テオドール・アドルノ『美の理論』+『補遺』 芸術とは奥歯を噛みしめること

 

アドルノは、こう書いている。「芸術に相応しい態度があるとするなら、それは眼を閉じ奥歯をじっとかみしめて、こらえるといった態度なのかもしれない (『補遺』大久保健治 訳)。」

テオドール・アドルノ『美の理論・補遺』

しかし、何時まで噛みしめていればいいんだ。もう歯が痛い。齢をとれば歯も危ういではないか。骨粗鬆症にもなりやすい。そもそも、芸術は終焉に達しているという議論さえある。長らく噛みしめてきたが、もう終わっているらしい。これは、歴史を通して、繰り返し色々と言われてきた問題なのだけれど、モダニズム以降特に目につくようになったと彼は言う。とりわけモダニズムに対する共産主義による破門宣言は、この問題の展開のエポックになった。

社会的進歩の名のもとに美的な運動は中止を余儀なくされたと言うのである。こうした事柄を思いついた共産党幹部の意識は古くて小市民的なものにすぎなかった (『補遺』)とアドルノは言うが、思想の上で、ヘーゲルが頭ごなしに感性的なものに対する有罪宣言をしたことに発端は、あるのかもしれないともいう。

この判決が、全体主義体制のモダニズム批判への追い風なった可能性はある。ナチズムやスターリニズムを過去の事として安心してはいられないが、問題は、芸術内部にあった。この終焉の議論は、弁証法的に新しいモード (形態) が先行するモード (形態) に対して突如、論争を挑むという形で出現し続けてきた。これはいつの時代にもあったけれど、確かにモダニズム以降クローズアップされて来たものだ。

優れた芸術は、わめきたてる文化哲学にとって単なる点に過ぎないかもしれない。しかし、その点は無限の豊かさを含む。この豊かさに対して、偽りの芸術廃止は野蛮を運んでくるという。芸術は外部から出現することは不可能であり、内在的な継続が必要とされる。それは、そもそも自身を否定して新たなものを展開しつつ持続していかなければならないという二律背反を背負ってきた。自らの没落を、我がものとする運命なのだ。だが、芸術にとって必要なの持続すること」であるとアドルノは言うのである。芸術とは大五郎なのだ。じっと我慢の子であれと言う。

テオドール・アドルノ『自律への教育』

今回は、長らくの宿題だったアドルノの遺作『美の理論』及び『補遺を取り上げたい。以前にアドルノの著作『自律への教育』を訳者の一人である柿木伸之 (かきぎ のぶゆき) さんに御恵送いただいていて、まじめにアドルノの著作を読まなくちゃと思っていたのだけれど、ようやく今回、それにこぎつけた。この『自律への教育』は、アドルノの著作としては読みやすいものだ。「アウシュヴッツをくりかえさない」をテーマに、当時主体だったラジオや新たに登場したテレビといったメディアと教育との問題を扱っている。その半分は、後にマックスプランク研究所の所長となるヘルムート・ベッカーとの対談を収録したものだった。

第二次大戦後、15年を経てもフライブルクなどでのユダヤ人墓地にナチス時代のスローガンが落書きされるといった問題が起こった。その一方で、ホロコーストを過ぎ去った出来事として清算しようといった風潮があった。この著作は、それらに対して「過去の総括の意味」を問うものだった。この問題はドイツの画家キーファーが歴史問題を扱う理由の一つになったことは関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇で少し触れておいた。過去の凄惨な「記憶」を犠牲者たちへの供犠とし、そのための方法として自己の偏見のメカニズムを意識化すること、そのための民主的な教育を重視した。幸福や平和を成就させることのない野蛮を永続化している文化を問う。このことを啓蒙し、自立に到るための権威の内在化とそれからの離脱というプロセスの必要性を訴えるのである。このことは、アドルノの考え方の一つの原型になっているように思われる。

アドルノは、1903年ドイツのフランクフルト・アン・マインに生まれた。ゲーテの生まれた街だ。ユダヤ系の父親はワイン商を営み母はイタリア系の声楽家だった。フランクフルト大学で哲学、心理学を学び、フッサールに関する論文で学位を取得する。この頃、8歳年上のマックス・ホルクハイマーの知友を得る。後のフランクフルト学派の代表になる人物だ。

ここで、何故かウィーンに出てアルバン・ベルクに師事する。音楽に対する憧れは母からの影響だろうが、新ウィーン楽派という新たな音楽の胎動に胸弾ませたのかもしれない。しかし、二年程で作曲家の道をあきらめ、故郷に戻った。学問の研究を再開すると同時にウィーンの前衛音楽雑誌『アンブルッフ』に投稿し始め、音楽批評家として以後も活躍するようになる。音楽に対する愛情は生涯続いた。これはいい。1931年にキルケゴールを主題に教授資格論文を提出し、その資格を得た。フランクフルト大学の私講師をしていたが、ナチスが政権を握ると、教授資格を剥奪される。オックスフォード大学で学位の再取得を目指し、イギリスとドイツを往還したが、ホルクハイマーからの誘いでニューヨークの社会研究所へ移り、1938年にアメリカに亡命することになった。その後、ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』や自身の『否定弁証法』を発表するなど、活躍はご存知の通りと思う。

今回は、具体的な例が多い『補遺』の方を適宜織り混ぜながら『美の理論』の内容をご紹介したいと思っている。部分部分のテキスト群を並列させながら、全体の中である焦点に結び合わせようとする書き方は、読んでいてスッとは頭に入らない。全体を見据えながら部分にこだわるかららしい 。ジャコメッティみたいだ。しかし、少し慣れると宝探しのような面白さがある。いささか、慰めにはなったろうか。手元に置いて折に触れ、読んでおきたい著作だ。

 

芸術への哀悼歌


 

テオドール・アドルノ『美の理論』

「芸術に関して自明なことは何一つないことが自明になった」とアドルノは『美の理論』の冒頭に述べる。それは、骨の髄まで曖昧なものとなった。しかし、ここまでハッキリと言われると何かスガスガしい。

芸術における自由は、それを消えてはまた生ずるような多年生植物のような状態にした。礼拝に奉仕するという機能を振り落として自律性を獲得はしたが、その自律性も人間性を支えに生きながらえてはきた。しかし、社会が非人間化されることによって、それも危うくなったと言うのである。自由と自己の尊厳の名のもとに主観の専制が始まる時、自然美は徐々にその存在する余地を失っていった。芸術は、それにとって不可欠となった世俗化によって憂さ晴らしのためのアトラクションとなり、慰めの言葉を贈り届けると言う罰を与えられている。なんとも情けない話になっている。

芸術作品は経験世界から離脱し、それとは対立する独自な本質を持つ世界を創造し、あたかもこの世界もまた存在するかのように示すものなったのである。古い地層に手をつけて質的に変化させ、異質なものとなる。そうなることができるのは、さまざまな時代を通じて形式の力を武器に既存のものに背を向けたためであった。形式化することによってある種の安定を得てきたが、同時に形式は、既存のものの否定にも一役買って来たのである。彼の考え方はあくまで弁証法的だ。

アルチュール・ランボー 1883年頃 エチオピアのハラールにあったバルデ商事 (皮革やコーヒー豆を扱った) に勤めていた頃。

アドルノにとって芸術作品はモナドだった。となると、彼の唯物論的アプローチは手段に過ぎないのかもしれない。モナドは精神的な最小原理である。窓を持たないが全てを映し出す鏡でもある。たとえ、外的な歴史性を模倣することがなくとも、それ自体が外的歴史性を映し出しているのである。この観点は僕の眼を開かせてくれた。芸術は徹頭徹尾歴史的であると言うが、それを歴史的変化の中で演繹的に導き出すことは不可能であるとも言う。かつて、芸術は歴史的な変革を夢見て反逆の狼煙をあげたが、今日では自身への反逆へと取って代わられている。ヘーゲルの「芸術は没落の時代に入った」という文化批判も低落の歯止めにはならなかった。

芸術のためのレクイエム、その序奏は、ランボーが沈黙の後、詩作を捨ててエチオピアでサラリーマン生活に入った100年以上も前に、既に奏でられていたのかもしれない。今日の美学は芸術への哀悼の辞となるかもしれないが、それに決着を付けようにも、今日の美学はそのための力を持たないと言う。許されているのは、その終末を確認することだ。文化が文化と呼ばれるに値しない野蛮なものの側に寝返ることなのだというのである。さあ、哀悼の鐘を鳴らすのはアドルノだけなのだろうか。

 

モダニズムは精神的テロ行為である。


 

新しさの概念は、禍に満ちた社会的傾向と市場における新しさの概念をない交ぜにしたものだとアドルノは言う。禍に満ちたとは如何なることか、まず見ていこう。新しいものは儚い、それは死にゆくものであり、死にゆくままに任せればよい。これが市民的存在論の根底にある新しさに対する憎悪だと言う。我が縄張りへの新たな侵入者に対する警戒感に等しい。1970年に、この著作が出版されていることを思うとなにか微妙だ。この頃は、科学的進歩が謳歌されはじめ、新しいものへの期待はあったと思う。そのような新しさは、社会的に有用なものとして活用のメカニズムに資してきた。市場における新しさの概念とはこれだ。

芸術に関して社会が保守的であることは、かつても現在も、ピカソの絵が理解できない作品の代表であることをみれば容易に分る。新しさというセンセーションは、そのような故意に作られた市民的恐怖/反感と同時に市民的な活用のメカニズムに順応して来た。現在では、テクノロジーの進化によってメディアアートやテクノロジーアートとか言ったものが進展してきている。それは、新たな手段を持つアートとして期待され、社会に受け入れてもらい易いかもしれないが、安直な合理性や目新しさだけに走るとただ消費されるだけの存在と化してしまうことは否定できない。アドルノは、第二次大戦後、美的な技術至上主義が技術的革新の代わりに芸術そのものの科学化を追求し、そこでは芸術は無力なものになった(美の理論)と言う。

宮川淳 著作集Ⅱ「絵画・あるいは無名の思想」収載
1980年刊

「新しさには、同時に自由への誘惑が輝いている。」この誘惑は魅惑的だ。新しさは、これまであったものを否定するものだが、やがて、これまであったものとなる運命にある。常に差異だけが反復される。モダニズムの質とは、そのようなものなのである。それは時代遅れなものとして捨て去るわけにはいかない。何故なら、支配的な装置に押し込められ、規格化される我々の生活に対する抵抗となっているからだ。しかし、抵抗が増せば増すほど混沌は深まる。

かつて、芸術は神を捨て、今度は芸術そのものを侵犯し続けてきた。この近代芸術の方向性はモダニズムによって先鋭化される。美術評論家の宮川淳 (みやかわ あつし) 氏は、芸術が存在し得たのは、神によってであれ、美によってであれ、常に隠され、偽られることによってであると述べている。

美を犯してでも現実に忠実であろうとした芸術はついに、もはや現実的であることに満足せず、さらにそれ自体が聖なる現実になろうとした。しかし、美術が自己を否定し続けてその先に見たものは「ただの不在であった」と述べている (『絵画・あるいは無名の思想』)。この人は、至極まっとうな美術批評家だと思うけれど、ちゃんと読まれているんだろうか ? 昨年 (2021年) 、オンライントークでお話した、アメリカで活躍されている美術史家の富井玲子さんは、さすがに宮川さんのことに言及しておられた。

モダニズムは精神的テロ行為である。  世界のテロ行為は、それによる悲鳴を圧倒するばかりだが、芸術はテロを拒否する。  しかし、芸術のテロ行為は「公的な文化の低能ぶりにたいする恥じらいとして、その治癒に有効である」という。これは‥‥キビシイね‥‥文化的な貴族意識が窺えるところだけれど、理解できないことを恥じる、あるいは自らの趣味への習慣を犠牲にするといったことを恐れない人には、作品という外部から心の内部へと向かう道が開ける可能性があると言う‥‥ドウカンダ !

工業化が物質生産にもたらした行動様式と新しさという美的範疇を分けて考えることは難しい。特に新たなテクノロジーが目白押しの現在ではそうだ。ベンヤミンが展示を媒介に両者を結び付けられると仮定していたらしいが、この問題は解決されていないとアドルノは述べている。

ボードレールはこう述べたと言う。「こんな貧寒な日々に、一つの新しい産業 (写真産業のこと) が出現して、芸術とは自然の忠実な再現以外のものではないし、またあり得ない、と言う浅薄な愚物どもの信仰を強めることに少なからず寄与した(「1857年の絵画展」に寄せた言葉)大久保健治 訳」 複製技術がアウラを喪失させるというが、全てそういう分けでもなかった。複製の仕方でキッチュなものになる場合もあるが、優れた写真にはアウラが顕現した。例えば、ウージェーヌ・アジェやカール・ブロスフェルトの写真は美しかったし、後のタルコフスキーや黒澤の映像は素晴らしかった。

問題なのは大衆文化の製品には利益が埋め込まれていて、見慣れたものの論理を越えようとする態度が無視されるということなのである。これが、いわゆる〈文化産業〉の弊害だった。これに対して、先鋭化したモダニズムは商品を経験することによって研ぎ澄まされてきた。それは、商品というものを知らない至福の野で咲き誇る薔薇ではないというのである。

モダニズムの歴史が成熟を目指す努力の歴史であるなら、幼稚な芸術に対する嫌悪感が組織化されたものの歴史だとも言える。インテリアという実用に耐え、狭小な合理性に囚われる時、芸術は幼稚なものとなる。同様に、芸術は、その目的を忘れ、手段を呪物化して目的に変えるたぐいの合理性にも反抗して来た。フェティシュにはモダニズムと相いれない部分があるのだ。モダニズムは、このような合理性を越えて非合理的であることを公言してはばからないと言う。しかし、成熟のうちから出現する未熟さもある。それが遊戯の原型であるともアドルノは言うのだが‥‥

芸術作品が自由から生まれることは芸術の誇りであり、自由なくしてその存在は危うくなると言えるが、それは芸術の奸智だとアドルノは言う。そのつど初めて作られるものは、作り出された瞬間に崩壊するような均衡を保っている。それがモダニズムによって闡明化されたテロ行為なのだ。彼は、「芸術作品において自己自身を、つまり部分としての自己を乗りこえて行くものは自己自身の没落を求めるものであって、作品の全体性とは没落の総体にほかならない (『美の理論』)」と述べる。ボードレールによっていち早く禍の鐘が鳴らされた時代、そのような時代から進展してきたモダニズムは死の兄弟だったと言うのである。

 

形式は構成する 直観は飛躍させる 無は創発する


 

パウル・クレー『造形思考』

論理や形式が芸術にとって有害な場合がないでもない。モダニズムは、そのような可能性を突然照らし出したと言う。芸術作品は自らのイデーを充たすために自身のイデーが意図するところを壊さなければならない。これは形式とそこからの逸脱という昔ながらの問題に行きつく。

クレーはこう述べている。「わたしたちはひたすら構成し続けるが、それにしても直観は依然として大切なことである。直観によらなくてもかなりのことはできるが、すべてのことはできない。‥‥原理から言えば、それは直観なしで進められる。それはあくまで論理的でありうるし、構成されもする‥‥ (『造形思考』土方定一 他訳)。」論理の切断やそれへの介入が芸術には必要なのである。

一方、ポール・ヴァレリーは『詩学「カイエ」より』でこう述べている。形式は内容と同じくらい多くの思考をもたらし、母なる観念についての考察と同じくらい、豊かに観念を生み出す。そして、形式には、《自分の思考を表現する》という素朴な問題とは逆向きの問題がある。それによって存在価値を発揮すると言う。というのも、詩においては、これらの規則が我々の技術 (アール) の高貴さを作っていると同時に、いかなる確実さも、いかなる楽な道もなきものにしているからだと言うのである。一方で、詩の規則は、霊感への障害物である。それでも、この束縛/妨害が重要だと述べる。〈霊感〉という素朴な観念は、それが稀なものだと判断され、意のままに獲得されるものではないことを要求する。ヴァレリーにとって規則は思考の調教の技術であり、霊感は精神の無秩序から現れるトポスを照らす稲妻だった。形式は骨格を構成し、内容は筋肉を形成し、霊感によって血が通うというわけだ。

ポール・ヴァレリー 『ヴァレリー集成Ⅲ』
『詩学「カイエ」より』収載

ヴァレリーは考える、自分が望むことと自分に可能なことのあいだを、 自分が見るものと自分がもっているもののあいだを、戦闘を受け入れたり拒んだり、敢行したり思いとどまったりしながら、ジグザグに帆走したりし、計略を用いて擦り抜けたりする術を芸術家の内密な感覚は、本能的に教える機能を持っているというまあ、何かを作ろうとする者なら誰しも思いあたることだろう。面白いのは、ジョイス以降の散文が整合性のある論証的な言語を停止、あるいは目立たないものにしようとしてきたアドルノが述べていることだそのような努力を払っても作品の形式的枠組みを重視し、それに従属させようとしたという

アドルノは、トラークルの詩は論証的論理と美的論理との相違とを示す良い手掛かりであると言う。一続きのイメージは確かに論理や因果律の手続きによるが、意味はずらされ、繋がりにくくされている。日常的な論理の整合性は、ないがしろにされると言っていい。詩人は、存在しないものが存在しているかのように語らせるとアドルノは言うが、それは、見えないものを見えるようにするというクレーのポリシーにも通じるものだった。

連想そのものは仮象だが、その仮象が作り上げていく構造は、音楽的な上昇と下降のなかで、その構成要素が曲線を描き、色あいを分散させるのに似て単純な連想へと傾斜することがない。論理的な繋がりの中に曖昧に変形されたものが紛れ込んでいく。イメージの構成要素は、形式的枠組みを組み立て、詩を組織するが、詩をして単なる偶然や個別的な事例を超えた世界へと昇華させていく。ある瞬間が他の瞬間を引き込む。そのような力能は論理や音楽における結末が要求するような力なのだと言うのである。そこには合理性もありはするが、分散した全てを繋げようとする力といって良いものかもしれない。形式による美学は単純には否定できない問題なのである。ともあれ、アドルノの指摘するようにトラークルが奏でるイメージ配列は美しい。

 

アーメン

腐ったものが朽ちはてた部屋のなかをすべってゆく。
黄色い壁掛けにうつる影。ほの暗い鏡のなかでは、ぼくたちの
手の象牙色の悲しみがアーチを描いている。

茶色の真珠が死んでしまった指のあいだを滑り落ちる。
静けさの中で
ひとりの天使の青い罌粟 (けし) の眼がひらく。

夕暮れもやはり青い。
ぼくたちの死にたえてゆく時、*アズラエルの影、
それが茶色の小庭をほの暗くする。

(ゲオルク・トラークル/吉村博次 訳)      *アズラエルは死の天使のこと

 

形式的な枠組はけっして無視できない。それは、数学的な比例、幾何学的な整合性、緊張や均衡と言った力学的な形式さえも含む。これらの機能を無視するなら過去の偉大な作品を捉えることはできないし、基準として実体化することは不可能になるとアドルノは言う。詩人は、もはや髪振り乱す錯乱家でも、熱に浮かされて作品を書き上げる情熱家でもなく、夢想家に仕える冷徹な学者、ほとんど代数学者であるとヴァレリーは述べている (『文学の技術について』)。

形式は切っ掛けに過ぎないが、内容についての多様な契機から切り離すことが出来ない。形式的枠組み、つまり形式的範疇は形式化されるものに応じて自らに変更を加える。この変更が一貫して否定を通して実行されてきたのがモダニズムの過激化であった。様々に形式の枠組みは回避され無効にされたのである。このような形式と霊感の生動も元々バラバラな要素をいかに一つに結び付けるかという方法の中での葛藤となる。芸術の真実内容は、感覚的なそれぞれ要素からではなく、それらの関係性の中から浮かび上がって来るものなのである。

創造は無から始まる。形式や霊感以前に全てはここから始まる。これはキリスト教的創造のみに限定しない。アドルノは、こんなふうに言う。芸術にある根元的要素に内在する無は、統合をもくろむ芸術を無定形なものに引き下げる。この内在する無が高度に組織化されて行けば行くほど、芸術を無定形なものへと引き下げる引力も逆に増大する。しかし、これらの要素は無に接近する場合にのみ、純粋に生成するものとして全体に溶け込むことができるようになるというのである (美の理論)。関係性を構築する力能は無に接する場に近ければ近いほどその発現と威力を高める。この生成過程が作品自体の歴史的運動であり、それを解釈し、批評することがアドルノにとって作品の「客観的理解」なのである。

ちなみに、逆の面から孔子は、こう述べている。天、性 (人間の実存)、鬼 (霊)、死は定義できないものである。しかし、詩などの芸術によって象徴的に知ることができるという(『論語』)。芸術には定義出来ないものをある仕方で知らしめる力があるというのである。そこに芸術の価値がある。

芸術作品の真実は、概念の尺度から測りえるものではなく、制作の過程において無のトポスから現れる偶然的なものを吸収し、それを内在的必然に変えられるかどうかという点にかかっているのだとアドルノは言う。それは形式と霊感がせめぎ合う場所で起こると言える。霊感は少なくとも意識に上ることであるが、意識に上らないでやってしまえていたことも多い。それは、行為と結果とのアブダクションと言っていいかもしれない。38憶年の生命進化の三つの鍵の内の一つは予測不能性であった。アクションペインティングやチャンスオペレーションといった意表をつくような不確定な要素が創造的な機能を持っていることは否定できない。唐の時代、既に筆が舞い墨が飛んで形を成していった發墨の画家たちの作品や狂草と呼ばれる書が登場している。つまり、根元的要素の形成作用は非線形的なのである。創発はカオスの縁で起きると言うのは実は古くから知られていたことなのかもしれない。  そのことを僕は随分前に書いたけれど、このコンセプトに興味を持ってくれたのはアラン・ロンジノだけだった。文学的に言えば、芸術創造の底には不条理なもの、測り知れないものが横たわっているということなのである。

 

芸術の即物性と芸術の非現実性


 

芸術作品は、当然ながら物である。音楽も楽譜やCDを媒介にするなら物である。演劇や演奏も肉体という現実の物体が行い、音や姿が形成されるなら物と言えなくもない。芸術には、この物質性の他に心地よい響き、調和した色彩、口当たりの良さといった特性があるが、芸術作品を覆うそこはかとなく漂うものである。カワイ~と見せかけたり、ポニョッと表面上に漂い始める例の感覚である。それは際物と化し、文化産業のトレードマークになったとアドルノは言う。感覚的満足は芸術にとって歴史的に敵対的なものになったのである。何故だろう ? 感覚的な魅力は、ベルクの『ルル』やアンドレ・マッソンの作品においては内容の担い手か機能であるという。内的な真実を運ぶ舟と言えるが、そのような場合でも、けっして、感覚的な魅力を目的としてはいないというのだ。芸術が断念したものは、美的に感性的なものを通しての模倣だった。

芸術を精神的なものとだけ規定することは、その物質性を否定することになる。精神的契機と物性は互いに鍛えあう。芸術作品は自らの精神を通して、自己を乗り越える。しかし、その精神は同時に、それに死をもたらすというのである。それは、自己を乗り越えなければならない強制的反省によるのだった。

芸術作品には、感覚的に美的なもの、感覚的に心地良いものが、この数千年に亘り随伴してきた。感覚的なもの作品の現実性に纏 (まと) わりついていたが、この美的なものと物的なものは重層的に重なってはいない。ここで、アドルノは重要な指摘を行う。「物としての構成が、その状態の力によって、作品を物でないものに作り上げる」というのである。内容の現実性が内容を真実性のあるものにするのだ。ルドルフ・シュタイナーは、美は「理念のごとくに出現した感覚的現実」であると述べている。これは正解だった。

理念とは対象化されず、意図どおりに的確に与えられないような客観性だとアドルノは言う。ベンヤミンは、「芸術は出現するものである」と述べた。それは、けっして秘密めいたものではないとアドルノは注釈する。そして、ついに、芸術作品の現実性は、芸術作品にとっても非現実であるという。つまり、妄想であると言うのだ‥‥オイ、オイ‥‥ これがアドルノの否定弁証法の手管でしょうか。芸術作品の物としての状態は、自己を止揚するための媒体なのだと締めくくる。それゆえに、作品の全体性とは没落の総体にほかならず、主観の消滅に他ならないのである。

芸術作品の仮象は芸術作品の精神的本質のうちにその起源を持つと言う。仮象とは簡単に言うと〈見てく〉や<見せかけ>のことだ。アリストテレスの言うように感性世界の仮象と見なすことも、プラトンのように真の存在としての純粋精神と見なすこともできないと言う。芸術は存在であり、精神を存在するものとして眼前に突きつける。こうして仮象としての精神を唯一の存在物として吟味するという。それは、即自存在という欺瞞であり、同時に即自存在としての欺瞞を否定するものである。芸術作品は精神を直接的に感性的なものへ変容させるのではなく、作品の感性的諸要素相互の関係を通して精神になるというのである。‥‥ココは、読んでいてウットリとしてしまう所だ‥‥こんな僕は、ちょっと変なんだろうか。

 

美的仮象の行へ


 

仮象とは芸術作品から現われ出るものとしての仮象であり、同時に芸術作品そのものとしての仮象である。それは、矛盾している。これが芸術作品の美を哲学的に追及できない理由だとアドルノは考えている。少なくとも完全にはできないと言う。もし、芸術の未来を問う問いが不毛なものでなく、技術至上主義の嫌疑を免れるものなら、「芸術は仮象を越えて生き延びれるのか」という一点に向かうとアドルノは言うのである。

美的仮象が19世紀に入って実証主義の台頭によって強化され、芸術は〈事実〉として存在するものと考えられるようになる。部分の寄せ集めで構成されたものに過ぎないことを隠蔽しようとして仮象性は絶対的なものとしての地位を与えられる。ヘーゲルの言う芸術信仰が生まれた。具体的には、ワーグナーの音楽である。この幻影的側面に異を唱えたのは長編小説家であるプルーストやジイドだった。小説の流れに注釈を挟んで中断するやり方は、芸術を人間によって作られたアプリオリに物の世界と置き替えられることを示している。

芸術は生えた角を振り落とそうとする動物のように仮象を振り落とそうとしてきたという。芸術の首尾一貫した反抗は、芸術が芸術以上のものであり得るという不遜な思いを抱かせることとなった。それに対する罰は、単なる物にすぎないものへと逆行することだった。今日の芸術はアウラに対するアレルギーを発症しているが、非人間的な社会性と無関係ではないと言う。芸術作品は狂信的に純粋であろうとするあまり、純粋性そのものを疑い、とうてい芸術とはなり得ぬものを表出するに至った。その行き着いた先がハプニングであったと言う。枠を壊そうとして掘った先は自分の足許だったと言うわけである。ハプニングを強調したフルクサスにも一分の理はあったのだが‥‥。

しかし、真正な芸術作品は、幻影的なものから最後のアウラの吐息さえ拒絶するものに至るまで、ある言語を語り続ける。偶然に主観が語るものに過ぎないものを浄化するための努力を続けるなら、作品の持つ言語は、その努力に応じて、いっそう彫琢されていくものなのである。作品は不可能を現実にする力業である。現状肯定的なイデオロギーに気に入られる作品は、すぐれた芸術は単純なものであると言う命題に方向づけられている。しかし、力業という理念は、芸術行為という概念によっては捉えられない段階に達している時のみ、その実体をさらけ出すと言う。

マルセル・デュシャン (1887-1968) 1920-21
マン・レイ撮影 Yale University Art Gallery

アヴァンギャルドの時代、その芸術と寄席やミュージックホールの出し物とが互いに共感しあっていたのは、この力業故であったかもしれないとアドルノはいう。極端なもの同士が繋がり合えるのではないか。そのような芸術は、内面性を食い物にする中間的な芸術の領域、つまり文化的であろうとして芸術のあるべき姿を裏切っているような芸術領域に対抗していたというのである。内面性、つまり純粋な主観性を強調してきた表現主義は既成のものを否定するあまり、完全な貧困化に陥り、ただの叫びになった。ダダは、この主観性を維持したが、体制的な人間たちの冗談のタネになり、ついに自己自身を冗談のタネとしたというのである。デュシャンの芸術は、そのような土壌から生まれているということはハッキリわきまえておく必要がある。ボイスがデュシャンの沈黙は過大評価されていると言ったのも宜 (むべ) なるかなである。

 

21世紀の美の理論


 

認識は自らの状況から未来を推論すると言う誘惑から逃れられない、それは瞬間のうちに自らを押し込むとアドルノは言う。現在は足枷でもあり、踏み台でもある。「芸術作品は芸術作品自体であり、同時にまた常に、芸術作品自体の他者でもある‥‥本質的に超美的なものは、美的なものから引き離され、両手で握られたかのように錯覚されると、たちまち蒸発してしまうためである (『美の理論・補遺』)」とアドルノは繰り返す。

もはや、芸術家はカスミを掴もうとする地に落ちた哀れな仙人といったところだ。このアドルノの遺作と言われる著作が発表されて既に半世紀を経た。この間に、状況が改善されたとは思われない。そう思っているのが僕だけなら、それは、それで結構なことだと思うのだが‥‥さて、この20世紀を代表する美の理論に対して21世紀の美学を彩る著作は生まれるのだろうか。残念ながらロザリンド・クラウスやジョナサン・クレーリーではアドルノに対抗できない。海仙、山仙の我らは、奥歯を噛みしめながら、次の朗報を期待している。それが、モダニズムの終息宣言であろうとも。アドルノは言う。芸術は謎である。その謎は芸術の本質的体験のうちに消え去る。思考によって捉えきることのできるものは芸術ではない。

 

今回のブログでは、『美の理論』の全体をカヴァーしていません。アドルノ独特のミメーシスの概念や自然美の問題など重要な部分は、まだまだあるのですが、今回はこれくらいにしておきます。続きはまたの機会に。

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

テオドール・アドルノ『否定弁証法』
アドルノの主著

ヴァルター・ベンヤミン
『複製技術時代の芸術』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『トラークル詩集』吉村博次訳
「アーメン」収載。

『アドルノ美学解読』藤野寛、西村誠 編 音楽、美術、哲学などの複数の著者によるが、玉石混淆の感がある。

 

 

 

 

ヘルムート・ベッティガー『パウル・ツェラーンの場所』遠ざかる道程としての芸術

 

ヘルムート・ベッティガー『パウル・ツェラーンの場所』1999年刊

絵画は運動の芸術だといったら、たいていの人は頭を捻るだろう。そういった認識を持つキュレーターにも出会ったことがない。少なくともクレーはそう述べている(『造形思考』)。色彩と形態と質感がその運動の中でほぼ完全な調和を生み出すと静謐が生まれる。ゴッホやセザンヌの作品などにあるような静けさだ。じゃあ、映画は何の芸術かと言えば、時間の芸術なのである。タルコフスキーはそう言っている (『映像のポエジア』)。

絵画にはイメージが存在する。そこには情念定型や、象徴とその連鎖があり、多様な世界と結び合わせる役割を持つ。形態による思考活動と呼ばれるものに通じるが、言葉に汚染されていないイメージを探すのは困難な問題である。今ある世界とは、別な所にあるイメージを探さなければならないからだ。そういう時、アルス・コンビナトリアも役にたつことはあるが、けっしてオールマイティじゃない。

では、詩は何の芸術ナンダ ?  勿論、言葉の芸術だけど、ちょっと違う種類の言葉の芸術なのである。それを教えてくれたのは、パウル・ツェランだった。彼は、言葉を踏み台にして、いわば疎ましいものから言葉を解放し、別の世界を提示しうる詩人だった。ギリシア人は、昔、人は死ねば影の世界に生きると信じていた。しかし、逆なのではないか。私たちは影の世界にいるのではないか ?  それは、なかば脳の生み出すイリージョンなのかもしれない。だからこそ、まれな芸術は現実の存在を垣間見せてくれる。

 

ドイツ語圏を旅するとパウル・ツェランは別人になる。彼がフランクフルトの花屋に入って行くと店員がこう言うのが聞こえた。まあ、ご覧、またユダヤ人だわ。1952年、バルト海沿岸のニーンドルフの47年グループの会合で、パウル・ツェランが歌うように自分の詩を朗読した時、グループのメンバーはただ、笑っていただけだった。この47年グループはインゲボルグ・バッハマンなどを世に出した戦後ドイツの新進文学グループとして知られる。

本書ではツェラーンという表記だが、ツェランが一般的な呼び方なのでこちらに統一させていただいた。

やがて、ドイツ文学者たちはツェランの詩を一つの神話に仕立てしまう。高いもの、深い言葉が輝き出す神話だ。しかし、ツェランの詩は実際の体験と社会的状況とから切り離すことが出来ない。70年代のドイツ文壇が、日常生活体験のつまらぬ詩作によって覆われていた時代、つまり言語的空転期を経ると、ツェランはより高いもの表現する文学の救い手として捉えられ、同時に、それを政治から切り離すために利用されたという。

神学的、哲学的、言語神秘主義的な解釈がなされ、近年では、それに構造主義的で言語学的な断片的解釈も付け加わるテクスト内在的、言語解釈的な学問が隆盛したことによってツェランの伝記は視野から消え、80年代のポストモダン的、脱構築主義的な滑走遊戯ともいうべき流れの中に浮かんでいった。その研究成果は、まさにドイツ文学研究における総覧といった感があったという。

ツェランの詩が人口に膾炙したのは『死のフーガ』を嚆矢とするが、その詩が世に出た時、ドイツ文学界は苛立ちと興奮に包まれた。現在はウクライナに帰属するツェランの故郷であるチェルノヴィッツ、その作家たちとの関連が取り沙汰された。『死のフーガ』に登場する有名な言葉「黒いミルク」は、既に、ツェランと交友のあったローゼ・アウスレンダーが1925年に使用していたし、モーゼス・ローゼンクランツには『血のフーガ』があり、他の詩人たちも似た表現を使っていたと言う。ツェランもまた、チェルノヴィッツという土壌から生まれた詩人の一人だった。

ツェランの『死のフーガ』は、印刷物やテレビ画面に強制収容所の写真や映像と共に掲載され、いわば、読まれ過ぎ、押しつぶされたとツェランは感じたのかもしれない。そのことが彼の詩を単なる線形的な読みではなく、多義的で意味疎通を困難に感じさせる作品へと傾斜させたとヘルムート・ベッティガーは述べている。

ヘルムート・ベッティガーは1956年生まれのドイツのジャーナリスト、作家フライブルク大学で旧東独の作家フリッツ・ルドルフ・フリースの研究で博士号を取得した。「フランクフルター・ルントシャウ」誌の編集部で文芸欄を担当して、様々な役職を経た後、2002年からフリーの作家となっている。ジャーナリストとしての素地の上に、丁寧な取材をベースとして一つの文学世界を立ち上げる人だと訳者の鈴木美紀さんは書いている

1993年にドイツサッカーのドラマを描いた『ノー・マン、ノー・シュート、ノーゴール』を発表。サッカーには思い入れが深いようだ。続いて1996年に。邦訳された本書『パウル・ツェラーンの場所』を刊行している。2006年にブターニュの風景とツェランに関する『詩と風景の読み方』を連打した。2012年に『47年グループ』でライプツッヒブックフェア―賞受賞すると翌年、2013年に『インゲボルグ・バッハマン』を刊行している。

以前、関口裕昭さんの『パウル・ツェランとユダヤの傷』をご紹介しているけれども、今回はツェランの周囲について少し膨らみを持たせている本書をご紹介したいと思っている。

 

ルーマニアからパリへ


 

ユダヤ人であるツェランの伝記を語る上で、両親の強制収容所での死は決定的出来事である。自身も強制労働収容所に収容されていた。ソ連軍に解放された1年後、ツェランはソ連の軍用トラックでルーマニアの首都ブカレストに着いた。1945年、25歳だった。若さゆえか、そこでは意外に明るさに溢れていたという。ユーモアは、この詩人の知的構造の有機的要素として、彼の苦痛に満ちた詩の時代にあっても失われることはなかったと友人のペートレ・ソロモンは述べている。それは、彼の詩の悲劇的体系を損なうものでは無く、逆に補うものなのだと言うのだ。

現在のチェルノヴィッツの街並 ウクライナ

ブカレストのシュルレアリストたちと交流を持った後、1947年、ハンガリーのブタペストを経由してウィーンに入った。そこは、故郷よりも何もかも一回り大きかったが、かつてこのオーストリア帝国の一部であったチェルノヴィッツと何か間違いようのない雰囲気を醸し出していた。はるか遠くにあっても到達しなければならない場所ウィーン、しかし、かつてドイツに併合されていたこの街はユダヤ人には居づらかった。期待とは裏腹に、そこは到達不可能な所となったのである。シュルレアリストのエドガー・ジュネと親交を深め、やがて詩人として名を成すインゲボルグ・バッハマンと相思相愛となったが、翌年にはパリに立った。ウィーンはドイツに近すぎた。

ツェランはジュネに関する文章を残していて、シュルレアリスムにたいする理解が深まっていたことを示すものとして興味深い。既に自己の側から輝かしさを見、輝かしさの側からも自己が見られると言う主客同一の視線が表現されている。このような文章だ。

「新しいもの、つまりまた純粋でもあるものは、ではどのようにして生成すべきか。さまざまの言語や形姿、さまざまなイメージや身振りが、最も隔たった遠い精神の各領域から、夢のようなヴェールをかぶって、夢のようにヴェールをぬいで、やって来ることが願わしいのだ。そして、それらが疾駆のうちに出会い、異なるものが最も異なるものと結婚させられたために世にも不思議な火花が誕生するなら、ぼくはその新たな輝かしさの内部をのぞきこみ、そのかがやかしさもぼくをふしぎそうにのぞき込むだろう。 (パウル・ツェラン『エドガー・ジュネと夢のまた夢』飯吉光夫 訳)」

 

花開く石


 

1952年、シュトゥットガルトの出版社から詩集『罌粟 (けし) と記憶』が出版された。それは、狂酔的で、夢から生まれたかのようで、シュルレアリスムとの関連が窺え、少しリルケの影響が残っていたかもしれない。

ベッティガーは、むしろ、ドイツ・ロマン派が発見した中世のドイツ語で書かれた情熱に関係しているという。夜、心、石、秋、髪といったキーワードが見られるが、これらの詩にあって、意味関連は少しずらされ、境界はぼかされ、容易に解きほぐせない新しい結合となっていたというのである。

その結合は、属格 (英語の所有格にあたる) による隠喩や「のような」といった直喩も見られるなど、その時代の表現主義文学の大物である老ゴットフリート・ベンによって時代遅れと断定された詩的要素だった。ツェランは当時支配的だった文学世界の周縁にいたのである。それは、言葉のリズムや色彩が暗示的にとどまった新しい種類の意味の網細工だった。しかし、全体は自ら一つの世界を映し取り、侵されまいとして、独自の魔力をはなっていたとベッティガーは強調する。

 

コロナ

ぼくの手から 秋は葉を食べる ― ぼくたちは友達だ。
ぼくたちは 時を胡桃の殻から剥いて取り出し それに往くことを教える ―
時は殻のなかへ還る。

鏡のなかは日曜日、
夢のなかは眠っている、
口は真実を喋る。

僕の目は 恋人の性器へと下りていく ―
ぼくたちは みつめあう、
ぼくたちは暗黒を語り合う、
ぼくたちは 罌粟と記憶のように愛し合う、
ぼくたちは 貝殻の中の葡萄酒のように眠る、
月の血の光のなかの海のように

ぼくたちは 抱き合ったまま窓のなかに立つ、彼らは ぼくたちを通りから見る
さあ 知る時だ!
石がようやく花開こうとする時だ、
ざわめく心が鼓動する時だ。
時になる時だ。

その時だ。

(パウル・ツェラン『コロナ』今井美恵 訳)

 

訳は、今井美恵さんの『パウル・ツェラン新論』から引用させていただいている。この人のツェラン論は、脱構築的な書き方で賑やかだ。

絶えざる変化に晒される直接的な体験としての時間とそれ自体の中に閉ざされる思い出が対照的に描かれる。それらを仲介し書き記す行為は、世間一般に通じる自明性とは無縁の、独自の形式を探し求める。詩を書く行為は知られざる、いわば、暗い領域で行われる。落葉と胡桃の記憶、往還する時。恋人との時、過ぎ去る記憶。

そこで、花開こうとする時とは何か?  石とは何を意味するのか?  ブルトンの言う聴く者のひとりひとりの尺度に応じて、石たちは言語をもち、聴く者の知りたがっていることを教えてくれるという太古の会話が花開く時だろうか?

