チャールズ・サイフェ『宇宙を複号 (デコード) する』 エントロピーとデコヒーレンス

 

チャールズ・サイフェ『宇宙を複号 (デコード) する』 2007年刊    Charles Seife

相手に何かを伝えたい、コミュニケーションしたいという衝動は、群れて生活するものにとって切実である。非常事態宣言が出て外出自粛になっても、知り合いがスーパーにいれば、ついつい話し込んでしまうのは人情だ。そのコミュニケーションが、いつの頃か情報と呼ばれるようになる。他人と情報交換したいという欲求は文字の発明と同様に、あるいは人が言葉らしきものを操るようになる時期よりも古い衝動であるかもしれない。しかし、面白いのは、買い物という物を買う行為と互いに話し込むという情報交換がセットになって生じている事態だった。物と情報はセットになっている。その象徴的な場面と言える。ちょっと、コジツケたけれど、それは、互いに相補的と言えるんじゃないのかな。

今回は、情報の著作のうちで量子と縁の深いものをご紹介したいと思っている。とても良い本に巡り合った。チャールズ・サイフェの『宇宙を複号 (デコード) する』である。

前回量子世界は表象可能か」量子論が情報論へと傾斜してゆく端緒となった観測問題と量子もつれについてご紹介した。今回はその延長線上にあるので、もし、前回の記事を読んでない方は是非読まれることをお勧めします。今回は、熱力学の第二法則という僕にとって分かったようで分からない法則が、意外にもクロード・シャノンの情報論とシンクロし、あまつさえ量子の世界と連動していくという、臓器を再生できる iPS 細胞張りの破天荒へと(いや、失礼)、奇想天外へと(これも、まずい)、世紀の発見へと誘われるのである。しかし、本書が僕に大きなインパクトを与えたのは、量子という契機から世界を情報という観点で見た時にどのように見えるのかを概括しようとしていることにある。これはとてもレアな観点じゃないか! と思ったのである。ともあれ、一度読むことをお勧めします。

チャールズ・サイフェはアメリカ生まれのジャーナリズム論の研究者である。エール大学大学院で数学を学んだあと、コロンビア大学に移りジャーナリズム論で博士号を取得している。その後、サイエンスライターとなって「エコノミスト」「サイエンティフィック・アメリカン」「サイエンス」などに寄稿しはじめ、1997年~2000年まで「ニュー・サイエンティスト」の記者を務めていた。その後、ニューヨーク大学でジャーナリズム論の教鞭を執っている。著書に『異端のゼロ』があり、『Alpfa&Omega』でPEN/マーサ・アルブランド賞を受賞している。ただのサイエンスライターというだけでなく、ジャーナリズム論を研究しているというのが魅力的だ。なんせ文章が上手い。

 


熱力学は蒸気機関の研究から19世紀に夜明けを迎えた。その世紀の終りにはエントロピーと呼ばれる熱力学の第二法則が古典的物理学に最初の楔を打ち込んだ。しかし、決定的な一撃はボルツマンがこの熱力学に統計学的な確率をもたらしたことによって起こる。そのエントロピーとは何か。確率が導入されるとはどのような意味があるのかが極めて明快に説明される。


 

カルノーとクラジウスとボルツマンの熱

18世紀の終り頃、パリに生まれたサディ・カルノー(1796-1832) は、軍人、政治家、技術者、数学者といった多様な面を持ち合わせた有能な若者だった。軍隊を嫌い、熱機関に研究に没頭するようになる。とりわけ、蒸気機関の熱効率の限界と最大化を研究したことで知られる。経験的な事実のみから熱は運動に変換されることを発見し、気体と熱とに関する法則を打ち立てたが、天才の薄命はいつの世にも惜しまれた。

こんどは、イギリスのジェームズ・プレスコット・ジュール (1818-1889) によって熱の仕事量の値が定式化される。それによって熱量の単位はジュールと呼ばれる。やがて、ドイツのルドルフ・クラジウス によって重要な二つの法則が打ち出された。熱エネルギーと仕事は互いに転換できる。これが、エネルギー保存則の一端である熱力学の第一法則である。器の中の温度が下がって周りの空気の温度と同じになることを熱平衡状態というが、元に戻れない不可逆的変化を示している。熱が常に温度差を失くす傾向を示して高温から低温へと移り変わるのを熱力学の第二法則とした。外からの熱の移動がない限りその逆は起こらない。それを、閉じた系ではエントロピーが時間的に増加するという。僕にとって分かるようでよく分からない法則だった。

1884年、ウィーンに生まれたルートヴィッヒ・ボルツマンは社交下手だが優秀な物理学者だった。イギリスのジェームズ・クラーク・マクスウェルが気体の中で様々な速さで運動する原子が、ある速さで動く確率を少しズングリした釣り鐘型 (ベルカーブ) の分布で表した。それは、マクスウェル-ボルツマン分布と呼ばれている。ボルツマンの名がこの分布と結び付けられたのは、彼が数学的にそのことを証明したからである。気体は少しの間ほっておくとすぐに不可逆的平衡状態になりこの分布に沿ったありかたをする。しかし、それは実験に基づくものでなく純粋な推論であり数学的な定理としてしか見なされなかった

彼は、物理に確立と統計を導入したのである。この第二法則には統計的な要素があることが明らかにされる。それは物理法則の土台を掘り崩すような不安を周囲に与えるものだった。ここでは、法則は「成り立つこともある」程度の確実性しか持たないことになるのである。極めて重要な要素を物理の世界に導入したにも関わらず、評価は冷ややかなものであったのだろう。それにマクスウェルの悪魔が追いうちをかけた。熱力学の第二法則は、人間に何ができないかを思い知らせた。永久機関は不可能であり、エネルギーは無から作ることは出来ないと裁可が下されたのである。エントロピーは普通、高くなるほど乱雑さが増すと表現されるが、これは間違っている。これをサイフェが巧みに説明しているのでご紹介する。

 

エントロピーと確率

図1 二つに仕切られた箱と豆の入る確率

図1 二つの豆 (本書ではおはじきになっている) を真ん中で仕切られた箱に少し離れた所から投げ入れてみる。1.一つ目の豆も二つ目の豆も箱の仕切りの右側に落ちた。2.一つ目は右側に二つ目は左側に落ちた。3.一つ目は左側に二つ目は右側に落ちた。4.一つ目も二つ目も仕切りの左側に落ちた。これらは全て等しく25%の確率で起きる。豆が互いに区別できないとすると豆が仕切られた箱のそれぞれの側に入る確率は、25%、50%、25%になるのである。

図2 今度は投げ入れる豆を4つに増やしてみる。結果は16通りあるが、豆が区別できなければ5つの場合に分けられる。1.右が4つ。2.右が3つ、左が1つ。3.右が2つ、左も2つ。4.右が1つ、左が3つ。5.左が4つ。これをグラフに表すと確率分布を表現できることになる。投げる豆の数を増やせば増やすほど、分布は釣り鐘状のベルカーブに近づいてくる。最も確率が高いのは豆の半分が箱の右側、半分が左側に落ちるケースで、最も確率が低いのは豆が全て右半分、あるいは全て左半分にある場合である。

図2 二つに仕切られた箱に4つの豆が入る確率

どのくらい低いかをみてみよう。豆1024個をでたらめに箱に放り込んでみる。外さずに入れるのは至難の業かもしれないが、箱の片側に全ての豆が入る確率は10の290乗分の1となる。ちなみの観測可能な宇宙の原子の数は10の80乗個くらいしかないらしい。仕切りの片側にすべての豆が入ることが数学的には全くないとは言えないが、事実上はないと言ってよいだろう。

ここで、重要なのは、この箱と豆から成る系におけるエントロピーとは箱の中の豆がなんらかの配置をとる確率ということなのである。ある塊の量をはかれば、はかりの示す数字はその塊の中にどれだけの物質があるのかという尺度になる。カップ内のお茶に入れた温度計の数値は、お茶の中の分子がどれくらいの速さで動いているかという尺度である。エントロピーとは温度や質量と同じく物質の塊に備わっているある性質の尺度なのである。これは、けっして乱雑さの度合いのことではない。ただ、エントロピーが特殊なのは、質量や速度といったものよりも数量化しにくい。物質の集まり全体の配置をある幅を持った確率によって表現するからだとサイフェは言う。

図3 仕切った箱に区別できない1024個の豆を投げ入れた時にあらわれる確率分布

図3のように豆を1024個、箱に投げ入れた時、最も生じそうな結果は箱の両側に512個くらいがある状態で、最もエントロピーが高く、最もありそうにない結果は片側にのみ1024個ある場合で、最もエントロピーが低い。

空っぽの容器にヘリウム原子を1024個入れて放っておくとブラウン運動で拡散して容器を覗けば半分は右側に半分は左側にあるような分布になる。それが最も起こりやすい確率で、エントロピーの最も高い状態、つまり一様に分布している状態である。それが一旦起きると元に戻ることがない。つまり、時間の矢が存在していることになる。その矢は、イリヤ・プリゴジンが『確実性の終焉』で述べているように新たな科学の契機となるのである。カオス理論や複雑系といった非線形性科学の流れが形成されてゆく。

しかし、極く小さな系では極端な分布を見せることが時としてある。ラテックスと呼ばれる天然ゴムのような乳濁液がある。その中の微細な粒子をレーザーで小さな領域に押し込めて、解放後に系のエントロピーの推移を観察する。たいていは、エントロピーは増大するが、ごくたまに隅にかたまってエントロピーの減少を見せた。第二法則の破れだとして騒がれたこともあるらしいが、それは4つしかない豆を箱に投げ込む時と同じで、最も起こりにくい確率が小さな系では起こり得る。量子のようなスケールでは、真空の揺らぎと呼ばれるごく短い間に素粒子がパッと出現し消滅するような事象が起こってエントロピーが破れているように見えるが、それはこの場合と同じことなのだ。サイフェの説明はとても的確なもので感心することしきりだ。熱力学の第二法則がやっと腑に落ちた。エントロピーとは物質が空間に位置する時の起こりやすさの確率を示している。

ボルツマンによって20世紀の科学、とりわけその後半にとって重要な発見がなされていた。彼の周囲はそのことに気づかなかった。ボルツマンは、熱力学から最強の物理法則とサイフェが呼ぶ情報理論が生まれるのを見ることなく自ら命を絶ったのである。彼の墓石には S = k log Wという極めて簡潔な式が刻まれていた。Sは両側に豆が512個あるといった配置のエントロピーを指し、kはボルツマン定数、ある配置が現れる確率をWが指している。

 


ボルツマンの方程式は意外な方向からその有効性が確認されることになる。それがクロード・シャノンの情報理論である。それは、他人の空似ではないかという指摘もあった。しかし、それが決定的に等しいと思わせた要因は、皮肉にもボルツマンを悩ませたマクスウェルの悪魔だったのである。何故なら、情報論もまた物理的実在と不可分であったからである。


マクスウェルの悪魔

マクスウェルの悪魔

1871年頃のこと、電磁場のモデルを定式化したイギリスのマクスウェルは、ミクロな情報が分かれば、エネルギーを低温部から高温部へと移動させることが可能だとした。この破天荒な説には、ミクロの分子運動が見える小人のデーモンが登場する。一定の温度の気体が入った箱を仕切りで二つの空間に分ける。仕切りには穴があり、そこを通過する分子をデーモンが見張っている。デーモンは通過しようとする分子の速度が平均以下なら左側に集め、平均以上なら右側に集める。こうすると箱の左右を温度の異なる空間に分けることが理論上は可能となる。必要な分子なら穴のゲートを開けて通過させ、不要な分子はゲートを閉じて通過させない。ゲート制御のエネルギーは無限小にできるとする。

重要なのは、エネルギーは保存されていて第一法則は満たしているが、低温部から高温部へエネルギーを持ち出すからエントロピーは減少していて第二法則に矛盾するのである。この問題は一世紀以上も科学者たちを悩ませた。ボルツマンにも、このマクスウェルの悪魔を退散させることが出来なかったのである。

1948年有能なアメリカの技術者であり数学者であるクロード・シャノンが、情報は測定でき数量化できることに気がつく。この時、情報革命が始まった。そして、マクスウェルの悪魔の息の根は止められたのである。

情報とエントロピー

シャノンはベル研究所で、一本の電話回線に幾つくらいの通話を流すことが適当か、それを計算するにはどうしたらよいかを考えていた。まず、問いと答えという領域からこの考察は始まる。単純な問いでは二者択一のイエス・ノー・クエスチョンとなる。コインを投げて出たのは表か裏か、白鳳は今日負けたか勝ったか、物価は上がったか下がったかなどなどである。このような問いの答えは二つの記号で表せる。T (真) と F (偽) 、YとN、1と0というわけだ。二つの値のどちらかを記号一個で答えられる。それが二進数の記号、つまりビットである。

シャノンが1948年「コミュニケーション数学論理」で初めて使って以来ビットが情報の基本単位となった。4つの答えがあるなら、0001、1011の2ビットで答えを表せる。8通りの答えなら、000、001、010、011、100、101、110、111というふうに3ビットとなる。1から1000までの中で私が頭に描いている数を当ててもらうとする。あてずっぽうを言っても正しい答えである見込みは1000分の一に過ぎない。しかし、「500より小さい?」「250より大きい?」という問いを投げかけると10回目の質問で100%正しい回答が得られるのである。シャノンは答えの可能性がN通りある問い x には x = log N ビットしか要らないことを発見したのである。これはボルツマンの式と本質的に同じものだ。

書かれた言葉は記号の連なりであって、その記号はビットで書き表せる。アルファベットなら26文字だから5ビット弱で表現可能となり、漢字はもっと多くて16ビットらしい。こうなると、どんな情報もビットで表現できることになる。逆に考えれば文字の連なりから最大限含まれる情報を見積ることができる。

ボルツマンが、1877年に原子群の運動状態数の対数が熱力学で導入されたエントロピーであると再定義していたことは先に述べた。シャノンが情報量を対数で表現するアイデアをフォン・ノイマンに話したら、ノイマンは一言「それはエントロピーのことだ」と言ったらしい(佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』)。

サイフェの『宇宙を複号 (デコード) する』に戻ります。0、1の数字の連なりが、50%が0、50%が1である場合、その0,1の配列は最もランダムである。それは多くの情報を伝えることが出来る。シャノン・エントロピーが最も高いと言える。逆に00000‥‥や11111‥‥の場合はランダムではなく伝えられる情報はわずかである。これはエントロピーが低いと考えられる。もし、その75%が0、その25%が1であるなら、逆でも良いのだけれどシャノン・エントロピーは中程度となる。ここからサイフェは熱力学のエントロピーと情報とは双子の兄弟だというのである。ここの説明は絶妙だ。これだけでもこの本を読む価値がある。シャノン・エントロピーとは1,0の記号の連なりがどれくらいの情報を伝えられるかという尺度なのである。しかし、情報理論が真に革命的だったと言えるのは、物理的世界との確固とした絆を持っていたことだった。

マクスウェルの悪魔死す

1929年にハンガリー生まれのレオ・シラードは、マクスウェルの悪魔の改訂版である「シラードの悪魔」を創り出した。あれこれ分析している内に悪魔が扉を開いて、この原子を入れよう、この原子は入れさせないと観測することによって何らかの情報を引き出しているのだが、測定という行為によって何らかのエントロピーを増大させているのではないかと考えるに至る。情報を得るのに必要なのは、情報1ビットにつき kTlog2 ジュールであることが分かった。Kはボルツマン定数、Tは原子の入っている部屋の温度である。それによって宇宙のエントロピーは増大し、箱の中のエントロピーを減らそうとする悪魔の努力は水の泡となるのである。ここで、熱力学のエントロピーは情報と結びつくらしいということが示唆される。

1951年、フランスの物理学者レオン・ブリュアンがシャノン流の情報エントロピーによって原子の熱力学的エントロピーの振舞いを説明したのである。こんな具合だった。悪魔は原子を測定するための道具を必要とする。原子に当たってはね返ってくる情報、つまり、熱いか冷たいかという二者択一の問いに対する答えによって扉の開閉を判断しアクションする。ブリュアンは、受け取った情報に基づいて行動するという行為は悪魔が減らしたのと同じだけのエントロピーを増加させてしまうと考えた。

そして、1961年、観測によってエントロピーを消費するという現象はコンピューターの情報を消去することに繋がることをIBMのロルフ・ランダウア―(1927-1999)が、次いで1982年に同じくIBMのチャールズ・ベネットが示した。コンピューターがエルネギーを消費せずに情報処理することは可能だが、ビットを消去するためにはエネルギーの対価を必要とし、熱の消費が必要とされることを明らかにした。ここは、量子の観測問題と絡んで面白い所だ。メモリーのなかのビットを利用して扉を開けるか、閉めるかというプログラムを実行する。有限なメモリーを使い果たせば、データを取り除くためにメモリーポジションを消去しなければならない。熱を生み出してエントロピーを放出していることになる。それは、不可逆的な過程だった。悪魔が作業を続け、情報でメモリーを満たしていられるのは次の新たな測定と作業までということになるのだ。

ついでに言うと、ビットを消去するための電力消費による熱量は大した量ではない。ちなみにパソコンが熱くなる理由なのだけれど、CPUでは細かく充電や放電して「0,1」状態を作っている。だが、回路を作動させるための電力消費、トランジスターから不要に流れる電流、またその導線による抵抗といった理由で発熱している。けっこうな熱がでているのだが、スーパーコンピューターとなるとその比ではないらしく、コンピューターの作動と冷却のためにとなりに発電所が必要になるくらいだという。

 


サイフェの情報論は、ここで一気に拡大してゆく。情報とは何かが洗い出される。量子の測定 (物理実験の観測とはいささかニュアンスが異なる) という問題は実は自然の止むことのない性向であり、けっして留まるとことがないという。量子の重ね合わせともつれは今や量子コンピューターを開発する要となっているが、微視的存在が測定によって重ね合わせが壊れてゆくように巨視的存在も外界との触れ合うことで重ね合わせは壊れる。そのことによって情報は環境に流れ出してしまうのである。実はそれが観測問題の要点だった。


 

情報移転という情報

英語圏には、やかんをずっと見守っているとなかなかお湯が沸かないという諺があるらしい。昔の人の知恵というのは、あながち馬鹿にできない。ここでサイフェは非常に面白い例を挙げている。放射性原子を見続ける、つまり観測し続けているとその崩壊を防ぐことが出来るというのだ。これを「量子ゼノン効果」という。純粋に崩壊していない状態を(0)、純粋に崩壊した状態を(1)とすると、前回の量子世界は表象可能か」で述べたように放射性原子のような量子は重ね合わせの状態にあるので、崩壊していない0の状態と崩壊している1の状態は重ね合わされた状態になっている。シュレディンガーの猫が生きている状態と死んでいる状態が重ね合わされていると同じだ。もっともシュレディンガーはそれに皮肉を込めていた。

この放射性原子の重ね合わされた状態は、[100%]0&[0%]1という状態から[85%]0&[25%]1、あるいは[0.1%]0&[99.9%]1など色々の状態が重ね合わされているのであって、崩壊すれば最終的に[0%]0&[100%]1という状態になる。しかし、これに光を当てて測定を繰り返すと崩壊していないのだから100%(0)になる。それによって重ね合わせは崩壊し[100%]0&[0%]1状態に戻ってしまうのである。測定という行為は、情報を移転させることであり、物理現象に作用していることになる。量子情報は物質がどう振る舞うかを支配する法則と結びついているというのである。

超伝導量子ビットに基づく量子コンピューター
IBMリサーチ、チューリッヒ

量子コンピューター 

量子の持つ重ね合わせの性質を使ってコンピューターを作ろうと現在色々考えられている。量子スピンの上か下か、光子の偏光の向きの縦か横かにビット情報である0と1を割り当てると、量子を情報として扱える。それを量子 (Quantum) という名からキュービットと呼ぶ。量子の重ね合わせともつれを使うと一度に一つの質問をしていちいち計算して答えを出すのではなく一度にすべての質問を出し計算させることが可能になるという。

1000の中のどれか一つを選んで、その数を当てようとしてもらうとYES・NOクウェスチョンを10回行えば答えが出るので古典的なコンピューターでは10ビットのメモリーがあればよいことになる。しかし、キュービットを使うグローヴァ―のアルゴリズムでは4つで済むのである。四つのキュービットは初め釣り合いの取れた[50%]0&[50%]1という状態になっている。それを測定すると一つ目のキュービットが0か1かである確率は50%50%となる。この四つはもつれによって繋がっているので ([50%]0&[50%]1)([50%]0&[50%]1)([50%]0&[50%]1)([50%]0&[50%]1) という状態である。

0と1の四つの組合せは、0000~1111まで16通りあり、この四つのキュービットには16通りの組み合わせが重ね合わされている状態にある。ここが大切な所です。次のステップは重ね合わされたこれらの対象を数学的な処理によってあるカギ穴に相当するものに詰め込むとそれぞれのキュービットの確率は50%50%からより正しい確率に変化する。例えば ([25%]0&[75%]1)([750%]0&[25%]1)([75%]0&[25%]1)([25%]0&[75%]1) といった感じだ。2回カギ穴に通すだけで正しい答えが得られるというものだ。

1998年の最初期の量子コンピューターでは、原子のスピンを強力な磁場で制御して原子のスピンにグローヴァ―のアルゴリズムに対応するダンスをさせて (磁気的に制御して) 正しい答えを導きだしている。しかし、その進展は、順調とは言えないようだ。例えば、光子は1秒間に地球を7周半する。そんな落ち着きのないものを計算の間じっとさせておくのは難しいのである。だが、量子コンピューターの可能性は大きい。例えば30キュービットのコンピューターでは0,1の二つの値で示せる数は2の30乗個となり、全世界の人口の数が表せることになる。キュービットが増えると指数関数的に計算のスピードは速くなり、素因数分解が異様なスピードで出来るようになるらしいが今は置いておく。

自然は測定を行い情報は流れ出す

サイフェは科学者は宇宙に意識があるとは考えないし、小さな悪魔が測定器具を持って駆けまわっているとも考えないが、自然はある意味、絶えずあらゆるものを測定していると確信しているという。測定というのは相互の働きかけくらいに考えてもらえば良いと思う。素粒子レベルでは何もない空間から粒子が絶え間なくパッと現れては消滅する。ハイゼンベルクの不確定性原理はこのゆらぎによって起こるとサイフェは考えている。位置と運動量という相補性は、エネルギーと時間という問題に比較することができる。空間のエネルギーがゼロなら相補性によりそのエルギーを維持する時間の情報は得られない。測定できないほどの一瞬エネルギーはない。そのあとエネルギーはいくらかなければならないのである。こうして空っぽの空間はエネルギーや運動量を持つのである。ズームイン領域が小さくなるほど粒子は多く、寿命は短く、エネルギーは大きい、これらの粒子は絶えずぶつかりあい、自分が出会った物体の情報を集め、それを環境に広め、真空の中に姿を消すという。

自然はそのような粒子たちに測定を行わせており、それをやめさせるのは不可能だという。ただ、その測定はその情報がどのように保存され、ある場所からある場所に移転するのか、そして散逸するのか。その法則を理解すれば何故量子は一度に二つの場所にいられるのか、量子は猫のような巨視的物体とは何故異なるかが理解できるという。木には星々の光子が降り注ぎ太陽からの熱が届けられる。サイフェは量子と同様に木に光が当たるのは自然による測定であり、その情報は相互に受け取られ、環境に広がってゆくというのである。

フラーレン分子模型
炭素原子60個からなるC60フラーレンはハロルド・クロトー、リチャード・スモーリー、ロバート・カールによって1985年に発見された。

アントン・ツァイリンガーは、フラーレンのような大きな分子も重ね合わせの状態におくことが出来ることを実験によって証明した。しかし、フラーレンも窒素分子などのあれこれとぶつかるとその窒素分子はフラーレンを測定することになり、その情報を得ると二つの分子はいくらか「からみあう」という。ここで、窒素の軌道を測定するとフラーレンがどこにあるかの情報が得られる。次は酸素とぶつかって‥‥ このようにフラーレンは環境ともつれあうことによってその情報は遠くまで広がってゆく。

フラーレンから情報が流れだせば、フラーレンの波動は収束して重ね合わせの状態を維持できなくなる時がくる (それには実験物理で言う観測や後に述べる多世界解釈における世界の分岐という契機が必要だとする説もある)。ある対象から環境に情報が流れだすことをデコヒーレンスと呼ぶ (一般には外部環境からの揺動や散逸によって量子の重ね合わせ状態が壊れることをさす)。このデコヒーレンスが、量子とシュレディンガーの猫とを分ける鍵になるという。もし、猫からの情報一切を環境に流れ出すことを防げることができれば、本当に生きていて死んでもいる猫を創り出すことが出来るというのだ。しかし、完全な孤立系の猫などあり得ないし、巨視的物体の重ね合わせ状態はいとも簡単に崩壊する。いわば環境エーテルへの情報流出と呼ぶものから巨視的な物体は逃れることができないのである。

ここで、またサイフェは重要なことを漏らす。気体の原子を容器中の隅に置くとたちまち広がって容器全体を満たし系のエントロピーはたちまち増大する。同じように物体の情報は粒子のランダムな運動とゆらぎによってその情報が広がり環境に散らばっていくという。エントロピーと同じくデコヒーレンスも一方通行であり、時間の矢を持つのである。違いは後者が、系の平衡状態にあっても流出が起きているということである。デコヒーレンスを新たな法則と考えれば、この法則には熱力学と相対性理論と量子力学の不思議な現象の説明が隠されているという。

 


相対論は情報が光より速く届けられないという掟を残した。実は光を超える速さで移動する光パルスというようなものも存在する。しかしそれに情報を乗せても、検出器がその情報を見分ける時間も相対論的ゆがみの中で伸びるのだ。情報は光の速さを超えることはできないのである。しかし、サイフェにとって大きな障壁、その最も手ごわい敵はブラックホールだった。その中で情報が消え去ってしまうなら彼の情報論は整合性を失うのである。


 

ブラックホールの中の情報は消える?

楕円銀河M87の中心にあるブラックホール 2019年
直径100憶Km 温度の最高値 60億度

スティーヴン・ホーキング及びキップ・ソーンとジョン・プレスキルとの高名な賭けは、ブラックホールに落ちた情報は破壊されるか保存されるかというものだった。これは自然がどのような法則に従っているのかの核心を探るものだったのである。情報移転の速さは光の速さを超えないという相対論の制約は量子論のもつれと衝突したことは前回述べた。1970年に物理学者のフィリップ・エバーハートがもつれ合う量子、つまりEPR対を使って光より速く情報を伝送することが不可能であることを数学的に証明した。二つは互いに影響を与えるのではなく、同時に収縮するのである。量子もつれは、以前は理解不能だったが、アインシュタインの遺産はそれに劣らず悪夢だった。それがブラックホールである。

ジョン・ホイラーがその名を広めたブラックホールは時空の基本構造にぱっくり口を開けた傷、物質を飲み込むにつれて大きくなる無底である。太陽の何十倍、何百倍の質量は一点に詰め込まれる。密度は無限大で空間と時間の曲率が限りなく大きくなる点である。このブラックホールに探査機が下りてゆく。ビーという音を定期的に発する。しかし、事象の地平を超える。それでもビーは発せられる。この信号は探査機が何を見ているかの情報を含んでいるのである。そして中心に飲み込まれて姿を消す。問題なのは、このメッセージが探査機を送り出した母船に届かないことだ。相対性理論では重力は時間と空間に影響を及ぼすので母船から見る探査機の時計は進み方が徐々に遅くなり、探査機自体もだんだん見えなくなってゆく。そして、メッセージの締めくくりである「今超えました」も届かない。ブラックホールでは情報も飲み込まれてしまうのだ。

レ・ズッシュ物理学校におけるキップ・ソーン
右から二人目 1972年

そこでは、情報は保存されないのか。ここが問題の焦点である。しかし、生き延びていると考える理由があるという。自然が情報を残そうとする最後の試みは意外にも真空のゆらぎから来る。このゆらぎにおいて生成される粒子は対粒子をなす傾向がある。ブラックホールの事象の地平の縁でもこの対粒子は何億も作られる。時として、その片方がブラックホールに取り込まれ、もう片方が取り残されることがある。なんでも飲み込むが、この兄弟を失った粒子の形で物質とエネルギーを空間に放出する。それはむらのない放射で黒体スペクトルと呼ばれる。黒体とは外部から入射する電磁波を、あらゆる波長にわたって完全に吸収し、また熱放射できる想像上の物体のことだった。その放射は微弱だが測定可能であるという。

ブラックホールに熱があるなら、それが小さくなると事象の地平を狭めながら熱くなり単位面積当たりの放射量は増加する。どんどん小さくなると放射するエルネギーは何処からか得なければならない。得るところは自分の質量しかないということになり、ブラックホールはやがて放射の閃光を放って消えてゆくのである。しかし、この爆発によって情報は放出される可能性が残されているかもしれない。ホーキングとソーンはこの蒸発が起これば情報は完全に消え去る方に賭け、プレスキルは常に純粋な量子状態になる方に賭けた。

2004年にホーキングはダブリンでの一般相対性理論会議で自分たちの負けを認め、情報がブラックホールによって不可逆的に破壊されることはあり得ないとした。こう言ったのである。「ブラックホールに飛び込めばその人の質量エネルギーは‥‥その人がどんなだったかという情報を含むごちゃごちゃした形で、容易に見分けられない状態となって、宇宙に帰るのです。(林大 訳)」情報はブラックホールの究極の力にも耐えて生き延びることができるようだ。そうなるとブラックホールにはエントロピーもあることになる。こうして、失意のうちに自死したボルツマンの勝利は決定的になるのだ。

2000年にMITの物理学者であるセス・ロイドは究極のラップトップコンピューターを思考実験した。装置の1キロあたり、1秒で行える計算数の最大値を割り出し、それを1リットルの空間に閉じこめたらおよそ、10の31乗ビットの情報量を保存・操作できるという結果を得た。しかし、情報の1ビットの操作にはそれだけ多くのエネルギーが必要になる。それで、ロイドはE=MC²に沿ってその質量全てをエネルギーに転換した。このラップトップコンピューターの質量は10億度のプラズマ球へと変身したのである。それを小さな空間に圧縮してブラックホールにした。おおっ! こうして読み出し不能ではあるがブラックホールコンピューターが完成する。人間の想像力には歯止めが無いらしい。彼の計算によると1キロのブラックホールが部分相互間で情報を伝達する時間は1キロの質量エネルギーで1ビットを反転処理する時間とぴったり同じだったのである。

 


最終章では多世界解釈が登場してサイフェの情報論は「唯情報論」となってゆく感がある。ホログラフィック原理で説明される宇宙はその膨大な情報を光的境界の上に記号化している可能性もある。多世界解釈はそのような膨大な情報を記憶する媒体としての宇宙を担保しうるのかもしれないのである。


 

ブラックホールは体積ではなく面積に比例する。その事象の地平の表面は二次元の平面で、そこに収まる情報は二次元に収まることになる。そういう意味でブラックホールはホログラムに似ている。ホログラムは光の持つ波のような性質を利用して作る特殊な写真である。弦理論の研究者であるオランダの物理学者ヘラルデュス・トホーフトはホログラフィー原理を提唱してブラックホールの物理を宇宙全体に広げたという。もし、このホログラフィー理論が正しくないとしてもレナード・サスキンドが証明したように物質とエネルギーのかたまりを表面積 A の想像上の球で包むと、その物質とエネルギーが保存できる情報量はせいぜい A/4 となる。これは情報学と熱力学から導かれ、ホログラフィック・バウンドと呼ばれる。しかし、そこでは、どんな小さな物質でさえ天文学的情報を記憶できる。それがホログラフィーの特質であるからだ。直径1cmの粒が10の66乗ビットを記憶できる。銀河にある原子の数に匹敵するという。

多世界解釈とは、ヒュー・エヴェレットが1957年にプリンストン大学の院生だった時にコペンハーゲン解釈の代替案としてひっそりと論文の中に書き入れていたものだった。この論の核心はシュレディンガーの波動方程式は実在し量子は一度に二か所に存在することができるというものである。1でもあり0でもある粒子は二枚の密着した透明なシートのそれぞれにある。観測者が観測を始めるとシートは1である粒子と0である粒子を乗せた二枚に分かれ、観測者も同時に二つに分かれる。分離した二つのシートは全く異なる宇宙であり、二人の観察者の意思疎通は出来ないし、自分が分離したことにも気づかない。

この多世界解釈は観測問題や量子もつれを矛盾なく説明できるが膨大で煩雑な別宇宙の存在を前提とするために認めたがらない物理学者も多い。それをサイフェはあえて取り上げる。ビックバン後の40万年後に生じた光が情報を運んでおよそ138億年後の今まで波動関数は宇宙のすべてのあらゆる情報を記憶しているのではないか。そして、その波動関数もまた無数にある。そして、もし、平行宇宙が存在するなら別宇宙の一つ一つにもそれらが存在することになる。そのような広大でめくるめく宇宙があるかもしれない。このパースペクティブは偉大と言えるだろう。情報は時間と空間の構造を作り上げているかもしれないのだ。一方で、生命もまた情報処理に頼っている。その限りにおいて有限な運命を免れることは出来ない。物理学は情報理論という道具を使って宇宙を、物質の根源を探ろうとしてきた。しかし、皮肉にもその情報理論は宇宙と生命の熱死を厳然と宣告するというのである。

反転する正四面体

バックミンスター・フラーは宇宙の最小単位システムを正四面体として表した。実はその四面体は逆方向にインバージョンできる。そのネガの正四面体に存在するのは情報だとしていた。物質と情報はセットになっている。彼の場合、その情報には精神性や霊性といったものも含まれている。物質や事象に、拡散するエントロピーとそれにに対抗する統合するシントロピーとがあるのと同様に、物と情報とは彼にとって相補的だった。サイフェは、情報とは物質的なものだという。彼のいう情報の中には精神性や霊性も含まれるのかどうかは本書だけでは判断できない。ジョン・ベルの言うように物理はテクニカルなものだ。そこに精神性が割り込むのは難しいかもしれない。でも、もしサイフェがこの情報論を哲学的に拡張していったら華厳や密教のような宇宙システムに創り上げることも可能ではないかと思わせるものがある。これは新たな情報宇宙論だ。面白い !

 

引用文献および参考図書

佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』2011年刊

イリヤ・プリゴジン『確実性の終焉』
自己組織化を発見したプリゴジンの新たな科学としての熱力学宣言

 

 

 

「量子世界は表象可能か」実在と観測/確率と情報

 

ケネス・フォード『量子的世界像 101の新知識』  2014年刊

電子には、大きさがない。現在分かっている限りでは内部構造を持たない。陽子の約2000分の一というわずかな質量はあるが大きさがない。電荷があり、スピンがあるのに大きさがない。大きさがないのにどうやって存在していられるのか。ケネス・フォードは、『量子的世界像 101の新知識』の中でそう問う。そして、こう答えるしかないという。量子論のもとでは、数学的な点として存在するものが、様々な物理的特性を持つことが出来るのであると。

考えてみると、そんな数学的な点のようなものの上に私たちの生活が成り立っている。机上の空論やヴァーチャルリアリティといったものではなく、全くの現実である。台風が来て電線が切れれば何日も明かりのない生活が続く。こうしてキーボードをたたいてコンピューターがそれをちゃんと記憶して、ネット上に配信してくれているのだから点と言ったってバカにできない。

量子論では仮想粒子と呼ばれる儚い粒子が絶えず生成されては消滅しているのだという。電子はそれらの儚い存在をお供に一緒に移動している。何人かのお供が加わり、何人かが絶えず抜けているような集団に例えられる。そんな集団として存在しているのだけれど、原子内の電子は原子全体に広がる確率波に支配されてもいる。電子はそこら中に広がっていることになる。それでも点として扱って全くうまくいっているというのだ。これって、不思議じゃないですか?

