルド・エデルマン(1929-2014)
ノーベル生理学賞・医学賞を受賞したアメリカの神経科学研究者。

サックス先生が、人がどう、色、奥行き、動きを知るのか、それらをどうやって認知し世界を視覚的に理解するのかに興味があって医学の道に進んだことは既に述べた。人の視覚認識が病気やケガで損なわれ、幻視が起きるのは何故か。それは知覚が目や耳からの感覚データの単なる再現ではないからだ。

ジェラルド・エデルマンは、個々の生命体、特に高等生物では成長過程で経験した事柄が神経系に働きかけてその特定の接続や配置を強める一方、ある場合には、それらを弱めたり消したりすると考えている。ぴょんぴょん飛ぶものを見て育った子供は相対的に動体視力が良くなるだろうし、平面ばかり見て育った子供は奥行きの感覚が鈍るだろうというのは容易に想像できる。

神経細胞群選択説と呼ばれる仮説だが、神経ダーウィニズムという名で知られる。エデルマンによれば、「機構」と呼ばれる脳の真の機能は、無数のニューロン群が大きな単位、つまり、「マップ (地図)」に組織されてできるという。この地図は、とてつもなく複雑だけれど常に意味のあるパターンで対話していて、数分か数秒で変化する。イスを見た時、そのマップがその都度生成されると同時に過去のイスのマップと同期されるのである。この知覚のダイナミズムは絶えず更新され、無数の細部がたえまなく統合される必要があるという。脳の主な仕事はカテゴリー化であり、カテゴリー化そのものをカテゴリー化することによって壮大な階層構造が作られるというのだ (『道程』)。

彼は意識や記憶が継続的な「再分類」によって維持されると考えている。「マップ」には「アップデート」が必要なのだ。それは、特に体の動き、それも滑らかで規則的な体の動きに依存しているという。この作業は大脳基底核の働きが不可欠で、エデルマンはそれを「継続する器官」と呼んだ (『レナードの朝』)。

太極拳やヨガやダンスは、脳にもよいのかもしれない。確かに、僕の年齢では中学生の時に度々感じたような空間の中を滑っていくように動くという感覚は最近ない。近所にも高齢化の波が押し寄せて、馴染みの人が、なんかギクシャク歩いている姿を見るようになった。それが、肉体的な問題だけなんだろうかとフト思うこともある。僕の知り合いにも80代のアーティストはいたけれど、みんなかなり滑らかに動いていた。気のせいだろうか。

 

ノーベル生理学賞を受賞したイギリスのチャールズ・スコット・シェリントン は脳を「魅惑的な織機」と詩的に描写した。脳のダイナミズムは、こんな風にも表現されるのだ。「無数の杼 (ひ) がすばやく動いて、崩れていく模様を織り上げている。つねに意味のある模様だが、けっして持続しないのだ。いくつもの小さい模様が移動しつつ調和している(『道程』大田直子 訳)。」

人は目だけで見るのではなく脳でも見る。後頭葉にある一次視野には、網膜から皮質への二地点間マッピングがあって、視野に現れる光、形、それらの方向、位置が表される。そこに在る視覚系ニューロンの大集団がデータをどのように形成するかについて有力視されているのが自己組織化理論だ(『見てしまう人びと』)ニューロンがそのような大域的な変化を素早く起こすことによって何が目に見えているのかを僕たちは知ることが出来るといわれる。

自己組織化は物理的なある条件が揃うと、まるで指揮者でもいるかのように物質が一糸乱れず、あるシステムを形成する働きを指している。結晶のように静かにゆっくりと形成される場合もあれば、台風のようなダイナミズムを持つ場合もある。雪の結晶の生成、荒れ狂う波のうねりと渦巻、ベロウソフ・ジャポチンスキー反応のような周期的に振動する化学反応にも見られる。とりわけ、生物の生命活動には欠かせない働きだ。

脳の中で起こっている動的な「時・空間のパターン」のようなもの、つまり、エデルマンのマップ、シェリントンの言う小さな模様が記憶に関わる重要な要素となるのである。

 

物語りのある神経心理学

脳の左半球のある部分に損傷があると失語症が起きる。『失語症』を著したフロイトはもっと複雑な生理的原因で「失認症」が起こると考えていた。脳の右半球は左半球より原始的と考えられている。左側には高次な中枢機能が集中しているからである。右半球には事実を認識するための重要な機能があるが、それは当然動物にもある。べーシックな機能を司る右側に高度な機能を司る左側が繋がっている。

右半球で障害が起きる場合、自分の問題がなんであるのか本人が知ることは、ほとんど不可能だという。それまで研究されてきたのは左半球に関するものがほとんどだったのである。右脳には知られざる部分があるらしい。脳考古学、人類学のジュリアン・ジェインズは右脳を神々が判断するのに相応しい場所とさえ呼んだ

アレクサンドル・ルリア(1902-1977)
神経心理学の草分けとなったロシアの心理学者。

『妻を帽子と間違えた男』に登場する音楽教師のP氏は、視覚的記憶に問題があり、サハラ砂漠の写真を見て、川があり、テラスのあるゲストハウスがあって、色とりどりの日傘が見えますと答えた。診察を終えたと思った彼は、帽子をとろうと妻の頭を持ち上げて被ろうとしたのである。

彼は、いくつかの主要な特質と大体の基本関係を取り込めたらそれをもとにコンピューターのように世界を構築していた。それによって作られた世界像は、外界など全く理解されていなくてもそれなりにつじつまがあってしまうのだという。脳の右半球が何らかの病気になると「病識欠損症」と呼ばれる状態になることがある。

サックス先生に大きな影響を与えたアレクサンドル・ルリアは右半球の脳のためには「個人主体」の新しい神経学が必要だと考えていた。そこでは、機械論的な神経学によってではなく「自己」や「人格」の根底にある基礎から検証し明るみにだそうとする姿勢が必要だという。この種の科学では病状の記述をする場合、物語の形を借りるのが最適だとした。それでサックス先生の著作が生まれたのだ。

 

巨大なパノラマのような記憶を見る双子

『妻を帽子と間違えた男』には異常な記憶力を持った双子の兄弟が紹介されている。タイトルもそのまま「双子の兄弟」だ。1966年にサックス先生がその兄弟に会った時、彼らは26歳だった。二人とも、自閉症、精神病、重度の精神遅滞などの診断を下されて7歳から施設に入っていた。

彼らには、たった一つだけ特異な能力があった。異常な記憶力があったのだ。意識はしていないが頭の中に過去や未来のどの日でも、その曜日を答えることが出来た。無意識アルゴリズムという言い方をされることもある。素数定理を予想した数学者・物理学者のカール・フリードリッヒ・ガウスでさえイースターの日を算定するアルゴリズムを作るのは、容易ではなかったと言われる。彼らは、足し算引き算が正確にできなかったし、割り算は何のことか分からなかった。

過去の日付なら、その日の天気や政治的事件、二人に起こったことが何の感情もなく告げられた。幼年時のつらい思い出も、人から受けた侮蔑やあざけりもあったはずなのにである。個人的な要素や感情が抜け落ちていた。この種の記憶にはパーソナルな性格がないかのようだった。

オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』
この本も素晴らしい。

どうして、6桁以上の素数を言い合ったり、三百桁の数字だの、過去40年間にあった何千億という事件を頭の中に入れておけるのかと聞くと、彼らは、さらりと「見るだけなんです」と答えた。この不思議を解くカギは「見る」ことにあるのだとサックス先生は気づいた。この双子の目の前には、途方もない巨大なパノラマが開けている。それは一種の風景 (ランドスケープ) で、過去の経験が映し出される。質問されれば、眼がくるっと動いたと思うと、ぴたっと動きが止まって、何かを凝視する。

二人のテーブルにあったマッチ箱が落ちて、中身が出てしまった。「百十一」と二人が同時に叫んだ。落ちたマッチの数を時間をかけて数えるとぴったり百十一本あったのである。サックス先生は「どうしてそんなに早く数えられるの?」と聞いた。彼らは「数えるんじゃないですよ。百十一が見えたんです」と答えた。一瞬のうちに全体の数も見えるのである。これは幻覚というのだろうか。

彼らは、頭の中に巨大な壁掛けのような記憶の織物を持っている。それは、ボルヘスの『伝奇集』にある『記憶の人フネス』やルリアの『偉大な記憶力の物語』に出てくるシィーを思い出させるという。「世界が始まって以来、あらゆる人間が持ったものをはるかに超える記憶を、わたし一人で持っています (鼓 直 訳)」とフネスは語る。普通の人の織物はシェリントンの言うように織る端から崩れてゆくのに彼らの織物は、あるカテゴリーに関するかぎり完全無欠らしい。観念や概念の介入なしにその織物の中の模様を見ることが出来るのだろう。

おそらく、記憶には、アップデートの必要がある断片的なものと、このような完全な状態を保っているが、通常は抑制がかかっていて全体が見えないものとがあるのではないだろうか。きっと、全てのカテゴリーが一挙に見える状態になったら正常ではいられなくなる。完全な記憶を保っている織物というとホログラフィック仮説を思い浮かべる人もいるかもしれないが、直ちに結び付けるのは控えたい。

ライプニッツは、音楽から受ける喜びは無意識に数を数える喜びから来るとピュタゴラス的発言をしているらしい。彼ら双子たちは、数に対して「図像的アプローチ」ができるのである。ニーチェは宇宙にあるシンフォニーの反響を自己の内部に聴き、それを観念の形にして外の世界に投射すると述べた。この双子の兄弟にとっては、宇宙のシンフォニーは数の形をとって見えたのではないかとサックス先生は言うのである。

 

「調和的(ハーモニカル)」であるということ

サックス先生らしいと思うのだけれど、こう述べている。「人間の魂は、その人のIQに関わりなく『調和的 (ハーモニカル)である」「なにか究極的な調和あるいは秩序を見出したい、それを感じたいという欲求は、その人の能力がどうあれ、どんなかたちをとるにせよ、誰の心にも普遍的に存在している」と(『妻を帽子と間違えた男』高見幸郎、金沢泰子 訳)

脳は生き物だ。胃には胃の言い分があるように脳には脳の言い分がある。脳は病気や欠損に応じて広範囲の再編成や再マッピングが出来る可能性を持っているが、限界もある。片頭痛や癲癇のような異常事態には、ある種の前兆として幻覚を生じさせ、時に機能分化し忘れて共感覚という、ある人たちにとっては特別な恩恵を与えてくれたりもするし、知的な障害を持つ子供たちに数という宇宙を残してくれたりもするのである。しかし、時に盲目の人たちに幻覚を見せて困らせたりもするし、抑制が外れてエネルギー過剰になれば、チック、衒奇的症状、唸り声、悪態といった困った状況をもたらすこともある。

フロイトは、精神分析の目的は、虚偽や空想的な追想を本当の過去の記憶、回想と置き換えることだと述べたという。人間のアイデンティティを形成するのは、その人の人生の記憶だ。サックス先生は、経験は図像的に纏められるようでなくては経験とは言えない、行為も図像的に纏められなければ行為とは言えないという。歩く場面を思い浮かべて体をバラバラに動かすだけでは歩けない。それらを統合する体のリズムが思い出せなければ歩けないのだ。

そして、「脳にとどめられたすべての物についての記録」は図像的なものにちがいないという。図像的なものとは、内なる「旋律」や「場面」のようなものを指している。そのような図柄 (パターン) には「経験」を成り立たせる内面的な特質があり、それを取り戻すことが治療の大いなる手段の一つになり得るという。

手足が自由に動かせないパーキンソン病の患者もダンスの中では、体を安定させられる。重度の知的障害を持つ人が演劇の中では普通の人と同じように語り、演技できたりもする。失認症の人も音楽を口ずさめば、それを導きの糸に着替えや食事を何とか出来る人もいる。トゥレット症候群の痙攣性チックも音楽の中では止まる例は事欠かない。音楽療法などは極めて高い効果を持っている。関節や筋肉を動かす時、連続する感覚的な流れのようなものがある。意識や記憶には滑らかで規則的な体の動きが重要だ。ベーシックな部分で、間の経験は、視覚的、劇的、音楽的、舞踏的な経験によって統合されている。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、一さじの紅茶に含まれたマドレーヌの味が記憶を呼び起こす。記憶と心にはプルースト的なものがあるのだとサックス先生は言う。脳が算定的、プログラム的な要素を多分に持っているとしても、脳における表現の最終的な形態は「芸術(アート)」にあるとサックス先生は言うのである。見ること聞くこと感じたことは、芸術が持つ香りのように織り上げられた心の模様として記憶に残る。記憶を織り上げる図式に関わり、それらを根底で調和させるものは芸術的な要素なのだ。アートは文化だ。文化は良き時代にのみ享受される贅沢品ではないという意味が、これほど闡明にされた例を僕は、他に知らない。

今回は、「見えないはずのものが見る」という幻覚を端緒に、織り上げられる記憶には脳の図像的特質があり、治療には、その図像を回復することが助けになることを見て来た。僕たちの生活を芸術的特質が支えてくれていることを僕たちは気づかない。サックス先生の著書からは、脳の器質的異常から多様な病気が生み出されることが分かる。時には、それにめげて絶望の淵の内に亡くなっていく人たちもいるだろう。しかし、彼がいつも強調するのは、何とか自分に起こった事態に調和しようとし、自らの生活を少しでも豊かにしようとする患者たちの姿なのである。

 

参考図書 及び 引用文献

アレクサンドル・ルリア『偉大な記憶力の物語』
サックス先生に大きな影響を与えた著書。驚異的な共感覚と直感像によって特殊な記憶力を持った人の例が書かれている。フランシス・イエイツの『記憶術』と読み比べると面白い。

オリヴァー・サックス『レナードの朝』

オリヴァー・サックス『火星の人類学者』

 

「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part1 伊藤俊治『見えることのトポロジー』

 

資生堂石鹸広告 1941年 モデル 山口淑子

アメリカ版VOGUEの8月号の表紙にシモーン・ヴァイルスという有名な黒人体操選手の写真が載って色々論を呼んでいるらしい。最近のジョージ・フロイドさんの警官による暴行死の余波であることは確かのようだ。主訴は、彼女の写真が黒人らしい肌の美しさを表現していないのではないか、VOGUEは黒人のカメラマンに撮らせるべきだったというものだ。照明の加減で肌が黄色っぽく写っている。僕は迂闊だったのだが、ここで黒人の人たちには美しい肌の色についてのしっかりした基準があるということに気が付いた。翻って我々黄色人種の美しい肌の色とは何なのか、その基準が無いのではないかと不安がよぎったのである。こんなことを考えている自分は暇人なんだろうか。

黒人、白人という言い方からすれば、我々は黄人ということになるのだろうけれど、昨今の化粧品広告などからすれば白人女性のような肌の色が基準にされているのかとも思ったが、「色の白いは七難隠す」などといわれたから「白い肌」が良いという基準は、昔から日本にはある。しかし、現実の黄人の肌の色とメディアなどを通じて世間に出回っているイメージとは隔たりが大きくなりつつあるのではないか。メディアが作り上げるイメージと我々世間一般が持つ概念とは益々強力な絆を形成しつつあるのは確かだ。この、現実に見るということとメディアから見せられるということとのギャップについて考えて見ようというのが今回の「見えていたものが見えなくなる」を書く契機だった。タイトル後半の「見えないはずのものが見える」は次回ご紹介する予定です。

 

ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品――そのパースペクティヴ

 

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』

柿木伸之(かきぎ のぶゆき)さんのベンヤミンを紹介する新刊『ヴァルター・ベンヤミン ―― 闇を歩く批評』が出版されて、しばらく経った。これについて書こう書こうと思いながら、いまだ踏み切れないのは、僕がベンヤミンについて抱いている幾つかの疑問が解けていないからである。例えば、『複製技術の時代における芸術作品』に出てくるアウラという言葉だ。AURAは、通常オーラを示す語だけれど、ベンヤミンによれば、「どんなに近距離にあっても近づくことが出来ないユニークな現象」「ある夏の日の午後、ねそべったまま、地平線をかぎる山なみ、影を投げかける樹の枝を眼で追う――これが山なみの、あるいは樹の枝のアウラを呼吸することである」と定義されている。

肉体的な緊張はないが、呼吸するとあるからこれが隠喩だとしても、身体の内外にも関わるものであると分かる。そして、見る対象との間には埋めることのできない距離があり、眼で追うことによる時間感覚が発生する。外界+肉体+感覚のある特殊な精神状態であることは間違いないだろう。それを実物を前に感情移入した状態と安易に考えてよいのかどうか分からない。今回は、見るということがどのような変遷を経て来たのか概観してみたいと思うので伊藤俊治 (いとう としはる) さんの『見ることのトポロジー』をご紹介するのだが、まず、ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』をプロットします。

礼拝される「いま」「ここ」

例えば、オリジナルの絵画には経年の物理的変化と、所有者の変遷といった歴史が伴う。それと対峙することは「いま」「ここ」という一回性と歴史的な時間が交錯する場に立ち会うことである。太古に呪術的な儀礼から出発した芸術は、宗教的伝統に浸かって発展してきた。近代までの作品のほとんどは礼拝的な要素と関わっていたのである。「ほんものの芸術アウラ的性格を持ち、比類のない価値を体現するのは、他ならぬこの儀式性にあるとベンヤミンは述べる。しかし、複製技術による写真などは、一時的なもので反復可能なものだった。それらの侵略によって芸術の危機が叫ばれると、芸術は「芸術のための芸術」という芸術的神学の中へと逃げ込んだ。しかし、従来の芸術であろうと複製芸術であろうと、芸術作品のアクセントは展示的価値に置かれるようになるのである。

ウージェーヌ・アジェ(1857-1927)
サン・ルスティック通り 1922年

礼拝価値から展示価値へ

礼拝的価値は、最後の逃げ場を写真に撮られた顔の中に見出す。愛する人の顔の表情にはアウラの最後の活動領域があった。そして、人間が写真から姿を消すとき、展示的価値が礼拝的価値を凌駕する。例えば、ウージェーヌ・アジェの何気ない通りの写真はドキュメントとしての価値を持ち始めるのである。そこには「あの時」「あそこ」があった。一方で演劇と好対照である映画における美学の問題は、写真よりももっと厄介らしい。サイレント時代に映画の意義は、宗教的秘跡まではないが超自然世界の中にまさぐられているとベンヤミンは言う。

大衆の享受的態度

絵画は常に少人数による鑑賞を要求した。今日のように大勢の人間と直接対峙するような事態では、このことが足枷になるという。作品を美術館や画廊で大衆の面前に展示しようとする試みが起こっても大衆がこのような鑑賞に自己を開いて作品との一体化を会場全体で共有するするという道は、まず存在しない。こんなところで場違いな声はあげられないのだ。しかし、映画では悲しい場面のすすり泣きとか、会場にある種の共感が漂っているように感じられることがある。グロテスク映画の中では恐怖という共感が起こり、それでも享受的態度を見せる大衆がシュルレアリスムの絵画の前では保守的で拒否的な反応をみせるとベンヤミンは言う。

特別な視覚の提供

フロイトの『日常生活の精神病理学』以来、ちょっとした言い間違いが突如、心の深層のパースペクティヴを開くということが起きるようになる。精神分析は、知覚の幅広い流れと共に押し流されてきた無意識的なものを分析可能にしたのである。映画もまた、視覚的記号世界や聴覚的記号世界全体にわたって同様の知覚の変化をもたらしたとベンヤミンは言う。映画の中では人体の標本模型のように人間の動作が奇麗に標本化される。この映画画面の圧倒的状況描写力は他のメディアを凌駕する。そして、科学と芸術の相互浸透を促進した。それは、高速度撮影や微速度撮影といった人間の持つことのなかった特別の視覚を提供するようにさえなるのである。

マルセル・デュシャン『泉』1917
撮影 アルフレッド・スティーグリッツ

新たな鑑賞形式

従来の芸術作品の魅惑的外観と圧倒的美しい響きは、享受者に精神集中や瞑想をもたらしてきた。しかし、ダダイストたちの作品の前では、芸術はスキャンダルの中心となる。男性用便器をそのまま展示するデュシャンの『』は、その典型的な作品の一つだろう。そこでは、芸術作品が公衆の怒りをかわなければならないものだったのである。映画は、けっして鑑賞者を瞑想に誘わないし極度の精神集中を要求しない。そもそも目まぐるしく展開する場面はそんなことを許さない。ダダイストは作品の無用性を獲得しようとして従来の鑑賞とは別の事態を引き起こそうとした。同様に芸術が大衆を動員しようとする場所では、鑑賞形式の新たな適用が行われる。映画館では観客は試験官を務めるが、それは極めて散漫な注意力の試験官だとベンヤミンは言うのである。

知覚の深刻な変化

映画の中において見られる芸術作品に対する散漫な姿勢は、知覚の深刻な変化に対する兆候であり、芸術のあらゆる分野でそれは顕著になりつつあるという。さすがにベンヤミンは鋭い。そして、現代の人間のプロレタリア化の進行と広範な大衆層の形成が同じコインの裏表であり、大衆は現在の所有関係の変革を迫っている (共産主義のこと) が、ファシズムは所有関係はそのままにしてプロレタリア大衆を組織化しようとするという。それが行き着く先は政治生活の耽美主義、マスコミをコントロールし大衆を征服して指導者崇拝の礼拝的価値を作り出すことだというのだ。

見世物の犠牲

この耽美主義への努力は必然的に一つの頂点を目指す。戦争である。ファシズムは技術によって変化した人間の知覚を芸術的に満足させるために戦争に期待をかけた。ベンヤミンは、ホメロスにとっては人間がオリンポスの神々の見世物であったが、今、人間は人間自身のための見世物になったという。人間の自己疎外は人間自身の破壊を最高級の美的享楽として味わうまでになったのである。やがて、ベンヤミン自身がその見世物の犠牲となる。ともあれ、こう見てくるとベンヤミンのアウラは、リアルな現実」に向き合った時に鑑賞者に瞑想とか精神集中とかを生起させるようなある前触れと見てよいのではなかろうか。ベンヤミンとは関係ないのだけれど、興味深いのは、脳神経医学などで脳の疾患によって特有の症状が現れる前に起きる前兆をアウラと呼んでいることだ (オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』)。

 

伊藤俊治『見ることのトポロジー』から

 

ジョン・バージャーはイギリスの美術批評家で、彼の他4人で構成されたテレビ番組「Ways of Seeing」をテキスト化したものが1972年に『イメージ』というタイトルで出版されている。これを翻訳した伊藤俊治 (いとう としはる) さんが、解説として書かれた『見ることのトポロジーが、ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』を踏まえ、バージャーの論を敷衍する形で20世紀までの視覚芸術を述べている。ここでは、ベンヤミンの言う知覚の深刻な変化に対する兆候とは何かが明らかにされる。今からそれをご紹介したい。

伊藤さんは1953年秋田生まれ。東京大学文学部美術史学科を卒業され、多磨美術大学や東京芸術大学先端芸術表現科で教鞭を執られたようだ。特に写真史についての著作が多いとある。詳しい履歴の紹介は残念ながらない。

 

カメラ・オブスキュラ
上 17世紀のカメラ・オブスキュラ
下 今日見られるカメラ・オブスキュラの映像 テクニカルコレクションドレスデン

対象化される視覚

美術の大きなエポックの一つとして、15世紀の透視図の発明が挙げられる。ブルネレスキの透視図は、次々と展開する時間軸の視野からたった一つの視点を取り出し世界像を切り取る。それまでの人々にとって混沌とした表象の連続から全てを統合できる神の視点とも言うべきものをもたらす技法だった。それを逆手にとったのは16世紀の画家エアハルト・シェーンのアナモルフォーズだった (巻末参照)。それはともかく、透視図の技法は、レオン・アルベルティによって空間と存在との関係性の中で「表現される全てのものが目に見えるものそっくりに浮かび上がって見えるようにする技術」として目的化されるようになる。

第二のエポックは19世紀後半の写真機の出現だった。フェルメールが絵を描く時に使っていたといわれる従来のカメラ・オブスキュラ (ピンホールカメラと同じ原理) は、飛躍的に改良された。細密な風景画によって劇場ジオラマを創り出したルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが、簡易な撮影技術を開発し、この写真術はあっという間に世界を席巻し、複製技術時代の本格的な到来をもたらしたのである。ある意味でルネサンスの画家たちは不完全ながらも現在の写真が成し遂げたことを先取りしようとしていたのかもしれないと伊藤さんは言う。これらのエポックを通じて起きて来たことは、透視図と同じ原理、つまり人間の連続的な視覚の中から一つの場面を切り取って人間の視覚世界から別の世界へと客体化する作業だった。その結果は、人間に世界を眼前に置いて所有するという意識の変化をもたらした。観光地へ行って実物を眺めるよりも写真を撮ることに熱中するのはその表れの一つである。東洋は主客を明確に分離しようとはしなかった。

 

写真と大衆化

この視覚的欲望は、革命後の19世紀フランスで政治の主導権を握った振興中産階級における社会システムに巧妙に組み込まれたという。この教訓と美徳を重んずるブルジョア的市民主義に反発したのがフランスを中心に勃興した象徴主義デカダンスだった。ボードレールやヴェルレーヌの詩、それらはブルジョア文化を逆撫でするものだったのだ。しかし、この所有欲は人々の精神構造を変化させ、世界を唯一の視点から眺める文化は眼を自己の内部へと閉塞させていった。表象と実物との絆は、徐々に遊離しはじめるのである。自己は閉じる病に侵されていったと伊藤さんは言う。

ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787-1851)
上、半透明キャンバスに細密描写された劇場用ジオラマ風景画多方向から光が当てられ圧倒的な効果を生んだといわれている。
下 ダゲールの写真 1837年

先ほど述べたダゲールによって開発された写真術は、ダゲレオタイプと呼ばれ、露光時間を大幅に短縮し、撮影した映像の定着、保存技術を確固としたものにした。この頃、パリでは万博が開催され新しい波が押し寄せていた。1861年にはパリだけで3万の職業写真家がいたと言われる。その写真家のなかにナダールという仇名で知られるガスパール=フェリックス・トゥールナションがいた。現在のメイプルソールやアヴェドンの作品を先取りしていると伊藤さんは言う。この人はとても面白そうな人なので、機会があれば、ご紹介したい。

当時の写真スタイルは、舞台装置や書き割りの前に表情やポーズを決めた人間を置く定型を作り上げた。写真機の前で、人は社会的な地位や仕事に応じたある役割を強制されることになる。肖像写真は、モデルの社会的地位などを強調する肖像 (エフィジィ) と個人の独自な内面性を表出しようとするポートレートに二分されるようになった。ナダールのような写真家たちの作品がポートレートと呼ばれる。

しかし、1871年のパリ市民と労働者階級の蜂起によって第二帝政政府を退け革命的自治権を確立したパリコミューンが成立する。その頃を境に大衆化が一気に進むとエフィジィが写真のほとんどを占めるようになる。ドガは肖像絵画から手を引き、ナダールもポートレートを撮らなくなったといわれる。ここから肖像写真は非象徴的で、非歴史的な人々の大量の断片となり、大量消費社会への高らかな前奏曲となっていったのである。

 

美術という制度の確立

ナダール(1820-1910)
サラ・ベルナールの肖像写真 1864年頃

18世紀中頃から王侯貴族の美術コレクションは美術館や博物館の中で開放されていった。ルーブル美術館は王権とブルジョアジーの遺産を保管する場所と考えられていた。この絵画や彫刻を隔離し、陳列する美術館の出現によって芸術は自律的なものとなる。財宝と神殿という二つの出自を持つと言われるこの建物は、切り取られた世界の断片を所有し、その威厳を高めることによって宗教的なムードを持ち、世俗化した異物ながら礼拝の対象ともなっていった。芸術を芸術自身で自立させることによって、芸術こそ最高の価値と見なす信仰が始まるのである。

美術館に収められた作品は、あらかじめ芸術であって、人々を道徳的に導き、教育し、向上させる社会的機能を持つと捉えられることが当たり前となっていく。この18世紀的啓蒙精神に支えられた美術館が国家の中でのそのような役割を期待されるようになると、芸術は政治的制度の中に組み込まれていくのである。そして、19世紀後半以降にブルジョアジーのコレクターに代わって美術商が現れ、しかるべき宣伝と戦略によって美術品は消費と投機の対象となっていったのである。

20世紀に入って、こうした美術制度に反対するアーティストたちは、ダダ、シュルレアリスム、ニューペインティング、フルクサスなどにおいて反芸術運動を繰り広げてきたが、それらは常に美術の制度へと同化されていくのが常だった。伊藤さんは、まず作品を作るということ自体が、今のこの時代の制度に嵌め込こまれているということを認識しなければならないと述べ、今迄の美術史はそれを隠蔽し、作品の自律性ばかりを云々し、芸術を芸術の中で独立させることに腐心してきたという。ここにはアートの社会学があるが、その傾向こそは近代の自閉化するヴィジョンに拍車をかけるものであったと言うのだ。

 

パノラマ的視覚と管理社会

現存するパプノティコン プレシディオ・モデーロ(キューバ) 内部(上)と外観(下)

ジオラマが出現する50年くらい前に、全ての眺望という意味の光学装置であるパノラマが1787年にイギリスの画家ロバート・バーカーによって発明された。負債のために投獄され、その監獄の中に入り込む光の効果からヒントを得たと言われる。大きな半円型や円弧の壁にぐるりと正確な遠近法によって街や風景を描き、色々な光を当てたり、画面の前に実物を置いて、それを円の中心から眺めるものだった。

パノラマが出来たのとほぼ同じころ、やはりイギリスのジェレミ・ベンサムによってパノラマを彷彿とさせる監獄が考え出される。ミシェル・フーコーによって知られるようになった近代管理社会の空間モデルだった。円形状に配置された独房を中心から一元的に監視できる。それは一点から周囲の現実をくまなく切り取っていくガラスと鉄の機械である写真機の視覚の延長上にあった。19世紀末アンリ・ベルグソンが『物質と記憶』の中で、私たちには一つの動的な連続性が与えられているだけなのに、事物を写真のように分割された諸個物と思いこんでしまうことに警戒を催している。実際には空間のあらゆる点に向かって既に撮影され、現像されていると言うのである。

「絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすへて紛 (まが) いの人為的な分割である(アンリ・ベルグソン『物質と記憶』合田正人、松本力 訳)。」

 

複製技術時代

複製芸術は存在の場と結びついたオリジナルの「今」「ここ」という性格を失効させ、人々が全身で感じ感情移入していく空間ではなくなり、自らの周囲に対象化する表層的な対象となった。オリジナルはその権威を失っていくのである。ベンヤミンの言う知覚の深刻な変化は従来の物を見る力を失わせつつある。これは聴覚にも言える。現実の空間に鳴り響く音はヘッドフォンやイヤフォンの中の空間では再現できない。音は空間を作るのだ。