ベッティガーは述べる。詩の形式と内容、具象的なものと抽象的なものが浸透しあい、新しい、煌めく関係の場が生み出されると。

バッハマンとの往還――対話としての詩


 

ツェランがウィーンを去った後、バッハマンは二度パリを訪れている。それは「距離を保った恋愛関係 」と言われた。最初は、1950年の10月から12月で、ウィーン大学でハイデッガーに関する哲学の博士号取得直後のことだ。

 

猶予された時

さらに厳しい日々が来る。
取り消しのときまで猶予された時が
地平線に見えてくる。
‥‥ ‥‥
ルピナスの光はほそぼそと燃えている。
おまえのまなざしは霧の中でシュプールをつける。
取り消しのときまで猶予された時が
地平線に見えてくる。

向こうでおまえの恋人が砂に沈む、
砂は彼女のなびいている髪のぶんだけ高くなる、
砂は彼女に黙るよう命じる、
砂は彼女が死ぬ運命にあり
快く別れを受け入れると思う
一つ一つの
抱擁のうちに

振り返るな。
‥‥ ‥‥
ルピナスを消せ!

さらに厳しい日々が来る。

(インゲボルグ・バッハマン『猶予された時』鈴木美紀 訳) 一部省略している。

 

「取り消しのときまで猶予された時」「おまえの恋人が砂に沈む」「砂は彼女が死ぬ運命にあり」「快く別れを受け入れると思う」「振り返るな」「さらに厳しい日々が来る」‥‥これらの詩句によって バッハマンの『猶予された時』はツェランの『コロナ』に反論するとベッティガーは言う。

バッハマンは、その恋が終焉に近いことを予感している。ツェランの『コロナ』では一体となることが可能な不確かな暗黒の中で語り合い、ぼくが君となることのできる虚構の場所が探し求められる。バッハマンでは、恋人は砂の中に沈み、その場所は砂にうずもれている。彼女には、さらに厳しい日々がやって来るのである。

バッハマンの詩には、暖かさと冷たさ、光と闇といった対極的な関係があり、その感性的要素とは別に、男性的で支配的なものを拒否する傾向が同時に存在するとベッティガーは考えている。2008年にバッハマンとツェラン往復書簡が公表され、その邦訳が三年後に出版された。ツェランの妻であるジゼルは、いくつかの例外はあるが、長らくプライヴェートな書簡類の公開を禁止していたからである。バッハマンは、後にマックス・フリッシュと同棲するが、ツェランに匹敵する人物ではなかった。当然のように破局が訪れ、互いのスキャンダラスな小説の応酬は文学界を騒然とさせた。

バッハマンは、そんな小説『マリーナ』に関するインタビューの中で、18歳から25歳の間の決定的な数年間について語っていて、女性である自分にとって、人格の破壊が起きた時期だったと述べている。18歳の時には、オーストリアには、まだファシズムがあったし、近親相姦的な父がいた。バッハマンはツェランとの出会いによって解き放たれと感じ、アドルノが言及した「アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮である」という発言に抵抗するために詩を書くようになる。そのような召命を受けたのだとベッティガーは言う。しかし、まるで遅延したホロコーストの魔の手によってツェランは自死した。計画された作品集の中で唯一完成した『マリーナ』には、その作品の中に幾つかの死が浮かび上がってくる。ツェランと同様にバッハマンも重い軛を背負っていた。

 

誰のものでもない第三のドイツ語


 

ツェランは1958年(38歳)にブレーメン文学賞を受賞、1960年にドイツにおける最高の文学賞であるビューヒナー賞を受賞し、詩人としての地位を確立し、名声はいや増していた。その頃、イヴァン・ゴルの未亡人によって夫の詩を剽窃したと言う噂がばらまかれ、ドイツ文壇を騒然とさせる事件となった。無実は証明されたものの、ツェランはドイツ人の友人たちとの繋がりを次々に絶っていった。ツェランは、それまで感じていたユダヤ人ゆえの自分に対する差別と迫害に対する思いを一層強めるようになった。

インゲボルグ・バッハマン(1926-1973)
『三十歳』 初めての小説集

ツェランが第二の母と慕った詩人のネリー・ザックスバッハマンと共に手紙のやり取りが多かったのはスイスにいたフランツ・ヴルムである。彼が13歳の時、両親はプラハからイギリスへ彼を逃れさせるために列車の中に押し込んだ。イギリスへのビザはオランダの国境にあるという知らせが来ていた。その時、両親との永訣を予感したと言う。両親も家族の多くもアウシュビッツで亡くなっている。彼は、ジャーナリストとして、教育学の研究所の運営者として、詩人として人生を歩んできた。

ヴルムは、一般に言われるツェランの「迫害妄想」が過敏な感受性によるものだと感じていた。どんな女性でも夜、人通りのない道を歩く時には、たとえ聞こえなくても誰かに50メートル後ろから跡をつけられていないかと思うものだと言うのである。

こんなことがあった。チューリッヒで、ヴルムの知人のチェコの女性とあるサークルで同席となった。ツェランは、しばらく黙って座っていたが、ドアに向かって歩き出すと、彼女に気を付けろ、危険人物だと言い残して出て行った。2年後、その女性はチェコの国家公安局の情報部員であることが分かったと言う。こういった鋭敏な感覚がツェラン自身にも耐えがたいものになっていったとヴルムは言うのである。

ツェランのドイツ語はチェルヴィッツのもので、ドイツともオーストリアのものとも異なるものだった。ヴルムにもスイス・ドイツ語的な要素とともにオーストリア的な抑揚があったと言われる。ツェランは自分の慰めのために詩を書いた作家ではない。彼は自らを告発者、良心の代弁者と感じていた。だから、彼は標準語の、すなわち第三帝国のドイツ語は使えなかった。それとは異なるドイツ語を探した。そのような中で植物学、地質学、鉱物学などの専門用語は、大きな役割を果たしていったのである。

ツェランの言語は母の言語であり、母を殺した者の言語でもある。この二つの言語を区別し、分かつことに彼は力を注いだが、それについての対話は実に苦しいものであったとヴルムは述べている。ツェランの未刊行の詩に『オオカミマメ』と言うタイトルのものがある。それはルピナスのズデーテン・ドイツ語の呼び名だった。ズデーテンはチェコにおけるドイツとの接境地帯で、ツェランの母は少女時代にその言葉をボヘミアから持ち帰った。最も幸福な青春時代の思い出と共に。

ルネ・シャール(1907-1988) 1941

60年代に入るとツェランは益々気難しくなり、人を寄せ付けなくなる。やがて精神に異常をきたすようになった。ヴルムはツェランのために一度ウェーベルンと彼の詩を比較してこう述べた。「この扇のように広げられ、ずらされる音楽 ―― けれども正しく演奏されれば、まさしくシューベルトのメロディーがその間から聞こえてくるのだ (水野美紀訳)」とツェランは、その言葉に感謝したという。

ツェランは躁鬱的な傾向を強め、1965年(45歳)には錯乱状態になり妻のジゼルをナイフで刺そうとした。精神病院への入退院をくり返すようになる。1967年には、パリのゲーテ研究所でイヴァン・ゴルの未亡人と遭遇し、これをきっかけとして、彼の精神状態は極度に悪化した作家のルネ・シャールが精神病院の隔離治療室から彼を引き取った時、彼は狂ってはいない、しかし、ここではそうなってしまうのだとヴルムに語ったと言う。

 

対立の中の存在と不在、あるいはその対話


 

ドイツ文学者ゲルハルト・バウフマン教授のフライブルク大学における講演『パウル・ツェラン 言語に向けての存在』をベッティガーは聴講している。修辞的な型の中で脈打っている対立するものの結合それが絶えず呼び出され、新たな対立へ突き進むための限りなく多くの長い助走があった。それによって、そこに存在する全てが不在の何かを示す。揺れ動く言葉の音楽、これまで聞いたこともない、語られたこともないものの姿が現われる律動をもたらす語りだったという。

ツェランは、フライブルク大学に来校し、朗読を行っている。そこで、バウフマンやハイデッガーとも出会った。対立するものの結合という修辞的な型」、それはツェランの詩にも当てはまるものだった。「黒いミルク」「雨の松明たち」「僕たちは死んでいて息をすることができる」「それは一つの名前を持つ。それは一つの名前を持っていない。」と言った例は枚挙にいとまがない。それは、教授の言うツェランの「説明しがたいものを伝える能力」と結びついたものなのである。同時に、彼は詩の中である示唆を与えても「すぐにそれらを多義的なものへと送り返した」とも言うのである。それは、ウェーベルンの音楽のようであり、マンデリシュタームがベルグソンから学んだものでもある。

だが、それだけではない。彼が一つのキーワードに込める多重の意味は、世界を爆発させると言っていい。何故アドルノがツェランを秘教的文学の重要な代表者だと言うのか (『美の理論・補遺』)。その在り方は魔術的なのである。彼は苦悩を取り上げ、極限的な恐怖と沈黙を通して語ろうとする。それは寄る辺ない人々、そうした人間のもとにある言葉を模している。全ての有機物の下敷きにされた石や星や死の言葉。それを模倣するのだとも言う。この恐怖から沈黙にいたる軌跡を完結した形象でもって再構築する。それは、いわば生命を剥ぎ取られた言葉であり、どのような意味も奪われた死にたいする究極の慰めだと言うのである。

『パウル・ツェラン詩論集』「エドガー・ジュネと夢のまた夢」収載

「詩は‥‥、途上にあるものです――何かを目指しています。何を目指しているのでしょう。何かひらかれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけ得る「君」、語りかけ得る現実を目指しているのです(パウル・ツェラン『ブレーメン文学賞受賞挨拶』飯吉光夫 訳)」 

語りかけえる「君」との対話

感じ取っている者と「君」との、現れ出るものへ眼差しを向けている者と「君」との、現れ出ているものに問いかけ語りかけている者と「君」との‥‥対話。

この対話の空間の中で、はじめて、語りかけるものが形作られる。語りかけ名指す者の周囲に語りかけるものが集まってくる。名指されることによって、いわば「君」となったものが、この現前の中に自分の別の有り様を持ち込むのだ。子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演

ここで、重要なのは「名指されたもの」から「別の有り様」が現れ出ることなのであり、名指す言葉によって別の場所へ運ばれることなのである。そして、一度限りの「いま」「ここ」において、そ「時」を語らせることだとも言う。それ故、扇のように今・此処を開いた時、「どこから」と「どこへ」をも同時に語らせているのである。しかし、それは何処にもない薔薇であった。

 

ビューヒナー子午線


 

ゲオルク・ビューヒナー(1813-1837)の肖像
アレクシス・マストン 画

詩、それは息の通いを意味した。詩は、往還することによって生まれる。地球を巡る子午線のように。詩も、芸術にとってそうであるような道のりを進む。ツェランは子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演』で、23歳の若さで他界したドイツの革命家、劇作家、自然科学者であったビューヒナーの作品を引用している。

谷沿いの石の上で金髪の髪を結っている乙女とそれを助けているもう一人の乙女の姿。「こんな佇 (たたず) まいを彫刻に変えられるなら、ひとはメドゥーサになってもいいくらいだ(『レンツ』)」とレンツは思う。しかし、やがて、生きているとも死んだとも分からない、引き離された恋人のフリーディケのことを思い煩い狂気に陥っていった。

金髪の乙女たちの仕草のように自然なものを自然なままに把握することが出来るなら人はメドゥーサになってもいいとビューヒナーはレンツに語らせている。ツェランは「人はなってもいい」と言っているのであって「わたしはなってもいい」とは言っていないと強調する。そして、これは人間的なものに対峙している不気味な領域への踏み出しでもあると言うのである。メドゥーサになることの誘惑。

同じくビューヒナー作品『レーオンスとレーナ』では、王子であるレーオンスと他国の王女であるレーナが、お互いに相手が誰とも分からない婚姻を避けるために道化役のヴァレーリオによって身代わりの自動機械に扮して結婚式に登場させられることになる。実は、お互いに身分を知らないながら、式場への途上で二人は魅かれ合うという設定になっている。そこには自動機械の不毛がある。

同じく『ダントンの死の中でカミーユが、世間の連中は芝居小屋や演奏会や展覧会の品目のような味気ない模倣品よりほかに見る眼も聞く耳も持たないのだと言い、関節が五脚の韻でカタカタ鳴るあやつり人形やちっぽけな情念や格言に手足をつけて服を着せ三幕に亘っての悪戦苦闘の上、結婚させるか自殺でもさせれば、これぞ芸術 ! と喚声が上がるような安っぽい模造品芸術を蔑むのだ。カタカタなる操り人形の不気味。

ゲオルク・ビューヒナー全集 1970年刊

芸術は既成の無条件な前提としてあるものではなく、メドゥーサのような気味悪さといったものの内にあるのかもしれない。詩は、この芸術同様に気味の悪い、疎ましいものの場所まで進んで行き自らを解放するのだとツェランは言う。疎ましいものの場所=暗闇。詩を書く行為は知られざる、いわば、暗い領域で行われるのだった。

それは、「詩との出会いのために必要な、どこかしら遠いもの、疎ましいものに由来する ―― おそらく詩自身が投企した ―― 晦渋さなのです(子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演』飯吉光夫 訳)」とツェランはいう。疎ましいものの場所は、おのれ自身の周縁にある。

詩との出会いという一瞬にメドゥーサの首は、たじろぎすくみ、あやつり人形はカタカタを止め、婚姻の身代わりの自動機械は停止する。ツェランはふと思う。芸術におけるそれら疎ましいものとそうして解き放たれた「私」と共にもう一つの「別のもの」が自由の身となる。ここで詩は、自己自身となり、自身の上にと還っていく。芸術のない芸術から自由な姿で、これまでとは別の道のりを。しかし、やはり芸術の道のりである道のりを進んでいくとツェランは考えている。一筋に。

 

見知らぬ空の下で
影 薔薇

見知らぬ大地の上で
薔薇と影のあいだで
見知らぬ水のなかで
わたしの影

(インゲボルグ・バッハマン『影の中の影』鈴木美紀 訳)

 

 

 

引用文献 並びに 参考文献

 

今井美恵『パウル・ツェラン新論』

インゲボルグ・バッハマン詩集

高井絹子『インゲボルグ・バッハマンの文学』  バッハマンに対する文芸批評を比較分析するという二次的なアプローチによるバッハマン論。

テオドール・アドルノ『美の理論・補遺』

マーク・ソームズ、オリヴァー・ターンブル『脳と心的世界』三脳生物のジェリコのラッパ

 

科学ものをご紹介するのは久しぶりだし、脳のことも田中力 (たなか つとむ) さんの『脳の中の水分子』以来だ。これは流体トポロジックな脳の形成過程を書いた本で、僕にとっては脳に関する本のベストヒットの一つだが、意識については書かれていなかった。今回は脳と意識について書かれている本であるマーク・ソームズ、オリヴァー・ターンブルの『脳と心的世界』をトリに、脳科学の本と科学とは異なる分野だが、それらを補足するような事柄についても書いておきたいと思っている。ちょっと、M先生に刺激を受けたこともある。でも、‥‥まあ、如何なものだろうか。

 

人間は三脳生物だ !

『グルジェフ弟子たちに語る』

アジアと呼ばれる大陸に、ある非常に賢い三脳生物が存在していた。ムラ―・ナスレッディンと呼ばれるその賢者は、地球上の生存におけるあらゆる特殊な状況に対して適切で含蓄のある格言を放つことが出来た。今、人間が脳と意識の問題にかかずり合っている状況ならきっとこう言うだろう。「自分の膝は飛び越えられないし、自分の肘に口づけしようとするのも馬鹿げている。」

機械的に動く回虫の脳、感性に従って働いたりゆっくり動いたりする動物の脳、仕事というムーブメントを知性だけで理解する者の脳といった三つの脳を人間は持っているグルジェフ・弟子たちに語る』)。あの暗号文書のような『ベルゼバブの孫への話』で、ゴロツキ聖者と言われたグルジェフはそう繰り返した。しかし、ゴロツキはひどすぎる。

 

脳のイリージョン


 

脳と意識の関係は未だに、コンナンな問題だ。眼球に入った光は、網膜に投影される。網膜は光信号を電気信号、つまり光パルスに変換する。その情報は、後頭部の視覚皮質の脳細胞を刺激してものが見えると言うことになっている。しかし、光パルスから実際に見える光景との間は全くのブラックボックスだ。網膜には明暗に関わる桿体細胞と色彩に関わる錐体細胞があり、この錐体細胞には赤、青、緑を感知する三種類しかない。光の三原色に対応する。じゃあ、黄色はどうするの? これは脳が、でっちあげる。つまりイリュージョンなのである。ホウ!

ニュートンに対抗して『色彩論』を書いたゲーテなら喜びそうな話かもしれない。何年か前に美大を卒業した人にゲーテの色彩論を大学で習いましたかと聞いたら、イイエという答えが返って来た‥‥世も末だ。

錐体細胞は網膜の中心近くに集中しているので網膜の周囲は主に明暗に反応している。視界の端は色が減少するはずだし、視神経が眼球壁をつらぬく所は死角なので視野には穴があるはずだけれど一様に綺麗な視界を脳は創り上げている。もう、随分前から色は脳の中にしかないとされてきた。これって、コンピューターが私たちにイリュージョンとして画像や動画を見せ、言葉や音楽を聞かせるのと同じじゃないのと考えたのはトール・ノーレットランダーシュでしたね(『ユーザー イリュージョン』)。

視床 外部からの感覚データのほとんどは、視床を通過して大脳皮質へ至る。視床は、大脳皮質への入り口となっている。

視細胞が数百個しかない眼から脳に送られるインパルスは脳の深奧部の視床に送られる。視床は嗅覚以外の視覚、痛覚、聴覚、体制感覚などの感覚情報の一大中継地であり、いくらかは情報処理の地点でもある。そこから一億個の神経細胞がある視覚野に到達する。視覚情報は後頭葉、聴覚情報は側頭葉、体性感覚は頭頂葉に到着するのだ。そこでは各インパルスが各々の脳葉の一部にトポロジックに投射されマッピングされる。そのため投射皮質と呼ばれることもある。一時投射皮質は感覚器官が受容した情報を直接的に脳にマッピングしているけれど大脳皮質の極く小さな部分を占めるに過ぎない。

続いて、後頭連合皮質と呼ばれる部分は投射皮質と協働して位置、色、動き、光量、コントラスト、空間方向と、より高次の対象認識である注意、視空間操作といった複雑なシステムに関わっていて、投射領域から来る情報を統合している。関連情報を互いに結びつけ、神経的なディレクトリ構築しているのである。こうした連合皮質内には記憶の一部が貯蔵される。その過程で、特定の属性が解釈され、イメージの形態が統合されるというわけだ。ここは、後で登場するエーデルマンの説に関係する。

内省と自己想起の起源

大脳皮質

統合問題に関して、このようなディレクトリを形成するという考え方の他に二つの違った考え方がある。その一つは「40ヘルツ仮説」と呼ばれるもので、例えば視覚経験の間、後頭葉の皮質細胞が同期して発火しているというもので、同時に発火する瞬間が統合されて意識の単位となるというものである。もう一つは外部知覚が内部知覚を基盤としているという考え方である。

これは、アントニオ・ダマシオやマーク・ソームズとオリヴァー・ターンブルが支持している説で『進化の意外な順序』や『脳と心的世界』で紹介されている。心的な装置、それ自体は無意識的なものだが、私たちは内部に眼を向けることによって意識的な知覚を形成するというものだ。脳は、外部環境と身体という内部環境という二つの世界のあいだに置かれている。

内部環境とは、呼吸、消化、血圧、体温コントロール、生殖などに関わる世界である。内臓の働きが心理学的意味で「内的世界 (主観的経験)」を理解する上で決定的に重要な意味を持つとソームズたちは言う。内臓世界が重要なのは、このシステムの働きが基本的な欲求、フロイトの言う「欲動」の基盤を形成するからだとも彼らは言う。欲動が情動として経験されるのだ。内的指向型の脳システムの変化は意識にも影響を与える。

内省や自己想起といった内部に眼を向ける能力こそが本質的な精神の特性だと彼らは言う。意識の背景には自己感覚があると言うのである。この自己感覚は物質的な身体の中で生きていることへの内的な気付きの結果である。コンピューターは、内臓的身体を基盤にした自己への気づきという能力が吹き込まれて初めて意識的なものとなるだろうと言うのである。エッ ?

そういえば、動物の消化管を細部まで裏返したら植物の形態になると言ったのは、三木成夫さんだった。人間は、外側に動物世界と内側に植物的世界を抱えた二重の筒なのである。この二重の筒の連絡役が内観なのだ。ついでに言うと、密教では五臓三摩地観という肝、心、脾、肺、腎という五臓と五行を結び付ける観想法があった (覚鍐/かくばん『五輪九字明秘密釈』)。マンダラは身体の中にもあるのである。

 

0.5秒後意識


 

トール・ノーレットランダーシュ『ユーザー イリュージョン』

ノーレットランダーシュの『ユーザー イリュージョン』に戻ろう。アメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットは、意識が活動できるためには、0.5秒の脳活動を要することを実験で確かめた。脳は、それを時間的に繰り上げることによって0.5秒の時間差をあたかも無かったかのように見せてしまうのである。感覚刺激を感じるのは0.5秒後であるのに、刺激のあった直後のように感じさせる。脳活動が0.5秒以内の場合は無意識の領域での、いわゆる閾下知覚 (いきかちかく) を含めた反応となる。意識は行為を始めたのがあたかも自己であるかのように思わせるが、現実には意識が生じる前から事は始まっているのである。

行為は脳が決定しているのであって、「わたし」、つまり意識ではないとも言えることになる。このことは最近の脳学者さんたちも結構言っていることだが、グルジェフは既にこう語っている。「われわれは自己を制御できない。自分自身の機械を制御できない (グルジェフ・弟子たちに語る』)。」

そうなると、グルジェフの言うように私たちには意志は無く、単なる機械のように行動しているということになる。しかし、救いはある。実行しようとしたことを途中で止めることは出来るのだ。この抑制メカニズムは前頭前野にあり、人間の自由意志の砦となっている。意識は行為を成すことは不可能だが、意思決定の制御や選択は可能なのである。意識は計画行動の青写真を作れないし、脳内の下位組織に指令を下すこともできない。意識ができるのは無意識が提供する沢山の選択肢の中から選りすぐることなのだとノーレットランダーシュは言うのである。行動するのは、意識という「私」ではなく、無意識という「自分」なのである。

「自分」には隠れた観察者がいる。皮膚を刺されると特殊神経系による脳への迅速な報告がなされ、一方、非特殊系にはゆっくりと報告がされ、意識的な自覚を催す。しかし、例えば、皮膚への刺激は、何処にいるのか、誰といるのか、何を触っているのかといった状況、つまり、コンテクストなしに体験することはない。蚊に刺された、画鋲の上に坐った、キスされたなどの判断は何かを意識体験した時にすでに解釈されている。それは生のデータではなく、コンテクストという衣にすでに包まれているというのである。間テクスト的に意味を読み解くということは、意識には排除された情報を拾い出すということに繋がる。

数々のテクストの織物が文学世界を形成していると言うのは、これまた数々の人たちが述べてきたことなので今更なんだと言われそうだが、ちょっと気になる。著作とは、作者である「私」がコンテクストの中で意識的にも無意識的にも意味を織りなしてきた「自分」の作業によって成立するんじゃないだろうか。文学の中で意味を読み解こうとする作業は、その著作と対話しながら無意識に折り合わされたものを含めて追体験することなのかもしれないのである。‥‥チョットヒッカカル

実際には何百ビットという情報量がコンテクストとして毎秒毎秒感覚器官から脳へ流れ込んでいくのに、人が意識的に処理する情報量は毎秒40ビット程度だとノーレットランダーシュは言う。人間が意識できるものは少ない。意識は不要な情報を全てオミットした後に生じる。それは体が食べ物を必要とし多量に摂るとしても人間が食べ物で出来ていないのと同じだと言う。意識も情報を理解し咀嚼した結果で成り立っている。意識は情報を統合する能力であって、そのシステムが持っている選択肢のレパートリーの大きさが問題になる。

 

意識の埒外で働く脳


 

間脳は、視床下部 (自律神経の中枢)、脳下垂体 (ホルモン分泌)、視床 (体性感覚などの大半の感覚を司る)、 松果体 (内分泌)によって構成される。

大脳基底核 大脳の最深部で間脳の周囲を取り囲んでいる。線条体淡蒼球視床下核といった神経核の集まり。

脳全体には1000憶の脳神経細胞、すなわちニューロンがあり、驚くべきことだが、小脳には、そのうち800億個が詰まっているという。小脳は運動調節機能を受け持っていて、筋肉や腱、関節などからの深部感覚、内耳からの平行感覚の信号、大脳皮質からの情報を受け取り、それによって運動の強さや力の加え方、バランスなどを調整する。情報は小脳表面の皮質のローカル・モジュールに送られる。届いた信号は、何かを足されたり、引かれたり、掛け合わされたりして様々に変化して小脳から出て行くらしい。いささか、ショックかもしれないけれど、脳は系統発生的に古いものほど優秀なのである。面白いのは小脳には大脳のように両半球をつなぐ脳陵がない。

 

ジュリアン・ジェインズ 「神々の沈黙」

三脳といえば大脳、小脳、脳幹と分類するのが妥当かと思うけれど、分類の仕方は色々あるらしい。ロシアの神経学者アレクサンドル・ルリアは脳を三つのブロックに分けている。覚醒・トーヌス (持続的活動や緊張)・注意を制御するブロック、感覚データを処理するブロック、計画と認知を行うブロックの三つで、それぞれ、皮質前部皮質後部、基底核のような脳深部の構造に相当する。

大脳の両半球は脳梁で繋がっていて癲癇などの治療のために脳梁が切断されて、分離脳になると二重人格のような状態になることがある。それが神と自己との関係を作った起源じゃないのかと考えたのは、ジュリアン・ジェインズったけれど、そのことは前に書いたので省きます。意識の起源にも関連付けられている。ちなみに、大脳の左半球は言語的、分析的、理性的で、右半球は空間的、全体的、直感的に働くと言われ、左半球が意識系、右半球が無意識系などと単純化されたこともあるが、両半球が協力することもあれば、それぞれ単独で活動することもあるようだ。それほど明確なものではないのである。

小脳の各モジュールには、それぞれをつなぐ回路がなく、小さなコンピューターの集合体のようになっているらしい。そのおかげで、体の動きや他の機能を恐ろしいスピードと正確さで調整できる。各モジュールでは動作がいかに行われるかが定められていて、実際の動きの信号を受け取ると、それらを照合して、修正の指示を出すシステムのようだ、全て無意識のうちにである。

視床‐中核脳幹系に重大な損傷が起きると意識は失われる。ここは人間にとって意識を形成する重要な部分なんですよーということを表している。小脳をまるごと摘出しても人間には意識があると言う。これを知って腰を抜かしそうになったけれど、タダ、普段無意識にできていたことが困難になる。ぎごちなくしか歩けなくなったり、ピアノを無意識に弾けなくなったりするという動作関連に支障が起きるのだ。人間が意識なしに成し遂げてしまえることは意外に多い。自転車に乗ることもそうだけど、ミハイル・バフチンが言うように小説を書いたりすることもそうなのかもしれない。これはアリウルことかもしれないのだ。

 

河本英夫  『システム現象学・オートポイエーシスの第四領域』

大脳基底核もまた、無意識に活動するゾンビ脳らしい。言語発生、動きのコントロールといった随意運動、認知機能、社会的ふるまいや動機付け、感情の調整などに関わる。特筆すべきは、計画を立てる時、考えのまとまりや連想の多くは無意識に基底核で自動的に行われるという。つまり、計画は意識の裏側を通ってやって来るのだ。

そのような意識に上らなくても成し遂げてしまえる行為をいかに記述するかで頭を悩ましたのは河本英夫さんで、それをシステム現象学と呼んだ。小脳や基底核と小説が結びつくかどうかは確かじゃないけれど、考えをまとめることについて、基底核は人に知られている以上に遙かに優れモノなのである。

 

暗黙知が開いた地平


 

暗黙知という言葉が、登場して半世紀以上がたった。著者のマイケル・ポラ二―は物理化学の世界から哲学に向かった人だ。いくつかの貴重な示唆がある。ゲシュタルト心理学では、対象の外見的な特徴が知られるのは、網膜や脳に刷り込まれた細かな要素が均衡のとれた形態 (ゲシュタルト)達した時とされる。

グルジェフは、厚かましい輩は「意識的に考える人」と思われたいと思っているだろうが、二種類の思考活動しかないことを教えてやるべきだという。そのうちの一つは、相対的意味しか持たない言葉というものを用いた観念による考活動であり、もう一つは、地理上の位置や天候、時代、その人が成年になるまで育った全環境に依存して形成される〈形による思考活動〉であると言う。ポラニーは、私たちの認知を可能にするのは、経験した事柄を能動的に形成する形態 (ゲシュタルト) 化がなされるからだと見ている。この能動的形成や統合が知識の成立に欠かせない暗黙的力だと言うのである。これは、意識とは別の統合能力であり、脳の広範囲な協働が必要とされる。

マイケル・ボラ二―『暗黙知の次元』

意味は、意味を支えるものと分離している。目をつむり杖を使って道の感覚をつかもうとする時、手に感じるゴツゴツやカサカサは、やがて道の形状や状態といった情報と関係を持ち始める。最初は手にあたる感覚が解釈によって意味のある感覚へと変化し、手の感覚と杖の先の感覚は離れた所にあるにもかかわらず、ある種の一体感を持つ。その感覚意味は、感覚を感じた場所とは離れた所にある。

身体内部で進行していることも、対象の位置や大きさ、形、運動として感知している。そして、より重要な事は、我々が外界のものに注目するためには、その外界の事物と我々の身体の接触によって生じる感知に依存しているという事実である。外界として経験しているものは、実は私たちの身体に他ならないとポラニーは言うのである。心身は相関しているのだろうか ? 

