梯 久美子『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』ベールの向こう側の「私」

 

梯久美子『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』

「すぐれた聖職者は、常に自分の祈祷書を携帯しているものだ。これと同じように、芸術家は彼の内に死を携えている」と、ドイツの小説家ハインリッヒ・ベルは述べたと言う。ガーン ! これは痛い所を突かれた。人は、死を携える、おもちゃのようにも鉄鎖のようにも。とりわけ、芸術家には死の匂いを漂わせる者も多い。原民喜 (はら たみき) もまたその一人だった。

どうも周期的に死に対する願望というか憧憬というか畏怖というべきか、やって来る。何かに背中を押されるようにツンのめることがある。もうこんな頭陀袋のような体の中に閉じこめられていたくないという足掻きなのか、故郷に対する郷愁なのかもよくは分からない。年を取れば、その切迫感はいや増して来るのは確かだ。まだ、生きねばならないのかという諦観もある。

日の暑さ死臭に満てる百日紅 民喜(俳号は杞憂)

自分を消したい、消そうとする衝動がある。それが死と繋がっていくものなのか、どうか。原の中学校時代を知る人は、彼が入学してから4年間、その声を聞いたことが無かったと言う。手足も機敏に動かせなかった。回れ右や歩調を取っての行進もできなかった。教練や体操の時間は、あざ笑いとからかいと罵りの対象だったと言う。

魂呆けて川にかがめり月見草 民喜

慶応の文学部予科に進んだ時、同級に山本健吉、瀧口修造、田中千禾夫 (たなか ちかお/後に劇作家)、葦原英了(あしはら えいりょう/後に音楽・舞踏評論家)、庄司総一 (後に小説家・詩人) らがいた。山本健吉にとって俗物には見えなかった学生が原だった。憂鬱そのもののような青白い顔をして打ち解ける者もなかった。同級の瀧口修造にも、三年生からの担当教官だった西脇順三郎にも原の記憶は無かったと言う。

ふるさとの山を怪しむ暗き春 民喜

原民喜 (1905-1951) 慶応義塾大学時代
定本 原民喜全集Ⅱ    青土社に収載 部分

原は郷里の広島で、付属中学の5年生になった時、同人誌に詩を掲載した。同級生熊平武二が思い切って声をかけると慌てて前かがみになり小走りに逃げた。眼に浮かぶようだ。しつこく頼むと「うん」と低い声で言った。初めて原の声を聞いた瞬間だった。彼の文才は校内でも知られていたらしい。彼が、自分の意志で所属したコミュニティーは「三田文学」などほとんどが同人誌であり、文学は原が世界と繋がるための唯一の回路だったと梯 久美子 (かけはし くみこ ) さんは書いている。

今回はノンフィクション作家の梯久美子さんの著作『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』をお送りする。丁寧に取材された内容を密度高く編集されている立派な作品だと思う。小説家、詩人として知られる原民喜 (はら たみき) の世界を本書を中心にご紹介したい。

(かけはし) さんは、熊本のお生まれ。北海道大学文学部卒業後、企業に入社して編集者となり、1986年に編集・プロダクション会社を設立。2001年からフリーライターとなる。2005年『散るぞ哀しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で作家デヴュ―。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞された。他の著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』、『昭和の遺書 55人の魂の記憶』、『百年の手紙 日本人が遺した言葉』がある。2017年の『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』は、第68回読売文学賞(評論・伝記賞)、第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞を受賞されている。

 

死と夢


 

お前が凍てついた手で
最後のマッチを擦ったとき
焔はパッと透明な球体をつくり
清らかな優しい死の床が浮かび上った

誰かが死にかかっている
誰かが死にかかっている と、
お前の頬の薔薇は呟いた。
小さなかなしい アンデルセンの娘よ。

僕が死の淵にかがやく星にみいっているとき、
いつも浮かんでくるのはその幻だ

『死について』 原民喜

 

原は広島の惨劇から辛くも逃れて蟋蟀のように痩せ衰え、飢えと寒さで戦きながら農家の二階でアンデルセンの童話を読んだ。人の世に見捨てられて死んでいく少女の最後のイメージは狂おしいほど美しかったという。これから先、生き延びれるのか、真っ暗な田舎道をとぼとぼ歩きながら、暗い地球に覆いかぶさる夜空を見上げた。そこには、ピュタゴラスを恍惚とさせた星の宇宙が鳴り響いていた。

ネリー・ザックス (1891-1970) 1966年

原が「大地の愛に胸を浸した母性の豊かな想像力」と讃えた作家セルマ・ラーゲルレーヴ、彼女の援助によってナチスの手からスウェーデンに逃れた詩人ネリー・ザックスは、かつて、こう述べていた。「死は私の先生でした。私のメタファーは私の傷です。」そして、こう詠った。

‥‥
子供たちが死ぬときには
つねに
人形の家の鏡たちが
ひとつの息に曇る、
子供の血の繻子を着た
指の*リリパットの踊りを見なくなる―
双眼鏡のなかで
月にうっとりした世界のように
動きのない踊り。

子供たちが死ぬときには
つねに
石と星と
そしてたくさんの夢が
故里を失くすのだ。

(『生き残った者たち』より 網島寿秀 訳)  *リリパット/ガリヴァー旅行記に登場する小人の国

 

童話的な世界を同じように設定しながら、この二人の世界はかくも差を見せる。ザックスの世界は、現実の中に痛みが沈み込む。彼女は恋人をゲシュタポに殺され、ユダヤ人であることによって精神的な傷を負い、精神障害を繰り返しながら生きた作家だった。原の世界はあくまで夢のようなベールがかかっている。彼の踵は大地から浮いて死に接しているともいえる。それが原という作家の天性だったのかもしれない。原はこう書いている。

「嘗て私は死と夢の念想にとらわれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いていた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかったのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂喜の如く熱愛してくれた妻がいた。その後私は妻と死に別れると、やがて広島の惨劇に会った。うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支えてくれたのは、あの妻の記憶であったかもしれない。そのことも私は『忘れがたみとして一冊は書き残したい。そして、私の文学が今後どのように変貌していくにしろ、私の自画像に題する言葉は     死と愛と孤独       恐らくこの三つの言葉になるだろう。‥‥‥十数年も着古した薄いオーバーのポケットに両手を突っ込んで、九段の壕に添う夕暮れの路を私はひとりとぼとぼと歩いている。(『死と愛と孤独』)

 

青春の挫折


 

原民喜 撮影年未詳

梯さんの著書に戻ろう。原は1905年、広島市の幟町に父信吉、母ムメの第八子として生まれたが上の兄二人は早世した。姉が二人、妹が二人いたが、姉二人も原が成人する前に亡くなっている。

ちなみに中原中也は1907年生まれで、父親の転勤で1909年から広島に3年ほど住んでいて、広島女学校附属幼稚園に通っていたというからかなり近い距離に住んでいたことになる。対照的な二人が、幼い頃、街ですれ違っていたと思うと何か不思議だ。

生家の原商店は、軍服、制服、天幕、雨覆いなどの製造・卸を行う陸海軍・官庁用達の繊維商で、1984年、日清戦争が始まり大本営が広島に置かれた年の創業だった。軍都広島の発展が原商店の発展でもあった。工場の他に複数の貸家もあり、かなり豊かな暮らしぶりだったと言う。

しかし、原は生家が戦争成金で、自分は工員たちから搾取した金でのうのうと生きてきたという負い目があった。生家が質屋だった宮澤賢治を思い出させる。

そのこともあってか一時、左翼思想に染まった。昼夜逆転生活がたたって、予科から学部へ進めず、結局5年も予科に在籍していたが、やっと慶応の文学部英文科に進んだ1929年 (24歳頃) から1931年の時期である。マルクス主義文献に触れ始め、読書会であるリーディング・ソサイティと弾圧された革命活動家への救援を目的とする国際組織である赤色救援会 (通称モップル) での活動へと進展していくことになる。所属は日本赤色救援会の東京地方委員会だった。

下宿の部屋を会合に提供していたのは分かるが、驚くべきは広島地区の組織拡充のための勧誘活動を行うというオルグの指示を受けて帰郷していたことだった。後に、これを知った友人一同唖然としたと言う。第一、勧誘と言ってもちゃんと喋れるとは思えなかったのである。原は1931年に検束されたが、短期間で釈放された。これを機に赤色救援会を離脱し、その運動を断念したと言う。

原の生涯で唯一社会に向かって能動的に働きかけようとした事件だったが、短期で終わってしまった。1932年、27歳で大学を卒業。卒論はワーズワースだった。友人の長光太 (ちょう こうた) の下宿に転がり込み、ダンス教習所の受付の仕事に就くや横浜の開港場のちゃぶ屋の女性と同棲する。相応の金を払った上で身請けしたようだが、半月もしないうちに逃げられている。

何もかも上手くいかなかった。挫折の連続を味わったのである。ひっそりと耐えたが二階の原の様子がおかしいのに気づいて、階段を駆け上がった長は、原の枕元にカルモチンの壜が転がっていたのを見た。芥川龍之介も金子みすゞもこの睡眠薬で死んでいる。しかし、多量に飲んだために吐いてしまっていた。長に揺り起こされた原は、一生、誰にも言わないでくれと低い声で頼んだと言う。

 

最愛の妻の死と家族の死


 

定本 原民喜全集 Ⅰ 1978年刊
「華燭」「昔の店」収載

こんな息子でも身を固めさせれば何とかなるだろうと思うのは親や親戚である。1933年、27歳の時に6歳年下の貞恵と結婚した。広島県、三原の出身だった。梯さんは結婚式の様子を彷彿とさせるような原の作品『華燭』を紹介してくれている。

母は夫から初めて聞かされる言葉は大切だから嫁に言い聞かせてやりなさいという。見合いの席で一言も口をきけなかった相手に何といったものやら思い惑った。大きなテープルを挟んで向かい合ったが、段々気づまりになってくる。早く何とか言わないと一生ものが言えなくなるかもしれない。相手は高島田の首を重そうに縮めている。