もう一つ重要な指摘を伊藤さんはする。人々が複製に取り囲まれるようになると、作品のスタイルや空間性よりもその視覚的内容や情報に注意が向けられていくことである。アート雑誌や美術の全集はこのような考えに基づいているという。人々は直に見て考えるよりも写真のフラットな表面を現実を表す基準と考えるようになる。そこには物のテクスチャーも匂いも、重さも、光によって様々変わる色の変化もない。一方で複製によって多くの国々の芸術が比較可能となり、美の基準が相対化・多様化していった。同時にオリジナル作品が持つ歴史とサイズの感覚を無きものし、「大衆のための芸術」という図式を作り上げ、追い求められるものではなく、すべての人々に捧げられるものとなった。

 

広告の誕生

ケロッグのクリスピー (左) とシェル石油 (右) の広告

博覧会の祝祭的興趣は、やがて生活の中へも浸透し始めた。劇場やサーカスで行われるような刺激と驚異と新奇を求めて人々の欲望はショーウインドーのガラスを通して見るパノラマへと駆り立てられていった。見ることの快楽はやがて映画やテレビを生みだしたが、一方で、写真技術と印刷技術は手を携えて広告という新たなメディアとなった。広告は街へ衣服へ住宅の周囲へと環境の一環になり始める。

 

民家に設置されたホーロー看板広告

1960年頃までは、商品そのものを強調する即物的な広告が多かった。金鳥の蚊取り線香の広告には蚊取り線香しか描かれていなかった。でも、今見ても結構イカシテルと思う。やがてボンカレーに琴姫七変化の松山容子さんが登場した。これらの看板広告は、どんな田舎にもあって今だに印象に残っている。記憶はボンヤリだけれど、松山さんは、当時人気の粋な女優さんだった。その映像もYoutubeにUpされているので驚いた。Youtube恐るべし! それはともかく、広告にタレントさんが商品と一緒に大写しにされるのもかなり前からである。こうして徐々に広告体系のようなものができる。60年以降は、ムードやイメージそのものを売りにする広告へとシフトしていった。広告は唯物主義の時代の神話を築いていくのである。売れるものへの戦略は人間の無意識へと攻撃の対象を移していった。瞬間的な映像は強力な視覚言語となる。ロシア構成主義やエイゼンシュタインのモンタージュ、シュルレアリスムの映像に見られる視覚的方法論はナチス政権下で研究され、1970年代頃からアメリカの広告界で花開いたという。

 

無意識を攻撃する広告

カルヴァン・クライン アンダーウェアー広告

1990年頃にサブリミナル効果といわれる無意識に働きかける効果が取りざたされたことがある。通常のスピードの映像に知覚できないスピードの映像を挟み込んで宣伝効果を上げようというものだった。ほんとうにそんな効果があるのかどうかはよく分からない。しかし、水着や下着、煙草など多くのジャンルに「ある種のイメージ」が扱われるようになる。ジェンダーの取り換え、三角関係の暗示、性的刺激の先鋭化などといった挑発するファクターが広告の中に現れてくるのだ。広告は社会的禁忌や倒錯を介入させることによってイメージをより強烈なものに変えていった。それらの映像は意味の検閲を受けないメッセージとなって、我々の内部に入り込み、心の深層をマッサージするのだ。

して、今日では新たなメディアの変化が起こりつつある。第三のエポックが到来している。映画、テレビについでCGやネットの時代がやって来たのである。氾濫する大量のイメージは、常に「見える」という状態に置かれる。あらゆるイメージは「見せる」ために作られ世界を覆い尽くした。そのいわば「広告的トポス」と伊藤さんが呼ぶ領域では、イメージの背後にある現実は忘れ去られ、その手前に立ち現れるイメージと眼との間の不確かな領域において見るという経験が生起すると言う。広告が我々に顕わにしたものとは、見えるものでもなく見えないものでもない我々の見る欲望そのものであったというのである。社会現象の根本にあるものは欲望と信念だと社会学者ガブリエル・タルドは述べた。広告はその欲望の中でのみ生きることができるのだ。

 

新たな感覚の創出

色々な映像をMRIの中で被験者に見せて脳の活動を記録し、そのデータを数式化して「脳の映像言語 」(脳情報デコーディング) を作り上げる。別の映像 (左) をMRI内で被験者に見せて、脳の活動を記録すると同時に「脳の映像言語」に通して予測値を作り、観察された活動とこの予測された活動とが類似したものの映像 (右) を掲載している。しかし、この右の映像は発展途上なのか、このようなボンヤリした映像が脳の別の領域で明確化されるのかは、よく分からない。

 

メディアの時代の視覚的変化は二次元的な変化として集約される。そこでは、三次元の奥行きが二次元化されて把握される。奥行きの感覚は退化せざるを得ない。モノづくり立国も危ういのではないか。ある宮大工の棟梁が弟子にテレビを見る事を禁じたというエピソードがあるけれど、このことに関連しているだろう。人間は、「作る人間」から「感覚する人間」へと移行し、眼は身体から切り離されて一つの自律的な体系となり、記号的視覚人間へと導かれつつあると伊藤さんはいう。無数のイメージや記号同士の網の目の中で曖昧で不確かな記号自体の仕組みの中にすっぽりと埋め込まれていく。一方でコンピューターによる映像は映画を超えた全く異なる視覚的世界を提供し始めている。脳の意識レベルの映像さえCG画像は関与し始めた。脳情報デコーディングは人間が見る夢の映像さえ実現可能にしようとしている。それは、もう一つの新たな感覚の創出と言っていいだろう。

 

分離する感覚

ジョン・バージャー『イメージ』
伊藤俊治『見ることのトポロジー』
パルコ出版 1986年刊

伊藤さんは、この著書で「見るということ」がどのように作り上げられ、現在どのような方向に進みつつあるのかを概観し、そうした状況の中で見ることの始原を問い直そうしている。結論は、「見せる」ことが人間の記憶や概念を縛りあげようとしている現在の枠組みから人間を解放し、思考と知覚との一体感を回復すことによって「肉体を持った眼」を取り戻させるということだ。結局、本物に多く触れる他はないのだが、大衆の感覚がレベルダウンしていくとしたら、アートの世界も沈没していくほかはないのかもしれない。かなり深刻な問題なのだ。

マクルーハンの言うように印刷文化が人間経験を知性と感性に分離させたとすれば、メディアのデジタル化は人間経験の厚みを平板化し、感覚を分離しようとしていることになる。脳神経医学者のオリヴァー・サックスは『音楽嗜好症』の中でこう述べている。

「人は自分の感覚を当たり前と思っている。たとえば目に見える世界は、奥行き、色、動き、形、そして意味がすべて完璧に調和し、同期しているものと感じる。このように見かけが調和しているので、眼の前のたった一つの場面がじつは種々雑多な要素で構成されていて、そのすべてが別々に分析されてから統合される必要があるとは思いもよらないだろう(大田直子  訳)。」

このテクノロジーメディアの進化と洪水は止まることはない。その洪水が、僕たちの統合される必要のある感覚を徐々に解体しようとしていることに僕たちは気づかない。ベンヤミンは既に気づいていた。気を付けておかないと見世物の犠牲になるのだ。

 

参考作品

エアハルト・シェーン(1491-1542)アナモルフォーズ(歪像)。四人の人物の顔が透視図を用いて歪められている。バルトルシャイテスの『アナモルフォーズ』にはこのような色々な歪像が登場する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考図書 及び 引用文献

柿木伸之『ヴォルター・ベンヤミン ― 闇を歩く批評』

アンリ・ベルグソン『物質と記憶』

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』
音楽関係の人には結構怖いことが書かれている。

領家高子『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』 一葉舟は見事浮かび‥‥

樋口一葉(1872-1896)

舟は一葉、黄帝の故事は観阿弥の『自然居士』に結ばれ、桐の一葉は達磨の乗った葦の葉となり樋口夏子の本郷丸山福山町の住まい水の上に見事浮かんだ。

と述べても一体何のことやらと思われるでしょう。僕は文学関係の人間ではないし、文を書いて糊口を凌ぐこともできないので、ただ興の赴くままに色々な本のことを書いてきたのですが、極たまにメッセージを頂くことがあって、そのお一人が今回ご紹介する領家高子 (りょうけ たかこ) さんでした。ウィリアム・ブレイクと柳宗悦の関りを書いた時のことです。今回は小説家の領家さんの恐らくライフワークと言ってもよいのではないかと思われる樋口一葉にまつわる著書を縦軸に少し他の文献も交えてご紹介したいと思っています。

領家高子 (りょうけ たかこ) さんは、東京墨田区の向島のお生まれ。お生まれの場所にちなんだ『向島(むこうじま)』という花街の芸者を主人公にした小説は、さわやかなハッピーエンドで終わります。東京外国語大学ドイツ語学科中退、渡米され、アメリカ・ロサンゼルスで生活されたようでが、帰国後、1995年、『夜光盃』で小説家デビュー。舞踊劇の創作などにも携わりながら歴史・時代小説を主として書いてこられた。2001年、『九郎判官』が泉鏡花文学賞候補となります。歌舞伎・遊廓など近世情緒に関心が深いとありますが、とりわけ、樋口一葉には深い愛情を傾けてこられたようです。

 

越境するストーリー

「‥‥人の一生を旅と見て、まだ出立の二あし三あしがほどなる身には、是れのみにも非ざるべし。道のさまたげいと大からんに、心せでは叶はぬ事よ」と思ひ定むる時は、かしこう心定まりて、口惜しき事なく、悲しき事なく、くやむことなく、恋しき事なく、只 (ただ) 本善のぜんに帰りて、一意に、「大切なるは親兄弟、さては家の名なり。これにつけても我が身のなほざりになし難さよ」など思ふ折しもあれ、又さる人に訪 (と) はれなどして、かの人のことふと物がたり出たる(樋口一葉『にっ記』明治25年5月)。

領家高子『八年後のたけくらべ』
『お力のにごりえ』『葬列』『日記』収載

祖父は、甲府の農家の三男で俊敏な頭脳の努力家だったが失意の中で死に、父は、一生を士分に対する憧れと反発の中で揺れて過ごし、結局は偏屈な変わり者として市井に身を捨てることを選んでしまったとお力は語る。それは一葉の『にごりえ』ではなく、領家さんの『お力のにごりえ』にそう書かれている。

一葉の実際の祖父も甲斐の国の長 (おさ) 百姓で学問もあり進取の気性にも富み、父は、幕末に同心株を買い、運良く幕府直参となりました。明治維新後には下級役人として士族の身分を得て明治政府の官となり東京府庁に勤めましたが、明治9年に東京府庁を退官して起業します。しかし、負債を残したまま他界してしまう。一家は窮乏し始めます。兄は早くに結核で亡くなり、姉は他家へ嫁ぎ、次兄は勘当されてのち薩摩金襴 (にしきで) の陶画師になります。一葉は16歳で樋口家の戸主となり家を背負わなければならなくなる。家を存続させる為には婿養子をとらねばならない立場となったのです。

領家さんは、一葉の足跡をかなり丹念に調べてこられたようです。それらの知識をもとに一葉の作品をご自分の想像力のままに本歌どりされている。あの『たけくらべ』のその後を小説にし『八年後のたけくらべ』を書き、一葉の日記が世に出るまでを妹の邦子が語る『日記』を書いておられる。この『八年後のたけくらべ』では意外にもあの頭もよく愛敬ある高利貸し田中屋の正太郎(正吉)が、成りあがって実業家となり、美登利の姉で廓の火事で大やけどした大巻太夫を身請けするという展開になっている。太夫となった美登利もいずれは救う気でいるのです。その後もの」を書くについては色々なご意見もあるかもしれませんが、領家さんが何を越境したのか、何を重ねたかったのか、これを見ていくことはなかなか面白いのです。

 

文語文の最後の絶叫

「おのれ日々日記を作るに、言文一致なるあり、和 (やまと) めかしきあり、新聞躰 (てい) になるあり。かくては却 (かえ) りて文の為に弊害とのみなりて、利は侍らずやあらむ」とて師の君の異見とひ参らす (樋口一葉『日記』明治25年3月)

井上ひさし氏は、劇団こまつ座の公演紹介も兼ねた雑誌『the座』の創刊号で「樋口一葉に聞く!聞き手・井上ひさし」(1984)を書いていて例によって面白可笑しいのですが、一葉の文章が俗折衷体といわれ、中古の和文と西鶴の俗文を文章の骨組みとしてそこへ中古の雅言と近代の俗言、明治の語彙を加え、その時代の女性感覚を振りかけたものだと一葉女史に語っています。ここは当たっているのではないか。つまり、明治までのわが国の文章を良いとこどりして集約した。それは和文脈による文語文の最後の絶叫だと褒める。

一方で、すぐその後に言文一致体がやって来た時、口語文の文章であなたは傑作を書けただろうかと女史に意見します。女史は軽く「あたり」と言って受け流しますが、勿論これは架空のお話しです。一葉女史がもっと長生きしていたらなどと誘うのはよくある手ですが、これには引っ掛かりません。しかし、一葉女史の文語文は美しい。快進する流れの中に刻まれるきびきびとしたリズム、状況説明から直結される会話、適格な情景描写にからみあう心理描写‥‥ さて、文語の俗文と一葉女史の原文とを比較してみましょう。

さても源左ェ門その日のいでたち如何にと見てあれば、金小実緋縅 (きんこざねひおどし) の伊達鎧に同毛糸 (おなじけいと) 五枚錣 (しころ) の兜は、これぞ俵藤太秀郷 (たわらのとうたひでさと) が瀬田の唐橋にて、竜神より申し受けしと謂われある、先祖伝来の名兜なり 金にて鍬形銀青龍の前立て打ったるを猪首に着なし、腰には伯耆守安綱の陣刀を横たえ 三条子鍛冶宗近の鍛えあげたる大薙刀を小脇にかいこみ、痩せに痩せたる馬なれど大浪と名付けたる名馬にはゆらりがっきと轡 (くつわ) をはませ、向こう春風諸手綱、引き締めまたがり諸鐙 (もろあぶみ)、とおとおと乗り出だす (講談『鉢の木より いざ鎌倉』)

人数は大凡 (おほよそ) 十四五人、ねぢ鉢巻に大万燈ふりたてて、当るがままの乱暴狼藉、土足に踏み込む傍若無人、目ざす敵 (かたき) の正太が見えねば、何処へ隠くした、何処へ逃げた、さあ言はぬか、言はぬか、言はさずに置く物かと三五郎を取こめて撃つやら蹴るやら、美登利くやしく止める人を掻 (か) きのけて、これお前がたは三ちやんに何の咎 (とが) がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜 (よ) い、逃げもせねば隠くしもしない、正太さんは居ぬでは無いか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもささしはせぬ、ゑゑ憎らしい長吉め、三ちやんを何故ぶつ、あれ又引たほした、意趣があらば私をお撃ぶち、相手には私がなる(『たけくらべ』)

 

領家高子『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』
表紙は鏑木清方『たけくらべの美登利』
この清楚で何かを内に秘めた女性像が素晴らしい。日本はこんな女性像を失った。

虚構と現実

うき世に はかなきものは恋也。さりとて、これのすてがたく、花紅葉のをかしきもこれよりと思ふに、いよいよ世は はかなきもの。等思三人、等思五人、百も千も、人も草木も、いずれか恋しからざらむ。深夜人なし、硯をならして、わがみをかへりみてほゝゑむ事多し。にくからぬ人のみ多し。我れは、さはたれと定めてこひわたるべき(樋口一葉『水の上の日記』明治27年)。

島崎藤村には『一葉舟』という詩集がある。領家さんの『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』には、藤村が上田敏の下宿を訪れた帰り、戸川秋骨、馬場孤蝶、平田禿木 (とくぼく) らと本郷丸山福山町の小さな池が窓下にある暗く風雅な古い屋敷に一葉を訪ねたことが述べられています。藤村、秋骨、孤蝶の三人はキリスト教系の明治学院の同級で禿木を含めていずれも英語が堪能だった。秋骨や孤蝶は早稲田や慶応で教え、禿木はフェノロサのために謡曲を英訳したことでヨーロッパに能が知られる契機を作った。みんな自死した北村透谷が結びつけた「文学界」の同人たちでした。

「ぼくは、ひょつと、透谷君が生きて元気でその場にいたら、と思ったことでした。『雪の日』からずっと、一葉君のことを言っていましたからね。きっと育ててやりたかったんでしょう」と藤村が語る場面が領家さんの『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』に書かれている。文芸作品について、安直なモデル問題を論じるのは危険なことだと断りながら、『たけくらべの藤本信如 (のぶゆき) は藤村がモデルではないかと領家さんは言う。この小説に登場する若者たちの実在のモデルはあったようですが、領家さんの言うのは性格的なモデルでしょう。明治26年、1893年に藤村は、元教え子への恋のために勤めていた明治学院を辞め、頭を剃って僧同然の姿で放浪し、自殺未遂するも翌年復職する。同じ年、親友北村透谷の自殺、兄は水道鉄管の不正疑惑に連座した疑いで逮捕されていたのです。

一葉と藤村の出会いを思い、領家さんの想像力は膨らむ。美登利は一葉、美少年正太郎 (正太) は馬場孤蝶、戯け者の二股かけのちびの三五郎は平田禿木 、乱暴者の長吉は、村上浪六と彼と仲のよい星野天知。それは、領家さんに亡くなった北村透谷の詩を連想させます。信如が美登利に贈った花一輪でしょうか。

一輪花の咲けかしと、願ふ心は君の為め。
薄雲月を蔽ふなと、祈るこゝろは君の為め。
吉野の山の奥深く、よろづの花に言伝 (ことづ) て、
君を待ちつゝ且つ咲かせむ。
(北村透谷『古藤庵に遠寄す』)

信如いかにしたるか平常の沈着 (おちつ) きに似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂も泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出だし、これにてお拭きなされと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬 (やきもち) や見つけて、藤本は坊主のくせに女と話しをして、嬉しさうに禮を言ったは可笑しいでは無いか、大方美登利さんは藤本の女房 (かみさん) になるのであらう、お寺の女房なら大黒さまと言ふのだなどゝ取沙汰しける、信如元來かゝる事を人の上に聞くも嫌ひにて、苦き顏をして横を向く質 (たち) なれば、我が事として我慢のなるべきや、夫 (それ) よりは美登利といふ名を聞くごとに恐しく、又あの事を言ひ出すかと胸の中もやくやして、何とも言はれぬ厭な氣持なり(『たけくらべ』)

 

一葉舟

なみ風のありもあらずも何かせん 一葉のふねのうきよ也けり 樋口一葉

『天狗草子』三井寺巻 部分
自然居士 (最上部に描かれた人物)
東京国立博物館

観阿弥作の『自然居士 (じねんこじ) 』では舟を一葉と呼ぶ。その故事は、黄帝の臣下である貨狄 (かてき) が柳の葉に蜘蛛が乗って汀に至るのを見て舟を公案し、それを使って黄帝の軍が烏江を漕ぎ渡るという内容で謡われています。実在の自然居士は、東福寺の開山である聖一国師・円爾 (えんに) の弟子であった鎌倉時代末の禅僧です。放下の禅師と号して、髪を剃らず烏帽子を着、座禅の床を忘れて南北の巷に簓(ささら)をすり、工夫の窓を出て東西の路に狂言したと『天狗草子』にその名をとどめた。風狂の説教師、勧進聖であり中世芸能の祖であったようです。

この能のストーリーは、自分を人買いに売って小袖を得て、それを自然居士に捧げて父母の追善供養を願う少女を人買いから助け出すというもので、理屈で勝てない人買いは居士に恥をかかせようと、簓 (ささら) や鞨鼓 (かっこ/撥で打つ鼓) を打って舞いをせよと求めた。船上の居士には、簓のようなものはなく、楽器を手ぶり身振りに表現して踊り続け、対岸に到着するや娘を取り戻すという話になっています。人買いから少女を救うストーリーは、領家さんの『八年後のたけくらべ』にある太夫となった美登利を廓から助け出そうと目論む正太郎に通じるものがあります。

能楽の研究者である伊藤正義さんは『謡曲入門』の中で舟を一葉と表現する故事は中国で説くところの輸入だが、かなり早い時期に入って来たと考えられるという。鎌倉前期の和漢朗詠集永済注には既に見られ、梧桐の一葉という表現も「後漢書に云う」と鎌倉中期の『弘安十年古今集歌注』にあると指摘しています。舟は葉とも数えられる。樋口夏子の雅号は一葉です。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であったともいわれますが、一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったといいます。そのことは「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そしてに書いておきました。しかし、これは彼女独特の居直りであったかもしれない。

 

一葉舟を浮かべたのは誰か

半井ぬし扨 (さて) の給ふやう、「種々に御事多かる中を、さぞ出でがたくやおはしけん。実は君が小説のことよ。さまざまに案じもしつるが、到底絵入り新聞などには向き難くや侍らん。さるつてをやうやうに見付けて、尾崎紅葉に君を引き合わせんとす。かれに依りて『読売』などにも筆とられなば、とく多かるべし、又、月々に極めての収入なくは経済のことなどに心配多からんとて、是をもよくよく計らんとす‥‥」(樋口一葉『日記 しのぶぐさ』明治25年6月)

半井桃水(1861-1926)
全集 樋口一葉 3 日記編 小学館 掲載

半井桃水(なからい とうすい)は、対馬に生まれて韓国の釜山で育ちます。明治21年、1888年に東京朝日新聞の記者となり、朝鮮語に堪能であったため釜山に駐在したこともある。やがて、小説家としての地位を確立するようになり、一葉が小説の教えを乞い、恋心を抱いていたことで知られています。領家さんは、一葉舟を浮かべた最大の功労者をこの半井ぬしだと見ている。

キリスト教系の明治女学校校長だった巌本善治は情操教育としての小説に着目し、文学に理想を求めて『女学雑誌』を主宰していました。しかし、中流社会の宗教家・教育者の性モラルを暴いた小説が現れ、女学生醜聞報道もあり、国粋化の影響もあってキリスト教教会なども批判の矢に曝されていた時期でした。一方、桃水は明治25年に後進の育成のために雑誌『武蔵野』を発行して一葉の『闇桜』を掲載している。この年、明治女学校のある教師が一葉の作品を『女学雑誌』へ寄稿してもらえるように桃水に頼みますが、これを断ります。その教師は、おそらくは、星野天知だといわれている (全集 樋口一葉3 日記編 注)。桃水はキリスト教関係には近づかないように一葉に警告していた。これは桃水の目配りだったといいます。

星野天知は日本橋本町の砂糖問屋「伊勢清」の次男で、『女学雑誌の主筆明治女学校の巌本善治に見込まれ大学中退後、教育界に入って雑誌編集に携わります。島崎と北村らと『文学界を創刊した切れ者でした。この頃、キリスト教女子教育に関わったものにはロマンティックで自由な恋愛を支持するものが多かったといいます。天知も透谷もクリスチャンだったし、藤村も一時期そうでした。そして、三人とも文学に理想を求める明治女学校で教えていた。彼らが女性の文学者を待望していた理由はここにあるのでしょう。平田禿木が初めて一葉を訪れるのは明治26年です一葉の『雪の日』を『文学界』の三号に載せたい旨を告げます。こうして、一葉は「文学界」のメンバーたちと親しくなっていきました。

この明治25年頃は透谷が、尾崎紅葉や幸田露伴の文学を保守反動だとして厳しく批判していた時期に当たります。尾崎紅葉ひきいる硯友社は政治的にノンポリだったし、紅葉は読売新聞に入社していて発表の主要な場もそこだった。それで、桃水は一葉と紅葉を結び付けようとしましたが、結局、一葉は紅葉と会うことをしませんでした。そのことについて、桃水は自分に宛てて手紙を書くように一葉に指示している。彼女と共に後難を避けようとしたためだといいます。しかし、明治28年には硯友社系の博文館支配人大橋乙羽が一葉に寄稿を依頼し、奇跡の14か月と呼ばれる期間に入っていきます。『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』が次々と発表され、幸田露伴や森鴎外に高く評価されるようになるのです。それは、自ら水の上に浮かべた一葉舟を桃水が大海に送り出す手配だったと領家さんは言います。一葉という名の黄帝を烏江の向こう岸に渡らせた臣下が、実は半井桃水だったということになるでしょう。

 

水の上と漬物石

全集 樋口一葉3 日記編 小学館

大切なるは親兄弟、さては家の名であり、文学は糊口を凌ぐため為すものにあらずという文学者としての矜持があり、我は人の世に苦痛と失望とを慰めるために生まれた詩の神の子であるという自負があったが、誠に我は女なりけるものをと弱気にもなる。明日は食べるものもないという貧困があり、家族のために借金を乞い小商いまで決意し、胡散臭い人種にも接近した。いかにして明日を過そうかと、願うことは大方はずれて想いの外になり、全て、世の中はをかしきものと放下に似た境涯にも近づく。やがて、結核を患って24歳という若さで亡くなっていった。このような中で一葉文学は生まれました。日記をみればそのことは分かる。かつての宮廷女官の日記はフィクションで彩られたと言いますが、一葉の日記にもある種の空想はあったかもしれない。しかし、水に浮かぼうとする足掻きと憧れへと進もうとする葛藤は真実だったでしょう。日記は、時に飛び飛びに連続するその水跡だったと思われます。

一葉舟は、みごと水の上に浮かびますが、領家さんは、その後の樋口家を『葬列』という小説の中で書いています。姉夏子の葬儀の日、妹の邦子は、姉が紫檀の文机の前に座って眺めていた池の面を仁王立ちになって睨みつけている。そして、台所の漬物石を頭上高くに振り上げ、一息に振り下ろします。水が盛大に跳ね、水しぶきが座敷にまでかかった。邦子はそこに魔物が居たのだというのです。そこには、姉を虐げた宿命という名の魔物がいたのかもしれない。しかし、そうさせずにはおかなかった無理無体な何ものかは、一葉の作品の中で巨大な波紋へと変容し、今に至るまで波動し続けているのです。

 

 

参考文献 並びに 引用文献

領家高子『向島』

伊藤正義『謡曲入門』

全集 樋口一葉 2 小説編 小学館

領家高子『一葉舟』 一葉の伝記的小説

ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』タルドの波動/ドゥルーズとラトゥール

 

サルラの通り マルロー法によってフランス国内最初の景観保護地区に指定された。

ガブリエル・タルドはフランス南西部のドルトーニュにあるサルラ (現 サルラ=ラ=カネダ) に1843年に生まれた。父は地方貴族の流れをくみ、その地の裁判官を務めていたが、タルドが7歳の時に亡くなっている。数学や科学に興味を抱き、理工系の学校で数学を学びたかったようだが、19歳ころから眼の病に苦しむようになる。やがて、父と同じ道を目指してトゥルーズの法科大学などで学ぶが、またも病状が悪化して故郷で独学する日々となった。しかし、1869年26歳の時にサルラの裁判所の判事補となり、32歳の時に同じくサルラの予審判事となっている。ここまでは父と同じ道をたどったと言っていいだろう。1886年、43歳頃から『犯罪人類学雑誌』に投稿し始めるようになる。その頃の論考の一つが『刑事哲学』だった。

サルラの裁判所

タルドの時代には個人の自由意志によって犯罪に及ぶとする古典学派と犯罪者の処遇は科学的な見地から実証的に行うべきだとする実証学派に二分されていたという。タルドは、社会の犯罪率がある程度一定であることから個人の自由意志が犯罪をもたらすのではなく、外在的要因が働いていると考えていた。その外的要因の主なものは犯罪の手口の模倣や犯罪に使用される道具の普及である。犯罪は貴族階級から庶民階級へ、都市から農村へと浸透するとした。こうして後述する模倣の法則にみられるように犯罪の社会的な動向や進化といったものを歴史的な過程から説明していくのである。

社会の中のある集団について考えるうちに、タルドはあらゆる集合体を「群集」と呼ぶことを混乱の原因と考えるようになる。「群集」は「肉体の接触からうまれた心理的伝染の束」であるが、「公衆」とは「純粋に精神的な集合体で、肉体的には分離し、心理的にだけ結合している個人たちの散乱分布」だと考えるようになった(『世論と群集』)。彼は、集合体の結びつきが身体的なものであるか、あるいは精神的なものであるかということによって、「群衆」と「公衆」という概念を同時に作り出したといわれる(『模倣の法則』解説)。

 

あらゆる事物は複合体であり色々な要素となる構成物だと考えた。それを遡れば無限小の事物に到達する。それは物ではなく精神的実体であった。つまり、ライプニッツのモナドである。その要素同士を結合する力は「信念」と「欲望」であるという。欲望は自己が拡大する力、信念は要素同士を結合し維持する力である。彼は、独自の精神一元論の立場から社会学を構想した。個人は自分自身の内に動因を持つ自発的存在であって、エミール・デュルケムが考えたように社会などによって拘束される他律的存在ではなかった。この精神原理は物質、生命、人間社会に共通する原理であり、原子、細胞、個人はそれらによって結合される。こうして、このテーゼが導き出される。

あらゆる事物は社会であり、あらゆる現象は社会的事実である(『社会法則/モナド論と社会学』村澤真保呂、信友建志 訳)。」

 

無限小の事物

鳥の俯瞰的視点と虫の近接的視点と言われるが、フランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールは、徹底的な近接的視点から社会事象を記述しようとする。名付けてアクター・ネットワーク・セオリー、略して ANT (アリとも読める) である。ラトゥールのタルド賛歌を彼の著書『社会的なものを組み直す』からご紹介する。

アクター・ネットワーク・セオリー (ANT) で知られるフランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールは、タルドについてこう述べる。タルドはあらゆるものが社会であるといった。科学は細胞社会について、原子社会について、あるいは天体社会について述べてもおかしくないようにあらゆる科学は社会学の下位に位置するように運命づけられている。科学がすべて個人の計画、個人が用意した素材によって生まれ、狭い範囲を照らす光となり、小学校のあらゆる児童にさえ浸透していく巨大な光になったのと同様に宗教的教義や法体系、政府、経済体制が同じように形成されていったという。

そして、ライプニッツのモナドを一般化させることでミクロとマクロの繋がりを反転させることもできるラトゥールは言う。社会的な事象の規則性、秩序、論理は高所から全般的な作用を一望する視点に立つのではなく、不規則な細部を観察することによって得られるのであって、人間の行動を導いているのは人間であって進化の法則ではないと言うのだ。大きな事実で小さな事実を説明し、全体で部分を説明するのではなく、微積分が数学の分野において生んだ変化と同様なものを、部分によって全体を説明することで社会学にもたらすだろうと予見した。このような社会的理論の先駆者としてのガブリエル・タルドを見ていたのである。

工業製品にせよ、詩文にせよ、政治思想にせよ、ある日、人の脳の片隅に出現し、際立った特徴を有する社会的産物が、人間のいるあらゆる場所に、無数の複製を通じて自己を広げようとするとタルドは述べる。そして、存在しているということは、異なっているということであるとも言う。いわば、差異は物事に共通した、その本質的側面であり、そこから出発すべきであって誤って同一性から出発すべきではないというのだ。というのも同一性は、最も小さな差異、限りなく珍しい一変種だからだ。何らかの同一性を出発点にすれば、到底あり得ない原点を出発点としてしまうことになり、単一の存在が特段の理由もなく分岐するという不可解な事態から始めることになるからである。それは、ちょうど円が楕円の一変種であるのに、円を基準にしてしまうようなものなのである。ここは差異と反復の問題に関係してくる。