身体は知的な活動の装置なのだ。私たちは身体内部を統合し、いわば、身体を拡大することによって事物の中に潜入することができる。そして、小説や詩や絵画などの芸術作品において、その理解を催しているのは、作品内に潜入して、その世界を統合し、拡大することによって生じる暗黙知であると言う。

対象をけっして認識できないとする立場もある。しかし、わたしたちは対象をいくつかの断片として見ていて、それらの諸断片を意味あるものとして見ようとしている。脳による脚色はあるにしても、それによって、対象を暗黙的に知るようなになるとポラニーは言うのである。対象は断片では汲みつくし得ない意義深い実在だと言う。より複雑なものは、予期せぬ仕方で自らを現す可能性を持っている。だから心や人物は、小石などより、より深い実在を持っていると言うのである。彼の言う〈実在ハイデッガーの言う〈存在と、トックリ勘案してみてほしい。

 

深層心理学と神経科学


 

ヤサシイ問題とコンナンな問題

マーク・ソームズ、オリヴァー・ターンブル『脳と心的世界』

脳と神経細胞間の生理学的プロセスが進行し解剖学的径路をたどる。それは、いわば、ヤサシイ問題なのだが、一方で、物質的なものから始まって精神的なものに終わるのは、何故なのか分からないコンナンな問題なのである。

一見、心身相関論で片付きそうに思えるかもしれないが、しかし、物質的な関りを持たない思考が、何故、物理的な素材であるニューロンを発火させるのか説明がつかない。それは同時に起こると言うのは説明の回避でしかないし、精神は脳の創発であるというのも同様なのだ。これは知の限界であり、いみじくもムラ―・ナスレッディンの言うように「自分の膝は飛び越えられない」のである。

心身相関論から、人工的なニューラルネットワークにより知的機能をモデル化すれば、AIも人間のような知的な機能、あるいはそれ以上の「心」を持てるのではないかと考え、その開発を目指す動きはご承知の通りだ。機械が心を持っている判断基準であるチューリングテストをパスするコンピーターもある。しかし、我々は自己の心しか認識できないのである。他者の意識は外側からの観察によるしかない。これは他我問題と言われるもので、自分以外にはその意識を確信できないのである。

 

内部環境と意識基盤

マーク・ソームズ、オリヴァー・ターンブルの『脳と心的世界』には、この脳と精神の問題が問われている。もっと厄介な問題がある。脳・神経学と深層心理学との断絶である。本書は精神分析と神経科学を結び付けようとするなかなか興味深い本なのである。紹介が遅くなったけれど今回のメインは本書です。

間脳 大部分は視床で、松果体の丸い粒が付いているのが見える。

脳は、外部環境と身体という内部環境という二つの世界のあいだに置かれている。内臓の働きが心理学的意味で「内的世界(主観的経験)」を理解する上で決定的に重要な意味を持つとソームズたちが考えていたことは既に述べた。内臓世界が重要なのは、このシステムの働きが基本的な欲求、フロイトの言う「欲動」の基盤を形成するからだとも彼らは言う。欲動の変化が情動として経験される。内的指向型の脳システムの変化は意識にも影響を与える。

内臓状態は神経伝達システムのみならず、血流、脳脊髄液循環に乗るホルモンによっても直接伝達される。ここから神経学者アントニオ・ダマシオは、意識の「内容」が外界のモニターである後頭皮質チャンネルに属するものなら、意識の「状態」は身体の内部環境をモニターする上向きの賦活系の産物ではないかと考えた。身体についての「私」の感じが、意識というものの背景であり、その状態は、意味や感じにあふれたものであるという。昨今はクオリアなる言葉もある。そして、私たちの自己を「表象している」だけでなく、今、どのような調子であるかも教えてくれている。最も基本的な私たちの「自己の体現を表していると言うのである。意識は、内観的な機能であるばかりでなく、本来的に価値を知らせてくれるものとなる。

アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序』

意識状態の評価機能の起源は中核脳の内臓モニター構造にある。身体の繊細な秩序と変化をモニターできなければ生存は危うい。そのため進化上の意識の夜明けは、原始生物において純粋に内観的なものであったろう。しかし、内部の欲求は外部を通じてしか満足させ得ない。そのため外部知覚モダリティーにも感じが吹き込まれるようになった。こうして、ダマシオは、意識は単なる内的な状態への気づき以上のもの、すなわち自己の現在の状態と対象世界の現在の状態との絶えざる変化の結びつきよりなると結論付けたのである。しかし、ホメオスタシス一元論のような考え方には、あまり好感がもてない。

意識は自己への気づきという背景を基に私たちの周囲で起きていることへの気づきへと進化した。その基盤の上に様々な意識のチャンネルが一まとまりに結びつけられる。このような意識の状態は、いわば、脳の中の小人、ホムンクルスであり、身体的自己の投影そのものだという分けである。一次的な単純意識はダマシオによれば中核意識と呼ばれる、そして、いわゆる意識の意識は、延長意識と呼ばれた。それは、再表象を伴い言語能力への依存度が高い。

意識が完全に消え去ったなら、それは昏睡と呼ばれる。植物状態には〈無反応性の目覚めと呼ばれる状態で、昏睡状態とは異なることに注意しなければならない。そして、覚醒とは情動的な反応性と意図性に応えるという意識的な行動の中心に位置している。昏睡は、視床を含む中核脳幹核群の破壊によって起こる。では、無意識とは何か。フロイトなら、それをエス(イド)と呼ぶだろう。彼は精神の理性的で現実に則った実行部分は必ずしも意識的であるわけではなく、意識化することさえ必ずしも出来る訳ではないことを認めた。自我活動の極く小さな部分だけが意識活動なのである。自我とは、ほぼ無意識なのだ。オオッ !

 

脳幹核トライアングル・覚醒・神経調整物質

ソームズやヤーク・パンクセップは脳幹にある核群が意識を生み出す場所ではないかと考えている。トポグラフィックな意味での身体のマップは、脳のいくつかの部分に見られるが、上部脳幹にある蓋と背側被蓋にあるもの ( SELFと呼ばれる) が、まず注目される。ここはあらゆる感覚運動モダリティーからの入力を受けていて、その収束地になっている。主要な身体マップと内臓状態の投射とが近接していることは、内的・外的仮想身体が結合した全人的な原初的表象が生み出されることを意味し、原初的な活動傾向をも生み出すことを意味すると言う。ダマシオの言う中核脳の内臓モニター構造とは此処のことだ。そして、そこを取り囲むように、中脳から延髄にかけて広がる網様体賦活系と呼ばれる部位がある。ここの核のひとつである縫線核には抗うつ薬であるセロトニンが働きかけ、抗精神薬のドーパミン遮断薬は腹側被蓋野に、抗不安薬のノルアドレナリンは青班核複合体にそれぞれ働きかけるし、この辺りを切除すると昏睡状態になることが知られていて、意識の起源となる場所はここだろうというのである。

三つの脳幹核 中脳橋被蓋部、背側縫線核、青班核複合体

メッセージ伝達は、シナプス間の伝達によって起こるが、これとは別にシナプス後調節と呼ばれる生理的プロセスがある。それに関係する網様体賦活系は、神経線維が網状に広がる中に神経細胞が散在している脳幹の背側部分だ。そのプロセスでは、神経調整物質と呼ばれる化学物質が大脳皮質全体に対して持続的に働きかける。個々のシナプスやそれらの特定のチャンネルに働きかけるのではなく近隣のニューロン集合全体に働きかけることができる。例えば後に述べるSEEKIGなどの基本情動が起きる時には、大脳皮質をそれに応じた状態に変化させることができるのである。

大脳皮質の覚醒とは、いわば調節機能であって、特定のチャンネル同士のメッセージ伝達の声の大きさの違いに影響を与える。これによって大脳皮質の覚醒は上向きだけでなく、睡眠時に起こるように下向きにトーンダウンすることも可能になる。覚醒には、多く場合に夢と関連するレム睡眠時の覚醒や、オーガズム、基本情動などもある。

神経調整物質は、網様体賦活系を中心に下垂体、副腎、甲状腺、性腺、それに視床下部などから生じているし、一方で神経回路自体からも放出される。この上部脳幹を中心として分泌される覚醒に関わる神経調整物質として知られているものに腹側被蓋野からドーパミンが青斑核複合体からノルアドレナリン が、中脳橋被蓋部と前脳基底核からアセチルコリンが、縫線核からセロトニンが、床下部と結節乳頭核からヒスタミンがそれぞれ場所を中心に分泌される。これらの調整物質は脳内に広く拡散するが、けっして粗雑で鈍いプロセスではないという。神経伝達物質とは異なり効果が持続する。空間的にも時間的にも多くの次元で展開され、鎮痛剤のように必要な個所にのみ活用されるものであるようだ。マインドに仕事をさせるための内的な要求に答えるために覚醒は起こるが、その調整をする物質は主に脳幹と視床下部で生み出されるのである。

 

感情とPAG

中脳水道周囲灰白質 PAGと約される。

外界に対する情報を提供する五感による感覚モダリティー (感覚から来る様相) に対して内的指向型の感覚モダリティーがあり、それによって6番目の感覚であるクオリアが与えられる。一方、情動とは外界に由来する全てのものを取り除いた後に残る意識の側面のことだと言う。覚醒は情動的反応性と意志性に応えるものであり、意識的な行動の中心に位置するものなのである。

神経学者ビヨン・メルケルは鳥類や齧歯類、猫、霊長類といった哺乳類を研究したが感情が共通して脳幹の深部にある中脳水道周囲灰白質 (PAG) に依存していることを確認した。中脳水道周囲灰白質 (PAG) は、中脳水道を取り囲む垂直な円柱構造で快い感覚を生み出す腹側 (下部) と不快な感覚を生み出す背側 (上部) に分かれ、快・不快に関する情動を生み出している。ただし、痛みは快・不快に関わるだけでなく、体性感覚の下位モダリティーにも属する。ソームズは、この場所こそが植物的な目覚めの状態から感情的な覚醒状態が依存しているトポスだという。このような問題からして、ソームズらが重要視しているのがフロイトの論文『快感原則の彼岸』なのです。

中脳蓋及び背側被蓋  SELF
 (Simple Ego-like Life Form)

身体をモニターする上部脳幹神経核と網様体賦活系は調節性の感情ネットワークであり、前脳皮質へと向かう上方向性を持つのに対して、いわば前脳によって覚醒させられるPAGは、覚醒の終点としての下行性ネットワークとなっている。ここからの出力は、筋骨格系や内臓系効果器に送られ、情動そのものを生み出す。つまり、情動で引き起こされる特定の運動行動のほか、心拍数、呼吸、発声、交尾行動の制御に関わるのである。抹消からの求心性の情報と高次中からの情報を統合し、個体の反応をホメオスタシス的に防御するための中心的役割をになっている。生存に関する情報を受け取り、そのバランスをとりながら、外部からのストレスに曝された時の対処戦略を指揮するという情動性を生み出す神経系の大規模な集合地となるのである。

 

基本情動指令システム

動物が環境によりよく適応するためには早期に学習しなければならない。中でも重要なものが、個人的な出来事の記憶であるエピソード記憶」だ。主に前頭葉にあるミラーニューロンはサルの研究で発見された。見ている行為を想像の中に映し出すシステムです。子供が親の行動を内在化する生理的プログラムと考えられるかもしれない。

そのようなプログラムのなかでも最も基礎的なものが基本情動指令システムである。中核意識と言う基盤の上に、解剖学的にも理論的にも普遍的な重要性を持つ自己—対象関係コード化された一連の結合があるという。パンクセップが命名したこの「基本情動指令システム」が、活性化されると「あらかじめ準備されていた」運動プログラムが引き起こされる。その情動システムが LUST (性的欲求)、SEEKIG (探索)、RAGE (怒りー激怒)、FEAR (恐怖―不安)、PANIC/GRIEF (分離―不安)、CARE (養育の欲動)、PLAY (遊び) の7種類である。

大脳辺縁系 帯状回(心拍数、血圧といった自律神経系)+海馬(空間・短期記憶)+偏桃体(攻撃性や恐怖などの情動

基本情動指令システムは、いわば祖先から遺伝によって「受け継がれた」記憶であり、進化上の利点を有する定型行動である。「良い」とか「悪い」とかいった対象は、これらのシステムの内容となり、「情動記憶」と呼ばれ、無意識が意識に及ぼす影響と考えられる。意識は、良い、悪い、無関心といった対象との関りを「再生」する。この能力によって情動は、今現在を越えて延長され、意識的に想起される。グルジェフは、現代人の宗教道徳のようなものも「自動ピアノのように」進むと言った

SEEKING システムは基本情動の中では珍しく不確実性に積極的に関与するという。新しさを求め、リスクを取る行動の起源となっている。この回路のニューロンは、解剖学的には脳幹腹側被蓋野を起点として、そこから上に向かって外側視床下部、側座核、偏桃体から前頭葉皮質へと至る。この回路での化学的な神経調整物質の司令塔は、ドーパミン、いわゆる「夢の素材」であるという。このSEEKING システムは、睡眠中でも喚起されることがあり、意識的な感じが導かねばならない問題解決活動に繋がることがあるという。だから私たちは夢を見るのだとソームズはいうのである 。ちなみに、欲求が満たされると LUSTシステム が作動して快の感情が生み出される。そのシステム は視床下部から起こる前脳基底部に位置する複合的なグループ構造からなっている。「報酬」システムとも呼ばれるが、その指令神経装飾物質がエンドルフィンである。それは、ムラ―・ナスレッディンのいうように「まさに、バラ色、バラ色」なのです

 

大脳皮質の役割

不確かさに対する不安や対立する状況に対して、感情はマインドに意識的な認知の要求を行い、大脳皮質は、そのための生成モデルを構築し、閾値以下で自動的な作動モードが再開されるようにその作業を行う。自動化されていた事柄は、意識化されることによってその速度が緩められる。これが意識的な認知と無意識的認知、感じられる欲動と自律的反射の違いである。フロイトの言うように「意識は記憶痕跡の代わりに生じる」のである。経験からの学習が成し遂げられ、その信頼が得られれば自動モードになる。記憶更新が行われ、再固定化のプロセスが完了する。このように自動化されていた動作内容をマインドの中の短期記憶に留めておくプロセスはワーキングメモリと呼ばれている。

マーク・ソームズ『意識はどこから生まれるのか』『脳と心的世界』より読みやすいけれど内容的には過激かもしれない。

意識が生じるのは自動的な行動が誤差に繋がるとき、言いかえれば行動を生み出す記憶痕跡が予期された結果にならない時なのである。この予測のハズレは、その誤差に対応するために更新されなければならない。したがって、大脳皮質の意識は「進行中の予測作業」ということが出来るとソームズは言う。ワーキングメモリーで更新されている最中の記憶は、もはや記憶痕跡ではなく意識に変換されるのである。それは、皮質の記憶痕跡を不安定な状態にまで溶かし、鋳変えると言える。皮質のプロセスは、放っておけば単なるアルゴリズムになり基本的に無意識である。意識の全ては脳幹から来るという。一度固定化されていた記憶は鋳変えられ、固定された痕跡をそのタンパク質を溶かすことによって帳消しにし、再固定する。消し去ることもできるのだ。予測はシステムの固定化によって自動的に作動できるようになるのである。

意識に戻ることのできる陳述記憶は大脳皮質にあり、経験した像を生み出す。感覚器官の末端からの情報が皮質にマッピングされるからである。これに対して、非陳述型の記憶は自転車に乗ることに代表されるような手続き型の反応を生み出すが、思考可能なものではない。

思考とは何か

思考には、マインドワンダリング、熟慮型の想像、言葉による思考の三つがある。注意がそれて、あらぬことを思い浮かべる流れはマインドワンダリングと呼ばれる。

外部からの特定の刺激がないのに起こる自発的な活動を指している。それは「自身の精神空間を、想像力を働かされながら探索」していると言われる。こうした思考形態と夢との間には、かなりの重複がある。思考の二つ目のタイプは「熟慮型の想像」で、運動衝動を抑制しながら想像行為の中で問題の結果を事前に評価するための予想を行う。この精神的なタイムトラベルを可能にするのは海馬に関わるエピソード記憶である。通常は無意識の皮質の記憶プロセスに、「わたし」という視点をもった質を注入する。ここは、過去の追体験と同時に未来を想像することにも関与する。過去と現在の情報を使って未来に関する予測を行うのである。

言葉による思考は、人間の認知にとって最もユニークなものだ。言葉はコミュニケーションの手段であると同時に抽象化のための手段である。こうした内言語機能による言葉は知覚像の認識の精度を高めることが知られている。先行する刺激に対する処理が後続の刺激に対する処理に影響を及ぼすことプライミングと言うが、こうした発話によらない言葉による非陳述的プライミングは、具体的なイメージによるプライミングよりも意識に対して強い影響力を持つ。ニューロン集団全体のチューニングを変化させ、あるクラスに関する物体よりも、別のクラスの物体に対する存在を敏感にさせる。言葉には意味上のカテゴリー全体を押し上げる力がある。ソシュールの言うラングにおける言葉の繋がりを思い出させる。このような言葉のラベル付けはボトム・アップ型の面倒な学習の手間を省いて他人に直接伝達しうるのである。

大脳皮質は他の基本情動よりもPLAYに貢献している。この「ごっこ」という性質は、現実の動作に対する仮想的な動作すべてや文化的生活全体に関わる生物学的な前駆体なのかもしれないとソームズは言う。フロイトの語りによるセラピーは個人的物語であるナラティブを標的とする介入という分けだ。絵画、音楽、舞踏は、それぞれ視覚、聴覚、体性感覚から立ち現れる質として、少なくとも部分的には感覚的感情とそれらが喚起する意味合いとによって評価されていると思われる。美的体験におけるサプライザル (起こりそうにないことの指標) にも通じる。知覚的クオリアは感情との関係で価値を持つのである。

 

人間の意識の進化――それはどこに行くのか


 

ジェラルド・エーデルマン (1929-2014) アメリカの生物学者 1972年ノーベル生理学・医学賞受賞

「記憶、『』、人格、個性――それは円舞であり、繰り返しであり、世界を巡る鍋だ」とノーレットランダーシュは言い(『ユーザー イリュージョン』) と述べる 。

そのような中で、わたしたちが、当たり前として受け取っている「世界のあり方」、つまり、知覚している世界は、実は、それと記憶しているものなのである。私たちが知覚として捉えているものの多くは、記憶なのだという。ジェラルド・エーデルマンは『思い出された現在』において、私たちが、自分の記憶に保持しているモデルによって知覚した現実を自動的に再構成していると述べている。これが、ゲシュタルトであり、いわば、面影だ。

刻々と新たな世界を知覚しているのではなく、認識出来る対象を改めて識別し直している。現実それ自体は、私たちの知覚装置が選択的にその特徴を抽出していること、そして、記憶はその抽出された特長をこの経験から認識可能な対象へと組織化し変形することによって二重に隔てられているという。

海馬 大脳辺縁系の一部、記憶や空間学習能力に関わる。名称は、タツノオトシゴ(海馬)に似た形に由来する。

進化のある時点で、ご先祖様の体内の内観からくる情報は、快・不快の感情を生み出し始めた。何かが、変だ、お腹が痛いとか気づくようになる。やがて、内観に結びついて意識が生まれ、記憶する能力はエピソード記憶を形成するまで発達する。それは自己としての活動の振り返りであり、特に海馬と関わる。自己意識なしには在り得ないことなのである。そして、自己意識は幾つかの記憶を統合しながら、あれかこれかを選択しうる能力を持つようになった。

意識とは関係性である。内・外との関係において「私はこう感じる」と言うことなのだ。情報の受容・分析・貯蔵・活動のプログラミング・調整・確認を人間は、ほとんど無意識にやってのけている。コンピューターはそのような作業を人間以上にやってのける。しかし、ソームズとターンブルは肉体なしには、意識は存在しないと言う。

グルジェフは三脳生物の特性の第一は、世の中を逆さに見ること、第二は外部から繰り返し内部に入ってくる全ての印象は結晶化し、〈快楽〉とか〈愉快〉とかいった感覚を引き起こす要因となることだと述べ、その働きを器官クンダバファーと呼んだ。同時に、彼は、三脳生物が自らその体内にある神聖なものを意識的に取り入れ、自らの体を神聖なものに形成し直し、神聖で客観的な理性を獲得できるようになるとも述べた (『ベルゼバブの孫への話』) 。しかし、今のところ自己の完成を妨げようとするクンダバファーの活動は、ムラ―・ナスレッディンの言うように「たかまりゆくジェリコのラッパのよう」だ。私たちは今、この高鳴りの中にいるのである

 

 

●著者紹介

神経心理学者、精神分析家のマーク・ソームズは南アフリカ・ケープタウン大学心理学科教授、ロンドンの国際神経‐精神分析センター長、ニューヨーク精神分析協会神経‐精神分析センター長といったキャリアを持っている。精神分析と神経科学を統合するような臨床・研究手法を発展させ、2002年に出版された本書『脳と心的世界』は国際的なベストセラーとなる。
オリヴァー・ターンブルは、ケンブリッジ大学出身の神経心理学者、臨床心理学者で、ウェールズ大学認知神経科学センター上級講師、国際神経‐精神分析学会事務局長を勤めている。病気による失認や作話などの誤信念、特にそのような認知形成における情動の役割をテーマとして研究しているという。

 

参考図書 及び 引用文献

マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ『意識はいつ生まれるのか』2015年刊 そう新しいことを述べている著書ではない。

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ
(1877-1949)
『ベルゼバブの孫への話』 グルジェフはこの本を三回は読めと述べているが、未だに読めておりません。

三木成夫『生命形態の自然誌』

『意識の進化的起源』トッド・ファインバーグ、ジョン・マラット  生命進化の流れの中で意識の発達を考える著書。

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梯 久美子『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』ベールの向こう側の「私」

 

梯久美子『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』

「すぐれた聖職者は、常に自分の祈祷書を携帯しているものだ。これと同じように、芸術家は彼の内に死を携えている」と、ドイツの小説家ハインリッヒ・ベルは述べたと言う。ガーン ! これは痛い所を突かれた。人は、死を携える、おもちゃのようにも鉄鎖のようにも。とりわけ、芸術家には死の匂いを漂わせる者も多い。原民喜 (はら たみき) もまたその一人だった。

どうも周期的に死に対する願望というか憧憬というか畏怖というべきか、やって来る。何かに背中を押されるようにツンのめることがある。もうこんな頭陀袋のような体の中に閉じこめられていたくないという足掻きなのか、故郷に対する郷愁なのかもよくは分からない。年を取れば、その切迫感はいや増して来るのは確かだ。まだ、生きねばならないのかという諦観もある。

日の暑さ死臭に満てる百日紅 民喜(俳号は杞憂)

自分を消したい、消そうとする衝動がある。それが死と繋がっていくものなのか、どうか。原の中学校時代を知る人は、彼が入学してから4年間、その声を聞いたことが無かったと言う。手足も機敏に動かせなかった。回れ右や歩調を取っての行進もできなかった。教練や体操の時間は、あざ笑いとからかいと罵りの対象だったと言う。

魂呆けて川にかがめり月見草 民喜

慶応の文学部予科に進んだ時、同級に山本健吉、瀧口修造、田中千禾夫 (たなか ちかお/後に劇作家)、葦原英了(あしはら えいりょう/後に音楽・舞踏評論家)、庄司総一 (後に小説家・詩人) らがいた。山本健吉にとって俗物には見えなかった学生が原だった。憂鬱そのもののような青白い顔をして打ち解ける者もなかった。同級の瀧口修造にも、三年生からの担当教官だった西脇順三郎にも原の記憶は無かったと言う。

ふるさとの山を怪しむ暗き春 民喜

原民喜 (1905-1951) 慶応義塾大学時代
定本 原民喜全集Ⅱ    青土社に収載 部分

原は郷里の広島で、付属中学の5年生になった時、同人誌に詩を掲載した。同級生熊平武二が思い切って声をかけると慌てて前かがみになり小走りに逃げた。眼に浮かぶようだ。しつこく頼むと「うん」と低い声で言った。初めて原の声を聞いた瞬間だった。彼の文才は校内でも知られていたらしい。彼が、自分の意志で所属したコミュニティーは「三田文学」などほとんどが同人誌であり、文学は原が世界と繋がるための唯一の回路だったと梯 久美子 (かけはし くみこ ) さんは書いている。

今回はノンフィクション作家の梯久美子さんの著作『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』をお送りする。丁寧に取材された内容を密度高く編集されている立派な作品だと思う。小説家、詩人として知られる原民喜 (はら たみき) の世界を本書を中心にご紹介したい。

(かけはし) さんは、熊本のお生まれ。北海道大学文学部卒業後、企業に入社して編集者となり、1986年に編集・プロダクション会社を設立。2001年からフリーライターとなる。2005年『散るぞ哀しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で作家デヴュ―。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞された。他の著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』、『昭和の遺書 55人の魂の記憶』、『百年の手紙 日本人が遺した言葉』がある。2017年の『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』は、第68回読売文学賞(評論・伝記賞)、第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞を受賞されている。

 

死と夢


 

お前が凍てついた手で
最後のマッチを擦ったとき
焔はパッと透明な球体をつくり
清らかな優しい死の床が浮かび上った

誰かが死にかかっている
誰かが死にかかっている と、
お前の頬の薔薇は呟いた。
小さなかなしい アンデルセンの娘よ。

僕が死の淵にかがやく星にみいっているとき、
いつも浮かんでくるのはその幻だ

『死について』 原民喜

 

原は広島の惨劇から辛くも逃れて蟋蟀のように痩せ衰え、飢えと寒さで戦きながら農家の二階でアンデルセンの童話を読んだ。人の世に見捨てられて死んでいく少女の最後のイメージは狂おしいほど美しかったという。これから先、生き延びれるのか、真っ暗な田舎道をとぼとぼ歩きながら、暗い地球に覆いかぶさる夜空を見上げた。そこには、ピュタゴラスを恍惚とさせた星の宇宙が鳴り響いていた。

ネリー・ザックス (1891-1970) 1966年

原が「大地の愛に胸を浸した母性の豊かな想像力」と讃えた作家セルマ・ラーゲルレーヴ、彼女の援助によってナチスの手からスウェーデンに逃れた詩人ネリー・ザックスは、かつて、こう述べていた。「死は私の先生でした。私のメタファーは私の傷です。」そして、こう詠った。

‥‥
子供たちが死ぬときには
つねに
人形の家の鏡たちが
ひとつの息に曇る、
子供の血の繻子を着た
指の*リリパットの踊りを見なくなる―
双眼鏡のなかで
月にうっとりした世界のように
動きのない踊り。

子供たちが死ぬときには
つねに
石と星と
そしてたくさんの夢が
故里を失くすのだ。

(『生き残った者たち』より 網島寿秀 訳)  *リリパット/ガリヴァー旅行記に登場する小人の国

 

童話的な世界を同じように設定しながら、この二人の世界はかくも差を見せる。ザックスの世界は、現実の中に痛みが沈み込む。彼女は恋人をゲシュタポに殺され、ユダヤ人であることによって精神的な傷を負い、精神障害を繰り返しながら生きた作家だった。原の世界はあくまで夢のようなベールがかかっている。彼の踵は大地から浮いて死に接しているともいえる。それが原という作家の天性だったのかもしれない。原はこう書いている。

「嘗て私は死と夢の念想にとらわれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いていた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかったのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂喜の如く熱愛してくれた妻がいた。その後私は妻と死に別れると、やがて広島の惨劇に会った。うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支えてくれたのは、あの妻の記憶であったかもしれない。そのことも私は『忘れがたみとして一冊は書き残したい。そして、私の文学が今後どのように変貌していくにしろ、私の自画像に題する言葉は     死と愛と孤独       恐らくこの三つの言葉になるだろう。‥‥‥十数年も着古した薄いオーバーのポケットに両手を突っ込んで、九段の壕に添う夕暮れの路を私はひとりとぼとぼと歩いている。(『死と愛と孤独』)

 

青春の挫折


 

原民喜 撮影年未詳

梯さんの著書に戻ろう。原は1905年、広島市の幟町に父信吉、母ムメの第八子として生まれたが上の兄二人は早世した。姉が二人、妹が二人いたが、姉二人も原が成人する前に亡くなっている。

ちなみに中原中也は1907年生まれで、父親の転勤で1909年から広島に3年ほど住んでいて、広島女学校附属幼稚園に通っていたというからかなり近い距離に住んでいたことになる。対照的な二人が、幼い頃、街ですれ違っていたと思うと何か不思議だ。

生家の原商店は、軍服、制服、天幕、雨覆いなどの製造・卸を行う陸海軍・官庁用達の繊維商で、1984年、日清戦争が始まり大本営が広島に置かれた年の創業だった。軍都広島の発展が原商店の発展でもあった。工場の他に複数の貸家もあり、かなり豊かな暮らしぶりだったと言う。

しかし、原は生家が戦争成金で、自分は工員たちから搾取した金でのうのうと生きてきたという負い目があった。生家が質屋だった宮澤賢治を思い出させる。

そのこともあってか一時、左翼思想に染まった。昼夜逆転生活がたたって、予科から学部へ進めず、結局5年も予科に在籍していたが、やっと慶応の文学部英文科に進んだ1929年 (24歳頃) から1931年の時期である。マルクス主義文献に触れ始め、読書会であるリーディング・ソサイティと弾圧された革命活動家への救援を目的とする国際組織である赤色救援会 (通称モップル) での活動へと進展していくことになる。所属は日本赤色救援会の東京地方委員会だった。

下宿の部屋を会合に提供していたのは分かるが、驚くべきは広島地区の組織拡充のための勧誘活動を行うというオルグの指示を受けて帰郷していたことだった。後に、これを知った友人一同唖然としたと言う。第一、勧誘と言ってもちゃんと喋れるとは思えなかったのである。原は1931年に検束されたが、短期間で釈放された。これを機に赤色救援会を離脱し、その運動を断念したと言う。

原の生涯で唯一社会に向かって能動的に働きかけようとした事件だったが、短期で終わってしまった。1932年、27歳で大学を卒業。卒論はワーズワースだった。友人の長光太 (ちょう こうた) の下宿に転がり込み、ダンス教習所の受付の仕事に就くや横浜の開港場のちゃぶ屋の女性と同棲する。相応の金を払った上で身請けしたようだが、半月もしないうちに逃げられている。

何もかも上手くいかなかった。挫折の連続を味わったのである。ひっそりと耐えたが二階の原の様子がおかしいのに気づいて、階段を駆け上がった長は、原の枕元にカルモチンの壜が転がっていたのを見た。芥川龍之介も金子みすゞもこの睡眠薬で死んでいる。しかし、多量に飲んだために吐いてしまっていた。長に揺り起こされた原は、一生、誰にも言わないでくれと低い声で頼んだと言う。

 

最愛の妻の死と家族の死


 

定本 原民喜全集 Ⅰ 1978年刊
「華燭」「昔の店」収載

こんな息子でも身を固めさせれば何とかなるだろうと思うのは親や親戚である。1933年、27歳の時に6歳年下の貞恵と結婚した。広島県、三原の出身だった。梯さんは結婚式の様子を彷彿とさせるような原の作品『華燭』を紹介してくれている。

母は夫から初めて聞かされる言葉は大切だから嫁に言い聞かせてやりなさいという。見合いの席で一言も口をきけなかった相手に何といったものやら思い惑った。大きなテープルを挟んで向かい合ったが、段々気づまりになってくる。早く何とか言わないと一生ものが言えなくなるかもしれない。相手は高島田の首を重そうに縮めている。

思い余って一声を放った。「オイ ! 」 あんまり大声で怒鳴ったものだから、自分の方が喫驚した。もう破れかぶれだった。「君は何と言う名だ ?」 我ながらなんとアホな事を聞いたのだろうと思ったが、もう遅かった。嫁は黙ってこちらを見つめるばかりだった。気が気でない。「オイ !」「なんとか言え ! 何とか !」 花嫁は、やおら赤い唇を開いた。「何ですか ! おたんちん ! 」「おたんちん ?」初めて聞く言葉だった。キョトンとして花嫁の怒れる顔を眺めていた。

ハハハ ! 面白い。この作品は1939年 (昭和14年) に三田文学に発表されている。貞恵は、ものにこだわらない明るい性格で、愛くるしい小柄な丸顔の人だったと言う。夫の才能を信じ、作家になるという夫の夢を自分のものとするような妻だった。ソウルメイトと言ってよかった。彼女と過ごした日々が原にとって最も幸福な時期であり、最も多作な期間だった。生活力のない原と別れて帰ってきたらどうだという実家からの誘いも頑として受け入れなかった。しかし、その妻も結婚して6年後に肺結核を発病し、5年後に亡くなっている。この痛手は想像にあまる。原にとって重大な死別の記憶がその他に二つあった。

定本 原民喜全集Ⅱ 1978年刊
「愛について」収載

一つは次姉の死だった。何気なく語る姉の言葉、死んでいく人の語るこの寓話が少年の微妙な魂の瞬間を捉え、胸に響いて全生涯にわたって木霊した。

画家は王様から天使の絵を描くように依頼され、公園にいた一人の可憐な少年を見つけてモデルにした。その純粋な美しさは評判となりその絵は宮殿に保存された。年月は流れて、今度、王は悪魔の絵を所望した。牢獄を巡り歩いて凶悪な相の男を探し出してモデルとした。その絵は天使の絵にも増して賞賛を得た。画家は、感謝のしるしに王宮にある自分の絵をそのモデルの男にみせた。すると、その囚人は天使の絵を見ながら嗚咽の底からこう呟いた。この絵は私なのだと。(「愛について」)

この21歳の姉を失ったのは小学校高等科1年生の時だった。それより前の小学校5年の時に、父親が51歳で亡くなっている。父の死は、原の精神的支柱と呼ぶべきものの喪失であったかもしれない。梯さんはその頃の様子を原の作品「昔の店」から紹介している。

父が健在の頃は、店の雰囲気も従業員たちも彼にとって親密なものだった。営業を終えると店の奥は兄弟の遊び場であり、丁稚と共に王様ごっこや猛獣狩りなどを演じて興じた。店から工場までの道のりは「四五町の距離がワクワクと彼の足許で踊り出す」し、工場の裏手の川が「素晴らしくおもえたのは、そっくり父の影響だったのかも知れなかった」と書いている。しかし、父が亡くなると自分は日向から日陰にうつされたかのようで、そこには味気ない死の影が潜んでいた。学校から帰ると自分の部屋に引き籠り、もう滅多に誰とも口をきかなくなったと書いている。(「昔の店」)

 

夏の花


 

原民喜全詩集

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依る変化ヲゴランナサイ
肉体ガ恐ロシク膨張シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカエル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス

(原民喜『原爆小景』)

原は、まるで広島の惨禍に会うために帰郷したようなものだったと述べている。妻の死の翌年、看病のために千葉に来ていた義母も里に帰り、空襲も激しさを増してきたので、1945年2月に原は広島に吸い寄せられるように帰った。39歳の時である。兄の家業を手伝うという名目だった。広島は、空襲にさいなまれていなかった、取っておかれたように

日ノクレ近ク
眼ノ細イ ニンゲンノカオ
ズラリト川岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ顔ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ 細イ眼ニ
翳ッテユク 陽ノイロ
シズカニ オソロシク
トリツクスベモナク

(原民喜『日ノクレ近ク』)

 

以前ご紹介した心理学者のロバート・リフトン博士は、目の象徴的イメージは、はるかな普遍性を持っていて、死者からの凝視は、生存者が自分は生き残ったということを罪悪と感じ、その「非を責める目の所有者」と一体化させてしまう(『ヒロシマを生き抜く』)という。しかし、原の描写はあくまで静かで深い。そのことが、ことさら心に響く。梯さんは、この文体は文学者としての原がこの状況を描写するために選んだ形式であると考えている。それまでの作品とは一線を画しているのは確かだ。

原民喜『戦後全小説』「夏の花」収載

原自身はこう書いている。「原子爆弾の惨劇の中に生き残った私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく引き出された(『死と愛と孤独。」被爆という空前絶後の経験によって原は地面にたたきつけられたと言ってもよいのかもしれない。

そして、被爆後、一つの決意が生まれた。リフトン博士は、過酷な体験を可成りな程度まで克服できると、生存者は自分の過去から生命肯定の要素を呼び出すことが出来、「能動的な緊張」と「はつらつとした現実感覚」を取り戻すことが出来るようになるとしている(『ヒロシマを生き抜く』)。

自分は奇跡的に無傷だった。そのことが、この惨状を伝えよとの天命と感じられた。自分の仕事は多かろうと書いている。原は亡くなった妻が用意してくれていたように簡単な医薬品やオートミール缶の食料、そして手帳と鉛筆の入った雑嚢袋を持って逃げていた。その手帳に原爆の有様をメモしていく。それは、現在、原爆資料館に収蔵されている。

ギラギラノ破片ヤ
灰色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剝ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ

(『夏の花』より)

『夏の花』に掲載された唯一の詩である。梯さんがこの著書に掲載した原爆詩は、この作品だけだった。それは、梯さんの見識といって良いとも思うが、ぼくは原爆詩を皆さんに知ってほしいと思ったので『日ノクレ近ク』や『原爆小景』をご紹介した。この「ギラギラの破片‥‥」の詩以外、『夏の花』は、全編、被爆後のドキュメントとなっている。この文章は手帳のメモがかなり正確に使われていて、1945年の秋頃には執筆されはじめ、まとめられた作品は1946年の12月半ば、原の亡くなった妻の実弟である東京の佐々木基一が編集していた『近代文学』への原稿として送られている。

原民喜夫妻  定本 原民喜全集Ⅰに収載

最初のタイトルは『原子爆弾』だった。当時、進駐軍の検閲は事前と事後に分けられていて、時事問題を扱う雑誌である『近代文学』は事前検閲が課せられていたと梯さんは指摘している。日本人の検閲官に内閲してもらったが、とても通らないと言われたと言う。結局、題名を『夏の花』に改め、一部削除して1947年6月に検閲のない「三田文学」に掲載された。

『夏の花』は、実は妻の墓参りのシーンから始まる。八月四日、原は黄色い花を買って墓前に供えた。小弁の野趣あふれた、いかにも夏らしい花だったと書いている。夏の黄色い花というとキンレンカか黄色の百日草と言ったところかもしれないが、僕は長らくこの夏の花を夾竹桃だと思い込んでいた。黄色い夾竹桃は無いですよね。妻の墓参りと被爆後の描写との間に何が在るのか、義弟への思いやりだけではなかったろうと思われる。

 

民喜の死


 

梯さんの、この著書は原民喜の自殺のシーンから始まる。鉄道自殺、いわゆる轢死だった。最も恐怖が募る自殺の仕方と言われる。彼の文学は作家の意識の流れを描くような作風に変わっていったようだが、おそらく早すぎたのだろう。理解されないままだった。そして、原は、一瞬で周囲の事物が崩壊するような恐怖を感じないかとある編集者にもらしている。稲妻の光にも椅子から腰跳ね上げるほど体震わせたという。PTSDがあったのは確かなようだった。そのような中でも、若い文学志望者である遠藤周作との心のふれあいを深めていた。祖田祐子という若いタイピストとの出会いにも繋がり、原に心の安らぎを提供していたのである。やがて、遠藤もフランスに立った。

‥‥
すべての別離がさりげなく とりかわされ
すべての悲劇がさりげなく ぬぐわれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えているいるように

私は歩み去ろう 今こそ消え去っていきたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

(原民喜『悲歌』)

 

まるで傷のある手で周囲をまさぐって生きることをよぎなくされた人のようだった。これは心の強さ・弱さといった問題ではなく、心の感度の違いと思っていただきたいが、心であろうと体であろうと痛みは人を衰弱させる。彼にとって、この地上に生きていくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ちていた。日毎、人間の心のなかで行われる惨劇、人間の一人一人に課せられているぎりぎりの苦悩、そういったものが、彼の中で烈しく疼く。それらによく耐え、それらを描いてゆくことが私にできるであろうかと自問を繰り返す(『死と愛と孤独。耐えがたい現実があった。しかし、原の「私」はベールの向こう側にいる。原爆が、ぱっと剥ぎ取ったのは、ヒロシマの街だけでなく、原のこのベールであったかもしれないのである。それでも、その「私」は「現実に向かって傷だらけになる私」とすれ違い続けた。

何もかも整えて去っていった。数か月前から友人を訪ね、それとなくお別れをしていった。友人や家族に宛てた17通の遺書、遠藤には航空便用の封筒に宛名が書かれ切手も貼られていた。ある友人には形見としてのネクタイが置かれてあった。残されていたのは『心願の国』の原稿とタオルが入った風呂敷包み、別の友人への折カバンと黒いトランクくらいだったという。

葬儀の時、柴田錬三郎は「あなたは死によって生きていた作家でした」と語りかけ山本健吉が『夏の花』の一説を朗読し、弔辞を読んだ埴谷雄高は、「原民喜さん 広島でうち倒れて あなたの静謐な諧調正しい鎮魂歌を奏でられた多くの人々の許へ そしてまたあなたが絶えずそこから出て そこへ帰っていった奥さんのもとへ安らかに行ってください」と結んだ。生前刊行されたのは『焔』と『夏の花』の二冊のみだった。

こうして、原民喜はベールの向こう側へ帰っていった。そこは安らぎの場所だったろうか。しかし、一つの疑問が残る。彼が亡き妻へ「忘れがたみ」として書き残したいと述べた一冊とは、どの作品なのだろう。それとも、それは苦しみの死の彼方にあるもう一つの美しい死であったのだろうか。

 

今宵
わたしは角をまがって
暗い裏通りを行きました
するとわたしの影が
わたしの腕にまとわってきました
この擦りきれた衣は
着てもらいたかったのです
そして無の色がわたしに話しかけてきました―
あなたがいるのは向こう岸なのよ !

