『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモという名の民衆オペラ

 

能の舞を見ていると、それが舞楽から来ているとは思えない。舞楽は、ゆっくりと軽く床を踏むことはある。しかし、能には勿論旋回はあるけれど、インドやジャワの舞踊のように腰を落として床=大地を踏み、その踏み方はとても力強い。コザックのような足の踏み鳴らし方とは異なる。北半球で言えば、南は踏、北は舞と言う人もいる。前者は農耕社会、後者は牧畜社会と関連していると言えるのかもしれない。朝鮮の巫覡の舞を見ていると速く回転する際の動きは、ちょっと日本の神楽を思わせるようなところもある。チベットの踊りも、そんな感じの所はあるのだが、旋回は多い。それはスーフィーのように滑らかに長い時間は連続しない。まさに呼吸のように大らかに、時に速く続く舞なのである。狩人の歌と舞を1分だけ見ていただく。

チベットの演劇は、大きく分けて二つある。一つは寺院で演じられる仮面舞踏チャム。これは、宗教行事であり、前回のロルフ・スタン『チベットの文化』 風の馬は虹を駆けるでご紹介しておいた。そして、もう一つの演劇は、民衆のこの上ない娯楽であったアチェ・ラモである。これは、チベットの神楽というべきものであるかもしれないが、朗々とした歌が中心となっていて、チベットオペラとも言われる点で、神楽とは異なる。

『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモ三話 三宅伸一郎、石山奈津子 訳

アチェは「姉」であり、ラモは「女神」を意味する。舞い踊る女優の美しさを言祝いだネーミングだったようだ。野外の平らな場所に大抵は円形の舞台が設えられる。観客は、その周りを取り囲み、観衆が増えれば人々は前へ前へと座り始め、舞台は段々狭くなっていくらしい。そこで、人々は、飲みながら食べながら、語らいながら、時には居眠りしながら歌に聞きほれ、笑い、涙し、労働の心の汗を洗い流したのである。

演目は現在八つが伝わっていて、そのうち六つはインドを舞台としたジャータカなどの仏教説話であり、残りの二つはアジア各地に伝わる伝説であると言う。その中にチベット的な要素、観音信仰やアニミズム的要素、チベットの地名などをふんだんに織り込んでいる。この辺りは日本のように他国の文化を摂取し、上手に改変しているのである。

今回は、このチベットの仮面舞踏劇アッチェ・ラモを扱った著書『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』を中心にご紹介する。とても貴重な本だと思う。この歌舞劇の創始者がタントン・ギェルボというチベット仏教の聖人であると言われている関係で、さわりだけだが、チベットの宗派をご紹介したいと思っているが、ただ、その宗教上の中核をなすタントラについては、未だ未消化でもあり今は語れない。もうすこし勉強してからまたの機会があればご紹介しようと思う。ということで、チベット仏教に関しては、デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソンの共著である『チベット文化史』からご紹介したい。これも、なかなか優れた著書です。

 

舞台はどのように展開されるのか


 

このアチェ・ラモという劇は、「序章」ドン、「その日の演目」シュン、「吉祥を意味するフィナーレ」タシーという順に展開される三部構成になっている。三宅伸一郎さんの「解説」からご紹介する。

アチェ・ラモの役者たち 左から狩人、翁、狩人、女神 1932

序章ドンは舞台浄化の意味で7人の狩人 (ゴンパ)、二人の翁 (ギャル)、7人の女神 (ラモ) が登場する。かつては、女優がいない時代があったらしく、かわりに少年が女優役を演じたこともあるという。台詞以上にナムタルと呼ばれる歌唱が重要で、これがチベットオペラと呼ばれる所以でもある。まず、狩人が以下のような祝言を歌唱し、パクチェンと呼ばれるダイナミックな跳躍を披露して舞台浄化が終わる。

シェルトン村の裏山に生えている
ああ、神聖なる松柏。
香しきその香りは
天の神の国に満ちている (三宅伸一郎 訳)

次いで、黄褐色の大きな帽子をかぶった翁が歌唱する。アチェ・ラモの創始者タントン・ギェルボに礼拝の歌唱と踊りを捧げるのだ。

幸せな今日の良き日は
歌と踊りに最適なので
音楽の供養を捧げます。(同上)

最後に五智宝冠を被った女神が、以下の歌唱と踊りを披露して終わる。これら序章が、ほぼ1時間の間に行われ、役者は、役柄を交代しない限りそのまま舞台にとどまっているという。

エマ・マニ・ペメ・フム
(繰り返し) エマ・マニ・ペメ・フム
むこうの山をごらんなさい。
雲が右向きに渦巻いている
偉大な瞑想者が山に住んでいらっしゃる
吉兆をごらんなさい (同上/エマ・マニ・ペメ・フムは観音菩薩への真言)

こうして、演目が始まるのだが、一つの演目が7~8時間かかると言われる長大な劇だ。多くの場合、座長が人物の紹介や粗筋を語るシュンシェーパと呼ばれるナレーター役を早口で務める。少しでも劇を短くするためらしい。長時間なので、観衆を飽きさせないために、途中で演目毎に決まったコントが入る。場面転換は、役者が舞台を一周することで行われ、歌唱を入れるだけで済ませる場合もあるという。この辺りは何となく能と似てなくもない。能は、一つの演目が約1時間くらいかかるが、かつては一日に何番もの演目を上演したし、その間に狂言が入り、場面転換もシテやワキが舞台を廻って済ますことがある。

最後の吉祥・タシーは、ハッピーエンドの意味で、インドのサンスクリット劇と同じだと筆者の三宅さんは書いている。必ずしもハッピーエンドで終わらない能だが、一日の終りに謡われる能の「祝言」に相当するものだと言う。

演目もどのようなものか気になる所だが、その一つ『成就者ペマ・オンバル パドマサンヴァの生まれ変わりの冒険』を4つのパートに分けて織り込みながら先を続けよう。

成就者ペマ・オンバル 1.

インドのナカムニ国は悪魔マダルムタの化身ロクペー・チョージン王が支配していた。菩薩の化身である商人頭のノルサンは、その国で商売を繁盛させ、王国の富を増大させた。ノルサンに王国を乗っ取られるのではないかと不安を覚えた王は.彼に向かって、妻の命が惜しければ、ナーガの支配する国の女王が持つ如意宝珠を7日の間に取って来るように命じた。途中ノルサンと供の者を乗せた船はナーガによって破壊され、人食い魔女の島に流れ着いた。鉄の城の中では捕らえられた男たちが食べられている。馬の王にノルサンらは助けられるが、途中振り返った供の者らは魔女に喰われ、ノルサンだけは兜卒天に逃れた。王の思惑通り、ノルサンはナカムニ国に戻れなくなるのである。

 

チベット仏教の四大宗派


仮面と衣装の細部がよく分かる映像。約2分30秒

 

デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソン 『チベット文化史』

ソンツェン・ガムポが7世紀の前半にチベットを統一し、吐蕃 (とばん) 王国が打ち立てられ、ほぼ200年にわたって中央アジアに広がる広大な土地を支配したが、9世紀の後半には唐による攻撃と内部分裂によって滅んだ。中央チベットでは、この吐蕃王家の子孫たちが、あちこちで小豪族として生き続ける。一方、ココノールの南から進出したチベット族が同じく王の末裔を迎えて青唐王国を樹立する。中国との国境地帯にはチベット系のタングート族が西夏王国 (1032-1227) を打ち立てた。そして、西に逃れた吐蕃の末裔は、ネパールの北西、北インドに接する地域の谷間にマルユル、グゲ、プランといった小王国を築く。王国の崩壊にも関わらずチベットは、それなりに独立を保っていた。

チベット仏教の発展の歴史は、込み入っている。それはインド、ネパールからかなり抵抗なく全てを受け入れた点と、それらの教えがインドの正統的・非正統的な宗教思想及び哲学思想の数百年分の積み重ねであるからのようだ。正統的な傾向とは規則正しい出家生活に基づく保守的な教義で、非正統的な傾向とは在俗でもあるヨーギたちの体験重視の個人主義的な教義であったと思われる。

8世紀末におそらく王室の招きでチベットを訪れたパドマサンヴァは、蓮華から生まれ出て古代スワートの王室で育ったとされるが、実在の人であったようだ。古派、つまりニンマ派は、このパドマサンヴァを開祖とする。実在の人物とされながら、一方で、密教の主要尊格となり、聖なる化身、密教儀礼での中心的役割を担う存在ともなった。

パドマサンバヴァ 18世紀 チベット
金銅合金、真珠、ターコイズ、彩色

11世紀初頭、東チベットでは、インド人学者スムリティによって新たなタントラの翻訳がなされ、「新タントラ」として旧タントラとは区別されることになる。西チベットでは、翻訳官リンチェン・サンポ (958-1055) によって、その指導のもと多数の顕教の聖典とタントラが注釈とともにサンスクリットから翻訳された。この11世紀、チベットの宗教発展を後押ししたインドの最も偉大な教師にアティーシャ (982-1054) がいる。彼は西チベットの仏教王からの招聘に答えて1042年にグゲに到着した。時に60歳だった。彼に対する信頼とその名声はチベット社会全般を仏教が支配する礎をもたらしたと言われる。彼は、僧団の戒律の復興の必要性と弟子の師に対する完全な服従と帰依を要請した。戒律の復興は、タントラの粗野勝手な解釈に対する歯止めであったろうし、弟子の全人的帰依は、僧侶とヨーギの実践を一つにまとめる助力となった。もう一つ、重要なことは、彼が五仏の中尊を大日如来などではなく、観音に置き換えたことである。このアティーシャの法統からカーダム派が生まれる。

中央チベットからインドのナーランダー、ヴィクラマシーラ、ブッダガヤといった大仏教センターを訪れた人々の中にドクミ (993-1074) とマルパ (1012-1097) がいた。後にサキャ派の源流となるドクミは、ヴィクラマシーラで8年もの間大呪術師シャンティ―パの指導を受け『ヘヴァジュラ・タントラ』を伝授され、それが、この派の根本経典となった。

チベットの地図

チベット仏教は全体にタントリックになっていく。インド仏教最後の時期である10~12世紀に、そこで手に入った教えの中でチベット人の心を捉えたのは神秘的、呪術的なもの、恐怖に満ちた荘厳であった。秘蹟重視の儀礼的、実践的な傾向となり、様式化された象徴的名号と印契を持つ諸仏と眷属が神聖な図形の中で密接に結びついた構成単位となる。最終的な真理は一つの神秘となり、果てしない輪廻を繰り返して、全てを解決する知恵と全てを救う慈悲とを得ようと努力する初期の大乗の信徒たちの描いた真理からは、乖離し始めた。適切な師を得、カルマが満ちれば即身成仏が可能とされるのである。

カギュ派の開祖マルパは、最初ドクミに学んだが法外な教授料を敬遠してインドの大呪術師ナーローパに16年もの間師事した。マルパは妻帯して表向きは普通の家長として生活し、彼から灌頂を受けた者のみがサークルの一員となれた。その衣鉢を継いだミラレパがマルパのもとを訪れた時、畑を耕していたという。ミラレパは、チベットのヨーギの中でも名高く、その歌は『ミラレパ十万歌』として知られている。ミラレパの法統はガムポパ (1079-1153) に受け継がれた。

ツォンカパ(1357-1419)17世紀 青銅に金メッキ

1207年、独立を保っていたチベットに突如チンギス・ハーンの使者がやって来る。統一国家の体を為していなかったチベットは、この時、全く抵抗せず服属を受け入れたため、悲惨な虐殺を免れることになるが、この時からチベットと大君主との関係は、政治的な保護の見返りとして宗教的指導を行うという異常な関係に発展し、20世紀まで尾を引くと言われる。チベットと東方の隣国との政治的関係の主要なパターンとなるのである。モンゴルが中国を支配した元の時代にフビライは重要な施主であった。しかし、宗教界では、帝師の地位を巡ってサキャ派と他派との血みどろの争いの時代であったと言う。元が滅亡した後、チベットはチャンチュプ・ギェルツェンが王権を復興することになるが、復古の流れは長く続かなかった。この頃には、翻訳の時代は終わりを告げ、大蔵経の編纂の時代になっていた。

14世紀末までには、仏教はチベット世界全体に浸透し、チベット人の生活の指針となっている。そして、このチベットの複雑な宗教界をもっと複雑にした大立者がツォンカパである。サキャ派のレンダウとカーダム派のウマパから教えを受けた。46歳の時カーダム派のラデン大僧院でアティーシャのヴジョンを得て、彼の神学大全とも言うべき菩提道次第広論/ラムリムチェンモ』を釈説し始める。このツォンカパがゲルク派の開祖となるのである。このニンマ(古)派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派がチベットの四大宗派となった。以上駆け足でした。

成就者ペマ・オンバル 2.

ダーキニー Dakini Vasya-Vajravarahi
15世紀 チベット 銅合金に金メッキ

銅褐色をした壮麗な山に住むグル・ウギェン (パドマサンヴァ) はノルサンの妻、ラセ・ダムセに憐れみを抱き、その胎内に降下する。生まれたペマ・オンバルは、父親のことを知らされずに成長するが、ある日、自分が紡いだ光輝く糸を契機に父のことを知る。だが、またもや王位を幼いペマ・オンバルに奪われるのではないかと不安になったロクペー・チョージン王は、ナーガの国の如意宝珠を手に入れるように命令するのである。

苦悩に押しつぶされそうになる母親だったが、ダーキニーの夢告によって神降搭に参詣する。東から白色、南からは黄色、西からは赤色、北からは緑色、中央からは青色の光が射してくるとダーキニー五部衆が現れ、母に救いの真言を授けた。あわやという危機にこの真言を唱え、オンバルは無事、如意宝珠を手に入れ母のもとに帰ってくる。喜びも束の間、王は今度は、羅刹の国ナムカ・ディンチョに行って金の鍋とヤクの尾の払子をとって来るように命じるのだった。

羅刹の国は鉄のような黒色で、滝は流れ落ちてはスープのように煮えたぎり、狼と狐が遠吠えする不気味な土地だった。そこには、黒い鉄の谷の羅刹女が機織をしていたが、オンバルを見ると、人肉は久しぶりだと、オンバルの体を三回揉むと飲み込んでしまうのだった。

 

歌舞劇の守護聖タントン・ギェルボ


 

タントン・ギェルボ(1361/1385-1464/1485)
東チベット 16世紀 銅に彩色

タントン・ギェルボは、母の胎内に60年間留まったという。お母さんは大変だったろう。それ故、生まれた時から色の黒い老人だった。そして、120歳の長寿を全うしたと言われる。生まれながらの老人は、知恵者のメタファーです。チベット西部ガムリンのオバ・ラツェに生まれた。7歳頃には羊飼いの手伝いを始めるが、幼少から様々な神通力を働かせたという。洞窟に住む修行者のもとで瞑想したいがために、ヤギの数の黒石と羊の数の白石を紐に括りつけ、それらの番を土地神に命じたという伝説が残っている。

1429年から1484年までの56年間にチベットとブータンに48の鉄の吊り橋と18の渡し場、多くの木製の橋を架けた。吉祥多門搭などの111の仏塔、タルパリンといった寂静所としての行場を造った。仏塔の建築ではチュン・リボチェにある吉祥多門仏搭、ブータンのパロにあるドゥムツェック・ラカンなどが知られている。仏塔は、地震などの災害を封じる地鎮のためでもあったらしい。大地に灸をすえる意味があった。こんなのは、現代のアーティストも真似してる。彼は、チベットの偉大なヨーギ、医師、鍛冶屋、建築家、土木技師でさえあった。「平原の空 (くう) の王」という僧としての別名の他に「鉄の橋を架ける者」とも呼ばれた。なんだか空海みたいだが、チベットのダ・ヴィンチと呼ぶ人もいるらしい。衆生のために積極的な社会事業を行ったのである。そのための財政力と大きな組織力があったことが窺える。

ツォンカパも学んだレンダウ (1349-1412) ら多くの学僧に師事した。ニンマ派、カギュ派、サキャ派といった派閥を問わなかったようだ。瞑想修行に励み、「火と風の瞑想」に秀でた。その瞑想の最中にダーキニーたちが現れ、このように称えたという。

偉大な仏の住する平原 (タン) に
空性 (トン) を悟ったヨガ行者
無畏の王 (ギェルボ) のごとくあり。
ゆえにタントン・ギェルボと名付けん。

タクツァン寺  ブータン、パロ
タントン・ギェルボは、ここでヴァジュラキリラヤ (普巴金剛) とヘールカ (教令輪身) のヴィジョンを得たと伝えられる。

これが、彼の名の由来であるが、ミラレパと同じように瘋狂者 (ニョンパ) とも呼ばれた。チベットにも一休や普化、寒山、拾得のような僧がいるのだ。瘋狂僧は、各地を遊行し、時には風刺を込めた宗教歌 (グル) を謡ったために人気を博した。小鳥に説法できたのは聖フランチェスコだったが、タントンはロバに説教できたという。

入滅する時、彼は涅槃に向かって人間界を去ろうとし、光に包まれ瞑想堂の上空に浮き上がった。弟子たちの現世に留まってほしいとの願いを一度は聞き入れて、自分には、死という物質と意識の分離はないと語り、小さな身体となって瞑想堂に戻って来たという。

さて、アチェ・ラモとの関りだが、鉄鎖の橋を架ける作業が難航し、資金も枯渇した折りも折り、閃いたらしい。彼が工事に携わる者から歌の上手な7人の娘を選び、踊りや歌を教えて、自ら太鼓を叩いて人前で演じさせて資金を集めたという。この7人の踊りがアチェ・ラモの起源とされている。

成就者ペマ・オンバル 3.

羅刹女の口の中でオンバルは母から授けられたダーキニのマントラを唱えるとオンバルは吐き出された。羅刹女は、その深遠な真言を授けてくれるように頼むのだった。峠を越えると赤銅色の平原があり、流れる川は血の色をしている。そこには銅の谷の羅刹女がいて、やはり吐き出したオンバルに真言を授けてもらう。三番目の法螺貝の谷、次の金の谷でも同様なことが起き、いよいよ羅刹の女王ペタ・ゴンギのいる羅刹の宮殿に到着した。羅刹の女王は、三つの黄金の塊で出来た暖炉の上に金の器を被せてオンバルを焼いて食べようとするが、真言を唱えるオンバルは無傷のまま器から飛び出して来る。畏敬の念に打たれた女王は、60人の子供たちからオンバルを守るために爪の間や髪に彼を隠すのだった。

羅刹の女王は真言を授けてもらうことを条件に金の鍋とヤクの尾の払子を渡すことを申し出る。真言によって中央仏界のダーキニーとなった女王は、金の鍋にオンバルを乗せて、洗い水を持ってナカムニ国に向かう。途中、鉄のかぎ針と投げ縄を携えた南方宝生界のダーキニーとなった金の谷の羅刹女を、一包みの薬を持った東方金剛界のダーキニーに変身した法螺貝の谷の羅刹女を、皮袋を持った西方蓮華界のダーキニーとなった銅の谷の羅刹女を、最後に怒りの太鼓を持った北方羯磨界のダーキニーとなった鉄の谷の羅刹女を乗せていくのである。

 

音楽と仮面


音楽

歌「ナムタル」は、もともと「よく解脱する」という意味の仏教用語から高僧の解脱への道のりを表す「伝記」を意味する言葉となり、登場人物の「歌」を指す言葉となった。観音信仰のためにタンカ (仏画) を掲げ、マニ (真言) を朗誦しながら絵解きを行うマニパと呼ばれる人々がいて、観衆と一緒に唱和したが、彼らの節回しがアチェ・ラモの歌唱に影響を与えたと言われる。日本で言えば、説教節に近いだろうか。歌唱法は100種類あると言われるが、時間の長さからタリン、タンディン、タトゥンの三種類に大別される。タはメロディーの意味で、リンは長い、ディンは中程、トゥンは短いを表す。これにレンと呼ばれるバックコーラスが入る。場面に関わりない役者が舞台に残るのは、このバックコーラスのためでもある。

伴奏楽器は、かなりシンプルなもので、木の胴に半径50cmほどの皮を張った太鼓とシンバルだけだ。太鼓は胴に付いた長い柄を地面につけて足で挟むか、手で握り、湾曲したバチで叩く。時々酒で湿り気を与えて皮の張りを一定に保つらしい。能の小鼓では時々唾をつける。シンバルは横に打つのではなく縦に打つ。演奏に合わせて皆が踊っているように見えるが、最も上手な踊り手に合わせて演奏するのだという。しかし、舞台の良し悪しは、この太鼓とシンバルの音にかかっているといわれる。

緑ターラ 中央チベット 13世紀

仮面

主役は仮面を着けない。この仮面は板状で世界的に珍しい。面は全て卵型で目と口の部分に穴が開いている。形より色が重要である。

白は柔和を表す。黄色は広大さを表し、良家の出身で物知りであり、努力家、高度な悟りを得て高い徳の人を表す。赤は力の色で、智慧があり、臨機応変で硬軟兼ね備えた人望のある人に用いられる。商人頭ノンサンの面はこの色である。

緑は救いの女神緑ターラの色で、この色の仮面を着ける者はターラの化身であることを示している。半分白、半分黒の仮面は信頼のおけない者であることを表す。そして、黒は不善を示すが笑いを呼び起こし、トリックスターとしての性格を表している。

 

成就者ペマ・オンバル 4.

無事、帰国したオンバルたちだが、母との再会を喜んだのも束の間、王の命で屠殺者によって東の高い山の頂上で殺されてしまう。オンバルの体は焼かれ、灰となり、風に舞って散ってしまうのだった。王の待女となっていたダーキニーたちは、オンバルが死んだ山を訪れる。

鉄の谷のダーキニーは、真言を唱えて怒りの太鼓を打ち鳴らすと天に穴が開いて竜巻が起こり、オンバルの灰を一か所に集めた。ダーキニーたちは同様に真言を唱えるのだが、銅の谷のダーキニーは風を巻き起こし皮袋に灰を集めた。金の谷のダーキニーも鉄のかぎ針と投げ縄を四方に投げると皮袋の中に二つの目が出来上がり外をじっとながめるのだった。今度は法螺貝のダーキニーが薬を皮袋の中に入れるとあの幼き覚者が現れるのだった。最後に女王だったダーキニーも真言を唱えながら瓶の洗い水でオンバルを清めた。

鉄の谷のダーキニーはオンバルと一緒に山頂に残り、他のダーキニーたちは王に金の鍋で空中を飛ぶ遊びに誘う。国の上空をあちこちビュンビュンと飛び回ると、最後に悪大臣と王を乗せ羅刹の国へと飛んでいくのである。羅刹の国ナムカ・ディンチョにつくと女王のダーキニーは「お聞きなさい、ロクペー・チョージン王よ邪悪な大臣たちもお聞きなさい。これを自業自得と言うのです 悪業の報いを受けるとは哀れなことよ (石井奈津子訳)」と言うと鍋をひっくり返した。下で母である女王の呪文によって眠っている子供たちには「母の幼い六十人の息子たちよ インドの東方からお土産を持ってきたよ。新鮮な人肉がどっさりあるよ 息子たちよ寝そべってないで、さあ、起きなさい (同上)」と語った。こうして悪の王は悪の家臣とともに滅び、オンバルがナカムニ国の新たな王に迎えられたのである。

 

民族音楽の豊かさと舞踏


小泉文夫『音のなかの文化』対談集
1983年 青土社

最近は、ワールドミュージックと称して世界中の音楽がメディアに乗り、何時でも楽しめるようになった。とても豊かになったと思う。この文章を書きながら若いころ、NHK-FMの番組「世界の民族音楽」を聴いていた時代のことを思い出した。それは、ひとえに小泉文夫さんの賜物と言える。その頃は、何となく面白くて聞いていたが、後から考えると、西洋音楽一辺倒の価値観に清風を送ってくれていたのだ。やがて、チベット仏教声明に背筋を凍らせ、チベッタンホルンの音にのけぞり、モンゴルのホーミーと一緒に振動し、ガムランと共に脳は渦巻き、スーフィー音楽に乗って耳は旋回し、アイヌのおばあちゃんたちのデュエットに胸ときめかせた。

小泉さんは、作曲家である芥川也寸志さんとの対談で、台湾本土にいる十種類の高砂族 (現在では高山族と呼ばれる) と南の離島のヤミ族 (タオ族) とは外見は同じなのに言葉が全く異なることを指摘している。彼らヤミ族の言葉はフィリピンのバターン諸島からルソン島のイゴロト族までの系統と同じ言語であると言う。台湾からルソン島までの言語は繋がっていたが、強力な権力が現れると分断されてしまうのだと言うのだ  (『音のなかの文化』)。芥川さんの朝鮮と日本でも、境界線のできる前は繋がっていたのかという問いに対して、そうだと言う。南蛮振りの文化はここまで、騎馬民族の文化はここまでという風に人工的に影響力が及ぶのは、そういった権力が作用する後の時代のことだと言うのである。

なるほど、そうなのか。民族音楽に当てはまることは、民族舞踏にも当てはまるのではなかろうか。こうなると民族舞踏の流れはどのように繋がっていて、どのように分断されて独自に発展したのかを考えることは、すこぶる面白いと思う。ご紹介できる機会に巡り合えるとよいのだけれど‥‥

 

5月いっぱいまで休載のお知らせ

お読みいただいてありがとうございます。この四月、五月と僕にとっては大切な展覧会が続きます。それらについては当サイトやフェイスブック等で近々お知らせしますが、その準備のためにブログは五月いっぱいまでお休みさせていただきたいと思います。次回は六月頃になろうかと思いますが、それまでお待ちくださいね。

 

参考映像

アチェ・ラモの師匠と団員たちのドキュメンタリーになっています。約17分

 

 

 

参考図書

小泉文夫『音楽の根源にあるもの』
1977年 青土社

 

 

ロルフ・スタン『チベットの文化』 風の馬は虹を駆ける

 

ロルフ・スタン(1911-1999)

チベットのことはよく分からない。これは我々日本人だけでなく、多くの外国人にとっても、そうだ。そこは秘境だからである。インド人にとってヒマラヤを中心とした北の国は、聖なる神秘の国だった。パラハマンサ・ヨガナンダの書いた『あるヨーギの自叙伝』を読めば分かる。この本は異様に面白かった。超常現象のファンタジーなら色々あるけれど、こちらは自叙伝である。ヨーガ行者の修行の話だが、これに魅せられた人は多い。一度お読みになることをお薦めする。

だけど、ロルフ・スタンによればチベット人にとっても北は聖地なのである。不思議なものだ。本書ではチベットの地は、380万平方キロメートル、フランスの面積の7倍にあたるという。どこをチベットと言うかという問題もあるが、現在のチベット自治区に限れば122万平方キロである。ヒマラヤを擁し高度3000~4000メートルの地に平気で村々は存在するし、高度7000~8000メートルの山々が連なる地域もある。だが、崑崙山脈とヒマラヤ山脈に囲まれた寒冷で荒れ果てた土地だけをイメージしてはいけないという。古都ラサの緯度は、ほぼ屋久島に相当する。「5キロごとに空の景色が違う」というほど変化に富んだ土地らしい。生活も牧畜のみ、農耕のみ、牧畜・農耕半々というその地域に応じた営みのようだ。

ロルフ・スタン 『チベットの文化』

ロルフ・スタン『チベットの文化』

ロルフ・スタンは1911年、ポーランドのシュヴィエチェのユダヤ人の家庭に生まれた。1933年にベルリン大学の東洋言語セミナーで中国語を学んだが、ナチスの台頭によってフランスに亡命する。パリ東洋語学校、シナ学高等研究所に学んだ。第二次大戦では、仏領インドシナで通訳者として働き日本軍の捕虜となっている。若い頃は、苦労の多い人だったようだ。大戦後、中国に現地調査に入り、後にパリ大学の高等学術研修院で極東及び内陸アジア比較宗教学の教鞭をとるようになった。この間、ヒマラヤ南麓の調査を行っている。1960年に『チベットにおける叙事詩と吟遊詩人の研究』を提出、博士号を取得する。1966年からコレージュ・ド・フランス教授となった。チベット学、とりわけ宗教学の研究では、他の追随を許さないと言われている。道教の研究においてもとみに有名だ。

僕がこの人のファンになったのは、ひとえに例の『盆栽の宇宙誌』)によるのだけれど、その後、スタンの影響を受けた彌永信美(いやなが  のぶみ)さんの仏教神話学(などを知るに及んで益々敬慕の念は高まったのである。

そこで今回は、彼の『チベットの文化』をご紹介するのであるが、この本、チベットの風土、歴史、社会、宗教、美術と文学を網羅する、いわばチベットの全てなのである。とても全部をコンパクトにご紹介できる能力は僕にはないので、三つのテーマを選んで今回は書いておきたい。何からご紹介するかというと、よくチベットの写真にみられる縄に取り付けられた色とりどりの布や紙でできたタルチョ (タルチョ―) である。そのタルチョに描かれる「風の馬」についてのスタンの深い見識からまずご紹介しよう。

 

1.タルチョ・ボン教・風の馬


 

「ム」の綱とタルチョ

地の神の小塔のある聖山 中央に神の顔が描かれた恐るべき神の小塔がある。氷河は獅子によって象徴され、湖水は「黄金の目」の魚と宝玉によって象徴されている。

地の神の小塔のある聖山 ロルフ・スタン著『チベットの文化』より
中央に神の顔が描かれた恐るべき神の小塔がある。氷河は獅子によって象徴され、湖水は「黄金の目」の魚と宝玉によって象徴されている。

チベットの神話時代の王たちは天から降りてきた神である。山は「ム」と呼ばれ、一種の綱ないし梯子になぞらえられた。チベットの山々は天に向かって駆けあがっている。その「ム」は天と王とを繋ぐ虹のような綱でもあった。王はその綱を伝って昇り降りしたと伝えられている。だが、ディクム王の時、その綱は切れ、それ以降、王は死すべき存在になった。

すべて聖なる山は「国の神」、「土地の神」と呼ばれる。また、「天の柱」、「地の釘」とも呼ばれた。墓や寺院のそばに建てられた柱や石も同じ役割をしていたようである。王たちと同じように英雄たちも「天の柱」と呼ばれ、英雄の国は「地の臍」と呼ばれた。彼等は自分の中に世界の三つの階層を繋ぎ合わせる。白色の神々(Iha)の住む天、赤あるいは黄色の樹神と岩神が住む地表、青ないし黒色の水神の住む地底である。近代チベットでは神を称えて立てる石(Iha-tho)は世界の三階層の色と関係づけられる。

道のついている峠ならどこでも、石がうず高く積まれている光景に出くわすとスタンはいう。それらは、多くは白い石であり、棒が立てられていて、そこから樹木や岩頭に向かって縄が張られる。縄には呪文、あるいは「風(息)の馬」を書いたタルチョ(祈祷旗)と呼ばれる5色(青・白・赤・緑・黄)の布切れや紙切れが結び付けられ、天 ()・風・火・水・地の五大に結び付けられる。

タルチョ インド・ラダック・レーのナムギャル・ツェモ寺院にて Fotographed by Wotan

タルチョ  インド ラダック・レーのナムギャル・ツェモ寺院にて

その他に原則として木で作った武器の模倣物や矢や槍などが加えられるのが仕来りである。牡羊ないし山羊の角や頭が盛んに供えられるし、通行人が峠を越える度にまだ形のできていない堆積物の上に石が積み重ねられ、石がない時には骨、布きれ、毛布の切れ端、髪の毛などが積まれ、人はこう叫ぶ「神は勝利者、悪魔は敗者、キキ、ソソ。」末尾の叫びは戦いの喚声という。これら石の堆積は道標でもあるが、「戦士の城」あるいは「軍神の城」と呼ばれている。それは、できるだけ山の頂上近くに作られるが、実際の高さより、より上にあるということの方が大切らしい。「頂上の神」、「国の神」、「男の神」、「軍神」は、屋根の上、石積みの祭壇、人間の頭の上、肩の上、兜の上にもましますという。

進化するボン教 

チベット人はもともと世界創造の神話には関心がなかったとスタンはいう。仏教の宇宙論を借りることで済ませた。一方、自分たちの土地に関する創造と祖先の出現に関する伝説は数多くある。これらの起源伝説は、統一されることも組織化されることもなかった。それまで組織化された教会や権威のある僧侶がいなかったことが原因らしい。そのうち、ボン教やラマ教の大宗教に横取りされ、変形されてしまったらしいのである。

中央 ソンツェン・ガンポ王(?649)
チベットに統一王国を築き、仏教を導入した王。
右 唐から嫁した文成公主
左 ネパールから嫁したブリクティ―・デヴィ

チベット仏教は、かつてはラマ教と呼ばれた。特殊な大乗仏教と言っていい。ラマは尊師を意味する。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派と大きく言って四つの宗派があるが、今は書く気がしない。ラマ教以前にチベット人が最初から有していた宗教的な伝統的観念や習俗は存在していた。ヨーロッパの著述家たちは、「人間の宗教」として「神の宗教」とは区別したが、この土着の伝統的な宗教は、ボン教とともに原始の宗教というレッテルを張られがちだった。そして、ラマ教の中での恐怖感をそそるもの、異様なもの、悪魔的なもの、霊媒的なものは全てボン教の要素だと決めつけられていたようだが、タントラの大きな影響を考えればチベット仏教のなかにもそのような要素は濃い。ただ、どれが土着の宗教であるのか、何がボン教のもので、何がラマ教のものであるのかを区別するのは、多くの場合不可能であるとスタンは言っている。

ボン教については、少し触れておかなければならない。チベットの後世の歴史家たちは、仏教導入以前、すなわちソンツェン・ガムポ王以前には「治世は、ボン教徒、物語師、謎歌いたちによって守護されていた」という。本来、土着の宗教に属していたに違いない伝説や神々とボン教とは結びついていた。それらの結びつきを考える時、中国との接境地帯に住む羌(きょう)族の信仰と言語で解釈するとよく説明できるようである。チベットの最初の王、二ャティの治世には「神の宗教」としてのボン教は既に出現していたようだ。その後ディクム王の時代、タジク (イラン)国とアッシャ族 (ココノールのトルコ・モンゴル種族)からボン教徒が招かれたと伝えられている。彼等の専門は「生者のためには神に供養し、死者のためには悪魔を鎮圧する」ことだった。この伝説を信じれば、ボン教の起源の一つはチベットの南西、つまりインドとイランが交わる所ということらしい。アーサー王伝説でも触れたけれど、イラン辺りと言うのは何か文化的にミステリアスだ。

ミボ・シェンラプ ボン教の開祖。ペルシアを指すタジクの出身とされ、チベットの魔神に連れ去られた愛馬を探しに来たと言われる。19世紀 ルービン美術館

ディクム王の後、いわゆる「現われ出たボン教」と呼ばれる時期がくる。悪魔崇拝が特徴とされるような時代でもあったようだ。このような伝説が残されている。12・3才になるロバの耳を持つ少年が悪魔にさらわれ12年の間チベットを連れまわされ、人間界に帰ってくる。平田篤胤(ひらた あつたね)が書き残した『仙境異聞』の仙童寅吉みたいだ。その耳を隠すためにターバンを巻いた。ミダス王のテーマと同じだ。このターバンはボン教徒の徴になっている。悪魔を鎮め、神々を供養し、かまどの汚れを清めたという。それ以後、全てのボン教徒はタンバリンとシンバルを持ち、種々の幻術に熟練し、鹿を空中に浮遊させるだとか太鼓に跨って飛ぶなどということができるようになったという。