 

差異と反復

フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、差異と反復とが生成される秘密が、自然と精神の中にあることを発見したのはタルドだとして称賛を惜しまない(『差異と反復』序章)」。

遺伝が無ければ有機体の進化がないように天体の運動に周期性がなく、地球の運動にリズムがないなら地質的年代や生物の豊かな多様性はなかっただろう。科学は現象の反復を扱う。このような現象の類似や反復は、普遍的な差異や変異にとって不可欠な主題であるとタルドは言う。社会は反復を通じて変化を生み出している。社会の外部者(アウトサイダーたち)というだけでなく、個人の中に潜在する無数の可能性としての異質性、つまり差異は、その社会内に侵入した時から模倣と発明の連鎖をつうじて社会全体を変容させていくという。

だが、一度回り始めた生命のコマが永遠に回り続けないのは何故か? 反復にはただ一つの存在理由があるのだとタルドは言う。それは、「固有の独自性が形をとることを求めて、あらゆる仕方で自らを表現する」ということだった。つまり、自己の表現が形であり、その形の変化が終わった時、形も終わるということだろう。変化が生じ尽くしたそのとき、死は必ず訪れる。生命は開花を求め、自己から解放されようとすると訳者の一人である村澤真保呂氏は『模倣の法則』の「あとがきに代えて」で述べている。

反復は変異のために存在する(『社会法則/モナド論と社会学』村澤真保呂、信友建志 訳)。」

反復と個物の関係は、ちょうど、中世の唯名論と実在論との関係にそのまま当てはめることが出来る。「個別的なもの」、つまり唯名論は考察の対象を唯一の実在的個物にしかないと考える。普遍的なものとは名前に過ぎないとし、その個物は差異という観点から理解されるのだ。「普遍的なもの」である実在論は、実在と呼ぶに値するものは個物に備わった特徴だけだと考える。この時、特徴は個物が別の個物に類似したり他の個物のうちに自己を再生産することを可能にする条件となるというのである。政治における個人主義的自由主義は唯名論の特殊例であり、社会主義は実在論の特殊例であるとタルドは言うのだ。この個物ー差異と普遍ー特徴という対比は『千のプラトー』における量子の流れと線‐切片に繋がるのではなかろうか。

 

流れ――信念と欲望

ドゥルーズ(+ガタリ)は、ミクロ社会学の影響のもとでタルドの今日的意味を見出したのである。このミクロの模倣は流れや波動と関連し、対立とは流れが二項化すること、創意とは流れの接合ないし、連結だという。そして、この流れとは信念と欲望であるとタルド理論を紹介するのである(『千のプラトー』「ミクロ政治学と切片性」)。

ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
『千のプラトー』

個の創意は光の波やシロアリの群れの歩調のように広まってゆく。この時、模倣が意識的なものか無意識的なものか強制か自発かは重要な問題ではないという。模倣は川であり、発明はその源流となる。模倣による反復の中で明瞭で典型的な形態は、社会的反復、有機的反復、物理的反復である。それは言い換えれば模倣的反復、遺伝的反復、振動的反復となる。これが普遍的反復の主要三形態と呼ばれるものである。その反復の中で伝搬されるスピードは、習慣や風習、さらに「人種的本能」と呼ばれるような長い時間をかけてゆっくりと広がるものからコーヒーやタバコなどが市場に出回るような幾何級数的な拡大まで様々ある。

様々な反復は、波動や生物種の間で干渉が起きるように社会現象の模倣の間でも起きる。それは波のように強め合ったり、弱め合ったりする。真に社会的遭遇や干渉が起こるためには、二つの社会的事象が同一の人物の脳の中に存在し同一の精神状態にあるだけでは不十分である。

タルドの言う模倣とは、意図されたものか受動的であるかに関わらず、ある精神から別の精神への距離を隔てた作用、つまり精神間の遠隔作用と脳内における写真の現像のような複製作用のことを指していた(『模倣の法則』「第二版への序文」)。しかし、二つの社会的事象が互いに支援せず、害さず、確認せず、矛盾しないような関係にあっては干渉は生じ得ない。一方が他方にとって障害あるいは手段となり、互いに「原理と結果」「肯定と否定」の関係になければならないという。この二項対立はドゥルーズの言う反復の「流れの二項化」にあたる。それらが反復される過程で対立関係となる時、干渉が起きる。

ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』

社会的事象は、教義、感情、法則、要求、慣習、風習というように様々な名前をとるが、それらを最後まで分析してみると根本的には信念と欲望でしかないという。つまり、模倣の流れを動かしている主な原動力は信念と欲望である。この二つの信念、二つの欲望、あるいは一つの信念と一つの欲望がふたつの社会事象として模倣の力を通じて長期にわたって別々に発展し、遭遇することもある。

個人の精神内において信念ないし欲望が干渉するのではなく、一部が個人に、他の一部が同類の誰かに属しているような場合、重要な事例となる。この場合、干渉は他者の観念によって自分の観念が肯定ないし否定され、他者の意志によって自分の意志が利益ないし損害を受けたことを個人が知覚する。そのような干渉から共感や契約が生まれ、あるいは反感や戦争が起きるのである。そして、根絶することが困難な恐るべき社会問題をタルドはこう述べる。

少数の分離派を多少なりとも強制的に排除したり改宗させることによって、いつか人間精神の完全な一致を達成することは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか?

諸個人の商業的・職業的・野心的競争、そして諸国民の政治的・軍事的競争が、これまで夢物語であった労働組合あるいは国家的社会主義によって抑圧されてしまい、そこから世界的な巨大連邦や新たなヨーロッパの均衡が生まれ、ヨーロッパ連合に向けての第一歩がふみだされるとしたら、それは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか?

あらゆる支配と抵抗から解放され、絶対的な主権をそなえた強力で自由な社会権力が生まれ、想像しうるかぎりもっとも博愛的で知性的な一党派や一国民によって、その権力が独裁的あるいは因習的な至上権として出現することは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか?
(いずれも『模倣の法則』池田祥英、村澤真保呂 訳)

歴史が答えを出そうとしている問題もあるようだ。

 

アリの眼で見る

ラトゥールに戻ります。彼は徹底的な近接的な視点、つまりANT/アリ(虫)の目で見ない限り新しく有用な社会的直観は生み出されないだろうと考えている。大雑把な概念だけで紋切り型に歴史を切断しようとすることが不毛なら、同様に社会科学の理論をそのように考えることは止めようというのだ。社会活動に対する新たな理解が必要とされている。そこでの「発明」が、あらゆる「個人的創意」が社会科学の中で必要とされている。

ガブリエル・タルドは、アリの労働は「模倣を伴う個々の創意」だという。それは動物社会学者のアルフレッド・エスピナスの説を援用している。山や谷にアーチやトンネルを他所にでなく此処に作るという観念を持つためには、技師ほどの革新的なアイデアに恵まれ、このような自発的な行動を多数のアリが模倣することが必要となる。そこでは固体の創意がどれほど重要な役割を果たしているかを知ることができるという。この社会学への生物学の影響は、細胞理論、遺伝理論、進化論などの発展に伴い19世紀前半から強まっていた。エスピナスの生物学的社会学もそのうちの一つだった。

ブリュノ・ラトゥールが、アクター・ネットワーク・セオリー (ANT) と呼ぶ時のこのアクターという言葉は演劇に由来する。舞台の役者は、例え、一人芝居であっても一人では演じない。演じるということは、さまざまな要素の媒介によって成り立っている。それは、ちょうどサルトルが『存在と無』の中で描く「ほんとうの自分」と「社会的な役割」との違いが分からなくなったカフェのギャルソンのような状態だとラトゥールは言う。

ブリュノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す』

劇が始まるや、これは本気なのか、見せかけなのか、観客の反応を取り込んでいるのか、照明や舞台裏のクルーの動向はどうか、脚本家のメッセージはどの程度伝わっているのか、人物は上手く造形されているのか、共演者は何をしているのか、プロンプター (演技中の俳優に陰でせりふを教える役) は何をしているのか、このようにアクターを取り巻く環境の展開を追っていけば、アクターの行為は徐々に非局所的 (ディスローカル) になっていくという。あるアクターが、アクター-ネットワークであると言われるなら、その語が表しているのは、行為の起源に関する不確定性の主なる発生源だということになる。

タルドは、人間の行為が歴史を動かす唯一の要因であると考えるのは単純すぎる。そのため我々は他の領域で流通している便利な虚構によってさまざまな原因を捏造するはめになったという。人間の行為による事象を非人格的な色合いで塗りつぶすのも、数人の偉人たちに帰することもできない。社会変動はいくつかの偉大な観念、あるいは難易度の異なる大小無数の観念の出現によって左右される。言語、宗教、政治、法律、産業、芸術といったあらゆる種類の社会現象は、先行するイノヴェーション (新機軸、技術革新) に新たなイノヴェーションが加算され、さらに改良がなされていく。社会集団の中にこのような新しい要素がもたらされるとそこから段階的な変化が途切れることなくもたらされるのだ。

モナドのネットワークにの中に生まれる「創意」を社会における新しい観念の出現とタルドは捉える。革新的な創意から出発しなければならない。この見方にしたがえば事実の最も細部から最も大きな全体まで描き出すことができる。つまり、歴史の精細さと単純さを余すところなく描写できる。それは、歴史家の観念によるものではなく、行為者の観念による歴史であるという。

ガブリエル・タルド『模倣の法則』

ラトゥールが警戒するのは、こうした複雑極まりない相互関係から成る奇妙、いびつ、風変わりと形容しても良いような状態を無視して社会的と言われる裏側の世界で流通している用語だけに還元してしまう危険性である。社会的説明という作り物の大半はこのように生み出されるというのである。行為の起源はどこに求められるのか。「広範囲に及ぶ社会の力」「私欲による開け広げの計算」「内なる情念」「人の志向性」「良心のとがめ」「社会的期待による役割」「自己欺瞞」といった事柄が果たして「アクターを動かす」社会的な力と言えるのか。かくれた社会的動因、無意識を考え出すことで事が済むのだろうか。彼が言うのは徹底的なANT/アリ(虫)の目で見ない限り新しく有用な社会的直観は生み出されないだろうということである。それは、ちょうどドゥルーズが哲学に新たな概念を生み出そうとしていたことに通じるものがある。

 

たとえ歴史家が、ガリアのローマ化について長々と話すとしても、彼は次のようなこと ―― たとえばローマ語における単語や文法形式、ローマの宗教における儀式の手順、指導士官による軍団員にたいする教練、ローマ建築の各種類(寺院、バシリカ会堂、劇場、円形闘技場、水道、アトリウム〈中庭のある別荘、等々)、学校で無数の生徒たちが習っていたヴェルギリウスやホラティウスなどの詩、ローマ法における法規、ローマ文明において職人から徒弟に、教師から生徒に対して忠実に際限なく伝達された産業・芸術的技法のひとつひとつ ―― を詳しく説明しようとはしないだろう。しかし、もっとも激しい変動過程にある社会がそなえている並外れた規則性は、それらを説明することによってしか正確に理解することができないのである(『模倣の法則』池田祥英、村澤真保呂 訳)。」

 

タルドは、裁判官を務めながら『比較犯罪学』『模倣の法則』『モナド論と社会科学』などを刊行していたが、1894年、司法省犯罪統計局長としてパリに赴任する。51歳の時である。翌年創設された「パリ社会学会」の会長となった。『社会法則』の刊行を経て、1900年、57歳の時にコレージュ・ド・フランスの近代哲学教授となっている。1904年、61歳でパリで亡くなった。ちなみに彼の後任はアンリ・ベルグソンだった。

今回は、比較的新しいラトゥールの著作『社会的なものを組み直す』を起点にタルドの思想に遡り、タルドとドゥルーズの思想的つながりを見て来た。そこには高らかなタルド賛歌があったのが嬉しい。それと、タルド思想との関係で言えば、西田幾多郎のそれやマウリツィオ・ラッツァラートの『出来事のポリティクス』との関係も指摘されている。だが、今回、残念ながら関係する本を手に取ることが出来なかった。機会があれは、ご紹介できればと思っている。特に西田幾多郎は、コレージュ・ド・フランスでタルドに師事し、京都大学で教えた米田正太郎(1872-1945)によってもたらされた心理学的社会学に触れていたようである。ここは、なかなか興味深い。

 

 

引用文献

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』

ブルーノ・シュルツ『肉桂色の店』 父の変身、あるいは変容する家庭内叙事詩

 

松澤宥 (まつざわ ゆたか) さんとの展覧会があり、その後、展覧会に関する色々な記録を作っていましてブログが遅れました。約一月半ぶりとなります。今回は、展覧会中に偶々見ることのできたクエイ兄弟の作品から知ったブルーノ・シュルツの世界をご紹介します。

『ブルーノ・シュルツ全集 1』
創作編・評論編 工藤幸雄 訳 新潮社
1998年刊

「ダークなビジュアル・イメージで世界中の映像ファン、アート・ファンを虜にする、一卵性双生児のアニメーション作家スティーヴンとティモシー、二人のブラザーズ・クエイによる短編作品集」‥‥と銘打たれた映像集を見た。こんなに纏めてみたのは初めてだった。クエイ兄弟のコマ撮りの人形アニメーションについては、クレア・キッソン 『話の話』の話 ユーリー・ノルシュテインと幸福な時代の思い出の中で少し触れておいた。

その中でも今回、ご紹介するブルーノ・シュルツ原作の『大鰐通りは傑作と言っていい。ブンダー・カンマ― (驚異の部屋) をテーマにした『ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋』やシュトックハウゼンが音楽を担当した『不在』よりも、鳥をテーマにした長いタイトルの『ギルガメッシュ叙事詩を大幅に偽装して縮小した、フナー・ラウスの局長のちょっとした歌、またはこの名付け難い小さなほうき』よりもこの『大鰐通り』がいい。この映像は美しいと思う。

錆びた歯車に油を注すように機械仕掛けの装置へ、唾が人によって落とされる。すると、再びのその人形芝居が開始される。埃が積もった床からネジたちが自動回転して捻じれ上がり、床に倒れてゾロゾロと移動し始める。この感覚は、子供の頃、セルロイドの下敷をこすって頭の上に持ってくるとフワ~と髪の毛が逆立っていったあの感じに近いのかもしれない。この作品の不可解なストーリーの流れと特異な映像シーンに心奪われたが、最後のポーランド語と思われるナレーションの響きが如何にも美しかった。シュルツの文章が引用されている。この作品には原作のあることを知ったのだが、本書の訳者である工藤幸雄さんのものでご紹介する。

「人間という材料の安価なこの街では、奔放な本能もなければ異常なほの暗い情熱も入り込む余地はない。大鰐通りは現代のために、また大都会の腐敗のために私たちの街が開いた租界であった。どうやら、私たちの資力はせいぜい紙製の模造品や棚ざらしの去年の古新聞からの切り抜きを貼り合わせたモンタージュ写真しか賄いきれなかったようである。(『肉桂色の店』より「大鰐通り」最終部)」

 

ブルーノ・シュルツは1892年、ポーランドの南東部 (現ウクライナ) ドホロビチにユダヤ人の両親のもとに生まれた。オシップ・マンデリシュタームがワルシャワで生まれた翌年のことだ。服地屋を取り仕切る父ヤコブは、妻のヘンリエッタの名を店の看板に掲げていた。父親が46歳の時の子供で幼児の記憶に残る父は苦行者のようにやせ細り、背中が丸く、白髪交じりの顎ひげを生やし、薄暗い店の奥に白々と見える姿だったという。彼は「哲学者商人」「目立って冗談好きなインテリ」「絵心のある夢想家」として知られていた。その父を偶像のように敬っていた。普通の父親ではなかったことは確かだ。

長兄イズィドルとは11歳離れた末っ子で、それに姉のハンナがいた。一家はユダヤ社会に属してはいても家庭ではポーランド語を使い、先祖伝来のドイツ語に近いイディシュ語は使わなかった。家族の反対から美術学校には進めず、理工科大学の建築学科で学んだが、画家への夢は捨てきれなかった。第一次大戦中、一家は一時、兄の計らいによってかウィーンに避難していたが、1915年にはドホロビチに戻る。その年、ブルーノが23歳の年、彼と同じく病身痩躯で、不安に駆られ神経過敏になりやすく、結核の上に癌を病んでいた父が亡くなった。

戸主を失い、戦火で店舗も失ったシュルツ家は、ルブフ(リヴィウ/現ウクライナ)にある石油会社の支配人であった長男に経済的には負うことになるが、ブルーノも1924年、32歳の時、国立ドホロビチ高等中学校の契約教員となり絵画を教え、やがて工作を教えるようになる。宮沢賢治の『春と修羅』、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』、トーマス・マンの『魔の山』などが発表された年である。繊細で控えめなシュルツにとって教職は、執筆との板挟みをともなって、しばしば苦痛となった。長期休暇の申請を繰り返している。しかし、経済的柱であった兄も1935年に心臓病で急死する。ブルーノは母と精神を病んだ姉とその息子、兄の家族の生活を支えなくてはならなくなるのである。

スティーヴン&ティモシー・クエイ作品 『大鰐通り』部分

「父がマネキン人形という言葉を口にしたそのときであった、アデラは腕環についた時計に目をやり、それからポルダに目くばせで合図した。次に彼女は椅子ごと一歩前にせり出すと服の裾を捲 (まく)って、そろそろと足先を現してゆき、黒い絹にぴっちりと包まれた足首を蛇の頭のように伸ばした。‥‥こうして彼女は堅苦しい姿勢を保ったまま、アトロピン(ベラドンナから採れ、瞳孔を広げる作用のある有機化合物)の藍色で深さを増した大きな瞬きする目を据えて、まる一時間ポルダとパウリナに挟まれて坐りつづけた。‥‥霊感に駆られた異端者、めったに熱狂の嵐から逃れ出ることのない父が、とつぜん自分のなかに引っ込み、沈み、たたみ込まれた。‥‥突き出したアデラの片足の靴が小刻みに震え、蛇の舌のようにちらちらとした。父は伏し目のままゆっくりと立ち上がり、機械人形のような一歩を踏み出し、それから跪いた。ランプが静寂のなかでSの音を響かせ、壁紙の茂みのなかには、往きつ戻りつ物いう視線が走り、毒を含んだ舌の囁き、思考のジグザグが飛び交った‥‥(『肉桂色の店』より「マネキン人形論あるいは創世記第二の書」工藤幸雄 訳)」‥‥イメージと隠喩の豪奢で緊密なネットワーク。

クエイ兄弟の作品『大鰐通り』は、15章からなるシュルツの原作『肉桂色の店』のいくつかの場面からインスパイアーされて作られていると言っていいだろう。上にご紹介した動画はこの作品のほんの一部だが、この場面は『肉桂色の店』の第四章「マネキン人形」の方をもとに創られたのではないかと思われる。その原作を端緒としてクエイ兄弟独自のイメージが横溢していく。この「マネキン人形」では、家政婦アデラが見つめる中、お針女のポルダとパウリナたちが衣装を着せるのは、首代わりに黒い木の球をつけた麻屑と布でできた貴婦人のマネキンだったが、クエイ兄弟の作品では壮年とも初老ともとれる服地屋の主人=父親と思える存在がお針女たちに寄ってたかって変身させられている。

 

シュルツにとって父親とは何だったのだろうか。息子は、ある夜、魔物が父の身体に入り込むのを聞いた。ベッドから起き上がると預言者のごとき怒りによって、ひょろ高い長身へと変貌し、割れるような声で機関銃のような言葉を浴びせる父がいた。

発酵の結果生じる内部構造を持たないコロイド類。それらから成る疑似動植物。見かけの上で、脊椎動物、甲殻類、節足動物に似た存在。無定形でありながら一たび形態を付与されれば、それを記憶する存在。物質の模倣性向を顕現するそれらの存在を空想の中で自由に編み出す父。

従兄弟の一人が不治の長患いの末、姿を変え、徐々に一巻きのゴム管になると従姉は冬、いつとも果てない子守唄を歌い続ける。そんなことを語る父に我慢ならない女中のアデラは、近寄るなり指一本たてて、くすぐる意味の仕草をすると、父は、狼狽し沈黙し、恐怖に怯え、彼女の揺り動く指の前からあとずさりし、部屋から逃げ出してゆく。

あの黒い群れの洪水、身の毛もよだつジグザグを描いて床を突っ走る恐慌の野放図な妄想。手に投げ槍を握りしめ、椅子から椅子へと飛び移りながら威嚇の声を上げ、油虫の大群に口の周りを嫌悪の痙攣に歪めながら発狂する父。やがて奇怪な祭儀を思わせる節足動物の複雑な運動をみせて油虫に変身してゆく。(ちなみに、ポーランドに油虫がいるかどうかは僕は知らない。寒さの関係かウィーンにはいなかった)

我が家が経済的に破綻した年、ザリガニかサソリのような甲殻類に変身した父は、あらたな遠近法から家の様子を窺っていた。昼間は家中を歩き回り、ドアの隙間からハサミと脚を差し入れ、無理やり体を平らにしてドアの下をくぐって部屋に入り込むことを覚えた。しかし、それはある種の宿命性ゆえか、やり切れない気持ちをあえて振り払って息子は母に問うた。「まさか‥‥母さんが‥‥」父は皿に載せられて運び込まれてきた (『砂時計サナトリウム』から「父の最後の逃亡」)。

 

フランツ・カフカの『変身』が出版された1915年は、奇しくもシュルツの父が亡くなった年である。カフカが実利的な父親に対して反感しか持てなかったこととは対照的にシュルツの父は『肉桂色の店』(1993年刊) などを書くうえで文学的な極めて重要なファクターとなるほどの磁力とオーラを持っていた。

シュルツは、1936年にカフカの『審判』に関する書評を書いている。このカフカ作品に対する極めて早い反応は、訳者の工藤氏が述べているように、同時代を生きたユダヤ人の血に根差し不条理な世界に新しい創作を求めた両作家の資質と彼らが生きたオーストリア・ハンガリー帝国という文化圏の同一性に伴う共感の故かもしれない。しかし、カフカの『変身とシュルツの『肉桂色の店』に登場する父の変身とは、設定がかなり異なる。

カフカの『変身』一、二章において、一人称で語るグレゴール・ザムザの心理の中にあるものは、一介のサラ―リーマンが不慮の出来事で仕事に遅れるという焦りと仕事を失い、一家の経済を破綻させるのではないかという恐怖だった。南京虫か、甲虫になるという奇想は、身体が不条理という物化を遂げるという設定へ結びつく。三章では三人称の語りとなり、気味悪がりながらおっかなびっくりの愛情をこめて世話していた妹も、気遣いが裏目に出る母も、怪物から家族を守ろうとする父も、お手伝いという第三者の登場によってか、家族のお荷物となるグレゴールの死を安堵をもって迎えると結末になっていく。認知症の身内の死を平和な家庭の回復として受け入れる家族の心情に近いかもしれない。ここには、内面世界と外界世界との衝突によって軋む人間のモラルが浮き彫りにされる。この設定は、現代にも痛烈に響く。

ブルーノ・シュルツ
『砂時計サナトリウム』挿絵

シュルツの父親は、ある叙事詩の重要な登場人物である。その叙事詩には第一次大戦もナチスの胎動もない。シュルツの家庭内叙事詩は、「紙製の模造品や棚ざらしの去年の古新聞からの切り抜きを貼り合わせたモンタージュ写真」のごとき現実から作り替えられた神話だと言えるのではないか。彼は、古新聞の切り抜きのような自分の家庭を題材としながらも、その現実から魔術的変容によって逃れ出ようとするある生命的実体を描いた。シュルツはカフカへの評論でこう述べる。「‥‥これらの認識、観察、究明は、彼の独占する財産ではなく、あらゆる時代と諸民族の神秘思想――それはつねに主観的で偶然的な言葉、ある共同体と秘教的流派の型どおりの言葉で伝えた――の共通の遺産である」と。あらゆる時代と諸民族の神秘思想という言葉が、実はそのまま自身の作品へ妥当してしまうのである。

シュルツによれば、現実がある形を装うのは、もっぱら見せかけ、冗談か遊びのためだった。誰かは人間で誰かは油虫だったのだ。それは、かりそめに受け入れられた役割であり、仮面のように脱ぎ捨てられるものだった。すべては己の限界を超えた外へと拡散し、ほんの一瞬、ある形を保つだけで、隙あらばそこから脱出しようとする秘められた生命だったのだ。実体の生命とは無数の仮面の使用によって成立する形の移行であり、そのような実体からある種の汎アイロニーが生まれるという。楽屋に戻った役者は、衣装を脱ぎ捨てて、われと我が役をあざ笑うというのだ(1935年『公開書簡』)。そこにはある種の笑いの原理や復活とユートピアが開示されていく。何故かは、後に述べたい。

「変身 METAMORPHOSIS」(アーサー・ピタ振付/エドワード・ワトソン/ロイヤル・バレエ団) カフカの『変身』をバレー化した作品で面白い企画。

 

シュルツは画家になりたかった。幼い頃、床に座って次々と絵を描いて周りを感嘆させた少年は、28歳になっていた。その1920年頃からガラス陰画と呼ばれる技法で『偶像賛美の書』というシリーズを制作している。ガラスに黒色のゼラチンを塗り、その塗布した膜をニードルで引っ掻いて絵を描き、写真の感光紙を重ねて光を当て、現像するというものらしい。カリカチュアの系譜にあることは間違いない。ゴヤのタッチを彷彿させ、ロップスのポルノグラフィを思わせるものもあるが、ロップスほどには過激ではなさそうだ。同時代の作家ならオットー・ディクスやジョージ・グロスに近いだろうか。同郷の画家ヨアヒム・ワインガルトやクラクフ出身のモイズ・キスリングに対抗心や羨望はあっただろう。パリに伝手を探し求めようとしたこともあった。絵画の教師としてドホロビチ高等中学校にあってもその夢は捨ててなかったようだ。

ブルーノ・シュルツ
左 『偶像賛美の書』から「けだものたち」 ガラス陰画 1920~22年頃
右 『出会い』油彩 1920年

一方、シュルツは文学の方面において注目されはじめていった。41歳、1933年頃『肉桂色の店』が刊行され、4年後の1937年『砂時計サナトリウム』が出版されたのである。ポーランドの批評家エヴァ・クリークルはシュルツの芸術を真に格調高く謳いあげている。ヨーロッパ文学の地下水脈を流れる闇なるもの、外典的なもの、異端的なものを手法として常に専用してきたのは奇矯なアウトサイダー、夢想家といった根源の基盤への復帰と未来への逃亡とに魅せられた人々であり、その中にシュルツも含まれるというのである。ダンテの天国は地獄の滑稽な描写に補完され、シェークスピアでは悲劇のあとに卑猥な冗談が流れ、ダ・ヴィンチの醜怪な男の頭部は聖母像とコントラストを画し、ラファエロはヴァチカンの聖なる空間を異教風のアラベスクで飾り、ジャック・カロは喜劇コメディア・デラルテの風刺画を描いた。それらは共に文明の奥に潜む異常、愚劣、残酷さを暴き出すという。

ジャック・カロ 『茶番劇のヴァイオリニスト』  17世紀

比較的少数のラブレーのような作家やボス、アルチンボルド、ビアズリーのような画家がグロテスクの手法に携わったというクリークルの指摘は鋭い。それは、普通言う意味のグロテスクではなく、ミハイル・バフチンの言うグロテスクである。バフチンは、グロテスクを大衆的な笑いの原理、生活の物質的・肉体的原理、アンビヴァレントな価値を併せ持つ変化の両極性、再生と復活のユートピア性を持つと規定し、宗教の厳格性や学問の抽象性をこととするお堅い文学と対抗させた。

開明的エリート、純粋理性の高みに舞い上がろうとする芸術は、原始的で過去という泥沼に浸り暗黒の洞窟に永遠に閉ざされた芸術と並置されるべきだとクリークルは述べる。そして、自分たちの時代は全体主義の時代だったと喝破する。ファシズム、ナチズム、コミュニズムのイデオロギーは、科学的ないしエセ科学的傾向に、善と悪との宗教的二元論、古色蒼然たるメシアニズムを抱き合わせにした。地球の表面から劣等種族や劣等階級といった人類の一切悪を抹消し、究極の楽園を目指すという新たな黙示録的な「啓示」は、空前の堕落退廃をもたらし、数百万人が隷属に置かれ、油虫のように撲殺されたという。国という国が幼稚園児のキャンプの水準に引きずり落され、新たな暴政はありとあらゆるものの品質を低下させ、人々を幼稚化し、個人間、社会間に野獣性をもたらしたと断言するのである。シュルツの壮年時代は、そんな暗黒に塗りつぶされていったのである。

 

ブルーノ・シュルツ全集 2
「書簡篇」「解説篇」

戦争がやって来る。ドホロビチはソ連の赤軍によって占領された。かつて同じオーストリア・ハンガリー帝国の東端であったチェルノヴィッツ(現ウクライナ)とまるで判を押したように同じ運命をたどる。そこはパウル・ツェランの故郷だった。次いで1941年、ドホロビチをナチス・ドイツが占領する。シュルツ一家はゲットーへ強制的に立ち退かされた。

翌年、シュルツはドホロビチのユダヤ人評議会の指示でゲシュタポ所属の図書館で働くようになる。イエズス会の蔵書をカタログに残して保存するか廃棄処分にするかを仕分ける作業だった。絵描きとして奉仕させられることもあったようだが、強制労働に比較すれば楽な作業だった。ワルシャワへの脱出の話もあったのに踏み切れず先延ばしにしていた。家族や自分の作品をどうするかを気に病んでいたようだ。同じ図書館で働いていたルボヴィェツキは手紙にシュルツの最後をこう書いている。

それは、1942年の「黒い木曜日」と呼ばれる日だった。私たち二人はたまたま食料の買い出しのためにゲットー内にいた。突然、銃声が鳴り響き、逃げ惑うユダヤ人たちを見た。私たちも急いで逃げたが、体力の弱っていたシュルツはゲシュタポの一人に追いつかれ、頭に二発の弾丸を撃ち込まれた(『ブルーノ・シュルツ全集 2』)。

後の調査によると「黒い木曜日」の大量殺戮は、追い詰められたユダヤ人がゲシュタポの一人に軽い傷を負わせた報復だったようだ。人々は油虫のように殺された。シュルツは、その日汽車でワルシャワへ逃れる予定だったという。その最後の別れのシーンをシュルツの元生徒だったグルスキは、小柄な、いっそう痩せてしまった先生のシルエットが、いかにも心細げにゆっくりとした足取りで遠ざかっていったと回想している。そして、痛々しさと共に身を固くしながら立ち尽くす自分の姿を感じていたという。

 