思い余って一声を放った。「オイ ! 」 あんまり大声で怒鳴ったものだから、自分の方が喫驚した。もう破れかぶれだった。「君は何と言う名だ ?」 我ながらなんとアホな事を聞いたのだろうと思ったが、もう遅かった。嫁は黙ってこちらを見つめるばかりだった。気が気でない。「オイ !」「なんとか言え ! 何とか !」 花嫁は、やおら赤い唇を開いた。「何ですか ! おたんちん ! 」「おたんちん ?」初めて聞く言葉だった。キョトンとして花嫁の怒れる顔を眺めていた。

ハハハ ! 面白い。この作品は1939年 (昭和14年) に三田文学に発表されている。貞恵は、ものにこだわらない明るい性格で、愛くるしい小柄な丸顔の人だったと言う。夫の才能を信じ、作家になるという夫の夢を自分のものとするような妻だった。ソウルメイトと言ってよかった。彼女と過ごした日々が原にとって最も幸福な時期であり、最も多作な期間だった。生活力のない原と別れて帰ってきたらどうだという実家からの誘いも頑として受け入れなかった。しかし、その妻も結婚して6年後に肺結核を発病し、5年後に亡くなっている。この痛手は想像にあまる。原にとって重大な死別の記憶がその他に二つあった。

定本 原民喜全集Ⅱ 1978年刊
「愛について」収載

一つは次姉の死だった。何気なく語る姉の言葉、死んでいく人の語るこの寓話が少年の微妙な魂の瞬間を捉え、胸に響いて全生涯にわたって木霊した。

画家は王様から天使の絵を描くように依頼され、公園にいた一人の可憐な少年を見つけてモデルにした。その純粋な美しさは評判となりその絵は宮殿に保存された。年月は流れて、今度、王は悪魔の絵を所望した。牢獄を巡り歩いて凶悪な相の男を探し出してモデルとした。その絵は天使の絵にも増して賞賛を得た。画家は、感謝のしるしに王宮にある自分の絵をそのモデルの男にみせた。すると、その囚人は天使の絵を見ながら嗚咽の底からこう呟いた。この絵は私なのだと。(「愛について」)

この21歳の姉を失ったのは小学校高等科1年生の時だった。それより前の小学校5年の時に、父親が51歳で亡くなっている。父の死は、原の精神的支柱と呼ぶべきものの喪失であったかもしれない。梯さんはその頃の様子を原の作品「昔の店」から紹介している。

父が健在の頃は、店の雰囲気も従業員たちも彼にとって親密なものだった。営業を終えると店の奥は兄弟の遊び場であり、丁稚と共に王様ごっこや猛獣狩りなどを演じて興じた。店から工場までの道のりは「四五町の距離がワクワクと彼の足許で踊り出す」し、工場の裏手の川が「素晴らしくおもえたのは、そっくり父の影響だったのかも知れなかった」と書いている。しかし、父が亡くなると自分は日向から日陰にうつされたかのようで、そこには味気ない死の影が潜んでいた。学校から帰ると自分の部屋に引き籠り、もう滅多に誰とも口をきかなくなったと書いている。(「昔の店」)

 

夏の花


 

原民喜全詩集

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依る変化ヲゴランナサイ
肉体ガ恐ロシク膨張シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカエル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス

(原民喜『原爆小景』)

原は、まるで広島の惨禍に会うために帰郷したようなものだったと述べている。妻の死の翌年、看病のために千葉に来ていた義母も里に帰り、空襲も激しさを増してきたので、1945年2月に原は広島に吸い寄せられるように帰った。39歳の時である。兄の家業を手伝うという名目だった。広島は、空襲にさいなまれていなかった、取っておかれたように

日ノクレ近ク
眼ノ細イ ニンゲンノカオ
ズラリト川岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ顔ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ 細イ眼ニ
翳ッテユク 陽ノイロ
シズカニ オソロシク
トリツクスベモナク

(原民喜『日ノクレ近ク』)

 

以前ご紹介した心理学者のロバート・リフトン博士は、目の象徴的イメージは、はるかな普遍性を持っていて、死者からの凝視は、生存者が自分は生き残ったということを罪悪と感じ、その「非を責める目の所有者」と一体化させてしまう(『ヒロシマを生き抜く』)という。しかし、原の描写はあくまで静かで深い。そのことが、ことさら心に響く。梯さんは、この文体は文学者としての原がこの状況を描写するために選んだ形式であると考えている。それまでの作品とは一線を画しているのは確かだ。

原民喜『戦後全小説』「夏の花」収載

原自身はこう書いている。「原子爆弾の惨劇の中に生き残った私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく引き出された(『死と愛と孤独。」被爆という空前絶後の経験によって原は地面にたたきつけられたと言ってもよいのかもしれない。

そして、被爆後、一つの決意が生まれた。リフトン博士は、過酷な体験を可成りな程度まで克服できると、生存者は自分の過去から生命肯定の要素を呼び出すことが出来、「能動的な緊張」と「はつらつとした現実感覚」を取り戻すことが出来るようになるとしている(『ヒロシマを生き抜く』)。

自分は奇跡的に無傷だった。そのことが、この惨状を伝えよとの天命と感じられた。自分の仕事は多かろうと書いている。原は亡くなった妻が用意してくれていたように簡単な医薬品やオートミール缶の食料、そして手帳と鉛筆の入った雑嚢袋を持って逃げていた。その手帳に原爆の有様をメモしていく。それは、現在、原爆資料館に収蔵されている。

ギラギラノ破片ヤ
灰色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剝ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ

(『夏の花』より)

『夏の花』に掲載された唯一の詩である。梯さんがこの著書に掲載した原爆詩は、この作品だけだった。それは、梯さんの見識といって良いとも思うが、ぼくは原爆詩を皆さんに知ってほしいと思ったので『日ノクレ近ク』や『原爆小景』をご紹介した。この「ギラギラの破片‥‥」の詩以外、『夏の花』は、全編、被爆後のドキュメントとなっている。この文章は手帳のメモがかなり正確に使われていて、1945年の秋頃には執筆されはじめ、まとめられた作品は1946年の12月半ば、原の亡くなった妻の実弟である東京の佐々木基一が編集していた『近代文学』への原稿として送られている。

原民喜夫妻  定本 原民喜全集Ⅰに収載

最初のタイトルは『原子爆弾』だった。当時、進駐軍の検閲は事前と事後に分けられていて、時事問題を扱う雑誌である『近代文学』は事前検閲が課せられていたと梯さんは指摘している。日本人の検閲官に内閲してもらったが、とても通らないと言われたと言う。結局、題名を『夏の花』に改め、一部削除して1947年6月に検閲のない「三田文学」に掲載された。

『夏の花』は、実は妻の墓参りのシーンから始まる。八月四日、原は黄色い花を買って墓前に供えた。小弁の野趣あふれた、いかにも夏らしい花だったと書いている。夏の黄色い花というとキンレンカか黄色の百日草と言ったところかもしれないが、僕は長らくこの夏の花を夾竹桃だと思い込んでいた。黄色い夾竹桃は無いですよね。妻の墓参りと被爆後の描写との間に何が在るのか、義弟への思いやりだけではなかったろうと思われる。

 

民喜の死


 

梯さんの、この著書は原民喜の自殺のシーンから始まる。鉄道自殺、いわゆる轢死だった。最も恐怖が募る自殺の仕方と言われる。彼の文学は作家の意識の流れを描くような作風に変わっていったようだが、おそらく早すぎたのだろう。理解されないままだった。そして、原は、一瞬で周囲の事物が崩壊するような恐怖を感じないかとある編集者にもらしている。稲妻の光にも椅子から腰跳ね上げるほど体震わせたという。PTSDがあったのは確かなようだった。そのような中でも、若い文学志望者である遠藤周作との心のふれあいを深めていた。祖田祐子という若いタイピストとの出会いにも繋がり、原に心の安らぎを提供していたのである。やがて、遠藤もフランスに立った。

‥‥
すべての別離がさりげなく とりかわされ
すべての悲劇がさりげなく ぬぐわれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えているいるように

私は歩み去ろう 今こそ消え去っていきたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

(原民喜『悲歌』)

 

まるで傷のある手で周囲をまさぐって生きることをよぎなくされた人のようだった。これは心の強さ・弱さといった問題ではなく、心の感度の違いと思っていただきたいが、心であろうと体であろうと痛みは人を衰弱させる。彼にとって、この地上に生きていくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ちていた。日毎、人間の心のなかで行われる惨劇、人間の一人一人に課せられているぎりぎりの苦悩、そういったものが、彼の中で烈しく疼く。それらによく耐え、それらを描いてゆくことが私にできるであろうかと自問を繰り返す(『死と愛と孤独。耐えがたい現実があった。しかし、原の「私」はベールの向こう側にいる。原爆が、ぱっと剥ぎ取ったのは、ヒロシマの街だけでなく、原のこのベールであったかもしれないのである。それでも、その「私」は「現実に向かって傷だらけになる私」とすれ違い続けた。

何もかも整えて去っていった。数か月前から友人を訪ね、それとなくお別れをしていった。友人や家族に宛てた17通の遺書、遠藤には航空便用の封筒に宛名が書かれ切手も貼られていた。ある友人には形見としてのネクタイが置かれてあった。残されていたのは『心願の国』の原稿とタオルが入った風呂敷包み、別の友人への折カバンと黒いトランクくらいだったという。

葬儀の時、柴田錬三郎は「あなたは死によって生きていた作家でした」と語りかけ山本健吉が『夏の花』の一説を朗読し、弔辞を読んだ埴谷雄高は、「原民喜さん 広島でうち倒れて あなたの静謐な諧調正しい鎮魂歌を奏でられた多くの人々の許へ そしてまたあなたが絶えずそこから出て そこへ帰っていった奥さんのもとへ安らかに行ってください」と結んだ。生前刊行されたのは『焔』と『夏の花』の二冊のみだった。

こうして、原民喜はベールの向こう側へ帰っていった。そこは安らぎの場所だったろうか。しかし、一つの疑問が残る。彼が亡き妻へ「忘れがたみ」として書き残したいと述べた一冊とは、どの作品なのだろう。それとも、それは苦しみの死の彼方にあるもう一つの美しい死であったのだろうか。

 

今宵
わたしは角をまがって
暗い裏通りを行きました
するとわたしの影が
わたしの腕にまとわってきました
この擦りきれた衣は
着てもらいたかったのです
そして無の色がわたしに話しかけてきました―
あなたがいるのは向こう岸なのよ !