(ネリー・ザックス『燃え上がる謎』より 網島寿秀 訳)

 

参考図書 及び 引用文献

 

『ネリー・ザックス詩集』 2008年
未知谷 刊  1966年ノーベル文学賞受賞

梯久美子
『散るぞ悲しき』

梯久美子『狂うひと』

セルマ・ラーゲルレーヴ『キリスト伝説集』

北川典子『いま一度 原民喜』

 

 

松山俊太郎 part2 『蓮と法華経』世界文学としての法華経

 

蓮の花 太陽存在としての蓮

身のない胡桃の殻を振って気をひこうとする人も多い中で松山俊太郎さんは巨大な胡桃の実を創り出したが、殻から取り出すことなく亡くなってしまった。真に惜しい。

彼が50年に亘る蓮の研究の中で探求して来たもの、恐らくその中で最も重要な要素は蓮と法華経の関係ではなかったろうか。はるかかなたのエジプトで原初の湖の中から生まれたロータスは太陽神ラーともホルスとも考えられ、バビロニアやペルシアを経由してインド入る。

そして、太陽存在としての釈迦は白蓮華と結びついて法華経に結実する。この壮大な仮説を松山さんは、研究の重要な眼目としていたはずである。今回は、この白蓮華としての釈尊、そして、それに対応する紅蓮華としての宝塔如来という松山仮説をご紹介しましょう。

釈迦と蓮華についての逸話は幾つかあって、例えば、ラリタヴィスタラ (普曜経/方広大荘厳経 )では、釈迦が摩耶夫人の胎内に入る際に、六百八十万由旬 (5千万から1億キロ) もの深い地下の水から、大蓮華が大地を破って出現し、梵天界にまで伸びて、その花にオージョービンドゥというソーマのような蓮華の蜜が生じて、梵天が菩薩であった釈迦に献じるという話になっている。

また、こちらの方が有名だけれども、摩耶夫人は蓮華を携えた6本の牙を持つ象が体内に入るのを夢に見て懐妊し、釈迦は生まれると7つの蓮華の上を歩いて「天上天下唯我独尊」と語った。そして、蓮と関連したもう一つの話として、釈迦の前世譚の一つと関わる無熱悩池 (むねつのうち) の話があるのですが、それを題材に宮澤賢治が『インドラの網』書いている。その要約をご紹介しましょう。

 

宮澤賢治(1896-1933)

宮澤賢治の『インドラの網』要約

于闐 (コウタン) 大寺を砂から掘り出したという主人公は、風と草穂の底に倒れながら、ツェラ高原のコケモモのカーペットの上を歩く幻想に陥った。そこは気圏の上方、キンキン痛む空気の中、はるか向こうには、ソーダの結晶のような (無熱悩池の) 白い湖が見える。その水は彼の手の中で青白く燐光を発している。眼を覚ますと夜になっていた。

その桔梗色に底光りする空間に素敵に灼きつけられ、研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音もなく流れ、鋼玉の小砂利も光り、岸の砂も一粒ずつ数えられたのです。ツェラ高原の過冷却湖畔も天の銀河の一部と思われるほどでした。瞳を高原に転じると三人の天の子供らが見える。于闐 (コウタン) 大寺の壁画の中の三人の子供たちだった。

三人が向こうを向くと、瓔珞 (ようらく) は黄や橙や緑の針のような短い光を射し、羅 (うすもの) は虹のようにひるがえる。そして、その燃え立った白金の空、湖の向うの鶯色の原の果てから溶けたような、なまめかしく古びた黄金、反射炉の中の朱のような一きれの光るものが現われました。天の子供らはまっすぐに立って、そっちへ合掌した。それは太陽でした。

厳かに、そのあやしい円い熔けたような体で正しく空に昇った太陽の光は、針や束になって注ぎ、そこらいちめんかちかち鳴りました。天の子供らは夢中になってはねあがり、まっ青な寂静印の湖の岸の硅砂 (けいしゃ) の上をかけまわりました。そして、いきなり彼にぶつかり、びっくりして飛びのきながら一人が空を指さして叫びました。

「ごらん、そら、インドラの網を。」彼は空を見た。いまはすっかり青空に変ったその天頂から四方の青白い天末まで一面張られたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛の糸より細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金で、青く幾億互いに交錯し、光って 、ふるえて燃えました。

「ごらん、そら、風の太鼓。」もう一人も言いました。ほんとうに空のところどころマイナスの太陽とも言うように暗く、藍や黄金や緑や灰色に光り、空から陥こんだようになり、誰も敲 (たたか) ないのに力いっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながら、それで少しも鳴っていなかったのです‥‥。

 

賢治と蓮華と阿耨達池 

松山俊太郎『綺想礼賛』
谷崎潤一郎、宮澤賢治、小栗虫太郎、稲垣足穂らの作家論が集められている。

ぼくは、最近の小説とかあまり読まないので、よく分からないけれど、これほどゴージャスな表現は最近の作品にあるんだろうか ?  湖と太陽が見事に関係づけられているでしょう。そして、この話にはインドラの網が登場する前回、ご紹介した華厳経の中にある宇宙的構造物ですね。この『インドラの網』については、松山さんの賢治にたいする評論があるので少しご紹介しましょう。

賢治の『阿那婆達多池幻想曲』(後述)では仏教色を盛り込もうとしていささか伝承との齟齬が生まれているけれど、この『インドラの網』では阿耨達池 (あのくだっち) をとりまく風土を清新な宇宙的ヴィジョンにまとめ上げている。ヒンドゥー神話では、銀河は「天のガンジス河」であり、中空を落下すると「シヴァ神の結髪」に受けとめられる。賢治の作品では天の原に流れ、ツェラ高原の過冷却湖畔も銀河の一部となって天地が抱擁する壮大な光景になっている。人間世界のツェラ高原から天の空間にふっと紛れ込んだかのような感覚となる。そして、インドラの網は、須弥山上のインドラ神の庭園を蔽うもので、「結び目の宝珠」の映発し合う目くるめく光景は、賢治の作品におけるスペクトル製の網という卓抜した表現に活かされているとしています。

しかし、松山さんは、一つだけ遺憾なことがあるとして、苦言を呈している。それは、阿耨達池 (あのくだっち) の本質が『法華経』の中核である「見宝搭品~提婆達多品」の秘匿された根底をなしているという重大事を賢治が知らなかったことだとしている。しかし、これは言いがかりに近い。というのもこの仮説は松山さん独自のものと言って良いからです。では、『法華経』におけるこの中核とは何か? それを探っていきましょう。

 

無熱悩池とは何か


 

睡蓮の花形カップ 前13世紀 エジプト

フランスの折口信夫と言われたジャン・プシルスキ― (1885-1944) の『大女神』には、サールナートのアショーカ王獅子柱頭が論じられているらしく、その獅子頭における「獅子・日輪 ・蓮華」の意匠の源流をインド → ペルシア → アッシリア/バビロニア → エジプトと遡っている。

インドの伝説的な王の玉座を巡る説話集として『獅子座三十二話』がありますが、その異本などを例として、仏典に見られる「無熱悩池」がバビロニア的要素 (オアシス・生命の樹・日輪)、エジプト的要素 (日輪・獅子・睡蓮・湖)の複合物として生まれたというのが松山仮説です。松山さんは、これらを育んだ文化史的背景が法華経の中核である「見宝搭品」と「提婆品」を生んだというのです。

瞻部洲 (せんぶしゅう) の中央、香山の南、大雪山の北、つまりヒマラヤの北に菩薩となった阿那婆達多 (あなばだった) 龍王が住むという阿耨達(あのくだっち/アナヴァタプタ) がある。周囲八百里、金、銀、瑠璃などがその岸を飾り、ガンジス河、シンドゥ河、ヴァクシュ河、シーター川という四つの大河が流れ出て全世界を潤す。それが「無熱悩池」です。「無熱悩」とは加熱され得ないことを指している。宮澤賢治が詩に詠った湖ですね。

わたくしは水際に下りて
水にふるえる手をひたす
……こいつは過冷却の水だ
氷相当官なのだ……
いまわたくしのてのひらは
魚のように燐光を出し
波には赤い条がきらめく (宮澤賢治『阿那婆達多池幻想曲』)

その無熱悩池は、プシルスキ―によって、バビロニアにおける「世界の中心の山頂湖」が起源とされている です。釈尊の前世譚のひとつ『ジャータカマーラー』などにも登場します。『綺想礼賛』の文面からすると『獅子座三十二話』の異本にもこの「無熱悩池」が登場し、ウダヤ山 (日が昇る山) の頂上に湖があって「正午にその湖 (池) の中から伸びて日輪を支える蓮華」の話が現れるとされているようですが、邦訳がない。獅子座とは玉座のことで、かつての名君ヴィクマラ王の玉座が発見され、それに坐ろうとしたボージャ王を32人の天女が試すという教訓譚になっている。

それでは、プシルスキ―の「獅子・日輪 (法輪)・蓮華」といった意匠の源流がインド → ペルシア → アッシリア/バビロニア → エジプトへと遡っていく説を概観してみましょうね。

 

蓮華と太陽を巡るインド・ペルシア・バビロニア・エジプト


 

図1.  左 ペルセポリスの柱頭 前6世紀     右 アショーカ王の獅子柱頭 前3世紀

インドのアショーカ王獅子柱頭

松山さんはプシルスキ―の『大女神』にある説をあまり詳しく説明してくれていないので、図像から少し補えるかと思いますが、僕の考えなので話半分に聞いていただければよいかと思います。

図2. アショーカ王獅子柱頭 摸刻 13世紀 
24本の輻輪を頂く。 タイ ワット・ウモン

図1.の右はサールナートのアショーカ王獅子柱頭ですが、蓮華を逆さにしたもの (反り花ということらしい) の上に円柱状の頂板があり、その側面に四つの二十四輻輪と象、瘤牛、獅子と馬という四聖獣が彫像され、その上に四頭の獅子がいる形になっています。

二十四輻輪は釈迦の法輪と解釈もできるけれど、プシルスキ―はメソポタミアにおける惑星を表している (『FUKUJIN No.15』) と述べている。でも、二十四輻輪=日輪=釈迦と見た方がよいのではなかろうかという気がします。獅子や象、瘤牛、馬の四つの彫像は、阿耨達(あのくだっち/アナヴァタプタ) の東西南北から四つの河が流れ出す、その河に対応している。

図2.は四つの獅子の上に輻輪が置かれていたものの例です。プシルスキ―は32輻のものがあって、それが日輪を表しているとしていますが、未見です。ちなみに仏教の法輪は八正道を表す8輻ですが、そのモデルとなった転輪聖王 (てんりんじょうおう) の輪宝は16輻のようですね。王権のシンボルだった。まあ、多少の疑問は残りますが、これが「獅子・日輪 ・蓮華」の関係性を説明していると言えるでしょう。

 

ペルセポリス柱頭

図3. ペルセポリスの柱頭部分 螺旋とロゼッタ文様

そして、図1.の左がペルシアのペルセポリスの柱頭です。ダレイオス1世がアケメネス朝ペルシアを建国し、その首都に建設した王宮群に使われた柱です。ダレイオス1世がスキタイ翻弄された話は前にご紹介しました。

その柱頭の下部は獅子頭における逆さの蓮華の形と同じであることが分かります。その上に上向きの華のような形があるけれど、これは、どちらかというとエジプトのヤシの葉型柱頭に近い(巻末の「エジプトの柱頭参照)。

その上に四方に向けて円柱を張り出した (図3.の形態)を二つ重ねている。そして、四角柱を挟んで同じ形が繰り返されている。この円柱の断面、つまり円形の部分には渦巻状の線刻にロゼッタ風の文様が彫られていますが、これも蓮や睡蓮かどうかは分からない。最上部にはインド・アーリア語族に崇拝された牡牛が二頭彫られている。「牡牛・円筒・蓮華」というふうには表現しても良いかもしれません。

 

バビロニアのヴラカシャ湖とハマオ

図4. バビロニアの世界地図 
外円と内円の間は塩水のオケアノスで、内円の最上部に山があるが、そこに湖があるのかは不明。円の中心の穴は同心円を引っ掻くためのコンパスの跡。    前600年頃

次はバビロニア的要素ですが、 (オアシス・生命の樹・日輪) といった要素 は、あまりはっきりしない。湖が世界の中心にあって、それが、最古の世界地図と言われるバビロニアの地図 (図4.) に表現されてたとしている。その湖が、この地図にあるとすると二重の円に囲まれた塩水のオケアノスということになるでしょう。

古代ペルシア (イラン) の神話にはヴラカシャ湖の中に島があり、そこにはハマという老いを除き、全てを若返らせる力を持つ生命の草が生えているとされる (『アヴェスタ』)。これが、睡蓮や蓮であるかどうか分からない。ハマオは、ギルガメシュ叙事詩でギルガメシュが泉の水を飲んでいる間に蛇に奪われた生命の草だろうと考えられている (Th.H.ガスター『世界最古の物語』)。しかし、バビロニアにおける「世界の中心の山頂湖」というのは未詳です。メソポタミアには高い山がない。ヴラカシャ湖は何処にあるのかが問題になります。

ぺルシアの四分庭園 

ペルシアでは前6世紀頃から山の水をカナートと呼ばれる砂漠の地下道を通して引いて灌漑に用いている。その水は田畑のために格子状に分流し、作物、果樹、時には花々を潤した。この様式化が初期の庭園の形式を作ったとジョン・ブルックスは『楽園のデザイン』で述べている。山の水が湖である可能性はあるでしようね。

格子状の無限の広がり、分割可能な幾何学模様となり、格子の中の植栽は楽園の要約と見なされたという。庭園の水槽は、輝く水面に天を映し、象徴的に聖と俗とを一つに結び合わせ、イスラム庭園の眺めの中心となったというわけです。イスラムは、ペルシアを征服したが、文化的にはペルシアに従属する形となった。ついでながら、水、乳、ブドウ酒、蜂蜜という四つの河で象徴される四つの水路で隔てられる四分庭園があり、ルシア語でチャハル・バーグという名で知られている。

ヴィシュヌのアヴァターラ (権化) マツヤ

エンキとアプスー

シュメールの水神エンキ、バビロニアではエアと呼ばれる神は、水の神であり、山羊の頭を持つ魚、あるいは魚の皮膚を持つ人間の姿で表される。地下の淡水の海アプスーの主であり、知恵と豊饒の神とされている。ギルガメシュ叙事詩ではウトナピシュティムに洪水の近いことを教え、箱舟を作らせたのはこの神だった。ペルシア湾に近い都市エリドゥの守護神であり、その寺院には人工の聖なる貯水池が作られていたという。残念ながらシュメールの太陽神ウトゥ (バビロニアではシャマシュ) と習合された気配はなさそうだ。ついでに、インドの宇宙神・太陽神のヴィシュヌはクリタ・ユガ (黄金時代) の時には魚 (マツヤ) となっていた。

 

メソポタミアの円筒印章

下の図5.の右にメソポタミアで使われた円筒印章の部分写真があります。右半分には、生命の樹の上に三日月と有翼筒状の上に神々が表現されている。その左下に睡蓮と思われる植物がある。睡蓮ですからオアシスと結びつけても、それほど目くじらは立てられないでしょう。その上に16本の線で表現された巨大な輝く星がありますが、円盤ではないので太陽かどうかは分からない。

何故その左下の植物が睡蓮と分かるかというと、左図のエジプト第6王朝に活躍し、全ての監督と呼ばれた役人であるヴィジエ・メレルカ (前24世紀) の墓にある有名な漁師のレリーフの下段に彫られている睡蓮 の形にかなり近いからです。詳らかになっていないところもあるのですが、このように見てくると(オアシス)・生命の樹・日輪」と関連づけることは出来るかもしれませんね。

図5. 左図 エジプト第6王朝のヴィジエ・メレルカの墓の漁師のレリーフ  下段にある水鳥と睡蓮
右図 メソポタミアの円筒印章 (年代不詳) 右側に三日月と翼のある筒上のアヌンナキ (天空神アヌの息子たち) 、その下の生命の木。その両脇に崇拝者と魚化された神ないし賢者。左側下にロータスを思わせる植物とその上には16輻に輝く星とプレアデス星団が表現されている。

 

アッシュル神とエジプトのホルス神

図6. 左図 太陽円盤を戴くラー・ホルアクティ(ラーと習合したホルス) 前14世紀
   右図 アッシュル神 生命の樹の上の有翼円盤として表現されている。前  9世紀

図6. 右はアッシリアの王であったアッシュルナツィルパル2世 (前883‐前859) と生命の樹を表現したレリーフの上部に有翼の太陽円盤として表現されたアッシュル神です。次はジプト的要素ですね。左の図は、太陽神ラーと習合したホルスで、オシリスとイシスの息子とされている。このホルスの神像では頭に日輪を戴く隼の姿で表されている。有翼円盤のアッシュル神と円盤を戴く隼であるホルスのイメージはかなり近いと言えるのではないでしょうか。

図7. 左図 体がライオンで頭が鷹というヒエラコスフィンクス
   右図 ツタンカーメンの名で太陽円盤を戴く鷹 前14世紀

図7. 右はツタンカーメンの名が刻まれたスカラベ=ケプリが表現されている太陽円盤を頭に戴くホルス、そして左は人頭ならぬ頭のライオン、つまりホルエムアケト (地平線におけるホルス) です。ギザの大ミラミッドの近くにある大スフィンクスは新王国時代には地平線のホルスと呼ばれていた記録がある。スフィンクスという言葉自体はギリシア語から来た「彫像」というほどの意味です。この様にラーと習合されたホルスは日輪、そして獅子とも関係づけられていたことが図像を通じて分かる。次は極め付きのブロンズ彫刻ですが、水蓮から生まれるホルスが表現されている。

 

エジプトの太陽神、原初の湖ヌン、ロータス神ネフェルテム

図8.ロータスに坐る子供のホルス 前664‐前332の間  
ブロンズ 青のエナメル象眼    ウォルターズ美術館

その花から生まれる子供のホルスは、ハルポクラテスの名で知られています (図8)。指をくわえる姿はヒエログリフで子どもをそのように表すからです。後にギリシア化されて沈黙の神となったけれど、これは誤解から生じた。ともあれ、イシスが幼いホルスを育てた沼を象徴する神話的な睡蓮の上に太陽神と習合したホルスを置いている。ホルスの右目は太陽、左目は月を表しています。ヴィシュヌと同じですね。そして、睡蓮であるロータスをエジプト人たちは、次のように考えていた。

太陽神と睡蓮 (ロータス) と湖との関連を示す神話が残っています。赤い睡蓮は、「世のはじめから存在していた」といいます。それは、原初の水であるヌン、あるいは光から現れた。それ故、混沌の暗闇と聖なる光、それぞれに密接に関わっている。夕暮れに花を閉じて水の中に潜ってしまい、夜明けには東を向いて水上に現れ、光を浴びて花開く。それは、夜が終わって明ける太陽のシンボルとなり、「太陽神は原初の湖から睡蓮の花に乗って現れる」と信じられていたのです。比較的大きな神殿には、この「聖なる湖」が人工的に造られている(マンフレート・ルルカ―『エジプト神話シンボル辞典』)。蓮がエジプトにもたらされたのは、前700年~前300年ころのようですから、それ以前のロータスは、全て睡蓮ということになる。

ちなみに、ライオンの頭を持ち、ラーの片眼から生まれた戦争女神セメクトの息子が睡蓮の神ネフェルテムで、ピラミッド・テキストにおいて「ラーの鼻先にいる睡蓮の花」と呼ばれ、ホルスと結ばれて一つの存在となります。ネフェルテムは、天界のライオンの頭を持つか、ライオンの上に立つ姿で表されることも多いと言います。

ホルス、ラー、ネフェルテムを巡る神話は、見事な象徴連鎖を創り上げている。こうして、エジプトでは「日輪・獅子・睡蓮・湖」が、しっかりと結びつくというわけです。エジプトからインドに到る「ロータスと太陽神~釈迦」という流れを概観いたしました。

このように見てくるとプシルスキ―説は大まかには頷けるものとなります。イメージの構造的な事柄からは、そういえるかもしれない。次は、いよいよ蓮華と法華経の関係ですね。

 

法華経の世界


 

松山俊太郎『蓮と法華経』

法華経の真の経題

法華経に関する疑問が幾つか松山さんにはあった。まず、原題『サッダルブンダリーカ』は直訳すると「正法白蓮華」になる。しかし、法華経に経題以外のブンダリーカはたったの一回しか、それもどうでもいいような登場の仕方しかしてない。それに、阿那婆達多 (あなばだった/アナヴァタプタ) 龍王の名には言及があるが無熱悩池には触れられていない。多宝如来に対応するはずの蓮華上仏についても触れられていない。

こうなると、「正法白蓮華経」と経題をわざわざつけたのは何故だろうかということになる。「妙法蓮華経」と羅什が訳したのは白蓮華が軽く見られているからではないか。白蓮華にもっと別な意味があったのではないかと考えられるのです。

法華経には詩の部分と散文の部分があって、この詩偈の方が古いと後に松山さんは考えるようになる。古い詩には手が付けられずにそのまま掲載された。松山さんの考えでは、詩偈での経題は「アグラ・ダルマ/最高の法」だと言う。アグラ・ダルマは「アグラ・ボディ/最高の悟り」を保証するものとなっているて、この二つの言葉が重要になる。散文では『サッダルブンダリーカ/正法白蓮華』が全て経題として使われていると言います

 

釈尊と白蓮華 多宝塔如来と紅蓮華

コトは稲荷日宣氏から妙法蓮華は釈尊ではないかという話を聞いたことから始まりますが、仏経学者の赤沼智善、西尾京雄両氏、そして本田義英氏らにも稲荷氏と同じような主張があることが後に分かる。この時、松山さんはピンときた〈釈尊=白蓮華~太陽神ヴィシュヌ、〈多宝如来=紅蓮~蓮女神の男性化〉の構図が浮かんだのです。

多宝如来と釈尊 榆林洞窟 中国 年代未詳

前回のヴイシュヌ神と蓮華の関係、今回解説したエジプト神話からアショーカ王の獅子柱頭の流れを考えると〈釈尊=白蓮華~太陽神≒ヴィシュヌ〉の関係は肯首しやすい。インドでは白蓮華=太陽とされている。問題は多宝如来と紅蓮華の繋がりでしょう。法華経の第11章「見宝塔品(けんほうとうほん)」以降になると法華経にも、かなり思い切って新たな要素が取り入れられます。

多宝如来は、その「見宝塔品(けんほうとうほん)」に登場する如来で、高さ五百由旬、 底辺の縦横二百五十由旬の大きさの宝玉で飾られた七宝の搭が地面から湧き上がって、空中に浮かぶというスペクタクルな登場をする塔の中にいる。阿僧祇劫 (計りえない) の遠隔である宝浄の地にいた。かつて、その如来は、法華経が説かれた時には宝塔を出現させ「善哉/よきかな、善哉/よきかな」と讃えようと誓願をたてたとされている。

この地面から湧出する力に、松山さんは女性性、大地のコントロールされない力を見ている。あのヴィシュヌの対偶神にされる以前の大地母女神としてのラクシュミーですね。多宝如来の原名は「プラブータ・ラトナ」で「夥しい宝 (蓮の実) を持ったもの」でした。つまり、出現した宝なのです。赤い蓮が「大地の力」なら、白い蓮は「天的な力」だという分けです。

太陽はメソポタミア以来の法輪でインドでは白蓮華となり、エジプトでは睡蓮だったものが、ちょっと系統は違うけれどメソポタミアの生命の木となり、インドの赤い蓮華となったと松山さんは言うんですね (『FUKUJIN No.15』)。

 

授記文学としての法華経

法華経の後半 (本門) の最初である第14章「従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)」では、娑婆世界には法華経を弘めてくれる無数の菩薩たちがいると釈迦が述べると同時に、大地に無数の割れ目が生じ、上行菩薩ら多数の菩薩たちが出現する。無量の寿命を持つ久遠本仏としての釈迦に教化された本化の菩薩達でした。水に付着されることのない蓮華に例えられている。梵文では、この蓮は白蓮ではなく紅蓮華/パドマなのです。パドマは釈尊に教化されるべき人々でもある。

雑誌『FUKUJIN No.15』の特集「松山俊太郎 世界文学としての法華経」は松山さんの晩年に組まれた対談で、その頃の松山さんの法華経にたいする考えがよく分かる。その中で、華経二十八品のうち 第2章 方便品(ほうべんぼん)から第7章 化城喩品(けじょうゆほん)までは、ほぼ一貫していると松山さんは言う。法華経の構造上では始めの方がしっかりしている。そこでは経題を「アクラ・ダルマ/最高の法」とされていると考えた方がいい。こう考えるとアグラ・ダルマという題名であった頃の法華経は、お弟子に「お前は将来如来になるんだぞ」と言って如来のデータを沢山授けると言う「授記文学」となっていると言います。

『FUKUJIN 特集 松山俊太郎 世界文学としての法華経』 表紙は松山さんを装う南伸坊   2011年刊

だから、声聞で如来になれない舎利弗は華光如来になれる。その後、沢山の如来が現れる。それには、ちゃんとその根拠が示されなくちゃならない。それが大地から湧出する紅蓮華/パドマとしての力を示す多宝如来、ひいては「見宝塔品」だったという分けです。

その白蓮=太陽と多宝如来=紅蓮華との関係には裏のシンボリズムがあった。それが、ラクシュミー=蓮華とヴィシュヌ=太陽なのですね。そのことが秘められていることによって、この説は、インド文化圏の大衆に受け入れやすいものになったという分けです。これは編集の裏技というやつでしょうか。それに、インドは古い考えを保存しながら新しいものを付けくわえるという特性がある。新しいものの下には重層的に古いものがあるという分けです。

誰でも如来になれるというテーゼは、法華経の第12章提婆達多品(だいばだったほん)」に語られる「龍女成仏」において強打される。人間でもなくても女性でも覚れるという法華経の速やかな功徳が闡明にされるのです。八大龍王の中でも阿那婆達多 (アナバダッタ) 龍王ではなく、龍宮の娑伽羅 (サーガラ) 龍王、その娘が主人公となっている。これは、「見宝塔品(けんほうとうほん)」で、宝搭が霊鷲山の上方に浮かび上がったのだけれど、釈迦が説法しているヒマラヤの南東にあたる霊鷲山よりも無熱悩池が北にあり、それより高い所にある設定になってしまう。無熱悩池を登場させたのでは迫力が削がれるのでしょうね。それで、娑伽羅龍王の八歳の娘を設定したと松山さんは考えた。釈迦が説法している霊鷲山は、世界の中心でなければならないからです。

 

仏教における法華経の位置

法華経で強調される「善巧方便」という言葉は北伝では初期の般若心経まで遡る。しかし、般若心経には「善巧方便」の説明がほとんどなく、あっても菩薩の「善巧方便」となっている。これに対して、法華経では如来の「善巧方便」となっていて、如来と菩薩の差はじつは巨大だと松山さんは言う。そして、般若心経では如来などいらないと言う立場に近い、法身仏のように原理化すると実際上の歴史的な如来は不要になる。一方で浄土経では、ひたすら如来に頼ればいいと言うことになっている。前者は全部自力で後者は全部他力となっていると言います。

法華経は、その中間で、如来・仏陀は、皆が最高の覚りに至るまで、如来になれるまで導くという目的でこの世界に現れた。だから誰でも如来になれる可能性がある。しかし、衆生の側にも、ある心構えが必要だと言う。それが「信解」、つまり、「こころざし」です。それは、ただ法華経を信じるのではなく理性を持って理解することなのだと言うのです。

そして、驚くべきことですが、法華経は大乗ではないと松山さんは言う。大乗 (マハーヤーナ) は般若経が作り出した概念であって、法華経は般若経を認めてはいる。一方で、その後に小乗 (ヒーナヤーナ) という言葉を作り出したのは法華経であると。しかし、マハーヤーナに対応する言葉はクシュドラヤーナ (小さな乗り物) であってヒーナヤーナ (劣った乗り物) ではない。ヒーナヤーナに対応するのはウダーラヤーナ (卓越した乗り物) であるけれど、法華経のなかではブッダヤーナ (仏乗)という言葉の方が重要だったと言います。法華経とは、仏乗の最高の法という分けですが、それを羅什は他の経との関係で、かなりマイルドに訳した。

「世界分学としての法華経」

事実を叙述するという能力では中国が一等勝っているけれど、架空のことを想像すると言う意味ではかなり劣っている。法華経はあり得ないことと当時のインドでは必要とされたことを厳密につなぎ合わせている。時代の古さと中身の濃さ、その天才性 (それも二人以上の) は、もっと文学として注目されていいと松山さんは力説する。それに羅什の漢訳は、梵語のものよりも格調が高くなっている。そのようなものは、世界文学になっていいという分けです。

松山さんは、法華経を信者さんでもなく、学者さんでもない、普通の人でも読める、法華経の存在さえ知らない人でも読める『法華経』というものが出来てほしいと考えていた。それが日本人親しめるようになるまで100年、それが世界に広がるまで、また100年かかるでしょうとおっしゃる。法華経=世界文学。おおっ!  それは耳で聞けば分かる法華経でなければなりません。松山さん亡き後、そのように分かりにくい所を誰にでもわかる法華経に書ける人は誰なんでしょうね ?