ボン教徒の中には、王の直属の祭司などを勤めるようになる者も出てくるが、大きくは次の4種類に分類されるようである。可視界のボン教の巫術師であるシェンは幸運と財貨を招来する儀式を行い、呪術のシェンは種々の色の羊毛の紐で悪魔を捉える。卜占のシェンは紐(Ju-ting)を用いて将来の吉凶を占い、墓のシェンは武器をもって死者と生者の数を数えたという。

後には、ボン教そのものが哲学的に体系化されるようになった。ティソンデツェン王の時、ボン教徒は迫害を受けるが、この時にその宗教用語は仏教のそれに総合的、組織的に同化されていく。習合していくのだ。混淆主義的なボン教が生まれるのである。だが、ボン教徒はどちらかというとシャーマン的性格が強い。馬やタンバリンにまたがり空を飛び、青い着物を着ているというのが一般的イメージらしい。それでも、ボン教はラマ教以前にインド・イラン的要素を自分たちの教義に取り入れて、我々が考える以上にチベットへの仏教導入を促進したらしいのである。

虹を昇る風の馬

風の馬 ラダック インド

ロルフ・スタンはチベット人たちのいう「風の馬」についてこう述べている。タルチョなどによく描かれる馬である。「風の馬」の「風(息)」は、中国人の「気」やインド人の「プラーナ」に類似する生命原理であると。それは呼吸する空気でもあれば、体内を流れる微妙な液体でもある。この「風の馬」の絵には人の誕生日の日付を示す干支と祈願文が添えられる。生命力や健康、権勢、長寿、功徳あるいは名声が増すように神々に祈るのである。

「風の馬」は人の生命力が強まり、高まってゆくあらゆる様相を表す。「高きに向かっての増大」は、あの虹の綱「ムの綱」によってなされる。アレキサンダー大王がモデルとされる英雄ケサルの信仰においても風の馬と同じ要素を持ちながら軍神特有の旗の姿をとるようだ。インド人でも多くのタントラ教徒が「虹の体」を獲得したと伝えられる。しかし、インドには綱のイメージはないようである。だが、虹で天に昇る過程はヨーガのある種の方法と同じだとスタンは指摘している。こう伝えられている。「この世を去る時、彼らは天に向かって足から消えていった。そして、彼らの頭から出ている「神性な綱」という光の道によって彼らは地上を去り、空の虹になった。彼らの死体は神の国でonggon(聖者、先祖、埋葬の丘)となった。」

 

2.仮面劇と正月・追儺の行事


 

守護神の仮面劇

ラマ僧など緻密な瞑想によって神々や菩薩を降ろすことのできる人々はいるし、吟遊詩人はある種の失神状態になって、英雄たちが時間の埒外で活動している光景を目撃し、それを歌で描写した。しかし、一般の人には見えるわけではない。それで絵画や仏像、仮面などが在家信者の教化のために用いられた。神の示現を理解しやすくするために仮面舞踏によって大衆の前で演じられるようにもなった。この儀式では、神は瞑想によって呼び出されると共に、仮面をつけた俳優が扮してもいるわけである。

チャム(チベット仏教各宗派で行われる仮面舞踏) 巻末に動画を掲載しておきました。
新年の最後を祝う祭り ラダック インド

ここからは、しばらく前に一度、江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟でご紹介したことと重なります。どんな神でも仮面に作り得たわけではなく、「仏法の守護神」に限られていた。その仮面は、霊媒と同じく、この種の神の示現を容易にすると考えられていたのである。例えば「飛ぶことのできる黒」と名づけられた仮面はインドのある学匠から1000年頃、大訳経者と呼ばれたリンチェンサンポに渡され、彼がラダックに帰った時、その儀式の教えと一緒に他の僧たちに伝えられた。その伝授のとおり舞踏の間中その仮面は着けられていたという。

マハーカーラ 19世紀 チベット

その後、仮面はサキャ派の最初の僧院長に1111年頃伝えられ、19世紀まで同じ寺院に保存されていた。この仮面によって表されるグルキグンポと呼ばれるサキャ派の守護神は特別な姿の大黒天(マハーカーラ)であるという。この仮面舞踏劇は、一つは仮面の俳優によって、もう一つは祭式司宰僧とその助手たちによって二重に行われるが、僧と助手は仮面を着けない。仮面はある種の守護神を臨済させるのだが、実際に呼び出し臨在させるのは僧たちの仕事である。これらの仮面劇の中でも、大黒天(マハーカーラ)は主神の役を演じるのが普通であるとロルフ・スタンは指摘している。

この見世物は二日間続き、オーケストラが音楽を奏でる。劇のクライマックスで神々が群衆の前を練り歩くようなとき、群衆の感じる畏怖の感情は驚くべきことに道化の巻き起こす笑いによってしばしばそがれる。大衆にこの息抜きを与える道化役者もインドの聖者に似て見えるようにという配慮で仮面を着ける。この聖者は一方で尊敬を受けながら、他方では黒っぽい顔と縮れ毛という見慣れない姿でチベット人を笑わせるようである。彼らは即興的な道化劇を演じたりタントラ祭式の中の儀式動作を、その最も厳粛な仕草まで猿真似してみせるという。まさに「もどいている」のである。

サムエ寺院 チベット自治区の区府ラサ市の南東ヤルルン地方にある寺。下部はチベット風、中央部は中国式、上部はインド式の屋根で作られたと言われている。

サムイェー寺院
チベット自治区の区府ラサ市の南東ヤルルン地方にある寺。下部はチベット風、中央部は中国式、上部はインド式の屋根で作られたと言われている。

これらの仮面舞踏が、どのようにして、また、いつ始められたかはわからない。古いものは少なくとも10世紀に遡るという。あるいは、後期密教に属する8世紀の秘密集会タントラに遡りさえするといわれる。これらの仮面劇は、今一つの重要な要素である「地鎮」あるいは土地の「取得」の予備的な儀式としても行われたようである。金剛杵(あるいは金剛橛/こんごうけつ)の囲いによって聖域を区切るのだが、すでに八世紀のタントラの中に確認されている。そこには「金剛杵の踊り」と呼ばれる仮面のない舞踏が含まれていたようである。ニンマ派の金剛橛の儀式はパドマサンバヴァによってインドから持たらされ、チベット最初の僧院であるサムイェー寺建立の際の「地鎮」に用いられた。後には、他の派でも詳細な舞踏の手引きが作られたようだ。スタンはこれらの儀式は全てインド起源であるとしている。

王の新年と追儺

新年の日付は何世紀もたつうちに変化した。数世紀前から今日に至るまで中国の新年の日付が用いられていた。これは「王の新年」と呼ばれ、太陽暦の2月に相当する。それ以外に、昔からの「百姓の新年」というのがあって、「王の新年」の10番目の月か11番目の月の冬至にほぼ正確に合わされている。

18世紀の中国の書物や当時のイタリア伝道師の記録によると、新年の日、ダライラマはポタラの頂上で宴会を催し、中国人やチベットの役人を集めて戦争の舞踏をみせる。ちなみにダライラマのダライは、モンゴルの支配者アルタン・ハーン(1502‐1582)がデプン寺の僧院長を務めたソナムギャムツォに与えた称号で、モンゴル語で「海」を意味するそうである。他日のいくつかの催し物の後、30日には、ルゴンゲルポと呼ばれる「身替りの魔王」を追い払う式、つまり、追儺の儀式が行われるのである。

ポタラ宮 ラサ チベット

一人のラマがダライラマに扮し、民衆の一人が魔王に扮する。魔王は体の半分を白、半分を黒に塗る。魔王は家々を回ってその家の災禍を引き受け、かわりに寄進を受けて歩く。そして30日になるとダライラマに扮した僧の前に現われ、彼に向かってお前の五蘊はいまだ空ではないとか、お前の「漏」は存在に付着して苦の元になっているとか、宗教的な舌戦を繰り広げた後、クルミ大の骰子を振って勝負を着けるのであるが、魔王の骰子は全て「負」、ダライラマの骰子は全て「勝」に塗ってある。魔王は怖れをなして逃げ出し、その後を大勢の人々が追いかけ、矢を射たり鉄砲や大砲まで撃ったりするらしい。川の対岸の牛魔の山(牛頭山)の頂上のテントまで逃げ込んで、大砲を鳴らされると、さらに遠くへ逃げて一年先にならないとチベットには帰ってこれないのだという。魔王役には気の毒だが、かなり徹底した鬼払いの行事である。

チベットの他の土地では正月には男と女が二手に分かれ世界の創造をテーマに舞踏や歌唱を交し合う。いわゆる歌垣であろうか。この時、その土地に住む種々の階層の神々 (天神・地底神など) が、失神状態で歌っている霊媒に降りるのである。また、同じく世界創造のテーマや幸福祈願に洒落を交えながら歌を歌う専門家がおり、神性でありながら同時にいたずら好きな「白い悪魔」と呼ばれる専門家たちである。顔を半分白、半分黒に塗り分けピエロのような尖った帽子を被ったり、ヤギ皮製の三角の仮面をつけたり、劇団から語り手役の道化師がつける「猟師の仮面」を借りてきたりする。

正月祭りの特徴的性格の大部分は他の祭りにも見出される。大地の創造と先祖の系譜が言祝がれ、二手に分かれての歌の応酬や競技で、とりわけ演劇で土地神を喜ばせる。そうして、この神を守護神とする村に豊かな収穫が約束されるのである。この民衆の儀式で記録に残されたものがラダックにある。色々な舞踏や競技が行われた後の第11月の7日の夜、3人の仮面を着けた人物による舞踏が行われる。3人のうち2人は祖父と祖母と呼ばれるが第3の人物については何であるかわからない。最後に彼らが追放されて舞踏は終わる。人々が村に戻って、そこに宴席をもうける時には、祖父も祖母も護送されて村に戻るが第3番目の仮面の人物がどうなったかは分からないという。

チベットの旅芸人 狩人と姉娘役
photo A.W.Macdonald 
ロルフ・スタン著『チベットの文化』より

なかなかミステリアスで面白いのだが、寺院での仮面舞踏劇が大黒天(マハーカーラ)を主神として執り行われる事、もどき役がこの祭りには存在する事、身替りの魔王の追儺の儀式、民間レベルの祭りでは土地神へ奉納される演劇が豊作の予祝行事としての性格を持つこと、一部の祭りにおいては祖父母役と謎の人物の3人が登場する事などを考え併せると、日本における追儺や神楽などとの関係を考えてみることは価値があるのではないだろうか。多武峰(とうのみね)などでの修正会の鬼払いや東大寺二月堂の「お水取り」で知られる修二会で、鬼の役割をする摩多羅神や毘那夜迦という存在と大黒天とが関系していることは彌永信美さんの指摘にある。あるいは、土地神や3人の仮面の人物などと能の翁や三番叟などとの関係は興味深いテーマではないだろうか。

実は、スタン自身が本書の「日本語版への序」の中でこのことについて少し触れているのでご紹介しておこう。能の「翁」について、冒頭、謡われる「トウトウ タラリ」はおそらくチベット語ではないと思われる。だが、舞台を清め、福を招くものとして白い老人「翁」の面と黒い老人「三番叟」の面に対応するものとして、チベットには「白い悪魔」の面(白)と狩人の面(黒)がある。また、「千代」という言葉の長寿の観念もチベットでは、やはり二人の人物によって表される。演劇の神タントン・ギェルポは生まれた時から老子のように老人で色黒であり、今一人は「長寿の人」と呼ばれ、ある種の仮面舞踏に登場する白い老人であるそうだ。

最後は、チベットの文学、特に有名なミラレパの詩をとりあげたい。「歌!もしわれ新たに そを歌わざらんか、意味はいかでか心に入らむ。」

 

3.詩聖ミラレパ


 

チベットの語のリズム

歴史的なチベットの領域  チベット動乱は1956年に勃発、1959年にダライラマ14世の亡命

チベット語はその構造、その語彙からいって、ビルマ語や、ヒマラヤとシナ・チベット接境地帯に住む羌 (きょう) 族などの少数民族が話しているチベット・ビルマ語族の言語と関係があり、その語彙の一部は上古中国語にも近いそうである。そのチベット語で書かれた仏教文学は膨大なものであるらしいが、ブッダの言説に関するカンジュールと呼ばれる作品群とその注釈や概論、儀軌、歌などからなるテンジュールと呼ばれる作品群に分けることができる。これらの文献は、ほとんどサンスクリット語から訳されたものなので純粋にチベット的なものはないようである。

重要なものはチベット仏教の大著述家たちの作品であって、彼らは百科全書的な知識を持ち、その著述は歴史、文法、音韻、語彙、天文、医学、卜占、旅行などに及んだが、科学書と呼ぶべきものも少からずあったようだ。特に哲学、宗教、道徳に関するものは多く書かれた。文学に関するもので言えば、歌謡、詩歌、賛歌、韻文祈祷集、演劇作品、小説、叙事詩、物語などがあるが、一見、通俗的文学と見做しうるものも含めて実は宗教家たちの仕事であるとスタンは強調している。それは、編纂が12世紀以前にさかのぼらない現在知られている作品について言えることだ。ただ、11世紀初頭に敦煌の洞窟に収められてそのままになっていた数千の写本については別らしい。

敦煌文書に見出される文献、とりわけ詩歌は急速なりズムや強烈な生命感、擬音語の使用などを特徴としていてリズムと構成だけでその美しさの全てを創っていて、中国の詩経の形式にも似ていると言われる。この魅惑的な詩の表現形式について少しご紹介すると、例えば、キリリ kyi-li-li という言葉は女性の流し目、虹、雷に用いられる。キュルル kyu-ru-ru は笑い声や歌に、異なるキリリ khy-li-li は疾風や高波に、タララ tha-ra-ra は「雲」のように集合した兵士の群れや黒い毒に、メレレ me-re-re は群衆、大洋、星に用いられるという具合である。だが、まだ体系的な研究はないそうである。そして、その様なリズミカルな詩で後の最も注目すべき作品はミラレパの詩である。チベット仏教の四大宗派の一つ、カギュ派の祖マルパの弟子だった。

ダーキニー ブロンズに金メッキ 19世紀 チベット

また、形容語の問題がある。タントラのある種の現実を隠すためのベールをかけた謎の言葉、「ダーキニーの秘密の言葉」とも言われるものから影響を受けたと考えられるが、民衆の詩においては主語の前にあってある種の感動を表すものだった。それには2種類あり、一つは翻訳可能なもの、もう一つは隠語とか秘密の言葉で意味の取れないものである。例えば、翻訳可能なものでは、空に対して「青いもの」、大地や座に対して「四角いもの」、若い獅子に対して「三倍の力」などである。

そして、ミラレパにはないが大詩人、叙事詩、演劇に共通してみられる要素に言葉というより旋律を真似て口ずさむことによって歌の導入部とすることがある。例えば、アララとか、ショーニ・ライ・ショーオ・ライ・ショーオとか、ラヨ・ラモ・ラーヨーヤなどである。叙事詩には「歌はタラ・タラ・ラモ・ラリン、それはタラ・ラモ・ララ」というオノマトペがある。先にも述べたが、能の『翁』の冒頭で謡われる「トウトウ タラリ」を想起させるのであるが、これに関しては折口信夫さんがこう述べている。「河口慧海氏は、とうとうたらりは西蔵語だと言うて、翻訳されたが、これは恐らく、笛の調子であろう。」河口慧海は『西蔵旅行記』で知られている日本の僧である。

 

風狂の詩

ミラレパ(1052‐1135) 『ミラレパの生涯』部分

ミラレパはチベット訳されたインドのタントラ教徒の神秘的な歌(doha)の中に自分の韻律法の手本や、自分の歌謡の宗教的題材を見いだした。しかし、彼が最も偉大な詩人となり、かくも人気のある宗教家になったのは、この外国の手本を自国の土着の歌謡に巧みに重ねあわせ融合させたからだとスタンは強調する。彼は民衆の詩を模倣し、悪戯心もあってか、それを強調したのだ。自らを「瘋狂者」と称した。盛んに僧侶を愚弄し、「おんみたちの腹は高慢でふくれあがっているから、げっぷをすれば虚栄心が出、嘔吐をすれば嫉妬が出る。また、おんみたちは侮蔑という屁をひり、嫌味という糞をたれるのである」と述べた。傑僧である。

そこで、擬音的3音節が散りばめられた敦煌文書にも通じるような彼の詩をご紹介してみたい。

上には、南の雲がうずまき(khor-ma khor)、
下には、澄んだ川が波打つ(gya-ma gyu)、
ふたつの間を鷲が舞う(lang-ma-ling)。
千草の草々まじりあい(ban-ma-bun)、
樹々も踊りの仕草する(shigs-se-shigs)。
ミツバチは歌う、コロロ、
花はかぐわし、チリリ、
鳥はさえずる、キュルル。

このチベット語の詩をフランス語に翻訳したロルフ・スタンは意味と語感とを共に損なわずに翻訳するのは不可能だと言っている。叙事詩の中では賛歌の形式にすぐに取って代わられるので散文による説明部は短い。これらの歌は普通掛け合いになっているので主唱者はまず名乗りを上げなければならない。

いざいざ、愛(め)ずべき小童(こわっぱ)よ、
汝知らんむと思えるものよ、いざ、聞け。
わしがいかなる男と知るや。
もしこのわしを知らぬとならば、
グンタンのミラレパなるぞ。

という具合である。そして、おしまいは定型の文句によって閉じられる。

汝この歌を理解せばよし、
この一度(ひとたび)に、
これを得たれ。
汝、理解せざるとも、我は立ち去らんのみ。

チベットの獅子 ポタラ宮 ラサ

最後にミラレパの詩をもう一つご紹介して終わりたい。自然に対し、それを支配するものとして類型的に動物を挙げていくアイデアはミラレパの歌の中に初めて現われ、そのまま現在の民衆の歌の特徴となって残っているらしい。青緑色のたてがみを持った氷河の「白い獅子」、ちなみにチベットにはライオンはいない。この獅子はインド起源と考えられるが、正月の祭りで行われる獅子舞を考えるとイランの影響も考えられるという。それから、岩の上の「鳥の王者」鷲、森の中の「まだらもの」虎、湖の「金の目」である魚、などである。ミラレパが同時に用いた他の文法的な方法も、今日の民衆の歌の特徴となって残っているといわれる。

四つの悪魔を征服せる父、
翻訳僧マルパに 頂礼す。
我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 氷河の白い獅子の (まこと)その息子、
母の胎にて 全き「三倍の力」で身のつくられてありしこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 巣の戸口を 守り果つ。
一度(ひとたび)成長しとげたる今 氷河の上を歩み、
嵐の中もよろめかず、
底知れぬ穴にも恐れを抱かざり。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 鳥の王者 荒鷲の(まこと)その息子、
卵の中にありて わが翼のすべてひらきてありしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 巣の戸口を 守り果つ。
一度(ひとたび)大鷲となりたる今 天の頂を超え、
果てなき空もよろめかず、
狭き地上に恐るるぞなき。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 大魚「ゆらめく濤(なみ)」の(まこと)その息子、
母の腹にありて わがまろき「金の目」を具えてありしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 群れの先きを 泳ぎてわたれり。
一度(ひとたび)大魚となりたる今 大海原を廻游(へめぐ)り、
うねりの中もよろめかず、
魚網(さかなあみ)にも恐れを抱かざり。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 正伝の譜をつぐグルの(まこと)その息子、
母の胎にありて わが信仰の生まれたりしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 法にひたりて過しやり、
青春期(わかきひ)は 学僧として 学び果つ。
大瞑想家となりたる今 山の庵に通い、
悪魔に向かうもよろめかず、
あやしき魔術にも恐るるぞなき。

‥‥

 

チベットの文化


ダライラマ13世 (1876-1933) はイギリスに攻められれば、モンゴルに亡命し、中国に攻められればインドに逃れたが、チベットに帰還できた。しかし、14世は、未だチベットに帰れない。スネルグローブとリチャードソンは『チベット文化史』の中で1959年以来、中国人支配者たちは、チベット文明の主な源泉を破壊し尽くしたと言い、宗教的・貴族的社会秩序に続いて農民、牧畜民、商人の物質的、宗教的福利を破壊したのだと述べる。それはイングランドにおけるクロムウェルのアイルランド侵攻を彷彿とさせるものだという。文革での中国の文化破壊を考えれば、これは大げさではないだろう。

今では中国政府も文化の資本価値を再認識しつつあるのかもしれないし、youtubeなどを見ていると、いわゆるチベットオペラと言われるアチェ・ラモなどは劇場用にいささか無理にだが洗練され、わりとupされている。けれど、1959年以前の文化的基盤は二度と取り戻せないだろう。スネルグローブらは、むしろ、チベットに働きに出ていたネパールやブータンの職人たちの技術を伝承することが重要だと言う。とりわけ、ブータンは足早に消えようとしている一つの文明の唯一の代表であり、毅然として自足しているように見えると言うのだ。確かに、ブータンに残っていれば、将来的にチベットでの文化的復興も可能かもしれないのだが‥‥それには、当然ある条件が必要だろう。

 

宗教仮面舞踏チャム 約5分

 

 

 

引用文献 及び 参考文献

 

デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソン 1998年刊
『チベット文化史』 題名通り歴史的な部分にウエイトがある立派な著作。

『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモ三話 三宅伸一郎、石山奈津子 訳
チベットの伝統演劇を収録、レアな著書。特筆すべきは、チベットのこれら民間の歌舞劇の仮面は立体ではなく、板状の平面であることだ。

『チベット ポン教の神々』展カタログ
国立民族博物館編
ボン教は、ここではポン教という名称になっている。

クレチヤン・ド・トロワ「アーサー王 円卓の騎士の物語」part2 『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』

 

お正月も過ぎましたね。昔は、別火の物忌みとかでお正月は火を使わないというしきたりもあったようだけれど、僕の子供の頃にはなかった。広島では既に廃れてしまっていたのか我が家にはそういった習が無かったのか、よくは分からない。地方によって異なるのかもしれない。おせち料理は、主婦がお正月から働かなくてもいいようにと言う意味もあるのだと思うけれど、この物忌みのためだと言う人もいる。ともあれ新たな年神様を迎えるために門松を立て、鏡餅を供えるのだが、大晦日から元旦への夜は物も事も時も一旦死して新たな年が生まれるクライマックスだった。柳田國男さんなんかは、この来訪神は穀物神で山の神だと書いている。多分、はるかな昔は平地の田より水の管理が容易な山の棚田が主流だったのだろう。この山神様は、小正月にとんどの火を焚いて山に送られるのである。

ところで、かつてケルトの社会では、大晦日は10月の末日で、新年は11月1日だったそうだ。この古い年が死に、新しい年が目覚める大晦日の夜、彼らの神話では妖精の塚の扉が開かれて先祖の霊や異界の者たちがこの世に現れ、死者が未来を予言するのである。死者の訪れを待ち霊を供養する、これが、アイルランド・ゲール語で「夏の終り」を意味する「サウィン」の夜だという (鶴岡真弓『ケルトの想像力』)。今日のハロウィン (10月31日) の起源だ。しかし、旧と新、生と死が交錯する夜に新たに来るものは、冬の暗黒でもあったから人々は浄化の篝火を焚いた。この冬の始まりは、古い王が殺され、新しい王が現れるとされている。この万霊節の夜、アーサー王は従者を従え馬でタラの丘を一回りすると言う (井村君江『ケルトの神話』)。

 

夏目漱石 『薤露行』日本のアーサー伝説


 

最近では、アーサー王伝説と北東イラン系騎馬民族のスキタイやサマルタイの伝説との共通性を指摘する仮説が登場していて、東方起源説が取りざたされている。C・スコット・リトルトンとリンダ・マルカーの『アーサー王伝説の起源』という著書だ。「スキタイからキャメロットへ」という副題がついている。コーカサスのアラン人の祖先であるセット人の「ナルト叙事詩」にも近いとされているようだ。アラン人がローマの傭兵として雇われてガリアにその伝承を伝えたというものだが、日本にもちゃんと伝わっている。

王妃グニエーブル/仏 (グエヌエラ/羅) ドラ・カーティス画 1905

「百、二百、群がる騎士は数をつくして北の方なる試合へと急げば、石に古りたるカメロットの館には、ただ王妃ギニヴィアの長く引く衣の裾の響のみ残る。薄紅の一枚をむざとばかりに肩より投げかけて、白き二の腕さえあからさまなるに、裳のみは軽く捌(さば)く珠の履 (くつ) をつゝみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。」

なんか、格調高い。英国留学の手土産にアーサー物語を夏目漱石は、こう綴った。その名も『薤露行/かいろこう』である。トマス・マロリ― (1399-1471) のアーサー物語は、簡素素朴で良いけれど、小説としては散漫だから自分はより小説に近いものに改めたと漱石は書いていた。大人の小説にしたかったのだろう。それに、アルフレッド・テニソン  (1809-1892) の『王の牧歌』の影響は大きかったと言われる。

題名の『薤露行』の薤露』は、漢の田横が自死した時に門人がこれを傷んで作った哀歌である (『楽府/がふ)。人の命は、薤 (かい/らっきょうや大ニラ) の葉の上の露のように儚いことを指していて、「人死んで一たび去り何時か帰る」と詠われていた。薤露行というのは葬送行進曲のことだろうか。

漱石はそんな感じの小説にしたかったのだろう。漢籍の素養の豊かさが偲ばれる。テーマは貴人の葬送であり、古代の中国と中世の英国とが死を媒介に反響し合っていると『漱石とアーサー王伝説』の著者、比較文学者の江藤淳さんは書いている。罪と愛の甘美に身悶えするランスロットとアーサーの王妃ギニヴィアとの禁断の絆は悲劇を呼ぶ。因みにギニヴィアはグニエーブル/仏の英語読みである。

ランスロットへの報われぬ愛に身罷ったエレーンが乗せられた舟が波に揺蕩 (たゆた) う時、シャロットの妖女の悲しき声が「うつせみの世を、‥‥‥うつつ‥‥‥に住めば‥‥‥」と尾を引いて消えた。最終章には、こんな葬送の件 (くだり) がある。最も美しい、涼しき顔を、雲と乱るる黄金の髪に埋めて、笑える如く横たわるエレーンの屍を載せた舟は杳然 (ようぜん/遥かに遠く) として何處ともなく去っていく。この葬送の舟は、彼女の魂を異界の扉へと導いていくようだ。

 

そもそもどうして円卓なのか ?


 

 ウァース『ブリュ』の円卓

日本に飛び火するほど感染力の強い「アーサー王と円卓の騎士」だが、ファンタジーものの偉大な源流の一つと言っていい。『里見八犬伝』とか『水滸伝』なんかもそうだけど、何人かの登場人物にそれぞれ物語りを割り振って色々な冒険譚を創り上げ、それらを一つの環に繋げて壮大な物語集にしていくのは、なかなか興味深い手法だ。しかし、何故、円卓なんだろう。この頃の宮廷では円卓が流行っていたのだろうか?

『ランスロットと聖杯』15世紀 写本 五旬節を祝うために集うアーサー王と騎士たち

どうも、円卓のもともとの起こりは、ノルマンディーの学僧ウァースが、part1でご紹介したブリタニア版の『アエイス』といわれる歴史物語、ジェフリー・オヴ・モンマスが書いた『ブリタニア王列伝』を翻訳・翻案した『ブリュ物語』の中で高貴な武将達が自分こそ最高の騎士であると言い張って譲らないために上席権争いの調停として円卓を設定したことによるらしい。前回と同様、アーサー王伝説の研究の第一人者であるジャン・フラピエの『アーサー王伝説クレチヤン・ド・トロワ』からご紹介する。名著だ。

ウァース(1115頃ー1183頃)『ブリュ』1155

ウァースは、ウェールズかアルモニア生まれの学僧であると言われている。この『ブリュ』は1155年に完成し、プランタジネット朝のヘンリー2世の妻だったアリエノール・ダキテーヌに献呈されたもののようで、正式には『ブリトン人の偉勲』と題されたものだった。フラピエによれば、『ブリュ』の名称は、ブリタニアの創始者ブルートゥスに由来するらしい。この作品は、先行するブリタニア王列伝』の翻訳ものの群を抜いてしまった。

これら翻訳ものは、ジェフリーの作品を基にしているもののウェールズ語に訳す時に、その固有の名前や伝承のディテールを挿入していて、ある種の改変があるらしい。一つの言語から別の言語に移し替える時、多くの名前は音声学的な法則の枠内で歪められる運命にあるとフラピエは言う。例えば、ラテン語の「エウゲニウス」は、ウェールズ語で「オウェイン」Owainとか「イウェイン」Ywainとなるけれど、「y」は「i」と発音されるために「イヴァン」の綴りがあらわれるのだと言うのである。なるほど。

ウァースは、ジェフリーの作品の中の素材に対しては、ほとんど手を加えなかったが、ラテン語の散文『ブリタニア王列伝』にユーモアを加え、軽快で生命力あふれた八音綴りに訳しかえているという。とりわけ頭語、単語や文章のリズミカルな繰り返しと対句や交叉配列を取り混ぜて、後のクレチヤン・ド・トロワの作品に少なからず影響を与えたと考えられている。文章の見た目はかなり変わったはずだ。ともあれ、ジェフリーの作品やウァースの翻訳によってアーサー王伝説の信憑性は、いやが上にも高められた。この二人のおかげでアーサーはシャルルマーニュやアレクサンドロスと同格の地位を与えられるようになったのである。

 

ロベール・ド・ボロンマーリン』に登場する円卓

悪魔が郷紳の三人の娘を篭絡しようとする。下の二人の娘は簡単だったが、上の姉は、聴聞司祭にも教えをうけるような善良で信仰厚い女性だった。そこで悪魔は、夢魔を呼んで姉が眠っている隙に、交わらせた。姉は知らぬうちに悪魔の子を身ごもる。司祭は彼女に告解と改悛をさせ、金曜日に一日一食とする贖罪の行を課し、娘はそれによって救われた。子供は悪魔の力によって過去の全てを知る能力を得、キリストによって未来を見通す力を与えられ、この世で最も賢い預言者となった。その子の名をマーリン/英 (メルラン/仏) と言った。魔術師マーリンの誕生である。聖俗の両極端が結びついた存在なんて、なんかユングとか喜びそうだ。

ロベール・ド・ボロン『メルラン』13世紀写本
夢魔に犯される姉

マーリン伝説は、もともと、ケルト系の「森のマーリン」とサクソン人に抵抗したアンブロシウスの系統の二つに分かれると言われている。既にpart1で紹介したネンニウスの『ブリトン人の歴史』には、夢魔にはらまされた父のない子として描かれ、搭が建てられる土台の下の壺が語られ、その中の天幕にある白い虫と赤い虫の戦いが述べられる。ブリトン人とアングル人との戦いが、この二匹の虫に象徴される龍の戦いの逸話として書かれている。その子の名はアンブロシウスと言うのである。このネンニウスの逸話を引き継いだロベール・ド・ボロン(12世紀後-13世紀前) が1210年頃書いた作品が、この著書『メルラン』(邦題は『魔術師マーリン』) で、1170年頃書かれた今からご紹介するクレチヤンの『聖杯の物語あるいはペルスヴァル』の後の作品となる。その中でマーリンをパンドラゴン王とその後を継いだ弟ユテル (後にユテル・パンドラゴンと名が改まる) の相談役となって次々に預言を行う聖者のような存在に設定している。ユテル・パンドラゴンがアーサー王の父となるのである。

アリマタヤのヨセフ サン・ジャン教会 フランス

アリマタヤのヨセフはキリストの遺体を引き取った人物だった。ローマ軍によってエルサレムが破壊された後、一族の者らと共に砂漠の荒野に向かった。この時、ひどい飢餓に見舞われ、キリストに何故そのようなことが起こったのか解き明かし給へと祈った。主は最後の晩餐で裏切ったユダの席が空白となっていることを明かし、この第一の卓に真似た第二の卓を設けるように指示したのである。そこに御自分の杯を置き、この席に座るものには心の充溢が与えられると教えた。空腹と聖杯が結びつけられていることをご記憶願いたい。

ユダの空席に坐るべきものはアリマタヤのヨセフだった。彼は、伝説ではブリテン島に渡るのである。マーリンは、このような卓をウェールズのカーデュエルに設えることをユテル・パンドラゴンに提案する。50人の騎士が参集したが、その中の一つの席が空いていた。面識のなかった彼らは、まるで親子のように互いに愛しあったという。ボロンのこの作品では、円卓は、このユテルから始まる。

しかし、その空席に座ろうとしたものは消えてなくなるのだった。この空いた席の秘密をマーリンはこう語った。そこに坐るものの父親は、まだ妻を娶っておらず、卓の完成は次代の王の治世となる。この席に着くものは、その前に聖杯の卓の空席に着かねばならず、聖杯の守護者たちは未だ、そこが埋まることを見たことがないと。次代の王とはアーサーを指していて、クレチヤンの『聖杯物語』を補完する形になっている。

 

聖杯の物語あるいはペルスヴァル』グラアルとは何か


 

ペルスヴァルの出自とアーサー王の宮廷

さあ、聖杯の物語あるいはペルスヴァル』に入ろう。フランドル伯フィリップ・ダルサスに捧げられたクレチンの未完の作品である。ダルサスに「聖杯物語」の掲載された書物を与えられ、これまで宮廷で書かれたものの中で最高のものを韻を踏んで書くのだとクレチアンは述べている。漱石みたいにやる気満々だった。後世に語り継がれる一つの神話といってよいものを形成することになるのである。この物語によって、聖杯という言葉の周囲に、何世代にも亘る思想や感情、夢が結晶化していくとフラピエは述べている。確かに ! 