 

今回はある芸術家のマニフェストをある会で話さなければならなくなり、そのマニフェストと量子論が深く関わっているということから、ついに長らく避けていた量子力学について書くことと相成りました。しかし、書いているとなかなか面白い世界だということが再認識されてくれる。今回は、時に哲学論議も散見される佐藤文隆さんの『量子力学は世界を記述できるか』などの著書をいくつか織り交ぜてご紹介したいと思っている。数式は出てこないので物理嫌いという人もお付き合いください。

佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』2011年刊

20世紀初頭は、確かに血沸き肉躍るような知的挑戦で幕が上がり、それに対する凱歌が高らかに奏された時代である。その序奏は19世紀末の X線、放射線、原子、電子というミクロの世界の発見であった。19世紀は、産業革命と共に熱、音響、電磁気、化学、光などの実験が積み重ねられ、古典物理学と呼ばれる統一的な力学が確立された時代だった。その渦巻く知的興奮の中から相対論と量子力学という革命が起きたのである。1930年代以降は、この「知的革新」を引っ提げて物質の究極から宇宙の起源までの新しい対象を探求して新世界を発見したが、その成果の多くは、DNAから I T 関連のハードウェアーに至る技術革新に過ぎなかったと佐藤文隆氏は述べる。

相対論と量子力学という二大革命を比較すると量子力学が生み出したものは、はるかに巨大であるという。量子力学は物理や化学の現場で広く具体的な利用が拡大し続けている。しかし、相対論に比較して量子力学への関心はイマ一つだった言える。量子力学には最終的な落としどころが見えないからだ。それに対して相対論は19世紀的難問に対するきれいな答案であったために、ニュートン力学の権威崩壊という歴史的と言ってよい知的衝撃を生み出した。それは、講談調の痛快歴史物語であったという。それに比べて量子力学は、その知的痛快物語がまだ完結していないと言うのである。クォークは、6種類で三世代あるといわれても、そんな極小の世界には不思議なものがあるんだねで終わってしまうのだ。

 


光が波の性質を持つことが19世紀の初頭に発見されて以来、光が波なのか粒子なのかの議論が喧(かまびす)しくなる。物質に光を当てると光電子が飛び出すことから、アインシュタインは粒子としての性質を持つ光子であるとした。光や電波は電磁波の一種でもある。今度は、ド・ブロイが光子のように運動する物質粒子一般に波動現象があると波動説を拡張したのである。やがて、光の粒子を用いた二重スリット実験によって光は波でもあり、粒子でもあるということが検証される。


 

量子の波動性と粒子性

トーマス・ヤング(1773-1829)の光の干渉実験

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、微小な物質あるいはエネルギーの単位のことで、そのエネルギーが飛び飛びの整数倍の値しか取れないことからマックス・プランクによって量子と名づけられた。原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表的な量子だ。ニュートリノやクォーク、ミュオン、光子などといった素粒子も量子に含まれる。素粒子とは、それ以上分割できない最小単位の粒子のことである。量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)以下の小さな世界だ。このような世界では、古典的な二ュートン力学や電磁気学などの物理法則は通用しない、それは、量子力学によって支配される不思議な世界となっている。

二重スリット実験
上 電子の波動性によって生じる干渉模様 
下 電子を観測した時のスクリーン上の模様

光が波として振る舞うことは、二重スリットを通過すると背後のスクリーンに干渉縞を作ることでよく知られている。19世紀の初頭にイギリスでトーマス・ヤングが、平行な光が二重スリットを通ると水面の波のような干渉模様ができることを示した。電子や光子あるいはフラーレンといった分子の場合も同様で、電子銃から電子を一個ずつ発射しても波としての性質から干渉縞を作る(上段)。粒子としての電子は、波の全てに重ね合わされた状態で偏在していると考えることもできる。

ところがスリット付近に観測装置を置いてスリットを粒子としての電子がどのように通過するかを観測すると収縮 (後述) が起きて、電子は片方のスリットのみを通り干渉縞はできない。そのことで、スクリーンに電子が跡付けた点がどちらのスリットを通った電子であるかという情報を得たことになる。ここから光子が粒子としての性格と波としての性格の両方をもっていることが確かめられた。ルイ・ド・ブロイは、1924年に既に「波と粒子の二重性」という物質一般の性質として定式化していた。

すると、人間は個体であると同時に波なのかという疑問が起きてくる。量子の世界では速く動くほど波長が短くなる。私たちも波長を持っているが、量子サイズに比較して私たちの運動量は、はるかに大きいためその波長は極端に短く検出できないらしい(ケネス・フォード『量子的世界像 101の新知識』

シュレディンガー方程式/ψ

それまで、物質の位置と運動量は、観測すれば確定していたが、電子や光子などの量子は、位置か運動量、どちらかしか確定できないということが明らかになる。ハイゼンベルグの不確定性原理である。量子の波動状態を記述するシュレディンガー方程式が、オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレディンガーによって1926年に定式化された。それは、状態関数、あるいは波動関数ともよばれるが、ある状況下での量子の状態が確率分布によって表現される。それは、不確定性定理から導き出される。ド・ブロイによって物質が波動として表現されることが明らかにされていたから量子を波動の方程式として表すことは受け入れられやすかった。

この量子の波動状態とそれが時間と共にどのように変化するかが数式化される。このシュレディンガーの方程式は、ギリシア語の Ψ (プサイ) であらわされることからΨは量子力学のアイコン的存在となった。心理学では、超能力を表す記号であるが、それをシュレディンガーが意識していたかどうかは知らない。しかし、古典物理学の範疇からすれば、極めて不可思議なものであったことは確かだ。

量子が波動状態にある時、波のそれぞれの位置に粒子としての量子が同時に存在すると考える。存在の可能性が重ね合わせられた状態にある。それを観測すると変化している波動状態の一端が測定されることになる。その時、同時に存在していた粒子の他の情報は無視され、消去されると言っていい。これが「収縮」である。それでΨをくじ箱に例える物理学者もいる。

佐藤勝彦『量子論を楽しむ本』
2000年刊、非常に分かりやすく解説されているのだが、残念ながら新しい内容に乏しい。

ここからは佐藤勝彦さんの『量子論を楽しむ本』から波動関数についてご紹介する。波動関数ψには複素数が登場するが、虚数と実数を組み合わせた複素数は虚数と同様に想像上の数であり、複素数の波を表現しているψも同様に想像上の波である。次元の異なる波といったほうがよいかもしれない。これを想像したり、図示したりすることは困難である。しかし、シュレディンガー方程式は、水素原子中の電子のエネルギーといったものを実験結果の通りに説明できる。この方程式は実在する何かを表していると考えられているのである。

実数部分、あるいは虚数部分だけを取り出して図示することは原理的には可能であるという。点線で表した部分、つまり波の振幅にあたる部分が波動関数ψの大きさとなっているが、それぞれの場所での大きさも様々であることが分かる。電子の波は様々な場所に広がっているけれども、雲や霧のようにぼんやり広がっているとイメージするのは間違っている。電子は粒子として観測されるからである。我々が電子を観測すると電子の波は、収縮 してしまうのだが、収縮する前の波のように広がっている電子は「重ね合わせ」の状態にある。電子は、ある場所にいる状態と別の場所にいる状態とが重ね合わされている、あるいは共存している。

波動関数ψとイメージ図
iは虚数、hは素粒子のエネルギーと波長間の比例定数であるプランク定数、ψは波動関数、∂は微分の記号、Hは系全体のエネルギーを表すハミルトニアンをそれぞれ指している。

波動関数ψのイメージ図でいうとAの場所にいる状態、Bの場所にいる状態、Dの場所にいる状態などの様々な場所にいる状態が重なりあっている。ただし、Cの振幅ゼロの場所には電子はいない。電子はA点、B点のどちらにもいるというのではなくてどちらにいるかは確率的にしか言えないのです。振幅の大きいところの方が電子の発見される確率は高い。

この波動方程式は粒子の波を統計的な平均値で記述しているということになるのだろう。シュレディンガー方程式が三次元の空間を扱うのに対して時間を組み込んだディラック方程式が間もなく登場することになる。

 


不確定性とは、選択の自由だとも言える。いくつもの可能性の中から自由に一つが選ばれることだ。測定することによって量子に擾乱が起こり特定の結果が得られたのだという考えは、現在の厳密なハイテクの測定によって否定されることになる。この奇妙な不確定性は、ボーアのコペンハーゲン解釈によって救われた。生まれたばかりの量子力学という赤ん坊を産湯と一緒に流さないためには重要な注釈となったのである。コペンハーゲン解釈をご紹介する。


 

佐藤文隆の『量子力学は世界を記述できるか』から要約してご紹介しよう。Ψをくじ箱と考える。そこから、態度の決まらない量子が取りうる可能性のある幅と強さに関する確率情報を導きだせる。観測するとΨのくじ箱から引いた一つの結果が得られるのだ。くじを引くと多くの可能性が消えて、一つの情報に限定されるのである。これを「収縮」と呼んだ。ニールス・ボーアがシュレディンガー方程式に無理に組み入れた解釈である。一回引くと、くじ箱は一枚のくじ券に変身する。他のくじは消滅するのである。それを、佐藤氏は、やり直し厳禁、再起不能、未練一掃、証拠隠滅、残存物破棄と表現する。「可能性としての現実群が、その中の一つの現実に変身する」ことになる。くじを引く前は、それぞれの可能性足し算された束として「重ね合わせ状態」と表現される。シュレディンガー方程式は、可能性の重なった状態を表すΨが別の重なり方のΨに変動していく様子、つまり重ね合わせの係数の時間変化を記述することが出来る。

ほかのくじは、どうなったかを考え始めるとヒュー・エベレットの多世界解釈なども生まれる。「可能性としての現実群が全部残存するが、観測者が一つの可能性の世界に迷い込む」と考えるが、今は置いておく。

ボーアによる「Ψのコペンハーゲン解釈」を比喩的に解説すると上記のようになる。「収縮」という便法は観測によらないΨの変動の法則としては明らかに異物であった。つまり、Ψそのものが理論的には不整合であるということを認めることになるのだ。Ψの生みの親、シュレディンガーさえ疑問を持っていた。それで後に、有名な猫の思考実験を思いつくのである。ボーアは、量子力学を埋もれさせないために古典と量子の両世界の共存を図った。真実と不明瞭さは相補的であるとし、結局、不思議は不思議として、「深く考えずに慣れる」を提唱したわけである。

ボーアが守り通したコペンハーゲン解釈が、レーザーや半導体部品などを経て量子コンピューター、量子暗号・通信、量子計測、量子マテリアルなど、量子を使ったハイテクをもたらそうとしている。量子力学はツール化されていった。シュレディンガー方程式では、可能性の重なり具合は連続的に変動するのだが、量子は外部から制御可能であるという。制御可能であるから量子コンピューターなどを考えることができるのだが、「重なったままの量子状態」をそのまま変動させることが可能になっている。この変動ではAからBへの変化が可能なら、BからAへ戻すこともできる。これをユニタリーな変動と呼ぶ。外部からの量子への介入は制御と観測とがあり、制御には忠実に、観測にはランダムに振る舞うというのである。

制御と観測の違いは何かというと、回数の違いにある。このツール化が現在の繁栄をもたらしたのは、ミクロな過程を統計学的に扱ってきたからだと佐藤文隆氏は言う。一回の観測ではランダムな振る舞いだが、多数回事象の平均値にあたる反応率や平均寿命といったものが分かれば応用技術には十分であったのである。個々の原子や素粒子が観測される場合でも、問題にされるのは多数回事象の統計的なデータであった。

 


量子の振舞いが不確定で確率的であるなら、物理学が培ってきた因果性は否定されることになる。原因のない結果だとも考えることが出来るのである。それは、アインシュタインをひどく動揺させた。彼にとって物理は何故そうなるかを説明できる学問でなければならなかった。どのように因果性が否定されてきたか、その例をご紹介する。


 

ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』 2016年刊  ノン・フィクション風に人間模様が描かれて、量子論を面白く解説してくれている良書。

量子エンタングルメント(もつれ)

物質科学では空間的に離れた要素の間に相関がある場合は、その間に相関を維持している物質があると考える。この遠隔相関に関わる物理学には結構な歴史があるらしい。17世紀、デカルトは重力の遠隔作用は渦が宇宙空間を埋め尽くしていて、その連動で遠方に作用が伝わると考えた。これに対してニュートンは、空っぽの空間を重力作用は時間を要せず伝わるとしたが、なんとなく判然としない論争だった。19世紀になるとマックスウェル達が渦の代わりに空間に瀰漫するエーテルを想定して弾性体のように振る舞うエーテルの力学を方程式化する。20世紀初頭には、アインシュタインの相対性理論が、この「静止系」を連想させるエーテルを否定した。しかし、その後、素粒子における場の量子論ではエネルギーを秘めた一種の相対論的エーテルが復活した。そこでは明確な掟が定められている。「物理作用 (情報) の 伝搬には光速という上限値ある」というものであった。これがないと、原因結果の因果作用を曖昧にしか定義できなくなるのである。

相変わらず観測問題は物理学者を悩ませ続けていた。ヴォルフガング・パウリは「観測者は確認できない効果により新たな状況を生み出す」と考え、この観測者によって作られた状況が量子の「状態」であり、観測者は観測することで実在を作り出すのであるという。ちょっと考えただけではよくわからない解釈だった。観測の過程は形容しがたい法則性のない事象であって、その結果は「いかなる原因もない究極的な事実のようなもの」であるというのである。一方で、観測が唯一実在を保証するもので、それを超えるものは何であれ形而上学であるというのがアインシュタインやシュレディンガーのスタンスだった(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)。

このような思考実験を考えてみる。スピンがゼロの素粒子が崩壊して、二つの電子が生じて、異なる二つの方向に飛んでいくとする。この電子の片方が測定されて、上向きのスピンだと観測されると、同時にもう片方の電子は下向きのスピンであることが確定する。これは運動量の保存則によるもので、この場合は、回転する運動量、つまり角運動量が問題にされる。もとのスピンがゼロであるなら、分離した電子はその1/2の逆向きの等しいスピンでなければならないからだ。このスピンというのは厄介な代物なのだけれど、スピンの単位は光子などが1とされていて、電子やクォークのスピンは1/2とされている。このような離れた場所にある現象が相関する性質を非局所性と呼び、この量子の非局所性をシュレディンガーが量子もつれと呼んだ。量子エンタングルメントなどとも呼ばれる。

この二つの粒子の内、一方は地球にあり、もう一方をアンドロメダ銀河の恒星に移動したとする。すると、地球での観測で上向きのスピンが観測されたとして、アンドロメダ星雲の恒星にある粒子が下向きのスピンであることが確定される。測定されると、どちらの粒子が上向きか、下向きかが確率によって決まるというわけだ。地球から254万光年かなたにある粒子にこの情報が瞬時に届くには、光速を超える必要がある。光でさえ254万年かかるのだから対粒子のスピン方向が瞬時に変わるのは無理ではないのか。位置と運動量は分からないが、運動量差のようないくつかの条件を加えると局所的な別々の系として互いに片方の粒子に影響与えることなく観測可能になるんじゃないかというのがEPR仮説である。アインシュタイン、ポドルスキ―、ローゼンら物理学者の頭文字をとっている。

この隠れた条件を引き継いで発展させようとしたのはデヴィッド・ボームだった。かつて、1927年のソルヴェイ会議で耳が痛くなるような沈黙で迎えられたというド・ブロイの「パイロット波」を結果的に再解釈しようとするものだった。エーテル状の波の上を小枝のように粒子が流れるというふうに考える。彼は、離れて別々に存在する局所的な実在として粒子を分析しようとする前提を取り払おうとして新たなパイロット波のような存在を想定した。ボームは、結局この隠れた変数説を捨てることになり、後年、全体流動説という新たな渦を展開させていった。僕の大好きな説だ。

粒子のそれぞれの自転方向が観測されるまで二つの回転方向が重ね合わされている状態にある。どちらも表でどちらも裏であるような状態で回転しているコインに例えられるだろう。回転を止めて、床にころがって静止した時点でどちらが表か裏かが分かるという仕掛けに似ている。この判別できない状態から、片方の回転方向が観測された時に、いくら遠距離にあろうとも、もう一方も反対の回転方向に決定される。二つの粒子は一つの系の内部にあることになる。これは、古典的な物理法則とは相いれない事態だった。時間と空間の制約を受けていないことになる。何故かを問う物理学者には我慢のならないことだったのだ。

この量子もつれが、アインシュタインを後々まで悩ませる。彼は、物理量が測定するまで現実の実在性を持たないとするコペンハーゲン解釈の確率的な振る舞いに対して既に異を唱えていた。そして、この有名な言葉を吐露させる。「見ていようが見ていまいが月は確かに夜空にある。 神はサイコロをふってこの世界を創ったわけではない」と。見るというのは測定を含意している。その反論となるニールス・ボーアの回答は「神に向かってあれこれ指図するのはやめなさい 」であった。そのサイコロに、あたかも光速を超えるような情報伝達が加えられたことになるのである。量子にテレパシーでもないかぎり不可能に思えた。

 


観測問題と量子エンタングルメント (もつれ)は、確率と情報という問題に密接に関わってくる。観測問題の好例は、ブラックホールの名を広めたジョン・ホイーラーの思考実験である遅延選択実験である。 この思考実験は、アンドリュー・トラスコットによって実際に確かめられている。量子エンタングルメント(もつれ)の応用としては、量子テレポーテーションがある。アントン・ツァイリンガーがインスブルックの研究所で実現した。これらが現実に実験できるようになったのは、ハイテクの大いなる進歩によるものだ。


 

ジョン・ホイーラーの遅延選択実験 情報としての量子1

実験によってアンドロメダほどではないにしても隔てられた二つの量子のスピンが瞬時に確定することがアラン・アスペによって確かめられる。もっと驚くべきことは、観測すると収縮が起きるのであるが、観測から得られるデータをどちらの観測装置から得られたのか分からないような設定にしておくと収縮を起こさず観測しなかったのと同じ結果があらわれるというのである。1987年にジョン・ホイーラーによって考えられた仮説が、オーストラリアの物理学者アンドリュー・トラスコットの実験によって2015年に確認された。重要なことは、量子系では観測の結果がそこから取り出される情報の扱い如何によって変わってくるということである。

図はホイーラーの思考実験を概略図に示しているけれど、マッハ・ツェンダー干渉計と呼ばれる装置を応用している。やがて、量子消しゴム実験などの複雑な装置が考え出されるようになる。

遅延選択実験 概略図

1.では、光子という一つの量子が半透鏡Aを通ると透過して直進するか、反射されて向きを変えるかは、確率的に半々になる。半透鏡を通過した、あるいは反射された量子は鏡で向きを変え、それぞれ検出されてスクリーンに痕跡を残すが、何個かの量子を送り出せば、その形は点の集積としてのになる。

2.は1.と同様の装置だが、光子がスクリーンに到達する前に半透鏡Bが差し込まれる。光子がスクリーンに届くよりも速いスピードで差し込まなければならない。これを実現するためにトラスコットはデュアルレーザービームを使った。問題なのは、これが差し込まれるタイミングなのだ。

半透鏡Aで量子は粒子として収縮したと考えられる。それは、結果としてスクリーンにできた点の塊から分かる。もし、そうでなければ波としての性質によってスクリーンには干渉縞ができるはずである。ところで、半透鏡Aを通過して粒子として振る舞っているはずの光子が通る経路に半透鏡Bを差し込む。すると、粒子が直進するか反射されて方向を変えるかは確率的になる。量子がどの経路を通ったかは確かめることができない。ここでは、スクリーンに干渉縞が現れるようになるのである。

ジョン・ホイーラー(1911-2008) 後列左端  1963

粒子として行動しているはずなのに半透鏡Bによって波に変身したことになる。 これでは、未来の情報によって過去を書き換えたと解釈できることになるのである。これが遅延選択実験の名の由来になっているが、これは肯首しがたい。ここで、重要なのは、半透鏡Aによって透過して直進していた粒子と反射されて向きを変えた粒子の情報は、半透鏡Bによって確率的に振り分けられることによって、かつての進行方向の情報は混ぜ合わされてしまうことだ。すると、観測したのに観測しない場合と同じ干渉模様が生じるという結果になる。重要なのは観測した情報の扱われ方にあるということになる。

「ネイチャー」や「サイエンス」の編集者だったデヴィッド・リンドリ―は、『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』の中で、簡潔にこう述べている。光子が、どの道を通ったかを知りたければ、干渉縞を見ることはできず、干渉縞が見たいと思えば光子が通った道を知ることはできない。それは、この種の実験の配置について述べられる最低限の解釈であると。ここでもボーアの「相補性」に連れ戻されるというわけだ。

 

量子テレポーテーション 情報としての量子2

アントン・ツァイリンガー     Photo by Jacqueline Godany

量子のエンタングルメントを利用すると離れた場所に量子の持つ情報を転送できる。これを量子テレポーテーションと呼ぶ。量子を瞬間的に移動させることでは残念ながらない。ツァイリンガーは、高エネルギーのレーザー光子を結晶に当てることで、低エネルギーのもつれた光子を分離した。こうしてオーストリアのアルプスに囲まれた質素な研究所から毎年、画期的な研究が発表されるようになる。

1997年には「量子テレポーテーション」を実現させた。この量子テレポーテーションに期待されているのは、量子暗号の実現である。ここではツァイリンガーの実験より少し進んだものをご紹介する。

①量子エンタングル状態にある二つの光子Aと光子Bとを生成して長距離に離す。AはAliceの側にBは離れた土地のBobのもとにある。この二つは、互いに直交する偏光を持っていることだけは分かっている。一方が垂直向き↕と測定されると、片方は必ず水平向き↔である。どちらでもよいが、現在のコンピューターで言うビットの状態に合わせて垂直向きを↕ 0、水平向きを↔ 1としておこう。こうしておくと ↔ ↕ ↔ ↕ は、1010を示すことが出来るが今は1ビットのみを考える。それから、別に、ある情報を持つ光子Cを用意する。

量子テレポーテーション  この図は、2光子を用いたローマ大学の実験グループによって実施された実験

②AliceはAとCをベル測定してエンタングル状態を作り出す。情報科学の制御NOT演算に相当するという。方法としては半透鏡にAC二つの粒子を別方向から同時に通過させようとすると、1/2ずつの確率で通過あるいは反射する。結果の状態は大きく分けて二つで、2つの粒子が同じ方向に出るか、別々の方向に分かれるかである。いずれの場合でも同時に入射するので現れ出た粒子がどちらの粒子だったかは分からない。測定結果の情報は混ぜ合わされた状態にある。

③ Aは0or1、Cはまだ情報が分からない状態であるとして、0or1と考える。二つの粒子の重ね合わせの可能性は、古典物理の立場では00,01,10,11の組み合わせとなるが、量子力学ではもっと複雑な式が用いられる。その中の一つが測定されると、CとBは新たに重ね合わせ状態に変化する。この時、A、Cの量子状態は壊れてしまうが、Cの情報はBに瞬時に移されることになる。何故ならAはCと重ね合わされることによって反対の情報を持ち、AとBはエンタングル状態にあったのでAがエンタングルされてCと反対の情報を持てば、即C=Bとなるからである。

ベル測定 大きく分けて1.4.と2.3.とに大別できる。

④べル測定で得られた2ビットの情報を古典的な通信手段でAliceはBobに送ります。べつにAliceとBobでなくてもいいのだけれど、伝統に敬意を表してこうしておく。電話とかネットとか手紙とかなんでもよいのですが、知らせます。Bobはこの時、Bに移った情報が何であるかは、まだ分からない。

⑤古典的な送信手段で送られた情報は、まだ、2ビットなのでこれを1ビットに確定する操作を行い最終的にAliceが送信したかったCの情報をBobは手に入れることになります。(詳しくはツァイリンガー 他『量子情報の物理』)

このような量子エンタングルメントによって得られる情報は、けっして盗み出されることがない。量子の情報を得ようとして測定すれば量子は壊れてしまうし、古典的送信手段による情報を盗んでもそれだけでは解読できない。それで暗号鍵などの通信に使えるというわけである。ベル測定の生みの親ジョン・ベルについては最後にご紹介します。

 


量子論は、量子テレポーテーションのような応用の分野で華やかな発展をみせようとしている。今、最も期待されているのは量子コンピューターだろう。この情報分野と量子の関係については、いずれご紹介する機会があるだろうと思う。この最終章では、まず、スピンとは何かをご紹介する。量子世界が如何に表象しにくいものであるかを実感していただきたい。そして最後に、その表象し難い量子の不思議な関係を児童文学風に紹介してくれている著書をご紹介する。表象できない世界をイメージ化しようとする努力を言祝ぎたいと思う。


 

電荷-eは電流の元であるが、電子は素粒子(これ以上大きさを分けられないもの)で、点であって大きさが無い。従って電荷は何処にあると決められない。しかし、大きさが無いのに自転できるのか。1924年には、オーストリアの物理学者ヴォルフガング・パウリが+1/2、と-1/2という二つの離散的な物理量としてこのスピンを予見していた。

スピンだの回転などとさんざん言っておいて、ここに至ってちゃぶ台の上に並んだ料理をひっくり返すようなことをして恐縮だが、このスピンを地球などの星が地軸を中心に回転運動しているとイメージするのは間違っている。ちょっと面白い実験をご紹介しよう。それは、1916年のアインシュタイン・ドハースの実験のことである。静止した鉄棒をつるして外部から磁場を与えると、鉄棒が回転するというものだ。逆に磁場のかかっていない鉄棒を高速回転すると回転軸に沿って磁気を帯びるバーネット効果が同時期に発見されている。

磁場をかけて鉄を磁石化すると回転、つまりスピンという角運動量が生じる。電子は電荷を持っているので移動すると磁場を形成する。「磁気」の起源は電子の自動運動であることがわっている。この自動運動は回転のことらしいことが、この実験から推測できる。自動運動には原子核の周囲の軌道運動もあるが、この回転運動に比べれば微々たるものらしい。電子も小さな磁石であるのでスピンするというわけであるが、スピンの軸があるので上向きとか下向きとか言われるのである。だが、ここで先ほど述べたようにスピンを地球の自転のように考えてはいけない。位置はあっても大きさはなく、波でも粒子でもあるものが、どのように回転するのか表現できた人はいないのである。そして、これも不思議なことなのだが、電子のようなスピン1/2粒子は回転し始めて2回回転しなければ元にもどれないと言われてきた。ここでも古典的な物質のイメージは踏みにじられるのである。ちなみに光子のスピンはもっと厄介だ。

やはり、イギリスだなと思うのだけれどこんな本が出版されている。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』をもじってイメージできないものを一生懸命イメージ化しようとしてくれている。この場面では仮想粒子の振舞いについて面白く紹介してくれていて、アリスは電子に例えられる。

ロバート・ギルモア『量子の国のアリス』
ギルモアは英国の物理学者、英国にはルイス・キャロルの精神が生きていた。

ほとんどの粒子が、衝突時にちょっとだけ仮想粒子になり、また実在粒子に戻ったりする場所にアリスはいる。ある瞬間には時間軸に従って動いているが、次の瞬間には完全に向きを変え過去に戻ったりする。これが反粒子の生成である。この仮想粒子は波動性を持つためにトンネル効果のように障壁を突き抜けることができる。それは時間の障壁も含まれる。

電子の場合なら負の電荷を持っているので、電子が普通に過去から未来に向かって動けば、負の電荷は未来に向かって運ばれる。逆に未来から過去に向かって動いたとしたら、負の電荷も未来から過去へと運ばれるが、それは、正の電荷を過去から未来へと動かすことになる。それを外から見れば陽電子、つまり反電子のように見えるというのである。アリスは空に真っ暗な太陽があり、全てが逆向きに動いていた反転した世界の体験を思いだした。高次元の世界を我々3次元の人間が見たらこんなふうに見えるんだろうか。

電荷保存則によって宇宙の電荷の総量は不変であるとされている。電子のような粒子は、その反粒子と共に生成される。2個の電子の静止質量を創り出すためには一時的なエネルギーが必要になり、こうしたエネルギーは、実は何もないところから作り出されるので、エネルギーの揺らぎのように見えるという。真空は、実際には粒子と反粒子のペアたちの渦巻く空間であるのだ。光子は電荷以外の物には興味がなく、電荷があれば、それを取り巻く仮想光子の雲が必ずある。仮想光子たちは仮想の電子と陽電子のペアを創り、それが消滅すると実在の光子に変わる。仮想の電子と陽電子のペアはわずかの間存在し、光子を創り出し、その光子も電子と陽電子のペアを生成し‥‥それは果てしなく続くのである。

どうです。不思議な世界でしょ。でも、こういうふうに、表象できないと言われる量子の世界をも工夫次第でイメージさせてくれるのありがたい。実はこの表象したいという願望は、何故そうなのかを問うことに繋がっているのではないかと思うようになったのである。この「おかしい何故だ」を突き詰める態度は貴いのではないか。今や、量子力学の研究者で何故かを問う者は、まずいないという。そんな研究で食べていけないらしい。しかし、利潤追求ばかりのツール化は危険じゃないのかな。それだから地球温暖化は一向に鎮静化しない。今や、温暖化に歯止めをかけようとしているのは人間ではなく新型コロナウィルスである。

量子のもつれに疑問を呈したのはアインシュタインやボームだけではない。大切な人をまだ紹介していなかった。ジョン・スチュアート・ベルだ。

彼は、不可能であると立証しようとするのは想像力の欠如だと考える人だった(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)。有名なベルの不等式は、ある装置での観測結果を量子がもつれていると考える場合ともつれていないと考える場合とでとる値を不等式で示したもので、ある値以上ならもつれていないことが立証できるというものだった。ベルの思惑とは逆に、アラン・アスペの実験で実際にもつれていることが確かめられたのは先に述べた。

波動関数が数学的な正確さと物理的なあいまいさをもって言葉による表現を拒絶しようと、ベルは「物理学は事象がどのように起こるかを説明すべきだ」と考えていた。そして、ジュネーヴの欧州合同原子核研究機構CERNで素粒子を研究する傍ら、余暇を見つけては量子力学の「おかしい」を研究していた。すばらしいと思う。やがて、彼の不等式が破られたが、このアイデアは情報論への新たな展開をもたらした。こうして量子論は情報論へと舵を切っていったのである。

 

引用文献と参考文献

デヴィッド・リンドリ―『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』  2014年刊

デヴィッド・ボーム『全体性と内蔵秩序』
全体流動説が紹介されるなかなか刺激的な著書

アントン・ツァイリンガー 他『量子情報の物理』    かなり専門的なので僕のような素人には難しい内容だった。

 

カール・グスタフ・ユング『空飛ぶ円盤』付 ビリー・マイヤーと松澤宥

 

満月は夜 高き山にあがり
ただ一つの頭脳を持つ
新しい知恵ある人がそこに見られ
不死なるものとなることを弟子にしめし
彼の目は南に 手と足は火に
(ミシェル・ノストラダムス『預言集 (諸世紀)』第四章31 大乗和子訳)

カール・グスタフ・ユング『空飛ぶ円盤』

フランスで活躍したノストラダムス(1503-1566)、その名は預言者として夙に名高い。その著名な『預言集』の中で彼は、新たな叡智 (sophe) を持つ人が現れると書き残した。それは煌々と輝く満月の夜、山の頂に現れる。しかし、ただ一つの頭脳を持つとは、わざわざその詩に書き留めなければならない重要なことだったのだろうか。

「われわれが何らかの秘密を持ち、不可能な何ものかに対する予感を持つことは大切なことだ。それは、われわれの生活を、何か非個人的な、ヌミノース (非合理的な宗教的体験) によって満たしてくれる。‥‥この世界には期待されないことや、信じ難いことが存在している。それでこそ、生が全体性をもつ。私にとっては、世界は最初から無限に広く、把握し難いものであった。(カール・グスタフ・ユング/『空飛ぶ円盤』訳者あとがきより 松代洋一訳)」

カール・グスタフ・ユングは1958年に刊行された『現代の神話―空中に見られる物体について―(邦題は空飛ぶ円盤)』の中で、偶々このエッセイを書いている最中にUFOに関する二つの記事を見たという。一つは、大西洋上を44名の乗客を乗せてプエルトリコに向かう旅客機のパイロットが、緑がかった白色光を放つ火のような円い物体を目撃したというものだった。超スピードに向かってくる。それにぶつかりそうになったため、反射的に機首を上げた。そのため乗客が何人も機内に投げ出されて入院するほどのケガをしたというもので、同じ航路にいた他の7機もの飛行機がこの物体を目撃したという。もう一つは、「空飛ぶ円盤は存在しない」というアメリカ航空委員会の委員長だったH.ドライデン博士の断固たる否定見解を紹介するもので、その不屈の懐疑精神には敬意を表さざるを得ないと書いている。非常識な風説がいかに人間を損なうかをきっぱりと言い切っているというのだ。

未確認飛行物体、つまりUFOを見たという人は多いのかもしれない。この間、諏訪で会った女性は、諏訪はよくUFOが出るんですよとさらりとおっしゃったので驚いた。僕は悲しいかな一度も見たことがない。その人は、ある時には自宅の上空にそれが見えたので家族をみんな起して、一緒にそれを見たというからかなりの時間上空に留まっていたのだろう。あっけにとられてどんな形だったですかと聞くのを忘れていた。その人は、世界的な芸術家である松澤宥(まつざわ ゆたか/1922-2009)さんの娘さんだった。これは偶然なのだろうか。

オルフェオ・アンジェルッチは『円盤の秘密』の中で、未確認飛行物体と呼ばれる飛行体との遭遇と地球外生命と交信した体験を書いているとユングは述べる。カルフォルニアに住むアンジェルッチは、最初にUFOを見た6年後の1952年5月、地平線上に赤く輝く楕円型の物体が脈打ちながら漂っているのを見た。加速され恐ろしいほどのスピードで遠ざかって行った後に緑の二つの光が現れ、そこから完璧な英語で話しかけられる。二つの光の間に男性と女性の超自然的な姿が現れた。かれらはこう語る。

「われわれは地上の住人をひとりひとり見ているのだ。人間の狭い見方で見ているのではない。おまえの星の住人は、何世紀も前から観察下におかれている。お前たちの世の中のあらゆる進歩を、われわれは記録している。‥‥理解と共感をもって、成長の苦しい道を歩むおまえたちの世界をわれわれは見ているのだ。‥‥」まるで、缶コーヒーの宣伝に登場する宇宙人ジョーンズばりの語りだった。アンジェルッチの著述か、それに類したものが下敷きになっているのか、よくは分からないけれど、演じるトミー・リー・ジョーンズが雰囲気があって大好きだ。

宇宙人ジョーンズ役のトミー・リー・ジョーンズ

その年の6月今度は宇宙船の中に入り、地球から1600キロ離れた宇宙旅行を体験する。それは、微光を発する霧状のシャボン玉のような形だったがみるみる鮮明な形となった。内部は、直径6メートルほどのカマボコ型で壁はエーテルか真珠層のような材質であったという。2.6メートルほどの円窓のようなものが開くと外に惑星が見えた。スターウォーズかスタートレックばりの宇宙船体験をして、彼は涙を流した。すると声がこのように語った。

「泣くがいい、オルフェオ‥‥‥われわれも地球とその子らのためにともに泣こう。見た目はいかに美しくとも、知性ある生物を育ててきた惑星の中にあって地球は煉獄だ。憎しみ、エゴイズム、残酷さが、黒い霧ながら地球から立ち上っている。」

このろくでもない素晴らしい世界というわけだが、外に見えた母船は両端から渦巻く炎を噴き出していて、見たり聞いたりするものは「テレパシー的な交信能力」によった。そして、霊的な未知の自己との再結合の可能性を彼らから教えられる。宇宙船から降ろされると左の胸に小さな硬貨ほどの、彼が「水素原子の象徴」と呼んだ丸い焦げ跡が残っていた。