 

開かなかった大きな蓮華の蕾


 

『松山俊太郎 蓮の宇宙』安藤礼二 編

このような経緯で『法華経』の真のタイトル「正法白蓮華」から白蓮華とは釈迦だ、そして宝塔如来は紅蓮華だという仮説を松山さんは説いてきた。しかし、これは、多宝如来と紅蓮華、そして、『Agra-dharma/最高の法』と法華経の直接の関係を示す新しい証拠でも発見されない限り証明することは難しい仮説だったのかもしれない。逆に否定できるような反証の可能性もなかった。

それは、松山さん自身が良く分かっていた。だから、終生、この仮説を含めた体系を打ち立てようとはされなかったのかもしれない。少なくとも、その理由の一つにはなっていたのかもしれませんね。しかし、彼の人生観からすると、ただ、面倒だったという可能性もなくはない。

松山さんは『綺想礼賛』の中で、宮澤賢治について書いた文章である「宮澤賢治と阿那婆達多池 覚書の中で奇しくもこのように述べている。それは私たちの松山さんへの思いでもある。「〈新・法華法門〉の創造への、賢治の精進の跡をたどるにつけ、『ひらかぬままにさえぎり芳り/つひにひらかず水にこぼれる/巨きな花の蕾がある‥‥‥』ことを、惜しまずにはいられない。」

 

 

付 フィラエのイシス神殿の柱頭

フィラエのイシス神殿の柱頭 列柱廊の柱頭は百花繚乱を呈する。
左図 蓮華のような花弁の上に四つの神頭がある。 右図 大きな花弁に小さなロータスが彫られている。

イシスがホルスを生んだとされる地であるアスワンフィラエにはイシス神殿がある。現在の建物はプトレマイオス朝時代 (前4世紀-前1世紀) に建てられ、ローマ時代にかけて増築されたもので比較的新しい。神殿の列柱廊には様々な柱頭が見られ、あたかも柱頭の博物館を呈している。そこには蓮華を意匠した柱頭もある。ペルセポリスの柱頭より後のもので、アショーカ王柱頭より新しいものも多いと思われるが比較すると興味深い。

下図のエジプトの柱は、左から、ホルスの家という意味のハトル神を表す柱で、ハトルはイシス以前にはホルスの母とされ、太陽を生んだ天空の雌牛と考えられていた。二番目はヤシの葉を象った円柱でペルセポリスの円柱に近いものがある。三番目がロータス模様の柱頭となっている。(『エジプト神話シンボル辞典』)

エジプトの円柱
1 ハトルの円柱 2 ヤシの葉型円柱 3 ロータス文様の円柱 4 パピルス文様の円柱 5 複合円柱

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妙法蓮華経二十八品一覧

前半14品(迹門)
第1:序品(じょほん)
第2:方便品(ほうべんぼん)
第3:譬喩品(ひゆほん)
第4:信解品(しんげほん)
第5:薬草喩品(やくそうゆほん)
第6:授記品(じゅきほん)
第7:化城喩品(けじょうゆほん)
第8:五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)
第9:授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)
第10:法師品(ほっしほん)
第11:見宝塔品(けんほうとうほん)
第12:提婆達多品(だいばだったほん)
第13:勧持品(かんじほん)
第14:安楽行品(あんらくぎょうほん)

後半14品(本門)
第15:従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)
第16:如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)
第17:分別功徳品(ふんべつくどくほん)
第18:随喜功徳品(ずいきくどくほん)
第19:法師功徳品(ほっしくどくほん)
第20:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)
第21:如来神力品(にょらいじんりきほん)
第22:嘱累品(ぞくるいほん)
第23:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)
第24:妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)
第25:観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)(観音経)[注 7]
第26:陀羅尼品(だらにほん)
第27:妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)
第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)
その他の追加部分
第29:廣量天地品(こうりょうてんちぼん)[7]
第30:馬明菩薩品(めみょうぼさつぼん)[8]

 

 

参考図書 及び 引用文献

 

マンフレート・ルルカ―       
『エジプト神話シンボル辞典』

Th.H.ガスター『世界最古の物語』2017年刊

ジョン・ブルックス『楽園のデザイン』
イスラムの庭園文化

アヴェスタ ゾロアスター教の聖典

松山俊太郎 part1 『蓮の宇宙』人生は虚しいですが、もとはタダですから。

 

松山俊太郎『インドのエロス』1992年

松山俊太郎さんの著作に耽溺しています。初めて読んだのは『インドのエロス』だった。インドの愛の詩について書かれているのです。そこではまず翻訳とはある作品を通じて何かを感じたところを、かなり不純に、そのごく一部をリプリゼントするほかはないと前置きがされている。優れた詩は絶対に翻訳できない。せいぜい原詩を置いて、辞書で引いても味わえない時に参考程度に読むものだと予防線が張られている。翻訳とは、どういう場合でもコメンタリー、つまり注釈であるとしています。

翻訳には上田敏をはじめ名手と呼ばれる人もいるけれど、言語感覚は天性のものだと思うので贅沢は言いません。堀越孝一さんがフランソワ・ヴィヨンの詩につけた注釈のような充実した注を付けていただくか、関口裕昭さんのパウル・ツェラン、そして、古川隆夫さんがエミリー・ディキンスンに関して書かれた解説のようなものを付けてくださればと切に願っています。それがあると詩の世界は、圧倒的な広がりを持つのです。

 

「さかしま」の交わりのさなか
臍の蓮華に坐るブラフマーをみとめたラクシュミーは
欲情の漲るゆえに
ハリの右目を たちまち 蔽ってしまう。
(ヴァッジャーラッガ 611、サッタサイー 816)

ちょっと見、これがエロティシズム溢れる詩とは思えない。松山さんは、インドではエロテックなものに対する抑制がないという。一方で、インド人は理屈が大好きで、過剰な抒情性もありはするが論理が優先するともいう。要するに理屈コネが好きなのです。どれくらい好きかというと、この詩を解説してもらえば分かる。

この詩にはハリラクシュミーブラフマーという三人の神様が登場します。ハリはクリシュナの別名でヴィシュヌ神の権化 (アヴァターラ) ということになっている。つまり、ハリ=ヴィシュヌということで、ヴィシュヌは宇宙神・太陽神とも考えられている。ラクシュミーは仏教でいう吉祥天のことで、富と繁栄と美の神で、蓮華の神様でもある。インドでは大地=蓮華という考え方があるらしい。もともと大地母神だったから旦那はいないはずですが、やがて優れた男神の配偶神となった。

ちなみに、この大地母神の系統には恋人や若い燕、息子がいて北はドナウ河から南はメソポタミアまでの広い地域に知られている。アナトリアのキュベレー女神にはアッティスが、シュメールのイナンナ神には息子とも夫ともされるタンムズがいるという分けです。

暗黒の大洋にいる難陀竜王 (アナンタ) の上のヴィシュヌとラクシュミー

この詩はハリ、つまりヴィシュヌとラクシュミーの睦事が詠われています。ラクシュミーは、まだ微睡んでいる旦那のヴィシュヌに「ねえ、あなたったら‥‥しましょう」という。旦那は寝ぼけている。それで、やおら旦那に覆いかぶさった。つまり、これが「さかしま」の意味です。これ以上解説するのは野暮なので止めましょうね。ですが、臍の蓮華はいささか不可解ではある。

臍はこの間、エリアーデの『宗教学概論』をご紹介した時に書いておきましたが、世界軸、世界の中心という意味がある。ヴィシュヌは、そもそも宇宙そのものだから、この神が起きている時には宇宙は展開していて、眠ってしまうと全てはこの神の中にたたみ込まれてしまう。ヒンドゥー教の神話では宇宙が創られる時は蓮の花の上ということになっていた。そして、伸びた蓮の花から顔の四つあるブラフマーが、まず生まれて、大地や大空を創っていく。

つまり、コトの最中にいきなり蓮華が出現してブラフマーが顔を出したのですから、ラクシュミ―は驚くやら恥ずかしいやらこの上ない。しかし、さすがに女神です。咄嗟にヴィシュヌの右目を塞いでしまった。ヴイシュヌも人格神であり、体は宇宙そのものであった。右目が太陽で、左目が月なのです。どこかの国の神話とよく似ていますよね。ヴイシュヌは熱烈な嫁さんの愛で目が覚めた。それで、宇宙に太陽が出て、蓮の花が咲いてブラフマーが現れる。右目を閉じてしまえば蓮も萎み、ブラフマーも引っ込んでしまうという分けです。つまり、このたった四行の情事の詩には、間テクスト的に、これだけの話が繋がっていると言うことなのです。なるほどですね。

 

蓮の研究の始まり


 

『松山俊太郎 蓮の宇宙』安藤礼二 編  細江英公 写真

松山さんという人は随分変わったひとだった。こんな人は大好きだ。蓮のことばかり研究していたのに、インタヴュー『松山俊太郎 蓮の宇宙』ではこう答えている。蓮ね。嫌いじゃないけど、それほど好きでもない。やらなくてもいいことしかやらないと若いころ決めた。興味を持ったのは昭和34年頃 (29歳前後) という。

大学の頃は「時間」について研究しようと思っていた。時間は生きてさえいれば存在しているし、牢屋に入っても研究できる。それで将来研究しようと思っていたが本を集める時間がないことに気づいた。たまたまインド詩をやることになったので蓮なら二・三十年やれば何とかなると思ったという。ほんとかなあ ?

梵文学なら成績が悪くても卒業できるし、なんせ志望者が少なかった。しかし、そこで、辻直四郎 (なおしろう) という厳密な自然科学的な方法論を持つヴェーダ学の顕学に出会った。これが良かった。芸術のような学問を見せつけられた。

松山家は金沢の骨董商を営む家系で、父は東京で産婦人科・小児科の医院を開き、父親が院長、母が副院長だった。1930年に生まれる。1943年、軍国主義的な規律の厳しい東京府立第四中学に入学。1946年、16歳の時に進駐軍に向けて飛ばす風船爆弾を作ろうとして、部屋で手製の手榴弾を分解していた時、爆発。左手の手首から先と右手の親指を失い。人差し指と中指が変形した。飛んできたのは母親で平手打ちをくらわされ、天井に張り付いていた肉片は犬に食わせたと言う。かなりあぶない青少年だった。

そう言えば、ウィーンで会ったアントン・レームデンという先生のことを思い出した。ウィーン幻想派の画家だったが穏やかな立派なひとだった。彼も片方の手首から先がなく、利き手は人差し指と小指しかなかったと思うけれど、恐ろしく緻密な絵を描けるひとだった。彼の場合は、戦争で失ったのではないかと推測している。

慶応を受験したが、面接官だった西脇順三郎と1時間も話した後に東大にいくことを勧められたという。東大文学部に入学。同級に阿部良雄、種村季弘、吉田喜重らがいた。1955年、25歳の時に紀伊国屋書店の洋書注文カウンターで澁澤龍彦と偶々同時にサドを注文して名乗り合ったと言う。これは大きな出会いであった。その後は、外国人に日本語や日本文化を教えたり、色々な大学で非常勤講師をしながら研究を重ねた。

編者の安藤さんによると、バーに行く道すがら「ウォーン」と遠吼えたり、「バウ、ワン」と吼えたりしていたという。酔っぱらうと、道すがら出会う女の子に「ハウ、マッチ」と声をかけていた美大の先生なら知っているけれど、そんなことはいいか。松山さんは2014年に亡くなっている。

 

インドの回帰的終末と神の時間


 

ミルチャ・エリアーデ『永遠回帰の神話』

インドの時間について、これほど繰り返し述べている人も珍しいのではないかと思う。具体的な数と期間の例は、先ほどの『松山俊太郎 蓮の宇宙』に詳しい。インドにはヘシオドスの四 (五) 時代説とプラトンの大年を組み合わせたような説がある。ヒンドゥー教のアタルヴァ・ヴェーダからマハーバラ―タやマヌ法典へと繋がっていくユガ・カルパ説である。これは、バビロニアあたりの「万有回帰説」がもとになっているらしい。これについては、エリアーデの『永遠回帰の神話』をご覧になると良い。天文学が発展した地域では、時代感覚も天文学的になるのらしい。

セネカの伝えるバビロニアの神官ベロッソスは『バビロニア誌』を著した前3世紀の人だ。43万2千年周期(120×60×60) を説いているが、楔形文字の60はもと10であったことから元々1万2千年周期 (120×10×10) と考えられるし、ペルシアのゼルヴァン教も1万2千年周期を採用していたと言う。インドもイランもベロッソスよりも早い段階で、この「時の輪」に影響されたのだろう。これに遅れて、やはりバビロニアから四つの時代を持つ「頽落的時代説」が輸入され、輪の円周は4分割された。

インドの周期の最小単位は「年期」yuga である。印欧祖語で軛を意味する。最初のクリタ・ユガ (黄金時代) は4000年続き、その前に曙の400年とその後に黄昏の400年が加わる。そして、3000年のトレター・ユガ (白銀時代)+曙300年・黄昏300年、2000年のドヴァ―パラ・ユガ (双部) +曙200年・黄昏200年、1000年のカリ・ユガ (濁悪時代) +曙100年・黄昏100年となっている。時代は段々悪くなっていくのですが、今は最悪のカリ・ユガの時代です。かくして、一つのマハー・ユガは12000年続き、インド・アーリア的な構造が闡明にされる。四つのユガは、それに応じた維持原理としてのダルマ (法) があり、それぞれ四本から一本足で立つ「牝牛」に例えられるといいます。

ブラフマーとサラスヴァティ―(弁財天)、ヴィシュヌとラクシュミー、シヴァとパールバーティー

一つのマハー・ユガが「神の年」の1年であり、それが360年続く、それが宇宙の一周期432万年となり、これが1000回続いて1カルパ (劫) となる。2カルパはブラフマー (梵天) の1昼夜となっていて、この神の寿命は100歳あるいは108歳とされている。100年とすると311兆400億年となる。僕は、さすがに松山さんのようにブラフマーの寿命を計算する気にはなれない。このブラフマーの昼には14人のマヌ (ノアのような存在) が現れる。ともあれ、ブラフマー神も永生ではないのである。しかし、ヴィシュヌの寿命は無限となっている。

神の年の1年= 1マハー・ユガ                        1万2千年
宇宙の一周期­=360年 1万2千年×360                 432万年
1カルパ (劫) = 宇宙の一周期×1000回             43億2千万年
ブラフマー神の一昼夜 = 2カルパ               86億4千万年
ブラフマー神の寿命 = 100歳 86億4千万年×360日×100  311兆400億年

ユガの終りの火も、その大規模なカルパの終りの火も万有破壊し、大蛇を臥床とする唯一の実在のヴィシュヌの体内に帰滅し、この最高神の「夢」の中で秩序を回復し、再創造を待つことになっている。それをかみさんのラクシュミーが「ねえ、あなたったら‥‥」と起こしてしまったのが冒頭の詩という分けだ。現在はヴィシュヌが猪に化身して大地女神を悪魔から救出した神話にちなみ「猪の劫」と呼ばれていて、ブラフマーの51年目の最初の一日であり、7人目の人祖マヌであるヴァイヴァスヴァタの在世期の「7回目の大洪水」を経た「正午直前」、457番目のカリ・ユガにあたり、この暗黒時代は紀元前310年2月18日の金曜日に始まったと言う。しかし、ここまで追求する彼は何者なのだろうか。

 

ユガとアヴァターラ


 

アヴァターラという言葉がありますよね。権化とか訳されるけれど、神の天界からの降臨あるいは地上への出現、とりわけヴィシュヌ神の十種の化身の顕現を指す。その他に予期せぬ者の出現、神のような人物という意味もある。元もと降下するという動詞から作られています。

最古の古典『リグ・ヴェーダ』では大きな地位が与えられなかったヴィシュヌだけれど、叙事詩『マハーバーラタ』ではブラフマー、シヴァと並ぶ三大神となった。やがてシヴァとヴィシュヌが最高神となるが、シヴァは破壊の神であり、そのアヴァターラは人気がなく、権化はヴィシュヌのほぼ独占となった。叙事詩の中でラーマやクリシュナとして活躍するから、その理由も分かる。これから、それぞれのユガでのヴィシュヌの権化が登場する神話をご紹介しましょう。

クリタ・ユガ(黄金時代)

①魚 小さな魚となって旧約聖書のノアにあたる人祖7代目のマヌ・ヴァイヴァスヴァタに大洪水の到来と救済を告げる。巨大魚となったヴィシュヌは仙人と動植物を載せた船を引き高い丘に逃れさせる。また、ブラフマーからヴェーダ聖典を盗んだ悪魔ハヤグリーヴァを退治し、ヴェーダをマヌに与え、人類の新たな指導原理を教えた。

②亀 陸地を背中で支える亀、なんだか蓬莱山を支える亀みたいだ。神族と魔族がマンダラ山に巨蛇ヴァースキを絡ませて綱引きした。この時、亀となって海中でマンダラ山を支えて、その攪拌を成功させた。これによって「甘露」とその杯を持つ「神医ダンヴァンタリ」、「幸運の女神ラクシュミー」、「酒神スラ―/ヴァ―ルニー」、「月 (チャンドラ) または神酒ソーマ」、「仙女ランバー/アプサラス水精群」、「神馬ウッチャイヒシュラヴァス」、「宝玉カウストゥバ」、「天木パーリジャータ」、「如意牛スラビ」、「霊象アイラーヴァタ」、「螺貝パーンチャジャニヤ」、「霊弓シャールンガ」、「猛毒ハーラーハラ」という14の宝貴が出現した。

ヴィシュヌのアヴァターラであるヴァラーハ 
8‐9世紀 クリーブランド美術館

③野猪 (ヴァラーハ) 「ヴァラーハ・カルパ/野猪の宇宙周期」と呼ばれる劫のはじめ、海底に沈んでいた大地をヴィシュヌが野猪となって水に潜り、悪魔のヒラニヤークシャと千年も戦って、捕えられていた大地女神を救い出した。大地を浮上させると平坦な大地を山で飾り七大陸に分ける

その後、ハリ(悲哀の除去者)という別名で四つの顔を持つブラフマーの姿となって、その「激質」を展開することによって生類を創造した。

④人獅子 ブラフマーの恩寵により昼も夜も、神・人・動物によっても、それが住む宮殿の外でも内でも殺害されないという保証を得た悪魔ヒラニヤカシプは、三界を支配し、神々の供犠を横取りしていた。ヴィシュヌは、時あたかも昼でも夜でもない黄昏に、人でもなく動物でもない人獅子となって宮殿の内でも外でもない柱の中から現れて、悪魔を爪で裂き殺した。

 

トレーター・ユガ(白銀時代)

ヴィシュヌのアヴァターラとしてのヴァーマナ (矮人) とバリ王(中央)

⑤矮人 (ヴァーマナ)  アスラ王のバリは、功徳を積んで三界を支配していた。しかし、住処と供犠を失った神々はヴイシュヌに救いを求めた。ヴァーマナとなってバリを訪れ、三歩の範囲だけ土地を譲ってもらえないかと頼んだ。人の良い王は、その願いを聞き入れた。ヴィシュヌは実相を現して巨大になると第一歩で全地上をまたぎ、二歩目で全天を覆い、三歩めはもう空間が無かったのでバリの頭の上に載せて彼を地下世界にめり込ませた。しかし、憐憫から地下世界をバリたち魔族に支配させた。この話は、バリに同情が集まって人気がないらしい。

⑥パラシュ・ラーマ (斧を持つラーマ)  シヴァ神から、武器の扱い方を教わり、斧を授かったので「斧のラーマ」と呼ばれる。ブリグ仙の後裔ジャマダグニの第五子で、父親の命で母を殺し、蘇生させて妻とするも罪を咎められず長寿と不敗を得たという。バラモンである父を殺したクシャトリアの王カールタヴィーリヤとその息子たちの仇をうつためにその国に21回も斧を振るい、彼らを平らげるとその領土をバラモン族に献じた。

⑦ラーマ  叙事詩『ラーマーヤナの主人公クシャトリアのダシャラタ王の子ラーマチャンドラーとして生まれ、魔王ラーヴァナに奪われた妻シータ―をランカー(セイロン)島から奪い返す。

 

ドヴァ―パラ・ユガ (双部)

⑧クリシュナ(黒いもの)  ヴァスデーヴァとデーヴァキーの第八王子。母親デーヴァキーの弟カンサは姉の8人の子供のうちの誰かに殺されると予言されたため、姉と義理の兄を幽閉し、6人の子供を次々と殺した。7番目の子バララーマとクリシュナはヴィシュヌの黒白2本の毛髪の権化だったために難を逃れる。クリシュナは生地マトゥーを逃れ、牛飼いのナンダと妻ヤショーダーの養子となった。

幼年には既に蛇王カーリヤを打ち取り、インドラの怒りに触れた牧女たちを守ってゴーヴァルダナ山を支えた。カンサ王を成敗した後ドゥヴァーラカーという都城を築いてマトゥーの住民を移した。クリシュナの不品行は有名だが大愛の象徴として許されているという。愛があるんですよね。兄のバララーマを第八権化に当てる場合もある。

 

カリ・ユガ (濁悪時代)

ヴィシュヌのアヴァターラ カルキ 1765年

⑨仏陀  ヴィシュヌは現在の最も堕落した時代に仏陀として現れる。誤った教義を弘め、悪人や悪魔たちに、ヴェーダの学習を放棄させ、階級制度などの社会秩序を無視させて、彼らを破壊に導くという。

⑩カルキ  彗星のごとく輝く剣を持ち白馬にまたがって天空に姿を見せる未来に出現する救世主。聖典が権威を失い、人の寿命が23歳までとなる暗黒時代に現れ、来るべきクリタ・ユガ(黄金時代)の法に従おうとする者を救済する。

 

アヴァターラの配列とその意味

松山さんはこれらのアヴァターラは、ある意図をもって配列されているという。そこを少しご紹介しておきましょう。①~⑤はヴェーダ・ブラーフマナ・叙事詩に用いられた神話的要素をヴイシュヌに結び付け、一貫した進化論的配列に従って表現している。魚 → 亀 → 野猪 → 人獅子 → 矮人といった順である。最初の4つは、クリタ・ユガに現れるので世界の創成とも関連している。

⑥~⑧は堕落に向かいつつあるとは言え、現在のカリ・ユガより、よほど良い時代ではある。⑥のパラシュ・ラーマ (斧を持つラーマ) の話はバラモンとクシャトリア階級の争いといった歴史的事実を反映していると考えられ、⑦と⑧は既に叙事詩で有名となっている化身で、「正義の勝利」の後の「善政による人類の救済」がテーマになっている。

⑨は仏教が既に侮れない存在になっていたことを示していて、大乗仏教において太陽神格の相貌を持っていた仏陀が、同じく太陽神としての性格を持つヴィシュヌのアヴァターラとされていることは興味深いのです。

⑩は救世主カルキに劣らず乗り手の神格的特性を表す白馬の存在が重要だという。ヴィシュヌは神馬ウッチャイヒシュラヴァスに乗り、釈尊はカンタカを持ち、オーディンはスレイプニルがあり、黙示録のキリストは白馬に乗って再臨する。これらの馬は「太陽」の象徴だという。この権化が「アシュヴァ・アヴァターラ/馬の権化」と呼ばれるのには深い意味があるというのである。それゆえこの白馬はアヴァターラの最後を飾るに相応しいと松山さんは強調します。

 

睡蓮と蓮


 

この『都の恋』はインドの詩の中でも傑作と言われる作品らしい。ちょっとミニチュア―ルな絵画的趣があると松山さんお勧めの詩である。女性の名前は固有名詞で呼ばないことが鉄則なのです。しかし、間違えてしまったからには跪いて詫びを入れるほかないわけですが、床に「のの字」ならぬ別の女性の姿を描いてしまい、恋人に一発お見舞いされるという顛末です。


運命に見放されたわたしは
ほっそりとした女の前で
名を言いちがえて恐れをなし、
途方に暮れて 取り止めもないものを床に描きはじめた。
ところが いかなることか
その線描たるや、今度は
手足を備へた 他(あだ)し女の姿が
はっきりと浮かび上がるといふ始末。


さて それに気付くと
淑やかな女も
頬がふるへて真赤な色に染まり、
思ひがこみ上げて 急に 泣きくずれ、
「ああ、何てことが起こったんでせう。」
と叫びながら、怒りにまかせて
ブラフマーの武器のような左足の一撃を
わたしの頭に見舞ふのだった。
(『都の恋』)

インドには『シュリンガーラ・ティンカラ』という古詩集があり、八つの基本的な情調のうちの〈性愛情緒〉を主題にしている。松山さんは、それを〈好き心〉と呼んでいますが基本的に貴族・王族の有閑文学なのでホレたハレたが基本であるらしい。

青睡蓮で 君の眼を、蓮華で 顔を、
素馨 (そけい/ジャスミン) で 歯を、
チャンバカの花びらで 肢体 (からだ) を
創造主 (かみさま) は つくって下さった。
恋人よ、その神様が なぜ きみの
心にかぎって 石で作りなさったのだ。(『シュリンガーラ・ティンカラ3』)

冒頭は、美女の体の各部を自然の景物になぞらえながら定石通り神を讃えている。青睡蓮と蓮華が登場するが、蓮、睡蓮、オニバス、オオオニバスはそれぞれ属を異にする植物らしい。文化史的には睡蓮と蓮はしばしば一緒くたに扱われてきた経緯がある。

ハス~スイレン=ロータス

エジプトにおけるパピルス (左) とロータス=スイレン (右)

ハス~スイレンはロータスという言葉でまとめられる。中国や日本には、この二つをまとめて表す言葉がない。インドで、蓮=パドマは紅いハスであり、白い蓮はブンダリーカと呼ばれる。エジプトでは北の花がパピルスで南の花がスイレンで代表されていて、このスイレンはロータスという名で呼ばれている。

ナイル川はパピルスとスイレンをそれぞれ頭に載せるハピ神として表現された。詩文では「スイレンはかれ (アメン・ラー神) のゆえに心愉し」とか「死が今日は眼の前に見える、スイレンの花の香のように」といった文学的遺産があるという。このスイレン=ロータスの文化的影響は建築物の面で顕著に表れる。スイレン柱頭は、東方に向かってイランでそのまま使われ、インドでは蓮柱頭になったという。

インドの最古の文献『リグ・ヴェーダ』の千あまりの賛歌の中で、ハス~スイレンの言葉が現れるのはプシュカラ (青い睡蓮) の数回とブンダリーカ (白蓮) の1回だけだった。しかし、後代になると古典語サンスクリットだけで500語を超えるという。土着語に加えて「水」「泥」「生じた」などの語をくっつけて合成語が多用されたからである。

アショーカ王の獅子柱頭 前3世紀 蓮柱頭が見られる。

中国人は、インドにおけるブンダリーカ (白い蓮) の格別の意味を知らなかった。それで、ロータスを青、黄、紅、白に無理に色分けした。睡蓮を知らない時期が長かったので黄色い蓮や青い蓮を想像してしまい、特に青い蓮を尊崇すること涙ぐましいほどだったという。

そのため経題『サッダルマ・ブンダリーカ』を『正法白蓮華』と訳すべきところを『妙法蓮華』と誤訳してしまった。この経題が『法華経』の中核となる秘密のキーワードであることを気づかないまま、壮大な教学の体系を樹立してしまったというのです。このことについては 次回part2 の『蓮と法華経』でお伝えすることにします。ご期待ください。

中国と日本の蓮

それでは中国と日本で蓮や睡蓮はどのように扱われていたのでしょうね。中国人が考えた最大の蓮は「蓮花十丈藕如船」という唐中期の詩人韓愈 (768-824) の詩の中に残っている。直径30メートルの蓮の花で藕 (ぐう/蓮の根) は船のようだというものですが、インド人の妄想の後では何を見ても聞いても衝撃力に乏しいらしい。

中国文芸で蓮の使用例は唐以前に300例、唐で1500例、宋で約3万例と急増して、その後は数えきれないそうです。清の乾隆帝は、4万2500ほど詩を作ったと言われますが、そのうち1千首に蓮を用いているようです。

俳句が無かったら、蓮に関する日本の文芸は中国に及ばなかったと松山さんは言います。短歌にも蓮を詠ったものはあるが、圧倒的に俳句に蓮が多く詠われている。俳句は鋭敏・繊細な観察の集中的表現によって、インドの〈〉、中国の〈文〉と特長を競いうる日本の〈〉の凄みを世界に示したという。

おのづから月宿るべき隙もなく 池に蓮の花咲きにけり     西行
はちす咲くあたりの風のかほりあひて 心のみづを澄す池かな  定家

蓮の香や水をはなるる茎二寸    蕪村
すっぽんも朝飯得たか蓮の花     一茶
ほのぼのと舟押し出すや蓮の中    漱石
昼中の堂静かなり蓮の花       子規

 

華厳の世界と無限的空間


 

「とにかく、人生というものは『虚しい』と言えば虚しいわけですが、しかし、もとがタダですから。それをタダと思わないから、いろいろ不安になるわけで‥‥。まあ、まえに述べた華厳経の世界観、つまりわれわれが生きている〈娑婆〉なんてものは、華厳経で説いている、いろんな世界の中のごく一つにたまたまぶつかっただけで、俺がこの世に出してくれと言ったわけじゃないんだから責任を負わなくていいんだ‥‥という立場から言えば、あんまりこだわることはないと思うんですね。まあ、これは、わたくしの華厳経を読んでのよこしまな印象かもしれませんが‥‥。しかし、わたくしは、ほんとうにそう思いますね(松山俊太郎『インドを語る』)。」

この人の人生観は、なんか、あっけらかんとしていい。華厳経の時間についても語られているのだけれど、これを考えるとちょっと頭が痛くなりそうなので空間の方をご紹介したい。これとても、高次元幾何学ばりの想像力が必要とされる。まあ、お付き合いください。

須弥山と仏教世界 タンカ 19世紀 ブータン

ジャイナ経も教もヒンドゥー教に比べれば新興宗教なので、時間も空間の概念も負けじとインフレ化します。仏教で一番小さな世界は、私たちの住んでいる世界 =〈娑婆世界です。お釈迦さんの布教地域から広がった四つの島大陸があり〈四洲世界と言われ、中心に須弥山があるので〈須弥世界とも言われる。

その上方に35倍の直径を持つ千倍くらいの広さの〈小世界〉が広がる。それがまた、千個集まった世界が〈中世界〉、この〈中世界〉が千個集まったものが〈大世界〉ですから千の三乗個 (十億個) の世界が在る。これが〈三千大世界です。一念三千の三千ですね。虚空の中にはこの〈三千大世界が、ちょっと分からないほどの数散らばっているという分けです。

華厳経以前では〈欲界〉〈色界〉〈無色界〉という三層構造になっていて色界より先は時間はあっても空間のない世界だった。なので、この〈三界〉以上の大きな世界を考える必要がなかった。しかし、華厳経はもともとヒンドゥー教にある教えの方を取り入れた。宇宙は無を表す闇の海から蓮が出て、その上に形成されるというものです。ビシュヌの臍から出るのと似てますね。

風の輪に支えられた海にあるこの巨大な蓮の中にも海があり、また蓮が咲いているという入れ子構造にした。その最も中心にある蓮の上に天文学的な数の同じグループを作る世界がホットケーキのように二十段重なっている。その13段目のホットケーキの中にある一つの世界の中に〈娑婆世界〉がある。この〈娑婆世界〉は私たちが住んでいる世界よりもはるかに大きなもので10億個で出来上がっているというのです。ヒュー・エヴェレットの多世界解釈による宇宙論を思い出したりします。

世界は耐え忍ばなければならないものであっても、こんな途方もない巨大世界であり、その中のあらゆる生き物は一つ一つが綺麗な花であるような美しい世界である華厳経は私たちに悟らせようとしている。何となく中村圭子さんの「生命科学」の世界を思わせるけれど、こんな雑花荘厳の世界であることも悟るまでは分からない。自分が住んでいる世界が一人の神様や一つの原因から成るとしたら如何にも息苦しいけれど、このような華厳界で考えれば、それが出鱈目だとしても、ものすごい開放感があったと松山さんは言う。まあ、辛い、虚しいと言っても、世界は綺麗な花々に満ちているという分けです。悟らないうちは空華ですが、元手はタダですから空のままでいいと松山さんは言うんですね

 

松山俊太郎の人生観


 

「わたくしは、どちらかというと思想というものが嫌いだから、思想の内側から考えるというよりも、外側から考える傾向がひじょうに強いんですね。この点、三島由紀夫さんという人も、やっぱり思想というものを外側から見て、それで〈思想の形態学〉なんてものを考えたんじゃないかと思います。(『インドを語る』)」

松山俊太郎『綺想礼賛』 文芸批評集

そうなんですね。松山さんは何十年も蓮を研究したけれど、それをまとめて体系化しようとはしなかった。構造主義的に研究していたのかどうかもよく分からないけれど、多分それはないんじゃないだろうか。

三島由紀夫さんは『豊穣の海』の製作動機を語った中でこう述べている。「ある若い仏教学者に聞いたら (松山さんのことらしい) ‥‥ 唯識思想のよくできているところは、ちょうど、水の中に一段一段降りて行く階段があって、知らない間に足まで水がきて、知らない間に胸まできて、知らない間に溺れているというふうに出来ている。それが思想だというものだというのです。」

それから三島さんはいろいろ考えた。哲学と芸術というのは、やはり、ここが違う。芸術は、そんな論理的に一歩一歩入っていくことはできない、論理に頼れないから、いきなりエモーションをつかまえる。芸術家というものは、小さなひとつの世界をつくることはできても、全世界をそのなかに放りこむことはできない。というのも、体系がなく、論理がないから。これは芸術の宿命だと思うとおっしゃるのです。人間を一歩一歩狂気に引きずり込むような哲学体系を小説の中に反映させたらどんなことになるだろうと考えた (松山俊太郎『綺想礼賛』)。

思想の形態学〉というのは、よくは分からないけれど『豊穣の海』の主題めいたものはよく分かりますね。次は澁澤龍彦さんに関する逸話です。渋澤さんは、支那の皇帝のようであったと松山さんは言います。他国から貢物を持っていっても、支那の皇帝は皇帝ゆえに、貰ったものの三倍とかを必ず返すというシステムになっていて、貢物をタダで取るようなケチなことはしないというのです。おおっ!  これは、何かものを尋ねてもそうだった。極めて明晰な論理で答えてくれる日本人には稀な人だった。それは、何事によらず自分の考えで基本的なデータができるまで掘りさげて考えているからであって、渋澤さん独自なロジックとして答えてもらえるのは、とてもありがたかった松山さんは言います。

一方で、どこかの星から落ちてきて、落ちたところの砂場のようになった所で、一人が色々並べて遊んでいるような人なんだけれど、その遊びというものが非常な普遍性と典型性があったと言います。比べていいかどうか分かりませんが、インド人は、かなり幼稚な人たちじゃないかと思う。役にもたたないことをやり過ぎる、しかし、体系そのものは深遠かつ壮麗だったともいうのです。

松山俊太郎『インドを語る』インドを様々な角度から語る松山エッセイ。

あらゆるものを「空ずる」という立場は一種のニヒリズムであるけれど、根底にそれがないと思想も行為も、真に積極的なものにならないのではないかと松山さんは言う。思想というものは現実と関係ない所へ進みがちである。人間の心の平和や真の幸せとか、どの民族でも考えているけれど、人間がそういう考えを持つためには現実と真実の間に膜が必要になる。認識はヴィドヤー(明)とアヴィドヤー(無明)の皮膜の間にしか成立しないのではないかと感じている。

日本人は、元々空 (くう) の中に生きていたんではないかと松山さんは考えている。空というものを自覚しないほどの空の中に住んでいた。空ということを物事にこだわりをもたない、というふうに考えれば、一般的な水準として空は受け入れやすい構造を持っている。

事が起こる前にあらかじめ色々な事柄と対処方法を考えるタイプと事が起こってから考えるタイプとに人間を分けるとしたら、日本人は後者に違いない。危機管理に弱い所以ですね。しかし、日本人は事が起こった時、行き当たりばったりに考えて、しかも反応が短い。事に当たって的確に判断して反応するためには、「素直」である必要がある。意識するとしないとに関わらず、物事を「ありのまま」に受け止めていけるという性質が絶対に必要だという分けです。

まあ、いろいろなご意見があろうかと思いますが、松山さんはそう考えていた。ここは、「生まれたのはタダですから」という言葉に繋がっていく。この飄々とした有り様が彼の人生観だったと言えるのでしょうが、緻密かつ厳密なインド学の学理的追求態度と著しい好対照を示している。この懸隔が実は松山さんの魅力と言えるのかもせんよね。

 


次回は、「松山俊太郎 part2『蓮と法華経』正法の白蓮華とは釈尊なのか ?」をお送りします。太陽存在としての釈迦は白蓮華と結びついて法華経に結実した。この壮大な松山仮説をご紹介する予定です。次回は限定公開となりますので、ご覧いただくためにはパスワードが必要になります。ご希望の方は下のコメント欄にパスワード希望とお書きください。パスワードをお送りします。コメントを公表されたくない方は公表不可と書いてくださればと思います。詳しくは、「これからのブログ公開について」をご覧ください。


 

参考図書

松山俊太郎『蓮と法華経』

 

ロバート・ジェイ・リフトン『ヒロシマを生き抜く』精神的死からの再生

 

1962年リフトン博士は、原爆投下17年後のヒロシマに到着した。ここでの研究は、核兵器による極限的な出来事に対する被爆者の心理的影響を研究するためだった。そのことは、前回のラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成』でご紹介しておいた。 人間が原子爆弾による圧倒的な死に向かい合う時、その体験と表象が人の心の中でどのように働き、変化していくかという過程を探っていった。

後にナチスの強制収容所の生存者、ベトナム戦争の退役軍人、スリーマイル島での従事者の心理を研究したリフトン博士は「生き延びたものの英知は、少なくとも潜在的に、人類の英知となりうる (桝井迪夫 他訳)」と述べている。このような研究は生存者シンドロームやPTSDの研究へと繋がっていくものである。

博士は強調する。ヒロシマ以降、戦争に結びついた忠誠などなく、戦争に結びついた栄誉などない。そこには加害者も被害者もない。ただの人類の絶滅があるだけだと。大災害においても、死に瀕した歴史的事件においても、生存者たちによって数多くの発見がなされ、苦難に立ち向かうことによって多くの苦難が克服されてきた。そういった時の感覚的な麻痺や精神的停止という障害を克服して人間は、意識の拡大を成し遂げてきたと言うのである。

ロバート・ジェイ・リフトン『ヒロシマを生き抜く』上・下

 

ロバート・ジェイ・リフトン博士は、1926年ニューヨークに生まれた。ニューヨーク医科大学で、学位を取得している。1951年から1953年にかけてアメリカ空軍の精神科医として日本と韓国に派遣された。1956年から1961年にはハーヴァード大学東アジア研究センター研究員となり、中国における思想改造や日本の学生運動の研究を行っている。1962年広島での原爆被爆者の調査の後、イェール大学医学部に着任し、ハーヴァード大学、ニューヨーク市立大学教鞭を執った。ニューヨーク市立大学名誉教授であられる。若い頃はフロイトに影響されるが次第に独自の心理学を構築し始めた

博士は「社会的責任を果たすための医師団/PSR」「核戦争防止国際医師会議/IPPNW」という二つの運動に参加している。このうちIPPNWは1985年にノーベル平和賞を受けた。

本書は1968年にアメリカで出版され、翌年科学部門の全米図書賞を受賞した。その授賞式で博士は「ヒロシマは、なんらの賞も許さないのです。ヒロシマが要求しているのは、ひるむことなく真のヒロシマの意味を認めることなのです(桝井迪夫他 訳)」と述べている。

邦訳された著書に『終わりなき現代史の課題―死と不死のシンボル体験』『思想改造の心理―中国における洗脳の研究』『終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か』『誰が生き残るか プロテウス的人間』などがある。『現代(いま)、死にふれて生きる―精神分析から自己形成パラダイムへ』では「創造者としての生存者」という章で第二次大戦を生き残った三人の作家、アルベール・カミュ―、カート・ヴォネガット、ギュンター・グラスを取り上げた。

 

広島での調査


原爆が投下されて17年の歳月が過ぎていた。だが、個人の学者にせよ、団体にせよ、組織的、具体的に被爆者に対する心の影響の調査は、なされていなかった。何故、遅れたり、無視されたのかについて、リフトン博士は研究者が選択的に自身の心を麻痺させた結果ではないかと考えている。ある意味、調査には、そのような麻痺、つまり心の閉め出しが必要とされたという。およそ、死に対処するあらゆる仕事に必要なものだけれど、とりわけ被爆のような恐ろしい現実に一体化することは、研究者自身に精神的な麻痺を引き起こす「治療の逆作用」を生み出す危険があったというのである。

しかし、同様に核兵器の開発・実験や製造に携わる人たちにもそれと同じ状態に陥っては、いないかと危惧している。核兵器のもたらす結果を感情面で締め出してしまっているというのだ。現代の物質的繁栄とテクノロジーの進化に伴って進行している事態に共通している問題と言えるのかもしれない。それは、リフトン博士が言う「際限を知らない技術がもたらす暴力と不条理な死」を招くのである。