(ネリー・ザックス『燃え上がる謎』より 網島寿秀 訳)

 

参考図書 及び 引用文献

 

『ネリー・ザックス詩集』 2008年
未知谷 刊  1966年ノーベル文学賞受賞

セルマ・ラーゲルレーヴ『キリスト伝説集』

北川典子『いま一度 原民喜』 まさに様々な見解を紹介しながら原文学を掘り下げている。

ロバート・ジェイ・リフトン『ヒロシマを生き抜く』精神的死からの再生

 

1962年リフトン博士は、原爆投下17年後のヒロシマに到着した。ここでの研究は、核兵器による極限的な出来事に対する被爆者の心理的影響を研究するためだった。そのことは、前回のラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成』でご紹介しておいた。 人間が原子爆弾による圧倒的な死に向かい合う時、その体験と表象が人の心の中でどのように働き、変化していくかという過程を探っていった。

後にナチスの強制収容所の生存者、ベトナム戦争の退役軍人、スリーマイル島での従事者の心理を研究したリフトン博士は「生き延びたものの英知は、少なくとも潜在的に、人類の英知となりうる (桝井迪夫 他訳)」と述べている。このような研究は生存者シンドロームやPTSDの研究へと繋がっていくものである。

博士は強調する。ヒロシマ以降、戦争に結びついた忠誠などなく、戦争に結びついた栄誉などない。そこには加害者も被害者もない。ただの人類の絶滅があるだけだと。大災害においても、死に瀕した歴史的事件においても、生存者たちによって数多くの発見がなされ、苦難に立ち向かうことによって多くの苦難が克服されてきた。そういった時の感覚的な麻痺や精神的停止という障害を克服して人間は、意識の拡大を成し遂げてきたと言うのである。

ロバート・ジェイ・リフトン『ヒロシマを生き抜く』上・下

 

ロバート・ジェイ・リフトン博士は、1926年ニューヨークに生まれた。ニューヨーク医科大学で、学位を取得している。1951年から1953年にかけてアメリカ空軍の精神科医として日本と韓国に派遣された。1956年から1961年にはハーヴァード大学東アジア研究センター研究員となり、中国における思想改造や日本の学生運動の研究を行っている。1962年広島での原爆被爆者の調査の後、イェール大学医学部に着任し、ハーヴァード大学、ニューヨーク市立大学教鞭を執った。ニューヨーク市立大学名誉教授であられる。若い頃はフロイトに影響されるが次第に独自の心理学を構築し始めた

博士は「社会的責任を果たすための医師団/PSR」「核戦争防止国際医師会議/IPPNW」という二つの運動に参加している。このうちIPPNWは1985年にノーベル平和賞を受けた。

本書は1968年にアメリカで出版され、翌年科学部門の全米図書賞を受賞した。その授賞式で博士は「ヒロシマは、なんらの賞も許さないのです。ヒロシマが要求しているのは、ひるむことなく真のヒロシマの意味を認めることなのです(桝井迪夫他 訳)」と述べている。

邦訳された著書に『終わりなき現代史の課題―死と不死のシンボル体験』『思想改造の心理―中国における洗脳の研究』『終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か』『誰が生き残るか プロテウス的人間』などがある。『現代(いま)、死にふれて生きる―精神分析から自己形成パラダイムへ』では「創造者としての生存者」という章で第二次大戦を生き残った三人の作家、アルベール・カミュ―、カート・ヴォネガット、ギュンター・グラスを取り上げた。

 

広島での調査


原爆が投下されて17年の歳月が過ぎていた。だが、個人の学者にせよ、団体にせよ、組織的、具体的に被爆者に対する心の影響の調査は、なされていなかった。何故、遅れたり、無視されたのかについて、リフトン博士は研究者が選択的に自身の心を麻痺させた結果ではないかと考えている。ある意味、調査には、そのような麻痺、つまり心の閉め出しが必要とされたという。およそ、死に対処するあらゆる仕事に必要なものだけれど、とりわけ被爆のような恐ろしい現実に一体化することは、研究者自身に精神的な麻痺を引き起こす「治療の逆作用」を生み出す危険があったというのである。

しかし、同様に核兵器の開発・実験や製造に携わる人たちにもそれと同じ状態に陥っては、いないかと危惧している。核兵器のもたらす結果を感情面で締め出してしまっているというのだ。現代の物質的繁栄とテクノロジーの進化に伴って進行している事態に共通している問題と言えるのかもしれない。それは、リフトン博士が言う「際限を知らない技術がもたらす暴力と不条理な死」を招くのである。

被爆者への面接調査は二つのグループに分けられていた。一つは広島大学原爆放射能医学研究所によって無作為に選ばれた被爆者31名、もう一つは主として学者、作家、医師、政治指導者から成り立つ42名の被爆者だった。博士は多少日本語を話すことが出来、倫理的使命感をもって取り組んでいること、そして、組織的研究が必要であることを面接者に説明した。それに、平和象徴に関する博士の論文の日本語訳が『朝日ジャーナル』に掲載されたことが追い風になった。少なくともアメリカ政府のための情報収集ではないことが理解されたようだ。

本書は、この面接での内容がかなり詳しく書かれている。今回、僕は、その纏めと言える最終章「生存者」に限定して詳しくご紹介しようと思っている。

 

生存者に残される心理的脅威と精神的再形成


 

1.死の刻印

生存者体験の鍵となるものは死との対面である。ヒロシマの被爆者たちの過酷な体験は、三つの側面から語ることが出来る。白昼に巨大な稲妻に襲われたように突然全ての人々が死に侵されたこと。放射能の後遺症と結びつく死の恐怖に脅かされ続けること、核による絶滅という世界的な恐怖に集合的に触れ合ってきたことである。これらの死のイメージは正に圧倒的だった。

原爆投下後のヒロシマ 1945 年 ウェイン・ミラー中尉撮影

その死は、至る所に存在しただけでなく、異様にグロテスクな奇怪で不自然なものであり、考えられ得ないほど不適切で不条理なものだった。一瞬にして、とてつもなく変わり果てた人間の姿は、恐らく14世紀にヨーロッパを襲った「黒死」を思い起こさせるとリフトン博士は言う。黒死病、つまりペストである。ペストの様々な症状は、壊疽 (えそ) 性炎症、胸部の激痛、嘔吐と吐血、患者の体や息から発散する「ペスト臭」といったものだった。

このような死に曝された人々は、死そのものだけでなく、そのグロテスクな様相をも自分の一部になってしまい、自身と分離できないものになってしまうというのである。

ヒロシマの生存者たちは、原爆によって生じた恐ろしい症状とそれへの恐怖を口々に語った。血便を伴う激しい下痢、脱毛、体中の穴からの出血、皮膚に現れる紫斑、それに長く続く極度の倦怠感がある。死は2年後、3年後、いつ訪れるかもしれなかった。ペストは一度それから回復すれば、再発は無いが、原爆症は、一度回復したと見えても、ずっと後になっても同様な死に侵される不安にさいなまれることになる。原爆投下直後の数年間に白血病が多発し、その後は甲状腺癌、胃癌、肺癌、子宮頸癌などが発症する。放射能は何世代にもわたって遺伝的影響を残す可能性があることが知らされると、奇形児を産むことへの強い恐怖が広がった。

2.もろさの意識

もろさという点で被爆者には相反する二つの側面が見られる。人は通常でも、危険に立ち至った場合、自分は頑健だと思いがちだが、生存者は、死を極めて衝撃的な形で意識させられることによって、この幻想を徹底的に打ち砕かれるために、自分のもろさを強く意識するようになるという。

もう一つは、ある生存者たちが死に直面しながらも、それを征服し、一層頑健になったと意識するようになることである。その人たちは平和運動などにおいて、ある種のカリスマ的な存在となる場合もある。それは、死との遭遇という「試練の道」を経て生き延びて帰還し、死を克服する特殊な英知を人々に伝えるという英雄神話と心理学的にパラレルな様相を帯びた。

しかし、そのように感じている人も、けっして死の不安を免れてはいないとリフトン博士は言う。それは、希望的観測である場合が多いという。彼らは、死と荒廃の光景に一生呪縛される。それほどの強度で、この体験は意識に刻み込まれるのである。

ガス室への移送 1940-1945の間 Archiv Post Bellum

ホロコーストの生存者は、現代における死の不安と直接的に結びつくことは少ないが、長く尾を引く屈辱と恐怖に付きまとわれる。詰め込まれた輸送車の中での窒息、恒常的な飢え、拷問、強制労働、伝染病、人体実験といった精神的、肉体的打撃は癒しがたい損傷となった。

時に、自分の働いているオフィスの壁が消え去り、アウシュビッツかブッヒェンバルトの荒涼とした眺めに取って代わられる。その細部は異様に強烈で生々しいのである。その思い出は、何度も何度も自分が生き延びたということ自体を思い出させる。しかし、被爆者と同様に、そこには死者のイメージによる圧倒的な支配、自分だけが生き残ったという罪悪感、加害者への敵意身体的障害に対する様々な心的反応があり、同時に通常の行動様式の崩壊が見られることもあるという。