フランス中世文学集2 愛と剣
クレチン・ド・トロワの『荷車の騎士』、『聖杯物語』、マリー・ド・フランス、ジャン・ルナールの著作収載

ペルスヴァルは、無垢な野人として登場する。騎士となった兄二人は戦死し、アーサー王の父であるパンドラゴンに仕えた騎士である父親は、その知らせを受けて気を病んでみまかった。母は、ペルスヴァルに騎士というものに一切触れさせないように育てたが、ある日、アーサー王を尋ねる騎士の一団に巡り合ってしまう。こうして、この無垢で素朴な若者は、それが定めであったかのようにアーサー王の宮殿に向かうのである。その後ろ姿を見ながら母が気絶するのを彼は見る。彼女は、しばらく後に亡くなってしまうのだが、そのことをペルスヴァルは知らない。

アーサー王の宮廷へ行く途中、テントの中の乙女と出会う。礼儀を知らぬこの若者は、母親に教えられた通りに挨拶し、接吻し (物語によれば7回)、指輪をもらい (奪い)、ご馳走を勝手に食べ、乙女に神の祝福があるようにと挨拶して立ち去った。この間、乙女の意思など全く注意を払われた気配すらなかった。乙女は後で恋人にひどい目にあわされることになる。

宮廷に到着したのは、カンクロワの森の真紅の騎士が、アーサー王の領土を要求し、彼の盃を奪い、その拍子に妃の頭の上に酒をそっくりぶちまけると言う乱暴狼藉を働いた後だった。ペルスヴァルには、そんなことは、どうでもよかったので騎士にしてくださいの一点張りだった。執事で口汚いことで知られるクーが、真紅の騎士の武具甲冑を奪ってくればいいと言った。ペルスヴァルは、真紅の騎士を追いかけて、甲冑を早く脱げと要求する。怒った騎士は、穂尖のついていない方の槍先で肩を激しく突いたのでペルスヴァルは馬の顎のあたりまで突っ伏した。騎士の恰好をしてない相手を脅かしたつもりだったのだろう。しかし、ペルスヴァルは真紅の騎士の目に向けて短槍を放つと、刃先は目から脳髄を刺し貫いて首の反対側へ血と脳漿と一緒に飛び出た。様子を見に来たアーサー王の騎士イヴォネに手伝ってもらって真紅の騎士の鎧兜を着けてもらい、武器と馬を頂戴し、アーサー王の金の盃をイヴォネに返してくれるように頼むのだった。

ゴルヌマン・ド・ゴールという有徳の士がペルスヴァルに騎士としての技や嗜みを教え、饒舌を避けるようにと注意を与えて彼を送り出した。敵に包囲されて餓死の危機に会うブランシュフルール姫を救い、やがて深くて速い流れの川で病身の漁夫王が気晴らしに釣りをしている光景を見る。その王の城に迎え入れられると、金髪の乙女が携えて来たという、運命づけられた剣を贈られる。そして華麗な広間で豪華な食事が始まった。

聖杯と漁夫王の城

ブルターニュものとケルト神話には基本的なテーマの類似はある。人と妖精との恋、魔法の武器や豊穣の釜、客人への歓待、物忌み、奇妙な姿への変身、そして、とりわけ他界への旅である。ケルト人の他界は西の海の極楽浄土の島、海面下の楽園、地中の宮殿といった場所だった。他界の冒険に参入できるのは、恐怖と謎に満ちた試練を乗り越えることの出来る英雄か、妖精に連れ去られる恋の幸運に恵まれる者だけであった。これがアーサー王の物語の中では、封建社会の騎士道や宮廷風といった衣装の下に隠れはするが、幻想の魅惑をその文学に与えることになるのである。

クレチヤン・ド・トロワ『聖杯物語』14世紀 写本 漁夫王の城のペルスヴァル

「室内は、館の中を蝋燭のあかりで照らしうる最大限の明るさで、とても明るかった。二人があれこれと話し合っている間に、とある部屋からひとりの小姓が、白銀に輝く槍の、柄の中程を持って入ってきて、炉の火と寝台に坐っている二人との間を通った。そして、その場に居合わせた人たちはみな、銀色の槍、銀色の穂尖を見、一滴の血が槍の尖端の刃尖から出てきて、小姓の手のとろまでその赤い血は流れ落ちた。その夜そこへ来たばかりの若者は、この不思議を見て、どうしてこんなことが起こるのか、尋ねることを差し控えた。(天沢退二朗 訳)」

ペルスヴァルに騎士道を教えたゴルヌマン・ド・ゴールが、彼に教えた忠告は、「あまりしゃべり過ぎないように気をつけよ」ということだった。

「そのとき、また別の小姓が入ってきた。手には、それぞれ、純金で、黒金象眼を施した燭台を捧げていた。この、燭台を持ってきた若者たちは大変に美しかった。それぞれの燭台には少なくとも十本ずつの蝋燭が燃えていた。両手で一個のグラアルを、一人の乙女が捧げ持ち、いまの小姓たちと一しょに入ってきたが、この乙女は美しく、気品があり、優雅に身を装っていた。彼女が、広間の中へ、グラアルを捧げ持って入ってきたとき、じつに大変な明るさがもたらされたので、数々の蝋燭の灯もちょうど、太陽か月が昇るときの星のように、明るさを失ったほどである (同上)。」聖杯=グラアルの登場である。

グンデストルップの大釜 前1世紀 ラテーヌ期
銀製 デンマーク国立博物館 グンデストルップ出土 豊穣の釜のイメージを彷彿とさせる。

「その乙女のあとから、またひとり、銀の肉切台を持ってやってきた。前を行くグラアルは、純粋な黄金でできていた。そして、高価な宝石が、グラアルにたくさん、さまざまに嵌めこまれていたが、それらはおよそ海や陸にある中で、最も立派で最も貴重なものばかりだった。まちがいなく、他のどんな宝石をも、このグラアルの石は凌駕していた。さきほど槍が通ったのとまったく同じように、行列は寝台の前を通りすぎて、一つの部屋から次の部屋へと入って行った。若者は、それらが通りすぎるのを目にしながら、あえて訊ねようとしなかった、グラアルについて、誰にそれで食事を供するかを (同上)。」

この聖杯には聖体が入っており、それに血の滴る槍となれば、キリスト教の秘跡や儀式と結び付けるのは容易だ。槍はキリストの脇腹を突いた兵士ロンギヌスの槍であり、杯はキリストの血を受けた聖杯と考えるのは自然なことではある。ロンギヌスの槍をアニメ、エヴァンゲリオンのオリジナルだと思ってはいけません。しかし、フラピエは、「グラアル」という名称が使われるのは聖杯や聖体器にはそぐわず、驚きだと言う。次に肉切台が出てくることからグラアルは食器の一つではないかと言うのである。

ジャン・フラピエ
『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』アーサー王伝説の原型を知る上で貴重な著作である。

12世紀中盤に書かれた、シャルル2世と戦った9世紀のブルゴーニュの族長ルシヨン武勲詩『ジラ―ル・ド・ルシヨン』には大杯や鉢、などの他に金ラメのグラアルが挙げられているとフラピエはいう。また、12世紀後半に書かれ、アレキサンダー大王を扱った『アレクサンドル物語』には「相手とともにグラアルで食べた」という記述が登場するらしい。13世紀の年代記の著者エリナント・ド・フロワモンは、「グラアル」が当時意味していたものの一つとして、次のように述べている。グラダリスあるいはグラダレとは、広くて些か窪んだ器を言うフランス語で、高級な料理を肉汁と一緒に入れて順番に裕福な人の前に給仕するための器だと。俗にグラールツとも言う。

後の、隠者とペルスヴァルとの会話では、謎を解く隠者が、お前が槍やグラアルについて尋ねなかったのは、お前の出奔のためにみまかった母への罪ゆえだと語る。そして、かのグラアルで給仕を受けているのは漁夫王長者の息子にちがいない、そのグラアルの中にあるのはカワマスやヤツメウナギやサケではなく聖体なのだと明かしている。魚はキリストの象徴でもある。

ケルトの神話にもまた槍や豊穣の器の話が伝わっている。それは異界の護符としての火の槍になったり、赤く血に染まった槍となり、復讐や破壊の恐るべき道具となる。英雄ブランの物語は、漁夫王の話と平行な部分があるとフラピエは言う。異界の王、海神であり、不思議な鍋と豊穣の角を持つ。そしてまた、戦闘中、槍によって負傷し、統治を断念した王でもある。わりと似た話は、マビノギの第二の枝『スリールの娘ブランウェン』にあるアイルランドの大洋周航が城の濠や川を渡ることに縮小され、異界の宮殿の不思議は深い川のほとりに忽然と現れ、住人は説明のつかない形で消え失せる。漁夫王の城は、中世のそれと言うよりアイルランドのタラの王宮や異界の神が主人であるブリュイデンの宴の間といったものが相応しいという。

アーダの聖杯 8世紀 銀製、金、金銅など アーダ砦出土 アイルランド国立博物館

1952年の『アーサー伝説と聖杯』の中で、ジャン・マルクスは、こう述べている。かつて、異界の王の魔法の城の周辺は特別に肥沃な地だった。しかし、王の護符の一つであった魔法の武器 (槍や剣) によって、邪悪で苦痛に満ちた一撃を加えられた王は男性の機能を、あるいは生命を失い、その地は「荒地」となった。この災害は地上の城にも影響を与えることになるだろう。地上の宮廷から出発する聖杯の探索とは、不毛と死とに脅かされている異界の呼びかけに答えるものである。選ばれた者である主人公は、聖杯の城に入ってゆき、試練に打ち勝ち、邪悪な一撃による王の苦痛を取り去り、病身の王を治癒し土地に豊饒を取り戻すなら、自ら聖杯と異界の王となると言うのである。

フラピエは、我々が知っている『聖杯物語』とは、妖精界や魔術的な不可思議に属する要素を、キリスト教的な要素とまぜあわせていると述べている。ここには、かつてのケルトの伝承に関わる、料理をふんだんに生み出す魔法の鍋、酒やネクターを尽きることなくたたえる大甕、それらの延長線上にあるグラアルとキリストの秘跡による聖杯とが結びついたと考えてよいのだろう。行列の場面の周囲に広がる曖昧な雰囲気、聖と俗のまじりあったあの明暗は、二つの異なった構造を重ね合わせ、クレチアンの完璧な才能と華麗な主題の恵みによって詩的創造に結晶したとフラピエは強調するのである。

 

生命の聖杯と言葉の槍


 

このペルスヴァルの物語における「荒地」が、トーマス・スタン・エリオットの畢生の詩『荒地』のタイトルとなったことは、T.S.エリオット part1 『荒地』リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリックに述べた。ペルスヴァルの沈黙によって王の傷は癒されることなく、城の人々は消え失せるのである。彼はキリストの教えに背いて5年の放浪を続けて、とある隠者のもとに立ち寄り、回心する。そして、対位法的に進行するゴーヴァンの物語がアーサー王の母の住む城への到着と次なる展開が生み出されようとするところでクレチヤンの寿命は尽きた。荒地となった漁夫王の土地は回復するのだろうか。アーサー王伝説の源『ブリタニア王列伝』のアーサーは、アヴァロン島に向かったままその消息は明らかにされなかった。クレチンの死によってペルスヴァルの行へもまた謎のまま残されるのである。

死と生が交差するサウィンの夜、ケルトの民は食べ物を供えて先祖の霊や死者たちを供養したという。そのとき、死者の霊たちから生命の活力を授けられたのである。今日、ハロウィンに子供たちにお菓子を与えるのはその名残だと言う。このケルトの本源的交換と食べ物を生み出し続ける豊穣の釜=グラアルは、人間の罪故に殺され復活したキリストの象徴としての聖杯に重ねられた。クレチアンは、その巨大な二つの碁層を物語という言葉の血が滴る槍で諸共に突き刺したのである。死にかわり、生きかわる人間の生命の根源に達するまで。

 

参考図書 及び 引用文献

 

江藤淳『漱石とアーサー王伝説』1975年刊

『マビノギオン』「スリールの娘ブランウェン」「エブロウグの息子ペレルディルの物語」収載

ロベール・ド・ボロン 西洋中世奇譚集成 『魔術師マーリン』  2015年刊

ネンニウス『ブリトン人の歴史』最古のアーサー王に関する文献。ラテン語名アルトゥスという指揮官として登場する。

C・スコット・リトルトンとリンダ・マルカー『アーサー王伝説の起源』

 

 

クレチヤン・ド・トロワ「アーサー王 円卓の騎士の物語」part1『獅子の騎士イヴァン』

 

アーサー・ラッカム(1867-1939)画
『夫のもとへと騎乗するア―サー王の王妃グ二エーヴル』

血統を誇り、武芸に秀で、宮廷風な雅を備える騎士たるものは、その言葉遣い、振舞い、センスの良い衣装、戦いにおける勇猛と深慮、忠誠心と寛大さと気前の良さを併せ持たねばならなかった。でも、これって、ちょっとハードル高いんじゃないのかな。光源氏の雅と義経の武門の誉を併せ持てといわれれば、どんな男性だって引いてしまうでしょ。

そして、生来の高貴な気高さと秘かな想い、他を抜きんでた類 (たぐ) 稀な魂と肉体の美、これらの資質を有する者が、あらゆる徳を照らす貴婦人・王妃である。清少納言の才知を持てと言われないだけ良いのかもしれない。でも、これが「宮廷風」と呼ばれるものの理想だった。

これに加えて宮廷風の主人公は、恋をしなければならなかった、これは義務だったのである。宮廷風の完成には恋は欠かせなかった。仕えるべき高貴な貴婦人や乙女が必要だった。意中の人を前にし、あるいは彼女を思うだけで宮廷風騎士は高揚した「喜び」に貫かれる。この「純愛」は、中心思想 (サン) となり、中世における最も独創的な創作物となったとジャン・フラピエは語る。例えば、こんな感じです。

「このように彼女がランスロに対して大きな愛を感じていたとすれば、彼のほうもまた、その何倍も深い愛を彼女に対していだいていたのである。‥‥今度こそはランスロは望めるだけのものはすべて手にいれることができた。それというのも王妃は彼が傍にかしずき、愛の奉仕を捧げるのを許し、彼は彼女、彼女は彼を互いに腕にかき抱いたからである。この抱擁はまことに甘美なもので、それは接吻と互いに触れ合う五感から来るものであったが、間違いなく、これほど深い喜びが、かつてあったことも語られたこともないほど深いものであった。しかし、筆にすべきでないことについては、いつまでも沈黙を守るとしよう。(クレチヤン・ド・トロワ『ランスロまたは荷車の騎士』神沢栄三 訳)」

高踏的にならず素朴すぎもせず、中庸な感じの描写が好ましい。これは、確かに甘美な悦楽ではあったが、不倫だった。このクレチヤンの物語は、aa、bbと二行ずつ韻を踏む、中世の詩としては標準的な八音綴平韻の形式で書かれていて13世紀フランスの『薔薇物語』同じ形式だけれど、愛の神がそのまま登場するのとは異なり、擬人化といった寓意の手法は表立ってあらわれてこない。

 

バターシーの盾(BC 350-50)テムズ川、
ロンドン出土 青銅製  筆者撮影

紀元前450年からローマによって征服されるまでの紀元前1世紀、既にヨーロッパは鉄器の時代に入っていたが、チェコからオーストリア、西南ドイツから東フランスまでの地域に栄えたラ・テーヌ文化の主役はケルト族だった。この時代、ブリテン島に渡った彼らは、ローマと闘いながらスコットランドやウェールズ、アイルランドに逃れ、ローマ帝国の支配を拒んだ。

5世紀にゲルマン諸族の中のサクソン族がブリテン島に侵入する。その異敵と12回もの合戦を戦った最高司令官はアルトウスと言った。8~9世紀に歴史家ネンニウスは『ブリトン人史』の短い章にそう書いた。アーサー王のラテン語名である。ある程度ローマ化され、キリスト教化されたケルトの子孫たちは、ゲルマン諸族に追われてブリテン島南部、いわゆる南ブリタニアから再びウェールズやアイルランドに逃れた。ある者たちはブリテン島の南西の端、コンウォールへと、ある者たちはフランスに渡りアルモニアの地、今日のフランス北西部であるブルターニュの地に定着した。

アーサー王物語の端緒は、1136年にジェフリー・オヴ・モンマス (ジェフロワ・ド・モンムート/仏) が書いた『ブリタニア王列伝』と言われている。モンマスは、ウェールズかアルモニア生まれの学僧、つまりローマ教会のスコラで学んだ知識人だった。彼は先行するいくつかの歴史書を史的な価値とは無関係に自由に文学の材料として使った。こんな歴史書たちだ。

ギルダス『ブリタニアの破壊と征服』6世紀
ベーダ『イギリス国民教会史』731年
ネンニウス『ブリトン人史』8世紀 (9世紀)
ウィリアム・オブ・マームズベリ『イギリス王実録』1125年 など

これらの歴史書からの乏しい情報を巧みにつなぎ合わせ、そこに空想力を存分に働かせて12巻ものラテン語の散文に書き綴った。ことは、トロイが陥落して三世代後の執政官であるあのブルートゥスが大ブリテン島までの航海に出発することから始まりブリタニア独立の終りまでが語られる。ブリタニア版の『アエイス』だった。とりわけ、9巻と10巻にアーサー王の権勢とその栄光が綴られている。

 

ジェフリー・オヴ・モンマス 『ブリタニア王列伝』のアーサー王


 

『キリスト教の英雄タぺストリー』1385年
9人の王位継承者の一人としてのアーサー王

ここからは、ジャン・フラピエ (1900-1974) の『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』から適宜ご紹介していきたい。アーサー王伝説の最良の解説書の一つだ。ソルボンヌの教授を務め、国際アーサー学会を結成した人として知られる。著書によってはクレチアンやクレティアンといった訳語の表記が異なるがクレチヤンに統一させていただいた。

予言者であり魔法使いのメルラン (マーリン/英) の魔法によってコンウォール公に化けたユテル・パンドラゴン (ユーサー・ペンドラゴン/ウェールズ) が、公の夫人イグレーヌと交 (か) わした一夜の愛の契りによってアーサーは生まれるとジェフリーは書いた。『ブリタニア王列伝』のアーサー王の物語は、歴史の埒外に、ロマネスクでケルティックなファンタジーに仕立てられたのだ。

アーサーの武具は、父王パンドラゴンが戦いの印としたドラゴンを頂く金の兜、聖母の描かれたプリドウェンの盾、アヴァロン島で鍛えられた剣カリブルヌス/羅 (エスカリボル/仏、エクスカリバー/英)、そしてロンと呼ばれる槍であり、全てケルト起源の言葉のようだ。15歳で即位し、その武勇と寛大さで貴族を見方につける。サクソン人を破ってブリタニアを奪回、アイルランド、アイスランド、ノルウェーを征服し、ローマの司令官フロロの頭を真っ二つにしてパリに入り、ガリア全土の支配者となる。

アーサー王の王妃は、グエヌエラ (グニエーヴル/仏) と言う名で、ローマ貴族出身の大ブリテン島一の美女という設定となっている。ケルト語の「白い幽霊」、つまり精霊を指す言葉のようだ。アーサーはガリア征服の後、帝国の支配者となり大ブリテン島で戴冠式を挙行するが、ローマから服属せよとの書状を受け、再び、ローマとの対決を決意する。フランス、シャンパーニュのシエジア平原でローマ軍を打ち破ったのも束の間、甥でゴーヴァンの兄弟にあたるモルドレの王位簒奪と王妃グエヌエラ の背信の知らせを受ける。

ブリタニアに戻ったアーサー王は熾烈な戦いを制してモルドレを討ち取った。542年の事とされる。しかし、ゴーヴァンは戦死し、王自身も瀕死の重傷を負った。そして、手当のためにアヴァロン島に運ばれ、話は終わる。このたった二行の余韻が凄まじかった。生きているとも死んだものとも分からない王の消息はここで途絶えるのである。その後のアーサーはどうなったのか ?  この物語は、200もの写本が作られ、瞬く間に俗語に翻訳され、それを契機に『アーサー王物語』のヴァリアント群が形成されていった。こうして、アーサー王は、英・仏にまたがる地域で家臣に囲まれたヤマトタケルになったのである。

 

クレチヤン・ド・トロワ


 

12世紀は中世の春である。人文主義が芽吹く時代だった。この世紀の中葉、北フランスに宮廷文学が出現する。中世の多くの作家たちの生涯は、ほとんどがよく分かっていない。いくつかの詩や『エレックとエニッド』『クリジェス』『ランスロットまたは荷車の騎士』『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』や『獅子の騎士イヴァン』といった物語を書いたクレチヤン・ド・トロワもその例外ではなかった。おそらく、シャンパーニュ地方のトロワの出身と考えられている。学僧としての教養は身に着けていて、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (1160頃-1220頃) は、彼を「マイスター・クリスチャン・フォン・トロワ」と呼んだが、司祭にはなっていないようだ。

ベルグソンの高弟であったアルベール・ティボーデ (1874-1936) は、「中世の物語、それは学僧と、その言葉を聞く貴婦人である」と述べたと言うが、当時、在俗司祭や修道会員の他に司祭ではない学僧や落伍した放浪学僧たちがいた。この学僧たちは教養で身を固め宮廷へと入っていった。シャンパーニュ伯妃のマリー・ド・フランス (マリー・ド・シャンパーニュ) といった貴婦人たちが耳を傾けた相手は、このような学僧たちであった。

クレチヤンはウェルギリウスやオウィディウスの影響を受けたが、古典の摂取にとどまることなく、そこから引き継がれた教養を騎士道に結びつけることに腐心した。このような総合が宮廷風人文主義の原理、つまり、一つの文化を理想的な生きた姿にすることを可能にするのである。マルク王と金髪のイズーといったブルターニュの伝説に触発され、南フランスの恋愛の詩歌カンソ、北フランスのシャンソンといった複雑な技術をものにしていたという。それに、アリストテレスの影響が浸透するまでは聖書の解釈から導き出される象徴性は、重要な中世の「知的用具」だったとフラピエ は述べている。別の「知的用具」として、次のような例もある。

フランス中世文学集2 愛と剣
クレチヤン・ド・トロワの『荷車の騎士』、『聖杯物語』及び、マリー・ド・フランス、ジャン・ルナールの著作を収載

「御坊様、とかれは言う、なんと五年もの間、わたしは自分を見失っておりました。神を愛さず、神を信じませんでした。ひたすら悪をのみ為しておりました」

「ああ ! 友よ と立派な人は言った、聞かせていただきたい、何ゆえそのようなことをなされたのかを。そして、神に祈られよ、罪人の魂を憐れみ給うように」

「御坊様、漁夫王の館に一度私は赴き、槍の穂尖が、疑いもなく、血を流すのを見ました。そして、その血の滴が、白銀の刃の尖端に結ぶのを見ながら、何ひとつ質問をしなかったのです。以来、わたしは全く、改悛しませんでした。また、わたしが目にしたグラアルについても、それで誰に食事が供されたかを知らないのです。そんなわけで、以後、わたしは大変に心責(さいな)み、いっそのこと死んでしまいたいと思い、それで神さまのことも忘れたのです。以来、神に御憐れみを乞おうともせず、何ひとつしませんでした、わたしにも御憐れみを受けるに値するとわかっている何も」(クレチヤン・ド・トロワ『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』天沢退二郎 訳)」

このような聖職者や隠者との会話は、ある種、物語の解説の役を担っていて、その展開に、時折重要な役目を果たしている。後の13世紀の作者未詳とされる『聖杯の探索』では、宗教的な要素が、かなり強まっていて、シトー修道会に関わりがあると思われる作者は、この手法を多用しているのである。

 

『マビノギオン』とアーサー王伝説


 

ジャン・フラピエ  1988年刊
『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』

ケルト族が住んでいたアイルランドの口承文化は5世紀にキリスト教が伝えられて、その地の異教とキリスト教の融合したものになっていった。そこは諸々の伝承が媚薬のように混ぜ合わされる島だったとフラピエは述べている。最古のケルト伝承は10世紀から12世紀にかけてのアイルランドの写本に残されていた。

このアイルランドの伝承は交流の絶えなかったウェールズへと伝わり『マビノギオン』という果実を生んだ。短いものはマリー・ド・フランスの『短詩』に、長いものはクレチヤンの物語に似ているという。その成立年代の予測には幅があって11世紀から12世紀が一般的な意見のようだ。

この『マビノギオン』の中の『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』はクレチヤンの『獅子の騎士イヴァン』に、『エルビンの息子ゲライントの物語』は『エレックとエニッド』によく似ている。一方、『エヴロウグの息子ペレディルの物語』は『聖杯物語』に近いが、長虫退治があったり、コンスタンティノープルの女帝などが登場して多々異なる点がある。最も大きな違いは聖杯=グラアルがあらわれないことである。これらの物語の類似について、おそらくケルトの共通の素材を典拠としたのではないかとフラピエは考えている。とりわけ、『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』は、ウェールズ人によるアーサー王文学の傑作だと彼は言う。

ケルト人とフランス人が接触したのはブリテン島のコンウォールとウェールズ及び大陸のノルマンディーやそれに接するアルモニカ (フランスのブルターニュ地方) であった。ブリテン島を大ブリタニア、フランスのブルターニュは小ブリタニアと呼び習わされていた。ちなみにアルモニカはローマ人たちの呼び名である。

11世紀にはノルマンディー公ギヨームが、イングランドに侵攻し、イングランド王ウィリアム1世となった。その後、フランスのアンジュ―伯が王位を継承、英仏海峡にまたがるアンジュ―帝国が形成される。ジェフリー・オヴ・モンマスの『ブリタニア王列伝』のフランス語訳は、いにしえの記憶を保全したいとと考えていたノルマンディー・アンジュ―家のイギリス宮廷のためのものだった。この時代を含めてプランタジネット朝と呼ばれる時代が14世紀まで続いた。

この頃、フランスのノルマンディー地方で使われていたノルマン語がイギリスに流入しアングロ・ノルマン語を形成する。この言葉やフランス語、英語、ブリトン語を話す竪琴弾きや吟遊詩人が、イギリス側や小ブルターニュから、おそらくシャンパーニュに流れ込んで来たと思われる。このようなアングロ・ノルマン語などの言語でアーサーものが書かれた可能性がある。いわゆる「ブルターニュもの」と呼ばれるものだ。彼らのあまり緊密でもなく、心理面でも一貫性のないエピソードを「素材」とし、宮廷風と呼ばれる「主要概念」をもとに「構想」し、天賦の才で「物語」へと統一したのは他でもないクレチヤンなのだとフラピエは言うのだ。そこに、きめ細かな心理描写を挟み込み、ケルティックな幻想の風味を付け加えることも忘れなかった。中世の作家は構成に関して今の我々と同じようには考えていなかったともフラピエは言う。リニア―で単純な平面上に展開される話は、比較的複雑な階層に分かれた構造を探させるように誘うという。

 

クレチヤン・ド・トロワ『獅子の騎士イヴァン』


 

上 伝説のプロセアンドの森と考えられているフランス、ノルマンディーのパンポンの森
下 その森にあるメルラン (マーリン) の墓

この物語は、伝説のプロセアンドの森が導入の舞台となる。「霧雨が降っている。濡れたブナの幹の下、黄ばんだ葉が、ざらざらしたヒースの深く小さな茂みの上を、くるくる回りながら羊歯に沿って逃げてゆく(『ブルターニュ』菊池淑子 訳)」とこの物語の訳者は冒頭の「はじめに」に記した。

そこに在るのは、冷たい水なのに沸騰しているバラトンの泉で、悪魔の子、魔法使いのメルラン (マーリン) と妖精モルガンの交わした約定によって、その水を美しい松の木の枝に掛けられた黄金の盥 (たらい) に満たし、ほとりの大きな石に注げば、忽ち疾風迅雷の嵐がやって来る。そんなマジカルな森であった。

『獅子の騎士イヴァン』、この物語は『エレックとエニッド』と並んでクレチヤンの傑作の一つといわれている。泉には、エメラルドの巨大な石に一本水路が穿たれ、その底に真っ赤なルビーが四つついている。石に盥から水を灌ぐと伝説のように嵐が襲ってくる。稲妻が轟き、雨と雪と雹が、ごたまぜとなって叩きつけてきた。アーサー王と廷臣たちの前で、騎士キャログルナンは7年前のある不名誉な体験を語った。その話を聞いたイヴァンは、その泉を目指して冒険の旅にでるのである。この物語には、妖精の薬は登場しても妖精自身は登場しない。妖精に近づきすぎてはいけないとフラピエは警告する。

イヴァンは、聞いた通りに、その泉で金の盥で岩に水を灌ぐと、嵐が起こる。それによってなぎ倒され、破壊された領地の損害を償えと憎悪に燃え盛る眼をした騎士に戦いを挑まれた。嵐の度に彼の領地と城はどよめくのだ。その騎士を打ち負かし、自らの城に逃げ込んだ相手を追いかけたイヴァンは、刃のついた落とし戸に前後を阻まれて閉じこめられてしまう。

クレチヤン・ド・トロワ『獅子の騎士』
菊池淑子『フランスのアーサー王物語』

窮地に立つイヴァンだったが、かつてアーサー王の宮殿で親切にした王妃の待女リュネットに姿を隠すことのできる指輪を与えられるのである。トールキンの『指輪物語』みたいだ。王妃の夫であった例の負傷した騎士が亡くなり、智慧のまわる待女は、匿ったイヴァンを王妃と結婚させるのに成功する。彼女がこの物語のトリック・スターという分けだ。しかし、彼は、怠惰を戒める友人のゴーヴァンの説得に従って試合遍歴の旅に出る。

だが、王妃ローディーヌとの一年という約束の期限を破ってしまう。約束を踏みにじり、後悔に打ちひしがれていたイヴァンのもとに待女と思われる女性が現れ、彼の不実をなじり、その手から指輪を抜き取って去ってしまった。ここまでが第一部である。

第二部で、話は急展開する。ローディーヌに許されない限り死ぬほかはないと思い詰めたイヴァンは気がふれて獣同然に野原をさまよいはじめる。英雄物の定石通り、一度は落魄に身をさらすことになる。そこに通りがかった奥方のローディーヌと待女はイヴァンを見つけ、昔、妖精のモルグからもらったという狂気を追い出す薬で彼を正気に戻すのである。しかし、記憶を取り戻せないイヴァンは、彼女とは分からないまま、その領地に戦をしかけるアリエ伯爵と闘い、撃退する。そして、領主となることを望まれても、そこを立ち去ってしまうのである。

途中、毒蛇に尾を噛まれたライオンを助け、その猛獣を連れとして旅を続けることになる。それで獅子の騎士と名乗るのである。とある礼拝堂に幽閉された乙女がいた、主君への背信をその家令に咎められた例の待女である。アーサー王の宮廷に助けを求めたが、頼みのゴーヴァンは、連れ去られたアーサーの妃グニエーヴルを探しに旅に出ていたという。ここは『ランスロットまたは荷車の騎士』と話がクロスする箇所となっている。一連のヴァリアントになるように物語同士をつないでいるのだ。明日には火刑にされるその乙女が、例の待女と気づいたイヴァンは、明日助け出すことを約束して近くの城に宿泊する。その城では、王子たちが山のアルパンと呼ばれる巨人の囚われの身となり、王女と引き換えに明日やって来ると言う。イヴァンと獅子はその巨人を討ち果たし王子たちを解放してやる。同一の物語内にも絡み合わせの妙があるとフラピエは指摘する。

待女が、あわや火に投げ込まれようとしたところにイヴァンは駆け付けた。家令とその二人の兄弟に対してイヴァンが立ち向かい、後には獅子も加勢した。三人は倒され、待女のリュネットは無事救い出される。ここまでは、『マビノギオン』の中の『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』の物語とほとんど同じストーリーをたどっていて、オワインの物語の方はこの後、イヴァンと奥方とが再び縁を結ぶことになって終わる。クレチヤンの作品の方がボリュームがあって、内容が濃い。この話に続いて、300人の織物や刺繍をする乙女たちを二人の悪魔から救う話、そして亡くなった父王の遺産相続を巡る姉妹の物語へと発展していく。まあ、続きはどうぞこの物語をお読みください。

 

さて、次回 part2 はいよいよクレチヤンの名を後世にとどろかせ、エッシェンバッハ 、トマス・マロリーを経てワーグナーにまで至る聖杯の物語ペルスヴァルをご紹介する予定です。お愉しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

ネンニウス『ブリトン人の歴史』ローマの執政官ブルートゥスに因みブリタニアと命名されたとしている。最古のアーサー王に関する文献。本書の解説では9世紀に書かれたとされる。

ウィリアム・オヴ・レンヌ
『ブリタニア列王の事績』
13世紀に『ブリタニア列王史』を詩的に翻案した作品。

作者未詳『聖杯の探索』13世紀

『マビノギオン』ウェールズの古潭

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竹田青嗣『哲学とは何か』「認識・言語・存在、本質」のテーブルマップ

 

竹田青嗣『哲学とは何か』

ゴルギアス (前487‐前376) というシチリア生まれのソフィストがいた。哲学の三つの謎を巡るゴルギアスの定理というのがあるらしい。このようなものだ。

●およそ何ものも存在しえない。あるいは証明されない。
●万一存在があるとしても、決して認識されない。
●万一存在が認識されたとしても、けっして言語によって示し得ない。

それは、普遍的なものへの認識という哲学のテーマを粉砕するほどの破壊力があった。このソフィストの議論は、プラトンやアリストテレスによって否定されるが、完全に論駁されたわけではなかった。ヒュームによって普遍認識の達成が危ぶまれても、カント、ヘーゲルといった正統的な普遍認識派がヨーロッパ哲学の主流をなしてきた。

しかし、最近は雲行きが怪しい。存在と認識との間、認識と言語との間の溝が埋まらなくなっていったのである。このように図式化できる。存在 (現実、対象、客観) ≠ 認識 (主観) ≠ 言語 (哲学説) 。

フッサールが現象学を提唱して存在と認識の隙間を埋めようとした。その最も有望な弟子のハイデッガーは現象学から存在論へとそれてしまい、フッサールの高弟たちもハイデッガーに靡いてしまった。現象学は、フランスに輸入され独断論、主観主義などと批判されたが、サルトルやメルロ=ポンティといった現象学派を生み出すことになる。やがて、相対主義のポストモダンが隆盛となっていった。

一方、認識と言語の一致は可能なのか。現代の言語哲学者、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインからカルナップ、ウィラード、クワイン、クーン、デリダ、ローティ、クリプキ‥‥らによるスッタモンダは、記述理論、言語ゲーム、家族類似ゲーム、物理学主義、確証の全体論、指示の因果説‥‥といった縺れ合った理論を多く生み出しはした。それは、言語の数学化を目指しているように思えるが、何処かに出口があるのだろうか。

今回は、このゴルギアスの定理とヨーロッパ哲学のアポリアとしての存在論を端緒とする竹田青嗣 (たけだ せいじ) さんの著書『哲学とは何か』を取り上げたいと思っている。今年 (2020年) 発刊されたばかりの著作だ。本書では、存在= 言語認識の繋がりではなく、認識 = 言語 = 共通理解という繋がりになる。竹田さんは、1947年大阪生まれ。早稲田大学経済学部をご卒業。明治学院大学国際学部、早稲田大学国際教養学部、大学院大学至善館で教鞭を執られた。早稲田大学名誉教授であられる。難解な哲学のテクストを分かりやすく解説して下さるので定評がある哲学者である。僕のような素人には有難い人だ。著書に『現象学入門』『欲望論 第一・二巻』『ニーチェ入門』『言語的思考』『哲学は資本主義を変えられるか』など多数ある。本書は浩瀚な『欲望論』のダイジェスト版と言ってよい。特に現代の複雑な思想の内に迷子になっている若い人は、一度読んでみられると良いと思う。

 

■ 認識のテーブル


 