被爆者への面接調査は二つのグループに分けられていた。一つは広島大学原爆放射能医学研究所によって無作為に選ばれた被爆者31名、もう一つは主として学者、作家、医師、政治指導者から成り立つ42名の被爆者だった。博士は多少日本語を話すことが出来、倫理的使命感をもって取り組んでいること、そして、組織的研究が必要であることを面接者に説明した。それに、平和象徴に関する博士の論文の日本語訳が『朝日ジャーナル』に掲載されたことが追い風になった。少なくともアメリカ政府のための情報収集ではないことが理解されたようだ。

本書は、この面接での内容がかなり詳しく書かれている。今回、僕は、その纏めと言える最終章「生存者」に限定して詳しくご紹介しようと思っている。

 

生存者に残される心理的脅威と精神的再形成


 

1.死の刻印

生存者体験の鍵となるものは死との対面である。ヒロシマの被爆者たちの過酷な体験は、三つの側面から語ることが出来る。白昼に巨大な稲妻に襲われたように突然全ての人々が死に侵されたこと。放射能の後遺症と結びつく死の恐怖に脅かされ続けること、核による絶滅という世界的な恐怖に集合的に触れ合ってきたことである。これらの死のイメージは正に圧倒的だった。

原爆投下後のヒロシマ 1945 年 ウェイン・ミラー中尉撮影

その死は、至る所に存在しただけでなく、異様にグロテスクな奇怪で不自然なものであり、考えられ得ないほど不適切で不条理なものだった。一瞬にして、とてつもなく変わり果てた人間の姿は、恐らく14世紀にヨーロッパを襲った「黒死」を思い起こさせるとリフトン博士は言う。黒死病、つまりペストである。ペストの様々な症状は、壊疽 (えそ) 性炎症、胸部の激痛、嘔吐と吐血、患者の体や息から発散する「ペスト臭」といったものだった。

このような死に曝された人々は、死そのものだけでなく、そのグロテスクな様相をも自分の一部になってしまい、自身と分離できないものになってしまうというのである。

ヒロシマの生存者たちは、原爆によって生じた恐ろしい症状とそれへの恐怖を口々に語った。血便を伴う激しい下痢、脱毛、体中の穴からの出血、皮膚に現れる紫斑、それに長く続く極度の倦怠感がある。死は2年後、3年後、いつ訪れるかもしれなかった。ペストは一度それから回復すれば、再発は無いが、原爆症は、一度回復したと見えても、ずっと後になっても同様な死に侵される不安にさいなまれることになる。原爆投下直後の数年間に白血病が多発し、その後は甲状腺癌、胃癌、肺癌、子宮頸癌などが発症する。放射能は何世代にもわたって遺伝的影響を残す可能性があることが知らされると、奇形児を産むことへの強い恐怖が広がった。

2.もろさの意識

もろさという点で被爆者には相反する二つの側面が見られる。人は通常でも、危険に立ち至った場合、自分は頑健だと思いがちだが、生存者は、死を極めて衝撃的な形で意識させられることによって、この幻想を徹底的に打ち砕かれるために、自分のもろさを強く意識するようになるという。

もう一つは、ある生存者たちが死に直面しながらも、それを征服し、一層頑健になったと意識するようになることである。その人たちは平和運動などにおいて、ある種のカリスマ的な存在となる場合もある。それは、死との遭遇という「試練の道」を経て生き延びて帰還し、死を克服する特殊な英知を人々に伝えるという英雄神話と心理学的にパラレルな様相を帯びた。

しかし、そのように感じている人も、けっして死の不安を免れてはいないとリフトン博士は言う。それは、希望的観測である場合が多いという。彼らは、死と荒廃の光景に一生呪縛される。それほどの強度で、この体験は意識に刻み込まれるのである。

ガス室への移送 1940-1945の間 Archiv Post Bellum

ホロコーストの生存者は、現代における死の不安と直接的に結びつくことは少ないが、長く尾を引く屈辱と恐怖に付きまとわれる。詰め込まれた輸送車の中での窒息、恒常的な飢え、拷問、強制労働、伝染病、人体実験といった精神的、肉体的打撃は癒しがたい損傷となった。

時に、自分の働いているオフィスの壁が消え去り、アウシュビッツかブッヒェンバルトの荒涼とした眺めに取って代わられる。その細部は異様に強烈で生々しいのである。その思い出は、何度も何度も自分が生き延びたということ自体を思い出させる。しかし、被爆者と同様に、そこには死者のイメージによる圧倒的な支配、自分だけが生き残ったという罪悪感、加害者への敵意身体的障害に対する様々な心的反応があり、同時に通常の行動様式の崩壊が見られることもあるという。

3.心理的閉め出し

死者に対して、生き残った者が、生き残り得たという、いわば優位に立った感覚は罪悪感に変わる場合が多い。我が子に先立たれた親の罪悪感は殊のほか強い。このような罪悪感と死への不安から身を守るための反応として大きな力を持つのは感情の機能停止だった。ヒロシマでの実態調査で明らかになったのは、この反応が急性の場合が「心理的閉め出し」と呼ぶものであり、慢性の場合には「感情麻痺」というべきものになることであった。

心理的閉め出しは、被爆のような異常事態に対して順応するために極めて大きな役割を果たす。何も感じなければ死などないと感じられるのである。死者と一体化しがちな心の働きを弱め、完全な無力感を弱めたりもする。それは、象徴的死と言いうるものかもしれないリフトン博士は考えている。

しかし、生死を巡る象徴体系が完全に崩れて、内部の統合、統一、運動 (活動) に関わるイメージが失われ、人間の心の関係性/連続性と言うべきものが完全に失われる場合がある、強制収容ではムッセルマンと呼ばれる状態があるという。他者と自己を一切断ち切ってしまい、後戻りできない精神的死を示す状態である。環境に全くの支配を許し、死への本能的願望に飲み込まれる。あるユダヤ人は「生死の中間世界をさまよっている呪われた魂」と表現している。精神的麻痺は、有害な刺激を防ごうとするある種の肉体的営みだが、恐ろしい病理学的力に変質し、結局は生体組織のうちに死のイメージを氾濫させるという。原爆症に関わる心理的ダメージとはこのようなものかも知れない。

精神的麻痺が昂じた場合でも人間の認識能力は、保持されうる。失われるのは、認識した事柄や感情を行動に結びつける象徴的統合能力だという。「歩く屍」「生ける屍」「自分の屍の影を踏む者」、被害者たちのこういった言葉に託して語られている事柄は、死の洗礼を受けた当時だけではなく、現在においてもある程度、そう感じられるような自分の姿なのだというのだ。

3.生存者が失ったもの

生存者たちが悼むのは家族と近親者の死である。そして、家や財産、慣れ親しんだ生活様式、自己の信念、そして自分との絆を持つ諸々の象徴である。過去の自分、死への直面とそれとの葛藤がやって来る前の自分を悼み、弔う。彼らが奪われたものは、死のけがれを知らない無垢な状態に他ならない。それは「仲睦まじい家族の懐に抱かれて過ごした牧歌的子供時代」のイメージに繋がるのである。そこでは、死んだ人たちが理想化された状態で存在する。生存者は決してこの失われた黄金の時間を取り戻せないために、死に縛り付けられ、自らの悲しみに縛り付けられるという。

ヒロシマにおいては、生存者は急激で絶対的な転換を強いられたあの最後の瞬間を終生同化することが出来ない。ホロコーストにおいても、十分な弔いを成就し得なかった後に精神障害を起こすケースが多いと言われる。両者において、問題となるのは「死者が行方不明」であるケースだという。彼らは寄る辺ない死者であり、それを弔えない生存者は無意識に罪悪感を持つ。一方で、死の不安や穢れの観念に駆られて家族の死体さえ拒否する生存者もいたという。心の悲しみが解決されなければ、精神的・肉体的な一連の障害を被ることになる。しかし、病気は悲しみそのものによるのではなく、それがゆがめられることによるのだというのである。

4.喪失・別離・終末のイメージ

別離にもいろいろな死の不安が忍び寄る。幼児の死は母親にとって自分への死の脅威となることも多い。長くつらい闘病生活を送る親者にたいして安楽死させてやりたいと思うこともあり得る。医師にとっても患者の死が、以前の自分の喪失体験の記憶を蘇らせることだってあるだろう。

死と喪失と離別とは、人が成年になっても心理的に相当程度相互に置き換えられるという。喪失も別離も、死との遭遇体験を象徴的に蘇らせるのである。精神病の患者の場合、世界に対する関係は根元的に損傷され「精神的死」という感覚が、その損傷した関係投影されて「世界終末」のイメージが現れる。しかし、被爆者の場合、圧倒的な絶滅という事件が外から押し付けられるのである。被爆やホロコーストにおける乱脈な死は、単なる死ではない死であり、その死への不安は恐るべきものだった。あり得ない大量の死、余命のない老人から生まれたばかりの嬰児まで、なんら筋の通る死は無かったのである。この喪失と離別の記憶は、ジョー・オダネルが1945年のナガサキにおける『焼き場に立つ少年』の写真に見事に捉えられている。あの嚙み締めた少年の唇と真っすぐな視線が忘れられない。

このような体験にって、致命的な死の苦しみにさいなまれるだけでなく、永生の可能性を否定的に見てしまうことだってある。キリスト教的な表現であれ、象徴的な言葉であれ、死と復活の究極的な力に対する自己の関係は、重大な危機に曝されるとリフトン博士は述べている。

5.罪悪感との戦い

平和な家庭の長老が天寿を全うし、安らかに迎える死は郷愁をさそう理想的イメージだが、ほとんど神話的なもので、多くは実現されない理想であり、逆説的に大きな力を持つ。そのことによって、生存者の罪悪感が掻き立てられるのである。自分がより長生きしたいという願望と、親の長寿を願う気持ちには矛盾があり、根源的に直接・間接に死と生に関わる矛盾した感情の内に生きているのである。

被爆者の場合、近親者が行方不明の自分を被爆地で探し回ったあげくに自分より早く亡くなったとすると、一生その罪悪感を背負うことになる。20世紀最大の詩人の一人と言われたパウル・ツェランは逃げることを説得できなかった両親を残して家を出たが、両親が強制収容所で亡くなったことを一生後悔し続けていた。

強制収容所においても悲惨だった。誰が今日死ぬかは、ゲームのようなものであり、自分がどの列に立つか、労働に耐えられると思ってもらえるような外見をどうつくろうかは、他者を出し抜いて生き延びることに直接関係していた。それは、「永遠の汚辱」と言うべきものとなって心の底に居つくようになる。例えば、鏡を見る時に「一つの死体がじっとこちらを見返している」といった体験に結びついた。目の象徴的イメージは、はるかな普遍性を持っている。死者からの凝視は、生存者が、同じ人間として「自分の非を責める目の所有者」と一体化していくことにあるという。

死者との一体化について、広島での研究で印象的な事柄があるという。死者が欲したと思われるように、自分も考え、感じ、行動しようとするというのだ。それができなければ、他者の身になりきれない自分を厳しく責め始めるというのである。自分が生き残ったのとは裏腹に死んでいった人々に対してしたこと、あるいはしなかったことに関する罪の意識は死者との一体化を催し、「存在の秩序の傷」というべきものを生み出すというのである。死と生存の問題は、けっして個人的な事柄ではない。死をめぐるイメージは誰が生き残るかという内心の疑惑と結びついているという。

罪悪感の放射

このような罪悪感による一体化は、死者から生存者へ、生存者からそれ以外の日本人へ、日本人から世界の人々へと放射的に広がっていき、自分よりもより苦しみの中心に近い集団への心理的同化を催すという。外国にいると広島から来たというだけで、色々な同情的な言葉をかけられることにもなる。この死者と罪意識の関係は、他者との一体化という人間の心理に対する究極の象徴的連関を考える上で重要な基礎となるという。被爆という圧倒的な暴力がもたらした異常事態によって、無残な死を遂げた人々がいる。そのような犠牲の上に自分たちは生きているという罪悪感は放射現象というべきものを生み、それは正常な一体化という人間相互の絆が一時的にせよ破壊されることによって生じる。それ故に一層重大なものになるとリフトン博士は強調する。

一方で、大量の死者に近ければ近い人ほど、死の洗礼に耐えるための全面的防衛が必要とされ、心を鎖すための精神的活動が要求される。しかし、そこから遠い人々にとって心理的締め出しに対する要求はさほどなく、より容易に被爆やホロコーストの惨状にたいして心を閉ざしてしまえることにもなる。この精神的麻痺状態は同心円状の連続体であって、その周縁にいる人々に対しても死の洗礼に敏感に感応する潜在能力は存在し続けているという。

福島の原発事故で、被害者たちが差別されたことの原因はここにあるのではないかと僕は考えるようになった。被爆という見えない脅威による死の不安は、ヒロシマの死によるこの罪悪感の放射という構造に自分をより接近させる結果となる。それを心理的に閉めだそうとした時、生じたのは自分たちより死の放射に近い人々を締め出そうとする現象となって現出したのではなかったろうか。ここは学ぶに値することだと思える。

精神的麻痺と核兵器

浦上天主堂跡における慰霊祭 1945年11月23日 ナガサキ

現代社会では、死の悲しみからおこる病理的反応が増大しつつあるらしい。有意義な弔いの儀式が存在しなくなりつつあることを指摘する心理学者もいる。死が締め出される所には生命の意義に対する感覚が失われた状態があり、「不完全な生」というべきものになっている可能性もあるのである。

自殺に対する企ては、精神的麻痺を脱して、自己の無力化を克服しようとする絶望的な試みともなり得るという。自ら死の主人となり、それを支配する道でもあり、魔術的に見えるにせよ象徴的に人間の完全な姿と自己の不滅性の感覚を回復したいという企てではないかとリフトン博士は言う。しかし、それは悲惨だ。一方で、統合失調症のような患者の空想や妄想には、自己万能感が現れることがある。万能な人間は不滅だと思うのだ。

リフトン博士は、精神疾患の患者が自己の万能性と不滅性に対する原始的空想に及ぶのは、実人生における諸関係が壊れているために不滅性の象徴が根元的に損傷しているためだと考えている。死の不安は精神的麻痺を引き起こす根本的な原因だが、それを締め出したいと感じるのは、ただ死だけが原因なのではなく、むしろ死が生命の象徴に対して持つ関係のゆえなのだというのである。

精神的麻痺は我々の時代における大きな問題となってかなりな時間が経つ。死一般に対して、とりわけ核兵器による絶滅死に対して世界中の人々が精神的な麻痺に陥っている現在、ヒロシマ、ナガサキの体験に対する死の不安と罪悪感を分かち持つことは、それを打破するために価値のあるものだと理解してほしいリフトン博士は述べている。

犠牲とパラノイア

レストハウスの地下 ヒロシマ平和公園内

死の体験を乗り越えて新たな精神形成を進めていくうえで、愛、保護、調和といった、かつての深い感情を自分の心に蘇らせることが、生存者の意識を支える大きな要素となる。単純で澄み切った幸福を味わった「黄金時代」は必然的に子供時代のものである。「秩序ある世界での遊びから湧き上がる喜び」といったものに関わる感情。それが生存者に最も必要とされているものなのである。

そうした昔の感情を平和都市を構築するとかユダヤ国家を建設するとか有意義な目的に結び付けることが大きな意義を持つことにはなる。それでも、何らかの形で死者からの象徴的なメッセージに由来するものでなくてはならないという。

被害者意識が極端に強くなると、人間というトータルな概念から離れて、全てを被害者と加害者としてだけで意識してしまうような硬化した精神状態になってしまうケースがある。生存者パラノイアと呼ばれる状態である。周囲の敵に攻撃を集中し、投影という心理的なメカニズムを利用して自分が未だに被害を被っているという感情を表現する手段にしてしまうのである。

有罪者を処罰し道徳的秩序を回復する、いわば「正義を収集する」努力の中で、復讐の観念はつねにあり、かつての親衛隊だったアイヒマン裁判は良い例となる。しかし、現代技術の暴力といった原爆の場合、その兵器の性質上、復讐することは事実上不可能なことである。日本が戦争に加担していた以上、誰にも責任は無いという考えに傾いていったことは理解しやすい。

見せかけの保護と伝染への恐怖

見せかけの保護に対する不信感というのは自分を脅かす者への一体化と関係している。保護を強く求める願望と自分のもろさ想起させるものに対する過敏な反応とが絡み合い、自立に対する激しい葛藤が起こる。精神的麻痺が自立を一層難しいものにする場合もある。提供される援助が生存者に自分の弱さを確信させるばかりか、その活力を根本的に奪ってしまうというのだ。日本が原爆でアメリカを攻撃したというデマで瀕死の患者が突然活力を取り戻したという例をある医師は書き残している (蜂谷道彦『ヒロシマ日記』)。力は一般的に死を支配する力であり、攻撃者への一体化は生存者にとって自分を脅かしている力を共有しようという企てであるという。

原爆によって犠牲を強いられたという意識は集団意識となって連帯感を生み出す。それには原爆症が伝染するという誤った認識から生まれる他者の恐怖も原因しているかもしれない。マイノリティにされたという感情はあっただろう。その連帯意識は死をもたらした当の力と隠微な関係を結び、終生一体化してしまう可能性をもたらすという。それは結局、自分の生活がまやかしであるという意識を強め、保護に対して見せかけだとする拒否反応を生み出すことになるというのである。

精神的再形成への道

原爆ドーム 筆者撮影

リフトン博士は、死の体験は誕生時に既に人間に備わっていると考えていて、それが後年の死のイメージの原型ともなるという。「離別と結合」における離別には、幼児の親からの分離不安が大きな要素を占める。そして、この離別には分裂と静止 (停止) が伴っている。これに対して結合、象徴的統一、活動が対極にある。

人間は生命を肯定する根拠が脅かされる度に、生存を強く体験付けられると同時にその体験の内に内外の世界を再構成する必要に迫られる。このような中で死の体験は以前からの死のイメージを活性化し、常に新たな広がりをつけ加える。死の洗礼が持つ感情的な力は、新しさの衝撃と再認の衝撃との結合にあるという。

過酷な体験を可成りな程度まで克服できると、生存者は自分の過去から生命肯定の要素を呼び出すことが出来、「能動的な緊張」とはつらつとした現実感覚」を取り戻すことが出来るようになる。そして、驚くべきことだが、無抵抗な態度が最も有効な力を発揮する場合があると言う。他方で「生存者の使命」と呼ばれる社会的な活動があり、生存者が精神的麻痺に陥ることを助けるというのだ。両者ともに永生の観念を復興することを含めて、広く人間の精神に象徴的統一性を与えるものだというのである。

 

死と人間にとってのシンボリズム


僕が今回、この『ヒロシマを生き抜く』を取り上げたのには二つ理由があった。一つは、最近日本でも頻繁に起こっている大災害に対して、自分が感覚的に鈍いのではないかとずっと思っていたことに対する回答が得られたように感じられたこと。そして、ヒロシマやホロコーストのような極限的な状態から脱出して精神的再形成をする上で象徴が極めて大きな役割を担うことを教えてもらったからである。

最初に述べた「感覚的な鈍さ」が心理的閉め出しと呼ぶものに由来していているというのは、全くその通りなのではないかと思えたのである。多分、それは幼い頃からの傾向ではなかったのか。そういうことを気づかせてもらった。死に対する不安や分離不安は、僕の心のどこかに潜んでいたのだと思う。

もう一つの「死と象徴」の問題は、この本を読んでいた時に、同時にミルチャ・エリアーデの『宗教学概論』について色々考えていたことと恐ろしいほどに共振しはじめたことと関係している。例えば、水や月は死の象徴であり、再始と再生の象徴ともなっている。この象徴は、人間の分断されない全体的意識から直接与えられるものだとエリアーデは言う。それは合理的、論理的操作から生まれるものではなく、知性や魂を含めた人間全体に啓示されるというのだ。それが与えられれば、自分を人間として発見し、宇宙における自分の位置を自覚できるようになる。それは、月や水を客観的に眺めることによって生じるものではなく、神話的寓話化や不合理な宗教経験の産物でもない。

言葉は部分しか示せない、象徴は全てを示せる。しかし、それには概念が必要だと松山俊太郎さんは、述べている。象徴は巨大な扉の鍵穴だが、それを開けるには概念という鍵が必要なのである。

人は、それぞれに様々な象徴を持ちあわせているだろう。人間にとっての原初的な発見というべき象徴が、世界と極めて有機的に結びついているかぎり、同じシンボリズムが精神生活の最も高貴な部分にも意識下の活動にも、共に働くというのだ。人間にとって、この象徴的統一や統合が、その危機にあって如何に重要なものとなるかをリフトン博士もまた教えてくれているのである。これらの統合が、世界の極限的な崩壊と終末のイメージの中に溺れようとする人間に如何に有効に働くものであるかを彼は数多くの被爆者の証言を土台として指し示してくれているのである。

 

引用文献 及び 参考文献

蜂谷道彦『ヒロシマ日記』
広島逓信病院長であった著者が被爆後、56日間の体験を描いた日記。被爆体験の貴重な一つとなっている。

ロバート・ジェイ・リフトン『現代、死にふれて生きる』 死と生との連続性の組織化、心理的形成と象徴を原則とする心理学のパラダイムシフトが示される。

ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成』2020年刊     ヒロシマの記憶が、どのように継承されようとし、その歴史的変遷がどのようなものであったかが述べられる。

ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』
宗教学概論2
第四章 月と月の神秘学
第五章 水と水のシンボル
第六章 聖なる石
第七章 大地、女性、豊穣
第八章 植物

ミルチャ・エリアーデ
『イメージとシンボル』

ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ 』大量虐殺の記憶文化

 

広島原爆資料館  正式名称は広島平和記念資料館

今でもそうなのだと思うのだけれど、広島市の小学校では、原爆資料館の見学は必須だった。僕が小学生の時、何年生だったかはもう忘れてしまったけれど、皆で資料館に行って、ひどく怖かったのを覚えている。しばらく原爆資料館は僕にとって禁断の地になっていた。それでも大学生になった時にはもう一度訪れてみた。最近、この資料館の展示がリニューアルされ、視覚的に随分新しい工夫がされているらしい。それに、原爆死没者追悼平和祈念館で、ぼくにも少し関わりのあるイエズス会の神父さんたちの被爆当時の広島での救援活動の記録を紹介する展示『わが命つきるとも』開催されている。コロナが落ち着いたら行ってみようと思っている。

広島に住んでいても被爆後の平和運動や平和公園などの経緯について知らないことはいっぱいある。特に1960年代から以前はよく分からない。例えば、1963年には原爆慰霊碑の前を過激派の学生が占拠し逮捕者が出た。そして、1965年には自衛隊の観閲式が挙行され、100メートル道路を戦車などがパレードした。これらのことは知らなかった。それを教えてくれたのは、今回ご紹介するラン・ツヴァイゲンバーグ氏の『ヒロシマ―― グローバルな記憶文化の形成』である。実に丹念に資料を調べ上げている良書だと思う。昨年2020年に出版された。一度は読んでみられることをお勧めする。

ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成』2020年刊

被爆後のヒロシマで戦災者たちへの支援と街の復興は政治的なバイアスの中でどのように成し遂げられていったのか。第二次大戦における大量虐殺の犠牲者たちは、語り得なかった過去をある時期から語り始める。それは何故か。被爆者たちの PTSD がクローズアップされるのは、比較的最近になってからだった。何故そのように遅かったのか。あの語り得ぬ出来事をアウシュビッツとヒロシマの人々は、どのように結びつけていこうとしたのか。本書では、このような事柄を通してヒロシマという特異な体験を経た街と人にまつわる記憶文化がどのように形成され、変化していったのかが語られる。

著者は、ヒロシマを見据えながら (タイトルにもあるようにナガサキについては、ほとんど語られていない) これらの重い問いに淡々と事実を積み重ねることによって答えようとしているのだが、政治的偏りはなく、ペシミズムや妙なヒロイズムに染まることもない。ためらいながらも真実と思えることを表明しているのである。

筆者のラン・ツヴァイゲンバーグ氏は1976年イスラエルに生まれた。ホロコーストを生き延びたユダヤ人の祖父母を持つ。ポーランド軍に属していたこともある母方の祖父は、いつも食べ物を隠していた。ソ連の捕虜になった後、シベリアの強制収容所に入れられ、そのころの空腹だった体験を子供や孫たちに伝えた。一方、父方の祖父は1945年にダッハウの強制収容所から米軍によって解放されたが、戦争とその体験について、ほとんど語ることがなかった。記憶と忘却には様々な在り方があるのだということを知ったという。イスラエルで育った後、1999年に渡米し歴史学を学んだ。ニューヨーク市立大学で博士号を取得。本書『ヒロシマ』は、この博士論文を基に書かれ、2016年に米国アジア研究協会賞であるジョン・ホイットニー・ホール賞を受賞している。現在はペンシルヴェニア州立大学で教鞭を執っておられるようだ。

 

巨大な神話作り


 

1947年、昭和天皇による広島巡幸 広島護国神社境内

原爆が投下された後、ヒロシマは不死鳥のように廃墟から蘇った。しかし、その蘇りには即決しなければならない問題と占領下における統制という二つの大きな障害を潜り抜けなければならなかった。

8月6日、米国大統領トルーマンは、TNT火薬二万トンを超える規模の宇宙に存在する基本的な力によって、日本は真珠湾の報復を受けたと声明を出した。そして8月15日、昭和天皇は戦争を終結し核の被害から国民を救うために降伏を決断するとした。このレトリックは目前に迫る占領と日本のエリートたちの利害関係が奇妙な形で一致した結果だったと著者は述べている。原爆というアメリカの科学が戦争終結をもたらし、日本が原爆を体験した唯一の国であり、物質的なものを失うことによって道徳的な使命を得たという考え方がアメリカ人が広島に足を踏み入れる前に既に存在した。原爆は複雑な舞台の象徴の一部になっていったというのである。

占領下において、原爆投下に関するアメリカへの非難は勿論、原爆に関する議論、証言、写真、医学的知識ですら厳しい統制下にあった。1946年に刊行された栗原貞子の詩集『黒い霧』の中のある詩は41行のうち30行が削除されたという。そのような中で原爆について語れる話題は、平和と原爆との同一視であった。こうして、原爆の犠牲者たちは戦争の犠牲者ではなく平和の礎としての犠牲者という文脈の中へ落とし込まれていった。平和の礎としての犠牲という考え方は、日本側にもあって、原爆によって日本の降伏が早まることによって、日本はドイツのように分割占領されることがなかった。このような発言を僕は何人かの日本人から聞いた。

1948年 広島平和祭
広島県知事楠瀬常猪 (くすのせ つねい) の演説。谷本清牧師から始まるNo More 広島運動の看板がある。

米国陸軍の復興顧問であったジョン・D・モンゴメリー中尉は「ヒロシマを国際平和のシンボル」とすることを提唱し、戦災者の供養塔よりも国際平和記念塔を建設することを勧め、博物館の建設や訪問者のためのインフラ整備を提唱した最初の人となり、米国で復興資金を集めると約束する。一方で、広島市は政府からの復興資金を得られず、世界に募金を呼び掛けることになるが、キリスト教の宣教師たちの活躍が目立った時期である。平和記念聖堂の建設や被爆者のための家屋の建設資金が募られた。このような気運のなかで1947年に市の中心部である中島地区で広島平和祭という式典が開催されるようになる。

この式典でマッカーサー連合軍最高司令官は戦争による破壊力は遂に人類を絶滅させるまで進展するだろう、それがヒロシマの教訓だとメッセージを発した。このような宗教的ともいえる厳粛な平和の語りが行われるようになると同時に原爆に関連する催しを広島の経済復興に利用しようという目論見も生まれていった。観光都市としてのヒロシマが復興の財源となるための路線が敷かれていったのである。

 

沈黙の壁とPTSD


 

沈黙

8月6日に続く日々に、広島・長崎の人々が、どのような心の状態にあったのかを想像する能力が私たちには欠けていると著者は言う。当時の生存者でさえ、それが如何なる体験であるのか理解できなかった。広島逓信病院の院長だった蜂谷道彦医師は、被爆直後の人々の様子をこう伝えている。人々に声をかければ、皆一様に後ろを振り返ってあっちから来たと言い、前の方を指さして向こうへ行くと言う。出てきたところも言えず、行先も言えないような羊のようなものになってしまった(『ヒロシマ日記』)。原爆の生存者は、強制収容所の生存者と同様に、自分の経験を信じてもらえない、誰にも理解されないといった孤独の中に置かれていた。

しかし、蜂谷医師の『ヒロシマ日記』やジョン・ハーシー氏が被爆体験を聞き書きした『ヒロシマ』などを読むと、あんな悲惨な状況の中でも、人間というのはユーモアや笑いを忘れないのだと知って、少し明るい気持ちになれるのは、せめてもの救いではある。それと、黒い雨訴訟で広島高裁の判決を受けて政府が上告しなかったために被爆者たちの勝訴が確定したのは、つい最近のことだ。ともかく、良かったと思う。黒い雨とは、核爆発後の大量の放射性物質を含んだ雨だった。

原爆投下後のヒロシマ アーカイブ写真コレクションAnefo

原爆は一瞬にしてほとんどのランドマークを消し去り、戦前の記憶もまた吹き飛ばされた。被爆者の中では、自分だけが生き残ったことに罪悪感を持つ人も多かったと言う。生存者は、自分が「硬直した死体」であると感じ、その「死体」そのものでないことを自分の罪とした。また同時にそれが自分でなくて他人であることに安堵をおぼえると、いっそう罪の意識に陥るという (ロバート・リフトン『ヒロシマを生き抜く』)。そんな極めて強いアンビバレントな感情に曝されるという。原爆文学は総じて、原爆を表現し、そのための言葉を見出すために苦悩した。峠三吉、栗原貞子、原民喜、太田洋子、竹西寛子、林京子といった詩人・作家たちである。

戦後、流言や中傷のために被爆者たちは差別されるマイノリティになっていった。放射能は目に見えない殺人者だった。当時、原因不明な病状は伝染病と誤解され、その恐怖心から被爆者は拒絶された。それは、ハンセン氏病の療養所にいる人たちに対するのと同じ風聞被害であり、知識の欠如から来ていた。思い出すのは、福島の原発事故の被害者たちに対する差別だ。何の科学的な根拠もないのに福島の被害者たちは差別された。これにはあきれたが、いったい何故だろうかと考えた。

多くの人々は沈黙したまま自分の体験を語ろうとはしなかったし、敵に対する憎悪よりも諦観が支配するようになる。ジョン・ハーシー氏の『ヒロシマ』を通じて世界的に知られるようになる谷本清牧師は「私自身とても原爆の非人道性は身に沁みて感じ、怒り心頭に発する感があった。だからと言って相手方やアメリカを呪う気にはならなかった。そうする前に、このような戦争に参加したことのあやまちを反省させられたからである。こうして我らは『仕方がない』という思いに達して一応の心の安定を得た (『広島原爆とアメリカ人』)」と述べている。このような怒りの抑制は、後に述べるロバート・リフトン博士の言う死に直面した人間に多く生じる「心理的閉め出し」と呼ばれるものの一つと考えられる。これは必ずしも消極的側面だけではない。

占領によってヒロシマにおける記念の方向性にバイアスがかかったのは確かだが、悲しみ・怒り・復讐といった感情のレジームよりも和解と未来志向の上に打ち立てられようとしたことも確かだった。仏教的な精神性や戦時中の過剰な悲しみに対する過度な抑制を引きずった精神的風土の中に怒りは埋没していったのではないかと著者は考えている。

第五福竜丸 第五福竜丸記念館 東京

しかし、ある事件が全ての人々の眼を被爆者に向けさせることになる。1954年の第五福竜丸事件である。ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験は想定の2倍に達する破壊力を持ち、危険区域外で操業していた乗組員たち23名を被爆させ、死者を出した。この事件は反核運動に火を付けることになり、平和運動は被爆者の人たちの中に生き残ったことの意味を与え、その人生に目的を与えることになった。1951年に自死した原民喜は、既にこう書いていた。

「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせいだ (『鎮魂歌』)。」

 

PTSD の発見

第二次大戦後、世界中の精神医学者や精神衛生に携わる人たちは、前代未聞の数の難民、爆撃の被災者、収容所の囚人、退役軍人、それらの人々が戦争やそれぞれの体験に苦しむ姿を目の当たりにする。この時期は世界の保健機構の制度化とグローバル化が進んだ。しかし、WHO などの国際機関は当初トラウマの問題を見過ごすか、あるいは敵視さえしていたという。とくに、爆撃に関するトラウマに関して、アメリカの民間防衛プロジェクトに関わった人々をはじめ、多くの研究者がそうだったというのだ。

ホロコーストは、原爆投下の犠牲者、ヴェトナム戦争の退役軍人、レイプの被害者といった PTSD やトラウマの研究に繋がる多くの事例の一つだった。トラウマは過去の恐怖と未来にある恐るべき可能性についての「極端な知」である。主観的な個々の経験というレベルを超えて、より普遍的な人類の経験にまで拡大され、特定の知として一定の位置を占めるようになる。1960年代まで、この概念は確立されていなかった。経験や意識の変化のダイナミズムを捉えることは難しいのである。生存者たちが自己を理解し、自らの体験を語ることを通して発展していった。それは、精神科学の発展とも相互的に関係していた。

ロバート・リフトン 1926年生まれのアメリカの精神科医

日本では PTSD やトラウマに関する報告は、さらに稀で、PTSD が専門用語として一般に定着するのは1995年の阪神淡路大震災を待たなければならなかったという。被爆者の精神的なダメージに対する意識もかなり遅れていた。戦後の厳しい検閲、被爆者自身の被爆体験に対する沈黙、トラウマに対して否定的であったドイツの精神科学の影響などの理由が挙げられている。そして放射線という特異で未知な存在が身体と精神いずれにどのように影響するのかが見分け難かった。「大和魂」の存在もトラウマの症状を軽視させる原因のひとつでもあったのである。

心理学的な調査のためにユダヤ系のアメリカ人であるロバート・リフトン博士がヒロシマを訪れたのは1962年のことだった。広島での調査は世界との関り方を変えさせるほどの衝撃だったという。イェール大学への着任を延期してまでヒロシマでの調査を続けた。オーストリアの文筆家ロベルト・ユンクと協働していた平和運動家小倉馨氏と広島大学原爆放射能医学研究所の渡辺正治氏らの仲介によって被爆者自身に直接インタヴューすることができた。彼らは、政治の埒外にいて、いわば部外者だったリフトン博士に安心して体験を語ることができたのである。リフトン氏の人柄もあっただろう。彼は、被爆者たちがその生の中へ恐怖・死・悪といったものを取り込み、永続する「死との対面」が「心理的閉め出し」を生じさせていることを理解した。そして1964年の論文『死と死の象徴性』で初めてホロコーストの体験と被爆体験を結び付けたのである。

リフトン博士のこの研究によって被爆という遥かに超越的で、受け入れがたい現実が人々の心にどのような影響を与え、人々がどのように反応し、ある人は、それをどのように乗り越えることが出来たが報告される。これは、被爆の問題だけでなく、今日の大災害に直面した人々にも当てはまることだと思える。リフトン博士の著作『ヒロシマを生き抜く』については次回ご紹介したい。

このようなリフトン博士による「生存者シンドローム」「災害シンドローム」に繋がる研究は、シンドロームの概念を進展させ、ホロコースト研究の枠を越えて、その概念を普遍的なものにしていった。ソンミ村虐殺事件以降、ヴェトナム戦争の退役軍人はホロコーストや被爆を体験した人々と比較されるようになるのである。加害者も、また、ただでは済まないのである。

 

ホロコーストの変遷


 

ザイールのキャンプ・キンブンバにいるルワンダ難民のために、新鮮な水を輸送車で運んでいる様子。Photo Marv Krause

第二次大戦終結後から1950年代までの一般市民を広範に巻き込む全面核戦争の脅威は「新たなアウシュビッツ」の到来への不安と共に核ホロコーストという新たな脅威へと変化していく。ホロコーストとはナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺を指している。ギリシア語の「全部焼く」を語源とする言葉だった。

この頃、ジェノサイドという言葉もホロコーストに関係して生まれた。ポ―ランドの法学者ラファエル・レムキン氏の著作に由来する。それは、人種や部族を意味するギリシャ語の geno と、殺人を意味するラテン語の cide を組み合わせた言葉で、ホロコーストを拡張した言葉だと言える。

もう一つの新たな用語はエスニッククレンジング、つまり民族浄化である。複数の民族が居住する地域で、ある民族集団が他の少数民族を排除し、地域の民族を単一化しようとする。あらゆるエスニック集団が鉄道車両に詰め込まれて生まれ故郷から追放された。その過程で、大量殺戮、集団レイプ、焼き討ち、拷問などが行われることがある。ボスニア内戦から使われるようになった言葉で、複数の民族が共生していた旧ユーゴはセルビア人、クロアチア人、コソヴォのアルバニア人、ムスリムの人たちの憎しみの感情によって覆い尽くされた。独立したモンテネグロ、マケドニア、アルバニアでさえ紛争は頻発した。

1960年代のヴェトナム戦争はヒロシマよりもホロコーストから学ぶことが大きいという風潮を生み出したという。それでも、1980年代までホロコーストは、しばしばヒロシマと関係づけられて語られてきた。こうした結びつきも、先行する世代にとってのヒロシマの重要性も、現在では失われつつあると筆者は言う。そのため、戦後のグローバルな追悼・記念的文化、あるいは1970年代以前のトラウマの言説や証言、進歩的な政治の発展に対するヒロシマの貢献は、かすみ始めると言うのである。

ノーマン・M・ナイマーク
『民族浄化のヨーロッパ史』2014年刊

ルワンダやボスニア危機及び1989年以降の東欧での文書館の解放以後に再発見された、いわゆる「復帰」したホロコーストとこの1980年代までのホロコーストとは明らかに異なると著者は指摘している。20世紀末になると、内戦やテロの勃発がクローズアップされ、近隣のコミュニティー間での殺戮である「親密な殺戮」の方が注目され、それらに対する危機感はいや増していた。1990年代には、ホロコーストは工業化された殺人というよりもナチ親衛隊による隣人の隣人による大量殺戮といった考え方の方に力点が置かれるようになる。ヒロシマの被爆は戦時中の事柄であるが、ユダヤ人虐殺は非戦闘員である隣人が対象となった異なる文脈を持つとする考え方である。

頑なに難民をうけいれようとしない国もいかがなものかと思うけれど、この隣人の隣人による大量殺戮を扱っている著書の一つにノーマン・ナイマーク氏の『民族浄化のヨーロッパ史』がある。近代以前と以後の民族浄化には違いがあった。19世紀末から20世紀初頭における近代的な人種主義に基づくナショナリズムの勃興によって、以前の主に宗教間の相違を背景とした軋轢とは質的に異なったものになっていった。あの憎むべき優生思想に支えられていたのである。生存競争を勝ち抜くためには劣った種や少数民族は不要と考えられ、人種主義と一体化したナショナリズムは、支配民族の間にジェノサイドへの潜在性を高めていったという。これは、ガブリエル・タルドが指摘した「根絶することが困難な恐るべき社会問題」に通じることなのだ。アフリカやアジアの問題についても機会があれば、別途ご紹介したいと思っています。

ノーマン・ナイマーク 1944年生まれ。アメリカの歴史学者。1988年からスタンフォード大学歴史学科教授、同大学フーバー研究所フェロー。

近代国家は、その国家イデオロギーのもと、彼らの考える「健全な」組織体へと向かわせようとする。国家は家族生活に干渉し、出生率を操作し、マスメディアに干渉し、国家を統治するエリートの価値観を繰り返し教え込み、住民は監視を受け、巧みに操作される。その一環として、高度近代主義はエスニック集団の追放を目的とし、その集団の身元を割り出し、集団の違いや他者性を明らかにするというわけである。

この『民族浄化のヨーロッパ史』では、先ほどの旧ユーゴにおける民族浄化の他、次のようなものが紹介されている。20世紀のものだけだ。

1915年のトルコによる数十万から150万人といわれるアルメニア人のジェノサイド、1921年の同じくトルコによるアナトリア系住民140万人の追放、ナチスによる600万から一千万に上ると言われるユダヤ人ホロコースト、1944年のソ連による約49万人のチェチェン=イングーシ人のカフカス北部からの強制移住、その過程で35%から45%が死亡、及び、18万5千人のクリミア・タタール人のクリミア半島から中央アジアへの強制移住、第二次大戦後のポーランドとチェコスロバキアではドイツ人1150万人が追放され、その途上、飢えと病気で250万人が死んだ。20世紀は新たな民族浄化の時代でもあった。これに、アフリカ、アジアの犠牲者を加えたら、いったい戦争の他に何人の人間が殺されたんだ。

ポーランドの女性詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカはこう詠っている。

‥‥

どういう趣旨の集まりなのか?
古い人間同士? 血縁関係? それとも祖国が共通?
話はするのか? どこからくるのか?
だれだ、背後で後押しするのは?
だれかね、君のほかにその人たちの夢を見るのは?