ブルーノ・シュルツ『自画像』1920~1922年

自分の作品を分散して人に預け、家族を気遣いながらゲットーで非業の死を遂げたシュルツ。彼は、リルケやトーマス・マンの著作を愛していた。とりわけ、マンの作品を智と夢の純乎としたエッセンス、至賢の最的確な言葉で捉えた非合理性(夢)と称えた。そのシュルツの言葉を最後にご紹介してこのブログを終わろうと思う。訳も素晴らしい。

「書物」‥‥‥どこか幼年時代の暁、人生そのものの明け方に、この「書物」の優しい光に地平が明るんだのだった。それは栄光に満ちて父の事務机の上に載っていた。黙ってその本に見入りながら父が、唾をつけた一本指であれらの写し絵の背を丹念にこすりつけているうちに、やがて盲目の紙片は靄 (もや) を帯び、薄くぼやけ始め、甘味な予感によって微光を放ち出し、にわかに薄紙のけばだちが剥げ落ちると、紙は孔雀の羽の玉模様を思わせる睫毛のある片影をわずかに覗かせた、すると視覚は失神しかけながら、神々しい色合いのけがれ知らぬ夜明けのなかへ、純潔の藍色の奇蹟の湿りのなかへ降りていった(『砂時計サナトリウム』から「書物」工藤幸雄 訳)。

 

 

参考文献

J. M. クッツェー『続・世界文学論集』
シュルツやヒメーネスなどあまり馴染みのない作家の文学論も読める。

フランツ・カフカ『変身』   池内紀 訳

 

 

 

 

 

 

チャールズ・サイフェ『宇宙を複号 (デコード) する』 エントロピーとデコヒーレンス

 

チャールズ・サイフェ『宇宙を複号 (デコード) する』 2007年刊    Charles Seife

相手に何かを伝えたい、コミュニケーションしたいという衝動は、群れて生活するものにとって切実である。非常事態宣言が出て外出自粛になっても、知り合いがスーパーにいれば、ついつい話し込んでしまうのは人情だ。そのコミュニケーションが、いつの頃か情報と呼ばれるようになる。他人と情報交換したいという欲求は文字の発明と同様に、あるいは人が言葉らしきものを操るようになる時期よりも古い衝動であるかもしれない。しかし、面白いのは、買い物という物を買う行為と互いに話し込むという情報交換がセットになって生じている事態だった。物と情報はセットになっている。その象徴的な場面と言える。ちょっと、コジツケたけれど、それは、互いに相補的と言えるんじゃないのかな。

今回は、情報の著作のうちで量子と縁の深いものをご紹介したいと思っている。とても良い本に巡り合った。チャールズ・サイフェの『宇宙を複号 (デコード) する』である。

前回量子世界は表象可能か」量子論が情報論へと傾斜してゆく端緒となった観測問題と量子もつれについてご紹介した。今回はその延長線上にあるので、もし、前回の記事を読んでない方は是非読まれることをお勧めします。今回は、熱力学の第二法則という僕にとって分かったようで分からない法則が、意外にもクロード・シャノンの情報論とシンクロし、あまつさえ量子の世界と連動していくという、臓器を再生できる iPS 細胞張りの破天荒へと(いや、失礼)、奇想天外へと(これも、まずい)、世紀の発見へと誘われるのである。しかし、本書が僕に大きなインパクトを与えたのは、量子という契機から世界を情報という観点で見た時にどのように見えるのかを概括しようとしていることにある。これはとてもレアな観点じゃないか! と思ったのである。ともあれ、一度読むことをお勧めします。

チャールズ・サイフェはアメリカ生まれのジャーナリズム論の研究者である。エール大学大学院で数学を学んだあと、コロンビア大学に移りジャーナリズム論で博士号を取得している。その後、サイエンスライターとなって「エコノミスト」「サイエンティフィック・アメリカン」「サイエンス」などに寄稿しはじめ、1997年~2000年まで「ニュー・サイエンティスト」の記者を務めていた。その後、ニューヨーク大学でジャーナリズム論の教鞭を執っている。著書に『異端のゼロ』があり、『Alpfa&Omega』でPEN/マーサ・アルブランド賞を受賞している。ただのサイエンスライターというだけでなく、ジャーナリズム論を研究しているというのが魅力的だ。なんせ文章が上手い。

 


熱力学は蒸気機関の研究から19世紀に夜明けを迎えた。その世紀の終りにはエントロピーと呼ばれる熱力学の第二法則が古典的物理学に最初の楔を打ち込んだ。しかし、決定的な一撃はボルツマンがこの熱力学に統計学的な確率をもたらしたことによって起こる。そのエントロピーとは何か。確率が導入されるとはどのような意味があるのかが極めて明快に説明される。


 

カルノーとクラジウスとボルツマンの熱

18世紀の終り頃、パリに生まれたサディ・カルノー(1796-1832) は、軍人、政治家、技術者、数学者といった多様な面を持ち合わせた有能な若者だった。軍隊を嫌い、熱機関に研究に没頭するようになる。とりわけ、蒸気機関の熱効率の限界と最大化を研究したことで知られる。経験的な事実のみから熱は運動に変換されることを発見し、気体と熱とに関する法則を打ち立てたが、天才の薄命はいつの世にも惜しまれた。

こんどは、イギリスのジェームズ・プレスコット・ジュール (1818-1889) によって熱の仕事量の値が定式化される。それによって熱量の単位はジュールと呼ばれる。やがて、ドイツのルドルフ・クラジウス によって重要な二つの法則が打ち出された。熱エネルギーと仕事は互いに転換できる。これが、エネルギー保存則の一端である熱力学の第一法則である。器の中の温度が下がって周りの空気の温度と同じになることを熱平衡状態というが、元に戻れない不可逆的変化を示している。熱が常に温度差を失くす傾向を示して高温から低温へと移り変わるのを熱力学の第二法則とした。外からの熱の移動がない限りその逆は起こらない。それを、閉じた系ではエントロピーが時間的に増加するという。僕にとって分かるようでよく分からない法則だった。

1884年、ウィーンに生まれたルートヴィッヒ・ボルツマンは社交下手だが優秀な物理学者だった。イギリスのジェームズ・クラーク・マクスウェルが気体の中で様々な速さで運動する原子が、ある速さで動く確率を少しズングリした釣り鐘型 (ベルカーブ) の分布で表した。それは、マクスウェル-ボルツマン分布と呼ばれている。ボルツマンの名がこの分布と結び付けられたのは、彼が数学的にそのことを証明したからである。気体は少しの間ほっておくとすぐに不可逆的平衡状態になりこの分布に沿ったありかたをする。しかし、それは実験に基づくものでなく純粋な推論であり数学的な定理としてしか見なされなかった

彼は、物理に確立と統計を導入したのである。この第二法則には統計的な要素があることが明らかにされる。それは物理法則の土台を掘り崩すような不安を周囲に与えるものだった。ここでは、法則は「成り立つこともある」程度の確実性しか持たないことになるのである。極めて重要な要素を物理の世界に導入したにも関わらず、評価は冷ややかなものであったのだろう。それにマクスウェルの悪魔が追いうちをかけた。熱力学の第二法則は、人間に何ができないかを思い知らせた。永久機関は不可能であり、エネルギーは無から作ることは出来ないと裁可が下されたのである。エントロピーは普通、高くなるほど乱雑さが増すと表現されるが、これは間違っている。これをサイフェが巧みに説明しているのでご紹介する。

 

エントロピーと確率

図1 二つに仕切られた箱と豆の入る確率

図1 二つの豆 (本書ではおはじきになっている) を真ん中で仕切られた箱に少し離れた所から投げ入れてみる。1.一つ目の豆も二つ目の豆も箱の仕切りの右側に落ちた。2.一つ目は右側に二つ目は左側に落ちた。3.一つ目は左側に二つ目は右側に落ちた。4.一つ目も二つ目も仕切りの左側に落ちた。これらは全て等しく25%の確率で起きる。豆が互いに区別できないとすると豆が仕切られた箱のそれぞれの側に入る確率は、25%、50%、25%になるのである。

図2 今度は投げ入れる豆を4つに増やしてみる。結果は16通りあるが、豆が区別できなければ5つの場合に分けられる。1.右が4つ。2.右が3つ、左が1つ。3.右が2つ、左も2つ。4.右が1つ、左が3つ。5.左が4つ。これをグラフに表すと確率分布を表現できることになる。投げる豆の数を増やせば増やすほど、分布は釣り鐘状のベルカーブに近づいてくる。最も確率が高いのは豆の半分が箱の右側、半分が左側に落ちるケースで、最も確率が低いのは豆が全て右半分、あるいは全て左半分にある場合である。

図2 二つに仕切られた箱に4つの豆が入る確率

どのくらい低いかをみてみよう。豆1024個をでたらめに箱に放り込んでみる。外さずに入れるのは至難の業かもしれないが、箱の片側に全ての豆が入る確率は10の290乗分の1となる。ちなみの観測可能な宇宙の原子の数は10の80乗個くらいしかないらしい。仕切りの片側にすべての豆が入ることが数学的には全くないとは言えないが、事実上はないと言ってよいだろう。

ここで、重要なのは、この箱と豆から成る系におけるエントロピーとは箱の中の豆がなんらかの配置をとる確率ということなのである。ある塊の量をはかれば、はかりの示す数字はその塊の中にどれだけの物質があるのかという尺度になる。カップ内のお茶に入れた温度計の数値は、お茶の中の分子がどれくらいの速さで動いているかという尺度である。エントロピーとは温度や質量と同じく物質の塊に備わっているある性質の尺度なのである。これは、けっして乱雑さの度合いのことではない。ただ、エントロピーが特殊なのは、質量や速度といったものよりも数量化しにくい。物質の集まり全体の配置をある幅を持った確率によって表現するからだとサイフェは言う。

図3 仕切った箱に区別できない1024個の豆を投げ入れた時にあらわれる確率分布

図3のように豆を1024個、箱に投げ入れた時、最も生じそうな結果は箱の両側に512個くらいがある状態で、最もエントロピーが高く、最もありそうにない結果は片側にのみ1024個ある場合で、最もエントロピーが低い。

空っぽの容器にヘリウム原子を1024個入れて放っておくとブラウン運動で拡散して容器を覗けば半分は右側に半分は左側にあるような分布になる。それが最も起こりやすい確率で、エントロピーの最も高い状態、つまり一様に分布している状態である。それが一旦起きると元に戻ることがない。つまり、時間の矢が存在していることになる。その矢は、イリヤ・プリゴジンが『確実性の終焉』で述べているように新たな科学の契機となるのである。カオス理論や複雑系といった非線形性科学の流れが形成されてゆく。

しかし、極く小さな系では極端な分布を見せることが時としてある。ラテックスと呼ばれる天然ゴムのような乳濁液がある。その中の微細な粒子をレーザーで小さな領域に押し込めて、解放後に系のエントロピーの推移を観察する。たいていは、エントロピーは増大するが、ごくたまに隅にかたまってエントロピーの減少を見せた。第二法則の破れだとして騒がれたこともあるらしいが、それは4つしかない豆を箱に投げ込む時と同じで、最も起こりにくい確率が小さな系では起こり得る。量子のようなスケールでは、真空の揺らぎと呼ばれるごく短い間に素粒子がパッと出現し消滅するような事象が起こってエントロピーが破れているように見えるが、それはこの場合と同じことなのだ。サイフェの説明はとても的確なもので感心することしきりだ。熱力学の第二法則がやっと腑に落ちた。エントロピーとは物質が空間に位置する時の起こりやすさの確率を示している。

ボルツマンによって20世紀の科学、とりわけその後半にとって重要な発見がなされていた。彼の周囲はそのことに気づかなかった。ボルツマンは、熱力学から最強の物理法則とサイフェが呼ぶ情報理論が生まれるのを見ることなく自ら命を絶ったのである。彼の墓石には S = k log Wという極めて簡潔な式が刻まれていた。Sは両側に豆が512個あるといった配置のエントロピーを指し、kはボルツマン定数、ある配置が現れる確率をWが指している。

 


ボルツマンの方程式は意外な方向からその有効性が確認されることになる。それがクロード・シャノンの情報理論である。それは、他人の空似ではないかという指摘もあった。しかし、それが決定的に等しいと思わせた要因は、皮肉にもボルツマンを悩ませたマクスウェルの悪魔だったのである。何故なら、情報論もまた物理的実在と不可分であったからである。


マクスウェルの悪魔

マクスウェルの悪魔

1871年頃のこと、電磁場のモデルを定式化したイギリスのマクスウェルは、ミクロな情報が分かれば、エネルギーを低温部から高温部へと移動させることが可能だとした。この破天荒な説には、ミクロの分子運動が見える小人のデーモンが登場する。一定の温度の気体が入った箱を仕切りで二つの空間に分ける。仕切りには穴があり、そこを通過する分子をデーモンが見張っている。デーモンは通過しようとする分子の速度が平均以下なら左側に集め、平均以上なら右側に集める。こうすると箱の左右を温度の異なる空間に分けることが理論上は可能となる。必要な分子なら穴のゲートを開けて通過させ、不要な分子はゲートを閉じて通過させない。ゲート制御のエネルギーは無限小にできるとする。

重要なのは、エネルギーは保存されていて第一法則は満たしているが、低温部から高温部へエネルギーを持ち出すからエントロピーは減少していて第二法則に矛盾するのである。この問題は一世紀以上も科学者たちを悩ませた。ボルツマンにも、このマクスウェルの悪魔を退散させることが出来なかったのである。

1948年有能なアメリカの技術者であり数学者であるクロード・シャノンが、情報は測定でき数量化できることに気がつく。この時、情報革命が始まった。そして、マクスウェルの悪魔の息の根は止められたのである。

情報とエントロピー

シャノンはベル研究所で、一本の電話回線に幾つくらいの通話を流すことが適当か、それを計算するにはどうしたらよいかを考えていた。まず、問いと答えという領域からこの考察は始まる。単純な問いでは二者択一のイエス・ノー・クエスチョンとなる。コインを投げて出たのは表か裏か、白鳳は今日負けたか勝ったか、物価は上がったか下がったかなどなどである。このような問いの答えは二つの記号で表せる。T (真) と F (偽) 、YとN、1と0というわけだ。二つの値のどちらかを記号一個で答えられる。それが二進数の記号、つまりビットである。

シャノンが1948年「コミュニケーション数学論理」で初めて使って以来ビットが情報の基本単位となった。4つの答えがあるなら、0001、1011の2ビットで答えを表せる。8通りの答えなら、000、001、010、011、100、101、110、111というふうに3ビットとなる。1から1000までの中で私が頭に描いている数を当ててもらうとする。あてずっぽうを言っても正しい答えである見込みは1000分の一に過ぎない。しかし、「500より小さい?」「250より大きい?」という問いを投げかけると10回目の質問で100%正しい回答が得られるのである。シャノンは答えの可能性がN通りある問い x には x = log N ビットしか要らないことを発見したのである。これはボルツマンの式と本質的に同じものだ。

書かれた言葉は記号の連なりであって、その記号はビットで書き表せる。アルファベットなら26文字だから5ビット弱で表現可能となり、漢字はもっと多くて16ビットらしい。こうなると、どんな情報もビットで表現できることになる。逆に考えれば文字の連なりから最大限含まれる情報を見積ることができる。

ボルツマンが、1877年に原子群の運動状態数の対数が熱力学で導入されたエントロピーであると再定義していたことは先に述べた。シャノンが情報量を対数で表現するアイデアをフォン・ノイマンに話したら、ノイマンは一言「それはエントロピーのことだ」と言ったらしい(佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』)。

サイフェの『宇宙を複号 (デコード) する』に戻ります。0、1の数字の連なりが、50%が0、50%が1である場合、その0,1の配列は最もランダムである。それは多くの情報を伝えることが出来る。シャノン・エントロピーが最も高いと言える。逆に00000‥‥や11111‥‥の場合はランダムではなく伝えられる情報はわずかである。これはエントロピーが低いと考えられる。もし、その75%が0、その25%が1であるなら、逆でも良いのだけれどシャノン・エントロピーは中程度となる。ここからサイフェは熱力学のエントロピーと情報とは双子の兄弟だというのである。ここの説明は絶妙だ。これだけでもこの本を読む価値がある。シャノン・エントロピーとは1,0の記号の連なりがどれくらいの情報を伝えられるかという尺度なのである。しかし、情報理論が真に革命的だったと言えるのは、物理的世界との確固とした絆を持っていたことだった。

マクスウェルの悪魔死す

1929年にハンガリー生まれのレオ・シラードは、マクスウェルの悪魔の改訂版である「シラードの悪魔」を創り出した。あれこれ分析している内に悪魔が扉を開いて、この原子を入れよう、この原子は入れさせないと観測することによって何らかの情報を引き出しているのだが、測定という行為によって何らかのエントロピーを増大させているのではないかと考えるに至る。情報を得るのに必要なのは、情報1ビットにつき kTlog2 ジュールであることが分かった。Kはボルツマン定数、Tは原子の入っている部屋の温度である。それによって宇宙のエントロピーは増大し、箱の中のエントロピーを減らそうとする悪魔の努力は水の泡となるのである。ここで、熱力学のエントロピーは情報と結びつくらしいということが示唆される。

1951年、フランスの物理学者レオン・ブリュアンがシャノン流の情報エントロピーによって原子の熱力学的エントロピーの振舞いを説明したのである。こんな具合だった。悪魔は原子を測定するための道具を必要とする。原子に当たってはね返ってくる情報、つまり、熱いか冷たいかという二者択一の問いに対する答えによって扉の開閉を判断しアクションする。ブリュアンは、受け取った情報に基づいて行動するという行為は悪魔が減らしたのと同じだけのエントロピーを増加させてしまうと考えた。

そして、1961年、観測によってエントロピーを消費するという現象はコンピューターの情報を消去することに繋がることをIBMのロルフ・ランダウア―(1927-1999)が、次いで1982年に同じくIBMのチャールズ・ベネットが示した。コンピューターがエルネギーを消費せずに情報処理することは可能だが、ビットを消去するためにはエネルギーの対価を必要とし、熱の消費が必要とされることを明らかにした。ここは、量子の観測問題と絡んで面白い所だ。メモリーのなかのビットを利用して扉を開けるか、閉めるかというプログラムを実行する。有限なメモリーを使い果たせば、データを取り除くためにメモリーポジションを消去しなければならない。熱を生み出してエントロピーを放出していることになる。それは、不可逆的な過程だった。悪魔が作業を続け、情報でメモリーを満たしていられるのは次の新たな測定と作業までということになるのだ。

ついでに言うと、ビットを消去するための電力消費による熱量は大した量ではない。ちなみにパソコンが熱くなる理由なのだけれど、CPUでは細かく充電や放電して「0,1」状態を作っている。だが、回路を作動させるための電力消費、トランジスターから不要に流れる電流、またその導線による抵抗といった理由で発熱している。けっこうな熱がでているのだが、スーパーコンピューターとなるとその比ではないらしく、コンピューターの作動と冷却のためにとなりに発電所が必要になるくらいだという。

 


サイフェの情報論は、ここで一気に拡大してゆく。情報とは何かが洗い出される。量子の測定 (物理実験の観測とはいささかニュアンスが異なる) という問題は実は自然の止むことのない性向であり、けっして留まるとことがないという。量子の重ね合わせともつれは今や量子コンピューターを開発する要となっているが、微視的存在が測定によって重ね合わせが壊れてゆくように巨視的存在も外界との触れ合うことで重ね合わせは壊れる。そのことによって情報は環境に流れ出してしまうのである。実はそれが観測問題の要点だった。


 

情報移転という情報

英語圏には、やかんをずっと見守っているとなかなかお湯が沸かないという諺があるらしい。昔の人の知恵というのは、あながち馬鹿にできない。ここでサイフェは非常に面白い例を挙げている。放射性原子を見続ける、つまり観測し続けているとその崩壊を防ぐことが出来るというのだ。これを「量子ゼノン効果」という。純粋に崩壊していない状態を(0)、純粋に崩壊した状態を(1)とすると、前回の量子世界は表象可能か」で述べたように放射性原子のような量子は重ね合わせの状態にあるので、崩壊していない0の状態と崩壊している1の状態は重ね合わされた状態になっている。シュレディンガーの猫が生きている状態と死んでいる状態が重ね合わされていると同じだ。もっともシュレディンガーはそれに皮肉を込めていた。

この放射性原子の重ね合わされた状態は、[100%]0&[0%]1という状態から[85%]0&[25%]1、あるいは[0.1%]0&[99.9%]1など色々の状態が重ね合わされているのであって、崩壊すれば最終的に[0%]0&[100%]1という状態になる。しかし、これに光を当てて測定を繰り返すと崩壊していないのだから100%(0)になる。それによって重ね合わせは崩壊し[100%]0&[0%]1状態に戻ってしまうのである。測定という行為は、情報を移転させることであり、物理現象に作用していることになる。量子情報は物質がどう振る舞うかを支配する法則と結びついているというのである。

超伝導量子ビットに基づく量子コンピューター
IBMリサーチ、チューリッヒ

量子コンピューター 

量子の持つ重ね合わせの性質を使ってコンピューターを作ろうと現在色々考えられている。量子スピンの上か下か、光子の偏光の向きの縦か横かにビット情報である0と1を割り当てると、量子を情報として扱える。それを量子 (Quantum) という名からキュービットと呼ぶ。量子の重ね合わせともつれを使うと一度に一つの質問をしていちいち計算して答えを出すのではなく一度にすべての質問を出し計算させることが可能になるという。

1000の中のどれか一つを選んで、その数を当てようとしてもらうとYES・NOクウェスチョンを10回行えば答えが出るので古典的なコンピューターでは10ビットのメモリーがあればよいことになる。しかし、キュービットを使うグローヴァ―のアルゴリズムでは4つで済むのである。四つのキュービットは初め釣り合いの取れた[50%]0&[50%]1という状態になっている。それを測定すると一つ目のキュービットが0か1かである確率は50%50%となる。この四つはもつれによって繋がっているので ([50%]0&[50%]1)([50%]0&[50%]1)([50%]0&[50%]1)([50%]0&[50%]1) という状態である。

0と1の四つの組合せは、0000~1111まで16通りあり、この四つのキュービットには16通りの組み合わせが重ね合わされている状態にある。ここが大切な所です。次のステップは重ね合わされたこれらの対象を数学的な処理によってあるカギ穴に相当するものに詰め込むとそれぞれのキュービットの確率は50%50%からより正しい確率に変化する。例えば ([25%]0&[75%]1)([750%]0&[25%]1)([75%]0&[25%]1)([25%]0&[75%]1) といった感じだ。2回カギ穴に通すだけで正しい答えが得られるというものだ。

1998年の最初期の量子コンピューターでは、原子のスピンを強力な磁場で制御して原子のスピンにグローヴァ―のアルゴリズムに対応するダンスをさせて (磁気的に制御して) 正しい答えを導きだしている。しかし、その進展は、順調とは言えないようだ。例えば、光子は1秒間に地球を7周半する。そんな落ち着きのないものを計算の間じっとさせておくのは難しいのである。だが、量子コンピューターの可能性は大きい。例えば30キュービットのコンピューターでは0,1の二つの値で示せる数は2の30乗個となり、全世界の人口の数が表せることになる。キュービットが増えると指数関数的に計算のスピードは速くなり、素因数分解が異様なスピードで出来るようになるらしいが今は置いておく。

自然は測定を行い情報は流れ出す

サイフェは科学者は宇宙に意識があるとは考えないし、小さな悪魔が測定器具を持って駆けまわっているとも考えないが、自然はある意味、絶えずあらゆるものを測定していると確信しているという。測定というのは相互の働きかけくらいに考えてもらえば良いと思う。素粒子レベルでは何もない空間から粒子が絶え間なくパッと現れては消滅する。ハイゼンベルクの不確定性原理はこのゆらぎによって起こるとサイフェは考えている。位置と運動量という相補性は、エネルギーと時間という問題に比較することができる。空間のエネルギーがゼロなら相補性によりそのエルギーを維持する時間の情報は得られない。測定できないほどの一瞬エネルギーはない。そのあとエネルギーはいくらかなければならないのである。こうして空っぽの空間はエネルギーや運動量を持つのである。ズームイン領域が小さくなるほど粒子は多く、寿命は短く、エネルギーは大きい、これらの粒子は絶えずぶつかりあい、自分が出会った物体の情報を集め、それを環境に広め、真空の中に姿を消すという。

自然はそのような粒子たちに測定を行わせており、それをやめさせるのは不可能だという。ただ、その測定はその情報がどのように保存され、ある場所からある場所に移転するのか、そして散逸するのか。その法則を理解すれば何故量子は一度に二つの場所にいられるのか、量子は猫のような巨視的物体とは何故異なるかが理解できるという。木には星々の光子が降り注ぎ太陽からの熱が届けられる。サイフェは量子と同様に木に光が当たるのは自然による測定であり、その情報は相互に受け取られ、環境に広がってゆくというのである。

フラーレン分子模型
炭素原子60個からなるC60フラーレンはハロルド・クロトー、リチャード・スモーリー、ロバート・カールによって1985年に発見された。

アントン・ツァイリンガーは、フラーレンのような大きな分子も重ね合わせの状態におくことが出来ることを実験によって証明した。しかし、フラーレンも窒素分子などのあれこれとぶつかるとその窒素分子はフラーレンを測定することになり、その情報を得ると二つの分子はいくらか「からみあう」という。ここで、窒素の軌道を測定するとフラーレンがどこにあるかの情報が得られる。次は酸素とぶつかって‥‥ このようにフラーレンは環境ともつれあうことによってその情報は遠くまで広がってゆく。

フラーレンから情報が流れだせば、フラーレンの波動は収束して重ね合わせの状態を維持できなくなる時がくる (それには実験物理で言う観測や後に述べる多世界解釈における世界の分岐という契機が必要だとする説もある)。ある対象から環境に情報が流れだすことをデコヒーレンスと呼ぶ (一般には外部環境からの揺動や散逸によって量子の重ね合わせ状態が壊れることをさす)。このデコヒーレンスが、量子とシュレディンガーの猫とを分ける鍵になるという。もし、猫からの情報一切を環境に流れ出すことを防げることができれば、本当に生きていて死んでもいる猫を創り出すことが出来るというのだ。しかし、完全な孤立系の猫などあり得ないし、巨視的物体の重ね合わせ状態はいとも簡単に崩壊する。いわば環境エーテルへの情報流出と呼ぶものから巨視的な物体は逃れることができないのである。

ここで、またサイフェは重要なことを漏らす。気体の原子を容器中の隅に置くとたちまち広がって容器全体を満たし系のエントロピーはたちまち増大する。同じように物体の情報は粒子のランダムな運動とゆらぎによってその情報が広がり環境に散らばっていくという。エントロピーと同じくデコヒーレンスも一方通行であり、時間の矢を持つのである。違いは後者が、系の平衡状態にあっても流出が起きているということである。デコヒーレンスを新たな法則と考えれば、この法則には熱力学と相対性理論と量子力学の不思議な現象の説明が隠されているという。

 


相対論は情報が光より速く届けられないという掟を残した。実は光を超える速さで移動する光パルスというようなものも存在する。しかしそれに情報を乗せても、検出器がその情報を見分ける時間も相対論的ゆがみの中で伸びるのだ。情報は光の速さを超えることはできないのである。しかし、サイフェにとって大きな障壁、その最も手ごわい敵はブラックホールだった。その中で情報が消え去ってしまうなら彼の情報論は整合性を失うのである。


 

ブラックホールの中の情報は消える?