翌年9月には一週間にわたる夢游状態に陥り、魂の巡礼ともいうべき内的な体験を味わった。このような異界巡礼の話は色々なヴァリエーションがあって、中国での洞天や壷中天の話とか日本の幽冥界での体験を平田篤胤が聞き書きした『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』などもある。だが、こちらは仙界の話だ。天上的な空間で、そこの女性に性的な欲望を抱いて周りの異星人たちを驚かせる。彼がこの人間的な反応を抑えられるようになると「天上の結婚」が執り行われる。この経緯は、ユングの語る錬金術における「化学の結婚」に相応するものだが、カール・グスタフ・ユング『アイオーン』part2 シンボルとしての魚と蛇に少し書いておいたのでそちらを読んでいただければよい。地球外生命体との接触とその教えを伝えようとしたことで知られる人にビリー・エドゥアルト・マイヤーがいる。

 

ユングから少し離れてマイヤーについてご紹介しよう。(ビリー)・エドゥアルト・アルベルト・マイヤーは1937年、スイスのチューリッヒ州のビューラッハに生まれた。父は靴職人で、7人兄弟の2番目の子供だった。5歳の時、自宅近くでUFOを父親と一緒に見た。それが最初だった。父親は、あれはヒットラーの秘密兵器だろうと語った。1942年から1953年までエラ惑星のスファートとコンタクトを行った。1944年に宇宙船とともに現れたスファートは90歳代の威厳ある老人の姿だったが、実際には1100歳だったという。それ以降はテレパシーによる交信が行われる。魂の訓育者と言えた。

1953年から1964年に亘りダル宇宙のアコン太陽系にいるアスケットとコンタクトを持った。それは私たちの宇宙と双子関係にある宇宙から遮断層を突破して来た。35歳くらいの美しい女性の姿だったという。生命とSEIN (存在) の基礎である「創造」について、あるいは平行宇宙や生命体固有の振動などを教えてくれた。そして、地球人類の発祥の地は環状星雲と呼ばれる所で、人類の祖先は、そこからこの地球にやって来たという。そこにいた本来の祖先は、もはやその星雲の太陽系に住んでおらず昴のプレアデス星団の中にいるという。それは彼らがプレヤール星と呼ぶプレアデスから約80光年向こう側の別次元宇宙にあった。

なんだか第一始祖民族が宇宙にバラまいた始原の生命の話しみたいだと言ったら若い方たちはアダムとリリスを思い出すかもしれない。1975年には宇宙船とともにプレアデスのセムヤーゼと遭遇する。同じく若い女性の姿でやや訛りがあるが完全なドイツ語で語った。あの地球人の遠い先祖の子孫だった。それ以降、彼女 (そう呼んで良いと思うのだが) を中心に他の宇宙人たちとのコンタクトが数多く行われているという。

ビリー E.A.マイヤー 『プレアデスとのコンタクト』   2001年刊
彼がビームシップと呼ぶUFOの鮮やかな写真が掲載され、地球外生命体とのコンタクトの様子が詳しく書かれている。UFOファンにはたまらないだろう。

コンタクトの相手が老人と女性の姿であったというのはかなり興味深いが、1976年、マイヤーは生まれ育ったビューラッハからチューリッヒの東にあるヒンターシュミットルッティに移り、FIGU・SSSCセンターを開設している。FIGUは「極限的知識、霊的知識、UFOのための自由利益共同体」、SSSCは「セムヤーゼ・シルバー・スター・センター」を意味している。セムヤーゼ・シリーズと呼ばれる交信記録が印刷物として公表されているし、テレパシーによる交信相手としてセムヤーゼの他、彼女の父プター、宇宙船艦長のクウェッツァル、テーラ太陽系のタリーダなどが挙げられている。

交信の内容については、『プレアデスとのコンタクト』 に詳しく書かれている。キリスト教関係の内容についてはかなり意外なものになっているし、地球の危機に関する重要な警鐘と思われるものがある。異常気象と地殻変動が挙げられ、気象変動が食料生産に重要な影響を及ぼし、巨大な地震と火山爆発への警告が発せられる。極氷の融解 (これについては西澤潤一・上野勛黄『人類は80年で滅亡する』温暖化の果てにあるもので述べておいた)、無政府主義的テロ活動、自殺や宗教的セクト的活動の増加などがある。一方で第三次世界大戦の兆しが指摘されてはいるが、まだ勃発していない。遠い将来の予言としてアンドロイドや半獣人間の反乱といった内容を含めた警告が発せられる。

僕は、このような報告をただの幻想やフィクションとして拒否する気持ちになれないし、全て受け入れることもできない。ただ、読んでいると宇宙関連のSF映画やアニメのストーリーの下敷きとしてトレースされているのが分かってきて面白い。重要だと思えることを一つだけ指摘しておきたい。それは、地球外からの叡智や情報を与えられるという状況設定なのである。常に高みから降りて来るという感覚を伴っている。そこでは国家の利害や政治的対立や宗教的な諍いといったしがらみを置き去りにできる。そして、地球外から地球を見るという視点が与えられるのである。まるで手のひらの上に地球を置いて転がしながら眺めまわすような感覚を貴いと思う。野心を持った征服者としてではなく、そのような視点を持っている人は稀だ。例えば、バックミンスター・フラーのような人、そしてアーティストなら松澤宥ではなかったろうか。

 

イラク戦争 2003年 首都バグダッドで銃撃戦を行うアメリカ軍兵士

ユングに戻ろう。UFO伝説という世界中いたるところで聞かれる風説が、たんなる偶然で何の意味もないということは考えられないとユングは言う。もし、それが彼のいう投影の結果としての幻視であっても、そのうわさには相応の広がりを持つ根拠に根差しているだろうというのである。自己の投影は、よほど精神的な発達を成し遂げた者でなければ見破ることが困難なものであるらしいが、UFOを幻視と決めつけてしまえる根拠もまた希薄なのである。ともあれ、それは広範囲にわたる情緒的基盤の上に成り立つものであるのは確かだろう。一般に意識の態度と無意識の内容との対立によって心理的分裂が起きる。意識は、この無意識的内容を知らず、出口の無い状態に直面して間接的に自己表出の道を模索し始める。ここでユングが紹介しているUFOに関するとみられる二つの記録をご紹介しよう。

1561年のニュールンベルクのことである。血のような赤や、青、黒といった色の無数の球や円盤が太陽の近くに現れた。あるものは三つが一列に並び、あちこちで四つが四角をつくり、それらの間で血の色をした十字架が現れたという。その他に球が三つ四つ入った二つの大きな筒状の物体や大きな黒い槍のような物体もあった。それらは、太陽から空へ、そして地上へと多量の蒸気を発しながら次第に消えていった。ニュールンベルクでは1503年に血のような赤い雨が降るという事件が起こっていた。藻類だろうとパノフスキーは『アルベルト・デューラー』の中で述べている。デューラ―がまだ生きていた時代のことだ。

筒状の飛行物体はUFOの目撃情報にあるシリンダー状の「母船」のことだと思われる。小型のレンズ状の小型船を長距離輸送するとされている。ユングは現在のUFO情報に欠けている四つの単純な十字架と四つの円で構成される曼陀羅の存在を強調している。それは、キリスト教の象徴ではなく、交差的組合せ、すなわち結婚の四人組、プリミティヴな「交叉いとこ婚」であると述べているのが面白い。婚姻の秩序構造である。二つの三日月状の「血の色をした横縞」、その物体が何を意味しているか容易には分からない。地上には球体の落下した場所から煙が立ち上っている。

今度は1566年のバーゼルでのことだ。サミュエル・コキウスという聖書と自由学科を学ぶ学生が、8月7日の日の出頃に太陽に向かって猛スピードで飛ぶ、いくつかの大きな黒い球を見た。太陽を背にした飛行体は黒く見えたのだろうか。互いに争うように飛び交い、あるものは火のように赤くなり、やがて色あせたという。パラケルススが後ろ盾のフロベニウスを失ってバーゼルを追い出された38年後のことだ。

14世紀に世界的な流行をみせ、猖獗を極めたペストは致死率が6割から9割にも及ぶ恐るべき病気で、ヨーロッパでも14世紀を頂点に17世紀にかけて断続的に発生していた。16世紀にはカトリックとプロテスタントとの抗争が火種となって17世紀前半における泥沼のドイツ30年戦争に発展していく。そして、大航海時代は副産物として梅毒をもたらした。流星、彗星、血の雨、双頭の子牛が生まれるという自然現象の変異は、明らかな不吉な前兆であった。この外界から押し寄せる不安にたいする精神的補償とは何であったのだろうか。

20世紀の人間は、かつてない大規模な戦いを経験し、その後も米ソの冷戦による核戦争の恐怖にさらされ、それが一段落して21世紀になるとテロの脅威や気象や地殻変動に怯えるようになる。現代の私たちも、混沌におびえ、確かで手ごたえのある現実を求め、今あるものの存続を求め、意味内容を求め、文化を求める。われわれの世界解体もこうした現実に対する支えの欠如に由来していることをこの不安は知っているとユングは言う。世界の断片化は進行し、世界を改善する手立てに対する評価は軒並み下落し、古くからの処方はコロナウィルスに対するように効き目はない。問題は、有効で信じるに足る全体的観念の不在であるのだという。そこには何かが現れる必要があった。UFO現象はそのようにして現れた現象の一つと見てよいのではないかというのである。

太陽の船 紀元前14世紀 パピルスに描かれた廷臣ユヤの『死者の書』

天空の乗り物については古代からの記述がある。エジプトでは神々は宇宙に生命を与える偉大な河である銀河の水上を航海していると考えられた。ラーは神の船とよばれる乗り物に乗った姿で描かれた。太陽の船である。図は、パピルスに描かれた太陽円盤を頭に載せたホルスだ。

日本では天鳥船(あめのとりふね)が知られている。神の乗る船は、神格化されて天鳥船神(あめのとりふねのかみ)あるいは鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)と呼ばれた。しかし、エジプトでは明らかに船であり、天鳥船も名前からすれば、いわゆるUFOの形態ではなく船のイメージをなしている。ユングは、現在考えられているUFOの形が宇宙の構成要素たる銀河の形とアナロジーを持っていると指摘する。

ファティマの奇跡
1917年10月13日にコーバ・ダ・イリアに集まって奇跡を見る群衆。円盤のような太陽が現れ、地上に向かって突進したりジグザクに動いたりしたことが目撃されている。ファティマの聖母の予告に関連していると言われる。

そのUFOの形態が現れたのはいつ頃からなのだろうか。「空に見えるしるし」が、多数の人間に、時を同じくして見えるということも起こりえる。同一の前兆や幻視像が、そうした現象を期待したり信じたりしていない人たちにも現れるのである。複数の人間の間で相互に無関係に新しいアイデアが浮かんだりする観念連合のプロセスと同様に、それは起こりえるという。

先ほど触れた投影の問題を少し解説しておこう。自分から切り離してしまった感情は抑圧されて外界へと投影される。それが私的な個人的な事情によって起こるものか普遍的な内容に及ぶものかによって、それが波及する範囲が異なってくる。個人的な抑圧や無意識なら身内や交友関係に限られるが、宗教的な葛藤や政治的社会的軋轢はそれにふさわしい対象へと投影される。人類全体の存亡にかかわるような今日の状況では、投影を促すような空間は神々のいる天空や星々から全宇宙空間へと拡張され、世界中に広まって真面目に信じられ、あるいはすげなく冷笑される神話となる。社会的に信用があり、誠実な人々が「この眼で見た」というのである。

一方で、この動画にあるような現象はどう説明されるのだろうか。この未確認飛行物体の映像は、2019年の9月にCNNが報道した映像と同じものだ。空中を高速飛行するUFOのような存在を、米海軍が未確認飛行物体として分類していることをようやく認めたものだった。海軍報道官はCNNの取材に対し、この物体を「未確認航空現象(UAP)」と形容した。公開された映像は幾つかあり、中には戦闘機のセンサーがとらえきれないほどのスピードで海上を遠ざかっていった物体もあるという。この2015年の映像では、F-18戦闘機のパイロットたちが交わした「沢山のドローンだ」「編隊だ」「ヤバイ ! 」「風に逆らってる 時速220キロの西からの風だ」「見ろよ、あれ!」「回転している」といった会話が収録されている。高速移動する物体を、高性能赤外線センサーがとらえた。

ちなみに、これもCNNが2017年に伝えたものだが、 米国の同盟国が市販の約200ドル(約2万2000円)の小型ドローン(無人機)を約340万ドル(約3億8000万円)する地対空ミサイル「パトリオット」を使って撃墜したことを明らかにした。米陸軍司令官はドローン破壊には成功したものの、経済的に妥当な方法ではなかったとジョークを飛ばした。

今では、ドローンであろうと宇宙船であろうと分類不能な飛行物体は誤認も含めて未確認飛行物体、正確には未確認航空現象(UAP)として分類されている。そういう存在が公認されていることになる。UFOの存在も普通に認知されるようになってきたのだろうか、あるいは、アメリカの宇宙軍事戦略のための根回しととれないこともない。それらの存在がある一方で地球の周囲を人工衛星といわずその壊れた破片といわずグルグルと回っている。より地表に近いところでは、ドローンも加わる。中には武器として作られたものもあるのだ。まさに、地球は煉獄である。

しかし、こうなるとコトは厄介になってくる。ユングのいうように集団幻視とも言い難くなってくるのではないか。時速200キロの風に逆らって飛べるドローンが開発された可能性もあるが、赤外線センサーに捉えられているのだから幻視ではない。

宇宙船や宇宙人の映像も多々あるが、多くは捏造疑惑に曝されてきた。それらの内には、営利目的で作られたもの、いたずら、悪意のない誤解、単に不思議な光景として撮影されたものがあるだろうが、どれが本物かは見分け難いのではないだろうか。とりわけ今日のようにヴァーチャル技術の精度が著しく高くなっている時代にはそうだろう。真偽の判断は困難なものになっていくのである。

地球外生命体やそれを乗せた宇宙船が存在するのかどうか。皆さんはどう思われるだろうか。その存在の有無を判断するのは、なんだか、状況証拠はいっぱいあるが、確証の無い事件の裁判のようだ。自分で見たり触ったりしたことのないものを「無い」と考えるのは人間の悲しい性 (さが) だが、僕はといえば、われわれが何らかの秘密を持ち、不可能な何ものかに対する予感を持つことは大切なことだというユングの言明の内に留まりたいと思っている。それ以上は保留にしておきたいのだが、一度はこの眼で見てみたい‥‥是非 !

私たちは、中世の形而上学的なゆるぎない世界像からはるかに遠ざかった。意識は啓蒙主義的な形而上学によって、いっさいの「神秘的」傾向を排斥してきた。世界の没落のあとの真のキリスト教的な世界の確立。あの輪郭定かな世界像は、二度と取り戻せないとユングは言う。この圧倒的な傾向が投影という無意識の自己主張には絶好の条件となる。神話的な人格化は、すでに時代遅れだった。神話的な原型は、UFOという現代的な姿をまとったという。UFOは、物理学の新たな奇跡として登場したとユングは言うのである。僕は、この言葉を是非文化批評として受け取ってほしいと思っている。UFOは、私たちにとって極めて偏った精神的風土の補償であるかもしれないのだから。ここで、今回のブログは一旦終了したい。以下は付録である。

 

付 ビリー・マイヤーと松澤宥

ユングの慧眼には、いつも心服するのだけれど、実は本書の中で僕が最も心惹かれたのは、この言葉なのである。「核物理学が一般人の頭に、判断力の不確実さという念を植えつけたので、一般人は物理学者以上にそう思い込み、つい昨日までありえないとされたことを可能だと思ったりしがちなのである。‥‥UFOの示すいかにも物理的な性質は、一方では最高の頭脳の持ち主にさえ、そうした謎を投げかけている (松代洋一 訳)

このところ亡くなった松澤さんの展覧会のための準備をしていて、松澤さんの著作や作品を調べている。彼が42歳の時に受けたと言う「オブジェを消せ」という外界からの指示が概念芸術の発端であることはよく知られている。実はここには伏線がある。彼が33歳の時、1955年のことなのだが、2年間フルブライト留学生としてアメリカに留学した。ニューヨークにあるコロンビア大学だった。そのニューヨークで、こんな放送を聞いた。1957年、僕の生まれた年のことである。

『スピリチュアリズムへ・松澤宥1954-1997』川口現代美術館カタログ  他の精しい年譜としては『松澤宥プサイ(Ψ)の部屋』を見ていただくことができる。松澤宥の公式サイトと考えていただいてよい。

「2月2日午前2時 (これは、いつもの数字合わせなのだけれど)、枕元のモーターローラーの小型ラジオを回していたら不思議な放送が入って来た。『私は5歳のころの或る日に不思議な力に導かれて森の中をさまよい出しその森の中のとある岩の上に25,6歳の非常に美しい女の人を認めしばらくその婦人と話しをした。それから、20年後の昨年8月やはり或る力に引き出され森の中の岩の上であの昔と変わらない25,6歳の美しい人と会った。私は20年前この岩の上に座ってあなたと語った金星の女です。私の年は500歳 ! と言いました。』語るはニュージャージー州ハイブリッジの若いペンキ屋さんハワード・マシューさん。よく聞くとその放送は以前からずっとニュージャージー州のWOR局の終夜 (午前1時から5時まで) つづくパネルディスカッションであった。私はそれからニューヨーク滞在中一日もかかさずそれを聞いた。パーティー・ライン (合わせ目) は今でいうUFOに関するもので、心理学者、地球外空間研究家などの若干のパネルをもち、次々と占星術家、霊媒、数学者、催眠術家、ヨガ哲学家、生理学者、医学者、技師、教授などが招かれて、死後再生とか物体浮遊とか心霊現象とか超心理学、超科学、超宗教について異常に熱心にかたられていた。この放送を聞け ! それに触発されて私のニューヨーク滞在は後に絵画の非物質化に突っ走るための端緒の日々だったと言える (機関13・自筆年譜/『スピリチュアリズムへ・松澤宥1954-1997』川口現代美術館カタログ収載)。」

松澤 宥『量子芸術宣言』

彼は、終生テレパシーやUFOなどの超常現象に魅かれていた。その証拠は、彼の第二のエポックと言われる『量子芸術宣言』に見ることができる。その第10弦 (弦は超弦理論にちなんでいる) 量子芸術演習 (続) には「ビリー・マイヤーよ」という副題がついていて、以下のような内容が書かれている。

BM001
物質が百万分の一秒内にひずみを生じ微細化し非物質化し無限の距離を瞬間で移動出来る

BM002
遮蔽幕により物質の微細化非物質化を克服し空間と超空間の間の壁を中和して突き抜ける

これを読むと量子力学との類似を意識させられる。実際にはそれとは異なるけれどBM001は量子テレポーテーションを彷彿とさせ、BM002は量子トンネル効果を連想させる。ユングのいう核物理学とは量子力学のことを指しているのだけれど、その負の遺産が原子爆弾や原発事故であったことは我々身に染みている。「判断力の不確実さという念」というのは、量子力学が古典的な因果関係の成り立たない不確定な世界観を築き上げてしまったことを指している。不確定性原理、量子遷移、波と粒子の二重性、量子もつれといった極小の世界で展開される事柄はこれまでの因果律をなし崩しにして飛び飛びで確率的にしか観測不能なものとして表象されるようになった。しかし、松澤さんは、この量子力学をポジティブに全面的に押し出したのである。

そこにある物質のもっている波でもあり粒子でもある不確かさ、テレパシーが介在するかのような量子もつれ、瞬間的にワープする量子遷移といった性質は、松澤さんにとって物理学を超常科学に接近させるものに映ったのではなかろうか。これは、松澤さんが量子力学を理解していなかったことを意味しない。その逆である。それをビリー・マイヤーの言うような高みからの叡智と重ねたのかもしれない。このような言葉もある。

BM003
「創造」が無からこの宇宙を造ったそれは全能であり遍在であり法則だ創造自体に触れよ

このブログの冒頭に述べたノストラダムスの予言詩を思い出してほしい。「満月は夜 高き山にあがり/ただ一つの頭脳を持つ/新しい知恵ある人がそこに見られ/不死なるものとなることを弟子にしめし‥‥」。この詩は、『量子芸術宣言』の序にその内容が要約されて登場する。ビリー・マイヤーはヒンターシュミットルッティの山に、FIGU・SSSCセンターを開設し、松澤さんは諏訪という高地に住みそれに先立って外部空間状況探知センターや虚空間状況探知センターというコンセプトを立ちあげている。1960年には、コンピューターと空飛ぶ円盤のバックグランドはサイバネティックスとパラサイコロジーだとして新たなコミュニケーションの問題を提起した (『芸術新潮8月号』「サイバネティックスからマンダラまで」)。コミュニケーションの問題が絵画や芸術や文明に対して決定的な意味を持つことを闡明にしていた。こうなるとノストラダムスの言う「ただ一つの頭脳」が松澤さんにとって何を意味したかおおよそ想像できるようになるのである。

この量子芸術演習 (続)「ビリー・マイヤーよ」の最後にはこのような文が掲載されている。僕はこんなオチャメな松澤さんが大好きだった。

BM009
舞い舞いマイヤーマイヤー

 

 

その他のUFOのような物体が描かれた絵画

ドメニコ・ギルランダイオ(1449-1494)
『聖母子と洗礼者ヨハネ』
聖母の右肩上方に未確認飛行物体が飛んでいる。右上に少し拡大した図を載せておいた。太陽や雲の表現に特徴があり、ある種の光彩を放つ天体などをよく描いているが、本作品では形状がUFOにかなり近い。その工房からミケランジェロを輩出したことでも知られる人だ。

兎園 (とえん) 小説  『虚舟 (うつろぶね) の蛮女』
江戸時代にUFO伝説を思わせる奇談が知られていた。『兎園小説』(1825年刊行/江戸の文人や好事家の集まりの会で語られた奇談・怪談を、曲亭馬琴がまとめたもの)に『虚舟の蛮女』という題で図版とともに収録され今に伝えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考図書

ビリー・エドゥアルト・マイヤー『わずかばかりの知識と知覚そして知恵』
マイヤーのまとめた倫理と智慧の書というべきもの。UFOや宇宙人とのコンタクトの内容は一切出てこない。

 

 

 

 

 

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』 part2 龍樹・第一義諦の命題

 

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』

石飛道子氏は、アリストテレス以来の伝統的論理学から展開した命題論理学を用いながら、ブッダや龍樹がどのような論理を用いて教えを述べてきたかを明らかにして行く。前回 part1 は、彼女が「ブッダの公式」と呼ぶ中から「〈これ〉があるから〈かれ〉がある」という、あらゆる因果関係を説明するためにブッダが用いた論理を中心に解説されてきた。「世俗諦」の世界が中心だったが、この part2 では、龍樹の定式を中心に「中道」「第一義諦」に関係する論理が問題にされる。

龍樹菩薩伝 前半

龍樹については、紀元150年から250年の間に活躍した南インドのバラモン階級出身の僧ということくらいしか、はっきりしたことは分かっていない。まとまった伝記としては鳩摩羅什 (くまらじゅう/4世紀中頃~5世紀初頭) が訳したとされる『龍樹菩薩伝』が知られているが、実際には羅什より1世紀くらい後のものであるようだ。

内容は、乳児の時に四万の詩頌からなるヴェーダ聖典が朗誦されるのを聞いて全て理解し、諳(そら)んずることが出来たといった天才ぶりを言祝ぎ、年頃になれば、隠身の術をもって王宮の美女たちを犯したとかいう破天荒が紹介される。王の近くに身を伏せて難を逃れるが、欲のなせる業を知り、出家する。ヒマラヤ山中に籠り、そこで大乗経典を年老いた比丘から授けられた。一切を知る者としての慢心が芽生えるが、ゴータマ門の門神に、お前の知恵など如来に比べれば虻や蚊程度だと言われ、弟子には、あなたは仏弟子として教えを受け継いでいく者に過ぎないといった屈辱を受ける。これで、鼻が折れた。竜宮にいたマハー・ナーガ (大龍) 菩薩が、彼を憐れみ、惜しんで七宝の箱に収められた大乗の奥義の経典 (方等経) を授ける。龍樹は、膨大な経典も七宝の一箱にある内容に尽きていることを悟り、事物は本来不生であり、人・物共に空・無我で平等であり、どのような時にも慈悲の心を持つことに思い至る。

龍樹(150頃-250頃)像 年代未詳 チベット
頭にナーガ(蛇)を頂く。

龍樹 (ナーガ―ルージュナ) の名の由来は二説あって、一つは、幼名アルジュナにこの大龍菩薩のナーガ (龍/蛇) を加えたという説。もう一つは、釈迦の予言で、自分の入滅後に南インドに名声ある高貴な比丘が現れ、自分の「法」の眼を保持するであろうと述べ、その名がナーガーフヴァヤ (ナーガを名とするもの) であるとする『入楞伽経 (にゅうりょうがきょう) 』の十章による説である。龍樹の著作には『中論 (正式名は根本中頌) 』、大智度論の注釈である『優婆提舎』、それに自身の中論の注という『無畏論』などがある。ここからは勿論『中論 』が主役となる。

 


前回 part1では、真理表3(下図)からブッダの公式と石飛氏が呼ぶ定式が導かれた。Ⅰの「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」である。今回の龍樹の論理学では、ブッダの公式Ⅲの「〈これ〉がない時〈かれ〉がない」がテーマとなる。それは第一義諦、すなわち中道と空を導く公式となる。


中道

ブッダの公式
Ⅰ.〈これ〉がある時〈かれ〉がある。
Ⅱ.〈これ〉が生ずるから〈かれ〉が生じる。
Ⅲ.〈これ〉がない時〈かれ〉がない。
Ⅳ.〈これ〉が滅するから〈かれ〉が滅する(阿含経典12.49.3,5より)

真理表

ここからは、真理表15が解説される。今回、重要な真理表は15、16、1の三つであるが、文どうしをつなぐ接続詞は part1 でご紹介した真理表9と同様にない。4と13、5と12、6と11は互いに否定になっているが、真理表の下段で×のついたものは使用されない。世と書いてあるものは、世俗諦に使われた真理表であり、一と書いてあるものが第一義諦に関わるものである。

正しい智慧をもって、如実に、世間における集起を見るものには、世間において「無いこと」はない。
カッチャーナヤよ、正しい智慧をもって、如実に世間における滅を見るものには、世間において「有ること」はない。
カッチャーナヤよ世間の人々は、多くは、そのやり方に執着し、こだわり、しばりつけられている。
「一切は有る」というのは、カッチャーナヤよ、これは、一つの極端である。「一切は無い」というのもこれも極端である。
カッチャーナヤよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって、如来は法を説くのである(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部12.15)

真理表 15 Tは真、Fは偽を指す。通常のⅠ~Ⅳの位置は入れ替えられている。

中道とは苦楽、二辺の中道のことで、ブッダは、愛欲において欲楽の生活に耽溺することも苦行を実践すること聖ならざるものであり、利益のないものであると述べ (如来諸説経)、「楽と苦の二つの極端によらない」ことを中道とした。

真理表15では〈これ〉に〈一切は有る〉を〈かれ〉に〈一切は無い〉を入れて真偽を確定させている。ここで、問題になってくるのは最下段の「〈一切は有る〉のではなく〈一切は無い〉のではない」という命題である。これを中道としてブッダは説いたという。同じ形式の文章が中論にもある。

自己であると教えられていることもあれば、自己ならざるものと示されていることもある。しかし、如何なるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではないと諸仏により示される(中論18.6)。

西洋論理では、自己であるか自己でないかのどちらかになる。自己でもなく非自己でもないことはあり得ない。「自己ならざるものではない」は二重否定なので文全体は「自己でなく自己である」と書きかえことができる。ここで、前回の世俗諦で語られるブッダの言葉が引用される。

ブッダ データ未詳

あるものそのとおりのものとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと(考え)は、虚偽であるから。虚妄の法(モーサ・ダンマ)はしばしのものである(スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集 757)。

世俗諦で述べられる世界は、縁起によって生じる絶えず変化する世界であった。その世界は虚偽であり、同時に真理であるが、しばしの虚妄の法であった。中道は、「そのとおりもの」であるとも「それとは異なったもの」とも異なる。

縁起しているもの、それを、空性であると私は説く。それ(空性)とは、執って仮説することであり、中道そのものである(中論24.18)。

縁起とは、空性であり、執って仮説することであり、それが中道であると言う。巻末に紹介しておいた「龍樹『根本中頌』を読む」においては、この仮説は「 (何かを) 因とする施設」と訳されている。絶えず変化するものは、言語で表現できないもの、仮説でしか述べられないものとなる。何かを縁とせず生起するものは何ら存在せず、一切が空でないなら何かが生じたり、滅したりすることはない。「Aではなく、A ならざるものでもない」。空性については、後に述べる。

 


ブッダは、初心者ではあっても哲学議論の好きだったマールンキヤプッタに「語られなかったこと」を語った。「語られた教え」とは四聖諦のことであり、「語られなかった教え」とは無記と呼ばれる形而上説のことである。その「語られなかった教え」とは、四句分別に集約され、中道を保って言語を超えた世界に結び付けられ空性に結晶する。


 

四句分別

ブッダが、マールンキヤプッタに述べた形而上説とは以下のようなものである。

「永遠なのは世界である」というのは私によって語られなかったことである。
「永遠でないのは世界である」というのは私によって語られなかったことである。
「有限であるのは世界である」というのは私によって語られなかったことである。
「無限であるのは世界である」というのは私によって語られなかったことである。
「命と身体は同じである」というのは私によって語られなかったことである。
「命と身体は異なっている」というのは私によって語られなかったことである。

「如来は死後存在する」というのは私によって語られなかったことである。
「如来は死後存在しない」というのは私によって語られなかったことである。
「如来は死後存在しかつ存在しない」というのは私によって語られなかったことである。
「如来は死後存在するのではなく、存在しないのでもない」というのは私によって語られなかったことである。
なぜ、これらのことが、マールンキヤプッタよ、わたしによって語られなかったのか? これらは、マールンキヤプッタよ、利益をともわず、最初の清浄行のものではない。厭離にみちびかず、離欲にみちびかず、止滅にみちびかず、寂滅にみちびかず、証智にみちびかず、正覚にみちびかず、涅槃にみちびかない。それだから、これらは、わたしによって語られなかったことである(マッジマ・ニカーヤ/パーリ語経典 中部63)。

ブッダの形而上説抜粋

1.「永遠なのは世界である」「永遠でないのは世界である」
2.「有限であるのは世界である」「無限であるのは世界である」
3.「命と身体は同じである」「命と身体は異なっている」
4.「如来は死後存在する」「如来は死後存在しない」「如来は死後存在しかつ存在しない」「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」

問題になるのは4.で語られる説である。これを四句分別という。石飛氏は、ブッダが不可知論や懐疑論とは無関係だという。この四句分別は、論理的な裏付けをもって確信的に語られているというのだ。懐疑論は確信をもって語られることなく、ただ虚無に向かうだけだという。

真理表 16

真理表16の〈これ〉に〈如来は死後存在する〉を〈かれ〉に〈如来は死後存在しない〉を入れてⅡからⅣに真偽の結果を出す。それを全て偽として否定形にするのである。真理表は、ここでは命題論理学とは別の機能を持たされていることになる。ブッダの形而上説抜粋の 4.に見られる四句のきれいな否定形になっている。

石飛氏は、この如来の死後に関する四句分別の文章を我々凡夫に向けて無理やり言語で表現してくれたものであろうと言う。マールンキヤプッタはブッダの僧団に属するかどうか決めかねていた。それゆえブッダは、弟子たちには説かない形而上学をわざわざ述べて、それを否定している。それは仏教内部の人へではなく、外部の者に対してブッダがあえて踏み込んだのではないかと言うのである。

「如来の死後」は「涅槃」と直結する問題である。『中論』が拠り所とすることの多い『スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集』からご紹介する。ブッダは煩悩の河を渡ろうとするウパシーヴァにこのように述べる。

無所有(何もないところ)を観察しながら、よく気をつけている者、ウパシーヴァよ、と尊師は言った。(おまえは)「無い」ということをよりどころにして激流を渡れ。もろもろの欲望を捨てて、討論から離れ、渇愛の滅尽を昼夜において観ぜよ(1070)。
無所有(何もないところ)をよりどころに、他のものを捨てて、最高の「想いからの解脱」において解脱して、そこにとどまり、何ものにしたがっていくこともないだろう(1072)。
風の力で炎が吹きとんで離れさって数のうちに入らないように、同じように聖者は、名称と身体から解脱して、離れ去って名づけられなくなる(1074)。
かれに対して、そのものをあれこれ述べるようなやり方は存在しない。すべてのもの(法)が根絶やしにされたとき、一切の議論の道もまた根絶やしにされたのである(1076)。

ナーガルージュナ ツァパ・ナムギャル作 17世紀

「もろもろの欲望を捨てた者」は、無所有処定(むしょうしょじょう)という禅定を拠り所として最高の「想いからの解脱」において解脱して、そこに留まるという。上記のように『スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集』では、解脱への二つの段階が注目される。この区分は『中論』を性格付け、大乗への道を開く重要なポイントだと著者はいう。

(1)「貧欲を離れた者」となる。
(2)「想いからの解脱」において解脱し、名称と身体〈名色〉を離れる。

(1)の「貧欲を離れた者」では、まだ名称と色形〈名色〉を残していると考えられる。これが「最初の清浄行」にあたる。
(2)の「想いからの解脱」とは「想いを想うものではなく、想いを離れて想うものでもなく、想わないのでもなく、虚無を想うものでもない」ことだった。「このように知ったものは色形を滅する」のである。「色形を滅する」因となるのは「多様な言語世界(パパンチャ)の名称が起こらない」ことによるといわれる。これによって「『想いからの解脱』において解脱する」のである。行為と煩悩を滅した人がさらに名称と色形を滅する第二段階である。これが「第二の清浄行」と著者が呼ぶものとなる。

想い (サンニャー) を想うものではなく、想いを離れて想うものでもなく、想わないのでもなく、虚無を想うものでもない。――このように知ったものは、色形を滅する。というのは、想いを原因として、多様な言語世界 (パパンチャ) の名称が起こるからである(『スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集』874)。

内においては迷妄(パパンチャ)である名称と色形を知って、外においては病根を知って、すべての病根の束縛を脱した、このような人は、あるがままにある人と言われる(スッタ二パータ/パーリ語経典 小部・経集530)。

行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、思慮分別によって起こる。これらは、多様な想い (プラパンチャ) にしたがってあるが、多様な言語・表象世界 (プラパンチャ) は空性 (シューニャター) のなかに滅するのである(中論18.5)。

サンスクリット語のプラパンチャ、パーリ語のパパンチャは、「戯論 (けろん)」と訳される。「多様に広がっていく言語・表象の世界」と「迷妄」という二つの意味があるが、ここでは前者を指している。このような言語に属する事柄は世俗諦、つまり虚妄な法につながるため迷妄の意味も出てくるのだという。多様な言語・表象世界 (プラパンチャ) は、多様な想いにしたがってあるが、多様な言語・表象世界は空性のなかに滅して、ついに、名称と身体〈名色〉を離れる。すなわち、あるがままとなるのである。これが第一義諦の到達を意味する。では、空性とは何なのだろうか。

苦楽二辺の中道/形而上説の否定→四聖諦→煩悩からの解脱→無所有処などの禅定→名称と色形 (名色)を滅すること

 