彼らの顔は写真のままか?
寄る年波で老けているのか?
元気か? 弱々しそうか?
殺された連中の傷は治っているか?
自分を殺した相手を今もおぼえているのか?

‥‥
(ヴィスワヴァ・シンボルスカ『死者たちとの共謀』工藤幸雄 訳)

 

ヒロシマからアウシュビッツへ


 

第四回 原水禁世界大会ポスター 丸木俊 本書より

原水爆禁止運動は安保条約を巡る政治的緊張によって分断され原水協、原水禁とバラバラになり始める。安保闘争は反米感情を増大させ、冷戦のイデオロギーは右翼と左翼の党派闘争の渦中にあった。1963年には第九回原水禁世界大会の直前に全学連の過激派学生による平和公園の原爆死没者慰霊碑前の占拠があり、公園史上最悪の暴力事件ともなっている。そのような経緯から平和公園の政治利用は禁止され、聖地化への方向へと向かい始める。

この少し前頃から、原子力の平和利用をアピールする声が盛んになっていた。1958年、原爆資料館で「原子力平和利用」博覧会が開かれた。米国の売り込みの手先になるのかという批判もあったらしいが、明るい近代的未来をイメージさせて好評を博した。しかし、広島県被団協のリーダーたちは慎重だった。原子炉の燃えカスをどうするのか疑問は深まった。この森滝一郎氏の危惧は 3.11の悪夢となったのである。

この博覧会の時、原爆資料館の展示物は一時、他に移される。これらの展示物の基礎は、もともと広島大学の地質学・鉱物学の先生だった長岡省吾氏が被爆の瓦礫の中から丹念に拾い集めた瓦や溶けたビンなどの個人の収集物だった。推定された爆心地からどれくらい離れた所で花崗岩の表面が溶けて泡立っているのかを確認すれば一体何千度で人々が焼かれたのかに見当がつくのである。彼が原爆資料館の初代の館長となる。

1962年は冷戦の対立とキューバによるミサイルの脅威とが高まっていった時期で、先に述べたように平和運動が分裂した時期でもある。その年2月、広島から3千キロ以上離れたアウシュビッツへ向けてほぼ徒歩による平和行進が始まった。第二次大戦におけるヨーロッパの悲劇の地と被爆の地が共に平和を訴える、そのためにアジア諸国とイスラエル、東欧を通過し1963年にアウシュビッツに到着した。著者はグローバルな「コスモポリタンな記憶文化」という発想は比較的最近のものだという。しかし、この広島・アウシュビッツ平和行進は、第二次大戦後の記憶のグローバル化と絡み合った戦争の記憶化が1950年代にまで遡ることを示唆しているという。

この行進は、アジアでは概ね冷たく迎えられたという。それは日本が戦争加害者であったからに他ならない。シンガポールでは1942年に中国系住民が殺害され、何百もの遺体が葬られた場所が建設作業中に発見され、このことが地元の人々を憤らせた。それによって平和行進のメンバーは不安にさらされる。彼らが犠牲者であると同時に加害者でもあるということの宣言を発すること、そして、日本の戦争の現実に向き合うことへの不安だった。ともあれ、植民地時代の歴史を語ることがタブー視されていたシンガポールにおいて、この遺体の発見は中国系住民たちの抗議に留まり、シンガポール政府にとっては、日本軍国主義の犠牲になった人たちへの追悼と回向がこの行進の理由の一つだというメンバーの解答で十分であったのである。

アウシュビッツ・ビルケナウ博物館  死体焼却炉へ続く道 ポーランド

イスラエルでも反応は鈍かった。イスラエルにとって軍拡は自分たちを守るために必須であり、ユダヤ人のホロコーストは全ての惨事を超えていた。当時、イスラエルの核開発はケネディ政権との外交論争の要となっている。「二度と繰り返すな」は「二度と繰り返させない」に取って代わられていたのである。ホロコーストに対する一元的見方が登場するのは元親衛隊のアドルフ・アイヒマンの裁判で彼の死刑が確定してからであって、広島・アウシュビッツ平和行進がイスラエルを訪れた1962年は、アイヒマンが処刑された年であり、まだ一元化の途上であったという。

国際アウシュビッツ委員会の働きで平和行進のメンバーたちはユーゴスラビアやハンガリーで暖かく迎えられた。1946年に設立されたアウシュビッツ・ビルケナウ博物館はポーランド人の殉教の遺跡であり、1954年に設立された国際アウシュビッツ委員会は、アウシュビッツでの記念行事を執り行う重要な組織となっていた。そして1963年1月彼らはアウシュビッツに到着した。そこはヒロシマと同様に人間の人間に対する非人道的行為の象徴であり、ポーランド人の悲劇の場所であった。しかし、当時、極めて特殊な形でユダヤ人よりもポーランド人の犠牲を強調していて、それはヒロシマが韓国・朝鮮人の死者を周縁化していたのと同様だったと著者は述べている。

生き延びた経験と証言活動が、どこでも同じという分けではなかった。しかし、平和行進の参加者たちは、戦禍による被害を抽象化し、普遍化することによって、異なった状況にある被害者たちの意識を結び付け、国際的な関係性を築こうとしていった。こうした犠牲者=証言者のグローバル化は、語りの収束を可能にし、ひいては「証言者の世紀」をもたらすことに貢献していったのである。

 

犠牲の王座


 

広島市の郊外、賀茂郡黒瀬町 (現東広島市) によるアウシュビッツ記念館建設の頓挫は、冷戦の終結と先に述べたホロコーストの「復帰」によってヒロシマへの関心が相対的に薄まっていく原因となったと著者は述べる。ユダヤ人のホロコーストヒロシマに関する「犠牲の政治」は、あまりに成功しすぎた。1980年代に入ると日本の侵略に対して韓国や中国は東アジアを巡る犠牲者の記憶の戦いといったものに参入し始める。同様に中東ではパレスチナやアラブ諸国がヒロシマの悲劇はパレスチナ人虐殺の悲劇と同じだと主張するようになるのである。

アウシュビッツ平和記念館運営委員会は不用意にヒロシマ、アウシュビッツ、南京、ソンミ村、パレスチナ難民キャンプ、ソ連のアフガニスタン侵攻といった犠牲者政治の根底にある複雑で厳然とした歴史を同列に扱った。ヒロシマに匹敵するのはベイルートであるといったアラブ諸国からの抗議は、外務省を通じて広島県と広島市へと伝えられ、直接の抗議さえもあった。犠牲者言説は複雑で多様化しはじめていた。結局、この計画は複雑な政治情勢に巻き込まれ資金調達の目途のつかないまま空中分解した。

ベルリンの壁 ブランデンブルク門近く 1989年

1989年は昭和天皇の崩御と冷戦の終結、バブル経済の崩壊という、いわば日本の分水嶺といった時期であり、中国などのアジア諸国の経済力が増し、アジアからの観光客が増加していった時期でもあった。その中で戦争の記憶についての論争の高まっていった時期でもある。クローズアップされていくのは日本の加害者としての立場だった。南京虐殺や韓国での従軍慰安婦問題が問われる。これらはドイツの戦争責任に対する真摯な謝罪と反省と対照的に比較された。

ヒロシマやホロコーストに対してなされてきた言説には行き過ぎがあったのではないかという議論もあった。しかし、著者は、他の犠牲者を持ち出したところで、戦争の記憶の複雑さへの批判にはならないという。単にひとつの犠牲者を別の集団に取って代えることは、加害という一点の汚点もない「純粋な犠牲者」としての地位を争うゼロサム・ゲームとなるというのである。この様な問題が広島原爆資料館の加害者コーナーを巡る問題として浮上していった。

著者は、更にこう述べている。「こうした言説の悲劇的皮肉は、戦争の犠牲者の団結を通して苦しみの共同体を作ろうとする望みを抱かせる基本的共感や崇高な感情が、あらゆる人々に利用され乱用されることにある。苦しみは意味を負わせられるが、それに付随する『正しい』意味が何なのかは完全に解釈に委ねられていて、世界中の競い合うグループが、本物の犠牲の王座が自分たちのものであると主張するのである (若尾裕司 他訳)」。こうした矛盾や限界は、今なお解決されていないという。

 

記憶の変遷


 

9.11 世界貿易センタービルへのテロ、2008年の金融危機リーマン・ショック、3.11 東日本大震災と原発事故は近代の物質的基盤や後期資本主義の弱さと安全神話の崩壊を闡明にした。人間の生存とは、そのような薄い皮膜の上に支えられていたのである。

特に 9.11 と 3.11 には薄気味悪いほどヒロシマとの類似性を際立たせたという。9.11では爆心地=グラウンド・ゼロという言葉さえ登場した。1940年代においても、2000年代においても、同時代の人々は世界をヒロシマ以前・以後に分け、9.11以前・以後に分けた。核テロの脅威は、この二つのグランド・ゼロを結び付ける。ヒロシマは再び歴史的悲劇の言説の中心へと復帰するかのようだった。

著者は、ヒロシマは相変わらず非西洋の悲劇であり、それゆえ、日本と西洋の知識人の一部はヒロシマとヨーロッパの中心地域で起きたホロコーストを結びつけようとしたという。ホロコーストの「復帰」という事例は、ヒロシマ悲劇に対する別の位置づけと理解を探し求めることの必要性を示唆していないかというのである。

最も気高い目的を持った人々を批判することは容易ではないとしながら、理想を掲げたヒロシマの記念行事はその時代の変遷の中で自然災害に似た出来事というイメージに変質してしまったのではないか、その出来事が持つ近代批判の潜在的破壊力を相対的に弱めたのではないかという。アジアの人々の苦しみを自らの国民的記憶の中で認めるべきだという指摘は常にあった。複雑な政治の渦の中で歴史の傷は悪化し続ける。先に述べたように東アジア諸国の中には、どんな日本人の謝罪にも満足しない、強固な犠牲者意識がナショナリストの諸グループによって助長されている。こうした状況の中では、日本人が過去を真剣に考えることも起こりそうにないとツヴァイゲンバーグ氏はいう。グローバルな記憶の変遷の過程で、ヒロシマの犠牲者が人類の名で振る舞うこと、普遍的メッセージを国際的レベルで推進することは困難になりつつあるというのである。無論、核兵器廃絶は急務だが、本書は別の視点からヒロシマに示唆を与えようとしてくれているのである。

では、どうしたらよいのか? 課題は我々に投げかけられている。

 

 

 

付 日本のホロコースト記念館とアウシュビッツ平和博物館

ホロコースト記念館 広島県 福山市 聖イエス会御幸教会内

広島アウシュビッツ記念館ではないが、アンネ・フランクの父親、オットー・フランクとイスラエルに語学留学したこともある大塚信牧師との出会いによって1995年福山市にホロコースト記念館が開館している。

これとは別に福島県白河市にアウシュビッツ平和博物館が2003年に開館した。ポーランド国立博物館から借り受けた犠牲者の遺品・資料や記録写真、当館所蔵のアンネ・フランク関連の写真・資料等の展示が行なわれている。

 

参考図書 及び 引用文献

 

ジョン・ハーシー『ヒロシマ』
1946年従軍記者として来日した著者が谷本清牧師、クラインゾルゲ・イエズス会神父、佐々木輝文医師らの原爆体験綴ったドキュメント。その年のニューヨーカー誌に一括連載され全米を震撼させた。戦時中のシチリアを舞台にした『アダノの鐘』でピュリッツァ賞を受賞している。

蜂谷道彦『ヒロシマ日記』
広島逓信病院長であった著者が、被爆後の56日間の体験を描いた日記。被爆体験の貴重な記録の一つとなっている。

ロバート・リフトン『ヒロシマを生き抜く』上・下 多くの被爆者と面接を重ね、原爆の与える死の爪痕といった精神的なダメージと原爆症による肉体的損傷がいかに不可分に結びついているかが述べられ、生存者シンドローム、PTSD研究の先駆となった著書。

ヴィスワヴァ・シンボルスカ (1923-2012)『橋の上の人たち』「死者たちとの共謀」を収録。1996年ノーベル文学賞を受賞。

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ヨシフ・ベニヤミノビッチ・ブラシンスキー『スキタイ王の黄金遺宝』黄金と盗掘と考古学と

 

紀元前一千年期の初頭には、中央ユーラシアの草原にアラビア半島やアフリカとは異なる遊牧民が、支配的勢力となっていた。広大な土地でありながら彼らの生活形態は驚くほど似ていた。その中で史上最も早く知られるようになったのは、アッシリア人がイシュクヤ、ペルシア人はサカ、古代ギリシア人は、スキュタイと呼んだ集団だった。日本ではスキュタイの複数形スキタイの名で知られている。前回ご紹介した雪嶋宏一さん『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』によれば、彼らは人種、言語、宗教、文化を同じくするいわゆる「民族」ではないという。イラン系の集団が支配層で、支配下に様々な民族を包み込んだ多民族集団であったろう。

雪嶋宏一『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』
2008年刊

前回はこの雪嶋さんの著作からスキタイの歴史を主にご紹介したけれども、今回は、ロシアの考古学者ブラシンスキーの著書『スキタイ王の黄金遺宝』を中心にスキタイの遺跡と遺宝についてご紹介しようと思っている。スキタイの遺跡に関する発掘調査は18世紀後半のロシアから始まり、この国が中心となって行ってきた経緯がある。この宝探しのような発掘からスキタイのおびただしい数の金細工が発見され、ツァーリの遺宝蒐集の基礎となっていった。こうして、スキタイ文化の粋は、エルミタージュに収められたのである。

ロシアの大草原にはクルガンと呼ばれる墳墓がそこここにあると言う。チェーホフは『曠野』の中でこのように書いていた。「一時間、二時間と乗り進む‥‥途中、むっつりと黙した古墳や、誰がいつ据えたとも分からぬ石像が目につき、夜鳥が地面すれすれに音もなく飛びすぎたりする。そして、次第に、曠野生まれの乳母のしてくれた話や、そのほか自分で見たり魂で感じたりしたすべてのことが、記憶によみがえってくる。そんな時には、虫の音や、怪しげな物影、古墳、青い空、月の光、夜鳥の飛翔など、眼にし耳にする全てのものの中に、美の勝利や、若さ、力の横溢、はげしい生の渇望などといったものを、みいだせるような気がしてくるものだ‥‥(原卓也 訳)。」

ヨシフ・ベニヤミノビッチ・ブラシンスキー
『スキタイ王の黄金遺宝』 六興出版 1982年刊

考古学者のブラシンスキーは「歳月を経た物言わぬ衛士のような古墳のある大草原の魅力は、ロシア文学の優れた作家たちに霊感を与えている」と述べている。文学的センスに優れた人のようで、時々ロシアの有数の詩人の作品の一節が紹介されているのが嬉しい。こんな潤いがあるから、ただの考古学の本ではないのである。

本書の中でも言及があるドイツのジャーナリストC.W.ツェーラムの『神・墓・学者』は考古学の読み物として圧倒的に面白いのだけれど、本書には少し似た風味がある。このロシアの考古学者さんのご紹介をしておく。

ヨシフ・ベニヤミノビッチ・ブラシンスキーは1928年にエスト二アのタリンに生まれた。レニングラード大学 (現サンクトペテル大学) の史学部で学んでいる。旧ソビエト連邦科学アカデミー考古学研究所レニングラード支所の研究員だった人だ。長年に亘りクリミア半島のケルチやウクライナのブグ川河口三角州にある古代都市オルビアの発掘調査に携わった。黒海北岸のギリシアの植民都市だ。

1966年から南ドン川地方の考古調査団長として最大級規模のスキタイの集落遺跡の古墳群を発掘している。考古学のエキスパートのようだ。著書に『前6‐前2世紀のアテネと黒海北岸』、『ドン下流地方における輸入ギリシア陶器』などがあるが、本書以外に邦訳はなさそうだ。書名だけ見ているとロシアと古代ギリシアとの関係に興味を持っている人なのだということが分かる。

ヘロドトス 前5世紀のギリシアの歴史家

このスキタイを最初に詳しく調査したのは歴史の父と呼ばれるヘロドトスだった。このことは 前回でもご紹介したが、考古学者たちはその正確さに賛嘆の声をあげた。スキタイ王の葬儀の様子をこのように述べている。

スキタイ王が死ぬとゲッロイ人の国 (ここが何処かはっきり分かっていない) で、方形の穴を掘り、王の遺体は防腐処理されて車に載せられ、支配下の国を巡った。運ばれてきた遺骸を見たものたちは、王族スキタイたちがするように自分の耳の一部を切り取り、頭髪を丸く剃り、両腕に切り傷をつけ、額と鼻を搔きむしり、左手を矢で貫いて哀悼の意を表したと言う。属国を遺体が一巡すると、ゲッロイの地に戻り畳の床のある棺の周囲を木材で囲う木槨 (もっかく) 墓に埋葬する。遺骸の両側に槍を突き立て上に木を渡してさらに柳を編んで作った編みがきかける。墓の空いた場所には妃の一人が殉葬された。生前の色々な所持品と金盃を埋める。それから全員でできるだけ大きな塚になるよう盛り上げた。

一年後には、王に仕えたエピテデオタイト (おそらく王の親衛隊) 50人と優良な馬50頭を絞殺し、人も馬もミイラ化して古墳の周囲に半分にした車輪を二つ立てて固定し、それに馬の遺体をかけ、人を乗せて故王の護衛として50体の騎馬を捧げたと言う。これら不気味な騎馬隊が死後の王を守護することになる。アステカのトウモロコシの神シペ・トテックに捧げる人身供犠は、生贄の皮を剥ぎ、それを祭祀者が着て踊るというものだったが、これも壮絶だ。ヘロドトスより100年後に築かれたチェルトムルイク古墳で馬、銜 (くつわ)、人骨が発見され、この壮絶な殉葬の跡ではないかと推測されている。

ヘロドトスの生きた前5世紀にはいると黒海北岸では森林草原から草原地帯にわたって数千の古墳が作られた。特に前4世紀になると古墳の規模が大きくなり、埋葬施設も巨大で複雑になって、副葬品も豪華になった。そのような古墳がドニエプル川下流域に沢山作られるようになる。雪嶋さんによればスキタイの時代は以下のように分類できる。先スキタイ期の古墳であるアルジャンについては、前回でご紹介したので、今回は省きます。前期スキタイ時代からサルマタイ時代までの遺跡をいくつかに絞ってご紹介する。

先スキタイ期   前8-前7世紀後半
前期スキタイ時代 前7-前6世紀後半
中期スキタイ時代 前6末-前5世紀
後期スキタイ時代 前4-前3世紀
サルマタイ時代  前3-後3世紀

 

スキタイの遺跡 前期スキタイ時代 前7-前6世紀後半


 

スキタイ神話Ⅰとケレルメス古墳 前7世紀中頃

ゼウスとドニエプル川の娘との間にタルギタオスという息子が無人の大地に生まれる。彼にはリポクサイス、アルポクサイセス、コラクサイスという三人の息子があった。その息子たちの時代に天から黄金の器物である、鋤とくびき、戦斧と盃が落ちて来る。上の二人がそれらを持ち帰ろうとすると黄金が燃え始めて近づくことができなかったが、末の息子が近づくと火は消え、それらの器物を持ち帰ることが出来た。それで兄たちは弟に王権を授けるという神話になっている。

スキタイの祖先はゼウスの血統であるとされる。ギリシアでゼウスに相当する神であるとは思うけれど、スキタイ人がそう呼んでいたのかは分からない。騎馬民族には、よくある末子相続だが、火の試練を克服して王となる。比較神話学のデュメジルや吉田敦彦は三種の神器、「犂と軛(くびき)」が農、「闘斧」が戦士、そして「杯」が神官に対応するとした。末子のコラクサイスから派生したとされる4部族は、アウカタイ、カティアロイ、トラスピエス、パララタイに対応し、このパララタイがスキタイの支配氏族となるとする説がある。

黒海北岸のスキタイの主な遺跡

この三種の神器が必ずしもスキタイの本質を正しく表現しているわけではないという学者さんもいる。だが、農耕をするスキタイや商業に励むスキタイがいるのなら、それらをまとめ上げ、王族スキタイの権威を示す神話が必要とされたのかもしれない。

スキタイが西アジアを支配しようとしていた時期である前7世紀中葉のケレルメス古墳群は、1903~04年に宝探しのような調査が、表看板は鉱山技師だが、山師のような D.シュリッツによって行われ、後に1908~10年にかけて N.ヴェセロフスキ―によって再度調査されたが、どっちがどの古墳を調査したのか不明確だった。この1号墳では、スキタイの金製の碗が出土している。外側に菱形紋のある碗と内側に鳥と動物紋のある碗とが接合された二重の金碗だった。それに加えてスキタイ特有の鹿文様のある全長72cmの金装鉄製斧が一緒に出土した初めての例となっている。被葬者は相当の権力・財力を持ったスキタイ戦士たちで、西アジアやイオニアとの国際的な関係を持っていたことが副葬品から分かるという。

 

コストロムスカヤ遺跡 金の蹲る鹿 前7世紀末-前6世紀の前期

蹲る鹿の形をしたプレート クバンのコストロスコイ 前7世紀

北カフカス、コーカサス山脈の麓にあるコストロムスカヤ村近くにある前7世紀末-前6世紀前期スキタイ時代の遺跡からは、現在エルミタージュ美術館にある有名な蹲 (うずくま) る金の鹿のプレートが1897年に出土した。円形の盾を装甲していたと思われる鉄板の上で見つかっている。この独特の脚の曲げ方は、初期スキタイ美術の草食獣の表現に特有なもので長さ31cmとかなり大きなものである。

 

スキタイの遺跡 後期スキタイ時代 前4世紀前半


 

ソローハ古墳 櫛の上の戦士たち 前4世紀初

ソローハの櫛 前4世紀前半

ドニエプル川左岸、二コボリの近くのソローハと呼ばれる高さ18メートルを超える前4世紀はじめの巨大古墳の発掘は、1912年からペテルブルグ大学の N.I.ベゼロフスキーによって開始された。ブルドーザーやスクレーパーのない時代に古墳の盛り土を完全に撤去できる方法はない。従って古墳の中心部にトレンチ (試掘溝) の帯を掘るが、両側の壁が垂直では地崩れが起きるので傾斜をつけなければならない。そのためトレンチが深くなればなるほど、その幅は狭くなっていく。これが「行き止まりトレンチ法」と呼ばれる掘削だった。

二度目の調査で10メートル以上もある地下羨道が深い竪穴もしくは階段付きの井戸のような穴から伸びているのが発見される。ここに王が埋葬されていて、多くの副葬品がそのまま手つかずの状態で発見された。王の枕元には青銅の冑、殉死した従僕、動物の骨の入った大きな銅釜、酒甕のアンフォラ、王の持ち馬と馬丁が埋葬されていたが、数々の副葬品の中でも注目されたのは、王の頭近くに置かれたずっしりとした櫛だった。

重さ294グラム、高さ12.3cm、幅10.2cm、12本の歯が寝獅子のフリーズで繋がっている。その上には戦う三人の戦士の素晴らしい姿がある。典型的なスキタイの姿として長い頭髪と髭、カフタンの上着に長ズボンのいでたちで、騎馬の戦士はギリシアの冑を被り、脛当てに槍を持つ。左手の徒の戦士は短いスキタイのアキナケス剣を持っている。

このソローハもチェルトムルィクも近い距離にあり、一連の巨大古墳のある地域でもある。ヘロドトスの言うゲロイ人の国とは、ここら辺りではないかとブラシンスキーは想像しているようだ。もし、そうなら19世紀に考古学者が探し求めていたスキタイ王の墓地とは、ここなのかもしれないのである。

 

トルスタヤ・モギーラ 王室の家族墓  前4世紀前半から中葉

ボリス・モゾレフスキーは運試しに鉱山町オルジョニキーゼの近くにある地元民からトルスタヤ・モギーラと呼ばれた高さ9メートルの巨大な古墳を掘ってみた。凍てつく風が容赦なく吹き付ける中、二か所の試掘は無駄骨だった。へとへとだったがもう一つ掘ってみた。すると、突如7メートルの竪坑から粘土が出現した。これがスキタイの古墳であることの証だった。

春の雪解けで道路がぬかるんでいる間、使われないブルドーザーとスクレーパーを借りて1万5千立方メートルの土を取り除かなければならなかった。彼は、こう述べている。「まもなく、軍隊から除隊して来たばかりのサーシャ・ザグレベルヌイが私の仕事を手伝ってくれた。私は彼と共に夜中の12時ごろに、寒さで感覚を失い、土木機械の騒音で聾になり、埃にまみれて宿にもどり、顔も洗わずに死んだように寝床にころがって、翌朝また永遠との決闘を続けるのだった (穴沢咊光 訳)。

この古墳はチェルトムルイクやソローハのものよりも小さいが、ソビエトの考古学者が発掘したものの中では最大の古墳だった。つまり、ちゃんと調査された古墳だったと言うことである。地下式横穴に中央墓と側室墓の深い玄室が二つあり、古墳を巡る深い周湟 (ほり) には、馬、豚、大鹿などの大量な骨や何十という酒甕であるアンフォラが発見された。推定で13トンの肉、3000人が食べられるほどの量だったという。おそらく、何度かに亘って葬宴が開かれていたのだろう。側室には若い王妃が黄金の宝飾品に輝いて埋葬されたままの姿で発見された。その横に彼女より先に亡くなったと見られる2歳くらいの男の子の遺体が埋葬されている。

王の墓室は盗掘されていたが、幸いに重要な遺物がいくらか残されていた。世界的に有名になった王の胸飾り (ぺクトラル) である。重さ1150グラム、直径30.6cmの三段構成になっていて、上段は族長たちが平和な牧歌的な雰囲気の中で詳細に造形され、中段は植物紋、下段はグリフィン、獅子、豹、猪などの動物闘争図となっていて、最後はコオロギがいる。筆者のブラシンスキーが強調するのは、この作品が前4世紀前半から半ばにかけての黒海北岸におけるギリシアの名工による比類ない傑作であることだ。

 

盗掘とは何か


 

古墳の大半は既に盗掘されていた。なにしろ王陵荒らしは、古代では普通のことだったらしい。葬儀の参列者が大泥棒の頭目であることも珍しくなかったと言う。彼らは、墓の何処に何があるかを熟知していた。そのため墓荒らしを防ぐための工夫も考えられるようになる。墓泥棒を混乱させるためのあらゆる努力がなされてきたというのだ。

ラムセス4世の墓 王家の谷  エジプト

「王陵 (家) の谷」はナイル河の西岸にあり、有名なカルナックとルクソールの対岸にある。英国の考古学者ハワード・カーターは『王陵の谷』の中で、夜盗の様子をこう述べている。「幾日も前の計画、崖の上での会合、墓地護衛官の買収または麻薬投与、闇の中での死に物狂いの穴掘り、小さな穴を通って埋葬室に向かう腹ばいの前進、ほの暗い灯火によって運搬可能の宝物を狂ったように探す作業、戦利品をかついでの暁の帰宅 (酒井伝六・熊田亨 訳)。」それら一連の行動を触発する黄金が、彼らにとっていかに大きな誘惑であったろう。王の威厳のために必須と考えられ、ミイラに添えておく高価な道具一式の夢のような富が、そこに到達できれば、いかなる者にも、与えられる状態で横たわっている。「したがって、墓盗人が早晩勝ちを収める運命にある(同上)」という。

ブラシンスキーは、エジプトとスキタイでは、数百年の隔たりがあったにもかかわらず、このような出来事がナイルの谷で起こり、スキタイの草原でも起きたのだと言う。そのようなわけでスキタイの古墳にも盗掘防止の策は練られていた。メリトポリの墳丘の中心部には全層にわたって40キロ離れたアゾフ海の海藻と4キロ離れたマロチノイの河口から運ばれた泥煉瓦が交互に敷き詰められ、厚さ数メートルの防護壁が造られた。ぎっしりと詰まれた泥煉瓦の間の海藻によって極めて圧縮された土壌は掘削するのにかなり困難なものになる。地下墓室への竪穴は深さ12メートルにもなり、石や石板で埋められ、その下の竪坑の底には玄室に通じる狭い裂け目しかない。

それでも盗掘者たちの情熱は、これらの障害をも見事に乗り越えていた。しかし、埋葬に携わった者も然 () る者だった。玄室の底に隠し穴があり、後述の黄金上張りのゴリュトスが隠されていたのだ。チェルトムルィク古墳で出土したものと同じアキレウスの生涯を表現したものだったのである。英雄崇拝の証が、周到に隠されていた。

 

大スキタイの遺跡 後期スキタイ時代 前4-前3世紀 


 

ヘロドトスは、スキタイの地について彼らの土地には町も城もないと二度言い切っている。事実、紀元前5世紀の町も城も一つも見つかっていないとブラシンスキーは言う。ヘロドトス以降の時代、特に前4世紀には状況は、がらりと変わる。後期スキタイ時代になっていくと、大草原には大きく強固な防衛都市がつくられるようになりスキタイ王の駐屯する町ができるのである。この頃には、原始社会は崩壊の途上で、階級社会が奴隷制とともに出現し、スキタイ王国の最盛期となっている。

 

チェルトムルィク古墳 黄金のゴリュトス 前4世紀後半

ボスポロス王国 紀元前2世紀頃の最大領域とポントス王国 (前281‐前64)

後述するクリ・オバの黄金の輝きはペテルブルクの宮廷を魅惑した。ゴールドラッシュの始まりだった。この地は一時期ボスポロス王国 (前438年 – 後376年) の領土でギリシアの植民地であったから、その中にはギリシアの遺宝が多く含まれていた。

このギリシアの文化圏に近い地域に対して、スキタイ王の墓地は王族スキタイが遊牧していた黒海北岸の果てしない大草原にあった。

ニコポリから20キロの所に住民たちがトルスタヤ・モギーラと呼ぶ多くの伝説に彩られた前4世紀の巨大古墳があった。そこから10キロほどの所に前4世紀後半のチェルトムルィク古墳がある。高さ20メートルの円塚は石灰石の石塊が積まれ、頂上の急斜面には、かなりの高さの石人が立っていた。ロシア国庫の資金は惜しまず調査につぎ込まれた。盗掘されていたが盗掘坑が崩れて盗掘者が圧死していたために多くの遺物が残されていたのである。盗掘も命がけだった。

テティスとぺレウス 前5世紀 エトルリア出土

その中で最も有名なものが黄金上張りの弓矢を収めるゴリュトスで、薄い黄金の浮彫板が数段に打ち出されている。上段は獅子、牡牛、豹などの動物闘争紋、中二段には、海の女神テティスと高慢なぺレウスとの間に生まれた英雄アキレウスの生涯が表現されている。その中上段には、左上の幼いアキレウスが弓を習う場面から始まる。そして、オデュッセウスとの場面へと展開する。

トロイアとの戦争でギリシア側は極めて旗色が悪かった。何としても英雄の出現が待ち望まれていた。そこで、狡猾なオデュッセウスが、母神テティスによってスキロス島のリコメデス王の娘たちの間に女装して匿われていたアキレウスを見つけ出すために差し向けられる。オデュッセウスは婦人の装身具を売る商人に化けて王宮に入り、装身具の横に武器を置いて、突然、鬨 (とき) の声をあげさせる。アキレウスは咄嗟 (とっさ) に武器を手にしてしまうのである。

中下段はトロイア攻めの総大将アガメムノンとアキレウスとの和解の場面である。右隅には亡くなったアキレウスの骨壺を抱いてうな垂れるテティスがいる。そして、最下段は植物紋となっている。ブラシンスキーは、このゴリュトスを制作したのはスキタイの上流社会の注文に応じて働いていた優れたギリシアの工人であり、アキレウス崇拝が黒海北岸から西部にかけて広まり、それがスキタイに浸透した結果とみている。スキタイは、ローマのように文化的にはギリシアに制圧されていたのかもしれない。このゴリュトスと同一のコピーが、離れた他の場所でも三点発見されている。青銅の型に薄い金の板をのせて打ち出し、裏面は石膏に膠のようなものを混ぜたパテで補強されているものだ。

 