楕円銀河M87の中心にあるブラックホール 2019年
直径100憶Km 温度の最高値 60億度

スティーヴン・ホーキング及びキップ・ソーンとジョン・プレスキルとの高名な賭けは、ブラックホールに落ちた情報は破壊されるか保存されるかというものだった。これは自然がどのような法則に従っているのかの核心を探るものだったのである。情報移転の速さは光の速さを超えないという相対論の制約は量子論のもつれと衝突したことは前回述べた。1970年に物理学者のフィリップ・エバーハートがもつれ合う量子、つまりEPR対を使って光より速く情報を伝送することが不可能であることを数学的に証明した。二つは互いに影響を与えるのではなく、同時に収縮するのである。量子もつれは、以前は理解不能だったが、アインシュタインの遺産はそれに劣らず悪夢だった。それがブラックホールである。

ジョン・ホイラーがその名を広めたブラックホールは時空の基本構造にぱっくり口を開けた傷、物質を飲み込むにつれて大きくなる無底である。太陽の何十倍、何百倍の質量は一点に詰め込まれる。密度は無限大で空間と時間の曲率が限りなく大きくなる点である。このブラックホールに探査機が下りてゆく。ビーという音を定期的に発する。しかし、事象の地平を超える。それでもビーは発せられる。この信号は探査機が何を見ているかの情報を含んでいるのである。そして中心に飲み込まれて姿を消す。問題なのは、このメッセージが探査機を送り出した母船に届かないことだ。相対性理論では重力は時間と空間に影響を及ぼすので母船から見る探査機の時計は進み方が徐々に遅くなり、探査機自体もだんだん見えなくなってゆく。そして、メッセージの締めくくりである「今超えました」も届かない。ブラックホールでは情報も飲み込まれてしまうのだ。

レ・ズッシュ物理学校におけるキップ・ソーン
右から二人目 1972年

そこでは、情報は保存されないのか。ここが問題の焦点である。しかし、生き延びていると考える理由があるという。自然が情報を残そうとする最後の試みは意外にも真空のゆらぎから来る。このゆらぎにおいて生成される粒子は対粒子をなす傾向がある。ブラックホールの事象の地平の縁でもこの対粒子は何億も作られる。時として、その片方がブラックホールに取り込まれ、もう片方が取り残されることがある。なんでも飲み込むが、この兄弟を失った粒子の形で物質とエネルギーを空間に放出する。それはむらのない放射で黒体スペクトルと呼ばれる。黒体とは外部から入射する電磁波を、あらゆる波長にわたって完全に吸収し、また熱放射できる想像上の物体のことだった。その放射は微弱だが測定可能であるという。

ブラックホールに熱があるなら、それが小さくなると事象の地平を狭めながら熱くなり単位面積当たりの放射量は増加する。どんどん小さくなると放射するエルネギーは何処からか得なければならない。得るところは自分の質量しかないということになり、ブラックホールはやがて放射の閃光を放って消えてゆくのである。しかし、この爆発によって情報は放出される可能性が残されているかもしれない。ホーキングとソーンはこの蒸発が起これば情報は完全に消え去る方に賭け、プレスキルは常に純粋な量子状態になる方に賭けた。

2004年にホーキングはダブリンでの一般相対性理論会議で自分たちの負けを認め、情報がブラックホールによって不可逆的に破壊されることはあり得ないとした。こう言ったのである。「ブラックホールに飛び込めばその人の質量エネルギーは‥‥その人がどんなだったかという情報を含むごちゃごちゃした形で、容易に見分けられない状態となって、宇宙に帰るのです。(林大 訳)」情報はブラックホールの究極の力にも耐えて生き延びることができるようだ。そうなるとブラックホールにはエントロピーもあることになる。こうして、失意のうちに自死したボルツマンの勝利は決定的になるのだ。

2000年にMITの物理学者であるセス・ロイドは究極のラップトップコンピューターを思考実験した。装置の1キロあたり、1秒で行える計算数の最大値を割り出し、それを1リットルの空間に閉じこめたらおよそ、10の31乗ビットの情報量を保存・操作できるという結果を得た。しかし、情報の1ビットの操作にはそれだけ多くのエネルギーが必要になる。それで、ロイドはE=MC²に沿ってその質量全てをエネルギーに転換した。このラップトップコンピューターの質量は10億度のプラズマ球へと変身したのである。それを小さな空間に圧縮してブラックホールにした。おおっ! こうして読み出し不能ではあるがブラックホールコンピューターが完成する。人間の想像力には歯止めが無いらしい。彼の計算によると1キロのブラックホールが部分相互間で情報を伝達する時間は1キロの質量エネルギーで1ビットを反転処理する時間とぴったり同じだったのである。

 


最終章では多世界解釈が登場してサイフェの情報論は「唯情報論」となってゆく感がある。ホログラフィック原理で説明される宇宙はその膨大な情報を光的境界の上に記号化している可能性もある。多世界解釈はそのような膨大な情報を記憶する媒体としての宇宙を担保しうるのかもしれないのである。


 

ブラックホールは体積ではなく面積に比例する。その事象の地平の表面は二次元の平面で、そこに収まる情報は二次元に収まることになる。そういう意味でブラックホールはホログラムに似ている。ホログラムは光の持つ波のような性質を利用して作る特殊な写真である。弦理論の研究者であるオランダの物理学者ヘラルデュス・トホーフトはホログラフィー原理を提唱してブラックホールの物理を宇宙全体に広げたという。もし、このホログラフィー理論が正しくないとしてもレナード・サスキンドが証明したように物質とエネルギーのかたまりを表面積 A の想像上の球で包むと、その物質とエネルギーが保存できる情報量はせいぜい A/4 となる。これは情報学と熱力学から導かれ、ホログラフィック・バウンドと呼ばれる。しかし、そこでは、どんな小さな物質でさえ天文学的情報を記憶できる。それがホログラフィーの特質であるからだ。直径1cmの粒が10の66乗ビットを記憶できる。銀河にある原子の数に匹敵するという。

多世界解釈とは、ヒュー・エヴェレットが1957年にプリンストン大学の院生だった時にコペンハーゲン解釈の代替案としてひっそりと論文の中に書き入れていたものだった。この論の核心はシュレディンガーの波動方程式は実在し量子は一度に二か所に存在することができるというものである。1でもあり0でもある粒子は二枚の密着した透明なシートのそれぞれにある。観測者が観測を始めるとシートは1である粒子と0である粒子を乗せた二枚に分かれ、観測者も同時に二つに分かれる。分離した二つのシートは全く異なる宇宙であり、二人の観察者の意思疎通は出来ないし、自分が分離したことにも気づかない。

この多世界解釈は観測問題や量子もつれを矛盾なく説明できるが膨大で煩雑な別宇宙の存在を前提とするために認めたがらない物理学者も多い。それをサイフェはあえて取り上げる。ビックバン後の40万年後に生じた光が情報を運んでおよそ138億年後の今まで波動関数は宇宙のすべてのあらゆる情報を記憶しているのではないか。そして、その波動関数もまた無数にある。そして、もし、平行宇宙が存在するなら別宇宙の一つ一つにもそれらが存在することになる。そのような広大でめくるめく宇宙があるかもしれない。このパースペクティブは偉大と言えるだろう。情報は時間と空間の構造を作り上げているかもしれないのだ。一方で、生命もまた情報処理に頼っている。その限りにおいて有限な運命を免れることは出来ない。物理学は情報理論という道具を使って宇宙を、物質の根源を探ろうとしてきた。しかし、皮肉にもその情報理論は宇宙と生命の熱死を厳然と宣告するというのである。

反転する正四面体

バックミンスター・フラーは宇宙の最小単位システムを正四面体として表した。実はその四面体は逆方向にインバージョンできる。そのネガの正四面体に存在するのは情報だとしていた。物質と情報はセットになっている。彼の場合、その情報には精神性や霊性といったものも含まれている。物質や事象に、拡散するエントロピーとそれにに対抗する統合するシントロピーとがあるのと同様に、物と情報とは彼にとって相補的だった。サイフェは、情報とは物質的なものだという。彼のいう情報の中には精神性や霊性も含まれるのかどうかは本書だけでは判断できない。ジョン・ベルの言うように物理はテクニカルなものだ。そこに精神性が割り込むのは難しいかもしれない。でも、もしサイフェがこの情報論を哲学的に拡張していったら華厳や密教のような宇宙システムに創り上げることも可能ではないかと思わせるものがある。これは新たな情報宇宙論だ。面白い !

 

引用文献および参考図書

佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』2011年刊

イリヤ・プリゴジン『確実性の終焉』
自己組織化を発見したプリゴジンの新たな科学としての熱力学宣言

 

 

 

「量子世界は表象可能か」実在と観測/確率と情報

 

ケネス・フォード『量子的世界像 101の新知識』  2014年刊

電子には、大きさがない。現在分かっている限りでは内部構造を持たない。陽子の約2000分の一というわずかな質量はあるが大きさがない。電荷があり、スピンがあるのに大きさがない。大きさがないのにどうやって存在していられるのか。ケネス・フォードは、『量子的世界像 101の新知識』の中でそう問う。そして、こう答えるしかないという。量子論のもとでは、数学的な点として存在するものが、様々な物理的特性を持つことが出来るのであると。

考えてみると、そんな数学的な点のようなものの上に私たちの生活が成り立っている。机上の空論やヴァーチャルリアリティといったものではなく、全くの現実である。台風が来て電線が切れれば何日も明かりのない生活が続く。こうしてキーボードをたたいてコンピューターがそれをちゃんと記憶して、ネット上に配信してくれているのだから点と言ったってバカにできない。

量子論では仮想粒子と呼ばれる儚い粒子が絶えず生成されては消滅しているのだという。電子はそれらの儚い存在をお供に一緒に移動している。何人かのお供が加わり、何人かが絶えず抜けているような集団に例えられる。そんな集団として存在しているのだけれど、原子内の電子は原子全体に広がる確率波に支配されてもいる。電子はそこら中に広がっていることになる。それでも点として扱って全くうまくいっているというのだ。これって、不思議じゃないですか?

 

今回はある芸術家のマニフェストをある会で話さなければならなくなり、そのマニフェストと量子論が深く関わっているということから、ついに長らく避けていた量子力学について書くことと相成りました。しかし、書いているとなかなか面白い世界だということが再認識されてくれる。今回は、時に哲学論議も散見される佐藤文隆さんの『量子力学は世界を記述できるか』などの著書をいくつか織り交ぜてご紹介したいと思っている。数式は出てこないので物理嫌いという人もお付き合いください。

佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』2011年刊

20世紀初頭は、確かに血沸き肉躍るような知的挑戦で幕が上がり、それに対する凱歌が高らかに奏された時代である。その序奏は19世紀末の X線、放射線、原子、電子というミクロの世界の発見であった。19世紀は、産業革命と共に熱、音響、電磁気、化学、光などの実験が積み重ねられ、古典物理学と呼ばれる統一的な力学が確立された時代だった。その渦巻く知的興奮の中から相対論と量子力学という革命が起きたのである。1930年代以降は、この「知的革新」を引っ提げて物質の究極から宇宙の起源までの新しい対象を探求して新世界を発見したが、その成果の多くは、DNAから I T 関連のハードウェアーに至る技術革新に過ぎなかったと佐藤文隆氏は述べる。

相対論と量子力学という二大革命を比較すると量子力学が生み出したものは、はるかに巨大であるという。量子力学は物理や化学の現場で広く具体的な利用が拡大し続けている。しかし、相対論に比較して量子力学への関心はイマ一つだった言える。量子力学には最終的な落としどころが見えないからだ。それに対して相対論は19世紀的難問に対するきれいな答案であったために、ニュートン力学の権威崩壊という歴史的と言ってよい知的衝撃を生み出した。それは、講談調の痛快歴史物語であったという。それに比べて量子力学は、その知的痛快物語がまだ完結していないと言うのである。クォークは、6種類で三世代あるといわれても、そんな極小の世界には不思議なものがあるんだねで終わってしまうのだ。

 


光が波の性質を持つことが19世紀の初頭に発見されて以来、光が波なのか粒子なのかの議論が喧(かまびす)しくなる。物質に光を当てると光電子が飛び出すことから、アインシュタインは粒子としての性質を持つ光子であるとした。光や電波は電磁波の一種でもある。今度は、ド・ブロイが光子のように運動する物質粒子一般に波動現象があると波動説を拡張したのである。やがて、光の粒子を用いた二重スリット実験によって光は波でもあり、粒子でもあるということが検証される。


 

量子の波動性と粒子性

トーマス・ヤング(1773-1829)の光の干渉実験

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、微小な物質あるいはエネルギーの単位のことで、そのエネルギーが飛び飛びの整数倍の値しか取れないことからマックス・プランクによって量子と名づけられた。原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表的な量子だ。ニュートリノやクォーク、ミュオン、光子などといった素粒子も量子に含まれる。素粒子とは、それ以上分割できない最小単位の粒子のことである。量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)以下の小さな世界だ。このような世界では、古典的な二ュートン力学や電磁気学などの物理法則は通用しない、それは、量子力学によって支配される不思議な世界となっている。

二重スリット実験
上 電子の波動性によって生じる干渉模様 
下 電子を観測した時のスクリーン上の模様

光が波として振る舞うことは、二重スリットを通過すると背後のスクリーンに干渉縞を作ることでよく知られている。19世紀の初頭にイギリスでトーマス・ヤングが、平行な光が二重スリットを通ると水面の波のような干渉模様ができることを示した。電子や光子あるいはフラーレンといった分子の場合も同様で、電子銃から電子を一個ずつ発射しても波としての性質から干渉縞を作る(上段)。粒子としての電子は、波の全てに重ね合わされた状態で偏在していると考えることもできる。

ところがスリット付近に観測装置を置いてスリットを粒子としての電子がどのように通過するかを観測すると収縮 (後述) が起きて、電子は片方のスリットのみを通り干渉縞はできない。そのことで、スクリーンに電子が跡付けた点がどちらのスリットを通った電子であるかという情報を得たことになる。ここから光子が粒子としての性格と波としての性格の両方をもっていることが確かめられた。ルイ・ド・ブロイは、1924年に既に「波と粒子の二重性」という物質一般の性質として定式化していた。

すると、人間は個体であると同時に波なのかという疑問が起きてくる。量子の世界では速く動くほど波長が短くなる。私たちも波長を持っているが、量子サイズに比較して私たちの運動量は、はるかに大きいためその波長は極端に短く検出できないらしい(ケネス・フォード『量子的世界像 101の新知識』

シュレディンガー方程式/ψ

それまで、物質の位置と運動量は、観測すれば確定していたが、電子や光子などの量子は、位置か運動量、どちらかしか確定できないということが明らかになる。ハイゼンベルグの不確定性原理である。量子の波動状態を記述するシュレディンガー方程式が、オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレディンガーによって1926年に定式化された。それは、状態関数、あるいは波動関数ともよばれるが、ある状況下での量子の状態が確率分布によって表現される。それは、不確定性定理から導き出される。ド・ブロイによって物質が波動として表現されることが明らかにされていたから量子を波動の方程式として表すことは受け入れられやすかった。

この量子の波動状態とそれが時間と共にどのように変化するかが数式化される。このシュレディンガーの方程式は、ギリシア語の Ψ (プサイ) であらわされることからΨは量子力学のアイコン的存在となった。心理学では、超能力を表す記号であるが、それをシュレディンガーが意識していたかどうかは知らない。しかし、古典物理学の範疇からすれば、極めて不可思議なものであったことは確かだ。

量子が波動状態にある時、波のそれぞれの位置に粒子としての量子が同時に存在すると考える。存在の可能性が重ね合わせられた状態にある。それを観測すると変化している波動状態の一端が測定されることになる。その時、同時に存在していた粒子の他の情報は無視され、消去されると言っていい。これが「収縮」である。それでΨをくじ箱に例える物理学者もいる。

佐藤勝彦『量子論を楽しむ本』
2000年刊、非常に分かりやすく解説されているのだが、残念ながら新しい内容に乏しい。

ここからは佐藤勝彦さんの『量子論を楽しむ本』から波動関数についてご紹介する。波動関数ψには複素数が登場するが、虚数と実数を組み合わせた複素数は虚数と同様に想像上の数であり、複素数の波を表現しているψも同様に想像上の波である。次元の異なる波といったほうがよいかもしれない。これを想像したり、図示したりすることは困難である。しかし、シュレディンガー方程式は、水素原子中の電子のエネルギーといったものを実験結果の通りに説明できる。この方程式は実在する何かを表していると考えられているのである。

実数部分、あるいは虚数部分だけを取り出して図示することは原理的には可能であるという。点線で表した部分、つまり波の振幅にあたる部分が波動関数ψの大きさとなっているが、それぞれの場所での大きさも様々であることが分かる。電子の波は様々な場所に広がっているけれども、雲や霧のようにぼんやり広がっているとイメージするのは間違っている。電子は粒子として観測されるからである。我々が電子を観測すると電子の波は、収縮 してしまうのだが、収縮する前の波のように広がっている電子は「重ね合わせ」の状態にある。電子は、ある場所にいる状態と別の場所にいる状態とが重ね合わされている、あるいは共存している。

波動関数ψとイメージ図
iは虚数、hは素粒子のエネルギーと波長間の比例定数であるプランク定数、ψは波動関数、∂は微分の記号、Hは系全体のエネルギーを表すハミルトニアンをそれぞれ指している。

波動関数ψのイメージ図でいうとAの場所にいる状態、Bの場所にいる状態、Dの場所にいる状態などの様々な場所にいる状態が重なりあっている。ただし、Cの振幅ゼロの場所には電子はいない。電子はA点、B点のどちらにもいるというのではなくてどちらにいるかは確率的にしか言えないのです。振幅の大きいところの方が電子の発見される確率は高い。

この波動方程式は粒子の波を統計的な平均値で記述しているということになるのだろう。シュレディンガー方程式が三次元の空間を扱うのに対して時間を組み込んだディラック方程式が間もなく登場することになる。

 


不確定性とは、選択の自由だとも言える。いくつもの可能性の中から自由に一つが選ばれることだ。測定することによって量子に擾乱が起こり特定の結果が得られたのだという考えは、現在の厳密なハイテクの測定によって否定されることになる。この奇妙な不確定性は、ボーアのコペンハーゲン解釈によって救われた。生まれたばかりの量子力学という赤ん坊を産湯と一緒に流さないためには重要な注釈となったのである。コペンハーゲン解釈をご紹介する。


 

佐藤文隆の『量子力学は世界を記述できるか』から要約してご紹介しよう。Ψをくじ箱と考える。そこから、態度の決まらない量子が取りうる可能性のある幅と強さに関する確率情報を導きだせる。観測するとΨのくじ箱から引いた一つの結果が得られるのだ。くじを引くと多くの可能性が消えて、一つの情報に限定されるのである。これを「収縮」と呼んだ。ニールス・ボーアがシュレディンガー方程式に無理に組み入れた解釈である。一回引くと、くじ箱は一枚のくじ券に変身する。他のくじは消滅するのである。それを、佐藤氏は、やり直し厳禁、再起不能、未練一掃、証拠隠滅、残存物破棄と表現する。「可能性としての現実群が、その中の一つの現実に変身する」ことになる。くじを引く前は、それぞれの可能性足し算された束として「重ね合わせ状態」と表現される。シュレディンガー方程式は、可能性の重なった状態を表すΨが別の重なり方のΨに変動していく様子、つまり重ね合わせの係数の時間変化を記述することが出来る。

ほかのくじは、どうなったかを考え始めるとヒュー・エベレットの多世界解釈なども生まれる。「可能性としての現実群が全部残存するが、観測者が一つの可能性の世界に迷い込む」と考えるが、今は置いておく。

ボーアによる「Ψのコペンハーゲン解釈」を比喩的に解説すると上記のようになる。「収縮」という便法は観測によらないΨの変動の法則としては明らかに異物であった。つまり、Ψそのものが理論的には不整合であるということを認めることになるのだ。Ψの生みの親、シュレディンガーさえ疑問を持っていた。それで後に、有名な猫の思考実験を思いつくのである。ボーアは、量子力学を埋もれさせないために古典と量子の両世界の共存を図った。真実と不明瞭さは相補的であるとし、結局、不思議は不思議として、「深く考えずに慣れる」を提唱したわけである。

ボーアが守り通したコペンハーゲン解釈が、レーザーや半導体部品などを経て量子コンピューター、量子暗号・通信、量子計測、量子マテリアルなど、量子を使ったハイテクをもたらそうとしている。量子力学はツール化されていった。シュレディンガー方程式では、可能性の重なり具合は連続的に変動するのだが、量子は外部から制御可能であるという。制御可能であるから量子コンピューターなどを考えることができるのだが、「重なったままの量子状態」をそのまま変動させることが可能になっている。この変動ではAからBへの変化が可能なら、BからAへ戻すこともできる。これをユニタリーな変動と呼ぶ。外部からの量子への介入は制御と観測とがあり、制御には忠実に、観測にはランダムに振る舞うというのである。

制御と観測の違いは何かというと、回数の違いにある。このツール化が現在の繁栄をもたらしたのは、ミクロな過程を統計学的に扱ってきたからだと佐藤文隆氏は言う。一回の観測ではランダムな振る舞いだが、多数回事象の平均値にあたる反応率や平均寿命といったものが分かれば応用技術には十分であったのである。個々の原子や素粒子が観測される場合でも、問題にされるのは多数回事象の統計的なデータであった。

 


量子の振舞いが不確定で確率的であるなら、物理学が培ってきた因果性は否定されることになる。原因のない結果だとも考えることが出来るのである。それは、アインシュタインをひどく動揺させた。彼にとって物理は何故そうなるかを説明できる学問でなければならなかった。どのように因果性が否定されてきたか、その例をご紹介する。


 

ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』 2016年刊  ノン・フィクション風に人間模様が描かれて、量子論を面白く解説してくれている良書。

量子エンタングルメント(もつれ)

物質科学では空間的に離れた要素の間に相関がある場合は、その間に相関を維持している物質があると考える。この遠隔相関に関わる物理学には結構な歴史があるらしい。17世紀、デカルトは重力の遠隔作用は渦が宇宙空間を埋め尽くしていて、その連動で遠方に作用が伝わると考えた。これに対してニュートンは、空っぽの空間を重力作用は時間を要せず伝わるとしたが、なんとなく判然としない論争だった。19世紀になるとマックスウェル達が渦の代わりに空間に瀰漫するエーテルを想定して弾性体のように振る舞うエーテルの力学を方程式化する。20世紀初頭には、アインシュタインの相対性理論が、この「静止系」を連想させるエーテルを否定した。しかし、その後、素粒子における場の量子論ではエネルギーを秘めた一種の相対論的エーテルが復活した。そこでは明確な掟が定められている。「物理作用 (情報) の 伝搬には光速という上限値ある」というものであった。これがないと、原因結果の因果作用を曖昧にしか定義できなくなるのである。

相変わらず観測問題は物理学者を悩ませ続けていた。ヴォルフガング・パウリは「観測者は確認できない効果により新たな状況を生み出す」と考え、この観測者によって作られた状況が量子の「状態」であり、観測者は観測することで実在を作り出すのであるという。ちょっと考えただけではよくわからない解釈だった。観測の過程は形容しがたい法則性のない事象であって、その結果は「いかなる原因もない究極的な事実のようなもの」であるというのである。一方で、観測が唯一実在を保証するもので、それを超えるものは何であれ形而上学であるというのがアインシュタインやシュレディンガーのスタンスだった(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)。

このような思考実験を考えてみる。スピンがゼロの素粒子が崩壊して、二つの電子が生じて、異なる二つの方向に飛んでいくとする。この電子の片方が測定されて、上向きのスピンだと観測されると、同時にもう片方の電子は下向きのスピンであることが確定する。これは運動量の保存則によるもので、この場合は、回転する運動量、つまり角運動量が問題にされる。もとのスピンがゼロであるなら、分離した電子はその1/2の逆向きの等しいスピンでなければならないからだ。このスピンというのは厄介な代物なのだけれど、スピンの単位は光子などが1とされていて、電子やクォークのスピンは1/2とされている。このような離れた場所にある現象が相関する性質を非局所性と呼び、この量子の非局所性をシュレディンガーが量子もつれと呼んだ。量子エンタングルメントなどとも呼ばれる。

この二つの粒子の内、一方は地球にあり、もう一方をアンドロメダ銀河の恒星に移動したとする。すると、地球での観測で上向きのスピンが観測されたとして、アンドロメダ星雲の恒星にある粒子が下向きのスピンであることが確定される。測定されると、どちらの粒子が上向きか、下向きかが確率によって決まるというわけだ。地球から254万光年かなたにある粒子にこの情報が瞬時に届くには、光速を超える必要がある。光でさえ254万年かかるのだから対粒子のスピン方向が瞬時に変わるのは無理ではないのか。位置と運動量は分からないが、運動量差のようないくつかの条件を加えると局所的な別々の系として互いに片方の粒子に影響与えることなく観測可能になるんじゃないかというのがEPR仮説である。アインシュタイン、ポドルスキ―、ローゼンら物理学者の頭文字をとっている。

この隠れた条件を引き継いで発展させようとしたのはデヴィッド・ボームだった。かつて、1927年のソルヴェイ会議で耳が痛くなるような沈黙で迎えられたというド・ブロイの「パイロット波」を結果的に再解釈しようとするものだった。エーテル状の波の上を小枝のように粒子が流れるというふうに考える。彼は、離れて別々に存在する局所的な実在として粒子を分析しようとする前提を取り払おうとして新たなパイロット波のような存在を想定した。ボームは、結局この隠れた変数説を捨てることになり、後年、全体流動説という新たな渦を展開させていった。僕の大好きな説だ。

粒子のそれぞれの自転方向が観測されるまで二つの回転方向が重ね合わされている状態にある。どちらも表でどちらも裏であるような状態で回転しているコインに例えられるだろう。回転を止めて、床にころがって静止した時点でどちらが表か裏かが分かるという仕掛けに似ている。この判別できない状態から、片方の回転方向が観測された時に、いくら遠距離にあろうとも、もう一方も反対の回転方向に決定される。二つの粒子は一つの系の内部にあることになる。これは、古典的な物理法則とは相いれない事態だった。時間と空間の制約を受けていないことになる。何故かを問う物理学者には我慢のならないことだったのだ。

この量子もつれが、アインシュタインを後々まで悩ませる。彼は、物理量が測定するまで現実の実在性を持たないとするコペンハーゲン解釈の確率的な振る舞いに対して既に異を唱えていた。そして、この有名な言葉を吐露させる。「見ていようが見ていまいが月は確かに夜空にある。 神はサイコロをふってこの世界を創ったわけではない」と。見るというのは測定を含意している。その反論となるニールス・ボーアの回答は「神に向かってあれこれ指図するのはやめなさい 」であった。そのサイコロに、あたかも光速を超えるような情報伝達が加えられたことになるのである。量子にテレパシーでもないかぎり不可能に思えた。

 


観測問題と量子エンタングルメント (もつれ)は、確率と情報という問題に密接に関わってくる。観測問題の好例は、ブラックホールの名を広めたジョン・ホイーラーの思考実験である遅延選択実験である。 この思考実験は、アンドリュー・トラスコットによって実際に確かめられている。量子エンタングルメント(もつれ)の応用としては、量子テレポーテーションがある。アントン・ツァイリンガーがインスブルックの研究所で実現した。これらが現実に実験できるようになったのは、ハイテクの大いなる進歩によるものだ。


 

ジョン・ホイーラーの遅延選択実験 情報としての量子1

実験によってアンドロメダほどではないにしても隔てられた二つの量子のスピンが瞬時に確定することがアラン・アスペによって確かめられる。もっと驚くべきことは、観測すると収縮が起きるのであるが、観測から得られるデータをどちらの観測装置から得られたのか分からないような設定にしておくと収縮を起こさず観測しなかったのと同じ結果があらわれるというのである。1987年にジョン・ホイーラーによって考えられた仮説が、オーストラリアの物理学者アンドリュー・トラスコットの実験によって2015年に確認された。重要なことは、量子系では観測の結果がそこから取り出される情報の扱い如何によって変わってくるということである。

図はホイーラーの思考実験を概略図に示しているけれど、マッハ・ツェンダー干渉計と呼ばれる装置を応用している。やがて、量子消しゴム実験などの複雑な装置が考え出されるようになる。

遅延選択実験 概略図

1.では、光子という一つの量子が半透鏡Aを通ると透過して直進するか、反射されて向きを変えるかは、確率的に半々になる。半透鏡を通過した、あるいは反射された量子は鏡で向きを変え、それぞれ検出されてスクリーンに痕跡を残すが、何個かの量子を送り出せば、その形は点の集積としてのになる。

2.は1.と同様の装置だが、光子がスクリーンに到達する前に半透鏡Bが差し込まれる。光子がスクリーンに届くよりも速いスピードで差し込まなければならない。これを実現するためにトラスコットはデュアルレーザービームを使った。問題なのは、これが差し込まれるタイミングなのだ。

半透鏡Aで量子は粒子として収縮したと考えられる。それは、結果としてスクリーンにできた点の塊から分かる。もし、そうでなければ波としての性質によってスクリーンには干渉縞ができるはずである。ところで、半透鏡Aを通過して粒子として振る舞っているはずの光子が通る経路に半透鏡Bを差し込む。すると、粒子が直進するか反射されて方向を変えるかは確率的になる。量子がどの経路を通ったかは確かめることができない。ここでは、スクリーンに干渉縞が現れるようになるのである。

ジョン・ホイーラー(1911-2008) 後列左端  1963

粒子として行動しているはずなのに半透鏡Bによって波に変身したことになる。 これでは、未来の情報によって過去を書き換えたと解釈できることになるのである。これが遅延選択実験の名の由来になっているが、これは肯首しがたい。ここで、重要なのは、半透鏡Aによって透過して直進していた粒子と反射されて向きを変えた粒子の情報は、半透鏡Bによって確率的に振り分けられることによって、かつての進行方向の情報は混ぜ合わされてしまうことだ。すると、観測したのに観測しない場合と同じ干渉模様が生じるという結果になる。重要なのは観測した情報の扱われ方にあるということになる。

「ネイチャー」や「サイエンス」の編集者だったデヴィッド・リンドリ―は、『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』の中で、簡潔にこう述べている。光子が、どの道を通ったかを知りたければ、干渉縞を見ることはできず、干渉縞が見たいと思えば光子が通った道を知ることはできない。それは、この種の実験の配置について述べられる最低限の解釈であると。ここでもボーアの「相補性」に連れ戻されるというわけだ。

 

量子テレポーテーション 情報としての量子2

アントン・ツァイリンガー     Photo by Jacqueline Godany

量子のエンタングルメントを利用すると離れた場所に量子の持つ情報を転送できる。これを量子テレポーテーションと呼ぶ。量子を瞬間的に移動させることでは残念ながらない。ツァイリンガーは、高エネルギーのレーザー光子を結晶に当てることで、低エネルギーのもつれた光子を分離した。こうしてオーストリアのアルプスに囲まれた質素な研究所から毎年、画期的な研究が発表されるようになる。

1997年には「量子テレポーテーション」を実現させた。この量子テレポーテーションに期待されているのは、量子暗号の実現である。ここではツァイリンガーの実験より少し進んだものをご紹介する。

①量子エンタングル状態にある二つの光子Aと光子Bとを生成して長距離に離す。AはAliceの側にBは離れた土地のBobのもとにある。この二つは、互いに直交する偏光を持っていることだけは分かっている。一方が垂直向き↕と測定されると、片方は必ず水平向き↔である。どちらでもよいが、現在のコンピューターで言うビットの状態に合わせて垂直向きを↕ 0、水平向きを↔ 1としておこう。こうしておくと ↔ ↕ ↔ ↕ は、1010を示すことが出来るが今は1ビットのみを考える。それから、別に、ある情報を持つ光子Cを用意する。

量子テレポーテーション  この図は、2光子を用いたローマ大学の実験グループによって実施された実験

②AliceはAとCをベル測定してエンタングル状態を作り出す。情報科学の制御NOT演算に相当するという。方法としては半透鏡にAC二つの粒子を別方向から同時に通過させようとすると、1/2ずつの確率で通過あるいは反射する。結果の状態は大きく分けて二つで、2つの粒子が同じ方向に出るか、別々の方向に分かれるかである。いずれの場合でも同時に入射するので現れ出た粒子がどちらの粒子だったかは分からない。測定結果の情報は混ぜ合わされた状態にある。

③ Aは0or1、Cはまだ情報が分からない状態であるとして、0or1と考える。二つの粒子の重ね合わせの可能性は、古典物理の立場では00,01,10,11の組み合わせとなるが、量子力学ではもっと複雑な式が用いられる。その中の一つが測定されると、CとBは新たに重ね合わせ状態に変化する。この時、A、Cの量子状態は壊れてしまうが、Cの情報はBに瞬時に移されることになる。何故ならAはCと重ね合わされることによって反対の情報を持ち、AとBはエンタングル状態にあったのでAがエンタングルされてCと反対の情報を持てば、即C=Bとなるからである。

ベル測定 大きく分けて1.4.と2.3.とに大別できる。

④べル測定で得られた2ビットの情報を古典的な通信手段でAliceはBobに送ります。べつにAliceとBobでなくてもいいのだけれど、伝統に敬意を表してこうしておく。電話とかネットとか手紙とかなんでもよいのですが、知らせます。Bobはこの時、Bに移った情報が何であるかは、まだ分からない。

⑤古典的な送信手段で送られた情報は、まだ、2ビットなのでこれを1ビットに確定する操作を行い最終的にAliceが送信したかったCの情報をBobは手に入れることになります。(詳しくはツァイリンガー 他『量子情報の物理』)

このような量子エンタングルメントによって得られる情報は、けっして盗み出されることがない。量子の情報を得ようとして測定すれば量子は壊れてしまうし、古典的送信手段による情報を盗んでもそれだけでは解読できない。それで暗号鍵などの通信に使えるというわけである。ベル測定の生みの親ジョン・ベルについては最後にご紹介します。

 


量子論は、量子テレポーテーションのような応用の分野で華やかな発展をみせようとしている。今、最も期待されているのは量子コンピューターだろう。この情報分野と量子の関係については、いずれご紹介する機会があるだろうと思う。この最終章では、まず、スピンとは何かをご紹介する。量子世界が如何に表象しにくいものであるかを実感していただきたい。そして最後に、その表象し難い量子の不思議な関係を児童文学風に紹介してくれている著書をご紹介する。表象できない世界をイメージ化しようとする努力を言祝ぎたいと思う。


 