龍樹菩薩伝 後半

もう一度、本書から離れて龍樹の伝記についてご紹介します。7世紀になると留学僧であった玄奘三蔵が、当時のインドにおける龍樹の伝承を記録に残している。インドのサータヴァーハナ王が龍樹のために黒峰山に伽藍を建てたが、資金が枯渇し、それを助けようと龍樹が妙薬によって石を黄金に変えた。あるいは、提婆 (アーリヤデーヴァ) が彼のもとを訪ねて来た時、龍樹は水を満たした鉢を見せ、提婆は針を投げ入れる。その意味を理解した龍樹は提婆を弟子としたとか、父サータヴァーハナ王の長寿は薬術に長けた龍樹が薬を処方しているせいだとして、その王子に首を乞われた龍樹は自ら首を切り落として絶命したといった内容を玄奘は記していた。

龍樹が仙薬を使うというのは『龍樹菩薩伝』にもあり、三百年の長寿をもって仏教を守護したと伝えられる。その他、菩薩伝には南インドの国王の前で、バラモン僧との術比べに勝利し、別の国王を神通力で教化したという話も伝えられている。また、龍樹の最後は、このように描かれている。彼に嫉妬する小乗の比丘が、あなたが長くこの世にとどまっていることを望まないと言うと、その言葉を契機に為すべきことをし終えたと感じていた龍樹は、蝉が抜け殻だけを後にするように遷化したという。南インドのクリシュナ―川の右岸にあるナーガルージュナ・コーンダ (ナーガルージュナの丘) には、紀元3~4世紀のイクシュヴァーク時代のサータヴァーハナ王朝と関係する仏教遺跡があり、ここが龍樹の終焉の地だと推定されている。

ちなみに、インドの伝承では、龍樹の切り離された胴と首は、その吉祥山の光輝く楼閣の中の宝座に置かれ、神々やヤクシャ(夜叉)などによって常に供養された。一方、彼の誓願身は極楽にあって無量光仏によって「智宝菩薩」の名が与えられているという。無量光仏は阿弥陀の別名だがら、浄土教とのつながりはここら辺りにあるのかもしれない。チベットでは別の伝承があり、切り離された首の根本から「私はいまに極楽に行くであろう。しかし、後にまたこの身体の内に入るであろう」という声が聞こえてくる。ヤクシー (夜叉女) が、首を胴から7キロ先に置くと、首と胴は腐ることなく互いに近づき、ついに合体して、龍樹は再び教化を開始するのだった。不気味な話しになっているのだが、頭という智と身体という物が一度は切り離され、死後もう一度結びつくというメタファーは何を意味するのか‥‥

 


いよいよ八不中道と空性に入る。八不中道は、『中論』の冒頭を飾る帰敬偈と呼ばれるブッダに捧げられた序で、中観派の代名詞となった感がある。そこには論争の相手を沈黙させる論理が秘められていた。「あなたが縁起と空性を破壊するなら、あなたは一切の言語活動である世界を破壊する。」ブッダの言葉や龍樹によって繰り広げられた言葉の地平が解体された後、その上に火焔のように燃え立ち煌めくものがあるのだ。


 

八不中道

『中道』は、真理表15のⅣにある「〈一切は有る〉のではなく〈一切は無い〉のではない」という命題から導かれる中道・第一義諦の形式であることは既に見た。ブッダは、世間と論争を起こすことはないと弟子たちに説いてきたが、世間と関わる以上論争せずにいられたとは思われない。論争と言ってもブッダはただ「法を語っていた」だけかもしれないのだが。外教徒らは、実在論や世俗諦のみに関わっていたから、第一義諦に関わる『中道』が一つ議論に加わるとたちまち議論は終結したのではないかと石飛氏は述べている。これを龍樹は「一切の見解からの出離」と述べた。

不滅にして不生、不断にして不常、不一にして不異、不来にして不去、戯論寂滅にして吉祥なる縁起を御説きになった、説法者中の最高の説法者である仏陀に敬礼いたします(『根本中頌』帰敬偈 桂紹隆、五島清隆 訳)

八不は、すべて吉祥なる縁起を形容している。目的は、外教徒に法を説くためと同時に仏弟子に悟りへの道を開くためと考えられるという。もう一度ブッダが説かなかった形而上説に戻る。

ブッダの形而上説抜粋
1.「永遠なのは世界である」「永遠でないのは世界である」
2.「有限であるのは世界である」「無限であるのは世界である」
3.「命と身体は同じである」「命と身体は異なっている」
4.「如来は死後存在する」「如来は死後存在しない」「如来は死後存在しかつ存在しない」「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」

1.「永遠なのは世界である」は不生で否定し「永遠でないのは世界である」は不滅で否定する。
2.「有限であるのは世界である」は不断で否定し「無限であるのは世界である」不常で否定する。
3.「命と身体は同じである」は不一で否定し「命と身体は異なっている」は不異で否定する。
4.「如来は死後存在する」「如来は死後存在しない」「如来は死後存在しかつ存在しない」「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」は不来不去で否定するということになる。

このように「中道」は相反する主張をことごとく否定する。それは、相手を返答不能に追い込むという。これは、言語世界から離脱することを意味しているんじゃないのかな。文字通り言語・表象世界を滅することらしい。この間のトドロフの『象徴の理論』でご紹介したことだけど、永遠という言葉は、永遠とそうでないものを切り分ける。言語の特質は二項対立にあり、その永遠の側から意味のネットワークが広がっていく。「中道」は、言語の二項対立の世界からの超越と言えるのかもしれない。

1.~3.までは問題ないと思うので 4. の四句分別に関する不来不去についての解説をご紹介する。マールンキヤプッタとブッダとの会話で 4. は如来の死後について語られている。『ヴァッチャゴッタ火喩経』では、火が消えた時、その火は「去るものでない」と言われ、『雑阿含経』では、生ずるときは、「来るところもない」と言われる。真理表15のⅣから導かれる「〈一切は有る〉のではなく〈一切は無い〉のではない」は「〈来るところ〉もなく〈去るところ〉もない」に置き換えることが出来るだろう。

(正しい智慧によってあるがままの縁起を見ている聖なる弟子でも)『わたしという生きものは、いずこから来たのだろう、いずこへ去っていくのだろう』(と思いまどうかもしれないが)、このような道理はない(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部12.20.20)

「このような道理はない」。それでは、何があるのかと言えば「〈来るところ〉もなく〈去るところ〉もない」中道なのである。八不中道の最後にこの不来不去を置くことによって「如来」における解釈に重大な根拠が与えられることになると著者はいう。如来の死後について論議ができる唯一の可能性が残されるのだ。龍樹独自の解釈に見える「不来不去」は、その根拠を阿含経典に見出すことが出来るというのである。

 

過去生の物語 
ナーガルージュナ・コーンダからの発掘
アーンドラ・プラデーシュ州 インド

空性

かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住処に、多く住している‥‥比丘は、村の想いに集中することはなく、人の想いに集中することなく、森の想いによって独住に専念する‥‥かれはこのように知る。(すなわち) あったのは、村の想いによる不安であるが、それらはここにない。あるのは、この森の想いによって独住する、ただこの不安だけである。

かれは、『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、(それ) は村の想いに対してである』と知る。『空であるのは、この想いのなかにあるものであって、(それは) 人の想いに対してである』と知る。『あるのは、この、森の想いによる独住であって、これだけが、空でないものである』と知る。以上のように、そこ(A)に全くないそのもの(B)によって、そこ(A)を空であると見る。

そこにはまだ余っているものがあるとき、そこ(A)にあるものそのものを、『これがある』と知るのである。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性 (スンニャター) が顕現している(マッジマ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部121)。

『「空 (スンニャ) 」とは、あるもの(A)のなかに何かないもの(B)があるとき、それ(A)をないもの(B)についての空である」』というような言い方で用いられている。空は「膨れ上がったもの」「からのもの」、インドの数学ではゼロを意味する。「森の想い」のなかに「村への想い」がないとき「森の想い」は「村の想い」についての空であるということになるだろうか。「森の想い」についてまだ余ったものがあるとき「森の想い」による独住があると知る。別な例を考えると「人の思想の中に理想がないとき、その思想は理想に対して空である」と言うことになるだろう。村の想いという、この「想」は「名称と色形」から生じる。想いや思惟、言葉は「空である」と特徴づけられている。

最終文で空性 (スンニャター) が登場して「空 (スンニャ) 」との違いが明らかにされる。具体的なあるものについて「空である」という時、スンニャという形容詞が使われ、そのような「空」の見方を一切におよぼしたとき顕れてくる境地を抽象名詞で表現して空性 (スンニャター) としている。「空性」は私たちの言語・表象世界一切を覆い尽くすという。「縁起しているもの、それは空性である」というブッダの言葉を思い出してほしい。龍樹は、空性についてどのように述べているのだろうか。

[真実は]他に依って知られることなく、寂静であり、諸々の言語的多元性 (戯論) によって実体視して語られることなく、概念的思惟を離れ、多義でない。これが[諸法]の真実 (=空性) の特徴である (中論18.9 桂紹隆、五島清隆 訳)

空性があてはまるものに対しては、一切が当てはまる。空があてはまらないものについては、一切があてはまらない(中論24.14)。

あなたが縁起と空性を破壊するなら、あなたは一切の言語活動である世界を破壊する(中論24.36)。

他者とかかわるなら縁起が成立し、言葉を交わすなら空性の内にある。縁起と空性を破壊するなら、あらゆる言語活動によって成り立つ世界は崩壊する。私たちは、気がつこうとつくまいと縁起と空性の中で生きているのだと著者は述べる。縁起するものは空であり、空であるものは縁起する。そして、縁起と空とは同じではなく、異なってもいないのである。ここに議論は終息する。急いで付け加えておこう。

世尊が仰った。「[病因を取り除くべく服用した薬がいつまでも体内に残ると、癒されるどころか、かえって病気が悪化するように]ちょうどそのように、迦葉よ、見解(邪見)をすべて取り除くのが空性なのであるが、他ならぬその空性を[ひとつの]見解とする人がいるのであれば、その人のことを、私は、癒すことのできない者と呼ぶ」(『迦葉品』65 桂紹隆、五島清隆 訳)

 

あるがままの論理 

ブッダの語り方は、対機説法と呼ばれる。中論には、ブッダの語り方をまとめた偈があるという。これは、あらゆる人々をもらすことなく救い上げようとするブッダの大いなる慈悲の網に例えることが出来るだろう。このような偈である。

「すべては、あるがままである」あるいは「(すべては)あるがままではない」あるいは「(すべては)あるがままであると同時にあるがままではない」あるいは「(すべては)あるがままでなくあるがままでないのではない」(中論18.8)

それは真理表1に仮託されているが、命題論理としては、もはや成り立っていない。ある人には、「すべてはあるがままである」と語る。言葉に絡めとられている者には、目覚めの一言になるだろう。別の清浄行に励むものには「すべてはあるがままではない」と語る。ガンジス川の大きな泡を眼のある者は静観し正しく考察するだろう。しかし、それは虚ろで実質のないものである(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部22.95)と知る。それはしばしの虚妄な法であると。十二支縁起を理解するような者には「すべてはあるがままであると同時にあるがままではない」と述べるだろう。その順観と逆観があわせて説明されただろう。そして、禅定を修行する者には「すべてはあるがままでなくあるがままでないのではない」と語られただろう。それは彼らに現実のものとして見えなければならなかったいうのだ。

このようにブッダの論理学は相手に応じて自在に変幻していくのである。そして、ブッダの論理学を受け継ぎ、それを自由に駆使した龍樹が、どのような影響を後世に与えたかは、あまねく知られている。『中論』は、ブッダの論理学を受け継ぎ、その極致を語る聖なる書であると著者は強調してやまないのである。

 


僕は、この著作の何に興味を持ったのか?


時に素晴らしい切り口で仏教にアプローチできる著作に巡り合える時がある。例えば、西谷啓治氏の『正法眼蔵講話』などが、そうである。ギリシアのパルメニデスの思想と道元の思想が比較される。この出会いは意外だった。ロシアの思想家、バフチンにとって社会的コミュニケーションで生まれる「理解」とは、他者の経験を自己の内部に自動的に正確に反映することでも、自己の内部で倍加することでもなかった。この経験を全面的に異なった価値を持つパースペクティブによって、新しい評価と知識のカテゴリーに翻訳することであった。これが、カーニバル的「生き返り」である。

このような新たな価値論的パースペクティブが、今回ご紹介した石飛道子さんの『ブッダと龍樹の論理学』には、あるんじゃないかと思ったのである。おそらく、仏教側からも論理学の側からも色々な批判にさらされたのではないだろうか。しかし、ブッダや龍樹の思想にある種の構造的な枠組みが見えてくる点で大きなメリットがあると言える。単なる思い付きといったレベル以上の内容を持った、このような主張が味わえることは稀である。スッタモンダは、学会内でやっていただければよいのだが、ここから、色々な可能性が見えてくる。フレーゲの述語論理学とブッダや龍樹の論理学との比較へと発展することも可能であるかもしれないし、道元の正法眼蔵を論理学的な枠組みから眺めていくことも可能になるかもしれない。このような試みが増えてくるなら本はもっと面白くなるに違いない。

 

 

参考図書

龍樹『根本中頌』を読む 桂紹隆、五島清隆  とてもバランスのとれた『中道』の訳と解説のある著書。

『論理学の初歩』大貫義久、白根裕里枝、菅沢龍文、中釜紘一  共著  論理学が分かりやすく解説された良書。

 

 

 

 

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』 part1 縁起を導く接続詞

 

不滅にして不生、不断にして不常、不一にして不異、不来にして不去、戯論寂滅にして吉祥なる縁起を御説きになった、説法者中の最高の説法者である仏陀に敬礼いたします(『根本中頌』帰敬偈 桂紹隆、五島清隆 訳)

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』 2007年刊

この龍樹の八不中道にシビレテ以来、いまだに痺れっぱなしになっている。しかし、シビレタまま動けない。そうこうしている内にこんな本に出合った。ブッダや龍樹の経典を論理学を通して解き明かすものだ。これは新鮮というか大胆というか、全く驚いた。意図はまことに豪胆と言える。批判は、かなりあったのではなかろうか。しかし、こういった文字通りラディカルな説が新たな道を模索するには必要ではなかろうか。どのような内容なのか、順を追ってご紹介していきたい。ブッダや龍樹の独特の言い回しには、構造的な理由があるんじゃないかというのは、何となく感じていたけれど、こんなに闡明にしてくれているのは嬉しい。

最近、言葉に興味を持っている。言葉は構造を持っていてネットワークを作り出すことができる。そこには色々な結合のメカニズムがあるのだ。それらを知ることはとても興味深い。そして、この言葉を通して、私たちは感じたことを明確にし、それがどのように生じ、移ろい、滅していくのかを考え、知ることができる。それは私たちの世界観を大きく支配している。しかし、それらは束縛となることもあるのだ。世界はマーヤである。真理と言葉との間に大いなる懸隔を作り出したのはブッダだった。しかし、それを知らしめるためには、言葉を用いるほかはなかった。

石飛道子(いしとび みちこ)さんは1951年、札幌に生まれている。北海道大学大学院博士課程を単位取得退学。北星学園大学を経て札幌大谷大学で特任教授として教鞭を執っておられる。もともと、インドのニヤーヤ学派を学んでいて、その後、それが中観派の需要な著作『方便心論』の強い影響下にあったことを知るようになった。ニヤーヤ学派は、インド六派哲学のうちの一つだが、論理学を自覚的に説いたのは「ニヤーヤ・スートラ」を嚆矢とする。その『方便心論』が阿含経の表現を真似ていること知った。文に一定の形式があるなら、そこに論理学があり、ブッダが論理学を持っていることを確信するようになったのだという。この流れは香ばしい。著書に『ブッダ論理学五つの難問』『龍樹造「方便心論」の研究』『龍樹――あるように見えても「空」という』『「スッタニパータ」と大乗への道』 『「空」の発見』などがある。本書『ブッダと龍樹の論理学』は、いわば基本編の『ブッダ論理学五つの難問』に龍樹の論理学を組み合わせた応用編となっている。

 

ブッダガヤの金剛座 釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた場所とされる。

前5世紀、ブッダ(釈迦)は苦行の果てに何ものも得られぬことに絶望し、全てを放棄してネーランジャラー川に臨む菩提樹の下に座り光明を得た。7日の禅定の後、十二支縁起を悟り、順観と逆観でこれを唱えたと言われる。ヴァーラーナシーの近郊サールナートで、かつて苦行を共にした5人の沙門に苦楽二辺の中道と八正道、そして四聖諦を説いた。それが初転法輪と呼ばれる。この時、既にブッダは論理学の体系を完成していたと筆者の石飛道子氏は述べる。

12項からなる因果関係を説明する十二支縁起と中道によってブッダの論理学の体系は基本的に説明される。四聖諦によってその活用の仕方が具体的に展開され、八正道によってそれをどのように学ぶかが示されるのである。まずは、言葉に表現できない真理と言葉で教説される真理の別があることが知られている。そのブッダの真理を龍樹が解説している。

第一義諦と世俗諦

第一義諦と世俗諦は、ブッダの論理学独自の論理的、思想的用語である。それが龍樹によって『中論』、正式名称は『根本中頌』だが、そこで解説される。二つの真理にもとづいて、諸々のブッダの法の説示がある。

世俗の真理 (世俗諦) と究極的な意味の真理 (第一義諦)とである (中論24.8)。
これら二つの真理を知らない者は、ブッダの教説の深淵な真実義を知らないのである (中論24.9)。
言語の慣用によらずには、第一義は説き示されない。第一義に到達しなくては、涅槃は獲得されない(中論24.10)。

第一義諦と世俗諦という二つの真理がある。「ブッダの教説の深淵な真実義を知らない」とは、「深淵な」が縁起の理法を形容する時の枕詞のように使われることから、この教説が縁起を指していることが分かる。因果関係の体系のことである。第一義諦は涅槃に関わり、世俗諦は言語習慣に関わる。しかし、言語なくして涅槃を説くことができない。これらは、ブッダの阿含経の中で対応していると思われる個所があるという。 第一義諦→涅槃 世俗諦→ブッダの教説

あるものをその通りのものとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと (考え) は、虚偽であるから虚妄な法 (モーサ・ダンマ) はしばしのものである(阿含経典757)。
虚妄ならざる法 (アモーサ・ダンマ) は涅槃である。聖者はこれを真実であると知る。彼らは、真実を現観して、無欲となって、涅槃に入っているのである (阿含経典758)。

虚妄な法=しばしのもの、虚妄ならざる法=涅槃

 


ブッダには、ブッダの論理がある。それは、当然西洋の論理とは異なる部分があり、論理というからには共通の部分もある。論理を明らかにするのは、アリストテレス以来の伝統的論理学とそれから発展した命題論理学が知られている。だが、実際に使われる文を当てはめると支障をきたす部分が多々あり、それをフレーゲが「述語論理学」によって、論理学を新たな色に塗り替えた。ここでは、フレーゲ以前の命題論理学が比較の対象となる。『論理学の初歩』から命題論理学の知識も少しご紹介しながら、ブッダの論理学のそれぞれの要素をご紹介する。


『論理学の初歩』大貫義久、白根裕里枝、菅沢龍文、中釜紘一 共著  論理学を非常に分かりやすく解説してくれる著書。これと読み比べると、とても面白い。

ブッダの論理学体系が認める、文と単語とをまとめて法(ダルマ/ダンマ)と呼ぶ。サンスクリット語のダルマ、パーリ語のダンマは多義的な解釈の難しい語で、「保つもの」「自然なありよう」「習慣・習性」「規則・法則」「ものの真のありよう」などの意味があると言われるが、本書のブッダの教説内部に限るなら「論理学体系が認める文と語」と捉えると理解しやすいと言う。

1.単語 

単語はブッダ論理学体系の中で用いられ用語である。それらは、「存在」「存在要素」などの意味と、「性質」「属性」としての意味に大別される。この意味を龍樹は「名」と呼んでいた。例えば前者では、五蘊、十二処、十ハ界、色、受、想、行、識などは存在要素の名である。後者では「およそ何であれ、生ずる性質(サムダヤ・ダンマ)のものは、滅する性質(二ローダ・ダンマ)のものである」といった文の中の「生ずる性質」、「滅する性質」が、属性の名となる。

通常の論理学で言う概念に関する部分だが、概念の意味内容である内包、その対象範囲である外延といった言葉は出てこない。代わりに属性という言葉が登場している。論理学では、概念を定義するにあたって多義的な言葉や比喩は使えない。

2.文

演繹的な推論は、前提から結論が導かれる。前提や結論は、文からなり推論の基本単位となり、命題と呼ばれる。命題は真か偽のいずれかであり、「どちらでもない」は排除される。この真と偽しか認めない論理学を二値論理学という。真と偽は文の値であり真理値と呼ばれる。ブッダの論理学の基礎でもある。法のうちの文であるが、これは「教え」という名が付けられた。勿論、ブッダの教えを述べた文であるが、ブッダによって説かれなかった無記と呼ばれる文も含まれる。主語には条件があり、上記の単語と指示代名詞は主語になるが、注意すべきは形容詞が主語になる場合である。

形容詞が主語となる文

パーリ語経典  南スリランカ地方のシンハラ語が書かれた表紙とヤシの葉のページで作られている。

「永遠である(サッサタ)」「空である(スンニャ)」などの形容詞であるが、永遠なるものは世界であるというような使われ方をする。この場合、主語と述語が一見逆になっているように見える。ブッダは「悪しき語順の文句によって経典を誤解して学んではならない(アングッタラ・ニカーヤ)」と比丘達に警告している。アングッタラ・ニカーヤは、パーリ語経典の経蔵を構成する5部の中の一つで、増支部と呼ばれる。ニカーヤは部を意味する。悪しき語順とはブッダが説いた本来の語順を転倒させることだと石飛氏は述べている。インドの言葉は語順がいつも逆倒していると誤解された。漢訳された経典では語順が転倒されて訳されたものが多いのである。

命題は、「人間は動物である」「人間は植物ではない」といった、ある概念とある概念の一致、不一致を主張する。命題は主語、述語、それに「‥‥は‥‥である「「‥‥は‥‥でない」といった繋辞とで構成される。一般の文は命題の形式になっていないので、命題の形式に直すことを「標準化形式」というらしい。形容詞や動詞を「‥‥もの」「‥‥こと」のように名詞形にしたり、「すべての‥‥」という全称、「ある‥‥」という特称の形に変えたりするなど、書き換えの規則がある。伝統的論理学では、命題相互の比較から真・偽の推理を行うにあたって三段論法など用いられる。

 

3.否定

命題論理学では、「彼は学生である」は要素命題だが、「彼は学生ではない」は「ない」という結合子が付くために複合命題となる。

本書では、否定は二種類挙げられている。一つは、文にかかる否定(プナサジュヤ・プラティシェーダ)、もう一つは語にかかる否定(パリウダーサ・プラティシェーダ)である。「これは、私ではない、これは自己(本体)ではない」が前者の例で、後者は、「恒常」に否定の接頭辞をつけて「無常」、「自己」に対して「自己ならざるもの(無我)」となる。単語の否定は文の否定よりも比較する対象のコントラストを高めて強力な表現力を獲得する。

実に無明のうちにあるものが、莫迦梵天である。無明のうちにあるものが、莫迦梵天である。実に無常であるものそのものを、恒常であるという。実に堅固ならざるものそのものを、堅固であるという。実に永遠ならざるものを、永遠であるという。実に全一ならざるものそのものを、全一であるという(サンユッタ・ニッカ―ヤ/パーリ語経典 相応部、阿含経典)。

このように単語の否定は、独特な語調を伴って、変化する心の中を描写して相対的な世界の巧みな描き手となる。語の否定によって起こる解釈の多義性については、part2の龍樹の中論の中でもっと詳しく説明されることになる。

 

瞑想するブッダ 1世紀
サリ・バロール遺跡出土 パトナ博物館

4.指示代名詞

命題論理学では、P や q は、不特定の命題を示す記号で命題変項と呼ばれる。本書では、この記号の代わりに「こや」「かれ」といった指示代名詞が使われる。これらの語は、阿含経でも多用される特徴的な使い方になっているようだ。最初に「尊師はこれを語った」と述べた後に「これ」の内容が語られる。ブッダの扱う存在とは「生ずる性質のものは滅する性質のものである」と定義される。それは生滅し、認識されるのだ。この生滅する性質を示すために「これ」を使ったのだという。「これ」と言われれば差されたものを見ようとするのが人情である。「これ」は、言われた時限りの生滅する語であり、やがて認識される。このような表現形式からなる文章は、読む人にとって常にその場その場で成り立つ普遍的な内容として理解されることになる。その都度、認識される生滅するものを表現するために考えられた独特の表現なのである。

 

5.接続詞

概念や、主語・述語の判断、判断に基づく推理を扱う伝統的論理学に対して、文、つまり命題を扱うのが命題論理学である。単独の文は命題素と呼ばれ、文同士は接続詞で結びつけられて、複合文となり、結び付けられる各命題の真偽と接続詞の意味とによって、その複合文も、やはり真偽のいずれかに価値づけられる。この複合文を関数と見て特別に「真理関数」と呼ぶ。論理学で用いられる接続詞は「または(選言)」「かつ(連言)」「ならば(含意)」「‥‥は‥‥と等しい(等値)/すると」の4つがある。否定の「でない」は既にみた。

真と偽に塗り分けられ静止した世界は、接続詞によって刻々と真偽を入れ替える動的な世界へと変貌する。そのような時、ブッダの論理学の思索の流れを無視すると混乱に陥るという。複雑で微妙な表現は、関係の多様性にかかっている。それは真理条件の数によるのではなく、一枚の真理表を語り尽くすことが一切知者を決定づけるというのである。ちょっとゾクゾクする感じがするでしょ。

真理表 単独文〈p〉,〈q〉のそれぞれの項目が真 (T) あるいは偽 (F) の組み合わせは、2²で8通りあり真理表の左側のようになる。1-16まで数字は、ある接続詞を示していて、その下、縦一列のⅠからⅣの4項目にわたって記されている真(T) あるいは偽 (F) は、二つの命題素p、qを組み合わせた複合命題が、真(T)か偽(F)かを判定している。。それでは、具体的にいくつかの接続詞を見ていきましょう。

 

「または」

「または」という接続詞は、真理表の縦列2と10を示している。2は論理和、10は排他的論理和とよばれるものである。10については、後程、接続詞の別のところで述べる。〈p〉が「雨が降っている」、〈q〉が「風が強い」とすると縦列2の場合は、上からⅠ「雨が降っているか、または風が強い」で真(T)、Ⅱ「雨が降っているか、または風が強くない」で真(T)、Ⅲ「雨が降っていないか、または風が強い」で真(T)、Ⅳ「雨が降っていないか、または風が強くない」で偽(F)とする。集合で表すと上の図のようになるのだが、最後のⅣ「雨が降っていないか、または風が強くない」が真か偽かは悩む。ここで、改めて指摘しておきたいのだけれど、命題論理学は、命題の真偽のみを対象とし命題の内容には立ち入ろうとしなかったために限界を生じていた。それをゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)は「述語論理学」を構築して既にそれを乗り越えていたのである。本書における論理学は、フレーゲやバートランド・ラッセル(1872-1970)以前の命題論理学が使われているので、文の意味との整合性を問題にすると時に不都合が起きる。ブッダの論理のための踏み台と考えていただければよい。

「そして」あるいは「かつ」

真理表の8である。〈p〉が真でかつ〈q〉が真の時はⅠのみが真になり、残りⅡからⅣは偽となる。「そして」は、命題論理学において〈p〉と〈q〉を入れ替えることが可能であるが、現実に当てはめると交換可能な場合と不可能な場合がある。交換可能な場合は、「無門は禅坊主であり、大酒飲みである」という複合文。不可能な場合は、「サミッディは、沐浴して衣を身に着けた」である。命題論理学では時間を上手く扱えないと石飛氏は強調する。

 


ここから、世俗諦に深く関わる接続詞のうち非常に重要な三つの要素が解説される。ブッダや龍樹の文章においてよく使われる接続詞である。縁起に関してよく使われる「~(する)とき‥‥」、原因に関する文に使われる「~が(ある)とき‥‥」及び、対義語・相対語の時に使われる「~が(ある)とき‥‥」という三つである。縁起に端を発して、世俗諦、四聖諦との関係が解説される。


 

[縁起「~(する)とき‥‥」] 真理表3

真理表における縦列3がここでは扱われる。ブッダの論理学で最もよく使われる接続詞は「~(する)とき‥‥」で、これは「時を経る」接続詞だという。この接続詞が表す論理関係は「縁起」に関わる。この縁起からブッダの教説が始まるのだ。「これ」に種をいれ、「かれ」に芽を入れると下のような表になるのだが、種が先で芽が後という時間的な順序が設定される。ここでは一般に知られる西洋の真理表とは別の解釈が起きている。一方で、阿含経のブッダの縁起の表し方に沿ってまとめると真理表3に見られるⅠとⅣが基準となる重要な公式が浮かび上がる。

真理表の3「縁起」 〈これ〉ならば〈かれ〉という含意を表す。

ブッダの公式

1.〈これ〉がある時〈かれ〉がある。
2.〈これ〉が生ずるから〈かれ〉が生じる。
3.〈これ〉がない時〈かれ〉がない。
4.〈これ〉が滅するから〈かれ〉が滅する(阿含経典12.49.3,5より)。

真理表 3,5,7

1.の「ある」は普通、存在を意味するが、この場合の「ある」は、認識上の「ある」なので絶対に「有る」ということではない。また、1.の「これ」と「かれ」に入る言葉は、2.から分かるように、生じる性質のものでなくてはならない。2.は、1.の解釈となっている。3.の「ない」も同様に認識上の「ない」を指している。4.3.における「これ」「かれ」が滅することを示すから全体を通じて「これ」「かれ」に入るのは「生滅するもの」でなくてはならないことが分かる。4.は、3.の解釈となっている。1.3.が、実際の公式として真理表3・5・7でも使われることになる。

ブッダの教説から具体的な例を拾ってみましょう。

比丘たちよ、生まれることに縁(よ)って老死があるのは、如来が出る、出ないにかかわらない。その道理(界)は、定まっており、法として確立し、法として確定していて、(それは)「これに縁ること」である(阿含経典12.20.3)。

比丘たちよ、そのままであること、そのまま離れないこと、異ならざることが、「これに縁ること」である。比丘たちよ、これが縁起であると言われる(阿含経典12.20.5)。

生まれることによって老死がある」は、「生まれる」がある時「老死」があると言い換えられる。続いて、「これに縁ること(此縁性/イダパッチャヤタ―)」が法として確立された道理であり、縁起と呼ばれるのである。「生まれること」以外の他の十二支縁起一つ一つについても同様に語られるが、十二支縁起については巻末に紹介しておいた。縁起についての命題の表現は、公式1.の「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」を契機として展開されるのである。そして、「そのままであること」が「これに縁る」ことであることが指摘される。

あるものをそのとおりのものとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと(考え)は、虚偽であるから。虚妄な法(モーサ・ダンマ)はしばしのものである(スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集)。

虚妄な法は、虚偽なるものである、と尊師は語った。一切の虚妄な法は、諸行(サンスカーラ)である。これによって、これらは虚偽である(中論13.1)

ブッダは「そのとおりのもの」は虚偽であるから虚妄な法であるという。それを、龍樹では、一言「諸行(サンスカーラ)である」と述べられる。行とは一切の能動性のことである。虚妄な法とは一切の能動性によって変化する出来事を指すことになり、縁起をさしていることが分かる。そのとおりのもの=虚妄な法=諸行=縁起となる。

サールナート(鹿野苑)初転法輪の地
ダメーク・ストゥーパ

もし、虚妄な法が虚偽なるものであれば、そこでは、いったい何が虚偽とされるというのか。しかるに、このことは、ブッダによって説かれ、空性を説明するものである(中論13.2)。
空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた(中論13.8前半)。

ここ、中論では、虚妄な法がブッダによって説かれ、空性を説明するものであることが明らかにされる。空性とは見解からの離脱であるから言語表現されない涅槃への道となる。この空性は、第一義諦との関連を指し示すから、虚妄な法とは、もう一つの真理である世俗諦を示すことになるだろう。つまり、ブッダの教説である。世俗諦は、空性を説明するために必要とされる。世俗諦の虚妄な法が諸行であるなら、十二支縁起を順観して老死の苦へと至る。同時にそれが涅槃を説明するものであれば、第一義諦は老死から涅槃へと逆観をたどり、その道筋を示す真理となるのである。

これから、四聖諦によって十二支縁起の活用法が示される。世俗諦=虚妄な法→諸行→十二支縁起の順観、第一義諦=涅槃→空性→十二支縁起の逆観という循環が生まれることになる。おおっ! 痛快だ ! ――

 

四聖諦と十二支縁起

四聖諦
①.〈これ〉が苦である、というのが聖なる教えである。(苦諦)
②.〈これ〉が苦の原因である、というのが聖なる真理である。(集諦)
③.〈これ〉が苦の滅である、というのが聖なる真理である。(滅諦)
④.〈これ〉が苦の滅に向かう道である、というのが聖なる真理である。(道諦

この四つの諦 (真理) は、先ほどのブッダの公式 1.、2. に十二支縁起を組み合わせて作られた。ブッダの公式 1.「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」の〈これ〉には「苦である」と考えられるもの、出生、老、病、死などを挿入できる。2.「〈これ〉が生ずるから〈かれ〉が生じる」の〈これ〉が苦の原因であるという時の〈これ〉についてブッダは、5人の比丘たちに「渇愛」と教える。初転法輪の時のことだ。ブッダは煩悩を滅する智を得た時、このように説いている。

〈これ〉が苦であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の原因であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の滅であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の滅に向かう道であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の原因であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の滅であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の滅に向かう道であると、ありのままに証智した。
(『マッジマ・ニカーヤ/パーリ語経典 中部』)
これを繰り返すことによって、十二支縁起の無明から老死に至るすべてを滅ぼして解脱へと導かれるのである。

 

「~が(ある)とき‥‥」真理表5

真理表5 (ために)は僕が勝手に挿入しました。

〈これ〉ならば〈かれ〉、P⊃qという含意を表すのが真理表5である。真理表3も含意だが、縁起を表していたのに対して真理表5は原因を見つけるために用いられる。「苦しみがある時 (その原因である) 渇愛がある」を導く。

論理学で「pならばq」と「qならばp」はどちらも含意で形式的にはどちらも承認される。これを相依相関と呼んでよいのかもしれないが、真理表3の接続詞を出発点とした時、「これがある時」という時間が導入された。時間が組み込まれると相依相関はあり得ない。因果関係は、時間を含み原因と結果の不可逆の関係を示している。

苦しみの原因である〈これ〉に入るものを求めていくのが四聖諦におけるの真理である集諦である。「何があるから苦しみがあるのだろうか」と考え、貪るような欲望である「渇愛」を見つける。つまり〈苦しみ〉が頭に浮かんだあと〈苦しみ〉⇒〈渇愛〉という関係が示される。龍樹の言う了因 (知らしめる因)、すなわち理由付けである。そして、その原因として真理表3における「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」に、〈渇愛〉⇒〈苦しみ〉を当てはめることができる。それは、生因と呼ばれる。原因から結果への導かれる表現は「〈渇愛〉があるとき〈苦しみ〉がある」となる。このようにして因果関係が明確にされるのである。

命題論理学では、この真理表5は p⊃q (Pならばq) という含意の複合命題であり、条件命題と呼ばれている。pはqの十分条件(内包関係)で、苦しみは渇愛の十分条件となる。qはpの必要条件(外延関係)であり、渇愛は苦しみの必要条件となっている。ついでに言うと「内包」とは、その概念を成立させているいくつかの本質的性質の全てを指し、「外延」とは、その概念が適用される対象の範囲を指している。

 