3.心理的閉め出し

死者に対して、生き残った者が、生き残り得たという、いわば優位に立った感覚は罪悪感に変わる場合が多い。我が子に先立たれた親の罪悪感は殊のほか強い。このような罪悪感と死への不安から身を守るための反応として大きな力を持つのは感情の機能停止だった。ヒロシマでの実態調査で明らかになったのは、この反応が急性の場合が「心理的閉め出し」と呼ぶものであり、慢性の場合には「感情麻痺」というべきものになることであった。

心理的閉め出しは、被爆のような異常事態に対して順応するために極めて大きな役割を果たす。何も感じなければ死などないと感じられるのである。死者と一体化しがちな心の働きを弱め、完全な無力感を弱めたりもする。それは、象徴的死と言いうるものかもしれないリフトン博士は考えている。

しかし、生死を巡る象徴体系が完全に崩れて、内部の統合、統一、運動 (活動) に関わるイメージが失われ、人間の心の関係性/連続性と言うべきものが完全に失われる場合がある、強制収容ではムッセルマンと呼ばれる状態があるという。他者と自己を一切断ち切ってしまい、後戻りできない精神的死を示す状態である。環境に全くの支配を許し、死への本能的願望に飲み込まれる。あるユダヤ人は「生死の中間世界をさまよっている呪われた魂」と表現している。精神的麻痺は、有害な刺激を防ごうとするある種の肉体的営みだが、恐ろしい病理学的力に変質し、結局は生体組織のうちに死のイメージを氾濫させるという。原爆症に関わる心理的ダメージとはこのようなものかも知れない。

精神的麻痺が昂じた場合でも人間の認識能力は、保持されうる。失われるのは、認識した事柄や感情を行動に結びつける象徴的統合能力だという。「歩く屍」「生ける屍」「自分の屍の影を踏む者」、被害者たちのこういった言葉に託して語られている事柄は、死の洗礼を受けた当時だけではなく、現在においてもある程度、そう感じられるような自分の姿なのだというのだ。

3.生存者が失ったもの

生存者たちが悼むのは家族と近親者の死である。そして、家や財産、慣れ親しんだ生活様式、自己の信念、そして自分との絆を持つ諸々の象徴である。過去の自分、死への直面とそれとの葛藤がやって来る前の自分を悼み、弔う。彼らが奪われたものは、死のけがれを知らない無垢な状態に他ならない。それは「仲睦まじい家族の懐に抱かれて過ごした牧歌的子供時代」のイメージに繋がるのである。そこでは、死んだ人たちが理想化された状態で存在する。生存者は決してこの失われた黄金の時間を取り戻せないために、死に縛り付けられ、自らの悲しみに縛り付けられるという。

ヒロシマにおいては、生存者は急激で絶対的な転換を強いられたあの最後の瞬間を終生同化することが出来ない。ホロコーストにおいても、十分な弔いを成就し得なかった後に精神障害を起こすケースが多いと言われる。両者において、問題となるのは「死者が行方不明」であるケースだという。彼らは寄る辺ない死者であり、それを弔えない生存者は無意識に罪悪感を持つ。一方で、死の不安や穢れの観念に駆られて家族の死体さえ拒否する生存者もいたという。心の悲しみが解決されなければ、精神的・肉体的な一連の障害を被ることになる。しかし、病気は悲しみそのものによるのではなく、それがゆがめられることによるのだというのである。

4.喪失・別離・終末のイメージ

別離にもいろいろな死の不安が忍び寄る。幼児の死は母親にとって自分への死の脅威となることも多い。長くつらい闘病生活を送る親者にたいして安楽死させてやりたいと思うこともあり得る。医師にとっても患者の死が、以前の自分の喪失体験の記憶を蘇らせることだってあるだろう。

死と喪失と離別とは、人が成年になっても心理的に相当程度相互に置き換えられるという。喪失も別離も、死との遭遇体験を象徴的に蘇らせるのである。精神病の患者の場合、世界に対する関係は根元的に損傷され「精神的死」という感覚が、その損傷した関係投影されて「世界終末」のイメージが現れる。しかし、被爆者の場合、圧倒的な絶滅という事件が外から押し付けられるのである。被爆やホロコーストにおける乱脈な死は、単なる死ではない死であり、その死への不安は恐るべきものだった。あり得ない大量の死、余命のない老人から生まれたばかりの嬰児まで、なんら筋の通る死は無かったのである。この喪失と離別の記憶は、ジョー・オダネルが1945年のナガサキにおける『焼き場に立つ少年』の写真に見事に捉えられている。あの嚙み締めた少年の唇と真っすぐな視線が忘れられない。

このような体験にって、致命的な死の苦しみにさいなまれるだけでなく、永生の可能性を否定的に見てしまうことだってある。キリスト教的な表現であれ、象徴的な言葉であれ、死と復活の究極的な力に対する自己の関係は、重大な危機に曝されるとリフトン博士は述べている。

5.罪悪感との戦い

平和な家庭の長老が天寿を全うし、安らかに迎える死は郷愁をさそう理想的イメージだが、ほとんど神話的なもので、多くは実現されない理想であり、逆説的に大きな力を持つ。そのことによって、生存者の罪悪感が掻き立てられるのである。自分がより長生きしたいという願望と、親の長寿を願う気持ちには矛盾があり、根源的に直接・間接に死と生に関わる矛盾した感情の内に生きているのである。

被爆者の場合、近親者が行方不明の自分を被爆地で探し回ったあげくに自分より早く亡くなったとすると、一生その罪悪感を背負うことになる。20世紀最大の詩人の一人と言われたパウル・ツェランは逃げることを説得できなかった両親を残して家を出たが、両親が強制収容所で亡くなったことを一生後悔し続けていた。

強制収容所においても悲惨だった。誰が今日死ぬかは、ゲームのようなものであり、自分がどの列に立つか、労働に耐えられると思ってもらえるような外見をどうつくろうかは、他者を出し抜いて生き延びることに直接関係していた。それは、「永遠の汚辱」と言うべきものとなって心の底に居つくようになる。例えば、鏡を見る時に「一つの死体がじっとこちらを見返している」といった体験に結びついた。目の象徴的イメージは、はるかな普遍性を持っている。死者からの凝視は、生存者が、同じ人間として「自分の非を責める目の所有者」と一体化していくことにあるという。

死者との一体化について、広島での研究で印象的な事柄があるという。死者が欲したと思われるように、自分も考え、感じ、行動しようとするというのだ。それができなければ、他者の身になりきれない自分を厳しく責め始めるというのである。自分が生き残ったのとは裏腹に死んでいった人々に対してしたこと、あるいはしなかったことに関する罪の意識は死者との一体化を催し、「存在の秩序の傷」というべきものを生み出すというのである。死と生存の問題は、けっして個人的な事柄ではない。死をめぐるイメージは誰が生き残るかという内心の疑惑と結びついているという。

罪悪感の放射

このような罪悪感による一体化は、死者から生存者へ、生存者からそれ以外の日本人へ、日本人から世界の人々へと放射的に広がっていき、自分よりもより苦しみの中心に近い集団への心理的同化を催すという。外国にいると広島から来たというだけで、色々な同情的な言葉をかけられることにもなる。この死者と罪意識の関係は、他者との一体化という人間の心理に対する究極の象徴的連関を考える上で重要な基礎となるという。被爆という圧倒的な暴力がもたらした異常事態によって、無残な死を遂げた人々がいる。そのような犠牲の上に自分たちは生きているという罪悪感は放射現象というべきものを生み、それは正常な一体化という人間相互の絆が一時的にせよ破壊されることによって生じる。それ故に一層重大なものになるとリフトン博士は強調する。

一方で、大量の死者に近ければ近い人ほど、死の洗礼に耐えるための全面的防衛が必要とされ、心を鎖すための精神的活動が要求される。しかし、そこから遠い人々にとって心理的締め出しに対する要求はさほどなく、より容易に被爆やホロコーストの惨状にたいして心を閉ざしてしまえることにもなる。この精神的麻痺状態は同心円状の連続体であって、その周縁にいる人々に対しても死の洗礼に敏感に感応する潜在能力は存在し続けているという。

福島の原発事故で、被害者たちが差別されたことの原因はここにあるのではないかと僕は考えるようになった。被爆という見えない脅威による死の不安は、ヒロシマの死によるこの罪悪感の放射という構造に自分をより接近させる結果となる。それを心理的に閉めだそうとした時、生じたのは自分たちより死の放射に近い人々を締め出そうとする現象となって現出したのではなかったろうか。ここは学ぶに値することだと思える。

精神的麻痺と核兵器

浦上天主堂跡における慰霊祭 1945年11月23日 ナガサキ

現代社会では、死の悲しみからおこる病理的反応が増大しつつあるらしい。有意義な弔いの儀式が存在しなくなりつつあることを指摘する心理学者もいる。死が締め出される所には生命の意義に対する感覚が失われた状態があり、「不完全な生」というべきものになっている可能性もあるのである。

自殺に対する企ては、精神的麻痺を脱して、自己の無力化を克服しようとする絶望的な試みともなり得るという。自ら死の主人となり、それを支配する道でもあり、魔術的に見えるにせよ象徴的に人間の完全な姿と自己の不滅性の感覚を回復したいという企てではないかとリフトン博士は言う。しかし、それは悲惨だ。一方で、統合失調症のような患者の空想や妄想には、自己万能感が現れることがある。万能な人間は不滅だと思うのだ。

リフトン博士は、精神疾患の患者が自己の万能性と不滅性に対する原始的空想に及ぶのは、実人生における諸関係が壊れているために不滅性の象徴が根元的に損傷しているためだと考えている。死の不安は精神的麻痺を引き起こす根本的な原因だが、それを締め出したいと感じるのは、ただ死だけが原因なのではなく、むしろ死が生命の象徴に対して持つ関係のゆえなのだというのである。