カントとユクスキュル

全ての物体、すべての身体にとって、ただ一つの自然、無限に多様に変化しながら、自身もひとつの個体であるような自然、全ての個体やすべての心がその上にあるようなひとつの内在的な共通平面が披き敷かれる。ひとつの体は無限数の微粒子の運動や静止の関係から成り、他の諸々のものを触発し、逆に触発される。運動的で、力動的な、このように世界に生きることは極めて複雑なことである。ジル・ドゥルーズは、自分でもどうしていいか分からないうちにスピノチストになっていることに人は気づくと述べた(『スピノザ』)。世界は複雑系なのだ。

ユクスキュル、クリサート
『生物から見た世界』

一つの個体としての身体は、どれほどの情動をとりうるのか、触発し触発される力の強さの幅は、どれだけか。この自然の平面の上では、構成する諸々の運動、諸々の情動の組合せは人工物や自然物において無限にある。動物たちの世界が、このような情動の絡み合い、触発し触発される力によって規定されていると指摘したのは、ドイツで活躍した生物学者・哲学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュル (1864-1944) だった。

しかし、このような自然の個々のものを複合関係や触発=変様能力の固有の変動・変移として捉えたのはスピノザ(1632-1677)である。彼の言うコナトゥスは、「外的な力に対する自己保存の努力とその個体の力」と最小限定義される(エドゥイン・カーリー)。重要なのは、彼の無限実体としての神という第一原理ではなく、このような第三・第四原理と呼べるようなものだとドゥルーズは考えていた。そこには「生の哲学」があったからである。

ニーチェは、哲学的世界から「神」を抹消した。全知なる神の消去は、「完全な認識」という概念そのものを無効にする。もの自体を認識することは出来ないとするカントの哲学から全知の神を抜き去ると、それぞれの生物が、欲望や能力といった「生の力」に応じて持つ可能で適切な世界という世界観に変る。真に存在するのは個々の生き物にとっての「環世界」つまり「生の世界」だけだと言える。そのような世界は、内的世界と外的世界が作用しあう世界であって、外界だけが客観的に存立する世界ではないのである。

ユクスキュルと息子のトゥーレ 1915
トゥーレは心身医学の創始者として知られる。

ダニは、味覚も視覚もないが、表皮全体に分布する光覚、温い獲物の上に落ちるための温度感覚、哺乳類の皮膚腺から出る酪酸に対する嗅覚、適当な灌木に這い登る機能、ほぼ、それだけで、子孫を残すことを貫徹させようとする。そして、血液を提供してもらえそうな相手をほとんど、仮死状態になって待つことも出来る。ダニは、無数の選択肢から、たった三つの知覚様式と一つの作用様式を選択した。今や、ダニは自分の時間を支配さえしている。

生物の世界は、知覚作用に対する行為の作用が不可避的に結びついていて、作用のトーンと呼ばれる「主体が意味を与える世界」構築するのである。普通、機械は意味を与えない。ユクスキュルの言う環世界とは、生きた主体が空間・時間の中で決定的な役割を演じるカント的世界なのである。

しかし、この章の主題は、ドゥルーズとカントを巡るダニ問題ではない。問題なのは、我々の世界が、自己の内的世界と環境と言った外的世界とが密接に結び合わされた世界であるということなのである。超越的絶対的存在を想定することが「生の哲学」の否定要因となって来たということが、スピノザやニーチェの思想から明らかになっていく。そして、それが、「哲学とは何か」を探る鍵になるのである。

 

ニーチェのエポック

カントの言う「もの自体」、ヘーゲルの「絶対知」、ショーペンハウアのペシミズム、それらの言説は人間への「道徳」への勧めであるとニーチェは言う。この道徳的モチーフは人間の本質的弱さに由来すると考えていた。この混沌とした無秩序と矛盾の世界を直視することなく世界を整理されたものとして眺めたいという一種の弱さからくるのであり、支配された人間が惨めさを打ち消すための思想が禁欲主義的理想であるというのである。ただ、これは道徳の由来を述べているのであって価値をあげつらっているわけではない。この理想主義は、「絶対に正しい認識」と結びついていて、キリスト教に替わる近代哲学においても同様だった。その「絶対に正しい」は相対化される必要があった。このニーチェの思想はポスト・モダ二ズムにおいて再評価される。

マルクス主義思想が巨大な権力国家を作り上げた。「絶対的に正しい認識」という一つの主義やイデオロギーと「倫理的正当性」とが結びつき、独裁的なスターリニズムを呼び起こした。そのような危険性が生じたことが、20世紀における「知」と「権力」の問題を浮上させる。フーコーやデリダ、ドゥルーズといったポストモダニストたちには「知」「認識」「論理」の絶対性に対する強い異議があった。「知」と「権力」が独自のあり方で結びつくことへの不安が存在したのである。ニーチェは、こう述べていた。

「いったい、人間の未来全体にとっての最大の危険は、どういう者たちにあるのか? ‥‥すなわち、『何が善にして義であるかを、われわれはすでに知っており、さらにそれを体得してもいる。このことで今なお探求する者たちに、わざわいあれ ! 』と、口に出し、心に感じている者たちのもとにあるのではないか ? (『ツァラトゥストラ』吉沢伝三郎 訳)」

ニーチェは、従来の哲学は「現実の否定」という動機を隠しているという。それは、「絶対的に正しい思想」への信仰と裏腹に存在した。ポストモダニズムは、この「正しい認識」を焦点に据えて、ヨーロッパ思想の中心的な問題である「真理」や「認識」を解体しはしたが、マルクス主義を超えて新たな道筋を指し示せてはいないと著者は指摘する。ニーチェによって否定されたヨーロッパ思想の人間観は、「力の思想」という新たな根本原理によって刷新されていく。竹田さんが「力の相関性」(欲望‐身体相関)と呼ぶ「生の世界」の原理である。

 

フッサール 内的世界と外的世界への新たな視点と竹田現象学

フッサールの現象学は正当に理解されていないと竹田現象学は述べる。ここは、竹田さんの独壇場の感があり、僕はそれを批判できる立場にないが、かなり共感をもってお伝え出来る。主観としての私は、客観的対称としてのりんごを把握可能かと問う。自然科学の方法は「主観‐客観」の一致を前提としているが、人文領域ではカントの「物自体は認識不可能」をはじめとして諸説対立し、学問の普遍性にたいする疑いが生じていた。ウィトゲンシュタインは、私の見ている赤色はあなたの見ている赤色と同じかどうか確かめることができるのかと問う。

「りんごが見えるーりんごが在る」という構図は、人に備わっている自然な了解だ。しかし、これをフッサールは一旦棚上げする。これをエポケーと呼んだ。りんごという客体が在って、私という主観にりんごという認識が生まれるのではなく、りんごが見えるということが、りんごが在るという確信を生み出すと考える。これを「現象学的還元」という。「りんご (原因) → りんごの認識 (結果)」ではなく「りんごの知覚 (主観 ) → りんごが在る (確信)」という図式として考える。経験世界から世界像が生まれるのであって。客観と主観の合一は独断や予見に過ぎないというのである。この世界確信の図式では主観ー客観の二項対立がないためにゴルギアスの定理を回避することができる。この認識=確信は、自分だけの確信の場合、あそこには橋があるといった共同的確信 (間主観的確信)、三角形には三辺あるといった (普遍的確信) 竹田さんは分けている

竹田現象学におけるノエシスとノエマ

主観の確信のもとになる「対象に関わる経験や意味」は、フッサールがノエマと呼んだものだが、様々な解釈を呼んでいるらしい。ノエマは経験する知覚対象それ自身であるという説、対象の意味だという説、経験の対象そのものの部分とする説、同一の対象がもつ多様な相貌の一つとする説があり、解決を見ていない。竹田さんは、意識における具体的な体験の流れ、つまり、りんごで言えば「赤い」「丸い」「つやつや」といった刻々変化する体験流をフッサールの言う「ノエシス」と考え、それらが構成されて対象確信として成立したものが「ノエマ」としている。ここは、竹田現象学の核心部と言えると思う。

 

認識のテーブルにおけるテーマ

デカルトの神は、欺くことのない善なる存在であり、人間の認識は信用のおけるものとされた。カントの認識論はどんな生き物も自分の認識装置を通して対象を認識する。人間には、美味しそうなりんごでも、猫には転がる丸い球で、トンボには円形の形のみが感じられ、アメーバーにとっては、もはや何者でもないと竹田さんは言う。ヘーゲルは、ものとは概念の運動だとした。時間軸の中で経験による様々な概念が豊かに蓄積されていく運動なのである。ヘーゲルの世界は、スピノザの汎神論に近い (非汎神論説もある) に近い有神論だという。

しかし、認識問題の謎は、ニーチェとフッサールによって解明されたと竹田さんは考えている。竹田さんのネーミングで言えば、「本体論の解体」だ。本体とは「世界それ自体」を指している。しかし、それぞれの生き物は、それぞれの欲望、欲求、身体のありように応じて、相関的に最も適切な世界認識を持つ。先に述べたように、真に存在するのは個々の生物にとっての「生の世界」だけだと考えると、「あらゆるものが存在するとは何か」と問う存在論は、その基盤を失う。いわゆる「客観世界」とは、誰にも生きられることのない「想定された世界」に過ぎなくなるからである。このニーチェの認識論の転回は、ポストモダン思想で受け取られている相対主義的転回ではなく、これまでの「存在」の概念を根本から覆す「存在論的転回」だと竹田さんは言う。

フッサールによる現象学的還元が、認識問題を解く鍵になると考えられる。世界の存在は、認識不可能ではなくて、どこまでも疑いを払拭でないために認識論的に「超越」であり、認識となる条件を欠いている。しかし、客観的認識や普遍認識がありえないということを意味しない。主観的な普遍了解が成立する所では、存在と認識の一致がなくても、普遍認識は存在すると考える。個々の人間は、様々な世界像を持っていて、絶対的に正しい世界像は存在しないが、フッサールは、相互承認と共通了解を可能にする「世界説明」が可能であることを示したのである。

このように、ニーチェの「本体論の解体」とフッサールの「共通了解を可能にする世界説明」が認識のテーブルにおいてマッピングされることになる。

 

■ 言語のテーブル


 

現代論理学は、ゴットロープ・フレーゲが命題論理学と述語論理学を発展させ、アリストテレス以来の論理学を刷新した。これに続いて、ラッセル、ウィトゲンシュタインによる現代言語学あるいは分析哲学が展開していく。これらは言語の本質の探究を数学の論理的基礎づけから行おうとするもので、ローティの「言語論的転回」という言葉が示しているように数学へと傾斜していく。この進展は、コンピュータのプログラム言語の発展と軌を一にしていた。

ウィトゲンシュタイは、初期には一定の規則を使って言語の意味を厳密に規定できると考えていたが、やがて、アウグスティヌスのように言葉を記号として見る態度を疑い始める。子供たちに言葉を教えることは、その言葉と対象のイメージとの結びつきを喚起することなのか?  言葉を理解するとは、その言葉によって、そのイメージが喚起されることなのか ? 言葉を理解し、習い覚えることの意味は何か ?  このような問いは、全て「認識‐言語の一致」、「言語‐意味の一致」に関する疑いだった。

ルドルフ・カルナップ (1891-1970) は、ウィーンで、一切の言語は科学的な標準言語に置き換えられるという厳密論理主義を提唱する。物理学のように物質を基本単位に分け、それらを構成・構造化し、因果関係を確定して厳密な記述体系を作る。言語でもそれと同じような方法で事象と言語の厳密な一致を図ろうとするものだった。一方、ヴィラード・ヴァン・オーマン・クワイン (1908-2000) は、一切の言語は、事象や思考を厳密に表現できないとする立場だった。ある言明の意味は、その文脈の中で決定されるからである。これは、結局、ウィトゲンシュタインの初期の『論理哲学論考』と後の『哲学探究』との対立とパラレルなのである。

もう一つ典型的な例がある。それが固有名論争だ。「アリストテレスは、これこれという人だ」という定義の集合と考えるラッセルのような説とソール・クリプキ (1940-) のようにアリストテレスという最初の命名と「指示の固定性」、つまりそう言い続けられることによってのみ規定されると考える立場に分かれる。このクリプキの理論をジョン・サールやリチャード・ローティといった人たちが批判した。「指示の固定性」という概念は「これは誰それ」だという命題が正しいことを前提としているために、論証が循環的になるというのだ。論理学は名前の意味すら定義できないのであれば、言語の「意味」を厳密に定義することは不可能であると考えられるのである。これって、ほとんど乱理学だ。

言語は真偽が一義的に決定できないために、意味を論理学的に決定できない。ある人が「これは美味しい」と言う時と、別の時に他の人が言う「これは美味しい」が同じ意味とは限らない。論理学者たちは、語り手の「意」と「言葉」の一致を論証しようとするし、相対主義者たちは、この一致が不可能であることを証明しようとする。現象学では「一致」の可能・不可能を前提としない。

語り手は、自分の言いたいことを伝えるために言葉を発する。伝えたいことがまだ不明瞭な場合もあるが、発した言葉が自分の「意」を伝えた、あるいは、いないという内的信憑が生じる。聞き手は「言葉」を受け取り、相手の「意」はこのようなものだろうという内的信憑が、やはり生じる。この内的信憑を「適合信憑」と竹田さんは呼ぶ。会話では、その信憑性を確かめることができるが、テクストではできない。言語行為とは、このような構造で成り立っていると考えられる。

言語ゲームの発話と受語 「意」‐「言葉」‐「了解」

発語と受語の言語ゲームとして図のように示すことができる。言語ゲームの概念はウィトゲンシュタインの発案だった。言葉があれば、そこから、その意を信憑‐了解する。語り手の「意」へと向かわない、つまり信憑志向のない言語ゲームは、まずない。「今日の空はじつに青い」という言葉の「今日」「空」「じつに」「青い」は、それぞれ一般的意味を持っているが、語り手の「意」は、それらをつなぎ合わせた「一般意味」ではないと竹田さんは言う。これは「意」‐「言語」‐「了解」の厳密な一致を前提としない。「言語の本体論の解体」と言える。

現代分析哲学では、上記の「意味の同一性」と共に「事柄の同一性」も問題になる。人間は赤ちゃん → 子供 → 青年 → 大人 → 老人と変化する。この場合、人間の同一性の根拠は、どこにあるのか ?  あるいは、ジョン・サールの言う素材が全て入れ替わってしまう「テセウスの船」という問題もある。このような場合、内的には主観の観点の相関性だけが「同一性」を決め、外的には他者の承認、つまり「信憑」が決定する。

此処では、論理学者たちの「言葉」「意味」の一致に対する論証、及び、相対主義者たちの言う一致の不可能性に対して、信憑志向の言語ゲームがマッピングされる。

 

■ 存在のテーブル


 

ハイデッガーの言う「なぜ存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか」は、根本的な哲学の問いであった。それは、「何故存在があるのか」という問いに集約できる。これに、哲学は、どうアクセスできるのか ? これはゴルギアスの言うように、そもそも原理的に答えようのない問いなのか? この「存在」への問いに対する「形而上学」、つまり世界の根本原理を探求する学が、古代から近代の思想の流れの中に現れる。

まず、洋の東西を問わず、物語= 神話の方法がとられてきた。宗教の創成神話が、そのプロトタイプとなり、アリストテレスの「不動の動者」やヘーゲルの「絶対精神」もこのような形而上学に含まれる。これに対してニーチェの認識論の転回が現れ、一方で、フッサールの「間主観的」な共同確信が登場する。人間は他者と言葉によって自分の「世界」を交換し合っていて、まさに、そのことが「客観世界」の存在を不可疑にする根拠だということが顕わにされた。それが、ハイデッガーの言う、人間は意味のネットワークを掛け替えあって生きているということの意味なのである。

真に存在するのは「生成」としての世界のみであり、「本体」としての世界は何処にも存在しない。しかし、これは「世界は存在しない」というゴルギアスの定理へと帰着しない。世界存在は認識されないというのであって、むしろ、その現実存在は疑い得ないと竹田さんは言う。我々が「生世界」を生きているという現実自体が必然的に世界の存在に対する想定‐信憑を生む。これを竹田さんは、「現存在信憑」と呼ぶ。哲学が問うべきは、「世界の本体」ではなく、「生世界」の本質とは何かという問いであると言うのである。ここに「本質観取」による「本質了解」という課題が浮かび上がるのである。

ハイデッガー以降の「新実在論」であるカンタン・メイヤース、マルクス・ガブリエル、グレハム・ハーマン、レイ・ブランシエ、イアン・ハミルトン・グラントといった人たちの思想が俎上に上がっている。ほぼ、ポストモダン思想への対抗思想と考えられるが、メイヤースとガブリエルが取り上げられていて、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論などを踏まえて批判されている。

この章では、存在の「世界の本体」に対して「生世界」の本質が対置され、我々が、現実に「生世界」を生きているという「現存在信憑」がマッピングされ、人文分野における「本質‐意味‐価値」を問う「本質了解」の世界が明らかにされる

 

■ 本質観取のテーブル


 

これで、ゴルギアスの定理から始まった言語・認識存在のテーブルマップが整ったことになる。ここからは、本質‐意味‐価値という本質観取のテーブルを見ていきたい。

対象的確信、つまりこの現存在信憑が成立する世界は「自然世界」に主に関わる。一方で、道徳、倫理、社会制度といった「人間の世界」に関わる問題がある。この人文分野における、本質・意味・価値を問う問題は、人間の世界においてのみ作り出されると言っていい。このような「本質領域」の世界で、かくあるべきという議論は独断論に陥りやすいのは確かだ。「本質領域」における、かくあるべき「本体」は完全に解体されなければならないと竹田さんは言うのである。そこでの自由で開かれた議が、なによりも重要だからだ。

人間・社会・文化といった人文領域における普遍認識は可能か?  次はこの問題である。事物の領域では、「自然の数学化」による方法が、自然界の客観認識を可能にしてきた。このことによって自然の秩序は、万人に同一の秩序となった。人文分野では、数学に替わる手段としてフッサールの本質学が手段となるのではないかと竹田さんは考えている。本質観取は、知覚や記憶といった心的事象についての広い共通了解を言語化する手段と言っていい。

人間自身の内在意識における「確信構成の構造」を知って、その内的な洞察を「言葉」に置き換え、これを各人の間で吟味し、どういう言葉が誰にも納得できるものとなるかを確証するという手順を踏む。このような各人の体験といったものは、自然科学の実証主義的方法では扱えない問題なのである。ハイデッガーの「不安」に関する洞察が見事なのだけれど、フロイトの例をご紹介する。

近代の実証心理学はグスタフ・フェヒナー、ヴィルヘルム・ヴントの実験心理学からはじまり、アメリカの構成心理学からジョン・ワトソンの行動主義、そしてゲシュタルト心理学へと発展する。フロイトを創始者とする深層心理学は、ユング派、アドラー派へと分裂し、フロイト派も自我心理学、対象心理学、自己心理学などへと分派した。ここでは、フロイトの心理学が現象学から吟味される。

まず、事柄の因果連関をたどれるものを「事物」と呼び、決して因果の連鎖ではたどれない「ブラックボックス」が心的な領域とされる。この領域内での事象の因果性が仮説化されるのであるが、フロイトは此処にエディプス・コンプレックスという仮説を持ち込んだ。この不可視領域に仮説を持ち込む方法は、ユングやアドラー、あるいは多くの実証主義的心理学でも使われている。ここで竹田さんが指摘するのは「どんな療法でも一定の治癒効果を持つ」ということなのである。クロード・レヴィストロースは、シャーマンの呪術による心理治療についてこう述べている。

病原である細菌は体の外にあるが、悪霊は意識的か無意識的かを問わず、精神の内部にある。患者にとって魔物は象徴であり、この魔物は患者によってと象徴されるものとなる。あるいは、言語学的には意味するものと意味されるものとの関係となる。シャーマンは、その患者には言いあらわすことができず、また、他に言い表しようのない諸々の状態を、それによって直ちに表わされるような言葉にして患者に与える。それは、原住民の宇宙観を構成する神話の一部であり、彼らがその神話を信じる社会の一員であるからこそ有効なのである。象徴についてはツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』に書いておいた。

そこでの要点は、おそらく患者、治療者、家族、部族の人間の間で共有されている病や凶事の原因への共同的信憑にあるとレヴィストロースは言う。シャーマンによる「物語」と施術のパフォーマンスは、心理的な病の原因を象徴的に除去するのである。同様に、先ほどの「ブラックボックス」つまり、不可視の X の部分に、何らかの「因果仮説」を置き換える。この因果仮説は「真の原因」に達することはないが、それにもかかわらず効く。それは、治療者、患者、その家族にとって強い「共同確信」となり、患者の内的な「自己了解」を変容させ、大きな「心身相関的効果」をもたらすと考えられるからである。

人文領域の諸学における本質学の可能性

この治癒の本質に対する観取は、「不可視領域」の独断的解釈ではなく、間主観的な確信形成であることが重要となる。みんなが色々言い合って、なるほどと思える落とし所だ。認識の本質的構図は「ノエシス‐ノエマ」構造であり、全ての認識のありように当てはめることができる。

「自由とは何か」「愛とは何か」などの問いを立てるなら、哲学者は、その本質についての「理念」を創り上げ、実証主義的な人文学者は、仮説を立て、様々なデータを収集する。ここで、現象学的な人文学者は経験的素材であるノエシスから理論としてのノエマを取り出すが、この時、仮説に囚われず事態の本質を洞察しようと努める。一方、独断的人文学者は自分の仮説に適合するデータのみを取捨選択して仮説の正しさの証拠としようとするのである。独断的理論は、最初から自分の仮説に適したデータしか集めようとせず、相対主義者は、本質観取に挫折してどんな理論も普遍的理論たりえないとする。竹田さんは、優れた普遍的理論を生み出すには、適切なデータと優れた本質観取が不可欠だというのである。

ゲーテの「人は現象の背後に何物をも求めるべきではない。現象それ自体が学説なのである (『散文による箴言』溝井高志 訳 )」という言葉を思い起こさせる。

個人の内面の善・悪の規範の問題、社会的な善・悪の問題である正義・不正義の問題、このような問題に関して現代の倫理学は、人間にとってこれが最も優れた「徳」や「善」であるといった特定の倫理的理念から出発し、それを人々に要請するという構造になっている。竹田さんは、善・悪の問題も本質観取が必要とされ、さらに発生的本質論が必要とされると言う。発生的本質論は、人間の善悪、美醜、真偽の価値の秩序といった価値がどのように発生したかを問う。プラトンでは、善への欲望は人間にとって必然的で本質的なものだと仮説され、この仮説の検証が善の本質学にとって重要な主題となる。「善は為すべき」は道徳の訓育学であって、善の本質学ではないと竹田さんは言うのだ。いかなる条件で善への欲望は人間の内に生き続けるのか。どのような条件を失うとニヒリズムや悪に転ずるのか。この問いへの答えは、価値観の相違によって異なるといった問題ではない。この個人の善悪の問題が社会の善悪への問いと繋がる。

事物の領域での「自然の数学化」による自然科学の方法に対して、人文分野では、数学化に替わる手段としてフッサールの本質学がマッピングされ、本質観取の方法論と発生的本質論が提示される。

 

■ 社会の本質学へ向かって


認識・言語・存在、本質のテーブルがマッピングされて出そろったことになる。これを総括したものが「哲学のテーブル」となるのであるが、本書の最後は社会の問題が取り上げられている。この問題については、気が向いた時にジョン・ロールズの『正義論』について書く時に一緒にご紹介できればと思っている。

現代社会が、どこへ向かおうとしているのか、様々な意見はあるが、現状は切迫していると竹田さんは言う。今、貧富の格差の広がりと金と権力との癒着という資本主義社会の問題が浮上しており、この問題を克服するための展望は全く無い。現在の資本主義が持つ不安要因については、エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート 『戦争と資本』 境界を失った戦争と平和に書いておいた。竹田さんは、そのために必要な社会理論の構想が、価値理念の多様性と相対主義の思潮によって長らく阻害されてきたと見ている。とりわけ、我々がホッブス、ルソー、ヘーゲル以来の「自由な市民社会」の原理を失えば、世界は再び普遍戦争と絶対支配の状態に回帰することさえありうるという。詳しくは『欲望論 第三巻』に書かれることになるだろう。

本書は竹田現象学から見た存在論・言語学・ポストモダン思想といった近現代の思想を俯瞰して綺麗なマップを形作っている。非常にありがたい著作である。そして、それ以上に重要と思われるのは、著者の「普遍性を求める」思想への希求ではないだろうか。竹田さんはこう問う。哲学や思想の営みが、結局のところ、人々のうちに拡がるあのシニズムの「声」、「あれこれいっても所詮は理屈にすぎず、現実には力がすべてである」という声、それに対抗することができないなら、思想や哲学が「現実への対抗」という本質を持てないなら、哲学や思想にいったい何の意味があるだろう。

 

■ 言葉の外側


本書を読んで、論理的な整合性について感心することしきりだったのだけれど、そこには「言葉で本質観取し、共同確信しうる限りにおいて」という前提が存在すると思う。それ以外のものは哲学で扱えなくなるのではないか。というのも、極めて個人的で強度の確信をもたらすような体験、例えば宗教的なエピファニーや悟りといった体験がこの枠組みからは漏れてしまうのではないかと考えられる。極めて稀な体験であれば、共同確信に至らない場合はあるだろう。似たような体験として美や芸術の場合があるけれど、これらは比較的頻繁な体験であるからか、『欲望論 第二巻』にも俎上に上がっている。言葉に表現できない体験を語る場合、多くは否定神学のように背理的な表現が使われてきたし、通常、意味をなさないような言葉、「薔薇は何故なしに有る、それは咲くが故に咲く (マイスター・エックハルト/上田閑照 訳)」といった言葉は、判然としないながら何かしらの世界を開示している。そのような世界を現象学的にどう扱うのかは、別な課題となるのではないだろうか。独断論として排除し、心理学などに押し込めてしまうのは如何にも惜しいと思うのである。

 

 

参考文献

竹田青嗣『欲望論』第一巻「意味」の原理論

竹田青嗣『欲望論』第二巻「価値」の原理

竹田青嗣『ニーチェ入門』

プラトン『ゴルギアス』
プラトンの比較的初期の著作 内容は弁論術とともに道徳、政治、幸福論などが対話される。

バルーフ・スピノザ part2「 スピノザとの対話」ヘルダー、ナドラー、カーリー、ドゥルーズ

 

レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)
『ユダヤの小さな花嫁』 版画

1640年代にレンブラントが、アムステルダムのブレーストラー通りの贅沢な邸宅に住んでいた頃、身近なユダヤ教徒たちを素描し、銅版画にし、油彩で描いていた。通りの向かいに住んでいたユダヤ教の師、つまりラビのメッセナ・ベン・イスラエルに『べルシャザルの饗宴』に描くアラム語の警句について教えを受けたり、彼の肖像を描いたりもし、ポーランド系のユダヤ人たちが礼拝堂 (シナゴーク) の外に集まっている様子をエッチングで制作した。オランダ人同様、ポルトガル系ユダヤ人もレンブラントのよき蒐集家だった。

そのポルトガル系ユダヤ人であるスピノザの生家は、この裏手の同じ区画にあった。レンブラント工房の徒弟の一人であるレーンデルト・ファン・べイエレンは、スピノザのラテン語教師だったフランシスクス・ファン・デン・エンデンの家に寄宿していたというし、エンデンは、かつては画商だった。レンブラントとスピノザ、果たして実際に遭遇していたのだろうか。フェルメールとの関係を言う人もあり、色々な憶測を呼んでいる。しかし、ただ、ただ、彼は静かに生活していた、と考えられていた。スピノザは、そんなミステリアスな存在であった。

18世紀末から19世紀はじめにかけて「汎神論論争」は、別名「スピノザ論争」といわれ、多くの知識人たちを巻き込んだ。ドイツでは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743-1819)によって火が付けられる。その頃、スピノザは「無神論者で汎神論者、やみくもな必然性を説く人物、啓示の敵で、宗教をあざ笑い、国家と市民社会を荒廃させるもの、要するに人類の敵」とさえ思われていた。ヤコービは、超感覚的な対象をスピノザのように理性によって捉えることは出来ないとする立場だった。人間は、何かしら「在る」という存在を感得できるとして、そこに人間の自由を認めようとするのだった。

フリードリヒ・ハインリッヒ・ヤコービ
ヨハン・ペーター・フォン・ランガー画 1801

コトの起こりは、ゴットホルト・エフライム・レッシング (1729-1781) がスピノザ主義者だということを知ったヤコービがユダヤ人であり、あの音楽家の祖父にあたる思想家モーゼス・メンデルスゾーン (1729-1786) に真実かどうかを確かめるための書簡やり取りすることから始まり、それらの写しがハーマンやゲーテ、ヘルダーに送られ、彼らとの間でも議論が交わされるようになったことにある。メンデルスゾーンは、レッシングがスピノザ主義者だということを知らなかったし、積年の友人であった自分よりも面識の浅いヤコービがそのことを知っていることに大変なショックを受けるのである。

メンデルスゾーンは、スピノザに対する偏見はないが、その思想に精通はしていなかった。逆にヤコービは、敵の手の内をよく研究していたのである。徐々に二人の仲は、険悪なものになっていった。メンデルスゾーンは、ヤコービがレッシングのスピノザ主義を発表する前に、その汎神論的主張は純化されたものであるという趣旨の出版物を刊行しようとし、それを知ったヤコービは、メンデルスゾーンの許可なく往復書簡集を出版してしまったのである。メンデルスゾーンは厳寒の夜、ヤコービへの反論である『レッシングの友たちへ』の原稿を出版社に届けたが、胸の痛みを訴えて寝込み、5日後に亡くなってしまう。今回ご紹介する著書の一つ、ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』の訳者である吉田達さんによれば、ヤコービがメンデルスゾーンの寿命を縮めたと言われてもしかたない状況だったという。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
(1730-1788)アントン・グラフ画 1785

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは1744年、プロイセン王国の東部のモールンゲン、現ポーランド領モロンクに生まれた。父は織物職人で貧しい家庭に育った。7年戦争当時にモールンゲンに駐在していた軍医に見初められケーニヒスベルク大学で医学を学べるようになるが、馴染めず神学部に移り、そこで偶々、カントの講義を聞いたことから、その百科全書的な知識に感化される。それに加えて「北方の博士」とか「北方の魔術師」と呼ばれたヨハン・ゲオルク・ハーマンに深い影響を受けた。ドイツ語圏の各地で教師として、あるいはプロテスタントの聖職者として働きながら、詩作、評論、言語学、哲学、歴史、宗教、教育、自然科学、各国の民謡採集、翻訳など幅広い活動を行った思想家である。

ヘルダーは、シュトラスブールでは若きゲーテに大きな影響を与えることになり親密な関係となる。だが、カントはヘルダーの主著『人類史の哲学の構想』に対して否定的な評価を下し、ヘルダーもカント批判を展開するなどしたし、終生の師と仰いだハーマンにも、もう一つの代表作『言語起源論』を巡って批判を浴びるなど、この肖像画からは窺えない辛辣な性格が災いして、蜜月の関係にあったゲーテとも平穏でなくなっている。訳者の吉田達さんは、ヘルダーには孤独の影が付きまとうという。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
『神 スピノザをめぐる対話』

前回のバルーフ・スピノザ part1 では、スピノザのマノとしての出自と後の詩人や思想家たち、ハイネ、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フロイトなどへの影響についてご紹介したが、今回 part2 は、柱の一つとしてヨハン・ゴットフリート・ヘルダー著『神 スピノザをめぐる対話』をお送りする。本書はヤコービとメンデルスゾーンとのやり取りの渦中にいたヘルダーのスピノザ論と言っても良いもので、ある種スピノザ論の解説にもなっている。

このヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』と、もう一つの柱としてスティーヴン・ナドラーの『スピノザ ある哲学者の人生』という浩瀚な伝記の内容を併せてご紹介します。スピノザの伝記としては最良のものではないだろうか。筆者のスティーヴン・ナドラーは、ウィスコンシン大学マディソン校の哲学教授である。マルブランシュ、デカルト、ライプニッツ、カント、そしてスピノザの研究者として知られる人で、とりわけスピノザ研究では注目すべき業績を上げていて、その人生と哲学の総合的な研究で世界的な顕学として知られている。

その他に『エチカ』の解読には必須のスピノザ学者、エドゥイン・カーリーの『スピノザ「エチカ」を読む』、そして、ジル・ドゥルーズの『スピノザ』なども交えて盛りだくさんでお送りしたいと思っている。

 

何故、破門だったのか


 

コレギアント派の集会へ

メナッセ・ベン・イスラエル (1604-1657)
レンブラント・ファン・レイン 版画

15歳の頃に、彼は「ユダヤ教徒の最高の知恵者にも解決困難な問題」に遭遇したという。道元が本学思想に身悶えしたのに似ている。しかし、何の問題だったかは、はっきりしていない。満足した解答が得られなかった彼は、商売の関係で得た証券取引所での交友関係に知的な活路を求めるようになる。父親を失った後、商売をしながら「律法の冠」と言われる学塾に通ってラビ・モルテーラに聖書とその注釈などを学び、先ほどのメナッセ・ベン・イスラエルからユダヤ教神秘主義の手ほどきを受けた可能性が大きいと言われるが、それに満足できなかったスピノザは、広い学識と視野を持ち、幼児洗礼に疑問を持つメノー派のようなプロテスタント諸派の人々と付き合いを深めていった。彼らは、コレギアント派と呼ばれる人々で、平等で非権威主義的なクエーカー教徒たちに似ていると言われる。牧師を置かず、信仰は心の奥深くの内的信仰によってのみ獲得され、誠実で率直な態度で信仰を表明することを願う人々の自由と平等を守ろうとした。

ファン・デン・エンデンとデカルトの影響

そのような人々の中でも、先ほど述べたラテン語教師、フランシスクス・ファン・デン・エンデンはスピノザに大きな影響を与えた人だった。イエズス会に入会したが放逐され、医学博士の学位を取得したが画商と書店を経営し、それも上手くいかず、1671年までアムステルダムでラテン語を中心に哲学、科学、数学、物理などを手広く教えていた。その後、パリに学校を移し、フランス王ルイ14世に対する陰謀と共和国形態の国家樹立に加担したとして絞首刑になっている。故国ネーデルランドへの侵攻とそれを突き動かしている大臣たちへの憎しみがあったという。

スティーヴン・ナドラー
『スピノザ ある哲学者の人生』

彼の主張は、宗教的信仰は個人的なことがらであり、いかなる組織、権威によっても統制されるべきでなく、真の敬虔とは神の愛と隣人愛のみにあって、その外向きの愛、つまり公共の宗教的実践における所作は、しばしば迷信的態度と隣合せだとするものだった。後のスピノザの『神学・政治論』を彷彿とさせるが、彼に出会うまでにスピノザは不完全な形ではあったにしてもこれと似た思想を既に培っていたと考えられ、ファン・デン・エンデンの影響は過大視されるべきでないとナドラーは述べている。だが、少なくとも、彼からギリシヤ・ローマの哲学と古典を学び、マキアヴェリ、ホッブス、フロティウス、カルヴァン、トマス・モアなどの16・17世紀の思想に精通することができた。そしてスピノザは、おそらく彼のラテン語教授の助手をするまでになっていた