電荷-eは電流の元であるが、電子は素粒子(これ以上大きさを分けられないもの)で、点であって大きさが無い。従って電荷は何処にあると決められない。しかし、大きさが無いのに自転できるのか。1924年には、オーストリアの物理学者ヴォルフガング・パウリが+1/2、と-1/2という二つの離散的な物理量としてこのスピンを予見していた。

スピンだの回転などとさんざん言っておいて、ここに至ってちゃぶ台の上に並んだ料理をひっくり返すようなことをして恐縮だが、このスピンを地球などの星が地軸を中心に回転運動しているとイメージするのは間違っている。ちょっと面白い実験をご紹介しよう。それは、1916年のアインシュタイン・ドハースの実験のことである。静止した鉄棒をつるして外部から磁場を与えると、鉄棒が回転するというものだ。逆に磁場のかかっていない鉄棒を高速回転すると回転軸に沿って磁気を帯びるバーネット効果が同時期に発見されている。

磁場をかけて鉄を磁石化すると回転、つまりスピンという角運動量が生じる。電子は電荷を持っているので移動すると磁場を形成する。「磁気」の起源は電子の自動運動であることがわっている。この自動運動は回転のことらしいことが、この実験から推測できる。自動運動には原子核の周囲の軌道運動もあるが、この回転運動に比べれば微々たるものらしい。電子も小さな磁石であるのでスピンするというわけであるが、スピンの軸があるので上向きとか下向きとか言われるのである。だが、ここで先ほど述べたようにスピンを地球の自転のように考えてはいけない。位置はあっても大きさはなく、波でも粒子でもあるものが、どのように回転するのか表現できた人はいないのである。そして、これも不思議なことなのだが、電子のようなスピン1/2粒子は回転し始めて2回回転しなければ元にもどれないと言われてきた。ここでも古典的な物質のイメージは踏みにじられるのである。ちなみに光子のスピンはもっと厄介だ。

やはり、イギリスだなと思うのだけれどこんな本が出版されている。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』をもじってイメージできないものを一生懸命イメージ化しようとしてくれている。この場面では仮想粒子の振舞いについて面白く紹介してくれていて、アリスは電子に例えられる。

ロバート・ギルモア『量子の国のアリス』
ギルモアは英国の物理学者、英国にはルイス・キャロルの精神が生きていた。

ほとんどの粒子が、衝突時にちょっとだけ仮想粒子になり、また実在粒子に戻ったりする場所にアリスはいる。ある瞬間には時間軸に従って動いているが、次の瞬間には完全に向きを変え過去に戻ったりする。これが反粒子の生成である。この仮想粒子は波動性を持つためにトンネル効果のように障壁を突き抜けることができる。それは時間の障壁も含まれる。

電子の場合なら負の電荷を持っているので、電子が普通に過去から未来に向かって動けば、負の電荷は未来に向かって運ばれる。逆に未来から過去に向かって動いたとしたら、負の電荷も未来から過去へと運ばれるが、それは、正の電荷を過去から未来へと動かすことになる。それを外から見れば陽電子、つまり反電子のように見えるというのである。アリスは空に真っ暗な太陽があり、全てが逆向きに動いていた反転した世界の体験を思いだした。高次元の世界を我々3次元の人間が見たらこんなふうに見えるんだろうか。

電荷保存則によって宇宙の電荷の総量は不変であるとされている。電子のような粒子は、その反粒子と共に生成される。2個の電子の静止質量を創り出すためには一時的なエネルギーが必要になり、こうしたエネルギーは、実は何もないところから作り出されるので、エネルギーの揺らぎのように見えるという。真空は、実際には粒子と反粒子のペアたちの渦巻く空間であるのだ。光子は電荷以外の物には興味がなく、電荷があれば、それを取り巻く仮想光子の雲が必ずある。仮想光子たちは仮想の電子と陽電子のペアを創り、それが消滅すると実在の光子に変わる。仮想の電子と陽電子のペアはわずかの間存在し、光子を創り出し、その光子も電子と陽電子のペアを生成し‥‥それは果てしなく続くのである。

どうです。不思議な世界でしょ。でも、こういうふうに、表象できないと言われる量子の世界をも工夫次第でイメージさせてくれるのありがたい。実はこの表象したいという願望は、何故そうなのかを問うことに繋がっているのではないかと思うようになったのである。この「おかしい何故だ」を突き詰める態度は貴いのではないか。今や、量子力学の研究者で何故かを問う者は、まずいないという。そんな研究で食べていけないらしい。しかし、利潤追求ばかりのツール化は危険じゃないのかな。それだから地球温暖化は一向に鎮静化しない。今や、温暖化に歯止めをかけようとしているのは人間ではなく新型コロナウィルスである。

量子のもつれに疑問を呈したのはアインシュタインやボームだけではない。大切な人をまだ紹介していなかった。ジョン・スチュアート・ベルだ。

彼は、不可能であると立証しようとするのは想像力の欠如だと考える人だった(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)。有名なベルの不等式は、ある装置での観測結果を量子がもつれていると考える場合ともつれていないと考える場合とでとる値を不等式で示したもので、ある値以上ならもつれていないことが立証できるというものだった。ベルの思惑とは逆に、アラン・アスペの実験で実際にもつれていることが確かめられたのは先に述べた。

波動関数が数学的な正確さと物理的なあいまいさをもって言葉による表現を拒絶しようと、ベルは「物理学は事象がどのように起こるかを説明すべきだ」と考えていた。そして、ジュネーヴの欧州合同原子核研究機構CERNで素粒子を研究する傍ら、余暇を見つけては量子力学の「おかしい」を研究していた。すばらしいと思う。やがて、彼の不等式が破られたが、このアイデアは情報論への新たな展開をもたらした。こうして量子論は情報論へと舵を切っていったのである。

 

引用文献と参考文献

デヴィッド・リンドリ―『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』  2014年刊

デヴィッド・ボーム『全体性と内蔵秩序』
全体流動説が紹介されるなかなか刺激的な著書

アントン・ツァイリンガー 他『量子情報の物理』    かなり専門的なので僕のような素人には難しい内容だった。

 

カール・グスタフ・ユング『空飛ぶ円盤』付 ビリー・マイヤーと松澤宥

 

満月は夜 高き山にあがり
ただ一つの頭脳を持つ
新しい知恵ある人がそこに見られ
不死なるものとなることを弟子にしめし
彼の目は南に 手と足は火に
(ミシェル・ノストラダムス『預言集 (諸世紀)』第四章31 大乗和子訳)

カール・グスタフ・ユング『空飛ぶ円盤』

フランスで活躍したノストラダムス(1503-1566)、その名は預言者として夙に名高い。その著名な『預言集』の中で彼は、新たな叡智 (sophe) を持つ人が現れると書き残した。それは煌々と輝く満月の夜、山の頂に現れる。しかし、ただ一つの頭脳を持つとは、わざわざその詩に書き留めなければならない重要なことだったのだろうか。

「われわれが何らかの秘密を持ち、不可能な何ものかに対する予感を持つことは大切なことだ。それは、われわれの生活を、何か非個人的な、ヌミノース (非合理的な宗教的体験) によって満たしてくれる。‥‥この世界には期待されないことや、信じ難いことが存在している。それでこそ、生が全体性をもつ。私にとっては、世界は最初から無限に広く、把握し難いものであった。(カール・グスタフ・ユング/『空飛ぶ円盤』訳者あとがきより 松代洋一訳)」

カール・グスタフ・ユングは1958年に刊行された『現代の神話―空中に見られる物体について―(邦題は空飛ぶ円盤)』の中で、偶々このエッセイを書いている最中にUFOに関する二つの記事を見たという。一つは、大西洋上を44名の乗客を乗せてプエルトリコに向かう旅客機のパイロットが、緑がかった白色光を放つ火のような円い物体を目撃したというものだった。超スピードに向かってくる。それにぶつかりそうになったため、反射的に機首を上げた。そのため乗客が何人も機内に投げ出されて入院するほどのケガをしたというもので、同じ航路にいた他の7機もの飛行機がこの物体を目撃したという。もう一つは、「空飛ぶ円盤は存在しない」というアメリカ航空委員会の委員長だったH.ドライデン博士の断固たる否定見解を紹介するもので、その不屈の懐疑精神には敬意を表さざるを得ないと書いている。非常識な風説がいかに人間を損なうかをきっぱりと言い切っているというのだ。

未確認飛行物体、つまりUFOを見たという人は多いのかもしれない。この間、諏訪で会った女性は、諏訪はよくUFOが出るんですよとさらりとおっしゃったので驚いた。僕は悲しいかな一度も見たことがない。その人は、ある時には自宅の上空にそれが見えたので家族をみんな起して、一緒にそれを見たというからかなりの時間上空に留まっていたのだろう。あっけにとられてどんな形だったですかと聞くのを忘れていた。その人は、世界的な芸術家である松澤宥(まつざわ ゆたか/1922-2009)さんの娘さんだった。これは偶然なのだろうか。

オルフェオ・アンジェルッチは『円盤の秘密』の中で、未確認飛行物体と呼ばれる飛行体との遭遇と地球外生命と交信した体験を書いているとユングは述べる。カルフォルニアに住むアンジェルッチは、最初にUFOを見た6年後の1952年5月、地平線上に赤く輝く楕円型の物体が脈打ちながら漂っているのを見た。加速され恐ろしいほどのスピードで遠ざかって行った後に緑の二つの光が現れ、そこから完璧な英語で話しかけられる。二つの光の間に男性と女性の超自然的な姿が現れた。かれらはこう語る。

「われわれは地上の住人をひとりひとり見ているのだ。人間の狭い見方で見ているのではない。おまえの星の住人は、何世紀も前から観察下におかれている。お前たちの世の中のあらゆる進歩を、われわれは記録している。‥‥理解と共感をもって、成長の苦しい道を歩むおまえたちの世界をわれわれは見ているのだ。‥‥」まるで、缶コーヒーの宣伝に登場する宇宙人ジョーンズばりの語りだった。アンジェルッチの著述か、それに類したものが下敷きになっているのか、よくは分からないけれど、演じるトミー・リー・ジョーンズが雰囲気があって大好きだ。

宇宙人ジョーンズ役のトミー・リー・ジョーンズ

その年の6月今度は宇宙船の中に入り、地球から1600キロ離れた宇宙旅行を体験する。それは、微光を発する霧状のシャボン玉のような形だったがみるみる鮮明な形となった。内部は、直径6メートルほどのカマボコ型で壁はエーテルか真珠層のような材質であったという。2.6メートルほどの円窓のようなものが開くと外に惑星が見えた。スターウォーズかスタートレックばりの宇宙船体験をして、彼は涙を流した。すると声がこのように語った。

「泣くがいい、オルフェオ‥‥‥われわれも地球とその子らのためにともに泣こう。見た目はいかに美しくとも、知性ある生物を育ててきた惑星の中にあって地球は煉獄だ。憎しみ、エゴイズム、残酷さが、黒い霧ながら地球から立ち上っている。」

このろくでもない素晴らしい世界というわけだが、外に見えた母船は両端から渦巻く炎を噴き出していて、見たり聞いたりするものは「テレパシー的な交信能力」によった。そして、霊的な未知の自己との再結合の可能性を彼らから教えられる。宇宙船から降ろされると左の胸に小さな硬貨ほどの、彼が「水素原子の象徴」と呼んだ丸い焦げ跡が残っていた。

翌年9月には一週間にわたる夢游状態に陥り、魂の巡礼ともいうべき内的な体験を味わった。このような異界巡礼の話は色々なヴァリエーションがあって、中国での洞天や壷中天の話とか日本の幽冥界での体験を平田篤胤が聞き書きした『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』などもある。だが、こちらは仙界の話だ。天上的な空間で、そこの女性に性的な欲望を抱いて周りの異星人たちを驚かせる。彼がこの人間的な反応を抑えられるようになると「天上の結婚」が執り行われる。この経緯は、ユングの語る錬金術における「化学の結婚」に相応するものだが、カール・グスタフ・ユング『アイオーン』part2 シンボルとしての魚と蛇に少し書いておいたのでそちらを読んでいただければよい。地球外生命体との接触とその教えを伝えようとしたことで知られる人にビリー・エドゥアルト・マイヤーがいる。

 

ユングから少し離れてマイヤーについてご紹介しよう。(ビリー)・エドゥアルト・アルベルト・マイヤーは1937年、スイスのチューリッヒ州のビューラッハに生まれた。父は靴職人で、7人兄弟の2番目の子供だった。5歳の時、自宅近くでUFOを父親と一緒に見た。それが最初だった。父親は、あれはヒットラーの秘密兵器だろうと語った。1942年から1953年までエラ惑星のスファートとコンタクトを行った。1944年に宇宙船とともに現れたスファートは90歳代の威厳ある老人の姿だったが、実際には1100歳だったという。それ以降はテレパシーによる交信が行われる。魂の訓育者と言えた。

1953年から1964年に亘りダル宇宙のアコン太陽系にいるアスケットとコンタクトを持った。それは私たちの宇宙と双子関係にある宇宙から遮断層を突破して来た。35歳くらいの美しい女性の姿だったという。生命とSEIN (存在) の基礎である「創造」について、あるいは平行宇宙や生命体固有の振動などを教えてくれた。そして、地球人類の発祥の地は環状星雲と呼ばれる所で、人類の祖先は、そこからこの地球にやって来たという。そこにいた本来の祖先は、もはやその星雲の太陽系に住んでおらず昴のプレアデス星団の中にいるという。それは彼らがプレヤール星と呼ぶプレアデスから約80光年向こう側の別次元宇宙にあった。

なんだか第一始祖民族が宇宙にバラまいた始原の生命の話しみたいだと言ったら若い方たちはアダムとリリスを思い出すかもしれない。1975年には宇宙船とともにプレアデスのセムヤーゼと遭遇する。同じく若い女性の姿でやや訛りがあるが完全なドイツ語で語った。あの地球人の遠い先祖の子孫だった。それ以降、彼女 (そう呼んで良いと思うのだが) を中心に他の宇宙人たちとのコンタクトが数多く行われているという。

ビリー E.A.マイヤー 『プレアデスとのコンタクト』   2001年刊
彼がビームシップと呼ぶUFOの鮮やかな写真が掲載され、地球外生命体とのコンタクトの様子が詳しく書かれている。UFOファンにはたまらないだろう。

コンタクトの相手が老人と女性の姿であったというのはかなり興味深いが、1976年、マイヤーは生まれ育ったビューラッハからチューリッヒの東にあるヒンターシュミットルッティに移り、FIGU・SSSCセンターを開設している。FIGUは「極限的知識、霊的知識、UFOのための自由利益共同体」、SSSCは「セムヤーゼ・シルバー・スター・センター」を意味している。セムヤーゼ・シリーズと呼ばれる交信記録が印刷物として公表されているし、テレパシーによる交信相手としてセムヤーゼの他、彼女の父プター、宇宙船艦長のクウェッツァル、テーラ太陽系のタリーダなどが挙げられている。

交信の内容については、『プレアデスとのコンタクト』 に詳しく書かれている。キリスト教関係の内容についてはかなり意外なものになっているし、地球の危機に関する重要な警鐘と思われるものがある。異常気象と地殻変動が挙げられ、気象変動が食料生産に重要な影響を及ぼし、巨大な地震と火山爆発への警告が発せられる。極氷の融解 (これについては西澤潤一・上野勛黄『人類は80年で滅亡する』温暖化の果てにあるもので述べておいた)、無政府主義的テロ活動、自殺や宗教的セクト的活動の増加などがある。一方で第三次世界大戦の兆しが指摘されてはいるが、まだ勃発していない。遠い将来の予言としてアンドロイドや半獣人間の反乱といった内容を含めた警告が発せられる。

僕は、このような報告をただの幻想やフィクションとして拒否する気持ちになれないし、全て受け入れることもできない。ただ、読んでいると宇宙関連のSF映画やアニメのストーリーの下敷きとしてトレースされているのが分かってきて面白い。重要だと思えることを一つだけ指摘しておきたい。それは、地球外からの叡智や情報を与えられるという状況設定なのである。常に高みから降りて来るという感覚を伴っている。そこでは国家の利害や政治的対立や宗教的な諍いといったしがらみを置き去りにできる。そして、地球外から地球を見るという視点が与えられるのである。まるで手のひらの上に地球を置いて転がしながら眺めまわすような感覚を貴いと思う。野心を持った征服者としてではなく、そのような視点を持っている人は稀だ。例えば、バックミンスター・フラーのような人、そしてアーティストなら松澤宥ではなかったろうか。

 

イラク戦争 2003年 首都バグダッドで銃撃戦を行うアメリカ軍兵士

ユングに戻ろう。UFO伝説という世界中いたるところで聞かれる風説が、たんなる偶然で何の意味もないということは考えられないとユングは言う。もし、それが彼のいう投影の結果としての幻視であっても、そのうわさには相応の広がりを持つ根拠に根差しているだろうというのである。自己の投影は、よほど精神的な発達を成し遂げた者でなければ見破ることが困難なものであるらしいが、UFOを幻視と決めつけてしまえる根拠もまた希薄なのである。ともあれ、それは広範囲にわたる情緒的基盤の上に成り立つものであるのは確かだろう。一般に意識の態度と無意識の内容との対立によって心理的分裂が起きる。意識は、この無意識的内容を知らず、出口の無い状態に直面して間接的に自己表出の道を模索し始める。ここでユングが紹介しているUFOに関するとみられる二つの記録をご紹介しよう。

1561年のニュールンベルクのことである。血のような赤や、青、黒といった色の無数の球や円盤が太陽の近くに現れた。あるものは三つが一列に並び、あちこちで四つが四角をつくり、それらの間で血の色をした十字架が現れたという。その他に球が三つ四つ入った二つの大きな筒状の物体や大きな黒い槍のような物体もあった。それらは、太陽から空へ、そして地上へと多量の蒸気を発しながら次第に消えていった。ニュールンベルクでは1503年に血のような赤い雨が降るという事件が起こっていた。藻類だろうとパノフスキーは『アルベルト・デューラー』の中で述べている。デューラ―がまだ生きていた時代のことだ。

筒状の飛行物体はUFOの目撃情報にあるシリンダー状の「母船」のことだと思われる。小型のレンズ状の小型船を長距離輸送するとされている。ユングは現在のUFO情報に欠けている四つの単純な十字架と四つの円で構成される曼陀羅の存在を強調している。それは、キリスト教の象徴ではなく、交差的組合せ、すなわち結婚の四人組、プリミティヴな「交叉いとこ婚」であると述べているのが面白い。婚姻の秩序構造である。二つの三日月状の「血の色をした横縞」、その物体が何を意味しているか容易には分からない。地上には球体の落下した場所から煙が立ち上っている。

今度は1566年のバーゼルでのことだ。サミュエル・コキウスという聖書と自由学科を学ぶ学生が、8月7日の日の出頃に太陽に向かって猛スピードで飛ぶ、いくつかの大きな黒い球を見た。太陽を背にした飛行体は黒く見えたのだろうか。互いに争うように飛び交い、あるものは火のように赤くなり、やがて色あせたという。パラケルススが後ろ盾のフロベニウスを失ってバーゼルを追い出された38年後のことだ。

14世紀に世界的な流行をみせ、猖獗を極めたペストは致死率が6割から9割にも及ぶ恐るべき病気で、ヨーロッパでも14世紀を頂点に17世紀にかけて断続的に発生していた。16世紀にはカトリックとプロテスタントとの抗争が火種となって17世紀前半における泥沼のドイツ30年戦争に発展していく。そして、大航海時代は副産物として梅毒をもたらした。流星、彗星、血の雨、双頭の子牛が生まれるという自然現象の変異は、明らかな不吉な前兆であった。この外界から押し寄せる不安にたいする精神的補償とは何であったのだろうか。

20世紀の人間は、かつてない大規模な戦いを経験し、その後も米ソの冷戦による核戦争の恐怖にさらされ、それが一段落して21世紀になるとテロの脅威や気象や地殻変動に怯えるようになる。現代の私たちも、混沌におびえ、確かで手ごたえのある現実を求め、今あるものの存続を求め、意味内容を求め、文化を求める。われわれの世界解体もこうした現実に対する支えの欠如に由来していることをこの不安は知っているとユングは言う。世界の断片化は進行し、世界を改善する手立てに対する評価は軒並み下落し、古くからの処方はコロナウィルスに対するように効き目はない。問題は、有効で信じるに足る全体的観念の不在であるのだという。そこには何かが現れる必要があった。UFO現象はそのようにして現れた現象の一つと見てよいのではないかというのである。

太陽の船 紀元前14世紀 パピルスに描かれた廷臣ユヤの『死者の書』

天空の乗り物については古代からの記述がある。エジプトでは神々は宇宙に生命を与える偉大な河である銀河の水上を航海していると考えられた。ラーは神の船とよばれる乗り物に乗った姿で描かれた。太陽の船である。図は、パピルスに描かれた太陽円盤を頭に載せたホルスだ。

日本では天鳥船(あめのとりふね)が知られている。神の乗る船は、神格化されて天鳥船神(あめのとりふねのかみ)あるいは鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)と呼ばれた。しかし、エジプトでは明らかに船であり、天鳥船も名前からすれば、いわゆるUFOの形態ではなく船のイメージをなしている。ユングは、現在考えられているUFOの形が宇宙の構成要素たる銀河の形とアナロジーを持っていると指摘する。

ファティマの奇跡
1917年10月13日にコーバ・ダ・イリアに集まって奇跡を見る群衆。円盤のような太陽が現れ、地上に向かって突進したりジグザクに動いたりしたことが目撃されている。ファティマの聖母の予告に関連していると言われる。

そのUFOの形態が現れたのはいつ頃からなのだろうか。「空に見えるしるし」が、多数の人間に、時を同じくして見えるということも起こりえる。同一の前兆や幻視像が、そうした現象を期待したり信じたりしていない人たちにも現れるのである。複数の人間の間で相互に無関係に新しいアイデアが浮かんだりする観念連合のプロセスと同様に、それは起こりえるという。

先ほど触れた投影の問題を少し解説しておこう。自分から切り離してしまった感情は抑圧されて外界へと投影される。それが私的な個人的な事情によって起こるものか普遍的な内容に及ぶものかによって、それが波及する範囲が異なってくる。個人的な抑圧や無意識なら身内や交友関係に限られるが、宗教的な葛藤や政治的社会的軋轢はそれにふさわしい対象へと投影される。人類全体の存亡にかかわるような今日の状況では、投影を促すような空間は神々のいる天空や星々から全宇宙空間へと拡張され、世界中に広まって真面目に信じられ、あるいはすげなく冷笑される神話となる。社会的に信用があり、誠実な人々が「この眼で見た」というのである。

一方で、この動画にあるような現象はどう説明されるのだろうか。この未確認飛行物体の映像は、2019年の9月にCNNが報道した映像と同じものだ。空中を高速飛行するUFOのような存在を、米海軍が未確認飛行物体として分類していることをようやく認めたものだった。海軍報道官はCNNの取材に対し、この物体を「未確認航空現象(UAP)」と形容した。公開された映像は幾つかあり、中には戦闘機のセンサーがとらえきれないほどのスピードで海上を遠ざかっていった物体もあるという。この2015年の映像では、F-18戦闘機のパイロットたちが交わした「沢山のドローンだ」「編隊だ」「ヤバイ ! 」「風に逆らってる 時速220キロの西からの風だ」「見ろよ、あれ!」「回転している」といった会話が収録されている。高速移動する物体を、高性能赤外線センサーがとらえた。

ちなみに、これもCNNが2017年に伝えたものだが、 米国の同盟国が市販の約200ドル(約2万2000円)の小型ドローン(無人機)を約340万ドル(約3億8000万円)する地対空ミサイル「パトリオット」を使って撃墜したことを明らかにした。米陸軍司令官はドローン破壊には成功したものの、経済的に妥当な方法ではなかったとジョークを飛ばした。

今では、ドローンであろうと宇宙船であろうと分類不能な飛行物体は誤認も含めて未確認飛行物体、正確には未確認航空現象(UAP)として分類されている。そういう存在が公認されていることになる。UFOの存在も普通に認知されるようになってきたのだろうか、あるいは、アメリカの宇宙軍事戦略のための根回しととれないこともない。それらの存在がある一方で地球の周囲を人工衛星といわずその壊れた破片といわずグルグルと回っている。より地表に近いところでは、ドローンも加わる。中には武器として作られたものもあるのだ。まさに、地球は煉獄である。

しかし、こうなるとコトは厄介になってくる。ユングのいうように集団幻視とも言い難くなってくるのではないか。時速200キロの風に逆らって飛べるドローンが開発された可能性もあるが、赤外線センサーに捉えられているのだから幻視ではない。

宇宙船や宇宙人の映像も多々あるが、多くは捏造疑惑に曝されてきた。それらの内には、営利目的で作られたもの、いたずら、悪意のない誤解、単に不思議な光景として撮影されたものがあるだろうが、どれが本物かは見分け難いのではないだろうか。とりわけ今日のようにヴァーチャル技術の精度が著しく高くなっている時代にはそうだろう。真偽の判断は困難なものになっていくのである。

地球外生命体やそれを乗せた宇宙船が存在するのかどうか。皆さんはどう思われるだろうか。その存在の有無を判断するのは、なんだか、状況証拠はいっぱいあるが、確証の無い事件の裁判のようだ。自分で見たり触ったりしたことのないものを「無い」と考えるのは人間の悲しい性 (さが) だが、僕はといえば、われわれが何らかの秘密を持ち、不可能な何ものかに対する予感を持つことは大切なことだというユングの言明の内に留まりたいと思っている。それ以上は保留にしておきたいのだが、一度はこの眼で見てみたい‥‥是非 !

私たちは、中世の形而上学的なゆるぎない世界像からはるかに遠ざかった。意識は啓蒙主義的な形而上学によって、いっさいの「神秘的」傾向を排斥してきた。世界の没落のあとの真のキリスト教的な世界の確立。あの輪郭定かな世界像は、二度と取り戻せないとユングは言う。この圧倒的な傾向が投影という無意識の自己主張には絶好の条件となる。神話的な人格化は、すでに時代遅れだった。神話的な原型は、UFOという現代的な姿をまとったという。UFOは、物理学の新たな奇跡として登場したとユングは言うのである。僕は、この言葉を是非文化批評として受け取ってほしいと思っている。UFOは、私たちにとって極めて偏った精神的風土の補償であるかもしれないのだから。ここで、今回のブログは一旦終了したい。以下は付録である。

 

付 ビリー・マイヤーと松澤宥

ユングの慧眼には、いつも心服するのだけれど、実は本書の中で僕が最も心惹かれたのは、この言葉なのである。「核物理学が一般人の頭に、判断力の不確実さという念を植えつけたので、一般人は物理学者以上にそう思い込み、つい昨日までありえないとされたことを可能だと思ったりしがちなのである。‥‥UFOの示すいかにも物理的な性質は、一方では最高の頭脳の持ち主にさえ、そうした謎を投げかけている (松代洋一 訳)

このところ亡くなった松澤さんの展覧会のための準備をしていて、松澤さんの著作や作品を調べている。彼が42歳の時に受けたと言う「オブジェを消せ」という外界からの指示が概念芸術の発端であることはよく知られている。実はここには伏線がある。彼が33歳の時、1955年のことなのだが、2年間フルブライト留学生としてアメリカに留学した。ニューヨークにあるコロンビア大学だった。そのニューヨークで、こんな放送を聞いた。1957年、僕の生まれた年のことである。

『スピリチュアリズムへ・松澤宥1954-1997』川口現代美術館カタログ  他の精しい年譜としては『松澤宥プサイ(Ψ)の部屋』を見ていただくことができる。松澤宥の公式サイトと考えていただいてよい。

「2月2日午前2時 (これは、いつもの数字合わせなのだけれど)、枕元のモーターローラーの小型ラジオを回していたら不思議な放送が入って来た。『私は5歳のころの或る日に不思議な力に導かれて森の中をさまよい出しその森の中のとある岩の上に25,6歳の非常に美しい女の人を認めしばらくその婦人と話しをした。それから、20年後の昨年8月やはり或る力に引き出され森の中の岩の上であの昔と変わらない25,6歳の美しい人と会った。私は20年前この岩の上に座ってあなたと語った金星の女です。私の年は500歳 ! と言いました。』語るはニュージャージー州ハイブリッジの若いペンキ屋さんハワード・マシューさん。よく聞くとその放送は以前からずっとニュージャージー州のWOR局の終夜 (午前1時から5時まで) つづくパネルディスカッションであった。私はそれからニューヨーク滞在中一日もかかさずそれを聞いた。パーティー・ライン (合わせ目) は今でいうUFOに関するもので、心理学者、地球外空間研究家などの若干のパネルをもち、次々と占星術家、霊媒、数学者、催眠術家、ヨガ哲学家、生理学者、医学者、技師、教授などが招かれて、死後再生とか物体浮遊とか心霊現象とか超心理学、超科学、超宗教について異常に熱心にかたられていた。この放送を聞け ! それに触発されて私のニューヨーク滞在は後に絵画の非物質化に突っ走るための端緒の日々だったと言える (機関13・自筆年譜/『スピリチュアリズムへ・松澤宥1954-1997』川口現代美術館カタログ収載)。」

松澤 宥『量子芸術宣言』

彼は、終生テレパシーやUFOなどの超常現象に魅かれていた。その証拠は、彼の第二のエポックと言われる『量子芸術宣言』に見ることができる。その第10弦 (弦は超弦理論にちなんでいる) 量子芸術演習 (続) には「ビリー・マイヤーよ」という副題がついていて、以下のような内容が書かれている。

BM001
物質が百万分の一秒内にひずみを生じ微細化し非物質化し無限の距離を瞬間で移動出来る

BM002
遮蔽幕により物質の微細化非物質化を克服し空間と超空間の間の壁を中和して突き抜ける

これを読むと量子力学との類似を意識させられる。実際にはそれとは異なるけれどBM001は量子テレポーテーションを彷彿とさせ、BM002は量子トンネル効果を連想させる。ユングのいう核物理学とは量子力学のことを指しているのだけれど、その負の遺産が原子爆弾や原発事故であったことは我々身に染みている。「判断力の不確実さという念」というのは、量子力学が古典的な因果関係の成り立たない不確定な世界観を築き上げてしまったことを指している。不確定性原理、量子遷移、波と粒子の二重性、量子もつれといった極小の世界で展開される事柄はこれまでの因果律をなし崩しにして飛び飛びで確率的にしか観測不能なものとして表象されるようになった。しかし、松澤さんは、この量子力学をポジティブに全面的に押し出したのである。

そこにある物質のもっている波でもあり粒子でもある不確かさ、テレパシーが介在するかのような量子もつれ、瞬間的にワープする量子遷移といった性質は、松澤さんにとって物理学を超常科学に接近させるものに映ったのではなかろうか。これは、松澤さんが量子力学を理解していなかったことを意味しない。その逆である。それをビリー・マイヤーの言うような高みからの叡智と重ねたのかもしれない。このような言葉もある。