精神的麻痺は我々の時代における大きな問題となってかなりな時間が経つ。死一般に対して、とりわけ核兵器による絶滅死に対して世界中の人々が精神的な麻痺に陥っている現在、ヒロシマ、ナガサキの体験に対する死の不安と罪悪感を分かち持つことは、それを打破するために価値のあるものだと理解してほしいリフトン博士は述べている。

犠牲とパラノイア

レストハウスの地下 ヒロシマ平和公園内

死の体験を乗り越えて新たな精神形成を進めていくうえで、愛、保護、調和といった、かつての深い感情を自分の心に蘇らせることが、生存者の意識を支える大きな要素となる。単純で澄み切った幸福を味わった「黄金時代」は必然的に子供時代のものである。「秩序ある世界での遊びから湧き上がる喜び」といったものに関わる感情。それが生存者に最も必要とされているものなのである。

そうした昔の感情を平和都市を構築するとかユダヤ国家を建設するとか有意義な目的に結び付けることが大きな意義を持つことにはなる。それでも、何らかの形で死者からの象徴的なメッセージに由来するものでなくてはならないという。

被害者意識が極端に強くなると、人間というトータルな概念から離れて、全てを被害者と加害者としてだけで意識してしまうような硬化した精神状態になってしまうケースがある。生存者パラノイアと呼ばれる状態である。周囲の敵に攻撃を集中し、投影という心理的なメカニズムを利用して自分が未だに被害を被っているという感情を表現する手段にしてしまうのである。

有罪者を処罰し道徳的秩序を回復する、いわば「正義を収集する」努力の中で、復讐の観念はつねにあり、かつての親衛隊だったアイヒマン裁判は良い例となる。しかし、現代技術の暴力といった原爆の場合、その兵器の性質上、復讐することは事実上不可能なことである。日本が戦争に加担していた以上、誰にも責任は無いという考えに傾いていったことは理解しやすい。

見せかけの保護と伝染への恐怖

見せかけの保護に対する不信感というのは自分を脅かす者への一体化と関係している。保護を強く求める願望と自分のもろさ想起させるものに対する過敏な反応とが絡み合い、自立に対する激しい葛藤が起こる。精神的麻痺が自立を一層難しいものにする場合もある。提供される援助が生存者に自分の弱さを確信させるばかりか、その活力を根本的に奪ってしまうというのだ。日本が原爆でアメリカを攻撃したというデマで瀕死の患者が突然活力を取り戻したという例をある医師は書き残している (蜂谷道彦『ヒロシマ日記』)。力は一般的に死を支配する力であり、攻撃者への一体化は生存者にとって自分を脅かしている力を共有しようという企てであるという。

原爆によって犠牲を強いられたという意識は集団意識となって連帯感を生み出す。それには原爆症が伝染するという誤った認識から生まれる他者の恐怖も原因しているかもしれない。マイノリティにされたという感情はあっただろう。その連帯意識は死をもたらした当の力と隠微な関係を結び、終生一体化してしまう可能性をもたらすという。それは結局、自分の生活がまやかしであるという意識を強め、保護に対して見せかけだとする拒否反応を生み出すことになるというのである。

精神的再形成への道

原爆ドーム 筆者撮影

リフトン博士は、死の体験は誕生時に既に人間に備わっていると考えていて、それが後年の死のイメージの原型ともなるという。「離別と結合」における離別には、幼児の親からの分離不安が大きな要素を占める。そして、この離別には分裂と静止 (停止) が伴っている。これに対して結合、象徴的統一、活動が対極にある。

人間は生命を肯定する根拠が脅かされる度に、生存を強く体験付けられると同時にその体験の内に内外の世界を再構成する必要に迫られる。このような中で死の体験は以前からの死のイメージを活性化し、常に新たな広がりをつけ加える。死の洗礼が持つ感情的な力は、新しさの衝撃と再認の衝撃との結合にあるという。

過酷な体験を可成りな程度まで克服できると、生存者は自分の過去から生命肯定の要素を呼び出すことが出来、「能動的な緊張」とはつらつとした現実感覚」を取り戻すことが出来るようになる。そして、驚くべきことだが、無抵抗な態度が最も有効な力を発揮する場合があると言う。他方で「生存者の使命」と呼ばれる社会的な活動があり、生存者が精神的麻痺に陥ることを助けるというのだ。両者ともに永生の観念を復興することを含めて、広く人間の精神に象徴的統一性を与えるものだというのである。

 

死と人間にとってのシンボリズム


僕が今回、この『ヒロシマを生き抜く』を取り上げたのには二つ理由があった。一つは、最近日本でも頻繁に起こっている大災害に対して、自分が感覚的に鈍いのではないかとずっと思っていたことに対する回答が得られたように感じられたこと。そして、ヒロシマやホロコーストのような極限的な状態から脱出して精神的再形成をする上で象徴が極めて大きな役割を担うことを教えてもらったからである。

最初に述べた「感覚的な鈍さ」が心理的閉め出しと呼ぶものに由来していているというのは、全くその通りなのではないかと思えたのである。多分、それは幼い頃からの傾向ではなかったのか。そういうことを気づかせてもらった。死に対する不安や分離不安は、僕の心のどこかに潜んでいたのだと思う。

もう一つの「死と象徴」の問題は、この本を読んでいた時に、同時にミルチャ・エリアーデの『宗教学概論』について色々考えていたことと恐ろしいほどに共振しはじめたことと関係している。例えば、水や月は死の象徴であり、再始と再生の象徴ともなっている。この象徴は、人間の分断されない全体的意識から直接与えられるものだとエリアーデは言う。それは合理的、論理的操作から生まれるものではなく、知性や魂を含めた人間全体に啓示されるというのだ。それが与えられれば、自分を人間として発見し、宇宙における自分の位置を自覚できるようになる。それは、月や水を客観的に眺めることによって生じるものではなく、神話的寓話化や不合理な宗教経験の産物でもない。

言葉は部分しか示せない、象徴は全てを示せる。しかし、それには概念が必要だと松山俊太郎さんは、述べている。象徴は巨大な扉の鍵穴だが、それを開けるには概念という鍵が必要なのである。

人は、それぞれに様々な象徴を持ちあわせているだろう。人間にとっての原初的な発見というべき象徴が、世界と極めて有機的に結びついているかぎり、同じシンボリズムが精神生活の最も高貴な部分にも意識下の活動にも、共に働くというのだ。人間にとって、この象徴的統一や統合が、その危機にあって如何に重要なものとなるかをリフトン博士もまた教えてくれているのである。これらの統合が、世界の極限的な崩壊と終末のイメージの中に溺れようとする人間に如何に有効に働くものであるかを彼は数多くの被爆者の証言を土台として指し示してくれているのである。

 

引用文献 及び 参考文献

蜂谷道彦『ヒロシマ日記』
広島逓信病院長であった著者が被爆後、56日間の体験を描いた日記。被爆体験の貴重な一つとなっている。

ロバート・ジェイ・リフトン『現代、死にふれて生きる』 死と生との連続性の組織化、心理的形成と象徴を原則とする心理学のパラダイムシフトが示される。

ラン・ツヴァイゲンバーグ『ヒロシマ グローバルな記憶文化の形成』2020年刊     ヒロシマの記憶が、どのように継承されようとし、その歴史的変遷がどのようなものであったかが述べられる。

ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』
宗教学概論2
第四章 月と月の神秘学
第五章 水と水のシンボル
第六章 聖なる石
第七章 大地、女性、豊穣
第八章 植物

ミルチャ・エリアーデ
『イメージとシンボル』

ヨシフ・ベニヤミノビッチ・ブラシンスキー『スキタイ王の黄金遺宝』黄金と盗掘と考古学と

 

紀元前一千年期の初頭には、中央ユーラシアの草原にアラビア半島やアフリカとは異なる遊牧民が、支配的勢力となっていた。広大な土地でありながら彼らの生活形態は驚くほど似ていた。その中で史上最も早く知られるようになったのは、アッシリア人がイシュクヤ、ペルシア人はサカ、古代ギリシア人は、スキュタイと呼んだ集団だった。日本ではスキュタイの複数形スキタイの名で知られている。前回ご紹介した雪嶋宏一さん『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』によれば、彼らは人種、言語、宗教、文化を同じくするいわゆる「民族」ではないという。イラン系の集団が支配層で、支配下に様々な民族を包み込んだ多民族集団であったろう。

雪嶋宏一『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』
2008年刊

前回はこの雪嶋さんの著作からスキタイの歴史を主にご紹介したけれども、今回は、ロシアの考古学者ブラシンスキーの著書『スキタイ王の黄金遺宝』を中心にスキタイの遺跡と遺宝についてご紹介しようと思っている。スキタイの遺跡に関する発掘調査は18世紀後半のロシアから始まり、この国が中心となって行ってきた経緯がある。この宝探しのような発掘からスキタイのおびただしい数の金細工が発見され、ツァーリの遺宝蒐集の基礎となっていった。こうして、スキタイ文化の粋は、エルミタージュに収められたのである。

ロシアの大草原にはクルガンと呼ばれる墳墓がそこここにあると言う。チェーホフは『曠野』の中でこのように書いていた。「一時間、二時間と乗り進む‥‥途中、むっつりと黙した古墳や、誰がいつ据えたとも分からぬ石像が目につき、夜鳥が地面すれすれに音もなく飛びすぎたりする。そして、次第に、曠野生まれの乳母のしてくれた話や、そのほか自分で見たり魂で感じたりしたすべてのことが、記憶によみがえってくる。そんな時には、虫の音や、怪しげな物影、古墳、青い空、月の光、夜鳥の飛翔など、眼にし耳にする全てのものの中に、美の勝利や、若さ、力の横溢、はげしい生の渇望などといったものを、みいだせるような気がしてくるものだ‥‥(原卓也 訳)。」