とりわけ、最も大きな影響はデカルトの思想から受けることになる。ルネ・デカルトは1596年にフランスで生まれたが、人生のほとんどをここネーデルランドで過ごした。この国の豊かさ、治安の良さを愛で、彼の得たかった自由と孤独と平穏を得たことを言祝いだのである。宗教者たちから無神論の疑いの目で見られながらもその影響力は翳りを見せることなく、スピノザが1654年から翌年にかけて哲学と自然科学を学ぼうとする熱情に答えたのはデカルトの思想であった。ファン・デン・エンデン自身、デカルト学派としての名声を得ていたのである。

 

破門/へレム

スピノザはユダヤ教との距離をとり始め、徐々にシナゴーク (礼拝堂) から身を遠ざけるようになる。ピエール・ベール は『歴史批評辞典』の中で、有名な事件についてこう書いている。スピノザは「『劇場から立ち去ろうとする彼を刃物で切り付けるという一ユダヤ人による卑劣な襲撃がなされなかったならば少なくともその後のしばらくの間は、おそらく共同体との接触に真に自発的に保つつもりでいた。『その時の傷は浅かったが、暗殺者の意図は彼の殺害だったと彼は確信した』(有木宏二 訳)。」

この頃、棄教を執拗に敵視する風潮があったようだ。この事件によって穴の開いたマントを彼は手放さなかったという。ともあれ、スピノザは魂の不死性を否定し、ユダヤ教の背骨とも言うべきモーセ五書 (トーラー) の神的由来を否定してあっさり破門となった。

ユダヤ教シナゴーグのコミュニティによるポルトガル語のバルーフ・スピノザへの禁令 1656年7月27日

1656年に破門され、ユダヤ教徒の共同体から閉めだされるのである。最大の理由は上記の「異端思想」「邪悪な意見」にある。1660年に執筆され始めた『神、人間及び人間の幸福に関する短論文』やその後の『エチカ』において、人間の精神は身体と共に完全には破壊されず、その中の永遠なるものが残存する(第五部定理23)としているが、それは個物ないしその様態の形相が神にふくまれているように神の無限の観念の中に含まれると考えているからである(第二部定理八)。しかし、人間にとって、その精神は身体の持続する間だけしか持続しないとしている。スピノザにとっては延長も思惟も神の属性だったから人間の精神の一部は神の側にあるとするが、肉体の死はその個人の魂の死でもあるとした。そして、報酬と罰を分かち与える神の概念は、愚かな擬人化に基づくと言い切り、組織的宗教を否定する。人間存在はいかなる重大な意味においても自由であり、彼ら宗教者が自らの救済と福利に貢献すべく「彼ら自身によって」何かを行いうるということを否定するのである。

 

精神と物質の媒介概念


 

ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』からご紹介する。話は、ギリシア語で民衆の友を表すフィロラウスと神に心酔する者を表すテオフロンという二人の人物の会話から成り立つ伝統的な対話形式となっている。第五話からテアノという女性も登場するが、フィロラウスというと古代ギリシアで地動説を唱えた人として知られるし、テオフロンのテオ~というネーミングはよくある。テオは神を意味する言葉だ。

フィロラウスは、テオフロンからスピノザの『知性改善論』を見せられ、形而上学と道徳との心酔者としてのスピノザを発見して驚愕する。厚顔無恥の無神論者という風評に値する言葉など、全く無い、極めて真摯な倫理観を見たのである。そして、それは流布されてきたような汎神論でもないことに気づくのだった。キリスト教では、神は世界に対して超越的な存在であり人格性を備えている。汎神論のように神を世界そのものと見ることは、神の否定であり、無神論と同義となるのである。

スピノザの言う実体は、一切の事物の本質であり、存在の唯一の原因であり、彼はそれを根本に据えたかったのだとテオフロンは言う。普通いう意味の世界の実体的事物は何一つとして実体ではなく様態、つまりライプニッツのいう「実体の現象」である。全てが支え合っていて、最終的な一なるものに支えられている。それこそが自立性そのものであり、唯一で最高の実体だというのである。そして、万物をかつて産出し、いまなお産出して、どの事物にもそれぞれのあり方を分かち与えている力能は、その唯一の自律的なものに結びついているというのである。

しかし、フィロラウスはスピノザの言う無限に延長する神と言うのが全く理解できないという。それは、デカルトの誤った表現の影響だと指摘するのである。

ルネ・デカルト(1596-1650)
フランス・ハルス(1581-1666)画

テオフロンは、この疑問に対して、スピノザがこういう誤りを持ち出すのは物質から魂を、延長しているものから思考するものを区別する時だという。それは、物質と精神をつなぐ媒介概念を持っていなかったデカルトの二元論に反発したからであったというのだ。そして、「デカルトが物質を延長によって定義したのは間違っていました。延長からは物体の多様性は説明できません‥‥デカルトの自然原理は間違っているだけでなく馬鹿げてさえもいます(『遺稿集』)」というスピノザの言葉を紹介している。

フィロラウスは、属性といった不適切な言葉ではなく、「神はもろもろの無限の力となって無限な仕方で、つまりは有機的におのれを啓示している」と言うべきだと述べる。すべての世界において神は有機的なかたちで、つまり活動する力を通じておのれを啓示するというのである。その力は、どれも我々に一なる無限な能力の様々な属性を知らせてくれる。この力に引力や結合力、溶解力や斥力と言った多様なエルネギーを見るのは、ヘルダーの時代にあっては自然なことだったろう。スピノザが早くに世を去ることなく、これらの科学の巨大な進歩を体験していれば、彼の体系はもっと見事なものになっただろうというのである。

ちなみに、『エチカ』第二部の定理「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である。」これなど、唯物主義者の名を冠せられる理由の最たるものなのだろうけれど、その前の定理一では「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。」と述べられている。このことは、心身並行論の所でもう一度取り上げます。

 

アムステルダムの喧騒からレインスブルグへ


 

1650年代前半、アムステルダムの証券取引所で生涯の友となるヤリフ・イェレスゾーンと出会う。コレギアント派の会員で『普遍的キリスト教信仰の告白』を出版した人だ。忠実なスピノザの弟子となるピーター・バリンクはメノ―派の商人だった。そして、同じくメノー派の商人の出で、若くして亡くなった友人のシモン・ヨーステン・デ・フリースは、スピノザが経済的に困窮しないよう、彼の妹と義理の弟に生活費の支払いを約束させていた。ミルトンやホッブスとも親しかったイギリスに住むヘンリー・オルテンブルクやその友人で科学者だったクリティアーン・ホイヘンスとも親しくなっていた。

アドリアン・クールバハは、デカルトに強い影響を受けた思想家でスピノザとは互いに強い影響関係にあったといわれる。彼はスピノザの『神学・政治学』の初期の草稿に目を通していたといわれ、その著書『百花繚乱の花園』が宗教的冒涜を批判され、1669年に獄死したことが、スピノザをして『神学・政治学』を出版するトリガーになったといわれている。ロデウィック・メイエルは、熱心なデカルト派で理性的な聖書解釈を謳った『聖書解釈の哲学』を出版したが、発禁処分となっていて、スピノザが書いたのではないかと誤解する人もあったようだ。このような知的状況下にスピノザはいたのである。

1661~1663年にかけて住んでいたレインスブルグの下宿

1661年8月、スピノザはレインスブルグ (ラインスブルフ) へ移る。ライデンの近郊数キロにある小さな村で、かつて、コレギアント派の本拠地であった所である。化学者で外科医のヘルマン・ホーマンの家に下宿していた。この家の裏手にはスピノザがレンズ研磨のための道具を設置した部屋があった。彼は、望遠鏡や顕微鏡の製作でも知られるような存在になる。ライプニッツは、彼を卓越した光学器械製作者で、すばらしい鏡筒製作者と呼んだ。

スピノザの人間関係は、ファン・デン・エンデンのラテン語教室やコレギアント派の人々、レイデン大学のデカルト派の人脈から生まれたもので、スピノザは彼のサークルでデカルトの講義をしていた時期があった。この地でヨハンネス・カセリアスという弟子がスピノザの家に居つくようになったり、新たな自分のサークルができ始め、レイデンやアムステルダムなどの人々との交際を深めていた。静謐な生活とイメージされがちだが、かなり人的な交流があったようだ。しかし、訪問者には自分の思想を明らかにし過ぎることには慎重だったと言われる。

1663年頃には、生前唯一実名で出版された『デカルトの哲学原理』を完成させている。アムステルダムの友人たちが、デカルトの哲学をスピノザが概説したものを欲していて、知り合いのリューウェルツゾーンが印刷にかけることにスピノザは同意したのである。この頃には、『エチカ』の執筆は始まっていたようだ。

 

神の知性・神の意図


 

ライプニッツに月桂樹の冠を授けるゾフィー・フォン・デア・プファルツ
カール・カンデラッハ(1856-1920)制作 ハノーファー市庁舎 部分

フィロラウスはスピノザの神に知性も意図も無いことに当惑を覚える。スピノザに一目置いていたライプニッツでさえ、『弁神論』で、それについて反対していたものだった。これに対してテオフロンは、神の実在は、スピノザにおいて徹底的に現実だった。それは、いっさいの完全性を最高に完全な仕方で有しているのだから、思考を欠いているはずはない。スピノザはライプニッツより一歩先んじていたという。

神の完全で無限の思考を有限な実在の知性やイメージのあり方から厳しく区別するのは、神における思考が根元的で絶対的であり、種において唯一であって、有限な実在の知性やイメージとは比較にならないからだという。それが、ただ名前において一致しうるのみであって、他のいかなる点においても一致しえないことは、あたかも星座の犬と動物の犬との関係に等しいスピノザは言う。ちなみに大犬座の一等星がシリウスである。

「現実的知性は、有限なものであろうと無限なものであろうと、意志・欲望・愛などと同様に、能産的自然ではなく所産的自然に数えられなければならない(『エチカ』第一部定理三一)」とスピノザは述べる。能産的自然はいつも同じ自然であり、自然の力とその活動する力は、如何なるところでも同一である。すべてがそれによって生起し、一形態から他の形態へ変化していく自然の諸法則や諸規則は、どこにおいても常に同一だからである。如何なるものであれ、そのものの本性を認識するための根拠は、また、同一でなければならないとスピノザはいう (『エチカ』第三部 序文)。

スピノザ研究者のエドゥイン・カーリーは、『スピノザ「エチカ」を読む』の中でこう述べる。スピノザは人格的創造者としての神を拒否し神の内に刻み込まれている属性としての自然の法則と同一視した。「彼は、神と自然を同一視するが、その際、自然は事物の全体と考えられるものではなく、事物によって例示される、秩序ある最も一般的な法則と考えられている (開龍美・福田喜一郎 訳)。」これに対して、所産的自然は神の本性、あるいは神の属性から生み出される一切のもの。神のうちに在り、かつ神なしには在ることも考えることもできない物と見られる限りにおいての神の属性のすべての様態である。従って、神を能産的自然=法則と同一視するなら、汎神論とは言えないことになるのである。これについては、ヘルダーも既に気づいていたようでフィロラウスも納得する筋になっている。

ベネディクトゥス・デ・スピノザ『エチカ』
ベネディクトゥスはラテン語名

さらに、カーリーは、スピノザの『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の言葉を引用する。「‥‥すべての人が神に帰している多くの『属性を、私は被造物と見なします。これに反して、彼らが先入見にとらわれて被造物とみなしている他のことどもを、私は神の属性とし、彼らの考えに誤解があることを主張します(同上」神が自己自身から、あるいは自己自身によって存在する存在者、万物の原因、全知、全能、永遠、無限‥‥といったものはいずれも被造物であって思惟する存在者の様態にすぎないという。表象や概念は、人間の身体から、あるいは身体を通して生じるのであって、それらを生み出す原因とは異なるのである。これが、犬座と犬の違いである。

『エチカ』第一部 定理一七では「神は本性の法則によってのみ活動する」と述べる。これは言いかえると、自由原因として考えられている神は、自分自身の本性の法則によって神以外の事物を生み出し、それに作用してゆくのであり、神以外のそうした事物はそのような法則から結果するものと理解されなければならないのである。

ここで、スピノザの心身並行論に触れておきたい。まず、「精神と身体とはまったく同一の個体であり、それがある時に思惟の属性のもとで、またある時は延長の属性のもとで考えられる」という『エチカ』第二部 定理二 備考にある言葉が最重要となる。肉体と精神というような二元論から、デカルトは、人間がそのような異なる実体の合体だと考えた。そのことは既に述べた。スピノザでは、精神と肉体は一つにして同じものの二つの異なる表現となる。人間の精神と同じものである人間の身体とは、延長の様態であると考えるのである。

ここで、鍵となるのは、存在するのは唯一の実体であり、その実体が完全性を含み、如何なるものも欠いていないという意味で、思惟実体と延長実体があるとすれば、両者は同一の実体でなければならないということを私たちが納得している限りにおいて、肉体と精神は同じものであるということが言えるのである(エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』。デカルトの私は考えるものであるという主張は、スピノザにおいては、私の精神は思惟の様態であるというふうに言いかえることができる。そして、思惟の様態が存在するのであれば、思惟実体がなければならないし、同様に延長の様態が存在するのであれば、延長実体が存在しなければならない。実体が一つであれば、思惟実体と延長実体は一つのものである。これが心身並行論のスピノザの論拠である。そこには、身体と精神の一対一対応があるだけでなく、同一性が存在しているのである。

 

エチカと神学・政治論の執筆


 

スピノザ『エチカ』草稿 バチカン図書館

1665年、スピノザは、レインスブルグを離れて、デン・ハーグの近郊にあるフォールブルグに移る。画家の親方というダニエル・ティーデマンの自宅に下宿していた。この頃、デン・ハーグで、天文学や物理学などで知られるクリティアーン・ホイヘンスやその弟のコンスタンティンとも親交を深めていた。新たなサークルも出来はじめる。しかし、北ヨーロッパを疫病が襲い、スヒーダムという田舎の農園で過ごすことになる。1664年から1665年にかけて『エチカ(倫理学)』の草稿は、ほぼ完成に近いものになっていた。それは、『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の「神・人間・人間の幸福」という三つの主題に対応する三部構成だったと思われる。しかし、1675年頃まで彼の手元にあり、死後友人たちが出版したものは、「神・人間の精神・感情・感情に対する隷属・知性の力を介しての自由」という五部構成に変更されていた。

オランダにおける田舎暮らしは、平穏であったが、1665年にフォールブルグの地元教会の牧師職を巡る人事で、保守派と自由主義的な抗議派との対立に巻き込まれた。スピノザは、無神論者と決めつけられる。胡散臭く、表面的な議論で、見かけ倒しの無神論を説いていると言われ、あらゆる宗教を否定したという非難に面食らった。この神学者たちの偏見に対して、それを回避すべく書かれたのが『神学・政治論』である。自分たちが考えている事柄を口にする自由と、行き過ぎた権威と牧師たちの利己主義に抑圧されないための対抗手段だった。

ヨハン・デ・ウィット(1625-1672)
アドリアン・ハーマン(1603-1671)画

1666年は千年王国論者たちにとってキリストの再臨と聖者たちの支配が確立される年だった。ユダヤ教のメシアへの希望はサバッタイ・ツェヴィというトルコ出身の東欧系ユダヤ人の手によって実現されるかに見えた。ガザのナターンという弟子によってメシアに祭り上げられたツェヴィに対してユダヤ教徒たちが熱狂し、キリスト教徒たちにも影響を与えるほどになる。ユダヤ教の中心地となっていたアムステルダムは、その坩堝と化したが、結局、ツェヴィはイスラム教への改宗か死かを迫られ、改宗を選択し、ユダヤ教徒の夢は水泡と帰した。これも、宗教の本質とは何かを考えさせる事件の一つだったようだ。

1670年に『神学・政治論』が匿名で、架空の出版社名で出版された。三年半にわたる労作だった。総督の廃止に対する指導的役割を担っていた共和主義者のヨハン・デ・ウィットは、デカルト派による大学紛争時にもある程度の学問の自由を認めた人だったが、そのウィットも『神学・政治論』には寛容ではなかった。その内容を弁護しようとしたスピノザの面会を断っている。著者のナドラーの言葉を借りれば、原理的自由主義者のスピノザと実用的自由者のデ・ウィットとは同じ政治的見解を持つことはなかったのである。ただ、二人ともオランダ改革派教会の宗教的権威と対決する立場にはあった。彼ら二人が接触していたかどうかは分かっていない。

しかし、この著作がもたらした結果は壮絶なものだった。かつて、スピノザの哲学を知りたがったウィレム・ファン・ブライエンベルフでさえ「それは用意周到な憎悪と地獄で鍛錬された思考の堆積に満たされ、それらに対してすべての理性的な人間は、事実すべてのキリスト教徒は、吐き気をもよおす著作である」と述べた。カルヴァン派の支流である抗議派、デカルト派、コレギアント派からさえも反論が相次ぎ、トマス・ホッブスでさえその大胆さに当惑したと言われる。流通差し止めにはなったが、そのような決定を実地に移すかどうかは各市長の判断にゆだねられていた。1670年代前半を通じて書店でその本を買うことは可能だったという。発禁処分になったのは1674年だった。スピノザは、自分が執拗に捜索され逮捕されなかったのは、一般の人たちが読めないラテン語で書いたということを理解していて、オランダ語に翻訳されたものの出版は差し止めたという。

1671年には、光学へ関心を持っていたライプニッツから手紙を受けとっているが、このドイツの顧問官に対して気を許してはいなかったという。スピノザ没後の著作集に触れたライプニッツは『人間知性新論』(こちらは、フィラレートとテオフィルとの対話になっている) の中で、こう述べている。「それらの神学的な教えが、一般的に考えられているほどには実際的な効果を持たないと主張する卓越した善良な人々がいく人かいることを私は知っている。同様に、教義によっては進んで何の価値もないことをするようには、けっして導かれないすばらしい性格の人々も私は知っている。‥‥エピキュロスとスピノザは、模範的な人生を送ったと認めることができる。(有木宏二 訳)」

 

ネーデルランド共和国とスピノザの死


 

デン・ハーグとデ・ウィットの虐殺

1669年の暮か1670年の早くにスピノザはデン・ハーグに引っ越している。最初波止場の裏通りに下宿したが、1年後にヘンドリック・ファン・デル・スパイクという画家の親方の家に移った。ここで亡くなるまでの5年半を過ごすことになる。その部屋には寝台と小さな机、三脚の各卓があり、より小さな机が二つ、レンズ研磨機、約150冊の本、そして、肖像画とチェス盤があるだけだった。彼の生活ぶりは物静かで、遠慮がちだったが、郎らかで、自制心に富み、親切で思いやりがあったとスピノザの伝記作者でルター派の牧師であったコレルスは書いている。

オランダの地図

スピノザは、ファン・デル・スパイク家の信心深さに興味を持ったようで、コレルスの前任者であるコルデスの説教についての内容を家族から聞くと、それを高く評価し、自らもその説教を聞きに行くほどだったという。スピノザは、神の言葉による啓示の受託者としてのキリストを賞賛していた。

英蘭戦争当時に在ってフランスは都合の良い存在だったが、今や敵にまわった。1667年にはスペイン領ネーデルランドに侵攻する。ネーデルラント連邦共和国の政治指導者で、英蘭戦争で共和国を率いたヨハン・デ・ウィットは戦争を回避しようとし、オランダは経済制裁をフランスにかけるようになる。ルイ14世は、スペイン領ネーデルランドの接収のみならず、ネーデルラント連邦共和国を打倒し、ウィレム三世を主権者とする君主政に移行させようとして1672年、共和国に侵攻した。

オランダは大敗し、デ・ウィットと彼の支持層は軍事的に無能力で、公金を着服し、共和国を敵に委ねようとしていると非難される。彼は四人の刺客に襲われ、手傷を負い政務を行えなくなる。その間にウィレム三世は総督として宣せられたが、今度は、デ・ウィットの兄のコルネリウスが総督暗殺の容疑で捕らえられるという事件が起こる。たが、濡れ衣だった。無罪となったが、総督派にたきつけられた群衆は、監獄に押しかけた。デ・ウィットは兄が付き添って監獄から出ることを希望していると信じ込まされ、彼が到着した時には、そこには彼ら二人しかいないという状況だった。こうして、群衆に取り囲まれ虐殺されたのである。これによって、州の自治と寛容な知的環境は一掃され、オランダの真の自由は終わったのである。

1676年、デン・ハーグを通過したライプニッツは、この事件についてスピノザと話していて、彼が「君たちは最悪の野蛮人たちだ」という張り紙をしに現場に行こうとしたところ、大家のファン・デル・スパイクは家の鍵をかけて、それを阻んだと語った。この時、数週間にわたって何度か顔を合わせ、互いの哲学について話し合っている。おそらく『エチカ』の内容についても話題にのぼった。ライプニッツは、「しかし、私は彼が表明し、私に示した証明のいくつかは、必ずしも正確ではないことに気が付いた。形而上学において真の証明を提出することは、人が考えているほどには簡単ではない(『哲学著作集』)」と述べている。

高まってゆく評価とエチカの出版延期

『プファルツ選帝侯カール・フィリップ』
アンソニー・ヴァン・ダイク 画 1637

スピノザの評価は、一部では高まりを見せるようになっていった。1673年には、ゾフィーの兄にあたるプファルツ選帝侯カール・ルートヴィッヒの代理人からハイデルベルク大学の哲学正教授の誘いを受けている。これはデカルト学の造詣の深さを買われたのである。しかし、彼は断った。理由は二つあると著者のナドラーは述べている。まず、教えるための時間が割かれること、そして、公的に確立された宗教を撹乱しないために哲学の自由を制限しなければならないことだった。この判断は適正だった。フランス軍はこの翌年、ハイデルベルクに進軍し、大学は閉鎖され、教授たちは全員追放されたのである。

1672年にはオランダ共和国の大部分がフランス軍の手に落ちた。ユトレヒト市は1673年までの一年半、フランスのコンデ公に支配されることになる。彼は、モリエール、ラシーヌ、フォンテーヌといった作家を支援していた人で、スピノザと話しをしてみたがり、ルイ14世のために、彼の著書を一冊献呈すれば、年金を受け取れるように計らうとまで言った。それで彼をユトレヒトに招いたのである。実際にスピノザがコンデ公に会えたかどうかははっきりしないが、そこで出会った知識人たちとはよい仲間となった。しかし、結局年金の話は断っている。

知名度が増すに従って、彼の一日の大半は訪問客の相手をすることとなり、健康が既に不安なものになっている今、時間は貴重なものになっていった。そんな中でヘブライ語の文法書を手掛け始める。それは、超自然言語ではなく、普通に話せるための文法書で、彼の没後『ヘブライ語文法綱要』と題して出版されている。1675年までには『エチカ』も出版されてもよい状態までになっていた。しかし、またしても改革派の指導者たちによる非難が再発しはじめた。あの『神学・政治論』の筆者が、それを上回る著作を生み出そうとしているというのである。こうして『エチカ』の出版は延期された。

1676年には彼の胸の病気はかなり悪化していた。おそらく、長年、レンズを磨いた時に生じる粉塵を吸い込んできたことが原因にもなったのだろう。この苦しいなか『神学・政治論』の続編である『国家論』が執筆され始める。あらゆる政体の中で民主政が最善であるという主張は、ネーデルランド共和国の政治的状況に密接に関係していた。個人が理性に基づく生活を営む社会を目指し、なんらかの実用的な政治科学が考察される。

終焉が近づきつつあった。瀉血によって何度か静脈を切開していくらかは良くなったが、やせ細り、顔色は悪くなっていった。突然の死だった。死去する前には、深刻な兆候は見られなかったが、死んだら手紙と『エチカ』などの草稿をアムステルダムで出版を手掛けるリューウェルツゾーンに送るように大家に頼んでいた。彼は、自らの死についてあれこれ思い悩むことはなかったという。「自由の人は死の全てを最小に思惟する。そしてその叡智は、死についてではなく、生についての瞑想である」と彼は『エチカ』に書いていた。

 

スピノザ「レンズ磨きは完成するのか」


 

ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』の中で、テオフロンは影響には二つあると語っている。一方はいたるところに広がり、他方は広がらないが、しっかり根を下ろすと言う。青二才ではなく哲学的で批判的な人物が、いまこの時代にスピノザの『神学・政治論』に注釈をつけて出版してくれたらよいのだがと述べているのである。その後の時代が彼の議論の何を確証し、なにを反駁したかを見るのは有益だろうという。

part1でご紹介したようにスピノザの思想の持つ巨大な力能は、その影響力を現在にまで及ぼし続けている。アントニオ・ネグリやジル・ドゥルーズなどは良い例だと思うが、その核は「思想を表現する自由」と「生の哲学」かと思われる。ドゥルーズの著作『スピノザ』から少し拾ってみたい。

ジル・ドゥルーズ『スピノザ』

ドゥルーズは、スピノザには、「生の哲学」があるとは言う。私たちを生から切り離し、生に敵対する一切の超越的価値を告発するというのである。善悪、功罪、罪と贖いといった概念に人は毒される。生を毒する物、それは憎しみであり、それが反転して自己に向けられ罪悪感となる。悲しみそれ自体、憎しみ、反撥、嘲り、恐れ、絶望、良心の呵責、憐れみ、敵意、妬み、‥‥を一歩一歩たどっていく。その徹底した分析は、希望の内にさえ、安堵の内にさえ、それを隷属感情とするに足る悲しみを含むというのである。真の国家 (共同社会) は国民に、褒章への希望や財産の安全よりも、自由への愛を提供するものなのだ。‥‥彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えているような在り方を否定する。生をあげて私たちは、死を礼賛しているにすぎないのだと。

あの一見、冷たい幾何学表現の『エチカ』から、このような温かいものが流れ出していることは、ある意味驚異といえるのではないか。思うにスピノザはレンズを芸術的に研磨する。そのように自己の思想も、けっして長いとは言えない生涯の中で磨き続けてきたのだ。ヘンリ―・ミラーの言うように。

「思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしない準備でしかない。いつかレンズは完成されるだろう。そして、その日こそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれるだろう‥‥‥(鈴木雅大 訳)」

 

 

参考図書 並びに 引用文献

 

エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』 デカルト説とスピノザ説を比較しながらスピノザ説が解説されていく名著。

バルーフ・スピノザ part1 イルミヤフ・ヨベル『スピノザ 異端の系譜』自由としての人間の力

 

スピノザの迷宮、危険な思想家、異端者、唯物論者、無神論者などなど様々なレッテルを貼られてきた思想家。今回は、そのバルーフ・スピノザを取り上げます。

「本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示した様々な論考からできている(吉田量彦 訳)」と彼は『神学・政治論』に書いている。何が問題だったんだろうか。まともな正論に思える。生まれたのが早すぎたのか。あるいは、社交辞令を欠いた文章だったのだろうか。世間を怒らせ、騒がせたのは確かだったようだ。

「表現の自由」の代表者「自由の擁護者」とも言えるのだが、それだけの哲学者でなかったことは後世の思想家たちへの影響を考えればわかる。イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』からご紹介しよう。

●ハイネ「我々の同時代の哲学者たちは皆、おそらくそうと知ることもなく、バルーフ・スピノザが磨いた眼鏡越しに世界を見ている」
●ヘーゲル 「哲学をはじめるにあたっては、人はまずスピノザ主義者であらねばならない。」
●マルクスは、1841年、23歳の時に『カール・ハインリヒ・マルクスによるスピノザの〔神学・政治論〕』を書いたが、すべてスピノザの文章の引用であった。
●ニーチェは、1881年の夏、37歳頃、こう友人への手紙に書いている。「ぼくはすっかり驚きに打たれ、すっかり魅了されている。ぼくには先行者がいたのだ、しかもなんという先行者だろう ! ぼくはこれまでほとんどスピノザを知らなかった。」
●フロイト「私は自分がスピノザの学説に負っていることを喜んで認めます。私がはっきりと彼の名前に言及しなかった理由は、私が私の仮説に思い至ったのが、彼の著作の研究よりも彼が創出した雰囲気からであった、という以外にありません。」(小岸昭、E.ヨリッセン、細見和之 訳)

彼が創出した雰囲気とは何か。今回は、それを追ってみたい。

筆者のイルミヤフ・ヨベルは、1935年、イギリスの統治下にあったパレスチナのハイフアに生まれる。イスラエルの哲学者、思想家として知られる人だ。エルサレムのヘブライ大学で哲学と経済学を学ぶ。ラジオニュースの編集や司会者などをしながら学業を支えたという。ソルボンヌ大学やプリンストン大学で学び、後にそれらの大学の客員教授となっている。1968年にヘブライ大学のネイサン・ローテンストライヒのもとで博士号を取得する。

彼の哲学的な位置は、スピノザのように内在世界を存在する全てのものの源泉とする「内在の哲学」と言われている。イスラエルの政治コラムニストでもあり、文化・政治評論家でもある。イスラエル哲学賞、フランスのパルムアカデミック勲章のオフィシエでもあるらしい。

 

 

マラーノ (豚) とスピノザ


 

ポルトガル-イスラエル・シナゴーグ 内部  アムステルダム 
スペイン系ユダヤ人であるセファルディックユダヤ人によって建てられた、当時、世界最大のシナゴーグ。

スピノザの破門

1656年7月、アムステルダムにいた24歳のスピノザに破門宣言が下され、ユダヤ人のポルトガル共同体から追放される。これは、スピノザ一個人に関わるだけではない複雑な歴史的経緯が介在していた。

16世紀の終わり頃、スペインやポルトガルからユダヤ人たちがアムステルダムにやって来るようになる。いわゆる、セファルディムと呼ばれる人々で、彼らは、まだ、公でその宗教を実践することを許されていなかったが、1639年にアムステルダムのハウトグラフに初めてのシナゴーグ (通称ユダヤ教会) が建設され、後の1675年に大規模なポルトガル – イスラエル・シナゴーグが完成した。

スピノザは、1632年アムステルダムで生まれる。ユダヤ教徒共同体の記録では、「祝福されし(者)」を意味するベントという名前になっているが、公式文書では、そのヘブライ語であるバルーフと記載されているようだ。父親ミカエルは、ポルトガルから渡って来たアムステルダムの共同体行政の理事で、信望の厚い貿易商人だったがスピノザが22歳の時に亡くなる。6歳の時には既に母ハンナを失ってした。

スピノザは、ヘブライ語やタルムード、聖書などを学び、伝統的なユダヤ教育を受け、ユダヤ哲学を学んだ。やがて弟ガブリエルと共同で「ベントならびにガブリエル・デ・スピノザ商会」を設立して果物の輸出入を手掛けるようになる。23歳まではスピノザとユダヤ人共同体との友好な関係は表面的には変化がなく、シナゴークとも問題はなく、税金も納め、寄付も支払っていたという。ここからは、再びイルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』からご案内する。

イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』

破門は、アムステルダムのユダヤ人共同体における規律と宗教的権威を行き渡らせるための一般的な措置だったらしい。異端行為や冒涜行為の他、シナゴーグに武器を持ち込む、人を中傷する文書を配る、非公式の集会を開く、納税の拒否などの、いわば、違反行為への訓戒という意味が強かったという。悔い改め、慈善金を寄付するなどすれば破門は解かれた。しかし、スピノザは謝罪せず、破門を受け入れる。

ユダヤ社会からは、完全にオミットされ、存在しないのと同然の扱いを宣言される。しかし、財産を奪われることもなく、迫害の犠牲などでもなく、社会から追放されたのでもなかったという。その生活において必要な孤独ではあったが、世間から疎外されているわけでもなく、社会性を失うことなく、友人にも崇拝者にも恵まれていた。研究を続けていけるような年金で質素な生活を営んでいけたという。

マラーノ

16世紀終わり頃から、スペイン・ポルトガルといったイベリア半島からユダヤ人たちが宗教的に寛容だったオランダに避難し始めていた。異端審問から逃れるためだった。

500年に亘ってスペインは、世界におけるユダヤ人離散地「ディアスポラ」の中心地であった。しかし、1391年に下級聖職者や失意の副司教たちに扇動された暴徒によって「死か洗礼か」をスローガンにユダヤ人虐殺が行われ、生き残ったユダヤ人たちは十字架に屈することになる。1411年には、ユダヤ人改宗化熱が再燃し、その後イベリア半島の一つの社会現象といったものに発展していった。キリスト教側は、キリスト教への改宗者とその子孫を「コンベルソ」と呼び、ユダヤ教徒側は強制改宗者「アヌシム」と呼んだ。しかし、当初から彼らは一緒くたに「マ」、つまり「豚」という蔑称で呼ばれいたが、やがてこの呼び名が定着していった。

改宗者の多くは隠れユダヤ教徒であって日本の隠れキリシタンのように秘密裏に信仰を守り続けた。そのことは当局にとっては、頭痛の種となり、トラブルや迫害を誘引する結果にもなる。そして、改宗クリスチャンのユダヤ人の中には、その商才をふるって新興都市ブルジョワ階級にのし上がり、羨望や嫉妬の的にもなった。ついに、1449年、トレドは最初の深刻なユダヤ人虐殺「ポグロム」の地となった。それは、忌まわしいあの優生思想に基づくものだったのである。ナチスより約500年早い。

イザベル一世(1451-1504)作者未詳

アラゴン王にフェルナンド二世が、カスティリャ王に、その妻イザベル一世が即位し、スペインは近代的統一と世界帝国への基礎を形作るが、彼らはカトリックによる新たな専制君主国家を作り上げるための政策としてローマ教皇庁とは無関係なスペイン独自の異端審問所を設けた。異端者と魔女を一掃するためのこの装置は、スペイン全土に恐怖と疑惑と虚実あいまった密告の嵐をもたらしたのである。

コロンブスがインドに向かって旅立とうとしていた頃、多くのユダヤ人が隣国に逃れていった。しかし、ポルトガル王がマヌエル一世に交代すると、彼はスペインのフェルナンド、イザベル両王の娘との政略結婚を望み、彼らは自国と同様にポルトガルでのユダヤ教徒の一掃を条件にした。はポルトガルでよく組織され、とりわけ国際貿易での活躍は目覚ましかった。しかし、その地で、ほぼ半世紀の間、迫害されずにいたユダヤ教徒にも異端審問の魔の手が伸び始めるのである。1536年に異端審問所がポルトガルでも開設された。

ユダヤ人たちは16世紀から17世紀を通じてベニス、ハンブルク、ロンドンなどへ、とりわけ貿易都市アムステルダムへ逃れていき、中には公然とユダヤ教徒に復帰した人たちも多かったのである。彼らが大切に守り続けていた信仰は、モーゼの律法が最も重要なものだった。しかし、断片的で、歪められてしまっていたのである。モーゼの律法の個々の規律と慣習は徐々に記憶から消えていくが、手に入れられる情報は、ラテン語訳聖書、キリスト教の史料、反ユダヤ教文献でしかなかった。記憶にとどめていた数少ない戒律は、異端審問所に見つかれば命にかかわった。マが保持していたユダヤ教にもキリスト教の影響が入り込んでいった。そういった状況の中にスピノザの両親もいたのである。