対義語・相対語の「~が(ある)とき‥‥/すると」真理表7

真理表7 対義語・相対語が使われる時に用いられる。

命題論理学では、等値とよばれる接続詞「すると」が使われるが、この真理表7では、対義語・相対語を使うときの接続詞「~があるとき‥‥」として用いられる。真理表5では、「苦しみがある時 (その原因である) 渇愛がある」とした。まず、〈苦しみ〉が頭に浮かび、その原因である〈渇愛〉が続く。その後、「(原因の)〈渇愛〉がないとき苦しみはどうだろうか」と考える。これが、自然な思考の流れだろう。修辞の問題かもしれないが、言葉の自然な流れから言うとブッダの論理学においては、真理表7の最下段Ⅳは、〈これ〉と〈かれ〉が入れ替えられるという。

〈これ〉があるとき〈かれ〉がある。たとえば、〈長い〉があるとき〈短い〉があるように。さらに〈短い〉がないとき〈長い〉は存在しない。自性ならざるものだからである。(龍樹『宝行王正論』1・48,49)。

 


その他の接続詞として真理表の 8、9、10 が、解説される。接続詞「または」を表す真理表10は、真理表2と同じく論理和であるが、排他的論理和と呼ばれる。真理表8は「そして」という接続詞にあたり、真理表9は「善・不善・無記」というような分類を導く特殊な例として挙げられる。


 

~かつ(または)‥‥ 真理表10

真理表 8 9 10

真理表2で「または」については、既に説明している。「バラモンよ、その乳粥を青草の少ないところに捨てよ、或いは生き物のいない水の中に沈めよ(スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集)」などの文に見られる。真理表10も「または」という接続詞が使われるが、排他的論理和と呼ばれる。P EOR qと記号化されている。真理表2との違いは、Ⅰが偽(F)になっていることだ。

有かつ無である行為者が、有かつ無なるそれ(行為)をなす、ということはない。相互に矛盾している有と無が、どうして一つのものとしてあるだろうか(『中論』8.7)。

排他的論理和の集合

真理表10のⅠは、「有」であり、かつ「無」であるものは「一つのものとしてあり」えないので偽(F)とされる。排他的論理和であるために、Pかつqである部分は除かれるのである。

伝統的論理学では、一般にこの排他的論理和が使われる。例えば、ABが相反するものなのに、「AかBかどちらか」という時「AもBもどちらも」というのは日常的な使い方に反する。一方で、命題論理学では真理表2の論理和の方が使われる。というのも同一命題の選言のケースがあり「雨が降るまたは雨が降る」は「雨が降る」で真になるからである。

 

真理表8は、接続詞「そして」である。この「そして」も真理表2で見たように時間的な縛りがあるので、けっして〈これ〉に入る単語や文と〈かれ〉にはいる単語や文を入れ替えてはいけない。

真理表の9~16は、ほとんど使われることがない知られざる世界であり、名づける接続詞がない。9は用例があるので紹介されている。

 

事態が 起こっている/起こっていない 真理表9

真理表9

真理表9では〈これ〉に楽を入れ、〈かれ〉に苦をいれるが、Ⅰ~Ⅳの順がⅡ~Ⅳのように入れ替えられる。真(T)は、それぞれの事態が起こっている。偽(F)は、それ自体が起こっていない、あるいは、成り立たないを表している。Ⅰのように相反するものが両立されている場合は、成り立ち得ないので、感受について何も述べられない。

このうちアーナンダよ、「感受がわたしの自己である」とこのように述べる者は、彼にとっては、次のようなことが言われなければならない、「友よ、これら三種が感受である、楽である感受、苦である感受、楽でも苦でもない感受である。あなたは、これら三つの感受のうち、自己に対してどれを認めるか」と(ディーガ・ニカーヤ/パーリ語経典 長部)。

真理表9のタイプの文は「世俗諦」には含まれるが「第一義諦」には含まれない。それは、「善であるか、または善であらざるものか、または、そのどちらでもない」という法の説き方のタイプに属するからで、「善・不善・無記」という分類の仕方になっている。これに対して「非善門・非不善門・非無記」を述べるのは、摩訶般若波羅蜜多経であるという。何故なら『大智度論』では、摩訶般若波羅蜜多経は第一義悉檀 (しつだん)、つまり第一義諦の特徴を述べているからであると石飛氏は述べる。

 


「縁起」の接続詞を中心にブッダの論理をご紹介した。その論理学のもとであらゆる事柄を記述できるが、西洋の論理とは異なる部分が当然ある。経典に書いてある通りに知りたいなら言葉を操る「虚妄なる法」である「世俗諦」を知らなければならない。それは、ブッダの公式と十二支縁起から四聖諦という活用の方法論から誕生したのである。ここで、ブッダの最後の言葉を取り上げる。


 

クシナガラの地におけるブッダ最後の言葉

ブッダ終焉の地 クシナガラ インド

滅する性質のものは、諸所の事象である。怠ることなく修行しなさい(ディーガ・ニカーヤ/パーリ語経典 長部)。

ブッダの臨終の言葉をパーリ語の語順で訳すとこうなる。ブッダは、臨終において「滅する性質のもの」を想起する、そして、それを「諸所の事象(行)である」とした。ということは、普通、「滅するものの性質=諸所の事象 (行)」と読む。人は誰でも死ぬものなのだから、嘆き悲しむなとブッダが弟子たちに述べている言葉だと勿論、捉えることができる。しかし、もう一つの別な解釈ができるのだと石飛氏は述べている。十二支縁起では、行とは無明を原因とし、その結果生じる形成・志向作用、すなわち物事がそのようになる力であって、そこから縁起が順に識 → 名色‥‥生 → 老死と展開されていく。

すると、諸所の事象(行)を「形成作用」ないし「志向作用」と読むことが可能となる。「滅するものの性質は、形成・志向作用(行)である」と読める。無明 → 行(形成・志向作用)であるなら、逆に見ると行が滅する時、無明も滅するということになる。すなわち、これは涅槃を意味するという。こうして「涅槃をめざして修行を怠るな」という意味が浮かび上がってくるのである。なるほど臨終を前に弟子たちに残す言葉であることが窺える。

こういう意味の繋がりを考える時、語順を変えてはいけないという著者の主張は、説得力を持つ。ブッダの文は「法」とされる語を主語として、時間の流れに沿った、あるいは、思考の順に従った語順で考えられなければならいというのである。ブッダの一つの文の中には、いくつもの動詞や目的語が並列して語られることがよくある。中村元氏は、詩としての形態からそうなっていると見ているが、それらは、多くが似たような表現であるために繰り返しに見える。しかし、石飛氏は、翻訳時に語順や配置には注意が払われたことはないという。実際には一つ一つに意味があり、ブッダには明確な説明の意図があるというのである。

僕が何故、石飛さんの著書を大きな感動をもって読んだのかは、次回part2で述べることにしたいのだけれど、このようなアプローチが仏教に対して可能であるということは特筆に値する。西洋論理学との比較に関する点ではかなり無理もある。本書における筆者の意図は、ブッダの論理学を体系化することでも西洋論理学と折衷することでもないようだ。次回は龍樹の『中論 (根本中頌)』を中心に、第一義諦に迫りたい。

 

 

 

順観 無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触(そく) → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死
世俗諦と虚妄な法と十二支縁起の順観は、一つの真理(諦)に名づけられた異なる名である。

 

付録 十二支縁起(桂紹隆、五島清隆 龍樹『根本中頌』より)

1. 無明→行  無明という煩悩に覆われた者は、三種の(善・不善・不動/身・口・意の三業)を行い、それらの業ゆえに天界から地獄界までの次の行き先(趣)に赴く。
2. 行→識→名色   (一切の能動性/業)を縁として (好き嫌いなどの識別作用・認識作用)が生まれ、行き先に定着する。すると名色が活性化する。

3. 名色→六処  名色 (認識の対象一般とその名称)が活性化すると 六処(眼耳鼻舌身意の六つの感受器官)が生まれ、同じく活性化した六処に至って、六処(感覚)とその対象と、(認識)の三者の (対象との接触)が起こる。
4. 例えば、眼根(視覚器官)と色境(視覚対象) と注意集中とを縁として、つまり名色を縁として眼識(視覚による認識)が起こる。

5. 名色+識+六処→触→受  色境(視覚対象)・眼識(視覚的認識)・眼根(視覚器官)三者の出会いがである(他の五つの感受器官においても同様)。そのから(感受)が起こる。
6. 受→愛→取 受を縁として(渇愛)が生まれ、人は、欲取・見取・戒禁取・我語取という四つの(執着)に囚われる。

7. 取→有  取(執着)があると執着する者には(輪廻的生存)が起こる。実に人が執着を持たないなら、その人は解脱し新たなを持たないであろう。
8.9. このとは五蘊(色・受・想・行・識)のことである。から新たなが起こる。老死の苦をはじめとして、愁・悲・憂・悩、これらすべてがから起こる。このようにしてまれることから純粋な苦の集まりが生じるのである。

10. だから、愚者は輪廻の根本である諸行を行う。業をなすものは愚者であり、賢者は業をなさない。賢者は真実を見るからである。
11. 無明が滅すれば、諸は生じない。無明の滅は、まさにこの縁起による知の修習にある。
12. 十二支縁起の先行する要素が滅することにより、後続する要素は生起しない。かくして、純粋な苦の集まりが正しく滅せられるのである。

逆観 無明 ← 行 ← 識 ← 名色 ← 六処 ← 触(そく) ← 受 ← 愛 ← 取 ← 有 ← 生 ← 老死

無明が完全に残りなく離れ滅することによって、志向作用(行)が滅する。志向作用が滅することによって識別作用(識)が滅する。識別作用が滅することによって名称と色形(名色)が滅する。名称と色形が滅することによって六つの感覚があるところ(六入)が滅する。六つの感覚が滅することによって接触(触)が滅する。接触が滅することによって感受作用(受)が滅する。感受作用が滅することによって渇愛(愛)が滅する。渇愛が滅することによって執着(取)が滅する。執着が滅することによって生存(有)が滅する。生存が滅することによって生まれること(生)が滅する。生まれることが滅することによって老いること、死ぬこと(老死)、愁い(愁)、悲しみ(悲)、苦しみ(苦)、憂い(憂)、悩み(悩)が滅する。このように、これらすべての苦しみの集まりの集起がある(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部12.3 石飛道子 訳)。

 

参考図書

石飛道子『ブッダ論理学の五つの難問』2005年刊 ブッダの論理学の基本編

龍樹『根本中頌』を読む 桂紹隆、五島清隆 『中論』のとても良い訳と解説がある。

西澤潤一・上野勛黄『人類は80年で滅亡する』 温暖化の果てにあるもの

松澤宥(まつざわ ゆたか/1922-2006)
80年問題9番より  2002年 
この作品はご家族の許可を得て掲載しています。

「80年内に人類は滅亡する。」このテーマを知ったのは科学雑誌でもなく、新聞記事でもなく、松澤宥(まつざわ ゆたか)というアーティストの作品だった。2000年に本書が出版されているから、作品にこのメッセージが使われたのは、この後からになるだろう。松澤さんは、知的でエレガントで優しい人だったけれど、パフォーマンスの写真とかを見る限り、なんと厳しそうな人なんだろうと思っていた。彼の訴える内容から考えれば、当然のことだったかもしれない。

概念芸術の創始者とか巨匠とか言われる人だ。何故か、松澤さんの晩年にお付き合いさせていただいた。2004年に広島市現代美術館での展覧会に一緒に参加させていただいたのは、とても楽しい思い出になっいる。概念芸術というのは物質の痕跡をできるだけなくして言語を中心としたコンセプトとパフォーマンスを芸術の手段とするアートを指している。メッセージアートにも通じるものがあるが、1960年代から70年代にかけて世界的な展開を見せた芸術運動だった。

本書『人類は80年で滅亡する』は CO² 増加による地球温暖化に警鐘を鳴らした著書の一つである。人類滅亡、つまり、「終焉の開始」を告げる警告の書として異彩を放っていた。まず、現状を知っていただくために気象庁が発表している年平均気温の変化と水位の変化を見ていただきたい。

世界の平均地上気温の偏差(1850-2012年)気象庁

世界の平均気温の偏差は、西暦の第一位が1の年から30年間の平均気温、例えば1961年から1990年までの平均を基準にその年の平均気温がそれからどれくらいズレているかの偏差をグラフにしたものである。これは、10年ごとに更新される。温暖化を背景に右肩上がりになっているのだが、過去30年に比して異常でも次の30年では平年並みになってしまうということを頭に置いておいてほしい。2018年では、1981年から2010年までの30年平均値からの偏差が+0.73℃で1891年の計測以来過去4番目に高い数値になっている。

世界平均海面水位 1900~1905年平均を基準にした世界平均海面水位の長期変化 気象庁

海面の水位も軒並み高くなっていることが分かる。氷河や極地の棚氷がどんどん縮限して太平洋の小さな島が無くなりそうになったりしているのも頷けるのではないだろうか。ベネチアの冠水は、地下水のくみ上げによる地盤沈下によるだけのものではないだろう。気温にしても海面水位にしても大きく変動し始めていることは間違いない。この原因を科学者たちがどう見たかということが一つの大きなポイントになる。

筆者たち――ノーベル物理学賞候補者とエコシステムのスペシャリスト

筆者たちの内、西澤潤一氏は1926年生まれ。東北大学工学部卒業後、同大学で教鞭を執られた。この間に東北大学電気通信研究所所長、同大学総長を務め、同大学の名誉教授であられる。1968年より半導体振興会半導体研究所所長を務め韓国などの半導体産業に大きな影響を与えた。日本学士員会員、ロシア・ポーランド各科学アカデミー、韓国科学技術アカデミー外国人会員など世界各国で認められた科学者だった。日本学士院賞、Jack.A.Morton賞、文化勲章、IEEE(米国電気電子学会) Edison Medalなど多数の受賞歴を持つ人だ。2002年にはIEEEがJun-ichi Nishizawa Medalを創設している。主な著書に『技術大国・日本』『未来を読む』『背筋を伸ばせ日本人』のほか多数の専門書を執筆。ノーベル物理学賞の候補者といわれたが惜しくも受賞を逸した。2018年に亡くなっている。

西澤潤一・上野勛黄
『人類は80年で滅亡する』2000年刊

上野勛黄(うえの いさお)氏は、1938年生まれ、明治大学大学院博士課程を修了後、ドイツのブラウンシュバイク工科大学、テキサス工科大学大学院などで学ばれ、欧米の大学の教授や研究所の研究員を歴任された。東京大学大学院で教鞭を執られた後、衆議院特別職政策担当公務員、エコシステム研究会会長、ウェイスト・リリース研究会幹事などで地球環境の問題に取り組んでこられたようだ。アレキサンダー・フンボルト・フェロー。20世紀業績賞、国際平和賞を受賞されている。主な著書に『エコシステム農法の奇跡』『水の再発見』『海洋深層水パワー』などの他、専門論文が多数ある。

 


まず、地球温暖化のプロセスの中でどのように二酸化炭素が働いているのか。そして、それはどのように地球の中で循環しているのかをみていきたい。


 

地球温暖化物質の二酸化炭素

太陽からの放射エネルギーは、大半が地球の大気や地表で反射されて宇宙空間に放出されるけれど一部が大気圏内の何種類かの気体に吸収されて地球にとどまる。それらの気体のことを温室ガスないし、地球温暖化物質というわけです。代表的な温室ガスは水蒸気と二酸化炭素だが、ほかにメタン、亜酸化窒素、特定フロンCFC-12などもある。今、問題なのは温暖化係数が最も高い二酸化炭素だが、炭素Cと酸素Oの接合部に太陽の放射エネルギーが入射すると、そこが励起されアコーディオンのように振動する。それが静止状態に戻るときに赤外線が放出され、温暖化のエネルギー源の一つとなる。

しかし、このような温室ガスが存在するために地球の大気は適正に保たれてきた。今、それが過剰になりつつあるのだ。地球より太陽に近い金星は二酸化炭素を中心とした分厚い大気があり、その濃度は地球より高く地表温度は400℃となっていて、地球より太陽から遠い火星では、大気はほとんど二酸化炭素だがその濃度が薄く赤道付近の平均気温は-50℃と極寒となっている。地球は絶妙なバランスの中にあるのだが、それは見えない循環に守られている。

地球を循環する二酸化炭素

数値については各研究所でかなり差があるが、二酸化炭素の貯蔵量は、大気圏に約7400憶トン、生物圏には推定で生体として5500憶トン、枯死体として1兆2000憶トンで計1兆7500憶トン余りとなっている。これに比較して海洋圏は大気圏の270倍の質量と1100倍の熱量を持ち、二酸化炭素の貯蔵量は大気圏の47倍、34兆9300憶トンの桁違いの貯蔵量を持つといわれる。大気圏と海洋圏とが混ざり合うのは海面から150メートルまでの表層で、この海洋混合層で二酸化炭素などが吸収され地球大気は浄化されるが、逆に水温が1℃上がると海洋から二酸化炭素100憶トンが大気圏に放出される。それが気温を上昇させ、また水温を上昇させるという悪循環となる。海洋は二酸化炭素の吸収に大きな影響力を持っていた。

1.生物ポンプ――植物性プランクトン

様々な種類の珪藻 光学顕微鏡写真 外・内殻は珪酸で出来ている。

本来弱アリカリ性の海洋には二酸化炭素が溶けていく。その溶け込んだ二酸化炭素から光合成によって有機物を作っている植物性プランクトンは二酸化炭素の海洋への取り込みを加速させる生物ポンプの役割を担っている。

代表的な植物性プランクトンは珪藻と円石藻であるが、珪藻は平均10~20ミクロンほどで円石藻の5倍くらいの大きさがあり、有機物の生産量も多い。珪藻を食べて育った動物性プランクトンや魚の糞の量は極めて多く、マリンスノーと呼ばれる降下物には炭素が多量に含まれる。

これに対して円石藻は5ミクロンと小さく、その殻が炭酸カルシウムで出来ているため、周囲の海水は酸性に傾く。弱アルカリ性の海水に溶けているはずの酸性の二酸化炭素は、大気に戻されることになる。本来二酸化炭素を吸収する作用を持つ「アルカリ・ポンプ」は、珪藻の「開花」と呼ばれるような繁殖に適するような栄養状態の良い海域で極めて活発となる。珪藻が繁茂するような海域は、深層水が湧昇するような栄養分に富む海洋か、大量の栄養分が表層に補給されるような海域である。北西太平洋は冬に深層水が太陽光の届く表層に涌昇する。冬は表層の水が冷やされ深層水と混ざりやすくなるためである。そのような海域で二酸化炭素は吸収されていくのである。

2.深層海水の沈み込みと海洋ベルトコンベアー

海洋のベルトコンベアー 本書より

グリーンランド西方の北極圏であるラブラドル海周辺では、海水が冷やされ密度が高くなり、氷が生じる時に塩分が放出されて海水が重くなり、沈み込む。この沈み込みは、アマゾン川100本分の海水量を幅100キロメートル、秒速10cmで深海へ送り込み、深層流を作る。それは地球の自転の影響で西に向かい、北米、南米大陸の東岸に沿って南下して南極海の深層流と合流した後二つに分かれて、インド洋と北太平洋で浮上してより暖められ表層で二酸化炭素を十分に吸収しながら暖流となって再びグリーンランド沖へと流れてゆく。沈み込みから浮上までの期間は約2000年といわれ、その間に二酸化炭素は海洋深くに引き込まれる。浮上時にはマリンスノーとして降下したリンや窒素成分の豊富な栄養素を運び上げて珪藻などの植物性プランクトンを繁殖させるのである。海洋ベルトコンベアーは、温度制御にとって極めて有効なシステムとなっていた。それは、奇跡の地球ラジエーターと呼ぶべきものなのである。

 


ここで、ほとんど知られていないのではないかと思われる二酸化炭素の有毒性が紹介され、温暖化が加速するとどのような地球気候変動のシナリオが想定されているかが述べられている。何故、温暖化がそれほど深刻な問題なのかが理解できる。


 

二酸化炭素中毒症

二酸化炭素で中毒症状が現れることはあまり知られていない。二酸化炭素は大気中に通常0.03%含まれているが、火山性ガスの発生や密閉された倉庫でのドライアイスの気化、穀物貯蔵庫などでの球根、大豆、木材などの呼吸・発酵による酸素欠乏と二酸化炭素の増加などにより中毒症状を引き起こすことが知られている。火山性ガスによる中毒症状の例としては八甲田山での訓練中に自衛隊員の死亡事故が起きていて、それが二酸化炭素によるものと推測されている。大気中の割合いが0.5%以上になると労働衛生上の許容範囲を超える。文献によって幅はあるが2%~3%を超えると視力障害、耳鳴り、チアノーゼ、呼吸障害が生じ、6%を超えると意識レベルが低下し10%で意識喪失が起きる。これらの値は、短期間に高濃度の二酸化炭素に曝された場合であって、後遺症が出ない二酸化炭素の「脱出限界濃度」は5%で、それも30分以内とされている。高濃度で長期にわたって常時曝されると空気中の二酸化炭素が3%を超えるだけで人間を含む哺乳類は絶滅すると筆者らは訴えている。つまり、現在の100倍の二酸化炭素量である。そうなるまでに最短で150年しかかからないだろうという。その他、これから起こるかもしれないカタストロフィーや進行中のリスクをご紹介する。

西澤潤一・上野勛黄
『「悪魔のサイクル」へ挑む』2005年刊
『人類は80年で滅亡する』の続編

その他、地球気候変動によるリスク

1.海洋ベルトコンベアーの停滞と寒冷化カタストロフィー

急激な温暖化は、各地の氷河を融かし、北大西洋の塩分濃度を薄め、海洋ベルトコンベアーを働かなくさせるのではないかと考えられている。沈み込みが21世紀の中頃には現在の三分の二程度まで浅くなり、停滞の可能性が指摘されているのだ。海洋ベルトコンベアーが停止し、冷たく重い海水が留まったままになると両極が再び広範囲に氷結しはじめ氷河期のような状態に戻ってしまう可能性がある。氷は太陽の放射エネルギーを海面に比較して4~8倍の量を反射するし、海洋の表面で下の海水の温度を逃がさない蓋の役割をする。このような過程が進むと「温暖化が引き起こす寒冷化」というリスクが生じるのである。そうなると適正な農地の位置は地球規模で変化縮小し、深刻な食糧危機が訪れる。

2.急速な温暖化と森林破壊

自然の生態系のリズムからするとわずか200年の間に平均気温が2.5℃から3℃も上昇するような温度変化は考えられなかった。植物はその温度変化に応じて移動を余儀なくされるが『地球白書97-98』によれば、その必要とされる移動年間速度は赤道を中心に南北へ1.5~5.5キロメートルの速度が指摘されている。樹木が移動するには不可能な数値となっている。アマゾンでの大規模な焼き畑農法や東南アジアなどでの森林伐採とプランテーション農法が森林の荒廃に拍車をかけているが、熱帯林は熱帯地域全体で1981年からの10年間で年平均1540ヘクタール、日本の国土の約40%ほどの面積が毎年喪失している。森林が荒廃すれば樹木に固定化されていた二酸化炭素は大気中に放出されることになる。森林は二酸化炭素の吸収源だけでなく今や放出源にもなりつつある。

3.温室効果ガスと気候変化

海洋は大気の約1000倍の熱容量を持ち、陸上より遅れてゆっくりと温度変化してゆく。比熱の最も大きな水は熱的な慣性を持ち、動き出すと止まりにくい傾向があると考えられる。温室効果ガスは一度、大気中に排出されると長期間大気中に留まる。仮に温室効果ガスを現在(2000年)の数値、炭素換算で約100憶トンにとどめることができたとしても大気中の濃度は少なくとも今後200年間は上昇し続ける。2100年には約500ppm(大気中の0.05%)に達するといわれ、数世紀にわたり気温や海面の上昇をもたらす。それに、気温が2℃上がると、海面水位は50cm上昇するといわれる。気象面では、雨の降る地域、その降雨量が極端に変わり、利水や治水の方法を変えざるを得なくなる。台風の発生が増え、異常高温、洪水、高潮、干ばつなどの異常気象、広範な森林火災、中緯度での砂漠化などが世界各地で頻発し災害が大規模化する。すでに現在、その兆候が現れている。この結果、食料の増産地域と減産地域が生じ、新たな経済格差と貧困地域の発生、それに伴う飢餓の発生と難民の増加が懸念されている。

二酸化炭素濃度変化1987-2019 気象庁
グラフは三か所の観測地点での計測結果 波があるのは、夏に光合成が盛んで二酸化炭素濃度は低く、冬は逆に高くなるからである。ppmは100万分の一のこと。420ppmは大気中の二酸化炭素濃度が0.042%を占めていることを表している。

 


二酸化炭素の増加は温暖化の原因ではなく、その結果だという説もあるのでご紹介しておく、だが、実は二酸化炭素が原因であろうとなかろうと温暖化が進めば破局のシナリオがあるのだ。


 

二酸化炭素の増加は温暖化の結果に過ぎないのか

気温変化とCO²濃度変化の関係(キーリング 1989)『CO²温暖化説は間違っている』より

槌田敦(つちだ あつし)氏は、物理学、経済学の研究者だが、二酸化炭素の増加が温暖化の元凶ではないと主張してきた人だ。その根拠にはいくつかある。その著書『CO²温暖化説は間違っている』からご紹介する。

1.ハワイのマウナロア観測所の気象学者キーリングのグループが発表した気温変化とCO²濃度の関係グラフから気温上昇の波の後、半年から一年遅れてCO²濃度が高まる波が続いている。このことから温度上昇がCO²を増加させたのであってその逆ではないと考えられる。

2.フィリピンのピナツボ火山の1991年の噴火によって成層圏に噴煙がただよって太陽光を遮ったために1992年と1993年は気温が上らなかった。そのために二酸化炭素の量も増えなかった。1992年から2年間、人間がCO²の排出をやめた訳ではない。人間の排出したCO²が消えてなくなったわけではないと考えられる。

3.温暖化が先でCO²濃度の増加が後であると考えるとエルニーニョの年は赤道付近の海面温度が上昇するので、その後にCO²濃度は上がるはずで、事実そうなっていることが確認できる。1964年や1992年のエルニーニョの年の直後ににCO²の濃度は上昇していないが、インドネシアのアグニ火山や上述のピナツボ火山の噴火によって気温の上昇が抑えられたためだと考えられる。

4.IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル/Intergovernmental Panel on Climate Change)によれば大気中のCO²の量は約7300億トン(2008年時点)であり、毎年約1200憶トンを陸と、約900憶トンを海と交換している。そうすると大気中のCO²は毎年約30%が入れ替わって大気中には70%が残ると考えられる。しかし、去年のものは70%の70%つまり49%が残り、一昨年分は70%の70%の70%で34.3%が残る。過去45年間に増加したCO² は化石燃料などの燃焼によって排出されたCO²の55.9%が大気中に「毎年留まり続けた」ためだとされているから、0.559×45年は25.2年分となる。しかし、さきほどのように計算していくと人為的に発生させた45年間のCO²が大気中に残る割合は本年分を加えても3.33年分となり、25.2年分の13%でしかない。残りは陸海からの自然増加分であるとしている。

二酸化炭素の増加は、化石燃料の莫大な消費などによる思慮があるとは思えない人為的な活動によって起こるだけではない。それを契機に、地球の多様なシステムを変調させることによっても起きているのだ。おまけに化石燃料の消費は年々増加している。

槌田敦『CO2温暖化説は間違っている』

自然増加分というのは主に海洋から発生したCO²であろうというのは槌田氏もこの著作で述べている。温度上昇の波よりもCO²濃度の波が遅れるというのは、海洋が暖められるのは大気中よりも遅れるからではなかろうかと思われるが、そのタイムラグが半年から1年であるかどうかは僕には分からない。海洋が温まると大量のCO²が解放されるというのは前に述べた通りである。これらの論拠から気温が上がっても地球は安泰だと槌田氏は述べているわけではない。

海洋ベルトコンベアーの停止による寒冷化カタストロフィーについては言及されていて、深刻な食糧難と大量の難民の発生というシナリオはある。槌田氏は、温暖化の原因を大気汚染のほうに見ていて、温暖化物質としての水蒸気や地球の水冷化システムの方を重視しているようだ。ただ、槌田説には致命的な欠点がある。二酸化炭素の有毒性についての言及がないのである。呼吸困難になる前に、仮に13%であろうとなかろうと二酸化炭素を減らすべきではないか。

 


古生物学者のピーター・ダグラス・ウォードは、その著書の中で、こう述べている。過去の大量絶滅の多くの原因は、微生物たちであった。けれども微生物たちを増殖させて空気や海を容赦なく汚染したのは高等生命であった点において、高等生命もこの共犯者あったと。今、人間がすべきことは、炭素や硫黄や窒素の循環に直接介入して高緯度地域に常に氷冠が残るように温度を保ち、モンスターたちを無力化することだと述べている。私たちは、生物圏を延命させることのできる唯一の生物だと述べる。この著書の冒頭には寒冷化の事態が何をもたらすかが書かれている。


寒冷化の思考実験

ピーター・ダグラス・ウォード
『地球生命は自滅するのか?』 珪酸塩と炭酸カルシウムのフィードバック理論が紹介されていて注目。母なるガイヤとは対照的な子殺しのメデイア(メデア)のよう地球の側面が紹介される。

「‥‥氷にわれていない赤道地域でも多くの樹木種が死に始めて、樹木やその生態学的構造に依存する複雑な食物網が破壊されていく。この食物網は密生する小枝の間に張られたどのクモの網よりもはるかに複雑なものだ。雨林でも乾燥林でも、樹木は急速に枯れて倒れる。そして、その後にはよくて草や雑草が生える程度で、その他の場所は岩がむき出しになり、そこに生きていた動植物は死に絶え、それが存在していたという化石記録さえ残る可能性はほとんどない。死をもたらす変化の過程は陸地に限られていない。陸の植物が死ぬにつれて、河川に詰まった腐った植物が海に流れ込み、養分が豊富になるので短期的には生命の大増殖が起こる。だが、酸素が使い果たされるとその大繁殖は終わり、腐敗した植物は酸素のない海底に沈み込み、大規模な富栄養化をもたらす。大量の有機物が腐ると、周囲の水に含まれる有効酸素は使いはたされてしまう。陸上の樹木の死が、いっそうの影響をもたらす。根がなくなると土壌は風や雨に運ばれ、最後は海底に落ち込む。大陸に近いところは巨大な海底の扇状地が形成されて、かつては安定していた海底の群落を覆って窒息させる。移動することのできる無脊椎動物は、それほど破壊的でない水中の地滑りならば抜け出せすことができるが、動けない動物相には助かる見込みがない。‥‥」(ピーター・ダグラス・ウォード『地球生命は自滅するのか?』長野敬・赤松真紀訳)

読んでいると気が滅入ってくるのだけれど、一度は読んでみてほしい。先に述べた微生物が大量絶滅の元凶というのは、温暖化によって赤道から極地までの温度勾配がなくなると海流や風の流れが滞り、海はやがて酸欠状態になる。そのような海域では、猛毒の硫化水素ガスを発生させる細菌が地層に痕跡を残すほど繁殖したのである。本書の最終章では温暖化の問題が取り上げられているが、彼が最も懸念しているのは海面の上昇にある。過去、二酸化炭素濃度が1000ppm、つまり大気中の0.1%を超えると概ね氷のない世界が訪れた。グリーンランドの氷が融けるに伴い海面は6メートル上昇し、南極の氷が融けると70メートル上昇する。気候学者デーヴィド・バティスティによると現在の二酸化炭素の増加量を考えると1000ppmに達するのに最短で95年、最長で300年だろうと予測されている。それから長期にわたって徐々に海洋の酸欠が起こり始めるかもしれない。

 


『人類は80年で滅亡する』に戻る。海洋や極地付近のメタンハイドレートが崩壊すると、温室効果係数で二酸化炭素の24倍というメタンの雪崩的な発生が起こる。これが最悪のシナリオである。地球は過去6憶年の間に生物の大量絶滅を6回経験している。筆者たちは、7回目の危機がもうすぐそこに来ているのだ言うのだ。


 

最悪のシナリオ――メタンハイドレートの崩壊

科学技術が発達すると不幸が起こるから、もう科学の発展は必要ないのではないかという意見もひところ盛んにあったし、今でもそう思っている人もいるだろう。原子爆弾の開発に飽き足らず毒ガス・サリン、劣化ウラン弾、キラー衛星などの開発、度重なる原発事故などなど科学に否定的になる気持ちも分からなくはない。兵器は論外としても、その使い方が悪いのである。筆者たちは「科学技術が悪いのではなく、技術が未完のうちに世にだすから弊害が起こる」のだという。バックミンスター・フラーが開発する前に考え抜けと言っていたことに通じる。確かに自動車が最初に開発された時、燃料に電気を使うものと石油を使うものの両方のタイプが開発されていた。結果としてガソリンを使用する車両が世界中で使われるようになったが、世界中の人間がガソリン車に乗ったらどうなるかということは考えられていなかった。世界規模で技術の開発を考えるということは必要なことだったのである。

本書の著者たちが最も恐れているシナリオはメタンハイドレ―トの崩壊である。それは、メタン分子CH⁴を水分子が取り囲んで固まったシャーベット状あるいはゼリー状の物質で火を付けると燃えることから「燃える氷」と呼ばれている。マリンスノーとして海底に積もった有機物は嫌気性分解して最終的にメタンとなる。海洋から大気中に放出された残りが海底でメタンハイドレートを形成するわけだ。

地球全体の大気中のメタン経年変化 気象庁

2019年のメタンの大気中濃度は約1.88ppmで、2005年ころから再び急上昇している。問題なのは、このメタンハイドレートと極地付近の永久凍土層のメタンが炭素に換算して10兆トンもあり、そこから大気中に解き放たれるメタンは温室効果係数で二酸化炭素の24倍のポテンシャルを持っていることである。そして、海底に溜まったメタンハイドレートは、大陸のプレートの移動に伴って海溝付近など窪地に溜まりやすい。おまけにそこは、プレート同士がせめぎ合う地震発生地帯と重なり易いのである。8000年前のノルウェー沖でマグマの上昇による地滑りで表出したメタンハイドレート層を暖い海流が洗ったために埋蔵量の3%にあたる3500憶トンのメタンガスが大気中に放出されたと推定されている。今もメタンの噴出跡がクレーターとして残っているという。もし、この量が再び放出されたとすると地球の平均気温はわずか10年で4℃上昇する。

世界の研究機関は、化石燃料に代わる最も有力なエネルギー資源として、このメタンハイドレートを研究中だというが、日本近海の埋蔵量が100兆立法メートルあり、それは日本の天然ガス使用量の約1600年分に相当すると言われる。問題なのは、このメタンハイドレートが温度や圧力の変化に敏感で、例えば温度1℃~2℃の変化で急速に崩壊し、ガスと水に分離するからである。有用だが危険なのである。海底の石油層は多く天然ガスやハイドレート層の下にあり、いわば、それらに蓋をされていて、掘削がその蓋に達した時に膨大なガスが一気に噴出して大爆発が度々起こっている。掘削基地であるオイル・リグの破壊が20世紀だけで40基以上にのぼるといわれる。他方、シベリアのような凍土地帯で森林が切り倒されると、凍土が融け始めそれに含まれる天然ガスやメタンハイドレートのメタンが大気中に放出されるのである。

地球誕生後、大気の80%は二酸化炭素であったが、海洋で、その約半分が炭酸カルシウムである石灰岩が膨大な量形成された時に消費され、大気圏上層の水蒸気は太陽のエネルギーによって水素と酸素に分解され他の元素と反応してメタン、一酸化炭素、水、二酸化炭素に合成された。35憶年前にシアノバクテリア(藍藻)によって光合成が始まり酸素が作られ始め、海水中のミネラルと炭酸カルシウムとを結合させストロマトライトと呼ばれるドーム状の石を形成した。やがて30億年前ころから植物の光合成によって大量の酸素が生み出される。それから今日に至るまで、地球はけっして平穏無事ではなかった。