BM003
「創造」が無からこの宇宙を造ったそれは全能であり遍在であり法則だ創造自体に触れよ

このブログの冒頭に述べたノストラダムスの予言詩を思い出してほしい。「満月は夜 高き山にあがり/ただ一つの頭脳を持つ/新しい知恵ある人がそこに見られ/不死なるものとなることを弟子にしめし‥‥」。この詩は、『量子芸術宣言』の序にその内容が要約されて登場する。ビリー・マイヤーはヒンターシュミットルッティの山に、FIGU・SSSCセンターを開設し、松澤さんは諏訪という高地に住みそれに先立って外部空間状況探知センターや虚空間状況探知センターというコンセプトを立ちあげている。1960年には、コンピューターと空飛ぶ円盤のバックグランドはサイバネティックスとパラサイコロジーだとして新たなコミュニケーションの問題を提起した (『芸術新潮8月号』「サイバネティックスからマンダラまで」)。コミュニケーションの問題が絵画や芸術や文明に対して決定的な意味を持つことを闡明にしていた。こうなるとノストラダムスの言う「ただ一つの頭脳」が松澤さんにとって何を意味したかおおよそ想像できるようになるのである。

この量子芸術演習 (続)「ビリー・マイヤーよ」の最後にはこのような文が掲載されている。僕はこんなオチャメな松澤さんが大好きだった。

BM009
舞い舞いマイヤーマイヤー

 

 

その他のUFOのような物体が描かれた絵画

ドメニコ・ギルランダイオ(1449-1494)
『聖母子と洗礼者ヨハネ』
聖母の右肩上方に未確認飛行物体が飛んでいる。右上に少し拡大した図を載せておいた。太陽や雲の表現に特徴があり、ある種の光彩を放つ天体などをよく描いているが、本作品では形状がUFOにかなり近い。その工房からミケランジェロを輩出したことでも知られる人だ。

兎園 (とえん) 小説  『虚舟 (うつろぶね) の蛮女』
江戸時代にUFO伝説を思わせる奇談が知られていた。『兎園小説』(1825年刊行/江戸の文人や好事家の集まりの会で語られた奇談・怪談を、曲亭馬琴がまとめたもの)に『虚舟の蛮女』という題で図版とともに収録され今に伝えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考図書

ビリー・エドゥアルト・マイヤー『わずかばかりの知識と知覚そして知恵』
マイヤーのまとめた倫理と智慧の書というべきもの。UFOや宇宙人とのコンタクトの内容は一切出てこない。

 

 

 

 

 

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』 part2 龍樹・第一義諦の命題

 

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』

石飛道子氏は、アリストテレス以来の伝統的論理学から展開した命題論理学を用いながら、ブッダや龍樹がどのような論理を用いて教えを述べてきたかを明らかにして行く。前回 part1 は、彼女が「ブッダの公式」と呼ぶ中から「〈これ〉があるから〈かれ〉がある」という、あらゆる因果関係を説明するためにブッダが用いた論理を中心に解説されてきた。「世俗諦」の世界が中心だったが、この part2 では、龍樹の定式を中心に「中道」「第一義諦」に関係する論理が問題にされる。

龍樹菩薩伝 前半

龍樹については、紀元150年から250年の間に活躍した南インドのバラモン階級出身の僧ということくらいしか、はっきりしたことは分かっていない。まとまった伝記としては鳩摩羅什 (くまらじゅう/4世紀中頃~5世紀初頭) が訳したとされる『龍樹菩薩伝』が知られているが、実際には羅什より1世紀くらい後のものであるようだ。

内容は、乳児の時に四万の詩頌からなるヴェーダ聖典が朗誦されるのを聞いて全て理解し、諳(そら)んずることが出来たといった天才ぶりを言祝ぎ、年頃になれば、隠身の術をもって王宮の美女たちを犯したとかいう破天荒が紹介される。王の近くに身を伏せて難を逃れるが、欲のなせる業を知り、出家する。ヒマラヤ山中に籠り、そこで大乗経典を年老いた比丘から授けられた。一切を知る者としての慢心が芽生えるが、ゴータマ門の門神に、お前の知恵など如来に比べれば虻や蚊程度だと言われ、弟子には、あなたは仏弟子として教えを受け継いでいく者に過ぎないといった屈辱を受ける。これで、鼻が折れた。竜宮にいたマハー・ナーガ (大龍) 菩薩が、彼を憐れみ、惜しんで七宝の箱に収められた大乗の奥義の経典 (方等経) を授ける。龍樹は、膨大な経典も七宝の一箱にある内容に尽きていることを悟り、事物は本来不生であり、人・物共に空・無我で平等であり、どのような時にも慈悲の心を持つことに思い至る。

龍樹(150頃-250頃)像 年代未詳 チベット
頭にナーガ(蛇)を頂く。

龍樹 (ナーガ―ルージュナ) の名の由来は二説あって、一つは、幼名アルジュナにこの大龍菩薩のナーガ (龍/蛇) を加えたという説。もう一つは、釈迦の予言で、自分の入滅後に南インドに名声ある高貴な比丘が現れ、自分の「法」の眼を保持するであろうと述べ、その名がナーガーフヴァヤ (ナーガを名とするもの) であるとする『入楞伽経 (にゅうりょうがきょう) 』の十章による説である。龍樹の著作には『中論 (正式名は根本中頌) 』、大智度論の注釈である『優婆提舎』、それに自身の中論の注という『無畏論』などがある。ここからは勿論『中論 』が主役となる。

 


前回 part1では、真理表3(下図)からブッダの公式と石飛氏が呼ぶ定式が導かれた。Ⅰの「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」である。今回の龍樹の論理学では、ブッダの公式Ⅲの「〈これ〉がない時〈かれ〉がない」がテーマとなる。それは第一義諦、すなわち中道と空を導く公式となる。


中道

ブッダの公式
Ⅰ.〈これ〉がある時〈かれ〉がある。
Ⅱ.〈これ〉が生ずるから〈かれ〉が生じる。
Ⅲ.〈これ〉がない時〈かれ〉がない。
Ⅳ.〈これ〉が滅するから〈かれ〉が滅する(阿含経典12.49.3,5より)

真理表

ここからは、真理表15が解説される。今回、重要な真理表は15、16、1の三つであるが、文どうしをつなぐ接続詞は part1 でご紹介した真理表9と同様にない。4と13、5と12、6と11は互いに否定になっているが、真理表の下段で×のついたものは使用されない。世と書いてあるものは、世俗諦に使われた真理表であり、一と書いてあるものが第一義諦に関わるものである。

正しい智慧をもって、如実に、世間における集起を見るものには、世間において「無いこと」はない。
カッチャーナヤよ、正しい智慧をもって、如実に世間における滅を見るものには、世間において「有ること」はない。
カッチャーナヤよ世間の人々は、多くは、そのやり方に執着し、こだわり、しばりつけられている。
「一切は有る」というのは、カッチャーナヤよ、これは、一つの極端である。「一切は無い」というのもこれも極端である。
カッチャーナヤよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって、如来は法を説くのである(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部12.15)

真理表 15 Tは真、Fは偽を指す。通常のⅠ~Ⅳの位置は入れ替えられている。

中道とは苦楽、二辺の中道のことで、ブッダは、愛欲において欲楽の生活に耽溺することも苦行を実践すること聖ならざるものであり、利益のないものであると述べ (如来諸説経)、「楽と苦の二つの極端によらない」ことを中道とした。

真理表15では〈これ〉に〈一切は有る〉を〈かれ〉に〈一切は無い〉を入れて真偽を確定させている。ここで、問題になってくるのは最下段の「〈一切は有る〉のではなく〈一切は無い〉のではない」という命題である。これを中道としてブッダは説いたという。同じ形式の文章が中論にもある。

自己であると教えられていることもあれば、自己ならざるものと示されていることもある。しかし、如何なるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではないと諸仏により示される(中論18.6)。

西洋論理では、自己であるか自己でないかのどちらかになる。自己でもなく非自己でもないことはあり得ない。「自己ならざるものではない」は二重否定なので文全体は「自己でなく自己である」と書きかえことができる。ここで、前回の世俗諦で語られるブッダの言葉が引用される。

ブッダ データ未詳

あるものそのとおりのものとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと(考え)は、虚偽であるから。虚妄の法(モーサ・ダンマ)はしばしのものである(スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集 757)。

世俗諦で述べられる世界は、縁起によって生じる絶えず変化する世界であった。その世界は虚偽であり、同時に真理であるが、しばしの虚妄の法であった。中道は、「そのとおりもの」であるとも「それとは異なったもの」とも異なる。

縁起しているもの、それを、空性であると私は説く。それ(空性)とは、執って仮説することであり、中道そのものである(中論24.18)。

縁起とは、空性であり、執って仮説することであり、それが中道であると言う。巻末に紹介しておいた「龍樹『根本中頌』を読む」においては、この仮説は「 (何かを) 因とする施設」と訳されている。絶えず変化するものは、言語で表現できないもの、仮説でしか述べられないものとなる。何かを縁とせず生起するものは何ら存在せず、一切が空でないなら何かが生じたり、滅したりすることはない。「Aではなく、A ならざるものでもない」。空性については、後に述べる。

 


ブッダは、初心者ではあっても哲学議論の好きだったマールンキヤプッタに「語られなかったこと」を語った。「語られた教え」とは四聖諦のことであり、「語られなかった教え」とは無記と呼ばれる形而上説のことである。その「語られなかった教え」とは、四句分別に集約され、中道を保って言語を超えた世界に結び付けられ空性に結晶する。


 

四句分別

ブッダが、マールンキヤプッタに述べた形而上説とは以下のようなものである。

「永遠なのは世界である」というのは私によって語られなかったことである。
「永遠でないのは世界である」というのは私によって語られなかったことである。
「有限であるのは世界である」というのは私によって語られなかったことである。
「無限であるのは世界である」というのは私によって語られなかったことである。
「命と身体は同じである」というのは私によって語られなかったことである。
「命と身体は異なっている」というのは私によって語られなかったことである。

「如来は死後存在する」というのは私によって語られなかったことである。
「如来は死後存在しない」というのは私によって語られなかったことである。
「如来は死後存在しかつ存在しない」というのは私によって語られなかったことである。
「如来は死後存在するのではなく、存在しないのでもない」というのは私によって語られなかったことである。
なぜ、これらのことが、マールンキヤプッタよ、わたしによって語られなかったのか? これらは、マールンキヤプッタよ、利益をともわず、最初の清浄行のものではない。厭離にみちびかず、離欲にみちびかず、止滅にみちびかず、寂滅にみちびかず、証智にみちびかず、正覚にみちびかず、涅槃にみちびかない。それだから、これらは、わたしによって語られなかったことである(マッジマ・ニカーヤ/パーリ語経典 中部63)。

ブッダの形而上説抜粋

1.「永遠なのは世界である」「永遠でないのは世界である」
2.「有限であるのは世界である」「無限であるのは世界である」
3.「命と身体は同じである」「命と身体は異なっている」
4.「如来は死後存在する」「如来は死後存在しない」「如来は死後存在しかつ存在しない」「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」

問題になるのは4.で語られる説である。これを四句分別という。石飛氏は、ブッダが不可知論や懐疑論とは無関係だという。この四句分別は、論理的な裏付けをもって確信的に語られているというのだ。懐疑論は確信をもって語られることなく、ただ虚無に向かうだけだという。

真理表 16

真理表16の〈これ〉に〈如来は死後存在する〉を〈かれ〉に〈如来は死後存在しない〉を入れてⅡからⅣに真偽の結果を出す。それを全て偽として否定形にするのである。真理表は、ここでは命題論理学とは別の機能を持たされていることになる。ブッダの形而上説抜粋の 4.に見られる四句のきれいな否定形になっている。

石飛氏は、この如来の死後に関する四句分別の文章を我々凡夫に向けて無理やり言語で表現してくれたものであろうと言う。マールンキヤプッタはブッダの僧団に属するかどうか決めかねていた。それゆえブッダは、弟子たちには説かない形而上学をわざわざ述べて、それを否定している。それは仏教内部の人へではなく、外部の者に対してブッダがあえて踏み込んだのではないかと言うのである。

「如来の死後」は「涅槃」と直結する問題である。『中論』が拠り所とすることの多い『スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集』からご紹介する。ブッダは煩悩の河を渡ろうとするウパシーヴァにこのように述べる。

無所有(何もないところ)を観察しながら、よく気をつけている者、ウパシーヴァよ、と尊師は言った。(おまえは)「無い」ということをよりどころにして激流を渡れ。もろもろの欲望を捨てて、討論から離れ、渇愛の滅尽を昼夜において観ぜよ(1070)。
無所有(何もないところ)をよりどころに、他のものを捨てて、最高の「想いからの解脱」において解脱して、そこにとどまり、何ものにしたがっていくこともないだろう(1072)。
風の力で炎が吹きとんで離れさって数のうちに入らないように、同じように聖者は、名称と身体から解脱して、離れ去って名づけられなくなる(1074)。
かれに対して、そのものをあれこれ述べるようなやり方は存在しない。すべてのもの(法)が根絶やしにされたとき、一切の議論の道もまた根絶やしにされたのである(1076)。

ナーガルージュナ ツァパ・ナムギャル作 17世紀

「もろもろの欲望を捨てた者」は、無所有処定(むしょうしょじょう)という禅定を拠り所として最高の「想いからの解脱」において解脱して、そこに留まるという。上記のように『スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集』では、解脱への二つの段階が注目される。この区分は『中論』を性格付け、大乗への道を開く重要なポイントだと著者はいう。

(1)「貧欲を離れた者」となる。
(2)「想いからの解脱」において解脱し、名称と身体〈名色〉を離れる。

(1)の「貧欲を離れた者」では、まだ名称と色形〈名色〉を残していると考えられる。これが「最初の清浄行」にあたる。
(2)の「想いからの解脱」とは「想いを想うものではなく、想いを離れて想うものでもなく、想わないのでもなく、虚無を想うものでもない」ことだった。「このように知ったものは色形を滅する」のである。「色形を滅する」因となるのは「多様な言語世界(パパンチャ)の名称が起こらない」ことによるといわれる。これによって「『想いからの解脱』において解脱する」のである。行為と煩悩を滅した人がさらに名称と色形を滅する第二段階である。これが「第二の清浄行」と著者が呼ぶものとなる。

想い (サンニャー) を想うものではなく、想いを離れて想うものでもなく、想わないのでもなく、虚無を想うものでもない。――このように知ったものは、色形を滅する。というのは、想いを原因として、多様な言語世界 (パパンチャ) の名称が起こるからである(『スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集』874)。

内においては迷妄(パパンチャ)である名称と色形を知って、外においては病根を知って、すべての病根の束縛を脱した、このような人は、あるがままにある人と言われる(スッタ二パータ/パーリ語経典 小部・経集530)。

行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、思慮分別によって起こる。これらは、多様な想い (プラパンチャ) にしたがってあるが、多様な言語・表象世界 (プラパンチャ) は空性 (シューニャター) のなかに滅するのである(中論18.5)。

サンスクリット語のプラパンチャ、パーリ語のパパンチャは、「戯論 (けろん)」と訳される。「多様に広がっていく言語・表象の世界」と「迷妄」という二つの意味があるが、ここでは前者を指している。このような言語に属する事柄は世俗諦、つまり虚妄な法につながるため迷妄の意味も出てくるのだという。多様な言語・表象世界 (プラパンチャ) は、多様な想いにしたがってあるが、多様な言語・表象世界は空性のなかに滅して、ついに、名称と身体〈名色〉を離れる。すなわち、あるがままとなるのである。これが第一義諦の到達を意味する。では、空性とは何なのだろうか。

苦楽二辺の中道/形而上説の否定→四聖諦→煩悩からの解脱→無所有処などの禅定→名称と色形 (名色)を滅すること

 

龍樹菩薩伝 後半

もう一度、本書から離れて龍樹の伝記についてご紹介します。7世紀になると留学僧であった玄奘三蔵が、当時のインドにおける龍樹の伝承を記録に残している。インドのサータヴァーハナ王が龍樹のために黒峰山に伽藍を建てたが、資金が枯渇し、それを助けようと龍樹が妙薬によって石を黄金に変えた。あるいは、提婆 (アーリヤデーヴァ) が彼のもとを訪ねて来た時、龍樹は水を満たした鉢を見せ、提婆は針を投げ入れる。その意味を理解した龍樹は提婆を弟子としたとか、父サータヴァーハナ王の長寿は薬術に長けた龍樹が薬を処方しているせいだとして、その王子に首を乞われた龍樹は自ら首を切り落として絶命したといった内容を玄奘は記していた。

龍樹が仙薬を使うというのは『龍樹菩薩伝』にもあり、三百年の長寿をもって仏教を守護したと伝えられる。その他、菩薩伝には南インドの国王の前で、バラモン僧との術比べに勝利し、別の国王を神通力で教化したという話も伝えられている。また、龍樹の最後は、このように描かれている。彼に嫉妬する小乗の比丘が、あなたが長くこの世にとどまっていることを望まないと言うと、その言葉を契機に為すべきことをし終えたと感じていた龍樹は、蝉が抜け殻だけを後にするように遷化したという。南インドのクリシュナ―川の右岸にあるナーガルージュナ・コーンダ (ナーガルージュナの丘) には、紀元3~4世紀のイクシュヴァーク時代のサータヴァーハナ王朝と関係する仏教遺跡があり、ここが龍樹の終焉の地だと推定されている。

ちなみに、インドの伝承では、龍樹の切り離された胴と首は、その吉祥山の光輝く楼閣の中の宝座に置かれ、神々やヤクシャ(夜叉)などによって常に供養された。一方、彼の誓願身は極楽にあって無量光仏によって「智宝菩薩」の名が与えられているという。無量光仏は阿弥陀の別名だがら、浄土教とのつながりはここら辺りにあるのかもしれない。チベットでは別の伝承があり、切り離された首の根本から「私はいまに極楽に行くであろう。しかし、後にまたこの身体の内に入るであろう」という声が聞こえてくる。ヤクシー (夜叉女) が、首を胴から7キロ先に置くと、首と胴は腐ることなく互いに近づき、ついに合体して、龍樹は再び教化を開始するのだった。不気味な話しになっているのだが、頭という智と身体という物が一度は切り離され、死後もう一度結びつくというメタファーは何を意味するのか‥‥

 


いよいよ八不中道と空性に入る。八不中道は、『中論』の冒頭を飾る帰敬偈と呼ばれるブッダに捧げられた序で、中観派の代名詞となった感がある。そこには論争の相手を沈黙させる論理が秘められていた。「あなたが縁起と空性を破壊するなら、あなたは一切の言語活動である世界を破壊する。」ブッダの言葉や龍樹によって繰り広げられた言葉の地平が解体された後、その上に火焔のように燃え立ち煌めくものがあるのだ。


 

八不中道

『中道』は、真理表15のⅣにある「〈一切は有る〉のではなく〈一切は無い〉のではない」という命題から導かれる中道・第一義諦の形式であることは既に見た。ブッダは、世間と論争を起こすことはないと弟子たちに説いてきたが、世間と関わる以上論争せずにいられたとは思われない。論争と言ってもブッダはただ「法を語っていた」だけかもしれないのだが。外教徒らは、実在論や世俗諦のみに関わっていたから、第一義諦に関わる『中道』が一つ議論に加わるとたちまち議論は終結したのではないかと石飛氏は述べている。これを龍樹は「一切の見解からの出離」と述べた。

不滅にして不生、不断にして不常、不一にして不異、不来にして不去、戯論寂滅にして吉祥なる縁起を御説きになった、説法者中の最高の説法者である仏陀に敬礼いたします(『根本中頌』帰敬偈 桂紹隆、五島清隆 訳)

八不は、すべて吉祥なる縁起を形容している。目的は、外教徒に法を説くためと同時に仏弟子に悟りへの道を開くためと考えられるという。もう一度ブッダが説かなかった形而上説に戻る。

ブッダの形而上説抜粋
1.「永遠なのは世界である」「永遠でないのは世界である」
2.「有限であるのは世界である」「無限であるのは世界である」
3.「命と身体は同じである」「命と身体は異なっている」
4.「如来は死後存在する」「如来は死後存在しない」「如来は死後存在しかつ存在しない」「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」

1.「永遠なのは世界である」は不生で否定し「永遠でないのは世界である」は不滅で否定する。
2.「有限であるのは世界である」は不断で否定し「無限であるのは世界である」不常で否定する。
3.「命と身体は同じである」は不一で否定し「命と身体は異なっている」は不異で否定する。
4.「如来は死後存在する」「如来は死後存在しない」「如来は死後存在しかつ存在しない」「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」は不来不去で否定するということになる。

このように「中道」は相反する主張をことごとく否定する。それは、相手を返答不能に追い込むという。これは、言語世界から離脱することを意味しているんじゃないのかな。文字通り言語・表象世界を滅することらしい。この間のトドロフの『象徴の理論』でご紹介したことだけど、永遠という言葉は、永遠とそうでないものを切り分ける。言語の特質は二項対立にあり、その永遠の側から意味のネットワークが広がっていく。「中道」は、言語の二項対立の世界からの超越と言えるのかもしれない。

1.~3.までは問題ないと思うので 4. の四句分別に関する不来不去についての解説をご紹介する。マールンキヤプッタとブッダとの会話で 4. は如来の死後について語られている。『ヴァッチャゴッタ火喩経』では、火が消えた時、その火は「去るものでない」と言われ、『雑阿含経』では、生ずるときは、「来るところもない」と言われる。真理表15のⅣから導かれる「〈一切は有る〉のではなく〈一切は無い〉のではない」は「〈来るところ〉もなく〈去るところ〉もない」に置き換えることが出来るだろう。

(正しい智慧によってあるがままの縁起を見ている聖なる弟子でも)『わたしという生きものは、いずこから来たのだろう、いずこへ去っていくのだろう』(と思いまどうかもしれないが)、このような道理はない(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部12.20.20)

「このような道理はない」。それでは、何があるのかと言えば「〈来るところ〉もなく〈去るところ〉もない」中道なのである。八不中道の最後にこの不来不去を置くことによって「如来」における解釈に重大な根拠が与えられることになると著者はいう。如来の死後について論議ができる唯一の可能性が残されるのだ。龍樹独自の解釈に見える「不来不去」は、その根拠を阿含経典に見出すことが出来るというのである。

 

過去生の物語 
ナーガルージュナ・コーンダからの発掘
アーンドラ・プラデーシュ州 インド

空性

かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住処に、多く住している‥‥比丘は、村の想いに集中することはなく、人の想いに集中することなく、森の想いによって独住に専念する‥‥かれはこのように知る。(すなわち) あったのは、村の想いによる不安であるが、それらはここにない。あるのは、この森の想いによって独住する、ただこの不安だけである。

かれは、『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、(それ) は村の想いに対してである』と知る。『空であるのは、この想いのなかにあるものであって、(それは) 人の想いに対してである』と知る。『あるのは、この、森の想いによる独住であって、これだけが、空でないものである』と知る。以上のように、そこ(A)に全くないそのもの(B)によって、そこ(A)を空であると見る。

そこにはまだ余っているものがあるとき、そこ(A)にあるものそのものを、『これがある』と知るのである。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性 (スンニャター) が顕現している(マッジマ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部121)。

『「空 (スンニャ) 」とは、あるもの(A)のなかに何かないもの(B)があるとき、それ(A)をないもの(B)についての空である」』というような言い方で用いられている。空は「膨れ上がったもの」「からのもの」、インドの数学ではゼロを意味する。「森の想い」のなかに「村への想い」がないとき「森の想い」は「村の想い」についての空であるということになるだろうか。「森の想い」についてまだ余ったものがあるとき「森の想い」による独住があると知る。別な例を考えると「人の思想の中に理想がないとき、その思想は理想に対して空である」と言うことになるだろう。村の想いという、この「想」は「名称と色形」から生じる。想いや思惟、言葉は「空である」と特徴づけられている。

最終文で空性 (スンニャター) が登場して「空 (スンニャ) 」との違いが明らかにされる。具体的なあるものについて「空である」という時、スンニャという形容詞が使われ、そのような「空」の見方を一切におよぼしたとき顕れてくる境地を抽象名詞で表現して空性 (スンニャター) としている。「空性」は私たちの言語・表象世界一切を覆い尽くすという。「縁起しているもの、それは空性である」というブッダの言葉を思い出してほしい。龍樹は、空性についてどのように述べているのだろうか。

[真実は]他に依って知られることなく、寂静であり、諸々の言語的多元性 (戯論) によって実体視して語られることなく、概念的思惟を離れ、多義でない。これが[諸法]の真実 (=空性) の特徴である (中論18.9 桂紹隆、五島清隆 訳)

空性があてはまるものに対しては、一切が当てはまる。空があてはまらないものについては、一切があてはまらない(中論24.14)。

あなたが縁起と空性を破壊するなら、あなたは一切の言語活動である世界を破壊する(中論24.36)。

他者とかかわるなら縁起が成立し、言葉を交わすなら空性の内にある。縁起と空性を破壊するなら、あらゆる言語活動によって成り立つ世界は崩壊する。私たちは、気がつこうとつくまいと縁起と空性の中で生きているのだと著者は述べる。縁起するものは空であり、空であるものは縁起する。そして、縁起と空とは同じではなく、異なってもいないのである。ここに議論は終息する。急いで付け加えておこう。

世尊が仰った。「[病因を取り除くべく服用した薬がいつまでも体内に残ると、癒されるどころか、かえって病気が悪化するように]ちょうどそのように、迦葉よ、見解(邪見)をすべて取り除くのが空性なのであるが、他ならぬその空性を[ひとつの]見解とする人がいるのであれば、その人のことを、私は、癒すことのできない者と呼ぶ」(『迦葉品』65 桂紹隆、五島清隆 訳)

 

あるがままの論理 

ブッダの語り方は、対機説法と呼ばれる。中論には、ブッダの語り方をまとめた偈があるという。これは、あらゆる人々をもらすことなく救い上げようとするブッダの大いなる慈悲の網に例えることが出来るだろう。このような偈である。

「すべては、あるがままである」あるいは「(すべては)あるがままではない」あるいは「(すべては)あるがままであると同時にあるがままではない」あるいは「(すべては)あるがままでなくあるがままでないのではない」(中論18.8)

それは真理表1に仮託されているが、命題論理としては、もはや成り立っていない。ある人には、「すべてはあるがままである」と語る。言葉に絡めとられている者には、目覚めの一言になるだろう。別の清浄行に励むものには「すべてはあるがままではない」と語る。ガンジス川の大きな泡を眼のある者は静観し正しく考察するだろう。しかし、それは虚ろで実質のないものである(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部22.95)と知る。それはしばしの虚妄な法であると。十二支縁起を理解するような者には「すべてはあるがままであると同時にあるがままではない」と述べるだろう。その順観と逆観があわせて説明されただろう。そして、禅定を修行する者には「すべてはあるがままでなくあるがままでないのではない」と語られただろう。それは彼らに現実のものとして見えなければならなかったいうのだ。

このようにブッダの論理学は相手に応じて自在に変幻していくのである。そして、ブッダの論理学を受け継ぎ、それを自由に駆使した龍樹が、どのような影響を後世に与えたかは、あまねく知られている。『中論』は、ブッダの論理学を受け継ぎ、その極致を語る聖なる書であると著者は強調してやまないのである。

 


僕は、この著作の何に興味を持ったのか?