ヨシフ・ベニヤミノビッチ・ブラシンスキー
『スキタイ王の黄金遺宝』 六興出版 1982年刊

考古学者のブラシンスキーは「歳月を経た物言わぬ衛士のような古墳のある大草原の魅力は、ロシア文学の優れた作家たちに霊感を与えている」と述べている。文学的センスに優れた人のようで、時々ロシアの有数の詩人の作品の一節が紹介されているのが嬉しい。こんな潤いがあるから、ただの考古学の本ではないのである。

本書の中でも言及があるドイツのジャーナリストC.W.ツェーラムの『神・墓・学者』は考古学の読み物として圧倒的に面白いのだけれど、本書には少し似た風味がある。このロシアの考古学者さんのご紹介をしておく。

ヨシフ・ベニヤミノビッチ・ブラシンスキーは1928年にエスト二アのタリンに生まれた。レニングラード大学 (現サンクトペテル大学) の史学部で学んでいる。旧ソビエト連邦科学アカデミー考古学研究所レニングラード支所の研究員だった人だ。長年に亘りクリミア半島のケルチやウクライナのブグ川河口三角州にある古代都市オルビアの発掘調査に携わった。黒海北岸のギリシアの植民都市だ。

1966年から南ドン川地方の考古調査団長として最大級規模のスキタイの集落遺跡の古墳群を発掘している。考古学のエキスパートのようだ。著書に『前6‐前2世紀のアテネと黒海北岸』、『ドン下流地方における輸入ギリシア陶器』などがあるが、本書以外に邦訳はなさそうだ。書名だけ見ているとロシアと古代ギリシアとの関係に興味を持っている人なのだということが分かる。

ヘロドトス 前5世紀のギリシアの歴史家

このスキタイを最初に詳しく調査したのは歴史の父と呼ばれるヘロドトスだった。このことは 前回でもご紹介したが、考古学者たちはその正確さに賛嘆の声をあげた。スキタイ王の葬儀の様子をこのように述べている。

スキタイ王が死ぬとゲッロイ人の国 (ここが何処かはっきり分かっていない) で、方形の穴を掘り、王の遺体は防腐処理されて車に載せられ、支配下の国を巡った。運ばれてきた遺骸を見たものたちは、王族スキタイたちがするように自分の耳の一部を切り取り、頭髪を丸く剃り、両腕に切り傷をつけ、額と鼻を搔きむしり、左手を矢で貫いて哀悼の意を表したと言う。属国を遺体が一巡すると、ゲッロイの地に戻り畳の床のある棺の周囲を木材で囲う木槨 (もっかく) 墓に埋葬する。遺骸の両側に槍を突き立て上に木を渡してさらに柳を編んで作った編みがきかける。墓の空いた場所には妃の一人が殉葬された。生前の色々な所持品と金盃を埋める。それから全員でできるだけ大きな塚になるよう盛り上げた。

一年後には、王に仕えたエピテデオタイト (おそらく王の親衛隊) 50人と優良な馬50頭を絞殺し、人も馬もミイラ化して古墳の周囲に半分にした車輪を二つ立てて固定し、それに馬の遺体をかけ、人を乗せて故王の護衛として50体の騎馬を捧げたと言う。これら不気味な騎馬隊が死後の王を守護することになる。アステカのトウモロコシの神シペ・トテックに捧げる人身供犠は、生贄の皮を剥ぎ、それを祭祀者が着て踊るというものだったが、これも壮絶だ。ヘロドトスより100年後に築かれたチェルトムルイク古墳で馬、銜 (くつわ)、人骨が発見され、この壮絶な殉葬の跡ではないかと推測されている。

ヘロドトスの生きた前5世紀にはいると黒海北岸では森林草原から草原地帯にわたって数千の古墳が作られた。特に前4世紀になると古墳の規模が大きくなり、埋葬施設も巨大で複雑になって、副葬品も豪華になった。そのような古墳がドニエプル川下流域に沢山作られるようになる。雪嶋さんによればスキタイの時代は以下のように分類できる。先スキタイ期の古墳であるアルジャンについては、前回でご紹介したので、今回は省きます。前期スキタイ時代からサルマタイ時代までの遺跡をいくつかに絞ってご紹介する。

先スキタイ期   前8-前7世紀後半
前期スキタイ時代 前7-前6世紀後半
中期スキタイ時代 前6末-前5世紀
後期スキタイ時代 前4-前3世紀
サルマタイ時代  前3-後3世紀

 

スキタイの遺跡 前期スキタイ時代 前7-前6世紀後半


 

スキタイ神話Ⅰとケレルメス古墳 前7世紀中頃

ゼウスとドニエプル川の娘との間にタルギタオスという息子が無人の大地に生まれる。彼にはリポクサイス、アルポクサイセス、コラクサイスという三人の息子があった。その息子たちの時代に天から黄金の器物である、鋤とくびき、戦斧と盃が落ちて来る。上の二人がそれらを持ち帰ろうとすると黄金が燃え始めて近づくことができなかったが、末の息子が近づくと火は消え、それらの器物を持ち帰ることが出来た。それで兄たちは弟に王権を授けるという神話になっている。

スキタイの祖先はゼウスの血統であるとされる。ギリシアでゼウスに相当する神であるとは思うけれど、スキタイ人がそう呼んでいたのかは分からない。騎馬民族には、よくある末子相続だが、火の試練を克服して王となる。比較神話学のデュメジルや吉田敦彦は三種の神器、「犂と軛(くびき)」が農、「闘斧」が戦士、そして「杯」が神官に対応するとした。末子のコラクサイスから派生したとされる4部族は、アウカタイ、カティアロイ、トラスピエス、パララタイに対応し、このパララタイがスキタイの支配氏族となるとする説がある。

黒海北岸のスキタイの主な遺跡

この三種の神器が必ずしもスキタイの本質を正しく表現しているわけではないという学者さんもいる。だが、農耕をするスキタイや商業に励むスキタイがいるのなら、それらをまとめ上げ、王族スキタイの権威を示す神話が必要とされたのかもしれない。

スキタイが西アジアを支配しようとしていた時期である前7世紀中葉のケレルメス古墳群は、1903~04年に宝探しのような調査が、表看板は鉱山技師だが、山師のような D.シュリッツによって行われ、後に1908~10年にかけて N.ヴェセロフスキ―によって再度調査されたが、どっちがどの古墳を調査したのか不明確だった。この1号墳では、スキタイの金製の碗が出土している。外側に菱形紋のある碗と内側に鳥と動物紋のある碗とが接合された二重の金碗だった。それに加えてスキタイ特有の鹿文様のある全長72cmの金装鉄製斧が一緒に出土した初めての例となっている。被葬者は相当の権力・財力を持ったスキタイ戦士たちで、西アジアやイオニアとの国際的な関係を持っていたことが副葬品から分かるという。

 

コストロムスカヤ遺跡 金の蹲る鹿 前7世紀末-前6世紀の前期

蹲る鹿の形をしたプレート クバンのコストロスコイ 前7世紀

北カフカス、コーカサス山脈の麓にあるコストロムスカヤ村近くにある前7世紀末-前6世紀前期スキタイ時代の遺跡からは、現在エルミタージュ美術館にある有名な蹲 (うずくま) る金の鹿のプレートが1897年に出土した。円形の盾を装甲していたと思われる鉄板の上で見つかっている。この独特の脚の曲げ方は、初期スキタイ美術の草食獣の表現に特有なもので長さ31cmとかなり大きなものである。

 

スキタイの遺跡 後期スキタイ時代 前4世紀前半


 

ソローハ古墳 櫛の上の戦士たち 前4世紀初

ソローハの櫛 前4世紀前半

ドニエプル川左岸、二コボリの近くのソローハと呼ばれる高さ18メートルを超える前4世紀はじめの巨大古墳の発掘は、1912年からペテルブルグ大学の N.I.ベゼロフスキーによって開始された。ブルドーザーやスクレーパーのない時代に古墳の盛り土を完全に撤去できる方法はない。従って古墳の中心部にトレンチ (試掘溝) の帯を掘るが、両側の壁が垂直では地崩れが起きるので傾斜をつけなければならない。そのためトレンチが深くなればなるほど、その幅は狭くなっていく。これが「行き止まりトレンチ法」と呼ばれる掘削だった。

二度目の調査で10メートル以上もある地下羨道が深い竪穴もしくは階段付きの井戸のような穴から伸びているのが発見される。ここに王が埋葬されていて、多くの副葬品がそのまま手つかずの状態で発見された。王の枕元には青銅の冑、殉死した従僕、動物の骨の入った大きな銅釜、酒甕のアンフォラ、王の持ち馬と馬丁が埋葬されていたが、数々の副葬品の中でも注目されたのは、王の頭近くに置かれたずっしりとした櫛だった。

重さ294グラム、高さ12.3cm、幅10.2cm、12本の歯が寝獅子のフリーズで繋がっている。その上には戦う三人の戦士の素晴らしい姿がある。典型的なスキタイの姿として長い頭髪と髭、カフタンの上着に長ズボンのいでたちで、騎馬の戦士はギリシアの冑を被り、脛当てに槍を持つ。左手の徒の戦士は短いスキタイのアキナケス剣を持っている。

このソローハもチェルトムルィクも近い距離にあり、一連の巨大古墳のある地域でもある。ヘロドトスの言うゲロイ人の国とは、ここら辺りではないかとブラシンスキーは想像しているようだ。もし、そうなら19世紀に考古学者が探し求めていたスキタイ王の墓地とは、ここなのかもしれないのである。

 

トルスタヤ・モギーラ 王室の家族墓  前4世紀前半から中葉

ボリス・モゾレフスキーは運試しに鉱山町オルジョニキーゼの近くにある地元民からトルスタヤ・モギーラと呼ばれた高さ9メートルの巨大な古墳を掘ってみた。凍てつく風が容赦なく吹き付ける中、二か所の試掘は無駄骨だった。へとへとだったがもう一つ掘ってみた。すると、突如7メートルの竪坑から粘土が出現した。これがスキタイの古墳であることの証だった。