6億年前から現在までの酸素と二酸化炭素濃度の推移
『「悪魔のサイクル」に挑む』より

主要な生物の大量絶滅は、過去6億年のあいだに6回起こっているが、原因は色々といわれる。6億~5憶年前、ゴンドワナ超大陸の分裂が始まる。新生物が大量に発生したカンブリア紀に差し掛かる前の時代である。地球創成期を除いて、人類がまだ登場していない自然の生態系の歴史の中で二酸化炭素が大気組成中最も高かったのはこの時期で、現在の700倍の26%、海面は現在より200メートルも高かった。5憶4000年前、旧来の生物はほぼ絶滅した。

 

今後の気温変動と二酸化炭素濃度の行方

IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告では2100年に大気中の二酸化炭素濃度は0.07%になると予測しているが、これには海洋圏からの増加分が含まれていない。危険要素を列挙しておく。

1.海洋植物性プランクトンが珪藻から円石藻主体になると気温は、2100年には現在より2.8℃上昇して二酸化炭素濃度は0.085%となり、現在のほぼ2倍となる。

2.メタンハイドレートの崩壊が8000年前と同じ規模起きたとすると、10年で気温を4℃押し上げ二酸化炭素濃度を160ppm上昇させる。

3.海洋圏の氷の融解は気温を20年で2℃上昇させる。二酸化炭素の排出量が今日のペースで続き温暖化が停止しなければ21世紀の半ばには深層海流の流量は現在の三分の二に減少し、沈み込みの深さも半分になる。22世紀になって二酸化炭素濃度が0.14%まで上昇すると深層海流は停止する可能性があるが、それが、超温暖化をもたらすか逆に寒冷化をもたらすかは神のみぞ知る。

地球号という乗り物の他に人類の乗り物はない

グレタ・トゥーンベリ スウエーデンの環境活動家 気候変動学校ストライキなどの活動で知られている。

さて、化石燃料の消費によって生じる二酸化炭素などの温暖化物質の増加だけでも問題なのだが、事はそう簡単ではないということが御理解いただけたのではなかろうか。温暖化の問題は地球の深層海流の循環や海洋の植物性プランクトンの活動、同じく地中の微生物による活動などと密接にかかわっている問題である。温暖化が進行すれば、二酸化炭素の量は増え続ける。その量が3%を超えるようなことがあれば、7回目の生物大量絶滅に発展する可能性がある。メタンはウシや羊といった反芻動物たちのゲップからも発生するから、それらの大量の家畜たちの存在も無視出来なくなるだろう。そして、最悪メタンハイドレートが大量に崩壊するとすれば、21世紀末を基準にその数十年前後で二酸化炭素の大気中の濃度が3%を超える日がやってくる。それが、本書のタイトルの由来になっているようだ。その時、人類は姿を消す。

グレタ・トゥーンベリというスウェーデンの若い女性がこの温暖化問題に抗議して話題になっている。主訴は自分たちの未来を保証してほしいということにつきるだろう。現在のツケは次世代の子供たちに確実に回ってくる。そのため彼女は15歳の時に温暖化対策を取らない大人たちに抗議するためにスウェーデン議会の前に座り込む「学校ストライキ」を始めた。世界中の若者たちの賛同を得て、ストライキは各地に広がっていったようだ。地球号という乗り物の他に人類の乗り物はない。まず、早急に我々がすべきことは温暖化対策に真剣に取り組まない政治家は落選させることだ。一国の利害に執着している場合ではないのである。

二酸化炭素の排出量の推移と予測 『人類は80年で滅亡する』より

二酸化炭素やメタンガスの影響は非線形性の正帰還現象である。つまり正のフィードバックループに陥って現象を加速度的に助長してしまう。後戻りできない。世界の化石燃料の消費は、資源エネルギー庁の試算では1971年から2015年の44年間で約2.2倍に増加している。地域別ではアジア太平洋地域の増大が著しいし、燃料別では石炭、石油、天然ガスともに増加している。それに伴って、大気中の二酸化炭素濃度の増加は指数関数的に増加しようとしている。もうすでに後戻りできない臨界点を超えるとも超えたとも言われているのだ。

最近閉幕した(2019年12月)地球温暖化対策の国連会議COP25は、190を超える国や地域が参加し、スペインで開かれた。代替エネルギーへの転換が進まず、石炭による火力発電が増えようとしている日本は白い目でみられていたらしい。そのCOP25では、温室効果ガスの削減目標を引き上げるよう各国に促す記述や、来年から始まる温暖化対策の国際的枠組みである「パリ協定」の実施ルールの一部を巡って意見の収集がつかず、40時間にわたる会期延長の末、国の事情に応じて前進させ可能な限り高い野心を持つという掛け声に終わった。削減目標の引き上げは、この会議の成果文書にはついに明記されなかったのである‥‥80年内、人類滅亡。

 

世界平均地上気温の予想 気象庁 IPCC第五次評価報告書より
RCP2.6は、気温上昇を2℃に抑えることを目標として考えられた温室効果ガス排出量の最も少ない予想シナリオ。RCP8.5は排出量最大を見積もったシナリオである。北極地域は世界平均より速く温暖化し、海上より陸上の方が気温が高くなる。

 

 

ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part2 象徴学への遠望

今回はツヴェタン・トドロフの『象徴の理論』を取り上げています。本書では、象徴は記号学の視野の中で意味喚起の機能を巡る問題として扱われるのですが、それを前提にお読みください。しかし、この後半で、トドロフは象徴体系の歴史を追いながら、この象徴が古典主義に対抗する美学原理にまで発展していくことを明らかにしていきます。

 

ロマン派の騎手 意外にもモーリッツ


ロマン派の理念は、モーリッツによって確立されていた。そこには、芸術が自然の模倣から逃れ、それとは独立した存在であることが言祝がれ、作品は部分と全体との調和の内に成り立つという古典主義的な美の理論が再確認される。そして、対立物の調和・反対物の融合というもう一つの原理は、ロマン主義美学を特徴づけるものとなった。しかし、ノヴァーリスやシュレーゲルらのロマン派の理論は当時の状況より一歩も二歩も前進していた。そこには、現代にまで通じる積極的な意味が隠されていた。


 

後半はロマン主義的美学理論の萌芽をすべて携えていた人、その人はヘルダーでもルソーでもヴィーコ、シャッフツベリでもない、カール・フィリップ・モーリッツが俎上に上がる。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルはモーリッツが芸術における模倣原理を最も高度に使用したとして激賞したが、惜しくも神秘的迷路に迷い込んだと述べている。一方でシェリングは、モーリッツが一番最初に神話をそれにふさわしい詩的な絶対的性格を含めて表現したと、またもや激賞するが、最終的な完成度に至っていないと述べ、彼にゲーテの影響が濃いことを指摘した。‥‥う~ん、謎の人

しかし、トドロフは、モーリッツの重要な著作『試論』がゲーテと出会う前年には完成していたことを指摘する。いかに、ゲーテが恩着せがましく述べようとモーリッツの功績は霞まないのである。それに、シュレーゲルのモーリッツ評には模倣の概念に関する美学の混乱があるという。当のシュレーゲルが、後の『芸術の理論』では模倣の原理を徹底して批判している。この混乱については、それにまつわる主だった理論をpart1の最後で述べたので繰り返さない。

モーリッツ像 ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティッシュバイン画

モーリッツはこう述べる。「美の性質は、内在的存在が思考の能力の限界を超えて躍り出るところに、自らの生成のなかにある」と。こういった美の非合理的側面と生成の行為に関する関心の偏りは、ロマン主義が表象(再現)と世界の関係ではなく、芸術家と作品の関係、つまり表出の関係を重視してきたことに対応している。彼は美が快楽を与えるという有用性を否定して、美とは無用なものであることを出発点とした。有用ならそれ自体の外側に目的があるが、美は外部の如何なる正当化も必要としない。美の目的はそれ自体の中にある。例えば、歩行には普通それ自体とは別の目的があるが、飛び上がりたい気持ちを押さえられないような喜びは歩行をそれ自体に戻してしまい、それに拍子が取られれば舞踏が生じるという。‥‥手の舞い、足の踏むところを知らず‥‥

芸術の目的が自然の模倣ではなく美の創造であるなら芸術は自然よりも優れているという結論に至る。それに、彼は部分と全体の調和という古典主義的な美の原理も標榜する。それに、もう一つ、美の原理があった。芸術作品を特長づける内部の整合性は、作品の精神的側面と素材的な側面、内容と形式といった相反するものを融合・総合する。ここでモーリッツは「最高の悲劇的美は相反するものの並置によって形成される」とした。神話の進化の頂点にあるギリシア神話のイメージは相いれない反対物を吸収し高める総合能力によって特徴づけられると述べるのだった。

諸芸術の間では美は翻訳されえない。芸術のメッセージはポエジーや絵画などによって表現可能であるが、普通の語が述べる能力、考える力の限界を超えたものを表現する。そこで、あらゆる芸術の特性が唯一の概念、ロマン主義者たちが象徴(シンボル)と呼ぶものに集約されていく。そして、モーリッツにおいては、あるものが美しいと言う限りにおいて、それは何ものをも意味すべきでなく、その外側にあるものについて何も語るべきでない。自己自体によって記号表現となるべきだという。

ノヴァーリス自筆稿 
『ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン』

ノヴァーリスはこのように述べている。「ポエジーの本質が本来何であるか誰にも定義できないであろう。けれどもそれは無限で単純な整合性である。」ポエジーと音楽と数学との間の無数の同一視が始まる。言葉は観念にとって音楽の楽器であり、フーガは全く論理的、科学的であり、代数はポエジーであったのだ。ここで、全体と部分をどのように解釈するかという問題が起きてきた。内部の整合性は、個別と全体との調和にかかっている。個別は全体の認識を前提とするが、個別的なものは一つずつしか把握することはできず、全体を一度にはとらえられないからである。シュレーゲルの弟子であったアーストは全体の各部分は同時に全体のイメージであり、全体は部分の中に既に与えられるとしたのである。シューレーゲルは循環的方法と呼んでいたようだ。‥‥これがフラクタルの話なら申し分ないけど

さすがにノヴァーリスは詩的にこう述べる。「各瞬間ごとに含まれる普遍的なものは失われない。なぜなら、それは全体の中にあるからだ。どの瞬間にも、どの現象にも全体が働いている。人類という永遠なものは偏在する(断章-1979年まで 48/青木誠之 他訳)。」

カントは、こう述べた。美的観念は任意の概念に連なった想像力の表象であり、その想像力の自由な行使は多様な部分的な表象を結び付ける。そのため一定の概念を示す如何なる表現もこの概念を表すことはできず、言語に絶する多くのものを考えさせる。その感情は認識能力を活性化し、言語の文字に精神を吹き込むと(『判断力批判』)。美的観念は芸術が表現するものであって、いかなる言語もその芸術と同じものを表現できない。しかし、その中心にある言語を絶するものの代わりに周辺的な連想を無限に言いたてることはできる。つまり、美的観念を運ぶ形式は美的属性というわけだ。言語に絶するものは、言葉の過剰を、記号内容による記号表現の氾濫を引き起こす。ここで思い出してほしいのだが、part1で述べたようにアウグスティヌスは、聖書解釈の濫が多様な言葉の置き換えによって起こることを強く警戒していた。ロマン派では、逆にそれが正当化されるのである

一方で、天上的なものは間接的にしか語れないというオリゲネスやアレクサンドレイアのクレメンスに見られる考え方があり、芸術と宗教性との類似があった。ここでは、至高のものは寓意によってしか表現できないと考えられていた。寓意による表現方法と神的な内容を持つメッセージの方法とは相互に連帯し始める。こういう意味で、シュレーゲルにとって寓意は他のロマン派の場合のように象徴とは対立しないものだった。寓意であれ、象徴であれ、それを用いることは、芸術を言葉で表現することの不可能性に根差していた。そこで批評は、モーリッツの言うようにそれ自体をポエジー、音楽、絵画とすることで可能となる。ポエジーはポエジーによってのみ批評され、小説は小説によってのみ批評されうる。こうしてノヴァーリスやシュレーゲルにとって創作は批評活動となるのである。‥‥これは現代にも大きな影を落としていると思います‥‥がノヴァーリスやシュレーゲルらの初期ロマン派と後のロマン派ではかなり様相を異にするので注意

作品が自足する存在であるなら、ポエジーにおける言語の使用は遊びに過ぎなくなる。言語の本質は、言語自体のことしか構わない。そこでは、作家が言語を使用する者ではなく、言語に使用される者となる。ノヴァーリスはこうして未来の美しく純粋な創作をこう述べる。「夢のように、話の筋が支離滅裂であるがさまざまな組み合わせがあるもの。ごく単純に言って完璧に調和のとれた詩編、完全な言葉の美しい詩編、しかしまた首尾一貫せず、いかなる意味もなく、せいぜい二つか三つの分かりやすい詩節からなり――この上なく多様な事物純然たる断章のようなものであるべきである。本物のポエジーはせいぜい大まかな寓意的意味を持ち、音楽などのように間接的効果を生み出しうるのである(断章)。」‥‥これは、ちょっと嫌な予感がする‥‥鴨長明は「言葉にあらはされぬ余情」を追求した結果、朦朧とした歌体になった

 

ゲーテ登場 ロマン派の香り


象徴と寓意とは、どう異なるのか。なかなか見極めがたいものがある。それを鮮やかに差異化したのはゲーテだった。それは、図らずもロマン派の価値一式と手を携えることになる。ゲーテは、一部ロマン派だというトドロフの指摘もなるほど頷ける。


 

1790年まで象徴という言葉は、寓意、象形文字、数字、謎といった言葉の類義語でしかなかった。現在一般的に使われている寓意と象徴についての解説をいくつか取り混ぜてご紹介する。

サンドロ・ボッティチェリ 『不屈』
不屈の寓意像、甲冑や剣といったエンブレムが重要な要素となる。

寓意とは、他の物事に仮託して、ある意味をあらわすこと。抽象的な事柄を具体化する表現技法である。狐は狡猾の、天秤は平等の寓意となる。文学作品、造形作品に仮託する場合もある。文学作品の場合、一般的に同系列の隠喩を連続させて,たとえ話のような形式に構成される。たとえ話や寓話より複雑で長く,ある物語の展開が同時に別の事件や思想を組立て,両者の間に明瞭で継続的な関連が認められる場合を言うとある。その基本的手法は擬人法であり,人物が抽象的観念を表わす。これは『薔薇物語』のところでご紹介した。 理想の女性を〈薔薇〉に見立てた隠喩を展開させれば、奥処の薔薇に遭縫することは真理に到達することを意味していた。こうして、人生における真理を得るための戦いが寓意として成立するといった具合である。

象徴はこのように説明されている。一般に直接知覚できない事象を類似性や隣接性にもとづいて具象化したものが象徴である。この事象と何らかの関係を持つ第三者がそれに充てられるが、その対象との間の関係が例えば鳩と平和のように目や耳などで直接知覚できない意味や価値などを物や動物,ある形象など何らかの類似によって具象化したものに置き換える時、象徴と呼ばれる。心理学的には外的事物,事象を代表して表現している心理過程をさす。この意味では、心像ないし観念とほぼ同義である。精神分析においては,特に無意識の欲望などを表わす意識的観念,活動あるいは物体の意味で用いるとある。

象徴と寓意の対比を初めて行ったのはゲーテであった。有名な定式は、詩人が普遍を目指して個別を探すとき寓意が生まれ、特殊な個別の中に普遍的なものを見る時に象徴が生まれるというものだった。ゲーテにとって後者が本来の意味のポエジーであり、これを指摘したのは彼が最初だった。制作過程の違いが闡明にされる。寓意においては意味作用は必然的であり、作品の中のイメージは他動詞的、つまり他者を巻き込むことになる。ゲーテ風に解釈すれば、狡猾を目指して狐が探られる。象徴の中ではそのイメージが別の意味を持つことをそれ自体によって指示されない。平和を目指して鳩が探られるのではなく、鳩から平和等が想起させられる。本来のポエジーは、普遍的な基盤について考えることも指示することもなく個別を述べるが、それを生き生きと捉えることが出来る者には、同時に普遍的なものをそれとは知らずに後になって受け取るのだという。

『ローマ近郊におけるゲーテの肖像』1786~87年
(ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画)

また、後にこうも述べている。寓意は現象を概念に、概念をイメージに変形するが、概念はイメージの中に残り続ける。それゆえ、概念を完全に捉えることができ、それをもってイメージの中に表現できる。象徴体系は、現象を観念に、観念をイメージに変形する。しかも、この観念はイメージの中で常に果てしなく活発で捉え難く、あらゆる言語で表現されるとしてもそれは言語に絶するものとなる。老境のゲーテが指摘したことは、作品は、寓意においても象徴においても個別 → 普遍 → 個別という過程を経るが、普遍という抽象化の段階で、寓意が一つの理性的な概念に結ばれるのに対して象徴の中では観念にまで及ぶのである。つまり、象徴の方が複雑だと言っている。ここに象徴の絶対的優位が宣言される。

トドロフは、こうまとめている。寓意は、既成のもの、他動詞的、恣意的で純然たる意味作用であり、理性の表現とされた。象徴は、生産的であり、自動詞的であり、有縁化であり、反対物の融合にまで達し、その内容は理性では捉えられず、言語に絶するものを扱う。ゲーテの言う象徴は、ロマン派が標榜した価値一式に当てはまっていた。‥‥ゲーテは一部ロマン派だという指摘も頷けます

この象徴という語がロマン派の中でどのような位置を占めるかは以下の指摘で明らかになる。A.W.シュレーゲルは、友人のシェリングの「美とは有限な方式によって表象される無限である」という言葉を援用し、その中には崇高美も含まれると断りながら「美は無限の象徴的な表象である」とした。ロマン主義美学を一語に圧縮するとすればシュレーゲルの言うこの「象徴」という一語であるとトドロフは述べている。

 

象徴 メタシンボルか原始心性か


ロマン派以降の象徴の行方が取り扱われる。アウグスティヌスは、本来の記号と転用された記号という枠組みの中で寓意と同時に象徴機能を認めていたが、ゲーテは、寓意より象徴を前面に押し出した。これによって、象徴は修辞の方法の一つから美的原理にステップアップし、ロマン派において強大な力を獲得するのである。しかし、二つの矛盾する態度を生んだ。それは、象徴をメタシンボル化する傾向と原始的心性に押し込めようとする態度である。


 

オスワルド・デュクロ、ツヴェタン・トドロフ『言語理論小辞典』
言語理論の素晴らしい解説書になっている。

ソシュールによって記号と象徴(symbole)とは対立するものとされた。記号における記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)との間には必然性はなく、恣意的であるが、記号表現なくして記号内容はなく、その逆も真であるという意味で必然的なものと言える。り・ん・ごという言葉とりんごの意味内容との関係は恣意的であるが、その二つがセットでなければ意味をなさないという点で必然性を持つ。象徴には象徴するものと象徴されるものがあるが、この二つの間にも必然性はない。鳩と平和という語は本来関係性はない。しかし、そこには何らかの動機がある。こうした動機付けは心理学では類似と隣接というようだ。このような類似と隣接によって象徴連鎖が起こる。言葉によるコミュニケーションは、記号以上とは言わないまでも象徴の使用によっても行われるとトドロフは言う。今や、記号と共に象徴は意味喚起の二大形式の一つとなるのである。

だが、それは二つの矛盾する態度を生んだ。一つは、記号を象徴に変換しようとし、記号ごとに無数の象徴を結び付けようとする態度、そこから象徴のメタシンボル的確信が生まれる。これは説明する必要はないだろう。もう一つは、すべては記号であり、象徴は存在しない、ないし存在すべきでないとする態度であり、理性が言語活動を支配すると考える人たちは、象徴を動物、子供、未開人などの原始心性に特徴的なものだとした。レヴィ=ストロースは、呪術と科学を対立させるかわりに、認識の二つの方式として並列させるべきで、両者が前提とする心的操作の種類に関して違いはないとしたことはよく知られている。また、象徴の起源を原初の言語の残響だとみる態度に対して、トドロフは、自分の仮説は、人々が言語活動や言語的記号の起源とかそれらの初期状態を記述していると思いつつ、実際には現に存在しているそのままのかたちの象徴について暗黙に通用している知識を過去に投影しているのだと述べている。

象徴を原始的心性に押し込めようとする態度については、いくつか、面白い例があるので挙げておく。リュシアン・レヴィ=ブリュールは、原始的心性を提唱した哲学史家だが、象徴はそれが表す存在とか対象に、ある意味で、「なっている」ように感じられると述べた。表象することは、現実に目の前に文字通り出現させることだった。象徴はその存在に帰属しているためにその存在の一部なのである。このように象徴は、それが表している存在なり、対象なりを分有しているというのだ。インディアンは自分の名が単なる名札でなく目や歯のように自分の一部だと感じ、自分の名が悪意によって扱われると身体の傷が痛むのと同じように苦しむという例がある。トドロフは、我々現代人も全員インディアンなのかと問う。

未開人は、連続関係と因果関係を混同し、通行中に蛇が木から落ちたことと、その後息子が他所で死んだことを結びつける。この例に対して、ロラン・バルトが物語の原動力は、継起性と因果関係の混同そのものにあり、後からやって来るものが結果として読み取られるとし、それは論理的誤謬の組織的応用だとしたことを紹介している。そして、フロイトは夢が論理的関係を同時的なものとして示すと述べたことも付け加えている。‥‥ユングは好きじゃないらしい

レヴィ=ブリュールは、象徴使用の特徴は体系のないことだと指摘したが、トドロフは E.カイエの『象徴性と原始の魂』の一節を引いて反論している。「赤い月夜の晩に生まれた人々は王になるだろう」。赤が血と、したがって権力と連合させられる。血は権力の象徴表現(換喩による)だが、それは赤の象徴内容(提喩による)となっている。赤は血の象徴表現であり、月の象徴内容であり、正確には月のある時期の象徴内容(別の提喩)となっている。月のこの時期そのものが時間の換喩によってその時期に生まれた人間の象徴内容に変換される。各象徴表現がそれぞれの象徴内容となっていて、この転換は無限に持続する連鎖として展開されるかのようである。王も権力の象徴である。この連鎖は一つの象徴内容である権力の同一性のおかげで実現されるのであり、それは等価関係化と呼ばれる。‥‥おおっ! 象徴学してきた

象徴体系の操作におけるもう一つの特徴は多元決定である。再びカイエの著作が引かれる。「若い一人の原住民は最初の息子を失くしたので、二番目の息子をローライRoalahyと呼んだ。私が理由を訊ねたので、彼は次のように説明した。〈私がローライ (=二+男) と呼んだのは、息子が息子であり、また長男の代わりだからであるし、またその発音が、有名な白人だと思われるローランという名と似ているからである〉」。トドロフはこう付け足す。ジェームス・ジョイスは、したがってこういう手法の創始者ではない。象徴体系のどんな利用者もこういうことをしているのである。連綿と‥‥

 

象徴とフロイト〇 象徴とソシュール× 象徴とヤコブソン□


象徴に関連する問題提起としてフロイトの夢解釈とソシュールの「舌語り」との関わり、そしてヤコブソンの詩学が俎上に上がる。これらは、象徴がどのように彼らの思想と関係したのか、あるいは関係しなかったのかを検証している。フロイトの夢解釈と象徴の関係はすこぶる興味深い。


 

フロイトの象徴による夢解釈

フロイトは、機知や夢の研究を通して無意識に固有の特殊なメカニズムを述べた。夢は無意識の中ですっかり準備された象徴を利用するのであって夢の作業の中に特有な象徴活動というものはないという。そして、夢の作業とヒステリー症候の起源は同じであって、ある正常な思考に対する異常な心的加工は、幼児期に起源を持つ抑圧された無意識的欲望が正常な思考に転移した時のみに起こりうるとした。これは有名なテーゼとなった。だが、トドロフは、著名な言語学者バンヴェニストの論文を引いて、フロイトが確認したのは、伝統的な修辞学における言語学的な象徴体系の諸作用に過ぎない、フロイトはそれと気づかず「転義法の古いカタログ」を再発見したのだという。同時に、この時代の意味論という観点からはフロイトの『機知といった著作は最も重要なものだとも述べている。この著作では、言葉の圧縮、ほのめかし、間接的な表象、多元決定といった言葉遊びなどに関わる問題が考察されている。

フロイトにとって潜在夢から顕在夢に変形する作業が夢の加工であり、逆の作業である顕在夢から潜在夢へさかのぼる作業が解釈だった。この解釈において彼は、象徴の解釈法と連想の解釈法とを分けて、連想法という新たな分野を開拓している。連想法は、夢を見た人に夢の内容の様々な要素に関して気づいたこと、夢の断片が生む諸連想を話してもらうことである。自分の夢を自分が語るのである。夢を見る人の連想は、その人の生の特定の時期に固定されているので普遍性を欠いていて、一つの象徴的な表現は無数の象徴表現を湧き立たせる。観念連合は夢の一要素から複数の思考へ、一つの思考から複数の要素へと導かれるという。ここで、トドロフは、フロイトが夢の物語に続いて現れる連想に価値を置いたことを独創的だと評価する。象徴の隣接関係を記号表現による隣接関係と同一視したのである。しかし、フロイトは夢の象徴体系は夢に特有のものではないが、無意識の作用だと明言してはばからなかった。象徴表現は無意識の産物となったのである‥‥うーん、夢解釈を言葉の側から逆照射するとこう見えるのか。フロイトの象徴はロマン主義者のそれとは異なっている。ロマン主義者にとって象徴は翻訳不可能なものだった。ついでに言うとフロイトの解釈学は後に大きな影響を与えた

 

ソシュールと舌語り

ソシュールの「アナグラム」とロマン・ヤコブソンの「音素から詩へ」でご紹介しておいたが、ソシュールがあの華々しい講義の後、中年を過ぎて長い沈黙に陥ったこと、アナグラムや民俗学に傾斜していったことは謎とされている。そして、これもまた、奇妙なことだった。ジュネーヴのとある商店に勤めていたエレーヌ・スミスは入門希望者の何人かに交霊術の「実践上演」をしていた。精霊とのコンタクトで、彼女は、ある日、サンスクリット語を話したかと思うと、翌日は火星語だったりしたのである。だが、その交霊術の場で、その言葉を筆記していたのはフロイトの弟子であり、ジュネーヴ大学の心理学教授であるテオドール・フルールノワだった。彼は、ソシュールに彼女のサンスクリット語もどきや火星語の分析を頼み、ソシュールは実際にその分析をした。トドロフは、そのことがソシュールにとって象徴に接近するための貴重なチャンスだったと考えているが、ついに彼は、言葉の喚起や示唆の関係を体系化することなく袋小路に入り込んだままだったという。‥‥ソシュールにモノ申す‥‥ここが、本書を書く動機の一端になっている

舌語りあるいは、語妄想と呼ばれる現象が宗教から離れて医学や心理学の分野で研究されるようになったのは19世紀も半ばになってからである。トドロフは想像し難いことだがと述べながらソシュールがエレーヌ・スミスの言葉を熱心に研究したことを紹介している。ソシュールは、彼女のサンスクリットもどきはサンスクリットではないが、様々な音節のごた混ぜで、その中に8音節か10音節までの意味を持った文の断片が現れる、それら以外は理解不能だが、サンスクリットの単語一般形態に反したり対立してはいないと結論付けた。フルールノアがエレーヌ・スミス嬢に関する著作を発表した後、今度はヴィクトール・アンリという言語学者が彼女の火星語を研究した。

アンリは、言語活動が意識的なものであるとしても、それが駆使する手段は無意識的なものだと考えていた。彼は自分の考えを正当化するために例の夢の象徴論理を引き合いに出した。発明された意味のない言語は、実は他の語から派生したもので舌語りの言語活動は有縁的な言語活動だという結論に達した。その有縁化は無意識が行う秘密の仕組みの働きだというのである。

実は、舌語りには観察者全員を引き付けた特徴があった。頭韻法とリズムに関係する文彩が多いことである。音の形態の繋がりが問題となる。トドロフは舌語りの言説における象徴体系 (要素の繋がり方) は、通常の言語活動の持つ「意味」をなおざりにして構成要素間の関係を問う広義の統辞法を強めている結果だとみている。 火星語の éréduté は、フランス語の「孤独な/ solitaire 」を意味するが、アンリは éréduté を éréd と ut、そして é に分ける。éréd はドイツ語のErde (地球、大地)だがフランス語の同じ意味 Terre に近接し、ut はソの音階の名solから(実はこれはドの間違い)、é は近接した母音の i に変換されて solitaire となるとしている。アンリはこのように火星語を分析して見せた‥‥ご苦労様

 

ヤコブソンの詩学

ヤコブソンは、常に文学とは何かを考えてきた人である。彼は高校生の時、ノヴァーリスとマラルメを読んだ。‥‥Oh!、Bravo!‥‥  言語と詩を未来の研究対象に決めていた頃である。彼らは、言語に関する深遠な理論家であり偉大な詩人であり、それらが結びついていたことを知った。ちょうどその頃、フレーブニコフらの未来派やロシア・フォルマリスムという学派が誕生していたが、彼らの思想に見えるものは、すでにノヴァーリスの『独白』の中で十分に総合的な形の萌芽を見せていた。そのことが自分を驚かせ、魅了したと回想している。実際、詩の自動詞的性挌を「表現のための表現」と定義したのはノヴァーリスだった。トドロフは、ノヴァーリスの自動言語とフレーブニコフの自律的言語説を隔てる距離はわずかだとしている。ロマン主義における詩の定義はおよそ100年間忘れられていたが、20世紀の初頭以来、前衛的なすべての詩学の流派において、ロマン主義に反対する立場の人々においてさえ、合言葉となったという。‥‥ヤコブソンの原点は、象徴派⥹未来派にあったんだね

彼の研究は二つの方向に向かった。一つは、文学が描く「現実」ではなく「現実が描かれているという印象を与えるテキスト」を用いてその真実らしさを研究することだった。人が現実と呼ぶものは一貫した有縁化、つまり関係性の中から現われると考えた。ここらあたりが、象徴機能と関係するところだろうか。もう一つは、ある詩人の詩学の根本にある諸構造の特徴からその詩人の主題を演繹しようとした。ヤコブソンの興味は個々の文学事象を知ったり記述したりするための基礎をかちとることだった。そこでは、ノヴァーリスのように啓示を述べることも、サルトルのように敵を告発することもなかったとトドロフは指摘している。

ヤコブソンにとって文芸の科学が対象とするものは、文学ではなく文学機能であり、その唯一の主役は技法だった。技法とは言葉を事物あるいは観念の単なる代理としてではなく言葉自体として知覚させるために詩人たちが用いる全ての方法だと定義される。具体的には、文彩 (フィギュール)、時間空間との戯れ、奇妙な語彙、構文、付加形容詞、詩的転用と詩的語源、語呂、類義語と同音異義語、韻、語の分解などである。その中で、彼の注意を引くものは、様々な形の反復と並行性だった。そして、自動詞性を実現するための内的整合性がある。それらによって、詩は特別な固有の時間継起の中に入っていく。こうして、詩を聞く人は現実から引き出され、想像上の時に身をゆだねる。そこでは、言語が純粋な戯れとなり、韻律、テンポ、リズムといった言語内容とは無縁な法則に従うのだという。

トドロフは、言語の自律性を認めず、言語に固有の法則を探求することを拒絶する態度は、既に我々の文化に蔓延しているという。そういう風潮に対して、ヤコブソンの態度、どんな口実が与えられようと決して言語を知覚することをやめず、言語が透明性や「自然さ」の中に消えてしまうのを許さないという態度は、重大な思想的、哲学的意味を持ち、その重要性は市場に流通するあれこれの「思想」などよりずっと重いと断言する。ヤコブソンには、言語学者であると同時に大胆な詩を激しく生きようとする賭けがあるという。彼の言語理論には規範と例外の対立を認めないという特徴があった。もし、ある言語理論が良いものなら、それは無色の役に立つ散文だけでなくフレーブニコフの詩のようなこの上ない野性的な言語創造をも説明できるものでなくてはならなかったのである。‥‥トドロフにとって、ヤコブソンの情熱は導きの星だったか

 

象徴学は飛翔するか


トドロフ、最終章で岐路に立つ。


ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)
『象徴の理論』

ロマン主義が生んだもの、それは、諸現象間の徹底的な差異化であった。唯一の絶対的本質に対する探究の断念だったとトドロフは言う。決定的に重要なのは創作者と創造物との関係となる。自己表現を行う主体が多様であれば、多様な理想がある。多様性が重きをなし始め、歴史は不可逆的で還元不能な展開となる。ヴィーコやヘルダーが先駆けたが、これもロマン派の創案である。各時代は、それぞれ独自の精神、独自の理想を持つと考えられるようになった。言語活動に多数の機能があるように、芸術も同様であり、言語活動、芸術の立ち位置、階層秩序は、異なった時代や文化では同じままではあり得ない。古典主義のように、理想は一つではなくなったのである。

古典主義の理想は、事物と概念の不変で永遠の本質を信じることであり、一つの体系が歴史を支配する。時の経過の中で現れる変化は、予見された変化に過ぎず唯一の枠組みを変えない。ロマン派では、歴史が体系を支配し、唯一の枠組みは放棄される。変化は不可逆で差異は還元不能だという公準を打ち立てなければならない。ここで、トドロフは古典主義とロマン主義という二つの道の間で迷う。そこから何処へ向かうのか。‥‥記号学の問題から完全にはみ出してるぞ !

彼は、第三の道を模索できるのではないかと考える。それは類型的、多機能的、異形論的であろうと言う。それを可能にするのは言語活動の象徴学の構築ではないかと言うのだ。‥‥象徴学を新たな結合術にする道もあったかもしれないのだけれど‥‥この最終章でそれを具体的には述べていない。実は、後の『言語理論小辞典』の中で、象徴学が非言語的体系の記号学を形成する上で欠くべからざるものだと述べて、他の動機を吐露している。バンヴェニストは、音、色、映像に関するいかなる記号学も音、色、映像によって述べられることはないであろうと述べた。パースは、そんな非言語的な記号学を含めた総合的な記号学へ向かって努力したが体系化できなかったし、カッシーラの『シンボル形式の哲学』は、哲学の枠組みであって記号学のそれではなかった。トドロフにおいて、象徴の問題は、解釈学と間テキスト性の問題へと自然に拡大していくのだが、彼の関心は、文学へと引き戻される。『批評の批評』を経て他者との対話へ移っていくのだ。自己とテキストに見られる「他者の自己」との対話である。それが、どのようなものであるかは、ミハイル・バフチンをお読みになればよいと思う。

トドロフは、丁寧に象徴の歴史を追いながら記号や修辞についての知識を与えてくれている。言葉の「表現内容」は意味のネットワークが前提とされているということ。アウグスティヌスの隠喩、寓意、象徴といった「本来の記号ー転用された記号」は、言葉を結び付ける強力な手段であること。象徴に代表される転用作用は、テキスト間の意味喚起にまで及ぶこと。これによって形成される意味連合は豊饒な世界を形成してくれる。私たちが、多彩な意味のネットワークを掛けかえ合えているのはこのような言葉の機能によるということに気づかされるのだ。ボルヘスが、何故詩人たちがあらゆる時代を通じてありあわせの隠喩を使い続けるのかを問うたのもこの問題に結び付けられているだろう。隠喩は、象徴的喚起全てに潜む最も基本的構成関係を示している。そして、僕が思うに、特定の隠喩は意味のネットワークの結節点となりうる。それは巨大なクラスターになっているのだ。この意味のネットワークがテキスト内やテキスト間で勇躍する契機をトドロフは、象徴にみていた。

 

参考図書

ツヴェタン・トドロフ『象徴表現と解釈』
『象徴の理論』の姉妹編

本書では、言語における象徴表現から何故複数の解釈が生まれるのかが考察される。象徴表現と解釈とは切り離すことが出来ない。トドロフのいう象徴は、語・文からだけではなくインターテクストの中から意味を浮かび上がらせるような働きを指すようにもなる。アウグスティヌスの記号学が比較的詳しく、象徴の不確定性を巡るランボーやカフカの例など興味深い例が紹介されている。

 

 

 

ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1  記号の発生と象徴=交換能力

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)『詩という仕事についてついて』

ボルヘスは、こう述べている。「エマソンがその著作のある個所で書いています。図書館は、死者らで満ち溢れた魔の洞窟である、と。しかも、これらの死者は甦ることが可能なのです(『詩という仕事について』鼓直 訳)。」そして、「バークリー主教についてですが、私の記憶によれば主教は、リンゴの味覚はリンゴそのものには無く、―― リンゴ自体は味を持たない――リンゴを食する者の口の中にも無い、両者の接触が必要である、と書いています。一冊の本、書物の集まり、図書館についても同様です (鼓直 訳)」と。

仮に自分が素晴らしい詩の一節を作り上げたとしても、それらは、自分がしばらく前に読んだものの一節ではないかという思いに駆られるとボルヘスは言う。それが、また再発見にもつながるのだとしている。彼にとって世界は一冊の巨大な本、あるいはとてつもない図書館であったはずである。そこには無尽蔵の言葉があり、それらすべてはまた、何らかの繋がりを持っている。例えば隠喩は、二つの言葉を結び付けて作られる。私たちは信じられない数の隠喩を生み出すことができる。そこで我々は、考えるとボルヘスは言う。一体何故、世界中の詩人たちが、しかもあらゆる時代を通じて同じありあわせの隠喩を使い続けているのか?