 

『神学・政治論』既成観念を切り捨てる


 

このような複雑な宗教的・社会的境遇の中に彼は育った。そして、表面的には平穏なオランダの宗教・政治事情は、内部で軋轢を深めていたのである。オランダは、カトリック教国スペインの支配から脱した独立戦争後、カルヴァン派の流れを汲むプロテスタントが興隆する。この改革派は主流派と幾つかの非主流派に分裂し、訳者の吉田量彦さんの言葉を借りれば育ちすぎて収集のつかなくなった盆栽のようになった。

バルーフ・スピノザ『神学・政治論』上

それに、政治体制も総督派と議会派が抗争していた。総督はスペイン支配時代の監督責任者で、独立後は独立戦争の英雄オラニエ公ウィレムの子孫が世襲していた。原則として州ごとの任命だったが、いくつもの州を兼務したである。それに対して総督を排して議会主導を狙うのが議会派だった。改革派の宗教者たちは、それらの政治家たちに取り入ろうとしていたのである。

『神学・政治論』が書かれたのはこのような状況の中だった。著者名なし、出版元はハンブルクのヘンリクス・キュンラート出版だが架空の出版社名でした。実際に出版されたのはアムステルダムでスピノザの友人の出版社だったという。でも、すぐにスピノザが書いたのではないかと噂され始める。

こんな風に書かれていた。「自然的な神の法において、特定の歴史物語を信じるよう求められることはない。神への愛は神を知ることから生じるが、神の知のほうは、それ自体で確実に知られる共有概念から汲み出す必要があるからだ。(吉田量彦 訳)」ここまでは、おおよそ問題などないのだが、次はかなりどぎつい。「だから、わたしたちが最高善をきわめるには〔たとえば聖書という歴史物語を信じることが必ず求められる、などという意見こそ的外れのきわみなのである。(同上)」宗教界にケンカを売っているとしか思えない。

この1670年に出版された本は、当時の新たな政権によって危険視され1674年には禁書処分となった。これで、本書は異端の書とされ、よくて「無神論と紙一重の自然主義」と呼ばれるようになる。ライプニッツの大学時代の教官だったヤーコプ・トマジウス (1622-1684) の言葉だ。だが、この時のスピノザの気持ちを200年後の、フロイトのこの言葉ほどに代弁しているものはないのではないだろうか。

「精神分析を最初に提唱した者が一人のユダヤ人だったということも、おそらくは全く偶然ということはないだろう。こういう新しい理論の形で信念を公言するためには、孤独な野党という位置を受け入れる、ある程度の覚悟が必要だった――そのような状況にユダヤ人ほど親しんでいる者はいないのである(『精神分析への抵抗』小岸昭 他訳)。」

 

エチカ』幾何学的迷宮


 

バルーフ・スピノザ『エチカ』上

本質・属性・様態

スピノザは宗教の本質とは何かを考えようとした。そう考えても不思議でない状況でもあった。それに思想的な背景としてデカルトの機械論的二元論とホッブスの社会契約論の登場があった。彼は、最初、デカルトの顰 (ひそみ) に倣おうとしたが考えを改め、独自な道を歩もうとする。こうしてスピノザの主著『エチカ』は書かれるのだが、結局彼の死後にしか日の目を見なかったのである。

エチカ』の翻訳者畑中尚志さんは、こう纏めておられる。実体 (スブスタンティア) とは自己原因と等置であり、自然と等置である。スピノザは凡ての原因であり自らは何の原因も要しない存在を神としている。この自己原因の神は実体と等しいものとなる。神が自然と等しいとなれば汎神論となると。

スピノザはデカルトよりもアリストテレス派だと言われるが、アリストテレスの強い影響下にあったトマス・アクィナスがエッセ (存在) を神としていることスピノザが、神は実体 (存在) と等しいとしていることには確認しておかなければならない。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、スピノザの「実体」「本質」「属性」「性質/態」といった言葉の使い分けに注目しているので、まず、アリストテレスの実体、本質、属性、性質についての定義を見てみたい。

今道友信さんの『アリストテレス』によれば、存在には、ギリシア語で on (存在)、ousia (実体)、einai (存在すること) の区別がある。存在については、ヨハネス・ロッツ『ハイデガーとトマス・アクィナス』神は創造において性起するに書いておいた。これらの語は、いずれも、英語で言う to be にあたる einai の文法変化によるものでousia は einai の女性形現在分詞 ousa の変形であるという。実体 (ousia/ウーシア) に関していえば、以下のように区分できる。

(一)第一実体 他の属性として述語とならないもの、究極の主語または主体(基体)、すなわち個体のこと。端的な物体ないし単純物質のことであり、自ら主語であって他の述語とならないもの。特定の人や特定の物を指している。
(二)第二実体 これと指しうる存在であり、かつ離れて存在しうるもの、つまり各々のものの形式 (morphē) と形相 (eidos) である。一般的な人や馬と言った類や種といった普遍的観念的な実体を指している。

今道友信『アリストテレス』

このように実体とは、<形相と質量からなるそれぞれの個体である「個物」と普遍的観念的な実体としての「形相」の二つに分類される。ちなみにスコラ学では個的現実的存在 (ens) と本質 (essentia) に向かう実体とに分けられている。第二実体における形相が本質ということになる。次は、表現である諸属性とは何かと言うことになる。

認識されるということは何らかの意味で述語化されることであり、自己において述語とならないものは認識不能ではある。述語になるものを纏めたものとして範疇がよく知られていて、主語的存在者が範疇的存在者を属性として持つと考えられていた。範疇が実体的存在者の属性ということになる。その範疇には、実体 (ousia/羅substantia)、量、質、関係、場所、時間、状態、持前(所持)、能動、受動の10項目が挙げられていて、ものの大きさ、形、色、それが在る場所などの性質、特長を指している。それで、属性とは、本質=形相を構成する性質と考えられる。巻末に存在から範疇へ至る一覧表を掲載しておきます。

しかし、アリストテレスは、個物としての「個の存在」を実体として設定したために、その個物性を普遍者であるカテゴリー(述語)で主張し尽くすことは出来ない。例えば、日々、刻々と変化するものを表現し尽くすことには限界がある。それで、カテゴリーの諸形式による一般的な述語に留まってしまうと今道さんは言う。実体的存在の<存在は底をつかれず残るというのである。そこには、従来の論理学の限界があったのである。

一方、『エチカ』では、実体、属性、様態の定義はこのようになっている。

・定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
・定義四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
・定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在り、かつ他の物によって考えられるもの、と解する。
・定義六 神とは絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
(『エチカ』第一部 「神について」/畠中尚志 訳)

バルーフ・スピノザ『エチカ』下

唯一の実体である神は無限に多くの属性からなり、その属性の各々が、その類において無限であると述べられている。自然の中の一切のものは、属性の変状もしくは、様態であり、これらは個物と言う名で呼ばれる。属性には、現実に人間の認識の対象となる延長 (物体が空間の部分を占めている性質) の属性と思惟の属性が挙げられているが、このようなものが属性、つまり「実体の表現」である。

アリストテレスでは、存在ー実体=個物・形相ー本質ー範疇となっていた階層構造が、スピノザでは、実体―属性ー様態という形に圧縮されている。

デカルトの考えでは、物体という実体の属性延長であり精神の属性思惟であり、それらによって認識が可能になるとして、延長と思惟とを別々の属性の様態として区別した。人間は合成的実体で精神と身体から成り立っている。しかし、延長を持たない精神が、どうやって延長を持つ体を動かせるのか十分な説明ができなくなる。

スピノザにとっては、存在するのは唯一の実体で、完全なものであり、如何なるものも欠くことがない。もし、思索実体と延長実体が存在するとしたら両者は同一の実体でなければならない。『エチカ』第二部の第一定理「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である」、同じく第二定理「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である」を受け入れるなら思惟実体の様態はことごとく延長実体のいずれかの様態と同一でなければならず、その逆も然りということになる。この対応関係を明らかにしているのが定理七「観念の秩序及び連結は物の秩序及び連結と同一である」ということになる。これが、デカルトと決別する心身並行論となるのである。 (エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』)

様態は実体が変化してゆくかりそめの形であり、実体の本質と知性が把握するものである。神は自己原因であり、あらゆる事物の原因であるが、固有の本質を構成する諸々の形相自身のうちに事物を産出し、その本質の観念のうちに自らを理解するままに諸観念を創出するという。それらの産出は、範型といったものを模倣することなく直接に生み出される。そこには、自身が産出し作用する絶対的な力=コナトゥスがあるとドゥルーズはいうのである(『スピノザと表現の問題』)

スピノザは、神という実体から無限というマジックを使いながら「自然」に直結させようとしているかに見える。ドゥルーズは、メルロ=ポンティが17世紀の哲学における最も理解しがたいものとして「無限から出発する無邪気な思惟方法」と呼ぶものを紹介している (『有名な哲学者』) が、ドゥルーズ自身は、積極的な無限の力と現実性とを説明するために、独創的な概念要素を持つあらゆる手段がスピノザには必要であったという。それで 『スピノザと表現の問題』という著作が生まれた。僕は、思うのだけれど、アリストテレスの底をつかれず残る実体的存在の<存在>は、無限によって救われるのかもしれないのだが

スピノザの無限とパースの点

伊藤邦武『パ―スの宇宙論』

自身が絶対無限である実有の神は、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなる実体であった。自然の中の一切の物は神あるいは属性の変状ないし様態であり、個物と言う名で呼ばれる。神はこれらを自由意志ではなく法則によって必然的に生じせしめる。ここは『エチカ』の最大の謎である。誰でも疑問に思う。絶対無限には、無限の属性があり、無限の様態が生まれる。どうやって?

その糸口を探るのに絶好の著書がある。伊藤邦武さんの『パ―スの宇宙論』である。そこには、基本的でありながら哲学的にも数学的にも極めて厄介な連続性の問題が述べられていた。直線は、点の無数の連続的な繋がりとして考えられるが、その線を切ったときその切り口は点なのか?もし、点と点の間を切り離すことができるのなら隙間がすでに存在することになり、その直線は、有限個の点でできていることになる。ライプニッツも悩ませたこの問題は、深刻な「迷宮」だったのである。

この問題を解決するためにアメリカの論理学者・思想家であるチャールズ・パース(1839-1914)は、アリストテレスの言う線を作る点は「線を連続させるとともに、これを限定区分しもする。点は、長さの部分の始めであるとともに、他の部分の終わりでもある。」という考え方をとる。この考え方からすると、点は自分の分身を作るらしい。なんだか忍者みたいだ。ルール違反のような気もするのだが、線の端っこは、魔法のようにいくつもの点が飛び出すことができ、それらの点は、分裂(破裂)の前には一点であったというのである。一つの点は、0と1の間の存在する無理数のようなものとして考えているのだ(超準解析の無限小の概念を思わせるといわれている)。この考えは、ぼくが『出現と運動』というシリーズを描く時にずっと頭にあったことだけれど、これならスピノザの無限という迷宮を抜け出るためのアリアドネの赤い糸口になるんじゃないのかな。メルロ=ポンティはスピノザの無限を見くびっていたのだと思う。

カントール集合

ちなみに、この問題を数学的に解決したのはドイツの数学者ゲオルク・カントール (1845-1918) だと言われる。集合論から様々な種類の「数の系列について、無限の連鎖の特徴を規定する方法を確立するとともに、様々な無限系列の種類の間に見られる階層的関係を明瞭にする方法を提示した。図のカントール集合は線分を三等分して、その真ん中の三分の一を抜き取る操作を無限に繰り返す。面白いのは、パースが連続体を扱っている時にカントールの方法を見出していることだ。連続と無限。だか、無限には気をつけた方がいい。

 

スピノザの雰囲気


 

イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』に戻ろう。スピノザは聖書をそれ自体の記述から科学的とも言えるテキスト解釈から出発しようとする。それは聖書以外の間テクスト性を考慮しなければならないことを意味していた。一方で、スピノザの神は絶対的な内在性の神であり、現実の総体と等しいという理性的直観を根幹に据えていた。それをどう見るかは問題となる。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
(1770-1831)シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるレリーフ

ヘーゲルが150年を経てスピノザの観点からより精神性の強い哲学を発展させようとしていた。存在や実体を超える神といった超越の観念を否定するだけでなく、内在の領域を神聖なものとみなした唯一の思想家だとヨベルは言う。弁証法的な過程を通して彼が「絶対知」と呼んだ哲学の最終的な総合形態の体系を現わそうとした。まず、最初にスピノザの立場を本質的で必然的なものと承認し、その後にこの立場それ自身が自らより高次の立場に高まっていくようにさせたスピノザの内在性を踏み台にしようとしたのだ。

ヘーゲルの新しい体系の中で特権的な地位にあるのは、このスピノザとアリストテレス、カントのみだとヨベルはいう。ヘーゲルにとって絶対的なものは、スピノザの言う「もの」のような実体ではなく、カントの言うような主観の「私は考える」でもなかった。これらを契機としながら、よりいっそう高次の総合的立場で包含しうるような「概念」と呼ばれる絶対者だったのである。ヘーゲルは、スピノザの問題は、あまりに神が多すぎる点にあるという。スピノザの果てしない全体性は、一切の差異を抹消する圧倒的な原理だというのである。

カール・マルクス (1818-1883) 1865

マルクスは、スピノザの『神学・政治論』から社会的・文化的発展の微妙なメカニズムを哲学者として追及するという強い示唆を得る。スピノザは、そのための言語や神話や解釈学のある種の用法を編み出し、それを大衆の意識の次元に役立てようとしたが、それは、いわば上から目線だった。これをマルクスは、大衆自体をプロレタリアートとして変容されること、理論は大衆の意識を彼らが経験している何らかの現実の窮状に対して目覚めさせるようにしなければならないとした。ボトムアップにしようとしたのだ。大衆=マルチチュードへの目線である。マルクスは、未来のための変革は、ユートピア的な夢想ではなく、現実の状況が指し示している事柄に対する科学的な理解を伴っていなければならないとしたが、そのことをスピノザは既に予言していたとヨベルは述べている。

ニーチェは、スピノザの言う神即ち自然が「世界とは結局古くから愛されてきた無限の‥‥神に似たものだ」「何らかの仕方で古き神がなお生きている」と信じたいという「願望」であると語った。ニーチェは、神から至高の善と智恵を取り除き、至高の力に還元してしまう。それは、「運命への愛」と「永劫回帰」によって排除されたものだった。スピノザの考えた「自身が産出し作用する絶対的な力」であるコナトゥスだけが残ったのである。

フロイトは、ニーチェの陶酔的で華麗な思弁的思想を恐れて読むのをやめたという。彼には純然たる経験的な探求が必要だった。それには、ニーチェは濃すぎたのである。スピノザの思考様式こそ、ダ・ヴィンチとの共通する性格を持っていたという。それがフロイトの言う「雰囲気」だった。『レオナルド・ダ・ヴィンチと彼の幼少期の記憶』の中で彼はこう述べた。「その飽くことなき、倦むことなき知への渇望のゆえに、レオナルドはイタリアのファウストと呼ばれてきた。しかし、‥‥レオナルドの発展はスピノザの思考様式に近づいていくという意見を口にしてみることも可能なのかもしれない(小岸昭 他訳)。」

ハイネは、こう述べている。「汎神論はドイツでは公然たる秘密である。実際我々は有神論の段階から抜け出たのである。我々は自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない。我々は成年に達し、父の監視を必要としていない。我々はまた偉大な職人の工作品でもない。有神論は、奴隷と子供、ジュネーブ人たちの宗教、時計職人たちの宗教なのだ(『歴史』小岸昭 他訳)。」

ヘブライ人たちは神を恐るべき専制君主と考え、キリスト教徒たちは慈愛に満ちた父と考える。ルソーとその弟子たち、ジュネーブ学派全体は、神を聡明な技術者と考えるとハイネは述べる。機械主義的世界観はデカルト以来、主流になりつつあった。ハイネは、スピノザの思想をヘーゲルよりに解釈しなおしているとヨベルは言う。神は自然と一体である。しかし、ハイネの場合、そこにはキリスト教の聖なる精神ではなく、「聖なる物質」があった。当世風の唯物的な影響が萌し始めている。しかし、注目すべきは「我々は自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない」という言葉だろう。「我々は神々の民主主義を創設しつつある」とも言う

 

自由としての人間の力


 

ハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)
シャルル・グレール 画  1851

スピノザの雰囲気とは、結局、ハイネの言う「自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない」という言葉につきるのではないかと思われる。それはどのような歴史的な権威よりも、当世を席巻する流行の思想よりも、自らが考え、自らが打ち立ててゆく思考の自由と言うべきものだった。これが、獄中から立候補して国会議員になった思想家アントニオ・ネグリへのスピノザの一撃である。

ネグリは、スピノザにおける先進的なもの、さらに強力な何かがあるとすれば、それは絶対的に唯物論的な意識であり、生政治的な意識であるとしてこう述べている。「制度的な関係が常によりいっそう構築されるとしたらそれは、常によりいっそう充溢していく自己が生産された結果です。スピノザの汎神論とは――今日もっとも宗教的な哲学者でさえだれもこのことを話さない理由はわかりませんが――愛を共同=<共>でいとなむことを通じて真実を生産するなかに、人間の力を再認することです(『スピノザとわたしたち』信友建志訳)。」

ちなみにノヴァーリスは、スピノザの愛についてこう述べている。「スピノザとツィンツェンドルフは愛の無限のイデーを探求し、花の雄蕊にとまって、愛のために自己を実現しつつ自己のために愛を実現する方法を予感していた(『ゾフィーへの手紙 1796/7/8』中井章子 訳)。」ノヴァーリス、う~ん、香しい。

さて、『エチカ』の最後にスピノザは、このように述べている。「私の示した道はきわめて峻厳であるように見えるけれども、なお発見されることはできる。また、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら幸福がすぐ手近にあって大した苦労なしに見つかるとしたら、それが、ほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である畠中尚志 訳)。」

Q.E.D.(Quod Erat Demonstrandum)これが示されるべきことであった。

 

付 アリストテレス「存在の一覧表」 今道友信『アリストテレス』より

付帯的存在とは、偶然的な意味で存在と言われるもの。例えば、家を建てた場合に、その家がある人には快適な存在となり、ある人には不便な存在になる。このような偶発的存在は学問の対象にならない。

第一実体とは、それぞれの個物、例えば、植田という名前の人であり、基体と呼ばれる。
第二実体とは、その個物に属する種や類に関する普遍者を指していて、精神の眼で見抜かれるという意味の「見られた形」= エイドスという言葉で呼ばれた。プラトンの言うイデアと同じものである。しかし、アリストテレスの形相は、生物における種概念のように個物に内在する普遍あるいは形式であるために実体と不可分であった。これに対してイデアは価値の理念として必ずしも実体を必要としない場合がある。アリストテレスは、人はイデアの影ではなく、私の私と言う実体の中に人と言う種を内包していると考える。第一、第二を併せて実体とは、個物(基体)と形相を示していることになる。

もし、私が人であるという判断が正しいなら、私の中に私と言う基体と私の本質的属性である人間とが、私において結合しているのを命題として結合させたからだということになる。そのような命題は無数に生み出せる。しかし、このような多様な存在が何故存在するのかを問う時、必然的に第一の存在、あらゆる現象の統括者の存在が想定される。それを探し求める第一の哲学が神の存在を証明する神学となる。

認識されるということは何らかの意味で述語化されることであり、自己において述語とならないものは認識不能ではあるが、個物を原因から分析することはできる。大別すると大理石の柱であれば、材料としての大理石である質量因、内的組織としての規定、型、形態である形相因、柱にするという目的である目的因、大理石が柱になるという転化、つまり物事の静止の第一の起点とそこから動き出すという始動因あるいは起動因に分類される。

その「述語する」という動詞であるカテゴリオからカテゴリー(範疇)という言葉は由来する。どちらかと言えば論理的整理というより文法的整理と言った意味合いが強いという。「ソクラテスは賢い」における「賢い」は形容詞であるし、「その事件はリュケイオンで起こった」と言えば、「リュケイオンで」は場所を表す副詞で「起こった」は動詞である。言辞の数だけカテゴリーがあるが、それを纏めて10に分類したものが有名な範疇である。そのうちの実体というのは紛らわしいけれど以下のような定義になっている。

実体 (ousia/羅substantia)、「なんであるかに応ずるもの」
量 「いかほどに応ずるもの」
質 「どのようにに応ずるもの」
関係「に対してどうあるかに応ずるもの」
場所「どこに応ずるもの」
時間「いつに応ずるもの」
状態(位置)「どう置かれているかに応ずるもの」
持前(所持)「何をそなえているかに応ずるもの」
能動「することに応ずるもの」
受動「されることに応ずるもの」

 

引用文献 及び 参考図書

 

バルーフ・スピノザ『神学・政治論』下

ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』

 

アントニオ・ネグリ『スピノザとわたしたち』

 

エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』

 

 

 

 

 

 

ヨハネス・ロッツ『ハイデガーとトマス・アクィナス』神は創造において性起する

 

『ヘラクレイトス』(前540頃-前480年頃)
ホセ・デ・リベラ(1591-1652)画

ヘラクレイトスが、人間の二面性について語っていることを前にご紹介しました。人間は自らの内奥でロゴスと一つでありながら、不可解にもロゴスから離反し、不幸な分裂に陥っている。この分裂が、生涯に亘る人間の行動、すなわちモノとの交わり、他者との交流、自分との交流を特徴づけている。人間は現にありながらも現に存在しないというのです。

ロッツは、このヘラクレイトスの言うロゴスが、ハイデッガーがあらゆるものの根拠としている<存在>に類似していると言います。ここで、ロゴスと<存在>が類似しているのを確認することは、彼の愛した詩人たち、トラークル、リルケ、ヘルダーリンの世界を考える上で非常に重要だと思われますが、今は置いておきましょう。

ハイデッガーの根本問題は<存在>を目指していました。この問題は<存在>の意味、<存在>が最も内的に何を言わんとしているかを目指しています。それが、ハイデッガーにとって究極の根源でした。人間は分離された主観性ではなく、世界と関わっていて、いわば世界にさしこまれています。それ故、人間は<世界内存在>と言えるでしょう。「人間は様々な存在者に囚われているので、存在者において間断なく存在が輝き出ているにもかかわらず、その一なる存在を考慮することなく忘却し、ついに否定してしまう」のです。

ここで、ロッツは問います。<存在>と神とは関係があるのかと。そして、彼は、ハイデッガーの思想が無神論でも有神論でもないと答えます。ただ、思惟の道は存在から聖なるものへ、聖なるものから神性へ、神性から「<神>という語で名づけられるべきもの(『ヒューマニズムに関する書簡』)」へと続いていると述べるのです。道は<存在>からなおも先に示された諸段階を通って、やっと神々へと至る。だから、<存在>を端的に神と同定することはできないとしているのです。

前々回、柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part1 スンマに殉じた黙り牛で、ハイデッガーの高弟であり、自身も神学者であったヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』から「トマスの存在論」を少しだけ書いておきました。その続きをご紹介します。僕は、いつもハイデガーと表記しているので、こちらの名称で統一させて下さい。

ヨハネス・バプティスト・ロッツは1903年にドイツのダムルシュタットに生まれます。新トミズムとカトリック的存在哲学を研究したイエズス会士です。オーストリアのインスブルックで神学を、オランダのファルケンブルクで哲学を学んだ後、ドイツのフライブルクでマルティン・ハイデッガーと、マルティン・ホーネッカーに哲学を学びました。

その後、イエズス会付属のプラハのベルスマンカレッジで、次いでミュンヘンの哲学大学で教鞭を執ります。1952年から1985年まで、ローマのポンティフィシア・グレゴリアン大学でも働いていました。ロッツは、現代哲学とカントの超越論的方法をキリスト教の教義における考え方の中に取り入れようとします。そして、ハイデッガーの思想を基にトマス・アクィナスの伝統を再解釈しようとしました。今回の著作は、その主著と言っていいでしょう。1992年にミュンヘンで亡くなっています。

 

存在と存在者


 

存在忘却、あるいは存在喪失によって人間の危機が訪れている。それは、西洋の宿命だった。このハイデッガーの主張は20世紀の思想に大きな波紋を投げかけました。救いは存在への回帰にあるが、人間は「故郷喪失」の内で「彷徨」している。それ故、この存在への回帰は今日的課題と言えるのです。しかし、そこに至るためには多くの階段を昇ることが必要であり、ハイデッガーが成し得たのは最初の段階だけだと彼自らが述べています。従って、存在へと至る道、更にそこから先の神性へと至る道は遠いと言えるのです。

ハイデッガーのこの存在に対する批判は勿論あります。フランクフルト学派が知られていますが、そのテオドール・アドルノは『否定弁証法』の中で、この存在は単なる幻想であって無意味だと結論付けたと言います。アドルノもまた存在者に向かい、存在忘却を免れてはいないと著者のロッツは言うのです。ハイデッガーは、『存在と時間』の中で「呼び声によって呼びかけられている」のは「世間的自己」であり、自己自身が「己自身に向かって、すなわち自己のもっとも固有な存在可能性に向かって」、「己にもっとも固有な可能性のうちへ」と「呼びたてられる」と述べます。「現存在は良心において自分自身を呼ぶ」と言うのです。

存在は存在者の背後にある

ヨハネス・ロッツ (1903-1992)
『ハイデガーとトマス・アクィナス』

この曰く言い難い<存在>は事物認識の刻一刻の時間化された形態においてのみもたらされます。眼差しは事物に照準が合わされ、この事物は意識の前景のみを形成します。それは、存在が時間を介して現前性として規定されるといいます。時間の系列に従って、見たり、聞いたり、触ったりしたものを存在者として認識し、そこにまた存在もあるということですね。しかし、その<存在>は背景にあって、背景として究明される。存在と存在者は明確に区別されています。しかし、この<存在>は逃げ去り、誤認され、誤解され、ついには拒絶されます。存在は、無という覆いに隠され、ついに存在忘却へと沈むと言うのです。真の存在は隠されているということです。そして、無から存在への転向が起こります。存在の空け開きが起こるのです。これらはハイデッガーの『存在と時間』を貫いている問題でした。

トマスの存在論は、存在への関係は語られるが存在からの根拠付けがないとして存在忘却を超えていないとハイデッガーは考えていました。しかし、ロッツは、トマスの言うエンス (存在者) は、人間にとって最初に把握されるものである。しかし、トマスにおいても存在者はエッセ (存在) の働きに由来し、それ故、存在者は存在を支持すると考えられるとしています。存在—存在者の関係にエッセ-エンスの関係を重ねていることになります。本書の重要な主題の一つはここにあります。

 

トマスのエッセとエンス

では、トマスにおいて存在エッセと存在者エンスとは何だったのでしょうか。トマスは『真理論』の第一項「真理とは何か」の中で、異論・反対異論・主文・異論回答というスコラ学の講義の形式で論を展開しながらエッセとエンスの関係を顕わにしていきます

①異論からの抜粋
<真>は<現体(エンス)>と同じものである。
アウグスティヌスは『独白』の中で「<>とは『現 (あ) るがままのもの (=エッセを有する) ものごと』であると言っているが「現るがままのものごと」とは「現体」に他ならない。したがって>の内容は現体>と全く同一事に帰する。

②反対異論からの抜粋
『原因論』(プロクロスの『神学網要』からの抜粋をまとめた小著) にいうように「被造事象の第一のものは、エッセである」し、‥‥それゆえ<>と現体>とは別のものである。

トマス・アクィナス『真理論』
『真理論』と『ペトルス・ロンバルドゥス命題集注解』からいくつか抜粋を収めた貴重な著書

③主文から抜粋
「実体」の名辞の顕示するのはエッセのある特殊様態であり、換言すれば「独立的<現体>」(per se ens) のことである。
アヴィケンナがその著『形而上学』のなかで、「おのおのの事象の真理はその事象に内蔵されるエッセの特性である」とし、また或る学者が「<真>とは、エッセとそのエッセを容れるものとの統一である」とするのはかかる見地に立つものである。

④異論回答から抜粋
「<真>とはエッセを有するものである」というとき、その「エッセを有する」はエッセの現実機能の意味でいわれているのではなく、結合 (=述定) する知性の標識であり、つまり命題の肯定を意味するとも解釈される。(花井一典訳)」

解説しますと、①異論では真理とはエンス (存在者) であるとされますが、②反対異論では、被造事象の第一のものはエッセであるという反論が紹介され、真とエンスとは別だと言います。③主文で、エッセの特殊状態が現体 (エンス) であり、真とはエッセとその容れ物エンスとの統一であると結論づけられます。そして、④異論回答で①の異論に登場したアウグスティヌスの「エッセを有する」という言葉は「AはBであると言う時のエッセ、つまり、Be動詞のことだと言っているのです。今道友信さんが、いみじくも「ガアル存在」の「デアル化」と呼んでいるものです。

エンスは存在者と訳されますが、訳者の花井さんによれば、印欧語思想圏にあっては質・量・関係・所有・時・所・配置・行為・受動といった範疇にわたる包括概念だったと指摘しています。「ものごとのあるがまま」を指す言葉だと注意を促しておられる。そして、ens は Be動詞 esse の分詞と言いますからエッセとは「在る」、「存在する」という意味になります。

存在動詞ッセは、トマスの神学においては「エッセンチア (本質) の現実化」を意味していました。本質は、実体の下位概念です。例えば、本があると言う場合、本を現実の個物と考えると「本がない」ということを説明する時、困ったことになります。「~がある」は、それ自体としては可能態にある本のエッセンチアが「現実化している」場面の記述であると考えられているというのです。そして、既に存在が保証されている個体について述定する場合ですが、例えば、石は重いという時、この命題はエッセンチア「重い」とエッセの結合から構成されているのです。エッセによって表現されるものが本質 (エッセンチア) だということができるでしょう。アリストテレスの存在解明は、存在に合わせて言語を明確にすることだと言われますが、それをトマスは引き継ぎ、ロッツはこれを踏まえて<存在>にエッセを当てました。

ハイデッガーの神とトマスの神


 

存在が存在者を問うということ

存在忘却は、存在の本質の見守りへと転回します。存在の空け開けが起こるというのです。空け開きを存在は与え、時間をも与えます。そこで、ロッツは問います。<それが与える存在とは何であるのか、<それが与える時間とは何であるのか。<それが与える>において何が与えられるのかと。ハイデッガーは、思惟を通して存在の存在者からの根拠づけに引き戻ることなく、時空間が開けられると考えます。しかし、この場合、<それ>は存在を指しています。

人間は、この本来的な時間の内に立つことによって存在を受け取ります。現前性が許し与えられるのです。それは、すなわち現前性としての存在を、及び開けたる場所の領域としての時間を、それらの独自的なるところへ差し渡し、譲り渡すこと」だと言います。そのように人を「彼の独自なるところへもたらす」ことが性起なのです。あたかも暗闇に光がさすように存在への一瞥が与えられると言っていいと思いますが、そこに、ある空間と時間が与えられるという分けですね。この存在が自らを様々に証しすることをハイデッガーは歴運と表現しました。この歴運において存在は自らを歴史として展開します。

「時間と存在は性起において性起し、それどころか存在は性起へと消滅する」とハイデッガーは言います。「性起はあるのではなく、それは性起を与える、のでもない」ただ、残っているのは「性起は性起する。」それで「われわれは同じものから同じものへ向かって同じものへと語る」というのですある種、悟りに近いと言っていいと思います。そして、ハイデッガーにとって、神もまた性起するのです。しかし、ハイデッガーの言う神は神々を指しています。「神もまた存在者であり、存在者としての存在と、世界を世界化することから性起する存在の本質において立っている 」と微妙な言い方で述べていますが、性起から由来する神が性起の始元としては見なされていません。トマスは、神は究極的に即自的に性起を凌駕する故に性起の始元と考えていると著者は言います。ここには大きな違いがあります。

ハイデッガーにとって神は肯定的にも否定的にも決定されないものです。「あらかじめ長い準備のうちで存在自身が自らを開け透かす」、それに続いてようやく、「存在の近さ」からのみ神の問題は決定しうるとハイデッガーは考えていました。存在の歴史の終りに神はあるのでしょうか? 彼は、人間が神へと至るのは、人間において世界が「もっとも近しいもの」として「存在の真理」に人間を近づけ、そして人間を「この性起とひとつにする」ことにあると考えていたようです。

著者はこう述べます。トマスは、性起を凌駕した存在者に繋がれない存在、すなわち性起に関して存在そのものを明らかにするように原因づけるものをはじめて可能にし、開くと言うのです。難しい言い方ですが、性起の始原としての存在を開くというのと同じ意味かと思います。この存在にハイデッガーが到達していない限り、存在の最も内的な自己に関しては、彼は究極の忘却を免れないというのです。ハイデッガーはここで反撃されていますね。存在は存在者という形で時間性の中に投げ出され、存在はその段階に留まっていて永遠性を獲得していないからだというのです。

『トマス・アクィナス』(1225頃-1274)
サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)画

トマスのエッセは神なのか

トマスは『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第一項「真理は事象の本質をなすものであるか」において神とエッセとの関係をこの様に述べていますが、主文の一部だけをご紹介します。

神の (本質) たるエッセは全てのエッセの原因であるとともに、神のなす認識は凡ての認識の原因だからである。それゆえ、神は本原的<現体>(primum ens) であったように、本原的真理 (primum veritas) をなす。右論述から推察されるように「いかなるものもエッセを有する程度に応じて真理 (合致の度合い) を有するからである」(花井一典 訳)。

トマスは、神を現体 (エンス) の本原体であるとしてその本質をエッセと考えていたようです。同じく『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第二項では、こう述べています。

「‥‥いかなる事象も被造的エッセを分有しており、これによってそれ自体の内実としてエッセの述語を得る(formaliter est)。そして、他方、個々の知性も光を分有しており、これによって事象について判断を下す。ただし、ここに言う光は超被造的光を範型に仰いでいる (花井一典 訳)。」

真理の概念を構成するのは、「事象のエッセ」と「認識能力が事象のエッセに適った把握を為すこと」の二点であるとしているのです。知性によって<存在の充溢>が知らしめられる。トマスに於いては、真理の認識に、この両輪が必要とされているのです。付け加えると、トマスは、悟性は媒介、すなわち移行であって、この媒介は感性において始まり理性において終りを告げると考えていました。感覚的なものの最も高次なものが精神であるとして認識の全体性を破壊することなく、時間を通り抜け、永遠なるものへの上昇する。そのことによって<存在の充溢>へ接近を図るというわけです。これは、感性・悟性・理性の三位一体的な浸透と言うことができ、カントの考え方に一石を投じます。

 

存在の階梯を登り切った時


 