春の雪解けで道路がぬかるんでいる間、使われないブルドーザーとスクレーパーを借りて1万5千立方メートルの土を取り除かなければならなかった。彼は、こう述べている。「まもなく、軍隊から除隊して来たばかりのサーシャ・ザグレベルヌイが私の仕事を手伝ってくれた。私は彼と共に夜中の12時ごろに、寒さで感覚を失い、土木機械の騒音で聾になり、埃にまみれて宿にもどり、顔も洗わずに死んだように寝床にころがって、翌朝また永遠との決闘を続けるのだった (穴沢咊光 訳)。

この古墳はチェルトムルイクやソローハのものよりも小さいが、ソビエトの考古学者が発掘したものの中では最大の古墳だった。つまり、ちゃんと調査された古墳だったと言うことである。地下式横穴に中央墓と側室墓の深い玄室が二つあり、古墳を巡る深い周湟 (ほり) には、馬、豚、大鹿などの大量な骨や何十という酒甕であるアンフォラが発見された。推定で13トンの肉、3000人が食べられるほどの量だったという。おそらく、何度かに亘って葬宴が開かれていたのだろう。側室には若い王妃が黄金の宝飾品に輝いて埋葬されたままの姿で発見された。その横に彼女より先に亡くなったと見られる2歳くらいの男の子の遺体が埋葬されている。

王の墓室は盗掘されていたが、幸いに重要な遺物がいくらか残されていた。世界的に有名になった王の胸飾り (ぺクトラル) である。重さ1150グラム、直径30.6cmの三段構成になっていて、上段は族長たちが平和な牧歌的な雰囲気の中で詳細に造形され、中段は植物紋、下段はグリフィン、獅子、豹、猪などの動物闘争図となっていて、最後はコオロギがいる。筆者のブラシンスキーが強調するのは、この作品が前4世紀前半から半ばにかけての黒海北岸におけるギリシアの名工による比類ない傑作であることだ。

 

盗掘とは何か


 

古墳の大半は既に盗掘されていた。なにしろ王陵荒らしは、古代では普通のことだったらしい。葬儀の参列者が大泥棒の頭目であることも珍しくなかったと言う。彼らは、墓の何処に何があるかを熟知していた。そのため墓荒らしを防ぐための工夫も考えられるようになる。墓泥棒を混乱させるためのあらゆる努力がなされてきたというのだ。

ラムセス4世の墓 王家の谷  エジプト

「王陵 (家) の谷」はナイル河の西岸にあり、有名なカルナックとルクソールの対岸にある。英国の考古学者ハワード・カーターは『王陵の谷』の中で、夜盗の様子をこう述べている。「幾日も前の計画、崖の上での会合、墓地護衛官の買収または麻薬投与、闇の中での死に物狂いの穴掘り、小さな穴を通って埋葬室に向かう腹ばいの前進、ほの暗い灯火によって運搬可能の宝物を狂ったように探す作業、戦利品をかついでの暁の帰宅 (酒井伝六・熊田亨 訳)。」それら一連の行動を触発する黄金が、彼らにとっていかに大きな誘惑であったろう。王の威厳のために必須と考えられ、ミイラに添えておく高価な道具一式の夢のような富が、そこに到達できれば、いかなる者にも、与えられる状態で横たわっている。「したがって、墓盗人が早晩勝ちを収める運命にある(同上)」という。

ブラシンスキーは、エジプトとスキタイでは、数百年の隔たりがあったにもかかわらず、このような出来事がナイルの谷で起こり、スキタイの草原でも起きたのだと言う。そのようなわけでスキタイの古墳にも盗掘防止の策は練られていた。メリトポリの墳丘の中心部には全層にわたって40キロ離れたアゾフ海の海藻と4キロ離れたマロチノイの河口から運ばれた泥煉瓦が交互に敷き詰められ、厚さ数メートルの防護壁が造られた。ぎっしりと詰まれた泥煉瓦の間の海藻によって極めて圧縮された土壌は掘削するのにかなり困難なものになる。地下墓室への竪穴は深さ12メートルにもなり、石や石板で埋められ、その下の竪坑の底には玄室に通じる狭い裂け目しかない。

それでも盗掘者たちの情熱は、これらの障害をも見事に乗り越えていた。しかし、埋葬に携わった者も然 () る者だった。玄室の底に隠し穴があり、後述の黄金上張りのゴリュトスが隠されていたのだ。チェルトムルィク古墳で出土したものと同じアキレウスの生涯を表現したものだったのである。英雄崇拝の証が、周到に隠されていた。

 

大スキタイの遺跡 後期スキタイ時代 前4-前3世紀 


 

ヘロドトスは、スキタイの地について彼らの土地には町も城もないと二度言い切っている。事実、紀元前5世紀の町も城も一つも見つかっていないとブラシンスキーは言う。ヘロドトス以降の時代、特に前4世紀には状況は、がらりと変わる。後期スキタイ時代になっていくと、大草原には大きく強固な防衛都市がつくられるようになりスキタイ王の駐屯する町ができるのである。この頃には、原始社会は崩壊の途上で、階級社会が奴隷制とともに出現し、スキタイ王国の最盛期となっている。

 

チェルトムルィク古墳 黄金のゴリュトス 前4世紀後半

ボスポロス王国 紀元前2世紀頃の最大領域とポントス王国 (前281‐前64)

後述するクリ・オバの黄金の輝きはペテルブルクの宮廷を魅惑した。ゴールドラッシュの始まりだった。この地は一時期ボスポロス王国 (前438年 – 後376年) の領土でギリシアの植民地であったから、その中にはギリシアの遺宝が多く含まれていた。

このギリシアの文化圏に近い地域に対して、スキタイ王の墓地は王族スキタイが遊牧していた黒海北岸の果てしない大草原にあった。

ニコポリから20キロの所に住民たちがトルスタヤ・モギーラと呼ぶ多くの伝説に彩られた前4世紀の巨大古墳があった。そこから10キロほどの所に前4世紀後半のチェルトムルィク古墳がある。高さ20メートルの円塚は石灰石の石塊が積まれ、頂上の急斜面には、かなりの高さの石人が立っていた。ロシア国庫の資金は惜しまず調査につぎ込まれた。盗掘されていたが盗掘坑が崩れて盗掘者が圧死していたために多くの遺物が残されていたのである。盗掘も命がけだった。

テティスとぺレウス 前5世紀 エトルリア出土

その中で最も有名なものが黄金上張りの弓矢を収めるゴリュトスで、薄い黄金の浮彫板が数段に打ち出されている。上段は獅子、牡牛、豹などの動物闘争紋、中二段には、海の女神テティスと高慢なぺレウスとの間に生まれた英雄アキレウスの生涯が表現されている。その中上段には、左上の幼いアキレウスが弓を習う場面から始まる。そして、オデュッセウスとの場面へと展開する。

トロイアとの戦争でギリシア側は極めて旗色が悪かった。何としても英雄の出現が待ち望まれていた。そこで、狡猾なオデュッセウスが、母神テティスによってスキロス島のリコメデス王の娘たちの間に女装して匿われていたアキレウスを見つけ出すために差し向けられる。オデュッセウスは婦人の装身具を売る商人に化けて王宮に入り、装身具の横に武器を置いて、突然、鬨 (とき) の声をあげさせる。アキレウスは咄嗟 (とっさ) に武器を手にしてしまうのである。

中下段はトロイア攻めの総大将アガメムノンとアキレウスとの和解の場面である。右隅には亡くなったアキレウスの骨壺を抱いてうな垂れるテティスがいる。そして、最下段は植物紋となっている。ブラシンスキーは、このゴリュトスを制作したのはスキタイの上流社会の注文に応じて働いていた優れたギリシアの工人であり、アキレウス崇拝が黒海北岸から西部にかけて広まり、それがスキタイに浸透した結果とみている。スキタイは、ローマのように文化的にはギリシアに制圧されていたのかもしれない。このゴリュトスと同一のコピーが、離れた他の場所でも三点発見されている。青銅の型に薄い金の板をのせて打ち出し、裏面は石膏に膠のようなものを混ぜたパテで補強されているものだ。

 

クリ=オバ古墳 黄金の杯・王権伝説か王の叙事詩か  前4世紀後半

事は住宅問題から始まった。クリミア半島の東にあるケルチは黒海の玄関として重要な位置を占めるようになっていた。クリ=オバはタタール語で「灰の丘」を意味する。石材を容易く手に入れられる便利な場所だった。エカチェリーナ2世がクリミア・ハン国を併合した約50年後、1830年にロシア皇帝の屯田軍司令部が退役水兵の家族をここケルチに移住させるためにできるだけ安くアパートを造らなければならなかった。それで、この丘から建築用の石を調達しようとした。そこに派遣された視察員デュブリュクスは長年古墳に携わってきたエキスパートで、それが古墳であることに気が付いた。

ここは、前4世紀後半の大スキタイが繁栄した時期の墳墓だったのである。以後、ロシア政府が南ロシアの地をエルミタージュ博物館のスキタイ収蔵品の源泉と考えるようになり、ロシア考古学の画期となった。とりわけ注目すべき出土品は、エレクトラム (金・銀合金) 製のアリュバッロス (巾着) 型杯で、ヘロドトスによって書かれたスキタイの建国神話の一つが表現されているのではと推測した学者もいた。こんな話だ。

スキタイ神話Ⅱ

英雄ヘラクレスは、ヘラに狂気を吹き込まれて我が子を殺し、その罪の浄化のために12の苦行を成し遂げる。そのうちの一つにゲリュオネウスという三頭三身の怪物を倒してその牛を奪うという話がある。いわゆるギリシア神話の異譚となっている。その帰り路、やがてスキタイの国となるべき地を通りかかる。頃は、冬の酷寒の時期でトレードマークのライオンの皮を引被って眠った。しかし、目が覚めると自分の馬がいない。ヒュライアという土地にやって来ると洞窟の中に上半身が乙女、下半身が蛇というエキドナ (蛇女) に出会った。この蛇女は中国の女媧やインドのナーガラジャ妃といった例もあり、わりとポピュラーな存在である。