今回は、このボルヘスの問いに何らかの回答を得るべくツヴェタン・トドロフの『象徴の理論』を探っていきたいと思っている。言葉が繋がりを持つための重要な要素である象徴の問題を取り上げる。本書は、冒頭において「象徴体系」という事象を考察してきた人々についての研究であると筆者のお断りから始まる。それに、対象とする象徴は言葉ではなく事実であるという。それは記号の特殊なケースであり、象徴の研究は記号の一般理論あるいは記号学(セミオティック)の領域に属するという。

ソシュール以降、記号のうち感覚に訴えるものを記号表現(シニフィアン)、記号に存在するある種の価値体系の空間を記号内容(シニフィエ)、この両者がセットになって意味作用と呼ばれてきた。鍵と鍵穴の関係だと思ってもらえばよい。表現と内容が合体した記号が、概念のカオスからある意味のネットワークの扉を開く。記号の内、最も大きな要素を占めるのは言葉だが、ソシュール以前では、言葉は既にある事物や純粋概念の「表現」でしかなかった。彼以降、言葉は「表現」であると同時に「意味」である。り・ん・ごという言葉が実物のりんごを示すような、記号と現実の対象との間にある指示作用は、この意味作用にとっては部分的なものでしかなく、り・ん・ごという言葉からりんごのイメージを思い浮かべるといった記号の使用者における心象の出現もその言葉の具体性に左右され、やはり限定的なものとなる。りんごの味覚は、リンゴそのものにもそれを食べる人の口の中にもないというわけだ。「愛」という一般的で普遍的な概念が予めあるのではない、もし、そうなら日本人の愛、フランス人の amour、英米人の love といった、全く同じとも、全く異なるとも言い難い言葉たちの意味は、正確に照応したはずである。「愛」という言葉は、広大な価値体系の中から「愛」に関系しないものを排除する。それは、布置とも呼ばれるが、「愛」に関する価値の束が残される。こういう意味で記号内容とは鍵穴なのだ。‥‥ソシュールの記号は三位一体というわけで‥‥やっと腑に落ちる‥‥そういえばパースの記号も三要素だったっけ

ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)
『象徴の理論』

ここで、トドロフにとって重要なのは、記号の持つ交換能力、つまり記号の象徴的な機能なのである。記号は、自らと全く異なる言語的現実を指し示す能力を持ち、その記号を他の言語記号に結び付ける(デュクロ、トドロフ共著『言語理論小辞典』)。象徴作用とは、同一レベルにある二つの記号の間の安定した連合のことを指している。例えば、「焔」はある文学では「愛」を象徴し、「お前は俺の相棒だ」という文は「親しみ」を象徴するといった具合である。もともと、記号における記号表現と記号内容には必然性はない。り・ん・ごという言葉と「りんご」という意味内容との関係は恣意的である。同様に、象徴するものと象徴されるものとの間にも必然性はないが、ある種の動機を持っているといえる。

これだけで、この込み入った本を読んでみたいと思ったのだが、なかなか困難な経験じゃなかったかなあ‥‥ 18世紀末、一つの危機の時代が訪れる。象徴についての考察は古典主義からロマン主義への転換点である50年の間に分離が生じたのである。

ツヴェタン・トドロフについては、ミハイル・バフチン 私とあなたの私との対話/結び合う記号のネットワークで少しご紹介しておいたが、ブルガリア生まれの思想家で、ロラン・バルトのもとで記号学を学び、フランスで活躍した。ジュリア・クリステヴァもまたブルガリアの出身でバルトのもとで学んでいたから同門だった。ロシア・フォルマリズムをフランスに紹介したことで知られ、ロマン・ヤコブソンに感化されて、「文学の科学」を目指した。『小説の記号学―文学と意味作用』で構造主義文学批評の嚆矢となり、シクススやジュネットとともに国際詩学研究誌『ポエティック』の編集委員を務める。これは季刊で文学や修辞、物語の構造などに関する文芸理論誌だったようだ。バフチンの影響か、対話批評に向かい、他者問題や異文化問題を主題にした『歴史のモラル』でルソー賞に輝いている。パリ第7大学を経て、フランス国立科学研究センターの芸術・言語研究センターで研究委員を務めた。デュクロとの共著『言語理論小辞典』は素晴らしいと思う。

 

記号学の発生


記号についての考察は、言語哲学、論理学、言語学、意味論、解釈学、修辞学、美学、詩学といった別々の伝統の中で無関係に行われた。記号学はアリストテレスを嚆矢とする。基本的には、音声と事物といった記号が、精神を媒介として意味を生み出すと考えられていた。まずは、記号学の黎明期を概観したい。


 

アリストテレス(前384-前332)
ギリシアの彫刻家リュッポス作のブロンズ像のコピー ローマ時代

「声によって発せられる音は精神の状態の象徴であり、書かれた語は声に出された語の象徴である。これらの表現が直接的な記号 (シーニュ) となっている精神の状態は万人において同一であり、精神の像 (イマージュ) となっている事物もまた同一である(アリストテレス『命題論』/及川馥・一ノ瀬正興 訳)。」

アリストテレスは、語を音声、精神状態、事物という三者の関係から規定した。精神状態は直接的な関係のない音声と事物を媒介する。精神の働きは、一方が他方の像(イマージュ)となるような有縁な関係性によって両者を結合するのである。有縁性と恣意性については巻末に説明しておいた。慣習によって意味作用を持つ音声が名詞となる。何物も自然に名詞となることはないとアリストテレスは考えていた。

言葉は、既にある事物や概念を精神の働きによって結びつける。言葉を記号と捉えたとしても、アリストテレスの言うようなイメージは、普通、今の自分たちが持つイメージに近いんじゃないか‥‥

ストア派の記号論についてはセクトゥス・エンピリクスの『定説家論駁』にその断片が窺える。記号内容 (シニフィアン)、記号表現 (シニフィエ)、対象 (オブジェ) の三つが結びつくとしている。ここでも音声と対象は物体的であるが、意味内容である語られるもの (レクトン) は非物体的なものである。しかし、記号という言葉は何故か使われない。問題にされているのは固有名詞であり、他の種類の象徴は考慮されていない。固有名詞は、指示能力はあっても意味はないからである。ストア派の徹底した唯物論の中でレクトンは例外的に非物体的である。それは、対象を指示するための記号内容の能力である。レクトンは概念やイデアではない。むしろ、レクトンの上で思考が働くという。レクトン‥‥OS

修辞学 間接的意味あるいは転義法

アリストテレスにおいて、隠喩あるいは言葉の転用は特に象徴的な構造ではなく、置き換えられた名詞によって事物を呼ぶこと、ないし、それを置き換えた名前で呼びながらその本来の名を言わないことである。アリストテレス門下のテオフラストスでは弁論術・修辞学は重要な役割を演じるようになる。転用の用語は一挙に増えて、転義比喩と寓意、及びイロニーとフィギュールが登場する。偽ヘラクレイトスでは、あることを述べ、しかも述べられていることとは別のことを意味する文体の文彩は寓意という名で呼ばれる。‥‥文彩は転用の技術だったか

解釈学

解釈学の伝統は著しく困難なほど広範囲・多岐にわたる。それは、直接と間接、明快と晦渋、ロゴスとミュート(話、筋、寓話)といった二つの系統の対立から生まれた。理解と解釈という受容の二つの対立的な様式の一方である。例えば、ホメロスの詩や聖書といったテクストの注解と占術などの多様な形体での予見というものに代表できる。アリストテレスは「隠喩を上手に作るためには(事物の間に)類似を確実に認めることである」と述べる一方で、「夢の最も巧妙な解釈者は夢の類似を認める能力のある人である」と述べている。解釈学の伝統の中に記号学への試みが現れるのは、アレクサンドレイアのクレメンスを待たなければならない。彼は象徴的領域の統一性を極めて明快に述べている。「隠されないものは一つの手段で知覚される‥‥曖昧に表現されたものからは複数の意味を引き出すことができる。」‥‥文彩の技術は多様化をもたらすということか

アウグスティヌスの記号体系

聖アウグスティヌス(354-430)
マルク・アルシス作 1715 ノートルダム大聖堂

アウグスティヌスはある目標に到達しようとする過程で記号の理論を顕わにする。彼は聖書におけるテキストの解釈に身を捧げ、その解釈学が修辞学を吸収した。彼の記号学についての総合的オリジナリティ――あるいはむしろ全世界的教会的性格といった方が良いかもしれないが――は巨大だった。それは西欧思想の歴史上、記号学に値する最初の体系だったのである。

「記号とは、それ自体を感覚に示すものであり、それ自体の外にさらに何かを意識 (エスプリ) に示すものである。話すということは、分節された音声の助けを借りて記号を与えることである」としている。アウグスティヌスによって、言葉が記号であるということが確認された。‥‥これは大きい。そして、記号がもともと感覚しうるものと理解されうるものという二重性を持ち、記号それ自体の中に非同一的な要素があることが明らかにされる。

言葉は、指示と指示作用という記号と事物との関係性を持ち、同時に、話し手と聞き手という関係性も持つ。初めて、コミュニケーションとしての枠組みが主張される。話し手と聞き手とのコミュニケーションの枠組のなかでは言葉 (パロール) の助けが必要である。話し手は意味を抱き、ついで発音し、聞き手はまず音声を把握し、次いで意味を知覚する。これは、ストア派では欠けていたものであり、アリストテレスでは曖昧だったものである。アウグスティヌスにとって言語活動は本来音声的なものが優位にあり、聴覚が視覚よりも優位にあった。

ヴェルブ verbe(言葉)は、それを発音し考える時と、魂の中で認識の対象と共に刻印される時とは別の種類のものと言える。後者の言葉は諸人種の言語に属していない。我々が既に知っているものから発して形成される思考は心の奥で発音されたヴェルブ verbeである。この前言語的な内的ヴェルブというものにも二種類あり、認識の対象によって魂の中に残された痕跡と神を源泉とする内在的認識である。以下に示すこのような流れになっている。‥‥しかし、内的ヴェルブってレクトンのこと?

神の力 → 内在的な知+認識の対象 → 内的ヴェルブ → 思考される外的ヴェルブ → 発話される外的ヴェルブ

アウグスティヌスは『キリスト教教程』の中で記号 (しるし) を細かく分類したが、それらを現実的に調整はしていない。この記号は、言葉だけでは当然ない。記号は、自然的 (無意志的) なものと意図的 (意志的) なものに区別できる。自然的記号とは、煙が火の記号、同様に獣の足跡が獣の記号となり、人の怒ったり悲しんだりしている表情はその人の意図と関係なくその気分を表す記号となる。身振り動作なども或る種の記号となることを指している。それは意図や欲求なしに自発的に、記号そのものとは別の何ものかを指す。

福音書記者の象徴 作者未詳
マタイ=人、マルコ=獅子、ルカ=雄牛、ヨハネ=鷲

意図的記号は、あらゆる生物がその魂の動きを、つまり考えたり感じたりしたことの全てを、自分に可能な範囲で示そうとして、互いに作っている記号である。意図的な記号には、人間の語があり、動物が食物のありかを告げたり、発信者の存在を知らせる叫びなども含まれる。アリストテレスの場合、このような叫びは如何なる約束事も制度も必要としないとして「自然的」とみなされていた。アウグスティヌスにとって意図的記号は、記号として使用するために作られた事物である。学習や制度、約束事を含んでいた。彼にとって意図のあるなしが重要であって、それは、またしてもアリストテレスの「慣習的」記号とも異なるのである。それは、昔から何となくそうなっているものではなかった。この区別はアウグスティヌスに独自のものだったのだ。

聖書解釈においては、少なくとも言葉通りの本来の意味とキリスト教教義における比喩表現としての二つの意味があった。一つの記号は、その記号内容が今度は記号表現となる時、転用となる。「牛」という言葉を聞けば、この名で呼ばれる動物が念頭に浮かぶが、聖書では「牛」は福音書記者の一人、ルカを表す。一般に解釈においては、未知の記号が別の良く知られた記号に置き換えられる必要がある。アウグスティヌスにとって聖書の言葉の多くには、霊的意味が隠されているのであって、それを発見することが困難であればあるほど発見の喜びは大きかった。このような解釈を行う中で、意図的‐非意図的、慣習的‐自然的、といった区分は本来の記号‐転用された記号といった対立関係の中で再び考察されることになる。

『アウグスティヌス著作集』第六巻
 教文館 1988年刊 加藤武 訳
「キリスト教の教え(キリスト教教程)」

しかし、この転用は解釈の増殖を招く。霊的な意味は頂点にあり、次に寓意的意味が来て、言葉通りの字義的、物質的意味になるという階層構造が存在した。意味されるものが予め知られていないとその記号が何か分からない。記号が認知されれば解釈できる。しかし、アウグスティヌスは、何者も記号によっては学ぶことができないという。実在についての知識がなければ記号の解釈ができないからである。実在を教えるのは神でありキリストである。哲学者ルイス・マッキーが『アウグスティヌス〈教師論〉における信仰と理性』で上手に説明してくれている。あらゆる記号は、結局別の記号を意味するという連鎖を果てしなく繰り返し、記号を用いることによって実在の意味を知ることはできないのではないかという懐疑が持ち上がる。言葉は、たらい回しという構造的な危うさを抱えている。ここで、アウグスティヌスは受肉した言葉、つまり記号であると同時に記号の意味 (記号と実体的に同一の意味) であるような言葉を想定するのだと。

トドロフは、記号と象徴の対立関係を基礎づける試みは、ヘーゲルやソシュールによって再開されるが、すでにアウグスティヌスによって乗り越えられていたという。‥‥うーん、記号が福音している、トドロフが前半で言いたかったのは、ここかな

 

古代ローマから18世紀へ・レトリックの推移 


ローマの帝政への移行に伴い、弁論術としてのレトリックは衰退し、美しい修辞技術として脚光を浴び始める。それは、美しいポエジーの術と欺瞞の術という二つの価値観に分離していった。


 

アリストテレスは、レトリック(本書でレトリックという場合は、弁証法と修辞学、両方を含む)が、それぞれの対象について可能と思われる説得手段を見つけるための力としたし、ストア派も弁証法的な「正しく話す」を弁論家的な「うまく話す」から峻別したという。しかしながら、レトリックの技術は古代末期以来、美辞麗句演説の作文学となった。それも前近代では、個性的なるものよりはるかに類型的なもので、その技術を用いるための厳格な規律が不可欠だった。賛辞のための美辞麗句で糊口をしのがねばならなかった後期ソフィストたちにとっては、厳格な規律から言葉の誇張、過剰へと傾斜していったのは世の習いであろう。やがてレトリックに虚構というレッテルが貼られるようになる。

タキトゥスにとって弁論が何か現実に役立つ限り、それは進歩していたのであって、それが可能になるためには言葉が力を持つような自由で民主的な国家でなければならなかった。しかし、ローマは、共和制から帝政へと移行したのである。権力は諸制度に依存するのであって、集会には属していなかった。ビザンツ世界でも同様であって、ハンス・ゲオルク・ベックは『ビザンツ世界の思考構造』の第三章「古代弁論術とビザンツ美術」の中で極めて上手にまとめている。‥‥この本は、美文で訳も抜群だった

クゥィンティリアヌス(35頃-100頃)
『弁論家の教育』

レトリックの第二期は、1世紀のクゥィンティリアヌスから19世紀初頭のフォンタニエまでとなる。文彩や転義法の効果について考えることは、もはや他人への効果を考えることではなく、表現と思考の関係や内容と形式の関係、つまり言語の内部機能へとシフトしていった。言語の精髄に迫り、文体の秘密を極め、観念や思考と表現の真の関係を知るのである。レトリックは言語の祭典となったが、緩慢な衰退、堕落と窒息へと向かっていく。

ラテン修辞学を確立したクゥィンティリアヌスは、思考は構想に関わり、語については措辞を、思考と語両者については結構を考慮しなければならないと述べたが、彼にとって文飾は道徳的に非難される対象でしかなかった。教示と感動は構想と結構に大きく左右され、感動は措辞としか結びつかないとトドロフは、指摘する。20世紀の言語学者であるビューラーやヤコブソンは「教示」は指示へ、「感動」は受信者へ、「快楽」は発話それ自体に導かれるとした。ここでは、話者の表出的機能が欠如しているが、主体が俎上に上り始めるのは、実はロマン主義以降である。

レトリックが、どのように見られていたか少し、例を挙げておこう。クゥィンティリアヌスは、言説は男性であり、粉飾された言説は男娼だと述べている。ロックは『人間悟性論』の中で、レトリックという誤謬とペテンの道具が公然と教えられていることを非難し、弁論が美しい性 (女性)にも似てその魅力は、はなはだ強力で、それに反論することすら許されず、人々が喜んで欺かれるこうした欺瞞の虚偽をいくら暴き立てても無駄であると書いている。‥‥ケチョン、ケチョンだ

イマヌエル・カント(1724-1804)
生誕250年記念切手 横顔は、かなりイメージと違う

ついでに、カントは『判断力批判』の中で、純粋に形式的美である詩について語る。美しいポエジーは、自分に常に純粋な満足を与えてくれたし、雄弁と典雅な話し方とは芸術に属する。しかし、弁論術となると、人間の弱点を自分の意図のために(その意図が善意によるものであろうとなかろうと)利用する技術であるから少しも尊敬に値するものではないと述べている。

有効な弁論という目的は失なったが、膨大な規則の集大成としてのレトリックは残った。それは、言説の美にのみ関わるが、同時に人々が喜んで欺かれるような技とされ、自己欺瞞に陥った。この第一の危機に続く次の危機がやってくる。万人に共通な基準であった宗教の基盤は揺るぎ始め、貴族階級という既存の特権階級は終焉を迎える。奉仕されるべきものはいなくなり、各人が第一に奉仕されるべきものとなるとレトリックは、読む者のためのものとなったのである。カントやノヴァーリス、シェリングが、美はそれ自体で自足するものと定義するようになる。これが、ロマン主義以降の第二の危機であった。それでは、レトリックは、今度こそ言語の祭典に奉仕するものとなるんだろうか‥‥

 

ロマン派前哨戦 芸術は記号か?


修辞が終わる時、美学が始まる。ロマン派に至るまでには三段階の美学があったが、そのうち二つの原理はよく知られたものだった。一つは模倣(ミメーシス)、もう一つは部分同士・部分と全体の調和という作品内部に築かれる美の原理である。そして三つ目は、新たに有縁化される記号としての美の原理が登場する。


 

イデオロギーのもろさが突然明らかになると、その学問の探求において正しいと認められていた価値基準に根本的な変化が生じる。その変化は、その学問における細部の観察や説明の質をなきものにしてしまう。18世紀における修辞学がそれだった。デュ・マルセやボーゼは文彩や文の一般構造を研究し、コンディヤックもまた文彩の研究を行った。ちょっと面白いのは、デュ・マルセやボーゼが隠喩の中では言葉は本来の意味と比喩的意味の二つを持ち、寓意においては本来の唯一の意味のみを持つとしていることだ。それはともかく、彼らはフランスの修辞学の伝統の中にあって過去数世紀の修辞学に支配されていた。しかし、フランス革命がやってくる。修辞学が終わる時、美学が始まるのである。‥‥パラダイムシフトって言うわけだ

タキトゥスの時代にレトリック内部で用意されていたあるがままの言語活動の享受は、ノヴァーリスの「もはや我々は普遍的に承認された形式が支配していた時代に生きているのではないのである」という宣言と共に、諸要素間の調和的な結合によって美それ自体を実現することと定義されるようになる。バウムガルテンの最初の美学の試みは、レトリックを手本にしたものだったと言われる。模倣の原理は18世紀が四分の三経過するまで芸術理論を支配していた。トドロフはこの模倣の原理には三段階あるという。

ジョナサン・リチャードソン(1667-1745)
自画像 1729 部分

第一の段階は自然の模倣を唯一の拠り所とするが、模倣は完全であってはならない。卵は一つの卵であって、卵が別の卵を模倣するとは誰も言わないとヨハン・エリアス・シュレーゲル(シュレーゲル兄弟の伯父/劇作家)は述べたが、ある種のバイアスのかかった模倣が求められた。

第二段階は、理想に沿って選ばれ修正された自然、つまり「美しい自然」を目的とする巧みな模倣である。イギリスの画家・批評家であったジョナサン・リチャードソンは、絵画の主要な目的は自然を高め、改良することだと述べている。しかし、「美しい自然」とは何か、誰にも正確に定義されなかった。ディドロは、自然自体がある理想のモデルであり、それを描くことは模倣の模倣だとした。プラトニズムである。

古来、芸術には競合する二つの原理があった。一つは、作品の外にあるものに作品を結び付ける模倣の原理であるが、音楽や抽象絵画は除かれる。もう一つは、作品の内部そのものに確立される美の原理である。これについてはパノフスキーが古典主義的理念として上手に纏めている。‥‥これは、なかなか香しい

「美とは部分相互間の関係及び部分と全体との関係の調和である。この考え方はストア派によって発展させられ、ウィトルウィウスとキケロからルカヌスやガレノスまで躊躇なく受け継がれ、中世スコラ派の中に生き残り、最後にアルベルティによって公理として確立された。彼はそれを〈自然の絶対的第一法則〉と呼ぶにやぶさかではなかった。この考えはギリシア人がシンメトリア、あるいはハルモニアと名づけ、ラテン人がシンメトリア、コンキニタスおよびコンセンスス・パルティウムと呼び‥‥‥ルカヌスを引用するなら、それは〈全体とあらゆる部分の関係の均一性、あるいは調和〉を意味していた(アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー 生涯と芸術』)。」

やがて、模倣と調和は、ほとんど類義語になってしまう。ディドロ曰く「もし模倣の真実が調和の魅力に加わるとすれば、完成に達したに違いない」というわけだ。‥‥折衷されたか

ジャン=バティスト・デュボス
(1670-1742)
『詩と絵画に関する批判的考察』

第三の段階は、諸芸術の記号としての類型学の段階である。絵画や文学、音楽はどの程度まで記号なのかとトドロフは問う。確かにこう考えることは普通ない。というのも記号における言葉のシェアは圧倒的だし、どのような記号も言葉を通して理解されるからに他ならない。‥‥ヴァールブルクの『ムネモシュネ―』は、その反論であるかもしれない

この芸術の記号論的類型学を企てたのはジャン=バティスト・デュボスであった。フランス北東部のレゾンという町にあるノートルダム教会の神父だった。「絵画は文学のように人工的記号を用いないが、多くの自然的記号を用いる」と述べた。彼の場合、視覚的な絵画の優位は動かないし、ポエジーを含めた文学は聴覚の芸術と捉えていた。そして、語は観念を喚起すべきであるとし、次が大事なのだが、語はその観念の恣意的記号に過ぎない、これらの観念は想像力の中で調整され、我々の心を打ち興味をそそるような画面を作らなければならないとした。

レッシングは、『ラオコーン』とその後に見られるように、絵画の記号は空間と自然なものの中にあり、ポエジーの記号は時間と恣意的なものの中にあるとして、いずれも有縁化されるべきだと考えていたようだ。彼によって、ポエジーとは記号が有縁化されている言語だという定義が登場する。ポエジーに奉仕する擬音語、感情の普遍的な表現である間投詞、これらの用法によってポエジーの音楽的表現が生まれ、言葉の自然な繋がりと隠喩 (メタファー)の使用が指摘される。

隠喩が構成する類似は、イメージや擬音語といった有縁化された記号の類似とは異なる。隠喩は有縁化されない記号を使って作られた有縁化記号であるとレッシングは考えていた。記号内部の機能へと視点が移り始めている。一方、ポエジーと絵画は恣意的であると同時に自然的でありうるとした。要素を自由に結び付ける自己の創作であると同時に、自然の模倣でもありうるということだろう。しかし、レッシングは表象あるいは演出としての新たな模倣とモデルに類似したものの生産という旧来の模倣の間で揺れているとトドロフは、指摘する。彼は、記号(あるいはイメージ)と世界の関係を問題とする模倣の原理という古典主義的精神に引きずられながらも、詩を記号表現と記号内容との関係という、記号内部の関係に導いたことは、詩的言語におけるロマン主義的理論の先駆けとして評価されるべきであるという。彼は、模倣を擁護しようとして心ならずも誰よりも痛烈な一撃を模倣に与えたのだとトドロフは言うのだ。こうして新たな問題が提起された。レッシングの後継者たち、A.W.シューレーゲルからロマン・ヤコブソンに至るまで、言語活動は恣意的であるという事実と文学は有縁化された記号を使うという確信をいかに和解させるのかという問題である。

ふぅー 前半終了‥‥ 恣意性と有縁性について知りたい人はこの後の付録をお読みください

 

 

付録 言語の有縁性と恣意性

「言語とは、部分的あるいは全面的に、事物もしくは思考の自然な秩序によって説明され、正当化されうる」という立場が言語の有縁性を標榜する立場。一方、「言語とは果たして独自で予測しがたい言語外のいかなる現実にも還元されない一つの現実である」というのが言語の恣意性を標榜する立場です。これらをデュクロ、トドロフの『言語理論小辞典』から紹介しますね。

名称とそれが指示する事物の間には自然な関係があるとする考え方がヘラクレイトスの流れを汲む思想にはあった。「名称を知るものは事物をも知る」。有縁性の立場である。いきおい語源の探求に傾いていく。音が一種の自然の真理を持つという考えはストア派にらみられ、ライプニッツは語源学が原始語への接近を可能にし、その原始語は現在の言語よりはるかに音の持つ表現的価値を活かしていただろうと信じていた。この言葉と事物の自然な関係が、模倣(ミメーシス)に関連していくのは想像に難くない。プラトンはどうかというと、真理は言葉の外の本質直観に求められると考えていたから言語の恣意性は認めながらも相対主義の教訓と修辞学を拒んだ。その直感把握が「理想言語」の創造を可能にするのだろうが、それにおいてすら名称は本質の映像ではなく、補助記号にとどまるという。‥‥模倣の模倣ということか

デモクリトスを祖とする「人間が万物の祖である」という相対主義的思想においては、「事物の命名は恣意性によるものであって、法則、制度、契約の問題だとしている。これは勿論、恣意性の立場。ソシュールの流れでは、言語に見られる音に関する因果関係は意味の面を支配する関係とは独立した別のものであるとして言語の恣意性を闡明にした。言語は一つの体系をなし、内部に一つの組織を持つという考えに結びつく。それぞれの記号がその指示対象の模倣であるとすると、個々の記号は他の記号とは独立して説明可能となり、他の記号と切っても切れない関係を持つことはなくなってしまう。だから、古代から類推(アナロジー)と呼ばれる言葉に内在する規則性を追求した文法学者たちは恣意性の側についたという‥‥有縁性と恣意性というのは、だいたいこんな感じ‥‥これを押さえておかないといけません

 

 

参考図書

ハンス・ゲオルク・ベック
『ビザンツ世界の思考構造』

オスワルド・デュクロ、ツヴェタン・トドロフ『言語理論小辞典』
言語理論の素晴らしい解説書になっている。

『アウグスティヌス教師論』知識がいかに伝達されるかを記号学を踏まえて息子アデオダトゥスとの会話の形で述べている。彼の記号学を知るうえで貴重な著書。マッキーの言う受肉した言葉 (記号であると同時に記号の意味であるような言葉 ) という表現は本書には登場していない。

ジョージ・ビショプ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』あなたにとってキリストとは誰ですか?

ジョージ・ビショップ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』
緒形隆之訳 アルぺ神父の列福を祈る会刊
SJ はラテン語の Societas Jesu(イエズス会)の略

イエズス会とは何か。と聞かれてもおそらく信者さんで、その教会に関わっている人でなければ良く分からないのではないだろうか。これはドミニコ会やフランシスコ会といったキリスト教会派でも同様であろう。かくいう筆者もイエズス会の経営する学校で長らく教えてきたけれど神父さんに知り合いはいても、どのような活動がなされているのかはボンヤリとしか分からない。もっとも僕がボンヤリしていただけなのかもしれない。今回はかつてのイエズス会総長、つまり最高責任者と言ってよいと思うのだけれど、その人の伝記『ペドロ・アルぺ SJ 伝』を借りることができたのでご紹介したいと思っている。広島と縁の深い人だった。筆者は、ジョージ・ビショップという人ですが、イエズス会の関係者とは思うけれど、この著者について、あまり紹介がないので詳しく分からない。インド生まれで、ロンドンの学校で教鞭を執った後、ローマやジャマイカの大学で教え、ユネスコの派遣でタンザニアやフィジーへ赴いたとある。

イエズス会のイメージ

「私が日本で修練院長をしていた時、若者達がイエズス会に入会しようとやって来たことを思い起こします。岩波という大きな出版社が編集した哲学辞典をよく使ったものですが、それには、イエズス会の古典的な定義として五行が割かれており、それには、ジェズイット(イエズス会士)は偽善者の典型であり、目的を達成するためには手段を選ばない者、常に権力と張り付こうとする者、とあります。これが五行の中にあるすべてです。これを若者達に見せて、尋ねました。『これをどう思うかね ? 』」

今では岩波の辞典にはこのような記載はないだろうけれど、アルぺ神父はイタリアのテレビネットワーク RAI のインタビューで上のように述べている。続けてこう答えた。私たちの与える印象がどうであろうと私達が望んでいることは、人々に「仕える」ことであり、そのために私たちの組織の人的資源を自由に活用しようと試みている。しかし、権力の力に依って活動することなど望んでいない、それは特異なことだと思う。まして、政治的な権力など問題にならないし、大きな影響力を持つために大金を持ちたいという個人的な思いも問題外である。富の所有は、私たちの「清貧の誓い」に反すると語った。

アタナシウス・キルヒャー画『幾何学原本』に描かれたマッテオ・リッチと徐光啓 1667

そして、狡猾さという悪口に対してはこう答えている。せいぜい、それは思慮分別の問題です。時には政治的な便宜主義の行動として解釈されるかもしれないような問題だが、それは思慮分別と人間的な理解力によって進められるもっと大きな人間的、福音的問題と関わっていて慈愛や隣人の必要を知りたいという願望の問題なのだと答えている。

実は、この問題は古くに遡る。例えば、マッテオ・リッチは、中国語を学び、その言葉で著作を書き、儒者の服を着たし、儒教の上帝とキリスト教の神との類似性を指摘し、自らの国が世界の華と自負する官僚やその家族たちの警戒を解こうとした。確かに、鎖国下の明末に、士大夫の伝(つてで宮廷に接近し、華麗なる自鳴鐘(時計)やチェンバロなどを贈って北京に居住の許可と生活費の保証、そして布教の許可を得ている。草の根の布教という観点から言えば非難を受けるかもしれないのだが、独裁体制をしく皇帝神宗の許可なしには、布教を続けることはおろか中国に留まることも困難であり、中国入りを前に倒れたザビエルの遺志を貫くことも叶わなかったろう。結果として、ルネサンスの自然科学を中国にもたらし、中国の文化を西欧に知らしめ、東西の架け橋となったことも確かである。

ルルドの奇跡

ペドロ・アルぺは1907年スペインの北西にあるビルバオに生まれた。父マルセリーノは建築家で、母ドロレスはバスク地方の医師の娘だった。上に4人の姉のいる一番下の長男として中流の家庭に生まれた。幸せな家族に不幸が訪れたのはアルぺが8歳の時で、母が亡くなる。11歳の時に無原罪の聖母マリア修道院に入会し同じバスク人だったフランシスコ・ザビエルに興味を抱くようになった。1922年にマドリード大学の医学部の学生となる。後にDNAやRNAの研究でノーベル医学賞を受賞したセベロ・オチョアと同級だった。この頃、貧困者の援助組織である聖ポール・ビンセント会に友人と二人で参加している。貧しさとはどのようなものかを目の当たりに見た。だが、またもや不幸が襲う、医学部在学中に父親が亡くなったのだ。

1926年、医学部の最終学年だったアルぺはフランスのルルド村に向けて出発した。「奇跡の回復」を医学的に検証する奉仕活動だった。1858年にベルナデッタという名の少女がマッサビエルの洞窟で若い婦人に出会うようになる。その夫人が聖堂を建てるように望んでいると教会関係者に伝えた。そして彼女がその名を尋ねたところ「無原罪の御宿り」と告げる。カトリック教会が聖母マリアが無原罪であると公認したのは、そのたった4年前のことだった。村の娘が知っているようなことではなかったのである。そこでは、見捨てられるような病気の患者が次々と回復していくという奇跡が伝えられている。

アルぺは検証局の正式な医師として、ルルドで回復した脊椎カリエスの修道女を診察し、X線写真でその回復状態を検証した。末期の胃癌だった75歳の老女はルルドの奇跡に一縷の望みを託してやって来たが、三日目にはすでに元気に歩けるようになっていたのである。X線写真で胃が撮影されたが、癌の痕跡は見つからなかった。彼はマドリードに帰ると大学院への進学の準備を始めた。既に最終学年の試験を最優秀の成績で終えていた。しかし、彼は迷った。貧困者の援助活動の中で出会った家族たちやルルドの奇跡が彼の頭を占めるようになっていた。そして、彼はロヨラに行って修練院に入る手はずを整えたのだった。2年の修練期の間にローマの長上たちに日本に行ってザビエルの事業を引き継ぎたいという意思を手紙にして送っている。

ロヨラの聖域  スペイン アスペイティア

山口の牢獄

この著作は、山口でのアルぺ神父の逮捕の場面から始まる。彼は、1938年に神学を学んでいたアメリカから日本にやって来た。東京で18ヶ月、日本語と日本の習を学ぶと1940年に宇部を経て山口に赴任する。そこで彼は憲兵隊にスパイ容疑で逮捕されたのである。既に日本はアメリカに宣戦布告し、運の悪いことに彼はドイツ人ではなくスペイン人であり、おまけにアメリカから来日していた。結局30日以上留置され尋問を受けた後、1942年の1月に開放された。