クリ=オバ古墳 黄金の杯・王権伝説か王の叙事詩か  前4世紀後半

事は住宅問題から始まった。クリミア半島の東にあるケルチは黒海の玄関として重要な位置を占めるようになっていた。クリ=オバはタタール語で「灰の丘」を意味する。石材を容易く手に入れられる便利な場所だった。エカチェリーナ2世がクリミア・ハン国を併合した約50年後、1830年にロシア皇帝の屯田軍司令部が退役水兵の家族をここケルチに移住させるためにできるだけ安くアパートを造らなければならなかった。それで、この丘から建築用の石を調達しようとした。そこに派遣された視察員デュブリュクスは長年古墳に携わってきたエキスパートで、それが古墳であることに気が付いた。

ここは、前4世紀後半の大スキタイが繁栄した時期の墳墓だったのである。以後、ロシア政府が南ロシアの地をエルミタージュ博物館のスキタイ収蔵品の源泉と考えるようになり、ロシア考古学の画期となった。とりわけ注目すべき出土品は、エレクトラム (金・銀合金) 製のアリュバッロス (巾着) 型杯で、ヘロドトスによって書かれたスキタイの建国神話の一つが表現されているのではと推測した学者もいた。こんな話だ。

スキタイ神話Ⅱ

英雄ヘラクレスは、ヘラに狂気を吹き込まれて我が子を殺し、その罪の浄化のために12の苦行を成し遂げる。そのうちの一つにゲリュオネウスという三頭三身の怪物を倒してその牛を奪うという話がある。いわゆるギリシア神話の異譚となっている。その帰り路、やがてスキタイの国となるべき地を通りかかる。頃は、冬の酷寒の時期でトレードマークのライオンの皮を引被って眠った。しかし、目が覚めると自分の馬がいない。ヒュライアという土地にやって来ると洞窟の中に上半身が乙女、下半身が蛇というエキドナ (蛇女) に出会った。この蛇女は中国の女媧やインドのナーガラジャ妃といった例もあり、わりとポピュラーな存在である。

馬は自分が隠している。返してほしいのなら自分と同棲せよと言う。ヘラクレスは同棲を強要された。蛇女は馬を返すのを渋った挙句、返す段になって、馬を匿った返礼はあなたからもらった。三人の息子を授かったという。この子たちが成人した時、この地に住まわせるか、あなたの元に送った方がいいのかと聞いた。ヘラクレスは、この弓に弦をこのように張ることのできる、そして、このように尖端に金盃のついた帯を締めることが出来る者をこの地に住まわせ、他はこの地から追放せよと答えた。

成人した長子アガテュルソスと次子ゲロノスは弓を引き、帯を締めることは出来なかった。末子スキュテスはこの試練を成し遂げ王権を授与された。この場面が造形されているのではと考えられているのが王妃の足元から発見されたアリュバッロス型杯で、四つの場面の内、三場面は一対の人物、もう一つは一人だけ登場する。

その場面は、スキタイの戦争での様子であるとか、歯の治療を伴う王の生涯を描いた場面だとかの説があった。しかし、ソビエト・スキタイ学の権威 B.グラーコフたちは、伝説的叙事詩を表現したものだという説を主張した。D.ラエフスキーは、ヘラクレイトスも含めた蛇女伝説が表現されているとしたが、ヘラクレイトスの姿がギリシア神話に則っていないという欠点があった。どの説が正しいかは別にしてこの杯がルキアノスなどのギリシアの著作家が書き残しているスキタイの風俗が実際のスキタイの様子と極めて近いことが明らかになった。同じ意匠がボロネジやチェルトムルィクで発見された壺にも見られると言う。

かつての遺跡の発掘には珍しいことではないのかもしれないが。調査から三日たった夜に夜警が持ち場を離れてしまい、盗掘者によって墓は荒らされた。盗品故買屋から取り戻せたのは僅かな品だけだったという。

クリ・オバ出土のアリュバッロス杯の文様

 

 

サルマタイ時代の遺跡 前3-後3世紀


 

ネアポリス 最後の首都 前2世紀から後3世紀

スキタイ第三国家、すなわち、小スキタイの存在が知られるのは、前2世紀の後半頃で、黒海北岸のクリミア半島といった狭い領地に根拠地を置いてギリシアの植民地と交流していた。クリミア半島には多数の城塞集落がつくられるようになる。それらは、スキタイのこの半島への移住の過程が反映している。ボスポロス王国との戦争の過程で造られたものものあるが、草原との境にできた城塞はサルマタイとの確執の跡である。

その中の代表的な高城がシンフェローポリ近郊の遺跡ネアポリス (前2世紀から後3世紀) だった。ここは、雪嶋さんの著作からご紹介する。第三スキタイ国家の存在を明らかにする前170年頃~後3世紀に亘る遺跡だった。ギリシア語の新しい町を意味する。縮小したとはいえ、スキタイ王国の新首都だった。スキタイ王スキルロスの都市と考えられている。

第二次大戦終結後には高名な P.シュリッツの指揮によって王宮や墓廟を含めた石造城塞、墓地、公共施設などが発掘された。王宮はギリシア宮殿風のメガロン型の建築となっている。2本の柱の立つポーチ奥に、長方形の中央ホールがあり、中央付近の4本の柱に囲まれた炉床からなる。ニッチの壁にはフレスコで彩色された神像が置かれていた。スキタイのギリシア化が進んでいることが分かる。そして、周囲の城壁は南側500メートル、西側500~700メートル、東側700メートル、全長1800メートルある。前2世紀から後3世紀の文化層を持つ遺跡であった。

ネアポリス王宮跡  左下にメガロン建築跡が見える

王墓は紀元前2世紀のもので、スキタイ国家の衰退に比例して副葬遺品も豪華とは言えないものとなっていた。それでも800点以上の金製品が発見されている。男性の被葬者は金糸で覆われた短い上着とズボンをはき、頭には後期ヘレニズム時代の3個の金製飾板で装飾された半球形の被り物を身に着けていた。短剣、鉄製の鏃セット、投げ槍の穂先、足の近くにはギリシア製鉄兜、鉄製の長剣、腰のあたりにギリシアで使われるような衣装止めのブローチであるフィブラ、手には青銅製の腕輪、指輪があった。男性の他に女性の遺体と7層に積み上げられた37の棺があった。他に従者らの棺のない遺体もあり全部で72体が確認されている。殉葬の風は相変わらずだった。これがスキタイの末期を代表する遺跡である。

左 ネアポリスのスキタイ王宮の霊廟  右 内部     シンフェノーポリ

スキタイの墓と信仰


 

話は、かなり遡る。ヘロドトスは、ペルシアがさんざんにスキタイに翻弄された様子とその狡猾さをこの様に興味深く記録している。前513年頃、70万の大軍と600隻の軍艦を率いボスポラス海峡を渡ったダレイオス1世のアケメネス朝ペルシア軍はトラキアに入った。トラキアは戦わずして降伏、イストロス (ドナウ) 川の手前で現在のルーマニアあたりに住んでいたトラキア系民族のゲタイの反抗に会うも鎮圧、そして、イオニア軍に作らせた船橋を渡ってスキタイ領内に侵攻した。この時、サウロマタイを含めた諸民族の王たちはスキタイに与して戦うかどうか評議した。結果、サウロマタイを含めた三つの国の王たちは戦い、五つの国の王たちは不戦を表明した。連盟が二つに割れた以上ペルシア軍と正面からの対戦は不利だと時のスキタイ王は考えたようだ。

そのため二隊に分かれて、ペルシア軍の一日の行程分第に撤退しながら同盟を拒否した国々に向かって進んだ。進路の井戸を埋め、草を取り去っていった。いかに不戦だと言っても自国の領内に入れば戦わざるを得ないというわけだ。もともと定住していない遊牧民のスキタイであれば、妻子と寝起きしている車と当座必要な食料以外を先に送り出してしまえばよかったのだ。ナポレオン率いるフランス軍の侵攻に対してモスクワを焼き払って撤退したロシア軍さながらだった。ペルシア軍は絶えず撤退してゆくスキタイの跡をひたすら追った。

ダレイオス1世(前522-前486)の墓

スキタイ軍は不戦を表明したかつての同盟国へ、ペルシア軍を引き入れては撹乱し、撤退することを繰り返した。あきれたのか、うんざりしたのか、ダレイオス1世はスキタイ王に、わが軍に対抗する自信があるなら戦い、自信がないなら降伏しては如何と書簡を送った。スキタイ王イダンテュルソスは我々は、逃げているつもりはない。いつものようにしているだけだ。わが国には我々が守らなくてはならないような町や果樹園もない。もし、われわれの祖先の墓を破壊したならその時は、墓のために戦うか否かが分かると答えた。

そして、自分が主君と仰ぐのは我等が祖のゼウスとスキティア (スキタイ) の女王ヘスティア (竈の神) だけだ。そなたは我々の主君であると言った。その返礼に、吠え面かくなと言っておこうと付け加えたのである。

これは、ちょっと面白いと思った。彼らにとって最も重要なものが先祖の墓なのである。彼らノマドにとって墓は最も重要な、数少ないトポスだった。一方で、彼らの神話は、民族的なオリジナリティーをほとんど感じさせない。これほど多くの殉死者、馬を中心とした膨大な犠牲、そして異様なほどの葬宴の跡。これらのことを考えれば、文化的な洗練は、そうはあり得ないと思われるのだが、その副葬品にある装飾のセンスには並外れたものがある。たとえ、それらがギリシアの工人によるものであろうと、それを選び、注文するのは彼らであったからである。動物紋といった他に見られない優れた意匠さえ作り出しているのだ。いよいよもって不思議なエトノス集合体なのである。ちなみにペルシア側の墓の画像も掲載しておいた。

この後、スキタイ軍はペルシア軍が食料を確保しようと出向いてくる度に彼らを攻撃し追い返すのである。結局、ダレイオス1世は撤退を決断し、忠実なイオニア軍のお陰でイストロス (ドナウ) 川の船橋を渡ってペルシアに引き返せた。この撤退の決断の前にスキタイからダレイオス1世に贈り物として「鳥、鼠、カエル、そして五本の矢」が贈られた。使者は知恵があるならこの意味を解いてごらんぜよと言って帰ってしまった。さて、みなさんはこの意味をどのようにお考えになるだろうか。答えは『歴史』の中にある。

ナクシェ・ロスタム アケメネス朝ペルシアの墓標 四つの内の一つがダレイオス1世の墓 
ペルセポリス イラン

 

 

 

付 イシク墳墓のスキタイ王子(女)の全身甲冑

サカ (スキタイ) 王の金の全身甲冑
イシク墳墓 カザフスタン

イシク遺跡は、カザフスタン南東部、キルギリスの北東、中国にも近い。バルハシ湖の南、アルマトゥイに近いイシク付近にある墳墓で、高さ6メートル、周囲60メートルの大きさがある。前4世紀から前3世紀あたりの遺跡で、遺骨、戦士の装備、4000を超える金の装飾品、種々の副葬品が出土している。

画像は18歳くらいのサカ (スキタイ) の王子か王女のものと考えられているパレード用の黄金の全身甲冑で、カザフスタンを代表する歴史的出土品となっていて、その持ち主は埋葬品の多さから「黄金の男(女)」と呼ばれているという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

ヘロドトス『歴史』中

C.W.ツェーラム『神・墓・学者』上
トロイ、ミケーネ、エジプトなどに関する発掘とその逸話が縦横無尽に語られる。

C.W.ツェーラム『神・墓・学者』下
ペルシア、アッシリア、バビロニア、アステカなどの考古の歴史が語られる。考古学のロマン香る名文。

C.W.ツェーラム『狭い谷 黒い山』 ヒッタイトの遺跡発掘などに関わる著書。

雪嶋宏一『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』 消えた謎の騎馬民族

 

カザフスタン 天山地方

突然消え失せた民族。蛇女ヘラクレスに宿させた末裔たち。騒乱と戦争とを好んだ民族。そのスキタイとは何者なのか。旧約聖書における預言者エレミアは、彼等の侵入を神の下した懲罰だと言い、新アッシリア王エサルハッドン (681-前668) は、恐怖に駆られて神託を求めた。ギリシアの歴史家ヘロドトス (前484-前424) は、この不可解な民族に興味津々だった。アーサー王伝説との繋がりも取り沙汰される昨今、ヘロドトスでなくてもいったいどんな民族だったのか探ってみたくなるのが人情ではなかろうか。

見渡す限りの草原や寒冷な山塊を背景に羊や馬たちが草を食む風景を想像はしてみるものの、日本に住む者には、なかなか実感しがたい。おそらく数千年もの間、或いはもっと遥かな昔から同じ光景であっただろう。この大草原  (ステップ) の風景には、そこここに古墳の盛り上がりがあるらしい。

たった一つの古墳が辺り一帯を睥睨していることもあれば、群れをなして、ある時には鎖状に連なっていることもあるという。それが古代のクルガン (古墳)である。マリア・ギンプタスが提唱したクルガン仮説のあのクルガンだ。それらを探索したものたちの中には、熱狂的な好事家、大学者、旅行家、盗掘者たちがいた。ロシアから始まった、これらの古墳調査は考古学の黎明期が、どこの国でもそうであったように、文書にろくに記録されず、発掘誌もないものが多く、発掘者が興味もないものは、捨てられ、途中で発掘を取りやめ、他の古墳に移ることさえあった。発掘の成果は墓からどれくらいの金が出土したかによった。こうしてロシアの人知れぬ大地から世界でも有数のスキタイのコレクションが集められた。それがエルミタージュの比類のないコレクションになったのである。その多くは、スキタイ貴族の注文によってギリシアの工匠の手による古典古代の貴金属工芸と金工の傑作だったのである。

雪嶋宏一『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』
2008年刊

今回は、雪嶋宏一さんの『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』をご紹介しようと思っている。スキタイに関して手にとれた著書はヨシフ・ベニヤミノビッチ・ブラシンスキーの『スキタイ王の黄金遺宝』と興亡の世界史シリーズ 林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』があるが、コンパクトなものは林さんの著作。この雪嶋さんのものが一番詳しかったので、これをプロットするが、学術書的側面が強いので自分で整理しながら読む必要はある。他に、スキタイの時代に一時勃興したパルティアの歴史を書いたニールソン・C・デべボイスの『パルティアの歴史』という本があって、語り部風の優れもので、いつかご紹介したいと思っている。

雪嶋さんは、1955年のお生まれ、早稲田大学文学部をご卒業後、2008年まで同大学の図書館司書を勤められた。羨ましいけれど、その後、早稲田大学で教育・総合科学学術院の教授となられている。

早稲田大学の研究者データベースには、雪嶋さんの古書に挟み込まれた人生の1ページ』といった論文のタイトルが掲載されていて、文献学的なアブローチをずっとされてきたことが分かる。スキタイ、サルマタイ、サカに関する論文の他に、シュメール、16世紀バーゼル、18世紀スコットランドに関する論文など多々ある。著書に『アルド・マヌーツィオとルネサンス文芸復興』『雪嶋宏一書誌選集:コルディエ、インキュナブラ、アルドゥス書誌論』『タイポグラフィの基礎:知っておきたい文字とデザインの新教養』などがあり、広範な知識に溢れた方のようだ。

 

さて、スキタイの時代に入ろう。黒海北岸の草原地帯における初期鉄器時代における時代区分は、従来このようになされてきた。

前9世紀~前7世紀前半   先スキタイ時代
前7世紀後半~前3世紀前半 スキタイ時代
前3世紀後半~後3世紀   サルマタイ時代

サルマタイ時代とは、クリミア半島に小スキタイと呼ばれた王国が成立し、スキタイの勢力が命脈を保っていた時代で、ポスト・スキタイ時代とも呼ばれる。本書では民族名に関してはスキタイを、居住地域名についてはスキティアと使い分けがされている。先スキタイ時代におけるその起源については諸説あって結論を見ていないが、おそらく前8世紀~前680年頃、中央アジアから北カフカスや黒海北部へかなりの距離移動してきたと見られる。

 

キンメリオイと初期スキタイ


 

北から南へ 東から西へ

ロシア連邦共和国の一つでシベリアの南端、モンゴルの北西にクズルという街がある。アジアの中心と呼ばれる。その近くにアルジャン遺跡があり薬効のある聖泉が出ることで知られるが、前9~前8世紀の先スキタイ時代の遺物が発見された。そこにはスキタイ特有の動物文様で装飾された遺物も発見されたのである。ユーラシア大陸中央部における民族移動で顕著な流れは北から南へ、東から西へである。〈北→南は草原や森林地帯にいた遊牧民や狩猟民、半農半牧民が都市文明を持つ定住農耕地帯へ侵入するルートであり、〈東→西〉ルートでは遊牧民同士のせめぎ合いとなる。

前8-前7世紀のアジア西域

歴史の父、ヘロドトスが述べるスキタイの出自で、最も説得力のあるものは、はじめアジアの遊牧民であったこのエトノス (民族) たちが、マッサゲタイ人に攻められ、アラクセス川を渡ってカフカス北方から黒海北岸にかけての草原地帯にいたキンメリオイ人を追い出して、そこに住み着いたというものだった。マッサゲタイ人が何者なのか、アラクセス川が現在のどの川にあたるのか分かっていない。

前7世紀、現在のイランやイラクを指す西アジアでは、初の世界帝国であったアッシリアが崩壊し、東はイラン高原にイラン系のメディアが、アナトリアには東にウラルトゥが台頭、その中西部にはフリギュアが滅んだ後リュディアが勃興していた。そんな中にキンメリオイとスキタイが登場してくるのである。

キンメリオイ

上 フランソワの壺に描かれたキンメリオイ
前570年頃のエトルリアのクラテール口縁あたり キウージ出土  イタリア
下 拡大図 中央のしゃがんだ射手。その斜め上にギリシア語でキンメリオスと書かれている。

キンメリオイについてもあまり分かっていないが、前8世紀後半の詩人ホメロスは流れの深い大洋河の涯て、オケアノスの冥界の入り口にいつも靄や霧に覆われているキンメリオイ族の郷土があると『オデュッセイア』の中で詠っている。決定的な遺物は、その姿と名が描かれている前570年頃のエトルリアのクラテールだった発見者の名に因んだ通称「フランソワの壺」の口縁の辺りである。

新アッシリア (前934‐前609) は、メディア、新バビロニアの連合軍によって滅ぼされた。キンメリオイの活動は、アッシリア、ギリシアの史料から前8世紀後半から前7世紀後半に亘っている。筆者の雪嶋さんは、アナトリア (ボスポラス海峡以東の現トルコ) の考古学的史料からキンメリアと呼ばれる彼らの土地は黒海北岸ではないかと考えているようだ。

先スキタイ時代の文化

先スキタイ時代の文化の指標となる遺物である青銅の鏃 (やじり)、剣、馬具などがアナトリア、イラン北部、カフカス南部、さらにパレスチナで発見されている。とりわけ重要なのは護符として使われていたと思われる両翼鏃で、これらの同系統のものがカスピ海の北や東で発見されており、これら先スキタイ時代の文化が、かなりな地域に広がっていたことになるが、それらの中でキンメリオイのものとスキタイのものの区別はつき難かった。

それより南の西アジア由来の出土品が黒海北岸でも発見されていて、先スキタイ時代に、既に黒海北岸から北カフカスにかけての住者が西アジアと直接的な交流を持っていたことが分かる。西アジアはキンメリオイが100年近く住んだとされる地域だった。広範囲な交流が既にあった。そんな中で、スキタイ動物文様がキンメリオイなどの他の文化遺物と区別される指標となる。1971年、スキタイに関する重要な遺跡の調査が始まった。さきほど述べたクズル近郊のアルジャン遺跡である。

左 上空からのアルジャン古墳
右 アルジャン古墳の平面図(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』より)

 

スキタイは何処から来たのか

このアルジャン遺跡では、先スキタイ遺物と一緒に動物文様を持つ遺物も発見されたのである。中央に木槨 (もっかく) 墓室があり、盛り土のない石積み塚で、中央が少し膨らんでいるが、ほぼ扁平の形をしている。その下には放射状に丸太が井桁に組まれ、その中のいくつかと外側には殉死者の遺骸が計15体あり、外槨の東側とその外側に160頭もの馬の骨が発見されている。モンゴルの西のアルタイ人は、神々は宇宙柱としての生命の木に馬を繋ぐという神話を持っているというミルチャ・エリアーデの指摘にも呼応する。そうなら北斗信仰に関わるが、太陽信仰の表れだという説もある。この遺跡の発掘によってスキタイは東方の内陸アジア北部の草原から移動して来たと言う説が有力視されるようになった。しかし、断言するには資料が足りないらしい。

モンゴルと北カフカスの鹿石と石人

上 モンゴルの鹿石    下左 モンゴルの鹿石  
下右 キンメリオイの鹿石 (本書より)

それに、内陸アジアの遺物が黒海北岸や北カフカスで見られるケースがあり、それが鹿石と呼ばれるものだ。この鹿石は石積み塚の近くでも多く発見されていて林俊雄さんは『スキタイと匈奴 遊牧の文明』の中で、その塚をヘレクスルと呼んでいる。モンゴルではこの墳墓をそう呼ぶようだ。

彼の地で多く見られる鹿石は、多くが幅の狭い正面の上部に2~3本の斜め線があり、側面には耳を表す円が、胴部には鹿文様が刻まれ、腰には帯の線があり、剣、斧、弓袋が刻まれる。

北カフカスで発見されている鹿石は鹿文様のないもので、それら東部の影響を受けて現地で制作されたもののようだ。通称「キンメリオイの鹿石」と呼ばれていて、バルカン半島やウラル、黒海北岸でも発見されている。この鹿石の伝統がスキタイの石人、素朴な人の形をした石の像の起源ではないかと考えられている。ちなみに日本における石人は、5~6世紀の北九州の古墳群の墳墓に立てられていた石人石馬で、岩戸山遺跡のものなどが有名だ。

ウクライナの石人 スキタイの野営地だったと思われるノヴォヴァシリエフカ出土

キンメリオイの滅亡

プルタルコスは『英雄伝』の中で「昔のギリシア人に初めて知られたキンメリア―人はその全民族の小部分に過ぎず、スキュティアー人に圧迫されて逃亡もしくは離反によりリュグダミスに率いられてマイオーティスからアジアに移った」と書いている。マイオーティスは黒海北部の内海だから黒海東岸沿いのルートとなるようだ。キンメリオイの滅亡についてはリュディア王のアリュアッテスに滅ぼされたか、あるいはスキタイによって滅ぼされたという二説がある。

スキタイの南下

雪嶋さんの推測では、最初期のスキタイはユーラシア中央での勢力争いの結果、西に向かいヴォルガ河を超えて北カフカス、黒海北岸に達し、先住のキンメリオイを圧迫し、キンメリオイはその地で一部スキタイと同化しながら南下してアナトリア半島に至った。黒海北岸から西へとスキタイの一部はバルカン半島南東部のトラキアに侵入した。北カフカスのスキタイは、カスピ海西側を通ってメディアに侵入したと考えている。スキタイがヴォルガ川を渡ったのは、おそらく前8世紀頃のことだろう。その地域の最も古い文化資料がその頃のものだという。

歴史叢書』を著したシケリアのディオドロスはスキタイが戴いた古代の諸王が、アジアからカフカス山脈にかけて、さらに南西へ、あるいは、トラキア (トルコ西部+ブルガリア南部+ギリシア北東部) からエジプトのナイル河まで達したと伝えている。

現在のユーラシア西部とスキタイの関連地域

 

スキタイ勇躍する 南へ西へ


 

アッシリア王エサルハッドン(681-前668) 勝利の碑 紀元前670年頃
ペルガモン博物館、ベルリン

では、黒海北部・北カフカスから南下し、リディアやアッシリアへ侵入したスキタイの足取りは、どのようなものなのだったろうか。新アッシリアの史料ではイシュクザーヤ (スキタイ) への言及は、ギッミラーヤ (キンメリオイ) に比べて少ないと言う。新アッシリア王のエサルハッドンはこの凶暴なイシュクザーヤを味方につけるために、その王バルタトゥアと自分の娘とを政略結婚させている。

ヘロドトスは、スキュタイ (ギリシア人はスキタイをこう呼んだ) 人とメディア人が戦い、前者が勝利して全アジアを席巻した。そして、28年間に亘って上アジアを支配したとも書いている。アジア支配はともかく、アッシリアと手を組んでメディアを駆逐したのは確かなようだ。エサルハッドンの皇女降嫁がその前か後かは分からない。

その後、勢い乗ったスキタイはディオドロスが書き残したように小アジアからアッシリア領内、パレスチナ、エジプト国境まで進出し西アジア全体の脅威となっていった。彼らがパレスチナ・シリアまで来た時、エジプト王プサンメティコスは自ら出向いていき、贈り物と泣き落としでスキタイを懐柔し、彼らは後戻りしたとヘロドトスは言う。意外と情にもろいのか、差し迫った理由があったのかは分からない。しかし、その一部はシリアのアスカロンに差し掛かった時、アフロディテ・ウラニア (天空のアフロディテ) の神殿を荒らしたらしい。バビロン捕囚期の預言者エレミアはスキタイへの恐怖をこのように伝えた。

主はこう言われる、「見よ、民が北の国から来る、大いなる国民が地の果から興る。彼らは弓とやりをとる。彼らは残忍で、あわれみがなく、海のような響きを立てる。シオンの娘よ、彼らは馬に乗り、いくさ人のように身をよろって、あなたを攻める。われわれはそのうわさを聞いて、手は弱り、子を産む女に臨むような悩みと苦しみとに捕えられた。畑に出てはならない、また道を歩いてはならない。敵はつるぎを持ち、恐れが四方にあるからだ。わが民の娘よ、荒布を身にまとい、灰の中にまろび、ひとり子を失った時のように、悲しみ、いたく嘆け。滅ぼす者が、にわかにわれわれを襲うからだ。‥‥ (『エレミア書』第6章22-26)

この頃、スキタイの中心地は北カフカスにあり、そこをベースとして西南のバルカン半島、あるいは西アジアへと侵略の魔手を伸ばしていった。彼らの支配は組織的で税の取り立ては過酷だったと思われる。家畜や人民、穀物は掠奪されていったと言ってもよいのではないだろうか。

 

スキタイの西アジア撤退と分裂


 

新アッシリアの衰退に乗じて西アジアにおける勢力拡大を果たした彼らもメディアがその勢力を盛り返して次第にアッシリアを圧迫するようになるにつれて西アジアからの撤退を余儀なくされるようになる。ヘロドトスはその様子をこう述べている。

アッシュルバ二パル王 前645~635年頃、大英博物館
ニネベ(イラク)の北宮殿のホールレリーフ

メディア王キュアクサレスはスキタイを宴会に招き酒に酔わせて殺し、その大部分を倒して、以前の領地の大半を取り戻すことに成功したと。これとは別の記述もあり、メディアがアッシリアの首都ニネベを包囲していた時、スキタイ王のマルデュエスが大軍を率いてアッシリアの援護に駆け付ける。このマルデュエスはスキタイの王バルタトゥアとアッシリアの皇女との間に生まれた子の可能性があり、そうだとすればアッシュアニバルパル王 (前685‐前631) の甥ということになる。

しかし、戦いはメディア側が勝利し、アッシリアは滅びるのである。スキタイは北カフカスに撤退したが、ヘロドトスの記述には続きがあった。スキタイの一隊が本国で謀反を起し、メディア王のキュアクサレスに保護を求めた、彼らを評価していた王は子共たちを彼らに預け、言葉や弓を習わせていたという。しかし、狩りの獲物を巡ってキュアクサレスに侮辱された彼らは、その子の一人を殺し、いつものように料理して王に送り付けた。そして、リュディアのアリュアッテスの許へ逃げることにした。これが直接の原因かどうかは分からないがメディアとリュディアは戦争状態になっている。

スキタイの射手 アッティカの赤絵式花瓶 エピクテトス作 紀元前520〜前500年頃。スキタイの支配層はイラン系の民族だった。

考古学史料によれば、前6世紀のスキタイの古墳群がドニエプル川中流域に多数見つかっていることからスキタイの中心が、やはり黒海北岸地方にあったのは確かなようだ。この頃、スキタイによってペルシアのダレイオス一世が苦杯を嘗めた戦争をヘロドトスが書いているのが注目される。

70万の大軍と600隻の軍艦を率いたペルシアの大軍はボスポラス海峡を渡り、イストロス (ドナウ) 川を船橋で渡ってスキタイの領地に侵攻した。しかし、ペルシア軍は、ススキタイの術中に嵌って退却という屈辱を味わうことになったのである。この次第は次回ご紹介する予定です。

  

前5世紀の大スキタイ国家


 

大スキタイ

ヘロドトスが前5世紀中葉頃にペルシアのダレイオス1世遠征後のスキュタイの地を訪れた。ギリシアが苦しい戦いを強いられたあのペルシアを撃退した国に興味津々だったのだ。そのころ、スキタイの国はこのような状況だったようだ。

ウクライナから黒海に流れ込むドニエプル川

ドニエプル川が黒海に注ぐ辺りの河畔にはギリシアの植民都市オルビアがあり、ギリシア人とスキタイ人の混血カッツリビタイとスキタイの習俗を持つアリゾネスという民族が住み、その向こうには「農耕スキタイ」が売却を目的として穀物を栽培していた。さらにドニエプル川を渡って黒海から北上し、400キロくらいまでの地域にオリビオポリタイと称する「農民スキタイ」たちがいた。彼らが農業をしていたかどうかは疑問があり、ギリシアの植民地との繋がりを持った商業に携わる遊牧民ではないかと考える向きもある。

前5世紀中葉のスキタイの国家 概略図

 

そこから、ドニエプル川の支流ヴォルスクラ川東方の500キロの距離に亘って居住していたのが遊牧スキタイである。けっして一枚岩ではなかったスキタイだったが、ヘロドトスは、パララタイと呼ばれる王権を継承する氏族あるいは部族を中心に結成された生業、民族を超え、広域にまたがった大型の政治連合体だっと記している。その支配層は、王族スキタイと呼ばれるイラン系の民族だった。彼らの起源が中央アジアだとしてもモンゴル系などのアジア人種をイメージしてはいけない。彼らはエウロペロイド (ヨーロッパ人種) の特徴を持っていた。この王族スキタイは最も勇敢で数も多く、他のスキタイ人を隷属民と見なしていたという。この黒海北岸に定住していた前6~前3世紀までの時期を大スキタイ、あるいはスキタイ第二国家と呼ぶようだ。それ以前の前7~前6世紀初めまでが第一スキタイ王国時代と呼ばれる。

 

スキタイの衰退と滅亡


 

前339年にスキティアは、マケドニアのアレクサンドロス大王のトラキア総督ゾピュリオンに侵略されたが、スキタイは彼らを殲滅したとカリニコス顕彰碑文が記している。前3世紀以降にドン川からの東から侵入してきたサルマタイ、これに加えて、南西からケルト族であるガラティア人の侵入を受けた。これによってスキタイは、ほぼ崩壊し縮小する。もともとドン川の東にはスキタイと親族関係のあったイラン系の騎馬遊牧民族サウロマタイがいたが、前5世紀の末、ウラル川中流域に同じイラン系の騎馬遊牧民族サルマタイの勢力が増大し、サウロマタイを吸収する。そして、クリミア半島のボスポロス王国の王位継承問題に乗じてスキタイを駆逐してしまうのである。

ケルメンチクの丘にある城塞集落跡     シンフェローポリ

スキタイ第三国家、すなわち、小スキタイの存在が知られるのは、前2世紀の後半頃で、黒海北岸のクリミア半島といった狭い領地に根拠地を置いてギリシアの植民地と交流していた。スキタイは多くの城壁を築いていたものの遊牧的な生活スタイルは続いていたようだ。あくまで遊牧民族の生活スタイルは変えなかった。この頃の最大の遺跡はシンフェローポリにあるネアポリスで、前3世紀最後の四半世紀から紀元後3世紀までの時代のものであるが、これも次回ご紹介する。

2世紀後半頃に、バルト海沿岸・中央ヨーロッパを経てゴート人が長駆移動してくる。彼らはローマとの戦いの過程で黒海北岸に侵入して来た。220年から230年代の頃のことのようだ。これによって3世紀中頃までにはドニエプル川下流からクリミアにおける小スキタイは滅亡した。これが千年に亘るスキタイの歴史だった。その終焉については、ほとんど何も知られていない。彼らは、最後の首都ネアポリスから突然消え去り、歴史の舞台からも姿を消すのである。

サルマタイの時代の後、紀元後4世紀には東方から現れたフン族が登場し、サルマタイの後継であるアラン人を支配した。続いて6~7世紀には中央アジア北部からアヴァルが西進してヨーロッパに現れ、その後は突厥が西進することになる。まさに民族の玉突き衝突が繰り返されるのである。スキタイの遺跡や遺物については次回ご紹介するが、雪嶋さんがスキタイとナルト叙事詩に関しても書いておられるのでご紹介しておく。これは素晴らしい。

 

スキタイとナルト叙事詩


 

C・スコット・リトルトンとリンダ・マルカー『アーサー王伝説の起源』日本では2017年に出版された。

古代ギリシア、ローマの文献にスキタイの神話、伝説、風俗・習慣が記録された。雪嶋さんによればそれらの一部の要素が中央カフカスの山岳民族オセット人の伝承する英雄伝『ナルト叙事詩』に影響を与え、しばしばスキタイの文化的遺産と評価されているという。この叙事詩は、民族系統の異なる近隣の諸族にも伝承されていった。ちなみに爪楊枝のような指揮棒を使うことで話題になった指揮者のヴァレリー・ギルギエフはオセット人のようだ。

オセット人はイロンと称するイラン系の民族だが、その祖先が民族移動期に中央カフカスにやって来たアラン人ではないかという説がある。アラン人はサルマタイと縁戚にある騎馬民族集団で、紀元後に北カフカスから黒海北岸を支配した。その一部がパンノニア(カルパチア盆地南部)を経て北イタリアに侵入し、一部はガリアに入植した。さらにその一部がローマによってケルトなどのバルバロイ制圧のためにブリテン島に送られ、一部はイベリア半島を経由して北アフリカに送られたという。

このアラン人は戦闘術、生活習慣、宗教などの点で西ヨーロッパに強い影響を与え、ガリアの多くの地名、人名に記憶された。彼らの方がケルト族たちよりは文化的には進んでいたのだろう。そして、サルマタイの一派イアジェゲス族もまたブリテン島にサルマタイの痕跡を残したと言う。これらの痕跡は西方でのアーサー王伝説の起源の一つとなったと考えられるが、彼らがスキタイとは縁戚にありながら文化的には異なるためスキタイ・アラン文化と呼ぶべきだろうと雪嶋さんは言う。リトルトンとマルカーの『アーサー王伝説の起源』を踏まえて雪嶋さんはこのように指摘している。これは敬服に値する。

スキタイ、サルマタイ、アランに関する詳しい研究はジョルジュ・デュメジルによってなされているようだが、残念ながら少見にして翻訳が見つけられていない。

 

 

 

付 サルマタイとアマゾン

バッサエ・フリーズのアマゾン 紀元前400年以前 大英博物館
バッサエのアポロン神殿にあった23枚の大理石パネル。

前4世紀の初め、カザフスタンから西へと移動し、ウラル山脈南部に移動した部族集団は、もともとその地にいたサウロマタイと同化してサルマタイと呼ばれたことは既に述べた。彼らが絶頂にあった黒海北岸のスキタイを圧迫し始める。このサウロマタイ人のアマゾネスについての言い伝えをヘロドトスが書いているのでご紹介しておく。

ヘロドトスは『歴史』の中でトルコ北部の黒海に面した地域にアマゾンの住む地域があり、ギリシア人と戦い、捕虜にされて舟で護送される途中、反乱を起こしたと書いている。しかし、舟の操縦を知らない彼女たちは黒海の北のアゾフ海に流れついてスキタイと戦うことになるが、スキタイの男たちは女性と知って懐柔策に出た。このアマゾンとスキタイの若者たちが共に東方に逃げ延びる。彼らの子孫がこのサウロマタイだというのである。その子孫の女性たちは、男性と同じ服で馬に乗り、狩りをし、戦場で戦った。娘は敵の男子を一人殺さないうちは、嫁に行かないと言う。サウロマタイが残した遺跡には女性の墓から青銅か鉄の鏃が出土し、男性の墓からは剣と槍先が出ると言う。

 

参考図書 及び 引用文献

 

ニールソン・C・デべボイス『パルティアの歴史』

林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』
興亡の世界史02

ヘロドトス『歴史』中