ロッツは、トマスが新プラトン主義的な命題をアリストテレスでもって補完し、深めたと言います。新プラトン主義は、超越的なイデアに上位の段階の存在が下位の存在に徐々に不完全性を増しながらも触れていて、その本質を分有する形で存在の大いなる連鎖を形作っていると考えます。存在の大いなる連鎖については、アーサー・O・ラブジョイの同名の立派な著書がありますが、”記号の組み合わせが全知を導く ” part1 ルルスの術 「アルス・コンビナトリア」にも少し書いておきました。この無の淵に至る垂直性に対して個々のものの中に、アリストテレスのいう形相 (個々のものの本質) を見ていることになると思われますが、存在者 (エンス) は存在 (エッセ) の容れものであったことを思い出してください。ここで、プラトンの垂直性とアリストテレスの水平性は、ゴシック建築の如く見事に統合されることになります。

ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』

新プラトン主義の一者からの流出という問題と存在との関係を考える上で非常に面白い例があります。それは、ジル・ドゥルーズがスピノザの命題と表現を考える場面です (「第11章 表現の内在性と歴史的要素」)。内在性と表現の論理的な結びつきは複雑な伝統を持っているのですが、ドゥルーズは、全てはプラトンの分有から始まるように見えると言います。何が面白いかというと分有する側と分有される側の問題なのです。つまり、存在と存在者との分有の関係です。

流出と分有

プラトンの分有の原理は、とりわけ分有する側から考えられてきました。分有は、分有される側にいわば突発的・暴力的に現れている。つまり、トップダウン型の方向性を持っていて、いわば押し付けられるという分けです。しかし、分有されるものが不完全なものであるなら、分有を賦与されることは、完全なものが模倣されて与えられるということになり、外部に模倣者、つまり芸術家を必要とするとドゥルーズは言うのです。賦与者と賦与されるもの、そして被賦与者の三者がありますが、流出の過程ではそれぞれの被賦与者に対して賦与される内容が異なっているということになるでしょう。

ここで、なぜ第一原因は一者なのかとドゥルーズは問います。分有される側から分有の原因を求める時、分有を超えて、あるいは分有の上にその原理は見出されなければならないからです。第一原因は必然的に有あるいは実体を超えています。つまり、存在者や存在を超えていると考えることもできるわけですね。存在の向こうに別のメタ存在を立て、それを神として考えることもできる。ロッツは、この問題を神の創造という問題の中で取り扱いますが、そのことは、トマスの創造の所で取り上げましょう。

分有の変遷

プロティノスは、分有は質量的でも、模倣的でも、ダイモーン的でもなく流出的であると考えていました。やがて、新プラトン学派でアカデメイアの最後の学頭であったダマスキス (480頃-550) は、多が一者の内に集められ、集中され、包括されているが、一者はまた多の中に自らを展開しているとしています。これが、中世からルネサンスにかけて極めて重要になった一対の概念、「包み込む-展開する」であるとドゥルーズは述べています。双方向的ですね。

アウグスティヌス (354-430) は、この流出を神の創造に繋げます。神の内に諸々のイデアがあり、このイデアは範型的な価値、つまり手本としての価値を持つと考えます。イデアは神の無限の有を表しながら、神が意図し、為すことのできるものを表現している。神の内のイデアは範型的な類似であり、神によって無から創造される事物は模倣的な類似と言えるでしょう。分有は一種の模倣ですが、模倣の原理はモデルと模倣されるものの側に見出されるとしました。後に、ボナベントゥラ (1221頃-1274) は、表現は内在的で永遠であり、自らを表現するものとの関連においては多であるとしました。表現する芸術家は神の側にあるということでしょうか。

ちなみに、スピノザは流出や範型といった事柄に関する従属を取り払って、解放してしまいます。「無限の様態的変様に様態化される限りにおいて」神は、常に直接的に産出するとしました。「実体は自己自身のために自らを表現する。」この表現は形相的 か、あるいは質的だとドゥルーズは言います。「実体はあらゆる属性を包括する神の観念において自らを表現する」という分けです。

 

創造とは性起のことなのか


 

ギリシアのポイエーシスとキリスト教の創造

アウグスティヌスは、創造する精神は、時間も空間もなくして自らを動かし、それは創造した精神を時間を介して空間なしに動かし、物質的なものを時間と空間を介して動かすと述べています。これは明らかにアリストテレスの第一動者を思い出させます。ダンテの神曲』天国篇に登場しますね。ロッツは、トマスにとって運動は「創造」であるが、それはハイデッガーの言う性起に近いのか? 性起は「創造」の意味で解釈しうるのか? と問います。

聖アウグスティヌス(354-430)
マルク・アルシス 作 1715

ギリシアにおける創造=ポイエーシスには、キリスト教のように無からの創造という概念がありません。ギリシアのポイエーシスは変化なのです。第一質量の地水火風への変化を考えていただければ良いでしょう。ハイデッガーの言う創造は、ポイエーシスであり、変化であるとロッツは言います。性起から出来する、現前するものを現前化させることは、「アリストテレスにおいてはポイエーシスとして解釈され」、「のちに創造と解され」、最終的には超越論的意識による対象の措定へと流入すると述べているからです。

キリスト教の伝統に立つトマスにとって「創造」は「変化」では、ありませんでした。この「創造」は、個々のものの本質である形相原理がモノにおいて創造されると言うのです。それだけでなく、第一質量をも創造され、モノそのものとそれに付帯するすべてと共に創造されることになります。

創造は性起を思い起こさせる

トマスは『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第一項の中で、「エッセの第一原因は同時にまた真理の第一原因であり、自ら第一の<真>をなしており、それは神である」としています。一方で、『真理論』では、創造された第一のものはエッセ (存在) だと述べています。「自ら第一の」という言葉に注目したいと思います。スピノザは「実体は自己自身のために自らを表現する」と述べましたが、トマスにとって神は自己の原因であり、その自己表現が創造であるといったらよいでしょう。トマスの神は第一原因なのです。ハイデッガーの神々は自己原因の神ではありません。

全ての存在者の存在が問題にされます。存在者 (エンス) は「変化」に留まり、存在 (エッセ) は「創造」に到達しているとロッツは述べています。絶対的な存在から「創造」が起こると言い換えてもよいと思います。存在はそれぞれの存在者をこれこれであると規定する形相の諸規定を含んでいる。つまり、存在者は存在の一部を分有していて、存在が第一のものであるということになり、存在は絶対的であるということになるのです。それはいかなる仕方でも存在者の存在ではなく、自存する存在なのだというのです。神は「創造」によって自らを被造物に伝達し、それと同時に神は自らに留まるという分けです。これはハイデッガーの言う「脱去」に近いと言います。ロッツはこう述べます。

「神は『創造』によって自らを被造物に伝達し、それと同時に神は自らに留まる。あるいは、神は被造物から脱け去る。神の発露において、本質的には、神は覆蔵されたものとしてとどまる。ここから帰結することは、創造』はまたハイデッガーの性起に近く、脱去における出来事であり、それはあまりにも自ら抜け去る根本的な出来事であるがゆえに、『変化』の中に消え去り、それに至る人は多くない。かくして、結局のところ、創造』あるいは性起から出来する存在は存在者のうちに消え去り、そうして通常の眼差しから脱け去り、それどころか否定される。脱去を辿って神まで至ることを排除したようだが、それはあとで本来的に正当化されることが必要とされる (村上喜良 訳)

先に述べたようにハイデッガーにとって、神は性起しますが、「存在者としての存在と、世界を世界化することから性起する存在の本質において立っている 」のでした。神が神であるかどうかは存在の配置から、その配置の内で性起するとしたのです。性起から由来する神が性起の始元としては見なされていません。彼の考え方を、キリスト教でいう創造の在り方に当てはめるのには、無理があるのです。トマスでは「創造」における神は存在者ではなく、神の本質としての存在 (エッセ) としてでした。存在としての無限の超越者は、容易にみて取れないし、無限の内在者は容易に見過ごされるから、性起は無に基づいているとロッツは言います。この無はあらかじめ与えられた材料の無いこと、つまり質料的原因のない無なのだと言います。キリスト教の「創造」は無から始まります。このことから、「創造」は奇しくもハイデッガーの言う性起に近いということが言えるのでしょう。これが、本書の重要なもう一つの主題です。

 

無と自由としての存在


 

存在者と無

スピノザは『エチカ』の第一部の中で「実体の性質には存在することが属している (定理7)」、「全ての実態は必然的に無限である (定理8)」、「神は全てのものの内在的原因であって超越的原因ではない (定理18)」「神の存在とその本質は同一である (定理20)」と述べています。彼の考えでは、諸属性は諸様態の本質を包み込み、そして、それらによって自らを表現します。ドゥルーズは、いくつかの矛盾を指摘していますが、これは神の観念があらゆる諸観念を包括し、それらによって自らを展開するのと同じであると述べています(『スピノザと表現の問題』)。スピノザにあるのは絶対無限の存在である唯一の実体であり、ないのは性起における無なのです。

ロッツはこう述べます。「性起は無から性起する」ここで、知っておいてほしいことは、ハイデッガーが、存在に向かう方向性をオントロギッシュと呼び、存在者に向かう方向をオンティッシュと呼んでいたことです。存在論 ontlogia から来ている言葉ですが、on は存在を logia は論理を表しますロッツはこの無を空虚な深淵としての無ではなく、オンテッシュに原因づけるものは全て排除されることだと言います。つまり、絶対的な存在 (esse absolute) に至ることのないものは全て無から存立すると言うのです。ここで、無が存在の覆いだという意味が分かります。

ヤコブ・ベーメ(1575-1624)もまた、「光り輝く」無を見ました。ベーメの無はあらゆるものから超越した無根拠の無を語っています。その無は、同時にあらゆるものの原因となる「根拠の根拠としての無」でもありました。そこから自己展開像として「よろこびのたわむれ」が起こるのです。調べてみないと断言はできませんが、「根拠の根拠としての無」はロッツの言う無なのかもしれませんね

存在の遊戯と言葉

ヘラクレイトスは、存在にも等しいロゴスの出現は隠れることを好むと言います。この出現はオンテッシュなものを突破することで初めてオントロギッシュな深みにおいて発見されるので、しばしば見過ごされると著者は言います。出現は真理と自由の「生起」であり、ハイデッガーはそれを創作や必然性とは区別しています。性起から現れる様々なエポックは自由な流れの中で如何なる理由も示さず、自らを展開します。それは、ヘラクレイトスの遊動、つまり最も高き遊戯として把握されるべきものだと著者は言います。神遊びということでしょうか。

マルティン・ハイデッガー
『ヘルダーリンの詩作の解明』
「ヘルダーリンと詩作の本性」収載

私たちの思惟の多様な活動は、一なる存在それ自身の遣わしによるとハイデッガーは言いました。その存在自身に呼びとめられて、様々な表象の仕方、経験の仕方、表現の仕方の内でそれらすべてにおいて「歴史的に同じもの」を思惟すると言いうのです。この歴運は、ある流れゆく過程を形成していきます。ここで、人間を存在に根拠付ける言葉は決定的な意義を持ちます。それは、その都度の分与から現れてくるからです。言葉の根拠は、存在の語りかけにあり、人間は自らの語りによってそれに応答するという分けです。ここに対話が生じるのです。ミハイル・バフチンの言う対話に近いと言えるかもしれません。

存在者には存在という根拠がありましたが、ハイデッガーの言うように存在は脱根拠、つまり自身の根拠ではないなら、根拠のないものに絶対的な必然性はあり得ないことになります。ここで、存在はヘラクレイトスの言う最高の遊戯として把握されることになるのです。この遊戯から存在の遣わしや分与が由来し、それらは人間に向かい、人間によって全ての存在者を包括するのです。この遣わしによって何が正確に分与されるかを読み取れるのは、この遣わしが言葉として思惟に関連付けられているからだと考えられています。

ハイデッガーは、『ヒューマニズムについて』のなかでこう述べています。「言葉は存在の家である。言葉という住居の中に人間は住む。思惟しているもの、作詩しているものは、この住居の番人である(小磯仁訳)。」ハイデッガーの愛した詩人のヘルダーリンはこう歌います「‥‥そして、合図は/はるか昔から神々の言葉なのだ」と。根源的な命名力によって名づけられた神々の言葉があったのかもしれません。そのことにより物事の本性が語りだし、それによって初めて事物が輝き始める。そのことによって「人間が現に有ること」が確固とした関わりのなかに引き込まれ、根拠づけられるとハイデッガーは言うのです。存在の開けの時空間の中で言葉が出会う時、詩が生まれます。ハイデッガーの言語論に特殊な感じを僕は持つのですが、トマスのエッセがBe動詞でもあったことが思い出されるのです。そこにはアリストテレスの余韻があります。本書の主題には、もう一つ「時間」の問題があるのですが、僕の興味本位でこちらの方を付け加えさせていただきました。

 

存在の親和性


 

ハイデッガーの言う存在が宗教的な思想に親和性が高いというふうに感じる人は、恐らく僕だけではないでしょう。ヘーゲルが「神は死んだ」という標語を言挙げし、それを地球の核に届けとばかり喧伝したのはニーチェであり、マルキシズムやサルトルもまた「神なき神学」を標榜します。こういう流れの中で神の問題を再び問い直せる思想の鍵は、ハイデッガーの言う存在ではなかったかと思われるのです。

神学者である筆者は、それを中世最大の神学者であるトマス・アクィナスの思想に結び付けようとしました。キリスト教に受け入れられたギリシア哲学が、そこから近世哲学へと旅立っていく結節点ですね。ここで顕わになるのは、この二人の思想家の違いの方だったのかもしれません。しかし、時に頭をよぎるのは、一つの思想を理解しようとする時、異なるパースペクティブからそれを眺めることによって新たな洞察が得られるというミハイル・バフチンの指摘です。少なくとも、ロッツは、神をとおしてハイデッガーの<存在>に新たな光を投げかけてくれていると言えます。そして、トマスと共に神学への新たな地点に立とうとしたと言えるのかもしれないのです。とは言え、トマスのスコラ学の凄みと同時にアリストテレスの復権がヨーロッパという土壌へ「在る」の探求という巨大な楔を打ち込んだ。そのことを実感した次第です。

 

 

参考図書

マルティン・ハイデッガー『存在と時間』上

マルティン・ハイデッガー『存在と時間』下  ハイデッガー選集 16・17

 

 

 

 

マルティン・ハイデッガー『オントロギー 事実性の解釈学』ハイデッガー全集 第63巻 現象学からみた存在論

 

 

アーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』

 

 

 

 

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part2 中世神学と国家理論

 

中世史家であるジョセフ・ストレイヤーは、11世紀までの西欧中世は<長期の冬であり、12世紀に<中世の春>が訪れると言う。それは、「12世紀ルネサンス」と言ってよかった。トマスの生きた13世紀は、その最盛期を極める独自に文化発展した時期であり、<中世の夏>と言われる。その後、14世紀にはヨハン・ホイジンガが著したように『中世の秋が訪れるのだ。

ペトロ・ネメシェギ(1923-2020)上智大学名誉教授

トマス・アクィナスは、南イタリアの侯爵の息子で、5歳の時からベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院で育てられ19歳の時にドミニコ会に入会し、それから一生涯大学の教授、及び教皇庁付きの神学顧問であった。彼は肉体労働をした経験もなく、司牧活動を通して庶民に接する機会もなかった。ベルナールのように政治に携わることもなく、ボナヴェントゥラのように修道会の長上になることもなかった。彼は、大きな絵の輪郭を白い紙に黒インクだけで描くように自分が専念した神学上の問題を考え、著述することだけに心を費やしたと、神学者のペトロ・ネメシェギ神父は述べる。トマスの五つの長所を挙げた後、彼には、生活体験と想像力の欠如があるとトマスの短所をこのように述べた。

これに対して著者の柴田平三郎さんは、トマスをこう弁護する。事物の論証を客観的、抽象的に行って生々しい生の感情を持ち込むのを拒否するのは一般に13世紀のスコラ学に特徴的なことであった。中世キリスト教の研究者であるデヴィッド・ノウルズの言うように12世紀は、文法の習得とラテン作家の作品読解に支えられた自己表現力豊かな文芸文化があった。それは、古代の賢者に対する敬意とそうした志向を持ち合わせた人々の友愛関係が培った土壌といえる。その精華が『薔薇物語』だったが、13世紀は論理の時代になるのであると言う。

柴田平三郎『中世の春』
ソールズベリのジョンの思想世界

ネメシェギ神父は、トマスは諸思想の多様性、独自性を消すような収録の仕方をしたとも批判する。トマスの体系に多くの思想家が合流した結果、一つ一つの思想の本来のユニークな価値がニュートラルなものになってしまった。福音書の魅力的な素朴さ、パウロの焔、アウグスティヌスの旋風、ディオニュシオスの神秘的な闇などトマスの書に探しても無駄だというのである。

これに対して柴田さんの弁護はこうである。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、トマスが問題にしている視点は、かつてのギリシアやローマの状況が如何なるものであったかと問うより、13世紀に生まれていたなら彼らはどのような貢献をもたらすのかを問うているのだと述べている。そのように、トマスにとって重要だったのは、過去の知をどう知るかではなく、真理とは何かであったというのである。

結局、トマスが13世紀という時代の中で行おうとしたのは、異質なものの「和解と調和」による「体系の構築」であり、「削除と綜合」を通じての「全体性」の実現であった。しかし、彼の政治理論と教会論を研究すると、まさにその逆であって、誠に独自な魅力を持っているが、首尾一貫していないように思えると柴田さんは言う。今回は柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』をご紹介している。前回 part1 ではトマスの『神学大全』を中心にご紹介した。今回 Part2 は、本題のトマスの政治学についてご紹介する。

 

人間は社会的・政治的動物である


 

『トマス・アクィナスの栄光』
ベノッツオ・ゴッツォリ(1420-1497)画

アリストテレス文献の流入

12世紀ルネサンスと呼ばれた時代にアリストテレスの著作群が組織的に紹介され始める。この時代にはギリシア文献だけでなく、それらを独占していたアラブ世界の文献も翻訳された。

そのルートは三つあり、①スペイン・ルートでは、12世紀クレモーナのヘラルドによってギリシアやアラブの哲学、科学書がアラビア語からラテン語に訳される。②シチリア・ルートでもプトレマイオス、エウクレイデス、プロクロスの天文学や数学、自然学のラテン語訳がなされた。そして、③北イタリア・ルートでは、ヴェネツィアのヤコブによってアリストテレスの『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁論』がラテン語訳され、初めてアリストテレスの論理学の全貌が明らかにされるのである。

トマスは、その政治学について同じドメニコ会士で友人であったムールベケのグイレルムスが訳したアリストテレスの『政治学』完全訳を用いたと言われる。

社会的・政治的動物である人間

人間は本性的に社会的動物なのであり、だから無垢の状態における人々もまた社会的な仕方で生きたであろう(『神学大全』第一部 96問題 4項)とトマス・アクィナスは述べた。

「人間は自然的に政治的 (ポリス) 動物である」というアリストテレスの言葉を「社会的動物」と言い換えているのである。社会的交わりの中で人間は、いわば、世界に差し込まれている。トマスは、政治の営みや国家の存在が人間にとって自然的なものであると述べるようになる。それまで、アウグスティヌスや伝統的キリスト教では政治や国家を人間の罪の所産、「罪に対する罰と矯正」と捉えられていたのである。

アウグスティヌスに代表されるキリスト教会の正統的教義では、政治社会や国家は神の望まぬ「人間の人間による支配」、つまり「奴隷制」を指すのであって、自然の秩序ではなかった。これに対して、トマスは原罪以前の政治的権威とは何かを問うた。多数者の社会生活は、共通の善を意図する何者かがこれを統轄するのでないかぎり存在しえないであろう(『神学大全』同上)と述べる。無垢な状態においても人間が人間を支配することはあり得るとしたのである。奴隷制とは別に「自由人の支配」は、原罪と関わりなく存在したと考えた。これは、革新的なことだったのである。

 

アリストテレス像  リシッポス作の失われたブロンズ彫刻の模刻(1~2世紀)

共通善による共同生活

アリストテレスにとって共通善とは、自由人の共同体としてのポリス(国)において、人間が単に生きるだけでなく、善く生きること、すなわち徳に従った善き生活を目指すことを意味していた。共通善を目指して共同生活を営もうとする国民相互間の積極的意思とそれへの適応能力たる徳 (アレテー) なしには、国は存続し得ないと彼は考えた。例え、国民一般の徳と人間の徳とが、さらに治者の徳と被治者の徳とが無条件に同じではないとしてもである。

トマスは、「人々は互いに真理を明示しあう者として、互いに信頼しあうのでなければ相互に共同生活を営むことはできないであろう。したがって、真実という徳は何らかの仕方で負債・義務という側面にかかわるのである(『神学大全』第二の二部 109問題 )」と述べている。マウリッツィオ・ッツァラートなら負債・義務こそ人間を奴隷化するものだと言うだろうが、これは金融資本主義の話だ。

ともあれ、トマスは、社会が存続するためには、真実を明示するという道徳性が不可欠なものと考える。それと同時に、悦び無しにも社会において生きることが出来ない。「苦痛を与える人や快くない人と一日中一緒に付き合える人はいない (アリストテレス『ニコマス論理学』) のだから。つまり、人は自然本性的な道徳的義務によって他の人たちと楽しく共同生活することを義務付けられているというわけである。

 

公的権力の行へ

トマスは、君主たちに対して公的権力が委託されると考える。それは彼らが正義の護持者となるためであり、正義の原則に基づいてのみ暴力や強制力を発揮することが可能なのである。国家は暴力=強制力の正統な独占者・行使者であるが、それは国家が正義を実践する限りにおいてである。私的人格者が暴力によって他者から何らかのものを奪い取るなら、それは強盗であるという。

聖アウグスティヌス

これは、アウグスティヌスの有名な国家強盗団説を逆手にとっている。「正義がなくなるとき、王国は大きな強盗団以外のなんであろうか。盗賊団も小さな王国以外の何でもないのである(『神の国』柴田平三郎 訳)。」アウグスティヌスにとって、国家には初めから正義などないのである。彼はアレクサンダー大王と海賊の会話を持ち出す。大王が海賊に「海を荒らすとはどういうつもりか」と聞くと、海賊はこう答える。「陛下が全世界を荒らすのと同じです。私は小さな船なので盗賊と呼ばれ、陛下は艦隊をお持ちなので皇帝と呼ばれるのです」と。

マキアヴェリが、信義を守ること、誠実であることなどの徳性は、君主にとって状況と必要に応じて踏みにじられて然るべきだとしていることを考えるとアウグスティヌスの意見もあながちペシミスティックともいえない。ともあれ、トマスは、アウグスティヌスを権威と仰ぎながら巧妙にその説を換骨奪胎させていると柴田さんは言うのだ。

罪によって人間から理性的であるということが全面的に取り去られるということは不可能である。そうなら罪を犯すことも出来なくなるからだとトマスは言う。そこで、この世の生において持ちうる不完全な幸福は、理性と言う自らの自然本性的なものによって獲得できるものであり、その仕方は、その働きにかかっている徳と異なるものではない。これに対して完全な幸福は、神の本質を見ることにあるというのである。現世の幸福は完全なものではないと釘を刺すことも忘れてはいない。

 

最善の国家制度


 

混合政体論

西欧政治思想の長い歴史の中で、一人の支配たる「君主制」、少数の支配である「貴族政」、多数の支配としての「民主政」、これら三つの支配形態の組合せによる「混合政体」が最善であるとする長い系譜があったと言われる。古代ギリシアのプラトン、アリストテレス、ローマ時代のポリュビオス、キケロ、そして、13世紀中葉にアリストテレスの『政治学』が紹介されるとトマス・アクィナスによって取り上げられるが、本格的な再生はルネサンス期のフィレンツェ、ヴェネツィア、そしてチューダー朝イングランド (1485-1603 ) だとされている。

『チャールズ一世』
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)画

この政体論は、内戦前夜のイングランドで「我が政体は混合政体」であると述べたチャールズ一世 (1600-1649) に予示されることになる。王権神授説を信奉する王の皮肉だったのだろうか。やがて、名誉革命を成功させるイングランドで「君主政」「貴族政」「民主政」の三要素は、議会における「国王」「上院議員」「下院議員」となり、立憲君主制の統治原理として18世紀のアメリカ合衆国へとつながると言うのが定説となっている。

しかし、この説は、今日の中世立憲思想研究では修正を余儀なくされていると著者は言う。まず、その制度には、次のような前提が必要とされている。統治権は法によって厳しく制限をうけること。正当な統治権の成立には被治者の同意が必用であること。その同意は代表者からなる議会を通じて表明されなければならないこと。これらの事柄は、西欧12世紀に復活したローマ法の法学者らによる世俗統治権に関する理論とそれを教会法に巧緻に取り入れた教会法学者たちによって形成されたことが、明らかにされてきたからである。しかし、ローマ法の影響力は大きい。

トマスもまた、混合政体論を最善としながら、一方でそれを否定するかのような主張もあるという。彼は、一体どちらの立場に立っているのだろうか。

 

君主の統治と混合政体

「私によって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める(『箴言8-15』)」と神が述べられているなら、人民の最善の統治は一人による統治である。明らかに教会の統治は、そのように配慮されているから一人の者を教会全体の長としている。このような理由をもとにトマスは、政治においても君主制擁護論を展開する。その典拠は、『君主の統治について』にある。おそらく、ドミニコ会の庇護者であったフーゴ2世のために書かれたと言われる。

この中では、擁護の詳細な理由として以下の事柄が挙げられている。それが、神の宇宙支配の理法に適応していること。政治支配者の最大の務めは、民衆の平和的統一を創出することであり、それは複数者よりも一者によって可能であること。心臓が体を統べるように、理性が霊魂を統べるように自然的統治は一者によって成されていること。預言者エレミアが述べたように一人の人間によって統治されていない領国や都市は、分裂に悩まされ、平和を知ることなく分裂すること。

明らかに君主政を支持しているように思える。問題は、トマスがアリストテレスの概念的枠組みと用語法をどのように駆使して自己の混合政体論を作り出したかという事になる。アリストテレスは、国家指導者が一人で君臨する場合は王政支配だが、統治の知識の原則に従って代わるがわる支配者となり被支配者となる場合は国家指導者であり、それは政治支配だというのである。

しかし、ムールベケのグイレルムスは、これをラテン語に置き換える時、アリストテレスの言う代わるがわる、つまり市民が交互に支配者となり服従者となるというヶ所を、一人の者が役割によって支配者となるとともに服従者となるとした。これは、明らかに誤訳だった。翻訳に誤訳はつきものだが、この誤訳は君主政があくまで統治の基本とするトマスの認識を「絶対的」な君主政か「法に従った」君主政かを問う形のもの変えたのである。前者を王政的支配 (regal rule) 、後者を政治的支配 (political rule) とした。しかし、その法は、一人の支配者が決めるものではなく、共同体の成員全ての意思の具現でなければならないとしたのである。

ジェームズ・M.・ブライスの最近の研究によれば、その共同体全体によって確立された法に支配される君主政は、少数の賢者 (貴族政) と全人民の意思によって宥和された、いわば混合政体なのである。これがトマス政体論の曖昧さに繋がっていると見られている。柴田さんは、このプライス説に概ね賛成だという。

トマス・アクィナス『君主の統治について』
君主の「鑑」という形式で統治と君主政について書かれたが、未完で終わっている。

アリストテレスの混合政体では、権力所有者の数と質によって成り立つ六つの政体分類がある。公共のための単独支配である君主政、公共のための少数支配としての貴族政、公共のための多数支配であるポリテイア (政体・国制) という三つの善き統治形態。そして、私事のための単独支配としての僭主政、私事のための少数者支配が寡頭政、私事のための多数支配である民主政の三つの堕落形態である。トマスは、そのうちの僭主政体が最悪だと述べている。それを防ぐための方策として、僭主になることなど考えられない様な人物の人民による選出、即位した君主が僭主に変る機会のないような手だての構築、王の権力も容易に僭主制に転化しないように宥和されるべきことを挙げている。

このように考えるとトマスの混合政体論のニュアンスが掴めてくる。この『君主による統治について』が中断された2年後の1269年に『神学大全』の「第二の一部」が執筆されるのだが、そこで、こう述べている。人定法は政治共同体を統治する者によって制定されるが、それは、政体との相関による。君主政においては君主の勅法であり、貴族政においては法学者の解答と元老院の議決、民主政においては平民会の議決である。「以上述べたものが融合した国制なるものがある、これが最善である(『神学大全』第二の一部 95問題 四項)。」全ての者が統治に何らかの仕方で参与するように配慮されなければならないという。

 

暴君は放伐可能か


 

ソールズベリのジョン『ポリクラティクス』
フランス語訳の序文、画中の人物は、賢明で狡猾といわれたフランスのシャルル5世。

徳を失った天子を天が見放す時、天命が革 (あらた) められる。天子が自らそのことを悟り、位を徳のある他者に譲ることが禅譲であり、天子を武力によって追放することが放伐である。古来、中国では、これを易姓革命と呼んだ。孟子が掲げたことで知られる思想だ。西欧中世思想においても統治権力に対する抵抗の問題は重要だった。それは、古典古代以来の長い系譜を持つといわれる。

11世紀に修道士ラウテンバッハのマネゴルトが、支配者と人民の間の誓約と誠実にもとづく契約に支配者の任免の根拠はあるとして、支配者が暴君と化して、その契約を破るなら進んでこれに抵抗する権利があるとした。そして、イングランドの人文主義者であったソールズベリのジョン (1115?-1180) のこの発言は、有名なものとなった。彼は『ポリクラティクス』の中で「暴君を殺害することは許されているばかりでなく、正当なことであり正義でもある」と述べたのである。

この1世紀後、トマスは、このジョンの思想を『命題集注解』の中で、より一層精緻にしたといわれる。彼は、「権威が獲得される方法」の暴君、これは資格や資質の欠如のことである。そして、「権威の行使の結果」としての暴君とに分ける。この区分は、14、15世紀のイタリアの政治理論の中で発展していった。

トマスによれば、暴君とは「暴力によって権威を奪う者」であり、「正当な権威の確立の目的に反する」命令や、「邪悪な命令」、「権威の権限を越えた命令」を人々に強制する者である。そうした暴君に対して、服従の義務はなく、カエサルの殺害を正当化するキケロを紹介しながら「暴君を殺害することによって、祖国を解放する者は賞賛され、報いられるべきである」とさえ言い切っているのである。しかし、より正しい判断が下せるという理由によって、放伐は、私人ではなく公的な権威によって為されなければならないとしている。この過激な暴君放伐論は、トマスの死後、彼の後継者たちにとって強力な理論武装の支えとなったのである。

16世紀宗教戦争のさなかに刊行された「モナルコマキ(暴君放伐論)」は、正当な資格を持たないのに暴力や邪悪な手段で王国の権力を簒奪した僭主、しかるべき資格によって王国を譲渡されたが暴虐の限りを尽くす僭主に対して、この権利の主張を行う。それは、やがてジョン・ロックの『統治二論』で「天に訴える権利」としての抵抗権が掲げられるのである。トマスに遅れること約4世紀後のことだったという。

 

戦争は許されうるのか


 

フーゴー・グロティウス(1583-1645)
国際法の父と呼ばれるオランダの法学者
ミヒール・ファン・ミーレフェルト 画 1608

トマスの正戦論

トマスがアウグスティヌスの「正戦論」を中世において体系化した思想家であるというのは通説となっていると言われる。戦争には正当な戦争と不正な戦争があるとしたトマスの正戦論には、二段階あり、「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」である。この正戦に関する教説は、カトリックの正統論として継承され16,17世紀のスペインの神学者ビトリアスとスアレスによって展開されて、キリスト教正戦論は一つの画期を迎えたという。この理論を神学から解放して世俗化し、近代主権国家のシステムに対応させた人が、「国際法の父」グロティウスであった。

さて、トマスがこの戦争をどのように考え、どのように分類したのかを探ってみたい。『神学大全 第二の二部 第40問題』は「戦争について」述べられている。

第一 ある戦争は許されうるか。
第二 聖職者が戦争するのは許されうるか。
第三 戦争する者が策略を使うのは許されうるか。
第四 祝日に戦争するのは許されうるか。

第一項は、「戦争は常に罪であるのか」という問題に集約される。戦争が正しいものであるための要点は、三つに絞られる。「その人の命令によって戦争が遂行されるところの、君主の権威」、「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」、「戦争する人々の意図の正しさ」が、正戦であるために必要とされる。因みに「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」に関して、トマスはアウグスティヌスのこの言葉を引いている。「正しい戦争とは不正を罰するところのものと定義されるのが普通である。すなわち、民族や国が、その成員によって不正になされたことを糺すのを怠ったり、不正に横領したものを返却するのを怠ったりして罰せられるべきであるときに、その不正を罰するのである(『問題集/モーセの七書について――ヨシュア記』)。」

第二項、「聖職者が戦争するのは許されうるか」については、こう述べられている。聖職者は、神に関わる諸々の事柄を観照し、神を賛美し、人々のために祈るのが仕事であるという一般的な理由、聖職位は祭壇の務めのために任ぜられるのであって殺すことや血を流出させることは相応しくないという特殊な理由によって、聖職者による戦争の遂行は全面的に許されない。

主に第一項によって「戦争に至る正義(法)」が説明される。すなわち、君主の権威、正当な理由(原因)、意図の正しさが満たされなければ、その戦争は正しくないのである。次は「戦争における正義(法)」という問題に移るが、これは、第三、四項で説明される。

第三項 「戦争する者が策略を使うのは許されうるか。」 策略には①「虚偽の語りと約束の不履行」があるが、これは敵同士の間にあっても守られるべきある種の戦時法規と協力条約があるのだから許されない。②「企みや考えの不開示」は、敵を攻略するための諸々の計画であり、欺瞞でも不正義でもないとしている。

第四項 「祝日に戦争するのは許されうるか。」 国家の安全は、一人の人間の身体のそれよりも一層保全されるべきもので、それによって多くの人の殺害や、地上的、霊的な悪が阻止される。それゆえ信者たちも国家を守るためには、必要なら祝日に正しい戦争をすることは許されるとしている。

ヨハンネス・グラティアヌス
(1100?-1150?)12世紀ボローニャの法学者
『教令集』の中世手写本

「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」二段階の理論構成は、12世紀の教会法の法典であるグラティアヌスの『教令集』に沿って構想されているといわれる。そして、トマスが、ここで権威として引用する神学者はアウグスティヌスただ一人である。

しかし、例えば「悪人に逆らうな(「マタイによる福音書」)、「愛する者たちよ、汝ら復讐すな、ただ神の怒りに任せよ(「ローマの信徒への手紙」)といった例を引いて、「戦争はつねに罪である」という異論を述べ、その反論として、それは常に心の準備として把持されるべきものであって、時として、共通的な善のためや、戦っている相手の善のためにも、それとは異なった行動をしなくてはならないと述べるのである。ここでも、アリストテレスの影響が見られることを柴田さんは指摘している。

 