尋問は23時間ぶっ通しを含めて37時間に及んだこともあった。それは、彼にとって重要な体験であった。尋問に対してどう話せば日本人の心に訴えかけるのか、分かってもらえるにはどう表現するかを腐心していた彼にとって取り調べ官の態度が徐々に軟化していき、モーゼの律法についてさえ尋ねられるようになったことは、ある種の勝利であったろう。一時は死刑の覚悟さえしなければならなかった。そして、一枚の汚い畳と金属の容器があるだけの狭い独房での孤独は「魂に訪れる客」との重要な対話の時となった。彼は、釈放を刑務所長に宣言された時、こう言われた。有罪か無罪かを判断する最良の方法は、日々の様子を細かに観察することだと。この時、アルぺ神父は所長に「ありがとう」と感謝の言葉を述べて彼を狼狽させるのだった。

アルぺ神父と長束修練院  三重の塔の上には十字架がある。
ホアン・カトレット著『アルぺ神父とともに祈る』より

ラサール神父とセルツメント

この年、アルぺ神父は日本のイエズス会の責任者であったラサール神父から修練院長として広島へ来てくれと依頼される。広島には毛利元就の息子・秀兼の援助でセルソ・コンファロニエリ神父によってイエズス会の住居が建設され、秀金も洗礼を受けてシモンと名乗っていた。関ヶ原の戦い後、その住居は失われたが、1604年には福島正則の支援で住居は再開され、二人の司祭が住んでいた。しかし、これも宗教弾圧によって再び閉鎖されるという過去があった。

1908年ローマ教皇は日本への大学の設置をイエズス会に要請し、結果として東京に上智大学が開校する。1933年にイエズス会修練院は上智大学と合流したが、1938年に修練院は広島の長束に移された。修練院とは聖職者の養成機関のことだ。ラサール神父は38歳で日本のミッションの地区長に選ばれた人で、それまで上智でドイツ語を教えながら東京の三河島にあった貧民窟にカトリックセルツメントを開いた。寄付を集め、資金を貯め、土地を買い、建物を建てて病人や住居のない貧しい人たちを支援しチャリティー音楽会などの催し物をした。彼は、地区長になると岡山にあった広島地区長館を広島に移してそこに住んだ。日本管区の本部は広島に移されたことになる。それが幟町教会だった。彼は、日本のカトリック教会は、日本文化にもっと親しまれるようにどうしてもインカルチュレーション(受肉)が必要であると考えていた。それで長束に聖堂も畳、修練者の生活の場所も畳という和式の修練院が建てられたのである。(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)

フーゴ・ラサール神父(1898-1990)
1948年に帰化 日本名は愛宮真備

ラサール神父は、戦後日本に帰化するとともに広島に平和記念聖堂を建設しようと奔走した。自らもチェロを演奏する音楽の愛好家でもあった彼はエリザベト音楽大学を構想したといわれる。そして、黙想や観想の世界と禅との共通性を理解し、カトリックに禅の瞑想を取り入れた。瞑想のための座禅会が開かれ、それを世界に広めたのである。同じイエズス会士であるリントネル神父や門脇神父たちがその影響下にあった(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)。こうして見てみるとラサール神父の社会に向う行動力と観想的な生活という二つの車輪はペドロ神父にも引き継がれていったと考えてよいのではないかと思う。これが会の本質なのかもしれないが、本書にはアルぺ神父のラサール神父への言及は記されていない。

ピカドンと長束

その朝、アルぺ神父は8時10分に部屋に入り、学びの時間の準備をしていた。やがて目も眩む稲妻のような光が部屋全体を満たした。当時、写真の撮影時に焚いていたマグネシウムによるフラッシュのような閃光だった。しかし、音はなかった。彼は何事かと市内に面した窓を開けた。その瞬間、強大な轟音と熱い爆風に鼓膜を叩かれ、別の部屋まで吹き飛ばされた。反対側の壁にガラス片が突き刺さり、畳の上はガラス片や粉々になった瓦礫が散乱していた。柱時計は8時10分過ぎで停止し、まるで人類初の大量破壊兵器の誕生を記録するかのようだった。

何人かの修練者と司祭がガラスの破片で出血していたが、重症者はいなかった。しかし、広島市内は真っ赤に燃え上がり、巨大なキノコの雲が上空に向けて噴き上がっていた。街は、完全に破壊しつくされ、8万もの命が死を自覚する前に消滅したのである。修練院の司祭たちは、市内から逃げ延びてきた50人ほどの人々を収容したが、ほとんどの人が出血して火傷を負っていた。やがて収容者は増えて、150人を越え、建物に入りきらない人は、庭や畑や道路に横たわるしかなかった。医学を学んできたアルぺ神父はさっそく治療を開始するのであった。

原爆被災後に治療にあたるアルぺ神父 本書より

市内の中心部に近かった幟町の教会堂、修道院は全て焼失し、ラサール院長とシェファー神父は、かなり深い傷を負った。二人は、幟町の近くにあった、かつての浅野家藩庭である現在の縮景園の片隅に横たえられていた。アルぺ神父やクラインゾルゲ神父たちに救出されている。本書で被爆して名前が挙げられているイエズス会の神父は14名で日本人一人を除いて全て外国人、日本人の修道士が1名、日本人を含めたブラザーが2人である。それにメゾシスト会の日本人牧師が一人いる。重症の二名を除く彼等は、被爆地で怪我人の救護を行い、死体を荼毘に付すのを助けていた。ここでは、原爆投下の経緯や原爆投下後の広島の惨状が、かなり詳細に書かれているが、これを書くのは、ちょっと胸が詰まるので控えさせていただくけれど、バランスのとれたとても良い内容だと思うので機会があれば、是非本書を手にとっていただければと思う。

薬は、ほとんどなかった。手術は麻酔もなく神父の机の上で家庭用の消毒したはさみが使われた。ホウ酸が13キロ余り手に入り、基本的には傷口を洗浄し、ホウ酸の湿布で消毒することが全てになっていった。しかし、修練院で治療した90名のうち亡くなったのは一人だけだった。8月7日は、1733年の教皇クレメンス14世によるイエズス会禁止令から解放された記念日だった。アルぺ神父は、破壊に耐え、負傷者で溢れた長束の聖堂の中でミサを行った時のことをこのように述べている。「私は麻痺したように両腕を広げてそこにじっとしていた。そして、科学や技術の進歩が人類を破壊するために使われたという悲劇をじっと考えていた。彼等は皆、祭壇から何らかの慰めがもたらされるのを待っているかのように、苦痛と絶望の眼差しで私を凝視していた。(緒形隆之訳)」

総長への道

1950年、ローマで開かれた修道会の代表者会議に日本の代表として出席したアルぺ神父は当時の総長から原爆の体験を世界中に伝えるように依頼され、ヨーロッパとアメリカへ14か月の講演旅行に旅立っている。4年後に準管区長になり、翌年には原爆の語り部としてラテンアメリカを含む二度目の講演旅行に旅立つ。この講演は計3回に及んだ。彼は、著作も活発に行い、フランシスコ・ザビエルの一生、イグナチオ・ロヨラの霊躁(霊魂のための観想を中心とした修行法)の解説書、カルメル会神秘主義者・十字架の聖ヨハネに関する著作の翻訳、原爆体験などを著している。1958年には日本管区の管区長となった。

ペドロ・アルぺ『キリストのこころ』
「イエズス会士への訓話」「キリストの心の神学」「司牧的指針」収載
新生社 1988年刊

彼が管区長を務めている間に世界は大きく変わっていった。日本もそうだった。西側諸国の考え方を急速に吸収した結果は、溢れんばかりの物質的豊かさをもたらしたが、日本人に具わっていた慎みと自然な感性は、あらゆるものに浸透する相対主義と無神論へと傾斜していった。世俗化が広がって行きつつあった。イエズス会士の戦いは戦前とは異質なものを要求されるようになる。アルぺ神父の補佐をしていたロバート・ラッシュ神父は、アルぺ神父は若い時から伝統的で型にはまった制度にぶつかり、常にそのような人たちからの無理解にさらされたという。多くの新しいアイデアを持っていて性急に前に突き進みすぎると危惧されるというのだった。しかし、そういう人が必要とされる時代もある。ところで、ラッシュ神父には、僕は大変お世話になったので頭が上がりません。

1965年、第二十七代総長が亡くなり、90か国、3600人のイエズス会士を代表する218人による選挙が行われ、アルぺ神父が第二十八代の総長に選任された。仲間からの祝福を受けるために前に進み出たアルぺ神父は、こう述べた。「ところで、私は何をすればよいのですか ? 」オテーナ神父はこう答えた。「今、あなたは、人生で最後の服従をすればよいのです。」一度、選ばれたら降りることの出来ない職責だった。アルぺ神父はイタリアのテレビ局のインタビューに答えているが、その中で、教皇の回勅にある発展途上国における不正義や不平等と戦うことを強調し、それらの労働者たちが我々に食料を供給してくれている一方で飢餓と栄養失調に苦しんでいる。私たちは正義のために戦うと述べている。これは以後のイエズス会の活動の中で闡明となっていく事柄だった。ちなみにイエズス会出身のフランシスコ教皇(第266代・現教皇)は、この頃(1967年ブエノスアイレスで神学の勉強を本格的に開始していた。

北米における人種間の危機を踏まえて、その地域の会士たちに新総長はこう勧告している。少数者を常に意識し、黒人居住地で活動し、学校における人種差別撤廃を推進し、その居住区に修道院を建てるべきだと。異なる人種間における活動は後のイエズス会のマグナカルタになったと筆者は述べている。ラテンアメリカの司祭たちには、露骨な不正義や暴力の驚異が存在する中で、貧しい人たちに福音を伝えること、弱者や財産を奪われた者たちを守ること、公正な社会に向けて平等な権利と奴隷状態や抑圧からの解放を進展させることを訴えた。しかし、この代償もまた大きなものだった。第三世界で、難民、排除された人々、放浪者たちの権利を守るために戦った20人以上ものイエズス会士が殉教しているのである。アルぺ総長自身がイタリアの極左テロ組織「赤い旅団」のブラックリストに載っていたといわれる。

あなたにとってキリストとは誰ですか ?

この社会に対する働きかけ、「他者のための人間であれ」というイエズス会学校卒業生たちへのメッセージ(1973年バレンシアにおけるイエズス会卒業生国際会議)、これらの一方でアルぺ神父が繰り返し強調してきたことは、霊的な生活と清貧だった。アルぺ神父はこのように述べるのである。

「聖イグナチオの霊躁は、抑制された人間を作り出すための形の決まった鋳型ではありません。それは、『人の生き方、いかなる不節制な愛着にも影響されることのないものに整えるために』祈りにより、瞑想により、イエス・キリストの生き方をじっくり味わう単純な方法なのです。イエズス会士にとって、イエス・キリストは最も大切な方です。霊躁は彼の生き方を、彼が自分自身を捧げた事業を理解するための、唯一可能な鍵なのです。(緒形隆之訳)

マザー・テレサと語るアルぺ神父 本書より

「友達や知り合いが一人もいない大都会で、自分がたった一人であることに気づくこと、持ち物や、人との関わりの中から生じる支え合う心や安心感、そんな生きていく上で必要なものを何も持たないこと、言葉によってもそうであるが、貧しいということを自分自身で表現できないこと、常に自分が劣った立場にいるということ、話すことを覚え始めたばかりの子供のように話しても軽蔑され相手にされないこと、自分がいつも貧しい人だと思われていること、憐みや敵意を抱かれていること、そのことに気づいて胸を痛めること、また、そのような目でみられているということ。奪い取られるという根本的な意味において、貧しさとはいったいどういうことなのかを空しく理論分析するよりも、これら全てのことの方が人を真理に導くのだ。(緒形隆之訳)」これは、アルぺ神父自身が、スペインからのイエズス会士追放をうけて一時滞在していたベルギーのマルネッフェで、山口の刑務所で、原爆に被災した広島などで実際に体験したことに基づいている。そして続けてこう述べている。

「貧しい者は、私利私欲と利潤追求で構築された社会では何ら権利を持たない。貧しい者は主張する声を持たない。列の最後尾にいるのである。貧しい者の状態を理解するためには、貧しさを経験する必要がある。その経験が無かったとしたら、抽象的な理論や立派な決意は、ほとんど役に立たない。我々のことが、ほとんど認められていない 非キリスト教国や無神論者の国おいて、我々はそのような社会の中では無駄で危険な要素として、あるいは、解散するよう選別されたものとして見なされていた。この様な環境できちっと生きてきた我々の兄弟達に関して、私がこれまで受けとってきた報告が、如何に深く感動させるものであるかを私はあなたがたに伝えざるを得ない。(緒形隆之訳)

ペドロ・アルぺ『キリストの横顔』
カトリシズムからみた立体的キリスト論
ドン・ボスコ社 2004年刊

アルぺ神父へのインタビューのなかで最も印象的な質問はこういうものだった。「あなたにとってキリストとは誰ですか ?」この質問に僕は虚を突かれた思いがした。それを自分に向けた時、その答えが探せなかったからである。自分がキリストという存在を対象化したことがないからだった。つまり、自分のキリストはいなかったのである。アルぺ神父はこう即答している。「全てです。」自分にとって全てと言えるようなものは何なのか ? 再び考えて見なければならなかった。

1981年世界中を飛び回っていた疲れを知らない総長は、イタリアのフィウミチーノ空港で手荷物を受けとろうとした時、動けなくなった。頸動脈の閉塞が脳卒中を引き起こしていたのだ。飛行機での長旅が原因だろう。2年後に総長を辞職し、長く重い闘病生活の末、1991年に帰天している。83歳だった。

 


アルぺ神父の写真の掲載については、長束修練院のアレックス神父の了承を得ましたが、不都合がありましたら当サイトの問い合わせフォームまでお知らせください。尚、本書は市販されていませんが長束の修練院には何冊か保管されているので、こちらにお問い合わせくださればと思います。http://www.gloriadei.jp/

 

参考図書

ホアン・カトレット『アルぺ神父とともに祈る』

クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』冊子

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』 全三巻
リッチとイエズス会だけでなく比較文化論の観点からも面白い。

ドナルド・キーン『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道


確かに人形が生きていると錯覚させるほどの芸がある。それは多くの人たちが体験してきたことだ。その人形に生命を吹き込んできたのは人形遣いたちである。彼らは、ある時代には河原者と同一視され賤民と呼ばれ、時には神事に奉仕する者たち、信仰を呼び覚ます者たちであった。それは、やがて文楽と呼ばれる素晴らしい芸として開花したのである。その歴史を追ってみる。


ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』能、文楽については簡潔だが充実した内容を誇っている。歌舞伎についての紹介は短い。

ドナルド・キーンは、『文楽』の冒頭で、人間は何千年もの間、世界の至るところで自分の像を何かの形で作ってきた。それが今では人間の本能の一部を成すのではないかと思われると述べ、現在知られる最も古い人形はエジプト時代のもので、人間が神々の真似をするのが冒涜であると考えることから宗教上の儀式で神々がすることを演じるのに人形が用いられたのではないかとしている。

日本でも、祓のための人形(ひとがた)や玩具の人形は別にしても、東北のオシラサマ、山梨の天津司舞(てんづしまい)の傀儡田楽、九州の古表・古要神社の神相撲を見れば神の依代としての人形が舞ったり、相撲をとったりするのが見て取れる。人形芝居が神道の行事の一部となっていったのは事実である。やがて、神々だけでなく人間も喜ばせる余興としての性格を持つようになる。日本に伝わったとされる操り人形がどのようなものであったかは、はっきりしない。

キーンは、このように述べる。「人形は生命がなくてもそれを人形遣いから借りて、人形遣いが望むとおりのものになることができる。それは神々の一人にも、吃りの愚かな人間にもなれて、ただ、それ自身にだけはなれないのは、人形には自分というものがないからであり、それ故にまた、人形は神聖な儀式にも、粗野な喜劇にも向いている。(吉田健一、松宮史郎 訳)」この指摘は、深い。

 


人形浄瑠璃は、およそ300年ほどの歴史を持つと言われる。今日では「文楽」とも呼ばれるけれど、古くは「操り」「操り芝居」と呼ばれ、人形浄瑠璃の呼び名が一般化するのは明治以降のことである。上演する座がいくつかあった中で、この明治の初めに「文楽座」だけが残っていた時期があって「文楽」の名で呼ばれるようにもなった。物語る太夫、伴奏する三味線弾き、演ずる人形遣いの三業からなる演劇である。


 

『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道――では、ドナルド・キーンの『文楽』を縦糸に他にいくつかの著作を横糸にして、人形浄瑠璃以前の人形操りの時代、そして人形浄瑠璃として展開した後世の時代をご紹介する。これは、いわば文楽への道行である。

人形操りの来た道

もともと「人形操り」が、どこから来たかは諸説ある。キーワードのクグツという言葉が人形芝居を表わす語として八世紀の経文の注釈にあるのが初見のようだ。傀儡は人形を指し、人形遣いを指す言葉は、傀儡子、あるいは傀儡師である。中国語の傀儡子(かいらいし)、朝鮮語の傀儡子人形(コクトゥカシ)といった言葉の他、ロマ語のクキ、あるいはククリ、トルコ語のククラ、後期ギリシア語のクークラなどあり、人形芝居が近東から中央アジアを経て中国、朝鮮から日本にきたというが、確証はない。廣瀬久也は、唐と新羅の連合軍を指揮した唐の李勣(りせき/594-669)が、高句麗を滅ぼした時、戦利品として傀儡子とからくり人形を唐に持ち帰ったという元代の『文献通考』に注目し、高句麗から奈良時代に傀儡子と人形が伝わったのではないかとしている(『人形浄瑠璃の歴史』)。ちなみに後述する大江匡房(おおえ まさふさ)のいう傀儡子に近い存在として朝鮮の楊水夫(ヤンスヨーク)があり、その記述が十世紀に遡って存在するとキーンの指摘にある。

日本で最も古いとされる人形操りは、平安末から鎌倉時代にかけて西宮で発祥したと言われる。一説には西宮の八幡戎三郎(はちまんえびすさぶろう)信仰と宇佐八幡やその傘下にある古表・古要神社の八幡信仰とが関わって操り人形の発展を催したのではないかと言う。福岡の古表神社、大分の古要神社で遣われる現存する人形は、鎌倉時代の作とされているが、より古い時代の形式を残しているのかもしれない。片足を握り、他の片足と両手を紐でひく形式になっている。

それらの神社で人形によって行われる細男舞(さいのうまい/くわしおのまい)は、九州の海人族(あまぞく)安曇氏の祖神・安曇磯良(あづみのいそら)神話に発する。大嘗祭などの宮廷儀式の中で中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上において九州豪族の海人族たちが天皇に対する服属の誓いや寿祝として細男舞を舞ったことは想像に難くない。海人族の中央進出のよすがのように福岡の志賀島(しかのしま/志賀海)神社の磯良鞨鼓(かっこ/ばちで打つ鼓)の舞、春日大社の若宮おん祭などにその名残がみられる。それは、人による舞である。

西宮神社本殿 蛭子神(えびす大神)を祀る。境内には百太夫神の祀られる末社がある。西宮市

一方、西宮神社は、三年たっても足が立たなかったために海に流された蛭子神(ひるこのかみ)が祀られている。蛭子を戎(えびすと読む説もあれば、摂津に着いて戎三郎として祀られたという説、えびすは渡来の海洋神を指すという説もある。この神社の約100メートル北にあった山上村に平安末期から既に石の道祖神である百太夫(ひゃくだゆう)が存在したといわれる。この山上村を別名、産所村といった。ここの女性たちが助産もしていたからである。浜松歌国(1776-1827)の『摂陽奇観』によれば、江戸の元禄時代には民家が三~四十軒あったという。江戸末期の天保に、この村が廃れて百太夫社は西宮神社の境内に移された。この山上村の辺りは、室町期に人形遣いたる傀儡子として全国をまわり、恵比須信仰を布教した神人(じにん/神社の下働き)たちの住まいとなる地域である。

「南は住吉、西は広田これをもて徴嬖(ちょうへい/客に寵愛されること)を祈る処と為す。殊に百太夫に事(つか)ふ。道祖神(さえのかみ)の一名なり。人別にこれを剜(え)れば数は百千に及ぶ。能く人の心を蕩(とろか)す。(大江匡房『遊女記』)」

広田神社 西宮市

広田には天照大神の荒御霊(あらみたま)を祀る広田神社があり、そのすぐ近くにある西宮神社は、もともとこの神社の摂社だった。遊女たちが百太夫の像を作って奉納したが、その数がに達したと言う。平安末期の大江匡房(おおえ まさふさ/1041-1111)は、道祖神・百太夫が遊女の信仰を集めていたと書いたのである。彼は、『傀儡子記/くぐつき』に人形遣いである傀儡子が、蒙古の遊牧民のように家畜とともに移動する民であり、男は狩猟をし、田楽や雑技のような曲芸をし、女は化粧し、歌舞をよくし、時には春をひさぐロマたちであったと記している。

「‥‥或は木人を舞はせて桃梗(とうこう)を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒(えん)の戯に近し『傀儡子記』」木偶を舞わせ、魔よけの人形に相撲を取らせ、手品や幻術のごとく生きた人のように見せたというのである。美濃、三河、近江の集団が勢力を持ち、播州、但馬がこれに次いだ。西海は振るわなかった。高名な傀儡女(くぐつめ)は歌唱の達人で、今様、催馬楽、田歌、神歌、風俗などの多くの歌を歌ったという。傀儡女の歌は天下一だと匡房は書いている。

離宮八幡宮 京都大山崎

海人族の信仰する安曇磯良神、秦氏や辛島氏と縁の深い八幡神は、渡来系の神であり、瀬戸内海を遡上して中央に接近するにつれ、操り人形も伝搬していったと見ることもできるのではないかとは廣瀬説である(『人形浄瑠璃の歴史』)。清和天皇が即位した九世紀半ばには、春日大社で大山崎の離宮八幡宮から頭と手のついた人形を迎えたことが藤原仲倫(ふじわらのなかとも/江戸中期)の『春日大宮若宮御祭礼図』下巻の記述に見える。離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社である。この地は荏胡麻(えごま)油発祥の地、日本初の製油地として名高い。おそらく、このような神社に関係した傀儡師たちもいたのかもしれない。

日本の十一世紀が文学の面で多くの傑作を残したにもかかわらず傀儡師たちの人形芝居は、その頃の文献には姿を現わさない。クグツという名は、文献に出てきてもその中の男はどこかに定住はしたが納税の義務が免除されたとか、昔のように猟をすることもあるとか、人夫になって人に雇われたとか、女は純然たる娼婦で街道筋の娼家に住むとかいった内容になっている。やがてクグツは娼婦だけを意味する言葉となる。この頃、人形芝居が続けられていたかどうかは定かではないとドナルド・キーンは、いささか当惑ぎみに述べている。

古い形式の人形操りを伝える古表神社の神相撲の動画を掲載しておきます。4:04min.

 


人形操りが再び文献に登場するのは室町期になってからである。それは、手遣いの人形ではなく、糸操り、つまりマリオネットのような人形だった。一休が糸で操る傀儡を題材に深遠な詩を詠っている。これに加えて中国からの精巧な機械仕掛けの人形たちが、日本の職人たちに刺激を与えた。やがて西宮神社を拠点とした戎舁(えびすかき)たちが手操りの人形を携えて全国に恵比須舞いや大黒舞いを浸透させていった。


 

人形操りの揺籃期 中世から近世へ

マリオネットのように糸で操る人形が日本に入ったのは十四世紀頃との指摘がある。五山僧・令淬(れいさい/?-1365)に『傀儡』という詩があるという。十五世紀に将軍足利義満の中国趣味によって多くの操り人形が請来され、日本の職人を刺激して糸や水力で動く精巧な人形も現われる。十六世紀には、1.8メートル四方の城の中で二千の兵隊人形がせめぎあうといったものまで登場しているし、イエズス会の宣教師たちが「出エジプト記」などを糸操りの人形で見せたことも記録に残されていた。しかし、こういった新たな刺激は長続きせず、後世、日本の操り人形に与えた影響としては、目、口、手などが人形内部から糸で操作されるようになることだった。

抽牽(ちゅうけん)する者(は)、即ち主人公
地水合成して、火風に随う。
一曲の勾欄(こうらん)、曲終って後、
本然の大地、忽(たちま)ち空(くう)と為る。(一休宗純『傀儡/かいらい』)

一休は、傀儡(くぐつ)の芝居を見てこんな詩を詠っている。人形の糸を引く者が主人公であり、地水からなる粗雑なものが火風のような精妙なものに従うのに似ている。人形の立ち位置となる手すりがいわば、大地であったが、曲が終われば忽ち空虚となるといった意味だろうか。それで、水上勉はこう述べた。

「案外、この世は、すべて、一曲の人形芝居かもしれぬ。うらで糸をひき、操る者がいて、人も風も、火もうごく。操るものは主人公である。その主人公をとっつかまえねばならぬ。いや、その主人公こそ、求めつづける正伝の正体なのだ。狂雲もまた狂風に舞っている」(『一休文芸私抄』)

広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史』 古代から現代までの人形操りの歴史を扱っている。いささか荒っぽいが古代の人形操りの紹介は興味深い。

十四世紀は、南北朝の時代であり、兵火によって寺社の多くが廃れていった。西宮神社も例外でなく、神人たちは門前町で酒造りに流れた。酒造りの技量を持たない傀儡師たちは途方にくれ、往来の自由になった淡路島に移って行く者もあった。廣瀬久也によれば、『道薫坊(どうくんぼう)伝記』に記されている百太夫と名乗る傀儡師が淡路の広田にやって来たのは、このような経緯ではなかったかとしている。ただ、どの時代かは、はっきりしない。西隣の三原村へ移り、一子・重太夫を儲けた。百太夫没後、その子は源之丞と称して百姓に百太夫の技を教えたという。

この源之丞の上村家には『道薫坊伝記』が伝わっていて、このような話になっている。西宮で戎三郎神を祀っていた道薫坊の死後、祀る者がいなくなると海は荒れ、漁は不作となり、多くの災いが人々に降りかかるようになる。百太夫が、このことを帝に伝えると、道薫坊の人形を作るよう勅命を受ける。そっくりな人形を仕上げると戎神に奉納した。すると、風雨は治まり豊漁が続いた。百太夫は人形操りをしながら諸国を回り、やがて淡路に落ち着き、淡路人形座の元祖となったのである。

16世紀後半、戦国の乱世も猖獗を極めようとする頃、西宮神社の神人たちが人形を携えて恵比須信仰を広めるために戎舁(えびすかき)として全国を廻りはじめる。経典を入れる箱を首から吊るしてそれを台として木偶(でこ)を操り芸を演じた。戎舁は恵比須神をかたどった人形を舞わす門付け芸を行う者を指すが、1555年には四人の戎舁が宮中で能を人形芝居で演じて人気を得た。正親町(おおぎまち)天皇の御代である。その後、度々宮中に召されるようになり、人形芝居を叡覧に供するようになった。人形芝居が江戸時代に入って人形浄瑠璃として本格化する前の揺籃期は、この16世紀、つまり室町後期・安土桃山時代にかけてである催馬楽今様白拍子、田楽、猿楽、小歌などもそうだけれど民間の芸能をこのように宮中が吸収し、ソフィスティケートされる契機を作っていった役割は日本文化にとって極めて重要だったと言える。

 

西宮神社の百太夫神社祭における恵比須舞いの様子を動画で紹介しています。戎舁の芸を垣間見ることができます。阿波の人形遣いの人のようですが、新春を言祝ぐにふさわしいおめでたい芸です。前座の後、2:06くらいから始まります。

 


三味線の原型は十六世紀に琉球から伝わった。十七世紀初頭には、京都で戎舁が浄瑠璃の物に合わせて芝居をやったことで、非常な成功を得た。それが、人形操りと浄瑠璃とのカップリングの最初ではないかと言われる。こうして、人形、三味線、浄瑠璃の三業が揃う環境が整い始める。最初、京都で盛んになり、江戸大阪と盛んになっていった。


 

人形浄瑠璃の黄金時代

1614年、後陽成院は、『阿弥陀胸割』を戎舁に演じさせている。大阪冬の陣の始まる年である。それに、『浄瑠璃物語』を人形芝居ですることを発案したともいわれている。その御子の後水尾天皇も人形芝居を庇護した。こうした経緯もあって人形芝居は、まず京都から発展し始める。ついで江戸で人気を得た。坂田金時の子、金平(きんぴら)を扱った勇壮な金平浄瑠璃が当たった。この頃には、江戸随一といわれた小平太という人形遣いが現れている。林羅山(1583-1657)は、観劇記を書いて人形が生きているとしか思えなかったという感想を残した。しかし、1657年、明暦の大火によって江戸の大半が灰になるという大惨事が起こる。主な太夫たちが上方に移ったことから大阪と人形浄瑠璃が結びつくのである。これ以後、江戸では歌舞伎が流行し始める。

二世瀬川如皐『牟芸古雅志』より 曽根崎心中
中央右端から左向きに三味線弾き、太夫竹本筑後掾、竹本頼母ツレ語る、人形遣いは辰松八郎兵衛と書かれている。
倉田喜弘『文楽の歴史』に掲載

1648年、竹本義太夫(1651-1741)が大阪道頓堀に竹本座を創設した。徳川家光の時代である。その最初の出し物は近松門左衛門の『世継曽我』だった。本格的な人形浄瑠璃のはじまりである。ここからは文楽と呼ばせていただきたい。1703年には『曽根崎心中』が決定的な成功を収め、竹本座の地位をゆるぎないものにした。二世瀬川如皐(せがわじょこう/1775-1833)の随筆『牟芸古雅志(むぎこがし)』に当時の様子を思い起こさせる図が掲載されている。その頃は、人形は、まだ突込み式の一人遣いで、太夫は既に舞台の表に出ていたことが分かる。この頃、竹本座から独立した竹本采女(うねめ)は、豊竹若太夫を名乗って豊竹座を立ち上げた。竹・豊時代が始まったのである。

1690年代には人形の手が動かせるようになる。1727年には目や口を開けたり閉じたり出来るようになり、指を動かすことも可能になる。1733年には指の第一関節だけが別に操作できるようになった。1734年には三人の人形遣いが一体の人形を操る方法が生まれ、文楽以外では見ることのできない微妙な動きを表現できる端緒となった。人形の頭・顔と胴、右手を動かす主(おも)遣い、左手を動かす左手遣い、足を動かす足遣いである。三人もの人形遣いが舞台に登場することについて、ドナルド・キーンは日本の聴衆でなければ受け入れ難いかもしれない負担を想像力に課することになったと述べている。近松が亡くなった1724年から1780年までが文楽の全盛だった。歌舞伎の人気もそれには及ばなかったのである。

三人がかりの人形 今の人形浄瑠璃で使われるサイズよりも小さい。倉田喜弘『文楽の歴史』より

そのような工夫がなされ今日のような文楽が見られるようになったわけだが、良質な浄瑠璃作者がいなくなり、火災による芝居小屋の焼失や座本の度重なる死などによって豊竹、竹本両座ともに十八世紀の終わりには道頓堀から姿を消した。とりわけ人形遣いは、零落の憂き目をみるようになり、文楽は地方へ散って行った。その後、文楽を復興させたのは淡路の人形芝居の太夫・植村文楽軒(1751-1810)であった。1805年に大阪新地で人形興行を始めている。淡路は江戸時代に入っても蜂須賀家の歴代藩主の庇護もあって多くの座が存在した。植村の姓は淡路人形座の座本である上村源之丞の姓に由来するという説もある。六年後、二世の時に、大阪稲荷神社(現在の難波神社)の境内で文楽軒一座の名で興業をはじめた。1872年(明治5年)に文楽座を名乗るに及んで人形浄瑠璃の総称となったのである。

人形操りの修行は何処に向うのか

キーンは、太夫、三味線弾き、人形遣いは一体であるが、太夫は常に文楽界の知識階級と見做されていたという。彼らは浄瑠璃の研究を常にしていなければならないからである。三味線弾きは、キーンに言わせればオペラの指揮者に似ていて、太夫も三味線弾きの指示には従わざるを得ず、その弾き方に力が入っていなければ人形遣いも満足に人形が操れないと言われる。しかし、人形遣いとその技術は、長い間冷遇されてきたという。その理由の一つに太夫や三味線弾きに関する文献は残ってはいても人形遣いには、そういったものがないことを挙げている。それは体で覚えるものだからだ。弟子たちは、ただ見て覚えろ言われるだけなのである。何故、そうなったのかは、巻末の桐竹勘十郎氏の人形操りの解説が掲載された動画を見てもらえば、お分かりいただけるのではないかと思う。

桐竹勘十郎『一日に一字学べば…』
「一日に一字学べば…」は『菅原伝授手習鑑』の「寺入りの段」にある台詞。

太夫は、その声になるのに20年かかるといわれている。人形遣いの修行はもっと長くて、足遣いの修行に10年、左手遣いに15年、それからようやく主遣いになれる。好運に恵まれ、才があれば早くから左手遣い、主遣いになれるが、運が悪ければ足遣いで終わる人形遣いもいるという。気の遠くなるような修行が待っているのだ。どのような修行なのか。キーンは、人形遣いにはかなり冷たいコメントがあるが、おそらく彼らの修行の内容について多くは知らなかったのではないかと思える。言葉で伝えられないことを知るには、想像を可能にしうるような何らかの体験が必要だろう。「間合い」とか「あうんの呼吸」といっても私たち日本人にも理解できない言葉になりつつある。主(おも)遣いのむずかしさの例を一つ挙げておこう。

文楽には人形の手の先にその視線を合わせるという決まりがある。主遣いは、基本的に人形を後ろから見ているのでその目線の方向は把握しずらい。憶測で手と目線を合わせなければならない。合わなければ、首を動かす主遣いの左手をなおすか、人形の右手の位置をなおすかして修正しなければならないのである。それを鏡の前で訓練する。人形の左手は、左手遣いが扱うので今は考えない。ゆったりした場面では修正もきくが、早い場面で目線と手をピタッと合わせるのは、かなり難しい。それで、三世桐竹紋十郎さんは、その勘を鍛えるために風呂で左手で直線状にお湯の出るシャワーを遠く持ち、目をつむって、右手の位置をあちこち変えても指先にお湯が一発で当たるように訓練したという(『一日に一字学べば…』)。このようなことを言葉で伝えようとしても弟子たちにとっては全然助けにはならない。

このような訓練によって人形は生きているかのように振る舞えるようになるのである。人形遣いの腕が良ければ良いほど人形が自力で動いているという印象を与える。「人形遣いは人形に宿る力を信じて、人形への畏れをもって日々舞台に立つ」と勘十郎さんはいう。人形を操るとは言わない。「人形が存分に動けるように技を磨き、人形を人形足らしめるのが、私たちの仕事」だというのである。人形と人形遣いは一体となっていく。しかし、‥‥ もしかして‥‥ 完全に一体になりきることが出来るのかもしれないのだ。

人形遣いは自分がしていることを舞台で言葉に表現できないし、観衆からは忘れられることが望ましい。ある意味、無名な存在として考えられていたのかもしれない。それゆえにこそ人形を動かす主遣いが素顔で舞台に登場することが求められた。そのようにバランスがとられたと見ることもできるのではないだろうか。自分というものがない人形に生命を吹き込むのは、人形遣いである。その者に無名が求められるとしたら、人形とは何であり、人形遣いとは何者であるのか。その境を見極めることは難しい。

 

 

三世桐竹勘十郎さんによる非常に興味深い人形遣いの解説が掲載されている動画です。三人遣いがどのように連携するかが語られています。日本記者クラブ主催。12:02~37:08あたりがその場面です。

 

 

参考図書

倉田喜弘『文楽の歴史』
江戸から平成までの文楽の歴史をまとめている。