馬は自分が隠している。返してほしいのなら自分と同棲せよと言う。ヘラクレスは同棲を強要された。蛇女は馬を返すのを渋った挙句、返す段になって、馬を匿った返礼はあなたからもらった。三人の息子を授かったという。この子たちが成人した時、この地に住まわせるか、あなたの元に送った方がいいのかと聞いた。ヘラクレスは、この弓に弦をこのように張ることのできる、そして、このように尖端に金盃のついた帯を締めることが出来る者をこの地に住まわせ、他はこの地から追放せよと答えた。

成人した長子アガテュルソスと次子ゲロノスは弓を引き、帯を締めることは出来なかった。末子スキュテスはこの試練を成し遂げ王権を授与された。この場面が造形されているのではと考えられているのが王妃の足元から発見されたアリュバッロス型杯で、四つの場面の内、三場面は一対の人物、もう一つは一人だけ登場する。

その場面は、スキタイの戦争での様子であるとか、歯の治療を伴う王の生涯を描いた場面だとかの説があった。しかし、ソビエト・スキタイ学の権威 B.グラーコフたちは、伝説的叙事詩を表現したものだという説を主張した。D.ラエフスキーは、ヘラクレイトスも含めた蛇女伝説が表現されているとしたが、ヘラクレイトスの姿がギリシア神話に則っていないという欠点があった。どの説が正しいかは別にしてこの杯がルキアノスなどのギリシアの著作家が書き残しているスキタイの風俗が実際のスキタイの様子と極めて近いことが明らかになった。同じ意匠がボロネジやチェルトムルィクで発見された壺にも見られると言う。

かつての遺跡の発掘には珍しいことではないのかもしれないが。調査から三日たった夜に夜警が持ち場を離れてしまい、盗掘者によって墓は荒らされた。盗品故買屋から取り戻せたのは僅かな品だけだったという。

クリ・オバ出土のアリュバッロス杯の文様

 

 

サルマタイ時代の遺跡 前3-後3世紀


 

ネアポリス 最後の首都 前2世紀から後3世紀

スキタイ第三国家、すなわち、小スキタイの存在が知られるのは、前2世紀の後半頃で、黒海北岸のクリミア半島といった狭い領地に根拠地を置いてギリシアの植民地と交流していた。クリミア半島には多数の城塞集落がつくられるようになる。それらは、スキタイのこの半島への移住の過程が反映している。ボスポロス王国との戦争の過程で造られたものものあるが、草原との境にできた城塞はサルマタイとの確執の跡である。

その中の代表的な高城がシンフェローポリ近郊の遺跡ネアポリス (前2世紀から後3世紀) だった。ここは、雪嶋さんの著作からご紹介する。第三スキタイ国家の存在を明らかにする前170年頃~後3世紀に亘る遺跡だった。ギリシア語の新しい町を意味する。縮小したとはいえ、スキタイ王国の新首都だった。スキタイ王スキルロスの都市と考えられている。

第二次大戦終結後には高名な P.シュリッツの指揮によって王宮や墓廟を含めた石造城塞、墓地、公共施設などが発掘された。王宮はギリシア宮殿風のメガロン型の建築となっている。2本の柱の立つポーチ奥に、長方形の中央ホールがあり、中央付近の4本の柱に囲まれた炉床からなる。ニッチの壁にはフレスコで彩色された神像が置かれていた。スキタイのギリシア化が進んでいることが分かる。そして、周囲の城壁は南側500メートル、西側500~700メートル、東側700メートル、全長1800メートルある。前2世紀から後3世紀の文化層を持つ遺跡であった。

ネアポリス王宮跡  左下にメガロン建築跡が見える

王墓は紀元前2世紀のもので、スキタイ国家の衰退に比例して副葬遺品も豪華とは言えないものとなっていた。それでも800点以上の金製品が発見されている。男性の被葬者は金糸で覆われた短い上着とズボンをはき、頭には後期ヘレニズム時代の3個の金製飾板で装飾された半球形の被り物を身に着けていた。短剣、鉄製の鏃セット、投げ槍の穂先、足の近くにはギリシア製鉄兜、鉄製の長剣、腰のあたりにギリシアで使われるような衣装止めのブローチであるフィブラ、手には青銅製の腕輪、指輪があった。男性の他に女性の遺体と7層に積み上げられた37の棺があった。他に従者らの棺のない遺体もあり全部で72体が確認されている。殉葬の風は相変わらずだった。これがスキタイの末期を代表する遺跡である。

左 ネアポリスのスキタイ王宮の霊廟  右 内部     シンフェノーポリ

スキタイの墓と信仰


 

話は、かなり遡る。ヘロドトスは、ペルシアがさんざんにスキタイに翻弄された様子とその狡猾さをこの様に興味深く記録している。前513年頃、70万の大軍と600隻の軍艦を率いボスポラス海峡を渡ったダレイオス1世のアケメネス朝ペルシア軍はトラキアに入った。トラキアは戦わずして降伏、イストロス (ドナウ) 川の手前で現在のルーマニアあたりに住んでいたトラキア系民族のゲタイの反抗に会うも鎮圧、そして、イオニア軍に作らせた船橋を渡ってスキタイ領内に侵攻した。この時、サウロマタイを含めた諸民族の王たちはスキタイに与して戦うかどうか評議した。結果、サウロマタイを含めた三つの国の王たちは戦い、五つの国の王たちは不戦を表明した。連盟が二つに割れた以上ペルシア軍と正面からの対戦は不利だと時のスキタイ王は考えたようだ。

そのため二隊に分かれて、ペルシア軍の一日の行程分第に撤退しながら同盟を拒否した国々に向かって進んだ。進路の井戸を埋め、草を取り去っていった。いかに不戦だと言っても自国の領内に入れば戦わざるを得ないというわけだ。もともと定住していない遊牧民のスキタイであれば、妻子と寝起きしている車と当座必要な食料以外を先に送り出してしまえばよかったのだ。ナポレオン率いるフランス軍の侵攻に対してモスクワを焼き払って撤退したロシア軍さながらだった。ペルシア軍は絶えず撤退してゆくスキタイの跡をひたすら追った。

ダレイオス1世(前522-前486)の墓

スキタイ軍は不戦を表明したかつての同盟国へ、ペルシア軍を引き入れては撹乱し、撤退することを繰り返した。あきれたのか、うんざりしたのか、ダレイオス1世はスキタイ王に、わが軍に対抗する自信があるなら戦い、自信がないなら降伏しては如何と書簡を送った。スキタイ王イダンテュルソスは我々は、逃げているつもりはない。いつものようにしているだけだ。わが国には我々が守らなくてはならないような町や果樹園もない。もし、われわれの祖先の墓を破壊したならその時は、墓のために戦うか否かが分かると答えた。

そして、自分が主君と仰ぐのは我等が祖のゼウスとスキティア (スキタイ) の女王ヘスティア (竈の神) だけだ。そなたは我々の主君であると言った。その返礼に、吠え面かくなと言っておこうと付け加えたのである。

これは、ちょっと面白いと思った。彼らにとって最も重要なものが先祖の墓なのである。彼らノマドにとって墓は最も重要な、数少ないトポスだった。一方で、彼らの神話は、民族的なオリジナリティーをほとんど感じさせない。これほど多くの殉死者、馬を中心とした膨大な犠牲、そして異様なほどの葬宴の跡。これらのことを考えれば、文化的な洗練は、そうはあり得ないと思われるのだが、その副葬品にある装飾のセンスには並外れたものがある。たとえ、それらがギリシアの工人によるものであろうと、それを選び、注文するのは彼らであったからである。動物紋といった他に見られない優れた意匠さえ作り出しているのだ。いよいよもって不思議なエトノス集合体なのである。ちなみにペルシア側の墓の画像も掲載しておいた。

この後、スキタイ軍はペルシア軍が食料を確保しようと出向いてくる度に彼らを攻撃し追い返すのである。結局、ダレイオス1世は撤退を決断し、忠実なイオニア軍のお陰でイストロス (ドナウ) 川の船橋を渡ってペルシアに引き返せた。この撤退の決断の前にスキタイからダレイオス1世に贈り物として「鳥、鼠、カエル、そして五本の矢」が贈られた。使者は知恵があるならこの意味を解いてごらんぜよと言って帰ってしまった。さて、みなさんはこの意味をどのようにお考えになるだろうか。答えは『歴史』の中にある。

ナクシェ・ロスタム アケメネス朝ペルシアの墓標 四つの内の一つがダレイオス1世の墓 
ペルセポリス イラン

 

 

 

付 イシク墳墓のスキタイ王子(女)の全身甲冑

サカ (スキタイ) 王の金の全身甲冑
イシク墳墓 カザフスタン

イシク遺跡は、カザフスタン南東部、キルギリスの北東、中国にも近い。バルハシ湖の南、アルマトゥイに近いイシク付近にある墳墓で、高さ6メートル、周囲60メートルの大きさがある。前4世紀から前3世紀あたりの遺跡で、遺骨、戦士の装備、4000を超える金の装飾品、種々の副葬品が出土している。

画像は18歳くらいのサカ (スキタイ) の王子か王女のものと考えられているパレード用の黄金の全身甲冑で、カザフスタンを代表する歴史的出土品となっていて、その持ち主は埋葬品の多さから「黄金の男(女)」と呼ばれているという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

ヘロドトス『歴史』中

C.W.ツェーラム『神・墓・学者』上
トロイ、ミケーネ、エジプトなどに関する発掘とその逸話が縦横無尽に語られる。

C.W.ツェーラム『神・墓・学者』下
ペルシア、アッシリア、バビロニア、アステカなどの考古の歴史が語られる。考古学のロマン香る名文。

C.W.ツェーラム『狭い谷 黒い山』 ヒッタイトの遺跡発掘などに関わる著書。