時に素晴らしい切り口で仏教にアプローチできる著作に巡り合える時がある。例えば、西谷啓治氏の『正法眼蔵講話』などが、そうである。ギリシアのパルメニデスの思想と道元の思想が比較される。この出会いは意外だった。ロシアの思想家、バフチンにとって社会的コミュニケーションで生まれる「理解」とは、他者の経験を自己の内部に自動的に正確に反映することでも、自己の内部で倍加することでもなかった。この経験を全面的に異なった価値を持つパースペクティブによって、新しい評価と知識のカテゴリーに翻訳することであった。これが、カーニバル的「生き返り」である。

このような新たな価値論的パースペクティブが、今回ご紹介した石飛道子さんの『ブッダと龍樹の論理学』には、あるんじゃないかと思ったのである。おそらく、仏教側からも論理学の側からも色々な批判にさらされたのではないだろうか。しかし、ブッダや龍樹の思想にある種の構造的な枠組みが見えてくる点で大きなメリットがあると言える。単なる思い付きといったレベル以上の内容を持った、このような主張が味わえることは稀である。スッタモンダは、学会内でやっていただければよいのだが、ここから、色々な可能性が見えてくる。フレーゲの述語論理学とブッダや龍樹の論理学との比較へと発展することも可能であるかもしれないし、道元の正法眼蔵を論理学的な枠組みから眺めていくことも可能になるかもしれない。このような試みが増えてくるなら本はもっと面白くなるに違いない。

 

 

参考図書

龍樹『根本中頌』を読む 桂紹隆、五島清隆  とてもバランスのとれた『中道』の訳と解説のある著書。

『論理学の初歩』大貫義久、白根裕里枝、菅沢龍文、中釜紘一  共著  論理学が分かりやすく解説された良書。

 

 

 

 

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』 part1 縁起を導く接続詞

 

不滅にして不生、不断にして不常、不一にして不異、不来にして不去、戯論寂滅にして吉祥なる縁起を御説きになった、説法者中の最高の説法者である仏陀に敬礼いたします(『根本中頌』帰敬偈 桂紹隆、五島清隆 訳)

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』 2007年刊

この龍樹の八不中道にシビレテ以来、いまだに痺れっぱなしになっている。しかし、シビレタまま動けない。そうこうしている内にこんな本に出合った。ブッダや龍樹の経典を論理学を通して解き明かすものだ。これは新鮮というか大胆というか、全く驚いた。意図はまことに豪胆と言える。批判は、かなりあったのではなかろうか。しかし、こういった文字通りラディカルな説が新たな道を模索するには必要ではなかろうか。どのような内容なのか、順を追ってご紹介していきたい。ブッダや龍樹の独特の言い回しには、構造的な理由があるんじゃないかというのは、何となく感じていたけれど、こんなに闡明にしてくれているのは嬉しい。

最近、言葉に興味を持っている。言葉は構造を持っていてネットワークを作り出すことができる。そこには色々な結合のメカニズムがあるのだ。それらを知ることはとても興味深い。そして、この言葉を通して、私たちは感じたことを明確にし、それがどのように生じ、移ろい、滅していくのかを考え、知ることができる。それは私たちの世界観を大きく支配している。しかし、それらは束縛となることもあるのだ。世界はマーヤである。真理と言葉との間に大いなる懸隔を作り出したのはブッダだった。しかし、それを知らしめるためには、言葉を用いるほかはなかった。

石飛道子(いしとび みちこ)さんは1951年、札幌に生まれている。北海道大学大学院博士課程を単位取得退学。北星学園大学を経て札幌大谷大学で特任教授として教鞭を執っておられる。もともと、インドのニヤーヤ学派を学んでいて、その後、それが中観派の需要な著作『方便心論』の強い影響下にあったことを知るようになった。ニヤーヤ学派は、インド六派哲学のうちの一つだが、論理学を自覚的に説いたのは「ニヤーヤ・スートラ」を嚆矢とする。その『方便心論』が阿含経の表現を真似ていること知った。文に一定の形式があるなら、そこに論理学があり、ブッダが論理学を持っていることを確信するようになったのだという。この流れは香ばしい。著書に『ブッダ論理学五つの難問』『龍樹造「方便心論」の研究』『龍樹――あるように見えても「空」という』『「スッタニパータ」と大乗への道』 『「空」の発見』などがある。本書『ブッダと龍樹の論理学』は、いわば基本編の『ブッダ論理学五つの難問』に龍樹の論理学を組み合わせた応用編となっている。

 

ブッダガヤの金剛座 釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた場所とされる。

前5世紀、ブッダ(釈迦)は苦行の果てに何ものも得られぬことに絶望し、全てを放棄してネーランジャラー川に臨む菩提樹の下に座り光明を得た。7日の禅定の後、十二支縁起を悟り、順観と逆観でこれを唱えたと言われる。ヴァーラーナシーの近郊サールナートで、かつて苦行を共にした5人の沙門に苦楽二辺の中道と八正道、そして四聖諦を説いた。それが初転法輪と呼ばれる。この時、既にブッダは論理学の体系を完成していたと筆者の石飛道子氏は述べる。

12項からなる因果関係を説明する十二支縁起と中道によってブッダの論理学の体系は基本的に説明される。四聖諦によってその活用の仕方が具体的に展開され、八正道によってそれをどのように学ぶかが示されるのである。まずは、言葉に表現できない真理と言葉で教説される真理の別があることが知られている。そのブッダの真理を龍樹が解説している。

第一義諦と世俗諦

第一義諦と世俗諦は、ブッダの論理学独自の論理的、思想的用語である。それが龍樹によって『中論』、正式名称は『根本中頌』だが、そこで解説される。二つの真理にもとづいて、諸々のブッダの法の説示がある。

世俗の真理 (世俗諦) と究極的な意味の真理 (第一義諦)とである (中論24.8)。
これら二つの真理を知らない者は、ブッダの教説の深淵な真実義を知らないのである (中論24.9)。
言語の慣用によらずには、第一義は説き示されない。第一義に到達しなくては、涅槃は獲得されない(中論24.10)。

第一義諦と世俗諦という二つの真理がある。「ブッダの教説の深淵な真実義を知らない」とは、「深淵な」が縁起の理法を形容する時の枕詞のように使われることから、この教説が縁起を指していることが分かる。因果関係の体系のことである。第一義諦は涅槃に関わり、世俗諦は言語習慣に関わる。しかし、言語なくして涅槃を説くことができない。これらは、ブッダの阿含経の中で対応していると思われる個所があるという。 第一義諦→涅槃 世俗諦→ブッダの教説

あるものをその通りのものとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと (考え) は、虚偽であるから虚妄な法 (モーサ・ダンマ) はしばしのものである(阿含経典757)。
虚妄ならざる法 (アモーサ・ダンマ) は涅槃である。聖者はこれを真実であると知る。彼らは、真実を現観して、無欲となって、涅槃に入っているのである (阿含経典758)。

虚妄な法=しばしのもの、虚妄ならざる法=涅槃

 


ブッダには、ブッダの論理がある。それは、当然西洋の論理とは異なる部分があり、論理というからには共通の部分もある。論理を明らかにするのは、アリストテレス以来の伝統的論理学とそれから発展した命題論理学が知られている。だが、実際に使われる文を当てはめると支障をきたす部分が多々あり、それをフレーゲが「述語論理学」によって、論理学を新たな色に塗り替えた。ここでは、フレーゲ以前の命題論理学が比較の対象となる。『論理学の初歩』から命題論理学の知識も少しご紹介しながら、ブッダの論理学のそれぞれの要素をご紹介する。


『論理学の初歩』大貫義久、白根裕里枝、菅沢龍文、中釜紘一 共著  論理学を非常に分かりやすく解説してくれる著書。これと読み比べると、とても面白い。

ブッダの論理学体系が認める、文と単語とをまとめて法(ダルマ/ダンマ)と呼ぶ。サンスクリット語のダルマ、パーリ語のダンマは多義的な解釈の難しい語で、「保つもの」「自然なありよう」「習慣・習性」「規則・法則」「ものの真のありよう」などの意味があると言われるが、本書のブッダの教説内部に限るなら「論理学体系が認める文と語」と捉えると理解しやすいと言う。

1.単語 

単語はブッダ論理学体系の中で用いられ用語である。それらは、「存在」「存在要素」などの意味と、「性質」「属性」としての意味に大別される。この意味を龍樹は「名」と呼んでいた。例えば前者では、五蘊、十二処、十ハ界、色、受、想、行、識などは存在要素の名である。後者では「およそ何であれ、生ずる性質(サムダヤ・ダンマ)のものは、滅する性質(二ローダ・ダンマ)のものである」といった文の中の「生ずる性質」、「滅する性質」が、属性の名となる。

通常の論理学で言う概念に関する部分だが、概念の意味内容である内包、その対象範囲である外延といった言葉は出てこない。代わりに属性という言葉が登場している。論理学では、概念を定義するにあたって多義的な言葉や比喩は使えない。

2.文

演繹的な推論は、前提から結論が導かれる。前提や結論は、文からなり推論の基本単位となり、命題と呼ばれる。命題は真か偽のいずれかであり、「どちらでもない」は排除される。この真と偽しか認めない論理学を二値論理学という。真と偽は文の値であり真理値と呼ばれる。ブッダの論理学の基礎でもある。法のうちの文であるが、これは「教え」という名が付けられた。勿論、ブッダの教えを述べた文であるが、ブッダによって説かれなかった無記と呼ばれる文も含まれる。主語には条件があり、上記の単語と指示代名詞は主語になるが、注意すべきは形容詞が主語になる場合である。

形容詞が主語となる文

パーリ語経典  南スリランカ地方のシンハラ語が書かれた表紙とヤシの葉のページで作られている。

「永遠である(サッサタ)」「空である(スンニャ)」などの形容詞であるが、永遠なるものは世界であるというような使われ方をする。この場合、主語と述語が一見逆になっているように見える。ブッダは「悪しき語順の文句によって経典を誤解して学んではならない(アングッタラ・ニカーヤ)」と比丘達に警告している。アングッタラ・ニカーヤは、パーリ語経典の経蔵を構成する5部の中の一つで、増支部と呼ばれる。ニカーヤは部を意味する。悪しき語順とはブッダが説いた本来の語順を転倒させることだと石飛氏は述べている。インドの言葉は語順がいつも逆倒していると誤解された。漢訳された経典では語順が転倒されて訳されたものが多いのである。

命題は、「人間は動物である」「人間は植物ではない」といった、ある概念とある概念の一致、不一致を主張する。命題は主語、述語、それに「‥‥は‥‥である「「‥‥は‥‥でない」といった繋辞とで構成される。一般の文は命題の形式になっていないので、命題の形式に直すことを「標準化形式」というらしい。形容詞や動詞を「‥‥もの」「‥‥こと」のように名詞形にしたり、「すべての‥‥」という全称、「ある‥‥」という特称の形に変えたりするなど、書き換えの規則がある。伝統的論理学では、命題相互の比較から真・偽の推理を行うにあたって三段論法など用いられる。

 

3.否定

命題論理学では、「彼は学生である」は要素命題だが、「彼は学生ではない」は「ない」という結合子が付くために複合命題となる。

本書では、否定は二種類挙げられている。一つは、文にかかる否定(プナサジュヤ・プラティシェーダ)、もう一つは語にかかる否定(パリウダーサ・プラティシェーダ)である。「これは、私ではない、これは自己(本体)ではない」が前者の例で、後者は、「恒常」に否定の接頭辞をつけて「無常」、「自己」に対して「自己ならざるもの(無我)」となる。単語の否定は文の否定よりも比較する対象のコントラストを高めて強力な表現力を獲得する。

実に無明のうちにあるものが、莫迦梵天である。無明のうちにあるものが、莫迦梵天である。実に無常であるものそのものを、恒常であるという。実に堅固ならざるものそのものを、堅固であるという。実に永遠ならざるものを、永遠であるという。実に全一ならざるものそのものを、全一であるという(サンユッタ・ニッカ―ヤ/パーリ語経典 相応部、阿含経典)。

このように単語の否定は、独特な語調を伴って、変化する心の中を描写して相対的な世界の巧みな描き手となる。語の否定によって起こる解釈の多義性については、part2の龍樹の中論の中でもっと詳しく説明されることになる。

 

瞑想するブッダ 1世紀
サリ・バロール遺跡出土 パトナ博物館

4.指示代名詞

命題論理学では、P や q は、不特定の命題を示す記号で命題変項と呼ばれる。本書では、この記号の代わりに「こや」「かれ」といった指示代名詞が使われる。これらの語は、阿含経でも多用される特徴的な使い方になっているようだ。最初に「尊師はこれを語った」と述べた後に「これ」の内容が語られる。ブッダの扱う存在とは「生ずる性質のものは滅する性質のものである」と定義される。それは生滅し、認識されるのだ。この生滅する性質を示すために「これ」を使ったのだという。「これ」と言われれば差されたものを見ようとするのが人情である。「これ」は、言われた時限りの生滅する語であり、やがて認識される。このような表現形式からなる文章は、読む人にとって常にその場その場で成り立つ普遍的な内容として理解されることになる。その都度、認識される生滅するものを表現するために考えられた独特の表現なのである。

 

5.接続詞

概念や、主語・述語の判断、判断に基づく推理を扱う伝統的論理学に対して、文、つまり命題を扱うのが命題論理学である。単独の文は命題素と呼ばれ、文同士は接続詞で結びつけられて、複合文となり、結び付けられる各命題の真偽と接続詞の意味とによって、その複合文も、やはり真偽のいずれかに価値づけられる。この複合文を関数と見て特別に「真理関数」と呼ぶ。論理学で用いられる接続詞は「または(選言)」「かつ(連言)」「ならば(含意)」「‥‥は‥‥と等しい(等値)/すると」の4つがある。否定の「でない」は既にみた。

真と偽に塗り分けられ静止した世界は、接続詞によって刻々と真偽を入れ替える動的な世界へと変貌する。そのような時、ブッダの論理学の思索の流れを無視すると混乱に陥るという。複雑で微妙な表現は、関係の多様性にかかっている。それは真理条件の数によるのではなく、一枚の真理表を語り尽くすことが一切知者を決定づけるというのである。ちょっとゾクゾクする感じがするでしょ。

真理表 単独文〈p〉,〈q〉のそれぞれの項目が真 (T) あるいは偽 (F) の組み合わせは、2²で8通りあり真理表の左側のようになる。1-16まで数字は、ある接続詞を示していて、その下、縦一列のⅠからⅣの4項目にわたって記されている真(T) あるいは偽 (F) は、二つの命題素p、qを組み合わせた複合命題が、真(T)か偽(F)かを判定している。。それでは、具体的にいくつかの接続詞を見ていきましょう。

 

「または」

「または」という接続詞は、真理表の縦列2と10を示している。2は論理和、10は排他的論理和とよばれるものである。10については、後程、接続詞の別のところで述べる。〈p〉が「雨が降っている」、〈q〉が「風が強い」とすると縦列2の場合は、上からⅠ「雨が降っているか、または風が強い」で真(T)、Ⅱ「雨が降っているか、または風が強くない」で真(T)、Ⅲ「雨が降っていないか、または風が強い」で真(T)、Ⅳ「雨が降っていないか、または風が強くない」で偽(F)とする。集合で表すと上の図のようになるのだが、最後のⅣ「雨が降っていないか、または風が強くない」が真か偽かは悩む。ここで、改めて指摘しておきたいのだけれど、命題論理学は、命題の真偽のみを対象とし命題の内容には立ち入ろうとしなかったために限界を生じていた。それをゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)は「述語論理学」を構築して既にそれを乗り越えていたのである。本書における論理学は、フレーゲやバートランド・ラッセル(1872-1970)以前の命題論理学が使われているので、文の意味との整合性を問題にすると時に不都合が起きる。ブッダの論理のための踏み台と考えていただければよい。

「そして」あるいは「かつ」

真理表の8である。〈p〉が真でかつ〈q〉が真の時はⅠのみが真になり、残りⅡからⅣは偽となる。「そして」は、命題論理学において〈p〉と〈q〉を入れ替えることが可能であるが、現実に当てはめると交換可能な場合と不可能な場合がある。交換可能な場合は、「無門は禅坊主であり、大酒飲みである」という複合文。不可能な場合は、「サミッディは、沐浴して衣を身に着けた」である。命題論理学では時間を上手く扱えないと石飛氏は強調する。

 


ここから、世俗諦に深く関わる接続詞のうち非常に重要な三つの要素が解説される。ブッダや龍樹の文章においてよく使われる接続詞である。縁起に関してよく使われる「~(する)とき‥‥」、原因に関する文に使われる「~が(ある)とき‥‥」及び、対義語・相対語の時に使われる「~が(ある)とき‥‥」という三つである。縁起に端を発して、世俗諦、四聖諦との関係が解説される。


 

[縁起「~(する)とき‥‥」] 真理表3

真理表における縦列3がここでは扱われる。ブッダの論理学で最もよく使われる接続詞は「~(する)とき‥‥」で、これは「時を経る」接続詞だという。この接続詞が表す論理関係は「縁起」に関わる。この縁起からブッダの教説が始まるのだ。「これ」に種をいれ、「かれ」に芽を入れると下のような表になるのだが、種が先で芽が後という時間的な順序が設定される。ここでは一般に知られる西洋の真理表とは別の解釈が起きている。一方で、阿含経のブッダの縁起の表し方に沿ってまとめると真理表3に見られるⅠとⅣが基準となる重要な公式が浮かび上がる。

真理表の3「縁起」 〈これ〉ならば〈かれ〉という含意を表す。

ブッダの公式

1.〈これ〉がある時〈かれ〉がある。
2.〈これ〉が生ずるから〈かれ〉が生じる。
3.〈これ〉がない時〈かれ〉がない。
4.〈これ〉が滅するから〈かれ〉が滅する(阿含経典12.49.3,5より)。

真理表 3,5,7

1.の「ある」は普通、存在を意味するが、この場合の「ある」は、認識上の「ある」なので絶対に「有る」ということではない。また、1.の「これ」と「かれ」に入る言葉は、2.から分かるように、生じる性質のものでなくてはならない。2.は、1.の解釈となっている。3.の「ない」も同様に認識上の「ない」を指している。4.3.における「これ」「かれ」が滅することを示すから全体を通じて「これ」「かれ」に入るのは「生滅するもの」でなくてはならないことが分かる。4.は、3.の解釈となっている。1.3.が、実際の公式として真理表3・5・7でも使われることになる。

ブッダの教説から具体的な例を拾ってみましょう。

比丘たちよ、生まれることに縁(よ)って老死があるのは、如来が出る、出ないにかかわらない。その道理(界)は、定まっており、法として確立し、法として確定していて、(それは)「これに縁ること」である(阿含経典12.20.3)。

比丘たちよ、そのままであること、そのまま離れないこと、異ならざることが、「これに縁ること」である。比丘たちよ、これが縁起であると言われる(阿含経典12.20.5)。

生まれることによって老死がある」は、「生まれる」がある時「老死」があると言い換えられる。続いて、「これに縁ること(此縁性/イダパッチャヤタ―)」が法として確立された道理であり、縁起と呼ばれるのである。「生まれること」以外の他の十二支縁起一つ一つについても同様に語られるが、十二支縁起については巻末に紹介しておいた。縁起についての命題の表現は、公式1.の「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」を契機として展開されるのである。そして、「そのままであること」が「これに縁る」ことであることが指摘される。

あるものをそのとおりのものとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと(考え)は、虚偽であるから。虚妄な法(モーサ・ダンマ)はしばしのものである(スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集)。

虚妄な法は、虚偽なるものである、と尊師は語った。一切の虚妄な法は、諸行(サンスカーラ)である。これによって、これらは虚偽である(中論13.1)

ブッダは「そのとおりのもの」は虚偽であるから虚妄な法であるという。それを、龍樹では、一言「諸行(サンスカーラ)である」と述べられる。行とは一切の能動性のことである。虚妄な法とは一切の能動性によって変化する出来事を指すことになり、縁起をさしていることが分かる。そのとおりのもの=虚妄な法=諸行=縁起となる。

サールナート(鹿野苑)初転法輪の地
ダメーク・ストゥーパ

もし、虚妄な法が虚偽なるものであれば、そこでは、いったい何が虚偽とされるというのか。しかるに、このことは、ブッダによって説かれ、空性を説明するものである(中論13.2)。
空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた(中論13.8前半)。

ここ、中論では、虚妄な法がブッダによって説かれ、空性を説明するものであることが明らかにされる。空性とは見解からの離脱であるから言語表現されない涅槃への道となる。この空性は、第一義諦との関連を指し示すから、虚妄な法とは、もう一つの真理である世俗諦を示すことになるだろう。つまり、ブッダの教説である。世俗諦は、空性を説明するために必要とされる。世俗諦の虚妄な法が諸行であるなら、十二支縁起を順観して老死の苦へと至る。同時にそれが涅槃を説明するものであれば、第一義諦は老死から涅槃へと逆観をたどり、その道筋を示す真理となるのである。

これから、四聖諦によって十二支縁起の活用法が示される。世俗諦=虚妄な法→諸行→十二支縁起の順観、第一義諦=涅槃→空性→十二支縁起の逆観という循環が生まれることになる。おおっ! 痛快だ ! ――

 

四聖諦と十二支縁起

四聖諦
①.〈これ〉が苦である、というのが聖なる教えである。(苦諦)
②.〈これ〉が苦の原因である、というのが聖なる真理である。(集諦)
③.〈これ〉が苦の滅である、というのが聖なる真理である。(滅諦)
④.〈これ〉が苦の滅に向かう道である、というのが聖なる真理である。(道諦

この四つの諦 (真理) は、先ほどのブッダの公式 1.、2. に十二支縁起を組み合わせて作られた。ブッダの公式 1.「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」の〈これ〉には「苦である」と考えられるもの、出生、老、病、死などを挿入できる。2.「〈これ〉が生ずるから〈かれ〉が生じる」の〈これ〉が苦の原因であるという時の〈これ〉についてブッダは、5人の比丘たちに「渇愛」と教える。初転法輪の時のことだ。ブッダは煩悩を滅する智を得た時、このように説いている。

〈これ〉が苦であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の原因であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の滅であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の滅に向かう道であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の原因であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の滅であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の滅に向かう道であると、ありのままに証智した。
(『マッジマ・ニカーヤ/パーリ語経典 中部』)
これを繰り返すことによって、十二支縁起の無明から老死に至るすべてを滅ぼして解脱へと導かれるのである。

 

「~が(ある)とき‥‥」真理表5

真理表5 (ために)は僕が勝手に挿入しました。

〈これ〉ならば〈かれ〉、P⊃qという含意を表すのが真理表5である。真理表3も含意だが、縁起を表していたのに対して真理表5は原因を見つけるために用いられる。「苦しみがある時 (その原因である) 渇愛がある」を導く。

論理学で「pならばq」と「qならばp」はどちらも含意で形式的にはどちらも承認される。これを相依相関と呼んでよいのかもしれないが、真理表3の接続詞を出発点とした時、「これがある時」という時間が導入された。時間が組み込まれると相依相関はあり得ない。因果関係は、時間を含み原因と結果の不可逆の関係を示している。

苦しみの原因である〈これ〉に入るものを求めていくのが四聖諦におけるの真理である集諦である。「何があるから苦しみがあるのだろうか」と考え、貪るような欲望である「渇愛」を見つける。つまり〈苦しみ〉が頭に浮かんだあと〈苦しみ〉⇒〈渇愛〉という関係が示される。龍樹の言う了因 (知らしめる因)、すなわち理由付けである。そして、その原因として真理表3における「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」に、〈渇愛〉⇒〈苦しみ〉を当てはめることができる。それは、生因と呼ばれる。原因から結果への導かれる表現は「〈渇愛〉があるとき〈苦しみ〉がある」となる。このようにして因果関係が明確にされるのである。

命題論理学では、この真理表5は p⊃q (Pならばq) という含意の複合命題であり、条件命題と呼ばれている。pはqの十分条件(内包関係)で、苦しみは渇愛の十分条件となる。qはpの必要条件(外延関係)であり、渇愛は苦しみの必要条件となっている。ついでに言うと「内包」とは、その概念を成立させているいくつかの本質的性質の全てを指し、「外延」とは、その概念が適用される対象の範囲を指している。

 

対義語・相対語の「~が(ある)とき‥‥/すると」真理表7

真理表7 対義語・相対語が使われる時に用いられる。

命題論理学では、等値とよばれる接続詞「すると」が使われるが、この真理表7では、対義語・相対語を使うときの接続詞「~があるとき‥‥」として用いられる。真理表5では、「苦しみがある時 (その原因である) 渇愛がある」とした。まず、〈苦しみ〉が頭に浮かび、その原因である〈渇愛〉が続く。その後、「(原因の)〈渇愛〉がないとき苦しみはどうだろうか」と考える。これが、自然な思考の流れだろう。修辞の問題かもしれないが、言葉の自然な流れから言うとブッダの論理学においては、真理表7の最下段Ⅳは、〈これ〉と〈かれ〉が入れ替えられるという。

〈これ〉があるとき〈かれ〉がある。たとえば、〈長い〉があるとき〈短い〉があるように。さらに〈短い〉がないとき〈長い〉は存在しない。自性ならざるものだからである。(龍樹『宝行王正論』1・48,49)。

 


その他の接続詞として真理表の 8、9、10 が、解説される。接続詞「または」を表す真理表10は、真理表2と同じく論理和であるが、排他的論理和と呼ばれる。真理表8は「そして」という接続詞にあたり、真理表9は「善・不善・無記」というような分類を導く特殊な例として挙げられる。


 

~かつ(または)‥‥ 真理表10

真理表 8 9 10

真理表2で「または」については、既に説明している。「バラモンよ、その乳粥を青草の少ないところに捨てよ、或いは生き物のいない水の中に沈めよ(スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集)」などの文に見られる。真理表10も「または」という接続詞が使われるが、排他的論理和と呼ばれる。P EOR qと記号化されている。真理表2との違いは、Ⅰが偽(F)になっていることだ。

有かつ無である行為者が、有かつ無なるそれ(行為)をなす、ということはない。相互に矛盾している有と無が、どうして一つのものとしてあるだろうか(『中論』8.7)。

排他的論理和の集合

真理表10のⅠは、「有」であり、かつ「無」であるものは「一つのものとしてあり」えないので偽(F)とされる。排他的論理和であるために、Pかつqである部分は除かれるのである。

伝統的論理学では、一般にこの排他的論理和が使われる。例えば、ABが相反するものなのに、「AかBかどちらか」という時「AもBもどちらも」というのは日常的な使い方に反する。一方で、命題論理学では真理表2の論理和の方が使われる。というのも同一命題の選言のケースがあり「雨が降るまたは雨が降る」は「雨が降る」で真になるからである。

 

真理表8は、接続詞「そして」である。この「そして」も真理表2で見たように時間的な縛りがあるので、けっして〈これ〉に入る単語や文と〈かれ〉にはいる単語や文を入れ替えてはいけない。

真理表の9~16は、ほとんど使われることがない知られざる世界であり、名づける接続詞がない。9は用例があるので紹介されている。

 

事態が 起こっている/起こっていない 真理表9

真理表9

真理表9では〈これ〉に楽を入れ、〈かれ〉に苦をいれるが、Ⅰ~Ⅳの順がⅡ~Ⅳのように入れ替えられる。真(T)は、それぞれの事態が起こっている。偽(F)は、それ自体が起こっていない、あるいは、成り立たないを表している。Ⅰのように相反するものが両立されている場合は、成り立ち得ないので、感受について何も述べられない。

このうちアーナンダよ、「感受がわたしの自己である」とこのように述べる者は、彼にとっては、次のようなことが言われなければならない、「友よ、これら三種が感受である、楽である感受、苦である感受、楽でも苦でもない感受である。あなたは、これら三つの感受のうち、自己に対してどれを認めるか」と(ディーガ・ニカーヤ/パーリ語経典 長部)。

真理表9のタイプの文は「世俗諦」には含まれるが「第一義諦」には含まれない。それは、「善であるか、または善であらざるものか、または、そのどちらでもない」という法の説き方のタイプに属するからで、「善・不善・無記」という分類の仕方になっている。これに対して「非善門・非不善門・非無記」を述べるのは、摩訶般若波羅蜜多経であるという。何故なら『大智度論』では、摩訶般若波羅蜜多経は第一義悉檀 (しつだん)、つまり第一義諦の特徴を述べているからであると石飛氏は述べる。

 


「縁起」の接続詞を中心にブッダの論理をご紹介した。その論理学のもとであらゆる事柄を記述できるが、西洋の論理とは異なる部分が当然ある。経典に書いてある通りに知りたいなら言葉を操る「虚妄なる法」である「世俗諦」を知らなければならない。それは、ブッダの公式と十二支縁起から四聖諦という活用の方法論から誕生したのである。ここで、ブッダの最後の言葉を取り上げる。


 

クシナガラの地におけるブッダ最後の言葉

ブッダ終焉の地 クシナガラ インド

滅する性質のものは、諸所の事象である。怠ることなく修行しなさい(ディーガ・ニカーヤ/パーリ語経典 長部)。

ブッダの臨終の言葉をパーリ語の語順で訳すとこうなる。ブッダは、臨終において「滅する性質のもの」を想起する、そして、それを「諸所の事象(行)である」とした。ということは、普通、「滅するものの性質=諸所の事象 (行)」と読む。人は誰でも死ぬものなのだから、嘆き悲しむなとブッダが弟子たちに述べている言葉だと勿論、捉えることができる。しかし、もう一つの別な解釈ができるのだと石飛氏は述べている。十二支縁起では、行とは無明を原因とし、その結果生じる形成・志向作用、すなわち物事がそのようになる力であって、そこから縁起が順に識 → 名色‥‥生 → 老死と展開されていく。

すると、諸所の事象(行)を「形成作用」ないし「志向作用」と読むことが可能となる。「滅するものの性質は、形成・志向作用(行)である」と読める。無明 → 行(形成・志向作用)であるなら、逆に見ると行が滅する時、無明も滅するということになる。すなわち、これは涅槃を意味するという。こうして「涅槃をめざして修行を怠るな」という意味が浮かび上がってくるのである。なるほど臨終を前に弟子たちに残す言葉であることが窺える。

こういう意味の繋がりを考える時、語順を変えてはいけないという著者の主張は、説得力を持つ。ブッダの文は「法」とされる語を主語として、時間の流れに沿った、あるいは、思考の順に従った語順で考えられなければならいというのである。ブッダの一つの文の中には、いくつもの動詞や目的語が並列して語られることがよくある。中村元氏は、詩としての形態からそうなっていると見ているが、それらは、多くが似たような表現であるために繰り返しに見える。しかし、石飛氏は、翻訳時に語順や配置には注意が払われたことはないという。実際には一つ一つに意味があり、ブッダには明確な説明の意図があるというのである。

僕が何故、石飛さんの著書を大きな感動をもって読んだのかは、次回part2で述べることにしたいのだけれど、このようなアプローチが仏教に対して可能であるということは特筆に値する。西洋論理学との比較に関する点ではかなり無理もある。本書における筆者の意図は、ブッダの論理学を体系化することでも西洋論理学と折衷することでもないようだ。次回は龍樹の『中論 (根本中頌)』を中心に、第一義諦に迫りたい。

 

 

 

順観 無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触(そく) → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死
世俗諦と虚妄な法と十二支縁起の順観は、一つの真理(諦)に名づけられた異なる名である。

 

付録 十二支縁起(桂紹隆、五島清隆 龍樹『根本中頌』より)

1. 無明→行  無明という煩悩に覆われた者は、三種の(善・不善・不動/身・口・意の三業)を行い、それらの業ゆえに天界から地獄界までの次の行き先(趣)に赴く。
2. 行→識→名色   (一切の能動性/業)を縁として (好き嫌いなどの識別作用・認識作用)が生まれ、行き先に定着する。すると名色が活性化する。

3. 名色→六処  名色 (認識の対象一般とその名称)が活性化すると 六処(眼耳鼻舌身意の六つの感受器官)が生まれ、同じく活性化した六処に至って、六処(感覚)とその対象と、(認識)の三者の (対象との接触)が起こる。
4. 例えば、眼根(視覚器官)と色境(視覚対象) と注意集中とを縁として、つまり名色を縁として眼識(視覚による認識)が起こる。

5. 名色+識+六処→触→受  色境(視覚対象)・眼識(視覚的認識)・眼根(視覚器官)三者の出会いがである(他の五つの感受器官においても同様)。そのから(感受)が起こる。
6. 受→愛→取 受を縁として(渇愛)が生まれ、人は、欲取・見取・戒禁取・我語取という四つの(執着)に囚われる。

7. 取→有  取(執着)があると執着する者には(輪廻的生存)が起こる。実に人が執着を持たないなら、その人は解脱し新たなを持たないであろう。
8.9. このとは五蘊(色・受・想・行・識)のことである。から新たなが起こる。老死の苦をはじめとして、愁・悲・憂・悩、これらすべてがから起こる。このようにしてまれることから純粋な苦の集まりが生じるのである。

10. だから、愚者は輪廻の根本である諸行を行う。業をなすものは愚者であり、賢者は業をなさない。賢者は真実を見るからである。
11. 無明が滅すれば、諸は生じない。無明の滅は、まさにこの縁起による知の修習にある。
12. 十二支縁起の先行する要素が滅することにより、後続する要素は生起しない。かくして、純粋な苦の集まりが正しく滅せられるのである。

逆観 無明 ← 行 ← 識 ← 名色 ← 六処 ← 触(そく) ← 受 ← 愛 ← 取 ← 有 ← 生 ← 老死

無明が完全に残りなく離れ滅することによって、志向作用(行)が滅する。志向作用が滅することによって識別作用(識)が滅する。識別作用が滅することによって名称と色形(名色)が滅する。名称と色形が滅することによって六つの感覚があるところ(六入)が滅する。六つの感覚が滅することによって接触(触)が滅する。接触が滅することによって感受作用(受)が滅する。感受作用が滅することによって渇愛(愛)が滅する。渇愛が滅することによって執着(取)が滅する。執着が滅することによって生存(有)が滅する。生存が滅することによって生まれること(生)が滅する。生まれることが滅することによって老いること、死ぬこと(老死)、愁い(愁)、悲しみ(悲)、苦しみ(苦)、憂い(憂)、悩み(悩)が滅する。このように、これらすべての苦しみの集まりの集起がある(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部12.3 石飛道子 訳)。

 

参考図書

石飛道子『ブッダ論理学の五つの難問』2005年刊 ブッダの論理学の基本編

龍樹『根本中頌』を読む 桂紹隆、五島清隆 『中論』のとても良い訳と解説がある。