異教徒への寛容

もう一つ筆者が指摘していることがある。それは、トマスには聖戦の観念がないことである。彼の時代が。第6回から第8回という三度にわたる十字軍を体験していることを考えると意外だと筆者は言うのだ。「いまだ受け入れていない信仰に反抗する者よりも、受け入れた信仰に反抗する者のほうが、信仰に対してより重い罪を犯すことになる」とトマスはのべるのだった(『神学大全 第二の二部 第10問題』)。彼は、教会がユダヤ人や異教徒たちの祭儀でさえ容認すべきだという立場をとっている。おそらく、これはトマスが、10代の頃にアラブ文化を盛んに取り入れていたナポリの大学で学んだことが影響しているのではないだろうか。彼が広い視野を持っていたことが、このことからも窺える。

 

トマスが置かれていた状況

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

彼の生きた13世紀は、近代的で大規模な戦争は勃発してはいなかったが、都市国家間での争い、君主国、公国などでの世俗権力間での紛争、スペイン人の対ムーア人戦争、度重なる十字軍、対モンゴル戦争、そして、神性ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝の崩壊とナポリにおけるシャルル・ダンジューの制覇と言った事柄が続出していた。そして、トマスのアクィノ家はナポリの近郊において、ナポリ・シチリア王国とローマ教皇領との狭間にあって危うい選択を迫られ続けた。長兄も次兄も皇帝フリードリッヒ二世の側についていたが、長兄はキプロス王フーゴの家臣によって捕虜となり、教皇グレゴリウス九世の介入によって解放され、以後、教皇側についた。次兄は、教皇インノケンティウス四世が皇帝を廃位すると教皇側につき、やがて皇帝暗殺の嫌疑をかけられて処刑される。

トマス自身は教権と俗権を巡る争いに対して穏健で中庸な態度を取っていたといわれるが、曖昧にしていたのかもしれない。このような家族の状況を見る時、トマスの心情も、また察せられるのである。彼は、これらの両権力にたいして距離を取り、自身は一切の顕職や地位を拒否したと言われる。『神学大全』は、このようなトマスの家族の状況と歴史的な背景の中で書かれた。そこには生々しい心の傷があった。トマスは戦争の問題を、人間存在そのものを根元的に問う倫理的、道徳的問題としていたのであって、けっして正義・不正義の問題を社会的な規範や外面的なルールに求めていた分けではないと柴田さんは言う。この思考の枠組みは近代の法学的発想と方法の基にはなったが、それを目指していた分けではなかったのである

 

黄昏に飛び立つミネルヴァの梟


梟を抱えたミルネヴァ ルーブル美術館
西暦2世紀と18世紀と二度に亘り復元された。

時代が傾く時、知のミネルヴァの愛鳥である梟が飛び立つとヘーゲルは述べた (『法の哲学』序文)。ちょうど、ギリシアのポリス世界が崩壊しようとした黄昏の時期に万学の祖と言われたアリストテレスが登場した。彼にこそ、このヘーゲルの言葉は相応しいと柴田さんは言う。そして、中世世界が徐々に傾斜していく中で、アリストテレスから自然主義的政治学の哲学を学び、それをキリスト教教義と調和させ、この世の自然的秩序の正当化を図ったトマスこそ、アリストテレス以上にこの形容に相応しいのではないかとも言うのである。彼もまた、中世世界の全構造を、思想のゴシック建築と比喩される壮大な『神学大全』の中に網羅しようとしたからである。

柴田さんは、本書の最後のあたりで、このように述べる。それまで、中世の人々の心を呪縛してきたアウグスティヌスのキリスト教的人間観と政治観をアリストテレスの思想を基に克服したのがトマスの思想であった。それは新たな中世のパラダイムだったのだが、その論は、やがて、近代のトマス・ホッブスによって全面的、根底的に否定される。ホッブスの人間とは、一切の歴史的、社会的文脈から切り離された「原子論的個人」であったという。そうした孤立した人間にとって「人間は人間に対して狼」だった。「万人の万人に対する戦い」から脱出するために相互の社会契約を取り交わし、強大な国家の形成を目指すことへと舵を切ったと。

アリストテレスが述べ、トマスが信奉した「より善く生きる」ためのロゴスを媒介とした「共通善」と言ったものが、現在では、もはや画餅と化したかに思える。それでも、「善く生きる」とはどういうことなのか人は問わざるを得ない。ここで、人間が社会的動物であるという前提には、「言葉の理解」があることが思い出されよう。理性の光としての「言葉」こそ「善と悪、正と不正を知覚できる能力である」というアリストテレスの思想をトマスが受け入れたことを考える時、ミネルヴァの梟のもたらす知とは何であったかが想像できる。しかし、さきほどの正戦論の中で著者は、ハンナ・アーレントのこの言葉を思い出すと述べている。

暴力自身は言葉を発する能力を持たないということであって、ただたんに、暴力に立ち向かう言葉は無力であるということだけではない。この言葉を発する能力を持たないという性格ゆえに、政治理論は暴力現象について何もいうことがなく議論をその道の専門家に委ねなければならないのである (『革命について』序章 志水速雄 訳)。

 

前回、ご紹介したヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』の続きは長くなりそうなので、別途、ご紹介する予定です。お楽しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

アリストテレス全集17 政治学 家政学
岩波書店  2018年刊

トマス・アクィナス『神学大全』17
第二の二部 第40問題「戦争について」収載
創文社 1997

ハンナ・アーレント『革命について』
社会主義や共産主義といったイデオロギーは死に絶え、残ったのは戦争と革命であり、その中で人が望むものは暴政に対する自由だという。

 

 

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part1 スンマに殉じた黙り牛

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

トマス・アクィナス (1225頃-1274) は、神学・哲学の巨大な総合体系を打ち立てたことであまりに有名だった。そのイメージは、いかにも痩身痩躯の学者肌の人と思われがちだけれど、肥満ぎみで、かなり巨体であったらしい。大きくて重い牛のような人物であったというから不思議だ。悠然としていて、穏やかで物静か、聖なる謙虚とは別に内気で、快活だったが社交的というわけにはいかなかった。時々訪れるけれども秘めていた脱魂・恍惚状態とは関係なくボンヤリしていたという。これに対して聖フランチェスコは、火のような人間で、せかせかし、突然姿を現すと、そこにいた聖職者たちは、皆、彼を狂人だと訝ったという。

トマスは、規則正しく授業に出席したが、とてもノロマだったので、学校の生徒たちは彼のことをうす馬鹿だと考えていたらしい。イギリスの作家であるギルバート・キース・チェスタトン (1874-1936) のトマス伝は、なかでもエピソードに溢れているものらしいけれど、トマスは「歩く酒樽」であって、その食卓は彼が坐れるように半月形に切り抜かれていたという。本書の著者は、こう付け加える。情熱的で詩を愛しながら、書物にあまり信用を置かなかった聖フランチェスコとは対照的に、彼は書物を愛し、書物によって生き、この世の与えるどんな富よりもアリストテレスとその哲学に関する百冊の書物の方を選んだ。神に対して何を感謝するかと問われて、彼はただ、「今まで読んだ書物のすべての頁を理解できたことです」と答えた。著者はこのように紹介するのである。これは、素晴らしい。

『トマス・アクィナス』
ヨース・ファン・ワッセンホフ画 1475

アウグスティヌス以来、長らく貶められていた自然世界の復権>、いいかえれば超自然的秩序から自然的秩序を相対的に自立させることをトマスは図ったと著者は言う。理性的被造物である人間の織りなす社会的、政治的営みが展開される位相とは、まさにこの自然的秩序=自然的世界においてだが、彼は政治や国家についてあるべきイメージをそこに、どう描いたのか、それを考察するのが本書の主題であるという。

今回は、この柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』を二回に分けて、ご紹介したいと思っている。何よりも本書の前半は、トマスの生涯や思想に関して、よく纏められた、極めて充実した内容が紹介されていて、僕には、とてもありがたかったからである。というのも、トマスの著作の多くは、聖職者や信者さんが書いたものが多く、やはり、信仰には<信>というものが前提にあるから、僕のような不信心者には相応しかろうはずもなく、内容も<知恵の探求>や<神の愛といった、いわば宗教的な核心を為すものがほとんで、ハードルが高すぎたということがあった。そういう意味でトマスの政治理念といった、いわば現世の問題を扱う本書は珍しいと言える。

著者の柴田平三郎 (しばた へいざぶろう) さんは、1946年生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科、並びに同大学院法学研究科博士課程を修了された。法学博士で、中世政治思想史の研究で知られる。千葉商科大学や獨協大学で教鞭を執られ、獨協大学名誉教授でいらっしゃる。著書に『アウグスティヌスの政治思想』『中世の春――ソールズベリのジョンの思想世界』がある。この『中世の春』は薔薇物語の所で少しご紹介しておいた。訳書にJ.B.モラル『中世の政治思想』A.P.ダンドレーヴ『政治思想への中世の貢献』R.M.ハッチンス『聖トマス・アクィナスと世界国家』などがある。

 

トマスの生涯 


 

トマスは、1225年頃、ローマとナポリの中間にある都市アクィノ近郊のロッカ・セッカの城塞で生まれている。アクィナスの名前はこのアクィノに由来する。父は、そこの領主で、母はナポリ出身の貴婦人だった。男女合わせて9人とも12人とも言われる兄弟の末っ子だった。当時の貴族は子弟の教育を修道院で受けさせるのが慣習になっていたし、末の子は将来聖職者にと望まれたのであろう。ロッカ・セッカ近郊のモンテ・カッシーノ大修道院に修道志願児童として送られることになる。5歳のときである。このベネディクト会の大修道院の院長は、父の遠縁にあたるランドルフォ・シニバルドだった。

トマスがどのような少年時代を過ごしたかはよく分かっていない。伝記作者グイのベルナルドゥスによれば、無駄なおしゃべりを避け、孤独を好み、周りの子よりも早熟な態度を見せた。口数は少ないが、物思うことの多く、生真面目で黙想に専念していたという。ベネディクト会という観想修道会における濃厚な宗教的雰囲気の中で10年近く過ごしたことは大きな意味があったようだ。それに、この修道院は西ローマ崩壊以降、壊滅状態といってよかった古典の文化遺産を守り抜いていた唯一の場所だといわれている。

しかし、この地はもともと神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世が国王を兼務したナポリ・シチリア王国とローマ教皇領の接する地域で、その対立が激化すると、フリードリッヒ二世は派兵、占領し、他国出身の全ての聖職者を追放した。トマスはというとナポリの大学に入学することになる。1239年、14歳の時のことだったこの大学はフリードリッヒ二世によって設立された官僚養成のための最初の実学的大学といわれている。特筆すべきは、アヴェロエスやアヴィセンナの注釈のついたアリストテレスの著作が、盛んに翻訳されていたことだった。これは、再三に亘ってアリストテレス研究の禁令を受けたパリ大学と対照的だった。

フリードリッヒ二世は、ヤーコプ・ブルクハルトによって「王座に位した最初の近代的人間」と言われた人物で、4歳にしてシチリア王となり、フランス王フィリップ二世の支持によってローマ王となり、26歳頃に皇帝の座についた。中世の教皇庁が出会う最強の敵となった彼は、帝国の中心部をドイツからイタリアに移そうとしていた。古代ローマ礼賛の勢いはシチリアに及び、アラブ文化の愛好は周りの国々には異様に感じられたという。

第6回十字軍の中のフリードリッヒ二世
真中の赤いマントの人物 ドイツ、ヴァルトブルク城内のモザイク壁画

彼が没したのは1250年で、トマスが25歳の時だった。それは、ドイツに皇帝が不在となる大空位時代(1256-1273)をもたらした。この時期がトマスの後半生と重なるのである。教皇と皇帝との二中心の楕円的世界であり、中世が緩慢なカーヴを描いて解体へと向かう時期だった。この二つの権力構造は、イタリアをゲルフ党 (教皇派) とギベリン党 (皇帝派) という二つの勢力に分断する。この軋轢の中で陰謀に巻き込まれるのがダンテ (1265-1321) だった。

この後、19歳でドミニコ会に入会し、ケルン大学での修業時代(1248-52)となる。師アルベルトゥス・マグヌスのもとで本格的な神学の勉強を開始するのである。この時期に学友たちから<黙り牛>のニックネームがつけられた。しかし、師は、こう語ったという。「われわれは、この若者を黙り牛などと呼んでいるが、諸君に言っておく、やがて世界は彼の鳴き声で満たされるだろう。(トッコのグイレルムス『聖トマス・アクィナスの生涯』柴田平三郎 訳)。」

やがてパリ大学で教鞭を執った後、イタリアに戻り、オルヴィエト、ローマ、ヴィテルボなどに滞在し、パリに帰還、再びイタリアに戻ってフィレンツェ、ナポリで過ごし、フランスのリヨンで開かれる公会議に出席する旅の途中、生まれ故郷に近いフォッサノーヴァの修道院で亡くなっている。49歳だった。

 

トマスの時間


フリードリヒ・へ―アは、20世紀のウィーンに生まれ、カトリックの進歩的ジャーナリストだったが、歴史に対する独自の想いがあったという。それが、彼の『ヨーロッパ精神史』だった。オーストリア人であるアドルフ・ヒトラーの手先と闘う中で成長したという彼は、「ヨーロッパとは千年以上にもわたる一つの内乱」であると述べ、「新しい文明は、一切の人種、一切の文明が紛糾する只中で響く和音の中でしか、生きることができない」と述べたという。

この『ヨーロッパ精神史の八章には、13世紀の精神史を「トマスの時間」として、こう述べている。「フリードリッヒ二世がつくった最初の学校のあるナポリが、アヴェロエス主義から、次の世紀に『新プラトン主義的汎神論の影響下にあり、シチリア王シャルル・ダンジュールの支配となるまでの間に、トマス・アクィナスの生涯が横たわる。トマスの仕事は次のいくつかのことを前提としている。すなわち、<神聖ローマ帝国の皇帝に対するゲルフ党の教皇権の勝利、『啓蒙主義的な地中海君主の台頭、予言的な精神主義の衰え、乞食修道会同士の争いである。新しくできた大学はイスラム諸侯の宮廷で行われていた論争や対話の習慣を相続して、パリ大学は互いに非常に異なったキリスト教、汎神論、無神論、<自由思想>の学説と人物の対決する場所となった(『ヨーロッパ精神史』小山宙丸、小西邦雄 訳)。」これには、いくつかの解説が必要だ。

 

修辞から論理へ――スコラ主義

ヨハン・ホイジンガは、12世紀の知識人の言語・思想を羽ばたかせていた自由の世界は終り、スコラ学の領域に閉じこめられ、三段論法に縛られ、ドグマ的公式に立つ哲学的見解に押し込められる時代がやって来るという。しかし、まだ初期の頃は、ボナヴェントゥラやトマスの確固たる不動の体系には閉じこめられておらず、世界の姿、生活と精神の形式は、まだゴシック様式の中に結晶してはいなかったという文法重視の古典の味読と言語表現に心を砕く12世紀の人文主義とは決定的に異なる13世紀のスコラ学の精神、それを説明する場合、「三段論法」「ドグマ的公式に成り立つ哲学的見解」「不動の体系」といった言葉で特徴づけられ、マイナスのイメージを漂わせるものが多かった。

一方で、イギリスの中世史家、リチャード・ウイリアム・サザーンは、司教座聖堂付属学校で営まれていた文法と修辞学を柱とする12世紀の古典研究は、13世紀に入って新しい都市文化の中で活動する人々の関心を失い、新しい状況に応じる新たな知の場所である大学での論理と実証に重点を置く論理学研究が時代の主流になっていったという。それは、「修辞から論理へ」という言葉で表現される。アウグスティヌスの修辞学については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1 記号の発生と象徴=交換能力に書いておいた。

イエズス会のクラウス・リーゼンフーバー神父は、人間に対する尊厳、自然の秩序、理性の力といったものに対する価値の高まりを受けて、11世紀の後半以降に古典ラテン語文学の精神的価値が、次いで12世紀後半から13世紀半ばにかけてアリストテレスといった古代哲学の新たな意義が、見いだされるようになり、神学的<権威>と並んで哲学的な<理性>がクローズアップされるようになるという。ここで、神学は、内的な知恵の欲求よりも言葉によって伝達可能で論証上説得力のある知への欲求に駆り立てられようになるというのである。

 

パリ大学

『小鳥に説法する聖フランチェスコ』
ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃-1337)画

先ほどのへ―アによれば、西方<自由世界>の教皇、諸侯らによる都市国家間の争いや大学管理者、教授、学生、市民間の中の絶えざる争いの中、大学は宮廷世界や知識階級における討論を引き受ける形で成立する。修道院学校、司教座聖堂学校が寄り集まってパリ大学はできた。人文学部、法学部、医学部、および神学部よりなり、中でもその中枢は<教区>司祭からなる教授団だった。そこは、パリ司教、教会、王侯、教皇庁のパリ機関といった諸力のせめぎ合いの場となる。

宗教的な新たな息吹を求める者は、乞食 (こつじき) 修道会に向かい、世俗的に心を動かす者は、法律研究に向かい、知識人たちは、人文学部に急いだという。1252年、このパリ大学に新たな修道会たる乞食修道会、すなわち、ドミニコ会やフランシスコ会の会士たちがやって来る。この年から乞食修道会と大学とは数十年に亘る争いを続けることになる。

かれら修道会士は、修道会長の命には従うが、大学の決定には従わなかった。つまり、大学という団体には何ら寄与しないまま、在俗教師の職と学生とを奪うことになるのである。このパリ大学にトマスがやって来たのは、この1252年という年だった。すぐ後に大学とパリ市当局の間で、司法権をめぐって争いが起こり、大学側はストライキに入ったが、その最中にトマスは、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の講義を行うといういわば、「スト破り」決行することになるのである。

ドミニコ会

『聖ドメニコ』
ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃-15126)画

乞食 (こつじき) 修道会は別名、托鉢修道会ともいう。13世紀初頭に中世初期からの既成の修道会の世俗化、富裕化に対する批判の中から生まれた。ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスティヌス会、カルメル会が知られている。

トマスはこのドミニコ会に入会するのだが、ベネディクト会の修道院長を親戚に持つ家族は猛反対し、入会を翻意させようとするが果たせず、ついに、最後の手に出る。トマスの部屋に美少女を送り込んで、彼を誘惑させようとするのだが、暖炉の燃えさしを振り回して部屋から彼女を追い出し、その燃えさしで壁に十字を描いたという逸話が残っている。

トマスの師であったアルベルトゥス・マグヌスもドミニコ会士で、アリストテレス受容に積極的であったし、錬金術師としても知られ、自動人形を作ったとされる興味深い人物である。トマスの死後、彼に異端容疑が、かけられた時にはケルンからパリまで出向いて弟子を擁護したという人だった。

上智大学で教鞭を執ったペトロ・ネメシェギ神父は、13世紀がトマスに影響を与えた三つの大きな要素についてこう述べている。12世紀からの経済的発展や生活様式の変化という社会的な要因、アリストテレス主義の流入と受容、そして、福音的信仰の復活の三つである。人々は従来の教会における権威主義的な教職制度に安住しなくなり、俗世から離れた修道者の修道態度にも好意を持たなくなる。そんな時、アッシジの聖フランチェスコや聖ドメニコの貧しい者たちの中で小さな兄弟として共にキリストの福音を生きるという姿は共感をもって迎えられるのである。

 

アリストテレス哲学の受容

イブン・ルシュド(1126-1198/アヴェロエス)
ラファエロの『アテネの学堂』に描かれた中央の人物

アリストテレス哲学の受容という問題に関して、フランシスコ会は頑なに保守的だったが、逆にパリ大学内の人文学部には、ブラバンのシゲリウスやダキアのボエティウスといった過激なアリストテレス主義者たちがいた。いわゆるラテン・アヴェロエス派といわれる人たちだ。彼らは、既存の教会から危険視されていた。

イブン・ルシュド、通称アヴェロエスはアラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの研究者として知られる人だった。このラテン・アヴェロエス派にたいしては度重なる禁令がだされ、ついに、パリ司教からの断罪が行われる。トマスがパリ大学に赴任して2年目のことだった。彼は、アリストテレスの原理を真なるものとして、真なるものであるが故に有用だと考えた。そのため、教会からも不信の目で見られ、一方で、大学内でもフランシスコ会からも危険視されることになる。筆者の柴田さんは、トミズムが13世紀中世におけるカトリック教会の唯一の正統的体系として見るのは誤りだと強調している。

一般に、13世紀後半以降のアリストテレスの影響が思想的な変革をもたらし、中世と近代との分水嶺になったと言われている。この<13世紀アリストテレス革命>は、アリストテレスの『政治学』の再発見にあり、その最大の功労者がトマスであるとされてきた。しかし、実際には12世紀に「もう一つのアリストテレス受容」といったものがあったと著者は言う。それは、キケロの影響による「政治的自然主義」と言うべきもので、相当な素地ができていたのである。ちなみに、悪寓の世界にいたアウグスティヌス(354-430)初めて知の輝きを知ったは、キケロの書によってであった。ゲインズ・ポウストは、『中世法思想の研究』で、12世紀ルネサンスにおいて、復活したローマ法の影響を受けた前期教会法学者デクレティスト、そして、カルキディウ、セネカ、キケロ、ウェルギリウスら古典作家たちの著作を通して、独特の自然理解を示したシャルトル学派のソールズベリのジョンやフランスで活躍したリールのアラヌスの中に「社会的、政治的自然主義」の展開を見出している。

中世史家マルティン・グラープマンは、トマスがアリストテレスを独自に研究し、アウグスティヌスと初期スコラ学によって科学的に叙述されたキリスト教的世界観と有機的に結合し、適度に修正されたアリストテレス哲学の方法と形式を借り、しかも教会的神学的伝統の体系を少しも離れることなく。哲学・思弁的神学の建設に一種のキリスト教的アリストテレス主義を創造したという。

 

トマスの神学大全


マリー=ドミニック・シュヌー(1895-1990)
フランス生まれのローマ・カトリックの神学者、改革派雑誌『コンシリウム』の創刊者の一人。

大全/スンマの来歴

神学大全とは「スンマ・テオロギアエ」の訳である。<テオロギア>は神学、<スンマ>には、「全 () 体」「要点」「頂上」「最高の地位」などの意味がある。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、「この言葉を創りだした12世紀の学校用語では、<スンマ>は、キリスト教教義の真理を提示することを目的とする<諸命題>(ないし何らかの一群の教義)の、簡単明瞭で総合的で完全なる資料集であるとしている。

しかし、トマス自身は神学という言葉は使わず『聖なる教え sacra doctina』というタイトルをつけている。

シュヌーによれば、サン=ヴィクトルのフーゴ―のものと見なされてきた有名な集成が、この意味における『諸命題のスンマ』であったという。中世フランスの神学者で唯名論の創始者として知られるピエール・アベラール (1079-1142) は、『神学への誘い』の中で、「三つの人間の救済の<要約 sunmma>として信仰、慈愛、秘蹟」を挙げている。12世紀の間に<スンマ>は、単なる語句の集成にすぎない「命題集」「詞華集」ではなくなり、学問の諸領域における主要な著述形式となって13世紀に引き継がれたという。

ススのヘンドリクスの『法のスンマ』、ロバート・グロステストの『哲学のスンマ』、ギョーム・ペローの『諸徳のスンマ』といったように知識や学問諸領域全般にわたって「簡潔明瞭な総合化」が求められるようになる。諸学のカタログ化が始まるのである。13世紀における最初の偉大な作品が、フランシスコ会士アレクサンデル・ハレンシスの『神学のスンマ』である。それはアリストテレス哲学導入以前の神学大全であった。

 

神学大全/聖なる教え

トマスが『神学大全』に着手するのは、一回目のパリ大学神学部における教授活動を終え、イタリア各地で教えていた時期にあたる。これが第一部開始時期である。パリ大学では、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』がテキストとして多く使われたが、無益な問題や論議の重複が多く、学問的な秩序もなく、同じ事柄の反復が多くて学生の倦怠や混乱の基になっていた。それを改めようとしたのである。全体の構造は、(一)神論(二)人間論 (三)キリスト論となっていて、それぞれのテーマは、以下のようになっている。

(一)神論/神自身と神からの万物の発出
(二)人間論/万物の中の理性的被造物としての人間が神へと帰還していく運動
(三)キリスト論/神のもとへと帰還していく道であるキリスト

論の進め方は、幾つかの権威の提示としての ①異論、それに対する他の権威の提示 ②反対異論、両者の調和的解決 ③主文、異論に対する個別的な批判 ④異論解答となっている。これは、スコラ学の講義形式に沿ったものだと著者は指摘している。

神学大全』の第一問題は、以下のように十項からなっているが、今は、論の進め方の例として第一項のみを柴田さんの解説から見てみる。

第一問題(全十項)
聖教について――それはどのような性質のものであるか、またその及ぶところの如何。

一 この教えの必要について
二 それは学であるか
三 それは単一な学か、それとも幾つかの学か
四 それは観照の学であるか、それとも実践の学であるか
五 その他の諸学との比較について
六 それは智慧であるか
七 それの主観はなにか
八 れは論議を行う性質のものか
九 比喩的乃至は象徴的語りかたの可否について
十 この教えの基づく聖書は、幾つかの意味に従って解釈さるべきであるか
(高田三郎訳)

第一項「この教えの必要について」の論の進め方は、このようになっている。

トマス・アクィナス『神学大全』

異論、「汝より高きものを尋ねるな」「真と有とは置換される」‥‥人間は、理性を超える事柄について探求すべきでない。理性に属する事柄は、既に哲学的学問において十分伝えられている。真と有とは置換されるというスコラ的原理に基づき有 (存在するもの) についての教えは哲学的諸学問の中に含まれる。アリストテレスの言うように哲学の一部門として「神学」が既に存在する。

反対異論、「聖書は全て神感によるものであって、教え、戒め、矯正し、義に導くために有用である」‥‥神感による書は、人間理性によって発見された哲学的諸学問には属さない。従って、哲学的諸学のほかに別個の学は有用である。

主文、‥‥「人間救済のためには、人間理性をもって探求されるところの哲学的諸学問の他に、なお神の啓示によって知らされることが必要であった」その理由として人間は神を目的として神に向かって秩序づけられている。そして、神についての人間理性によって追求することがらも人間は神の啓示をうける必要があった。

異論解答‥‥異論で述べられた二つの説を再度論じ、「人間の認識能力を超える所での理性の探求は間違っている」「認識の対象を構成する観点が異なれば学の性格も異なる。同じ結論〈地球は丸い〉を論証するにも天文学と自然学では方法が異なる。」‥‥それゆえ、聖教に属する所の「神学」は哲学の一部門とされる所のかの「神学」とは類を異にする。

このような論証のされ方がなされていた。トマスは、理性の能力、その探求と認識の領域を認めながらも、理性を超えた神の啓示を信仰によって認識する神学の必要性をのべている。「哲学は神学の婢女」なのである。『神学大全』全体の構成は巻末に記載しておきます。

 

トマスの構造


パリのノートルダム大聖堂
トマスはパリのシテ島の建築現場を見ていたという。1255年に完成した大聖堂だが、最初に師のマグヌスとパリに来たのは1245年である。

以前にも今道友信さんの『ダンテ神曲講義』の煉獄篇でパノフスキーの著作からご紹介したことがあるけれども、ゴシック建築とスコラ学の間には、構造的に相似性がある。「その構造的特徴とは、その骨格における二つの相反する要素、上下の柱の間の垂直的連続性と内部の壁面の水平的方向性との葛藤と対立が実に見事に調和総合されている点にあり、この調和と総合の構造は盛期スコラ学のスンマ(大全)と対応している」と柴田さんは言う。

中世初期のスコラ学は、実在(念)論と唯名論という二つの説が存在していた。それらについては、ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』タルドの波動/ドゥルーズとラトゥールに少し触れておいた。実在論は個物を超えた種や類と言った概念がモノとして存在するという説で、唯名論は、実在するのは個々のものだけだと考える。当初は実在論が正統とされていた。その理由の一つはプラトンのイデア論の影響で、それは、ちょうど教会が、個々の信徒の集合ではなく、個々の地方教会の総合体でもなく、それらを大きく超えた普遍的な実在機構であるとの考えと一致していた。それは、個々の被造物が理想としてのイデアの何等かを分有しているという考えとパラレルだった。これは、プラトン的垂直性と言えるだろう。

「普遍的なものが、ただ精神の中にのみ存在するのか、現実の中にも存在するのか、もし、現実として存在するなら、物体としてなのか、非物体としてなのか、さらに非物体としてであるとするなら、それらは個々の物体から切り離された形で存在するのか (プラトン説)、あるいは個々の実体の内に存在する (アリストテレス説) のか」と著者は問う。

これについてトマスは、『神学大全』の中で、「世界の創造性というものは、まず、世界そのものの側から論証をうけとることができない。けだし、論証の出発点はものの『何たるかにある。しかるに、いかなるものも各自の種的特質におけるかぎり『ここ・いまを捨像しているのであって、『普遍はどこにも、また常にある』といわれるのもこうした意味にほかならない。だからして、人間にせよ、石にせよ、それがつねに存在していたものではないということは、論証されることのできない事柄なのである――(柴田平三郎 訳)。」トマスは、個々の事物から知性の抽象化を経て普遍は存在するという立場をとっている。ここで、水平性が垂直性と統合される。

とりあえず前半のpart1スンマに殉じた黙り牛を終了します。後半 part2 は、トマスの政治思想をご紹介する予定です。ここからは、僕がずっと気になっていたトマスの存在論をハイデッガーの高弟であり、自身も神学者であるヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』から少しご紹介しましょう。

 

付 トマスの存在論


ヨハネス・ロッツ (1903-1992)
『ハイデガーとトマス・アクィナス』

ロッツは、ヘラクレイトスが、人間の二面性について語っていることを紹介する。人間は自らの内奥でロゴスと一つでありながら、不可解にもロゴスから離反し、不幸な分裂に陥っている。この分裂が、生涯に亘る人間の行動、すなわちモノとの交わり、他者との交流、自分との交流を特徴づけている。人間は現にありながらも現に存在しないというのである。

ハイデッガーは、このヘラクレイトスの言うロゴスが、あらゆるものの根拠としての<存在>に類似しているという。ハイデッガーの根本問題は<存在>を目指していた。この問題は<存在>の意味、<存在>が最も内的に何を言わんとしているかを目指している。それが、ハイデッガーにとって究極の根源だった。人間は分離された主観性ではなく、世界と関わっていて、いわば世界にさしこまれている。それ故、人間は<世界内存在>と言える。「人間は様々な存在者に囚われているので、存在者において間断なく存在が輝き出ているにもかかわらず、その一なる存在を考慮することなく忘却し、ついに否定してしまう」のである。

ここで、ロッツは問う。<存在>と神とは関係があるのかと。そして、彼はハイデッガーの思想が無神論でも有神論でもないと答える。ただ、思惟の道は存在から聖なるものへ、聖なるものから神性へ、神性から「<神>という語で名づけられるべきもの(『ヒューマニズムに関する書簡』)」へと続いているという。道は<存在>からなおも先に示された諸段階を通って、やっと神へと至る。だから、<存在>を端的に神と同定することはできないとしている。

トマスにとって<存在>は人間の生において人間が第一に認識するものであり、それは常に最も知られるものである。人間が把握する全てのものは<存在の了解がいつも含まれている。この「存在の開け」、あるいは人間に分与されている<存在への適合は、人間の生全体を動かしている最も内的な力であるとロッツはいう。この探求への挑戦、これが、稲垣良典さんが『神学大全』を「挑戦の書」と呼ぶ理由である。そして、「神が存在するということの認識は本性的に我々に植えつけられている」とトマスが言う時、ハイデッガーの言う「存在者において間断なく存在が輝き出ている」という言葉をパラレルに思い出させるのである。

しかし、<存在>から神へは、なお隔たりがある。世界との関わりの中で人間は、本来的な自己を失い、他者の支配のもとにある。このことによって<存在>はかき消され、存在者は深淵に向かって転落するという。しかし、ハイデッガーが愛した詩人ヘルダーリンの言うように「されど危険の存するところ、おのずと救うものも生い育つ(『パトモス』村上喜良 訳)」とロッツは言うのである。続きは、またの機会に‥‥

 

 

付 『神学大全』 全構成


第一部
第一冊   第  1-13   問題    神の存在と本質について
第二冊   第 14-26  問題    神の生、認識ならびに意志について
第三冊   第 27-43  問題    三位一体について
第四冊   第 44-64  問題    創造について、天使について
第五冊   第 65-74  問題    物体的被造物の創造について
第六冊   第 75-89  問題    人間の本質と能力について
第七冊   第 90-102問題    人間の創造ならびに人間の最初の状態について
第八冊   第103-119問題   神の世界統宰について

第二の一部
第九冊   第   1-21  問題   人間の目的と行為について
第十冊   第 22-48  問題   情念について
第十一冊  第 49-70  問題   能力態について、徳について
第十二冊  第 71-89  問題   悪徳と罪について
第十三冊  第 90-105問題   法について――旧法について
第十四冊  第106-114問題    新法について、恩寵について
第二の二部
第十五冊  第  1-16   問題   信仰について
第十六冊  第 17-33  問題   希望について、愛について
第十七冊  第 34-56  問題   愛について(続)、思慮について
第十八冊  第 57-79  問題   正義について
第十九冊  第 80-100問題   正義につながる諸徳について
第二十冊  第101-122問題         同
第二十一冊 第123-150問題  勇気について、節制について
第二十二冊 第151-170問題  節制について(続)
第二十三冊 第171-182問題  預言の特別の恩寵について、観照的生活と実践的生活について
第二十四冊 第183-189問題  職務と身分の分化について

第三部
第二十五冊 第  1-15   問題    托身について
第二十六冊 第 16-34  問題  キリスト並びに聖母について
第二十七冊 第 35-45  問題  キリストの生涯について
第二十八冊 第 46-59  問題  キリストの受難ならびに復活と昇天について
第二十九冊 第 60-72  問題  秘蹟について――洗礼と堅信の秘蹟について
第三十冊    第 73-83  問題  聖体の秘蹟について
第三十一冊 第 84-90  問題  改悛の秘蹟について
第三部 補遺 
同 冊       第   1-16 問題        同
第三十二冊 第 17-40 問題  終油と叙階の秘蹟について
第三十三冊 第 41-54 問題  婚姻の秘蹟について
第三十四冊 第 55-68 問題     同
第三十五冊 第 69-87 問題  肉の復活について
第三十六冊 第 88-99 問題  最後の審判について

1273年、聖ニコラウスの日のミサにおける啓示によって『神学大全』の執筆は突然中止され、弟子たちによって完成される。

 

 

参考図書 及び 引用文献

稲垣良典 トマス・アクィナス『神学大全』
『神学大全』の翻訳者の一人が語る知的挑戦としてのトマス学

山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の神学』
生に対するポジティブなヴィジョンとしてのトマス神学

 

エティエンヌ・ジルソン/フィロテウス・ベーナ『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』中世哲学の権威ジルソンとフランシスコ会研究で知られるベーナ―の共著

トマス・アクィナス『神学大全』第一冊
創文社 1960年刊